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「脱力ネタ」板

688初心者:2014/03/19(水) 12:54:01
病気が治ったからこれは真理だ。これが生長の家を支える基本原理ですよね。ところで「これは真理だ」の「これ」ってなんなのでしょう。「これ」ってなんですか?

「これ」とはつまり病気を奇跡的に治した摩訶不思議なる力のことですよね。この力を「これ」といっているわけです。「この力こそが真理なのだ」と、こういうことをいっているわけですよね。

生長の家では病気治しに利用できるものを真理と呼んでいるわけです。利用できれば、それがなんであっても真理です。利用できなければそれは虚説です。こういう単純な図式が、生長の家では成り立っています。総裁のいっていることは病気治しに利用できない。だからこそ総裁のいうことはすべて虚説なのです。

『生命の實相』はたしか「生命の實相がそのままで円満完全であることを自覚すればメタフィジカルヒーリングとなります」ではじまりますよね。この一文から読み手が受け取るメッセージは「真理は病気治しに利用できる」ということ以外にありません。「メタフィジカルヒーリングが起こる」と聞いて「純粋に真理を追い求める真の求道者になろう」と思い起こす読み手は間違ってもいないということです。

『生命の實相』は全編が真理の利用の仕方について説かれた書物といってよいのではないですか。「真理を利用して奇跡を起こしたい」と欲する人々が読む書物といってよいのではないですか。雅春先生と倉田百三氏による「寂光論争」がなんであったかというと、「自分は真理を病気治しに利用したいとは思うがそんなに都合よくは利用できないと考える」とする倉田氏にたいして、「真理は病気治しに利用できます」と雅春先生が応答されたものではなかったですか。「真理の利用可能性」ということが問題にされた論争ではなかったですか。

倉田氏にしても真理を利用したい立場にあるわけですから、「利用できる」とする雅春先生に反対する理由はどこにもなかったはずです。あの論争は、論点などはじめからどこにもなくて、倉田氏が欲したごとく、「利用できる」との結論をえて予定調和的にことが運んだ論争であったということがいえるでありましょう。

このように『生命の實相』は、メタフィジカルヒーリングにはじまって寂光論争にいたるまで、全編が真理の利用可能性について説かれたものであるといって過言ではないとおもうのでありますが、いかがでありましょう。

「利用する」ということでいえば、これは天然資源にもあてはまります。生長の家の考え方の根本が「真理を利用する」ということにあるとするなら、こうした考え方が「資源を利用する」とする考え方にむすびつくのは当然のことといえます。「人類の幸福のために真理を利用せよ。国家の繁栄のために資源を利用せよ」。本流がいっているのはけっきょくこういうことです。

総裁の思想的立場は「資源を都合よく利用するな」であり「真理を都合よく利用するな」であるといってよいでしょう。こうした立場にあることをもって「虚説」とみなされているわけです。資源にしても真理にしても、自分に都合よく利用してよいものなのか。これが問われているのではないでしょうか。


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