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「脱力ネタ」板

761初心者:2014/03/24(月) 12:01:24
訊け様

>さて、貴殿のご定義は>>746にて、確認致しました。けれども、「なぜそれが問題なのか」が、不明です。これを問題とされる理由は、いったい何なのでしょうか。

具体例で話したほうがよいですね。

「総裁のいっていることは虚説だ」といってる人は今もいますね。これにたいして、「どこが虚説なのか、具体的にいってみろ」と回答を要求したところで、ロクな答えは返ってきません。しかしそれでも、総裁を「虚説」といいつづける人がいます。

こうしたことから、客観的事実とは関係なく、「虚説」という言表はその人にとって絶対的な事実であることがうかがえます。自分が「虚説」と言表すれば、それとおなじ出来事が客観的世界でも起きているとその人は信じきっている、と推測されます。

ここで問題にすべきは、世間のごくふつうの人々も「虚説」という表現をもちいるのか、ということです。わたしは聞いたことがありません。「あの人のいってることはおかししいんじゃないか」とか「「あの人のいってることは自分の考えとちがう」とか、こういうのは聞きますけど、「虚説」といって相手を否定する人とは出会ったことがありません。

世間の人々というのは、気に入らぬ言い分ではあっても客観的に評価しようとはしますよね。ところが、「虚説」といってる人にはこれがない。客観的に評価しようという気がまったくないのです。なぜこうなるのかといえば、「病気はない」といえば病気がないのが絶対的事実であり、「実相がある」といえばこれが絶対的事実となる世界に、そのひとが住んでいるからなのです。

「虚説」といってのけられる人というのは、言表と客観的事実とが絶対的に一致する世界に住みつづけている人なのです。そのために、言表をうたがおうとはしなくなった人なのです。「虚説」と言表すれば、それがその人のなかで客観的事実となってしまう人なのです。生長の家は、こういう人々を大量につくりだしてきましたよね。

わかりますか。言表と客観的事実とが絶対的に一致する世界が真理の世界なのです。真理の世界とは、世間の常識とはおよそかけはなれた、言表の帝国なのです。ひとたび言表すればそれが真実となってしまう言表の帝国なのです。「真の生長の家の教え」と言表するだけで、それが事実とは関係なく絶対的真実となってしまう世界なのです。

言表と出来事との一致をもって真理とすることがなぜ問題かといえば、事実がしめすように、客観的評価とは関係なく、自分の言表と客観的出来事とをいともやすやすと同一化させてしまう人物をつくりだしてしまうことにあるのです。こういうことを疑問にもおもわない心理状態をつくりだしてしまうことにあるのです。

言表の帝国に住みつづけている人はどうなるとおもいますか。その人の言表が世界の価値をすべて決めてしまうようになるのです。「虚説」と言表すれば、客観的評価とは関係なく、もはや相手にはそれだけの価値しかないのです(ここでいう「価値」とは真理にかかわるものですから、個人的評価ではなく絶対的価値基準による評価となります。それだからこそ「虚説」とみなされるのです)。

天地万物の価値は人間が決める。これが人間中心主義です。「虚説」といってる人は、総裁の絶対的価値を、たんに言表することによってすべて自分中心に決めているのです(自分の言表は、真理に照らしてすべて真実ですから、こういうことが可能になります)。

言表と出来事との一致を真理とみなすような人は、ついには、自分が「真である」と確信する言表はすべてが絶対的真実であると思い込むようになります。これを問題ととらえるか、とらえないか、それは訊けさん次第です。


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