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「脱力ネタ」板

719さくら:2014/03/22(土) 09:04:26
>>708
>信仰運動であるはずのものがなぜエコロジーになってしまったのか、このことを問うてらっしゃるのですね。

いえ、そうではありません。


イデオロギー的な運動と、信仰運動の違いは、私の中では、一応納得した部分があるので。
(「見える神道」「見えない神道」の歴史や、以前学ばせて頂いた、ロゴス中心主義の概念など参考になりました。)

端的にいえば、
一、宗教の教義や論理を根拠にして、
自分が信じた理想の正義、または善を実現するために
都合の悪いもの、邪魔になるもの、またその反対になる考え方を、
「悪や虚説」として、排除する、
という二項対立の考えに陥るものと、

二、宗教行や祈り、感謝の生活を大切にしていく信仰心。
「理想実現」を掲げるというより、
人や物の奥にある「理念」や神性を礼拝する生活。
(二項対立がないので、何かを排除するという発想はない。)

本来の信仰、信仰運動は、わたしは、こちらだと思っています。


(イタリアの哲学者ヴァッティモは、西洋形而上学は絶対的価値、真理、普遍といったものを主張する、「強い思考」であり、暴力性がそなわっているとして距離を置くと、言いました。
宗教でも、絶対的価値観、真理、高い理想や正義を主張した時、時に暴力的なものがあります。
…対して、弱い思考というと、誤解されそうですが、
宗教において、なにか…大切なものは、世間の権力や、制度などに対して変革するなどの「力」は、本来求めないものだと思っています。)


わたしが言いたいのは、
訊けさまが仰るように、
生長の家の真髄の信仰に戻れば、
ほんらい、自然を礼拝する(仏教の「山川草木国土悉皆成仏」や神道的な自然崇拝)ということです。

それを、イデオロギーや、理論のお勉強ばかりで理解すると、
上に書いた、
「一、自分が信じた理想の正義、または善を実現するために
都合の悪いもの、邪魔になるもの、またその反対になる考え方を、
「悪や虚説」として、排除する、
という二項対立の考えに陥るもの」
のように主張になり、

そのやり方や考え方は、いくら綺麗事や正義で正しいことをいっても、信仰姿勢とは、程遠いと感じるということです。



…総裁の問題で、いちばん気になっているのは、
なぜ、生長の家の信仰の対象となる、重要なシンボル的なものを、
否定するような方針になるのか、という点です。


聖地、聖経、宗教行事、宗教体験、そして、聖典、信仰的に信徒に信頼される方…
そういうものを軽視する方針、
信仰に力を持たせるものを、団体から無くして行く、という。


…そして、まったく、関係ないですが、なぜ、雅子様は、伊勢神宮に参拝されないのでしょうか。

とにかく、宗教行事を、疎かにすることは、どういうことかということです。


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