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「脱力ネタ」板

700初心者:2014/03/21(金) 12:12:00
以下のごとく述べている人がいます。

>「生長の家」は「病気治し」等の現象に奇蹟を起こすのが目的の宗教ではないのですよね。
信徒が「人間神の子」の自覚を深め、「実相独在」を悟ることが目的なんですよね。

ここで述べられていることこそが、人間中心主義が最終的にゆきつく「約束の場所」なのですねえ。上記の引用文にもしめされているように、人間中心主義は「心こそが大事」、「意識こそが大事」という意識中心主義へと簡単にむすびついてしまうところがありますよね。

極論、かまします。心などほんとうはどうでもいいのですよ。どんな心であろうとも、そんなことは本質的な問題ではない。しかし人間中心主義におちいった人は、「心こそが大事」といいはじめる。誤った考えです(すごい極論)。

ではなにが大事か。それは言葉ですよ。言葉こそがすべてなのです。古代ギリシャの人々は、きっとこのように考えていた。それが、プラントがイデア論を唱えて世界をふたつに分けたことで人間が世界の主役に躍り出て、「主役であるのだから心こそが大事」となったのですよ。引用文がしめすように、生長の家もおなじということがいえます。

小林秀雄が『言葉』と題する一文をのこしています。本居宣長が「意は似せやすく姿は似せがたい」といった。『言葉』は宣長のこの言葉についての評論です。

「意」とは「言葉の意味」というより「心」と考えたほうがよいでしょう。「姿」とはもちろん言葉です。心は似せやすい。だからそんなものはどうでもいい。言葉は似せがたい。だからこそ言葉は大事なのだ。ほんとうに大事なのは、心ではなく言葉なのだと、宣長はこういうことをいっているのですよ。

○今世の浅薄な心のままに、古を学ぼうとする自分の真意が、君にわかろう筈がない。

宣長は世間にはびこる浅薄な心のままに、あえて古の歌の姿を学ぼうとした、ということでしょう。心を清めて、神の子の自覚を得て、それから古歌を学ぼうとしたのではないのですよ。言葉とはなにかを考えぬいた宣長には、世間の人たちが「大事だ」という心などほんとうはどうでもいいものだということがわかっていた。だからこそ「浅薄な心のままでもよい」と考えた。しかしこのことは「君にわかろう筈がない」。

○歌の道を知るとは、歌は言葉の粋であると知る事だ。言葉は様々な価値意識の下に、雑然と使用されているが、歌はおよそ言葉というものの、最も純粋な、本質的な使用法を保存している。それを知ることだ。

言葉の「最も純粋な、本質的な使用法」とはなんでしょう。それは心を清めて神の子の自覚を得るという使用法ではない。たとえば西行。「心なき身にもあはれはしられけり」と歌った西行にとって心が大事であったはずがない。「自分が和歌を詠むのは、たんに風景や文物に心を動かされて詠んでいるのではない。それを超えた歌という形の中にあるもの、形に見えないもの、その向こうにあるえもいわれぬ真実をつかまえたいとおもう。それは仏道で悟りを得るのと同じことなのだ」と西行がいっていること。このことこそが言葉の「最も純粋な、本質的な使用法」なのです。

西行にとっても心は似せやすいものであり姿は似せがたいものであった。心というものはとらえどころのないあやふやなものだから、どうとでもいいくるめることはできる。どうとでもなる心を真理に似せることなど、誰にとってもたやすいことだ。西行にとっての問題は、自分ではどうすることもできない言葉の姿をいかにして真理に似せるかということであった。西行がいいたいのはこういうことでしょう。

古代ギリシャの人々にとっても、このあたりの事情はおなじであっただろう。ギリシャ人にとってもおそらく心はどうでもよかった。人間中心主義が登場して「心こそが大事」、「自覚こそが大事」といいはじめた。おそらく総裁は、冒頭の引用文で示されたような、「心こそが大事」といいたげな人間中心主義者のおそれをしらぬ言い分に、強い不信感をいだいておられるのでしょう。

環境破壊は世界を二分して考える人間中心主義がおこしたもの。「心こそが大事」とするあやまった真理観もまた世界を二分して考える人間中心主義がつくりだしたもの。総裁がもしもこのように考え、あるいは直観しておられるとするなら、環境運動への傾斜の理由がおぼろげながらもみえてくるのではないでしょうか。


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