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「脱力ネタ」板

742初心者:2014/03/23(日) 08:52:25
イデア論とはなにか、というと主観と客観の一致なのですね。主観としてあらわれたイデアと、客観としてあらわれている物質界とをいかにして一致させるか。これがイデア論がなそうとしていることなのです。

では、古代ギリシャの思想がなんであったかというと、それは言葉の一致です。言葉の姿をいかにして一致させるか。これが古代のギリシャ人たちがなそうとしていたことです。

主観と客観の一致と言葉の姿の一致。むつかしいのはどちらでしょう。ふつうに考えれば、言葉の姿を一致させるほうがたやすい、となりますね。でも事実は逆です。

主観と客観の一致は不可能なのですね。不可能であるからこそ、逆に「一致できた」と簡単におもえてしまうのですね。

言葉の姿は一致させることができます。ここでいう言葉の姿とは、自然の言葉の姿と、人間の言葉の姿です。このふたつの言葉の姿は一致させることができます。

一致させられるということは、一致しているかどうかがわかってしまうということです。一致していなければ、「一致していない」ということが実感としてわかってしまいます。「この言葉は一致していない」ということがじっさいにわかってしまいます。

無数にある人間の言葉のなかで、自然の言葉に一致させられるのは、おそらくひとつだけでしょう。このたったひとつの言葉をみつけださなければならないのです。みつかったときには、「一致した」との実感があります。

しかしこれは簡単なことではありません。しかも自然の言葉は、「一致した」とおもえた瞬間に、まるで狩りの獲物が逃げていくかのようにその姿を変えてしまいます。その変化した姿にふたたび言葉を一致させなければならなくなります。もしかしたら自然は、このようにしてみずからの言葉を語りかけているのかもしれません。

主観と客観の場合は、一致を確認するすべがありません。たとえ一致してなくても「一致していない」ということが実感としてわからないのです。そのために人は、なんとなく一致しているような気になってしまいます。

「意は似せやすく、姿は似せがたい」と本居宣長がいっているのはこのことです。主観と客観は似せやすいが、言葉の姿は似せがたい。宣長はこういうことをいっているのです。

宣長がいうように、和歌は、自然の言葉の姿と人間の言葉の姿とを似せるためのいとなみであるといえそうです。もしそうであれば、古代のギリシャ人たちがやろうとしていたこととおなじことを、日本人はずっとやりつづけてきたということになります。

西行はいいました。「自分が歌を詠むのは、たんに風景や文物に心を動かされて詠んでいるだけではない。それを超えた歌という形にの中にあるもの、形に見えないもの、その向こうにある、えもいわれぬ真実をつかまえたいとおもう。それは仏道で悟りを得ることと同じことなのだ」。

いっけんすると、歌を詠むということは主観と客観とを一致させることのようにおもえますが、ほんとうはそうではありません。西行がいうように、歌を詠むのは、自然の言葉の姿と自分の言葉の姿とを似せるためであるのです。そして、このことが「仏道で悟りを得ることと同じである」と西行はいっているのです。

一致したか一致してないかがわからぬような心など、ほんとうはどうでもよいものなのです。言葉こそがすべてなのです。自己をはこびて万法を修証させようとするはイデア論であり、迷いなのです。万法すすみて自己を修証するとは、万法に言葉の姿を似せようとすることであり、これこそが悟りなのです。西行はこういうことをいっているにちがいありません。

※言霊としての和歌は主観と客観を一致させようとするものであり、この意味ではイデア論といえるのかもしれません。


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