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「脱力ネタ」板

771初心者:2014/03/24(月) 14:32:10
訊け様

>「じゃ、真理とはなに?」でしょうね、私の疑問は。「果を見て樹を知る」のが、どうして問題となるのでしょうか。百歩譲って、雅春先生の御教えが「真理ではない」ことが科学的に、証明されたとしましょう。カミオカンデを超えるような実験施設が創設されそして、そこで「谷口雅春の真理は否定された!」と、なったとします。それでも私は、信じますけどもね。

ですから、雅春先生の教えが否定されるとか、そういう問題ではなくて、言表と出来事の一致を真理とみなすような考え方は最終的に人間中心主義にむすびつく、ということをいっておるのです。このことを#761で詳しく説明したつもりなのですが、読んでいただけてないのですか(わかりにくかったとはおもいますが)。

いずれにしても、雅春先生の教えが真理であるかないかを問題にしているのではなく、言表を出来事と一致させることに快感をおぼえた人々がおちいりやすい心理状態を問題にしておるのです(「現象はない」と言表すれば、たしかに気持ちがよいでしょう。そのうち、あらゆることがらにたいして自己中心的な言表をしたがるようになるのです)。

イデア論とは、対象となる相手にイデアがあらわれているかどうかを問題にする思想なのです。生長の家もおなじです。相手に実相があらわれているかどうか、生長の家の人々は、つねにこれを問題にしているではないですか。

そのイデア論によって,大地中心主義から人間中心主義への大転換が行われたということは、すでに書きました。「実相があらわれているかどうか」と、イデア論とうりふたつの発想をする生長の家が人間中心主義の拡大に加担しないとする保証がどこにあるというのでしょう。

>まあ、>>761に関して申せば、「未読暴走」です。生長の家が大量生産している、のではなく、「聖典の未読」です。未読のまま、相手方を決め付けていく行為です。でもこれ、『生命の実相』が生んだわけでは、ナイみたいですよ。
 その、榎本先生いわくですが、原因は「聖典の軽視」です。運動に特化して行ってしまい、聖典を「ぜんぜん読んでいない青年会員が増えた」、そんな記述がございます。そして、吉田國太郎先生が、嘆かれたという・・・・

未読暴走?それなら、総裁を「虚説」というように、「相手方を決め付けて」おられた復興Gさんは「未読暴走」ということになりますね。復興Gさんはたしかに「虚説」という言葉をつかって総裁を批判しておられましたよね。復興Gさんでさえも未読暴走なさったということなのですね。

復興Gさんは#761で述べたケースに、あきらかにあてはまりますね。復興Gさんでさえこのありさまです。生長の家が人間中心主義の拡大に加担しないとする保証はいったいどこにあるのですか。


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