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【バンパイアを殲滅せよ】資料庫

129佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/07/07(火) 15:50:50
――朝香(ラミア)?

彼の声に、我に返る。
ここはまだ……ニューロンがひしめき合う「聖域」の中。
あたしの身体を後ろから抱きしめたままの菅さんが居る。回された彼の腕を、両手で強く握り返す。
あの日に別れて……そしてもう一度であったもう一人のあたし。

菅さんは「ヒト」との共存を願ってた。その訳がやっと解った気がする。
とっくにその願いは叶ってたんだわ。とっくにその遺伝子は、ヒトのそれと同居してた。
だから柏木さん、あたしの事を食べなかった。
あたしのヌクレオチドが彼自身の核に組み込まれていたから。あたしの姿かたちを、自己と認識していたから。

――始まるよ? 心の準備はいい?
――始まる? いったい何が始まるの?
――決まってるじゃないか。進化さ。君の到来を感知したからね? 云ったろ? 君自身がトリガーだって。

ニューロンの核が輝きを増していく。いったいいくつあるのかしら! まるでプラネタリウムで眺める星みたい!
紅い核は、やっぱり「眼」にしか見えなくて。大勢の「赤い眼」があたし達を見てて。
とても熱い。真夏の太陽よりも熱い視線。
そして始まったのは、普通なら絶対に有り得ない「ニューロンの体細胞分裂」。
そして……うわ……
核に空いた沢山の穴から続々と這い出した沢山の糸。DNAを翻訳したメッセンジャーRNAね? すごく綺麗。虹色に光ってる。
その糸に、達磨型のリボゾームが数珠つなぎにくっついていく。
……まるで毛糸でも紡ぐようにペプチドが合成されていく。
あのペプチドはたぶん酵素(エンザイム)。生体内で起こる反応系を動かすための触媒。
ただの人間の肉体を……ヴァンパイアのそれに置き換えるための。

気付けば、あの怖いミクログリア達も山のように増えてる。それは敵――ウイルスやバクテリアを完璧に捕獲するため。
だからなのね?
ヴァンパイアは決して病気にならない。感染症で死ぬ事もない。
それは免疫細胞の数がとてつもなく多いから。感度の良いその核が、撃退する武器(抗体)を、瞬時に生産できるから。

いつのまにか、菅さんの姿はない。広いドームの中に、ポツンと佇む1人の自分。
でも眼を閉じると……確かに感じる。あたしの中に彼が居る。あたしと彼は同じ記憶を共有するひとつの粒子。
そんな時。

――助けて下さい先生! 朝香先生!

あたしを呼ぶ声。大勢で、しかも四方八方から同時に。

――その声は麻生君!? どうしたの?
――酸素(O2)がない! ぜんぜん足りないんです!
――ごめんごめん! さっき外気の取り込み(外呼吸)を中止したの!
――なな……なんて事してくれるんです!? この大量に余った水素イオン、どう処理したらいいんです!?

内呼吸の仕組みを忘れたヒトが居るかもだから、一応説明しとくわね?
ミトコンドリアは、細胞質内の解糖系で得られたピルビン酸を使ってATPを産生する工場。
その時にどうしても産業廃棄物的に余っちゃうのが、二酸化炭素(CO2)と水素イオン(H+)。
二酸化炭素は呼気として捨てればいいけど、水素イオンは過剰に蓄積すれば、体内のPHを下げる――強酸に変えてしまう危険物。
だから酸素で中和して水に変える必要があるわけ。

――あはっ! そんなに慌てなくても大丈夫よ!
――何が大丈夫なんですか!? こっちは真剣に困ってるのに!
――君がサーヴァントになった時の事、覚えてる?
――突然……何です?
――いまこの状態はその時と同じだから。あの時あたし、貴方の血が酸素を全く運べないって……言ったの、覚えてるわね?
――……でしたっけ?
――それでも君は平気な顔して秋桜ちゃんを抱っこしてた。それはどうして?
――……さあ。サーヴァントがそういうものだから、じゃダメなんですか?
――ダメよ。「そういうもの」で済ませちゃったら進歩ってものが無いじゃない。

130佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/07/07(火) 16:01:38

う〜んと唸って首を捻って、近くのフィラメントに腰かけた麻生君。
両手の指先で米神を何度か揉むようにして……でもその手をぐっと膝に置いて、こっちを見て。

――解りました。教えてください。
――あら、優柔不断の二又君が、やっとその気になったのかしら?
――……茶化さないでください。その代わり、僕にも解るようにお願いします。
――解ったわ。じゃあ簡潔に言うけど、つまり酸素は要らないのよ。
――簡潔過ぎて解りません。
――今の君は酸素なしでATPを作れるって事。
――無理ですよ。水素イオンがどんどん溜まればヤバいって、先生もご存知でしょう?
――溜まらないわ。利用するもの。
――利用? 使うって事ですか?
――そうよ。より多くのATPを作るために使えるの。やってみて?
――いえいえ! 急にそう云われて出来るわけないじゃないですか!
――出来るのよ。君の身体はさっきとは違う。別の……より進化したオルガネラに変わってる。
――そう云われても……何をしていいのか……
――解ったわ。想起(イメージ)の問題なんだわ。
――イメージ?
――ほら、眼を閉じて。お腹の下に意識を向けながら……大昔の自分を思い出して?
――何を……思い出すんですって?
――昔の自分よ。眼をつむるの。

あたし、眼を大きく開けてパチクリしてる彼の両手を掴まえた。
しっかり握って、額と額をくっつけたら……彼、やっと素直に応じて。

――先生。見えます。
――なにが見える?
――今の僕とは……少し違う色と形の自分です。足の下にレール(フィラメント)が無い。どこでも自由に……泳げます。
――やったわ! それが貴方の祖先よ! 酸素を使って呼吸――つまりATPを生産する好気性のバクテリア。
――バクテリア? つまり「ばい菌」ですか?
――「細菌」って言って欲しいわね。それはそれとして、覚えてる? その頃の君たちにはライバルが居たってこと。
――ライバル? 友達、なら居ましたけど。
――友達ですって!?
――えぇ。二酸化炭素を吸って酸素を吐く友達です。僕とはあべこべなんです。だからよく一緒に散歩しました。呼吸が楽なんです。
――その友達の名前は?
――シアノ何とかとか名乗ってた気がします。
――はいはい、シアノバクテリアくんね? 今の葉緑体のご先祖様よ。
――葉緑体? 植物が持ってる、あの?
――そうよ。光合成をする植物のオルガネラ。知ってる? 実はそのシアノバクテリア、貴方の祖先でもあるの。
――は?
――光合成をする彼等が増えたせいで、原始の海中に大量の酸素が溶け込んだ。とっても「有害」な酸素がね?
だからこそ酸素を消費してATPを産生するバクテリアへと進化する個体が現れた。それが君の先祖ってわけ。

あらら麻生君。またまた首を傾げて押し黙っちゃった。
そうね。難しいことをわざわざ言う必要もなかったわ。

――御免なさい。あたしが言いたいのはね? 君とシアノバクテリアはもとは同じって事なの。
――どういう事ですか?
――君にも光合成が出来るってこと。
――あははは! まさか!
――ふざけてなんかいないわ! 核の洗礼を浴びた君の身体は、ちゃんとその為の構造と酵素(触媒)を備えてる。
――ほんとに?
――ほんとよ。自分を信じて?
――解りました。やってみます。

意外にもしっかりした口調で宣言した麻生君が、眼を開けてすくっと立ち上がった。
さっきと雰囲気がまるで違う。黒いタキシードで、あの舞台に立った時みたいに。

131佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/07/07(火) 17:21:39
両手を広げて、ゆっくりと息を吸う彼。
辺り一帯に充満していた二酸化炭素(CO2)と水素イオン(H+)が、その体内に吸いこまれていく。
(そんな小さい物が見えるかって? ……見えるわ。あたしからすれば、水素原子は1〜2mmくらいの大きさなのよね)

――どう?
――意外に楽です。すでに水素がイオン(H+)と電子(e-)に分かれてますから、光合成の反応1――光を使う必要が無い。
――なるほどね。次も行けそう?
――えぇ。本当にクロロフィルが配置されてる。電子を順繰りに受け渡すこの感じ、チトクローム系でやってるのと全く同じです。
――すごいじゃない! やっぱりやれば出来るのね!
――先生のお陰ですよ。最後は再利用したCO2をH2と合成してブドウ糖を作ればいい。カルビン・ベンソン回路って奴ですね。
――そうよ。回す物質が変わっただけで、クエン酸回路とイメージは一緒でしょ?
――そうですね。出来あがったブドウ糖はどうします?
――その辺に置いとけば、解糖系がまたピルビン酸に変えてくれるわ。
――そしたらまた「呼吸」の回路を回せばいいんですね? まさに無限ループだ。

紅潮させた頬をあたしに向けて、ほほ笑む彼。全身から達成感が滲み出てる。
ただその影がとっても薄い。向こうがうっすら透けて見える程。たぶん身体の強度が、今の仕事に耐えられるほど強くない。

――無理は禁物よ?
――そのようですね。実は立ってるだでやっとです。
――少し休んでて? そのだけのATPがあれば、しばらくは持つわ。通常の生活ではかなりの低燃費なの。
――では、お言葉に甘えて。

再び座り込んだ麻生君。彼の周りには、宙に漂うATPの分子がまるで粉雪のように白く舞っていて。
サイクルを回さないから、温度も下がって。冷たいそれも本物の雪みたいで。そんなであたし、麻生君の言った言葉を聞き逃した。

――麻生君? いま何か言った?
――光を浴びたらどうなるかって聞いたんです。

振り向いた彼がニコリと笑って。ぞくりとしたわ。考えもしなかった。

――サーヴァントなら問題ないと思うわ。反応速度が普通の人間と同じだもの。あの時の君も、普通に光を浴びてたし。ただ……
――ただ? ヴァンパイアなら……問題ある、と?

あたしは口ごもった。
呼吸はつまり……燃焼よね。酸素を使って有機物を燃やす燃焼。
反応が段階的で、エネルギーの取り出しが小分けにされてるから、熱の産生が最小限で済むってだけ。
光合成能を――つまり無限のサイクル能を獲得した今、光、それも直射日光みたいな強い光に当たればどうなるかしら。
……暴走するかも知れないわ。一瞬にして燃え尽きる燃焼と同じ。
ヴァンパイアの反応速度は恐ろしく速いもの。それは細胞単位……いいえ、オルガネラの単位でも同じはず。
そっとアクセルを踏むだけで、たぶん地球の脱出速度を超えるほどのポテンシャルがある。……大げさじゃないわ。
いくら強靭な細胞骨格を持つとはいえ、そんな莫大なエネルギーが与える負荷に耐えられるとは思えない。

――先生?
――ごめんなさい。下手に予想して不安を募らせても仕方ないわ。その時はその時よ?
――僕、思うんですけど。

麻生君が踵を返す。その手の平が、ゆらゆらと舞う粉雪をすくってる。

――逃がせばいいって思って。
――逃がすって……誰を?
――もし僕の身体が燃えても、この細胞群が灰になったとしても、先生、貴方は外に逃げられます。
――麻生君……あなた……?
――先生は普段、血管の中を飛び回っているんでしょ? いざとなったら穴を開けて出て行けばいいんです。
――でも麻生君は……宿主は消えちゃうわ?
――いいえ。先生が僕達を覚えていて下さる限り、大丈夫です。長い月日がかかるかもだけど、でも必ずもとの個体に戻れます。
――全く科学的な根拠がないけど、そうしてそんなに自信たっぷり?
――さあ? でも先生が教えてくれたんですよ? 何事も「イメージ」が大事だって。
――あはっ! そういう意味じゃ、あたしと同じ「弾丸形」の武器で中心を撃ち抜かれでもしたら、あっさり滅びたりして?
――ダメですよ先生! ヒトって案外「暗示」に弱いんですから!

132佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/07/15(水) 20:47:46

――暗示……って? 
――言霊ってご存知ですよね? 信じれば「只の言葉」も「現実」になります。
――待って! まさかあたしのせいで、この種を滅ぼせる決定打みたいなものが出来ちゃったって、そういう事?
――そこまでは……ただ、……先生の、言葉は……重みが……違……

お終いまで言わずに、黙り込んじゃった麻生君。ていうか、寝ちゃった?

≪あはは! 彼問い詰めるのは酷というものさ!≫

振り向いたら、菅さんが立ってて。爽やかな笑顔であたしを見てて。

≪君は彼に相当の仕事を押し付けたんだ。それこそ「裏と表」を逆にするほどのダメージを伴ったハードワークさ≫

……確かに、少し悪い事したかも。

≪ま、いいんじゃない? お陰で我々は晴れて従属栄養から独立栄養へと進化を遂げたわけだ。だろ? 柏木≫
≪そうですね≫

見れば、菅さんの隣に柏木さんも立ってて。

≪収支はどう? 採算は?≫
≪合ってます。グルコース(C6H12O6)1分子から「呼吸」で得られるATPは38、ないし36分子。
 その際の水(H2O)消費量6分子、排出二酸化炭素(CO2)6分子。
 そして生成した24個の電子及び24個の水素イオンを「光合成」の電子伝達系に再利用、その際に得られるATPは約19.2分子。
 次過程である「カルビン・ベンソン回路」を回し、グルコースに戻す作業に充てるATPは18分子。
 その際の水(H2O)排出量6分子、消費二酸化炭素(CO2)6分子≫

≪……ってことは?≫
≪H2OとCO2はどちらもプラスマイナス0、ATPはプラス37.2〜39.2分子。つまり最初の「一呼吸」さえ出来れば――≫
≪永遠に何物をも摂取する必要はない。酸素も不要。そういうことだね?≫
≪YES、MASTER≫

気付けば、ニューロン達の核は、すっかりもとの白っぽい灰色に戻ってて。
ドクン、と一度鼓動が鳴って。

≪そうさ。本当の運命の分かれ道はここからさ≫

菅さんの顔はいつにも増して眩しくて、でも柏木さんの表情は何だか浮かなくて。

≪宿主は「変化」に耐えた。だから「次のステップ」に進めるってわけさ。肚は決まったかい?≫

菅さんの口調には強制の色はない。
つまり、あたし次第ってこと。
待機状態(サーヴァント)へと移行したこの宿主が、最終形態(ヴァンパイア)へと進化するか否かは、すべてあたし次第。

「あ……あたしは……」

チラチラと降り注ぐATPの分子を浴びながら、あたし、息を吸う。
冷たい。
空気が、降り注ぐそれが、とっても。
今までの、この一連の過程は「仮想現実」なんかじゃない。
そう。あたしが侵入したこの宿主は、本物の「あたし」。
何度も望んで、でも誰かがそれを思いとどまらせて、でも諦めなかった。

仕事が好き。
あたしが触れると……傷が治る。
小さいころからそうだった。
小さな虫も、飼ってたカナリアも、何故かあたしが触れるだけで元気になった。
そんなあたしの天職は医者だって……言ってくれた人は誰だったかしら?

133佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/07/20(月) 16:20:29

あたしの、まだ小さな手をゆったりと包み込む、厚ぼったくて大きな手。
降り注ぐ真っ赤な夕陽のせいで、その人の顔は良く見えない。
手が熱い。その声も眼差しも、すごく。後ろからあたしの肩を抱き締めるお祖母ちゃんの手の平も。

「人のままが宜しかろう。いざ望んだその折は――いずれ」

優しくて太い、そんな声だった。まだ小さかったあたしには、意味なんかさっぱり解らない。

「励みなさい。とりあえずは為すべきことを、脇目もふらず。邪(よこしま)が惑わす隙を、作らぬ事や」

立ち上がったその人が、少しだけ振り返って。
真っ黒な長い髪が風に靡いて、そこから覗く黒い眼が、優しくあたしを見下ろしていて。

それからだったかな。
子供心に、「よーし! がんばろう!」なんて妙に張り切っちゃったの。

目に映るものは何でも面白くて、わくわくしたっけ。
どうして太陽はあんなに明るいのか、どうして星が動くのか。
さざめく木の葉はとってもいい匂い。這いまわる天道虫が赤くて丸い。
言葉ってすごい。数字はとっても便利。理科の実験はほんと……いつまでもしていたい。
友達とおしゃべりするもの楽しすぎ。大好き。特に男の子ってとっても素敵。
子供みたいな眼をしてはしゃぎまわったかと思えば、真剣な顔してサッカーボールに突進してる。
そんなこんなで、いつも誰かに恋してた。いつか普通に結婚して、普通の家族を持つんだろうなあ、って思ってた。

けど中学の時にお祖母ちゃんが亡くなって、施設に入って。
あたし、ずいぶんと長い間、塞ぎこんでたっけ。
そんなあたしが救われたのは、同室になった子がすごく……いけ好かなかったから?
あはっ! いっつもどっちが洗濯機を先に使うかとかしょうも無い事で喧嘩したのよね!
境遇が似てて、しかも引かない性格同士。勝ち合って、喧嘩して……不思議よね。いつの間にか何でも話せる仲になっちゃった。
彼女のアドバイスはいつも不思議と的確で。
悩み事の相談にはいつも乗ってくれて。
大げさじゃないわ、彼女のお陰であたし、望んだ道に進むことが出来たと思ってる。
帝大の医学部に入学出来たのも、無事医師免許を取れたのも、ぜんぶ彼女のお陰なの!
あの時だって、彼女が柏木さんの検査データを送ってくれてなかったら……

「あなた、言ってたわね。ヒトという生き物が好きだって」

振り返る。
すぐ後ろに麗子が立ってる。
はあ……ほんと、女柏木、なんて呼びたいくらいだわ!
ベージュのセットアップで決めた、セクシーで完璧なプロポーション!
針みたいなピンヒールが支える、すっきり伸びた長い足。
服の上からもうかがえる、引き締まった胴、細いけど鍛えられた腕や肩。

「でも変われば……『人を見る眼』は変わるわ。ヒトを好き、なんて言えなくなる」

――そうなの? そうなっちゃうの?

まっすぐにあたしを見つめる麗子の眼。
黒目勝ちなその眼は少し菅さんに似ていて。
思わずまた振り返ったら、菅さんがそっと眼を伏せて。

「ハムくんはどう? 変わった?」
「変わったさ。ヴァンパイアの性(しょう)は君だって知ってるだろ?」
「うん。でもあたし、自分は絶対変わらない自信がある。だったあたしの力は――」
「……かもね。君の特殊能力はあらゆる意味で『特殊』だからね」

その言葉を聞いてあたし、あらためて今までの出来事に納得が行った気がした。
あたしはずっと――「この世の道理を覆す」存在だった。

134佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/07/20(月) 16:22:25

不思議な力。
生き物の修復――治癒を促す力。
あたしが傷に触れて眼を閉じた時、浮かぶのは「分子レベルのイメージ」。
破損部を修復する為のタンパクの合成や、伝達を媒介する化学物質の分泌。
それを全部、コントロールしている自分が居るの。
核の設計図(DNA配列)から、修復に要る部分を抜き出す。
A、A、G、C、T……なんてつぶやくと、RNAやオルガネラ達が動いてくれる。

あはっ! そんな力、人間にあるはず無いわよね!
あたし、「ヴァンパイア」っていう存在を知って、ぼんやりと……自分もそうなんじゃないかって。
医者になって大きな病院に勤務した時も、必死に力を隠そうとしたけど、でも駄目で。
あたしの担当の患者さんが片っ端から治る、それはある意味、医学の発展を妨げる現象だった。
そりゃ……「どういう機序で治癒したか」が大事なんだもの。
ある日、治った筈の患者さんに訴えられて、病院をクビになって、免許も取られちゃった。
仕方なかったの。地下でひっそりやっていくしか無かった。
でもそれはそれで楽しかった。喜んでくれる人の顔見るたびに、生きがいを感じて、だから――

「だから、変わる? ヴァンパイアになるって選択でいいんだね?」

あたしを見つめる菅さんの眼はいつも通り、真っ暗で深い闇の底。
眼の奥に潜むたくさんの「眼」。
それはいつでも覚醒可能な核を持つニューロンの群れ。
隣に立つ柏木さんも、金色に輝く眼をじっとあたしに向けて。
横を見れば仕方なさげにポケットに手を突っ込んで立つ魁人がため息をひとつ。
黒いタキシードの麻生君に目配せして、麻生君は背中のホルスターから黒いベレッタを抜き取って。
そのベレッタと麻生君の顔を見比べる秋桜ちゃんが、唇をぎゅっと噛んで。

そうね。もしあたしが頷いたら、彼等はあたしを容赦なく撃つわ。
麗子だってそう。誰よりもヴァンパイアの存在を否定してた麗子だもの。それが仕事だもの。

でもあたしだって戻れない。
「変化」を経験したこの身体は、先に進む選択をしない限り朽ち果ててしまう。
え? ワクチンを打てば戻れるって?
……たぶんダメ。
あたしのDNAは麗子や魁人と違って純度が高い。限りなく100%に近い――真祖のそれだもの。
覚醒する前に、ヒトでは有り得ない能力が発動してたくらいだもの。
菅さんみたいに、血液の総入れ替えでもすれば戻れるけど、でもそれはきっと一時的なもの。
いずれまた同じ運命を辿る。
自分の意志次第でいつでも覚醒可能なのが真祖だもの。

死ぬのが怖いわけじゃない。
あたしは大好きなお仕事を続けたいだけ。未来永劫――朽ちる事のない身体を使って。
歩いていくわ。果てる事のない無明の闇。
でも一人じゃない。きっと菅さんが一緒に歩いてくれる。

あたしはまっすぐにみんなの眼を見返して、そしてコクンと首を縦に振った。

135菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/08/16(日) 06:06:35
朝香の決意を知った、その瞬間に景色は晴れた。

見ればみな元の位置にいる。
如月も、麻生も、麻生の膝元に座る秋桜も。
皆がハッとした眼を互いに交わす。さきほどの体験を共有した者同士の眼だ。
ただ1人、魁人のベッドに腰かけていた筈の朝香だけが、眼を閉じて立っている。

なんと形容したものか。
ざわめく、という言葉が近いか。

室内の家具がカタカタと振動している。リンリンと音を立てる空気。
異様な気配だ。それが解るのか、外の木々、土中に眠る虫たちまでが騒ぎ出す。
朝香の髪の、その一本一本が思い思いの方向に靡いている。
見上げる麻生と如月の頬を伝う一筋の汗。
ゆっくりと瞼を持ち上げる朝香。その眼の色は、鮮やかな金。

「先生……貴方は――」

口を開いた麻生の左手が動く。
足首にでも装備していたのか、あっと思ったその時には発砲動作が終了していた。
木霊する銃撃音と、満ちる硝煙の匂い。
被弾した朝香は微動だにしない。その胸の正中には明らかに銃弾が撃ち込まれた痕があると言うのにだ。
礫が落ちる硬い音。
見れば、彼女の足元に弾頭がひとつ、転がっている。
陽光を浴びて鈍く光るそれは、紛れもない純銀製。血の一滴もついていない。
視線を戻せば、朝香の胸元の傷は無い。

驚愕に値する事態だ。
彼女が平気だって事じゃない。
彼女が麻生に武装を許してた事がだ。
診察の際に気付かないはずはない。……なぜ?

「なるほど、納得です。あの時僕は間違いなく貴方を撃った。銀の弾丸を撃ち込んだんだ。でも貴方は無事だった」
「あたし、知らなかった。でもどこかで気づいてた。色々無茶が出来たのも、たぶん何処かで……大丈夫って思ってたから」
「だから……僕のベレッタをそのままに?」
「……ていうか、差し支えの無い装備はとくに気にしなかったっていうか?」
「……んじゃ俺のコルトは?」
「あはっ! あれはとうぜん外したわ! レントゲンに映っちゃうもの!」

如月の手が自身の腰をまさぐっている。
そこにあるべきホルスターと得物の有無を、無意識に確認する動作か。

「指示を下さい菅さん。いまや貴方は『こちら側の人間』ですよね?」

まだベレッタを構えたままの麻生。
なるほど彼はハンターだ。曲がりなりにもわたしは元帥。全弾撃ち尽くせと言えばその通りにするだろう。しかし――

「それはどうかな」

如月が怪訝な眼でこちらを見る。麻生は朝香に向ける眼を外さず。

「さっきの『あれ』を見ただろ? わたしはその気になれば『戻れる』んだ。しかも彼女は許婚、あちら側に回ったって――」
「いいえ!」

麻生が強い口調で否定した。断固とした口ぶり、柏木譲りか。

「貴方は人間で、政治家です。この国を引っ張っていく責任がある事を、ご自身が良くご存知だ。感情に流されたりはしない」
「しかし同時にヴァンパイアの長でもある。両者に取って最適の道を探すのがわたしの役目さ」
「まだ……諦めないおつもりですか?」
「そうだよ。『共存』がわたしの悲願なんだ」

136佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/08/23(日) 07:03:57
あたし、ただ黙って立ってた。逃げる必要も、動く必要もぜんぜん無いもの。
もちろん見えてたわ?
魁人がベッドの上で跳ね起きて、麻生君が構えた銃が音を立てて。その銃弾が「ここんとこ」に着弾する瞬間も、ぜ〜んぶ。

うふっ! こんなにも爽快な世界があるなんて思ってもみなかった!
すべてがパズルなんだもの。
こっちを見つめる菅さん、魁人、麻生君、秋桜ちゃん、部屋に並ぶベッド、天井、窓、カーテン、
お庭の木、芝生、スズメにハトにカラス、コウモリにその他大勢の虫たち。その全部が原子レベルのドットのパズル。
な〜んだ、ぜんぜん複雑なんかじゃないじゃない。立体的な配列の、ある程度の規則性と不規則性。
乱れた箇所は戻すだけ。「あるべき姿」に。

麻生君の頬を汗が滑る。何度も納得顔で頷いて、その度に伝った汗がポタリと落ちて。
頷きながら、つい先日のあの時の事を口にして。
あの時のこと。議事堂であたしを撃った時のこと。
(てっきり模擬弾だと思ってたあたしの予想は大ハズレ。ちゃんとした銀の実弾だって言うじゃない?)
な〜んだ、だから、「そうだった」のね?
危険だって頭では分かってても、いざそうなると身体が勝手に前に出ちゃう。
身体の方は知ってたのよ、「大丈夫」って。

まだこっちに銃を向けたままの彼。とっても真剣な顔。
状況は理解したはずなのに。無駄だって解ったはずなのに。
でもわかるわ。貴方はハンター、それが仕事。死んだ柏木さんの目的はヴァンパイアの撲滅。
だから無駄弾でも撃つしかない。攻撃しない訳には行かない。あたしが反撃したらそれまで。ハンターの責務はそれで終わる。
自分の命も厭わないハンターだもの、そんな風に考えて当然。
ただ、自暴自棄になったって訳でもないみたい。

「指示を下さい菅さん。いまや貴方は『こちら側の人間』ですよね?」

あらら、麻生君ったら意外に悪い人ね?
さっきまで敵側だった菅さんに指示を仰ぐなんて、しかもその権力欲(?)に訴えるような言い方しちゃって!
でも菅さんはやっぱり菅さんで。簡単には応じなくて。ヴァンパイアに戻れる事とか、あたしの許婚って事を強調したりして。
(もう菅さんったら! みんなの前でそんな……照れちゃうじゃない)

しばらくの沈黙。
唇を噛みしめる麻生君。あたしと菅さんを交互に眺める魁人。
そんな魁人と麻生君を交互に見て、あたしの顔みてくすりと笑った秋桜ちゃん。
そうよね。あたし、「そっちの方」にちゃんと眼を向けるべきよね?
彼の言葉――「共存」。
人間とヴァンパイアとの共存。共に手を取り合って生きていく社会の実現。
なら、将来の伴侶としてはこう言うしかないじゃない?

「手伝うわ。何でも言って? ハムくんの望みはあたしの望みだもの!」
「……状況わかってる? 君は真祖なんだよ? すべての弱点を克服した恐るべき――」
「ハムくん! あたしはあたし! 人の傷や病を診るのが仕事なの! それ以外の事なんてまったく頭に無いわ!」

そしたら菅さん、じとっとした眼をあたしに向けて。

「ヴァンパイアの欲求が半端じゃない事くらい、知ってるよね?」
「大丈夫! そんな時はハムくんが居るでしょ?」
「……は?」
「いざって時はハムくんの血を貰うわ! んもう、考えるだけでぞくぞくしちゃう! 吸血は究極の愛情表現、なんでしょ?」

口を金魚みたいにパクパクさせた菅さん。魁人と麻生君がプッと噴き出して。菅さんの顔がみるみる赤くなって。

「わ……解ったよ! その代わり、協力してもらうからね!? わたしは記者会見やら事後処理やらで忙しくなるからさ!
差し当たっては組織改革の為の法整備! アメリカのCDCと警察のSATを合体させたような新しい機関を立ち上げる!
君は指定感染症と1,2,34類感染症についての世界的な発生データと、ラミアウイルスについての可能な限りのデータ、
ついでに狂犬病のワクチン接種歴のある人間のサーヴェイランスデータを提出して! 出来れば明日までに!」

――え……ええええええ!!!?

137如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2020/08/23(日) 07:23:07
――よし、今朝も……何ともねぇ。

あ? 何してっかって?
見りゃ解るだろ。鏡で自分の眼ぇ確認してんのよ。瞳孔が赤く光ったりしてねぇかってな。
いつ誰が変わってもおかしくねぇ……俺ら人間の中にぁヴァンパイアのゲノムって奴が組み込まれてるって、解っちまったからな。
特に俺みてぇな特殊技能持ちはその気が強ぇって言われてるもんでよ?
一応毎年ワクチンって奴を打ってるから、大丈夫よ〜なんて女医は言ってるが、信用していいもんかねぇ……
ホッとしたついでに頭の毛も丁寧に撫でつけとかねぇとな。
キャップがねぇと、こういうトコに気ぃ遣うぜ。しかも片っ苦しいネクタイとか、上等な黒スーツとか、マジ性に合わねぇ。
ホルスターの場所も懐に限定ってのも気に食わねぇ。長年の癖でつい腰の方に手ぇやっちまう。

冷てぇ大理石の壁に背中を預ける。
真っ黒な天井は、いかにも「高級」って感じの石材だ。あの辺のマーブル模様の曲線が、姫の首と腰のラインに良く似てやがる。
別に貴賓室でも何でもねぇ、只の「手洗い」にカネつぎ込んじまうのは、流石首相公邸と言ったところか。
カチャリと個室のドアがあいて、菅が顔を出した。
黒い壁に白い服が映えるねぇ。その両手首にゃ3重に嵌められた銀の腕輪(ブレスレット)だ。

「どう? 順調?」

ああ、と答えた俺を、奴ぁその黒目が勝った眼でじっと見やがった。
その眼は人間だ。5年前の……伯爵だった時とは違ぇ……あのブラックホールみてぇな吸引力っつーの?
ああいう不気味な気配は全くねぇ。

「今日の空きは? ランチとか出来そう?」
「無理だな。さっき沢口が昼間に打ち合せたい事あるってよ」
「……それは『官房長官』としての用事かな?」
「知らねぇけど。俺経由でアポ取るくれぇだから、公にしたくねぇ案件じゃねぇの?」
「何だろ。朝香がまた医師会と揉めちゃったのかなあ……」

鏡見ながら、ちょいちょいっとメッシュに染めた髪先いじる、その眉間に皺が寄ってら。
相変わらずのチャラいカッコだが、これでも国家の代表だぜぇ?
質問にゃサクっと答える、指示は早ぇ、機転は利く。カオもそれなりな上に、あの二木元総理もご推薦と来りゃあ……歴代の支持率を圧倒しねぇ方がおかしいってか?
が……玉に瑕は奥方だ。しばらく新宿の巣に籠ったかと思えば、勝手にあっち飛び回っては「依頼」をこなしてるってな。
「どんな病気も治す女医様」なんて裏で崇め奉られてまくって引く手あまたらしいぜ。
人間相手だけじゃねぇ、大方のヴァンプ達の弱点まで治しちまう。今やブレスレット付けて無きゃどっちだか解らねぇ奴らがわんさか居る。
お陰で「医者会」なんかに眼の敵にされるわ、お堅い連中は「そんなファーストレディは認めない」云々だわ。
……お陰で気苦労絶えねぇ筈なんだが、奴ぁチラっと俺の胸元に眼ぇやって。

「そのネクタイ、地味過ぎない?」
「あ?」
「そのネクタイ、丸きりどっかのエージェントじゃないか。君は一応『秘書官』なんだよ? ブルーとか、せめてグレーでも」

なんて言いつつ、どっから出したのか水色と青の縞々のネクタイを渡して来やがった。
……こういうトコ、ホント変わらねぇ。

「国会終了後はあそこに行くだろ? 少しは見た目に気を使ってよ」
「おいおい……マジで行く気か? 明日休みじゃねぇだろ?」
「中身は全部頭に入ってるから平気だよ」
「それはそれとしてだ。一国の総理が仕事帰りに秘書と2人きりで出かけるとかどうよ」
「逆に聞くけど。音楽鑑賞する余裕すら無い総理大臣なんて無能だと思わない?」

……減らず口も変わらずだ。
秘書兼ボディーガードの俺の身にもなって見ろっての。
てめぇを狙う人間がどんだけ世の中に溢れてるかってな。

ため息ついて頭かいた俺。したら……見ろよあの眼。奴は全部解ってんだ。そういうとこ、解った上で俺に預けてくる。
自分の命って奴をな。
うっかり奴がまた「覚醒」しちまったそん時、対処可能な人間は俺しか居ねぇ。そう言って俺に護衛頼んだのは他でもねぇ菅だ。
だからな? 俺も悪ぃ気しねぇっつーか、つい奴の我がまま聞いちまう訳なのよ。
――あーあ、行くか! ひっさびさの結弦のリサイタル! せっかく奴が送ってくれたS席のチケットもあるしな!

138名無しさん:2020/08/29(土) 00:25:05
ラストスパート

139麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2020/08/31(月) 12:25:56
「父さま! そろそろよ!」

秋桜の声に、僕は鍵盤をなぞる手を止めた。
半ば開いた控室のドアを背に秋桜が立っている。まるで花嫁のような純白のドレス。
でも背丈はやっと100cmに届く程度。……5年前のあの頃からまったく成長していないんです。
まあ……実年齢が見た目に追いついた、とも言えますが。
彼女の手首のブレスレットが、ギラリとこの左目を刺す。

「『それ』外しますよ? 舞台ライトの照り返しは、お客様方の眼に毒ですから」

にこりと笑った彼女が両手をそろえて差し出した。
僕はいつも懐に用意してある「鍵」で、その「枷」を外して――
パッと彼女の眼が輝いて、でも金に変わるような事はない。朝香先生の治療の成果……でしょうか。

彼女はその誕生の背景と、特異な成長速度、かつ音楽に対する天才的な技能を指摘され、「真祖に近い個体」と診断されました。
ですから法――菅さんが新たに制定した「ラミア感染症対策特別措置法」の規定により、純銀のブレスレット着用が義務付けられた訳なんです。
ただ彼女には吸血欲求や嗜虐性はありません。朝起きて夜眠り、人並みの食事を摂るんです。
よって「害はない」とみなされ、時に応じた「両手首の腕輪を外す許可」を貰っています。
……僕のような「撃手」が傍に居るのが条件、ではありますけど。

「……来るかしら?」
「どうかな。でも今回は特別だから、来そうな気がする」

滑るように歩み寄った秋桜の指が鍵盤(キー)を叩く。
たった一音。
Eフラット。ラ・カンパネラの出だしの音。

凄い音だ。こんなにも身体の芯を震わす音が存在する。
やはり彼女にはヴァンパイアの血が流れている。
ふと顔を上げ、眼を向ける秋桜が――いや……君はいまや秋桜じゃない。

「なら今夜こそ……弾きましょう?」

さっきまで僕を見上げていた筈の彼女の声が、「上」からする。
さっきまでは小さかった筈の手が、長くすっきりと伸びている。
……参ります。
彼女は時々……こんな風に「桜子」に戻るんです。そんなところまで気まぐれで、奔放で。

また拝めるだろうか。
あの時のあの音を、もう一度体験できる?
今度は僕が高音部を弾いてもいい。
彼女と共に過ごしたあの最高の時間を貰えるなら、他には何も要らない。

「聞いてるの!? 結弦!?」

少し強めな口調に、僕はあわてて頷いた。
そんな自分が可笑しくて、少し笑った僕を彼女が笑う。
これも……そうだね。2人の時間には違いない。
血縁上……彼女は僕の血を引く娘だ。
これも罰なんだろう。
秋子と桜子、どちらかをきちんと選べなかった僕への罰。

でも最近割り切ったこともあるんです。
僕は音楽家だ。聴いてくれる誰かに音を届けるのが役目だ。
だからそんなモヤモヤした感情を、音に変えて表現すればいいかな……と。
音に深みを出すための手段は、いくらあってもいいんじゃないかなと。

「やっと……吹っ切れたのね?」

……参りました。いったい彼女は何処まで解ってるんでしょう?

140佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/08/31(月) 12:27:44
「先生、いつもありがとう!」
「いいのよ、仕事だもの。それよりその腕、しばらく動かしちゃ駄目よ? あ! こら!」

扉を開けて、あっと言う間に遠ざかる靴の音。あたしは急いでその背中を追いかけて廊下に出る。
吹き抜けの非常階段の、打ちっ放しの壁に、カツーンカツーンって音が反響してる。

「ちょっと! そんな走ったりしちゃ駄目だってばーー!!」

そしたら「わかってるーー!」なんて声が遠くから返ってきて、外に出ていく扉の音がして。

あ、今の子は患者さん。お役所勤めのご両親が忙しいから、夕方の遅い時間に1人で来るの。
まだ「年長さん」なのにちゃんとした挨拶も出来るし、とてもしっかりしてる。
そういうとこ、きっと母親に似たのねぇ。それとも……先に身体が動いちゃう父親似?
とにかく、あの調子じゃあ、また来る事になるわね。手すり掴んだり振り回す音もしてたもの。
そりゃああたしの手にかかったら、痛みが何処かにふっとんじゃうだろうから? 治った気になるのも無理ないかもだけど。
子供相手じゃ……そこのとこ考える必要があるかもねぇ……
そんな事をぶつぶつ呟いてたあたしに、後ろから声をかけた人が居る。

「先生、次の患者さんがお待ちです」

そうだった。つい考えこんじゃって、状況忘れちゃうのが悪い癖よね。
ほんと、彼のアシストのお陰でいつも助かっちゃう。我が子ながら、凄く有能。とても5歳とは思えないわ。

――え? あたしの子よ?
推定185cmの背丈とか、丁寧にセットしたオールバックの髪とか、ウィンザー・ノットに結んだネクタイとか、
裾の長い白衣からすっきり伸びた長い脚とか、もろもろがとてもそうとは見えないけど、
並んで歩くと良く「お父上ですか?」なんて間違われるけど、でもあたしの子。
あの時出来た、ハムくんとの息子。名前は宗(そう)。

「どうしました?」

診療室に続く扉をあけつつ、あたしを振り返る彼。
……ま、誰が見ても疑うわよね。
見た目年齢40歳以上。その顔はどう見ても……柏木さんその人だもの。じっと見つめられたあたしは思わず……眼を逸らす。

ああ、いつもこんなってわけじゃないの。彼の見た目が大人になるのは「ここ」だけなの。
診療室じゃない……リビングとか寝室とか、そんな生活空間だと子供なの。外を歩くときもね?
彼、その気になればいつでも姿を変えられるって言うのよ。それって……誰かに似てるわよね?
――そう! 秋桜ちゃん!
なるほど、って思い当たらなかった? 2人とも、お母さんのお腹の中に居た時に同じような出来事に遭ったって。
秋桜ちゃんが秋子さんのお腹の中に居た時には桜子さん、この子があたしのお腹に居た時には柏木さんが……って。

これもヴァンパイアの能力なのかも。
滅びる寸前の魂が、生まれる前の子供に――なんて、そんな特殊能力。
しぶとい?
ううん、そんなの、ヴァンパイアに限らない。どんな生き物だってそうじゃない?
生き物の証――遺伝子の本体は変わらない。DNAや、RNAは、世代や種を超えて存在し続けるんだもの。

「あのね、今夜は……今夜だけは麻生くんのリサイタルに行こうと思うの。だから宗くんも一緒に来てくれる?」
「……」

彼の眼――柏木さんと同じ茶色の眼が何かを追うようにそっと動く。
大人になった彼には生前の記憶があるみたい。だから、麻生君の名前を聞いて、迷ったのかも。
でもゆっくり頷いた。ドアの札を、closeに変える彼の手首には、3重に嵌められた銀のブレスレットが光ってる。
どんな気分かしら? 生まれ変わったら、あたしとハムくんが両親で、自分は真祖としての運命を受け入れなきゃならないなんて。

「あと3人いらっしゃいますが……先生なら間に合いますね?」
「あたりまえよ、あたしを誰だと思ってるの?」

フッと笑うその仕草、ほんと柏木さんそっくり。

141菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/09/22(火) 07:07:24

「う〜……さぶ!」

立ち並ぶ高層ビルの一角。
品のいいエントランスホールが透けて見えるドアの前で立ち止まった魁人。
その彼が、ぶるっと身体を振るわせて両腕を擦った。
見れば二の腕にびっしりと鳥肌が立っている。

「……きみの出身、北海道じゃなかったっけ?」
「道民だろうが寒ぃもんは寒ぃの。つかジャケット着てくりゃ良かったぜ」
「わたしの折角のコーデ(ネクタイ)を台無しにした報いさ」
「あ?」

いつだって遠慮のない横柄な態度。
そんな魁人がズズっと鼻をすすりつつこっちを見る。
……仕方ないよね。
ピッチピチの白のTシャツに膝がやっと隠れる丈のカーゴ……そうさ、彼は「伍長」時代の恰好してるのさ。
懐かしき、かのトレードマーク。
黒革の編み上げブーツに同じ革地のグローブが物々しいね。これでもかってくらい自己主張してるパイソンもね。
それについてはまあいい。
別に銃が見えてようがいまいが、免状持ちのハンターには一切の咎めがないからさ。
わたしの不満に明らかに知った眼それこそが如月魁人だ。あの恰好してこそ、実力を最大限に発揮できる。
そりゃまあ……解らなくもない。
今夜は特別。取り巻きも居なけりゃSPも居ない。彼は彼なりに「覚悟して」わざわざ着替えたに違いないのさ。
ただもう少し「しゃんとした」恰好して欲しかったよ。そんな鍛え過ぎた手足を剥き出しになんかしないでさ。
何たって……クラシック鑑賞だよ?

「んだよ。てめぇこそ、何だかいつもと違うじゃねぇか」
「ああ……これ?」

……まあわたしもカッチリとは言えない、カジュアルな白のアンサンブルに着替えていたりする。
裾の長い、首回りにゆったりした襞のある仕立てのスーツ。襟なし、タイ無し。
足元が軽い。布地のスニーカーなんて、履いたの学生以来かな。
グレーの手製マスクと目深に被ったベレー帽はあれさ。世間の目を欺くアイテムだ。

「珍しく朝早くに起きていた朝香に手渡されたのさ。あの時カッコ良かったから〜なんて言われて」
「あの時?」
「あれさ。ミクロの世界の住人になった、あの時の体験」
「俺がヘルパーTだか何だかになっちまったあん時かぁ……ありゃマジでやばかったな」
「……だね」

流石は朝香って言いたいね。
わたしと魁人の間にいつの間にか生まれてしまった妙な連帯感は……あれのせいだ。
あの時の体験が大いに貢献してるに違いないのさ。


玄関の両脇に立つ2人の黒スーツが、意味ありげな視線を寄越す。
ゆっくりと……眼を彼等に向ける。

「念を押すけど、招待客以外は例外なくシャットアウト。例外なく頼むよ?」

黒服の1人が「了解」って風に眼で合図する。
彼の名は宇南山拓斗。あの広い北海道で一、二を争う酪農牧場の御曹司。
道議(道議会議員)も数多く輩出するあの家を飛び出して自衛隊員を志願した変わり者……なんて思ってたけど。
魁人の見舞いに何度も足を運んだ彼を見ていて思ったのさ。
こいつ、秘書官にどうかなって。
いかにも純朴でひたむきで、それでいて凄く頭が良いのさ。機転がきくし、そこそこの駆け引きも出来る。
あの魁人がすっかり騙され……失敬。気に入るくらいだし、本物かも……ってね。
今や魁人より上の「政務担当(主席)秘書官」だ。
悪いね。主席をこんな受付係に使っちゃってさ。他に立ち回りが出来る人材が無くてさ。

142菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/09/22(火) 07:18:55
行間を除く18行目、

わたしの不満に明らかに知った眼それこそが如月魁人だ。あの恰好してこそ、実力を最大限に発揮できる。

って文章を消しといてくれると助かるよ。



エンディング、グダグダになってしまって本当に申し訳ない。
たぶん次のフレーズで最後だから!

143名無しさん:2020/09/23(水) 10:06:47
読んでるぞ!

144菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/04(日) 19:04:14

カウンター前に立つ、いかにも支配人のオーラを放つ黒スーツ。
ってよく見れば。

「宗(そう)じゃないか! どうしたんだい? 案内役でも任された?」
「えぇ。母さんが、『あなたはここでこうしてるべきよ!』、なんて言い張るので」
「仕方なく?」
「いえ、わたくしも当事者ですし、何もせずに居るよりはお役に立てた方が宜しいかと思いましたので」

宗は柏木の姿になるといつもこんな慇懃無礼なしゃべり方をする。
生前の柏木の記憶があるっていうから仕方ないけど、わたしとしては複雑だ。
実の息子に「マスター」なんて呼ばれるんだよ。それって……どうなのさ。

「そりゃまあ助かるし有難いけどさ。5歳の息子に頼むことじゃないよね」
「お言葉ですがマスター、わたくしは――」
「いいよいいよ、解ってる。少しは集まったのかい?」
「えぇ。名簿に載った方々はすべて場内にてお待ちです」
「すべてって、まさか全員?」
「はい。総勢550名、欠席者は御座いません」
「……流石だなぁ。本会議の出席率もこうだったらいいのにさ!」

わたしの軽口にクスリと笑い、しかしその眼は何処か哀し気だ。
彼には事の全貌を明らかにはしていない、ていうか、わたしにすら田中さんの真意は解らない。
招待された客たちが何者か知ったはずだ。
これからの彼等の反応如何によっては、わたし達家族、いやこの社会体制そのものが――
いや、今更言っても始まらない。
無言で踵を返し、彼はわたし達を緋色の絨毯が敷かれた幅広の階段へと誘導した。
柔らかな絨毯に足を乗せ、一歩、一歩と歩を進め――

ふわり、と冷たい雪の匂いがした。
ハッとしたよ。
ゆっくりと階段を登る彼の後姿にね。
あの時に見(まみ)えた神父の姿がオーバーラップして見えたのさ。

厳粛に満ちたあの時の記憶がよみがえる。
積もる雪を照らす薄明り。
灰色の夜空に黒く聳える質素な十字架。

――足が竦む。
身体が重い。
背に重くのしかかるこれは何だ。
背の骨が軋む。
わたしは今……自分自身を磔にする為の、木の架台を背負っている。

チャリン、と何かが音を立てた。
いつも手首に巻き付けている柏木の遺品――欠けた十字架のメダイが足元に落ちている。

あはは……どうかしてる。
このわたしが明るい未来を目指さなくてどうするのさ。

「宗、君も一緒に聴くんだろ?」

軽く話題を振った、その声は幾分震えていたかもしれない。

「えぇ。麻生結弦の『渾身の音』が聴けると期待して来ましたから」
「へぇ、もしかして麻生がそんな風に言ってた?」
「えぇ。曲目はすべて、わたし達1人1人をイメージして選んと」
「わたし達って誰さ?」
「母さんと父さん、局長時代のわたくしと魁人さん、そして田中さんの5人だそうです」
「田中さんが……入ってるんだ?」

145菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/04(日) 19:12:18
議事堂での一件が片付いたその後、生き残った仲間探しに奔走していた田中さん。
実は彼こそが今夜の主催なのさ。
彼から連絡が入ったのはほんの数日前。
集めた「彼等」と内密に引き合わせたいから、是非にもお越し願いたい、なんて、あの有無を言わせぬ強引さで頼み込んできてさ。
麻生結弦のピアノ演奏を聴きながら、なんて粋な趣向まで取り付けて来るもんだから、せっかくだし謹んでお受けした訳だ。
……にしても、麻生と田中さんにそこまでの付き合いがあったなんてね。

「どうぞ、こちらからお入りください」

厚ぼったい両開きのドアの前で宗が立ち止まる。このドアは、最後尾の座席が並ぶ最上段の中央口。
一瞬でホール全体が見渡せる位置、つまり、座席側からも一目でそれと解る場所だ。

重そうな音を立て、ドアが開く。座っていた客たちがこちらを見上げる。

ゾクリとした。
彼等の眼が一斉に金色に光ったからさ。無論ライトの照り返しなんかじゃない。
魁人の腕がグリップに掛かる。
……仕方ないかな。この5年間、「こっち側の仕事」にかまけて、彼等のことは田中さんに任せっぱなしだった。
こんなハンターなんか引き連れて顔を出したら、警戒するのは当然だよね。

わたしは魁人の肩を軽く叩いて、その前に出た。
こちらに「敵意がない」ことを伝える必要を感じたからさ。
一応こちらは客だし、この場で謝辞諸々を述べても不自然じゃない。挨拶ついでに今までの怠慢も詫びようってね。

会場をゆっくりと見渡しながら一礼。そのひとりひとりとなるべく眼を合わせ、口を開きかけたその時。

「これはこれは、ようこそお運びくださいました!」

驚いたよ。
見れば、中央前よりの席の辺りに田中さんが立ってたのさ。
いつもの装いだ。緑色の光沢を帯びる茶色の羽織に、やはり緑を帯びた鼠色の袴。
ん……左肩に描かれてる柄が……桜じゃない。冬のものだ。
放射状に配置する葉の中央に、点々と描かれた控えめな白い柊(ひいらぎ)の花。
彼ったらさ、草履履きの足をキュキュッと言わせながら、両手を左右に広げながら段を登って来てさ。

「無沙汰を致しておりました。道中、お冷えになられたでしょう」

なんて、まるで何事もなかったように声をかけてきたんだよ。
とたん、場の空気が一変。
和やかな喧騒に変わったのさ。
彼等の眼に灯っていた火は何処へか。小声でおしゃべりしたり、徐にプログラムを開いたり。
さっすが田中さんだなあ。いとも簡単に大勢の呼吸を掴んでしまう。

「申し訳ないね。手間を省いてもらって」
「とんでも御座いません。寧ろわたくしが出向くべき所なれば。はははっ! ついうっかりでは済まされませんな!」

こんな所でもそんな風に笑っちゃうのが田中さん。本当に、変わらない。

「礼を言います。このような場を設けてくださって、本当に」
「いえいえ、法の整備など大方整ったと聞き及びまして、そんな折に当方の支度が整いました故、
これ以上の機会は無いかと判断した由(よし)にて。ささっ! 急がねば始まります! どうぞこちらへ!」

さっき田中さんが立ってた場所と案内されて、行ってみれば席は4つ並んで空いている。
魁人、わたし、宗の順に腰かけて、最後に田中さん。……あれ?

「ハムくん! 良かった!」

田中さんの隣席はなんと朝香だった。さっきのさっきまで二人で居たって事だ。
祖父と孫娘の5年ぶりのご対面、積もる話に花を咲かせてたに違いない。
なんだ、「ついうっかり」なんて言って、そんな事情もあったんじゃないか。

146麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/04(日) 20:23:41
昏い客席を隈なく埋める観客たち。
息を潜んで待っている、その眼が舞台の照明を猫のように照り返している。

そんな中、居心地悪そうに足を組みなおしたのは魁人だ。
……だね。君はあまりクラシックに興味ないよね。護衛兼秘書として付いてきただけだよね。
でも、そんな君に選んでみたんだ。トリッキーで、楽し気な曲をね。ラヴェルの組曲「鏡」から、「道化師の朝の歌」。
行動的で、どこかネジの外れた思考、でも飛びぬけた才能。
ほんと、音がぴょんぴょん飛び跳ねるんだ。短調だからちょっぴり切なげでもあるけどね。
……君は首を傾げるかも知れないな。現代音楽ってほら、解釈が難しいっていう……。抽象画みたいな?
せめて寝ないで聴いてくれると嬉しいよ。

マイペースという意味では朝香先生もそうですよね。ほら、もうそんな……あくびを噛み殺したりして……
断言しましょう。貴方に選んだ曲を弾けば、確実に貴方は寝る。賭けてもいい。
……いいですけどね。あなたには随分と振り回されましたけど、助けられもしました。何度も眼が覚めました。
実際貴方が居なかったら、僕はこうしてここに居ない。ありったけの感謝を込めて弾きますよ。ラヴェルから、「夜のガスパール」の第1曲、「オンディーヌ」を。
オンディーヌって、妖しく男を魅了する水の精なんです。優しく、しっとりと方々に流れる水のような……艶めかしい曲でして。
えぇ、先生をイメージしたらこれしか。

宗くん……こうして見ると、ほんとうに局長そのひとですね。
いえ、その眼、事実そうなんでしょう。
元は司祭だと後から聞きました。言われてみれば、あのストイックさは確かに。
ヴァンパイアであるからこその容赦ない扱き、指導。でも決して僕達を殺しはしなかった。遊び半分に嬲ったりも。
感謝しています。尊敬しています。人ではないその身を制御できたのは局長ならばこそ。
貴方にはショパンのエチュード、作品25の11を。
「木枯らし」を思わせるあの……高音部から流れ落ちる情熱的な旋律。それを、楽譜の指示通りに。
ショパンが与えた指示記号はrisoluto(リゾルート)。
それが意味するのは「lamentabile――哀し気に」でもなければ「appassionato――情熱的に」でもない、「決然と」。まさに貴方を表す言葉だ。

菅さん。貴方は凄い人です。
ヴァンパイアの伯爵が、人間と手を取り合って生きていく道を選択するなんて、普通じゃあ有り得ない。
相当の苦労だったと思います。精神的にも、肉体的にも。
あはは、貴方はら「不老不死の身体にはそんなの苦労のうちにも入らないよ!」なんて笑って言いそうだなあ。
僕は当時、伯爵という存在を憎んでいたから気付かなかったけど、貴方は相当「大らか」だった。
何事にも動じずへこたれない、少々の事は気にしない。
……そうじゃなきゃ、大臣、なんて職は務まりませんよね。
まるで大陸を囲む大いなる海原のよう、なんて気障な言い方になりますが、そう名付けられた曲があるんです。
僕の好きなショパンが作曲したエチュード、作品25の12。
ナンバーを見れば気付くでしょうが、先ほどの「木枯らし」の次曲でしてね?
かつて貴方の僕だった局長と、奇しくも隣り同士ってわけで。
両手同時のアルペジオ(分散和音)が、まるで大海の波のうねりを感じさせる、というのが命名の理由だそうで。
けっこう好きなんですよね、この曲。主旋律が「絶望的な状況における決意」のようなものを感じさせるんです。
高波に呑まれながら、遠雷を聞く。迫りくる嵐、不穏な空気。ついに投げ出され海は暗く、何処までも深い。
けれど次第に凪ぎ、立ち込めていた暗雲は晴れ渡り、大いなる大団円にて幕を下ろす。
どうです? 貴方の身の上にぴったりだと思いません?

最後になりましたが……田中さん、お声をかけて下さってありがとう御座います。
僕はこんな日を待っていた。いつか特別な誰かの為に、最高の音を聴いてもらう、そんな日を。
あの時あなたは言いましたね、人を持て成す、その為の技を磨くが僕らの悲願だと。
あの地下道で、歩み寄って来た貴方に対し、僕はわざと思わせぶりな態度を取った。
そんな僕を信じた貴方を僕は裏切った。その僕に……。
政治的な意味あいに疑問を持つ権利は僕にはない。「顔合わせ」なんて、僕に取っては名目に過ぎない。
ただ同じ道を歩むものとして、貴方の「望み」が叶うなら僕も嬉しい。
貴方にはシューベルトの即興曲、作品90の3を。
一見静かで単調で、でもその旋律は……とても深い。リストに「最も詩情溢れる作曲家」と言わしめたシューベルトの傑作。
人生そのものを綴った曲だと、そんな風に評した人も。
500年の時を生きた貴方なら、思う部分が必ずある。そんな風に思いまして。

……向こう袖で、彼女がサインを送ってる。
え? 照明がきつくないかって?
大丈夫。眼をしっかり閉じて弾くから。

147佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/14(水) 17:05:14

パリッと糊のきいた黒いタキシード。
麻生君、相変わらずそういうカッコ、似合うわねぇ……

あたしは彼をぼんやり眺めてた。
マイク片手に、「お忙しい中ようこそ」とか、「癒しとなれば幸い」とか言うのを。そして「5曲続けてお聴きください」って。
舞台袖からトコトコ歩いてきた秋桜ちゃんが、彼からマイクを受け取って。
「続けて」って事は、一曲弾くたびに拍手しなくてもいいって事よね?
うっかり寝ちゃっても怒られないって事よね?

え? どうしてそんな事って……ほら、クラシック、しかもピアノの曲とか……ついウトウトしちゃうじゃない?
しちゃうわよ〜
知らない曲は特に。別に退屈とかそんなんじゃなくて、子守唄にしか聴こえないから?
小さい時からそう。
起きてる自信なんかこれっぽっちも。
ほらね、初っ端からこれだもの。透き通るような硬質の……キラキラした音。それがもう……こんなに……遠い。

気付いたらあたし、湖の畔に立ってた。
……また来ちゃった。
あの時。桜子さんのピアノの音を、舞台袖で聴いた、あの時。
灰色の空に、一面の湖面。深い……どこまでも深くて青い湖。
ぐるりとあたしを囲む水平線。もしかしてこれ、湖じゃなくて……海?

どこか遠くで鳴るピアノの音。
音に合わせて、ひとつ、ふたつと重なる波紋。
波間から垣間見える水の底で……誰かが呼ぶの。
ここがあたしの帰るべき場所だって。
足を踏み出す。
あの時は、柏木さんに肩をギュッとされて我に返ったっけ。

触れた水は冷たくなんかなくって。あたたかで。
どんどん身体が沈んでいくのに、まるで抵抗がない。
すっごく馴染む。まるで、自分自身の体液にでも漬かってるみたいに。

でもね、あわや首までって時に、ぐっ! っと左手を掴まれたの。
気付いたらあたし、びっしょり汗をかいて座ってた。
眩しい舞台のライト。
ここはコンサートホール。
光の粒を照り返すグランドピアノ。
座ったまま、手を膝に置く麻生君。

隣を見れば……あたしの手を握りしめたまま……じっと前を向いてる田中さん。
どういう状況かしら。
あたしが居眠りしてる間に、終わっちゃったのかしら。
にしてはおかしいわ。
誰も拍手しようとしないもの。
感動しすぎて……って理由にしても、タメが長すぎない?

そう思って見回せば、座る人達がみんな、舞台を見たままボーっとしてる。
田中さんの向こうに座る、宗とハムくん、そのまた向こうに座る魁人も同じ。
まるで人形みたいに、眼を見開いて。
あの時と同じだわ。
あの時も、桜子さんの音を聴いた人達がこんな――

『音ってもんは……恐ろしいもんや……』

ボソリと呟いた田中さんが、そっとあたしの手からその手を離した。

148如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/18(日) 07:04:55
――いったい全体……どうしちまったってんだ?
俺ぁ目ん玉だけ動かして、あっちこっちを見回した。
だれもかれも、身じろぎしねぇ。気味悪ぃぐれぇに静まり返ってんの。
結弦の奴ぁ……座ったまんま。拳握って膝に乗せたまんまだ。5曲目弾き終わってから、かれこれ1分は経つぜぇ?
なんて思ってりゃあ……チラチラこっちを見てやがる。んでもって菅が肘で俺の右腕つっつくわけ。ほらほらって感じにだ。

え……俺? 俺がなんかすりゃいいの?
したら結弦もダメ押しでチラ見して来たんで、こんな場に不慣れな俺もようやく気付いたのよ。
招待された客は俺らだけだってな。俺と菅、司令に田中に女医。そん中で一番の格下は俺。俺が動かなきゃ誰も動かねぇ。

「bravo (ブラボー)!」

腹ん底から思いっ切り叫んでやったぜ。
したらすげぇの。まるで訓練された軍隊みてぇに、客が一斉にスタンディングしやがった。
もう絶叫マシーンにでも乗ってんの? ってくれぇの大歓声と割れんばかりの喝采よ。
……解るぜ。マジで凄かったからな。気迫っていうの? 音がよ、もうガンガン腹に来るのよ。胸とかもう揺さぶられ過ぎて、オーバーヒートだ。
俺らに充てた曲もどれだか解ったしな。(結弦の奴、弾く前にきっちり相手のカオを眼で指してたからな!)

菅も立ち上がって手ぇ叩いてら。だからよいしょって俺も付き合った。
んでギョッとしたのよ。菅が泣いてんの。初めて見たぜ、大の男がよ、だっくだくに涙流してんの。
って気付きゃあ……俺もだ。
止まんねぇのよ。涙もだが、胸ん中に滾る何かもだ。
……なんだ? なんだこりゃあ!?
哀しいんだか嬉しいんだか怖ぇんだか、「別」のつかねぇ感情が一度に襲う。張り裂けそうだ。叫ばずにはいられねぇ。
結弦も立った。良くみりゃ汗だく、びっしょり濡れた前髪が顔に張り付いてやがる。
片手を得物の楽器に置いて、一度気取った礼をしたと思ったら、手で誰かを招くのさ。
したら出て来たぜ、まるで真打ちって井出達で、白いロングドレスの女がよ。

秋桜。いや今は桜子か。忘れもしねぇ……あん時も、そうやって結弦と弾いてたっけ。
そういや、そん時も客が俺らみてぇに泣いてたっけなぁ。

徐に座る桜子。その左に腰かける結弦。あん時とは逆位置だ。
ザァ! と客たちが一斉に座ったんで、俺も座る。
静まり返る客席。
だが胸ん中の滾りはそのままだ。鼓動が暴れてやがる。中からドンドン胸板を叩きやがる。
舞台の2人が、膝に置いた腕を持ち上げて……弾いた。
やっぱりだ。あの時のアンコールと同じ曲だ。ラ・何とかって――

ヤベぇ。
いま俺ん中で何かが「立った」。
理性が警鐘鳴らしてんぜ。これ以上弾かせるなってな。
こんな俺でもこんなだ。音楽好きならイっちまう。

駄目だ。
これ以上はアウトだ。
絵とか彫刻は眼ぇ逸らしゃあ済むけどよ? 音ってもんは容赦がねぇ。勝手に中に入って来やがる。
菅が胸押さえてるぜ。左隣の奴もだ。司令も、田中も。客がみんな必死に何かを抑えてるのさ。
こりゃ弾けるぜ?
胸が、心臓が、器(うつわ)そのものがよ!?

「やめろおおおおおおお!!!!」

この必死こいた叫びは届いたか!?
届く筈がねぇ。それ以上のでっかい音に負けちまったからな!
まるで500の銃弾が一度に打ち込まれた音にな!

ゆらりと菅が立った。その向こうに座ってた司令も。田中も。前と後ろの奴らもみんな。
だらりと下げた手首。その足元にぁ……なんてこった。ずたずたに引き千切られた銀の腕輪が転がってんのさ。
俺の手はすでに銃のグリップを握ってた。が……この数相手にどうしろって――?

149菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/24(土) 05:55:41

純粋に楽しむつもりだったさ。
こう見えて、クラシックには明るいんだ。
学生時代、壁一面に収納された父のコレクションを片っ端から漁ったくらいにね。
田中さんが面倒ごとを持ち出す事は予想がついてたけど、それはそれ。
渾身の麻生が聴けるんだ。こんな機会は2度と無い。存分に堪能しようじゃないか……ってね。

周囲に眼を向ける余裕もあった。
落ち着かず、実に行儀が悪い魁人。
(駄目だよ、そんな風に足なんか組んじゃってさ!)
じっくりとプログラムを眺め、丁寧にたたんでしまう宗(柏木)。
(わたしはそんなの見ないね! 何が来るか解らないから面白いんじゃないか!)

そんな中、曲は唐突に始まった。
一番手はフランスもの。
へぇ……これを持ってくるのか。

モーリス・ラヴェル。
現代音楽の先駆け。
荒唐無稽で、完全には調和しない和音や、不思議な音の羅列を多用する。
どクラシック趣味のわたしからすれば、実に「不思議ちゃん」な作曲家さ。
≪道化師の朝の歌≫――これもそうだ。
加えて素早い連打、素早い旋律。
上へ下へと行ったり来たり。
曲調自体はユーモラスかつリズミカル。
旋律は非常にノスタルジック。
「ああ、これは魁人か」なんてすぐに解った。
銃の腕は言わずもがな、柏木仕込みのアクロバティックな体捌き……あの時はほんと、してやられたっけなあ……
結構な昔気質だしね。言い回しもね、「しゃらくせぇ」とか、彼の祖父の影響だろうけど。
そんな魁人本人は、自分宛だって気付いてるのかどうなんだか。
気には入ったらしい。小刻みにリズムを取ったりしてる。
会場の受けも上々だ。

始まりと同じく、唐突に迎えたラスト。間髪入れずに次の曲。
また……ラヴェルだ。
2曲続けて……どういうつもりだい? まさか全部……

無いだろう。
無い事を願う。

しかしまあ……翌々聴いてみればいい曲だ。
水の妖精「オンディーヌ」
曲調を一言で言えば「流麗」。
……流石。「水の流れ」を書かせたら、彼の右に出る者は居ないってね。

斜め前の女性がうっとりと聞き惚れている。
なるほど、献呈先は女性(朝香)か。
……いい度胸じゃないか。
仮にもわたしの連れ合いを……夜な夜な男を誘惑するような女に準(なぞら)えるなんてさ。

……え?
……間違ってない?
……いいけどね。
……ふん。
プレゼントにはいいチョイスなんじゃない? 

ここまでは良かった。「いっぱしに」評価する余裕すらあった。
柏木あてのショパンが始まった頃から雲行きが妖しくなったのさ。

150菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/25(日) 06:35:14
「木枯らし」と、そう誰かが名付けた曲。
本当の曲名はエチュード(練習曲)作品25の11番。
やっと来た。そう来なくては、「ショパンの申し子麻生」の名が廃れるってものさ。
耳を傾ける。
丁寧に……まるで、触れば壊れるのかってほど……この上なく「優しく」奏でられる丁寧な和音。
この胸にしっくりと来る、完璧な協和音。そして一度、不安かつ物憂げな和音を打ち、動きが止まる。
なんという長い「間」だろうか。

いいさ。長いタメほど期待は膨らむ。本題がいかに素晴らしいか知ってるからね。
突如として木の葉をまき散らす、寒空の秋の風――木枯らしの風。
小刻みに音を散らしつつ駆け降りる、哀し気な右の旋律。堂々と自己を主張しつつ奏でられる左の主線。
初めてこの曲を聴いた時は、すっかり色づいた公園の一角に佇む自分が見えたものさ。

だが――突然に叩きつけられたフォルテ。
なんだこの木枯らしは!
駆け降りる高音部が凄いのさ! 幾度となく降りかかる……災難? いや神の啓示と称しても過言じゃない。
左も負けず、むしろ主役の貫禄。
右と折り合いをつけつつも、幾度となく対峙、つかず離れず展開する……音。音。音。
なんという躍動感! なんという情熱!

ひどくゆっくりと流れる時間。運命に翻弄される感覚。
眼を開ける事が出来ない。ここは何処だ。わたしは今……何をしている?

両膝に押し付けられる硬い床。
床につく手の平には、ザラリとした木の感触。
唐突に告げられた死の宣告と共に、突きつけられる銃口。司祭姿の柏木が背後に立っている。
突如――音が止む。

終わったのか。
誰にあてた曲だったのか。
じっとこちらを見つめる麻生が、微かに頷く。
そうか、次はわたしの番なのか。
ならば今のは柏木あてか。故郷の民を奪われ、復讐を誓う。そんな過酷な使命を負った、柏木への。
なるほど右隣から、ギリリと拳を握りしめる音。
見ればその拳の隙間から、真っ赤な血があふれ出している。わたし以上に「音の洗礼」を受けたのか。

麻生が構える。
力強く打ち出された出だし。
これもショパンだ。エチュード作品25の12。
木枯らしのような別名があったような気がするのだが思い出せない。
右と左がピタリとシンクロしている。駆け上がっては降りる事を、最初から最後までひたすらに繰り返すアルペジオ。
かと言って単調かと思えば、そこはショパン、抜かりが無い。緻密に音を変化させ、情感籠る情熱的な曲調に仕上げている。
それを麻生が弾くと……こうなるのか!

絶望と歓喜。
月光の第3楽章に似た焦燥感。
鼓動が鳴る。
運命に翻弄され、足掻く人間がふと活路を見出し、解決への道を歩んでいく。そんなストーリーさえ思い描ける。
すごい……この高揚感。覚醒しコントロールを失ったあの時を思い出す。

震える手を組み合わせ、眼を閉じる。
鼓動が音に共鳴しているのが解る。
自分だけじゃない。
左に座る魁人の鼓動が、それとまったく同じリズムを刻んでいる。
魁人だけじゃない。
柏木も、田中さんも。会場の人間すべての。

再び訪れた静寂。
呪縛が解けたかに弛緩する身体。
しかし胸の中は熱いままだ。ついに最後か。残るは……田中さんの――

いっとき眼を閉じ、徐に麻生が弾き出した、その曲はわたしの愛するシューベルトだった。

151菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/25(日) 08:27:22
フランツ・ペーター・シューベルト。極貧の天才作曲家。
彼の作る曲が聴きたくて、学友たちはこぞって紙とペンを……え? 前にも聞いた?
ごめん。ファンだからつい…………そうだね。自重するよ。

麻生が田中さんの為に選んだ曲は、即興曲。作品90の3。
断言しよう。何の情感も込めずに弾けば、これほどつまらない曲もないと。
構成自体、ひどくシンプルだ。
静かにゆっくりと奏でられる主旋律。
それを終始にわたり追いかける伴奏。
試しにこれを息子に聴かせた時も、こう言ったのさ。

『父さん、この曲つまんない。楽しいのか哀しいのか良く解らないし』

5歳とは言え、流石はもと(?)柏木。言い得て妙。
たしかに! この曲は楽し気な長調と、哀し気な単調がしょっちゅう入れ替わるのさ!
木枯らしのような難曲ではない。決して音符は多くないがしかし、和音の響きが深い。ひどく胸に沁みるのさ。
平和に過ごす日々、かと思えば直面する隣人の死。家族の不幸。
哀しみに打ちひしがれ、しかしそれは乗り越えられる。人は生きている限り、生きなければならないのだ。
そんな曲だ。故にこの曲に共感する子供は子供じゃない。

会場が凪いでいる。眼を閉じずにはいられない。
耳を……身体を……音に委ねるのがこれほどに……心地いい。
時折胸が締め付けられる。ひどく苦しいがしかし、じきに済む。山は越えればいい。次の試練が来たら、また――
生きていくとはこういう事だ。たかが40年そこそこのわたしが言うんだ。
500年の時を生きて来た田中さんなら……何と言うだろう。

そういえば麻生……田中さんの何を知ってるんだろうか?
何処で生まれて、何をして生きて来たのか。
この会合が無事に済んだら、思い切って聞いてみようか。
小出しでいいから、せめてその生い立ちだけでも。いや出来れば……人となりも解る程度に。
彼は大いなる先輩だ。現在もっとも老いた……ヴァンパイアの長老なんだからさ。

優しい。限りなく優しい。そんな音が、会場をじんわりと包み込む。
限りなく小さいがしかし、凛とした音。弦の震え。それが遠くに消えていく。鍵盤に指を添えていた麻生が、そっと手を離す。



終わったのか。
……残念だ。もっと聴いていたかった。
そんな時、いまだ余韻に浸るわたしの耳に、こんな声が届いたのさ。

『音ってもんは……恐ろしいもんや……』

……そうか。田中さんはこれを「恐ろしい」と。
必死に押さえ込もうとしている荒い息遣い。相当の衝撃を受けたのだろう。

会場は静まり返ったまま。
座った姿勢を崩さない麻生。
ああそうか。曲目はすべて……弾き終わった。
けれど会場の反応はない。誰も手を叩こうとはしない。
……だね。これほどの演奏に、ただの拍手で返すのは味気ない。
はっきりと、「言葉」で讃えるべきだ。あれだ、日本語の「イイネ!」に相当する、あの言葉を叫ぶんだ。
……誰が? やはり主賓のわたし達ってことは、代表であるわたしか?

肘で魁人の腕を小突く。
……だってさ。いま声なんか出したら泣きそうだったからさ。裏声で変なコールする訳には行かないだろ?
魁人は「え?」なんて顔してこっちみてたけど、すぐに納得顔で座り直した。
……理解が早いな。大丈夫かな。た〜まや〜〜とか叫んだりしないかな。
だけど、彼は見事にシュプレヒコールのトリガーを引いて見せた。流石は魁人だ。ハンターだ。
なんてね。

152菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/25(日) 08:54:38
流石にこれは訂正が必要かな!


行間を除く12行目

×哀し気な単調
〇哀し気な短調

153菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/26(月) 05:16:48
喝采の嵐。
立ち上がった麻生。
っと……大丈夫か? フルマラソンでも走り切ったランナーみたいだけど。
きつく閉じていた眼を薄く開け、手慣れた優雅な礼をした麻生。
更なる喝采。
見れば、隣に白いドレス姿の秋桜が立っている。すらりと伸び切った背に手足。今の彼女は桜子だ。
……オーラが凄い。まさに往年のピアニスト! って貫禄だ。
輝くような笑顔を観客席へと送り、彼女が麻生の腕を取る。そして椅子へ。……なんと2人並んで腰かける。

歓喜のどよめき。
息を呑む。
……いや、待て。
2人?
いやいや、アンコールに答えるの、早すぎないか? 休まなくて……ていうかさ、こっちの準備がまだ出来て……

座る観客。気づけば自分も椅子の背にもたれている。

霞む視界。
頷きあう二人、黒い服の麻生と、白い服の桜子。光り輝くグランドピアノ。
それらが……ぼんやりとした輪郭に変わっていく。
しばしの間。
一瞬だけ、麻生の視線がこちら側に座る誰かと合った……のは気のせいだろうか。

している。
確かに……「音」はしている。
鐘の音だ。沈む意識の中で……耳だけははっきりとその音を捉えている。

さわさわとした波が指先に触れる。
ピリリとした痺れと共に、指先、足先から手足を伝い、背筋を撫で、髪の毛一本一本に染み渡っていく。
繋がっている。
ホール全体が一体になって……すべてが溶け合っている。
座っている筈だが、座面も、肘掛けもそこには無い。
座っている筈なのに、すでに身体は無い。
……いや?
自分という存在を確かに感じる。

寒い。
さっきから酷く寒い。
苦しい。
ずっと前から、呼吸が出来ていない。
無数の……針より細い何かが身体を通り抜ける。
前後左右。
わたしは今、攻撃されているのだろうか?
酷い痛みだ。
だが逃げる事も、身体を捩ることすら出来ない。

攻撃は一向にやむ気配が無い。
叫んでみる。
しかし、纏わりつく鐘の音がどうにもそれの邪魔をする。
手足の痛みはやがて、胸の中心へと集束していく。
熱い。
溶けた金属を流し込まれたようだ。
苦しい。
いったい……いつまで続くんだ?
堪らない
どうにかなってしまいそうだ。

≪もうすぐだから! 頑張って!!≫

……朝香?

154菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/27(火) 06:44:26
確かに朝香の声を聞いた、その直後だった。得も言われぬ衝撃が身を貫いたのは。
ライフルを装備した小隊の一斉射撃を受けた事がある人なら解るだろう。
頭部に手足、胴体すべてが四散、かつ各組織から細胞の分子に至るまで、散り散りになるような……そんな衝撃だ。
魁人が何か叫んでいる。
同時に耳を焼いたのは、鉄を引き裂くかの破裂音。

感覚が消えうせる。
どこまでも静まり返った深い闇。
わたしは……この世から消えてなくなってしまったんだろうか。

≪よく見てハムくん! 眼をあけて!≫

またもや朝香の声。
ハッとして眼を開ける。
ここはコンサートホール。さっきから、ずっと同じ場所でわたしは……

試しに力を入れると、フワリと足腰が動いた。手足が、特に手首のあたりがやたらと軽い。
不審に思い手首を見れば、そこにいつものアレがない。赤い轍(わだち)に似た痕が3つ、刻まれているだけだ。
ブレスレットの痕跡。
能力の大きさに応じ、二重、三重と重ねる……怪力や吸血衝動といった危険な力を封じる枷であった……それがない。
……あ……有り得ない。
もしや……床に散らばる破片が……それなのか?
……さっきの音は……これが?
どういうことだ。わたしは……覚醒してしまったのか?

辺りを見回し、さらにぎょっとする。
皆が皆、わたしと似たポーズを取っていたのさ。
自由となった手首を茫然と眺めるポーズをね。

想定外だ。
わたしを含め、500あまりの「ヴァンパイア」の頸木が解かれてしまった。
麻生と秋桜(桜子)の2人が共同作業で弾いたせいか、あの旋律にその手の効果があったのか。

「おい」

魁人に呼ばれ、振り向けば銃口がこちらを向いている。
……約束したからね。もしわたしが覚醒するような事態となれば、直ちにこの心臓を撃ち抜くと。
ここは覚悟を決めるべきだろう。わたしの代わりなど幾らでもいる。

両手を腰のあたりで後ろに回し、向き直ったわたしの眼を魁人が睨む。
射抜くような黒い視線が、しばしわたしのそれと絡み合う。そして――

「……撃たないのかい?」
「ああ。てめぇは人間だからな」
「なぜ言い切れる」
「眼を見りゃ解らぁ。俺様を誰だと思ってやがる」
「……そう……なんだ?」

わたしは魁人を、正確にはその眼を信頼している。魁人がそう言うのならそうなのだろう。
……ひとまずは良し。が、深刻な状況には変わりない。今現在、多勢のヴァンパイアたちに取り囲まれているんだ。
魁人と柏木がいかに強力な騎士(ナイト)でも、太刀打ちは不可能だ。が、諦めるのはまだ早い。
魁人が狙いをつける。右の銃口はわたしの背後。
……だね。牽制すべきは田中さん。この場のヴァンパイア達の長(おさ)。彼が命じなければこの群衆は動かない。
だが左の銃口はどういうわけか9時の方向――舞台上に向けられた。
その眼が怪訝に眼を細められている。額から流れ落ちる一筋の汗。
田中さんはと見れば、いつもの落ち着いた佇まいで立っている。いつもの……その柔らかな視線を前方に――舞台上に向けたまま。

「……うまくいったんですね。田中さん?」

小さな秋桜を横抱きにした麻生が、うっすらと張り付くような微みを浮かべていた。

155菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/28(水) 17:10:20
麻生に抱かれたまま、ぐったりと身を預ける秋桜。
気味の悪い笑みを湛えたまま、じっとこちらを見降ろす麻生。そんな彼に、満足気な微笑を返す田中さん。
つまりはそういう事なのか?
……この……最悪の事態を引き起こしたのは彼等だと?
最初からそのつもりでわたしをここに? 両者、結託して?

衝撃に軽い眩暈を覚える。
わたしは魁人同様、麻生の事も信頼している。常に冷静に物事を判断、分析できる、ヴァンパイアハンター「麻生結弦」をね。
もちろん田中さんのことも。
彼は一度もわたしの意見に逆らったことなんかない。
節介を焼いたり、行き過ぎた言動を諫める場面はあるものの、それはあくまでわたしや仲間を思っての事。
共存案に心からの理解を示し、奔走してくれた……あれは全部嘘だったと?

曲がりなりにも、わたしは国家の代表。「内密に」と話しを持ち掛け、わたしと魁人を孤立させる。内閣府は表向きとは言え、わたしを無視できない。
ともすれば強引に条件を呑まざるを得ない状況に置かれる事になる。その為のフェイクだった言うのか?

「アハ……アハハハハっ!……」

気でも狂ったかに声を上げ笑う麻生。桜子を抱いたまま、さっきまで疲労困憊だった筈なのにだ。
舞台ライトの照り返しも相まって、実に悪役のそれらしい。
……OK。話が通じるか否か、試してみてもいいだろう。

「これは……君の仕業なのかい?」

さも可笑しそうに笑っていた麻生がピタリとそれを止めた。
そしてニンマリと……「悪い顔」をして頷いた。わたしの意見を肯定したんだ。
そうか。やはりそうなのか。
じゃああれか。議事堂の一戦で……田中さんに噛まれた……あの効果が、今頃になって出て来たのか。
朝香のワクチンは「元伯爵」の血には勝てなかったという事だ。
……信じすぎた。麻生を。田中さんと言う人間を…………

「君たちは……何をしでかしたか解ってるのか?」
「もちろんですよ! どうすれば貴方が来てくれるのか、どうすれば出し抜けるか。……えぇ……とても……苦心して!」

感極まったかに言い放ち、唐突に麻生が歌い出した。
良く通る、飛び切りのテナーでだ。
彼はピアニストにして歌い手。リサイタルの日は必ずこの手のパフォーマンスを欠かさないと聞く。
曲は交響曲第9番から、「歓喜の歌」。
ワンフレーズ後、観客席の客たちも一斉に口を開く。
550を超える人員が奏でる、壮大なる混声四部合唱。差し詰め、祝勝歌と言ったところか。
その歌声、規模、共に素晴らしい。状況が状況ならば、感動に打ち震えていた事だろう。

……魁人がピリリと頬を痙攣させている。そりゃ……彼はそれを楽しむ筋合いはないだろうからね。
でもまあいいさ。
打ち合わせには絶好の機会だ。

「魁人。表の宇南山に連絡するんだ」

ピタリと身体を寄せ、耳元で囁く……そんなわたしに魁人はむず痒そうに顔をしかめ。

「あ? なんて言やぁいいんだ?」
「このホール全体に仕掛けたアレを作動させるのさ。ブツを乗せた車も用意させてる事だしね」

そうさ。わたしだって、何の対策も講じなかった訳じゃない。
アレ。つまりは改良型高周波発生装置。それを昨日のうちに仕掛けてたのさ。
言うまでもないが、ブツとは手に付けるブレスレットのこと。
自分の開発したそれを信じない訳じゃ無かったけど、想定外の事態に対処する準備は怠るべきじゃないからね。

「……で? その後は?」
「決まってるだろ。無抵抗となった彼等は人形同然だからね。人手を集めて装着すればいい」

156菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/28(水) 17:11:13
だが魁人は動かない。装着してるインカムのスイッチを入れようとしないのさ。

「……どうしたのさ。異論でもある?」
「ああ。もっといい方法があるぜ」
「どうするのさ」
「こう……するのさ」

何食わぬ顔で、くるくるっと左手の銃を回して見せた魁人が、ストンとホルスターにそれを仕舞う。
その空いた手が伸びてきて、わたしの左腕をがっちりと掴む。

「悪ぃな。俺ぁハナからてめぇが嫌いでな」

驚く暇もない、気付けば背に銃口を押し付けられていた。魁人はこの左腕を捩じりあげ、背後を取っていたのさ。
二の句を告ぐのに、数舜を要した。
歓喜の歌が高らかに鳴り響いている。

「嘘だろ魁人……! 君もなのか!?」

返答はない。押しつけらる銃口に、否応なしに前へ――舞台のある方向へと向かわされる自分。
どうやら舞台の上へ追い立てられるらしい。
そう言えば朝香は……? 柏木は何をしている……?

絶句する。無理矢理に首を捩じり眼を向けた……柏木が立っている筈の場所に彼は居ない。
いや……居た。田中さんの向こう隣り。
朝香の膝の上に彼が乗っている。柏木ではない……5歳の息子の姿に戻り、眼を閉じている。
その息子を膝に乗せた朝香がチラリとこちらに向け、しかしそっと眼を逸らす。

「……朝香?」

朝香は返事をしない。

「朝香!? どうしてだ!?」
「恨んでんだとよ、てめぇをな」

問いに答えたのは朝香ではない、この背を押していた魁人。

「……恨んでる?」
「田中から聞いたらしいぜ? てめぇが佐伯をやったってな」
「――な……」

わたしは口を噤んだ。黙るしかなかった。
確かにその件については、あえて話さなかった。
朝香が噛まれるという事態を避けるためにした事だ。
が、「嫉妬」という感情が少しも介在していなかったか?
そう問われれば嘘になる。

「登れ」

言われるまま、階段に足をかける。
一歩、一歩と、懸命に足を持ち上げる。
……重い。ついさっきのはこれの予兆か……?

舞台上へと続く段には、真っ赤な絨毯が敷かれている。
赤い血のイメージ。
ロザリオがチャリンと音を立てる。
赤い血。キリストの血。
頭を振り払う。が、イメージが拭えない。柏木がわたしに与えた宗教観が、この胸に根付いているのか。

ようやくに登壇した舞台。指揮をしていた麻生が、その片腕を横に伸ばし、止める。
歓喜の歌が……途絶える。

157菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/29(木) 07:08:19
「そこに立ちな。……そこだ。みな皆サマがたから……良く見える所によ」

トン、と背を押され……観客席に向き直って立てば、一様に見上げる群衆の眼。
その眼は……金でも赤でもないが……表情が一切ない。怖いくらいに。

舞台下に近づいてきた田中さんに、麻生が秋桜を手渡している。
魁人がホルスターのコルトを抜き、ポンと麻生に放って渡す。

わたしを挟み、5mほどの距離を置いた麻生と魁人。
シリンダーをカチャリと外し、パラパラと弾薬を取り出す音、そしてカチリとひとつだけ、はめ込む音。
両者、一発で決める気だ。
つまりは、手足を撃ってどうこうというのではない、問答無用でわたしを殺すという事だ。
この身(総理)を餌に、内閣府に交渉を持ちかける、そんな腹積もりかとも思ったが――

群衆の眼がうっとりとしたものに変わる。期待に満ちた……眼。
いつでも覚悟は出来てるつもりだけど、いざとなると恐ろしいね。自分という存在がこの世から消え去るのがさ。
恐ろしいし、寂しい。
ただの1人も味方が居ないんだ。
あの時はまだ朝香や田中さんがわたしの側に居たけど、今は違うからね。
……わたしなりに、結構頑張ったつもりだけどね。

これは私刑(リンチ)だ。あってはならない事だ。正当なる裁判もなく、第3者も交えず。
まず釈然としないのは……理由だ。何故わたしを始末する必要があるのかって事だ。
……制裁か?
わたしが彼等を裏切ったと……そう認識されているのか?
……そう考えればそうかも知れない。
伯爵ならば、「仲間」の事情を第一に考えるべきなのに、あんな「手枷」を強いたんだ。
あの枷は「獣」を封じるだけじゃない。暴力とは無関係な能力まで削り取ってしまう。
ヴァンプに対する風当たりも相当と聞く。
それを苦にした田中さんに、「自治区」を設けたらどうかと言われた事もある。
ヴァンパイアが自由に生きていける楽園――ユートピアの実現だ。

……それも考えたさ。
だがそれって……本末転倒じゃない?
そんなものは「共存」じゃない。自治区という名の隔離場だ。
仮に国の何処か、或いは無人の島でも誂えて、そんな場所を作ったとして、たぶん問題になってくるのは食糧問題だ。
いまはいい。
冷凍保存じゃない、生の新鮮な血液パック(出来れば採取後24時間以内)なら何とかなるって解ったからさ。
全国の赤十字血液センターと連携して、安定して供給できるシステムが出来あがってる。
日本国民も納得してる。
ヴァンパイアはこの国に貢献してる。
何て言っても夜に動けて不老不死。事故や災害時の貢献度が高いのさ。
だが枷を外した彼等を、「囲い」の中で放し飼いにしたらどうなる?
まず労働の提供が皆無となる。
そんな彼等に国民が血液を供給するだろうか?
となると再び、生きた国民が襲われる事態になる。

わたしは両者が共に生きる、その最善を尽くしたつもりだ。
だがここにいる彼らに取ってはそうじゃない。彼等の「隷属を良しとせぬ矜持」を踏みにじった事は確かなんだ。
だから――

いやいや、勝手に1人で納得してどうする。あくまでわたしの推論だ。
納得も得ず、この世からおさらばなんてまっぴらだ。
ここははっきりと彼の――田中さんの口から聞いておくべきだろう。

「田中さん。訳を……わたしを殺す理由(わけ)を教えてください」

無視されるかとも思ったが、田中さんが視線を返して来た。両腕を組み……口を開く。

「今宵は……何の日かご存知ですかな?」

「……え?」

158菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/31(土) 06:54:52
「何の日か……ですって……?」
「然様。さすれば、おのずと答えが見えましょう」

聞き返したわたしに、ニィ、と笑った田中さん。
……実にイヤらしい笑みさ。田中さんも、こんな嗜虐的な顔をするんだ。

「今日は……10月31日。臨時国会の初日。わたしに取っては……初めての所信表明を行った記念すべき――」
「ばーか。てめぇのコトは聞いてねぇよ」

シャリン! とシリンダーを回し、魁人がコルトを構える。麻生も同じモーションでそれに続く。
銃の的になるのは何度目だろう。
いい気分じゃないのは変わらすだ。向けられただけで胸の辺りがヒリヒリする。

「(答えを)外したら撃つ。それがルールです」

感情の籠らない麻生の言葉。
外す? 違う答えを言うたびに撃つと?
いいさ。撃てばいい。どうせ何を言っても最後には撃たれるんだ。
ただ初発から弾が出るかどうかは運次第。
さっきのが聞き違いじゃなければ、コルトには弾丸が1発ずつ装填されているはずだからね。
あのシリンダーの装填数は6発。つまり、出る確率は6分の1。

左右から、撃鉄(ハンマー)のコッキング音がカチリと響く。同時にシリンダーが回る音。

――撃たれる!

そう感じた瞬間、耳に届いたのは、ハンマーが打ち付けられる2発の乾いた打撃音。それだけだ。
一瞬だけ、目を閉じたかも知れない。
浅い息が漏れている。トクトクと心臓が鳴っている。
なるほどこれは……来るものがある。これこそがロシアンルーレットの醍醐味だと言うが……心臓に悪いね。
満足気に眼を細めた田中さんが、ゆっくりと口の端を吊り上げる。

「……ほう……再びお答えを聞く機会(チャンス)が……頂けましたな?」

数歩、距離を詰める魁人に麻生。
答え(理由)は知りたいが、どうせやるならとっととやって欲しいというのも正直なところ。
真剣に考えるか否か。

「さあ、答えを頂けますかな。元……伯爵どの?」
「もと……」

その呼び方は少し……ひどくない?
……確かにそうだけどさ。裏切者認識されてるこのわたしに、伯爵と呼ばれる資格なんかないって解ってるけどさ。

「わざわざ口に出してそんな風に呼ぶなんて……人が悪くありません?」

思わず零した文句に、ぐっと眉を寄せた田中さん。
再び構える2人。撃鉄の立ち上げ音と共に、引き金が引かれ――

眼を閉じる。2発目も不発。
不満を訴えても撃たれるのか。
なら適当でも答えるべきか。何かヒントは? 田中さんの顔に、何か書いてやしないか?

「旧暦で……クリスマス、とか?」

恥ずかしながら、ほぼ山勘。
今日の田中さんの羽織の柄が、ヒイラギ(クリスマスに良く飾る、棘のある葉っぱのあれ)だったからさ。
田中さんもその意図を察したのか、自身の肩の模様に眼をやって、でもやれやれと言った風に首を振り。

「……なるほど。しかし今日は……旧暦9月15日と記憶しておりますが?」

159菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/31(土) 06:57:43
チャキ! っと銃を構える音。発砲に至る再度のモーション。

――カチン!

またもや不発。
3度目だが、この感覚に慣れるという事は無く、むしろ緊張度は増している。
浅い呼吸しか出来ない。顎を伝い、ポタリと垂れる脂汗。

「かように難しく考えずとも宜しい」

……って言われても。
……ん。
朝香が……何か言ってる。……なんだろう? 
ア? タ? オ、リ……?
え? なに? ア? いや、タ? ……オ…………

「わかった! 誕生日! 彼女の……朝香の誕生日だ!」

一部の人間にはヤケクソに聞こえたかも知れない。だが確信ありだ。
読唇を習ったことがあるわけではないが、あの動き、間違いない。
そして、少なくとも自分自身のそれではない。
なら必然的に彼女の、となる。
きっと田中さんが朝香に聞いたんだ。誕生日の贈り物は何がいいかと。
朝香は答える。
このわたしの命が欲しいと。
何しろわたしは……佐伯の命を奪った(奪うよう命じた)……何より憎む仇、らしいからね。

流石の田中さんも呆気に取られた顔してる。
やはり……そうか。
いや……あの朝香の顔……え? ちがう?
……ごめん。いやその……その眼……怖すぎるからやめてくれるかな?

田中氏が顎をしゃくる。2度。
2度……引き金を引けと?
仕方ない。不正解に加え、彼女の誕生日を覚えていないという失態に対するペナルティか。

――カチン!
もう一度、カチン!

……次こそはと覚悟を決めて身を硬くするも、またもや不発。魁人と麻生、どちらもだ。
ここまでくると、読めて来た。6発目が当たり、そういう事なんだろう。
ギリギリまでわたしの反応を愉しむ気なのさ。
無論操作は簡単だ。2人は折り紙付きのハンター、「プロ」だからね。
シリンダーを回す塩梅ぐらい、心得てるって言うわけだ。

……いいさ。
このバイタル(心音や呼吸、血圧など)は官邸内に届いてる筈だからね。
異状の可能性に気付いた沢口たちが、色々手配してくれている。
ヴァンパイアの弱点も把握済み。例えあの装置が作動しなくても、このホールごと水に沈めることだって出来るんだ。

そう思い、顔を上げたその時だ。
見てしまったのさ。
ついさっきまでわたしと魁人が座っていた客席。
その後席に沢口が座っているのをね。その隣には宇南山もいる。
沢口の秘書官である日比谷麗子もね。彼女は旧姓使用者だけど、今や魁人の細君だ。
あろうことか、5歳になる息子まで連れている。腕に包帯を巻いたその子は……宗や秋桜同様眠っているのか。
しかしそうか。
そうだったんだ。
国会の会期中に、こうもすんなり事が運ぶ(フラッと出歩くとか)と思ってたけど……そうか。沢口も噛んでたのか。

160菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/10/31(土) 06:59:53
「如何されました? そろそろ降参、ですかな?」
「いいえ」

かぶりをふる。沢口の意図は解らない。ヴァンパイア達と手を組み、何を仕出かそうとしているのか。
このわたしを吊るしあげ、秘密裏に抹殺するくらいだ。良からぬ事には違いない。
撃鉄の起きる音を遠くに聞く。
頭の中のCPUは……まだ回っている。
どうせなら答えてもいいかとも思う。無論、この事態とは何の関連もないだろう。正解である可能性はこれっぽちもない。
わたしとはついぞ無縁の行事。だが街はその喧騒で溢れていた。
今朝がたにベッド脇で鳴っていたラジオでも、大半のコメントはそれだった。(国会中継の内容なんかそっちのけでね!)
一歩、足を踏み出す。自然と……背筋が伸びる。

「今日は10月31日。ハロウィンです。しかもハロウィンにして満月。実に……四十数年ぶりだそうですね?」

カッ! っと眼を見開く群衆。
フッと笑う田中さん。それに合わせるように、会場も忍ぶように笑いだす。
……いいさ。笑いなよ。馬鹿な事を云いだす首相だと。

1人、1人が立ち上がる。またぞろ……まるで大海原が波立つように。
皆が皆、あのジャックオーランタンのような笑みを浮かべている。
今頃は渋谷のあの場所も、思い思いの姿に扮した若者で賑わっているだろう。
各地の大勢も。我を忘れ、この日、この夜を大いに楽しんでいる筈だ。愉しんでくれているようで何よりだ。
ああそうさ! 大いに楽しむといい! その眼で見届けるがいいさ! 「元伯爵」の惨めったらしい最期をね!


ついにその時は来た。
今度こそは不発じゃない、正真正銘、火薬の炸裂する破裂音だ。
パッと散る血の飛沫。照明を受けやたらとキラキラ光っている。
強く眼を閉じる。
……がおかしい。撃たれた実感が無い。

自分自身の経験はないが、柏木やその他のハンターは良く言っていた。
胸部に受けても、急所を外れていれば反撃が可能だとか。
32口径の弾を腹に受けた時、殴られるような衝撃はあったが痛みはほとんど感じなかった……が、意識はすぐに無くした、とか。

2人の使用している弾は35口径(9mm)のマグナム弾。
ライフル弾ほどではないにしろ、もう少しこう……衝撃があってもいいんじゃないのか?
それともあれか? 見栄えが悪いとかそんな理由で、火薬の量を加減しているのか?

足元を見下ろす。
自分はまだこの舞台に2本の足で立っている。腕も無事。
撃たれた事は確実だ。だってこの床に散っている赤い……赤いテープ…………??

「おい」
「……え?」
「いつまでそうしてんだ? いい加減、気づけっつーの」
「え?」

魁人が向けている銃口に、ヒラヒラした何かがぶら下がっている。
短冊のような何かだ。
何か文字が書いてある。T、R、I、C、K……

振り向く。麻生の向ける銃口に似たものが。それにも……T、R、E、A、T……。

「トリック……オア……トリート……ってか?」

魁人が腹をかかえて笑い出す。

「え……は? いや……ええええええええええええ!!!!!???????」

161佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/11/02(月) 17:30:09

ハムくんの絶叫がホールいっぱいに響き渡って。
それを見た魁人がまたまた笑って。

――ああ! もう我慢できない!!

「ちょっと! いくら何でもやり過ぎよ!!」

矢も楯もたまらず彼の傍に駆け寄ったわ! 舞台の上にぴょんと飛び乗って!
とうぜんじゃない?
彼……顔色も唇もすっかり青ざめちゃて、尻もちついたまま口をパクパク。

そりゃあ……あたしも率先して協力したわよ?
普段頑張ってる彼を喜ばたい、なんて田中さんが言うから? 
真っ先に賛成したのはこのあたし。
でもなに? みんな、あんなに真に迫っちゃって。魁人なんか本気しか見えなかったわ!
ほら、桜子さんのお屋敷で、ハムくんに憑依された麗子に同じことされたでしょ?
あの時の恨みを今こそ晴らすつもりじゃないかって、実は実弾籠めたまんまなんじゃないかって、気が気じゃなかったんだから!
田中さんも田中さんよ! あんなに意地悪い引っ張り方しちゃって!

……ハムくん、見た目は平静を装ってたけど……魁人たちがトリガー引く度に心臓が跳ねてた。
血圧もガクンと下がったり、逆に上がったり。
ほんとよ! 手に取るように解るんだから! いつ倒れてもおかしくなかったんだから!

手首を取って、脈を診て。おでこで熱を確認して。仕上げにその瞳を覗き込んで。
そんなあたしの仕草を、彼は熱に浮かされた顔して……じっと見上げて。
黒い瞳の……さらに奥……
ほんと。魁人の「見立て」は間違いない。沢山居た……あの「眼」はもう……何処にも居ない。

「完璧ね」

え? って顔して顔を上げる彼。明らかに不振の色を浮かべてる。
そっか。そうよね。上手く行って喜んでるのはあたし達だけ。彼にはまだ気付いてない。

「ハムくん、良く聞いて?」

取った手は、じっとりと汗ばんで……とっても冷たくて。

「あたしの能力は知ってるでしょ? 触れるだけで、生き物の身体を治す……そんな力」
「うん。田中さんからも聞いてるよ。それこそゲノムの改変にも至る可能性のある力だと」
「でね? ハムくん前から言ってたじゃない。ヴァンパイアの弱点克服の為に、ゲノム自体を組み替えちゃえばいいって」
「……言ったね。でもそれは無理なんだろ?」
「そうね普通は無理。数十兆個はある細胞を、全部作り替えるなんて出来っこないもの。でも――」
「でも?」
「やってみたら出来ちゃったの」
「まさか」
「それが、ほんとなのよ!」
「……じゃあその人に会わせてよ」
「いるわ、そこに」
「そこ?」

ハムくんが右と左をきょろきょろ見て。

「どこ?」
「そこ。ハムくん自身」
「わたし?」
「そう」
「このわたしが?」
「そうだってば! ハムくんは人間になれたの! それこそ遺伝子レベルで!」

162佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/11/03(火) 06:43:27
ハムくんは一瞬ポカンとして、手をにぎにぎしたり、顔をペタペタしたり。

「わたしのゲノムを……弄ったってこと?」
「いじくるなんて! 大昔に組み込まれていたヴァンパイアのゲノムを……意味のない配列に置き換えただけよ?」
「さらっと言うね。それってそんなに簡単なことかい?」
「そりゃ簡単じゃないわ。うまく説明は出来ないけど……『あるべき姿』をイメージすると、『それ』が『そう』なるって言うか?」
「たしかに良く解らないけど、つまりもう『覚醒』する心配はないってこと?」
「そうよ。仮に誰かに噛まれたとしても『発症』には至らないわ!」
「いつやったんだい? もしかして麻生達の……演奏の最中に?」
「うん。あたし、クラシックを聴くと簡単にトランス状態になれるから」
「じゃあこの手首のこれも……それのせい?」

ハムくんが両手首をこっちに向ける。うっすらと……赤い痕が残ってる。

「たぶんそれ、全身の細胞が抵抗した反動ね。彼等に取っては恐るべき事態だった筈だから。あちこちチクチクしなかった?」
「……チクチクどころか、経験した事もない激痛だったよ。千枚通しで身体を突き通されたらあんな感じかもね」

足を組みかえて、胡坐の姿勢になったハムくん。ちょっと考えて、口を少し尖らせた。

「こんな手の込んだ事しなくても、『治験』するならするって最初から言ってくれれば良かったんじゃない?」
「……ごめん。言えばすぐには「うん」て言ってくれないと思ったの」
「そんな事ないよ。わたし1人の施術に『機関』の許可は要らないさ」
「……違うの。治験対象はハムくんだけじゃなく『みんなも』だったから」
「みんなって?」
「だから、ここに居る人達み〜んな」
「はあ!!!??」

ハムくんがひょいと腰を上げて立ち上がった。
トットッと駆けだして、舞台上を行ったり来たり。立ち止まっては客席をゆっくりじっくり、隅から隅まで眺めまわして。
そしやら客席のみんなは、げらげら、くすくすって。たぶんあの……キリっとして自信たっぷりなハムくんしか知らないから?
でもハムくん、「……そういう事か! 魁人まであっさり裏切るとか……おかしいと思ったんだ!」なんて叫んでる。
そして真面目な顔してあたしの方を振り向いて。

「しかし信じられない。……この規模を……ぜんぶ……君1人で?」
「ううん。麻生君と桜子さんも」
「彼等の――音の力を借りた?」
「そうよ。だんだんと……みんなの心がひとつになるように……だっけ? 麻生君?」
「えぇ。シンクロナイゼーション(同期化)です。それを意識して選曲しました。心と鼓動がひとつになるように」
「……そうよ、それそれ!」
「菅さん、脅かしてしまってすみません。どうせ今夜を選ぶなら、一発かましてやろうなんて、魁人が――」
「あ? なに自分だけいい子ぶってんだ? てめぇこそノリノリだったじゃねぇかよ」
「……菅さんもそういうの、好きかと思って……でもちょっと……あれはやりすぎたかなぁって」
「いいんだよ。何なら手足に一発ぶちこんでやっても良かったぜぇ俺は」
「そんな口きいて……今日は(国会の)初日だから体力持つか〜とか、明日の質疑大丈夫か〜なんて一番心配してたの魁人じゃない!」
「こいつじゃねぇ、てめぇの心配だっつーの! 苦労すんのは秘書の俺だからよ! よりによって満月に初日かって――」
「……満月? ……あ! そうか!」
「そういうこと! あたしやみんなの――ヴァンパイアの力が最大になるのは満月の夜だから!」
「ハロウィンも、ですよね?」
「そう! 地球のみんなの……高揚感? それがこう……手伝ってくれて、もう……ブワッって。こう……ブワッて。わかる?」
「わかんねぇよ」
「とにかく凄かったの! ときどき田中さんが手をギュッとしてくれなかったら、制御不能になってたかも!」
「……うおぃおぃ。俺ぁもともと半信半疑だったからよ? 手首のあれが吹っ飛んだ時ぁ、マジで青くなったんだからな!」
「結果的にはオーライだったじゃない!」

「そうですとも。これを僥倖と言わずなんと言いましょう?」

優しく笑いながら立ち上がったのは、今まで腕組んで眺めてた田中さん。
ゆっくりと会場を見回しながら手で差して。

「総理。今の言葉で『サプライズ』というらしいですな。日頃の貴方への感謝の意を伝えたかった」

163如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2020/11/03(火) 06:48:39
大先生が、うえ見上げたまま、眼ぇ閉じてやがる。
「感謝」、ねぇ……
まあ……そういうこった。

俺が計画を持ち掛けられたのはつい今朝方だ。
沢口の野郎が、あだ暗ぇうちに官邸の俺の部屋(詰所)に来やがってよ?
「菅総理に、ひと泡吹かせてみないか?」なんて言うんだぜ。
「あの時の恨みが少なからず残ってるだろ?」ってさ。
だから言ってやったぜ。「忘れた」ってな。
奴ぁ奴なりに最善を尽くした。たまたまその相手が俺だっただけだってな。

……らしくねぇが、ほんとのこった。
毎日こうしてべったり張り付いて……見せつけられたからよ。
じっさい総理ってのは大変な仕事なんだな。
新聞雑誌ぜんぶ読むのはとうぜん、閣議に議会、挨拶の出張、災害がありゃあ飛んでいく、なんて公務をこなす傍らで……
馬鹿丁寧に地元や地方の陳情って奴を聞くわけよ。アメリカや中国の要人から電話がくる、その合間にもよ?
ほんと、いつ寝てんだか。不平も言わねぇ。デカい事と小せぇ事を区別しねぇ。
妖しい勧誘はきっぱり断る、大臣どものお誘いすらノーサンキューだ。
少しでもヒマがありゃあ……家帰って家族サービスってな。
清廉潔白が過ぎるきらいもあるにはあるが、俺ぁこんな奴とやり合ってたのかと思うと、な〜んかどうでも良くなっちまってな。

したら沢口の奴、それならそれでいいって言うんだ。
とどのつまり、サプライズがしてぇって事なのよ。
どんなサプライズだ? って聞けば、ヴァンプ達を集めて人間にしちまう計画だって言うから驚くじゃねぇか。

「……はあ。田中が首謀か。決行はいつだ?」
「急で悪いが、今夜さ」
「マジで急だな。場所は?」
「麻生結弦のリサイタルの会場だよ。チケット、届いてるだろ?」
「あ! あれかぁ?! 菅がやたら愉しみにしてたぜ!」
「君は総理を確実に会場に連れて来るんだ。途中で邪魔が入らないとも限らない」
「……それはいいが……菅の奴、頼まれごとに弱ぇからな。急用がっつってどっか行っちまうかもしんねぇぞ?」
「心配ない。午前も午後も閣議に本会議、取次を受ける暇などない。昼の休憩も……他との接触がないよう引き付けておくよ」
「じゃあそこは予約しとくが…………ほんとのほんとに大丈夫なのかよ」
「……なにがだ?」
「あの女医、ちゃんと仕事できんだろな? しくじってヴァンプに囲まれんのは御免だぜ?」
「そうならないよう、今日という日にわざわざ決めたそうだ」
「ハロウィンに……満月……ねぇ」
「その事はあちらに任せて、自分の仕事に専念するんだ。成功するか否かは君の腕にかかっている」
「腕ぇ? 演技のかぁ?」

直前まで気が進まなかったってのが本音だ。沢口はああ言ってるが、術式とやらが成功する確率は100%じゃねぇからな。
だから菅の眼ん玉の奥確認した時ぁ……心底ホッとしたんだぜ。
これで司令も浮かばれるってな。
もちろん、菅に取っても悪くねぇ。
……相当悩んでたからな。
今の防衛大臣、実は結構なタカ派でよ?
ヴァンプを兵隊として活用したらどうか、なんて言いだしやがってよ?
いざとなりゃ激戦区に送り込める特殊部隊ってな。遠隔で操作できる腕輪やら、銀のチップやらを心臓に埋め込むってな。
むろん菅は反対するわな。人権侵害も甚だしいだろ。
したら奴め、ネットの掲示板やらSNSやら駆使して強引に「国民の総意」なんてもん取り付けて来やがった。
同意する国民も国民だが……まあヴァンプを毛嫌いするのは当然っちゃあ当然だが……
とにかくあの菅が「参ったな」なんて零してよ? 憲法何条だかを掲げても、いまいちインパクトが弱ぇとか?
いまいち対策も十分じゃねぇ状態で、明日の本戦(本会議)、奴と真っ向勝負する予定だったのよ。
……そのヴァンプが、綺麗さっぱり居なくなっちまった。
――へへっ! ざまぁ! 無い袖は振れねぇってな!!

終わりよければすべて良しってな。
ちょい手荒だったかも知んねぇが、楽しませてもらったぜ。
やり過ぎなんて思わねぇ。てめぇはそんな……小せぇ人間じゃねぇ。この程度でファビョるわけがねぇからな。

164菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/11/08(日) 08:14:15
「総理。今の言葉で『サプライズ』というらしいですな。日頃の貴方への感謝の意を伝えたかった」

そんな事を呟いた田中さんの声がしゃがれている。
何か……込み上げる何かを堪えている、そんな声だ。

「感謝など……なぜわたしに?」
「皆、貴方を認めております。共存を前提とした政策、その為に身を粉にして来られた貴方の努力、そして誠意を」
「……買い被りです。わたし自身ヴァンパイアだったからね。法整備云々はそのための手段に過ぎない」

ふ、とため息をつく田中さん。
草履が擦れる音と、絹布が擦れる音。足を踏みかえ客席に向き直った姿が目に映る。

「いいえ。貴方は表向き人間となった後も、意見を曲げなかった。貴方はこの5年間、常に『伯爵』であった」
「伯爵? さっきわたしの事を、『もと伯爵』って――?」
「今の貴方は完全なる『ヒト』ですからな。私も含め、『もと伯爵』でありましょう?」

再びこちらに向き直った彼が、こちらに手を差し出して来た。
その手首にも赤い輪の徴がうっすらと残っている。

「みな心の底から、貴方様を敬い慕っとる。ただの1人も欠けず、己の意思で駆け付けたのがその証拠ですわ」
「え? 田中さんが命じたわけじゃ――」
「一言、案内文(ぶみ)を送ったのみにて。『完全なるヒトとなり、伯爵様をあっと言わしたい者これへ』と」

いつの間にか関西のイントネーションになっている田中さん。
両の手でわたしの手をがしりと掴んでさ、その力の強いことと言ったらないのさ。

「痛たた……それって……悪戯心が背中を押しただけでは?」
「それもあるやも知れませんな」
「もって、他にもあるんですか?」
「大いにありますやろ。元々の『お達し』や」
「え? わたしが何か?」
「仰いました。ヴァンパイアゲノムを解析し、ヒトのそれへと組み替えるが悲願と」

トン、と胸を突かれた気がした。
そうだ。わたしはずっと……伯爵になってから……そのワードと最終的な目的として掲げて来た。
ゲノム治療なんてあまりに先が見えないから、実を言えば言った本人がさほど期待してなかったんだ。
それを――
そう言えば、朝香を紹介してくれたのも――

「如何です?」
「……え?」
「今宵の趣向。演奏も含め……楽しめましたかな?」
「えぇ。とても。三日三晩、生死の境を彷徨ったくらいに」

満足気に眼を細める田中さん。
そして今更ながら、その変わりようにハっとしたのさ。
白く染まった髪に、目尻や口端に刻まれた深い皺。
彼はすっかり歳を取ってしまっていた。おそらくは人であった時の、その時の年齢に。
ならば残された時間は、あと少し。ほんの……僅かなのでは?

そんなわたしの思いを察したのか。田中さんがくしゃっと顔を綻ばせた。

「御案じ召されますな」
「でも貴方は――」
「十分生き申した。70に届くだけでも天寿であろうものを……かようにも醜く、永く、生きさらばえ申した」

わたしに取って「岳父」とも呼ぶべき男の手。
その大きく、厚ぼったい手がそっとこの手を離れ、羽織越しにその腹を撫でたから、わたしには解ってしまったのさ。

「その羽織の色、利休茶、ではありませんでしたか? その袴も確か――」

165菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/11/08(日) 08:18:24
田中さんの瞼がピクリと持ち上がる。
流石にこの質問は唐突だっただろうからね。
けど70という年齢と、その仕草。かねてからの推測を裏付けるに十分すぎる。
およそ500年前、寿命は50とも言われていた安土桃山のあの時代に、「かの人」は70まで生きたとされている。
秀吉の怒りを買い、武士でも無いのに「切腹」を命ぜられ、周囲の嘆願むなしく命を落とした茶道の筆頭、「千利休」。
実名を千与四郎(せんのよしろう)。その元の姓を……田中。

ずっと、もしかしたらと思ってた。
彼の庵の設え、名前、背格好、すべてがあまりにそうだったしね。
でもまさかってね。聞くのも何だか怖くてね。
利休茶。やや緑を帯びる――その抹茶を思わせる明るい色合いは、千利休が好む色だったとか。

田中さんはしばらくわたしの顔を見て、そして豪胆に笑ってね。溢れた涙を袂で拭いながら言ったのさ。

「……袴の方は利休鼠(ねず)、ですな。如何なる色かと江戸に出かけ、手に取ればこれがなかなか。以降、愛用しております」

どんな事情で田中さんが人ではなくなったのか。
最期を見届けた武将の1人がそうだったのか。それとも最初から人ではない――真祖であったのか。

時間が許せば聞いてみようか。
信長や秀吉が、どんな人間であったか興味があるしね。

もちろん……深い詮索はしないさ。
天下人達が何をしてどうやって人を動かしたのか知りたいだけさ。
後学の為だよ。

166佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/11/08(日) 08:20:31


これって……ハッピーエンドよね?
何が面白いのか解らないけど、田中さん、涙が出るくらい笑ってたし、ハムくんも嬉しそう。

……で。お話も終わったみたいだし、そろそろ……
って麻生君を見れば、眼を真ん丸にして明後日の方を見てるじゃない。
つられてその方を見て……あたしまで眼を奪われちゃった。

再後席の、あの一番高いところに、桜子さんと柏木さんが立ってたの。いつもの白いドレスと、黒のスーツを着て。
うっすらと後ろの扉が透けて見えてて。二人とも笑ってて。
振り返ればまだスヤスヤ眠ってる宗に秋桜ちゃん。
で、もう一度そっちを見れば……もうその姿は何処にも無くて。

眼がキュッと熱くなって……でも堪えたわ。まだ仕上げが残ってるもの。

『麻生君! ほら!』

合図に気付いた麻生君が、噛みしめてた唇をフッと緩めて、そして――両腕を斜め上に持ち上げて――

始まったわ! 大合唱の続き!
凄い音量! ホールの壁がビリビリしてる!
もう我慢なんかしなくていいわね?! 泣いちゃってもいいわね!!?
ガシッと宗が腰に抱き付いてきて。
あはっ! 流石に起きたみたい!
そしたらハムくんがこっちに手を伸ばして、宗を軽々と持ち上げて。
魁人も、子供さん(陸翔くんって言ったかしら?)を肩車とかしてて。
見れば麻生も、娘ちゃんを腕に座らせてる。

そんなあたし達を、歌い手たちにあっと言う間に囲んで。手を繋がれたりして。
あはっ! もう一緒に歌うしかないじゃない!

ほんと凄い!
天を劈(つんざ)くってこのことよね! そして最後の……ほんとに最後のクライマックス! 



余韻が唸る大ホール。
ハムくんが、差し出された花束を受け取って。囲まれた人達に握手とか写真とかせがまれちゃって。
可愛い〜! ハムくんったら、すっごく照れてるの!
たぶん、初めての経験なのよね!
でもやっぱりハムくんはハムくんだった。すぐに我に返った顔して叫んだの。

「沢口はいる!!?」
「ここです! すぐ後ろに!」
「記者会見の準備だ! いますぐ現状を国民達に伝えるんだ! 急げ! 閣僚たちを招集しろ!!」
「それについて、たった今、二木元総理から連絡が入りました!」
「え!? 二木さんが、なんだって!!?」
「会見内容についての閣議書はすでに回し終えたと! あとは総理の花押(閣僚の署名)を頂くだけだと!」
「ず……随分手回しがいいね! もしかして報道陣への手配も済んでる!?」
「すでに官邸に集まっています! 明日の朝刊の差し替えに間に合うかと!」

群衆を押し分けながら、舞台袖に向かうハムくんたち。

「待ってハムくん! ひとつだけ、言っておきたいことが!!」

でも駄目! ぜんぜん聞こえてない!
ほんと……ハムくんたちのお仕事って……息つく暇も、ないのよねぇ……。

167佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/11/08(日) 08:25:00
『本日を持ちまして、ラミア発症者――いわゆるヴァンパイアと呼ばれた存在が、日本において撲滅した事を宣言いたします!』

画面に大写しになったハムくんの顔に、パシャパシャっと焚かれるフラッシュが当たってる。
あたしは……リモコンのスイッチを押した。
プツン、とブラックアウトするモニター画面。

「もう……ハムくんったら。ほんと早とちりなんだから」
「宜しいのではありませんか? 『一応の区切り』と、そう考えればいいのです」
「柏木さんったら、随分と丸くなったんじゃない?」

あたしは腕を組んで、椅子の背中に寄り掛かった。ギシッ、と軋む背板のスプリング。
出入口の扉の傍に立ってるのは、黒スーツの柏木さん……の幽霊。
……驚かないわよ。
死んだと思ったら生き返ったり。消えたと思えば当然のように出て来たり。柏木さんったら、いつもそうだもの。

「大勢に影響はないでしょう。なにしろ貴方には通常のヴァンパイアが持つ悪しき特徴が何一つない」
「血を吸わなきゃいい、迷惑かけないからいいって話じゃないわ。情報が正確じゃないって事が問題なのよ」
「まあ……そうですけどね」
「そうよ! あたしはまだヒトじゃない! ヴァンパイアのままなんだから!」

そういう訳! あたし自身は治ってなんかいないの!
あたしは医者であって患者じゃないもの。自分で自分は治せないもの。

「ですが貴方の力はまだ必要です。この世のすべての人間から……ヴァンパイアゲノムが消え去らない限り」
「わかるわ。真祖はいつどこで出現するか解らない。そういうことよね?」

柏木さんが何も言わずに頷いて。でもあたしは複雑。
そりゃあ……もともとのあたしの願いは叶ったわよ? ずっとこの仕事を続けていたい。それがあたしの望みだもの。
でもあたし……宗やハムくんとお別れしたくない。
宗やその子供たちや孫たちが、歳をとって死んでしまっても……あたしだけが若いまま。それって凄く――

「あたし……この先ずっと……先に逝ってしまうしまう人達を送らなきゃならないの?」

柏木さんが哀しそうな眼であたしを見て。
あたし、また「あの言葉」を言われるのかと思って胸のあたりがキュッとして。
でも柏木さんは言わなかった。「ヴァンパイアの道は永遠の闇」だと。

「いつか貴方も見つける筈です。田中さんが貴方を……見つけたように」
「そうかしら」
「そうです。田中さんも言っていました。ヴァンパイアは決して滅びない。滅びないわけがあると」

すっかり葉が枯れ落ちて、オレンジ色の柿もぜ〜んぶ?がれちゃって。
でもそのてっぺんに、しがみついてる柿の実がひとつだけ。
来年も沢山実がなりますように。無事にすべて済みますようにって。
あたし……そんな御役目を果たせるかしら。
たった一人で。田中さんみたいに。

「貴方らしくもない。差し当たってやるべき事がおありでしょう?」
「え?」

コンコン、とノックの音。
ドアの摺りガラス越しに映る黒い人影。あたしを呼ぶ苦しそうな声。
そうよね、ここは診療所で、あたしは診療医だもの。やるべき事は……決まってる!

カチャリとドアを開ける。廊下には点々と散る赤い血痕。

「またあなたなの? 無茶しないでってあれほど――」


ヴァンパイアを殲滅せよ――FIN――

168佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/11/08(日) 08:35:39
あらら、柿の実をもぐの「も」が文字化けしちゃったわね!
最後の最後まで詰めが甘いんだから!

169 ◆GM.MgBPyvE:2020/11/08(日) 08:47:57
ようやくの終了です。

水流先輩には心からの感謝を!
始まりのきっかけを与えて下さり、しかも桜子という素敵なキャラまで頂いて……
近いうち、自分の書いた分をそれらしくまとめ、しかるべき場所へ投稿しようかと目論んでおりますが……あくまで目論みですが……


いままで読んでくださったり、応援くださった方々には心よりお礼申し上げます。
ありがとうございました!

170名無しさん:2020/11/16(月) 10:28:23
おつかれさま
読んでたよ

171名無しさん:2020/11/17(火) 01:03:31
お疲れ様
無事完結おめでとう

172 ◆cGQ3.aXF/Q:2021/05/29(土) 23:09:13
ようやく「しかるべき場」への投稿が完了しましたのでご報告いたします
(18禁要素を出来るだけ削除しております)

https://ncode.syosetu.com/n3265gw/


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