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感想など何でも掲示板

1nishiyan:2022/03/24(木) 11:50:50
地震のお見舞い
https://note.com/iwanaminote/n/n7a78210a96cd



2佐藤公則:2022/03/27(日) 09:02:17
Re: 地震のお見舞い
 地震についてのお見舞い、ありがとうございます。
 家の中の小物類で少し棚から落下したものなどありましたが、被害と言うほどの被害はありませんでした。なんとか持ちこたえてるなあ、そんな感じです。
 ただ余震、あるいは他の小さな地震は何度もあって、そのたびにヒヤリと肝を冷やす連続です。一瞬ですが、たぶんトラウマになっているんでしょうね。
 またあの大きな地震が来たらどうする。来たら来た時のこと。そう割り切っています。そんなこと管理とか予防とか意味ないとぼくなんかは思っています。人間以外の生き物はすんなり受け入れて生きているように見えます。パニックになるのが普通だと思います。

 それから二つの文章の紹介も、ありがとうございます。さっそく読んでみました。面白かったし、また歴史的な背景などについては全くの無知なので、参考にもなりました。

 この歳になってまたこんな世界を見るとは思いもしませんでした。今後の展開は全く読めませんが、しかし、まあ、おたがいに健康に留意しながらしっかり生活していく、そういう中で考えていけるだけは考えていきましょうと言うことになるかと思います。では、お体を大切にお過ごしください。これで失礼します。



3nishiyan:2022/04/04(月) 20:53:06
土詩(つちし)  #7
https://img.shitaraba.net/migrate1/6900.regist/0000299M.jpg

土詩 #7

人とこの大地があるかぎり
潜在しても
土は無数のネットワークに在り続ける


※ここのところ、地震続きでちょっと気になります。
花はいつものように咲いていますが、あれやこれやで、落ち着いた春ではないですね。
そろそろ畑仕事が忙しくなりそうです。



4佐藤公則:2022/04/09(土) 14:59:43
Re: 土詩(つちし)  #7
 投稿ありがとうございます。

 今日は久々に20度越えの暖かな陽気。こちら宮城でも桜の開花の声がちらほら。ついでにコロナや戦争の終結の声も届いてくれるとよいのですが。
 地震も列島のあちこちで起こってますね。神戸淡路の大震災まであまり気にかけていなかった気がしますが、以降、大地震が頻発して気にかかるようになってきました。島国日本の宿命でしょうか。考えることもいっそう混沌としてきて、何はともあれふだんの生活をよりいっそう大事に、一瞬一瞬を超えていきたいと感じています。

 わたしは今、放課後デイサービスで臨時の職員をしていて、ふだんから子どもたちの黄色い声を聞いています。そしていつも思い出すのは、梁塵秘抄の一節です。

  遊びをせんとや生まれけん
  戯(たはぶ)れせんとや生まれけん
  遊ぶ子どもの声聞けば
  我が身さえこそゆるがるれ

 まあ、この歳になっても揺らぎまくっています、と言うことです。



5nishiyan:2022/05/21(土) 09:51:51
土詩 #8
https://img.shitaraba.net/migrate1/6900.regist/0000301M.jpg

土詩(つちし)  #8

作物や植物が土から離脱しても
ほら向こうの山々やそこの隙間に
みどり根付いてると思うよ



※佐藤さんへ

こちらは、まだ肌寒い日々が続いています。
今年のスイカの植え付けは済ませましたが、
初めの頃は水やりなどで忙しくなりそうです。




6佐藤公則:2022/05/06(金) 09:32:46
Re: 土詩 #8
 「土詩 #8」の投稿ありがとうございます。

 昔吉本さんが四季派の詩人たちを批判する中で、最終的なところでは自然回帰、あるいは自然に逃げてしまうと言うような疑義を述べていました。これは安易な逃げ方だというニュアンスがあり、単純なわたしはそれはだめなんだと思い、遠ざかったという記憶があります。もっと違う言い方をすると、その時、「逃げるな」という吉本さんの声をわたしは聞いたと言うことだったと思います。
 最近、YouTubeで養老孟司さんの発言を聞いている中で、このごろの若者たちは人間関係に重く縛られていて、「自然」というもの、あるいは自然との関係がものすごく希薄だと言っていてとても印象的でした。つまり、それだと逃げ場がないよ、と言いたかったのだと思うのです。
 わたしは「逃げない」と言うことも大事にしたいし、同時に、どこにどんな風に逃げればよいかも考えておくことが必要で、「逃げる」ことも大事だなと考えてきました。
 人社会に疲れたら周縁の自然にちょっと後退して、そこから人社会を客観視してみる、そういう行き来が誰にでもあればいいよねと思います。

 nishiyanさんの畑仕事は、そうした意味からも貴重で羨ましく思えたりします。安藤昌益は万人に田畑を分配すべきと語っていましたが、自分たちの食い扶持はそれしかないとなれば、怠惰なわたしも必死にやるだろうなという気がします。

 ちょっととりとめもないことを書き流してしまいました。ゴールデンウィークの最中、遊び疲れで頭がぼーっとしているのでしょう。すみません、今日はこんなところで失礼します。
 よい作物の収穫となりますように。




7nishiyan:2022/06/11(土) 02:19:49
土詩 #9
https://img.shitaraba.net/migrate1/6900.regist/0000303M.jpg

土詩 #9


遙か未来にんげんが
方舟に乗って地球を離脱するとき
土との別れが完了する

遙かな昔、水から上陸して
土になじんだように
今度は宇宙空間の何になじむのだろうか


※佐藤さんへ
露地栽培は、天候次第(あとそれに伴う気温や害虫の発生状況など)で、作物の出来が決まるところがありますから、昔の人は雨はとても切実だったろうと感じられます。晴天続きも雨続きも困りものです。苗がまだ幼いときは水やりなどよく世話をしないといけません。というわけで、畑に忙しい毎日です。





8佐藤 公則:2022/06/20(月) 09:20:24
Re: 土詩 #9
 「土詩 #9」の投稿ありがとうございます。

 表現されている内容についてはわたしも何度も脳裏に浮かべ、また反芻してきたことだなあと共感します。ただ最近は未来については予測ができないのであまり考えないし、どこかで思考停止させてしまいます。近未来ということだと現在と同じで、とにかく地球環境をロケットの機内やウエアー内に持ち込んで、それで当分やっていくことになるんだと思いますが。ただ先の脊椎動物の上陸に関しては、気の遠くなるほどの命の犠牲の上に成り立ったものだろうと思われますので、そう思うと本格的な宇宙進出というものは絶体絶命のピンチがない限りあり得ないかなという気もします。そこまではとりあえずのお遊びで、やはり地球環境を身にまとっての遊覧飛行にとどまるんだろうな、と。可能性はなくはないけど、宇宙人になりきるのは遥か先のことではないでしょうか。分からないですね。

 仙台近郊ということになりますが、このあたりでも最近は畑を借りて野菜作りをする、たぶん定年退職後の人たちが増えています。送迎車を走らせている間のちょっと見だけですが、たぶん指導してくれる人がいて、葉物、緑黄野菜が見事なできばえです。いつも車が4,5台止まっていますから、畑を何区画かにわけて貸し出しているものでしょう。寄り合って、互いに意見交換したり、教えてくれる人の話を聞いたりしながら進めてでもいるのだろうと思います。また互いに褒め合ったりしながらということもありましょう。それはそれでよい年の送りかたかなと感じます。ちょっと羨ましくもあります。
 nishiyanさんも手間暇かけて世話することはたいへんでしょうが、その分よい収穫期を迎えての喜びも大きいのでしょう。そんな収穫ができますように、遠い地からですが祈っております。では、今日はこの辺で失礼します。

 



9nishiyan:2022/07/06(水) 13:45:50
土詩 #10
https://img.shitaraba.net/migrate1/6900.regist/0000305M.jpg

土詩 #10

稀薄な大気の遠出をしても
必ず帰ってくる
このしっとりみどり匂う手すり



※佐藤さんへ
前回のことにコメントしますと、普通の人間的な時間スケールを超えた超未来について考えることは、空想的にならざるを得ませんし、通常の生活時間からはほとんど無意味ですが、人の思考はそこまで行ってしまうことがありますね。これは逆行させれば、人が人以前であった陸棲や水棲の時期の像を尋ねることと対応しているように思われます。




10佐藤 公則:2022/07/07(木) 08:55:12
Re: 土詩 #10
 「土詩 #10」の投稿、ありがとうございます。

 コメントの方へのコメントということで言えば、仰っていることの意味はよく分かります。そしてその通りだろうなと思います。ただ命を落としかねない上陸の動機、きっかけってどういうものだったのか。実際に想像を超える犠牲を伴いながらのそれだったのでしょうから、もう上陸するしかないという衝迫はどこにあったのかと考えてしまいます。そして現在の人間世界および地球環境において、その兆候はどこに想定できるんだろうか。それがぼくにはまだちょっとよく分からないというところなんです。

 「土詩」では、どこまでも遠出することが出来る意識と、身体感覚が捉える近場との対比が謳われていると読みました。また、詩の中では意識の働きと感覚の働きとは同じ比重で同等であるよという作者の声も聞こえるように感じました。これも、その通りなのだろうと思いますし、このことはよくよくわきまえておくべきであると教えられているようにも思います。

 さて、ブログの方ではスイカの写真も載せられていましたね。今年は出来がよかったとか。何よりです。
 このあたりでは山形県の尾花沢のスイカがブランドで、昔はよく車で売りに来ていました。あの頃は大きなものでも結構安かったように記憶しています。買ったスイカは井戸につるして冷やしてから食べてました。今はちょっと大きなものでもスーパーなどでは結構な値段がついています。

 ぼくの住まいは小規模な団地の中にありますが、団地だと夏の風物詩は壊滅してしまいましたね。ちょっと寂しくはあります。

 今日はこれで失礼します。nishiyanさんの活動からいつも刺激をもらってます。今後ともよろしくお願いします。




11teacup.運営:2017/02/09(木) 21:56:42
掲示板が完成しました
https://img.shitaraba.net/migrate1/6900.regist/AE5A2.gif



12佐藤公則(管理者):2017/02/10(金) 00:32:31
掲示板復帰しました
しばらく前から掲示板が使用できなくなっていました。このホームページを立ち上げた最初こそ、わずかですが利用してもらっていたのですが、ここ数年ほとんど利用者が無く、どうせ使われないからとそのままにしていました。最近、知り合いの人から使えない旨を指摘され、再度無料のレンタル掲示板を新たに設置しました。どうぞ気軽に投稿していただければと思います。活用してもらえるかとか、以前に変ないたずら、嫌がらせみたいな事があったりとか不安なところもありますが、よろしくお願いします。



13nishiyan:2017/02/15(水) 15:02:23
お元気ですか
 カゼをひかれたようですが、もう治りましたか。

ところで、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節(「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」というように「ヒドリ」と書いてある)を巡って「ヒドリ(日取り)」か「ヒデリ(日照り)」か、あるいはまた「ヒトリ」かという論争があるのを初めて知りました。

 わたしなら、「ヒドリ」が「ヒデリ(日照り)」ではないとしても、何らかのよくないことを指示している位で済ませます。つまり、「ヒドリ」が「ヒデリ」か「ヒドリ」か、あるいはまた「ヒトリ」かということの検討・考察を無意味とは思いませんが、深入りする気はありません。

 「雨ニモマケズ」のWikipediaに、「ヒデリ」か「ヒドリ」かという項目が設けられてまとめが載っています。 (諫早より)



14佐藤公則(管理者):2017/02/15(水) 22:43:36
Re: お元気ですか
>  カゼをひかれたようですが、もう治りましたか。

ご心配いただきありがとうございます。まだ咳がちょっと酷いときがありますが、一応のピークは過ぎたように思います。

> ところで、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節(「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」というように「ヒドリ」と書いてある)を巡って「ヒドリ(日取り)」か「ヒデリ(日照り)」か、あるいはまた「ヒトリ」かという論争があるのを初めて知りました。
>
>  わたしなら、「ヒドリ」が「ヒデリ(日照り)」ではないとしても、何らかのよくないことを指示している位で済ませます。つまり、「ヒドリ」が「ヒデリ」か「ヒドリ」か、あるいはまた「ヒトリ」かということの検討・考察を無意味とは思いませんが、深入りする気はありません。
>

 ご指摘の点はぼくも同様です。子どものころから「ヒデリ(日照り)」一辺倒で暗唱していましたから、それ以外では考えられないですね。今ですと、仮に「ヒドリ」を定説とすることになったとして、「雨ニモマケズ」一篇の受容の仕方にあまり影響を受けないような気がします。と言うか、ある意味では全く別の詩になってしまいますし、新たにその詩に向き合うというそのこと自体に真剣にはなり得ない気がします。

 早速の掲示板のご利用ありがとうございます。この返事がどういう具合に表示されるかを含め、ちょっと慣れないところでやっておりますので不手際があったらごめん下さい。今日はこんなところで。



15nishiyan:2017/02/17(金) 13:59:44
先日の件
先日の宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節、「ヒデリ」か「ヒドリ」か問題に触れた文章を書いてUPしました。「日々いろいろ―表現の渦中の言葉の揺らぎ」です。



16佐藤公則(管理者):2017/02/18(土) 10:46:32
Re: 先日の件
http://blog.goo.ne.jp/okdream01/d/20170217



17nishiyan:2017/02/18(土) 16:33:20
詩について
佐藤さんの「詩というのは、自分の方言行為だと考えると何かやりやすい気がしてきます」という言葉、あ、いいねと思いました。それに関連させれば、言葉は、絶えず遙かな、と同時に、この今に、肌触りにも似た言葉の〈真〉を浮上させたいのではないかという気がします。それはたぶん個人的でひそかな私的なモチーフだと思います。もちろん、他方にはこの現実の深部をひとつの批評性を装備して貫こうということもありますが。詩は手で書くみたいなことをたぶん吉本さんは言っていると思います。ひとりの全存在の触手としての手なんでしょうね。わたしの短歌味体、最近は書くことがなくても書くみたいになっています。焦りはありません。



18佐藤公則(管理者):2017/02/19(日) 01:37:30
Re: 詩について
 掲示板の文章と、ブログの方の「言葉」についての考察とをいっしょに読んでいたら、なにか難しくなってしまって、即座に反応しきれませんでした。ブログに引用された吉本さんの発言、それに対するnishiyanさんの解説、大筋では理解できます。ただ自分のなかで実感的に処理しきれないところがあります。

 ちょっと初歩的なところで伺いたいのですが、ブログに引用された吉本さんの「表現された言葉」と言う場合の「表現」についてですが、ここでは「口から発した」というくらいの意味あいで言っている「表現」ということでしょうか。それとも「文学表現」という場合の「表現」でしょうか。あるいは、両者を混合した、「表現」全体を含んだものとして述べられていると理解すべきところでしょうか。ぼくには、ここの発言は「文学表現」等の次元を含まない「表現」のような気がするのです。差し支えなければ、そのへんのところからちょっと教えていただけたらなと思っています。






19nishiyan:2017/02/19(日) 13:39:12
RE言葉について
 結論から言えば、吉本さんの「表現された言葉」と言う場合の「表現」は、言葉の関わるあらゆる人間的な表現を指しているとわたしは理解しています。そして、そのことは太古の言葉の初源も現在の言葉も同一の構造であると考えられていると思います。

 言葉というとき、わたしたちは一般的には無意識にも現在的な言葉の有り様から反応・判断します。このことは言葉ということに限らずどんな対象についても同様だと思います。

言葉の匂いを持つ叫びなどの表出・表現→次第に整序されていく話し言葉→文字の成立による書き言葉の発生、話し言葉と書き言葉という二重化。

 わたしたちは、その言葉の段階的な推移で今のところ見通せるの段階の最後の段階から一般には言葉というものを捉えていますが、発生期の構造は形を変えていても現在でも反復されていると思います。つまり、心の波立ち→(叫び含めた)言葉への表現→反作用としての自己に返ってくる波立ち、という構造は遙か太古より反復されてきた同一性だと思います。

 言葉の発生期から言葉を踏み固めてきて文字の成立を経てきた現在では、文学的な表現と(生活世界の)話し言葉との表現とは違いはあると思います。両者とも吉本さんの捉える言葉の表現の基本構造としては同一でも、文学的な表現は主に書き言葉として降り積もった文学表現の歴史的な現在を、話し言葉の表現は降り積もった生活世界の表現の歴史的な現在を、それぞれ媒介(呼び寄せ、参照、批評)しているという違いはあると思います。

 ちょっと考え込んで書いてみました。天気が良すぎるので、そらまめの草取りにでもでようかなと思っています。



20佐藤公則(管理者):2017/02/19(日) 21:51:59
Re: RE言葉について
 考え込ませたようでスミマセンでした。おかげでブログの方の文章の意がすっきりしまして開けた感じがしました。ありがとうございました。

 nishiyanさんの地方はこちらに比べて気温が高く、今の時期で、植えたそら豆の草取りをしなければならないんですね。このあたりではあまりそら豆を栽培する話も聞きませんが、時期的には2月3月が種植えのようです。畑にも川土手にも、雑草といっても枯れた色合いが残るまでのもので、大地が緑かかってくるのはもう少し先のことです。天気が晴れていても気温は2度3度、日中も風はまだ冷たい日が多いです。時折10度を超える日があり、落差の大きさに体も戸惑います。
 上手に育てて、好みに調理して食すというのは何よりでしょうね。よい出来映えに育つようにお祈りします。



21nishiyan:2017/02/20(月) 11:03:17
ああそうだった
ああ、そうだった。文学の表現で、都に住んでいないのに都風(文化中央の規範)の雨の降り方の描写を規範として模倣しても、本当はこの列島のその地その地の微妙な雨の降り方の違いがあると柳田国男は書き留めていました。また、同じ行事を行う春でも寒暖や風景が違うとも言っていましたね。空間的にも時間的にも(他人や他の地域や過去に対して)わたしに限らず人はどうしても自己本位の視線になってしまいますね。つい、そのことを失念していました。もらった種を蒔いて2年目の菜の花が今満開です。この菜の花は食べられるということで、もう何度も収穫しました。ソラマメは、こちらでは11月から12月にかけて種を蒔き、5月から6月ごろの収穫になります。



22佐藤公則(管理者):2017/02/20(月) 15:35:10
Re: ああそうだった
 一つ質問させてください。これまでだれにも尋ねたことはないのですが、農産物の生産者、作物を栽培し、収穫する人たちにとって、収穫するまでがメインでしょうか、それとも収穫以後に自分で実際に食するというところがメインでしょうか。
 動機的には、あれをあんなふうに調理したらうまかろうなどの発想から、この種をまこうというのが純なところかと思います。さらに、こんなふうに育てたらもっとうまくなる、と進んでいくのかと。ぼくは食す方の専門なのでこんなふうに思いますが、農業の専門家に限らず、趣味で栽培に向かう人たちも初発の動機はどうなんでしょう。nishiyanさんはどうでしょう。
 しょうもない質問なので、本当にヒマでどうしようもないというようなときがあればそういうときにお答えいただければ結構ですのでお願いします。



23nishiyan:2017/02/21(火) 14:37:06
お尋ねの件
 大まかには二つに分かれると思います。仕事として農業をやっている人は、育てるものは先々商品となるものだから、例えば野菜の見た目(よくきれいに育てられてるなと、スーパーで大ネギのすばらしさには感心します)など意識するはずです。そのための施肥や消毒や支えなどの手当をされるでしょう。仕事だから、きれいで立派に見えるものは商品となり、自宅で食するのは二級品みたいなものになるのではないでしょうか。つまり、栽培−収穫までが仕事として主要な関心になるように思います。

 一方、わたしのように趣味みたいに作物を育てている人は、佐藤さんが指摘されたように、作物の選択−栽培−収穫−食べるという全過程が念頭にあると思います。専業の人は、作物の選択は好みではなく商品ということを意識したものになるでしょうが、わたしたちは売り物にはしないので、食べたいものや育てやすいものなどを栽培し、見た目もあまり気にしません。そして、専業の人と比べて趣味みたいなものだから動機を含めて個の物語性のようなものが専業の人よりは強いのかもしれません。

 しかし、作物を育てたり、収穫したものを食べるなどの中で味わう、柳田国男が指摘した農の感動のようなものは、両者ともあると思います。あと、一般には作物は一年に一回の実験ということになりますが、両者とも作物を「よく見聞きする」のは普通のことだと思います。つまり、悪ければどこがまずかったのかなと来年に生かそうとすることになります。実際は、いろいろな要素が関係しているようで難しいのですが。こんなもので返答になっているでしょうか。



24佐藤公則(管理者):2017/02/21(火) 22:28:55
Re: お尋ねの件
 ありがとうございました。

 ぼくは潜在意識みたいなところを遡って行ったときに、縄文の狩猟採集や漁労の博打性、計画性のなさみたいなところが割とぴんとくるのです。その日狩猟に出かけて、たくさんの獲物にありついた、あるいは空振りで手ぶらで帰ることになった。そういう恵みにありつけるか否かが日によって違うほうが楽しく感じられます。一方、農業というのは従事する人の努力次第というところがあります。毎日コツコツ努力することも必要です。
 つまり、後者についてぼくはちょっと分かりづらいところがあります。狩猟に出るときはイメージがあり、夢があると思います。わくわく感もあると思います。
 柳田国男を引いて、「農の感動」ということをnishiyanさんは言っておられますが、その部分がちょっとぼくには分かりにくいんです。実感的な部分で分かりにくいんです。
 それから、少し前から農が小さなブームになっていまに続いてきていると思いますが、あれこれ含めて考えて、みんなに持たれている農の魅力の本源は何なのだろうかというのが先の質問の根底にありました。ぼくがテレビなどを通してみたかぎりでは、定年後に農業をはじめた人の中で、農産物の生育過程に携わること自体を重要視しているタイプと、特定の種にこだわってこれを収穫し、それを食し味わうことに重点を置いたタイプとあるように感じられました。印象を拡大していくと、そんなふうに分けられるような気がしたのです。農の起源としては後者のタイプが近いだろうと思います。これは狩猟採集の側に立っても、なんとなく理解できるところがあります。ところが前者となると、一次的な食の欲望から離れて、いわば高次な捉え方がなされている。どうもこのあたりから謎が深まって・・・・。



25nishiyan:2017/02/22(水) 14:53:32
「農の感動」について
 柳田国男の「農の感動」というのは、簡単なことで、農作業をしててもあるいはふと手を休めて風を感じていてもあるいはまたやっと収穫できたときとか、ああいいなとかうれしいなとか感じる、そんな感動のことです。それは人間的な活動の根っこのようなところから湧いてくるものだと思います。もちろん、これには失敗したとかうまくいかなかったとかの逆の場合もあるでしょう。

 「農の感動」ということは、農に限らず他の仕事でも同様だし、さらにはこの世界で人が生きているということから来る普遍的なものということができます。どんな仕事でも、さまざまな動機の違いから下っていって、その人の意識や心の中心の方を抽出してみたらそれは普遍的なものとして浮上してくると思います。(これは仕事との相性が悪い人の場合はその感動はないかもしれませんが。)しかし、農や経済や労働を専門的に論じる者で、そこまで触れる者は少ないような気がします。つまり、農に従事する人々の内側に触れることができる柳田国男の言葉はすごいなと思っています。



26佐藤公則(管理者):2017/02/23(木) 08:39:33
Re: 「農の感動」について
 こちらの問いがしょうもないために、世話をやかせてしまってスミマセン。

 まず作物を収穫しようということがあって農事のさまざまな段階を経ていくときに、いろいろ感動することがあるんだよということですね。
 種を蒔いて芽が出た。茎が伸び葉が育ち花が開いた。やがて実がなり、収穫が近づいてくる。今では当たり前のことだけれども、当事者となればそのいちいちの体験、出会いに、またいちいち心が動かされることがあるということだと思います。
 田畑を有しているひとは、次の年も当然のように作物を植え付け、収穫することをくりかえすことになる。そして、たしかにここまでのところではぼくの疑問が入り込む余地は皆無だと思います。

 その上で、なお考えますと、この「農の感動」というものはあくまでも農事の上からは二次的な産物というところで、メインにはなり得ないことのように思うのです。ところが、最近かすかに感じるのですが、あたかもこの二次的な産物をメインとして農事をはじめようとするひとが出てきた、あるいはそういう風潮が感じられる気がします。これはぼくの勝手なイメージで、あてになりません。あてにならないので勝手に自分で考える以外にないのですが、この一種静かな農のブームは、現代人の植物的な生命過程への回帰願望みたいなものかもしれないと考えたりしています。でも、よくわからないんです。若い人から定年退職後のひとまで、世の流れに逆行するごとく農に向かう、その衝動に底流するもの、あるいは渇望の本体が。



27nishiyan:2017/02/23(木) 13:54:26
RE「農の感動」について
 確かに、「『農の感動』というものはあくまでも農事の上からは二次的な産物」に見えるかもしれませんが、従事し活動する人の深層の動機や動因になり得るような気がします。どんな仕事でも、始まりのきっかけにはいろんな偶然が大きく働いているようにも見えますが、その後その仕事を持続する動因としては、身に付いた日々の習慣的な自然性とともに家族の経済を支えるとか自分の性に合っているとかいろんな層の動機群が考えられるように思います。しかし、人の行動を深く根本的に左右するのは、深層にある動機だという気がします。「農の感動」に類するような負の感動も想定できるように思います。わたしが学校の教員を辞めたのもそんな動因からだったような気がします。

 少子化とか盛んに問題化してあれこれ言われていますが、これもその現象として湧き上がってくる動因を人の動機群や人の生活というものをきちんと探査することが根本的な捉え方に通じるような気がします。行政担当は、あの太宰治の「かくめい」という言葉のように、人の本心の深刻さに直面しようとせずに数字片手に周囲を大変大変とうろつき回っていて、けっして根本的な解決の道筋には至れないような気がします。つまり、仕事しているふりにしかならないでしょう。そして、ほったらかしのような状態で、負が膨らみ過ぎてどうしようもなくなったらさらに慌てふためくのでしょうか。
 こんな風に、その深層の動因はいろんな分野に当てはめて考えることができそうに思います。

 深層の動機は、家族の生活をほったらかしにできないなど様々な他の動機との兼ね合いで、なかなか表面化しにくいのでしょうが、その人の生存の感覚を押し潰すような事態になったら発動するような気がします。つまり、我慢に我慢を重ねてようやく出て来るようなものかもしれません。また、「あたかもこの二次的な産物をメインとして農事をはじめようとするひとが出てきた、あるいはそういう風潮が感じられる気がします。」と述べられていることは、わたしはその具体的な状況がよくわかりませんが、飢え死にはしないさなどの深層の動機を中心に絞り込めるような発動しやすい状況があるのかもしれませんね。



28佐藤公則(管理者):2017/02/24(金) 11:17:09
nishiyanさんへ
 ぼくの問いは表層の薄っぺらいところでの思い込みからなっていて、手と足と口などからする従来までの農業にたいして、昨今は頭でする農業という形が見られるようになったという仮説から出ていたように思います。要するに生業の農業に対する趣味の農業ですね。この趣味の農業が小さなブームのように広がっている。これは本業じゃないから頭でやっているんだととらえてみたわけです。一昔前だと盆栽になるんじゃないかとも考えたわけです。
 nishiyanさんはそれに対して農の根本のところから説かれていて、たぶんぼくの仮説とか疑問を呈した言葉自体が意味をなさない、的を射ていないと教えてくれているように思いました。ぼくも自分の思い込みに対して確信がないので、「頭でする農業」という仮説自体を考え直してみようと思います。
 雑な考えや表現にも関わらず、わざわざこちらの意とするところまで出向いて推し量り、さらに丁寧にお答えいただき感謝するばかりです。ありがとうございました。



29佐藤公則(管理者):2017/03/08(水) 22:09:55

笑み交わす
現在(いま)を背負った
独歩旅

http://



30佐藤公則(管理者):2017/03/08(水) 22:53:39

                                                                              大勢のスパイダーマン現れて
絆の糸で息の根ふさぐ




31nishiyan:2017/03/09(木) 14:58:10
詩の紹介
https://www.facebook.com/



32佐藤公則(管理者):2017/03/09(木) 17:19:09
nishiyanさんへ
 投稿ありがとうございます。さっそくブックマークしてみました。やっぱり山本さんもnishiyanさんも、表現の中に職人技のような安定感が感じられます。読んだときにすっと安心して表現の世界に引き込まれるというか、そういう技というものをもっているような気がします。
 話は変わりますが、この間までこの掲示板でnishiyanさんとやりとりをしながら、掲示板の使い方はいろいろありそうだなと思ってきました。つまり、皆さんに開放して自由に使ってもらってもいいのじゃないかなどと。そうした意味で、もしnishiyanさんもアイデアが浮かぶようでしたら、それにそって自由にこの場をご活用下さい。今日はこんなところで失礼します。



33佐藤公則(管理者):2017/03/10(金) 17:49:42
無題
 文字読めば即座に眠る特技持つ
 妻の保てる距離の不可思議



34佐藤公則(管理者):2017/03/11(土) 11:09:14
無題
 今この一瞬
 どのように世界を切り取るか
 ぼくの顕微鏡では
 子どもはより感覚的に
 成人はより思念的に
 そして高齢者は思念を感覚に同時翻訳して
 把握しようと奮闘しているかに見える



35佐藤公則(管理者):2017/03/12(日) 15:08:36
無題
 「考」脱ぐと「貧相」が見え
 ありのままには映さぬ視覚
 



36佐藤公則(管理者):2017/03/15(水) 02:11:55
超老
 孫に笑む
 老いの視線の
 彼方越し



37佐藤公則(管理者):2017/03/15(水) 02:19:24
終活
 終活と言えば聞こえはいいけれど
 思いばかりで遣れぬのがいい



38佐藤公則(管理者):2017/03/16(木) 11:06:51
春といえば花
 あずかった
 こころをせおう
 西行の旅



39nishiyan:2017/03/16(木) 12:29:41
武田邦彦といえば
武田邦彦は、原発事故時少しブログをのぞいていましたが、音声やら面倒なことをし始めて読むのを止めました。その森友関係への沈黙は、テレビ関係の忖度・配慮があるのでしょうか。現在のところ俗受けしない本質的なことをいう人はマスコミでは干されるでしょうからね。



40nishiyan:2017/03/16(木) 17:49:54
ぼくもです
ブログにコメントいただきました。ありがとうございます。白川静の紹介していた孫文の言葉にぼくもびっくりしました。時が経つといろんなことが忘れられていくのですね。
「国家についての断片的な考察 」読みました。「素朴な疑問」は大切だと思います。遙か太古の感受や発想の型は現在にも何らかの形で残留していると思えますから。



41佐藤公則(管理者):2017/03/16(木) 21:43:18
nishiyanさんへ
コメントいただきありがとうございます。今日のブログを拝見すると、Twitterですか、そちらでの活動もけっこうやられていて、というか、そちらを主戦場に活動されているのかなという気がしましたが…。もしそうだとしたら、大変そうだなと…。ぼくはからっきしでよく分からないし、ごちゃごちゃしそうです。以前何かの必要があってfacebook(?)に登録しましたがそれっきりで、ずっと敬遠しています。頻繁にやりとりしなければいけない世界かな、という気がしますが。時間があるときでけっこうですが、もしメリットのようなものがあればお教え下さい。



42nishiyan:2017/03/18(土) 02:06:06
SNSについて
 どこかで吉本さんが、自分の心や意識が状況(社会)に対して外向きに出て来ているようでもほんとはそれは内向きである・・・・みたいなことを『ハイ・イメージ論』の考察の頃だったかよく覚えていないですが、書かれていました、あるいは語られていました。当時は何を言っているのか実感として全然わからなかったことがあります。たぶん、今のわたしの状況もそんな言葉が湧いてきそうな感じがします。ほんとに実感を得るには「現場」に立ってみないとわからないなと思います。

 にぎやかなツイッターというSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)という仮想世界に浸かっていますが、物珍しい面白さや楽しさもあります。絵画や詩や舞踊や・・・等々いろんな分野の人の言葉や表現に出会う機会があります。もちろん、「ネトウヨ」諸君の言葉も見かけます。

 一方、仮想世界ゆえの孤独のようなものもあるのかもしれません。振り返ってみるとツイッターなどのSNSの世界は奇妙な感じがします。言葉(文字)や画像や動画などが表現の媒体になっています。そこで互いに交わされるのは一次的な自然の肌感覚の出会いや眼差しではないですね。しかも、自宅からだけでなく外出先からもスマホなどから接続できるようです。おそらく、このような仮想世界との付き合いはSNSをやっていなくても、例えば銀行の現金出し入れなどの有り様とリンクされている、万人に同質のものかもしれません。これもまた、みんなが徐々に慣れを積み重ねていって気づいた時にはこんな所まで来ていたのかということになりそうです。

 最近、仕事中にスマホを見ていたなどが時々ニュースで出て来たりしますね。ずいぶん社会の風景が変わってきたのでしょうね。これが先々どうなるのかは十分にイメージできませんが、どんどん高度化を遂げていくことだけは誰もが認めるでしょう。こんな所で良いでしょうか、何かありましたら大したことは言えないと思いますが、遠慮なく聞いて下さい。



43佐藤公則(管理者):2017/03/18(土) 10:27:52
またまた質問させていただきます
ありがとうございます。ツイッターなどをチラ見しますと、いろいろなひとのコメントが交錯しているように見えます。たとえば自分が何かを発言したとして、たくさんのコメントが寄せられると、それに対していちいち対応するということになるのでしょうか。もしそうなら、それだけで相当のエネルギーを消耗しそうな気がしてしまいます。自分はとてもそんな元気は無いと思うし、すぐに爆死してしまいそうです。そういうものでもないのでしょうか。少し前にnishiyanさんのブログで、返答の部分みたいな文章を読んで、それはちょっと大変な世界が展開されていると思ったのです。



44nishiyan:2017/03/19(日) 00:44:20
Re SNSについて
ここ最近、いくつものやり取りをしてしまいましたがこれは滅多にないことで、普段は自分のツィター画面に流れて来るツイート(コメントや画像)で、気に入ったものなどを再び他の人への紹介も込めてツイート(「つぶやく」)するのをRT(リツイート)と言いますが、そのRTをしたり、気に入ったものや備忘のための資料などがあれば「いいね」ボタンを押して保存する、といったことです。また、自分の歌やブログの文章の紹介もツイートします。

 見知らぬ者同士で、互いに相手の姿形雰囲気もわからずに急接近して語り合うことになりますから、いろいろあり得るでしょうね。体験を互いに積み重ねて何らかの良い形を模索していくしかないと思います。

 しかし、この仮想世界が良い点でも良くない点でも従来の不可能を可能にしていることは間違いないと思います。



45佐藤公則(管理者):2017/03/19(日) 10:26:15
Re: Re SNSについて
 いやあ、なんとなく分かってきました。nishiyanさんは以前ホームページも公開されていましたが、移動後は拝見できなくなってしまいました。そちらは封鎖されたのでしょうか。継続されているとすると、3つの更新の掛け持ちということになり、やはりエネルギーの消費量が半端ないと思ってしまいます。
 どうしてこういうことをお聞きするかというと、もしも3つの表現の場があるとして、全体像を見る場合にどこに注目するのがいいのだろうかと考えるからです。どこが主戦場でいちばん力が注がれているのはどこか、それが知りたいなと思います。これまではブログだけに注目して、だいたいの作品はここで見ることができるのだろうと考えてきました。でも最近はツイッター上のことが転載されていたりして、もしかすると表現を3つの場に分散して発表しているのかなという気もしているのです。そこの所をちょっとお伺いできればなと思いました。 



46nishiyan:2017/03/19(日) 13:28:49
ブログ等
http://www001.upp.so-net.ne.jp/kotoumi/



47佐藤公則(管理者):2017/03/19(日) 21:17:56
「言葉の海」懐かしいです
 ありがとうございます。「言葉の海」、久しぶりです。こちらを見ると、懐かしくもあり、しっかり整理されていて、トータル的に見やすいトップページになっている気がしました。ただ、最近の表現は同時掲載とありましたし、だいたいはブログで見られるということで、これからも更新が分かりやすいブログ中心に拝見していきたいと思います。



48nishiyan:2017/03/25(土) 11:08:19
指示性ということについて
 今日の作品は、一言も作品中に「母」はありませんが、前の作品との関わりから推量して老いた母と「わたし」の関わりの場が描かれているのではないかと思いました。表現された作品は、まずはその作品そのものを読むのが原則でしょうが、作者固有のものが具体性も引き連れて表現されますから、作者のことや他の作品も読まないと深読みは難しいなと思っています。

 わたしも表現する時どこまで指示性(説明描写)を尽くせばいいかなと思い悩むことがあります。もちろん、意味不明(指示性が希薄)でも自己表出性(あるものを外に放出したい欲求)の高い表現を目ざすことはできると思いますが、この場合作品が概念の枯れ林にならないようにするには、内臓感覚による生命感を込めるのが必須ではないかと思っています。

 短歌味体では、昔の「詞書き」のように註をつけて指示性を補う、表現の場を明示するということをすることがあります。



49佐藤公則(管理者):2017/03/26(日) 09:50:05
投稿ありがとうございます
 昨日の投稿では2つのご指摘をいただいたように思います。手っ取り早く言うと、1つは1個の作品それ自体として自立できなければダメなんだということ。もうひとつは、ぼくの作品が概念過多で生命観に乏しいものになっている、というように受け取れました。日頃からそういう短所、欠点は感じているところなので、言われているところはよく分かるような気がします。また克服したいと思っていても、なかなかできないでいるというのが実際です。一人で自己満足的にやっていると、こういうところから抜け出ることは難しいことだと感じています。
 2つめの自己表出、指示表出からいうと、nishiyanさんの「短歌味体」を主とする表現は、とても意図的、意識的な表現をされているんだなという気がしています。擬音やあわわことば的表現、あるいは解体の表現、表現の解体みたいなところを意識なさって書かれていると見てきました。ぼくなんかはそういうところは、つまり文学的な先端のところの問題意識のように思えて、専門的で高度なんだと感じます。及びがたいんですが、勉強になり、少しでも参考にしたり、取り入れられるところは取り入れたいと思いながら見させてもらっています。
 ところで、最近は毎日の表現を続けていますが、面白い、楽しいことを目標としているのに、実際に書こうとすると逆方向にばかり向かって行き、此処でも何かしら自分の限界みたいなものを感じてしまいます。こんなの読んだって面白くないようなあと、自分でも思うようなものしか書けません。もう少し、抗いを続けてみるつもりですが、そういう境地もなかなか難しいものですね。どうしても肩肘張った窮屈なスタイルになってしまいます。nishiyanさんの表現には、そういうところでもちょっと肩の力を抜くということができているような気がして、少し羨ましく感じています。これからも見させていただきますので、どうぞよろしくお願いします。



50nishiyan:2017/03/26(日) 11:41:24
表現のこと
「ぼくの作品が概念過多で生命観に乏しいものになっている、というように受け取れました。」ということですが、確かに今までにそれを感じたことはあります。わたしも詩を書き始めの頃はそうでしたし、いまもどこかにそれは残留しているかもしれません。佐藤さんが、今の詩を書き出されたとき(2017/02/05の詩)、おっ、いいなと思った覚えがあります。具体的なものに関わるイメージの表現だったからです。

 今回の「作品が概念の枯れ林にならないようにするには」というのは、一般的にかつ自戒をこめたものとして表現しています。

 ところで、音楽でもダンスでも詩でも初めは憂さ晴らしや解放感や楽しみがあるのでしょうが、突き詰めていくときつくなりますね。もちろん、解放感はなくなることはないと思いますが。それでも人は突き進みますね。そして、苦しみながらも万人にとってかつ自分にとっての生命感の放出や感受を目ざしているように思います。(もちろん、万人ではなく内閉する個の世界への固執ということもあり得ます。)



51佐藤公則(管理者):2017/03/27(月) 00:13:14
積年の悩みです
 具象・具体の部分は意識的にやらないとできないですね。本当はたぶん、それを持ってくるのは自分の本意ではない気がします。その方が伝わりやすいから持ってくるということを努力してやっているのだと思います。言い方を変えると、自分には才能が無いし、合わないことを知っていてやっているんだと思います。積年の悩みですね。
 どうしてそうなんでしょうか。本音を言うと、視覚聴覚などを通した表現に興味関心が持てないのです。現実生活的具象性というものを実感できないところもあります。そしてそれに代わって観念にわいてくる言葉というものが、超越性を帯びて酷く現実的な重みを持って感じられてしまうのです。一種の転倒なんだと思いますが、何か資質としてもう与えられてしまっているというようにいまは受け取っています。こういうところも含めて、まあぼちぼち歩みを進めていくほか無いなあと思っているところです。



52佐藤公則(管理者):2017/03/27(月) 12:37:55
27日の作を別に
古稀数え
三日を伸ばす
無精ひげ






53nishiyan:2017/03/27(月) 14:04:57
表現問題はさておき
「あとがき」のようなもの読みました。「障害」の考察、お疲れさんです。わたしも一年くらいかけて少しずつ「物語」の考察をしたことがあります。そのことは自分なりの考えや表現の力の源泉になるのではないかと思っています。佐藤さんもそのことを感じておられるのではないかと思います。ふたりとも、吉本さんが『言語にとって美とはなにか』を仕上げた後に「勝利だよ」と思ったという言葉には遠く及ばないと思いますが。ほんとに「手を動かす」ことを持続していくことが大事だと思っています。



54佐藤公則(管理者):2017/03/27(月) 21:49:03
お薦めの文学書はありますか
 投稿ありがとうございます。いやあ、おっしゃるとおり遠く及ばないどころか、ぼくの場合はいつも「超えられない、超えられない」という呟きになってしまいます。それは、普通の人の考えや、仮想の読者の考えを超えられないという意味あいでの呟きですが、時々はもう少しじゃないかと思うときもあります。
 ところで、nishiyanさんのブログでは小説批評もよくされているようにお見かけします。ぼくはあまり読書をしなくなった上に、小説の類いはからっきしになってしまいました。2週間に一度くらいの割合で図書館に行っていますが、本を借りても吉本さん以外のものは途中で投げ出してしまうことが多いんです。これは読んだ方がいいよと、もしおすすめの文学書がありましたら教えて下さい。



55nishiyan:2017/03/28(火) 11:15:52
お薦めは
 今、村上春樹の作品の読書日記をやっていますが、これは一年ほど物語作品への入り方を自分なりに考えたましたが、(本当に考えたの?)という自問に答えるために書いています。つまり、具体的な作品の批評にちゃんと応用できるかな?ということです。それと、読み終わってのまとめた批評ではなく、作品を読みながらのメモもおもしろいかなと思っています。

 小説はそんなに読んでいません。(それにしても小説家の数は大層なものではないでしょうか。)よく読むのは、この村上春樹や吉本ばななや町田康くらいですかね。町田康のは一般に楽しく読めます。好き嫌いあるかもしれませんが、独特の語り調のもてなしが良いです。シリアスな『告白』のような作品もあります。猫もの犬ものの随筆とも物語ともつかない作品もあります。どれでもいいから一冊読まれて気晴らし以上であればお薦めだと思います。



56佐藤公則(管理者):2017/03/28(火) 14:30:45
ありがとうございます
 午前中、用事のついでに図書館に行き、nishiyanさんの文中に見られた白川静さんのものを2冊借りてきました。「文字講話1」に、「文字以前」のタイトルを見つけて興味を持ちました。また気楽に読めるかと思い、対談ものを一冊。掲示板は帰ってきて見たものですから、お薦めの町田康は次回にしようと思っています。

 白川さんて、名前だけは知っていましたが、コツコツ文字の研究に打ち込んでいるイメージで、どうしてそんな人の名前が多くの知識人の口から飛び出すのか分かりませんでした。ま、そのへんの匂いがかげたらと思っています。



57nishiyan:2017/03/29(水) 00:20:04
白川静の迫力
白川静の「文字講話」は、松本孝幸さんの「読書倶楽部通信」の紹介で知り、読んでみようかとなりました。今までに何冊か読んでいますが、「文字講話」には長い研究と洞察のもたらした力の凄みのようなものを強く感じました。漢字などの細かな説明は少し流し読みしながら?と?は割とすらすら読みました。『文字講話?』を停滞気味で少しずつ今読んでいます。?か?だったか文章に少し出て来ますが、本場中国の学者がはっきりさせ得なかったこととか、間違っていた解釈を、はっきりさせたとか、いろんな功績もあるようですね。

 あと、誰かの文章で偶然知ったのですが、「(特別寄稿)皇室は遙かなる東洋の叡智」(「文藝春秋」2005年4月号 白川静9ページ分)という文章もあります。もう最晩年の文章です。もし、図書館にバックナンバーが保存されていたら読まれたら良いかと思います。自らの積み重ねた学と見識からの静かな文章になっています。



58佐藤公則(管理者):2017/03/29(水) 11:16:01
探してみます
 ありがとうございます。次回、図書館で探してみます。
 まだ、白川さんの本の数ページを読んだだけですが、自分の「知」の姿勢やスタイルをこっぴどくやっつけられる気分になりますね。同時に安藤昌益のことば(「知」の否定?)が浮かんできて、引き裂かれそうな気がしてしまいます。ホントはこれを、同じことを言っていると考えるべきだというのはなんとなく感覚的につかめるのですが、じゃあどのようにというと具体的には思いつきません。読みながら追々考えていこうと思います。



59nishiyan:2017/04/24(月) 11:09:59
白川静について
白川静「皇室は遥かなる東洋の叡知」は図書館になかったのかな、と思っていましたが、あったんですね。佐藤さんのは的確な批評だったと思います。

遺伝子考古学(と仮に呼べば)がもっと微細な人の移動や交わりを明らかにできれば不明のもやが晴れてすっきりしますけどね。それ以外の人文系の総力を使ってきても現状まだまだあいまいさがたくさん残っているようですから。

〈大王〉〈天皇〉などそれ以前もいろいろ呼称があったかもしれませんが、要するにどっかから来て横合いから社会の上に乗っかれるシステム(吉本さんの言う「グラフト国家」)とそれを許容してしまう社会の中の住民の意識の問題であり、これはこの列島におけるアフリカ的な段階からの相当根深いもののように思われます。また、現在もそのシステムは継続稼働中ですね。乗っかってるのは、アメリカの影−政権−官僚層−アメリカ帰りの取り巻き知識層などでしょうか。



60佐藤公則(管理者):2017/04/24(月) 13:19:51
Re: 白川静について
 白川さんと町田さんの本を見つけて、とりあえず読んでからご返事しようと思っていました。白川さんのを読んでたら、感想を書いてからと思い、公開後、さらにメールかこの場での返信にしようかと迷っているところでした。
 町田さんのものは、数ページ読んでまだ先に進んでいません。こういう読みの流れだと最後までたどり着くかなと心配です。書名は「どつぼ超然」です。
 純粋(?)に読書する、読書を楽しむというのはどうもぼくには難しくなったような気がします。現在社会ですと、やっぱりテレビにいくとかネットの動画配信に流れるとか、そちらの方が安易に楽しめるからそうなるんだろうなと言う気がします。こんな状況で読者を引きつける作品というのを書ける人って、そんなにいないんだろうなとも思います。ぼくは一般生活者の立場でそう思いますが、でも、相変わらず文芸愛好者という存在は存在しているようにも見えますし、そこのところはいったいどうなっているのだろうかといつも疑問です。それでぼくは国民の大多数、いわゆる大衆的な存在にとっての文学の存在意義っていうのは、終わっているのかなって時々思います。ぼくの住む、地方で、しかも町の書店みたいなところでは、文芸書のスペースは本当に縮小されてしまって、見る影もないって感じです。
 地方の町では、詩や小説の研究会みたいなものはあまり耳にしませんが、短歌の同好会、研究会は時々目や耳に触れ、あちこちで継続されている様子です。これはずいぶん息が長く、細々とかもしれませんが、これからも続いていきそうな気がします。実際に真似事でやっていますと、日本語にまた日本人の感性になじむ形かなと思います。そういう研究会に入っている人などは、逆にテレビのドラマやお笑いなどは物足りないのでしょうね。…ちょっと長くなりました。今日はこれで。



61nishiyan:2017/04/25(火) 12:22:43
文学の現状について
例えば近代においてだと思いますが、文学とは暗いもの、暗さや深さや生真面目さのイメージを価値とする傾向を持っていました。それがある時期、高度経済成長期頃からでしょうか、楽しいことや軽いことがその暗さや深刻さに代わって登場してきました。今ではそれが普通になっています。これはそれ以前に比して社会が豊かさや余裕を持ったためだと思います。

もともと、文学(芸術)は、読者(観客)の側から見れば、もてなし楽しませるという要素と感じ考えるきっかけを提供してくれるという要素とを併せ持っているように思います。文学も映画もそのどちらに力点を置くかで、エンターテインメントの作品や純文学の作品となっていたのでしょう。

そのいずれかの点で、読者を引き付けることが出来なければ、書き続けられていったとしても商売としては衰退していくほかないのでしょうね。ぼくらは単なる読者ですから、小説が滅びようが構わないと思いますが、たとえ滅びてもそれに代わる人間的な表出や表現が止むことはないのは確かだと思います。

今、村上春樹の『1Q84』(2009年)をやっと読み終えて、最近出た『騎士団長殺し』を読み始めています。今度は若い画家が主人公のようで、「騎士団長殺し」という他人の絵が作品に大きく影を差しています。『1Q84』もそうでしたが、いろんな謎や仕掛けが周到に物語世界の流れに設置されていて、読者を物語世界に引き込みます。これらはエンターテインメントの要素に当たると思います。まだ、出だしで作品の生真面目なモチーフの流れは見えていません。

漱石の時代の読者規模を想定してみると、当てずっぽうの推測に過ぎませんが、まだ今で言う大多数の普通の人々にまでは届いていなかったような気がします。つまり、地方であれば生活や経済力に余裕のある地主層くらいまでではなかったかと思います。そこからすると、作者の数も読者の層や数も大きく拡大してきたのだろうと思います。ただ、川端康成の頃とは違って、作家専門では食っていけない時代にはなっていますね。現在は、他の諸問題と同様に文学もいろんな問題を抱えたある飽和点に到っているような感じがします。



62佐藤公則(管理者):2017/04/26(水) 15:04:24
Re: 文学の現状について
 ぼくなんかが漠然と考え思っていることを、整理してまとめて言ってもらったという気がします。nishiyanさんのおっしゃるとおりだと思います。「飽和点に到っている」というところで噴出してきたいろいろな問題点ということですね。いろんな分野・領域を眺めても同様のことが起こっていると考えると、なんとなくすっきり見える気がします。ただ飽和点の内実というとぼくはまだあまり分かっていなくて、よく観察し、腑分けしてみないとなと思います。

 だいぶ前に明治のころの詩を、ちらりと言う程度に読んだことがあるのですが、何と言うか、熱気みたいなものをすごく感じました。ヨーロッパの詩を学び取る、自分のものにするという意気込みみたいなものです。その時に、これは当時の学者たちのヨーロッパ知に対する姿勢や意気込みに共通するように思えました。ぼくの勘では、戦前から戦後にまで続き、そのあたりである程度納められるところは納められるまでに到ったという気がしています。欧米人の考え方の深層にやっと手が届いたんじゃないかなと思うのです。そこからnishiyanさんのいう飽和点まで一気に進んで、現在は、はてさて、というところに差し掛かっているのかなと言う気がします。
 これ以上のことはぼくなんかには分からないところで、また手が届かないところでもありますね。政治の迷走なんかを目の当たりにしても、一事が万事で、他の領域・分野でも同様の状態を呈しているんだろうと思います。どう言えばいいんでしょうか、ぼくなんかは生きていくのに自己諒解をしつつというところを欲しているのでこんなことまで考えてしまいますが、つまるところ世界認識、把握の問題で、現実がどうなっていくかはあずかり知らぬことのように思っているのかもしれません。ただ、営為、やりたいことをやるだけですね。変な締めになったかもしれませんが、今日はこれで。



63nishiyan:2017/04/28(金) 14:41:33
できれば感想を聞かせて下さい
 今までと生活時間がずれていて仕事はどうでしょうか。大変さもあるだろうと推察します。ところで、山本哲士が「今村復興大臣の「失言」という本音のシニフィアン:主語制シニフィアンと客観へのシニフィエの共謀」(2017.04.28)という文章をブログに書いています。

 山本哲士は、「吉本主義者」という言葉をずいぶん前に振り回している文章を目にしたことがあり、あ、これはダメだと思った覚えがあります。自分は「吉本主義者」だという人も居てそれは別に構わないと思いますが、他人をそう呼ぶ時点でその思想の程度が測れると思いました。それで、『心的現象論本論』も買わずにいたのですが、吉本さんが姪について触れたその「あとがき」をどうしても読みたくて先日、古本を買ってしまいました。佐藤さんが先だって山本哲士を少し評価するようなことを書かれた時、こうした事情から、また中身を読んでいないことから、うーんどうだろうと感じましたが黙っていました。

 わたしはこの文章はもう無惨なものだ思います。わたしにはよくわからない「シニフィアン」や「シニフィエ」や「主語制」と言った言葉を振り回していますが、まったく何を言っているのかわかりません。故郷でのイエスの演説を見聞きする民衆の一人のような気分です。この件は、わかりやすい言葉でわかりやすく述べることはできそうに思います。山本哲士はなぜわかりやすい言葉を志向しないのか、わたしたちの生活世界に向かって言葉が閉じているからではないかという疑念を持っています。この文章やその前の少し内省的な文章(「知識人なんていない、ただひたすらわたしは「考えている」のみ。」2017.04.22)に対する佐藤さんの感想を聞いてみたくて書き込みました。




64佐藤公則(管理者):2017/04/29(土) 09:32:17
Re: できれば感想を聞かせて下さい
 仕事の方はひととおり覚えることができたという段階で、俯瞰して考えられるようになりました。基本的には単純で、建物各棟の戸締まり、施錠を確認することです。私学の高校と大学が敷地内に併設されていて数が多く、繰り返しが勝負になります。
 どの仕事もそうなんですが、他の人は本当に律儀で、反対にぼくはルーズなところがあってそれとの格闘が仕事継続の中心かなと思っています。つまり、外からも確認し、内側からも確認することを教わるわけですけど、石橋を叩いて渡るみたいなことが警備の仕事だとしてみんなやるわけです。ぼくはそういうところは少しルーズなところがあるなと、反省的に言えばそういうことになります。でも単純ですから、また嫌いな運動にもなると考えて、しばらくはっやっていきます。夜の勤務のリズムはまだつかめていません。

 さて、山本哲士の文章の件ですが、ぼくは昔の山本の文章はもう少し分かりやすかったと考えています。主に学校論、教育論を展開していたあたりの文章ですが。当時は、分かってもらおうという気持ちがあって、言葉を選んだり書いたりしていたと思います。最近はあまり読んでもいないのですが、どちらかというと他者に理解してもらうことをあきらめたような文章、書き方になっているとおもいます。それで、少し前に吉本さんの仕事をまとめて評価するような本があって読んだんですが、「吉本隆明と『共同幻想論』」でしたかね、どこか息せき切って論じているような面が感じられ、評論や批評の本として高い評価はできないけれども山本ならではの視点を貫いて読み解こうとしているとは思いました。つまり言葉遣い、文章のわかりにくさもあって、今もまだ評価としては保留の状態にあります。
 ぼくなんかはホントは分からないことなんですが、山本は世界の思想的な現状の最先端を、言語の垣根を越えてとらえ、自分もその最先端を走ろうとしているんじゃないかと思います。そこには山本だけが見えている風景があるんだろうとは思います。見えているように突っ走っているなという気がします。ぼくはそれで、実際の彼の最近のブログなどの文章は、雑で、しかも理解を拒否するみたいな書き方をして、なんだコイツ、と思わないでもないのですが、こちらから少し山本のほうに近寄っていくようにして、それで少し言っていることの片鱗だけは感じ取るというような読み方をしています。理解しているわけではない、そうだそうだと思いながら読んでいるわけでもありません。でも、少しだけ、山本がどういうところにこだわっているのかが分かる気がするところもあるのです。全貌はちょっととらえきれないので何とも言えませんが、ある意味でかなり核心部分を考え、詰めるように思考しているなと思うのです。nishiyanさんの評価だとかなりボロカスになりそうですが、もちろんその原因は山本の文章にもある気がします。確かにそう読まれる可能性を含んでもいると思います。ただ、山本がやっていることは孤軍奮闘の部分があり、誰もやらないという孤独性もあると思います。シニフィアンやシニフィエといい、分かりにくい言葉を多用するのは、おそらくは邦訳しきれないという、かなり外国ものに通暁してきた過去の経験から出てくるものでしょう。吉本さんをどのように評価するかということで、今のところ山本ほど世界水準に置いて突出した存在として吉本さんを高評価する存在はほかに見えません。埋もれさせたくないという意志は明瞭です。そこはぼくには分からないところですし、何ともいいようがないところなのです。
 元に戻りますが、山本のブログの文章は酷いというのはぼくも実感しています。ただその酷さは、言い得ないところを言おうとしているためなのだと半分好意的に受けとめて読んでいます。例に挙げられた二つの文章はことに酷いことになっていると思わないでもありませんが、かすかにですがぼくには分かる部分もあります。乱暴な言い方ですが、山本は誰も考えている奴はいねえよと言いたいのだと思います。考えていると思い込んでいる奴ばかりだと。別の言い方をすると、システムから言わせられている、そのように考えさせられている、ということになるでしょうか。
 主語性様式といい、述語性様式といい、これを解説するのは大変面倒くさいし、またぼくにもはっきりと理解されているわけではありません。今のところは漠然とですが、便宜的に言語のヨーロッパ様式、日本様式くらいに区別してとらえています。

> この件は、わかりやすい言葉でわかりやすく述べることはできそうに思います。山本哲士はなぜわかりやすい言葉を志向しないのか、わたしたちの生活世界に向かって言葉が閉じているからではないかという疑念を持っています。

 山本がnishiyanさんの言うところを志向していないことは確かだと思います。そういうところを捨てているんじゃないかなという気もします。あるいはあきらめているというか。ただ、ぼくには判断がつきません。
 以前に、晩年の吉本さんが糸井さんとの対談めいたところで、山本と思われるような人物にたいして批判めいた言辞をしているところがありました。それが山本のことかははっきりとは言っていないのですが、多分そうだったと思います。それはつまり、山本の半分世界に目を向け、世界に出ていこうとする姿勢についてだったと思います。危険な言い方をすれば山本には野心があり、マルクスたらんとする願望があって、そういう部分を批判していたんだろうと思います。そこで自分の身体出処の重きを置くところが違ってきます。ぼくも山本の全的な姿勢については、どうかなと思うところはあるのです。ですが知的生産の部分では無視できないところがあると思っています。

 長々とまたうまく言えませんが、だいたいはこんなところでしょうか。また何か思いついたことがあれば発信してみます。今日はこれで。










65nishiyan:2017/04/29(土) 14:37:58
Re: ありがとうございます
 ていねいな捉え方だと思います。ありがとうございます。
 現在の内田樹でも山本哲士でもわたしたちと違って知の世界の具体的な前線に出ていますね。その点からの言葉なんですが、もちろんわたしたちと比べものにならない位に知の世界を走行してきたということもすぐれた仕事も成してきたということも認めるのですが、今回の文章は台無しじゃないかと思ったので佐藤さんの感想を聞いてみようと思いました。佐藤さんの評価はいくらか好意的すぎるかなと思いましたが、もちろんそれはわたしの山本哲士に対する直感的なイメージにすぎません。ともかく注視続けるに値する存在とは思っています。

 ところで、内田樹が、「私が天皇主義者になったわけ」(『月刊日本』2017年5月号)という文章を載せているらしいです。まだ読んでいませんが、「歩く浄土163」に一部引用されているようです。この文章を書いている森崎茂は、遠い昔、博多での吉本さんの講演会で知ったのですが、面識は全くありません。ネットで偶然みつけて、絶えず疑問符を付けながら読んでいます。キーワードが何かはわかるようになりましたが、言っていることがよくわからないんです。ただ、ものごとをしっかり考え続けてきたんだなという感触は伝わってきます。

 (http:guan.jp/) (Guan 森崎茂公式サイト)
歩く浄土162:情況論49−外延知と内包知2:天皇制をめぐって−内田樹の転向1
歩く浄土163:情況論50−外延知と内包知3:天皇制をめぐって−内田樹の転向2
 ※この掲示板へのリンクにならないようにurlから「http:」の後の「//」を外しています。



66佐藤公則(管理者):2017/04/30(日) 16:28:14
nishiyanさんへ
 森崎さんという方のサイトへ飛び、示されていた文章をざっと読んでみました。その上での感想ということでいいますと、とても真摯に考えられ、書かれている文章だなと思いました。つまり自分よりもよく思索し、探索されている方だという印象を持ちました。もっと言うとよりプロ的という感じです。
 書かれていることの中身でいうと、内田さんのことといい、天皇制のことといい、あるいは中村哲さんのことでもいいけれども、森崎さんの言いたいことの中心からいえば、そんなに力を込め、時間をかけて言うまでもないのではないかという思いを持ちました。内容的には同感ですが、そんなに時間をかけることじゃないという思いです。こんな言い方はちょっと生意気で撤回すべきかもしれないですが、時間がないところなのでこんな言い方で失礼します。とりあえず、率直なところを言いますとこんな思いを持ったということです。



67佐藤公則(管理者):2017/05/08(月) 08:59:47
老人ホームの題で
借りてきた
猫を装う
老いの群れ



68nishiyan:2017/05/21(日) 12:11:46
山本哲士のインタビュー
山本哲士のインタビューのようなものを見つけました。今までのいろんな喋りが謎解きのように割とわかりやすく語られています。また、相変わらず「吉本主義者」なる馬鹿な言葉を二回も使っています。なんかこの人の言葉や思考には、吉本さんがたぶん重視した「実感」があんまり感じられません。そこがまずいなとわたしは思っています。吉本さんの言葉や論理は、日常の生活経験のなかで誰もが感じそうな「実感」につながっていると思います。


読書人紙面掲載特集 2017年5月18日
山本哲士著『吉本隆明と『共同幻想論』』(晶文社)公開トークイベントの「抄録」
http:  dokushojin.com/article.html?i=1351
(※リンク外しのために「http:」の後の「//」を抜いています)



69佐藤公則(管理者):2017/05/22(月) 20:11:35
ありがとうございます。
 インタビュー記事の紹介、ありがとうございます。さっそく読んでみました。おっしゃるとおり全体像が浮かんでくるような話の構成で、わりと分かりやすく編集されていたように思います。
 そうですね。nishiyanさんが言うように、山本哲士に関していえば生活実感というものが話や文章の中には感じられませんね。そういうところはこの人はホントに出さない人なんだなと思います。それで、ぼくとしてはそういうところに関係なくこの人の文章を読んできました。主にイリイチを論じているころから読んできたのですが、どう言えばいいでしょうか、一途に知や思想の探究に努めるあまり、その他は全部捨象したというか、犠牲にしてかまわないと考えているんじゃないかという印象を持ってきました。そうじゃないとあそこまでいろんな思想家の言説を読み込めないだろうという気がしました。そういう意味ではちょっと日本では見られない希有な人かなという感じです。書物の世界が生活世界のような人です。
 nishiyanさんは、「吉本主義者」ということばを口にする山本哲士が嫌いだということですが、ぼくとしてはその言葉はあまり届いてこないし、感情の針も動かないです。だいたいが「吉本主義者」と呼ばれる人たちがどういうものか、またそういう人との接点も皆無です。たぶん山本さんには特定のイメージがあるのだと思いますが、nishiyanさんもぼくも、その埒外ではないでしょうか。ほかにもたくさんの吉本さん好きがいるようですが、どういう人が該当するのかぼくには分かりません。分からないので、関係ないなと、それだけです。
 この人でびっくりすることは、詩を書いているんだということでした。どこかで、詩集を出しているんだと聞きました。別に読んでみたい気もしないのでそのままにしていますが、へえーと思いました。ぼくとしては、山本哲士に関しては、理論的な真摯さや、世界思想の最前線に挑んでいるところに注目しているので、それ以外には興味を持っていません。ただし、理論に関しては一流じゃないのかなと考えています。まあホントは分からないんですけど、自分の中だけの基準、判断ではそういうことになっています。



70nishiyan:2017/05/23(火) 14:49:11
データベースのようなものUPしました
山本哲士に少しこだわったのは、彼が吉本さんの思想を受け継ぐとはっきりと述べているからなのです。誰が言い出したか知らないけど「吉本主義者」、これを自称する人を一人二人ネットを通じて見知っていますが、それはそれでいいと思います。しかし、それを他人に対して投げかけるのは「党派性」の匂いがする、あるいはその萌芽のような気がするからなのです。わたしにとっては、その一事で彼の全著作の芯の部分を測れるのではないかと思うくらいです。

山本哲士は、ウィキペディアで確認したらやっぱり最初は教育が専門だったようですね。吉本さんの教育についての具体性を帯びた考えやイメージは浮かびますが、若い頃読んだイリイチを介した山本哲士と吉本さんの対談集では、彼の教育についてのイメージがどんなだったか思い出せません。そこから国家論など違う道を歩いてきたようですね。佐藤さんが子どもにとっての教育ということの本質に触れて近現代にしぼって取り組まれましたが、もう無理でしょうけど山本哲士にはこの日本の教育を太古から現在まで柳田国男などを潜り抜けてぶっ通してくれたらなあと思うこともあります。

ところで、わたしが昔表現の荷を下ろして表現世界から撤退していた時期に、吉本さんの本は読み続けていたんですが、以下に紹介するホームページに書いているように、「写経」のように本から書き抜いたものがあります。まだリンク切れとか多いけど、誰かの何らかの参考にでもなればとUPしてみました。

FC2無料ホームページ
http:  dbyoshimoto.web.fc2.com/
(※リンク外しのために「http:」の後の「//」を抜いています)



71佐藤公則(管理者):2017/05/24(水) 15:21:54
(無題)
 ありがとうございます。山本哲士のことは別にして、「吉本隆明を読む」の試みは貴重なものだと思います。早速いくつかの項目を拝見させていただきましたが、目にしていないものもありました。これからも時々参考に拝見させていただこうと思っています。それにしても本当に「写経」のようですね。ぼくも、一度、「全詩集」を丸ごと写してやろうかと考えたことがあったのですが、はじめる前に断念したという経験を持っています。少しばかりnishiyanさんの試みの経緯を推量できる気がします。これから、さらにリンク切れを張り直す作業も継続されていこうということのようですから、是非がんばってやりきっていただきたいと思います。

 ところで、山本哲士に「党派性」の匂いを感じるということですが、そういうところはあるのかもしれませんね。実際にYouTubeで展開している勉強会みたいな集まりの中で話しているようすなどを見ると、そういう傾向がないこともないのでしょう。しかし、「党派性」というと、ぼくには全体が党派的に見えるものですから、言い出せばきりがないという感じで、要するに自分が何かに寄っかからなければそれでいいと済ましてしまいます。そういうものと絡む場所にもいませんし、絡まれる場所にももちろんいないものですから、あまり気にしていませんでした。もちろん著述の中に「党派性」の匂いが感じ取られれば別ですが、今のところ山本が言う「吉本主義者」の言葉も、ある種苛つきの表現だろうなという感じで聞き流してきました。ぼくはまあそういう感じです。今日はこれで失礼します。




72佐藤公則(管理者):2017/05/27(土) 15:39:19
苦肉の「句」の続き
新緑の
濡れて明け初む
街の音



73nishiyan:2017/05/29(月) 14:40:47
データベースについて
リンク切れが、全部つながってしまったようです。「言葉の吉本隆明??」を自分でも時々利用してきました。少しでも他の人々にも役立ってくれればいいなと思っています。「言葉の吉本隆明?」だけは、これ大事だなと思い付いたら追加していこうかと考えています。二つ追加しました。

佐藤さんの詩を読んで考えたことですが、追い詰められると、個人でも集団でも殺気立ってきますね。どんなに心優しそうな人でも人を殺してしまうこともあるだろうし。この荒れ果てた状況の中、難しいですが、自分の中に人間や人間世界のあらゆることを包み込みつつ、ゆったりとした心を持つことが大切だねと思っています。



74佐藤公則(管理者):2017/05/31(水) 16:12:36
投稿、ありがとうございます
 データーベースの追加、ご苦労様です。そしてありがとうございます。何かの時には大いに活用させていただこうと思いますし、ほかの人たちにも何かの形できっと役立つことと思います。また、かねてからこのような試みを個人的にしている人はたくさん隠れているんじゃないかと思ってきました。もちろん少しずつやり方は違うでしょうが、大きな一つの「吉本館」でも出来上がれば面白いでしょうね。これはちょっと言ってみただけです。

 後半部分はぼくの詩を読んで考えたことを言ってくれていましたが、nishiyanさんの思いについては同感です。でも、あいかわらず均衡が破れてゆったりした心を持続できないこともしばしばです。ぼくには年齢相応の成熟なんかやってこないんじゃないかと思うくらいです。心がけてはいるんですがね。なかなかです。



75NISHIYAN:2017/06/10(土) 13:06:22
感想
本日の内田樹に関すること、わたしもそう思います。教育に関してそんなことは昔から内田は言っていますが、この状況に追い詰められた内田の切迫感から少し言葉の怪しさを加速しているような気がします。ひとりひとりの具体はどこにいるんだ?という思いが湧きます。

ともかく、戦後の知識人問題や大衆と知識人などなどの論争や批評が、現在にまったく受け継がれていないように見えるのはうんざりします。

昔、吉本さんが自分のなした大きな(だったか?)ことは、子どもを育てたこととかどこかで語られていたとき、若いわたしはちょっとうーん、と疑問に思いましたが、吉本さんは無用な謙遜などされないから、これは本気だったのでしょう。つまり、逆に言うと一般には知識も生活思想も現代的な衣装を身に着けていてもまだまだ未開性を引きずっていますね。



76佐藤公則(管理者):2017/06/11(日) 09:45:24
Re: 感想
 感想いただきましてありがとうございます。

 ぼくも、子育てというのは生涯における大事件だったという気がしますね。渦中でとても考えさせられましたし、うまくできたかどうかは分かりませんが、全身全霊をかけてきたんじゃないかと思います。つまり、そこで自己が全存在的に問われるように思われ、現在もまた問われ続けているという気がしています。だから、自分の生涯を通して大事なことは、子育てのほかには2つ3つくらいだと思っています。

 内田さんや、ぼくにとっては武田邦彦さんなんかもそうなんですが、とてもいいことをいってくれているなあとか、鋭い洞察だなあと感心するところも多いのですが、この人たちは失点も多いですよね。何でそんなことをいうの、とか、そこは言わなきゃいいのにと思うようなことを言ったりもします。
 吉本さんという人は、よくよく考えると本当に失点が少ない人だと思います。どんなことに言及していても、きちんとヒットを打って出塁する人という感じです。凡打や三振がありません。ぼくはそんなふうに受けとめてきたと思います。
 偏狭なぼくの視野の中で、吉本さんほど失点が少なく出塁を重ねてきた人というのは見当たりません。唯一無二の人という感じです。
 ただ一つだけ、これは吉本さんに対してと言うよりも東京人に対しての偏見なのですが、「宵越しの金は持たない」などの豪快なことを言いふらしながら、実際には自分の生活はチマチマと守っているところがあって、そこがどうも信用できないと思うところがあります。東北人の文学者、たとえば太宰や宮沢賢治や、石川啄木などを見ると、東京人の言説を丸呑みして、そのあげく、生活を破綻させてしまうほど打ち込んじゃうというところがあったように思います。東京人は同じようなことを言っても、生活だけはきちんと破綻させないように収支をつけるんです。東北人は言ったことに対して過激に打ち込んじゃいます。そこは東北人の「初心さ」と言ってもいいと思いますが、東北人からすれば東京人の「したたかさ」とも感じられるところです。ぼくは一点だけ、吉本さんにもその東京人の資質はあったんじゃないかなと、つまり差異というものをわずかに感じ取る部分ではあります。ここはこれまで公言してこなかった部分で、もしかするとはじめてかも知れませんが、ちょっとだけ触れてみました。




77nishiyan:2017/06/13(火) 12:53:24
Re 感想について
「宵越しの金は持たない」では生活が成り立たないでしょうから、実際は二重底になっているのでしょうね。つまり、その感性はよく解釈するなら対人的・対外的な振る舞いの願望の美とでもいうのでしょうか。吉本さんは、自己欺瞞や作為を日常生活レベルまで詰めてきた人ですから、わたしはそんなところはないと思います。東京の自分の住む地域というものに対する受容と拒絶の劇も当然あったものと思いますが。また、現在では個々人が背負って来る地域性が均質化されていますから、その地域性の強度は近代ほどではなくなっているように思います。現在では、個々人の背負ってくるそれぞれの家族性が問題になってくるように思います。この件に、直接関係するかどうか分かりませんが、

 「言葉の吉本隆明?」に、新規項目434「味つけ」を新たに追加しました。



78佐藤公則(管理者):2017/06/16(金) 11:26:32
再び「東京人」のこと
 根っからの山育ちのぼくは、「東京の人」は派手な先進文化や生活に囲まれているものと思っていました。大学で東京に出て実際に「東京生まれの人」と付き合うことになり、その時に「東京の人」は思っていたよりも「堅実な生活」を送っていることに驚きました。若者のファッション誌や先進文化に踊らされ、またその担い手となっているのは、意外にも地方出身者の我々ではないのかとその時考えました。これはぼくの単なる思い込みで、その時の印象がずっと抜けきらないでいます。
 考えてみれば、地方出身者及び地方の生活者の生活が堅実ではないとは言えないわけで、ぼくの印象はいい加減なものだと言えば言えそうに思えます。ただどうもぼくら地方出身者には東京人の冷静さに比較してウルトラな部分があるのじゃないかなと、まだ何となくそう思っているところは残っている気がします。
 ぼくは吉本さんに関してはよく分かってはいないのですが、文学的、思想的、あるいは生活上においても破綻がなく、欠点がない人だなあと映って見えます。もちろん表層からしかうかがえないのですが。で、どちらかというと自分は欠点だらけの人間ですから欠点のある人を見てほっとするというところがあります。太宰や宮沢や石川は、共通して生活上の不如意と言いますか、うまくやれないところがあったようにみえます。いずれも生活に比して自分の文学的な格闘を優先させてしまったという印象です。時代的社会的状況のせいかもしれませんが、ぼくはこれをたいした根拠もなく勝手に東北人に結びつけようとしているわけです。さらに縄文人、いわゆる狩猟人の「血」にまで遡ってみるということを直感的なところで考えているのです。もちろんこんなことはぼくの個人的なロマンというだけのことで、たいした意味も何もありませんし、強く主張するわけでもありません。前回も今回も、いってみれば言葉に表出すべきではない部分を出しているのかも知れないので、まあ軽く受け流してもらえればと思います。 



79佐藤公則(管理者):2017/06/27(火) 22:33:06
自虐ネタになりますが
眠い目をこすりながらの
毎日詩
日ごとに軽くまた薄っぺらく

※「毎日詩」の用語は、山本育夫さんという詩人のブログのタイトルにあったものを、そのままお借りしています。山本育夫さんの詩は facebookから見られると思います。



80nishiyan:2017/07/04(火) 23:33:47
更新の情報です
データベース「吉本隆明を読む」・更新の情報

「言葉の吉本隆明?」に、新規項目437「内部の論理化1」を新たに追加しました。(2017.7.4)


買った吉本隆明全集のこのテーマ関連を読んでいます。何十年も前読んで以来の再読。まだ十分に言葉が生きてると感じます。

http://dbyoshimoto.web.fc2.com/



81佐藤公則(管理者):2017/07/06(木) 16:13:40
Re: 更新の情報です
> データベース「吉本隆明を読む」・更新の情報

ありがとうございます。早速読んでみます。



82佐藤公則(管理者):2017/07/06(木) 16:17:37
ぼくら(老人)の前に道はない
モデルなき
時代の苦渋
駆け抜ける



83佐藤公則(管理者):2017/07/17(月) 14:54:18
今日の2作目の変形
挫折なき若者文化
それとして
真なるものに蹉跌いま猶



84佐藤公則(管理者):2017/07/17(月) 15:31:00
さらに変形
衰退も消失もする
おのずから
超える優位を猶優れねば



85佐藤公則(管理者):2017/07/21(金) 22:25:19
7/21の作を別に
寂寥も
溶かさぬ酷暑
にただ病む




86nishiyan:2017/07/22(土) 14:20:10
案内します
おもしろかったので、ご存じでなければと思い以下に案内します。


★「石川九楊の『書』だ。」対談
(1)から(8)、やっと「読んで」しまった。

石川九楊の今までの書(言葉)論が、初心者にもわかりやすく説かれている。わたしのような文字(言葉)のとても下手でまずい文字しか書けない文字(言葉)の「悪人」(親鸞)、文字(言葉)界のはずれにいる者にも、説得性を持つわかりやすさを持っている。

ただ、横着に言えば、わたしは、文字以前もありたぶん文字以後もあるよなあ、という人類の大きな時間の尺度をつい思い浮かべてしまう。つまり、読めればいいやとついつい文字(言葉)を心ここにあらずのようにいいかげんに扱ってしまう。今ではパソコンで、書字の過程は内在化されてしまっている。つまり、外部からうかがえないようになってしまった。

http://www.1101.com/kyuyoh/2017-07-12.html



87佐藤公則(管理者):2017/07/23(日) 14:44:29
Re: 案内します
> おもしろかったので、ご存じでなければと思い以下に案内します。
>
>
> ★「石川九楊の『書』だ。」対談
> (1)から(8)、やっと「読んで」しまった。
>

 紹介ありがとうございます。
??石川九楊の対談読みました。以前に新書版の何かを読んだことがありましたが、その時にはピンと来なくて、それっきりで読んだことがありません。今回の対談は分かりやすかったですね。筆致から時間や勢いが感じ取れるというあたりが一番ピンと来たことでした。

 日本も日本語もこれからさまざまに変わりゆくことは必至だと思います。



88佐藤公則(管理者):2017/07/27(木) 14:24:50
7/27の2作目を別に
「いまここ」に小石のごとく在るだけで
一歩の着地惑わせたかも



89佐藤公則(管理者):2017/08/11(金) 21:54:25
8/11の別作
夕食(ゆうげ)後の
睡魔を跨ぐ
音花火



90佐藤公則(管理者):2017/08/12(土) 11:49:54
8/11をもうひとつ
夕食(ゆうげ)後の
静寂(しじま)に開く
音花火



91佐藤公則(管理者):2017/08/19(土) 16:37:22
8/19を別に
叶うなら母音を捨てて生き直し
金切り声でがなり立てたい






92佐藤公則:2017/09/10(日) 16:04:21
9/10の別作
向日葵も
秋桜も咲く
田舎道




93佐藤公則:2017/09/12(火) 18:51:09
9/12にもうひとつ
「さいなら」と
掛け合う子らの
秋夕焼



94nishiyan:2017/09/26(火) 12:36:45
データベースの更新情報です
データベース「吉本隆明を読む」・更新の情報・

「言葉の吉本隆明?」に、新規項目453「危うい社会状況での対処法」を新たに追加しました。(2017.9.26)

 ※ 吉本さんは、現在的な悪状況を10年以上も前に探知しています。

#吉本隆明
#データベース・吉本隆明を読む

http://dbyoshimoto.web.fc2.com/



95佐藤公則:2017/09/26(火) 16:08:50
ありがとうございます
データ情報更新のお知らせありがとうございます。早速拝見させてもらいました。吉本さんの言葉、それにnishiyanの感想、共にためになり、鼓舞されるものでした。ぼくもそれに倣うつもりでいます。



96nishiyan:2017/10/29(日) 00:52:51
Tシャツ詩20171028
https://img.shitaraba.net/migrate1/6900.regist/0000087M.jpg

Tシャツ詩を作ってみました。



97nishiyan:2017/10/29(日) 11:29:25
Tシャツ詩20171029
https://img.shitaraba.net/migrate1/6900.regist/0000088M.jpg

いくつか作ってみようかと思っています。(バーチャルとして)



98佐藤公則:2017/10/29(日) 15:03:33
(無題)
これ、なんかよく分からないけど、いいですね。(^_^)
新しいジャンルとして確立される可能性があるんじゃないですか。
面白いです。



99nishiyan:2017/10/29(日) 20:00:36
Tシャツ詩について
運動クラブの子どものスポーツ着の背中などに、何やら格言めいた言葉や鼓舞するような言葉が書いてあるのを前から気になっていました。さらに先日、よしもとばななさんの小説の挿絵を描かれたことがある奈良美智さんが、Tシャツに自分の絵を印刷したのを近々売りに出すということで、見本版の画像をツイッターにUPされていました。それに短歌Tシャツというのはあるらしいです。というわけで、Tシャツ詩もよさそうだなと思っていくつか作ろうと思っています。着て歩くというTシャツというものの強い制限がありますが、かえって気楽な面白みを感じてしまいました。



100nishiyan:2017/10/30(月) 12:02:26
Tシャツ詩
https://img.shitaraba.net/migrate1/6900.regist/0000091M.jpg

Tシャツ詩2017.10.30




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