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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

261避難民のマジレスさん:2021/03/18(木) 20:55:56 ID:Dp/qMVVc0
男が落ち着いた後、托鉢僧は彼に「あなたが水中にいたとき、心の中にどんな欲望がありましたか?」と尋ねた。男は答えた。「欲望! 欲望はありませんでした。ただ、一つだけ、空気を吸いたいという欲求がありました。」托鉢僧は言った。「これが神に到達する秘訣です。これが決意なのです。そして、あなたの決意は、あなたの潜在的な力をすべて目覚めさせました。」

強烈な決意の瞬間には大きな力が生まれ、人は世界を離れて真理に入ることができる。決意だけで、人は世界から真理に入ることができ、決意だけで、人は夢から真理に目覚めることができる。

別れ際のこの時に、私はあなたにこのことを思い出させたいと思う:決意が必要だ。そして他には? 決意が必要であり、それに加えて修行を続けることが必要だ。あなたの修行は継続的でなければならない。山々から流れ落ちる滝を見たことがあるだろうか? それは巨大な岩さえも砕くことができる連続的な水の流れだ。もし人が絶えず無知の岩を砕くように努力するならば、最初は砕くことが不可能に見えた岩も、いつの日か塵と化すだろう。そして、その人は自分の道を見つける。

強い決意を持つと、そこに自我が投射されてしまいます。常に新たな決意を持って励み続けることで、いつしか自我が投射されていない時に観照が起きると、さしあたり理解すれば良いでしょうか?

262鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/18(木) 23:02:22 ID:1d4drIFg0
↑ そうじゃ、毎日決意わもつて実践し続けることで、自我をも超えた力を発揮できるようになるのじゃ。
 日々続ければ実践は無意識の働きにまで上達して行くのじゃ。
 無意識に成される観察で自我も見られるのじゃ。
 それまで精進あるのみなのじや。

263避難民のマジレスさん:2021/03/19(金) 21:16:46 ID:Dp/qMVVc0
道は間違いなくそこにある。しかし、既成の道を見つけようとしてはならない。自分で探すのだ、自分の努力で。 そして、それがなんと人に尊厳をもたらすことか! 自分自身の努力によって真理を手に入れることができるというのは、何とありがたいことだろう! マハヴィーラは、このことを伝えたくて、労苦によって得られる真理について語ったのだ。

真理は慈善で与えられる施しでは無く、達成することだ。決意と継続的な努力、そしてもう一つ、無限の忍耐が必要だ。真理は無限であり、終わりのないものであるから、それを待つためには無限の忍耐が必要だ。限りなく待って初めて、神が現れる。忍耐力のない者は、神に到達できない。このことも忘れないでほしい。

最後に、私はある話を思い出したので、あなたに伝えたい。架空の話ではあるが、これはまったくの真実だ。

ある天使が、年老いたサドゥーが座っている場所を通りかかった。そのサドゥーは天使に、「どうか神に、私がモクシャに到達し、解放を達成するのにどれくらいの時間がかかるか、尋ねてください」と言った。年老いたサドゥーの近くには、とても若く、入門したばかりのサニヤシンが住んでいた。彼はガジュマルの木の下に座っていた。天使は若いサニヤシンに、自分のモクシャについても神に尋ねて欲しいかどうかを尋ねた。しかし、サニヤシンは何も言わなかった。静かに、穏やかに、黙っていた。

心を静めて、今日も励みます。

264鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/19(金) 23:49:31 ID:1d4drIFg0
誰でも悟りへの道は自分で探さなければならないとオショーは言うのじゃ。
自分の心を追求することは自分だけができることだからなのじゃ。
それには自分の決意や努力や忍耐が必要なのじゃ。
経典や師匠の言葉もその実践の参考にできる程度なのじゃ。

265避難民のマジレスさん:2021/03/20(土) 21:06:52 ID:Dp/qMVVc0
しばらくすると天使は戻ってきた。そして年老いたサドゥーに言った、「私はあなたのモクシャについて神に尋ねました。神は、さらに3つの誕生が必要になると言っています。」 老人は激怒し、目が充血した。彼は数珠を投げ捨てて言った。「あと3回もの誕生!それは非道だ!」

その後、天使は若者のところに行って言った、「私はあなたのことも神に尋ねました。神は、あなたが下に座っているガジュマルの木の葉の数と同じくらい多くの生の間、修行を実践しなければならないと言いました。」若いサンニヤシンは非常に幸せを感じ、彼の目は喜びの涙でいっぱいになった。彼は飛び上がって踊り始めた。「それなら、私は到達しています!」と言った。この世界にはたくさんの木があり、それぞれの木にはたくさんの葉があります!もし私がこの小さなガジュマルの木に葉があるのと同じくらいの数の誕生で神に到達するならば、私はほとんど神に到達しています。」

このようにして、真理の作物は収穫される。そして、あなたはこの物語の結末を知っているだろうか? 若いサニヤシンは踊り続け、踊り続け、まさにその瞬間、彼は自由になり、神に到達した。静謐と無限の愛と忍耐のその瞬間がすべてだった。まさにその瞬間に解放されたのだ。これを私は無限の忍耐と呼ぶ。そして、無限の忍耐を持つ者は、今ここですべてを達成する。この精神的態度そのものが最終的な達成だ。 あなたはこれほど長く待つことができるだろうか? この質問であなたに別れを告げよう。

これで『Sadhana path 修行の道』の翻訳は終わりです。
ここまでで翻訳などにおかしなところがありましたら、ご指摘ください。
また、このオショーの説法全体に関して、何か付け加えることやコメントなどがありましたら、お願いします。

これまで、毎日コメントをくださり、ありがとうございました。
読み終えるまでに無我まで行きたいと思っていましたが、未だかなわずです。しかし、
ふたりの本物の覚者に同時に関わることができて、言葉で表現できないくらいありがたく、幸運に感じています。
悟りを得るまで、決意を持って努力を続け、無限の忍耐で精進します。

266鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/20(土) 23:04:42 ID:1d4drIFg0
↑ご苦労さんだったのじゃ。
大変な翻訳の作業を良くがんばったのじゃ。
立派なのじゃ。

よい翻訳なのじゃ。
オショーの説きたかった事がよくわかったのじゃ。

この説法では悟りの道に必要なことを一通り説いているのじゃ。
まだ慣れない説法に苦心している様子がうかがえるのじゃ。
お釈迦様の初転法輪にも似た初々しさがあるのじゃ。
基本的な悟りへの道を概要にしたものといえるのじゃ。
後には更に詳しく一つ一つの道や注意を説いていくことになるのじゃ。
迷った者はよく吟味して読んでみると善いのじゃ。

267避難民のマジレスさん:2021/03/21(日) 00:23:49 ID:Y54sIEBM0
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦)つ旦
と_)_)
どうも、ありがとうでありました。
たいへん勉強になったであります。

268避難民のマジレスさん:2021/03/21(日) 21:18:32 ID:Dp/qMVVc0
>>266
>>267
ありがとうございます。実践しつつ、吟味して読もうと思います。
ひと通り確認しましたら、自由にダウンロードできるように電子書籍化します。

269鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/22(月) 22:08:18 ID:1d4drIFg0
↑善いことじゃ。
どんどん実践すると善いのじゃ。

270避難民のマジレスさん:2022/01/06(木) 16:20:18 ID:l5IobA3w0
>>268
書籍化の進行は如何なものでしょうか?

271避難民のマジレスさん:2022/03/18(金) 00:17:04 ID:/1rvHmUg0
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号4-5)国訳大蔵経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号25-26)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大蔵経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

◎第一歸敬序

 *歸命盡十方。
 最勝業徧知。色無礙自在。救世大悲者。及彼身體相。法性眞如海。無量功徳藏。
 如實修行等。
 爲欲令衆生除疑捨邪執。起大乘正信。佛種不斷故。

     盡十方の
     最勝業の徧知色無礙自在救(ぐ)世大悲者と及び、彼(か)の身(しん)の體相、法性(ほっしょ
    う)眞如海、無量の功徳藏と、
     如實修行等とに
     歸命(きみゃう)したてまつる。
     衆生をして疑を除き邪執を捨て、大乘の正信を起し、佛種をして斷ぜざらしめんと欲する  
    爲の故に。

◎第二正宗分

論曰有法能起摩訶衍信根是故應説。
説有五分云何爲五。
一者因緣分。
二者立義分。
三者解釋分。
四者修行信心分。
五者歡修利益分。

  論じて曰はく、法有り、能く摩訶衍(えん)の信根を起こす。是の故にまさに説くべし。
  説に五分(ぶん)有り、いかんが五と為す。
  一には因緣分。
  二には立義分。
  三には解釋(げしゃく) 分。
  四には修行信心分。
  五には歡修利益(かんじゆりやく)分。

脚注;主に 国訳大蔵経より抜粋。

 歸命盡十方〜:始に佛・法・僧の三寶に帰敬することを述べたり。歸敬序と名く。經論の發端に之を置くは印度の古習たり。
 最勝業:三寶の中、佛寶を示す。其名を呼ばず、唯其徳を擧げて、佛たるを知らしむ。
 彼身體相〜:次に佛の説きたまへる法寶をいふ。
 如實修行:次に僧寶を示す。卽ち眞如の理を證(あか)りて、行を修する聖者をいふ。
 歸命:南無(Namas)譯、己が身命を盡して、三寶に歸依するをいふ。
 爲欲令衆生〜:次に、三寶に歸依する趣意を述ぶ。
 佛種:衆生が佛となる種子なる。
 論曰:本論の著者、馬鳴菩薩が論じて曰ふ也。既に三寶に歸依し終りたれば、以下本論(正宗分)に入る。先に 益を標して説を起こす也。
 法:(Dharma)、以下此の論に説く所の教を意味する也。
 摩訶衍:(Mahayana)、大乘と譯す。
 信根:(Sraddhendriya)、能くものを生じ,又増長せしむるの謂なり。信はよく一切の善法を生ぜしむるが故に信根といふ。
五分:五章と云ふが如し。
(´・(ェ)・`)b

272鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/18(金) 21:20:56 ID:1d4drIFg0
↑ ご苦労さんなのじゃ。

 大乗起信論とはインドの馬鳴が書いたというが、実際はあやしいのじゃ。
 もっと後の行者の著作であると言うのじゃ。
 あるいは中国で書かれたとさえいうのじゃ。

 誰が書いたものでもよいのじゃ。
 仏教徒にとって意義のある文なのじゃ。

 論とはいうが実際には大乗仏教の概要のようなものじゃ。
 今で言うガイドブックなのじゃ。
 簡略に大乗仏教の全容が記されているのじゃ。

 最初の章は因縁分、この論を何故書いたのかという動機なのじゃ。
 二立義分、大乗の二つの大事な教えなのじゃ。
 三は解釋(げしゃく) 分、前章の解釈なのじゃ。
 四は修行信心分 大乗の実践法なのじゃ。
 五は歡修利益分、大乗を信仰して実践した利益の教えなのじゃ。

273避難民のマジレスさん:2022/03/18(金) 23:00:28 ID:x2FQRAbo0
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号5-6)国訳大蔵経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号26-27)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大蔵経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●正宗五分第一因緣分

 初説因緣分。
 問曰有何因緣而造是論。
 答曰是因緣有八種。云何爲八。

     初(はじめ)に因緣分を説かん。
     問うて曰く、何の因緣有って、此の論を造るや。
     答へて曰く、是の因緣に八種有り。云何(いかん)が八と爲す。

 一者因緣總相。所謂爲令衆生離一切苦。得究竟樂。非求世間名利恭敬故
 
     一には、因緣總相(そうさう)。所謂(いはゆる)、衆生をして、一切の苦を離れ、究竟樂(くきゃうらく)を得せしめん 
    が爲にして、世間の名利恭敬(くぎゃう)を求むるにあらざるが故に。

 二者爲欲解釋如來根本之義。令諸衆生正解不謬故  

     二には、如來根本之義を解釋(げしゃく)し、諸(もろもろ)の衆生をして、正しく解(げ)してあやまらざらしめんと欲 
    する爲の故に。

 三者爲令善根成熟衆生。於摩訶衍法。*堪任不退信故。

     三には、善根成熟(じょうじゅく)の衆生をして、摩訶衍(まかえん)の法に於いて、*堪忍(かんにん)不退信ならしめ
    んが爲の故に。 

 四者爲令善根微少衆生。修習信心故。

     四には、善根微少(みしょう)の衆生をして、信心を修習(しゅじふ)せしめんが爲の故に。

 五者爲示法便。消悪業障善護其心。遠離癡慢。出邪網故。

     五には、法便を示し、悪業障を消(せう)して、善く其の心(しん)を護り、痴慢(ちまん)を遠離(をんり)し、邪網を
   出(い)でしめんが爲の故に。

 六者爲示修習止觀。對冶凡夫二乘心過故

     六には、止觀を修習することを示し、凡夫・二乘の心過を對冶せしめんが爲の故に。

 七者爲示專念方便。生於佛前。必定不退信心故。

     七には、專念の方便を示し、佛前に生ぜしめ、必定して信心を退せざらしめんが爲の故に。

 八者爲示利益勸修行故。

     八には、利益(りやく)を示し、修行を勸(すす)むる爲の故に。
   
 有如是等因緣所以造論。

     是(かく)の如き等の因緣有り、所以(ゆゑ)に論を造る。



脚注;主に 国訳大蔵経より抜粋。

 因緣總相:此の論を造る因緣を概括し説くなり。動機
 究竟樂:佛果涅槃をさす。
 如來根本之義:佛陀教説の根本義なり。
 初に立義分と、解釋分の中、顯示正義と對冶邪執との爲に、この發起因緣を作る。
 善根:種々の善を生じる根本のこと。無貪,無瞋,無痴を三善根という。
 癡慢(ちまん):愚痴(Moha)と高慢(Mana)
 止觀:奢摩他(Samatha止)と毘鉢舎那(Vipasyana觀)となり。止とは妄念を止息するの義、觀とは觀智通達して、眞如に契會するの義なり
 二乘:聲聞乘(Sravakayana)と緣覺乘(Pratyekabuddha)となり。修行の上に於ては、凡夫二勝るること遥かなるも、いまだ佛の域に達せざる聖者をいふ。 
 二乘の心過とは、此等凡聖の有する邪なる執着なり、卽ち個人的我の存在と、萬有諸法の實在とを信ずる、所謂我執法執を云ふ。
 專念:専修念佛
.(´・(ェ)・`)b

274鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/19(土) 23:47:02 ID:1d4drIFg0

 因縁分には論を表す八つの動機が書かれているのじゃ。
 
 一 衆生を一切の苦から離れさせて、究竟樂、つまりは悟りを得させるためというのじゃ。

 二 如来の教えの根本の意味を解き明かし、衆生に正しく教えるためというのじゃ。

 三 善根があり、教えを受ける心根の成熟した者に大乗の道から不退転にするためというのじゃ。
 
 四 善根がまだ小さい者には信心を習わせるためというのじゃ。

 五 方便を示して、罪悪業を消して、心を守り、愚かさや傲慢を離れさせるためというのじゃ。

 六 止観を習わせ、凡夫や二乗をなくすためというのじゃ。

 七 念仏を示して、仏の前に生まれさせて不退転にすためというのじゃ。

 八 実践の利益を示して、修業を勧めるためというのじゃ。

 なかになか立派な動機であるが、実際には止観を知らないのじゃ。

275避難民のマジレスさん:2022/03/20(日) 10:26:55 ID:Mb4sDN120
くま質問
「実際には止観を知らない」とは、「止観を習わせ、・・二乗をなくすため」と説いているからでありましょうか?
自己の悟りのみを追求する「聲聞」、独力で悟り、それを他人に説かない「縁覚」を、心のあやまち「心過」としているからでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

276鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/20(日) 23:04:00 ID:1d4drIFg0
↑ そうじゃ、止観を教えるというが、実際にはもはやわかっていなのじゃ。
 二乗とは関係ないのじゃ。
 ただ単に大乗の者も、この著者ももはや正しい止観は知らないというだけなのじゃ。

277避難民のマジレスさん:2022/03/20(日) 23:18:34 ID:naSg..kE0
3.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号6)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号27)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 問曰修多羅中具有此法。何須重説。
 答曰修多羅中雖有此法。以衆生根行不等受解緣別。
 所謂如來在世衆生利根。能説之人色心業勝。圓音一演異類等解則不須論。

     問うて曰はく、修多羅の中(うち)に、具(つぶさ)に此の法有り、何ぞ重ねて説くことを須(もち)ふるや。
     答へて曰はく、修多羅の中に此の法有りと雖(いへど)も、衆生の根行等しからざると、受解(じゅげ)の緣、別なる
    を以てなり。
     所謂(いはゆる)如來の在世は、衆生利根にして、能説の人(にん)も色心の業勝(すぐ)れ、圓音(ゑんのん)一た
    び演(の)べたまふに、異類等しく解(げ)すれば、則(すなは)ち論を須(もち)ひず。

 若如來滅後。或有衆生能以自力廣聞而取解者。或有衆生亦以自力少聞而多解者。或有衆生無自*智力於廣論。而得解者。*亦有衆生復以廣論文多爲煩。心樂總持少文而攝多義能取解者。
 如是此論爲欲總攝如來廣大深法無邊義故。應説此論

     若し如來の滅後は、或(あるひ)は衆生の、能く自力を以て、廣く聞いて解(げ)を取る者有り。」或は、衆生の亦
    (また)自力を以て、少しく聞いて多く解する者有り。」或は衆生の、自(じ)の*心力無くして、廣論に因って解を得 
    る者有り。」*自ら衆生の、復(ま)た廣論の文(もん)多きを以て煩(わずら)はしと爲し、心(しん)に、總持の文(もん)
    少くして多義を攝(せつ)するを樂(よろこ)び能く解(げ)を取る者もあり。  
     是(かく)の如く此の論は如來の廣大深法(じんぽう)の無邊(むへん)の義を總攝せんと欲するが爲の故に、まさに
    此の論を説くべし。  
 
脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 修多羅(Sutara):經
 根行:根とは衆生の機根、卽ち心的素養をいふ。行とは實踐的意力をいふ。
 受解:了解なり。
 能説の人:佛陀をいふ。能説:所説に對す。卽ち説かるる方(所説)に對して、説く方をいふ。法を説く側のこと。仏・菩薩等をさす
 色(Rupa):心に對していふ。身の謂なり。業とは、はたらきなり。
 異類:機類の異れる輩。
 自力:經を聞いて佛意を解するを得るが故に、他の論などを要するなし。故に自力といふ。
 總持Dharani(陀羅尼)の譯
 總攝:総摂  物事のすべてを支配し、管理すること。統治すること。

(´・(ェ)・`)b

278鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/21(月) 22:44:48 ID:1d4drIFg0

 昔の論文には読む者の疑問を想定して、問答が書かれていたりするのじゃ。
 今で言うQ&Aじゃな。

 質問者は、仏教の法は経典に書かれているのに、なぜ今又このような論を表すのか聞いたのじゃ。
 
 著者は答えてお釈迦様が居た時は修業者も賢い者達ばかりであり、説法する方も心身が優れていて、
 説法も優れてみんな理解できたというのじゃ。
 そうであるから論も表さなくてよかったのじゃ。

 今の者は自力で広く聞いて解るも者もあり、少し聞いただけで解るものもあり、
 或いは自力ではわからないが、多くの者達が論争してわかるものがあり、
 或いは覚えていることは少ないが、意味を考えて解るものもいるのじゃ。

 このように、如来の法の広大な意味を集めて理解する者もいるから論を説くというのじゃ。

279避難民のマジレスさん:2022/03/21(月) 23:05:22 ID:Cbeq53zc0
4.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号6-7)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号28)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●正宗五分第二立義分

已説因緣分。次説立義分。摩訶衍者。總説有二種。云何爲二。一者法。二者義。所言法者謂衆生心。是心則攝一切世間出世間法。依此心顯示摩訶衍義。

   已(すで)に因緣分を説けり。次に立義(りふぎ)分を説かん。
   摩訶衍(まかえん)とは、總じて説くに二種有り。云何(いかん)が二と爲す。
    一には法。
    二には義。
    謂ふ所の法とは、謂(い)はく衆生心なり。是の心は則ち、一切世間出世間の法を攝す。此の心 
   に依って、摩訶衍の義を顯示す。

何以故。是心眞如相。卽示摩訶衍體故。
是心生滅因緣相。能示摩訶衍自體相用故。
所言義者則有三種。云何爲三。
一者體大。謂一切法眞如平等不増滅故。
二者相大。謂如來藏。具足無量性功徳故。
三者用大。能生一切世間出世間善因果故
一切諸佛本所乘故。一切菩薩。皆乘此法到如來地故。 

   何を以っての故に。是の心眞如の相は、卽ち摩訶衍の體を示すが故に。
   是の心生滅因緣の相は、能く摩訶衍の自體・相用を示すが故に。
   言ふ所の義とは、則ち三種有り。云何(いかん)が三と爲す。
   一には體大。謂はく、一切法は眞如平等にして、増滅せざるが故に。
   二には相大。謂はく、如來藏は無量の性・功徳故を具足するが故に。
   三には用大。能く一切世間・出世間の善因果を生ずるが故に。
   [此の法は]一切諸佛の本所乘の故に。一切の菩薩は、皆此の法に乘じて、如來地に到るが故に。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 因緣分:論を造る緣由
 立義分:論の根本要素
 摩訶衍:大乘を概説して、(1)その實體は。如何なるものかを示すを「法」とし、(2)其の有する意義、如何を説くを「義」とす。 
 出世間:世間(世俗)に對して超世間的なる聲聞、緣覺、菩薩佛の境をいふ。
 眞如:(Bhutatathata)眞實にして虚妄を離れたるを眞、常住にして不變なるを如といふ。
 相:意義をいふ。是の心眞如の相とは、吾人の有する衆生心の實體たる眞如の至純なるを指していへる。
 心生滅因緣の相:かの衆生心の起滅する現象的方面をいふなり
 體と相と用を三大といふ。
 體大:實體といふ程の意なり。
 一切法:(Saravadharma).。現在にあらはれたる現象を該羅していふ。(該羅:すべてに精通している)諸法、萬法。
 眞如平等不増滅:一切諸法は、もと唯一眞如に外ならず、故に迷ひて衆生となり、悟りて佛となるも、時空を超越せざるものなり。
 粗大:實體に具有する屬生なり。
 如來藏(Tathagata-gabha) 眞如の相大〔屬性〕に名づけたる名。衆生心の本性の、清浄不變なるを云ふ。
 性・功徳:性は性能、功徳(Punya)はたらきといふ程の意。
 用大:屬性(相大)の有するはたらきをいふ。
 本所乘:本とは因本。卽ち諸佛が尚ほ菩薩因位に在りし時、この法を乗りものとして修行せられたるをいふ。
(´・(ェ)・`)b

280鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/22(火) 23:23:32 ID:1d4drIFg0

 大乗には二つの説法の方法があると言うのじゃ。

 一つは法であり、
 二つは義なのじゃ。

 その法とは衆生の心だというのじゃ。
 全ての法は世間の法も仏教の法も、心で行われるからなのじゃ。
 その心で大乗もまた実践されるのじゃ。

 なぜならばその衆生の心には最初から真如が宿っているからというのじゃ。
 それこそが大乗の本体を示すものなのじゃ。

 その心の生滅因縁の相は、大乗の自体と相用を示すというのじゃ。

 
 二つ目の義には三種あるというのじゃ。

 一つ目は体大、一切法は真如平等にして増減しないからというのじゃ。
 二つ目は相大、如来蔵は無量の功徳をもっているからというのじゃ。
 三つ目は用の大、世間と修業においてよい因果を生ずるからというのじゃ。

 このように大乗の法は諸仏の本来の乗り物であるから、諸仏は皆大乗で如来になったというのじゃ。

281鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/22(火) 23:41:04 ID:1d4drIFg0

 真如とは涅槃であり、仏性であり、オショーのワンネスでもあり、わしがいう不死の意識でもあるものじゃ。
 それは本来衆生の心の中にあるものじゃ。
 それを説き明かすのが大乗の法の本体だというのじゃ。

 仏になれる性質や、目覚めて至る如来の境地とは、本来悟っていない衆生の心の中にあるものじゃ。
 目覚めるとか、仏陀になるということは何か人間ではない別の者になるということではなく、むしろ本来の人間のありように還って行くこととも言えるのじゃ。
 そうでるあから自分は仏陀になれないのではないかとか、思う必要は無いのじゃ。
 衆生は本来仏陀なのじゃ。

 このようなことは確かに今までの仏教では説いて来なかったことなのじゃ。
 お釈迦様も毒矢の例えで説いた通り、仏教には論はなく、ただ実践によって知ればよいという説き方だったのじゃ。
 それでは理解できず実践も出来ないもののために大乗は真如を説いたと言えるのじゃ。

 それこそが大乗の本体であり、真髄といえるのじゃ。
 そして大乗の存在意義も、衆生の心にこの真如があり、衆生本来仏であると説き明かすことにあると言えるのじゃ。

 そうであるからこれからもこの真如はこの論文の至る所に出てくるのじゃ。
 宝珠の例えとか、海と波の例えとか、いろいろに例えても説いているのじゃ。
 それを知れば大乗起信論を読む意義もあったと言えるのじゃ。

282避難民のマジレスさん:2022/03/22(火) 23:44:11 ID:.qSC94yI0
5.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号6-7)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号29)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●正宗五分第三解釋分

已説立義分。次説解釋分。
解釋分有三種。如何爲三。
一者顯示正義。
二者對冶邪執。
三者分別發趣道相。

   已(すで)に立義分を説けり。次に解釋(げしゃく)分を説かん。
   解釋分は三種有り。如何(いかん)が三と爲す。
   一には正義を顯示し、
   二には邪執を對冶し、
   三には發趣道相を分別す。

●解釋分第一顯示正義

顯示正義者。依一心法有二種門。云何爲二。
一者心眞如門。
二者心生滅門。
是二種門。皆各總攝一切法。
此義云何。以是二門不相離故。

   正義を顯示すとは、一心の法に依って、二種の門有り。いかんが二と爲す。
   一には心眞如門。
   二には心生滅門。
   この二種の門、皆各(おのおの)總じて一切法を攝す。
   此の義いかん。是の二門相離れざるを以ての故に。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 正義:正しく所立の大乘の義をいふ。
 邪執:大いに明かせる正に悖(もと)る執著也
 發趣道相:菩提の道に發心趣向する實踐門なり。
 一心:所謂衆生心、卽ち如來藏心なり。
 心眞如門:大乘の實體たる衆生心をその絶對的方面より論じたる一段なり。
 心生滅門:前者に對して衆生心を相對的方面より説く一段なり。
 皆各總攝一切法:この二門はもと一心(衆生心、如來藏心)の兩面にして、生滅差別の中に不生滅平等の性あり、平等不生滅の上に、生滅差別の現象を生ずるなり。
 
(´・(ェ)・`)b

283避難民のマジレスさん:2022/03/22(火) 23:44:11 ID:.qSC94yI0
5.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号6-7)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号29)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●正宗五分第三解釋分

已説立義分。次説解釋分。
解釋分有三種。如何爲三。
一者顯示正義。
二者對冶邪執。
三者分別發趣道相。

   已(すで)に立義分を説けり。次に解釋(げしゃく)分を説かん。
   解釋分は三種有り。如何(いかん)が三と爲す。
   一には正義を顯示し、
   二には邪執を對冶し、
   三には發趣道相を分別す。

●解釋分第一顯示正義

顯示正義者。依一心法有二種門。云何爲二。
一者心眞如門。
二者心生滅門。
是二種門。皆各總攝一切法。
此義云何。以是二門不相離故。

   正義を顯示すとは、一心の法に依って、二種の門有り。いかんが二と爲す。
   一には心眞如門。
   二には心生滅門。
   この二種の門、皆各(おのおの)總じて一切法を攝す。
   此の義いかん。是の二門相離れざるを以ての故に。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 正義:正しく所立の大乘の義をいふ。
 邪執:大いに明かせる正に悖(もと)る執著也
 發趣道相:菩提の道に發心趣向する實踐門なり。
 一心:所謂衆生心、卽ち如來藏心なり。
 心眞如門:大乘の實體たる衆生心をその絶對的方面より論じたる一段なり。
 心生滅門:前者に對して衆生心を相對的方面より説く一段なり。
 皆各總攝一切法:この二門はもと一心(衆生心、如來藏心)の兩面にして、生滅差別の中に不生滅平等の性あり、平等不生滅の上に、生滅差別の現象を生ずるなり。
 
(´・(ェ)・`)b

284鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/23(水) 23:44:03 ID:1d4drIFg0

 立義分を終えて解釈分なのじゃ。

 解釈分は三種あるというのじゃ。

 一 には正義を顕示するのじゃ。

 二 には邪執を対治するのじゃ。
 
 三 には發趣道相を分別するのじゃ。
 

 正義を顕示するとは、一つの心の法によって、二種の門があると言うのじゃ。

 一つは真如の門なのじゃ。

 二つ目は心生滅の門なのじゃ。・

 この二つの門で全ての法をとくことができるというのじゃ。
 なぜならばこの二門は離れることができないからというのじゃ。

 
 また真如がでてきたのじゃ。
 真如のありようから法をとくことが正義の顕示の一つなのじゃ。
 もう一つは心が無明によって生滅を繰り返すからそこから説くことなのじゃ。

 それは心のありようによって説くことであるから二つの門は同じであり、離れられないのじゃ。

285避難民のマジレスさん:2022/03/24(木) 00:08:35 ID:qDqxAQJQ0
6.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号7-8)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号29-30)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●第一 心眞如門

心眞如者。卽是一法界大總相法門體。
所謂心性不生不滅。
一切諸法唯依妄念而有差別。若離心念則無一切境界之相。
是故一切法從本已來。離言説相。離名字相。離心緣相。畢竟平等無有變異。不可破壊。唯是一心故名眞如。
以一切言説假名無實。但隋妄念不可得故。言眞如亦無有相。
謂言説之極。因言遺言。
此眞如體。無有可遺。以一切法悉皆眞故。亦無可立。一切法皆同如故。
當知一切法。不可説不可念。故名爲眞如。

   心眞如とは、卽ち是一法界大總相法門の體なり。
   所謂心性は不生不滅なり。
   一切の諸法は、唯妄念に依って差別(しゃべつ)有り。若し心念を離るれば、すなはち一切境界の相無し。
   是の故に、一切法は本(もと)より已來(このかた)、言説(ごんせつ)の相を離れ、名字の相を離れ、心緣の相を離れ、
  畢竟平等にして、變異有ること無く、破壊すべからず。唯是れ一心なり。故に眞如と名づく。
   一切の言説は、假名(けみゃう)にして實無く、ただ妄念に随って、不可得なるを以ての故に、眞如と言ふも、亦相
  有ること無し。
   謂はく、言説の極(ごく)、言(ごん)に因って言を遣(や)る。
   此の眞如の體は遺(や)るべき有ること無し。一切の法は、悉(ことごと)く皆眞なるを以ての故に。亦立つべき無し。
  一切の法は皆同じく如(にょ)なるを以ての故に。
   當(まさ)に知るべし、一切の法は説くべからず、念ずべからず、故に名づけて眞如と爲す。

問曰。若如是義者。諸衆生等云何隨淳而能得入
答曰。若知一切法雖説無有能説可説。雖念亦無能念可念是名隨順。若離於念。名爲得人。

   問うて曰はく、若し是くの如き義ならば、諸(もろもろ)の衆生等(とう)は、云何(いかん)が隨順し、而も能く得入(とく 
  にゅう)せん。
   答へて曰はく、若し、一切の法は、説くと雖も能説の説くべき有ること無く、念ずると雖も亦能念の念ずべき無しと
  知らば、是を隨順と名づく。若し念を離るれば、名づけて得人と爲す。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 眞如門:初に、その本體を擧示す。眞如は、もと、吾人の言語思慮を絶したるものにて、唯自ら證悟して始めて知る 
べき所なるを、假に消極的言説を洩って其の一斑をあらはさんとするが、此の一段なり。故に慈(ここ)に説く所を稱して離言眞如といふ。
 一法界大總相法門:平等無二にして、出世見間の聖法も、之を基として起こるが故に、法界(聖法の源)といひ、此の中一切の諸法を含有するが故に大と呼び、生滅門を別相門といふに對して眞如門を總相門とす。
 心性:衆生一心の本性。之は迷ふと悟るとに於て、生ずる事も滅する事もなし。
 妄念:通常吾人の有する思慮をいふ。佛陀の心識の澄浄(ちょうじょう)なるに對していふなり。妄心
 心念:心とは吾人の有する心。念とは、この心の差別的にはたらきをいふ。妄念・相對的の思慮
 無一切境界之相 :我他 彼此(がたひし)等と差別する如き執着なく、随って、一切の境界を差別することなし。
 心緣:思慮といはんが如し。
 〜不可得:總ての言語は吾人の相對的の心によって與へたるものなる故、絶對の説明に契當すべからざるをいふ。
 謂言説之極。因言遺言。此眞如體。無有可遺。:眞如てふ(と言う)名は、あらゆる相対的名字を拝して最後に穢たる(言説の極)なれば、この眞如という名(言)に因って、總ての他の差別的言説を否定し(遣る)たるなり。
 遣る:否定するなり。
 立つ:相対的言説を以て説くをいふ。
 随順:眞如の妙理に随順するなり。
 得入:悟入と云はんが如し
 能説:所説に對す。卽ち説かるる方(所説)に對して、説く方をいふ。法を説く側のこと。仏・菩薩等をさす
(´・(ェ)・`)b

286鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/24(木) 23:37:17 ID:1d4drIFg0
一つ目の心真如門の解説なのじゃ。

 心眞如とはこれは一法界大総相法門の体だというのじゃ。
 つまり全ての法の本体だというのじゃ。
 これこそが真の法であり、他の法は方便であるとも言えるのじゃ。

 しかしそれを解き明かすことは困難なのじゃ。
 それは言葉を離れたものであるからのう。
 故に方便の法も説いているのじゃ。

 心性は不生不滅とは真如であるからなのじゃ。
 一切の法は妄想であれこれと差別があるというのじゃ。
 もし観念を離れれば一切の境界の相はないというのじゃ。
 全てが一つであると言うのじゃな。

 このゆえに一切法は元来 言葉や名前や縁起の相も離れて平等であり、変異なく、破壊も出来ないものなのじゃ。
 ただ一つの心があるだけなのじゃ。
 それゆえに真如と名づけるというのじゃ。
 一切の言葉や説は仮の名前であり、実際は無いものであり、ただ妄想にしたがって、得られないものであるから、真如と言うのも本当は何も無いのじゃ。
 
 言説の極まるところは言葉で言葉を遺すことにあるのじゃ。
  真如の体は遺す言葉も無いのじゃ。
 一切の法はことごとく皆真如であるからというのじゃ。

 観念を立てることも無いのじゃ。
 一切の法は皆、如であるからというのじゃ。
 本体のない、なにかの如きものというのじゃな。

 正に知るべきなのは、一切の法は説いてはいかんもの、念じてはいかんものであるから名づけて真如なのじゃ。

 また質問するのじゃ。
 もしそのようであれば衆生はどのように修業したらよいのかと聞いたのじゃ。
 答えは 一切の法はよく説いたものでも説いたものではなく、念じることも念じたものではないと知るべきなのじゃ。
 これが正しい実践というのじゃ。
 もし観念を離れれば、それが法に得入したといえるのじゃ。

287避難民のマジレスさん:2022/03/24(木) 23:42:11 ID:98qjeB4I0
7.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号8-9)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号30-31)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲二種ノ眞如

 復次眞如者。依言説分別有二種義。云何爲二。
 一者如實空。以能究竟顯實故。二者如實不空。以有自體具足無漏性功徳故。
 所言空者。從本巳來。一切染法不相應故。謂離一切法差別之相。以無虚妄心念故。當知眞如自性。非有相。非無相。非非有相。非非無相。非有無倶相。非一相。非異相。非非一相。非非異相。非一異倶相。
 乃至總説依一切衆生以有妄心。念念分別。皆不相應故。説爲空。若離妄心。更無可空故。
 所言不空者。巳顯法體空無妄故。即是眞心常恒不變。浄法滿足則名不空。
 亦無有相可取。以離念境界。唯證相應故。

    復(また)次に、眞如は、言説(ごんぜつ)に依って分別するに、二種の義有り。いかんが二と爲
   す。
    一には如實空。能く究竟(くきゃう)して實を顕はすを以ての故に。
    二には如實不空。自體有り、無漏の性(しょう)功徳を具足するを以ての故に。
    言ふ所の空とは、本よりこのかた、一切の染法(ぜんほふ)相應せざるが故に。謂はく一切差別(しゃべつ)の相を離
   れ、虚妄(こまう)の心念無きを以ての故に。當(まさ)に知るべし、眞如の自性は、有相(うさう)に非ず、無相に非ず、
   非有相に非ず、非無相に非ず、有無倶相(うむくさう)に非ず、一相に非ず、異相に非ず、非一相に非ず、非異相
   に非ず、一異倶相に非ず。
    乃至(ないし)、總じて説く、一切の衆生は、妄念有るを以て、念念分別するに依って、皆相應せず。故に説いて
   空と爲す。若し妄心を離るれば、實に空すべき無きが故に。
    言ふ所の不空とは、已に法體、空にして妄無きことを顕はすが故に。卽ち是れ眞心は、常恆(じゃうがう)不變に 
   して、浄法滿足するを、則ち不空と名づく。
    亦相の取るべき有ること無し。離念の境界は、唯證のみ相應するが故に。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 如實空:眞如といふに同じ。空(Sunyata)とは眞如に迷執妄染の無きをいふ。
 不空:(Asunyata)。眞如の體は空漠たるものならずして〔不空〕其の中に種種の性能功用を具するをいふ。
 無漏:(Anasrava).汚れ〔煩惱)なきをいふ。
 染法(ぜんぽう):吾人の分別妄想にあらはるる一切の境界をいひ、佛陀聖者にあらはるる浄法に對して用ふ。
 相:義(道理)にして、すがたの謂に非ず。
 妄念:佛陀の心念に對して、衆生のそれを妄念といふ。
 説爲空 :凡て吾人の考へ得る所は妄なり。眞如とはこの妄を離れたる所をいふ。故に眞如とは妄空なり。
 法體:諸法の實體なり。
 眞心:眞如なり。
 浄法:眞如には清浄なる功徳の無盡藏なるを浄法滿足といふ。
 離念:妄念を離れし(眞如の)境地
 唯證相應:徒らに言語思慮を以て云々するも當らず、自ら實踐して心の妄を離れ、眞智を證して始めて眞如と相應すべきのみ。
(´・(ェ)・`)b

288鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/26(土) 00:09:22 ID:1d4drIFg0

 真如は言葉に出来ないが、敢えて言葉で分別すれば二種の意義があるというのじゃ。
 その二とは、

 一つは如実空なのじゃ。
 空を極めれば実を表すが故なのじゃ。
 
 二つ目は如実不空なのじや。

 一つ目の空とは本よりこのかた一切の妄想分別に応じるものではないのじゃ。
 一切の差別の相を離れ、虚妄の心念がないものじゃ。
 真如の自性は、有相(うさう)ではなく、無相でもなく、非有相でもなく、非無相でさえもなく、有無倶相(うむくさうでもないのじゃ。
 更に一相ではなく、異相でもなく、非一相ですらなく、非異相でもないのじゃ。
 一異倶相でもないのじゃ。
 
 まとめれば一切衆生は妄念があり、いろいろと分別するから皆真如と相応じないのじゃ。
 故に空と説いているのじゃ。
 もし妄想を離れれば空と説くこともないのじゃ。

 二つ目の不空とは、既に法の本体は空にして、妄想がないことを表しているからなのじゃ。
 即ち真心である真如は常に不変で。清浄なる功徳無尽蔵であることを即ち不空と説いているのじゃ。
 また相の取るべきところが無いのじゃ。
 妄想を離れた境地は、真如と相応じるが故なのじゃ。

289避難民のマジレスさん:2022/03/26(土) 00:13:16 ID:AuwEkFmw0
8. 大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号9-10)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号31-33)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第二 心生滅門

心生滅者。依如來藏故有生滅心。
所謂不生不滅。與生滅和合。非一非異名爲阿棃耶識(ありやしき)
此識有二種義。能説一切法。生一切法。
*云何爲二。一者覺義。二者不覺義。

   心生滅とは如來藏に依るが故に、生滅の心有り。
   所謂(いはゆる)、不生不滅と生滅と和合して一に非らず異に非ず、名づけて阿棃耶識と爲す。
   此の識に二種の義有り、能く一切の法を攝し、一切の法を生ず。
   *如何(いかん)が二と爲す。一には覺の義。二には不覺の義。

▲一ニ覺ノ義

 所言覺義者。謂心體離念。離念相者。等虚空海。無所不徧。法界一相。即是如來平等法身。依此法身説名本覺。
 何以故。
 本覺義者對始覺義説 以始覺者。即同本覺。

 始覺義者。依本覺故。而有不覺故。依不覺故。説有始覺。

     言ふ所の覺の義とは、謂はく心體念を離る。離念の相は、虚空海に等しく、徧せざる所無し。法界一相、卽ち
    是れ如來の平等法身なり。此の法身に依って、説いて本覺と名づく。
     何を以っての故に。
     本覺の義は、始覺の義に対して説く。始覺は、卽ち本覺に同するを以てなり。
 
     始覺の義とは、本覺に依るが故に、不覺有り、不覺に依るが故に、始覺有りと説く。

 又以覺心源故名究竟覺。不覺心源故。非究竟覺。
   
     又心源を覺するを以ての故に、究竟覺(くきゃうかく)と名づく。心源を覺せざるが故に、究竟覺に非ず。
      
此義云何 
如凡夫人。覺知前念起悪故。能止後念令其不起。雖復名覺即是不覺。
故如二乘勸智。初發意菩薩等。覺於念異。念無異相。以捨麤分別執着相故名相似覺。
如法身菩薩*等。覺於念住念無住相。以離分別麤念相故隨分覺
如菩薩地盡。滿足方便。一念相應。覺心初起。心無初相。以遠離微細念故。得見心性。心即常住。名究竟覺。

    此の義云何(いかん)
    凡夫人(にん)の如きは、前念の起悪を覺知するが故に、能く後(ご)念を止め、其れをして起らざらしむ。また 
   覺と名づくと雖も。卽ち是れ不覺の故に。
    二乘の勸智と初發意(しょほっち)の菩薩等の如き簸、念異を覺して、念に異相無し。麤(そ)分別執着の相を捨 
   するを以ての故に、相似覺と名づく。
    法身の菩薩の如きは、念住を覺して念に住相無し。分別麤(そ)念の相を離るるを以ての故に、隨分覺と名づく。
    菩薩地盡くる如きは、方便を滿足し、一念相應す。心の初起を覺して、心に初相無し。微(み)細の念を遠(を   
   ん)離するを以ての故に、心性を見ることを得。心〔性〕は卽ち常住なるを以て、究竟覺(くきゃうかく)と名づく。

是故修多羅。説若有衆生。能觀無念者。即爲向佛智故。
又心起者無有初相可知。而言知初相者。即謂無念 是故一切衆生不名爲覺。以從本來念念相續。未曾離念故。説無始無明。
若得無念者。則知心相生住異滅。以無念等故。而實無有故*覺之異。以四相倶時而有。皆無自立。本來平等同一覺故。

     是の故に、修多羅に、若し衆生有って、能く無念を觀すれば、即ち佛に向ふの智爲す説けるが故に。
     又心起とは、初相の知るべき有ること無し。而も初相を知ると言ふは、卽ち無念を謂ふなり。是の故に一切の
    衆生は、名づけて覺と爲さず。本より來(このかた)、念念相續して、未だ曾(いまだかつて)念を離れざるを以ての 
    故に、無始の無明と説く。
     若し無念を得(とく)すれば、則ち心相の生・住・異・滅を知る。無念と等しきを以ての故に。而も實には、*始覺
    の異有ること無し。四相は倶時にして、而も有り、皆自立(りゅう)無く、本來平等にして、同一覺なるを以ての故
    に。 
(´・(ェ)・`)b

290避難民のマジレスさん:2022/03/26(土) 00:15:34 ID:AuwEkFmw0
>>289

脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

心生滅:心の現象的方面卽ち心生滅門。
 如來藏(Tathagathagarobaタターガタガルバ・スートラ):衆生心の本性、清浄不變なるに名づけてたる名なり。
 依如來藏故有生滅心:不生滅なる如來藏心「無明の風」の爲に動かされて生滅心となる。故に「生滅の心は不生滅の心に依る」といふ也。
 和合:不生滅の如來藏が動いて生滅となる端的をいふにて、生滅が別に他より來りて合する謂にあらず。
 阿棃耶識(ālaya-vijñāna.):. 新譯は阿頼耶識と記す。玄奘は阿頼耶の語を藏識(萬法の種子を含藏するの謂)とし譯し、眞諦(本論の譯者)は無歿識の意と譯す。名は異なれど義は一なり。
 阿棃耶識は、生滅と不生滅との和合したる非一非異の法なるが故、浄も染もその中に包括せられ、發しては迷とも悟ともなるなり。(非一非異:同じでないこと(非一)と、異ならないこと(非異)が、. 同時的に成立することを指して如来蔵と称す。)
 覺:眞如の平等一相、不生不滅なる所以を自覺するなり。或は単に不生滅なる眞如とも見得るなり。
 不覺:覺に反し、眞如の性に無自覺なるをいふ。
 心體離念:一心の本體の、妄念を璃れたるをいふ。
 虚空海:絶體無限なる虚空界に譬へたり。
 法身(Dharmakaya):菩提涅槃と佛陀との、形而上的に合一せる體をいふ。卽ち人格化せられたる眞如の謂也。
 本覺:は、眞如の徳性として、吾人本來之具有するも、我が迷妄の爲にその性を覆はれ居るなり。而かも之を顯はすには、實踐修行するの外無し。此の修行により眞如の理を證するを始覺といふ。此の始覺は本覺あるによって起こるもの故、始覺に對して本覺の名あり。修行の結果、妄染盡きて、一心の源に到達する時、始覺は卽ち本覺となる(同ず)。眞如門に於ては始覺の名も本覺の名もあるべからず。
 覺心源:衆生の有する染心も、其の本性(心源)は清浄なる本覺なるを覺るなり。
 究竟覺:心の妄を斷じ盡し、本覺に徹底せるを究竟覺(佛陀の地位)とし、未だ全く徹底するに至らざるも、始覺の漸次進む道程を「非究竟覺」とす。
眞如が謎の爲に妄なる活(はた)らきを起こす(流轉門)際に、その微細なるものより麤大なるものに至る間を四級に分ちて四相(生・住・異・滅)とす。しかして、此等の妄法を退治する始覺には、無量の階段あるべきなれども、暫く右の四相に約して四級を設け、以て之を説かんとするなり。
 凡夫(Prthagjana)人:菩薩の修行を積み漸次に煩惱を斷じ、涅槃を成ずるに至る迄に五十一(又は二)の階級を置く。その低級なるものより漸次之をいへば、十信、十住・十囘(え)向(之を三賢ともいふ)、十地、妙覺これなり。
茲に云ふ凡夫人とは、この第一の十信の位に至れるをいふ。四位の最後也。
(´・(ェ)・`)b

291鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/26(土) 20:58:19 ID:1d4drIFg0

 二つ目の心生滅門の解釈なのじゃ。

 まだ悟りを得ていない心に生滅の観念を持つ者は、真如が心の底に隠され居ている如来蔵の状態であるから生滅があると認識するのじゃ。
 更に真如の不生不滅と生滅の観念が和合して、一つでもなく、異なることもない阿頼耶識になるのじゃ。
 この阿頼耶識にまた2種の意義がまたあるのじゃ。
 
 それは一切の法を包含し、一切の法を生じるのじゃ。
 その二つとは覚と、不覚なのじゃ。

 一つ目の覚とは心が観念を離れた状態なのじゃ。
 観念を離れた有様は虚空の海に等しいのじゃ。
 全てに遍満している本質に達しているのじゃ。
 法界の一相のみであり、これが即ち如来の平等法身なのじゃ。
 この法身によって本覚と説いているのじゃ。

 この本覚があるから対して始覚があるのじゃ。
 それも実は本覚と同じなのじゃ。

 始覚とは本覚があるから不覚があり、不覚によって始覚ありと説かれるのじゃ。
 心源を覚るが故に究極覚とも名づけるのじゃ。
 心源を覚らなければ究極覚ではないのじゃ。

292鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/26(土) 21:18:45 ID:1d4drIFg0

 つまり凡夫の者は、悪い観念が起こったら、それを覚って念が起こらないようにするのじゃ。
 そのようなものは覚と言っても、まだ不覚なのじゃ。
 二乗の知恵と新人の菩薩は、妄念を覚って間違わないのじゃ。
 粗大な分別執着の相を捨てるが故に、相似覚と名づけるのじゃ。

 法身の菩薩は、法への執着をも覚って法に執着する相も無くすのじゃ。
 分別と粗大な観念の相を離れるから随分覚と名づけるのじゃ。

 菩薩が修業を終える時などは、方便をも満ちたり、一念相応じるのみなのじゃ。
 心が起こる最初の兆しをも覚り、心に認識するものもなくなるのじゃ。
 細密な観念をも厭離する故に、心性を観ることができるのじゃ。
 心は不動にして常住なるが故に、究境覚と名づけるのじゃ。

 そうであるから経典にはもし衆生がよく観念がない状態になれば、仏陀になると説いているのじゃ。
 又心起とは、心の働きを知覚することもないのじゃ。
 しかも初相を知るとは無念であるからなのじゃ。
 この故に一切衆生は名づけて覚とは為さないのじゃ。

 元来観念がどこまでも続いて、観念から離れられないから、無始の無明があると説いているのじゃ。
 もし無念を習得すれば、即ち心の生、住、異、滅を知るじゃろう。
 それは無念と等しいからなのじゃ。

 しかも実際には本覚と始覚の違いはないのじゃ。
 菩薩の段階である四つの相は、時によるものであり、みんな自立なく、本来平等で同一の覚りである故になのじゃ。

293避難民のマジレスさん:2022/03/27(日) 00:50:48 ID:bGH6hMPY0
9.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号11)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号33-34)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲隨染本覺二種ノ相

復次本覺隨染分別生二種相。與彼本覺不相捨離。云何爲二。一者智浄相。二者不思議業相。 

    また次に、本覺隨染(ほんがくずいぜん)、分別するに、二種の相を生ず。彼(か)の本覺と、相捨離せず。いかんが
   二と爲す。一には智浄相、二には、不思議業相。

智浄相者。謂依法力薫習如實修行。滿足方便故。破和合識相。滅相續心相。顯現法身。智淳浄故   
  
    智浄相とは、謂はく、法力薫習に依って、如實に修行し、方便を滿足するが故に、和合識の相を破し、相續心
   の相を滅して、法身を顕現し、智淳浄なるが故に   
  
 此義云何。
 以一切心識相。皆是無明。無明之相不離覺性。非可壌非不可壌。如大海水因風波動水相風相不相捨離。而水非動性。若風止滅動相則滅。濕性不壊。如是衆生自性清浄心因無明風動。心與無明倶無形相。不相捨離。而心非動性。若無明滅相續則滅。智性不壊故。

    此の義云(いかん)。
    一切の心識の相は、皆是れ、無明なるを以て、無明の相は、覺性(かくしょう)を離れず、壌(え)すべきに非ず、壌
   すべからざるに非ず。大海の水、風に因って波動じ、水相と風相と相捨離せず、而も水は動性(どうしょう)に非ず。
   若し風、止滅すれば、動相は則ち滅するも、湿性(しっしょう)は、壊せざるが如くなるが故に。かくの如く、衆生の自
   性(じしょう)清浄心も、無明の風に因って動じ、。心と無明と、ともに形相(ぎょうそう)無く、相捨離せず、而も心は
   動性に非ず。若し無明滅すれば、相續は則ち滅し、智性(ちしゃう)は壊せざるが故に。

 不思議業相者。以依智浄相能作一切勝妙境界。所謂無量功徳之相。常無斷絶。隨衆生根自然相應。種種而現得利 益故。

    不思議業相とは、智浄相に依るを以て、能く一切勝妙の境界を作(な)す。所謂(いはゆる)、無 
   量功徳の相は、常に斷絶すること無く、衆生の根に随って自然(じねん)に相應し、種種(しゅ 
   じゅ)に現じて、利 益(りやく)を得せしむるが故に。
    
(´・(ェ)・`)b

294鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/27(日) 21:53:08 ID:1d4drIFg0

 本覚随染は分別すれば二種の相を生じるというのじゃ。
 本覚と離れたものではないのじゃ。
 
 一つは智浄相なのじゃ。

 二つ目は不思議業相なのじゃ。

 智浄相とは法力の薫習、つまり日々の実践によって如実に修業し、方便を満了した故に、和合識の相を破り、
 観念が相続するという心の作用を滅して、法身を顕現して智慧が純粋清浄であることなのじゃ。

 その意味とは一切の心のありようは皆これ無明であり、しかも無明であっても覚性、仏性、真如というものから離れていないからなのじゃ。
 実らせるべきではなく、実らせないべきでもないのじゃ。
 
 大海の水は風によって波が生じるが、水と風が共に離れずにいるからなのじゃ。
 そして水が動いているのではないのじゃ。
 もし風か止まれば波は動かなくなるが、水の性質はなくならないのじゃ。

 このように衆生も本来は自性清浄な心をもっているが、無明の風で動じるのじゃ。
 心と無明は共に形あるものではなく離れたものではないようなものじゃ。
 しかも心は動くものではないのじゃ。
 もし無明が滅すれば、心の相続する観念はないが、知恵を持つ性質は滅しないのじゃ。

 不思議業相とは智浄相によって、一切に打ち勝つ妙なる境界をなすことから不思議というのじゃ。
 いわゆる無量功徳の相は常に断絶する事無く、衆生の心根にしたがって自然に相続し、いろいろに現われて利益を得させるのじゃ。

295避難民のマジレスさん:2022/03/27(日) 23:27:07 ID:AHRy/E2g0
10.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号11-12)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号34-35)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲性浄本覺四種の大義

 復次覺體相者有而四種大義。與虚空等。猶如浄鏡。云何爲四。

    また次に、覺の體・相とは、四種(ししゅ)の大義(だいぎ)有り、虚空と等しく、猶ほ浄鏡の如し。云何(いかん)が四
   (し)と爲す。
 
 一者如實空鏡。遠離一切心境界相。無法可現。非覺照義故。

    一には如實空鏡。一切の心、境界の相を遠離し、法の現ずべき無し。覺照の義に非ざるが故に。

 二者因薫習鏡。謂如實不空。一切世間境界。悉於中現。不出不入不失不壊常住一心。以一切法即眞實性
故。
 又一切染法。所不能染。智體不動。具足無漏薫衆生故。

     二には因薫習鏡。謂はく、如實不空にして、一切世間の境界は、。悉く中に現ず。出(いで)ず入らず、失せず 
    壊(ゑ)せず、常住一心なり。一切の法は、卽ち眞實の性なるを以ての故に。
     又一切の染法(ぜんぽう)も、染するあたはざる所、智體動ぜずして、無漏(むろ)を具足し、衆生に薫ずるが故に。

 三者法出離鏡。謂不空法。出煩悩礙智礙。離和合相。淳浄明故。

     三には法出(しゅつ)離鏡。謂はく、不空の法は、煩悩礙と智礙とをで(いで)、和合の相を離れて、淳浄明(みょ
    う)なるが故に。 
 
 四者緣薫習鏡。謂依法出離故。徧照衆生之心。令修善根。隨念示現故。   
 
     四には、緣薫習鏡。謂はく、法出(しゅつ)離に依るが故に、あまねく衆生の心を照らして善根を修せしむ。念に
    随って示現するが故に。   

 (´・(ェ)・`)b

296鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/28(月) 21:53:33 ID:1d4drIFg0
 覚の本体と特長には四種の大きな智慧の意義があるというのじゃ。
 それは虚空と等しいものであり、清浄な鏡のようだというのじゃ。
 
 一つ目は如実空鏡なのじゃ。
   一切の心の境界の相を遠離し、法をも現れない智慧というのじゃ。
   覚の叡知が照らすからというのじゃ。

 二つ目は因薫習鏡なのじゃ。
    如実不空にして、一切世間の境界が悉く中に現じるというのじゃ。
    どこにも出ず入らず、なくならず壊れないのじゃ。
    常住にして一心、真如なのじゃ。
    一切の法は、即ち真実の本性があるからというのじゃ。
    又一切の染法にも、染められないのじゃ。
    智慧の本体は動じないものであり、無漏を具足し、衆生に薫じるというのじゃ。

 
 三つ目は法出離鏡なのじゃ。
   いわゆる不空の法は、煩悩の礙と智の礙とを出て、和合の相をも離れて、浄明なる智慧が篤いからというのじゃ。

 
 四つ目は縁薫習鏡なのじゃ。
   法出離によるが故に、あまねく衆生の心を照らして善根を修めさせるというのじゃ。
   それも念じることで現れるというのじゃ。

297避難民のマジレスさん:2022/03/28(月) 22:11:42 ID:.2ctnplk0
11.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号12-13)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号35)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲二ニ不覺ノ義

所言不覺義者。謂不如實知眞如法一故。不覺心起而有其念。念無自相不離本覺。
猶如迷人依方故迷。若離於方則無有迷。衆生亦爾。依覺故迷。若離覺性則無不覺。
以有不覺妄想心故能知名義。爲説眞覺。若離不覺之心。則無眞覺自相可説。

     言ふ所の不覺義とは、謂はく、如實に眞如の法一なりと知らざるが故に、不覺の心起って、其の念有り。念に
    自相無ければ、本覺を離れず。
     猶ほ迷人の、方に依るが故に迷ふ。若し方を離るれば、則ち迷有ること無きが如し。衆生もまた爾(しか)り。覺 
    に依るが故に迷ふ。若し覺性(しょう)を離るれば、則ち不覺無し。
     不覺の妄想心有るを以ての故に、能く名義(みょうぎ)を知って。爲に眞覺と説く。若し不覺の心を離るれば、則
    ち眞覺の自相の説くべき無し。

▲一ニハ三細

復次依不覺故生三種相。與彼不覺相應不相離

     また次に、不覺に依るが故に、三種の相を生ず。彼(か)の不覺と相應して、相離れず。

 云何爲三。

     云何(いかんが)三と爲す。

 一者無明業相。以依不覺故。心動説名爲業。覺則不動。動則有苦。果不離因故。

     一には無明業相。不覺に依るを以ての故に、心動するを説いて、名づけて業と爲す。覺すれば則ち動ぜず。動
    ずれば則ち苦あり。果は因を離れざるが故に。

 二者能見相。以依動故能見。不動則無見。

     二には能見相。動に依るを以ての故に、能見有り。動ぜざれば則ち見無し。

 三者境界相以依能見故境界妄現。離見則無境界。

     三には境界相(きゃうがいさう)能見に依るを以ての故に、境界妄(みだり)に現ず。見を離るれば則ち境界無し。

(´・(ェ)・`)b

298鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/29(火) 23:36:35 ID:1d4drIFg0

 次は不覚の意味なのじゃ。
 
 如実に真如の一法を知らないから、不覚の心が起こって誰彼の念が有ってしまうというのじゃ。
 念に自分とか他人の分別が無ければ本覚を離れていないのじゃ。

 迷い人が方角を頼っているから迷うようなものじゃ。
 方角を離れれば迷いが無いようなものじゃ。
 衆生もまたそのようなものじゃ。
 覚りに依存するから迷うのじゃ。
 もし覚性も離れれば不覚もないのじゃ。

 不覚の妄想心があるから、名前と意味を弁えて、そのために真覚があると説くのじゃ。
 もし不覚を離れれば、真覚の自他の観念をも説くこともないのじゃ。

 更に不覚に依って三種の相、特徴をを生じるというのじゃ。
 不覚と相応じて、離れないというのじゃ。
 その三つとは、

 一つ目が無明業相なのじゃ。
 不覚に依って心が動じることを説いて、それを業とよぶのじゃ。
 覚ればもはや動じないのじゃ。
 動じるから苦もあるのじゃ。
 結果は原因から離れられないからなのじゃ。

 二つ目は能見相なのじゃ。
 心が動じるから能見もあるのじゃ。
 心が動じなければ見ることもないのじゃ。

 三つ目は境界相なのじゃ。
 能見に依って境界があるという観念を妄想するのじゃ。
 見る事が無ければ境界もないのじゃ。

299避難民のマジレスさん:2022/03/29(火) 23:53:50 ID:995UA7p60
12.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号13)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号36)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲二ニハ六麁(そ・麤)

以有境界緣故復生六種相。云何爲六。

    境界の緣有るを以ての故に、また六種の相を生ず。*云何(いかんが)六と爲す。

一者智相依於境界心起分別愛與不愛故。

    一には智相。境界に依って、心起って、愛と不愛とを分別するが故に。

二者相續相。依於智故生其苦樂覺心。起念相應不斷故。

    二には相續相。智に依るが故に、其の苦樂の覺心を生じ、念を起こし、相應して斷ぜざるが故に。

三者執取相。依於相續緣念境界。住持苦樂心起着故

    三には執取相。相續に依って、境界を緣念し、苦樂を住持して、心(こころ)着(ぢゃく)を起こすが故に。

四者計名字相。依於妄執。分別假名言相故。

    四には計名(みゃう)字相。妄執(じふ)に依って、假名言(けみゃうごん)の相を分別するが故に。

五者起業相。依於名字。尋名*取着。造種種業故。
     
    五には起業相。名字に依って名を尋ね、*取執(しゅじふ)して種種(しゅじゅ)の業を造るが故に。 

六者業繫苦相。以依業受報不自在故。

    六には業繫苦相(ごつけくさう)。業に依って報を受け、自在ならざるを以ての故に。

當知無明能生一切染法。以一切染法皆是不覺相故。

    まさに知るべし、無明能く一切の染法を生ずることを。一切の染法は、皆是れ不覺の相なることを以ての故に。

(´・(ェ)・`)b

300鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/30(水) 21:48:23 ID:1d4drIFg0

 そして更に上記の境界の縁によって六種の相が生じるというのじゃ。

 その六とは

 一つ目が智相、境界に依って心が起こり、愛と不愛を分別するのじゃ。
 
 二つ目が相続相、智に依って苦楽の覚心を生じ、相続して絶えないのじゃ。

 三つ目が執取相、相続に依って、境界を縁念として、心に執着を起こすからなのじゃ。
 
 四つ目が名字相、妄執に依って、仮名言の相を分別するからなのじゃ。

 五つ目が起業相、名字依って、名を尋ねて取執していろいろな業を作るからなのじゃ。

 六つ目が業繋苦相、業に依って報いを受けて自在にはできないからなのじゃ。

 このように無明から一切の染法が生じることを知るべきなのじゃ。
 これらは皆不覚の特徴である故なのじゃ。

 
 これは大体十二縁起と同じようなものじゃな。
 大乗の教義として無明から業によって縛られて苦から抜けだせない心のありようを説いたものじゃ。

301避難民のマジレスさん:2022/03/30(水) 22:51:36 ID:kqqE/TR.0
13.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号13-14)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号36-37)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲覺不覺ノ異同

復次覺與不覺有二種相。云何爲二。一者同相。二者異相。

    復(また)次に、覺と不覺と、二種の相有り。云何が二と爲す。一には同相、二には異相。

 同相者譬如種種瓦器皆同微塵性相。如是無漏無明種種業幻。皆同如性相。是故修多羅中。依於此義説一切衆生本來常住入於涅槃。菩提之法非可修相。非可作相。畢竟無得。亦無色相可見而有見色相者。
唯是隨染業幻所作。非是智色不空之性以智相無可見故。
 幻異相者。如種種瓦器各各不同。如是無漏無明。隨染幻差別。性染幻差別故。
     
     同相とは、譬へば種種の瓦器(ぐわき)皆同じく微塵の性相(しゃうさう)なるが如し。かくのごとく、無漏と無明との 
    種種の業幻も、皆同じく眞如の性相なり。この故に、修多羅の中(うち)に、此の義に依って、一切衆生は、本來
    常住にして、涅槃に入ると説く。菩提の法は、修すべき相に非ず、作(な)すべき相に非ず、畢竟無得(とく)なり。ま
    た色相のるべき無し。而も色相を見ること有るは、唯これ隨染業幻の所作なり。是の智には色不空の性(しゃう)
    あるに非ず、智相は見るべき無きを以ての故に。
     異相と言うは、種種の瓦器(ぐわき)、各各不同なるが如く、是くの如く無漏と無明との隨染幻の差別と、性染
    幻の差別となるが故に。

(´・(ェ)・`)b

302鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/01(金) 00:26:11 ID:1d4drIFg0

 更に又。、覚と不覚に二つの特徴があるというのじゃ。
 一つは同じという特徴であり、二つ目は異なるという特徴であるというのじゃ。

 例えば陶器が皆同じく泥土から作られている性質のものという特徴があるようなものじゃ。
 このように如来の無漏も衆生の無明といういろいろな表れも、実は真如の本性があるからなのじゃ。
 この故に経典には一切衆生は本来、常住にして涅槃に入るものと説いているのじゃ。
 
 仏道は修めるものがなく、作すべきものごともないのじゃ。
 何かを得ることもないのじゃ。
 色形もなく、しかも色形をみることがあるのは、ただ随染業の幻のせいなのじゃ。
 この智恵には色不空の性もないのじゃ。
 智恵の相は見るべきものもないからなのじゃ。

 
 異なる特徴とはいろいろな陶器が、皆違うようなものじゃ。
 このように無漏と無明との隨染幻の差別と、性染幻の差別があるからというのじゃ。


 これもまた真如の意義を説いているのじゃな。
 悟った者と悟っていない者は、真如の本性からは同じというのじゃ。
 しかし、無明に染まっている者と、法に染まった者の違いで差別があると言うのじゃ。

303避難民のマジレスさん:2022/04/01(金) 22:18:11 ID:2KCgQ.x.0
14.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号14-15)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号37-38)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第三 生滅因緣ノ義

復次生滅因緣者。所謂衆生依心意意識轉故。

    また次に、生滅の因緣とは、いはゆる衆生は、心に依って意と意識と転ずるが故に。

此義云何。  
以依阿棃耶識説有無明。不覺而起能見能現。能取境界*起。念相續故。説爲意。

    此の義いかん。  
    阿耶棃識(ありやしき)に依るを以て、無明有りと説く。不覺にして起り、能見(のうけん)、能現(のうげん)。能く境
   界を取り、*念を起して相續す。故に説いて意と爲す。

 此意復有五種名。云何爲五.

     此の意に、また五種の名有り。云何(いかん)が五と爲す。

 一者名爲業識。謂無明力不覺心動故。

     一には、名づけて業識と爲す。謂はく、無明の力にて、不覺の心動ずるが故に。

 二者名爲轉識。依於動心。能見相故。

     二には、名づけて轉識と爲す。動心に依って、能見の相あるが故に。

 三者名爲現識。所謂能現一切境界。猶如明鏡現於色像。現識亦爾。隨其五塵對至。即現無有前後。以一切時任運而起常在前故。
     
     三には、名づけて現識と爲す。所謂(いはゆる)、能く一切の境界を現ず。猶ほ明鏡の、色像(しきざう)を現ずる
    が如し。現識もまた爾(しか)り。五塵に随って對至(たいし)すれば、卽ち現じて前後有ること無し。一切時に、任
    運(にんぬん)に起りて、常に前に在るを以ての故に。

 四者名爲智識。謂分別染浄法故。

     四には、名づけて智識と爲す。謂はく、染浄の法を分別するが故に。 

 五者名爲相續識。以念相應不斷故。住持過去無量世等善悪之業。令不失故。復能成熟現在未來苦樂等報無差違故。能令現在己經之事。忽然而念。未來之事不覺妄慮。是故三界虚偽唯心所作。離心則無六塵境界。

     五には、名づけて相續識と爲す。念相應して斷ぜざるを以ての故に。過去無量世等の善悪の業を住持して、
    失せざらしむるが故に。また能く、現在未來の苦樂等の報を成熟(じゃうじゅく)して差違すること無きが故に、能く
    現在・己經(いきゃう)の事を、忽然(こつねん)として念じ、未來の事を不覺に妄慮せしむ。是の故に三界は虚偽
    (こぎ)にして、唯心の所作なり。心を離るれば、則ち六塵の境界無し。     

(´・(ェ)・`)b

304鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/02(土) 00:19:52 ID:1d4drIFg0

 また次は生滅の因縁についてなのじゃ。
 衆生は心によって意と意識を転じるというのじゃ。

 この意味は阿頼耶識があるから無明があると説くからなのじゃ。
 不覚にして起こり、能見、能現なのじゃ。
 能く境界を取り、念を起して相続するのじゃ。
 それを説いて意とするのじゃ。 

 その意にはまた五種の名前があると言うのじゃ。

 一つ目は業識なのじゃ。
 無明の力によって、不覚の心が動くからなのじゃ。

 二つ目は転識なのじゃ。
 動く心によって能見の相があるからなのじゃ。

 三つ目は現識なのじゃ。
 いわゆる一切の境界を現すからなのじゃ。
 鏡が色形を現すようなものじゃ。
 現識もまた同じようなものじゃ。
 五塵に従って対すれば、直ぐに現われて前後ありとするのじゃ。
 全ては自然に起こって常に主体の前にあるからなのじゃ。
 
 四つ目は智識なのじゃ。 
 染浄の法を分別するからなのじゃ。

 五つ目は相続識なのじゃ。
 念が相応じて断絶しないからなのじゃ。
 過去の無量世等の善悪の業を持ち運び、失くさないからなのじゃ。
 また現在未来の苦楽等の報いを成り立たせ、間違いがないからなのじゃ。
 現在や過去のことを念じて、未来のことを不覚に妄想させる能力が在るのじゃ。
 この故に三界は虚偽にして、ただ心が創るものなのじゃ。
 心を離れれば、六塵の境界もないのじゃ。

305避難民のマジレスさん:2022/04/02(土) 09:10:56 ID:2onbSBYc0
15.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号15-16)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号38-39)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 此義云何。
 以一切法皆從心起。妄念而生。一切分別則分別自心。心不見心無相可得 
 當知世間一切境界。皆依衆生*妄心而得住持。是故一切法如鏡中像無體可得。唯心虚妄。以心生則種種法生。心滅則種種法滅故。

     此の義云何(いかん)。
     一切の法は、皆心より起り、妄念より生ずるを以て、一切の分別は卽ち自心を分別す。心を見ざれば、相とし
    て得べき無し。
     まさに知るべし、世間一切の境界は、皆衆生の*無明妄心に依って、住持することを得。是の故に、一切の法
    は、鏡中の像の、體の得べきこと無きが如く、唯心にして虚妄(こもう)なり。心生ずれば、則ち種種の法生じ、心 
    滅すれば、則ち種種の法滅するを以ての故に。

 復次言意識者。*即此相續識。依諸凡夫取着轉深。計我我所。種種妄執隨事攀緣。分別六塵名爲意識。亦名分離識。又復説名分別事識。此識依見愛煩悩増長義故。
      
     また次に、意識と言うは、*卽ち此れ相續識なり。諸(もろもろ)の凡夫、取着(しゅぢゃく)轉(うた)た深きに依って、 
    我(が)と我所(わがしょ)とを計し、種種に妄執し、事に随って攀緣(はんえん)し、六塵を分別す、名づけて意識と 
    爲す。亦分離識と名づく。又復(またまた)説いて分別事識と名づく。此の識は見愛煩悩に依って増長する義の 
    故に。

 依無明薫習所起識者。非凡夫能知。亦非二乘智慧所覺。謂依菩薩。從初正信發心觀察。若證法身得少分知。乃至菩薩究竟地不能盡知。唯佛窮了。
 何以故。
 是心從本己來自性清浄。而有無明爲無明所染有其染心。雖有染心而常恒不變。是故此義唯佛能知。   

     無明薫習に依って起す所の識は、凡夫の能く知る所に非ず。亦二乘の智慧の覺する所に非ず。謂はく、菩薩
    に依るに、初めの正信より發心(はつしん)觀察し、若し法身(ほつしん)を証 すれば、少分の知を得、乃至菩薩
    究竟地(ぢ)も、盡(ことごと)く知るあたわず、唯佛のみ窮了(ぐうれう)す。
     何を以ての故に。
     是心の本より己來(このかた)、自性(じしゃう)清浄なり、而も無明有り、無明の爲に染(ぜん)せられて、其の染
    心有り、染心有りと雖も、而も常恒(じゃうごう)不變なり。是の故に、此の義は唯佛のみ能く知る。

 所謂心性常無念故名爲不變以不達*一法界故。心不相應忽然念起。名爲無明。

     所謂(いはゆる)、心性は常に念無し、故に名づけて不變と爲す。*一切法界に達せざるを以ての故に。心相應
    せず、忽然(こちねん)として念起るを名づけて無明と爲す。

(´・(ェ)・`)b

306鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/02(土) 22:03:42 ID:1d4drIFg0

 この意味は、一切の法は皆心より起こり、妄念より生じて、一切の分別は自らの心を分別しているからなのじゃ。
 心を見なければ、何か見るべき心象もないのじゃ。
 世間の一切の境界は、皆衆生の無明妄心に依って、あり続けることを知るべきなのじゃ。
 この故に一切の法は、鏡の中の象が本体がないように、ただ心から創られた虚妄なのじゃ。
 心が生じれば、即ちいろいろな法も生じ、心が滅すれば即ちいろいろな法も滅するのじゃ。


 次に意識と言うのは、すなわち相続識のことなのじゃ。
 凡夫は皆、執着がとても深いから、我という観念や我が物という観念を計り、
 いろいろに妄想し、いろいろに妄執し、事に随って囚われ、六塵を分別するのじゃ。
 それらの働きを名づけて意識というのじゃ。
 またまた説いて分別事識と名づけるのじゃ。
  この識は見愛煩悩に依って増長するという意味からなのじゃ。

 無明薫習によって起こる識は凡夫がしることの出来ないものじゃ。
 また二乗の智恵で覚れるものでもないのじゃ。
 菩薩でも初正信より発心観察し、もし法身を証すれば、少しはわかるのじゃ。
 しかし菩薩の究境地でも総てしることはできないのじゃ。
 ただ仏陀だけが知り尽くすことができるのじゃ。

 なぜならばこの心はもとよりこのかた、自性は清浄であるからなのじゃ。
 無明のために染められて、染心があるのじゃ。
 染心があってもしかも常恒不変なのじゃ。
 それ故にこの意味はただ仏陀だけが知りえるのじゃ。

 いわゆる心性は常に念がないのじゃ。
 故に名付けて不変とするのじゃ。
 一切の法界に達していないからなのじゃ。
 心相応せず、忽然として念が起こるのを無明とするのじゃ。

307避難民のマジレスさん:2022/04/02(土) 22:32:04 ID:gUkKzeYA0
16.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号16-17)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号39-40)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲六種ノ染心

 染心者六種。云何爲六。
 一者執相應染。依二乘解脱。及信相應地。遠離故。

     染心(ぜんしん)とは六種有り。云何(いかん)が六と爲す。
     一には執相應染(しふさうおうぜん)。二乘(にじょう)の解脱と、及び信相應地とに依り、遠離(をんり)するが故に。
     
 二者不斷相應染。依信相應地修學方便。漸漸能捨得浄心地。究竟離故。

     二には不斷相應染 信相應地(ぢ)に、方便を修學するに依り、漸漸に能く捨して、浄心地(ぢ)を得、究竟(く
    きゃう)して離するが故に。

 三者分別智相應染。依倶戒地漸離。乃至無相方便地。究竟離故。

     三には分別智相應染。倶戒地に依って漸(やうや)く離れ、乃至無相方便地に究竟(くきゃう)して離するが故に。
 
 四者現色不相應染。依色自在地。能離故。

     四には現色(しき)不相應染。依色自在地(ぢ)に依り、能く離するが故に。

 五者能見心不相應染。依自在地。能離故。
 
     五には能見心不相應染。自在地に依り、能く離するが故に。

 六者根本業不相應染。依菩薩盡地得入如來地能離故。

     六には根本業不相應染。菩薩の盡地に依り、如來地に入るを得て、能く離るるが故に。     

 不了一法界義者。從信相應地。觀察學斷。入浄心地。隨分得離。乃至如來地。能究竟離故。

     一法界を了せざる義〔と〕は、信相應地より、觀察學斷して、浄心地に入り、分に随って離るるを得、乃至如 
    來地に、能く究竟して離するが故に。
 
 言相應義者。謂心念法異。依染浄差別而知相緣相同故。
 不相應義者謂即心不覺。常無別異。不同知相緣相故。

     相應の義と言ふは、謂はく、心と念法と異なり(なるも)、染浄の差別(しゃべつ)に依って、知相と緣相と同じきが  
    故に。
     不相應の義とは、謂はく、心に卽するの不覺は、常に別異無し。知相と緣相とを同ぜざるが故に。

(´・(ェ)・`)b

308鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/03(日) 22:02:45 ID:1d4drIFg0

 染心は六種あるというのじゃ。
 その六とは、

 一つ目は執相応染なのじゃ。
 二乗の解脱と、大乗の信相応地により厭離されるのじゃ。

 二つ目は、 不断相応染なのじゃ。
 信相応地に、方便を修学するに依って、次第に捨てることが出来て、浄心地を得て究めれば厭離できるのじゃ。

 三つ目は、 分別智相応染なのじゃ。
 具戒地に依ってようやく離れるのじゃ。
 或いは無相方便地を究めて厭離できるのじゃ。

 四つ目は、現色不相応染なのじゃ。
 依色自在地に依って、厭離できるのじゃ。

 五つ目は、能見心不相応染なのじゃ。
 自在地によって厭離できるのじゃ。

 六つ目は根本業不相応染なのじゃ。
 菩薩の最終境地から更に如来の境地に入って厭離できるのじゃ。

 
 一法界を修了していないという意味は、信相応地より観察学習して浄心地に入り、
 修業の進み具合に応じて厭離も次第に出来るからなのじゃ。
 そして最後に如来地によってのみ究めて厭離できるからなのじゃ。

 相応の意味とは、心と念法は異なるが、染、浄の差別によって知相と縁相が同じだからなのじゃ。

 不相応の意味とは、心に即する不覚は、常に別異がないからなのじゃ。
 知相と縁相が同じではないからなのじゃ。

309避難民のマジレスさん:2022/04/03(日) 23:33:54 ID:6QJo63rA0
17.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号18)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号40-41)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲染心ノ二礙

 又染心義者。名爲煩悩礙。能障眞如根本智故。
 無明義者。名爲智礙。能障世間自然業智故。

     又染心の義とは、名づけて煩悩礙と爲す。能く眞如根本智を障(さ)ふるが故に。
     無明の義とは、名づけて智礙と爲す。能く世間の自然(じねん)業智を障ふるが故に。

 此義云何。 以依染心能見能現。妄取境界遠平等性故。
 以一切法常静無有起相。無明不覺妄與法違故。不能得隨順世間一切境界。種種知故。

     此の義云何(いかん)。染心に依って、能見能現あり、妄(みだり)に境界(がい)を取って、平等性に違するを以て
    の故に。
     一切の法は、常に静にして、起相有ること無し。無明の不覺、妄(みだり)に法と違するを以ての故に、世間一
    切の境界に隨順することを得て種種に知ることあたわざるが故に。

▲第四 分別生滅ノ相

復次分別生滅相者。有二種、云何爲二。
 一者麁。與心相應故。
 二者細。與心不相應故。
 亦麁中之麁凡夫境界。麁中之細。細中之麁・菩薩境界。細中之細是佛境界。

     また次に、生滅の相を分別せば、二種有り。いかんが二と爲す。
     一には麤(そ)。心と相應するが故に。
     二には細。心と相應せざるが故に。
     又麤中の麤とは、凡夫の境界なり、麤中の細と、及び細中の麤とは・菩薩の境界なり。細中の細とは、是れ佛 
    の境界なり。

 此二種生滅依無明薫習而有。所謂依因依緣。依因者不覺故。依緣者妄作境界義故。若因滅則緣滅。因滅故不相應心滅。緣滅故相應心滅。

     此の二種の生滅は、無明薫習に依って有り。所謂(いはゆる)、因に依り緣に依る。因に依るとは、不覺の義の
    故に。緣に依るとは、妄(みだりい)に境界を作(な)すの義なるが故に。若し因滅すれば則ち緣滅す。因滅するが
    故に、不相應の心滅す。緣滅するが故に、相應の心滅す。

 問曰若心滅者云何相續若相續*。者云何説究竟滅。

     問うて曰はく、若し心滅せば、云何が相續せん。若し相續せば、いかんが究竟滅(くきゃうめつ)と説かん。

 答曰所言滅者唯心相滅。非心體滅。如風依水而有動相。若水滅者則風相斷絶無所依止。以水不滅風相相續。唯風滅故動相隨滅。非是水滅無明亦爾 依心體而動若心體滅者則衆生斷絶無所依止。以體不滅故心得相續唯癡滅故心相隨滅非心智滅。

      答へて曰はく、言う所の滅とは、唯心相の滅にして、心體の滅に非ず。風の、水に依っての動相有るが如し。
     若し水滅せば、則ち風相斷絶して、依止(えし)する所けん。水滅せざるを以て、風相相續す。唯風の滅するが
     故に、動相隨って滅す。是れ水の滅するに非ず。無明も亦爾(しか)り。心體に依って動ず。若し心體滅すれば、
     則ち衆生斷絶して、依止(えし)する所無し。體は滅せざるを以て、心相續することを得。唯癡(ち)の滅するが故 
     に、心相も隨って滅す。心智の滅するに非ず。

(´・(ェ)・`)b

310鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 00:22:38 ID:1d4drIFg0

 又染心という意味は、名づけて煩悩のさまたげとするのじゃ。
 真如の根本の智恵の障害となるからなのじゃ。
 無明の意味とは、名づけて智のさまたげとするのじゃ。
 世間の自然業智の障害となるからなのじゃ。

 この意味とは、染心に依って、能見能現があるからなのじゃ。
 みだりに境界を作って、平等性とは違う観念をもつからなのじゃ。

 一切の法は常に静かで、起こる相すらもないものじゃ。
 無明の不覚が妄りに法と違う観念を作るだけなのじゃ。
 世間一切の境界に随って、いろいろに知ることができないだけなのじゃ。

 
 第四 分別生滅の相なのじゃ。

 又次に生滅の相を分別すると、二種あるのじゃ。
 その二とは、

 一つ目が粗なのじゃ。
 心と相応じるからなのじゃ。

 二つ目は細なのじゃ。
 心と相応じないからなのじゃ。

 又粗の中の租とは、凡夫の境涯なのじゃ。
 粗の中の細と、細の中の粗とは菩薩の境涯なのじゃ。
 細の中の細は如来の境涯なのじゃ。

 この二種の生滅は無明薫習によってあるのじゃ。
 いわゆる因に依り、縁に依るのじゃ。
 因に依るとは、不覚の意味であるからなのじゃ。
 縁に依るとは、妄りに境界を作るからなのじゃ。
 
 もし因が滅すれば、即ち縁も滅するのじゃ。
 因が滅すれば不相応の心も滅するのじゃ。
 縁が滅すると、相応の心も滅するのじゃ。

311鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 00:33:34 ID:1d4drIFg0

 また聞いたのじゃ。
 もし心が滅すれば、どのようにして相続するのかと。
 もし相続しないのであれば、どうして究竟滅と説くのかと。

 答えたのじゃ。
 言うところの滅とは、ただ心の相が滅したのであって、心の本体が滅したのではないのじゃ。
 風で水の面が動くようなものじゃ。
 もし水がなければ風が動いたことはわからないのじゃ。
 水があれば風の動いたこともわかるのじゃ。
 風がなければ水は動かないが、水がなくなったわけではないのじゃ。

 無明もまた同じようなものじゃ。
 心の本体によって動きもあるのじゃ。
 もし心の本体が滅すれば、即ち衆生も断絶して、よるところもないのじゃ。
 心の本体は滅しないから、心は相続するのじゃ。
 ただ妄想がなくなるから、心の相も滅するのじゃ。
 心智が滅するのではないのじゃ。

312避難民のマジレスさん:2022/04/05(火) 00:35:00 ID:oC/z6xpc0
18.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号18-19)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号41-42)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第五 四種ノ法薫習

 復次有四種法薫習義故。染法浄法起不斷絶。
 云何爲四。
 一者浄法。名爲眞如。
 二者一切染因。名爲無明。
 三者妄心名爲業識。
 四者妄境界。所謂六塵。

     復次に、四(し)種の法薫習の義有るが故に、染法と浄法と起って、斷絶せず。
     云何が四と爲す。
     一には浄法、名づけて眞如と爲す。
     二には一切の染因、名づけて無明と爲す。
     三には妄心、名づけて業識と爲す。
     四には妄境界(がい)、所謂六塵なり。

 薫習義者。如世間衣服實無於香。若人以香而薫習故則有香氣。此亦如是。眞如浄法實無於染。但以無明而薫習故。則有染相。無明染法實無浄業。但以眞如而薫習故。則有浄用。

     薫習の義とは、世間の衣服(えぷく)、實に香(にほひ)無きも、若し人香(にほひ)を以て薫習するが故に、則ち香 
    氣有るが如し。此れも亦是くの如く、眞如の浄法は、實に染無し。但無明を以て薫習するが故に、則ち染相有
    り。無明染法は、實に浄業無し。但眞如を以て薫習するが故に、則ち浄用有り。

 云何薫習起染法不斷。
 所謂以依眞如法故有於無明。以有無明染法因故即薫習眞如。以薫習故則有妄心。以有妄心即薫習無明。不了眞如法故不覺念起現妄境界以有妄境界染法緣故。即薫習妄心。令其念著造種種業。受於一切身心等苦。

     云何が薫習し、染法を起こして、斷ぜざる。
     所謂、眞如の法に依るを以ての故に、無明有り、無明染法の因有るを以ての故に、卽ち眞如に薫習す。薫習
    を以ての故に、則ち妄心有り、妄心有るを以て、卽ち無明に薫習す。眞如の法を了せざるが故に、不覺の念 
    起って、妄境界を現ず。妄境界染法の緣有るを以ての故に、卽ち妄心に薫習し、其れをして念著し、種種の業 
    を造って、一切の身心等の苦を受けしむ。

 此妄境界薫習義則有二種。云何爲二。
 一者増長念薫習。二者増長取薫習  

     此の妄境界薫習の義に、則ち二種有り。云何が二と爲す。
     一には増長念薫習、二には増長取薫習なり。  
 
 妄心薫習義有二種 云何爲二。
 一者業識根本薫習。能受阿羅漢辟支佛一切菩薩生滅苦故。
 二者増長分別事識薫習。能受凡夫業繋苦故。       

     妄心薫習の義に二種有り、云何が二と爲す。
     一には業識根本薫習。能く受阿羅漢・辟支佛(びゃくしぶつ)一切の菩薩をして、生滅の苦を受けしむるが故に。
     二には増長分別事識薫習。能く凡夫をして、業繋(ごふけ)の苦を受けしむるが故に。       

(´・(ェ)・`)b

313鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 22:01:25 ID:1d4drIFg0

 また次に四種の法薫習があるから、染法と浄法とが起こって断絶しないのじゃ。

 その四つとは、

 一つ目は浄法、真如なのじゃ。
 二つ目は一切の染因、無明なのじゃ。
 三つ目は妄心、業識なのじゃ。
 四つ目は、妄境界、いわゆる六塵なのじゃ。

 薫習の意味とは、例えば世間の衣服には本来臭いはないが、もし人がお香で薫習すれば臭いがつくのじゃ。
 このように真如の浄法は本来、染がないものじゃ。
 ただ無明をもって薫習するから染相があるのじゃ。

 無明染法は本来、浄業がないものじゃ。
 ただ真如によって薫習するから浄用があるのじゃ。

314鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 22:04:38 ID:1d4drIFg0
 どのようにして薫習して、染法を起こして絶えないのかといえば、
 いわゆる真如の法に依って無明もあるのじゃ。
 無明染法の因があるから真如に薫習するのじゃ。

 薫習によって妄心もあるのじゃ。
 妄心があるから無明に薫習するのじゃ。
 真如の法を修了できないから不覚の念が起こって、妄境界を現すのじゃ。
 妄境界染法の縁があるから、妄心に薫習して、それに念着して、いろいろな業わ作って一切の心身の苦を受けるのじゃ。

 この妄境界薫習の意味にまた2種あるのじゃ。

 一つ目は増長念薫習なのじゃ。
 二つ目は増長取薫習なのじゃ。

  妄心薫習にも二種の意味が在るのじゃ。

 一つ目は業識根本薫習なのじゃ。
 阿羅漢や辟支佛、菩薩にも生滅の苦を受けさせるものじゃ。

 二つ目は増長分別事識薫習なのじゃ。
 凡夫に業繋の苦を受けさせるものなのじゃ。

315避難民のマジレスさん:2022/04/05(火) 23:04:24 ID:66RvJFcI0
19.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号20)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号42-43)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 無明薫習義有二種。云何爲二。
 一者根本薫習。以能成就業識義故。
 二者所起見愛薫習。以能成就分別事識義故。

     無明薫習の義に二種有り。云何が二と爲す。
     一には根本薫習。能く業識を成就するの義を以ての故に。
     二には所起見愛薫習。分別事識を成就する義を以ての故に。

 云何薫習起浄法不斷。
 所謂以有眞如法故能薫習無明。以薫習因緣力故則令妄心厭生死苦樂求涅槃。以 此妄心有厭求因緣故即薫習眞如。 

     云何が薫習し、浄法を起こして斷ぜざる。
     所謂(いはゆる)、眞如の法有るを以ての故に、能く無明に薫習す。薫習の因緣力を以ての故に、則ち妄心を
    して、生死の苦を厭(いと)ひ、涅槃を樂求(げうぐ)せしむ。此の妄心に厭求(をんぐ)の因緣有るを以ての故に、卽 
    ち眞如に薫習す。 

 自信己性。知心妄動無前境界 修遠離法以如實知無前境界故。種種方便起隨順行。不取不念乃至久遠薫習力故無明則滅。
 以無明滅故心無有起。以無起故境界隨滅。以因緣倶滅故。心相皆盡。名得涅槃成自然業。

     自ら己(おの)が性(しゃう)を信じ、心は妄に動じたるのみ、前境界無しと知り、遠離(をんり)の法を修し、如實に、    前境界無しと知るを以ての故に、種種の方便もて、隨順の行を起こし、不取不念、乃至久遠(くをん)薫習力の 
    故に、無明卽ち滅す。
     無明滅するを以ての故に、心起こること有ること無し。起こることなきを以ての故に、境界隨って滅す。因と緣と
    倶(とも)に滅するを以ての故に、心相皆盡くるを、涅槃を得て、自然業を成(じゃう)ず名づく。
     
 妄心薫習義有二種。云何爲二。
 一者分別事識薫習。依諸凡夫二乘人等。厭生死苦隨力所能。以漸趣向無上道故。
 二者意薫習。謂諸菩薩發心勇猛速趣涅槃故。

     妄心薫習の義に二種有り。云何が二と爲す。
     一には分別事識薫習。諸(もろもろ)の凡夫、二乘の人等に依って、生死の苦を厭(いと)ひ、力の所能に随って、    漸(やうや)く無上道に趣向するを以ての故に。
     二には意薫習。謂はく、諸の菩薩は、發心勇猛(ほっしんゆうみゃう)にして、速に涅槃に趣(おもむ)くが故に。

(´・(ェ)・`)b

316鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/06(水) 22:02:40 ID:1d4drIFg0

 無明薫習にも二つの種類があるのじゃ。

 一つ目は根本薫習なのじゃ。
 業識を成就することができるものなのじゃ。

 二つ目は所起見愛薫習なのじゃ。
 分別事識を成就するものなのじゃ。

 ではどのようにして浄法によって薫習して実践し続けることができるのかというのじゃ。
 いわゆる真如の法があるから、無明にも薫習することができるのじゃ。
 薫習の因縁力があるから、妄心を持つ者にも生死の苦をいやがり、涅槃を求めさせることもできるのじゃ。
 この妄心にも苦を厭い、涅槃を求めさせる因縁があるから、真如で薫習することもできるのじゃ。
 
 自ら己の性を信じて、心は妄想に動じているだけであり、もとより境界なしと知って、遠離の法を実践して、如実にもとより境界無しと気づくのじゃ。
 いろいろな方便をもって随順の行を起こし、何も取らず、何も念じる事無く、長年薫習力を実践すれば無明も滅するのじゃ。

 無明が滅すれば心が起こることもないのじゃ。
 心が起こらないのであるから境界もそれにしたがって滅するのじゃ。
 因と縁もともに滅するからなのじゃ。
 心の相が皆尽きることで涅槃を得て、自然業を成就するというのじゃ。

 妄心薫習にも二種あるのじゃ。

 一つ目は分別事識薫習なのじゃ。
 もろもろの凡夫や二乗の者達によって、生死の苦を厭い、各自の能力によってようやく無上道に向かうからなのじゃ。

 二つ目は意薫習なのじゃ。
 諸々の菩薩は発心勇猛にして、速やかに涅槃にいくからなのじゃ。

317避難民のマジレスさん:2022/04/06(水) 22:10:52 ID:7I2EyRWQ0
20.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号21-22)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号43)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 眞如薫習義有二種。云何爲二。一者自體相薫習。二者用薫習者。
 自体相薫習者。從無始世來具無漏法。備有不思議業。作境界之性。依此二義恒常薫習。以有薫習力故。能令衆生厭生死苦。樂求涅槃。自信己身有眞如發心修行。
 
     眞如薫習の義に二種有り。云何が二と爲す。一には自體相薫習、二には用薫習なり。
     自體相薫習とは、〔眞如は〕無始世(むしせ)より來(このかた)、無漏の法を具し、備(つぶさ)に不思議の業有っ
    て、境界の性と作(な)る。此の二義に依って、恒常(ごうじゃう)に薫習す。薫習力有るを以ての故に、能く衆生を
    して、生死の苦を厭(いと)ひ、涅槃を樂求(げうぐ)し、自ら己身に眞如法有りと信じ、發心修行せしむ。

 問曰若如是義者。一切衆生悉有眞如等皆薫習。云何有信無信無量前後差別。皆應一時自知有眞如法。勤修方便等入涅槃

     問うて曰はく、若し是くの如きの義ならば、一切の衆生は、悉(ことごと)く眞如有り、等しく皆薫習せん。云何ぞ、
    有信(うしん)、無信、無量前後の差別(しゃべつ)あるや。皆應(まさ)に、一時に自ら、眞如の法有りと知って、勤
    修(ごんしゅ)し、方便して、等しく涅槃に入るべし。

 答曰眞如本一而有無量無邊無明。從本己來自性差別厚薄不同故。過恒河沙等上。煩悩依無明起差別。我見愛染煩悩依無明起差。別如是一切煩悩依於無明 起前後無量差別。唯如來能知故。

     答へて曰はく、眞如は本(もと)一(いつ)なり。而も無量無邊の無明有りて、本(もと)より己來(このかた)、自性
    (しゃう)差別して厚薄(こうはく)同じからざるが故に、恒河沙(ごうがしゃ)等に過ぐる上煩悩は、無明に依って起こり、
    差別あり。我見・愛染(あいぜん)の煩悩は、無明に依って起こり、差別有り。是くの如く、一切の煩悩は、無明に 
    依って起こる所の前後無量の差別あり、唯如來のみ能く知るが故に。

 又諸佛法有因有緣。因緣具足乃得成辨。如木中火性是火正因。若無人知不假方便能自焼木無有是處。
 衆生亦爾。雖有正因薫習之力。若不遇諸佛菩薩善知識等。以之爲緣能自斷煩悩。入涅槃者則無是處若雖有外緣之力。而内浄法未有薫習力者。亦不能究竟厭生死苦樂求涅槃。
 若因緣具足者。所謂自有薫習之力。又爲諸佛菩薩等。慈悲願護故。能起厭苦之心。信有涅槃。修習善根。以修善根成熟故。則値諸佛菩薩。示敎利喜乃能進趣向涅槃道。

     又諸佛の法は、因有り緣有り、因と緣と具足して、乃(すなは)ち成辨(じゃうべん)することを得るなり。木(もく)中
    の火性(くわしゃう)は、是れ火の正因なるも、若し人の知ること無く、方便を假(か)らずんば、能く自ら木を焼くこと、
    無有是の處(ことわり)有ること無きが如し。
     衆生も亦爾(しか)り、正因薫習の力有りと雖も、若し諸佛、菩薩、善知識等に遇(あ)ひ、之を以て緣と爲さず
    んば、能く自ら煩悩を断じ、涅槃に入ることは、則ち是の處(ことわり)無し。外緣の力有りと雖も、而も内の浄法
    に未だ薫習の力有らずんば、亦究竟(くきゃう)して、生死(しゃうじ)の苦を厭(いと)ひ、涅槃を樂求(げうぐ)すること
    能(あた)はず。
     若し因と緣と具足する者は、所謂(いはゆる)、自ら薫習の力有り、又諸佛菩薩等の爲に、慈悲願護せらる。
    故に能く苦を厭(いと)ふの心を起し、涅槃有ることを信じ、善根を修習(しゅじふ)す。善根を修すること成熟(じゃう 
    じゅく)するを以ての故に、則ち諸佛菩薩に値(あ)ひ、示敎利喜(じけうりき)し、乃(すなは)ち能く進趣して、涅槃の
    道に向ふなり。

(´・(ェ)・`)b

318鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/07(木) 22:09:25 ID:1d4drIFg0

 真如の薫習、つまり修業の実践にも二種あるというのじゃ。

 一つ目は自体相薫習なのじゃ。
 
 二つ目は用薫習なのじゃ。

 自体相薫習とは、真如ははじまりもない昔から、無漏の法をもっていて、不思議の業を備えており、境界の性となるのじゃ。
 この二つの意味で恒常に薫習するのじゃ。
 薫習力があるから、衆生に生死の苦をいとわしめ、涅槃を求めさせ、自ら真如法ありと信じて発心修業させることができるのじゃ。


 また聞いたのじゃ。
 もしこのようであるならば、一切の衆生はみんな真如があるはずなのじゃ。
 もしみんなよく実践修業するならば、法を信じたり、信じなかったり、無量の前後の差別があるのか。
 みんなまさに一時に真如の法ありと知るならば、実践に勤め、方便して涅槃に入るじゃろう。

 答えたのじゃ。
 真如はもとから一つであるのじゃ。
 しかし無量無辺の無明があり、もとよりこのかた自性差別して、厚薄が同じでないからなのじゃ。
 ガンジス川の砂より多い上煩悩は、無明によって起こり、差別あるものじゃ。
 我見、愛染の煩悩も無明によって差別在るのじゃ。
 このように一切の煩悩は無明によっおこる前後無量の差別が在るのじゃ。
 ただ如来だけがよく知ることが出来るのじゃ。

319避難民のマジレスさん:2022/04/07(木) 22:17:50 ID:feYdLU8s0
21.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号22)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号44)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 用薫習者即是衆生外緣之力。如是外緣有無量義。略説二種。
 云何爲二。一者差別緣。二者平等緣。
 差別緣者此人依於諸佛菩薩等。從初發意始求道時。乃至得佛於中若見若念。或爲眷属。父母諸親。或爲給使或爲知友。或爲怨家。或起四攝。乃至一切所作無量行緣以起大悲薫習之力。能令衆生増長善根。若見若聞得利益故。

     用薫習とは卽ち是れ、衆生外緣(げえん)の力なり。是くの如き外緣に、無量の義有り。畧して説くに、二種有り。
     云何が二と爲す。一には差別緣、二には平等緣。
     差別緣とは、此の人は、諸佛菩薩等に依って、初發意(しょほつち)に始めて道(だう)を求むる時より、乃至佛道
    を得(う)るまで、中(うち)に於いて、若しくは見、若しくは念ず。或ひは、眷属、父母、諸親と爲り、或ひは給使(き 
    ふし)と爲り、或ひは知友(ちう)と爲り、或ひは怨家(をんけ)と爲り、或ひは四攝(しせふ)を起こし。乃至一切の所 
    作、無量の行緣は、大悲を起す薫習の力を以って、能く衆生をして、善根を増長し、若しくは見、若しくは聞き、 
    利益(りやく)を得せしむるが故に。

 此緣有二種云何爲二。一者近緣速得度故。二者遠緣久遠得度故。是近遠二緣分別復有二種。云何爲二一者増長行緣。二者受道緣。

      此の緣に二種有り。云何が二と爲す。一には近緣(ごんえん)。速(すみやか)に度する事を得(う)るが故に。二
     には遠緣(をんえん)。久遠(くをん)に度する事をえるが故に。是の遠近(をんごん)の二緣を分別するに、復(また) 
     二種有り。云何が二と爲す。一には増長行緣。二には受道緣。なり

(´・(ェ)・`)b

320鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/07(木) 22:18:38 ID:1d4drIFg0

 また諸仏の法は因があり、縁があり、因と絵がともなって成るものじゃ。
 木の中にある燃える性質は、火の正しい原因であるが、もし人が知らず方法を使わなければ木を燃やせないようなものじゃ。
 衆生もまた同じなのじゃ。
 正しい原因の薫習の力があっても、しも諸仏、菩薩、善智識などに会ってもこれを縁としなければ、自ら煩悩を断ち、涅槃に入ることは出来ないのじゃ。
 外の縁の力があっても、しかも内の浄法にまだ薫習の力がなければ、また生死の苦を厭い、涅槃を求めることもできないのじゃ。

 もし因と縁とを持つ者は、いわゆる薫習の力を自らもっているのじゃ。
 また諸仏菩薩等のために慈悲で守られるのじゃ。
 それゆえに苦を厭う心を起こし、涅槃が在ると神事、善根を習い修めるのじゃ。
 善根を修めることが成熟すれば、すぐに諸仏菩薩にもあえて、教えを受けて喜び、実践して涅槃の道に向かうのじゃ。

321避難民のマジレスさん:2022/04/07(木) 22:40:23 ID:sL4UV/Rg0
あっ!途中で割り込んでしまったであります。
ごめんなさい。
n(´・(ェ)・`)n

322鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/08(金) 21:35:55 ID:1d4drIFg0
↑よいのじゃ。
 珍しいことじゃ。
 これもシンクロニシティじゃな。

323鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/08(金) 21:54:53 ID:1d4drIFg0

 用薫習とは衆生の外縁の力なのじゃ。
 このような外縁には無量の意義があるものじゃ。
 無量にあるものを略して説けば、二つになるのじゃ。

 一つ目は差別縁、

 二つ目は平等縁なのじゃ。

 差別縁とは、この縁を持つ者は諸仏菩薩に依って、初発意で道を求める時から、仏道を得るまで、
 中においてもしくは仏の身を見るか、あるいは功徳を念じるのじゃ。
 仏は或いは眷属となり、父母や親戚や召使や知友や恩人となるのじゃ。
 その者のために或いは四摂を実践したり、乃至は一切の所作、無量の行縁を以って大悲薫習の力を起こすのじゃ。
 そうすることで衆生のために善根を増長して、もしくは仏身を見させ、仏の声を聞かせて利益を得させるからなのじゃ。

 この縁にまた2種類在るのじゃ。

 一つ目は増長行縁なのじゃ。

 二つ目は受道縁なのじゃ。

324避難民のマジレスさん:2022/04/09(土) 00:03:21 ID:lmwiEF6E0
22.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号23)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号44-45)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

平等緣者。一切諸佛菩薩皆願度脱一切衆生。自然薫習常恒不捨。以同體智力故。随應見聞而現作業。所謂衆生依於三昧。乃得平等見諸佛故。
 此體用薫習。分別復有二種。云何爲二。
 一者未相應。謂凡夫二乘初發意菩薩等。以意意識薫習依信力故。而能修行。未得無分別心。與體相應故未得自在業修行與用相應故。

     平等緣とは、一切の諸佛菩薩は、皆一切の衆生を度脱せんと願ひ、自然(じねん)に薫習して 
    常恆(じゃうごう)に捨せず、同體の智力を以っての故に。應(まさ)に見聞(けんもん)すべきに 
    随って、作業(さごふ)を現ず。所謂(いはゆる)、衆生三昧に於て、乃ち平等に諸佛を見ること
    を得るが故に。
     此の體・用薫習を分別するに、復(また)二種有り。云何が二と爲す。
     一には未相應。謂はく、凡夫二乘初發意(しょほつち)の菩薩等は、意と意識との薫習を以っ 
    て、信力に依るが故に、而も能く修行すれども、未だ無分別心と、體と相應する事を得ざる   
    が故に。未だ自在業の修行、用(ゆう)と相應することを得ざるが故に。

 二者己相應、謂法身菩薩得無分別心。與諸佛自體相應得自在業與諸佛智用相應。唯依法力自然修行薫習眞如。滅無明故

     二には己相應。謂はく、法身の菩薩は、無分別心を得て、諸佛の自體と相應し、自在業を 
    得て、諸佛の智用(ちゆう)と相應す。唯法力に依って、自然に修業(しゅごふ)して眞如に薫習
    し、無明を滅するが故に

 復次染法。從無始巳來薫習不斷。乃至得佛後則有斷。浄法薫習則無有斷。盡於未來。此義云何。以眞如法常薫習故。妄心則滅法身顯現起用薫習故無用斷

     復(また)次に染法は、無始より巳來(このかた)、薫習して斷ぜず。乃至、佛を得て後、則ち 
    斷ずること有り。浄法薫習は、則ち斷ずること有ること無く、未來を盡くす。

 此義云何。
 以眞如法常薫習故。妄心則滅法身顯現起用薫習故無用斷

     此の義云何(いかん)。
     眞如の法は、常に薫習するを以っての故に、妄心則ち滅すれば、法身顯現して用(ゆう)薫習 
    を起す。故に斷ずること有ること無し。

(´・(ェ)・`)b

325鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/09(土) 21:24:32 ID:1d4drIFg0

 二つ目の平等縁とは、一切の諸仏は皆一切の衆生を解脱に導こうと願い、
 自然に薫習して常に永久に捨てることはないのじゃ。
 同体の智慧力をもってるからなのじゃ。

 まさに見聞きすべきことにしたがって、作業をあらわすのじゃ。
 いわゆる平等三昧によって即ち平等に諸仏をみることができるからなのじゃ。

 この本体と用を分別すれば、また二種あるのじゃ。

 一つ目は未相応なのじゃ。
 凡夫や二乗の者達や初発意の菩薩等は、意と意識との薫習をもっ信じる力で修業するのじゃ。
 それで修業はできるが、未だ無分別心と、体と相応することができないから未相応なのじゃ。
 さらにまだ自在業の修行、用とも相応じることもできないからなのじゃ。

 二つ目は己相応なのじゃ。
 法身の菩薩は無分別心を得て、諸仏の自体と相応し、自在業を得て、諸仏の智慧の用と相応するからなのじゃ。
 ただ法力によって、自然に修業して真如に薫習して無明を滅するからなのじゃ。

 
 また次に染法は始まりもない昔から、薫習して断たれることがないのじゃ。
 仏陀になれば断ずることはあるのじゃ。
 浄法薫習は断じることはなく、未来永劫にありつづけるのじゃ。

 この意味とは、真如の法とは常に薫習するから妄心が滅すれば法身が顕現して用薫習を起こすのじゃ。
 その故に断絶することはないのじゃ。


 真如の法は時空を超えて永遠にあり続けるということじゃな。

326避難民のマジレスさん:2022/04/09(土) 22:09:20 ID:b1ygbnlI0
23.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号23-24)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号46-47)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第六 眞如ノ自體相―六義

 復次眞如自體相者。一切凡夫聲聞緣覺菩薩諸佛。無有増減非前際生。非後際滅。畢竟常恒。
 從本以來自性滿足一切功徳。  
 所謂自體有大智慧光明義故。徧照法界義故。眞實識知義故。自性清浄心義故。常樂我浄義故。清凉變自在義故。具足如是過於恒沙不離不斷不異不思議佛法。乃至滿足無有所少義故名爲如來藏。亦名如來法身

     復次に、眞如の自體相とは、一切の凡夫と聲聞(しゃうもん)と、緣覺と、菩薩と、諸佛とに 
    増減有ること無く、前際に生ずるに非ず、後(ご)際に減するに非ず。畢竟常恆(じゃうごう)な
    り。
     本より巳來(このかた)、自性(じしゃう)に一切の功徳を滿足す。
     所謂、自體に大智慧光明の義有るが故に、徧照法界の義の故に。眞實識知の義の故に。自 
    性清浄心の義の故に。常樂我浄の義の故に。清凉不變自在の義の故に。是くの如く恆沙(ごう 
    しゃ)に過ぎたる、不離・不斷・不異・不思議の佛法を具足し、乃至滿足して、少(か)くるる
    こと無き義の故に、名づけて如來藏と爲す。亦如來法身とも名づく

 問曰上説眞如其體平等離一切相云何復説體有如是種種功徳。

     問うて曰はく、眞如は其の體、平等にして、一切の相を離るると説く。云何ぞ復た、體に
    是くの如く、種種の功徳有りと説くや。

 答曰。雖實有此諸功徳義。而無差別之相。等同一昧唯一眞如

     答へて曰はく、實に此の諸(もろもろ)の功徳の義有りと雖も、而も差別(しゃべつ)の相無く、等同一昧にして、唯一眞如なり。

 此義云何。 
 以無分別離分別相是故無二。
 復以何義得説差別。
 以依業識生滅相示。
 此云何示
 以一切法本來唯心實無於念。而有妄心。不覺起念見諸境界故。説無明心性不起即是大智慧光明義故。
 若心起見則有不見之相。心性離見即是徧照法界義故。
 若心有動非眞識知。
 無有自性。非常非樂非我非浄
 熱悩衰變則不自在 
 乃至具有過恒沙等妄染之義。對此 義故。心性無動」則有過恒沙等諸浄功徳相義示現。
 若心有起更見前法可念者。則有所少。如是浄法無量功徳即是一心。更無所念。是故滿足名爲法身如來之藏。   
     此の義云何。 
     無分別は分別の相を離るるを以て、是の故に無二なり。
     復何の義を以て、差別を説くことを得(う)るや。
     業識(ごっしき)生滅の相に依って示す。
     此れ云何が示すや。
     一切の法は、本來唯心にして、實に念無し。而も妄心有りて、不覺にして念を起こし、諸 
    (もろもろ)の境界を見るを以ての故に、心性起らざれば、卽ち是れ大智慧光明の義の故に。
     若し心、見を起こせば、則ち不見の相有り。心性にして見を離るれば、卽ち徧照法界(へん 
    ぜうほっかい)の義の故に。
     若し心、動あれば、眞の識知に非ず。
     自性有ること無く、常に非ず、樂に非ず、我に非ず、浄に非ず。
     熱悩衰變(ねつなうすいへん)にして、則ち自在ならず。 
     乃至具(つぶさ)に、恆沙(ごうじゃ)に過ぐる等の、妄染の義有り。對此の義に対するが故
    に、心性、動無ければ、則ち過恒沙等の、諸の浄功徳の相の義、示現する有り。
     若し心、起こること有って、更に前法の念ずべきを見る者は、則ち少(か)くる所有り。是く 
    の如き浄法の無量の功徳は、卽ち是れ一心にして、更に念ずる所無し。是の故に滿足するを
    名づけて、法身如來の藏と爲す。
(´・(ェ)・`)b

327鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/10(日) 21:57:24 ID:1d4drIFg0
また次に真如の自体相とは、一切の凡夫と声聞と縁覚と菩薩と、諸仏とに増減あることなく、
 以前に生じたのではなく、以後に減るのでもないのじゃ。
 時空を超えて永遠なのじゃ。

 もとよりこのかた自性は一切の功徳に満ち足りているのじゃ。
 いわゆる自体に大智慧光明の意義があるからなのじゃ。
 法界をあまねく照らすからなのじゃ。
 真実を識知するからなのじゃ。
 自性清浄心だからなのじゃ。
 常楽我浄だからなのじゃ。
 清涼で不変常在だからなのじゃ。
 
 このようにガンジス川の砂より多い、不離、不断、不異、不思議の仏法を具足して、ないしは満ち足りていて、かけるところがないからなのじゃ。
 名づけて如来蔵とするのじゃ。
 あるいは如来の法身とするのじゃ。

328鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/10(日) 21:58:01 ID:1d4drIFg0
 また聞いたのじゃ。

 真如はその本体が平等で、一切の相を離れると聞いたのじゃ。
 しかしそれならばその本体に、そのようないろいろな功徳があると説いているのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それは実にいろいろな功徳があるといっても、そこには差別の相はなく、等同一味にして、唯一真如であるからなのじゃ。

 その意味とは、
 無分別は分別の相を離れるから無二なのじゃ。
 そうであればさらに差別を説くことはないのじゃ。
 業識生滅の相に依って示すだけなのじゃ。

 どのように示すかというと、

 一切の法は本来ただ心だけであり、実に観念はないのじゃ。
 それなのに妄心があって不覚であるから、観念を起こし、いろいろな境界を見るから無明と説いているのじゃ。

 心性が起こらなければ、即ち大智慧光明が起こるのじゃ。

 もし心が見るという観念を起こせば、見ないという観念も起こるのじゃ。
 心性が見を離れれば、法界を遍く照らすのじゃ。

 もし心に動じることがあれば、真の識知ではないのじゃ。
 それでは自性がなく、常ではなく、楽ではなく、我ではなく、浄でもないのじゃ。
 熱脳衰変であり、自在ではないのじゃ。
 さらにいろいろなガンジス川の砂より多い妄想に染まるのじゃ。

 この意味に対して、心性が動じなければ、すなわちガンジス川の砂より多いいろいろな清浄な功徳の相が現われるのじゃ。
 
 もし心が起こってさらに現前する法の観念があると見るものはまだ欠けているのじゃ。
 このような清浄な法の無量の功徳は、すなわち一心、つまり真如であるから観念もないのじゃ。
 この故に、満ち足りていることを、名づけて法身如来の蔵とするのじゃ。
 如来蔵じゃな。

329避難民のマジレスさん:2022/04/10(日) 23:48:38 ID:JBVywH4Y0
24.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号25-26)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号46-48)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第七 眞如ノ用
     
 復次眞如用者。所謂諸佛如來。本在因地發大慈悲。修諸波羅蜜。攝化衆生。立大誓願。盡欲度脱等衆生界。亦不限劫數盡於未來。以取一切衆生如巳身故。而亦不取衆生相。此以何義
 謂如實知一切衆生。及與巳身。眞如平等無別異故。
 以有如是大方便智。除滅無明見本法身。自然而有不思議業種種之用。即與眞如等徧一切處。又亦無有用相可得。
 何以故
 謂諸佛如來唯是法身智相之身。第一義諦無有世諦境界。離於施作。但随衆生見聞得益故説爲用

     復次に眞如の用(ゆう)とは、所謂、諸佛如來、本因地に在って、大慈悲を發(おこ)し、諸の
    波羅蜜を修し、衆生攝化(せふけ)す。大誓願を立て、等しく衆生界を度脱せんと欲し、亦劫數 
    (ごふしゅ)を限らず、未來を盡くす。一切衆生を取ること、巳身の如くなるを以ての故に、而
    も亦衆生の相を取らず。此れ何の義を以てぞ。
     謂はく、實に一切衆生と及び巳身とは、眞如平等にして、別異無しと知るが故なり。
     是くの如き大方便、智有るを以て、無明を除滅して、本法身(ほっしん)を見るに、自然にし
    て不思議の業。種種の用有り、卽ち眞如と等しく、一切處に徧ず。又亦用(ゆう)相の得(う)べ
    き有ること無し。
     何を以っての故に。
     謂はく、諸佛如來は、唯是れ法身智相の身(しん)、第一義諦(たい)にして、世諦の境界有る
    こと無く、施作(せさ)を離る。但衆生の、見聞(けんもん)して益(やく)を得(う)るに随ふが故 
    に、説いて用(ゆう)と爲す。 
    
 此用有二種云何爲二。
 一者依分別事識。凡夫二乘心所見者名爲應身。
 以不知轉識現故。見從外來取色分齊。不能盡知故

     此の用に二種有り。云何が二戸爲す。
     一には、分別事識に依る。凡夫・二乘の心の所見は、名づけて應身(じん)と爲す。
     轉識の現〔ずる所〕なるを知らざるを以ての故に、外(げ)より來ると見、色の分齊(ざい)を 
    取り、盡く知ること能はざるが故に。

 二者依於業識。謂諸菩薩從初發意。乃至菩薩究竟地心所見者。名爲報身。
 身有無量色。色有無量相。相有無量好。所住依果亦有無量種種荘嚴。随所示現即無有邊。不可窮盡。離分齊相。随其所應。常能住持。不毀不失
 如是功徳皆因諸波羅蜜等無漏行薫。及不思議薫之所成就。具足無量樂相故説説爲報身

     二には、業識に依る。謂はく、諸の菩薩、初護意より、乃至菩薩究竟地(くきゃうぢ)の心の 
    所見を、名づけて報身と爲す。
     身に無量の色有り、色に無量の相有り、相に無量の好有り。所住の依果も、亦無量種種の
    荘嚴(しゃうごん)有り、示現する所に随って、卽ち邊有ること無く、窮盡(ぐうじん)すべから 
    ず、分齊の相を離る。〔而かも〕其の所應に随って、常に能く住持して、毀(き)せず、失せず。

 如是功徳皆因諸波羅蜜等無漏行薫。及不思議薫之所成就。具足無量樂相故説説爲報身
 
     是くの如きの功徳は、皆諸の波羅蜜等の、無漏行薫と、及び不思議薫との、成就する所に 
    因って、無量の樂相を具足す。故に説いて報身と爲す。

(´・(ェ)・`)b

330避難民のマジレスさん:2022/04/11(月) 16:55:35 ID:wAVU2rfc0
鬼和尚、くまさん失礼します。
購読ゼミのスレのパパジとの対話と解説、お疲れさまでした。
次の予定が入っていなければ、以前途中で中断していたラマナ・マハルシとの対話を
そちらのスレをお借りして再開してもよろしいでしょうか?
もしOKでしたら明日から掲載していこうと思っています。

331鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/11(月) 23:17:31 ID:1d4drIFg0
↑よいのじゃ。
 どんどんするとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

332鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/11(月) 23:34:55 ID:1d4drIFg0

 また次に真如の用とは、いわゆる諸仏、如来達は本因地にあって、大慈悲を起こし、
 諸々の波羅蜜を修め、衆生を集めて解脱させるのじゃ。

 大誓願をたてて、等しく衆生界を度脱しようとして、年月を限らず、未来永劫に実践するのじゃ。
 一切衆生を見ること、己の身と同じと見るからなのじゃ。
 しかもまたそれは衆生があるという観念がないのじゃ。

 これはどのような意味であるか。
 いわく、実に一切衆生と自分の身とは真如平等であり、別とか異なることはないと知っているからなのじゃ。
 
 このような大方便、智恵あるから無明を除き滅して、本法身をみると自然にして不思議の業にいろいろな用があるのじゃ。
 すなわち真如と等しく、全ての場所に遍く現われるのじゃ。
 またまたそれであっても観念はないのじゃ。

 なぜであるかといえば、

 諸仏如来はただこれ法身智相の身であり、第一の真理であり、世間のことわりでの境界はなく、俗世の用を離れているのじゃ。
 ただ衆生が見聞きして利益を得られるようにするために、法を説いて利用させるのじゃ。

333鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/11(月) 23:50:18 ID:1d4drIFg0

 この用にも二種在るのじゃ。

 一つ目は分別事識によるものじゃ。
 凡夫や二乗の心の所見は、名づけて応身とするのじゃ。
 仏の身を転識の表れであることを知らないから、外より来たと見るのじゃ。
 肉体の差別に囚われて、仏の智恵を全て知ることが出来ないのじゃ。

 二つ目は業識によるものじゃ。

 諸々の菩薩は初発意から究境地の心の所見を報身とするのじゃ。
 身には無量の色があり、色にも無量の相があり、相にも無量の好みが在るのじゃ。
 
 住む所もまた無量の飾りが在るのじゃ。
 現われた所にしたがって、辺もなく究めつくすこともできず、境界も無いのじゃ。
 しかもその所に応じて、常によく保って、壊れも失くしもしないのじゃ。
 
 このような功徳は皆もろもろの波羅蜜等の無漏の修行の実践と、不思議なる実践が
 成就したことに因って、無量の安楽のありさまを具えたのじゃ。
 ゆえに説いて報身とするのじゃ。

334避難民のマジレスさん:2022/04/11(月) 23:59:45 ID:ysLco47U0
25.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号26-27)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号48-49)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した 

 又爲凡夫所見者。是其麁色随於六道。各見不同種種異類非受樂相故爲應身。

     又爲凡夫所見者。是其麁色随於六道。各見不同種種異類非受樂相故爲應身。

 復次初發意菩薩等所見者以深く信眞如法故少分而見。知彼色相荘嚴等事無來無去離分齊。唯依心現不離眞如然。此菩薩猶自分別以未入法身位故。若得浄心所見微妙其用轉勝乃至菩薩地盡見之究竟若離業識則無見相以諸佛法身無有彼此色相迭相見故。


     復次に初發意(しょほっち)の菩薩等の所見は、深く眞如の法を信ずるを以ての故に、少分に 
    して見る。彼(か)の色相荘嚴等の事は、來無く去(こ)無く、分齊を離れ、唯心に依って現じて、    眞如を離れずと知る。然れども此の菩薩は、猶ほ自ら分別し、未だ法身(ほっしん)の位(くら  
    ゐ)に入らざるを以ての故に、若し浄心を得れば、所見は微妙(もめう)にして、其の用(ゆう)
    轉(うた)た勝(まさ)れり。乃至菩薩地盡くれば、之を見ること究竟(くきゃう)す。若し業識を 
    離るれば、卽ち見相無し。諸佛の法身(ほっしん)は、彼此(ひし)の色相迭(たがひ)に相(あひ) 
    見ることあること無きを以ての故に。

 問曰若諸佛法身離於色相云何能現色相
 
     問うて曰はく、若し諸佛の法身、色相を離るれば(るといはば)、云何ぞ能く色相を現や。

 答曰 此法身是色體故能現於色所謂從本巳來色心不二以色性即智故色體無形説名智身。以智性即色。故説名法身徧一切處現之色無有分齊随心能示十方世界無量菩薩無量報身無量荘嚴各各差別皆無分齊而不相妨此非心識分別能知以眞如自在用義故
  
     答へて曰はく、卽ち是れ法身(ほっしん)は、是れ色の體なるが故に、能くを現ず。所謂、 
    本より巳來(このかた)、色心不二なり。色性は卽ち智なるを以ての故に、色體形無きを、説い 
    て智身と名づく。智性卽ち色なるを以ての故に、説いて、法身は一切當(まさ)に徧ずると名づ 
    く。所現の色に分齊有ること無く、心に随って、能く十方世界の無量の菩薩、無量の報身、 
    無量の荘嚴(しゃうごん)、各各差別して、皆分齊無くして相妨(さまた)げず。此れ心識分別の 
    能く知る〔所に)非ず。眞如自在の用の義なるを以ての故に。
  
  (´・(ェ)・`)b

335避難民のマジレスさん:2022/04/12(火) 00:04:09 ID:ysLco47U0
>>330
n(´・(ェ)・`)n
わくてかであります。
よろしくお願いします。

336避難民のマジレスさん:2022/04/12(火) 08:48:30 ID:s83mPz9Y0
>>331
>>335
ありがとうございます。
それではよろしくお願いしますm(__)m

337鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 00:31:42 ID:1d4drIFg0

 また凡夫がみるものは眼耳鼻舌身意とか色声臭味触法等なのじゃ。
 六道輪廻の生まれにしたがっておのおのが見ることは同じではないのじゃ。
 いろいろな異類は涅槃常楽の相ではないから故に応身とするのじゃ。

 また次に初発意の菩薩等の所見は、深く真如の法を信じるだけであるから、少なくみるだけなのじゃ。
 色相の飾りなどは 来ることはなく、去ることもなく、観念を離れて、ただ心によって現われて真如から離れたものではないとしるのじゃ。
 しかしこのような菩薩はまだ分別があり、まだ法身の位に入っていないのじゃ。

 もし清浄な心を得れば、見るところは微妙になり、その用は大変にすぐれたものになるのじゃ。
 さらに菩薩の境地も終われば、真如を究竟的に見られるのじゃ。
 もし業識を離れれば、すなわち見る相もないのじゃ。
 諸仏の法身はかれこれの、身体の相好などを互いに見ることなどはないからなのじゃ。

338鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 00:40:22 ID:1d4drIFg0

 また聞いたのじゃ。
 もし諸仏の法身が身体の相好などを離れているならば、どのようにして見ればよいのかと。

 答えたのじゃ。
 法身とは肉体の本体であるから現れることができるものなのじゃ。
 いわゆるもとよりこのかた色心不二であるからなのじゃ。
 肉体の本性は即ち智恵であるから、身体の形がないことを智恵の身と名づけるのじゃ。
 智恵の本性は身体であるから、法身は全てに遍満していると説いているのじゃ。
 
 心に従って十方世界の無量の菩薩、無量の報身、無量の飾り、おのおのが差別して、なおまた皆分際がなくてもお互いにその働きを妨げないように出来るのじゃ。
 これは心の認識や思考分別によって知ることが出来ないものなのじゃ。
 真如の自在の効用の意義であるからなのじゃ。

339避難民のマジレスさん:2022/04/13(水) 06:41:59 ID:7I2EyRWQ0

26.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号27-28)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号49-50)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第八 生滅門ヨリ眞如門ニ入ル

 復次顯示從生滅門即入眞如門所謂推求五陰色之與心六塵境界畢竟無念。以心無形相。十万求之終不可得。
 如人迷故謂東爲西方實不轉衆生亦爾。無明迷故謂心爲念心實不動。若能觀察知心無念。即得随順入眞如門故 

     復(また)次に、生滅門より眞如門に入ることを顯示す。所謂(いはゆる)、五陰を(すゐぐ)す 
    るに、色と心とになり。六塵の境界、畢竟じて念無し。心に形相(ぎゃうさう)無く、十方 
    (じっぱう)に之を求むるに、終(つひ)に不可得なるを以てなり。
     人の迷ふが故に、東を謂って西と爲すも、方は實に轉ぜざるが如し。衆生も亦爾(しか)り。 
    無明の迷(めい)の故に、心を謂って念と爲すも、心は實に動ぜず。若し能く觀察して、心は無
    念なりと知れば、卽ち随順して、眞如門に入ることを得るが故に。 

●解釈分第二 對冶邪執

 對冶邪執者。一切邪執皆依我見。若離於我則無邪執。是我見有二種
 云何爲二。一者人我見。二者法我見。

     對冶邪執とは、一切の邪執は、皆我見に依る。若し我を離るれば、則ち邪執無し。我見に 
    二種有り。
     云何が二と爲す。一には人我見、二には法我見。

 人我見者依諸凡夫説 五有種云何爲五

     人我見とは、諸の凡夫に依って、説に五種有り。云何が五と爲す。

○一者聞修多羅説如來法身畢竟寂寞。猶如虚空。以不知爲破着故。卽謂虚空是如來性云何對冶。明虚空相是其妄法。體無不實。以對色故。有是可見相。令心生滅。以一切色法。本來是心。實無外色。若無色者。則無虚空相所謂一切境界唯心妄起故有。若心離於妄動。則一切境界滅唯一眞心無所不徧。此謂如來廣大性智究竟之義。非如虚空相故
 
     一に、修多羅(しゅたら)に「如來の法身(ほっしん)は、畢竟寂寞(じゃくまく)なること、猶ほ 
    虚空の如し。」と説くを聞き、著(ぢゃく)を破せん爲なるを知らざるを以ての故に、卽ち虚空 
    は是れ如來の性なりと謂(をも)へり。
     云何が對冶するや。虚空の相は、是れ其の妄法、體無にして實ならざるを明す。色に対す
    るを以ての故に、是の可見の相有って、心をして生滅せしむ。一切の色法は、本來是れ心ん 
    なるを以て、實に外(げ)色無し。若し色無ければ、則ち虚空の相無し。所謂一切の境界は、唯 
    心の妄に起こるが故に有り。若し心、妄動を離るれば、則ち一切の境界滅す。唯一の眞心に 
    して、徧せざる所無し。此を如來廣大の性智究竟の義と謂ふ。虚空の相の如きに非ざるが故 
    に。

(´・(ェ)・`)b

340鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 23:41:30 ID:1d4drIFg0

 また次に生滅門から真如門に入ることを示すのじゃ。
 いわゆる身体の五つの要素を求めれば、肉体と心になるのじゃ。
 六塵の境界はつまるところ観念はないのじゃ。
 心にも形や特徴はなく、十方に求めて得られないのじゃ。
 
 人が迷って東を西といったりしても、方角は変化したりしないようなものじゃ。
 衆生も同じなのじゃ。
 無明の迷いがあるから、心に観念が在ると思うのじゃ。
 
 しかし実際には心は動じることはなく、もしよく観察して心は観念がないと気付けば、
 すなわち直ぐにも真如門に入れるのじゃ。

341鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 23:58:24 ID:1d4drIFg0

 退治邪執なのじゃ。
 邪な執着を退治する教えなのじゃ。

 一切の邪執はみんな我見によるのじゃ。
 もし我を離れれば、すなわち我執もないのじゃ。
 
 その我見にも二種あるのじゃ。

 一つ目は人我見なのじゃ。

 二つ目は法我見なのじゃ。

 人我見とは、もろもろの凡夫によって五種あるのじゃ。

 一つ目は、経典に「如来の法身は、畢竟寂寞なること虚空の如し」
 と、説いているのを聞いて、それが執着をなくすための方便であることを知らず、
 すなわち虚空が如来の本性であると思うことなのじゃ。

 どのように退治すべきか。
 虚空の相は 妄想であり本体がないことを明かすのじゃ。
 肉体に対するものとして説かれただけであり、これを見るべきものがあるとして心を滅するための方便なのじゃ。
 一切の身体のありようは、ただ心によってあるものであり、心の外に肉体は無いのじゃ。
 
 もし身体がなければ、すなわち虚空にもなんの観念もないのじゃ。
 いわゆる一切の境界はただ妄想で起こるからあると思うのじゃ。
 もし心が妄想による動揺を離れれば、一切の境界も滅するのじゃ。
 唯一の真如の心があまねくあるだけなのじゃ。

 これを如来の広大なる性智究極の境地というのじゃ。
 虚空の相のような観念ではないのじゃ。

342避難民のマジレスさん:2022/04/14(木) 00:04:26 ID:f1WT1MX60
27.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号28-29)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号50)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○二者聞修多羅説世間諸法畢竟體空乃至涅槃眞如之法亦畢竟空本來自空離一切相以不知爲破着故即謂眞如涅槃之性唯是空
 云何對冶明眞如法身自體不空具足無量性功徳故

     二に、修多羅に、「世間の諸法は、畢竟體空なり、乃至涅槃・眞如の法も、亦畢竟空なり。
    本來自空にして一切の相を離る」と説くを聞き、著(ぢゃく)を破する爲と知らざるを以ての故 
    に、卽ち眞如涅槃の性は唯是れ空なりと謂(おも)へり。
     云何が對冶するや。眞如法身は、自體不空にして、無量の性功徳を具足すると明かすが故 
    に。

○三者聞修多羅。説如來之藏。無有増減體備一切功徳之法。以不解故。即謂如來之藏。有色心法自性差別
 云何對冶以唯依眞如義説故。因生滅染義。示現説差別故。

     三に、修多羅に、「如來の藏は、増減有ること無く、體に一切功徳の法を備ふ」と説くを聞 
    き、解(げ)せざるを以ての故に、卽ち如來の藏は、色心の法の自相差別有りと謂(おも)へり。
     云何が對冶するや。唯眞如の義に依って説くを以ての故に。生滅染の義に因って、示現す 
    るを、差別と説くが故に。

○四者聞修多羅。説一切世間生死染法。皆依如來藏而有一切諸法不離眞如。以下解故。謂如來藏自體具有一切世間生死等法。云何對冶。依如來藏從本己來。唯有過恒沙等諸浄功徳不離不斷不異眞如義故。以過恒沙等諸煩悩染法。唯是妄有性自本無。從無始世來未曾與如來藏相應故。若如來藏體有妄法。而使 曾永息妄者。則無有是處。

     四に、修多羅に、「一切の世間生死の染法は、皆如來藏に依ってり、一切の諸法は、眞如を
    離れず」と説くを聞き、解せざるを以ての故に、如來藏自體に、一切世間の生死等の法を具有 
    すると謂(おも)へり。
     云何が對冶するや。如來藏は、本より巳來(このかた)、唯過恆沙(ごうじゃ)等の諸の浄功徳 
    の、不離・不斷・不異の眞如の義有るを以ての故に、過恒沙等の、煩悩の染法は、唯是れ妄 
    有(まうう)にして、性自(おのづか)ら本(もと)無なり。無始世(せ)より來(このかた)、未だ曾 
    (かつ)て如來藏と相應せざる以ての故に。若し如來藏の體に妄法有って、而も證曾(しょう 
    ゑ)して永く妄を息(や)めしめば(しむといはば)、則ち是の處(ことわり)有ること無し。

(´・(ェ)・`)b

343鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/15(金) 00:31:44 ID:1d4drIFg0

 二つ目は経典に「世間のもろもろの法はみんな空である。
 涅槃や真如の法もまたつまるところ空である。本来自ら空であり一切の相を離れている」
 と、説いているのを聞いて、それが執着を破るためと知らずに、真如、涅槃の本性も空と思うことなのじゃ。

 これを退治するには、真如法身は自体、不空にして、無量の本性の功徳があると説くことじゃ。

 三つ目は経典に「如来蔵は、増減あることなく、本体に一切功徳の法を備えている」
 と、説いているのを聞いて理解できず、如来蔵は心身の法の自相に差別ありと思うこと無しの゛ゃ。

 これを退治するには、ただ真如の本当の意味を説くことじゃ。
 生滅染の義に因って現われることが差別と説くのじゃ。

 四つ目は経典に「一切の世間生死の染法は、皆如来蔵に依る。
 一切の諸法は真如を離れず」
 と、説いているのを聞き、理解できずに、如来蔵自体に、一切世間の生死等の法を具え持つと思うことじゃ。

 これを退治するには、如来蔵はもとよりこのかた、ただガンジス川の砂より多いもろもろの清浄な功徳の不離・不斷・不異の眞如の意義が在ると説くことじゃ。
 ガンジス川の砂より多い煩悩の染法は、ただこれ妄想であると思われているだけで、その本性は自ずからもともと無なのじゃ。
 始まりもない昔から今まで、煩悩の染法は未だかつて如来蔵と相応じたことはないのじゃ。
 もし如来蔵の本体に妄想の法があって、それを消して永く続いている妄想をやめさせようとするならば、この理がないと説くのじゃ。

344避難民のマジレスさん:2022/04/15(金) 08:11:57 ID:LnLW7KMw0
28.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号29-30)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号50-51)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○五者聞修多羅。説依如來藏故有生死依如來藏故。得涅槃。以不解故謂衆生有始以見始故。復謂如來所得涅槃有其終盡還作衆生。
 云何對冶。以如來藏無前際故。無明之相亦無有始。若説三界外更有衆生。始起者即是外道經説。又如來藏無有後際。諸佛所得涅槃與之相應則無後際故。

     五に、修多羅に、「如來藏に依るが故に生死有り、如來藏に依るが故に涅槃を得(う)」と説く 
    を聞き、解せざるを以ての故に、衆生に始有りと謂へり。始を見るを以ての故に、復(また)如 
    來所得の涅槃は、其の終盡(じうじん)有って、還って衆生と作(な)るっと謂(をも)へり。
     云何が對冶するや。如來藏は前際無きを以ての故に、無明の相も亦始有ること無し。若し 
    三界の外(ほか)、更に衆生有って、始めて起ると説かば、卽ち是れ外道經の説なり。又如來藏
    は、後際(ごさい)有ること無く、諸佛所得の涅槃も之と相應して、則ち後際無きが故に。

 法我見者。二乘鈍根故如來但爲説人無我。以説不究竟。見有五陰*生滅之法。怖畏生死妄取涅槃。
 云何對冶。以五陰法自性不生。則無有滅本來涅槃故。

     法我見とは、二乘の鈍根に依るが故に如來は、但爲めに、人無我(にんむが)と説く(きたま
    ふ)。説、不究竟(くきゃう)せざるを以て、五陰(ごおん)*生死の法有りと見て、生死を怖畏し、    妄(みだり)に涅槃を取る。
     云何が對冶するや。五陰の法は、自性不生なるを以て、則ち滅有ること無し。本來涅槃な
    るが故に。

○復次究竟離妄執者。當知染法浄法皆悉相待無有。自相可説。是故一切法從本巳來非色非心。非智非識。非有非無畢竟不可説相。
 而有言説者當知如來善巧方便。假以言説引導衆生。其旨趣皆爲離念歸於眞如。以念一切法。令心生滅不入實知故。

     復(また)次に、究竟(くきゃう)して妄執を離るとは、當(まさ)に知るべし、染法・浄法・皆  
    悉(ことごと)く相待して、自相の説くべき有ること無し。是の故に、一切の法は、本より巳來 
    (このかた)、色に非ず、心に非ず、智に非ず、識に非ず。有に非ず、無に非ず。畢竟じて不可
    説の相なり。
     而も言説有るは、當(まさ)に知るべし、如來の善巧方便、假(かり)に言説を以て衆生を引導 
    す。其の旨趣は、皆念を離れて眞如に歸せしめんが爲なり。一切の法を念ずれば、心をして 
    生滅して、實知に入らざらしむるを以ての故に。

(´・(ェ)・`)b

345鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/15(金) 21:42:48 ID:1d4drIFg0

 五つ目は経典に「如来蔵に依って生死あり、如来蔵に依って涅槃を得る」
 と、説いているのを聞いて、理解できずに衆生に始まりが在ると思うことじゃ。
 衆生に始まりがあるから、如来が得る涅槃も終わりがあって、また還って衆生となると思うのじゃ。
 
 どのように退治すべきか。
 如来蔵は過去の限界がなく、無明の相もまた始めがないと説くのじゃ。
 もし三界の外に更に衆生があって、始めて起こると説くならば外道の説なのじゃ。
 また如来蔵には時間に縛られたものではないから永遠であり、諸仏の得た涅槃もまた永遠なのじゃ。

346鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/15(金) 21:53:20 ID:1d4drIFg0

 法我見とは二乗の鈍根によるが故に、如来は人無我と説いたのじゃ。
 その説を究めていないから、五陰、生死の法があると見て、生死を恐れて妄りに涅槃をとるのじゃ。

 どのように退治するのか。
 五陰の法は自性不生であって滅もないのじゃ。
 本来涅槃であるからなのじゃ。

 また次に究竟して妄執を離れるとは、染法・浄法は皆ことごとくもって、しかも自相の説くべきことが無いとしるのじゃ。
 このゆえに一切の法は、もとよりこのかた色に非ず、心に非ず、智に非ず、識に非ず。有に非ず、無に非ずなのじゃ。
 つまり説くことができない相なのじゃ。

 それでも言説によって教えるのは、如来の巧みな方便であると知るべきなのじゃ。
 仮に言説で衆生を導いているだけなのじゃ。
 その趣旨はみんな観念を離れて、真如に還らせるためなのじゃ。
 一切の法を念じれば、心を生滅して、実際の智恵に入れるからなのじゃ。

347避難民のマジレスさん:2022/04/15(金) 22:34:18 ID:2AWfcS4w0

29.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号30-31)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号52)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲解釋分第三 分別發趣道相  

 分別發趣道相者謂一切諸佛諸所證道。一切の菩薩發心修行趣向義故
 略説發心有三種云何爲三。
 一者信成就發心。
 二者解行發心。
 三者證發心。

    分別發趣道相者謂う一切の諸佛諸證の道に、一切の菩薩發心修行して趣向する義の故に。
    略して發心を説くに、三種有り。云何が三と爲す。
    一には信成就發心。
    二には解行(げぎゃう)發心。
    三には證發心。

信成就發心者。依何等人。修何等行。得信成就堪能發心。

     信成就發心とは、何等(ら)の人に依り、何等の行を執し、信成就することを得て、能く發心 
    に堪ふるや。

 所謂依不定聚衆生。有薫習善根力故。信業果報。能起十善。厭生死苦。欲求無上菩薩。得値諸佛。親承供養。修行信心。經一萬劫。信心成就故。諸佛菩薩敎令發心。或以大悲故能自發心。或因正法欲滅。以護法因緣故能自發心。如是信心成就得發心者。入正定聚。畢竟不退。名住如來種中。正因相應。

     所謂、不定聚(ふじゃうじゅ)の衆生に依る。薫習と善根力と有るが故に、業の果報を信じ、 
    能く十善を起こし、生死(しょうじ)の苦厭(いと)ひ、無上菩薩を欲求(よくぐ)し、諸佛に値 
    (あ)ふることを得て、親承し供養(くやう)して、信心を修行す。一萬劫を經て、信心成就する
    が故に、諸佛菩薩、敎へて發心せしめ、或ひは大悲を以ての故に、能く自(みづか)ら發心し、 
    或は正法を滅せんと欲するに因って、護法の因緣を以ての故に、能く自ら發心す。是くの如
    く信心成就して發心を得(う)る者は、正定聚(じゅ)に入りて、畢竟じて退かざれば、如來の種
    中(しゅぢう)に住し、正因相應すと名づく。

 若有衆生善根微少。久遠巳來。煩悩深厚雖値於佛。亦得供養。然起人天種子。或起二乘種子。設有求大乘者。根則不定。若進若退。或有供養諸佛。未經一萬劫。於中遇緣亦有發心。所謂見佛色相而發其心。或因供養衆僧。而發其心。或因二乘之人敎令發心。或學他發心。如是等發心悉皆不定遇悪因緣
或便退失堕二乘地。

     若し衆生有って、善根微少(みせう)にして、久遠より巳來(このかた)、煩悩深厚(じんこう) 
    なれば、佛に値(あ)ひて亦供養することを得と雖も、然も人天(にんてん)の種子(しゅじ)を起 
    こし、或は二乘の種子を起こす。設(たと)ひ大乘を求むるものあるも、根(こん)則ち不定にし 
    て、若しは進み若しは退く。或ひは諸佛を供養すること有るも、未だ一萬劫を經ず。中(うち)
    に於て緣に遇ふて、亦發心すること有り。所謂、佛の色相を見て、其の心を發(おこ)し、或は 
    衆僧を供養することに依って、其の心を發(おこ)し、或ひは二乘の人の敎令(けうりゃう)に 
    因って發心し、或は他を學びて發心す。是の如き等の發心は悉(ことごと)く皆不定にして、遇
    悪因緣に遇はば、或は便(すなは)ち退失して、二乘地(ぢ)に堕す。

(´・(ェ)・`)b

348鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/17(日) 00:58:04 ID:1d4drIFg0

 一切の諸仏が証明した發趣道相の者を分別して説くのじゃ。
 一切の菩薩が発心し、修行の役に立つように、略して説くのじゃ。
 
 その発心にも三種あるのじゃ。
 その三つとは、

 一つ目が信成就発心なのじゃ。

 二つ目は解行発心なのじゃ。

 三つ目は證発心なのじゃ。

 一つ目の信成就発心の者はどのような人に依り、どのような修行をして、信成就を得て、発心に堪えるのか。

 いわゆる不定聚の者、聖人でもなく悪人でもない人の発心なのじゃ。
 薫習と善根力とが有るから、善の果報を信じて十善を実践して、生死の苦を厭い、無上の菩薩を欲求して、諸仏にあって親しく供養して信心修行するのじゃ。
 一万劫も修行して信心が成就するから、諸仏菩薩は教えて発心させるのじゃ。
 或いは大きな悲しみの故に自ら発心するとか、正法を滅する者から法を守るために自ら発心するのじゃ。

 このように信心成就して発心する者は、不定聚から正定聚の不退転の菩薩になるのじゃ。
 さらに修行して進歩すれば、如来になる予定の者ともなるのじゃ。

349鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/17(日) 01:05:08 ID:1d4drIFg0

 もし衆生が善根がすくなく、遠い昔から煩悩が厚ければ、仏にあって供養しても、人や天人になるか、二乗のものになるのじゃ。
 たとえ大乗を求める者があっても、根性が不定であるから修行も進んだり退いたりするのじゃ。
 あるいは諸仏を供養しても、まだ一万劫にもならないのじゃ。
 
 修行するうちに縁があってまた発心することもあるのじゃ。
 いわゆる仏の身体をみて発心するとか、僧侶を供養することで発心するとか、あるいは二乗の人に教えられて発心すると、他の教えで発心するとかなのじゃ。
 このような発心は、ことごとくみんな不定であり、たまたま悪因縁にあえば、大乗から退いて二乗になるのじゃ。

350避難民のマジレスさん:2022/04/17(日) 05:50:20 ID:FI52RlnM0
30.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号31-32)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号53)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 復次信成就發心者。發何等心。 略説三種。云何爲三。
 一者直心。正念眞如法故。
 二者深心。樂集一切諸善行故。
 三者大悲心。欲抜一切衆生苦故。

     復(また)次に、信成就發心とは、何等の心を發(おこ)すや。 略して説くに三種有り。云何
    が三と爲す。
     一には直心(ぢきしん)。正しく眞如の法を念ずるが故に。
     二には深心(じんしん)。一切諸の善行を樂集(げうじふ)するが故に。
     三には大悲心。一切衆生の苦を抜かんと欲するが故に。

 問曰上説法界一相佛體無二。何故不唯念眞如。復假求學諸善之行

     問曰上説法界一相佛體無二。何故不唯念眞如。復假求學諸善之行

答曰譬如大摩尼寶。體性明浄。而有鑛穢之垢。若人雖念寶性。不以方便種種磨治。終無得浄。如是衆生。眞如之法。體性空浄。而有無量煩悩染垢。若人雖念眞如。不以方便種種薫修。亦無得浄。以垢無量無邊徧一切法故。修一切善行。以爲對治。若人修行一切善法。自然歸順眞如法。故
畧説方便有四種。云何爲四。

     答へて曰はく、大摩尼寶の、體性は明浄なるも、而も鑛穢(くわうゑ)の垢(く)有り。若し人 
    寶性を念ずると雖も、方便を以て種種磨治(まぢ)せずんば、終に無浄を得(う)ること無きが如
    し。是くの如く、衆生の眞如の法も、體性は空浄なるも、而も無量の煩悩染垢(ぜんく)有り。
    若し人、眞如を念ずると雖も、方便を以て、種種薫修せずんば、亦浄を得ること無し。垢(く) 
    は無量無邊にして、一切の法に徧ずるを以ての故に、一切の善行を修して、以て對法と爲す。
    若し人、一切の善法を修行せば、自然に眞如の法に歸順するが故に。
     略して方便を説くに四(し)種有り。云何が四(し)と爲す。
(´・(ェ)・`)b

351鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/17(日) 23:58:42 ID:1d4drIFg0

 また次に信成就発心とは、どのような心を発するのかというのじゃ。
 略説して三種あるというのじゃ。

 一つ目は直心なのじゃ。
 正しく真如の法を念じる心なのじゃ。

 二つ目は深心なのじゃ。
 一切のいろいろな善行を実践するのじゃ。

 三つ目は大悲心なのじゃ。
 一切衆生の苦をなくすそうとする心なのじゃ。

 ここでまた聞いたのじゃ。

 上記に法界は一相であり、仏体は無二と説いているのじゃ。
 なぜただ真如を念じるのではなく、またいろいろな善行を求め学ぶべきなのか。

352鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/18(月) 00:07:04 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 例えばでかい宝石の原石が本体は明るく清浄でも、まわりに石の滓とかがついていたとするのじゃ。
 もし人がその宝石の本来の性質を知っていても、いろいろな方法で磨かなかったら清浄にはならないようなものじゃ。

 このように衆生の真如の法も、体性は空で清浄であっても、無量の煩悩に染められた垢が在るのじゃ。
 そのような人が真如だけを念じても、方便でいろいろに薫修しなければ、清浄にはなれないのじ゜ゃ。
 そのような垢は無量無辺であり、一切の法にも遍くあるので、一切の善行を実践して対処するべきなのじゃ。
 もし人が一切の善法を実践すれば、自然に真如の法にも帰順することになるのじゃ。
 
 そのような方便を略して説けば、四種在るのじゃ。
 その四つとは。

353避難民のマジレスさん:2022/04/18(月) 02:27:07 ID:ETadziFU0
31.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号32-33)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号53-54)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○一者行根本方便 謂觀一切法自性無生。離於妄見。不住生死。觀一切法。因緣和合業果不失起於大悲。修諸福徳。攝化衆生不住涅槃以随順法性無住故。

     一には行根本方便。謂はく、一切の法は、自性無生と觀じ、妄見を離れて、生死に住せず。    一切の法、因と緣と和合し、業果失(う)せずと觀じ、大悲を起こし、諸の福徳を修し、衆生を
    攝化(せっけ)して、涅槃に住せず、法性の無住に随順するを以ての故に。。

○二者能止方便 謂慚愧悔過能止一切悪法。不令増長。以随順法性離諸過故

     二には能止(のうし)方便。 謂はく、慚愧悔過(けくわ)して、能く一切の悪法を止(とど)め
    て、増長せしめず。法性の、諸過を離るるに随順するを以ての故に。

○三者發起善根増長方便 謂勸供養禮拝三寶讃歎隋喜勸請諸佛。以愛敬三寶淳厚心故。信得増長。乃能志求無上之道。僧力所護故能消業障善根不退。以随順法性離痴障故。

     三には發起善根(ぜんごん)増長方便。謂はく、勸めて三寶を供養し禮拝(らいはい)し、諸佛 
    を讃歎(さんだん)し隋喜(ずゐき)し勸請(くわんじゃう)し、三寶を愛敬(あいぎゃう)する淳厚 
    (じゅんこう)の心を以ての故に。信は増長することを得(え)、能く無上の道(だう)を志求(し
    ぐ)ず。又佛法僧の力(ちから)に護せらるるに因るが故に、能く業障を消(せう)し、善根退(し 
    りぞ)かず。法性の、痴障を離るるに随順するを以ての故に。

○四者大願平等方便 所謂發願盡於未來化度一切衆生使無有餘皆令究竟無餘涅槃。以随順法性無斷絶故。法性廣大徧一切衆生。平等無二。不念彼此究竟寂滅故

     四には大願平等方便。所謂、發願(ほっぐわん)し、未來を盡くして、一切衆生を化度(けど)
    し、餘(あまり)有ること無からしめて、皆究竟(くきゃう)じて無餘涅槃せしむ。法性(ほっ
    しょう)斷絶無きに随順するを以ての故に。法性廣大にして、一切の衆生に徧して、平等無二 
    なり。彼此(ひし)を念ぜず、究竟寂滅の故に
(´・(ェ)・`)b

354鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/18(月) 23:37:46 ID:1d4drIFg0

 一つ目は行根本方便なのじゃ。

 一切の法は自性無生と観て、妄見を離れて生死の俗世から離れるのじゃ。
 一切の法は因と縁が和合して、業の結果を生みだすと観るのじゃ。
 大慈悲を起こしていろろいな福徳を修めて、衆生を集めて教化して、涅槃にいかないのじゃ。
 法性が無住であることに随っているからなのじゃ。

 二つ目は能止方便なのじゃ。
 
 慙愧悔過して能く一切の悪法を止めて、増長させないからなのじゃ。
 法性がもろもろの過を離れていることに随っているのじゃ。

 三つ目は発起善根増長方便なのじゃ。

 仏と法と僧の三宝を供養し礼拝することに勤めてるのじゃ。
 諸仏を賛嘆し、喜び、教えを請い、三宝を愛敬することが厚い心を持っているからなのじゃ。
 信心が増長して、無上の道を志して求めるのじゃ。
 また仏法僧の力に護られるから、業の障害を消すことができて、善根も進んでいくだけなのじゃ。
 法性が愚痴の障害を離れることに随っているからなのじゃ。

355鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/18(月) 23:43:07 ID:1d4drIFg0

 四つ目は大願平等方便なのじゃ。

 未来の尽きるまで一切衆生を残らず教化して、みんな無余涅槃に導くと発願するからなのじゃ。
 法性が断絶しないことに随っているからなのじゃ。
 
 法性は広大にして、一切衆生にもあまねく満ちて平等で一つであるからなのじゃ。
 自分とか他人とかの観念も無く、究境寂滅であるからなのじゃ。

356避難民のマジレスさん:2022/04/19(火) 15:49:10 ID:64/cpPPY0
32.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号33-34)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号54)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 菩薩發是心故則得少分見於法身。以見法身故随其願力。能現八種。利益 衆生。所謂從兜率天。退人胎住胎出家成道轉法輸入於涅槃

     菩薩、是の心を發(おこ)すがに、則ち少分に法身を見ることを得。法身を見るを以ての故に、    其の願力に随ひ、能く八種を現じて、衆生を利益す。所謂、兜率天(とそつてん)より、退し、      
    人胎(にったい)・住胎(ぢうたい)し、出家成道して、法輸を轉じ、涅槃に入る。

 然是菩薩未名法身以其過去無量世來有漏之業。未能決斷。随其所生與微苦相應。亦非業繫。以有大願自在力故

     然れども、是の菩薩は、未だ法身(ほっしん)と名づけず。其の過去無量世來(このかた)有漏 
    の業、未だ能く決斷せず、其の所生(しょしゃう)に随って、微苦(みく)と相應す。亦業繫(ご 
    うけ)に非ず。大(だい)願自在力有るを以ての故なり。

 如修多羅中 或説有退堕悪趣者非其實退。但爲初學菩薩未入正位而懈怠者恐怖令彼勇猛故

     修多羅の中(うち)に、或(あるひ)は悪趣に退堕する有りと説く如きは、其の實退に非ず。但 
    (ただ)初學の菩薩、未だ正位に入らずして、懈怠するを、恐怖(くふ)せしめ、彼をして勇猛 
    (ゆうみゃう)ならしめん爲の故なり。

 又是菩薩一發心後遠離怯弱畢竟不畏堕二乘地。若聞無量無邊阿僧祇劫勤苦難行乃得涅槃。亦不怯弱以信知一切怯從本巳來自涅槃故

     又此の菩薩、一たび發心して後は、怯弱(こにゃく)を遠離(をんり)し、畢竟じて二乘地に堕 
    するを畏れず、又無量無邊阿僧祇劫に、勤苦(ごんく)難行して、乃(すなは)ち涅槃を得と聞く 
    も、亦怯弱(こにゃく)ならず。一切の法は、本より巳來(このかた)自(おのずか)ら涅槃なりと 
    信知するを以ての故なり。
(´・(ェ)・`)b

357鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/20(水) 00:07:41 ID:1d4drIFg0

 このような方便を持つことのできる菩薩は、少し法身を見ることができるのじゃ。
 法身を観ることができるから、その願力に従って、八種の如来の生涯のできごとを表して衆生を助けられるのじゃ。
 その八種とは、兜卒天から降りて、胎に入り、胎の中で成長して、生まれて、出家して、悟りを得て、法輪を転じて、涅槃に入るのじゃ。
 
 しかしこのような菩薩もまだ法身とは名づけられないのじゃ。
 その過去の無量の生の有漏の業はまだ断たれておらず、その生まれに従って僅かな苦をうけるのじゃ。
 
 それは業に縛られたからではないのじゃ。
 大願自在法力があるからなのじゃ。

 経典の中に、或いは悪趣に堕ちる者もあると、説いているのは実は堕ちたのではないのじゃ。
 ただ初学の菩薩でまだ、正式な道に入っておらず怠ける者がいるから恐れさせて勇猛にさせるためなのじゃ。

 またこの菩薩は、一度発心して後には怯弱を厭離して、二乗に堕ちることを恐れないのじゃ。
 また無量無辺阿曽祇劫という長年月も実践修行して、涅槃を得ても怯弱ではないのじゃ。
 一切の法はもとよりこのかた、自ら涅槃で在ると信じ、知っているからなのじゃ。

358避難民のマジレスさん:2022/04/20(水) 00:12:28 ID:KBYeStX60
33.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号34)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号55)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○解行發心者當知轉勝。以是菩薩。從初正信巳來。於第一阿僧祇劫將欲滿故。於眞如法中。深解現前所修離相。

     解行(げぎゃう)發心とは、當(まさ)に知るべし、轉(うた)た勝(しょう)なり。是の菩薩は、 
    初(しょ)の正信(しょうしん)より巳來(このかた)、第一阿僧祇劫に於いて、將(まさ)に滿ぜん
    と欲するを以ても故に、眞如の法中に於て、深解(じんげ)現前して、所修、相を離る。
 
 以知法性體無慳貪故。随順修行檀波羅蜜

     法性の體は、慳貪(けんどん)無しと知るを以ての故に、随順して檀波羅蜜を修行す。

 以知法性無染離五欲過故。随順修行。修行尸羅波羅蜜。    

     法性は染無くして、五欲の過を離ると知るを以ての故に、随順して尸(し)羅波羅蜜を修行す。

 以知法性無垢離瞋悩故随順修行羼提波羅蜜

     法性は苦無く、瞋悩(しんなう)を離(はな)ると知るを以ての故に、随順して羼提(せんだい)
    波羅蜜を修行す。

 以知法性無身心相離懈怠故随順修行。毘黎耶波羅蜜

     法性は身心の相無く、懈怠を離ると知るを以ての故に、随順して毘梨耶(びりや)波羅蜜を修
    行す。

 以知法性常定體無亂故随順修行禪波羅蜜

     法性は常に定にして、體に亂無しと知るを以ての故に、随順して修行禪波羅蜜を修行す。 

 以知法性體明離無明故。随順修行般若波羅蜜

     法性は體明(あきらか)にして、無明を離ると知るを以ての故に、随順して般若波羅蜜を修行  
    す。
 (´・(ェ)・`)b

359鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/20(水) 23:52:53 ID:1d4drIFg0

 解行発心とはとても優れた発心なのじゃ。
 このような発心を持つ菩薩は、初心で正しい信仰を持ち、一あそぎ劫で修行を終えようとするのじゃ。
 それ故に真如の法の中において深く理解して、観念の相を離れるのじゃ。

 法性の本体はけちくさいものではないから、それに随って布施の完成を修行するのじゃ。

 法性は染がないから、五欲の過ちを離れていると知って、それに随って戒の完成を修行するのじゃ。

 法性は苦がなく、怒りや悩みも離れていると知っているから、それに随って忍耐の完成を修行するのじゃ。

 法性は心身の観念がなく、怠けることもないと知っているから、それに随って精進の完成を修行するのじゃ。

 法性は常に定であり、本体に乱れがないと知って、それに随って禅定の完成を修行するのじゃ。

 法性は本体が明らかであり、無明を離れていると知って、それに随って智恵の完成を修行するのじゃ。

360避難民のマジレスさん:2022/04/21(木) 00:11:44 ID:oV2MQ03.0
34.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号34-35)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号55-56)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○證發心者。從浄心地乃至菩薩究竟地。證何境界。所謂眞如。以依轉識説爲境界。而此證者。無得境界。唯眞如智名爲法身

     證發心とは、浄心地より、乃至菩薩究竟地に至までなり。何の境界を證するや。所謂、眞 
    如なり。轉識に依るを以て、説いて境界と爲す。而も此の證は、境界有ること無し。唯眞如
    智のみ。名づけて法身と爲す。
     
 是菩薩一於念頃。能至十方無餘世界。供養諸佛請轉法輪。唯爲開導利益衆生。不依文字。或示超地。速成正覺。以爲怯弱衆生故。或説我於無量阿僧祇劫。當成佛道以爲懈慢衆生故能示如是無數方便不可思議    

      是の菩薩、一念の頃(あひだ)に於て、能く十方無餘の世界に至って、諸佛を供養し、轉法 
     輪を請(しょう)す。唯(ただ)衆生を開導し利益(りやく)せんが爲なり。文字に依らず。」或ひ
     は地(ぢ)を超えて速に正覺を成(じょう)ずと示す。怯弱(こにゃく)の衆生の爲なるを以ての
     故なり。」或ひは無量阿僧祇劫に於て、當に成佛すべしと説く。懈慢の衆生の爲なるを以て
     の故なり。」能く是くの如き無數(むしゅ)の方便を示すこと、不可思議なり。

 而實菩薩種性根等發心即等所證。亦等無得超過之法。以一切菩薩皆經三阿僧祇劫故。
 但随衆生世界不同。所見所聞根欲性異故示。所行亦有差別

     而も實に菩薩の種性(しゅしゃう)は、根等しく、發心卽ち等しく、所證も亦等しくして、超 
    過(てうくわ)の法有ること無し。一切の菩薩は、皆三阿僧祇劫を經(ふ)るを以ての故に。
     但随衆生の世界同じからず、所見・所聞・根・欲・性異なるに随ふが故に、所行を示すこ 
    とも亦差別有り。

 又是菩薩發心相者。有三種心微細之相云何爲三。
 一者眞心無分別故。
 二者方便心自然徧行利益 衆生故。
 三者業識心。微細起滅故

     又是の菩薩の發心の相には、三種の心微細(みさい)の相有り。云何が三と爲す。
     一には眞心。分別無きが故に。
     二には方便心。自然に徧(あまね)く行じて、衆生を利益 するが故に。
     三には業識心。微細(みさい)に起滅するが故に。

 又是菩薩功徳成滿於色究竟處。示一切世間最高大身。
 謂以一念相應慧無明頓盡名一切種智自然而有不思議業能現十方利益衆生。

     又是の菩薩は、功徳成滿(じゃうまん)して、色究竟(しきくきゃう)處に於いて、一切世間の 
    最高大の身(しん)を示す。
     謂はく、一念相應の慧(ゑ)を以て、無明頓(とん)に盡くるを、一切種智と名づく。自然にし 
    て不思議の業有り、能く十方に現じて、衆生を利益す。

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