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鬼和尚の仏教購読会 別館

345避難民のマジレスさん:2019/02/26(火) 23:24:37 ID:LC3de7YgO
>>344
くまは、止の行には勇気を必要としなかったでありますが、観にはちょびっと必要な気がするであります。
(´・(ェ)・`)つ

346避難民のマジレスさん:2019/02/27(水) 01:58:24 ID:LC3de7YgO
>>343
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづく) 
 より抜粋

あなたは「ラム、ラム、ラム……」あるいは「コカ・コーラ、コカ・コーラ、
コカ・コーラ……」とくり返しつつ゛けてゆく―どんな言葉でもいい。
自分の名前でもいい。どんなに馬鹿げた音でもいい。あなたはくり返しつつ゛
けてゆく。
それをくり返すことで、あなたの心は一杯になる。
そうして忙しくすることで、あなたは内なる混乱を回避している。
これでは何の違いもない。
あなたは会社でわき目もふらず働いていた。
あなたは夢中になって映画を見ていた。
あなたは夢中になってラジオを聴いていた。
あなたは夢中になって新聞を読んでいた。
今やあなたはマントラに夢中になっている。
これは瞑想でもなければ超越でもない。
真の瞑想とはこれだ―内なる精神病院から目をそらさないようにして、そのな
かに入り、顔をそむけずに遭遇し、注意深く観察してゆくこと。
なぜなら、注意深い観察によってはじめてそれを克服することができるからだ

それがどんどん大きくなってしまったのは、それから目をそむけてきたからだ

あなたは避けられるだけ避けてきた!もうマントラの助けを借りる必要はない

助けはいっさいいらない。
ただ静かに坐りなさい。
禅は最も純粋な瞑想だ。
何もせず、ただ静かに坐る。
何もせず、ただ静かに坐ることほどむずかしい瞑想はない。
人々は私に尋ねる。
「何か依るべになるものをください。何かマントラをくだされば助かるのです
が。何もせず、ただ静かに坐っているのはたいへんです。こんなにむずかしい
ことはありません」
あなたにはありとあらゆることが起こってくる。
身体はあなたを狂気に駆り立てはじめる。
頭がかゆくなったり、突然、蟻が身体を這っているような感じがする。
が、いくら見ても蟻などいない。
身体がトリックを仕掛けているだけだ。
身体が助け舟を出して、あなたを忙しくさせようとしている。
身体は姿勢を変えたがるし、足はしびれてくる。
身体はいろいろなものをもちだしてきて、あなたの心を一杯にしようとする。
心を一杯にさせることはすべて避けなさい。
しばらくのあいだ心をふさぐのをやめて、内側で起こっていることをもらさず
に見るがいい。
するとあなたは驚くだろう、本当に驚くだろう。やがて、ただひたすら見つつ゛
けているだけで、思考が消えてゆく。
「何もせず静かに坐っていると、春が来て、草はひとりでに生える」
これが瞑想の純粋な姿だ。
これこそが「超越瞑想」だ。
だが、マハリシ・マヘーシュ・ヨギが商標にしてしまったために、誰もそれを
「超越瞑想」と呼ぶことはできない。
TMは今や登録商標トレードマークになっている!
こんなやりかたで商売をした者などひとりもいない。
自分の瞑想を超越瞑想と名つ゛けたら、法廷に訴えられる恐れがある。
それは商標登録がしてある。
その馬鹿さかげんをそっくり見るがいい。
瞑想は街で売られる日用品のようになってしまった。
こういうことが何度もくり返されてきた。
アメリカに行ったいわゆるインドのグルたち―彼らは誰ひとり変えることがで
きなかったが、アメリカはみごとにグルたちを変えた―グルたちはみな ビジネ
スマンになった。
彼らはみなアメリカ流のやり方を身につけはじめた。
彼らの手ではけっして誰も変わらない。
変わるはずがない。
人を変えることができたなら、彼らはどこにも行かなかっただろう― 変わりた
いと思う者たちがグルたちのもとへやって来ただろう。
グルたちはどこにも出かける必要がなかっただろう。
喉が渇いていれば、人は水を探しはじめる。
井戸が渇いた人のもとへ出かける必要はない― 井戸はどこにも出かけない―渇
いた者が井戸にやって来る。
給水車を見かけたら、用心するがいい!
(p288)
散乱に意識を向けることにより、おのずと散乱を取り除くことができる。
とほうもなく深い意味を秘めた言明だ。
散乱を取り除く唯一の方法は、それに気つ゛き、それを見守り、それに静かに
意識を向け、心マインドがあなたにしていることを―絶えずあなたの気をそら
していることを見ることだ。
ただそれを見守りなさい。
あなたは何度も忘れるだろう。なぜなら、心は狡猾で、ひじょうにずる賢く、
かけひきがうまいからだ。心は政治家の策略をすべて知りつくしている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

347鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/28(木) 00:43:57 ID:1d4drIFg0
>>345 そうじゃ、勇気が必要じゃ。
 勇気を奮い起こして心を観るのじゃ。
 
禅もまたアメリカでビジネスになってしまったのじゃ。
誰もが気晴らしのクイズや儀式で悟ったつもりになっておる。
最近の流行は南伝の瞑想からとりいれたマインドフルネスと名づけられたものじゃ。
グーグルは社員にそれをやらせて何億ドルも稼いだというのじゃ。
愚かなことじゃ。

348避難民のマジレスさん:2019/02/28(木) 06:33:22 ID:LC3de7YgO
>>346
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき) 
 より抜粋

心は本質的に政治家だ。
心はあなたにあらゆる魔法をかけようとするだろう。
あなたが抑圧してきたすべてのものを心マインドはもち出してくる。
あなたがセックスを抑圧していたら、瞑想をはじめたとたん、アブサラたちが
天国から舞い降りてくるのが見える。
心は言う。
「見ろ!おまえは何をやってるんだ、時間の無駄じゃないか。インドラ神から
美しい女が送られてきたのに、何をやってるんだ」
セックスを抑圧していたら、心はあなたをとらえる餌としてセックスを使う。
野心を抑圧していたら、心は大統領や首相になったあなたの姿を空想しはじめ
、あなたはその罠に落ちはじめてゆく。
今まで食事を拒み、断食をしてきていたら、心はいかにも美味しそうな贅沢な
料理をつくりだす。
その食べ物の香り、匂い……あなたの心は一杯になってしまう。
私がサニヤシンたちに「抑圧してはいけない。そんなことをすれば、けっして
瞑想することはできない」としきりに言うのはそのためだ。
抑圧すれば、瞑想中に自分が抑圧してきたものと遭遇しなければならなくなる

そして、何であれ抑圧したものは強力に、すさまじく強力になる。
それはあなたの無意識に根をおろしている。
インドの昔話に登場する賢者たちのことだが―彼らは年老いていた。
森に住んで断食をしていたので、彼らは老いぼれ、すっかり生気を失い、やせ
衰えて骨と皮ばかりになっていた。
そこへある日突然、インドラ神に仕える最も美しい踊り子ウルワシが現れ、彼
らのまわりで踊った。
この骸骨のような連中はウルワシの目にどう映ったのだろう?
彼女はどうしてこんな骸骨のような連中に興味をもつのだろう?
何のために?
物語では、彼らを誘惑するためにインドラ神がウルワシを送ったことになって
いる。
まったく馬鹿馬鹿しい話だ。
インドラ神など存在しないし、誘惑者の役割を演じる者もいない。
悪魔も魔王もいない。
悪魔とはあなたの抑圧された心に他ならない。
こういった連中は性欲を抑圧しつつ゛けてきた。
抑圧があまりに大きいので、瞑想中にリラックスすると、抑圧されていたもの
がすべて浮上しはじめる。
それは美しい姿をしている。
だから私は「抑圧してはいけない」と言う。
このアシュラムで行なわれている精神療法セラピーはどれも、社会があなたに
強いた抑圧を吐き出すのを助けるためにある。
ひとたびこの抑圧されたものが吐き出され、あなたの身体組織から投げ出され
たら、ひとたびこれらの毒素があなたの身体組織から取り出されたら、瞑想は
ひじょうに簡単でやさしいものになる。
ちょうど羽がゆっくりと地面に落ちてゆくように、枯れ葉が樹からゆっくりゆ
っくりと落ちてゆくように……瞑想はごく単純な現象になる。
そうであって当然だ。
それは内側から自然に湧き起こってくるものだからだ。
あなたはみずからの本性に向かって進んでゆく。
本性に向かう動きは易しいものであり、本性から遠ざかる動きは困難なものに
なるが、それは当然のことだ。
瞑想はむずかしくない。だが、あなたの心マインドと実存のあいだには、散乱
を引き起こす千とひとつの抑圧がある。
呂祖は正しい。
これらの散乱をただ見守りなさい。
油断なく目を見張るのだ。
精神が散漫になり、瞑想を忘れてしまっても、心配することはない。
散漫になっていたことに気がつけば、ただちにもどって、精神を静め、精神を
穏やかにし、再び静かに呼吸をじはじめればいい。
気が散漫になってしまったと悔やむ必要はない。
それもまた散乱のひとつに他ならないからだ。
私が「心マインドは狡猾だ」と言うのはそのためだ。
心はまず散乱を引き起こしておいて、あなたがそれに気つ゛くやいなやこうさ
さやく。
何をやってるんだ?おまえは瞑想をしながらヴリンダーヴァン(和尚コミュー
ンのレストランの名前)へ行き、食事をしたりして……何をやってるんだ?
のろまなやつだ―。
そうなると、あなたは罪悪感を覚えはじめる。
それはよくない。
罪悪感を覚えることも散乱のひとつだ。
今度は罪悪感があなたを苦しめる―
あなたは別の形の散乱に苦しむ。
散乱が次の散乱を引き起こす。
罪悪感を覚えてはいけない。
怒りを覚えてはいけない。
心が散漫になっているその現場を押さえたなら、ただちに不平を言わずもどれ
ばいい。
それは自然だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

349鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/28(木) 22:56:02 ID:1d4drIFg0
修行中に見る幻影は本人の隠蔽していた欲から起こるものじゃ。
全ては心の中から起こるのじゃ。
それをみないようにしていればいつまでも執着は残るのじゃ。
ただ観察する事でそれは消えていくのじゃ。

350避難民のマジレスさん:2019/03/01(金) 05:51:33 ID:LC3de7YgO
>>348
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき) 
 より抜粋

あなたは何百万もの生にわたって抑圧 してきたのだから。
心が散漫になるのも無理はない。
それを当然のことと受け止めて、引き返し、再び中心に もどってくるがいい。
何度も何度ももどってくるがいい。
そうすれば、徐々に徐々に、中心に とどまっている時間が長くなってゆき 、
散乱が起こる回数が減ってゆく。
そしてある日、ふと気つ゛くと 、あなたは中心にいて、 散乱は影を潜めてい
る。
これが成果だ。
なぜこれを「成果」と呼ぶのだろう?
そこで人は 自分が神であることを、神以外のものではなかったことを、 眠りに
落ちて乞食になった夢を見ていたことを知るからだ。
昏沈に意識を向けるのと、昏沈に無意識であるのとでは実に大きな違いがある。
昏沈に無意識であることが真の昏沈である。
意識されている昏沈は完全な昏沈ではない。
そこにはなおいくばくかの明晰さがあるからだ。
怠けるなら、意識的に怠けなさい。
自分が怠け者であることに気つ゛いていなさい。
自分の怠惰さを見守るのだ。
散乱を見守ったように、自分の怠惰さを見守りなさい。
少なくとも見守ることは怠惰ではない。
見守ることは無気力ではない。
だから怠惰でない何かがそこにはある。
注意力のなさに注意を向けるときには、あなたの内にある 何 も の かが依然
注意を注いでいるので、完全に注意力を失っているわけではない。
その気が抜けたり、散乱していない小さな一点にすべての望みがかかっている。
その小さな一点は種子に似ている。
それは小さく見えるが、時間をかけて辛抱強く待てば、豊かに葉を繁らせる大
樹になる。
そして、いつか黄金の華が開くだろう。

散乱は想念マインドをさまようままに放置することから起こり、 昏沈は想念が
まだ清らかでないことから起こる。
散乱は昏沈よりもずっと容易に直すことができる。
病気に例えてみれば、痛みやかゆみを感じている場合には それを治療する薬が
あるが、昏沈は感覚を失ってしまう病気に似ている。
散乱のほうが取り組みやすい。
なぜなら、散乱は外に向かうものだからだ。
昏沈のほうが内に向かうので取り組むことがむずかしい。
散乱は男性的であり、昏沈は女性的だ。
散乱は活動的であることによって絶えがたいほどの緊張を生じさせるので、容
易に自覚することができる。
だが、昏沈はなかなか自覚できない。まず人は散乱に気つ゛かなければならな
い。
散乱がすべて消えてしまうと、人は昏沈に気つ゛くようになる。
そうなったら、内側を見るためにすべてのエネルギーを使うことができる。
すると岩のようにあなたを押さえつけている、不活発で、非創造的な昏沈がそ
こにあるのが見えてくる。
そうなったらそれを見守ればいい。
そしていいかね。見守ることが唯一の鍵だ。
観察することが瞑想だ―瞑想とはそれにつきる。
それは醒めていることを表す別の言葉だ。
そして不思議なことに、あなたが何かに気つ゛くと、完全に気つ゛くと、それ
は消えてゆく。
それはあなたが無自覚なときにしか存在できない。
無自覚さが散乱と昏沈の餌になる。
あなたが気つ゛いていれば、もはや餌がもらえなくなり、それらは飢えはじめ
る。
やがてそれらはひとりでに消えてしまう。
散乱は鎮めることができるし、混乱は整えることができる。
だが昏沈や無気力な状態は重くて暗い。
散乱や混乱にはまだ一定の場所があるが、昏沈や無気力な状態では ただ魄アニ
マのみが活動している。
散乱の場合にはまだ魂アニムスが 存在しているが、昏沈の場合にはまったき闇
が支配している。
瞑想中に眠気をもよおすならば、昏沈の影響を受けている。
昏沈の克服に役立つのは呼吸だけである。
鼻から出入りする息は 真の呼吸ではないが、真の呼吸の出入りはこれと結びつ
いて起こる。
瞑想中に強い睡魔に襲われたら、呼吸を見守りはじめなさい。
そうすれば眠気は消える。
ヴィパッサナをやっている多くの仏教徒が不眠症に悩まされるようになるのは
そのためだ。
私はヴィパッサナをやっているために、不眠症になっている人たちに大勢出会
った。
しかも彼らはそれに気つ゛いていない。
呼吸を見守っていると、眠りが妨げられるのだ。
だから、私はサニヤシンたちにこう言っている―けっして一日に二、三時間以
上ヴィパッサナをやってはいけない、と。
しかもその数時間は日の出から日没までのあいだにかぎられる。
日が暮れたらけっしてやってはいけない。
夜中にヴィパッサナをすると、眠りがかき乱される。
そして眠りがかき乱されると、身体中のメカニズムがかき乱される。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

351鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/01(金) 22:56:40 ID:1d4drIFg0
散乱と昏沈も自覚していればそれは障害ではないとオショーは言うのじゃ。
それに気付いていれば取り除かれるのじゃ。
瞑想とは観察し、気付いていることなのじゃ。
それができれば全ての障害は乗り越えられるのじゃ。

352避難民のマジレスさん:2019/03/01(金) 23:49:56 ID:LC3de7YgO
>>350
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき) 
 より抜粋

あるセイロンの僧侶が私のもとに連れてこられた。
三年間、彼は眠れない状態が続いていた。
真面目な僧侶だった……それが彼の問題だった。
ヴィパッサナのすばらしさを信じるあまり、彼は朝から晩まで一日中それをや
っていた。
寝床に入って、なかなか寝つけないときにも、ヴィパッサナをやっていた。
寝床でヴィパッサナをやれば、眠れなくなってしまう。
呼吸に繊細な注意を払っている人に眠りは訪れてこない。
試してみるといい―不眠症になりたければ、試してみるといい。
睡魔を払うには呼吸を見守るのが一番だ。
なぜなら、呼吸は生であり、眠りは死だからだ。
それらは互いに対立し合っている。
子供はまず呼吸をすることによって生きることをはじめる。
人生で最初に行なわれる行為は呼吸であり、最後に行なわれる行為は息を吐き
出して、二度と呼吸をしないことだ。
最初の行為は息を吸うことであり、最後の行為は息を吐くことだ。
息をしていなければ、死んでいるとみなされる。
これを覚えておきなさい。
眠るためには呼吸の ことをすっかり忘れてしまわなければならない。
眠りは小さな死、ささやかな死であり、美しい死だ。
眠りは休息とくつろぎを与え、人は翌朝になると溌剌として 若返り、元気にな
って死体置場からもどってくる。
瞑想中に睡魔に襲われたら、呼吸を見守りなさい。
そして、夜はけっして呼吸を見守る瞑想をしてはならない。
(p294)
経文に述べられている次に重要なことがらは、 私たちがくり返している呼吸は
本当の呼吸ではない ということだ。
それは本当の呼吸の乗り物にすぎない。
本当の呼吸とは何か?
インドではそれを「プラーナ」と呼んでいる。
いわゆる呼吸は馬にすぎず、騎手は目に見えない。
呼吸はたんなる馬 であり、プラーナ、精気、あるいはヘンリ・ベルグソンが
「生命力」 と呼んでいたものがその乗り手だ。
それは目には見えない。
息を吸うとき、あなたは空気を吸っているだけではない。
あなたは生命を吸っている。
空気がなければ、生命は消えてしまう。
生命は空気を通して存在している― それは空気の目に見えない部分だ。
呼吸は花のようであり、生命は花を包む香りに似ている。
息をするときには、二重のプロセスが進行している。
ヨーガがプラーナーヤーマに大きな関心を寄せるのは そのためだ。
プラーナーヤーマとは呼吸の拡張を意味する。
呼吸が深くなればなるほど、あなたはもっと深くから生きるようになる。
呼吸が正しいものになればなるほど、あなたは長生きすることができる。
ヨーガはその秘密に大きな関心を寄せるようになった。
不老長寿の霊薬エリクサは呼吸の仕組みのなかにある。
人は長寿を保つことができる。
ヨーガ行者は最も長生きをする。
私は不老長寿をめざせと言っているのではない。
長くても愚かな人生を送る人もあるからだ。
寿命の長さが問題なのではない。
大切なのは強烈さ、深さだ。
私は長生きすることには関心がない。
それでどうなるというのかね?
愚かであるなら、早死にするほうがましだ。
あるときチンギス・ハーンが偉大な賢者に尋ねた。
「あなたの ご意見をお聞きしたいのだが、人は長生きすべきだろうか?長生き
するために何かをすべきだろうか?寿命は天が決めるものなのだろうか?」
賢者は言った。
「閣下、それは人によりけりです。例えば、あ な た が長生きされるのでした
ら、大いに困ったことになりますが、 あなたが早死にされるのなら、それは大
いなる祝福です。 あなたが二十四時間眠りつつ゛けられるのなら、それは 実に
すばらしいことです。世界のもめごとが減るからです」
それは人によりけりだ。
だが、ヨーガは不老長寿に大きな関心を寄せるようになった。
まるでそれ自体 が目標であるかのように。
ヨーガはそこで道を踏みはずしてしまった。
ヨーガはどんどん生理学的なものになっていった― ヨーガの関心は重要ではな
いものごとに注がれるようになった。
だが、秘密はそこにある―それは呼吸のなかにある。
(´・(ェ)・`)
(つづき)

353鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/02(土) 22:36:12 ID:1d4drIFg0
ヴェーダにはプラーナがアートマンであると記されているのじゃ。
プラーナにも意識は在るのじゃ。
全てに遍満する意識の一部なのじゃ。
人と同じ本質を持つアートマンなのじゃ。

354避難民のマジレスさん:2019/03/02(土) 22:56:50 ID:LC3de7YgO
>>353
プラーナとは、熱感や痺れとして、実感できる気と同じでありますか?
(´・(ェ)・`)つ

355避難民のマジレスさん:2019/03/02(土) 23:10:31 ID:LC3de7YgO
>>352
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

呼吸は二つのエネルギーの乗り物だ。
ひとつは目に見える空気、 酸素を含んだ触知できる空気だ。
そして酸素にまつわるようにして、 あなたをもっともっと深く躍動させ、生命
とともに燃えあがらせる 生命力エラン・ヴィタール、プラーナがある。
だから、睡魔に襲われるたびに、ただ呼吸を見守るだけで、 眠気は消えてゆく

そして呼吸とともにより多くの生命が あなたのなかに流れ込むことで、昏沈も
消えてゆく。
それゆえに、坐るときにはつねにこころハートを静かに保ち、 気エネルギーを
集中させなければならない。
こころを静めるにはどうすればよいか?
呼吸によってである。
ここでも 呼 吸 に よ っ て だ。
呼吸は最もすぐれたテクニックのひとつとして用いられてきた。

息の出入りをこころが意識していればいいのであり……息が入っては出てゆく
のを見守っていればいい。
そうして注意深く見守ることで、あなたの眠りは消えてゆく。
昏沈は消えてゆく。
そしてあなたは中心感覚を得る。
呼吸は二か所で観察することができる。
空気が身体に最初に入ってくるときに触れる鼻先か、あるいは息が入ってきて
腹を上下に動かす最後のセンター、臍へそのセンターだ。
これが見守ることができる二つのセンターだ。
つい先日、こう尋ねた者がいる。「和尚、鼻の先を見守るのはいいのですが、
ユダヤ人のようなかぎ鼻の場合はどうなのでしょう?」
実のところ、鼻があるのはユダヤ人だけだ。
他の者たちは鼻があると思い込んでいるだけだ。
かぎ鼻ならば、空気が入ってくる鼻先を見守りなさい。
かぎ鼻はこの手の瞑想にはすばらしい助けとなる。
かぎ鼻であることを喜びなさい。
ここにいる人々の少なくとも半分はかぎ鼻だ。
ここにいる人々の半数はユダヤ人だからだ。
質問を読んでいて、私は本当に驚いた。
といいうのも、呂祖師や彼がこの技法を授けた中国の人々のことがとても心配
になってきたからだ。
彼らにはまったく鼻というものがない!
彼らにとって鼻先を見守ることはさぞかし困難だったことだろう。
先端などあるのだろうか?

息の出入りをこころが意識していればいいのであり、 耳に聞こえてはならない

耳に聞こえなければ、 息は軽く、軽ければ、純粋である。
耳に聞こえるようなら、気息は荒く、荒ければ、濁っている。
濁っていれば、昏沈と無気力な状態が生じ、眠気に誘われる。
これは自明の理である。
呼吸するとき、こころハートをいかに正しく使うかを理解しなければならない。
それはこころを用いない用い方である。
努力なき努力。修行なき修行。道なき道、門なき門―タオや禅はこのような表
現をする。
あなたは力まず、緊張をせずにものごとを為さねばならない。
そこで師は言う―それはこころを用いない用い方である。
聴くことに微かすかに光を当てるだけでいい。
あなたは手放し状態にならなければいけない。
これがヨーガとタオの違いだ。
ヨーガは意志の道であり、タオは明け渡しの道だ。
ヨーガは言う。「息をこうして吸いなさい。息をこれくらい深く吸ってしばら
く止め、それから深く吐き出してしばらく止める―意志の力である一定のパタ
ーンをつくりだしなさい」
タオは「呼吸はそのままにせよ」と言う。
聴くことに微かに光を当てるだけでいい―ちょうどあなたがたが私に耳を澄ま
しているように。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

356避難民のマジレスさん:2019/03/03(日) 10:28:25 ID:LC3de7YgO
>>355
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

タオは「呼吸はそのままにせよ」と言う。
聴くことに微かに光を当てるだけでいい―ちょうどあなたがたが私に耳を澄ま
しているように。
私の言葉はあなたの耳に向かっている。
言葉に飛びつく必要はない。
言葉を引っぱりこむ必要はない―そんなことはしなくていい。
あなたはただ注意深くして、静かに耳をそばだて、開いていればいい。

この句には秘められた意味がある。
光を当てるとはどういうことか?
それは目の光がもつ自然に照らしだす働きのことだ。
目は内側を見るだけで、外界を見るわけではない。
外を見ることなく明るさを感じていることが内側を見るということであり……
一種の手放し状態にあるときにはいつも、あなたの内側には大いなる光が感じ
られる。
手放し状態にあれば、それはひとりでに起こる。
<存在>に明け渡しているなら、内側にまばゆい光が感じられる―大いなる光ラ
イトが内側にあり、大いなる喜びデライトが外側にある。
それは自然に起こる。
そして内側にその明るさを感じていることが内側を見るということだ。

外を見ることなく明るさを感じていることが内側を見る ということであり、内
側を実際に見るということではない。
聴くとはどういうことか?
それは耳の光がもつ自然に聴く働きのことだ。
耳は内側を聴くだけで、外界の音を聴くわけではない。
外界の音を聴くことなく明るさを感じていることが 内側を聴くということであ
り……目の裏に、耳の内側に、あなた自身の内奥の源に光を感じはじめたら、
あなたは安定し、中心が決まり、こころハートは静かになっている。
そうなったら、あなたは世間にいながら世間を超えている。
これが超越だ。

内側の音を実際に聴くということではない。
したがってこの場合、聴くというのは無音の状態を聴くだけ であり、見るとい
うのはそこに何の形もないのを見るだけである。
内側には何の形も見えず、何の音も聞こえない。
見えるのは穏やかな光―音なき音、形なき光だけだ。
それゆえに神は"音なき音""形なき形"と定義される。

目が外界を見ず、耳が外界の音を聞かなければ、 それらはおのずと閉じて内界
に沈んでゆきがちである。
内側を見、内側に耳を傾けるときにのみ、 感覚器官は外に向かうこともなく、
内に沈み込むこともない。
このようにして昏沈と無気力な状態を取り除くことができる。
これが、太陽と月がその精と光を結合させることである。
内側に耳を傾け、内側に目を向けているなら―それは内側に形のない光、音の
ない音、沈黙の音楽を感じているということだが―そこで内なる男性と内なる
女性が出会っている。
これが結合、完全なオーガズム、神秘の合一ユニオ・ミスティカだ。

昏沈に襲われて眠気をもよおしたら、立ちあがって 歩きまわるがいい。
頭がすっきりしてきたら、坐りなおす。
やがて修行の成果が現れてきて、昏沈や眠りに陥ることはなくなるだろう。
この経文は実地に行なってみなければならない。
労することなく、これらの経文の奥義に入りこむ努力をしなければならない。
力むことなく、明け渡し、手放し状態になることを学びなさい。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

357鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/03(日) 22:38:55 ID:1d4drIFg0
>>354 そうじゃ、体の中に流れるエネルギーとして感じる気と同じなのじゃ。
 熱かったり冷たかったりするのは気が変化しているだけで無くなっては居ないのじゃ。
 常に肉体にも空間にも遍満するエネルギーなのじゃ。

心を用いないとは聞く事無く聞き、見ることなしに見ることなのじゃ。
聞くことや見ることに没頭すればそれは実現するのじゃ。
没頭して主体が無くなれば自然に心を用いなくなるのじゃ。
心を用いる主体が無ければ用いることも無いのじゃ。

358避難民のマジレスさん:2019/03/03(日) 23:34:56 ID:LC3de7YgO
>>356
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える
より抜粋

呂祖師は言った。
汝らの修行は次第に集中し、成熟してゆくだろう。
だが、断崖に立つ枯れ木のように打坐する境地に到るまでには、 まだ多くの錯
誤を犯す可能性がある。
これに関しては特に注意を促しておかねばならない。
このような境地は、身をもって体験することで はじめて認識できるものである。
まず錯誤について語り、それから確認の しるしとなる体験について話すこと
にしよう。

修行をはじめるときは、何よりもまずゆったりと くつろいだ気持ちでのぞむよ
うに配慮しなければならない。
あまり多くのことを求めてはならない。
気の動きとこころハートの動きがおのずから 調和するように配慮しなければな
らない。
そうしてはじめて静かな境地に入ってゆける。
この静かな境地に入っているときには、 正しい状況と正しい空間をつくらな
ければならない。
世事の只なかで坐ってはいけない。
すなわち精神は虚しい熱中から自由でなければならない。
世間のしがらみをすべて脇によけ、 泰然自若としていなければならない。
また正しい手順にこだわり過ぎてもいけない。
あれこれ工夫をしすぎるとこの危険が生じる。
私は工夫をしてはならないと言っているのではない。
正しい道は有と無のあいだに等しい距離を保つことにある。
目的を通して無目的を達成することができるなら、要点を体得したことになる。
みずからを方下し、超然と乱れず、泰然自若としていればいいのである。

また人は誘惑に満ちた世界の餌食になってはいけない。
誘惑に満ちた世界とは、五つの暗い悪魔が遊び戯れる場所だ。
不動の境地と言うと、人はよく枯れ木や冷たい灰を思い浮かべるが、 大地が明
るい春を迎えている姿を思い浮かべることはめったにない。
そのようにして人は暗黒の世界に沈んでゆくのである。
そこではエネルギーは冷え、息は荒くなり、寒さと衰亡のイメージが 頻繁に現
れてくる。

そういう状態に長くとどまっていると、植物や石の世界に入ってゆく。

また人は数知れない誘惑に惑わされてはならない。
これが起こるのは、静かな境地がはじまった後、 突然あらゆる妄想のつながり
が続々と現れてくるときである。
それを打ち破ろうとしても、どうにもならない。
その妄想を追うと、気分が軽くなったような感じがする。
これは主人が召使になってしまったことを意味する。
もしこのような状態に長くとどまっていると、 幻想に満ちた欲望の世界に入っ
てしまう。

最善の場合には、天国に生まれ、最悪の場合には、野狐の世界に生まれる。
確かに、こういった野狐の霊は有名な山に住み、風や月、花や果実を楽しみ、
珊瑚のような樹や宝石のような草を楽しんでいるが、果報が尽きれば、 再び混
乱の世界に生まれ変わるのである。
あるとき、暗い森の奥深くにわけ入った狩人たちが小屋を見つけた。
小屋のなかでは隠者が木の十字架の前で祈っていた。
彼の顔は喜びで輝いていた。
「こんにちわ、兄弟ブラザー。どうか素晴らしい午後になりますように。あな
たはとても幸せそうですね」
「私はいつも幸せです」
「あなたはこの人里離れた小屋で苦行をしながら幸せに暮らしていらっしゃる
。私たちは何もかも手にしているのに、幸せじゃありません。どこで幸せを見
つけたのですか?」
「私はこの洞窟で見つけたのです。あの穴をのぞいてごらんなさい。そうすれ
ば私がなぜ幸せなのか少しはわかるかもしれません」―そう言って彼は小さな
窓を見せた。
「かつぎましたね。私たちには樹の枝しか見えませんよ」
「もう一度見てごらん」
「見えるのは樹の枝と、それから、青空がほんの少し」
「幸せの秘訣はそれですよ」
と隠者は言った。
「天国がほんの少し……」
至福は人間に内在している本性だ。
それを獲得する必要はない。
それは再発見すればいいだけだ。
私たちはすでにそれをもっている。
私たちはそれだ。
それをどこか他の場所に探し求めたら、確実に取り逃がすことになる。
探すのをやめ、内側を見るがいい。
そこではあなたの人生で最大の驚きが待ち受けている。
何世紀にも、何生にもわたって探し求めてきたいっさいのものが、すでにそこ
にある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

359鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/04(月) 20:52:21 ID:1d4drIFg0
全ての目覚めた者達は常に心を観ることを説いているのじゃ。
悟りも極楽も平安も幸福も全て心の中にあるものじゃ。
一切苦であるこの世には無いのじゃ。
この世に幸福や天国を求める者はそれを見つける事無く終わるじゃろう。
心の中に探す者が永遠の幸福と天国を見出すことができるのじゃ。

360避難民のマジレスさん:2019/03/05(火) 08:32:28 ID:LC3de7YgO
>>358
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

乞食になる必要はない。
あなたは生まれながらの帝王だ。
だが、神の王国はあなたの内側にあるのに、あなたの目は外を探しつつ゛けて
いる。
あなたが取り逃がしつつ゛けているのはそのためだ。
それは目の前ではなく、目の後にある。
神の王国は対象ではない。
それはあなたの主観だ。
それは探求者の本性そのものだから、探す必要はない。
それがわかれば、昼なお暗い森の洞窟に独りぼっちで暮らしていても、人は幸
せになることができる。
さもなければ宮殿でさえ惨めさを引き起こすだけだ。
世界にはあらゆる種類の惨めさがある。
貧しい者には貧しい者の惨めさがあり、金持ちには金持ちの惨めさがある。
だが、惨めさに関するかぎり、違いはない。
ときには金持ちの苦しみのほうが大きいことがある。
金持ちには余裕があるからだ。
金持ちのほうが多くの可能性 、選択肢を手にしている。
貧しい者は惨めさをいくつも買うことはできないが、 金持ちは買うことができ
る。
だから、最も裕福な人々がこの世で最大の惨めさを 味わっている。
この意味では、最も裕福な人々が最も貧しい人々になる。
実際、金持ちになったとき、人ははじめて人生の貧しさを感じ取る。
貧しいときには、いつか裕福になって、楽しみ祝えばいいと希望を託す ことが
できる。
だが、外側の豊かさを達成したら、不意に希望が消え失せ、 深い失望がそこに
腰を据える。
あなたは絶望に取り囲まれている。
今や希望もなく、未来もない。
もはや最後の希望もついえてしまった。
あなたは「いつか金持ちになるぞ。そうすれば何もかもうまくゆく」 と考えな
がら生きてきた。
ところが金持ちになっても、何ひとつ変わらない。
内面の惨めさは依然としてつつ゛いている。
実際、外側の豊かさゆえに、外側の豊かさとの対比ゆえに、 内なる貧しさをよ
り鮮明に、より正確に、より鋭く見ることができる。
外側の豊かさは内なる貧しさを感じるための下地を提供するだけだ。
ものをもつことで、あなは内なる空虚さに気つ゛く。
それゆえに、富める国が宗教的になるのは不思議なことではない。
仏陀やマハーヴィーラの時代のインドは富にあふれていたので、 宗教的だった

インドは裕福だった。
その裕福さゆえに インドの人々は内なる貧しさに気つ゛いていた。
そして内なる貧しさに気つ゛くとき、人は内界を探求しはじめる。
物質では内なる渇望を充たせないことに気つ゛くとき、物質は どこまでももの
であり、内側には取り込めないことに気つ゛く とき、それが揺るぎない確信と
なったとき、人は新たな探求、 新たな冒険に乗り出す。
その冒険が宗教だ。
今日のインドは宗教的ではありえない。
インドは世界で最も貧しい国のひとつだ ―そのインドがどうして宗教的であり
えよう?
宗教的たりえるだけの余裕がない。
宗教は最も高い次元の贅沢、究極の贅沢だ。
それは究極の音楽、究極の詩、究極の踊りだ。
それは<存在>そのものに完全に酔いしれることだ。
腹を減らし、飢えていては、それを探求することはできない。
空腹なときに必要なのはパンであって、瞑想ではない。
病気のときに必要なのは薬であって、瞑想ではない。
健康な人だけが、瞑想でなければ充たせない何かが欠けていることを自覚できる

人々は私に、ここで講話に参列しているインド人が少ないのはなぜかと尋ねる。
それは不思議なことではない。
彼らは瞑想に関心がないのだ。
彼らはもの に興味をもっている。
彼らはすっかりものに取り憑かれている。
もちろん霊性について語りはするが、それはたんなる口先であり、過去の遺物
にすぎ ない。
彼らはそういったことを得々として語る―少なくとも自分たちは霊性をそなえ
て いると。
ものは足りないけれど、霊性なら自慢することができるというわけだ。
だが、私にとって精神主義は物質主義よりも高次の段階にある。
物質主義は踏み石の役目を果たす。
富める国だけが精神の貧しさを感じる ようになる。
そして精神の貧しさを感じるようになったら、可能性は二つしかない。
自殺をするか、内なる変容を通り抜けるか、そのどちらかだ。
瞑想は内なる変容の技法だ。
自殺と瞑想が残された唯一の 選択となれば―生全体が無意味だから自分自身を
壊してしまう か、存在の新しい次元へと自分自身を変容させるか― 人は自殺か
瞑想のどちらかを選ばなければならない。
世界の富める国々は自殺を選ぶか、瞑想を選ぶかというこのジレンマをいつも
抱えて いる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

361鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/05(火) 22:48:58 ID:1d4drIFg0
神の王国は目の前ではなく、眼の後ろにあるとオショーは言うのじゃ。
それは客観ではなく主観であるからと説いているのじゃ。
それ自身は認識できない認識主体、アートマンのことなのじゃ。
それに達すれば全ての喜びの王国は永遠にあり続けるのじゃ。

362避難民のマジレスさん:2019/03/06(水) 06:47:13 ID:LC3de7YgO
>>360
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづく)
より抜粋

富める国々のほうが貧しい国々よりも自殺や狂気の悩みを多く抱えている。
貧乏人は自殺のことなど考えているひまがない。
生きることで精いっぱいだ。
貧乏人 は自分のエネルギーを変容させることなど考えているひまがない。
彼の頭は子供たち を養い、雨露をしのぐにはどうすればいいかでいっぱいだ。
彼は肉体より高次なもの、 肉体より深いものにはいっさい興味がない―それも
無理のないことだ。
私はそれを非難しているのではない。
それはまったく自然なことだ。 そうあってしかるべきだ。
世界の貧しい国々がどんどん共産主義に傾いてゆき、 世界の資本主義国がどん
どん精神主義に傾いてゆくのはそのためだ。
マルクスの予言は外れた。
マルクスは富める国々が共産化するだろうと 言っていたが、それはたわごとで
あることが判明した。
貧しい国々だけが 共産主義になった。
ロシアは最も貧困に悩む国のひとつだった。
中国もそうだし、 インドもそうだ。
インドはいつなんどき共産主義の餌食になるかわからない。
それは途上にあって、待ち構えている。
アメリカは共産主義にならなかった。
マルクスは富める国々が共産化するだろう と予言した。
私はこう予言する。
富める国々は必ず宗教的になり、貧しい国々は 共産主義になる、と。
そして、共産主義を通してひとたび国が豊かになると、 その国は宗教を探し求
めるようになる。
それが今ロシアの魂の深部で起こって いることだ。
今やロシアは、再び神や瞑想や祈りについて考えることができる 地点にやって
来ている。
あなたは驚くかもしれないが、ロシアの人々は密かに 集まって祈っている。
祈りは政府から固く禁じられているからだ。
宗教的であることは、犯罪とみなされている。
この国では、寺院はあるが、訪れる者はいない。
教会はあるが、せめて日曜日には 教会に通うよう、なんとか人々を説き伏せな
ければならない。
人々を寺院や教会や モスクやグルドワラに行かせるには、うまく丸めこまなけ
ればならない。
人々が 密かに地下室に集まり、音が漏れないように黙って祈りを捧げている国
を想像できる かね?
ロシアの魂の奥深くで、再び宗教が浮上しつつある。
それは浮上してきて しかるべきだ。
今やロシアは高い次元のものごとについて考えられるほど豊かに なっている

私の生のヴィジョンでは、物質主義と精神主義は矛盾するものではない。
物質主義は宗教のための道を整える。
私が完全に物質主義者であるとともに、 完全に精神主義者でもあるのはそのた
めだ。
これは、私があなたがたに説いて いる最も基本的な教えのひとつだ。
けっして肉体と魂、世間と神を対立させては いけない。
けっして物質主義と精神主義を対立させてはいけない―肉体と魂の ように、そ
れらはともに手を携えてゆく。
物質主義の立場を取りながら、それを霊性への踏み石として使いなさい。
この姿勢は人々の心マインドに大きな混乱を引き起こすだろう。
というのも、 人々はつねに貧しさを精神的なものだと見なしてきたからだ。
それはまったく 馬鹿げている。
貧しさはこの世で最も非精神的なものだ。
貧乏人は精神的にはなれない。
いくら努力しても、その精神性は表面的なものに とどまる。
彼はまだ豊かさに幻滅したことがない。
その彼がどうして精神的に なりえよう?
大いなる幻滅が必要だ。
外の世界に対する大いなる幻滅が。
そうなったら人は内側を向く。
外の世界に完全に幻滅する地点に到って はじめて人は内を向く―
あなたは世間を見てきた。
あなたは世間を生きてきた。
あなたは経験を積み、そこには何もないことを、すべてはしゃぼん玉のような
はかない体験であることを知るに到った。
世間は大きな約束をするが、何も もたらしはしない。
最後には虚しさだけがその手に残る。
外の世界が人に与える ことができるのは死だけだ。
生命は内側に探求されなければならない。
生命の源はあなたの 内 部 に ある。
樹は種子のなかに潜んでいる。
だが、種子を割って開いても、もちろん樹は 見つからない。
そういうやり方では見つからない。
あなたは種子を育てなければ ならない。
そうすれば種子のなかに隠されていた設計図がひもとかれる。
母親の子宮に宿った子供は種子にすぎないが、あらゆる設計図、あらゆる 可能
性がそなわっている―どんな肉体をもつか、どんな顔になるか、目の色は どう
か、髪の毛、身長、年齢、どれだけ長く生きるか、健康かどうか、男か女か 、
黒人か白人か―あらゆるものが種子に含まれている。
生命はその種子から成長する。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

363鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/07(木) 00:04:09 ID:1d4drIFg0
金も権力も人を幸福にはしてくれないのじゃ。
それを知るために一度は金や権力を得てみる必要がある者も居るじゃろう。
実際に得てみて絶望すれば真の幸福への道に眼を向けることもあるのじゃ。
金や権力を得てもそれができなくて薬や酒で死んでしまう者も多いがのう。

364避難民のマジレスさん:2019/03/07(木) 06:05:58 ID:LC3de7YgO
>>362
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

瞑想とはそこからすべてのものが現れてきた―肉体が現れ、欲望が 現れ、精神
作用マインドが現れてきた―内奥の
中核に引き返すことだ。
あなたは源にもどらなければならない。
宗教とは源への回帰だ― そして源を知ることが神を知ることだ。
源を知ることが目的地を知ることだ。
それらはひとつだからだ。
あなたが最初に芽生えた内奥の中核にもどることは、 あなたが到達したいと願
っている<究極なるもの>に到ることだ。
円は完結する。
アルファがオメガになる瞬間がある。
そのときそこに成就がある。
円が完結するとき、そこに成就がある。
それが呂祖師の『黄金の華の秘密』の教えのすべてだ。
彼は道をはっきりさせようとしている。
どうすれば円を完結させることができるか、
どうすれば光を巡らせることができるか、
どうすれば内側に動いてゆけるか、
どうすればほんの少しの青空を、
ほんの少しの天国を手に入れることができるか―
そうすれば、どこにいても幸せでいられる。
あなたは地獄にいても幸せだ。
今のままのあなたでは、どこにいても不幸になる。
たとえ天国にいても不幸になる。
あなたはそこでも不幸になる手段や方法を見つけだす。
なぜなら、 あなたは嫉妬や怒りや貪欲や所有欲をすべてもち歩いているからだ。
あなたは激怒、性欲、抑圧をすべてもちあるいている。
あなたはこの荷物をそっくりもち歩いている。
天国に着いた瞬間、 あなたはそこでもまたまわりに地獄をつくりだす。
なぜなら、 あなたは地獄の種子をもち歩いているからだ。
清らかであれば、静謐せいひつであれば、あなたは天国 にたどり着くと言われ
ているが、真相はまったくその逆だ。
清らかであれば、静謐であれば、天国があなたのもとにやって来る。
人はけっしてどこへも行かない。
人はつねにここにいる。
だが、ひとたび内側が光で満たされたなら、 外側の世界すべてが変容を遂げる

仏陀はあなたがたと同じ世界で活動している。
仏陀はあなたがたが歩くのと同じ通りを歩いている。
だが、 仏陀はまったく異なる世界に生きている。
仏陀は楽園で暮らし、あなたは地獄で暮らしている。
あなたは仏陀の隣に坐っているかもしれない。
彼の手を取ったり、彼の足に触れたりしているかもしれない。
それほど近くにいても、二つの世界は遥かに遠く離れ、分かれている。
天国にある、完全な祝福のなかにある、神という名のその光輝に包まれる 秘法
は何か?
これがその秘法だ―
呂祖師は言った。
汝らの修行は次第に集中し、成熟してゆくだろう。
タオの道は頓悟とんごの道ではない。
それは禅のようではない。
禅は頓悟だ。
タオはゆっくりと成長してゆく。
タオは突然起こる、唐突な変化を信じない。
タオは<存在>と歩調を合わせることを信じ、けっして自分の流儀を押し付けた
り、川を押したりせず、ものごとをひとりでに起こらせてゆく。
そしてタオは言う。
永遠の時間があるのだからあわてる必要はない。
適切な時に種子を蒔いて、待てばいい。
そうすれば春がやって来る。
春はいつでもやって来る。そして春が来れば、花が咲く。
とにかく待ちなさい。急いではいけない。
樹の成長を速めようと引っぱったりしてはいけない。
「すべてが インスタント・コーヒーのようになればいい」とねだったりしては
いけない。
待つことを学びなさい。自然は実にゆうゆうと動いてゆくからだ。
このゆったりとした動きゆえに、自然には優美さがある。
自然はとても女性的であり、女性のように移ろってゆく。
自然は走らず、急がず、あわてることがない。
自然はひじょうにゆっくりと進む、静かな音楽のようだ。
自然は実に忍耐強い。
そしてタオは自然の流儀を信じている。
タオとはまさに"自然"を意味する。
それゆえに、 タオはけっして急がない。
これを理解しておかなければならない。
タオの基本的な教えはこれだ― 忍耐強くあることを学べ。
無限に待つことができるなら、 それは即座に起こるかもしれない。
だが、即座に起こることを求めてはいけない。
求めれば、それはけっして起こらないだろう。
あなたが求めるそのことが障害になる。
その欲望 そのものがあなたと自然のあいだに溝をつくる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

365鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/07(木) 22:19:32 ID:1d4drIFg0
タオの法はそれ自体が静寂の法となっておる。
受動性を極めるという目指し方が悟りを得た後の静寂とも重なるのじゃ。
悟る前に既に悟りの妙趣を味わう如きなのじゃ。
それが仏教とは違うところなのじゃ。

366避難民のマジレスさん:2019/03/08(金) 07:52:14 ID:LC3de7YgO
>>365
止からはじめて、まず荒れ狂う心を鎮め整え、観に取り組み、思考、感情をコントロールする方法を身につけり、また気功により、実感することと思考とのちがいを体験することにより、
くまは、悟りの妙趣を味わうとまでは言えませぬが、かなり生きるのが楽になったであります。
これは、仏教的な方法ではないのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

367避難民のマジレスさん:2019/03/08(金) 08:12:28 ID:LC3de7YgO
>>364
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

自然と調和を保ち、自然にみずからの道をとらせなさい― それはいつ起こって
もかまわない。
それはいつも時を逸することがない。
起こるのが い つ で あ っ て も だ。
たとえ長い年月がかかるとしても、 それで遅れたことにはならない。
それはけっして遅れない。
それはつねに正しい瞬間に起こる。
タオはあらゆることが必要な時に起こると信じている。
弟子に用意ができたとき、師が現れる。
弟子に究極の用意ができたとき、神が現れる。
それを可能にするのは、性急で、慌ただしい、攻撃的な姿勢ではなく、
あなたのふところの深さ、虚空、受容性、受け身の姿勢だ。
真理は征服できないことを覚えておきなさい。
人は真理に明け渡さなければならない。
人は真理に征服されねばならない。
だが、いつの時代にも、あらゆる国々で 攻撃的で野心に満ちた教育が行なわ
れてきた。
私たちは人々をせきたてる。
私たちは人々の恐怖を煽る。
私たちは彼らに言う。
「時は金であり、じつに貴重なものだ。過ぎ去った時間は もどってこない。だ
からぐずぐずしてはいられない。急げ」と。
これが人々を狂気に駆り立ててきた。
彼らはここからあそこへとあわてて 飛びまわり、どこにいても少しも楽しむこ
とがない。
彼らはこの国際ホテル から別の国際ホテルへと世界中を駆け回る。
どのホテルも似たりよったりだ。
東京であろうが、ボンベイであろうが、ニューヨークであろうが、パリであろう
が 大差はない。
これらの国際ホテルはみな似たりよったりだ。
ところが人々は、この国際ホテルからあの国際ホテルへと駆けまわりながら、
世界一周旅行をしているつもりになっている。
どこもかしこも同じなのだから、 どこかの国際ホテルに腰を据えていればよか
ったし、他のところに出かけてゆく 必要などなかったのだ。
だが人々はどこかに向かっていると考えている。
スピードは人々を神経症に追いやっている。
タオは自然の道だ。
樹が育ち、川が流れるように、 そして鳥や子供たちのように…… それとまっ
たく同じように、人は 神のなかへ成長してゆかなければならない。

呂祖師は言った。
汝らの修行は次第に集中し、成熟してゆくだろう。
あわてないこと。死に物狂いにならないこと。
今日うまくゆかなくても、希望を失うことはない。
今日しくじったとしてもどこもおかしくない。
数日のあいだ失敗がつつ゛いてもどこもおかしくない。
人々は失敗することをひじょうに恐れている。
ただ失敗するのが怖いために、けっしてやってみようとはしない。
怖がるあまり恋をしない人々が大勢いる―誰にわかるだろう?
拒絶されるかもしれないではないか。
そこで彼らは愛情を表現しないでおこうと心に決めた。
そうすれば誰にも拒絶されることはない。
人々は失敗を恐れるあまり、けっして新しいことをやろうとしない―わかるも
のか。
失敗したら、どうするんだ?
そして言うまでもなく、内側に入ってゆくためには何度も失敗せざるをえない

一度もそこに入ったことがないからだ。
あなたは外界での活動や外向的な仕事をこなす手腕や力はそなえているが、ど
うやって内側に入ればよいのかわからない。
人々は「内側に入りなさい、なかに入りなさい」という言葉を耳にしても、何
のことだかわからない。
彼らが知っているのは出てゆく方法だけだ。
彼らが知っているのは他人のところへ出かける方法だけだ。
彼らは自分自身に到る方法をまったく知らない。
それも無理はない。
過去からの習慣ゆえに、あなたは何度も失敗するだろう。
希望をなくしてはいけない。
成熟はゆっくり起こる。
成熟は必ず起こるが、それには時間がかかる。
そして、いいかね。人が違えば、成熟する速さも違う。
だから比較しないこと。
「あの人はとても静かで、楽しそうなのに、私はまだなっていない。いったい
どこがいけないのだろう?」と考えてはいけない。
他人と比較してはいけない。
人はそれぞれ異なる過去生を生きてきたのだから。
今生ですら人々の生き方は様々だ。
例えば、詩人は科学者よりも内側に入ってゆきやすいかもしれない。
受けた訓練が違うからだ。
科学的な訓練は、客観的であること、対象となる事物に注意を向け、対象とな
る 事物を観察し、主体を忘れることにある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

368鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/08(金) 22:40:35 ID:1d4drIFg0
>>366 そうじゃ、違うのじゃ。
そもそも仏教では感覚も初めの段階から厭離することを実践するからのう。
何かを感じることも無いのじゃ。

タオの法は全てが起こるままにさせておくのじゃ。
自らは何にも関わらない。
全てが起こるままにしておけば心は鎮まっていくのじゃ。
そのように何の期待もなくあるがままにしていくことで全ての障害を乗り越えていくのじゃ。

369避難民のマジレスさん:2019/03/08(金) 23:05:15 ID:LC3de7YgO
>>368
なるへそであります。
くまは仏教でなくても良いのであります。
楽になれた事実と、実感が求める全てでありますから。
て、ことは、仏教的には、くまは外道でありますね。
(´・(∀)・`)つ

370避難民のマジレスさん:2019/03/08(金) 23:45:50 ID:LC3de7YgO
>>367
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

科学者は、科学者であるためには、 実験から完全に距離を置かなければならな
い。
科学者は実験に巻き込まれては いけない。
そこに感情をもち込んではいけない。
科学者はコンピュータのように まったく平然としていなければならない。
科学者は人間であってはならない。
そうなってはじめて人は真の科学者となり、科学で成果をあげることができる

さあ、詩人の技量はこれとはまったく違う。
詩人は巻き込まれる。
詩人は花を観察しながら、まわりで踊りはじめる。
詩人は身をもって参加する。
詩人はたんなる超然とした観察者ではない。
舞踏家のほうがもっと容易かもしれない。
舞踏家とその踊りは一体であり、踊りは内に深く根ざしているので、 舞踏家は
たやすく内なるスペースに入ってゆける。
それゆえに、古代の世界各地の神秘的なミステリー・スクールにおいて 舞踏は
秘められた技法のひとつだった。
舞踏はミステリー・スクールや寺院において進化した。
舞踏は最も宗教的な現象のひとつだ。
だが、それはその意味を完璧に失い、まったく正反対のものに成り果ててしま
った。
それは性的な現象になってしまった。
舞踏は霊的な次元を失ってしまった。
だが、いいかね、霊的なものはすべて堕落したら性的なものになってしまうし、
性的なものはすべて上昇すれば霊的なものになりうる。
霊性とセクシャリティは織り合わされている。
数学者よりも音楽家のほうが瞑想に入ってゆきやすい。
人が違えば、 得意な分野も違い、精神構造も違い、条件つ゛けも異なっている

例えば、キリスト教徒のほうが仏教徒よりも瞑想することがむずかしいかもし
れない。
仏教徒たちは二十五世紀ものあいだ瞑想を絶やさ なかったので、その門人たち
はある特定の質をそなえている。
仏教徒が私のもとへ来ると、ひじょうに簡単に瞑想に入ってゆける。
キリスト教徒がやって来ても、瞑想にはまるで馴染みがない。
キリスト教徒は瞑想を完全に忘れてしまっているからだ。
キリスト教が知っているのは祈りだけだ。
祈りはまったく異なる現象だ。
祈りのなかでは他者が必要とされる。
祈りはけっして自立したものではありえない。
祈りはむしろ愛に似ている。
祈りは対話だ。
瞑想は対話ではない。
それは愛に似たものではなく、 愛とはまったく逆のものだ。
瞑想のなかで、あなたは独りっきりになってしまう。
行く場所もなく、関わる相手もなく、対話もない。
他者がいないからだ。
あなたはどこまでも自分自身であり、自分自身以外の何ものでもない。
これはまったく異なる取り組み方だ。
だから、それはあなたが成長する途上で身につけた技能、精神構造、条件つ゛け
、 教育、宗教に左右される。
読んできた本、一緒に暮らしてきた人々、みずからの 内側にかもしだしてきた
波動に左右される。
それは千とひとつのものごとに、 あなたがどれだけ多くのものを吸収すること
ができるかどうかに左右される― が、それは必ず、確実にやって来る。
必要なのは忍耐、黙々と実践することであり、 辛抱強く働きかければ、集中が
生まれ、成熟が起こる。
実のところ、成熟した人と集中力のある人は同じ現象の両側面にすぎない。
だからこそ子供たちは精神を集中できない。
彼らは絶えず動きまわり、一か所に じっとしていられない。
あらゆるものが珍しい―車が通り過ぎてゆく、鳥が鳴き、誰 かが笑いはじめる
、隣の人がラジオをつけている。
蝶々が飛んでゆく―あらゆるもの が、全世界が魅了する。
彼らは次から次へと目移りしてゆく。
彼らは集中できない。
他のことを忘れてしまうほど、世界が存在しなくなるほど、 しっかり腰を据え
てひとつのことに取り組むことができない。
成熟するにつれ、集中力が生まれてくる。
成熟と集中力は言葉は違うが同じものを指している。
だが、まず覚えておかなければならないのは、 それは徐々にやって来るという
ことだ。
比較してはいけない。あわててはいけない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

371避難民のマジレスさん:2019/03/09(土) 13:21:53 ID:LC3de7YgO
>>370
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

だが、断崖に立つ枯れ木のように打坐する境地に到るまでには、 まだ多くの錯
誤を犯す可能性がある。
これに関しては特に注意を促しておかねばならない。
呂祖師は言う―断崖に立つ枯れ木のように打坐する境地に到るまでには
・・・・・・これはとほうもなく美しく、意義深い道家タオイストの表現だ。
これは生きながら死に、
死にながら全一に生きる
ことを意味している。
喜びにあふれ、祝いながら世間のなかで暮らし、しかも世間の一部にはならな
いこと、世間のなかにありながら、
世間が自分のなかに入ってこないようにさせることを意味している。
断崖に立つ枯れ木のように
―それは死人のように生きることだ。
アレキサンダー大王は、サニヤシンをインドから母国へ連れて帰りたかった。
師である偉大な哲学者アリストテレスから「インドからもどるときには、
サニヤシンを連れてきてほしい」と頼まれていたからだ。インドが世界に
貢献したもので、サニヤシンの道、サニヤシンの生き方にまさるものはない。
アリストテレスは深い関心を寄せていた。
彼はサニヤシンがどういう種類の人間なのか見たかった。
それはインドでしか見られないからだ。
それはインドが世界の文化と人類に対して捧げた特別な貢献だ。
世間で生きながら、世間の一部とならず、
超然と離れたままでいるという、まったく異なる世間の生き方だ。
それは池に咲く蓮の花が水中にありながら、水に触れられないのに 似ている。
蓮の花びらにたまった露に朝日が当たると、それは真珠 のように美しく見え
る。
が、露は少しも花に触れていないし、花も 少しも露に触れてはいない。
それほど近くにありながら、遠く離れている……。
「サニヤシンとはどういう種類の人間だろう?」―アリストテレスの関心は哲
学的 なものだった。
彼はサニヤシンになるような人間ではなかったが、アレキサンダー にサニヤシ
ンを連れてくるよう依頼した。
「あなたはたくさんのものをもち返って くるだろう。どうか私には、忘れずに
サニヤシンを連れてきてほしい」
インドを発とうとしていたアレキサンダーは思い出した。
「そうだ、サニヤシンだ」彼はインドの最後の滞在地で人々にサニヤシン のこ
とを尋ねた。
すると人々は言った。
「ええ、この国にはすばらしいサニヤシン がいますが、彼を連れてゆくのはま
ず無理です」
アレキサンダーは言った。
「私にまかせればいい。心配することはない。おまえ たちは私のことを知らな
いな。私がついて来るように命じたら、ヒマラヤの山々 でさえついて来ざるを
えない。サニヤシンなどわけもない。彼はどこにいる? 居どころを教えてくれ
さえすればいい」
そしてその居どころがわかった。
そのサニヤシンとは、川のほとりに住んでいる裸の行者ファキールだった。
そのサニヤシンをアレキサンダーのもとへ連れてくるために、抜き身の剣を 手
にした四人の屈強な男がおくられた。
抜き身の剣を手にした四人の屈強な男たちを見て、サニヤシンは笑いはじめた。
男たちは言った。
「わかっていないようだが、これはアレキサンダー大王の 命令だ。宮廷までつ
いて来てもらおう。大王がお待ちだ」
するとサニヤシンは言った。
「私はずいぶん昔に去来するのをやめた。
私に会いたければ、大王のほうから会いにくればいい。
だが、私はもう 去来はしていない。
去来することは私の心とともに消えた。
もはや来る者もいなければ、去る者もいない。
私はもう存在していない!」
もちろん、このギリシャ人たちは理解することができなかった。
ギリシャ人はインド人とは正反対だ。
インド人は基本的に非論理的であり、
ギリシャ人は基本的に論理的だ。
インド人は詩的、直感的であり、
ギリシャ人 は理知的だ。
この四人の兵士は彼に言った。
「なんというたわけたことを 言っているのか。おまえを引きずってゆくことだ
ってできるんだ!」
サニヤシンは言った。
「 身体を引きずってゆくことはできても、 この私を引きずってゆくことはでき
ない。
身体を牢屋に閉じ込めることはできても、 この私を閉じ込めることはで
きない。
私の自由は損なわれないままだ。
私は蓮の花であり、水は私に触れることができない」
さあ、この言葉はギリシャ人にはさっぱり通じなかった。彼らは言った。
「待っていろ。大王様にお伝えして、処置を仰ぐことにしよう」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

372鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/09(土) 23:30:01 ID:1d4drIFg0
>>369 仏陀になるための教えは全て仏教なのじゃ。
 オショーもタオも逃れられないのじゃ。
 わっはっはっは。

断崖の枯れ木のように座れというのじゃ。
もはや全ての計らいを捨てて座るのじゃ。
タオでは座禅のように座ることを座忘というのじゃ。
全てを忘れて座るのじゃ。
自分も忘れたらサマーディに入るのじゃ。

373避難民のマジレスさん:2019/03/09(土) 23:34:06 ID:LC3de7YgO
>>372
苦がのないのが覚者でありますね。
(´・(∀)・`)つ

374避難民のマジレスさん:2019/03/09(土) 23:47:45 ID:LC3de7YgO
>>371
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える3(つづき)
より抜粋

アレキサンダー はこのサニヤシンの美しい言葉を耳にし、ことの顛末てんまつ
を聞いた。
「 彼はすばらしい人で、川岸で日の光を浴びながら裸で坐っています。 彼は
大王のように見えますが、まわりには何ひとつものがありません。 彼は無一物
であり、乞食こつじきに使う鉢さえもっていませんが、 どうどうとしていて、
優美です!彼の目をのぞき込めば、全世界 を支配する皇帝のように見えます。
彼は私たちの愚かさを、私たちが 抜き身の剣を携えていったことを笑い飛ばし
、少しも動じませんでした。 そして『身体は殺せても、この私を殺すことはで
きない』と言ったのです」
アレキサンダーは興味をそそられた。
彼はこの裸のサニヤシンに会いに行った
彼は感動 し、深く心を打たれ、こう言った。
「私と一緒に来ていただこう。これは命令だ!」
だが、サニヤシンは言った。
「 サニヤシンになったその日から、 私は他人の命令に従うことをやめた。 私
は自由な人間であり、奴隷ではない。 誰も私に命令することはできない。私を
殺すことはできても、私に命令することはできない」
アレキサンダーは腹を立て、剣を抜いて言った。
「この場で首をはねてしまうぞ!」
するとサニヤシンは再び笑いはじめた。彼は言った。
「 首をはねるのはいいが、首などとっくの昔に 自分ではねてしまったよ。私は
死人なのだ」
さあ、これが真のサニヤシンの意味だ――死人。
その男は言った。
「死人を殺せるわけがない。それはまったく馬鹿げている。 どうして死人を殺
せるだろう?死人はすでに死んでいて、もうこれ以上死ぬ ことなどできはしな
い。何もかもすでに終わってしまった。あなたは来るのが 少し遅すぎた。私は
もう存在していない。そう、首をはねることはできる。 あなたは私の首が砂の
上に転がってゆくのを見るだろう。 私もまた自分の首が砂の上に転がってゆく
のを見る。 私は見守る者、目撃者だ」
これが「断崖に立つ枯れ木」の意味だ。
アレキサンダーは断崖であり、 このサニヤシンは枯れ木だった。
断崖が枯れ木に何ができるだろう?
枯れ木はすでに死に、息絶えている。
断崖は枯れ木を殺すことができない。
枯れ木は断崖を恐れない。
だが、こうなるまでにはまだ多くのことが起こりうる――
(p318)
まだ多くの錯誤を犯す可能性がある。
これに関しては特に注意を促しておかねばならない。
このような境地は、身をもって体験することではじめて認識できるものである。
いいかね、このうえもなく価値のあるメッセージ――これは探求者たちにとっ
て最もすばらしい論書のひとつだ――
のなかで呂祖が言っていることはすべて、 彼自身がその旅の途上で体験したも
のだ。
だから彼はそれを言っている。
彼はこれらの錯誤を犯したことがある。
弟子たちがこれらの錯誤に足を取られないですむよう、 これらの錯誤に心を乱
されずにすむよう、彼は弟子たちに教えたい。
一度も瞑想をしたことがない者たちには、これらの錯誤が何であるか わからな
いだろう。
身をもって体験してはじめて、彼らもそれをようやく 理解することができるよ
うになる。
だが、<道>の途上にある者たちには心の 用意をさせて、途上にどんな罠が待ち
受けているかを言っておかねばならない。
<道>はそれほど単純ではない。
色々な 場所からたくさんの道が枝分かれしている。
行き止まりの道を選んでしまうこともあるが、 それが行き止まりであること
に気つ゛いたときには すでに何年も、あるいは何生もが過ぎ去ってしまっている。
そして、費やしたすべての努力と旅は無駄になり、 本道を見失った地点まで、
またもどってこなければならなくなる。
そして、道標みちしるべとなるものはない。
いつも使える地図は手に入らないし、そんな地図はつくれない。
なぜなら、神は変化しつつ゛けているからだ。
神の存在とは絶えざる変化のことだ。
変わらないのは変化だけであり、 あらゆるものが変化しつつ゛けてゆく。
だからいつも使える地図などつくれない。
ただヒントだけが与えられる。
これらはヒントだ。
これらのヒントを理解したら、あなた は正しい道をたどることができる。
そして過ちを犯しそうになるたび に、あなたの理解が助けとなる。
まず錯誤について語り、それから確認のしるしとなる体験について話すことに
しよう。
呂祖は言う――「まず起こりそうな錯誤について話し、それから正しい道の上
にいることをはっきりと確認できるしるしについて語ろう」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

375避難民のマジレスさん:2019/03/10(日) 07:31:58 ID:LC3de7YgO
>>374
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

修行をはじめるときは、何よりもまずゆったりと くつろいだ気持ちでのぞむよ
うに配慮しなければならない。
これが最初に理解すべきことがらだ。
ひとたび内なる道を行こうと決意したら、
ひとたびサニヤシン、瞑想者になろうと決意したら、
ひとたび内なるものの呼びかけに応え、
「私は誰か?」
という問いの探求、探索に乗り出したら、まず力んではいけないということを
覚えておかねばならない。
ゆったりとした気持ちでのぞみ、
内なる旅が快適なものになるよう心がけなければならない。
さあ、これはとても重要なことだ。
ふつう、この最初の錯誤は誰にでも起こる。
人々は内なる旅をいたずらに複雑で、不快なものにしてしまう。
それはある理由から起こる。
人々は日常の生活で他人に腹立ちを覚えている。
彼らは日常の生活で他人に暴力的になっている。
外に向かうふつうの旅では、人々はサディストになり、
他人を苦しめて楽しんでいる。
他人を打ち負かすことを楽しんでいる。
他人と張り合い、他人を征服するのを楽しんでいる。
他人に劣等感を抱かせることさえできれば嬉しいのだ。
外に向かう旅とはそういうものだ。
政治とはそういうものだ。
これは合法的に、あるいは非合法的に、絶えず他人よりも秀でようとしている
政治的な心理マインドだ。
とにかく、何がなんでも、他人を打ち負かそうと絶えず努力をしている。
相手を叩きつぶさなければならないとしても、臆することはない、叩きつぶせ
ばいい。
とにかく人は勝利をおさめなければならない。
首相や大統領の座につかなければならない。
これやあれやにならなければならない――いかなる犠牲を払ってもだ!
全員が競争相手なのだから、まわりはみな敵だ。
これを覚えておきなさい――そもそも教育というものは、人に闘いの準備をさ
せ、闘う覚悟を決めさせるものだ。
友情や愛の下地を準備させるのではなく、闘い、憎しみ、戦争にそなえさせる
ものだ。
競争があれば、必ず憎悪が生まれてくる。
張り合っている相手に、互いに油断できない相手にどうして友好的な態度を取
れるだろう?
彼らが勝ってあなたが負けるか、あなたが勝って彼らが負けるか、二つにひと
つだ。
だから、あなたがたのいわゆる友情は見せかけ、形だけのものにすぎない。
それは人生を円滑に送るための潤滑油の一種だ。
が、奥深くでは友人はひとりもいない。
友人たちでさえ友人ではない。
なぜなら、彼らは互いに比較し合い、張り合っているからだ。
野心、政治的な駆け引きに満ちた教育のために、この世界は戦場になってしま
った。
人が内側に方向を転じると、問題が起こってくる。
これらの怒り、憎しみ、攻撃性、暴力はどうなるのだろう?
今や彼はひとりだ。
彼は自分自身を痛めつけはじめる。
彼は自分自身に腹を立てる。
いわゆる大聖マハトマたちはまさにそれだ。
彼らは
なぜ自分を痛めつけているのだろう?
なぜ断食しているのだろう?
なぜ針のベッドの上に横たわっているのだろう?美しい木陰があるのに、
なぜ焼けつく太陽の下に立っているのだろう?暑いのに、
なぜ火のそばに立っているのだろう?
寒いのに、
川や雪のなかになぜ裸のまま立っているのだろう?
これは姿を変えた政治家たちだ。
彼らは最初は他人と闘っていたが、まわりに誰もいないので、自分自身と闘っ
ている。
彼らの精神は分裂している。
彼らは自分自身を分裂させてしまった。
それは今や内戦だ。彼らは肉体と闘っている。
肉体はいわゆる大聖マハトマたちの犠牲になっている。
肉体に罪はない。
肉体はあなたに何ひとつ悪いことはしていない。
だが、いわゆる宗教は「肉体は敵だ、肉体を痛めつけろ」と説きつつ゛けてき
た。
外へ向かう旅はサディズムの旅だった。
内へ向かう旅はマゾヒズムの旅になる―― 人は自分自身を痛めつけはじめる。
そして、自分自身を痛めつけることには、 ある種の歓び、倒錯した喜びがある

歴史を調べてみれば、驚くだろう。
人間が自分自身に対して何をしてきたか、とても信じられないだろう。
人々はみずからの身体を傷つけ、手当てもせずに放置してきた――身体は敵だ
からだ。
キリスト教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、その他様々な宗派があるが、彼らは
実に抜け目のない、狡猾な、うまいやり方で身体を痛めつけるようになった。
彼らは身体を痛めつける大した技法を開発した。
断食を称賛するだけでなく、みずからの身体を叩き、鞭打つキリスト教の一派
があった 。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

376鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/10(日) 21:55:10 ID:1d4drIFg0
>>373 そうじゃ、覚者には苦が無いのじゃ。

タオではまずくつろぐことが大事というのじゃ。
全ての争いや競争や欲を捨てて座るのじゃ。
あらゆる社会や組織での競争や価値観をも捨てるのじゃ。
塵に等しい者となることで全てを捨てるのじゃ。

377避難民のマジレスさん:2019/03/10(日) 22:39:30 ID:LC3de7YgO
>>375
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

最もすぐれた聖者とは、みずからの手で最も自分の身体をひどく傷つけた者だ
った。
人々はやって来て、彼らの傷を数えたものだった。
他人の傷を数えるとは、いったい どういう連中だろう?
彼らもまた倒錯した喜びに浸っていたにちがいない。
インドではジャイナ教の行者ムニたちが身体を傷つけている。
ディガムパラ派に属する ジャイナ教の僧侶は毎年髪の毛をむしり取る。
そして彼らが髪の毛をむしるときには 大勢の人が集まってくる。
それは苦痛に満ちているが、人々は「立派な苦行が行なわれ ている」と楽しみ
にしている。
その男はたんなる倒錯した精神病者にすぎない。
彼には 電気ショックが必要だ。
それ以外のものでは役に立たない。
髪の毛をむしりはじめる行為には、ある種の狂気が含まれている。
そして、 あなたが夫であれば知っているように、怒り狂った妻は、ときどきそ
れをやる ことがある。
妻のほうがそれをよくやるのは、妻は夫を殴るべきではないと教え られてきた
からだ。
ではどうすればいい?夫を殴りたいが、殴るわけにゆかない。
経典には夫は神であると述べられている。
それがまったくのたわごとであることは わかっているが、経典は経典だ。
彼女は夫のことを知り尽くしている――夫が神だと したら、いったい悪魔は誰
だろう?
だが、それは口にしてはならない。
彼女は夫の 足に触れなければならない。
妻が夫に愛の便りを送るときには「あなたの下僕」と 書かなければならない。
どちらが下僕か彼女は知っているのだが!
誰もが実情を知っているが、うわべを取り繕わねばならない。
妻が夫を殴れば、何か 罰当たりなことをしたような、罪を犯したようなやまし
さが湧いてくる。
だから夫を 殴るわけにはゆかない。
だが、彼女は 本 当 に 殴りたいのだ!
だったらどうすれば いい?皿を割るか――そんなことをしたら損をするだけで
、自分が苦しむだけで、何の 役にも立たない――それとも最も手軽で、安価で
、経済的な方法を取り、自分自身を 叩き、髪の毛をかきむしり、壁に身体を打
ちすえ、壁に頭をぶつけるか。
これが一番安上がりな方法だ。
彼女は夫の頭をぶちたいのだが、そうすることはでき ない。
それは許されておらず、倫理にもとる。
誰がこの観念を彼女に吹き込んだのだ ろう?
夫や彼の仲間の僧侶や政治家たちだ。
精神病院に行けば、髪の毛をかきむしっている人が大勢いる。
人々が髪の毛をかきむしることには一種の狂気がある。
さて、髪の毛をむしり取っているジャイナ教の僧侶は、本当は病気だ。
だが、人々は 集まってお祝いをする――「とても偉大なことが行なわれている
!見ろ!なんと すばらしい聖者だろう!」
こういった人々は病気だ、と言ったばかりに、私は反感を 招いてしまった。
ことは単純だ、ごく単純だ。彼らは私に反発せざるをえない。
キリスト教の宗派には……かつてロシアには性器を切り取る一派があって、盛大
な 集会が開かれたものだった。
ある定められた日に、人々はそれを行なった。
それは 精神錯乱だった。
ひとりが自分の性器を切り取り、それを投げ捨てると、あたり一面 に血がまき
散らされる。
するとその錯乱状態が、ただ見物にきていた人たちに乗り移る 。
つつ゛いて誰かが飛び込んで、その行為に加わってゆく。
祭りが終わる頃には、 性器の山ができている。
こういう連中が偉大な聖者と見なされた。
女性たちはどうしていいかわからなくなり、乳房を切り落としはじめた。
負けてはいられないからだ。
女性たちは乳房を切り落としはじめた。
単純な錯誤からあらゆる種類の愚かな行為が起こりかねない。
あなたが内側に向かいはじめると、それまで他人の人生に難癖を つけてきた古
い思考様式マインドが、あなた自身の生に難癖を つけようとする――そういっ
た錯誤が起こりかねない。
いいかね、内なる探求者はゆったりとした気分でいなければならない。
ゆったりとくつろいでいるときにのみ、何かが起こりうるからだ。
緊張し、不快な気分を味わっているときには、何も起こらない。
緊張し、不快な気分を味わっているときには、心が乱れ、 穏やかな気分ではい
られない。
腹が減っているのに、どうして穏やかな気分でいられるだろう?
ところが人々は断食を説いてきた。
彼らは断食は瞑想の助けになると言っている。
ときおり断食が体調をよくする助けになることはあるだろう。
不要な体重がいくらか減るかもしれない。
だが、断食は瞑想の助け にはならない。
断食していると、食べ物のことばかりが頭に浮かぶ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

378鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/11(月) 23:55:42 ID:1d4drIFg0
苦行は世界のどこにでもあったものじゃ。
それは他人に恐れと恐れの克服を見せるが故に畏敬の対象になったが悟りとは関係ないものじゃ。
苦行では悟りは訪れないのじゃ。
そうであるからお釈迦様も苦行を捨てたのじゃ。

379避難民のマジレスさん:2019/03/12(火) 03:52:08 ID:LC3de7YgO
>>377
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

聞いた話だが…… 結婚したカップルが地区の牧師に相談に来た。
最初は深刻そうだった会話も 次第に打ち解けてきて、牧師はこの地区にかわいい娘が何人いるか数えあげた。
「牧師さん」と夫は言った。
「驚きましたよ」
「なぜですか?」と牧師は尋ねた。
「ダイエット中でも、メニューは見ていいんですね」
セックスを抑圧している人々はメニューばかりを見ている。
空腹を抑えている人々は食べ物のことばかり考えている。
それは自然なことだ!
瞑想などできるはずがない。
断食していれば、次から次へと料理の名前が心に浮かび、 美味しそうな料理が
続々と湧いてくる。
美味しい食べ物の香りや味覚に触れて、あなた ははじめて鼻が生きているのを
感じ、はじめて舌が生きているのを感じるようになる。
ときどき断食して食べ物に対する興味を取りもどすのはよいが、それは 瞑想の
役には立たない。
味覚を取りもどすために、身体をもう少し敏感に させるのはよい。
だが、断食は断食明けのごちそうに役立てるべきだ!
食欲を取りもどすためにときおり食べないのはよい。
それは健康のためにはよい。
だが、瞑想は断食とはいっさい関係がない。
満ち足りているときよりも、 腹を減らしているときのほうが瞑想はむずかしく
なる。
確かに、食べ過ぎも また問題をつくりだす。
食べ過ぎてしまうと眠くなるからだ。
まったく何も食べずにいると、空腹を感じる。
真ん中にいることが正しい道――中庸だ。
空腹を感じずにすむように食べなさい。
だが、 胃がもたれ、眠気をもよおす
ほど食べ過ぎてはいけない。
そうすれば瞑想がやりやすくなる。
中庸は、あらゆる面で、あらゆる状況において実践されなければならない。
ゆったりとくつろぎなさい。
自分自身を痛めつける必要はない。
不要な問題をつくりださなくてもよい。
怒り、暴力、攻撃性に満ちた想念マインドを落としなさい。
そうしてはじめて内側に入ってゆくことができる ――くつろいだ意識のなかで
、はじめて人は内側に 深く深く漂ってゆくことができるようになるからだ。
完全なくつろぎのなかで、人は内奥の中核にたどり着く。
(p325)
修行をはじめるときは、何よりもまずゆったりとくつろいだ気持ちでのぞむよ
うに配慮しなければならない。
あまり多くのことを求めてはならない。
求め過ぎると、緊張が起こり、不安が生まれるからだ。
実のところ、何ひとつ求めてはならない。
ただ待つのだ。
こころハートに種子をまいて仕事をはじめ、春を待つがいい。

あまり多くのことを求めてはならない。

人々は多くのことを求めるようになる。
彼らは即席の悟り、サマーディを欲しがる。
彼らは即席のニルヴァーナを欲しがる。
ときどき愚かな人々が私のもとに来てこう言う―-
「七日も瞑想したのですが、まだ何も起こっていません」
七日だって?七千万回も生まれ変わりながら、彼らは瞑想に反することばかり
やってきたというのに。
たったの七日で……。
まるで神や私に貸しがあるかのようだ。
彼らは不平を言いながらやって来る。
「何も起こりませんでした。七日が過ぎ、キャンプはあと三日しか残っていな
いのに、私たちはまだ光明を得ていません!」
求め過ぎてはいけない。
あまり欲張ってはいけない。
もう少し分別をもちなさい。
ものにはすべて時間がかかる。

気の動きとこころハートの動きがおのずから調和するように配慮しなければならない。
いいかね、成果のことは気にかけなくていい。
成果はつねにあなたの必要と力量に応じて現れる。
何であれあなたに準備ができていることが起こる。
成果が現れなければ、それはたんにあなたにはまだ準備ができていないという
ことだ。
そのための準備をしなさい。
成果を求めても役に立たない。
自分にまだ力量が足りないことを認め、こころハートを
もっと浄化し、
もっと意識を集中し、
もっと瞑想し、
もっと静かになり、くつろいで、内界と
もっと調和してゆくことだ。
そして待ちなさい。
こころハートと気エネルギーが調和すると、成果はおのずと現れるからだ。
種子をまいてしまえば、土を掘り返し、毎日種子の様子を調べる必要はない。
そんなことをすれば種子は死んでしまって、けっして何も起こらなくなる。
何ヶ月も何も起こらないとしても、あなたはただ待つより他にない。
何ヶ月も何も起こらないとしても、あなたは水をやり、肥料をやり、
世話をしつつ゛けなければならない。
するとある日、朝早く、不意に奇蹟が起こり……
種子が芽を吹く。小さな双葉が顔を出し、奇蹟が起こっている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

380鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/12(火) 23:41:21 ID:1d4drIFg0
瞑想し、観察をすれば変化は着実にやってくるじゃろう。
しかし、変化を期待したり、変化しようとしてはいかんのじゃ。
日々の集中と観察にただひたすら努めるのじゃ。
そうすれば変化は自ずからやってくるのじゃ。

381避難民のマジレスさん:2019/03/13(水) 00:09:59 ID:LC3de7YgO
>>379
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

見えなかったものが目に見えるようになっている。
この世にこれにまさる奇蹟はない。
種子が芽を出している。
さあ、踊りなさい!
だが、ものごとにはつねにふさわしい時というものがある。
(p326)

そうしてはじめて静かな境地に入ってゆける。
この静かな境地に入っているときには、 正しい状況と正しい空間をつくらな
ければならない。
言うまでもないことだ。
薔薇の園をつくろうとしているなら、土をそっくり入れ替えなければならない

石を取り除き、古い根を取り除き、雑草を取り除かなければならない。
あなたは外界から守られた、新しい状況と新しい空間をつくりださなければな
らない。
あなたは周囲に柵を設けなければならない。
薔薇を栽培するつもりなら、こうしたことをすべて整える必要がある。
瞑想は薔薇、最もすばらしい薔薇、人間意識の薔薇だ。
この書物が『黄金の華、黄金の薔薇の秘密』と呼ばれているのはそのためだ。
正しい状況とは何だろう?
正しい空間とは何だろう?
世事の只なかで坐ってはいけない。
瞑想が深まる場所を見いださなければならない。
例えば、映画館に行って最前列に坐ったり、駅に行ってプラットホームに坐る
よりも、樹の下に坐るほうが助けになる。
いまだにタオがあたり一面に流れ、その波動を放ち、脈打ち、ほとばしってい
る大自然、山々のなか、樹々のもと、川のそばへ出かけていったほうがいい。
樹は絶えざる瞑想のなかにある。
樹の瞑想は静かであり、無意識だ。
私は樹になりなさいと言っているのではない。
あなたはブッダにならなければいけない!
だが、ブッダと樹には共通点がひとつある。彼は
樹のように青々と繁り、
樹のように樹液に富み、
樹のように祝っている。
もちろん、違いもある――
ブッダには意識があるが、樹は無意識だ。
樹は無意識な状態でタオのなかにあり、
ブッダは意識とともにタオのなかにある。
だが、その違いは大きい。
天と地ほどの差がある。
だが、樹のそばで坐っていると、まわりで美しい鳥たちが歌い、孔雀が舞い踊
り、流れる川のせせらぎが聞こえてくる。
あるいは滝のそばで坐っていると、そのすばらしい音楽が聞こえてくる。
自然がまだ乱されず、汚されていない場所を見つけなさい。
そういう場所が見つからなければ、戸を閉めて、部屋のなかで坐りなさい。
もしそれができるなら、瞑想だけをする部屋を用意するといい。
ほんの片隅でいいから、瞑想だけに使うようにする。
専用にするのは、どんな種類の行為も独自の波動を放つからだ。
そこで瞑想だけをすれば、その場所は瞑想的になる。
毎日瞑想をするたびに、その場所はあなたの瞑想の波動を吸収する。
翌日部屋に入ると、その波動があなたに返ってくるようになる。
それは助けになる。
それはもどってくる。
それが応えてくれる。
寺院、教会、モスクの背景にはそのような着想がある。
その着想はすばらしい。
みんなが祈りや瞑想に使う部屋を個別にもつことはできないかもしれないが、
村で専用の部屋を設けることならできる――人がたむろせず、俗事が行なわれ
ることのない、川岸の樹々に囲まれた寺院。
瞑想がしたくなれば、その寺院にゆけばいい。
そして寺院にいる人の邪魔をしてはいけないことをみんなわきまえている。
聖地とは瞑想にふさわしい条件を満たした空間に他ならない。
激しい怒りを感じているなら、それは瞑想にふさわしい時ではない。
それでは流れに逆らうことになる。
ひじょうに貪欲になっているなら、それは瞑想にふさわしい時ではない。
なかなか瞑想に入れないだろう。
だが、簡単に瞑想に入ってゆける瞬間がある。
太陽が昇ってゆく。
日の出を見ていると、突然、内側がひっそりと静まり返り、まだあなたは騒が
しい街の一部ではない――これこそ瞑想にふさわしい時だ。
今日は気分がよく、健やかで、誰とも言い争いをしていない――これこそ瞑
想にふさわしい時だ。
友達がやってきて、あなたは愛に満たされている――これこそ瞑想にふさわし
い時だ。
あなたは恋人とともにいて、二人はこのうえもなく幸せだ――一緒に坐って瞑
想するがいい。
恋人や友人と一緒に瞑想することができたら、あなたは人生で最大の喜びが生
まれているのを見いだすだろう。
正しい状況を見いだせない者などひとりもいない。
二十四時間のうちには、たやすく瞑想に変容できる瞬間が何度も訪れる。
そういった瞬間には、あなたは自然に内側に入ってゆきつつあるからだ。
満天の星空の夜、大地に身を横たえ、星を眺め、調和を感じ……そして瞑想す
るがいい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

382鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/13(水) 23:05:32 ID:1d4drIFg0
世間で遊び呆けていながら瞑想に入ることは出来ないものじゃ。
一度座ろうとしても遊び仲間が誘いにきたりするじゃろう。
そして遊んでしまうじゃろう。
瞑想には生活をも変える必要が在るのじゃ。
一度でできなければゆっくりとでも変えていくが善いのじゃ。

383避難民のマジレスさん:2019/03/13(水) 23:24:45 ID:LC3de7YgO
>>381
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

ときどき山で休暇を過ごすのもいい――だが、ラジオをもってゆかないこと。
さもないと、がらくたを丸ごともってゆくことになる。
そして山に行くときには、自分の連絡先や電話番号を誰にも教えてはいけない。
教えるくらいなら、どこにも出かける必要はない。
山に行くのなら、数日のあいだ世間のことをすっかり忘れてしまいなさい。
それが休日(holiday)の意味だ。
それは神聖(holy)なものでなければならない。
それではじめて休日の名に値する。
神聖なものでなければ、神々しいものと調和していなければ、それは休日では
ない。
人々は自分たちの世界をもち歩いている。
私は数人の友人とともにヒマラヤに行ったことがあるが、
そこで独りにさせて欲しいと頼まなければならなかった。
というのも、彼らはトランジスター・ラジオや新聞や雑誌や読みかけの小説を
もってきていたからだ。
そして彼らは絶えずおしゃべりをして、いつもくり返している話題をまたもや
もち出してきた。
だから、私は彼らに言った。
「何のためにヒマラヤに来たのかね?その話は家でたっぷりしてきたはずなの
に、またここで同じ話を、同じゴシップを、同じうわさ話をくり返すのかね」
私と一緒に美しい場所へ行くたびに、彼らはカメラを取り出して、写真を取っ
た。
私は彼らに言った。
「ここに来たのは目で見見るためだろう。ヒマラヤを見るためにカメラをもっ
てきたわけじゃないだろう!」
だが彼らは言った「すてきなアルバムをつくるんだよ。どんなにすばらしい場
所を訪れたかあとで振り返るんだ」
ところが、彼らはその場にいなかった。
彼らはひたすらカメラのシャッターを押していた。
こういった愚かな振る舞いをもち込んではいけない。
そして、ときどき山に行くのはいい。
だが、私は山で暮らしはじめなさいと言っているわけではない。
それはよくない。
なぜなら、あなたは山に中毒し、世間にもどるのが怖くなってしまうからだ。
休日はあくまで休日だ。
休日が終われば、世間にもどり、聖なるものの 安らぎ、静けさ、体験をすべて
もち帰るのだ。
それを一緒にもち帰るのだ。
それがにぎやかな街のなかでも自分のもとにとどまるように努力するがいい。
これらの示唆は初心者のためのものだ。
本当に瞑想が身につけば、映画館の席に坐っていても 瞑想できるし、駅のプラ
ットホームでも瞑想できる。
十五年前、私は休む間もなくインドを旅していた。
旅は途切れることなく、 年がら年中、来る日も来る日も、昼夜を問わず、いつ
も汽車や飛行機や 車に乗っていた。
だが、どこにいても同じだった。
みずからの実存に 本当に根つ゛いてしまえば、どこにいても変わらなくなる。
だが、それは初心者にはむずかしい。
樹が根つ゛いてしまえば、風が吹こうが、雨が降ろうが、雷が鳴ろうが、 まっ
たくかまわない。
かえってそのおかげで樹は完全なものになる。
だが、 樹が小さくてひ弱なときには、子供でさえも危険だ。
あるいは牛が通り 過ぎただけで、その聖なる動物に踏みつぶされてしまうかも
しれない。
初心者には、いいかね、この呂祖の示唆はこのうえもなく重要だ。
すなわち精神は虚しい熱中から自由でなければならない。
世間のしがらみ をすべて脇によけ、泰然自若としていなければならない。
瞑想しようとしているときには、電話をはずし、人との関わりを絶つ。
ドアに「瞑想中につき、一時間はノックをしないように」と書いた紙を貼って
おくといい。
そして瞑想ルームに入ってゆくときには、靴を脱ぎなさい。
聖地の上を歩いているからだ。
さらに靴だけでなく、頭を占めていたものをすべて脱ぎ捨てる。
意識しながら靴と一緒にあらゆるものを置いて、からっぽの状態で内側に入っ
てゆく。
二十四時間のうち一時間くらいなら都合がつけられるだろう。
二十三時間は仕事、欲望、思考、野心、投影に当てればいい。
こういったことすべてのなかから一時間だけ暇をつくりだしなさい。
最後には、生涯のうちその一時間だけが自分の人生の本当の時間だったこと
に気つ゛くだろう。
他の二十三時間はまったくの無駄だった。
その一時間だけが手元に残り、他の時間はすべて水泡に帰してしまったと。

また正しい手順にこだわり過ぎてもいけない。
覚えておかねばならない二番目のことがらは、正しい手順に気をとられ過ぎて
はならないということだ。
さもなければ、特定の姿勢で坐るべきだといったような考えが頭にこびりつい
て離れなくなる。
坐ることができるのはいいが、もしそれが不要な脅迫観念になるようなら、落
としてしまいなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

384避難民のマジレスさん:2019/03/14(木) 20:04:36 ID:LC3de7YgO
>>383
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

例えば、正式な蓮華座では坐ることができないかもしれない――それはずっと
椅子の生活をつつ゛けてきた人にはむずかしい。
筋肉が特定の仕方で発達しているためにむずかしい――そうなると脚が気にな
って仕方なくなってくる。
だから、蓮華座を無理強いする必要はない。
蓮華座を組むのがやさしければ問題はない。
組めなければ、どんな姿勢でも蓮華座になる。
床の上に坐れなければ、坐るのがむずかしければ、椅子に坐ればいい。
瞑想は椅子を怖がったりなどしない。
それはどこでも起こりうる。
先日、レヌがこう尋ねた。「木馬の上でも悟りは起こりますか?」
起こるかもしれない。それどころか木馬ですら悟るかもしれない!
そのことは心配しなくてもよい。
だから、呂祖は言う……
また正しい手順にこだわり過ぎてもいけない。
わずかに注意を払うだけでいい。
背骨が本当にまっすぐ伸びているかどうか、頭が背骨の上にちゃんと乗ってい
るかどうか、両目が呂祖の指示通りに向けられているかどうか……
それにあまりこだわり過ぎてはいけない。
あなたがたの目と呂祖が語っている目とは種類が違う。
中国人とその目のことは知っているだろう。
実のところ、中国人たちはいつも鼻の頭を見ているように見える。
彼らの目は半分つぶっているようだ。
中国人にサニヤスを授けるとき、私は彼らの目を見つめるのに大へん苦労する。
あなたがたは違う種類の目をもっている。人によって目の種類も鼻の種類もそ
れぞれ違っている。
だから、こういった小さなことにあまりこだわり過ぎないこと。
それらはしるしにすぎない。
それらを理解し、吸収したら、自分の道を行くがいい。
自分自身の道を見いだしなさい。
覚えておかねばならない基本的な注意は、ゆったりとくつろいでいなければな
らないということだ。

あれこれ工夫をしすぎるとこの危険が生じる。
私は工夫をしてはならないと言っているのではない。
正しい道は有と無のあいだに等しい距離を保つことにある。
人はちょうど真ん中にいなければならない。
人々は活動的になり過ぎるか、怠惰になり過ぎるかする。
活動的になり過ぎると、不安が――一種のあわただしさ、性急さ、速さ、落ち
着きのなさが起こってくる。
怠惰になり過ぎると、眠気、一種の無気力さ、昏沈が生じてくる。
真ん中にとどまることをつねに判断の基準とするべきだ。
食べ過ぎてはいけない。
腹をすかし過ぎてはいけない。
寝過ぎてはいけない。
睡眠不足もいけない。
つねに真ん中にとどまることを忘れてはならない。
行き過ぎは禁物だ。
あらゆる極端を落とさなければならない。
なぜなら、真ん中にのみ、くつろいだ心の状態があるからだ。

目的を通して無目的を達成することができるなら、ものごとを体得したことに
なる。
この種のバランスを、
努力と無努力、
目的と無目的、
存在と不在、
心と無心、
有為と無為のあいだで達成することができるなら……

目的を通して無目的を――努力を通して無努力を、有為を通して無為を――
達成することができるなら、要点を体得したことになる。
みずからを放下し、超然と乱れず、泰然自若としていればいいのである。
これが基本だ。
そうなれば人は事物の流れとともに流れてゆける。
人は自分を解き放つことができる。
(p333)
また人は誘惑に満ちた世界の餌食になってはいけない。
誘惑に満ちた世界とは、五つの暗い悪魔が遊び戯れる場所だ。
不動の境地と言うと、人はよく枯れ木や冷たい灰を思い浮かべるが、 大地が明
るい春を迎えている姿を思い浮かべることはめったにない。
いいかね、
宗教的な人間にとって最大の課題は深刻になり過ぎないことだ。
宗教的な人間にとって最大の課題は悲しまないことだ。
宗教的な人間にとって最大の課題は否定的にならないことだ。
なぜなら、ふつうはそうなってしまうからだ――宗教的な人間は悲しみに沈み
、ひどく深刻になり、生に対して否定的になる。
彼らは春のことをすっかり忘れてしまう。
彼らは枯れ木や冷たい灰のことばかり考える。
彼らはバランスを失っている。
ときには大地が明るい春を迎えている姿を想起しなければならない。
真に宗教的な人間はユーモアの感覚をもち合わせている。
真に宗教的な人間は誠実ではあるが、けっして深刻ではない。
為すべきことに完全に身を捧げているが、けっして「俺のほうがおまえより高
潔だ」といった態度は取らない、絶 対 に 取らない。
けっして優越感にひたることはなく、謙虚だ。
真に宗教的な人間は雨や風とともに踊ることができる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

385鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/14(木) 23:03:17 ID:1d4drIFg0
何かに拘りすぎればそれもまた障害になるものじゃ。
法にさえ拘れば道を外れてしまうのじゃ。
なにものにも拘らずに進んでいくのじゃ。
その拘らないことにも拘らないようにするのじゃ。
自己が知れようとしたときには何もかも捨てて邁進するがよいのじゃ。

386避難民のマジレスさん:2019/03/14(木) 23:22:42 ID:LC3de7YgO
>>384
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える
より抜粋

子供たちと一緒に微笑み、笑うことができる。
生のあらゆる状況にくつろぐことができる。
それが自由だ。
それは自我エゴからの自由だ。
自我は人を深刻にする。

そのようにして人は暗黒の世界に沈んでゆくのである。
深刻になり過ぎると、暗黒の世界に、否定的な世界に沈んでゆく。

そこではエネルギーは冷え、息は荒くなり、 寒さと衰亡のメッセージが頻繁に
現れてくる。
いいかね。冷淡になってはいけない。
世のいわゆる聖者たちは冷えきっている。
彼らは要点をすっかり取りちがえている。
冷静クールになるのはいいが、けっして冷淡コールドになってはいけない
――この二つには大きな違いがある。
そこにはとても深いパラドックスがある。
私は「涼しいクール」と言う。
それは熱を帯びた情熱と比べれば涼しいが、死の冷たさと比べたら温かい。
死の冷たさと比べれば温かいが、ぎらぎらした生への欲望に比べれば涼しい。
それは温かくもあり涼しくもある。
真に宗教的な人間は情欲をもたないがゆえに涼しい。
彼は悲しんだり深刻になることがないので温かい。
そういう状態に長くとどまっていると、植物や石の世界に入ってゆく。
あまりに冷え過ぎると、やがてあなたは岩のようになり、無意識になってしま
う。
あなたは人間から転落する。
私の観察によれば、巷の聖者の多くは人間から転落してしまっている。
彼らは超人になるのではなく、人間以下に落ちてしまった。
彼らは岩や石の世界に属している。
(p335)

また人は数知れない誘惑に惑わされてはならない。
これが起こるのは、静かな境地がはじまった後、突然 あらゆる妄想のつながり
が続々と現れてくるときである。
それを打ち破ろうとしても、どうにもならない。
その妄想を追うと、気分が軽くなったような感じがする。
精神分析が道を誤ったのはここだ。
精神分析は自由連想の技法になってしまった。
あなたはどこまでもつつ゛けてゆくことができる。
想念が次から次へと現れ、それが無限につつ゛いてゆく。
次から次へと現れる想念から身を引いたままでいなければいけない。
想念はやって来て、四方からあなたを取り囲む。
想念は雲に似ている。
わずかに顔をのぞかせていた青空さえも消えてゆく。
そして想念ではち切れそうになると、人は本能的に闘いはじめる。
瞑想とは無念無想の状態であることを読んで知っているからだ。
だが、
闘ってもけっして無念無想にはなれない。
闘っても負けるだけだ。
闘うことそのものが敗北の原因になる。
影と闘うことはできない。
闘っても負けるだけだ。自分の影と
闘おうとしたら、あなたは負けるしかない――
影がとても強いからではなく、
影など 存 在 し な い からだ。
存在しないものと闘って、どうして勝つことができるだろう?
想念は影だ。闘ってはいけない。
闘わなければ、もうひとつの道が開かれる――精神分析が選んだのはそれだ。
その場合には、想念とともに動き、想念を自由に漂わせ、自由に連想を起こら
せる。
ひとつの想念が別の想念に結びつき、またその想念が別の想念に結びついて次
々と連想が起こり、それが延々と果てしなく、うんざりするほどつつ゛いてゆ
く。
これには一種のくつろぎに似た感覚がともなう。
精神分析が終わると、人々が安堵し、救われた気持ちになるのはそのためだ。
救われたわけでもないし、助かったわけでもない。
たんに闘いが消えただけだ。
あなたが緊張するのは闘うからだ。
闘わなければ緊張は消える――そして緊張が消える ことで、あたかも救われた
ような気分になる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

387鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/15(金) 22:44:25 ID:1d4drIFg0
想念が次々に浮かんで止まらないのは初心の内にあることじゃ。
それをただ眺めるようにしていればやがては止まるのじゃ。
無理に戦ってはいかんのじゃ。
それがこつなのじゃ。

388避難民のマジレスさん:2019/03/16(土) 00:51:00 ID:LC3de7YgO
>>386
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

ムラ・ナスルディンは、二サイズも小さい、きちきちの靴をはいていた。
彼は一日中不平をこぼし、靴に腹を立てていた。
ある日、私は彼に尋ねた。
「靴を変えればいいじゃないか。どうして文句ばかり言っているんだい? 誰も
その靴をはけと無理強いしていないだろう。新しい靴を買えばいいじゃないか」
彼は言った。
「だめだ!絶対にいやだ!」
私は言った
「なぜだい?」
彼は言った。
「それが唯一の慰めだからだよ。一日中靴と格闘したあと、家に帰って靴を 放
り出し、ベッドに横になると、とても気分がいいんだよ!」
それは気分がいい。
想念と闘っても勝ち目がないので、闘うことをやめ、 想念を自由に漂わせ、想
念とともに動いてゆくと、気分がよい。
精神分析の 秘密はひとえにそこにある。
精神分析はまったく助けにならない。
闘いをやめさせるから、気分がよくなるだけだ。
呂祖は言う。
「どちらも正しくない。闘う必要はないし、 想念を野放しにして、その後を追
う必要もない。 あなたは見守る人、目撃者のままでいればいい」
これは主人が召使になってしまったことを意味する。
想念の後を追えば、主人が奴隷になってしまう。
もしこのような状態に長くとどまっていると、 幻想に満ちた欲望の世界に入っ
てしまう。
主人の立場を取りもどさなければならない。
あなたは奴隷ではなく主人にならねばならない。
主人であるとはどういうことだろう?
目撃者でいることが主人であることだ。
そこにある想念を見守りなさい。
穏やかに、静かに、見守りなさい。
想念が来ては去るにまかせなさい。
想念が現れては消えるにまかせなさい。
あなたはただ気つ゛いている――
想念が現れ、とどまり、去ってゆく――
すると、まもなく想念が現れる回数がどんどん減ってゆくポイントが来る。
そしていつの日か、すきまが現れ……
いっさいの想念が消えている。
そのすきまのなかで、最初の神の体験が起こる。

最善の場合には、天国に生まれ、最悪の場合には、野狐の世界に生まれる。
確かに、こういった野狐の霊は有名な山々に住み、風や月、花や果実を楽しみ、
珊瑚のような樹や宝石のような草を楽しんでいるが、果報が尽きれば、 再び混
乱の世界に生まれ変わるのである。
瞑想がうまく進むと、あなたは天国に、永遠の至福のなかに生まれる。
しくじり、道をはずれると……道家では、そうして道をはずれることを、
最悪の場合には、野狐の世界に生まれる、と表現している。
野狐とは詩人の精神スピリットだ。
野狐とは空想力に富んだ精神のことだ。
瞑想の途中でしくじっても、何かが得られる。
あなたは樹や花、世界やその美しさを前よりももっと楽しむことができるよう
になる。
だが、やがて瞑想によってつくりだされたエネルギーは尽き、あなたは昔の混
乱に舞いもどらざるをえなくなる。
いいかね、瞑想がうまく進むと、喜びは永遠にあなたのものになる。
だが、失敗してもすばらしい喜びや詩の瞬間がいくつかは訪れる。
瞑想をしくじった者は詩人になる。
瞑想を達成した者は見者になる。
見者は永遠の詩人であり、詩人はつかのまの詩人だ。
だから、ときどきこういうことが起こる。
あなたは瞑想を少しかじるが、気分が高揚するとやめてしまう。
あなたはすべてが達成されたと思い込む。
緑の樹も赤い薔薇も鮮やかさを増し、恋はすばらしく、様々なことが起こりは
じめている――もう面倒なことはやめよう。
だが、つくりだされたエネルギーはまもなく尽きる。あなたは野狐になる。
世界中で薬物ドラッグによって生み出されているものはそれだ。
薬物は野狐しか生みださない。
だが、瞑想も、完結しなければ、薬物と変わらないものになる。
ひとたび決意したら、全身全霊で関わらねばならない。
あなたは何があってもその 果 て ま で 行かねばならない。
それは挑戦だ。この挑戦を受け入れ、内なる探求の最も美しい旅に出かけなさ
い。
そして到達するまで、台風の目に入るまで、
けっして途中で止まってはいけない。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

389鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/16(土) 22:53:09 ID:1d4drIFg0
全てを見ていながら、見るもの、見る対象に関わらないでいることで人は見る者になるのじゃ。
そして見ているだけならば思考が止む時が訪れる。
その時、人は思考が無くても意識はあることがわかるのじゃ。
そのようにして自分とは思考ではないことが知れるのじゃ。
思考のもたらす苦が無くなり、思考が無くなる不安も無いじゃろう。

390避難民のマジレスさん:2019/03/17(日) 00:39:46 ID:LC3de7YgO
>>388
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華
より抜粋

呂祖師は言った。
様々な種類の確証の体験がある。
人は小さな要求に満足せず、 生命あるものをすべて救済せんとする高邁こうま
いな決意をもたなければならない。
軽薄で無責任なこころに陥らず、みずからの言葉を行為によって 実証するよう
努力しなければならない。

静けさのなかで、精神は途切れることなく大いなる喜びにあふれ、 酔ったよう
な、湯を浴びたような感じがつつ゛く。
これは光の原理(陽)が全身を巡って調和しているしるしだ。
このとき黄金の華の蕾つぼみが芽生えはじめる。
さらにすべての窓が静まり、銀色に輝く月が中天にかかり、 この大地は明るい
光に満ちた世界のように感じられてくる。
これはこころハートの本体が開き、澄んできたしるしである。
これは黄金の華が開いてゆくしるしである。

さらに、全身に力がみなぎり、嵐も霜も恐れなくなる。
人々が不快に感じるものごとに出会っても、 精神の種子の明るさが曇ることは
ない。
黄金で家を満たし、白い宝玉で階段をつくるようなものだ。
朽ち果て腐臭を放つこの世の事物も、 真のエネルギーの一息に触れると即座
によみがえる。
赤い血はミルクに変わり、もろい肉体は純金やダイヤモンドに変わる。
これは黄金の華が結晶したしるしである。
光の輝きは次第に結晶化する。
こうして大いなる台座が出現し、やがてその上にブッダが現れてくる。
黄金の本性が現れるとき、それはブッダに他ならない。
ブッダとは大いなる悟りを得た黄金のように輝く聖者だからである。
これは大いなる確証の体験である。
寓話をひとつ……
ある日のこと、ヴィシュヌ神は遠い山の深い洞窟に座り、弟子と一緒に瞑想し
ていた。
瞑想が完成したことにいたく感動した弟子は、ヴィシュヌの足もとにひれ伏し
、感謝のしるしに何かの奉仕をさせて欲しいと言った。
ヴィシュヌは笑いながら首を振った。
「私が無償で与えたものに、行為で報いることほどむずかしいことはない」
弟子は「主よ、どうか何かのお役に立てさせてください」と言った。
「よかろう」とヴィシュヌは優しい声で言った。
「冷たくてうまい水が飲みたい」
「すぐにもってまいります」
――弟子はそう言うと、嬉しそうに歌を歌いながら山を駆けおりていった。
やがて彼は美しい谷の端にある小さな家の前に来て、戸を叩き
「私たちはさすらいのサニヤシンで、この世に家をもたない者です」
すばらしい乙女が現れて、崇敬の念もあらわに彼を見つめた。
「まあ」と彼女はささやいた。
「遠い山の頂きであの聖者にお仕えしていらっしゃるのですね。どうぞ、なか
にお入りになって、祝福を授けてくださいな」
「申し訳ありません」と彼は言った。
「急いでいるのです。水をもってただちに師のもとへ帰らなければならないの
です」
「でも、祝福をしてくださっても、あのお方はお怒りになりませんわ。
あのお方は偉大な聖者なのですから、その弟子であるあなたは、私たちのよう
に幸運に恵まれない者たちを助けてくださらなければなりません……どうかお
願いです」と彼女はくり返した。
「この貧しいわが家を祝福してください。あなたをここにお迎えして、あなた
を通して主にお仕えできるなんて、
本当に光栄ですわ」
さらに物語はつつ゛く。
彼は態度をやわらげ、家のなかに入り、そのなかにあったすべてのものを祝福
した。
やがて夕食の時間になったので、まだ帰らずに、彼女が料理したものを食べて
、それを祝福する(食べることが祝福になる)ように勧められた。
そして夜も更けてきたので、「山までの道は遠いし、暗闇で足を滑らせ、水を
こぼすかもしれません。今夜はここで寝て、朝早く旅立てばいいではないです
か」と勧められた。
ところが朝になると、誰も乳搾りを手伝う者がいなかったので雌牛が苦しみだ
し――雌牛はクリシュナ神の聖なる使いであり、苦しませてはならない――
「一度でいいからあなたが手を貸してくれるならとてもありがたいのですが」
と頼まれた。
こうして日々が過ぎていったが、彼はまだとどまっていた。
彼らは結婚し、たくさんの子供をもうけた。
彼は土地を耕して、すばらしい収穫をあげた。
さらに土地を買って穀物を栽培した。
まもなく近隣の人々が助言や手助けを求めて会いにくるようになった。
彼は無償でそれを与えた。一家は繁栄した。
彼の努力で寺院が建てられ、学校や病院がジャングルを切り開いてつくられた。
谷はこの世の宝石になった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

391避難民のマジレスさん:2019/03/17(日) 10:09:27 ID:LC3de7YgO
>>390
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

かつては荒野でしかなかった場所に調和がみなぎっていた。
その繁栄と平和の知らせが国中に広がるにつれ、人々は谷に殺到した。
そこには貧困も病気もなく、人々はみな働きながら神への讃歌を歌った。
彼は子供たちが大きくなり、孫たちができるのを見守っていた。
平穏無事な日々がつつ゛いていた。
ある日のこと、谷を見下ろす低い丘に立ちながら、老人はここにやって来てか
ら起こったすべてのことを思い起こした。見渡すかぎり農園が広がり、村は豊
かに繁栄していた。
老人は満足した。
が、そのとき突然、山津波が押し寄せ、みるみるうちに村中を飲み込んでしま
った。
あっという間に、すべてが消えてしまった。
妻も子供も農場も学校も近所の人々も――すべてが飲み込まれてしまった。
彼は茫然として、眼前でくり広げられる大災害を見つめていた。
見ると、師のヴィシュヌが激流の上に乗っていた。
ヴィシュヌは、彼を見ると悲しげな笑みを浮かべて言った。
「私の水はまだかね!」
これは人間の物語だ。
これは万人に起こっている。
私たちは完全に忘れ去っている――
なぜここにいるのか、
いったい何をしにやって来たのか、
何を学び、何を得、何を知るためなのか、
自分は誰であり、どこから来てどこへ行くのか、
私たちの源はどこにあるのか、
生、肉体、現世 への旅を引き起こしたものは何なのか、
そして今まで に何を達成してきたのかを完全に忘れ去っている。
もし山津波がやって来れば――それは必ずやって来る。 それはつねにやって来
ている、その名前は死だ――すべてが消えてしまう。
子供、家族、名前、名声、金、権力、地位…… 一瞬のうちにすべてが消え去り
、あなたは たった独りで、完全に独りぼっちで取り残される。
あなたの業績はすべて山津波によってかき消されてしまう。
築きあげてきたものはすべて夢に他ならなかったことが明らかになる。
そしてあなたの手も、こころハートもからっぽだ。
が、あなたは神と顔を合わせなければならない、
<存在>と顔を合わせなければ
ならない。
<存在>はあなたを待ちつつ゛けている。
最初に頼んだものをあなたがもち帰ってくる ことを延々と待ちつつ゛けている

だが、あなたは眠りこけていて、千とひとつの夢を見ている。
今まであなたがやってきたことはすべてみな夢に過ぎない。
なぜなら、死がやって来れば、すべて押し流されてしまうからだ。
実在するものは死によっても押し流されることがない。
実在リアリティは死を知らない。
実在は死ぬことがない。
実在は不死だ。
実在は永遠だ。
死にゆくものはすべて、死ぬこと によって本物ではなかったことが、 幻想、
マーヤ、夢――すてきな夢かも しれないが夢でしかなかったことが判明する。
あなたは地獄の夢を見ているかもしれないし、天国の夢を見ているかもしれない

どちらにしても大差はない。
目覚めた瞬間、あなたは自分が完全にからっぽ であることに気つ゛くだろう
――それは仏陀が知っている 肯定的な意味の空くうではなく、否定的な意味の
空虚さだ。
自我エゴの消滅ではなく、 自我がなし遂げようと努めてきた いっさいのもの
の消滅…… 自我でいっぱいだけれど、 達成もなく、了解りょうげもなく、知
識もない状態。
だが、 自我が知識を求めていないというわけではない。
自我は知識を求めている。
自我は膨大な知識をそなえ、情報を集めている。
自我は偉大な収集家だ。
金を集め、情報を集め、ありとあらゆるものを集める。
自我は蓄えることを信奉している。
自我とは貪欲、まさに貪欲そのものに他ならない。
自我とは貪欲の別名だ。
それは所有したがる が、あなたが手にしているものはすべて消えてゆく。
そしてあなたがやってきたことは、すべてみな夢のなかの仕業だった。
目覚めた瞬間、あなたは驚くだろう。
どれだけ多くの時間を無駄にしてきたことか、 どれだけ多くの生を夢見ながら
過ごしてきたことか、 どれだけ多くの夢を生きてきたことか。
探求者であるというのは、 この夢から出てくること、 この夢見る状態の意識
から出てくることをいう。
探求者であるということは、
目覚めようと努力することだ。
目覚めるとは覚者ブッダになることだ―― 油断なく醒め、意識し、内なる光に
満たされることで、 無意識がすべて消え、眠りがすべて消え、眠りの闇が内側
から消え、 あなたは十全に目覚めている。(´・(ェ)・`)
(つづく)

392避難民のマジレスさん:2019/03/17(日) 10:17:59 ID:LC3de7YgO
>>391
弟子の瞑想は完成してなかったのでありますね。
(´;(ェ);`)つ

393鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/17(日) 23:05:01 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、まだこの世に未練があったのじゃ。

道教では気が集まって丹になり、更に凝縮して陽神になるというのじゃ。
黄金の花はその兆しなのじゃ。
そして陽神は体を抜け出すのじゃ。
ヨーガでは脱身というのじゃ。
仏教でも意生身というのじゃ。
気の修行が完成した証なのじゃ。

394避難民のマジレスさん:2019/03/17(日) 23:23:30 ID:LC3de7YgO
>>391
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

こんなことがあった…… 偉大な占星術師が仏陀の姿を目にした。
彼はわが目を疑った。
その身体、 身体を取り巻いているその黄金のオーラ、その美しい顔――湖のよ
うに静かで、 湖のように深く澄みきった、その水晶のような透明さ、その歩く
優美な姿。
彼は仏陀の足もとにひれ伏して言った。
「私は占星術と手相を研究してきました。私は生涯をかけて人間のタイプを 研
究してきました。ですが、あなたのような方にお会いするのははじめてです!
あなたはどのようなタイプに属しておられるのでしょう?あなたは地上に 降り
立った神なのですか?ともてこの世に属する方のようには見えません。 あなた
には重さが微塵みじんもありません。あなたは軽々としていて重さがない。 あ
なたはどのようにして地上を歩かれるのですか? あなたは重力の作用を受けて
おられるようには見えません。 あなたは地上で何が起こっているかを見るため
に天国から降りて来られた神 なのですか?神の使者なのですか?預言者なので
すか?あなたは誰なのです?」
すると仏陀は言った。
「私は神ではない」
占星術師は尋ねた。
「では、インドの 神話に出てくるヤクシャなのですか?」――ヤクシャという
のは神より一段低い 存在だ。
仏陀は言った。
「いいや、私はヤクシャでもない」
「では、あなたは誰 なのです?あなたはどういう種類の人なのですか?あなた
をどう分類すればいい のでしょう?」
仏陀は言った。
「私は男でもなければ女でもない」
占星術師は途方に暮れてしまい、こう言った。
「それはどういう意味ですか?
あなたは動物だとでも……動物の精、樹の精、山の精、川の精だとでも おっし
ゃるのですか?」――インドの神話は汎神論的だから、それはあらゆる 種類の
精霊を信じている。
「では、あなたは誰なのです?薔薇の精なのですか?あなたはとても美しく、
とても無垢に見えます」
すると仏陀は言った。
「いいや、私は動物でもなければ 、樹や山の精でもない」
「では、あなたは誰なのですか?」
占星術師は困り果てて しまった。
すると仏陀は言った。
「私は醒めた意識に他ならない。あなたは私を 分類することができない。なぜ
なら、分類はどれも夢にしか当てはまらないからだ」
自分は男であるという夢を見ている者もいれば、 自分は女であるという夢を見
ている者もいる。
そのようにして夢はどこまでもつつ゛いてゆく。
分類は夢の世界に属している。
目覚めると、人はその目覚め、 覚醒の本質そのものになっている。
人は目撃者、純粋な目撃者以外の 何ものでもない。
雲はすっかり晴れている。
男や女、動物、神、樹といった"雲"―― どんな雲や形もひとつ残らず消え去
っている。
人はまさに形のない醒めた意識、終わりもなく 果てもない広大無辺な澄んだ大
空になっている。
この醒めた意識には雲がなく、ただ青空が広がっている。
これが肯定的な虚空であり、これがにゃはんニルヴァーナだ。
それから否定的な虚空がある。
あなたは雲でいっぱいになっている―― すっかり雲に覆われて、かすかな青空
ものぞめない。
あなたは知識でいっぱいに なっている――いっぱいになり過ぎて、瞑想のため
の空間が少しも残されていない。
何も知らないのに、知っているつもりでいる者――よく「パンディット」 とか
「学者」と呼ばれている連中は愚か者だ。
彼らを避けなさい。
何も知らず、自分が知らないということも知らない のは、無垢な人であり、子
供だ。
彼を目覚めさせるがいい。
何も知らず、自分が知らないということを知っている のは、覚者ブッダだ。
彼に従いなさい。
「私は誰でもない」というこの自覚に到る ことが、覚者ブッダになるというこ
とだ。
ブッダとはある人物の名前ではない。
ブッダとは 誰 で も な い 状 態 を表す名前だ。
ブッダは人物ではない。
ブッダとはまさに空間、開け放たれた空間、 開放状態のことであり、その開放
状態、開け放たれた大空を表す名前だ。
自分の想念マインドを見守りなさい。
どれほど多くの夢がつつ゛いていることか。
あなたは夜、夢を見るだけではなく、絶えず夢にひたっている。
昼間、目覚めているつもりでいるとき ですら、夢が途切れることはない。
いつでも目を閉じてくつろぎさえすれば、 ただちにそこを漂っている夢が見え
てくる。
夢はつねに底流のようにそこにある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

395避難民のマジレスさん:2019/03/17(日) 23:40:30 ID:LC3de7YgO
>>393
鬼和尚は脱身できますか?
(´・(ェ)・`)つ

396鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/18(月) 21:20:55 ID:1d4drIFg0
↑誰でもできるのじゃ。
実際に寝ている時は誰でも脱身しているのじゃ。
肉体の意識から離れているのじゃ。
自分ではわからないだけなのじゃ。
意識的にできるようになるのが脱身なのじゃ。
本当は意識が拡大しているのじゃ。
肉体に囚われない意識に広がるのじゃ。

397避難民のマジレスさん:2019/03/18(月) 22:30:17 ID:LC3de7YgO
>>396
ふむふむ。
で、その脱身を気を体内に巡らすことができるように、意図的に操作できるようにもなるのでありますか?
(´・(ェ)・`)つ

398避難民のマジレスさん:2019/03/18(月) 22:43:47 ID:LC3de7YgO
>>394
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

夢はけっしてあなたのもとを離れず、絶えずそこにあって、 あなたの実存に影
響を与えつつ゛けている。
夢は意識にはのぼらない。
あなたはそれに気つ゛いていないかもしれない、 その存在さえ知らないかもし
れない。
だが、夢は絶えずそこにある。
私に耳を傾けているときでさえ、 その映画、その夢のドラマはつつ゛いている。
私が言っていることが耳に入らないのはそのためだ。
それはまずあなたの夢を透過しなければならないために歪んでしまう。
あなたは語られてもいないことを聞く。
あなたの夢が歪ませ、操作し、投影を起こし、ものごとを変えてしまう。
私があることを言うと、あなたはまったく別のことを聞く。
そしてこれらの夢は内側で強い力を振るっているので、 あなたはその夢をどう
扱えばいいのかわからない。
実のところ、夢にあまりにも深く同一化しているので、 自分がそれではないこ
と、見守ることができ、距離を保つこと ができ、傍観者でいられることがわか
らなくなっている。
あなたは夢に同一化し過ぎている。
先日、私は気の毒なハビブのことを話した。
彼はユング派の分析家であることに こだわるあまり、何が起こっているのか見
ることができずにいる、と。
その話をした のは、ほんの二日前のことだ。
私は九時四十五分に話を切りあげたが、彼はわずか 十分後の九時五十五分に手
紙を書いてきた。
昨日はもっとひどかった。
私が話している最中に彼は手紙を書いていた!
私が彼のことを話しているあいだ、彼は十分も待つことができなかった。
私が 「少し待ちなさい。そんなにあわてずもう少し我慢して、それに瞑想して
ごらん。 あなたはこういったことをこの場で理解することはできない。あなた
は理解力、 明晰さ、識別力がある状態ではないからだ」と言っていたのはその
ことだった。
だが、私の話の最中に、彼は手紙を書きはじめた。
私が話しているさなかに 、彼は手紙を書いていた。
さあ、そんな状態で何を書くことができるだろう?
私は語っていなかったのと、話してすらいなかったのと同じだ。
彼は自分自身の内なるつぶやきを聞いていたにちがいない。
そこから手掛かりを得ていたにちがいない。
彼は一言も理解することができなかった。
彼の夢はあまりにも強過ぎたのだろう。
彼は知識の重荷を背負っている。
私は「ユング派の自我エゴを落としなさい」と言っていたのに。
だが、何が起こったと思うかね?
ハビブは死んでしまった――彼はユング派の自我エゴを落とす よりもサニヤス
を捨ててしまった。
彼の耳にはそう聞こえたのだ。
私が「ユング派の自我エゴを落としなさい!」と言ったとき、彼は別のことを
聞いた。
彼の耳にはこのように聞こえた。
「では、サニヤスは私には向いていない。私には向いていない。私には 知識は
落とせない。それは私がもっているすべてのものだ。それに、どうやって 落と
せばいいのだろう?どうやって思考マインドを脇によければいいのだろう? そ
んなことはできっこない!それなら、サニヤスを落とす方がましだ」と。
彼はサニヤスを落とした。
もはやハビブは存在しない。
彼は夭逝してしまった。
実のところ、彼は流産してしまった。
何が起こったのだろう?
要点が見抜けなかったのだろうか?
誰がその邪魔をした というのだろう?
彼の頭マインドは雑念だらけになっていたにちがいない。
本を読み、蓄積してきたいっさいのもの――彼はそれに執着し過ぎていた。
彼は探求し、探索するためにここにやって来た。
自我を手放す用意が微塵もないのに、 それが探求と言えるだろうか?
それが探索と言えるだろうか?
人は往々にして、自我エゴに何かをつけ足すことができると、 自分は霊的な探
求者であると思い込むことがある。
あなたがたの言う霊的な旅というのは、 巧妙な自我の幻想にすぎない。
人々は 自我をもっと満足させたい、 自我をもっと強くしたい、 自我にもっと
活力を与えたい。
彼らは自我を聖なる霊光オーラで包みたい。
が、聖なる霊光は 自我が消えてはじめて現れるのであり、この二つは共存できな
い。
人を覚醒させることのできる教えに巡り合うのはまれなことだ。
人を揺さぶり起こし、深々と根を下ろした長い長い夢から 引きずりだせる師マ
スターに巡り合うのはまれなことだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

399鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/19(火) 23:30:07 ID:1d4drIFg0
>>392 そうじゃ、できるのじゃ。
本来意識は肉体に制限されているものではないからのう。

誰もが自分について幻想を見ているのじゃ。
肉体が自分とか知識が自分とかのう。
仏教とかタオとかヨーガはその夢から覚ましてくれるものなのじゃ。
そのような貴重な教えは稀にしか逢えないのじゃ。

400避難民のマジレスさん:2019/03/20(水) 05:24:56 ID:LC3de7YgO
>>398
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

師との遭遇は希有な現象であり、 それを取り逃がしてしまうことはたやすい。
簡単に取り逃がすのは、 大鎚おおつ゛ちで叩きつぶしてもらえるよう 師の前
に頭を差し出すことが、師とともにある ための第一条件だからだ。
師とは大鎚だ。
人々は勘違いをして、師が「よし!君は偉大な霊的探求者だ」と言ってくれる
状況 を探し求めている――彼らは師が自我エゴを支えてくれるものと思い込ん
でいる。
今は亡きハビブが望んでいたことはそれだ。彼は私にこう言って欲しかった―― 「君は偉大な霊的探求者だ。君がしてきたことはまったく申し分なく、寺院の基礎は 完成している。


39黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華2
より抜粋

君はほとんど用意ができており、ほんのわずかのものが加われば、 すべてが完成するだろう」と。
彼が求めていたもはそれだ。
が、それはありえない。
なぜなら、 まず最初に私はあなたを壊さなければならないからだ。
完全に壊れてはじめて、あなたは目覚めることができる。
が、壊れることは辛く、痛みに満ちている。
有名なユダヤ教神秘主義の諺ことわざがある
―― 神はやさしくない。神は叔父さんではない。神は地震だ! 師マスターもま
たそうだ――
師は叔父さんではない。
師はやさしくない。
師は地震だ。
すべてを余すところなく賭ける覚悟のある者だけが、 自我エゴとして死ぬ用意
のある者だけが、生まれることができる。
「あなたがたは肩にみずからの十字架を担がなければならない。 私について来
たければ、肩にみずからの十字架を担がなければならない」 と言うとき、イエ
スが言おうとしているのはそのことだ。
カビールは言った。
「本当に私について来たければ、ただちに家を焼き払いなさい!」
彼の語る家とは何だろう?
人は再び広い大空のもと、星、太陽、月のもとに出られるように、 今まで暮ら
してきた夢の家を焼き尽くさなければならない。
そうすれば 再び風や雨に打たれることができ、 再び大自然にハートを開くこ
とができる――神とは 最も深く隠された大自然の中心に他ならないからだ。
神は知識というよりも、いわば無垢な状態に似ている。
知識ではなく、 完全に無垢になることによってあなたは神を知る。
だが、それは自我エゴにはとてもむずかしい…… これらの言葉を聞くことでさえむずかしい。
自我はただちにそれを歪め、操作し、すり変え、色つ゛けし、 上塗りをし、み
ずからを壊すどころか、それを支えるものに仕立てあげる。
自分は死んだと思い込んでいた男の話があるが、これを見れば 自我がどのよう
に働くかがよくわかる。
彼は精神科医に助けを求めに行った。
精神科医は知っているテクニックをすべて 使ってみたが、役に立たなかった。
最後に精神科医は患者の論理に訴えかけてみた。
「死人は血を流しますか?」と医者は尋ねた。
「いいや、もちろん流さない」と 患者は答えた。
「なるほどね」と医者は言った。
「では、調べてみましょう」 医者が鋭い針を取り出して、患者の皮膚を刺すと
、おびただしい血が流れはじめた。
「ごらんなさい!さあ、なんとおっしゃいますか?」と医者が尋ねた。
「おや、なんてことだ!」と患者は答えた。
「驚いたなあ!死人というのは血を流すものなんだ!」
自我エゴはこのように働く、頭マインドはこのように働く。
つまりものごとを証拠、裏つ゛け、餌に変えて使ってゆく。
自我は実に微細であり、実に巧妙な手段を取って、あなたに 「自分は正しい」
と思い込ませることができる。
それはありとあらゆる策を弄して
「正しいのは私であり、私に逆らうものはすべて間違っている」
と思い込ませようとする。
覚えておきなさい。
自我が正しいことなど け っ し て ありえない! そして、自我に逆らうもの
はすべて……そのチャンス を逃さずに、自分の自我を壊すための機会に使いな
さい。
自我を壊すことができるとき、それは 大いなる祝福の瞬間となる。
なぜなら、あなたがいないときに、神が存在し、 あ な た が い な い と き
に、あ な た が 存 在 す る からだ。 これは生と<存在>における最大のパラドックスだ
―― あなたがいないときに、はじめてあなたは存在する。 ヴィシュヌの気が進
まなかったのはそのためだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

401鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/20(水) 23:09:34 ID:1d4drIFg0
師匠が道標として役に立つのは弟子に準備が出来たときとよく言われるのじゃ。
その準備とは自分を含めた全てを捨てる準備なのじゃ。
そのような準備が出来た者は稀なのじゃ。
しかし、死によって全てが奪い去れることを自覚すればその準備もできるようになるのじゃ。
いずれ全てなくしてしまうものを捨てることで永遠を獲得するのじゃ。

402避難民のマジレスさん:2019/03/21(木) 01:32:10 ID:LC3de7YgO
>>400
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

ヴィシュヌは弟子に言った。
「私が無償で与えたものに行為で報いることほどむずかしいことはない」
――なぜだろう?なぜそれが一番むずかしいのだろう?
師は弟子がまだ夢のなかにいることを、まだ自我 エゴのなかにいることを知っているからだ。
実のところ、「お返しをしなければいけない。これほどたくさんのことをして
頂いた のだから、あなたに何かをし
てさしあげたい」という考えそのも
のが自我の思いだ。
弟子が自我を落としてしまったら、 誰が返礼するというのだろう?
いったい誰が? 「ありがとう」と言う者さえいるだろうか?
誰もいない。
完全な沈黙だけがある。
その完全な沈黙のなかで、師は顔をほころばせる。
弟子はこの完全な沈黙を通して感謝を表している。
ある男が仏陀のもとへ行った。
彼は人類のために何かをしたかった。
彼は大金持ちだった。
彼は仏陀に尋ねた。
「人類のために私にできる ことを教えてください。私にはたくさんの金があり
ます。子供もなく、 妻は死に、独り身ですから、何でもすることができます」
仏陀はとても悲しげな目で男を見つめて沈黙していた。
男は言った。
「なぜ黙っておられるのですか?なぜ話をしてくださらないのですか? あなた
はいつも慈悲について語っておられます。私には何でもする用意があります。
おっしゃってくだされば何でもします。大丈夫です――私には充分な金が あり
ますから!どんな仕事でも与えてくださればやり遂げます」
仏陀は言った。
「あなたが言っていることはわかるが、私は悲しいのだ。 あなたはものごとを
為すことができない。なぜなら、 あなたはまだ存在していないからだ。 何かを
為すことができるようになる前に、人は まず存在するようにならなければいけ
ない。 問題はどれだけ金をもっているかではなく、 あ な た 自身がいないこ
とにある!」
慈悲心という質は実存の影なのだが、その実存が欠けている。
自我エゴはけっして慈悲心をもつことができない。
自我は非情だ。慈悲のゲームを演じているときでさえ、自我は非情だ。
自我が消えてしまうと……ときには 自我のない人がとても非情に見えること
がある。
が、そうではない。
彼は非情ではありえない。
彼のその非情さですら深い慈悲にちがいない。
禅師が弟子の頭を棒で打つのは非情ではない。
それはとほうもない慈悲だ。
禅師が弟子に飛びかかって殴るのは非情ではない。
なぜなら、ときおり師の一撃によって、一瞬のうちに、 稲妻が闇を切り裂くよ
うに弟子が光明を得ることがあるからだ。
仏陀は言った。
「あなたには何もできない。 金があることは知っている。あなたのことは耳に
していた。だが、あなたを のぞき込んだとき、私はひどく悲しくなった。あな
たは何かをしたがっているが、 何かを為すことができる要素が欠けている。あ
なたは夢を見ることしかできない」
だからヴィシュヌは言う。
「私が無償で与えたものに行為で報いることほどむずかしいことはない」
ゲオルギー・グルジェフが弟子たちに言っていたのはそのことだ。
彼がP・D・ウスペンスキーに最初に言ったことはそれ、まさにそれだった。
ウスペンスキーは偉大な探求者、知識の探求者だった。
はじめてグルジェフに 会いに行ったとき、彼はすでに世界的に有名な数学者、
思想家だった。
彼が書いた 最も優れた本『テルティウム・オルガヌム』はすでに出版されてい
た。
それは類まれな本だ――著者がまだ覚醒していなかったという意味でもまれだ。
こんなに美しい作品をどうして書くことができたのだろう?
覚醒した人間にしか わからないような誤りが二、三あるが、ふつうの人間なら
まず気つ゛かない。
それはまるでブッダが書いたかのように、ほとんど完璧だ。
だが、ゲオルギー・グルジェフはその本に目を通すと、あちこちの 頁をぱらぱ
らとめくって、それを部屋の外へ投げ捨て、こう言った。
「まったくのたわごとだ! 君は何もわかっちゃいない! そもそも君はいな
いのだ。 その君にどうして知ることができるだろう? 人はまず存在しなければ
ならない。 そこではじめて人は知ることができるようになる」
ウスペンスキーは師マスターを探して東洋をくまなく旅した人物だった。
これは美しい物語であり、まるで寓話のようだ。
彼はインドを旅した。彼はセイロンやビルマへ行った。
彼は僧院やヒマラヤの洞窟で 暮らしたことがある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

403鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/21(木) 23:47:53 ID:1d4drIFg0
法華経には菩薩が何万と集まろうと仏陀の智慧はわからないと書いておるのじゃ。
その通りなのじゃ。
自ら到達しなければ悟りの智慧はわからないのじゃ。
どれほど知識を集めても悟らない限り仏陀の智慧には届かないのじゃ。

404避難民のマジレスさん:2019/03/22(金) 02:42:53 ID:LC3de7YgO
>>402
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

ラマやスワミやたくさんのヒンドゥー教の神秘家に会ったが、 誰も彼を満足さ
せることができなかった。
なぜか?
それは彼らが語ったことはみな 経典の焼き直しに過ぎず、ウスペンスキーがす
でに学んでいたことだからだ。
彼ら自身の言葉はひとつもなかった。
失意のうちに、彼は帰途についた。
彼はロシアに、かつて暮らしたペテルブルグにもどってきた。
ペテルブルグのある喫茶店で、彼はグルジェフに会った。
その最初の 出会いのとき、師のまなざしを見て、ウスペンスキーは悟った。
「この男こそ私が捜していた人物だ。私はこの町にずっと暮らし、この喫茶店
に 何年も通いつつ゛けてきたが、探し求めていた人がこの喫茶店に坐っている!
セイロン、ネパール、カシミールなど遥か遠くの場所で探しつつ゛けていたのに

グルジェフは、まずウスペンスキーにこう言った。
「自分が存在しないかぎり、君はものごとを知ることができない。 自分が存在
しないかぎり、君はものごとを為すことができない」
ところがパラドックスは、 自分が存在しなくなってはじめて、 「私」という
言葉が通用しなくなってはじめて、 人は存在するようになるというところにある。
(p355)
これらの経文は、覚者ブッダの境地をつくりだすための鍵だ―― あなたは覚醒
そのものであって、何者でもなく、 光に満ちてはいるが、完全にからっぽだ。
さあ、経文だ――
炉祖師は言った。
様々な種類の確証の体験がある。
確証の体験は、あなたが我が家に近つ゛きつつあるしるしだ。
人は確証の体験を理解し、それに気つ゛いていなければならない。
なぜなら、そこから勇気と希望が得られるからだ。
それは活力を与えてくれる。
あなたは探求が無駄ではないことを、
朝がすぐそこまで来ていることを感じるようになる。
まだ夜は暗いかもしれないが、最初の確証の体験がこもれ日のように差し込み
はじめている。
星が消えてゆき、東の空が赤く染まりつつある。
太陽はまだ昇っていないが、空はもう明るくなっている――
もうまもなく太陽が顔を出すにちがいない。
東の空が赤く染まれば、もうじき太陽が地平線から顔をのぞかせる。
鳥たちは朝の到来を讃えている。
樹々はいきいきとし、眠りは消えてゆく。
人々が起きはじめた。
これが確証の体験だ。
それとまったく同じように、霊的な道においても、紛れもない確証の体験が起
こる。
それはまだ目には見えない美しい庭園に向かって歩いてゆくと、近つ゛けば近
つ゛くほど、風が涼しくなってゆくのが感じられるようなものだ。
庭園から遠ざかってゆくと、涼しさも消えてゆく。
近つ゛いてゆくと、再び涼しくなってくる。
もっと近つ゛いてゆくと、風が涼しくなるだけでなく、花の香りが、たくさん
の花の香りが漂ってくる。
遠ざかってゆくと、香りも次第に消えてゆく。
近つ゛けば近つ゛くほど、梢で歌っている鳥たちの声が聞こえてくる。
樹は見えないけれど、鳥たちの声が聞こえてくる
・・・・・・遠くでカッコウが鳴いている・・・・・・
マンゴーの茂みがあるにちがいない。
あなたはどんどん近つ゛いてゆく。
これが確証の体験だ。
それとまったく同じことが内なる庭園――
内なる生命、喜び、沈黙、至福の源
泉へと進んでゆくときに起こる。
中心に向かって進んでゆくと、いくつかのことが消え、
いくつかの新しいことが現れてくる。

人は小さな要求に満足せず、生命あるものをすべて救済せんとする 高邁こうま
いな決意をもたなければならない。
そして、いいかね、確証の体験が現れはじめても、すぐに満足してしまっては
いけない。
涼しい風が吹いてくると、あなたはそこに坐りこんで到着したと考える。
涼しさはすばらしい、涼しさは喜びに満ちている。
だが、あなたは先に進んでゆかなければならない。
小さなことで満足してはならない。
それらが起こりはじめたことを喜び、
それらを道標みちしるべと見なしなさい。
だが、そこはまだ目的地ではない。
それらを楽しみ、神に「ありがとう」と感謝して、
確証の体験がやって来る方向に進みつつ゛けるのだ。
小さな要求で満足してはならない。
例えば、安らぎは小さな要求だ。
それはたやすく達成することができる。
緊張のない心の状態はたやすく達成することができる。
それは大したことではない。
心安らかで心配や不安がない
というのは、それほど大したことではない。
では、偉大なこととは何だろう?
人は目標として何を胸に抱きつつ゛ければよいのだろう?
(´・(ェ)・`)
(つづく)

405鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/22(金) 23:05:18 ID:1d4drIFg0
悟る前にはいろいろな現象が起こるじゃろう。
自分の体が消えたように感じたり、何もかもが自分であるように感じたりするのじゃ。
サマーディに入り、安らぎと喜びを感じる者も居るじゃろう。
それらはよい兆しであるが囚われてはいかんのじゃ。
囚われれば修行は止まってしまうのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。

406避難民のマジレスさん:2019/03/23(土) 06:12:00 ID:LC3de7YgO
>>404
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

生命あるものをすべて救済せんとする 高邁こうまいな決意をもたなければなら
ない。
これが判断の基準になっていることにあなたは驚くだろうが、それはいつも判
断の基準とされてきた。
仏教ではこれを「菩薩の誓願」と呼んでいる。
内なる中心に近つ゛けば近つ゛くほど、この世界に住む生きとし生けるすべて
のものの苦しみを感じるようになってゆく。
一方では深い穏やかさと静けさを感じ、
一方では苦悩するすべてのものたちへの深い憐れみを感じはじめる。
苦しみに次ぐ苦しみ、そしてまた苦しみ。
どこもかしこも苦しみで満ちている。
一方では大いなる喜びが沸きあがってくるが、一方では深い悲しみもまた湧い
てくる。
何百万もの人々が苦しんでいるからだ――
それも何の理由もない馬鹿げた苦しみを味わっている。
あなたが味わっている至福を達成することは、彼らの生得権でもある。
だから、もう自分は至福に満ちているから、
すべては終わったのだと満足してはならない。
あなたが至福に満ちるようになっても、
すべてが終わったわけではない。
今や旅は新たなる方向へと転じる。
覚者ブッダの境地を達成し、わが家にたどり着いたら、いよいよ真の仕事ワー
クがはじまる。
これまでは夢にすぎなかった。
今や、他の人々が夢から出てくるのを助ける真の仕事がはじまる。
弟子が達成したら、彼は師にならなければならない。
キリスト教で「キリスト意識の誓い」と呼ばれているのはこれだ。
それを本当に理解しえたキリスト教徒はいない。
彼らはそれを誤解してきた。
彼らはイエスだけがキリストであると考えている。
「キリスト」という言葉は「クリシュナ」から来ている。
それは誓いだ。
自分が救われたら、あらゆるものを救わなければならないというのがその誓い
だ。
苦しみから救われることは無上の喜びだが、他の者たちを苦しみから救ってゆ
くことと比較すれば何でもない。
自分が苦しみから救われることは、依然として自己中心的であり、自己に焦点
が合わせられている。
自己の何かが依然として残っている。
あなたは自分のことにしか関心がない。 自己が消え、あなたが救われたからといって、 どうしてその旅をやめることが
できるだろう?
さあ、今度は他の者たちを救わなければならない。
イエスが救済者と呼ばれるのはそのためだ。
だが、彼が唯一のキリストではない。
彼の前にもたくさんのキリストがいたし、 彼の後にもたくさんのキリストがいた。
これからもたくさんのキリストが現れるだろう。
覚者ブッダになる者はみな、必然的に あらゆる者を救済しなければならなく
なる。
人間の喜び、安らぎ、至福は小さなものだ。
そういうもので満足してはならない。
いつか分かち合わねばならないことを、
いつか他の人々が目覚める手助けをしなければ ならなくなることを片時も忘れ
てはいけない。
この種子をあなたのこころハートの奥深くに植えつけなさい。
仏性が花開いたときも、あなたが世界から消えてしまわないように。
仏教には二つの言葉がある。
ひとつは「アルハト」だ。アルハトとは、光明は得たのだが、 すべてが終わり
、為すべきことは完了したと考えている者をいう。
彼は消え失せてしまう。
もうひとつは「ボーディサットヴァ」と呼ばれる。
彼は光明を得たが、消えず去らずに、 懸命にこの世にとどまろうとする。
彼は滞在を引き延ばし、可能なかぎり この世にとどまろうとする。
こんな話がある。
仏陀がにゃはんニルヴァーナの扉に到達した。
すると扉が開き、天上の音楽が奏でられ、黄金の花が降り注ぎ、 花輪を手にし
た天人たちが彼を歓迎しようと待ち構えていた。
ところが、仏陀は入ることを拒み、扉に背を向けた。
天人たちは驚いて、目を疑った。
彼らは何度も何度も彼に尋ねた。
「何をしておられるのです?あなたは今生だけではなく、何生 にもわたって
こ の 扉 を探し求めてこられたのでしょう。 ようやくたどり着かれたのに、
扉に背を向けられるとは? 私たちはあなたをお待ちしていました。 またひとり
覚者ブッダが増えたと、天国は喜びで湧きかえっています。 どうかお入りくだ
さい!一緒にあなたの 仏性の開花を祝おうではありませんか」
だが仏陀は言った。
「苦しんでいる者がひとり残らず救われないかぎり、 私はなかには入らない。
私は待たなければならない。 私は最後に入るつもりだ。他の者たちを先に入れよ
う」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

407鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/23(土) 23:36:08 ID:1d4drIFg0
大乗仏教では修行に入る時に菩薩の誓願わするのじゃ。
悟ったら娑婆世界に戻って衆生を導くと誓うのじゃ。
その誓いがあれば悟った後に戻ってくることもできるのじゃ。
そして教えを説くこともできるのじゃ。
そうでなければ大抵はそのままニルヴァーナ行きなのじゃ。

408避難民のマジレスさん:2019/03/23(土) 23:45:43 ID:LC3de7YgO
>>407
鬼和尚、いつもありがとうであります。
小乗の悟りでは涅槃行きでありますか?
肉体的にも死んじゃうのでありますか?

「苦しんでいる者がひとり残らず救われないかぎり、 私はなかには入らない。
私は待たなければならない。 私は最後に入るつもりだ。他の者たちを先に入れよ
う」
←これは、大乗あるいはOSHOの創作でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

409避難民のマジレスさん:2019/03/24(日) 00:01:25 ID:LC3de7YgO
>>406
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

この美しい物語によると、仏陀は今も なお扉の前で待ちつつ゛けているとい
う。
扉は開いている。
いつ仏陀が入りたいと言うか わからないから、天人たちも扉を閉めるわけには
いかない。
彼にはなかにはいる権利があるので、扉は開いている。
仏陀のために扉は開け放しになっている。 こうして天上の音楽は流れつつ゛け
、花は今も降り注ぎ、 天人たちは花輪を手にして待ちつつ゛け・・・・・・ そして仏
陀は外に立っている。
彼は人々を勇気つ゛けている。
呼びかけ、挑み、奮い立たせている。
彼は人々に言っている。
「扉は開いている。 この機会を逃してはならない。なかに入りなさい! 私は
最後に入ることになるだろう。もう扉は二度と閉まらない。 すべての人が救わ
れ、光明を得ないかぎり、 扉が閉まることはない」
これは寓話にすぎないが、とほうもなく意義深い。
それを歴史的事実だと見なしてはならない。
そんなことを すれば要点を見逃してしまう。
扉もなければ、天人もいないし 、花輪もなければ、天上の音楽もない。
そして仏陀は、光明を得た瞬間に消えてしまった。
その彼がどうして扉に背を向けたまま立っていられるだろう?
誰がそこに立っているというのだろう? だが、その誓いは・・・・・・。
仏陀が<存在>のなかに解き放ったエネルギーは今もなお作用している。
真 に 探し求めている者たちは、今でもそのエネルギーを手に入れることができ
る。
そのエネルギ-はどこまでも作用しつつ゛けてゆく、 永遠に作用しつつ゛けて
ゆく。
イエスはもはやいないが、そのキリスト意識は新しい位相に入っている。
マハーヴィーラはもはやいないが、その意識はこの生命の大海に入っている。
これらの人々は<存在>の一部となり、波動を放っている。
それがこの寓話の意味だ。
彼らは今もあなたを奮い立たせている。
そのメッセージを受け取る用意があるなら、彼らは今でも あなたを向こうの岸
辺に連れてゆこうとしている。
死を迎える瞬間、師マスターは無限のエネルギーの一部になる。
そのエネルギーには仏陀が加わっている。
マハーヴィーラが加わっている。
ツァラツストラが加わっている。
老子、イエス、マホメットが加わっている。
師が死を迎えるたびに、より多くのエネルギーが解放され、 それが大きな潮の
うねりになってゆく。
じつに多くの人々が光明を得てきたので、 それはひとつらなりの潮流になって
ゆく。
あなたがたは幸運だ。
あなたの憧れが本物ならば、 あなたの願いが本物ならば、 この潮のうねりに
運ばれて 向こうの岸辺に行くことができる。
それを胸の奥に刻んでおきなさい。
小さなものごとで満足してはいけない。
途上ではたくさんのことが起こるだろう。
奇 蹟 の よ う な こ と が数多く起こるだろう。
だが、どれにも満足してはいけない。
いいかね、あなたは キリスト意識、ボーディサットヴァ にならなければいけ
ない――それ以下の ものではあなたを満足させることはできない。
これは聖なる不満足だ。
(p361)
軽薄で無責任なこころに陥らず、みずからの言葉を行為によって実証するよう
努力しなければならない。

探求者の生はつまらないことで占められてはならない。
些細なことをやりつつ゛けるたびに、時間、エネルギー、生命いのちが無駄に
なってゆくからだ。
探求者は時を無駄にすることができない。
その生涯はひたすらある一点に向けられ、捧げられねばならない。
彼はふらふらしてはいられない――
喫茶店に坐り込み、どうでもいいうわさ話に興じてなどいられない。
役にも立たないものを読んではいられない。
彼は旅の役に立たないことはいっさいしない。
あとで重荷になり、落とさなければならなくなるようなものはいっさい集めな
い。
彼は質素シンプルなままでいる。
この質素さは禁欲主義とはいっさい関係がない。
この質素さはまったく科学的なものだ。
彼はもち歩かねばならないようながらくたを集めない。
彼は重荷を担がない。
そして知識以上のがらくたはない。
なぜなら、他のがらくたは外にあるが、知識は内側に入り込んでいるからだ。
知識のために、軽々としていなければならない頭が、ひどく重たくなる。
「だるま」と呼ばれる日本の人形を見たり、観察したことがあるだろうか?
ボーディダルマは日本では「だるま」と呼ばれている。
その人形はみごとだ。
だるま人形――それは光明を得た人を表している。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

410避難民のマジレスさん:2019/03/24(日) 13:35:08 ID:LC3de7YgO
>>409
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

みごとというのは、どんなに放り出されても、不思議なことに、それは必ずも
との姿勢にもどってくる。
立ち直ってくるからだ。
放り投げても、けっしてひっくり返らずに、再びもとの姿勢にもどってくる。
その人形は底が重くて頭が軽いので、けっして逆さにはならない。
それはつねに正しい姿勢で坐っている。
人間の場合はそれとまったく逆になっている。
人間は逆さになっている。
頭がひじょうに重く、頭でっかちだ。
人間は逆立ちしている。
知識でいっぱいになっている人は逆立ちをしている。
彼はいつもシルシュアーサナ、逆立ちのポーズを取りつつ゛けている。
頭のなかに知識がない人――
頭が空っぽで、静かな人は、正しい姿勢をしている。
彼は蓮華座で坐っている。
彼は”だるま人形”だ。
彼をひっくり返すことはできない。
どんなに頑張ってみても、彼は必ずもどってくる。
彼をかき乱すことはできない。
どんなに頑張っても、
彼の不動の境地は揺るがない。

軽薄で無責任なこころに陥らず……
責任とは何だろう?
ふつうこの言葉の意味は間違ったものと結びつけられている。
真の責任は神への責任に他ならない。
あるいは、真の責任は自分自身の本性への責任に他ならない。
あなたは社会や教会や国家に責任を負っているのではない。
あなたに家族や社会に対する責任はない。
あなたが責任を負わねばならないのはただひとつ、それはあなたの本来の顔、
あなたの本来の実存だ。
その責任を取ることで、他のすべての責任はおのずと果たされる。
自然になりなさい。
自然な人間は責任リスポンシビリティを取ることができる――
なぜなら、彼は感応リスポンスするからだ。
自然ではない人間はけっして感応しない。
彼は単に反応リアクトするだけだ。
反応とは機械的であるという意味であり、
感応とは機械的ではなく、臨機応変に応答することをいう。
美しい花を見ると、あなたはふと「きれいだな」とつぶやく。
それが反応なのか感応なのか見守りなさい。
それを深くのぞき込み、詳しく調べてみなさい。
口にした「きれいな花だ」という言葉は、この瞬間、今ここで、あなたの内側
から自然に湧き起こった感応だろうか?
それは生の体験なのか、それとも他人が「花はきれいだ」と言っているのを聞
いたので、決まり文句をくり返しているだけなのだろうか?
それをよく調べ、観察してみるがいい。
誰があなたを通して話しているのだろう?
それは母親かもしれない……あなたは母親に連れられてはじめて庭に、公園に
行った日のことを思い出さないだろうか。彼女はあなたに
「この薔薇を御覧なさい。なんてきれいなんでしょう!」と言った。
そしてこれまで読んできた本、これまで見てきた映画、かつて話した人々――
それらすべてが「薔薇はきれいだ」と言っていた。
それがあなたのなかにプログラムして組み込まれてしまっている。
薔薇の花を見たとたんに「きれいだ」と言うのは、
あなたではなく、そのプログラムだ。
それはレコードにすぎない。
録音テープにすぎない。
外側の薔薇が引き金になって、ただテープがくり返しているだけだ。
それは反応だ。
感応とは何か?
感応とはその瞬間に起こる
プログラムされていない
生の体験だ。
あなたは花を見ている、
観念で目をふさがれることなく、
しっかり花を見ている。
あなたは こ の 花を、その現前げんぜんを見ている!
知識はすべて脇によけられている。
こころハートは感応し、頭マインドは反応する。
責任はこころハートから生まれる。
あなたは何も言わないかもしれない。
実際、「これはきれいだ」などと言う必要はない。
聞いた話だが……
老子はよく朝の散歩に出かけたものだった。
隣家の男がついて行きたいと言うと、老子は言った。
「だが、いいかね。ぺらぺらしゃべらないこと。
ついて来てもいいが、おしゃべりはごめんだ」
男は何度も口を開きたくなったが、老子の視線を感じて、なんとか言葉を押し
とどめた。
だが、太陽が昇りはじめると、その日の出があまりにきれいなので、誘惑に逆
らえなくなり、老子が言ったことをすっかり忘れてしまった。
彼は「なんて美しい朝だろう!」とつぶやいた。
すると老子は言った。
「ほら、口数が多くなってきた。君はしゃべりすぎる! 君も私もここにいて、
太陽があそこに昇ってきている――私に向かって 『きれいな朝日だ』などと言
って何になる? 私には見えないというのかね? 私は盲目だとでもいうのかね?
そんなことを言って何になる? 私もここにいるんだから」
実のところ、「きれいな朝だ」とつぶやいた男はそこにはいなかった。
彼はくり返していたのであり、それは反応だった。
(´・(ェ)・`)
(つづく`)

411鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/24(日) 21:49:19 ID:1d4drIFg0
>>408 小乗の悟りとか大乗の悟りというものはないのじゃ。
 大乗の誓願もただ修行を勧めるための方便なのじゃ。
 他人の為に頑張る者のための法なのじゃ。
 お釈迦様のように誓願をしなくとも他人の為に法を説く目覚めた者もいるのじゃ。
 もはや涅槃に行くというならば座り続けて餓死したりするのじゃ。

 そのような誓願は大乗に本当に在るのじゃ。
 オショーの創作ではないのじゃ。
 大乗の経に書いて在るのじゃ。

412避難民のマジレスさん:2019/03/24(日) 22:25:11 ID:LC3de7YgO
>>411
鬼和尚、ありがとうであります。
悟ると、一切の執着なくなるので、教えを説く以外に命を長らえようとしなくなるのでありますね。
テラワダの僧侶とかは悟ったら涅槃行きなのですかね?
(´・(ェ)・`)つ

413避難民のマジレスさん:2019/03/24(日) 22:41:22 ID:LC3de7YgO
>>410
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

感応するときには、言葉が まったく不用になることもあれば、ときには必要
になることもある。
それは状況による。
だが、必ずしも言葉がともなうとはかぎらない。
言葉がともなうこともあれば、ともなわないこともある。
感応はこころハートから生まれる。
感応は感情フィーリングであって、思考ではない。
あなたはわくわくする――薔薇の花を見ると、 何かがあなたの内側で踊りはじ
め、あなたの実存の内奥の核で 何かがかき立てられる。
何かがあなたの内側で開きはじめる。
外側の花が内なる花に挑みかけ、 内なる花がそれに感応する。
これがこころハートの応答する力リスポンシビリティだ。
つまらないものにこころを奪われていなければ、 こころハートがこの内なるダ
ンスを踊れるだけのエネルギー、 有り余るエネルギーを蓄えることができる。
エネルギーが 思考に消費されると、あなたの感情は飢えてしまう。
思考は寄生虫だ。
思考は、本来なら感情に用いられるはずのエネルギーを食べて生きている。
思考はエネルギーを搾取している。
思考はあなたの実存に起こる漏電のようなものだ。
思考はあなたのエネルギーを抜き取ってしまう。
そうなったら、あなたは穴だらけの壷のようになる―― 何も溜めておけないの
で、あなたはいつまでたっても貧しいままだ。
思考がないと、 エネルギーが内部に蓄えられて、 そのレベルがどんどん高く
なってゆく。
あなたは一種の飽和状態になる。
その満たされた状態 において、こころハートが感応する。
そうなったら生は詩になる。
そうなったら生は音楽になる。
そこではじめて、そこでようやく、みずからの 言葉を行為によって実証すると
いう奇蹟 を行なうことができるようになる。
そうなったら「君を愛しているよ」と言うだけでなく、 あなたの存在そのもの
が愛の証となる。
そうなったらあなたの言葉は無力なものではなく、 そのなかに魂を宿すように
なる。
あなたの言葉と行動が一致するとき、
あなたの言葉と行動がちぐはぐにならないとき、
あなたの言葉が誠実さで満たされるとき、
あなたが自分の言った通りのものになるとき
――そのような生のみが生きるに値する。
それまでは、あなたは一種の分裂した状態で生きている。
口ではあることを言いながら、別のことをやってしまう。
あなたの精神は分裂したままだ。
言葉と行動がもはや分離せず、
同じ現象の二つの側面になる地点に到達しないかぎり、
人類はみな精神分裂症にかかっている。
あなたは感じる通りのことを言葉にし、
言葉通りのことを感じるようにならなければいけない。
言葉通りのことを行い、
行なう通りのことを言葉にするように。
そうなれば、あなたを観察するだけで、
あなたの実存がまがいものでないことが見えてくる。
静けさのなかで、精神は途切れることなく大いなる喜びにあふれ、
酔ったような、湯を浴びたような感じがつつ゛く。
これは光の原理(陽)が全身を巡って調和しているしるしだ。
このとき黄金の華の蕾つぼみが芽生えはじめる。
静けさのなかで――すばらしい確認のしるしだ――
精神は途切れることなく大いなる喜びにあふれ……。
まったく何の理由もないのに、あなたは突然喜びに包まれる。
普段の生活では、喜びを感じるときには何らかの理由がある。
美しい女性に会ったので嬉しいとか、前から欲しかった金が手に入ったので嬉
しいとか、きれいな庭のある家を買ったので嬉しいとか――だが、こういった
喜びは長続きしない。
それはつかのまのものだ。それが途切れずつつ゛くということはない。
聞いた話だが……
ムラ・ナスルディンが、家の前で、ひどく悲しげな顔をして坐っていた。
隣人が尋ねた。
「ムラ、どうしてそんなに悲しそうな顔をしているんだい?」
するとムラは言った。
「というのもね、十五日前に叔父が死んで、五万ルピー残してくれたんだ」
隣人は言った。
「それで悲しむなんておかしいよ。喜べばいいじゃないか」
ムラは言った。
「とにかくまず話を最後まで聞けよ。七日前にまた別の叔父が死んで、七千ル
ピー残してくれたんだ。でも、それっきりで、もう何も起こらないんだ……誰
も死なないし、何も起こらない。
一週間が過ぎていって、僕は本当に悲しいよ」
何かによって引き起こされた喜びは消えてゆく。それはつかのまのものであり
、すぐにあなたは深い悲しみのなかに取り残される。
喜びはすべてあなたを深い悲しみのなかに残してゆく。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

414鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/26(火) 00:00:33 ID:1d4drIFg0
>>412 そうかもしれん。
 お釈迦様の伝統があるから法を説くかもしれん。
 大乗の禅の坊主にも悟ってから法を説かなかったものもいるのじゃ。
 自由なのじゃ。

陽気が全身に満ちれば常に体は軽く精神も晴れ晴れとしているというのじゃ。
その状態を目指して気を体内に巡らせる行もあるのじゃ。
宗派によっては気を巡らせずひたすら丹田に気を蓄積するものもあるのじゃ。
行き着くところは同じなのじゃ。

415避難民のマジレスさん:2019/03/26(火) 04:04:50 ID:LC3de7YgO
>>413
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

だが、確認のしるしとなる別の種類の喜びがある。
まったく何の理由もないのに、あなたは突然喜びに包まれる。
その理由をつきとめることはできない。
誰かに「何を喜んでいるのです?」
と問われても、答えることができない。
私は自分がなぜ喜びに包まれているのか答えることができない。
理由はない。
ただ喜びに包まれているのだ。
さあ、こ の 種の喜びは乱されることがない。
何が起ころうと、それはつつ゛いてゆく。
それは昼も夜もそこにある。
あなたは若者かもしれない、年老いているかもしれない、 元気かもしれない、
死を迎えつつあるかもしれない―― が、それはつねにそこにある。
周辺が変化しても持続する、不変の喜びを見いだしたら、 あなたは確実にブッ
ダの境地に近つ゛いている。
これが確認のしるしだ。
来ては去るような喜びに大した価値はない。
それは世俗的な現象だ。
喜びが持続するなら、途切れることなく持続するなら―― まるで陶酔したよう
な、麻薬なしで酔いしれたような気分になるなら、 まるで風呂あがりのような
、朝露のようにすがすがしく、春の若葉の ようにさわやかで、池の蓮のように
みずみずしい気分になるなら、 まるで湯を浴びたばかりのような気分になるな
ら―― そのすがすがしい気分がどこまでも途切れずにつつ゛く なら、あなたは
紛れもなくわが家に近つ゛いている。
これは光の原理(陽)が全身を巡って調和しているしるしだ。
今や、あなたの全身は調和のとれた統一体として働いている。
あなたの全身は調和がとれている。
あなたはもはや分裂していない。
あなたはもはや断片ではない。
これが個性化だ。
あなたはひとつの全体としてまとまり、
部分はすべて共振しながらともに働いている。
どの部分も実存というオーケストラの一員を演じている。
調和からはずれているものは何もない。
肉体、心、魂、最も低いものと最も高いもの、
セックスからサマーディまで……すべてがこのうえもない調和のうちに、
一糸乱れずまとまりながら働いている。
(p368)

このとき黄金の華の蕾つぼみが芽生えはじめる。
さらにすべての窓が静まり、銀色に輝く月が中天にかかり、 この大地は明るい
光に満ちた世界のように感じられてくる。
これはこころハートの本体が開き、澄んできたしるしである。
これは黄金の華が開いてゆくしるしである。
さらに頭脳マインドだけではなく、すべての窓、すべての感覚が静まると……
頭脳は内なる感覚器官だ。
まずそれを静めなければならない。
さらに頭脳に餌を与える五感、目や耳や鼻などすべての感覚器官がある。
それらは外界から絶えず情報を送り込み、
それを内側に、頭脳に蓄えつつ゛けてゆく。
その感覚器官も静まり、何も持ち込まず、物音ひとつ立てず、受動的になっているとき……
目は眺めているが、何も持ち込もうとしない。
耳は聞いているが、聞こえるものに執着しようとしない。
舌は味わっているが、味をむさぼろうとしない。
あなたの感覚はすべて静まり、銀色の月が中天にかかっている……
銀色の月とは女性原理の象徴だ。
銀色の月が中天にかかり、すべての感覚が鳴りを潜め、頭脳が受動的になり、
静まるとき、あなたは受け身で待つという女性原理を達成している。
あなたは子宮になっている。
満月の夜だ。
すべてが涼しく、
静かで、ひそやかだ。
何も身動きしない。
その喜びは果てしない!

この大地は明るい光に満ちた世界のように感じられてくる。
それは内側だけで感じられるものではない。
それが内側にあるときには、ただちに外側にも感じられるようになる――全世
界が明るい光に満ちている。

これはこころハートの本体が開き、澄んできたしるしである。
あなたは透きとおり、澄みわたり、
清らかになり、知覚力が冴えてゆく。
女性原理は受動的な原理なので清澄さをもたらす。
それは休息を、完全な休息をもたらす。
あなたは何もせずにただそこにいる。
すべてが冴えわたり、一片の雲もない。
あなたは実在をどこまでも見通すことができる。
内側にも静謐せいひつさと喜びがあり、
外側にも静謐さと喜びがある。

これは黄金の華が開いてゆくしるしである。
最初は蕾つぼみがふくらみかけただけだったが、
今や花が開きつつある。さらなる一歩が踏み出された。

さらに、全身に力がみなぎり、嵐も霜も恐れなくなる。
沈黙と喜びが深まってゆくにつれ、あなたはみずからの死が存在しないことを
感じはじめる。
死に際し、死んでゆくのはペルソナ、人格だけであり、本質はけっして死ぬこ
とがない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

416避難民のマジレスさん:2019/03/26(火) 19:40:29 ID:LC3de7YgO
>>415
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

みずからの内に宿るもの、けっして変わらぬもの――
どんな状況のもとにあってもつつ゛いてゆく喜び――
を知るとき、はじめてあなたはみずからの内に不死なるものがあることを、永
遠なるものがあることを知る。
その瞬間、力がみなぎり、底力が湧きあがり、恐怖が消える。
そうなったら人は恐れない。
そうなったら震えはとまる。
あなたははじめて恐怖をもたずに実在をのぞき込んでいる。
そうでないかぎり、世に言ういわゆる神々は恐怖の産物にすぎない。
人はみずからを慰めるために神々をつくりだした。
人は恐怖から身を守る後ろ盾として、防御として、
鎧よろいとして神々をつくりだした。
あなたは恐れている。
あなたには誰かすがりつく相手が必要だ。
それらは偽りの神々だ。
それらは本当の神々ではない。
恐怖に駆られながら、どうして真の神を見いだすことができるだろう?
いわゆる宗教家たちは神を恐れ敬う人々として知られている。
真の宗教家には恐怖がない――彼は世間も神も恐れない。
恐れのない境地のなかで、まったく異なる神のヴィジョンが生まれてくる。
(p370)

人々が不快に感じるものごとに出会っても、精神の種子の明るさが曇ることは
ない。
もう曇ることはない。あなたの精神を打ちひしいだり、澄んだ意識を歪めるこ
とのできるものは何もないからだ。
あなたはつまらないことに興味を示し、本質的なことを忘れてしまっている。
浜辺で貝殻やきれいな石を集めているだけで、すぐそばにあるダイヤモンドの
ことなどすっかり忘れてしまっている。
あなたは死が奪い去ってゆくがらくたを集めている。
私は死によっても奪われることのない宝物を手に入れるよう呼びかけている。
ラザロよ!墓から出てきなさい!
そして、
聴く者は弟子になる。
聴く者はサニヤシンになる。
聴く者は内なる世界へと動きはじめる。
彼の旅は他の人々の旅とはまったく違うものになる。
彼は世間で暮らしているかもしれないが、もはやそこにはいない。
彼の関心はまったく別のところにある。
赤い血はミルクに変わり……
マハーヴィーラの有名な寓話が伝えようとしているのはこのことだ。
それによると、蛇が、とても危険な蛇がマハーヴィーラに襲いかかり、
彼の足を噛んだが、血の代わりにミルクが流れ出たという。
ところがジャイナ教徒たちはそれを文字通りに解釈し、
物笑いの種になっている。
それは文字通りに解釈すべきものではない。
それは寓話だ。
赤い血は暴力を表し、ミルクは愛を表している。
子供が生まれると、母親の乳房はすぐにミルクでいっぱいになる――生まれた
ばかりの子供への愛と思いやりから。
突然、彼女の血はミルクに変わりはじめる。
みるみるうちに母親の生化学のなかで奇蹟が起こりはじめる。
今まで彼女は女にすぎなかったが、今では母親になっている。
子供の誕生とともに、二人の人間が生まれる――
一方には子供が、そしてもう一方には母親が。
母親の生化学はふつうの女性とは違っている。
奇蹟が起こっている。
愛ゆえに、血はミルクに変わりはじめる。
それは象徴的だ。
血は暴力であり、ミルクは愛だ。
人がこの境地に達すると、暴力はすべて影を潜める。
彼は愛そのものであり、愛より他の何ものでもない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

417鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/26(火) 22:02:18 ID:1d4drIFg0
肉体や人格は死ぬが本質は死なないというのじゃ。
その本質とは全てのものの本質と同じなのじゃ。
全ては同じ本質を持ち時とともに変るものではないのじゃ。
それを実感すれば全てに戻るのじゃ。

418避難民のマジレスさん:2019/03/26(火) 22:25:22 ID:LC3de7YgO
>>416
41黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華4
より抜粋

もろい肉体は純金やダイヤモンドに変わる。
そして見える者たち、見る目をそなえた者たちは、ブッダの身体のなかに、も
ろい肉体ではなく純金やダイヤモンドを見ることができる。
弟子たちが話すことを他の人々が信じないのはそのためだ。
他の人々は、弟子たちは催眠術にかけられていると考える。
なぜなら、弟子たちは他人には見えないものを、身近な弟子たちにしか感知で
きないものを見はじめるからだ。
彼らはふつうの肉体のなかに別のものを、他の身体、黄金やダイヤモンドでで
きた身体、永遠の身体を見はじめる。
この肉の身体は時間の身体だ。
その背後には永遠の身体が隠されている……
だが、それを見るには目をもたなければならない……
そして愛と明け渡しだけが、あなたに目を授けることができる。

これは黄金の華が結晶したしるしである。
だが、この内なる旅に入ってゆくと、人はみずからの身体を黄金やダイヤモン
ドとして見ることができるようになる。
そうなったら、黄金の華が結晶したと確信してもいい。
最初、それはふくらんでゆく蕾つぼみにすぎなかったが、しだいに花が開いて
ゆき、今や結晶している。

光の輝きは次第に結晶化する。
こうして大いなる台座が出現し、 やがてその上にブッダが現れてくる。
今やブッダはそれほど遠くないことを、夜明けが近つ゛いてきていることを、
夜が明けつつあることを確信することができる。
光の輝きが結晶化するにつれ、台座が現れ……
この黄金やダイヤモンドのヴィジョン、永遠の身体のヴィジョンという台座の
上に……やがてブッダが現れてくる。
この地点を過ぎれば、為しうることは何もない。
後はただ待たなければならない。
何もせず、静かに坐っていると、春が来て、草はひとりでに生えてくる。

やがて
――春が訪れると――

その上にブッダが現れる。
黄金の本性が現れるとき、それはブッダに他ならない。
東洋人はそれを「ブッダ」と呼び、
西洋人はそれを「キリスト」と呼んできた
――それは同じ本質を指している。

ブッダとは大いなる悟りを得た黄金のように輝く聖者だからである。
これは大いなる確証の体験である。
みずからの内側に光輝く台座、結晶化した光が見え、 その台座の上にブッダが
現れたら――黄金の華が開き、 花を咲かせ、その黄金の蓮の上にブッダが現れ
てきたら、 あなたはわが家に帰り着いている。
これが究極のゴールだ。
これを見いださなければならない。
これを見いだすことはできる。
これはあなたが生まれながらにしてもっている権利だ。
取り逃がすとしたら、誰のせいでもない、 その責任はひとえにあなたにある。
 す べ て を賭けなさい。
 だが、逃してはならない!
 す べ て を犠牲にするがいい。
 だが、逃してはならない!
(´・(ェ)・`)
(おわり)

419鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/27(水) 22:34:59 ID:1d4drIFg0
金は千年たっても輝きを失わないから永遠の象徴なのじゃ。
修行を終えた者は黄金の肉体となるというのも不死の境地に入った喩えなのじゃ。
死ぬ者が不死の境地に入ることは卑金属が金になると同じ錬金術なのじゃ。
それが黄金の華の秘密なのじゃ。

420避難民のマジレスさん:2019/03/27(水) 22:57:50 ID:LC3de7YgO
>>418
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験
より抜粋

呂祖師は言った。

ところで、点検できる確証の体験が三つある。
その第一は、瞑想の状態に入ったときに神々が谷間にいるという体験である。
人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ、 そのひと
つひとつがひじょうに鮮明である。
だが、その音はすべて谷間でこだまが反響するように聞こえる。
いつも聞くことができるのだが、自分自身の声はけっして聞こえない。
これが「神々が谷間にいる」といわれる体験である。

ときおり次のような体験が起こることがある。
人が静かな状態になるとすぐに、目の光が燃えあがりはじめ、 眼前にあるもの
がすべて明るく輝き、まるで雲のなかにいるかのように感じられる。
目を開けて身体を探しても、もはやどこにも見つからない。
これが「からっぽの部屋が明るく輝く」という体験である。
内も外も、あらゆるものが等しく輝いている。
これはひじょうによいしるしである。

あるいは、坐って瞑想していると、肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじ
める。
坐ったままでいるのがむずかしくなる、上に引きあげられるような感じがする

これは「精神が天に帰り、その頂点に触れる」と呼ばれる体験である。
やがて、本当に上昇するような体験をすることがある。

さて、これらの三つの体験はすべてこの世で得ることができる。
だが、これですべてを説明しつくせたわけではない。
各人の気質や性癖に応じて異なった現象が現れるからだ。
もしこういったことを体験したなら、それはよい素質のしるしである。
こういった現象は、人が水を飲んで、その冷暖をおのずから知る ような性質の
ものである。
それと同じように、人はこれらの体験を自分で 確かめてみなければならない。
そのときはじめてそれは本物の体験になる。

呂祖師は言った。

光を巡らせる訓練は徐々に成果が現れてゆく。
その際、日常の務めを放棄してはならない。
古人は 「仕事がやって来れば、それを引き受けなければならない。 ものごとが
やって来れば、それを根底から理解しなければならない」と言っている。
正しい思考によって事を適切に処置してゆくなら、 光は外界の事物によって散
らされることなく、みずからの法則に従って巡る。
穏やかな目に見えない光の循環でさえこのようにして起こりはじめる。
すでにはっきりとした形をとった真の光の循環の場合は言うまでもない。

日常生活のなかで、自他の思いをいっさい混入することなく、 ものごとに対し
てつねに打てば響くように対処する力をもつなら、 それは環境から生じる光の
循環である。
これが第一の奥義である。

朝早く、世間のしがらみをいっさい断って、 一、二時間瞑想することができれ
ば、さらに、 あらゆる外界の活動と事物に主観をいっさい交えず、 打てば響く
ように対処することができれば、そして それを途切れることなくつつ゛けるこ
とができれば、 二、三ヶ月後には天上から真人たちがやって来て、 その行為を
認めてくれるであろう。

ある美しい朝のことだった。
今朝と同じような朝だったにちがいない。
涼しい風が吹き、濡れた大地の甘い香りが一面に立ちこめていた。
鳥たちが歌い、太陽が地平線から顔を出そうとしていた。
朝露が草葉の上で真珠のように輝いていた。
朝はいつも美しい。
必要なのはそれを見る目だけだ。
鳥たちがそこにいて、毎朝のように歌っている。
だが、誰がそれを聴いているだろう?
樹々は花を咲かせているが、誰がその美を味わっているだろう?
美的な感覚をそなえたこころハートが欠け、計算高い頭マインドだけが働いて
いる。
あなたが醜い世界に住んでいるのはそのためだ。
私はあなたがたに遠い昔の物語を話そうとしている。
ゴータマ仏陀のサニヤシンたちがマンゴーの樹々の下で瞑想をしていた……
朝ほど瞑想にふさわしい時はない。
一晩中休息を取ったおかげで、
あなたはみずからの実存のすぐ近くにいる。
他のどの時間よりも、早朝ほど意識して
中心に入ってゆきやすい時はない――
あなたは一晩中その中心にいて、たった今そこを後にしてきたばかりだからだ。
千とひとつのものごとが立ち現れる世界はまだはじまっていない。
あなたは事物に向かい、外界に出てゆく途上にあるが、
内なる中心はすぐそこに、ほんの間近にある。
ちょっと振り返れば、そこにあるものを
――真理、神、光明を見ることができる。
夢も見ないほど深い眠りのなかで訪れていたものを見ることが
……だが、あなたはそのときは無意識だった。
深い眠りには若返らせる力がある。
あなたは実存の中核に入ってゆくからだ――
(´・(ェ)・`)
(つづく)

421鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/28(木) 22:36:55 ID:1d4drIFg0
虚室生白とか呼ばれる現象なのじゃ。
元々荘子の言葉なのじゃ。
サマーディに入った状態なのじゃ。
自己を忘れ、意識が拡大していく過程なのじゃ。

422避難民のマジレスさん:2019/03/28(木) 23:52:48 ID:LC3de7YgO
>>420
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

呂祖師は言った。

無意識ではあるが、入ってゆくことに変わりはない。
外界での疲れはすべて取り去られ、傷はすべて癒され、
ほこりはすべて消え失せる。
あなたは湯を浴びてきた。
みずからの実存のなかに深く身を浸していた。
パタンジャリが「深い、夢のない眠りはサマーディとよく似ている」
と言うのはそのためだ。
だが、よく似てはいるが、まったく同じではない。
どこが違うのだろう?
違いはごくわずか だとも言えるし、ひじょうに大きいとも言える。
が、そこにはこれだけの違いがある――つまり眠りのなかでは意識がないが 、
サマーディのなかでは意識がある。
だが、その空間は同じだ。
だから、朝、眠りから覚めたばかり のとき、あなたは中心のすぐそばにいる
…… 間もなく周辺があなたをつかまえ、乗っ取ってゆく。
あなたは仕事の世界に入ってゆかなければならない。
その外界の旅に出かける前に、 意識的に自分が誰であるかを見る ことができ
るように振り返ってみる―― まさにそれが瞑想というものだ。
だから、いつの時代にも、朝には、 大地が目覚め、鳥たちが目覚め、太陽が
目覚め、 大気全体に目覚めが満ちてゆく早朝には、 この状況を使うことができ
る。
あなたはこの目覚めの潮流に乗って、 油断なく目を見張り、醒めながら、み
ずからの 実存のなかに入ってゆくことができる。
そうすればあなたの生全体が変容を遂げる。
あなたに異なる方向感覚がそなわることで、 その日一日がそっくり変容を遂げ
る。
そうなったら街の雑踏マーケットプレイスに入ってゆきながら、 内なる中核と
依然として接触を保ちつつ゛けることができる。
そして、それは最も深遠な秘法、黄金の華の秘密だ。
……その朝、仏陀のサニヤシンたちはマンゴーの樹々の下で瞑想をしていた
…… あなたがたが私のまわりに集まってきているように、何千人もの人々が 仏
陀のまわりに集まってきていた。
瞑想の他に学ぶべきものはなかった。
ブッダたちは教えるのではなく、ただ分かち合うだけだ。
彼らは教義を授けるのではなく、まさしく実践法を授ける。
彼らは信条を授けるのではなく、まさしく信頼の味を味わわせる。
そして信頼をほんの一滴味わうだけで、生は変貌を遂げる。
覚醒した人と結びつくには、あなた の側でも少しは醒めるより他にすべはな
い。
なぜなら、似た者同士しか親しくなれないからだ。
ブッダとともにあるためには、日常生活で 求められるよりもいくらか多くの注
意深さが求められる。
日常生活では、あなたはロボットのように機械的にならなければいけない。
師のもとへ行くと、あなたは 機械的であることをやめ、自動的に反応するこ
とをやめ、 もう少し注意深くなり、ものを見つつ゛けるだけでなく、 みずから
の実存をも想起することを求められる。
……仏陀の弟子たちは瞑想をしていた……
こんなに美しい朝を取り逃がすわけにはゆかない。
鳥たちが朝の太陽を讃えているときには、 あなたも神を讃えなければならない。
樹々が風にそよいでいるときには、 あなたもこの永遠の舞ダンスに加わらな
ければならない。
あなたもお祝いをしなければならない。
新しい日がはじまる―― 過去を忘れ、過去を引きずらず、 新しく生まれ変わ
りなさい。
(p380)
……仏陀にはスブーティという名前の弟子がいた。
弟子たちの何人かは本当に稀な者たちだった。
スブーティは 覚者ブッダの境地の瀬戸際に立っていた希有な者たちのひとりだ
った。
あとわずか一歩で、彼はブッダになるところだった。
彼はわが家に帰りつつあった。
刻一刻とわが家に近つ゛きつつあった。
自我エゴが消え神が生まれる中心へと、 あなたが死んで全体が生まれる中心
へと どんどん近つ゛きつつあった。
中心に到ると、部分は全体のなかに消え、調和のとれた宇宙が生まれ、 あなた
はもはや死を恐れ身震いしている分離した存在ではなくなる。
そうなったら、あなたはこの<存在>の永遠の遊戯の一部になる。
スブーティはまさに瀬戸際にいた。
彼は仏陀の弟子のなかで 最 も 静かな者たちのひとりだった。
あまりに静かだったので、ほとんど存在していないかのようだった、 と経典は
伝えている。
彼がやって来ても、誰も注意を払わなかった。
彼が通り過ぎても、誰も彼が通り過ぎたことに気つ゛かなかった。
彼はじつに静かなそよ風のようだった…… ふつうあなたは 注目を浴びたがっ
ている。
注目されないと、あなたは傷ついてしまう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

423鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/29(金) 22:21:22 ID:1d4drIFg0
朝目覚めた時、一瞬だけ人は自分を忘れていると自覚できるのじゃ。
それは自然なサマーディともいえるのじゃ。
朝には智慧が浮かび、心も静かに鎮まっているのじゃ。
瞑想はその時を自分の意志で生み出せるようにする法なのじゃ。

424避難民のマジレスさん:2019/03/30(土) 02:31:40 ID:LC3de7YgO
>>422
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

呂祖師は言った。

あなたは 注目を浴びたい。
注目をされたがっているのはいったい誰なのだろう?
自我エゴが注目を浴びたがっている。
自我は注目を浴びることで生きている。
誰にも相手にされなかったら――あなたがやって来ても誰も気つ゛かなかった
ら 、あなたが通り過ぎてもまるで相手にされず、誰も「おはよう、元気かい?」
と 声をかけなかったら――あなたは傷ついてしまう。
あなたはこのように考えはじ める。
「私は無視されている。私が誰であるかをあの連中に教えてやらなければ」
自我はつねに注目を浴びたがっている。 ……スブーティはとても静かだった。
注目を浴びたいという彼の欲望は消えてしまっていた。
注目を浴びたいという欲望が消えたとたん、あなたの 実存からはいっさいの政
治が消える。
そうなったらあなたは宗教的になっている。
そうなったらあなたは自分が何者でもないことにすっかりくつろいでいる。
そうなったらあなたはまったく異なった生を生きる。
そうなったらあなたはとても静かに生きるので、 どんな物音も立てず、さざ波
ひとつ立てず、一度も 去来したことがないかのように去来してゆく。
スブーティはいながらにしていなかった…… 実のところ、真 に 存在する瞬間
、あなたは 自我エゴという観念をそっくり落としてしまう。
人々が自我という観念をもち歩いて いるのは、彼らが存在していないからだ

この逆説を理解しようとしてみなさい。
存在していない者たちには自負心がある。
彼らは何がなんでも自負心を もたざるをえない。
彼らは世間に向かって自分を証明しなければならず、 絶えず演技をしつつ゛け
ている。
演技をしなければ、自分が誰でもない者に なってしまうことを知っているから
だ。
彼らは演技をし、声を張りあげ、 騒ぎ立て、他人の目を引きつけなければなら
ない。
アドルフ・ヒトラー、ジンギス・カーン、チムールや歴代の無数の愚かな政治
家 たち、彼らがしてきたことは、人
々の注意をもっともっと自分に引きつけること だった。
こういった連中は真に存在していない人々だ。
存在している人々はみずからの実存に深く満足している。
他人が注目するかどうかなど誰がかまうだろう?
彼らは自分だけで満ち足りている。
自分自身で充分に満足している。
だから、これはパラドックスだ。
存在していない人間は、 自分を大きく見せようと努力し、特別な誰かであるふ
りをする。
存在している人間はふりをせず、 自惚れず、とても静かな存在になる。
……彼はあたかもいないかのように存在していた……
そして不在のなかではじめて真の臨在プレゼンスが現れてくる。
人物が消え失せて、臨在が現れてくる。
……彼はゆっくりと溶けてゆき、人物として消え去った……
それが起こるとき、その奇蹟が起こるとき、 そのまさに不在そのものが光輝く
臨在となる。
……スブーティも樹の下に坐っていたが、瞑想すらもしていなかった。
他の者たちは瞑想をしていたが、彼はただ何もせずそこに坐っていた。
それは最も高度な瞑想の姿だった…… 瞑想を す る のは、あくまで初心者に
すぎない。
初心者は瞑想をしなければならない。
だが、瞑想を理解した者は す る という見地でとらえることさえできない。
何かをしたとたん、あなたが揺れ動くからだ。
何かをしたとたん、あなたは緊張する。
何かをしたとたん、自我が再び裏口からしのび込む ――行為とともに行為する
者が現れてくるからだ。
瞑想とは無為の境地だ。
確かに最初のうちは や ら なければならない。
だが、ゆっくりと瞑想が深まるにつれ、理解が生まれ、行為は消えてゆく。
そうなったら 瞑想は行為ではなく、実存のありようになっている。
行為は所有の世界の一部だ。
行為は所有のもうひとつの側面だ。
もちたければ、 行為しなければならない。
もちたければ、 行為せざるをえない。
数限りない人々が行為と所有の世界にとどまっている。
これら二つの彼方にもうひとつの世界 ――存在ビーイングの世界がある。
そこではあなたは何ももたず、行為の主体でもない。
すべては完璧に静かだ。
すべては完全に受動的であり、さざ波ひとつ立っていない。
……だから彼は瞑想をしていたのではない、いいかね。
彼は何もせずにただ坐っていただけだ。
すると突然、彼のまわりに花が舞い落ちはじめた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

425避難民のマジレスさん:2019/03/30(土) 09:56:03 ID:LC3de7YgO
>>424
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

それはふつうの花ではなかった。
この世の花ではなかった。
地上の花ではなかった。
それらは樹々から落ちてくる のではなく、空から舞い降りてきた。
いずこからともなく、忽然と現れてきた。
彼はこれほど美しく、鮮やかで、 かぐわしい花を見たことがなかった。
それらは彼方の花、黄金の華だった。
彼が畏敬の念に打たれ、驚嘆したのも当然だ。
すると神々が 「あなたの空くうについての講話は何とすばらしいのでしょう」
とささやきかけてくる声が聞こえてきた。
彼はすっかり当惑してしまった。
「空についての講話ですって? 私は空について話してなどいません」
とスブーティは言った。
「あなたは空について話さなかったし、 私たちは空について聴きませんでし
た」と神々は応えた。
「それが真の空なのです」
そして花がスブーティの上に雨のように降り注いだ。
これは私がこれまでに出会った最も美しい物語のひとつだ。
そこには深遠な意味が隠されている。
あなたが沈黙していれば、完全に沈黙していれば、 <存在>があなたの上に降り
注ぎはじめる。
祝福が雨のように降り注いでくる。
あなたが沈黙していれば、 あなたが瞑想の状態にあり、 何もせずただ存在し
ているなら、 全存在が、その恩寵のすべて、その 美と祝福のすべてをあなたの
上に結集させる。
これがイエスが「至福の境地」と呼んでいる状態だ。
はじめてあなたは<存在>の荘厳な輝きに気つ゛くようになる。
そうなったら、一瞬一瞬が永遠であり、息をする ことでさえすばらしい喜び、
すばらしい祝祭になる。
あなたが消えた瞬間、苦しみも消える。
苦しみは自我の影だ。
が、祝福は自然な現象であり、 それはあなたがからっぽになった とたんに、
ひとりでに起こってくる。
全存在が押し寄せ、爆発する。
ルートヴィッヒ・ヴィットゲンシュタインは「神秘的なのは 世界の成り立ちで
はなく、それが存在するということだ」と言っている。
世界が存在すること自体が神秘だ。
どこか他の場所に出かけてゆく必要はない。
神秘は隠されていない。
神秘は至るところにある。
世界が存在すること自体が神秘だ!
神秘を探すために深く掘り下げる必要はない。
神秘は至るところにある。
深みにだけでなく表面にもある。
ただそれを感じるこころハートがあればいい。
ただいつでも呼応できるように開いている実存があればいい。
ただ油断なく醒めていれば――努力や緊張をいっさいともなわずに 油断なく醒
めていればいい。
必要なのは瞑想の状態だけだ。
それがあれば、<存在>の恩恵が雨のように降り注ぎはじめる。
(p384)
さて、経文だ――
呂祖師は言った。
ところで、点検できる確証の体験が三つある。
その第一は、瞑想の状態に入ったときに神々が谷間にいるという体験である。
人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ、 そのひと
つひとつがひじょうに鮮明である。
だが、その音はすべて谷間でこだまが反響するように聞こえる。
いつも聞くことができるのだが、自分自身の声はけっして聞こえない。
これが「神々が谷間にいる」といわれる体験である。
呂祖は、三つの確かな手応えのあるしるしについて語っている。
彼は最初のしるしを「神々が谷間にいる」と表現している。
歩んでゆく者たちは――あなたがたはみな瞑想に向かって歩んでいる――この
奇妙だがとてつもなく美しい空間に出くわすことになる。
瞑想があなたの内側で結晶しはじめた最初のしるしは「神々が谷間にいる」と
述べられている体験だ。
この隠喩メタファーは何を意味しているのだろう?
それは瞑想があなたのなかで起こりはじめると、たちまち全存在が谷間となり
、あなたは丘の頂上に立つということだ。
あなたは上昇しはじめる。
全世界が遥か遠くに見下ろせる深い谷間となり、あなたは日の照る丘の上に坐
っている。
瞑想はあなたを上昇させる――物理的にではなく、霊的にだ。
その現象が起こるときにははっきりわかる。
それらがしるしになる。
瞑想しながら内側に入ってゆくと、突然、あなたは自分と周囲の騒音のあいだ
に大きな距離が生まれているのに気つ゛く。
あなたは雑踏マーケットプレイスの只なかに坐っているかもしれないが、突然
、自分と騒音のあいだにすきまが生まれているのに気つ゛く。
ほんの一瞬前には、これらの騒音はほとんどあなたと一体化していた。
あなたはそのなかにあった。
今やあなたはそれらから遠ざかりつつある。
あなたの身体は前と同じようにそこにある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

426避難民のマジレスさん:2019/03/30(土) 10:01:31 ID:LC3de7YgO
>>425
>「神々が谷間にいる」・・・それは瞑想があなたのなかで起こりはじめると
、たちまち全存在が谷間となり、あなたは丘の頂上に立つということだ。
あなたは上昇しはじめる。
全世界が遥か遠くに見下ろせる深い谷間となり、あなたは日の照る丘の上に坐
っている。
・・・・瞑想しながら内側に入ってゆくと、突然、あなたは自分と周囲の騒音
のあいだに大きな距離が生まれているのに気つ゛く。

これが、虚室生白 であり、「神々が谷間にいる」の意味でありますね。
(´・(∀)・`)つ

427鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/30(土) 22:54:44 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、サマーディに入り、身体から意識が拡大してきている状態なのじゃ。
自分が無く、光だけがあると感じるのじゃ。
いくつも意識が在るように感じるのじゃ。
どこまでも意識が大きくなっているから上に跳んでいくように感じるのじゃ。
わかっていれば怖くないのじゃ。

428避難民のマジレスさん:2019/03/30(土) 23:42:29 ID:LC3de7YgO
>>425
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

山に出かける必要はない――
これは内側にある本当の山を見いだす方法だ。
これは内側にあるヒマラヤを見いだす方法だ。
あなたは深い静けさのなかへと入ってゆく。
すると、すぐそばで聞こえていた騒音が――そこにはひどい混乱があった――
にわかに遠ざかり、後退してゆく。
外の世界はすべてこれまで通りで、何ひとつ変わっていない。
あなたは瞑想をはじめた同じ場所に坐っている。が、瞑想が深まってゆくにつ
れて、それが感じられてくる。
外界の事物とのあいだに距離が生じてくるのが感じられる。
人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ……まるで
ふいに世界があなたから遠ざかってしまったかのようだ。
あるいはあなたが世界から遠ざかってしまったかのようだ。
だが、ひとつひとつの思考はきわめてはっきりとしている。
外側で語られている言葉はすべてきわめてはっきりしている。
実のところ、かつてなかったほどはっきりしている。
これが瞑想の不思議な働きだ。
あなたは無意識になってゆくのではない。というのも、無意識のときにも騒音
は消えてゆくからだ。
例えば、クロロホルムを嗅がされれば、あなたはこれと同じ現象が起こってゆ
くのを感じるだろう。
騒音がどんどん遠くへ遠くへ遠ざかってゆき……やがて消えてゆく。が、あな
たは無意識になってしまっている。
何ひとつはっきりと聞くことはできない。
瞑想のなかでもまったく同じことが起こるが、違いがある――騒音がどんどん
遠ざかってゆくが、ひとつひとつの音がひじょうにはっきり聞こえてくる。
かつてなかったほどはっきりと聞こえる。
それは目撃者が生まれてきているからだ。
最初はあなたも騒音の一部と化していた。
あなたは騒音のなかに失われていた。
今やあなたは目撃者、観察者であり、あまりに静かなので、あらゆるものをあ
りありと鮮明に見ることができる。騒音は遠くにあるが、かつてなかったほど
鮮明にはっきり聞こえてくる。
瞑想しながら音楽を聴いていると、これが起こる。
まず音楽が遠ざかってゆくのが感じられる。
つつ゛いて、それと同時に、ひとつひとつの音がかつてなかったほど鮮明には
っきり聞こえてくる。
以前は、音と音が混ざり合い、互いに重なり合っていた。
今や、ひとつひとつの音がみな原子のようにきわだっている。
ひとつひとつの音が分離している。
人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ、 そのひと
つひとつがひじょうに鮮明である。
だが、その音は すべて谷間でこだまが反響するように聞こえる。

そして、三つめのことが感じられる。
音が直接ではなく、間接的に聞こえてくる。
まるで音そのものではなく、こだまのように。
音はだんだん希薄になり、その実体が失われる。
音はだんだん実質をなくし、その物質性が消える。
それらはもはや重くなく、軽い。
その重力のなさを感じることができる――それはこだまのようだ。全存在がこだまのようになる。
ヒンドゥー教の神秘家たちが世界を「マーヤ」――まぼろし――と呼ぶのはそ
のためだ。
「まぼろし」とは非現実という意味ではなく、たんに影やこだまに似ていると
いうことだ。
それは実在しないという意味ではなく、たんに夢に似ているということだ。
影のようであり、夢のようであり、こだまのようだ――そのように感じられる。
それらが現実だとは感じられない。
全存在が夢と化し、ひじょうに鮮明にくっきりと見えるのは、あなたが目を見
張っているからだ。
夢まぼろしのようなのは、あなたが目を見張っているからだ。
最初、あなたは夢のなかに我を忘れていた ――注意を怠り、これが現実だと考
えていた。
あなたは自分の想念マインドに同一化していた。
今はもう想念に同一化することなく、 分離した実体があなたのなかに生まれ
ている ――それが注意深く見守る状態、サクシだ。
いつも聞くことができるのだが、自分自身の声はけっして聞こえない。

そして四つめのことが感じられる。
あなたはまわりにあるすべてのものを聞くことができる――人々が話したり、
歩いたりしている。子供たちが笑っている。誰かが泣いている。
鳥が鳴き、車が通り過ぎる。
飛行機や汽車……あなたはあらゆる音を聞くことができる。
が、ただひとつ例外がある――あなたは自分自身の声を聞くことができない。
あなたは完全に消えてしまっている。
あなたは空からであり、ひとつのスブーティになりつつある。
あなたはもぬけのからだ。
あなたはひとつの実体として自分自身を感じることができない。
あらゆる騒音がそこにあるのに、あなたの内なる騒音だけは消えている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

429避難民のマジレスさん:2019/03/31(日) 07:23:45 ID:LC3de7YgO
>>428
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

ふつうは外界よりも内界のほうが騒々しい。
本当の混乱はあなたの内側にある。
本当の狂気はそこにある。
そして、外側の狂気と内側の狂気が出会うとき、地獄が生み出される。
外側の狂気はつつ゛いてゆく。
それはあなたがつくりだしたわけではないから、消し去ることはできないが、
内なる狂気は簡単に消し去ることができる。
それはあなたの手の内にある。
内なる狂気が消えてしまえば、
外なる狂気は実体を失う。
それは現実感をすっかり失って、まぼろしになる。
自分の古い声は見つからない。
内側に思考が湧いてこないので、音がない。
これが「神々が谷間にいる」と呼ばれる体験だ。
あなたはからっぽになっている。
あらゆるものが谷の底深くに沈んでゆき、
聞こえてくるのはこだまだけだ。
そして、こだまが聞こえてきても、
あなたはけっして影響を受けることがない。

先日、狂った男がアヌラーダを強姦しようとした。男は強姦未遂でつかまった。
私は、彼女がその事件に影響されたかどうか確かめようとアヌラーダを呼んだ。
ひじょうに嬉しいことに、
彼女はまったく影響されていなかった。
事件はまったく尾を引いていなかった。
瞑想のなかへと成長することの美しさがそこにある。
たとえ殺されても、あなたは影響を受けないままでいる。
さあ、彼女を強姦しようとするのは残忍なことだ。
ひとりのインド人が強姦しようとした。
これがインドの真の姿であることをモラジ・デサイに知らせてやろう。
そして事件はこれ一件だけではない。
それはありふれた出来事になりつつある。
私のサニヤシンが外を歩くのはひじょうに危なくなっている。
この醜いインドは私のインドではない。
この醜いインドはモラジ・デサイやシャラン・シンやアドヴァニやその一党に
属している。
私はこの醜いインドとはまったく関係がない。
だが、もうひとつのインドがある。
覚者ブッダたちのインド、永遠のインドだ。
私はその一部だ。あなたがたはその一部だ。
実のところ、瞑想が起こっている場所ならどこでも、その人はこの永遠のイン
ドの一部になる。
その永遠のインドは地理的なものではなく、霊的な空間だ。
その永遠のインドの一部になることがサニヤシンになることだ。
私は嬉しかった。
このうえもなく嬉しかった。
アヌラーダを見ると、彼女はまったく影響されていないし、恐怖のかけらすら
なく、何もなかった――まるで何事もなかったかのように、まるでその企ては
夢のなかで行なわれたかのように。
人はこのようにしてゆっくり瞑想のなかへ成長してゆく。
あらゆるものが実体を失ってゆく。
人はあらゆるものを見ることができる。
彼女は応戦した。
彼女は勇気があり、どうどうとしていた。
彼女は為すべきことはすべてやった。
彼女は屈服しなかった――が、内なる意識は影響を受けていなかった。

これが「神々が谷間にいる」といわれる体験である。
ときおり次のような体験が起こることがある。
人が静かな状態になるとすぐに、目の光が燃えあがりはじめ、 眼前にあるもの
がすべて明るく輝き、 まるで雲のなかにいるかのように感じられる。
目を開けて身体を探しても、もはやどこにも見つからない。
これが「からっぽの部屋が明るく輝く」という体験である。
内も外も、あらゆるものが等しく輝いている。
これはひじょうによいしるしである。
さあ、第二のしるしは「からっぽの部屋が明るく輝く」と呼ばれている。
からっぽにならないかぎり、あなたは暗いままだ、暗闇のままだ。
「からっぽの部屋が明るく輝く」――
あなたが完全にからっぽであり、
あなたの内側に誰もいないとき、
光が現れる。
自我エゴの存在が闇をつくりだす。
暗闇と自我は同じ意味だ。
無我と光は同じ意味だ。
だから瞑想の技法はすべてみな、どこを目指そうとも、最終的には、あなたの
内なる実存であるこのからっぽの部屋に向かう。
沈黙の空間だけが残され、あなたはその空間に、光源をもたない大いなる光が
現れるのを見る。
それは太陽が昇るときに見える光のようではない。
太陽からやって来る光は永遠のものではありえないからだ。
夜になればそれは再び消え失せる。
またそれは燃料を必要とする光のようではない。
なぜなら、燃料がつきるとその光は消えてしまうからだ。
この光にはひじょうに神秘的な性質がある。
それには源がなく、原因がない。
それは引き起こされるものではない。
それゆえに、この光はひとたび現れると 存続し、けっして消えることがない。
実際、それはすでにそこにある。
それが見えるほどあなたがからっぽでないだけだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

430鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/31(日) 22:56:33 ID:1d4drIFg0
インドもなかなか物騒になっているというのじゃ。
時代の転換期なのじゃろう。
インドに目覚めたものが多いのは、病んでいるから医者が多いようなものとオショーも言っていたのじゃ。
しかし、お釈迦様やオショーも生んだインドは永遠の目覚めの光を世界に放っているのじゃ。

431避難民のマジレスさん:2019/04/01(月) 06:52:40 ID:LC3de7YgO
>>429
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

そしてこの光が内側で成長しはじめると、 人が静かな状態になるとすぐに 次
のような体験が起こる。
あなたが沈黙して坐り、静かで、穏やかになり、 内も外も不動であるなら、た
だちに 目の光が燃えあがりはじめる。
突然、目から光が放たれているのに気つ゛く。
これはまだ科学が気つ゛いていない体験だ。
科学者は光が目に飛び込んでくると考えるが、その逆はけっして思いつかない。
光は外からやって来て、目に飛び込み、あなたのなかに入る。
これは物語の半分に過ぎない。
後の半分は神秘家と瞑想者だけが知っている。
光が入ってくる――これは一面にすぎない。
光が目から放たれるというもうひとつの側面がある。
そして 光が目から放射されはじめると、 目の光が燃えあがりはじめ、 眼前にあるものがすべて明るく輝く。
そうなったらこの存在全体が明るく輝く。
そうなったら樹々はかつてなかったほど青々 と繁り、その緑は光輝くような性
質を帯びてくる。
そうなったら薔薇はかつてなかったほど色鮮やかに見える。
薔薇は同じだし、樹々も同じだが、 あなたから放たれた何かが注ぎ込まれる
ことで、 今まで以上にはっきりと見える。
そうなったら小さなものごとがすばらしく美しくなる。
覚者ブッダの目にはただのきれいな石が、エリザベス女王に とってのコイヌー
ル・ダイヤモンドよりも美しく見えている。
エリザベス女王には世界最大のダイヤモンドであるコイヌールでさえ、 覚者の
目に映るふつうの石ほどにも美しく見えてはいない。
なぜだろう?
覚者の目は光を放つことができるからだ。
その光を浴びると、 ふつうの石がコイヌールになる。
ふつうの人々が覚者になる。
覚者にとっては、あらゆるものが仏性に満ちている。
「私が光明を得た日、全存在が光明を得た。 樹や山や川や岩――あらゆるもの
が光明を得た」 と仏陀が言ったのはそのためだ。
全存在がさらなる豊かさへと高められた。
それは、あなたが<存在>にどれだけ 多くのものを注ぎ込めるかにかかってい
る。
あなたが注いだ分だけが返ってくる。
何も注ぎ込まなければ何ひとつ返ってこない。
得るためにはまず注ぎ込まなければならない。
創造的な人々が非創造的な人々よりも 美や喜びをたくさん知っているのはそ
のためだ。
なぜなら、創造的な人々は<存在>に何かを注ぎ込んでいるからだ。
<存在>は応えてくれる……気前よく応えてくれる。
あなたの目はうつろだ――何も与えず、ひたすら養ってゆく。
ため込むばかりで、分かち合うことがない。
だから分かち合う力をもった目に出くわすと、 必ずそこにはとほうもない質の
違いが、 とほうもない美しさ、静けさ、力、潜在能力がある。
光をあなたに注ぎ込むことのできる目を見ること ができたら、あなたはこころ
の底から揺り動かされる。
だが、その光を見るのでさえ、今より もう少し注意深くならなければいけな
い。
太陽が昇り、夜が明けているのに、あなたはぐっすり眠っているかもしれない

だとしたら、あなたにとって太陽は昇っていないし、朝は来ていない。
あなたは暗い夜のなか、悪夢のなかをさまよっているのかもしれない。
あなたはもう少し醒めていなければならないのに、こうしたことが起こってい
る。
現代人の意識のなかで、この種の体験は幻覚剤サイケデリックスを通して わず
かながらも訪れた。
それは強いられたものであり、暴力的なものだ。
それは自然なものではなく、みずからの生化学反応を無理やりねじ伏せている

だが、その体験は起こり、たくさんの人々が薬物ドラッグを通して 瞑想にたど
り着いた。
それは薬物が、彼らが一度も自覚して いなかったことに気つ゛かせてくれたか
らだ。
ある薬物を取ると、世界が今よりもっと美しく見えてくる。
何の変哲もないものが並はずれたもののように見える。
何が起こっているのだろう?
その薬物は、内なる光があなたの目から事物の上に放たれるように強いている
―― だが、それは強いられた現象であり、危険だ。
薬物による幻覚体験が終わるたびに 、あなたは前よりももっと深い暗闇に落ち
てゆく。
そして薬物を長いあいだ 常用してきた人の目は ま っ た く うつろになってし
まう。
彼は目から光を放射してきたが、それをつくりだすすべを知らないからだ。
彼はもっと多くの光をつくりだすために、どうやって内なる光を巡らせたらよ
いかを 知らず、放射してばかりいる。
だから薬物を摂取する者は次第に目の活力、目の 若々しさを失ってゆく。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

432鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/01(月) 22:29:01 ID:1d4drIFg0
人が物を見ることができるのは自分の眼から光が出ているからという信仰が在るのじゃ。
光や気のエネルギーは人の体に入ってくるだけでなく出て行く道も在るのじゃ。
それは常に全てと循環しているのじゃ。
目覚めれば全てはそのような本質の光と気付くのじゃ。

433避難民のマジレスさん:2019/04/02(火) 04:35:26 ID:LC3de7YgO
>>431
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

彼の目はどんよりと曇った、暗い、ブラックホールになる。
それとまったく逆のことが瞑想を通して起こる。
あなたが静かになればなるほど、 さらにたくさんの光が生み出される―― そ
して、それは強要された現象ではない。
あなたがあまりに多くの光を蓄えているので、 それはあなたの目からあふれは
じめる。
それはただただあふれはじめる。
雲が水分でいっぱいになると 雨を降らさざるをえないように、 ありあまるほ
どもっているので あなたは分かち合わざるをえなくなる。
あなたが光に満ちていると、そこへ さらにたくさんの光が入り込込んできて
、 刻一刻と流れ込み、それが果てしなくつつ゛いて ゆく――今やあなたは分か
ち合うことができる。
あなたは樹々や岩や人々と分かち合うことができる。
あなたは天地万物に与えることができる。
これはひじょうに好ましいしるしだ。
だが、薬物ドラッグにだまされてはならない。
薬物によって得られるのは 偽りの体験、強要された体験にすぎず、そして強い
られた体験はすべて あなたの内なる生体環境エコロジー、あなたの内なる調和
にとって 破壊的であり、最後には、あなたは得るのではなく、失ってしまう。
ときおり次のような体験が起こることがある。
人が静かな状態になるとすぐに、 目の光が燃えあがりはじめ……
あなたはそれを体験するだろう!
あなたの目は炎のように燃えあがる。
そして目が燃えあがると、まるで事物がもはや三次元ではなく四次元になった
かのように、天地万物のすべてが新しい色合い、新しい深み、新しい次元を帯
びるようになる。
新しい次元――光輝く次元がつけ加わる。

目の光が燃えあがりはじめ、眼前にあるものがすべて明るく輝き、 まるで雲の
なかにいるかのように感じられる。
あたかも太陽に照らされて、
雲全体が燃えているかのようであり、
あなたは雲のなかにいて、その雲は
陽光を反射し火のように輝いている。
人はこの光の雲のなかで暮らすようになる。
人はそのなかで眠り、そのなかを歩き、そのなかで坐る。
この雲には切れ目がない。
この雲は霊光オーラとしてとらえられてきた。
見る目をそなえた人々は聖人の頭のまわりや、身体のまわりに光を見る。
精妙な霊光が彼らを取り巻いている。
今や科学でさえそれを認めつつある――特にロシアでは、キルリアン写真はき
わめて意義深い結論に達した。
そのひとつはあらゆるものが精妙な霊光に囲まれているというものだ――見る
目さえあればいい――
その人の状態が変わると霊光も変わる。
さあ、これは科学的な結論だ。
病気のときには、あなたの霊光も変わる。
それはくすんでいて、悲しげで、艶がない。
死が六か月以内に迫っていれば、あなたの霊光は消えてしまう。
そうなるとあなたの身体のまわりには光がなくなる。
あなたが幸せで、喜びにあふれ、充実し、満たされていると、霊光はどんどん
大きく広がり、どんどん明るくなってゆく。
もちろん、キルリアン写真の実験は覚者ブッダにはまだ行なわれたことがない。
それにソ連では、とりわけ現代では、仏陀のような人を探し出すのは容易なこ
とではない。
不幸なことだが、国中がまったく愚かな罠に陥ってしまっている。
国中が唯物主義の罠に陥っている。
これまで唯物主義がひとつの国を支配したことはなかった。
ソ連のようにひとつの国が唯物主義に条件つ゛けられたことはかつてなかった。
子どもたちは神も魂も存在せず、人間はただの肉体にすぎないと教え込まれる。
祈りのことなど、瞑想のことなど、いかにして静かになるかなど眼中にない。
イエスや仏陀やスブーティのような人に出くわしたら、キルリアン写真の技術
者は奇蹟を目の当たりにするだろう。
そうなったら彼らは最も純粋な光、最も涼しい光に出くわすだろう。
それは光であり、生命であり、愛だ。

目を開けて身体を探しても……
あなたの内側が光に満ち、目が火を放ち、全存在が新しい生命の炎と化してい
るその瞬間に、目を開いて身体を見つけようとしても見つからない。
こういった瞬間には物質は消滅する。
実際、現代物理学は「物質はいっさい存在しない。すべてはまぼろしだ」
と言っている。
あなたの身体はけっして固いものでできているのではない。
現代物理学は「奥深くでは、あなたの身体は電子でできている」と言う。
電子とは光の粒子、光の原子のことだ。
だからこの内なる火があかあかと燃えあがり、そこに現前しているときに、目
を開いても、自分の肉体を見つけることはできない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

434鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/02(火) 22:59:37 ID:1d4drIFg0
西洋でも昔はエーテルというものが大気に満ちていると考えられていたのじゃ。
科学的な実験で否定されてしまったのじゃ。
しかし、エーテルがあるとしたほうが説明の付くことも多いのじゃ。
気もエーテルと同じく全てにあるものじゃ。
それは全てとつながるエネルギーなのじゃ。

435避難民のマジレスさん:2019/04/03(水) 07:11:52 ID:LC3de7YgO
>>433
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

身体がそこにないのではない。
それはそこにあるのだが、
これまで見てきたように
それを見ることはできない。
それは光の雲と化している。
あなたは霊光オーラを見ている。
光景が一変してしまっている。
これまで一度も見たことがないものが見え、
それまで見てきたものはすべて姿を消している。
それはあなたの透視力ヴィジョンによる。
霊的なものを見る透視力をそなえていないので、あなたは肉体、物質的なもの
しか見ることができない。
物質を見るには、何もいらない――知性もいらないし、
瞑想的な質もいらないし、祈りもいらない。
物質を見るのはひじょうに粗雑なことだ。
霊的なものを見るのはひじょうに精妙なことだ。
ひとたび霊的なものを見ることができれば、あなたは物質が消え失せるのを目
にすることができる。
その二つを同時に見ることはできない。
もう一度くり返そう。
ヒンドゥー教の神秘家たちがこの世界を「まぼろし」と読んだのはそのためだ。
つまり彼らは物質が存在していないことを見抜く地点にまで到達したのだ。
存在しているものはすべて神に他ならない。
ただ意識だけが存在している。
物質というのは錯覚にすぎない。
あなたが正しく見たことがないために、物質が立ち現れてくる。
それは 意 識 に他ならない。
例えば、私があなたを見るとき、私はあなたを物質ではなく意識として見ている。
あなたに触れるとき、私はあなたの身体に触れているのではなく、あなたの内
奥の中核に触れている。
あなたのエネルギーに触れている。
あなたの目をのぞき込むとき、私はあなたの肉眼をのぞき込んでいるのではな
く、 あなたの霊眼に触れようとしている。
それはそこにある。
あなたにとって、それはまだ存在していないけれど、 私にとってはそれはすで
に存在している。
あなたが私に耳を傾け、 分かち合われているものを理解しようとするなら、
じきにそれはあなたにとっても現実になるだろう。
神があるか、世界があるか、そのいずれかだ。
両者がともに見つかることはけっしてない。
世界を見ている者たちはけっして神を見ることがない。
そして神を見た者たち、彼らにとって世界は消え失せている。
"世界"というのはたんなる誤解にすぎなかった。
それは数を数えたり、算数をしていて計算間違いをするようなものだ。
二足す二を五にしてしまうと、ものごと全体がおかしくなってしまう。
もとにもどって誤りを見つけだし、それを正せば、 二足す二は再び四となり、
ものごと全体が変わる。
それとまったく同じように、物質というのは目の錯覚だ。
それはヒンドゥー教の神秘家たちが言っていることとそっくりだ。
暗闇のなかで縄を見ると、あなたはそれを蛇だと思い込んでしまう。
蛇だと思い込んだため、あなたは駆けだしてしまう。
心臓はドキドキし、息は切れ、震えている。
涼しい夜だというのに、あなたは汗をかいている。
あなたは心臓発作さえ起こしかねない。
まったく何の理由もないのに!
朝になれば、それが縄にすぎなかったことがわかる。
これはひじょうに馬鹿げたことだ。

私はあるとき友人とともにある家に泊まったことがある。
その家にはハツカネズミ やドブネズミがぞろぞろいた。
その夜のこと、私たちが寝ているあいだにネズミが 友人のベッドに入り込んだ
にちがいない。
ネズミが彼を、その足を噛もうとした ところで、彼は目を覚ました。
彼はベッドから飛び出して、大きな悲鳴をあげた。
ネズミはきっと逃げたのだろう。
何の害もなかった――噛まれる寸前ではあったけれど 。
だが、彼はとても心配した。
彼はそれが蛇だったのではないかと不安になった。
私は 「馬鹿だな!蛇なんかいないよ。いるはずがないじゃないか」と言って、
二人であたり を見まわした。
「君の家にもネズミはたくさんいるだろう。きっとネズミだよ」 ――それで彼
も納得した。
私たちは眠りについた。
すべては丸くおさまった。
私たちは川に行き、そこで泳いだ後、帰宅した。昼食をすませた頃、家のなか
で蛇が 見つかった。
すると友人はたちまち気絶してしまった――蛇がいると思っただけで!
私は色々やってみたが、すでに気を失ってしまっているので、どうしようもな
かった。
一時間半ほど彼は気を失い、ある種の昏睡状態に陥っていた。
医者たちが呼ばれて、彼らが診察した。
「毒なんてこれっぽっちもありませんよ。 ネズミでさえ何の悪さもしていな
いのに、蛇が何かをするわけがないでしょう」
だが、それでも彼を正気にもどすために注射が打たれた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

436鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/03(水) 22:15:05 ID:1d4drIFg0
オショーの説くとおり全ては意識なのじゃ。
全ての宇宙には意識だけがあると言えるものじゃ。
物質も大気も全て意識の一欠けらに過ぎないものじゃ。
それらを別の名称で呼び、イメージによって認識するのは記憶による仮設であるだけなのじゃ。
全ては隙間もなく繋がり合い、永遠に存在する意識であるだけなのじゃ。

437避難民のマジレスさん:2019/04/03(水) 23:06:39 ID:LC3de7YgO
>>435
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

ちょっとした思い込み……が、思い込みが現実をつくりだすことがある。
縄を見て、駆けだすとする―― そのとき駆けているのは現実であり、 心臓が
ドキドキしているのも現実だ。
あなたは心臓発作を起こして、 死んでしまうことさえある――それは現実だ!
だが、蛇はそこにいなかった。
それはただの思い込みにすぎなかった。
神秘家たちは、「世界はただの思い込みにすぎない」 と言う。
あなたは怖がらなくてもいいのに怖がり、 逃げなくてもいいのに逃げだし、
心配しなくてもいいのに心配している。
それはただの思い込み、勘違いにすぎない。
世界は存在せず、ただ神のみがある。
すべてのものはただ意識のみで成り立っている。
目を開けて身体を探しても、もはやどこにも見つからない。
これが「からっぽの部屋が明るく輝く」という体験である。
内も外も、あらゆるものが等しく輝いている。
これはひじょうによいしるしである。
これらのことを理解しておかなければいけない。
こういったことは、あなたがたにもいずれ起こることになるからだ。
理解しておくことは助けになる。
そうしておかないと、ある日、目を開けて、自分の身体が見つからなかったら
、あなたは狂ってしまうかもしれない。
あなたはきっと何かまずいことが起こったと思うだろう――死んでしまったか
、狂ってしまったかのどちらかだ。
身体はどうなってしまったんだろう?
だが、この経文を理解しておけば、正しい瞬間が来たときに思い出すだろう。
私がこれほど多くの経典について語っているのはそのためだ。
ことが起こった時にあなたがふいをつかれないよう、
ありとあらゆる可能性に気つ゛かせるためだ。
あなたには知識があり、理解する力があり、すでに地図をもっている。
あなたは自分がどこにいるかを確かめることができ、その理解のなかに安らぐ
ことができる。
あるいは、坐って瞑想していると、 肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじ
める。
坐ったままでいるのがむずかしくなり、 上に引きあげられるような感じがす
る。
これは 「精神が天に帰り、その頂点に触れる」 と呼ばれる体験である。
やがて、本当に上昇するような体験をすることがある。
第三のしるしだ――「精神が天に帰り、その頂点に触れる」
これはすぐに起こる。
これはごく初歩的な段階で起こりはじめる。
静かに坐っていると、突然、地面から少し、十五センチほど浮いているような
感じになる。
びっくりして目を開けると、あなたはちゃんと地面の上に坐っている。
そこであなたは夢を見ていたにちがいないと考える。
いいや、夢を見ていたわけではない。
あなたの肉体は地面の上にとどまっていた。
だが、あなたには別の身体、肉体の内に隠されている 光の身体――アストラル
体、微細体、ヴァイタル体、あるいは なんとでも好きなように呼べばいい――
がある。
その身体が浮かびあがりはじめる。
内側から感じられるのはその身体に他ならない。
なぜなら、それはあなたの内界だからだ。
目を開けると、肉体は地面の上に、 前と同じ姿でちゃんと坐っている。
幻覚を見ていたのだと決めつけてはいけない。
それは現に起こったことだ。
あなたは少し浮かびあがったのだ―― ただし、第一身体ではなく第二身体が。
肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじめる。
それと同時に、いつであれ地面から浮上したと感じるときには――まるで重力
がもはやあなたに影響を与えなくなり、別の法則が働きはじめたかのようだ
……私はその法則を「恩寵の法則」と呼んでいる。
法則のひとつは重力の法則であり、それはあなたを下に引きおろす。
私はもうひとつの法則を「恩寵の法則」と呼んでいるが、それはあなたを上に
引きあげる。
そして、遅かれ早かれ、科学はそれを必ず発見するにちがいない。
なぜなら、法則はすべて必ず正反対の法則によって補足されるものだからだ。
単独で存在しうる法則はない。
重力にはそれを補うものがあるはずだ。
昼には夜があり、夏には冬があり、男には女があり、愛には憎しみがあり、
生には死があり、<陰>には<陽>があるように。
だから、それとまったく同じように、もう一方の極を補い、補完する法則があ
るにちがいない。
その法則を私は「恩寵の法則」と呼んでいる。
それはあなたを上に引きあげる。

肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじめる
、という体験が起こると、それと同時に……坐ったままでいるのがむずかしく
なり、 上に引きあげられるような感じがする。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

438鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/04(木) 22:44:36 ID:1d4drIFg0
瞑想をしていればいろいろな現象が起こるものじゃ。
意識が拡大したせいなのじゃ。
今までの常識が覆ることに驚き、怖くなる者もいるじゃろう。
それでも恐れずに進むことが大事なのじゃ。

439避難民のマジレスさん:2019/04/05(金) 01:28:14 ID:LC3de7YgO
>>437
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

これは 「精神が天に帰り、その頂点に触れる」 と呼ばれる体験である。
今や上昇の旅がはじまろうとしている。
そして、いいかね。
上昇と内向は同じものを指し、外向と下降は同じものを指している。
内側に入れば入るほど、あなたはさらに高く上昇してゆく。
高みに達すれば達するほど、あなたはさらなる深みに入ってゆく。
それらは同一の次元であり、同じ次元の二つの局面だ。
やがて、本当に上昇するような体験をすることがある。
それもまた起こる。
この内なる身体がとても高く上昇しはじめ、とほうもない力を放ちはじめると
、肉体すらも一緒に浮かびはじめるかもしれない。
それは起こりうるが、わざわざそれを起こす必要はない。
それは愚かなことだ。
いつの日かそれが自然に起こったら、それを楽しんで、気楽に受けとめるがい
い。
こういった確かな手応えとなるしるしは理解すべきものであって、得意気に自
慢するようなものではない。
こういった体験は誰にも話してはいけない。
そうしないと自我エゴがもどってきて、そういった体験を食いものにしはじめ
る。
そしてひとたび自我が入り込めば、体験は消えてしまう。
けっして言いふらしてはならない。
もしそういった体験が起こったなら、ただそれを理解し、留意して、それにま
つわることはみな忘れてしまいなさい。

さて、これらの三つの体験はすべてこの世で得ることができる。
だが、これですべてを説明しつくせたわけではない。
この三つの体験は実際に起こりうる。
だが、それを体験したとしても、それを言葉にすることはできないだろう。
それに、ここで言われていることはみな象徴にすぎない。
ほんとうの体験は語ることができない。
言ったことはみな嘘になってしまう。
それを口にすれば、真実を曲げてしまうことになる。
真実は語ることができない。
だが、それでも私たちは何かを言わなければならない。
「神々が谷間にいる」「からっぽの部屋が明るく輝く」「精神が高みに帰る」
または「精神が天に帰り、その頂点に触れる」
――こういった隠喩メタファーが編み出されてきたのはそのためだ。
これらはあるものを指し示す象徴、隠喩にすぎない。
が、体験は広大無辺だ!

各人の気質や性癖に応じて異なった現象が現れるからだ。
これもまた覚えておかねばならない。こういったことすべてがあなたに起こる
わけではないかもしれない。
あるいは違った順序で起こるかもしれないし、違った形で起こるかもしれない。
人はみな本当にひとりひとり違っているから、起こりうることがらも数限りな
い。
これらの体験は、ある人にはここに描かれているような形では起こらないかも
しれない。
例えば、ある人には上昇してゆくような感じは起こらずに、どんどんどんどん
身体が大きくなって、部屋中に広がってゆくような感じが起こるかもしれない

身体はさらに広がりつつ゛け、家はその人のなかにすっぽりおさまってしまう。
それはひじょうに戸惑う体験でもある。
人は目を開けて、何が起こっているのか見たいと思う。
「私は狂ってゆくのだろうか?」――そしてまた
「全存在は私の内側にある。私はよそ者ではない。<存在>は私の外にあるので
はなく、私の内にある。星は私の内側をまわっている」と理解する瞬間が訪れ
てくることもある。
あるいはどんどん小さくなって分子になり、ほとんど目に見えなくなり、つい
には原子になって消えてしまう といった体験が起こる人もある。
それもまたありうる。
パタンジャリは起こりうる体験をすべて網羅している。
気質、才能、潜在能力は人によってそれぞれ違う。
だから体験はすべて人によって違う起こり方をする。
それはこれに似たことが起こるかもしれない ことを示唆しているにすぎない。
だから、狂うのではないかとか、 何か異様なことが起こりつつある などと考
えてはいけない。
こういった現象は、人が水を飲んで、その冷暖をおのずから知る ような性質の
ものである。
それは体験することだ。
水を飲んで、その水が冷たいか暖かいかわかるのはあなただけだ。
喉が渇いているなら、それで渇きがおさまるか、ますますつのるか、それがわ
かるのはあなただけだ。
坐ってあなたを外から観察している者には、あなたの内側で何が起こっている
のかわからない
――渇きがおさまるか、ますますつのるか、水は冷たいか暖かいか
――誰も外側からうかがい知ることはできない。
水を飲むあなたの姿を見ることはできても、あなたが味わっている体験を味わ
うことはできない。
人々はあなたが瞑想しているのを見ることができるが、内側で起こっているこ
とを見ることはできない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

440鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/05(金) 22:26:24 ID:1d4drIFg0
そのような体験は誰にでも起こり得るものじゃ。
しかし、起こらないこともあるのじゃ。
それが起こったからえらいと言う事はなく、起こらないからまだ未熟ということもないのじゃ。
囚われればそれも魔になるものじゃ。
囚われずに進むのじゃ。

441避難民のマジレスさん:2019/04/05(金) 22:46:10 ID:LC3de7YgO
>>439
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

ここにやって来て、人々が瞑想しているのを観察してもいいでしょうかと尋ね
る人が大勢いる。
私は言う――
「どうやって観察するつもりかね?」
観察することができた者はひとりもいない。
みんなが坐ったり、踊ったり、歌ったりしているのを見ることはできるが、そ
れは本当に起こっていることではない。
瞑想は彼らの内側で起こっている。
それは彼らにしか見ることができない。
だから、ほんとうに見たいのなら、あなたも参加しなければならない。
あなたは瞑想者にならなければいけない。
それが唯一の道だ。
それは借りるわけにはゆかない。
誰もあなたに知らせることはできない。
だから見物人としてここにやってくる者たちは時間を無駄にしているだけだ。
こういったことは参加してはじめて知ることができる。
それと同じように、人はこれらの体験を自分で確かめてみなければならない。
そのときはじめてそれは本物の体験になる。
呂祖が言っているからといって、それを鵜呑みにしてしまってはいけない。
ただ彼を理解しようとするがいい。
それはあなたの記憶にしまっておきなさい。
こういったことを信じる必要はないし、また疑う必要もない。
ただそれらを記憶のすみにとどめておきなさい。
そうすれば機が熟して何かが起こりはじめたら、いつでも理解することができ
る。
これはあなたが道に迷わないように地図を与えているだけのことだ。
なぜなら、内なる旅の道程にも道からはずれる地点がたくさんあるからだ。
人は思い違いをしかねない。
恐怖に駆られ、怯えてしまいかねない。
人は内なる世界から外界へと逃げてしまいかねない。
こういった体験は断じて人を怯えさせるようなものではないが、あなたの解釈
がそれを恐ろしいものにしてしまうかもしれない。
考えてもみるがいい。
ある日、目を開けると自分の身体が見えない。
あなたの解釈は恐怖を煽ってしまいかねない。
「これは紛れもない狂気のしるしだ」と。
あなたは瞑想をしなくなり、瞑想を恐れるようになってしまうかもしれない。
なぜなら、こうなるともう次に何が起こるか、どこへ進んでゆくのか、どこへ
向かってゆくのか、誰にもわからないからだ。
あなたは体験全体に疑いの目を向けるようになる。
あなたは自分が神経症になりつつあると思い込む。
毎日のように人々は私のもとにさまざまな体験を抱えてやって来る。
自分たちの体験を口にするとき、彼らの顔や目に恐怖を見てとることができる
――彼らは恐れている。
私がそれはよいしるしだと言うと、ただちに空気が変わる。
彼らは笑いはじめる。
彼らは嬉しくなる。
「これはすばらしい」
「あなたはよくやっている」
「あなたはうまく成長している」といった私の言葉を聞くやいなや、その場で
ただちに大きな変化が起こる。
悲しげな顔つきは消え、飛びあがって大喜びをする。
何も変わってはいない。
彼らの体験は同じだ。
ただ私が違う解釈を与えただけだ。
彼らは知らなかったので怯えていただけだ。
こういったことがらは信じる必要もないし、無視する必要もない。
ただいつかその時がきたら正しく解釈できるように、記憶の片隅にとどめてお
けばいい――
そして正しい解釈には こ の う え も な い 意義がある。
それなくしては内なる旅はきわめてむずかしいものになる。
きびすを返し、世間にもどって、まともな人間になりたいと思う地点がたくさ
んある。
人は何か異常なことが起こっていると思いはじめるが、「異常」という言葉に
は非難が込められている。
瞑想を一度もしたことがない人々に話したら、彼らは言うだろう。
「精神分析医か精神科医のところへ行ったらどうだい。診てもらったほうがい
いよ。君はまったくおかしなことを言っている――身体が大きくなるだって!
理性をすっかりなくしちまったのかい?身体が浮かびあがり、重力が消えてし
まうだって?あるいは、どんどん小さくなってゆき、消えてしまうだって?君
は幻覚を見ているんだよ、まぼろしの餌食になっちまったんだ。精神科医のと
ころへ行きたまえ、君をちゃんともと通りにしてくれる、君を治してくれるよ」
そして、精神分析家や精神科医のもとへ行ったら、 確 か に 彼らは治してく
れるだろう。
彼らは自分たちのいわゆる知識でもってあなた の頭をぶっ叩くだろう。
彼らは瞑想に関しては何も知らず、瞑想はまだ彼ら の意識のなかには入ってい
ない。
彼らは道の途上で起こる体験に関しては 何も知らないが、狂った人々のことな
らたくさんのことを知っている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

442避難民のマジレスさん:2019/04/06(土) 09:37:17 ID:LC3de7YgO
>>441
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

そして、ここでひとつこころにとめておくべきことがある。
それは、瞑想者にも起こるが狂人にも起こる類似した体験がたくさん あって、
それらがひじょうに紛らわしいので、精神科医はまず間違いなく 「この人は狂
っているから、治さなければならない」と見たてるだろうということだ。
彼はあなたを狂人として治療する――彼はあなたに薬を飲ませ、 注射を打ち、
電気ショックを与え、正常な精神状態に連れもどす。
彼はあなたの瞑想への可能性をすべて台なしにしてしまうだろう。
今や西洋ではこうした大きな危険がある。
瞑想を学んでいる人々が西洋にもどり、 自分たちの解釈を超えた何かが起こっ
たので、それを聖職者に話したとする―― キリスト教の聖職者は瞑想のことは
まったく何も知らない――聖職者は彼らを 精神科医のもとへ送り込む。
精神科医に話しても、彼が知っているのは 狂人に関することだけであり、覚者
ブッダに関してはまったくの無知だ。
しかも彼らの体験のいくつかは似かよっている。
医者はきっとこう解釈するだろう
――あなたは正常な状態から転落したのであり、引きもどしてやらねばならない。
そして彼がやることはどれも破壊的であり、あなたの身体、あなたの精神に打
撃を 与える。
その害があまりに大きいので、あなたは二度と再び瞑想に入れなくなって しま

――医者はそういうひどい障害をつくりだしかねない。
だから、ときに何かが起こったら、必ず 瞑想している人々のところへ行きな
さい。
世界中にセンターを開きなさい、 と私がしきりに言っているのはそのためだ

そうすればそこでサニヤシンは瞑想することができるし、 何かが起これば他の
サニヤシンに会うことができるし、 体験を分かち合いに行くことができる。
少なくともそこには共感を示してくれる人が誰かいるだろう。
少なくともあなたを非難しない人がいるだろう。
その人は あなたの体験を尊重し、 あなたの体験を受け入れ、 あなたに希望と
霊感を与え、
「それでいい、先へ進みなさい。もっと多くのことが起こるだろう」 と言って
くれる。
まさにこのために師が必要とされる―― あなたが信頼を寄せることのできる
誰か、ただ 「それでいい、もっと先へ進みなさい」 と言ってくれる誰かが。
そこでようやくあなたは前進することができる。 その旅は危険に満ちているか
らだ。
(p405)
呂祖師は言った。
光を巡らせる訓練は徐々に成果が現れてゆく。
その際、日常の務めを放棄してはならない。
私もまたそれを強調している――
サニヤシンは世間を放棄してはいけない。
あなたの瞑想は世間の只なかで成長してゆかねばならない。
それは日常生活の一部にならなければいけない。
あなたは逃避主義者になってはいけない。
なぜか?
古人は「仕事がやって来れば、それを引き受けなければならない。 ものごとが
やって来れば、それを根底から理解しなければならない」 と言っている。
正しい思考によって事を適切に処理してゆくなら、 光は外界の事物によって散
らされることなく、みずからの法則に従って巡る。
穏やかな目に見えない光の循環でさえこのようにして起こりはじめる。
すでにはっきりとした形をとった真の光の循環の場合は言うまでもない。
まず第一に、あなたがどのような状況のもとにいようとも、
それは神が授けた状況なのだから、拒絶してはいけない。
それはひとつの機会であり、成長するための好機だ。
もしその機会から逃げだしたら、あなたは成長しない。
ヒマラヤの洞窟に行き、そこで暮らしはじめ、その洞窟に深い愛着を抱くよう
になった人々は大人になれずにいる。
彼らは幼稚なままだ。
彼らは鍛えられていない。
世間に連れてこられたら、彼らはこなごなに打ち砕かれてしまう。
彼らはそれに絶えることができない。
数日前のこと、ヒマラヤで三ヶ月暮らしたサニヤシンがやってきた。
彼女は「もうここにいるのはこりごりです。私はもどりたいのです」
と言った。
さあ、これでは成熟を遂げたとは言えない。
彼女は今やヒマラヤに取り憑かれている。
彼女が自分の瞑想、静けさだと考えているものはすべて彼女のものではない。
それはたんなるヒマラヤの静寂の副産物にすぎない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

443鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/06(土) 22:33:27 ID:1d4drIFg0
瞑想は悟りという世間外の境地を目指す故に、常に常識外の体験が起こるものじゃ。
それを恐れて瞑想をやめてしまってはいかんのじゃ。
むしろそれを歓迎して、囚われないようにするのじゃ。
そのようにして進めば新しい、真実の世界が見えてくるのじゃ。

444避難民のマジレスさん:2019/04/06(土) 22:56:54 ID:LC3de7YgO
>>442
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

私は彼女に言った。
「ここに三週間ほどいて、それからあなたの静けさや瞑想がどうなったか話し
にきなさい。
もしそれが消えてしまうようなら、それはあなたのものではなかったというこ
とだ。
そうだとしたら、ヒマラヤになど行かないほうがいい。
ここで瞑想を深めなさい!
この人混みのなかで瞑想的になってからヒマラヤに行くのであれば、あなたの
瞑想は何千倍も深められるだろう。
息抜きに行くのはいいが、そこに執着してはいけない。
必ず世間にもどってきなさい」
そう、ときおり山に入るのはいい、それはすばらしいが、それに中毒してしま
い、世間を捨てることを考えはじめるのは完全に間違っている。
なぜなら、世間の嵐にもまれてこそ人は円熟してゆくからだ。
世間の挑戦を受けてこそあなたは結晶化する。
呂祖は「自分が置かれた状況を受け容れなさい。
それはあなたにふさわしい状況にちがいない。
だからあなたはそのなかにいるのだ」と言っている。
<存在>があなたの面倒を見てくれている。
それは何らかの理由があってあなたに与えられている。
それは偶然ではない。
偶然に起こることなど 何 も ない。
何であれあなたに必要なものがすべて与えられる。
ヒマラヤにいることが必要で あったなら、あなたはヒマラヤにいたことだろ
う。
必要に応じて、あなたがヒマラヤに出かけてゆくか、さもなければ ヒマラヤが
あなたのもとへやって来るかそのどちらかだ。
だから弟子に用意ができたときには……師が現れる。
あなたの内なる静けさが整ったときには、神がやって来る。
そして何であれ道の途上で必要なものはいつでもすべて与えられる。
<存在>は面倒を見てくれる。
母親のように世話をしてくれる。
だから心配することはない。
それよりもその機会を使いなさい。
この挑戦に満ちた世間、この外界の 絶えざる混乱を使わなければいけない。
あなたはその目撃者でいなければいけない。
それを見守りなさい。
どうすればそれに影響されない でいられるか、それを学びなさい。
水中の蓮の葉のように、その影響を受けず、 触れられないままでいる こつを
学びなさい。
そうなったら感謝の気持ちが湧いてくるだろう。
なぜなら、混乱のすべてに注意を向けることではじめて、 ある日、突然「神々
が谷間にいる」という体験が現れるからだ。
あなたは人混みが遠くに消えてゆき、 こだまのように響いているのに気つ゛く

これがまやかしでない真の成長だ。
日常生活のふつうの仕事のなかで 瞑想的であることができたなら、 あなたに
起こりえないものは何もない。
光が巡りはじめ、あなたは ただ注意深く見守っている。
朝、瞑想をして、中心の近くにとどまりつつ゛けなさい。
世間に出て行っても、中心の近くに とどまって、自分自身を想起しつつ゛け
なさい。
自分がしていることを意識しつつ゛けなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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