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鬼和尚の仏教購読会 別館

245避難民のマジレスさん:2019/01/20(日) 23:08:54 ID:LC3de7YgO
>>243
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

ソクラテスは毒を盛られたとき、胸をときめかせていた。
弟子たちが涙を流して悲しんでいると、彼は言った。
「悲しんではいけない。まもなく私は逝ってしまう。そうしたら心ゆくまで悲
しむがいい。今は、私に起こっているこの大いなる実験を見るがいい。私は死
というものにひじょうに興味をそそられている―私はほんとうに死ぬのかどう
か。この機会を逃してはならない。私のまわりに坐って見守りなさい」
師マスターはみずからの生を通して教えるだけでなく、みずからの死を通して
も教える。
師はあらゆる機会を使う―
弟子に教えるためにはみずからの死さえも使う。
彼が大きな声を出し、ひどく腹を立てながら
「涙を流したり、悲しむのはやめて、近くに来るのだ!この機会を逃してはな
らない!」
と言ったので、弟子たちは目を向けた。
するとソクラテスは言った。
「待ちなさい、毒がまわってきつつある。さあ、私の内側で何が起こっている
か話してあげよう。そうすれば、おまえたちも目に見えないものに気つ゛くこ
とができるだろう」
さらに彼は続けた。
「膝から下は死んでしまった。だが、私自身は少しも変わらず、前と同じよう
に何も損なわれていない」
さらに彼は続けた。
「脚全体が死んでしまった。腰から下は何も感じない」
彼は弟子に足に触って、つねってみるように言ったが、何も感じることができ
なかった。彼は言った。
「感覚がないのは、私の身体の半分が死んでしまったということだ。だが、私
は今まで通りまったく損なわれていない。内なる感覚は、半死半生といった感
じではない。私は今まで通り生きている!身体の半分が死んでしまったが、私
の実存は影響を受けていない」
やがてゆっくりと手が死にはじめ、呼吸が止まりはじめると、彼は最後の言葉
を語った。彼は言った。
「だんだん舌がまわらなくなってきたので、もうしゃべれない。だが、最後に
言っておきたいことがある。身体のほとんど九割が死んでしまったが、私は十
全に生きている。これから察するに、おそらく身体が死んでしまっても、 私は
生きているだろう。 身体の九割が死んでしまっても、私は 今まで通り何も損な
われていないからだ。 だから最後の1割が死んでしまっても……。 おまえたち
は私の内側で何が起こっているのか見ることができないが、私は見ることができ
る」
ソクラテスは、ギリシャの他の哲学者のような 凡庸な哲学者ではない。
彼の弟子のプラトンや アリストテレスでさえ……アリストテレスは、 実のとこ
ろ、弟子ではなく敵だ。
彼はソクラテス をまったく理解していない。
彼が提唱したものは 完全にソクラテスに反している。
ソクラテスは神秘家だ。
彼の哲学は探求の方法にすぎない―それは実に鋭い探求だ。
彼は死でさえもはずさない。
彼は死のなかを探ってゆく。
最後の瞬間まで、彼はみずからの探求の方法に忠実だった。
(p176)
死は外側からしか見ることができない。
あなたは他の人々が死んでゆくのを目にする。
だが、生きているというのは別のことだ。
生は内側から見ることができる。
生きて いれば苦痛や快楽を覚え、愛したり、 恐怖を抱いたりすることがある。
生きていれば創造することができる―ないものを考え出し、それに形を与える
ことができる。
創造的な人がもっぱら生の高次の姿を知ってゆくのはそのためだ。
なぜなら、創造するとき、人はみずからのエネルギーを最大限に発揮するから
だ。
創造するとき、人は神の一部になっている。
どうして人がそれを為しうるのかは神秘だ。
どうして人が存在しうるのかは神秘だ。
結果にはすべて原因があるにちがいない。
私たちが「因果の法則」と呼んでいるのは まさにそれだ―私たちはそう教えら
れてきた。
だが、私を今ここにあらしめている原因を私は見つけることができない。
私は奇蹟に運ばれているのを自覚している。
私の理性は私によくつくしてくれるが、私という存在ビーイングの神秘の前で
は色を失う。
理性そのものがこの神秘の道具なのだ。
理性が神秘を知りえないのはそのためだ。
あなたは内側を見なければならない。
生が何であるかを見るには、まず内側からそれを感じ取らなければならない。
そして生を感じ取るための最良の方法は創造的になることだ。
そうすれば最大限の力が発揮されるからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

246鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/21(月) 23:00:58 ID:1d4drIFg0
死の最後の瞬間まで自己を追求するチャンスはあるものじゃ。
死なない意識に到達できれば不死なのじゃ。
マハリシもそれができたのじゃ。
死の最後の瞬間まで諦めてはいかんのじゃ。

247避難民のマジレスさん:2019/01/22(火) 00:23:48 ID:LC3de7YgO
>>245
19黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁3
 より抜粋
通常、人々は最小限の生き方をしている。
人々がやり続けていることはみな最小限の力で行なうことができる。
それはただの習慣、身についた日々の決まりきった仕事にすぎないからだ。
それらの仕事は意識から、身体の自動的に機能し続けるロボットの部分に伝達
されている。
言うなれば、車の運転の仕方を覚えてしまったようなものだ。
習いはじめは危ないので、あなたはひじょうに敏感で、すき がない。
何が起こるかわからないから、目が離せない。
色々 なものに気を配り続けなければならない。
ハンドル、道路、 クラッチ、ギア、アクセル、ブレーキなど、気を配らねば な
らないもの、目を離せないものがたくさんある。
そして 行き交う車の流れ、傍らを通り過ぎてゆく人々、傍らを通り過ぎてゆく
車、だが、運転を覚えてしまうと、その知識は身体のロボットの部分に伝達さ
れてしまう。
そうなったら気を配る必要はない。
友達と話したり、歌を 歌ったり、タバコを吸ったり、ラジオを聴いたりしてもい
い。
身体が運転を続けてゆく。
まれな時を除けば、目を見張っている必要はない。
事故が起こりそうになると、あなたは一瞬のあいだ目覚める。
あまりに大きな危険が身に迫り、頭が真っ白になってしまうので、ロボットの
部分が対処できないからだ。
そんな ことは一度も起こったことがない、まったく新しいことだ。
普通の生活は機械的で型にはまったものになり、人は最小限の力で生きるよう
になる。
最大限に燃えあがることはけっしてない。
創造性を発揮することで人は燃えあがる。
これが私のサニヤシンに対するメッセージのひとつだ ―創造的でありなさい。
創造的であることが礼拝になるからだ。
創造的であることが祈りであり、創造的であることが瞑想だ。
創造的であることは神の近くにあることだ。
カーバ(メッカにあるイスラム教の聖殿)へ行く必要はない。
神はカーバと同じようにここにもいるからだ。
ヒマラヤに行く必要はない。
神はどこでも等しく手を差し延べているからだ。
だが、その手を取ることができるのは最大限に 生きている者たち、生命の炎が
くすんでいない者たち 、すべてのエネルギーをそれに注いでいる者たちだけだ。
そしてそれは創造性を通してはじめて起こる。
だから私のサニヤシンの定義は、感受性を失い、死んだように坐っている古い
タイプの聖者の定義とは異なっている。
サニヤシンの定義は創造的であることだ。
踊ったり、歌ったり、音楽や絵や彫刻を創作したり、あるいは何でもやりたい
ことをやりなさい。
最も深い喜びとなるものを見つけだし、それをやりなさい!
そして行為とは目に見えないものを見えるものにするということだ。
行為とは夢をこの世にもたらすということだ。
夢を実現させなさい。
潜在能力を発揮させなさい。
それにまさる喜びはない。
未知なるものを知りうる世界へともたらすことができたとき、創作し、創造し
、夢を現実にすることができたとき、神に手を貸したとき、そのときはじめて
真の至福が得られる。
何らかのやり方で、自分なりのやり方で世界をもう少し美しくしたとき、 世界
の喜びを増したとき、そのときあなたはサニヤシンだ。
この道に、あなたの内なる生に気つ゛くことは、自分が不死であることを知る
助けになる。
ひとたび潜在能力を完全に発揮している自分の姿を知ったなら、 内なる松明た
いまつが両側からめらめらと燃えているときの自分の姿を知ったなら、 死など
存在しないことがわかるだろう。
力が最大限に発揮されると、 第三の目が働きはじめる― 最大限に発揮された
ときはじめて。
だから、だらだらとした生き方をしてはいけない。
生が重荷でもあるかのような、果たさねばならない義務であるかのような生き
方をしてはいけない。
生を踊りにしなさい。生を祝祭にしなさい。
(p179)
不死はこのなかにあり、また世間の超克もこのなかにある。
生の炎が第三の目に到達するのをそのままにしておけたら、死など存在しない
ことがわかる。
そしてふと気つ゛くと、もはやあなたは世間に執着していない。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

248鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/22(火) 22:05:16 ID:1d4drIFg0
止観の法を伝える仏教でさえ観察の法は廃れてしまっているのじゃ。
四諦も因縁も知識や理論だと思われているのじゃ。
それらは感性を磨いて観察するための方法なのじゃ。
記憶だけして居ればよいというものではないのじゃ。
常に感性を磨いて観察力を増進して観察しなければいかんのじゃ。
それには芸術を産む創造性が必要なのじゃ。
芸術は自然を観察して模倣するのが王道であるからのう。

249避難民のマジレスさん:2019/01/22(火) 22:49:09 ID:LC3de7YgO
>>247
19黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁3
 より抜粋

さあ、この違いを覚えておかなければならない。
古いサニヤス、昔のいわゆる宗教的な生き方は、人々に世間との関係を絶つよ
うにと教えてきた。
私は関係を絶つことは教えない。
私はあなたの生命エネルギーを最大限に発揮するよう教えている。
ひとたびみずからの実存のなかにある真実のものを見れば、世間はもはや意味
を失ってしまう。
高次のものが生まれれば、低次のものは意義を失う。
それを棄て去る必要はない。
それはすでに落ちている。
どこにも逃げ出す必要はない。
あなたは世間で生きることができる。
だが、あなたは世間を超越している。
そして、覚えておきなさい。
逃避するのと、超越するのはまったく違うことだ。
真のサニヤシンは、世間との関係を絶つのではなく、それを超越しなければな
らない。

光は肉体のなかだけにあるのではなく、 肉体の外だけにあるのでもない。
ひとたび内なる光を見たら、あなたは光は内側だけにあるのではなく、外側に
もあることに気つ゛くようになる。
光は、あ な た のなかだけに封じられているものではない。
いいかね、暗闇は個的なものだが、光はあまねく存在している。
死は個的なものだが、生はあまねく存在している。
惨めさは個的なものだが、至福はあまねく存在している。
惨めさがあるためには、あ な た が存在していなければならない―孤立したあ
なたが存在していなければならない。
そして至福が訪れるためには、あなたは全体の一部になり、全体と調和しなけ
ればならない。

光は肉体のなかだけにあるのではなく、肉体の外 だけにあるのでもない。
山河大地は太陽と月に照らされるが、それはすべてこの光である。
ひとたび内側に光を見たら、光が至るところに―月のなかに、太陽のなかに―
あることに気つ゛くだろう……。
光はすべて同じだ―内なる光であろうが、外側の光であろうが変わりはない。

それゆえに光はたんに肉体のなかにだけあるのではない。
理解と明晰さ、知覚と光明、そして(精神の)すべての働きは この光に他なら
ない。
あなたが月に見る光と、内側にある第三の目に見る光は同じものだ。
それが同じ光であることに気つ゛けば、内界と外界の違いはもはやなくなって
しまう。
内は外であり、外は内だ。
それゆえに、禅師は
「輪廻サンサーラこそがにゃはんニルヴァーナ」―世間が、この世間そのもの
が悟りだ、と言う。
この身体がそのまま覚者ブッダであり、この世がそのまま楽園である、と。
仏陀が光明を得たとき、「不思議な、信じがたいようなことだが、私が光明を
得たとたんに、全世界がともに光明を得た」と言ったのはそのためだ。
何世紀にもわたり、仏教の瞑想者たちはそれに瞑想してきた。
「仏陀は何を言おうとしているのだろう?
仏陀は何が言いたかったのだろう?
『私が光明を得たとたん、全世界が光明を得た』
とは?どうしてそんなことがありえるだろう?
まだ光明を得ていない人は無数にいるのだから。
仏陀は何を伝えようとしたのだろう?」
瞑想者自身、
「少なくともこの私は光明を得てはいないのだから、全存在が光明を得ている
はずがないではないか」
と考える。
仏陀にとっては全存在が光明を得ている。
彼は、内と外を分けているのが自我エゴ―自我という薄いカーテン―にすぎな
いことに気つ゛いたからだ。
そのカーテンが落ちてしまえば、内なるものもなく、外なるものもない。
それゆえに、仏陀は「私は光明を得た」と言うことができない。
彼は「生きとし生けるすべてのものが光明を得た」と言う。
あらゆる樹々、あらゆる川、あらゆる山々、あらゆる人々、あらゆる動物たち
、あらゆる星々―いっさいのものが光明を得た。
もはや彼には分離した自己認識アイデンティティーがないからだ。
彼は、あなたは光明を得ていると言おうとしているのではない。
彼はたんにこう言っているだけだ。
「『この私が光明を得た』とは言えない。
ただ『私は束縛されていた』と言うことしかできない。
ただ『私は無知だった』と言うことしかできない。
ただ『私は苦しんでいた』と言うことしかできない。
だが、今やその私がいないのだ」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

250避難民のマジレスさん:2019/01/22(火) 22:51:44 ID:LC3de7YgO
マハラジは天才物理学者の様に語り、OSHOは天才詩人のように語ってるように思えるでありす。
(´・(ェ)・`)つ

251避難民のマジレスさん:2019/01/23(水) 18:35:51 ID:LC3de7YgO
>>249
19黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁3
 より抜粋

<存在>は至福に満ちている。
<存在>は光に満ちている。
そして内なる光と外なる光は同じものだ―内なるものもなければ、外なるもの
もない。
光が第三の目―ひとつの目、唯一の目に入り込めば、あらゆる区別が消える。
区別という区別がみな消え失せる。
虹は再び白一色の光線になる。

つい先日、こういう質問があった。
「和尚、あなた自身は白を着ておられるのに、どうして 私たちにはオレンジ色
の衣服を着ろとおっしゃるのですか?」
それはただの象徴であり、あなたがたは複数の色が消えて、何の区別もない白
い光線だけが残る地点に到達しなければならないということを示しているにす
ぎない。
(p182)
理解と明晰さ、知覚と光明、そして(精神の)すべての働きは この光に他なら
ない。
それゆえに光はたんに肉体の外にだけ あるのではない。
光は外界にだけあるのではないし、内界にだけあるのでもない。
光は至るところにある―内側にもあれば、外側にもある。
それは同じ光―草木や花の上で輝き、蓮の花の上で踊っているのと同じ光だ。
そして、いいかね、師は「知識」ではなく「理解」だと言っている。
師は「答え」ではなく「明晰さ」だと言っている。
人がひじょうに明晰になると、問いは消えてしまう。
何かの答えを得るというのではない。
あまりに明晰なので、もはやそこに混乱がなくなるというだけのことだ。
答えがあるのではなく、問いそのものがなくなるということだ。
それが「知識」ではなく「理解」と呼ばれるのはそのためだ。
つい先日、アニルッダも尋ねていた。
「私たちの知識とあなたの知識の違いはどこにあるのですか?違いがあるよう
に思えるのですが」と。
違いは知識にあるのではない。
彼は私のほうがよりたくさんのことを知っていると考えていたにちがいない。
実情はまったくその逆だ。
私はあなたがたほどものを知らない。
実のところ、あなたがたは知っているが、私には知識がない。
私はたんに明晰なだけだ―それは明晰さ、理解力であって、知識ではない。
私より、ものをよく知っている者はここにも大勢いる。
そしてそれが彼らのつまつ゛きになっている。
彼らはその知識を落とさなければならない。
私は何も知らない。
明晰さがあるだけだ。
あなたが私に質問をしても、私はそれに対する答えをもっているわけではない

明晰さの焦点をその問いに合わせ、理解しようとするだけだ。
そしてその明晰さから生まれてくる感応が何であれ、私はそれをあなたに与え
る。
それは知識ではなく、見抜く力にすぎない。
知識は人々を盲目にする。
彼らの目は知識で一杯になりすぎて、観ることができない。
あなたが質問をする前から、彼らは既成の答えをもっている。
彼らはいつでも答える用意がある。
彼らはあなたの質問など聞いていない。
彼らは質問者に耳を傾けていない。
彼らは質問者の実存になど耳を傾けない。
彼らは質問者のなかをのぞき込み、相手が何を言おうとしているのかを見よう
とはしない。
彼らは既成の答えをもっている。
彼らは鸚鵡オウム返しに答えを返し、そして論拠となるものや経典を用いてそ
の答えの正しさを証明しなければならない。
そしてあらゆる種類の裏付けを差し出さなければならない。
私はただ一種の理解力、洞察力、見抜く力をもっているにすぎない。

それゆえに、呂祖師は言う―
理解と明晰さ、知覚と光明……と。
それは知識でない。
それは雲ひとつない内なる大空だ。
(p183)
(´・(ェ)・`)
(つづく)

252鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/23(水) 23:44:26 ID:1d4drIFg0
>>250 そうじゃ、オショーは詩人のように人の感情に働きかけるのじゃ。
 そうであるから人を熱狂させるブッダなのじゃ。
 そのようにして人を悟りの道に誘導するのじゃ。
 偉大な如来なのじゃ。

253避難民のマジレスさん:2019/01/24(木) 19:23:46 ID:LC3de7YgO
>>251
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

天地の光の華は数限りない空間を満たしている。
だが、個々の身体の光の華も天にみなぎり、地を覆っている。
それは光の華、この森羅万象のすべてだ。
これは神秘家の体験だ。
森羅万象をつくりあげているのは光以外の何ものでもない。
それはすべて光だ。
光は森羅万象を構成する基本的な要素だ。
そして現代物理学はそれに同意する。
かれらはそれを「電気」と呼んでいる。
光は彼らにとってはあまりに詩的すぎる。
彼らはそれを大地に引き降ろさなければならない。
それは電気になる。
だが、彼らが語っているのはまったく同じものだ。
物質は現代物理学から姿を消した。
物質はもはや存在しない。
物質のもっとも深い中核にあるのは、電気、電子、電気を帯びて舞っている粒
子、質量をもたない踊るエネルギーの粒子に他ならない。
これは何世紀にもわたり、神秘家たちが例外なく体験してきたことだ。
その神秘家の生まれた国がインドであろうが、中国であろうが、チベットであ
ろうが違いはない。
これはすべての神秘家が共有するもっとも基本的な体験だった。
森羅万象をつくりあげているのは光以外の何ものでもない。

『黄金の華の秘密』は言う―この光、この光の華、この光の花弁が内と外のあ
らゆる空間を満たしている、と。

それゆえに、光が巡ると、たちまちにして天地山河 いっさいのものがそれと同
時に循環する。
仏陀が言っていたのと同じことが違う言葉で語られている。
自分の内側で光が巡っているのを見るやいなや、あたり一面に光が輝きだすの
を見ることができるようになる。
まわる星々、山や川―すべては光の流れ、光のエネルギーのとほうもない踊り
に他ならない。
(p184)
人間の身体の華の種子を上方の両目のあいだに集中させること、 それが人間の
身体の大いなる鍵である。
弟子たちよ注意せよ!
瞑想を一日怠れば、この光は流出してゆき、どこへ消えてゆくのか誰にもわか
らない。
もし一刻でも瞑想するなら、一万の劫こうも一千の生涯も取り除くことができ
る。
あらゆる技法は 静けさのなかに帰す。
この不可思議な力は計り知れない。
呂祖師は言う―二十四時間の内、たった十五分でいい、と。
十五分間静かに坐り、第三の目に集中することができたら、あなたの未来全体
を変えるにはそれで足りる。
再び肉体に生まれ変わってくる必要はなくなる。
再びこの世に投げ返される必要はなくなる。
あなたは学ぶべきものを学び終えた。
肉体や肉体の限界をもたずに活動するにふさわしい存在になった。
あなたの魂は、いっさいの束縛やしがらみを離れて自由になる。
そうなったら、死も誕生も存在しなくなる。
あなたはこの限りなき<存在>における永遠の華になる。
たった十五分で?そう、たった 十五分で奇蹟を起こすことができる。
だが、人々にはたった十五分ですら 沈黙し、静かにしている用意がない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

254鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/24(木) 22:14:46 ID:1d4drIFg0
光とは気とかプラーナとかエーテルと呼ばれるものと同じなのじゃ。
それは人の中にもあり、全ての宇宙も満たしているのじゃ。
全ては同じ本質を持ち、同じ意識の現われなのじゃ。
光を眉間に集中してサマーディに入ればそれが如実に感じられるじゃろう。
そのために今までの技法はあったのじゃ。

255避難民のマジレスさん:2019/01/25(金) 02:37:06 ID:LC3de7YgO
>>253
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

聞いた話だが…… イグナチウス・ロヨラは、彼に敵意を抱いている男が法王
に選ばれたという知らせを受けた。
ロヨラが生涯をささげてきたイエズス会の解散を、この新しい教会の首長に命
じられたらどうするかと尋ねられたとき、彼は答えた。
「十五分の祈りさえあれば、何も変わりはしない」
この答えにはこのうえもなく深い意義がある。
彼に敵意を抱いている法王が権力の座につけば、 ロヨラの仕事全体がつぶされ
てしまう恐れが高かった。
彼は小さな神秘家の共同体をつくっていた。
その働きは秘教的なものだった。
キリスト教は、つねに秘教的な働きに反対し続け、つねに神秘家を恐れてきた

なぜなら、神秘家たちは危険だからだ。 彼らはこの世に真理をもたらす。
そしてひとたび彼らがこの世に真理をもたらしたら、人々はもはや儀式、無力
な儀式には興味をもたなくなる。
そうなったら、誰が教会のことを気にかけるだろう?
それゆえにキリスト教は、教会から誰も離れられないように、神に通じる別の
扉が誰の手にも入らないように、誰もが聖職者 のもとへ行かざるをえないよう
に、あらゆる神秘家たちの集団 を執拗に破壊し続けてきた。
たとえ神を探求したいという願望が生まれても、どこにも選択の余地は残され
ていない。
この馬鹿げた観念のせいで、キリスト教は世界中の宗教を破壊してきた。
というのも、世の中にはさまざまな人々がいて、それぞれ自分に合ったタイプ
の集団を必要とし、自分に合ったタイプの手法を必要としているからだ。
そして、本当に誠実な探求者たちは秘教グループを見つけださざるをえない。
彼らは形式的な宗教の一部になることができない―物足りないからだ。
それは なまぬるく、きわめて表面的だ。
西洋では、教会のせいで真の宗教は地下にもぐらなければならなかった。
人々は真実の姿を隠すために様々な偽装をこらさねばならない。
錬金術というのはその偽装のひとつだった。
本当にやろうとしていたのは別のことだった。
錬金術師は、卑金属を黄金に変える仕事をしているのだという印象をまわりに
かもしだそうと努めた。
それなら許されるからだ。教会は大いに満足していた。
卑金属を黄金に変えようとしているのなら、まったく問題 はない。
やりたければそれをやればいい。
成功すれば、教会の黄金が増えるだけのことだ。
恐れることは何もない。
だが、それは偽装にすぎなかった。
それは真の錬金術ではなかった。
それは見せかけにすぎなかった。
カーテンの裏で行なわれる真の作業ワークはまったく別のものだった。
それは低次の実存を高次の実存に変容させることだった。
それこそまさに性欲、すなわち卑金属をいかにして霊性、すなわち黄金へと変
容させるかという "黄金の華"の秘法に他ならなかった。
だが、不必要な手間をかけねばならなかった。
彼らは黄金 を扱う仕事をしているのだと世間が納得するように見せかける工夫
をしなければならなかった。
そして、誰もが黄金に興味を もっている。
教会は、神ではなく黄金に強い興味を寄せている。
ロヨラは言った。
「十五分の祈りさえあれば 、何も心配することはない。 十五分もあれば私は
瞑想に深く 入ってゆける。
それだけでいい。
そこにいるかぎり、何も問題はない、 まったく何の問題もないからだ」

呂祖師は言う十五分間だけで……一万の劫こうも一千の生涯も取り除くことが
できる。
あらゆる技法は静けさのなかに帰す。
それを覚えておきなさい。どんな技法を選んでも、ゴールは同じだ―静けさ、
内なる完全な沈黙、無思考、いかなる中身もない純粋な意識。

この不可思議な力は計り知れない。
その深さは計り知れない。
思考が消え、あなたが完全に沈黙すると、その静寂は底知れぬ深淵となり、測
ることができない。
太平洋の深さは測ることができる―八千メートルの深さがある。
だが、あなたの内なる太平洋の深さは測ることができない―それは底知れない

どこまでも掘り進み、どこまで深く潜っていっても、その深さを測ることはで
きない。
その底にはけっして達しない。
測ることができるのは思考だけであり、無念無想の状態を測ることはできない

それゆえに、無念無想の状態は神の別名だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

256鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/25(金) 22:43:31 ID:1d4drIFg0
通常の道教の経典では陽神をつくり出神する方向に進むのであるがこの書は違うのじゃ。
丹を作った後に眉間に集中して定に入るのじゃ。
そして光が自らの中にも全てにもあることを見出すのじゃ。
悟りに向かう書なのじゃ。

257避難民のマジレスさん:2019/01/25(金) 23:53:05 ID:LC3de7YgO
>>256
鬼和尚、いつもありがとうであります。
超勉強になるであります。
(´・(ェ)・`)つ

258避難民のマジレスさん:2019/01/26(土) 00:05:53 ID:LC3de7YgO
>>255
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁
 より抜粋

だが、いいかね。思考のない状態は一種の眠りであってはならない。
なぜなら、それはごくありふれたものだからだ。
それは毎日起こっている。
深い眠りのなかで、夢が消えたとき、あなたはその深淵のなかへと落ちてゆく

ぐっすり眠ると若返ったように、さわやかになるのはそのためだ。
朝になると再び活力がみなぎり、あなたは新しく生まれ変わっている。
だが、それは無意識に起こることだ。
パタンジャリは、深い眠りとサマーディはひじょうによく似ているが、ひとつ
だけ違いがあると言っている。
眠っている時には人は無意識だが、サマーディの状態では意識している。
だが、あなたは同じ空間―内側にある、同じ測ることのできない不可思議な空
間におもむいている。
そこには思考もなく、欲望 もなく、想念の波動もなく、まったく静かだ。
あらゆる技法はそこに到る。
ヨーガ、タントラ、タオ、ハシディズム、スーフィズム ―あらゆる技法は異な
る角度からそこにたどり着く。
それら はさまざまなタイプの人々のために編み出されたものだ。
(p188)
だが、実修をはじめるにあたり、人は浅いものから深いものへ、粗雑なものか
ら微細なものへと進んでゆかなければならない。
最初は大いなる努力が必要とされる。
人は浅いものから深いものへと進んでゆくしかない。
浅いものとは何だろう?
浅いものとは絶え間のない思考のプロセスだ。
深いものとは何だろう?
思考のない状態のことだ。
粗雑なものとは何だろう?
心の中身はみな粗雑だ。
微細なものとは何だろう?
中身のない状態は微細だ。
人は進みつつ゛けなければならない。
最初のうちは大いなる努力が必要とされる。
最初のうちは行法ワークに完全に身を投じ
なければならない。
そうしてはじめて瞑想は無努力になり、至福の瞬間が生まれてくる。
まず瞑想は男性的エネルギーでなければならない。
それが尽きてはじめて女性的エネルギーになることができる。
私がまず最初に激しい動きをともなう技法を強調するのはそのためだ。
全力をふりしぼり、最大限の努力をするがいい。
しりごみせずに、もてるすべてを賭けるのだ。
そうすれば、やがていつか努力せずにくつろぐことができるようになる。
目を閉じるだけで第三の目に到達することができるようになる。
だが、実修をはじめるにあたり、人は浅いものから深いものへ、 粗雑なものか
ら微細なものへと進んでゆかなければならない。
すべては間断なく持続するかどうかにかかっている。
それを規則正しく行ないなさい。

実修は始めから終わりまで一貫していなければならない。
この間に、冷暖をおのずから知るのである。
だが、目指すべきは 空の広大さと海の深遠さに到ることであり、そうすればあ
らゆる技法をいともたやすく身につけることができる。
そこではじめてそれを体得したと言える。
努力が不要になり、いっさいの努力が落ちたとき、あなたはそれを真に体得し
ている。
技法が不要になり、いっさいの技法が落ちたとき、あなたはそれを真に体得し
ている。
瞑想がもはやすることではなくなり、みずからの境地になったとき、あなたは
それを真に体得している。
あなたはそのなかに生き、歩くときも、坐るときも、そのなかにある―「坐る
ことも禅であり、歩くことも禅だ」
食べるときも、眠るときも、あなたは瞑想の内にあり、それになりきっている

いずれはそのときが来る。
だが最初は全身全霊で取り組まなければならない。
いいかね、水が百度の熱で蒸発するように―九九度や九九・九度ではなく百度
で蒸発するように、あなたがもてるすべての力を振り絞って百度に達したとき
には、ただちに卑金属が黄金に変わる。
性エネルギーは、ただちに霊的世界にまで到達する。
流出していたエネルギーはただちに百八十度の転換を遂げ、二つの目はひとつ
になる。
そうなったら内界と外界はくまなく光明で満たされる。
イエスは言った。
「木を切りなさい、そうすれば私がみつかるだろう。石を打ちなさい、そうす
ればそこに私がいる」
これは究極の境地だ。
木を切ると神を見いだし、石を打つと神を見いだす。
あなたは神として、神のなか、神の上を歩いている。
あなたは神を呼吸し、神を食べ、神を飲んでいる。
なぜなら、すべてが神だからだ。
この究極の体験こそ、呂祖師の言う開放だ。
そしてそれは第三の目のなかにある。
(p190)
(´・(ェ)・`)

259鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/26(土) 22:44:04 ID:1d4drIFg0
>>257 そうじゃ、どんどん学ぶと善いのじゃ。

オショーがこの書を解説するのも悟りにまで通じる実践の書であったからなのじゃ。
通常のただ単に集中だけをする修行であるとサマーディにまでたどり着くのに才能と時間が必要なのじゃ。
このように気とか光を身体に巡らせて使えばより短期間で才能の無い者にもサマーディに辿りつけるのじゃ。
それが性命双修の貴重なところなのじゃ。

260避難民のマジレスさん:2019/01/27(日) 10:22:03 ID:LC3de7YgO
>>258
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える
 より抜粋

呂祖師は言った。
観想なくしては何事も成しとげられない。
覚知することにより人は目標に到る。
内観によって反転させなければならないのは自意識をもったこころである。
万物を形つ゛くる精神が顕現してくる前の状態へとそれを導かなければならない

昨今の人々はたった一時間か二時間坐って瞑目し、ひたすら己の自我を見つめ
、それを内観と呼んでいる。
そのようなやり方でどうして何かを得ることができるだろう?
人は鼻の頭を見るべきである。
だがこれは、みずからの思念を 鼻の頭に固定させるという意味ではない。
またこれは、目で鼻の頭を見つめながら思念を「中心の黄色」に集中させると
いう意味でもない。
視線が向かうところに、こころも向かうものである。
どうしてそれを同時に上方と下方に向けることができるだろう?
こういったことはみな、月を指す指を月そのものと取り違えるようなものであ
る。
では、これは実際には何を意味するのか?
「鼻の頭」という表現はよく考えて選ばれたものだ。
鼻は視線の目安とならなければならない。
鼻に視線を向けていない場合 には、目を大きく開けて遠くを見ているため鼻が
見えないか、 あるいは目を閉じ過ぎていて鼻が見えない。
目を大きく開け過ぎると、視線を外に向けるという誤りを犯し、気が散りやす
くなる。
目を閉じすぎると、視線を内に向けるという誤りを犯し、夢を見るような空想
の状態に沈みこんでしまう。
ただ瞼まぶたを適度に半分ほど閉じると、ちょうどよい具合に 鼻の頭が見え
るようになる。
そのために鼻を目安にするのである。
大切なのは、瞼を適度に閉じて、意識を集中させて光を流れ込ませようとする
のではなく、光が自然に流れ込むようにすることである。
鼻の頭を見ることは、ひとえに内なる集中をはじめる際に役立つのであり、そ
うすることで視線が正しい方向に向かい目安が定まれば、後はそのまま放置す
ればよい。
これは大工が下げ振りをつるすにあたり、いったんそれをつるし終えると、絶
えずその糸を見ることにこだわらないようなものである。
両目で鼻の頭を見ながら、背筋を伸ばして楽な姿勢で坐り、こころを諸条件の
只なかにある中心にたもつ。
それは必ずしも頭の中心を指しているわけではない。
大切なのは、ただみずからの思念を両目の中間に定めることである。
そうすればすべては整う。
光ははなはだ動きやすい。
両目の中間に思念を定めると、光は自然に流れ込んでくる。
注意をことさら中心の宮殿に向ける必要はない。
大切なことはこの数語に要約されている。
「諸条件の只なかにある中心」というのは、ひじょうに 微妙な表現である。
中心は至るところにあり、いっさいのものが そのなかに含まれている。
それはあらゆる創造のプロセスが 解き放たれる点と結びついている。
一点を見つめ観想することが不可欠である。
この技法はすみやかに光明を得ることを保障する。
世俗の想念が浮かびあがってきたなら、そのままじっと坐りつつ゛けてはいけ
ない。
その想念はどこにあるのか、どこではじまり、どこへ消えてゆくのかを調べな
ければならない。
内省をどこまで押し進めても何も得られない。
この想念がどこから生まれてきたかを見ることでよしとし、その先を究めよう
としてはならない。
こころを探し求めても、とらえることはできない(意識によって意識の背後に
達することはできない)からだ。
人はみなこころを落ち着かせようとする。
これが正しい観想である。
これと矛盾するのは誤った観想であり、何も得るところがない。
雑念が果てしなくつつ゛いてゆくときには、立ち止まり、観想をはじめなけれ
ばならない。
観想したら、再び見つめる。
これがすみやかに光明を得るための二重の技法、つまり光を巡らせることであ
る。
巡らせるとは見つめることであり、光とは観想のことである。
観想せずに見つめるのは光のない循環であり、見つめずに観想するのは循環の
ない光である。
これに注意しなければならない!
(´・(ェ)・`)
(つづく)

261避難民のマジレスさん:2019/01/27(日) 10:31:01 ID:LC3de7YgO
>>260
「中心の黄色」とは、何でありますか?
(´・(ェ)・`)つ

262鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/28(月) 00:28:43 ID:1d4drIFg0
>>261 眉間のことなのじゃ。
 黄庭とか中宮とかいろいろにいうのじゃ。
 要するに鼻の頭に視線を向ければ自然に気が眉間に集まるというのじゃ。
 無理に集中する必要は無いというのじゃ。

263避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 07:34:25 ID:LC3de7YgO
>>262
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

264避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 07:51:21 ID:LC3de7YgO
>>260
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

盲人が友達の家を訪ねた。
彼が帰宅する頃には暗くなっていたので、友人たちは提灯ちょうちんを手渡し
た。
「ありがとう。でも、いらないよ。明るくても暗くても、私にとっては変わり
ないからね」
「まあ、とにかくもっていけよ。そうすれば人がぶつかってこないだろう」
彼が家を出ると、すぐに誰かがぶつかってきて、怒鳴った。
「どうして前をちゃんと見ていないんだ」
「君こそ、この提灯が見えないのか?」
「あいにくだがね」
と相手は言った。
「蝋燭ろうそくが消えてしまってるぜ」
瞑想というものを知らない人々が手にする聖典は、盲人が手にする提灯のよう
なものであり、まったく役に立たない。
そして盲人には提灯の明かりがついているか消えているかどうかもわからない

彼はたんにいらぬ重荷を持ち歩いているだけだ。
実のところ、何の役にも立たないどころか、むしろ邪魔になりかねない。
提灯をもたずに歩いていたら、盲人はもっと注意深く用心していただろう。
提灯をもった ばかりに、目があるつもりになって歩き、注意力がすっかり散漫
になっていたにちがいない。
人類全体に起こっていることはまさにそれだ。
人々は『聖書』『コーラン』『ギータ』をもち歩いている。
それらの聖典はこのうえもなく美しい光を放つランプだ。
が、あなたの目は見えない。
『ギータ』は五千年も前のものであり、光はとうの昔に消え ている。
クリシュナの死とともに、光は消えた。
『聖書』や 『コーラン』、その他の世界中のあらゆる聖典の場合も同じだ。
師マスターが死ぬと、光も消える。
だが人々は聖典を手放そうとはしない ― 聖典を信じ込み、偉大な師のメッセ
ージを伝えているのだから、自分たちの生はいつまでも光に満たされてゆくと
期待している。
そのメッセージ はただの言葉にすぎない。それは不用な重荷だ。
世にある聖典がすべて消えてしまったら、人間はもっと用心深くなり、もっと
気を引き締めて、自力で光の源を 探しはじめるかもしれない。
頼れるものが何もないので、 自分の足で立つことを学ばなければならない。
あるとき龍潭りゅうたんのもとを徳山がとくざんが訪ね、夜ふけまで教えを請
いつつ゛けた。
とうとう龍潭は言った。
「夜もふけてきた。そろそろもどりなさい」
徳山はいとまを 告げると、襖ふすまを開けて出ていった。
外があまりに暗かった ので、徳山は引き返してきて言った。
「外は真っ暗です」
そこで龍潭は提灯ちょうちんに火をともし、それを徳山に差し出した。
徳山がそれを受け取ろうとしたまさにそのとき、龍潭は不意にそれを吹き消し
た。
この瞬間、徳山は忽然と目覚め、礼拝した。
龍潭は言った。
「どのような真理を得たのか?」
徳山は言った。
「今日より後、祖師たちの言葉をけっして疑うことはありません」
翌日、龍潭は弟子たちの前に姿を現して言った。
「この会衆のなかに、剣でできた樹のような牙をもち、口を 血だらけにして、
棒で殴られても振り向こうとしない男がいる。
やがてこの男は人里離れた山の上に、私の道を打ち立てるだろう」
徳山は、僧堂の前で経典の注釈書を取り出し、火をかざしながら言った。
「際限なくものごとを分析しつつ゛けてゆくことは、虚空に一本の髪の毛を置
くようなものであり、俗世の力は広大な谷間に一滴の水を投げ入れるようなも
のだ」
目がなければ、光ですら役に立たない。
あなたが手にしている提灯は無用の長物 であり、まったく何の役にも立たな
い。
だが、目があれば、蝋燭ろうそくを吹き消すことですら悟りの体験になりうる。
問題なのは目だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

265鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/28(月) 22:28:35 ID:1d4drIFg0
>>263 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

視線を鼻の頭に向けていれば光が入ってくるというのじゃ。
雑念がわいたらそれがどこから起こるのか探すのじゃ。
それがわかって雑念が止んだらまた鼻の頭を見つめるのじゃ。
そのようにして日々続けていくというのじゃ。

266避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 22:51:03 ID:LC3de7YgO
>>265
くまは、目を閉じてやるのが好みであります。
なれたやり方で良いでありますよね。
(´・(ェ)・`)つ

267避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 23:02:53 ID:LC3de7YgO
>>264
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

龍潭のもとを徳山が訪ねた。
龍潭は師であり、徳山は弟子だ。
外が真っ暗なのを見て、弟子は師に言った「真っ暗です」 師は蝋燭に火をとも
すと、それを弟子に差し出した。
弟子が受け取ろうとしたそのとき、師は火を吹き消した。
突然、闇がもどってきた。
闇は一段と深さを増した。
不意に蝋燭を吹き消されたことが、予期せぬ一撃になったにちがいない。
しばらくのあいだ、弟子は二つの思考のはざまに落ちていったにちがいない。
しばらくのあいだ、思考が消え失せ、観想が起こった。
しばらくのあいだ、完全な沈黙があった。
その沈黙のなかで彼は大切なことをつかむことができた。
翌日、彼はもっていた経典をすべて燃やしてしまった。
もはやそれらは必要ではなかった。
彼はみずからの体験を通して真理を知ったからだ。
ごくわずかの体験でも、山のような知識よりも価値がある。
太陽や月やすべての星々よりも、たった二つの小さな目のほうが価値がある。
大切なのは、宗教とは体験であるということだ。
それは推測ではない。
絶え間ない分析ではない。
それは洞察だ。
(p196)
さて、経文だ。
これらの経文にはここのうえもない価値がある。
なぜなら、それは最も簡潔な表現で手法を授けて いるからだ。
あなたが複雑なものにしようとしないかぎり、この手法は実に単純だ。
こころマインドはいつも単純なものごとを複雑なものに変えてしまう。
それに気をつきなさい。
なぜなら、心は単純なものとは共存できないからだ。
それは必要とされない。
もしものごとがごく単純で あれば、心の出る幕はない。
ものごとが複雑であってはじめて心が必要になってくる。
そうなったら、あなたは心に頼らざるをえなくなる。
心が謎を解く道を見いだしてくれるからだ。
だが、謎がなければ、心はまったく無用だ。
あなたは心を捨てることができる。
だから、心はものごとを複雑にしてしまう。
これらの経文は実に単純であることを覚えておきなさい。
真理はつねに単純だ、まったく単純だ。

呂祖師は言った。
観想なくしては何事も成しとげられない。
観想とは何か?無思考の瞬間だ。
「観想contemplation」という言葉には、ディヤーナの正しい意味が含まれていない。
英語には「ディヤーナ」という言葉に当たる適切な訳語がない。
使えそうな言葉が三つある。
ひとつは「集中concentration」
だが、この言葉はひどくかけ離れている。
集中とは努力、緊張を意味している。
それは強いられた状態であって、無碍むげ自在に流れている状態ではない。
ところが、ディヤーナとは無碍自在に流れている状態だ。
そこには緊張がない。
だから「集中」という言葉は訳語としてはふさわしくない。
次は「観想contemplation」という言葉だが、観想には思考の含みがある。
誰かが観想していると言えば、何かについて考えているということになる。
三番目の言葉は「瞑想meditation」だが、これもやはり 考えること、何かにつ
いて瞑想することを意味する。
この三つの言葉にはどれもディヤーナの意味が含まれていない。
ディヤーナとは無思考の状態、沈黙の状態、意識的でありながら中身がない状
態を意味する。
鏡がそこにあるが、何も映し出していない、まったく 何も映し出していない。
ちょうどその鏡のように、意識がそこにあるが、何もそれをふさいでいない。
その何も占められていない醒めた意識がディヤーナだ。
道家の人々は「ディヤーナ」の訳語として「観想」を使っている。
いずれにせよ何らかの言葉を使わざるをえないからだ。
だから、その意味を覚えておきなさい ― それは辞書に記された意味ではない。
辞書を調べると、まったく違った観想の概念 ― 『黄金の華の秘密』が「誤っ
た観想」と呼んでいるものが載っている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

268鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/29(火) 21:44:12 ID:1d4drIFg0
>>266 そうじゃ、自分のやり易い方法で善いのじゃ。
 経典は参考にする程度で善いのじゃ。

ディヤーナとは意志によって集中しないでも続く心の鎮まった状態なのじゃ。
初心者のうちは集中しなくては心は鎮まらないのじゃ。
慣れてくればいつもの座り方をするだけで心は鎮まるのじゃ。
それがディヤーナなのじゃ。
禅の語源なのじゃ。

269避難民のマジレスさん:2019/01/29(火) 22:10:26 ID:LC3de7YgO
>>267
21黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

「誤った観想」とは、何かについて考えることだ。
それは神 かもしれない ― キリスト教徒が「観想(黙想)」という言葉 で言お
うとしているのはそれだ ― 神について考えること、聖なるもの、超越的なも
のについて考えること。
だが も の は も の であり、神聖なものであろうが、世俗的なものであろう
が違いはない。
思考は思考であり、セックスについて考えようと 、サマーディについて考えよ
うと違いはない。
無思考の状態、間合い…… それはいつも起こっているのだが、あなたは注意
深く醒めていない。
醒めていたら何も問題はない。
ひとつの思考がやって来る。
続いて別の思考がやって来る。
この二つの思考のはざまにはいつも小さなギャップすきまがある。
そのすきまが聖なるものへの扉だ。
そのすきまが観想だ。
そのすきまを深くのぞき込めば、それはどんどん大きくなってゆく。
心マインドは交通の激しい道路のようだ。
車が次から次へと通り過ぎてゆく。
車に目 を奪われるあまり、二台の車のあいだに必ずあるすきまが見えない。
すきまがなければ車は衝突してしまう。
衝突しないのは、車と車のあいだにすきまがあるからだ。
あなたの思考は衝突しない。
互いにぶつかったり、相手を轢きつぶしたりはしない。
互いに重なり合うことすらない。
どの思考にも境目がある。
どの思考 も区切ることができる。
だが、思考の進行があまりに すばやく速いので、本当にそれを待ち受け、見つ
けようとしないかぎり、あなたはすきまを見ることができない。
観想とは見ている風景の焦点をそっくり変えることだ。
ふだん私たちは思考を見ている。
思考が次から次へと現れる。
風景の焦点を変えると、すきまが次から次へと現れる。
あなたはもはや思考ではなく すきまを重視している。
例えば、あなたがたはここに坐っている。
私があなたがたを見る方法は二つある。
ひとりひとりを順番に見てゆくやり方と―人に目をやれば、私は人数を数える
ことができる ―人のことは忘れ、人と人のあいだにあるすきまを勘定し、すき
まがいくつあるかを数えるやり方だ。
そうすればものの見え方がひっくり返る。
すきまを数えたら驚くようなことが起こる。
すきまを見つめ、すきまを数えているために、人の輪郭がぼやけ、はっきり見
えなくなってゆく。
いつか道端に立って、通り過ぎてゆく すきまを数えてみるといい。
あなたは驚くだろう― 車の色は目に入らない、車の型は目に入らない、車の運
転手や乗客は目に入らない。
目に飛び込んでくるのはすきまだ ― ひとつのすきまが過ぎ去ると、次のすき
まがやって来る。
あなたはすきまを数えつつ゛ける。
風景の焦点は変化している。
観想とは見ている風景の焦点を変えることだ。
ひとつの思考から別の思考へと飛び移るのではなく、ひとつのすきまから次の
すきまへと飛び移ってゆく。
徐々に徐々に、すきまへの気つ゛きが増してゆく。
それは生の最大の秘密のひとつだ。
なぜなら、そのすきまを通して、あなたはみずからの実存へ、みずからの中心
へ と落ちてゆくからだ。

観想なくしては何事も成しとげられない。
覚知することにより人は目標に到る。
覚知すること、ただ覚知すること……それはインドでは「ダルシャン」と呼ば
れている。
見ることにより、人はどこにも出かけることなく目標に到る。
どこにも出かける必要はない。
ただ見ればいい。
ひとたび間隙かんげきを、すきまをのぞきはじめたら、あなたは自分が誰であ
るのかを見ることができるようになる。
そしてあなたは目的地だ。
あなたは出発点であり目的地、始まりであり終わり、アルファでありオメガだ。
渇望していたすべてのものがすでにあなたのなかにある。
欲しがっていたすべてのものがすでにあなたのなかにある。
欲しがっていたすべてのものをあなたはもっている。
乞食でいる必要はない。
すきまを見ることを選べば帝王になり、思考を見つつ゛けていたら乞食のまま
でいるしかない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

270避難民のマジレスさん:2019/01/30(水) 08:35:46 ID:LC3de7YgO
>>269
マハラジ
>もしあなたが注意深く見守れば、あなたの日常の意識は、つねに隙間が現れ
 るひらめきのようなものでしかないと知るだろう。
 その隙間のなかには何があるのだろうか?
 ほかでもない、あなたの永遠なる真の実在だ。

OSHOがマハラジの言葉を詳しく解説してくれてるようであります。
(´・(ェ)・`)つ

271鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/30(水) 22:40:14 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、全ての目覚めた者は同じ事を説いているのじゃ。
自らの心を観ることが常に説かれるのじゃ。
この書に書かれていることもまたその方法の一つなのじゃ。
全ての教えは自らの心を観ることに尽きるのじゃ。

272避難民のマジレスさん:2019/01/30(水) 23:51:00 ID:LC3de7YgO
>>269
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

覚知することにより人は目標に到る。
自分自身から一歩たりとも踏み出してはならない。
神はすでにあなたのなかにいるからだ。
神は既成の事実だからだ。
それはあなたの内奥にある中核だ。
神は天上に、空のどこかにいるわけではない。
神はあなたの内側に、もはや思考によってかき乱されないところにいる。
沈黙がみなぎり、何ひとつ映し出していない、中身のない意識があるところに

そのとき、あなたは自分自身の味をはじめて体験し、みずからの実存のかぐわ
しい香りに包まれる。
黄金の華が開く。
(p200)
内観によって反転させなければならないのは自意識 をもったこころである。
万物を形つ゛くる精神 が顕現してくる前の状態へとそれを導かなければならな
い。
思考は顕れたものであり、無思考は顕れていないものだ。
自分が見ている風景が思考だけで成り立っているとしたら、エゴ自我以上のも
のは何もわからないだろう。
自我は「自意識をもったこころ」と呼ばれている。
あなたは思考のかたまり以外の何ものでもない。
その思考のかたまりのせいで、あなたは「私はある」という自意識をもつよう
になる。
近代西洋哲学の父であるデカルトは「我思うゆえに我在り」と言う。
彼は瞑想者ではないから、まったく別のことを言おうとしているのだが、その
言明そのものは美しい ―
まったく異なる文脈のなかに置くなら美しい。
私はそれに別の意味を与える。
そう、私は私が考えるときにのみ存在する。
思考が消えれば、私も消え失せる。
「我思うゆえに我在り」 ― この私の感覚、この「自意識をもったこころ」と
は連続する思考に他ならない。
それは本当は実体がなく、偽物であり、幻覚だ。
手に松明たいまつをもってぐるぐるまわしてゆくと、現実にはない火の輪が見
える。
だが、松明の動きがすばやいために、まぼろしの火の輪が生み出されている。
それは火の輪の幻覚を生じさせる。
それはそこにはない。
思考の動きがあまりに速いので、私という観念がつくりだされる。

呂祖は言う ― 人は「自意識をもったこころ」から"自意識をもたないこころ"
へと移らなければならない、と。
人は自我から無我の状態へと移らなければならない。
人は自己から無自己へと移らなければならない。
自己は顕現している部分であり、ちっぽけで、ひじょうに小さく、粗雑だ。
無我は顕現していない部分であり、果てしがなく、永遠だ。
自己はつかのまの現象であり、いつか生まれて、いつか死ななければならない

無我 ― 仏陀は「アナッター」、無自己と呼んでいる ― は永遠の一部であり
、生まれることもなく、死ぬこともない。
それはいつまでもとどまる。

六尺の身体の内に、天地が未だ現れる前にあった形を求め、努力しなければな
らない。
そしてあなたの六尺の身体のなかでは、その本質が、天地がつくられる前から
あったその本質が、今もなお息つ゛き、鼓動している。

禅の人々はそれを「本来の面目」と呼んでいる ―天も地も、何ひとつ生まれず
、いっさいのものが姿を現さず、沈黙だけがそこにあり、物音ひとつ立たなか
ったとき……形がなく、すべて無相であり、あらゆるものが種子の状態であっ
たときにそこにあったもの。
その本来の静寂があなたの内側にある。
ヒンドゥー教徒はそれを「アナハトナッド」と呼ぶ。
仏教徒たちは「隻手せきしゅの音声おんじょう」
という特有の表現をする。
それはあなたの内側にある。
それはあなたの真の姿だ。
それを味わえば、あなたは不死になる。
それを味わえば、あなたは黄金になる。
そうなったら塵ちりは変容して神々しいものになる。
錬金術はみな、卑金属を黄金に変容させることを目指している。
(´・(ェ)・`)
(つづき)

273避難民のマジレスさん:2019/01/30(水) 23:54:39 ID:LC3de7YgO
>>272
「隻手の音声」についての、OSHOの解釈は、本来の意味なのかもしれぬと思うくまであります。
(´・(ェ)・`)つ

274避難民のマジレスさん:2019/01/31(木) 12:09:15 ID:LC3de7YgO
>>272
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

昨今の人々はたった一時間か二時間坐って瞑目し、ひたすら己の自我を見つめ
、それを内観と呼んでいる。
そのようなやり方でどうして何かを得ることができるだろう?
坐って瞑想しながら、自分の自我エゴを見つめてばかりいるといったことにも
なりかねない。
人々が「観想」と呼んでいるものはそれだ。
彼らは自分たちの思考を見つめているが、見ている風景の焦点を変えてはいな
い。
彼らにそれしか起こらないのは、ふだんは実にたくさんのことに心を奪われて
いるので、思考を見つめることができないからだ。
瞑想のために特別に坐ると、しばしのあいだ世間を忘れ、思考がふだんよりも
鮮明になり、思考に対してより敏感になる。
これは哲学者の心境だ。哲学者はそのようにして考え、推測し、哲学を組み立
ててきた。
これは真の観想ではない。
そしてこのようなやり方では、自我を超え、死を超え、時間を超えてゆくこと
などできるはずがない。
だが、人間の目的はまさに超越にある。
くり返そう。
瞑想をしたければ、見ている風景の焦点を変えなければならない。
目を閉じて自我を見つめているだけでは役に立たない。
イギリスの偉大な哲学者、デービッド・ヒュームは書いている。
「偉大な教師マスターたちがそろって口にする
『汝自身を知れ、瞑想をせよ』という金言や助言を何度も何度も聞いたり読ん
だりしたので、私も瞑想をやってみた。だが、内側には思考、記憶、空想、夢
しかなかった。他には何も見つからなかった」
彼がそう言うのももっともだ。
彼は瞑想が何であるかを知らないからだ。
彼は哲学者、世界でもっとも才能ある哲学者のひとりだ。
その論理は実に鋭く、首尾一貫している。
が、彼は瞑想者ではなく、たんなる哲学者にすぎない。
その言葉通り、彼はやってみたにちがいない。
彼は内側をさまよっているたくさんの思考に出くわしたにちがいない。
そこで彼は言う。
「自己もなく、静寂もなく、神も存在していない。こんなことをしても虚しい
だけだ」
彼は取り逃がした。
まず見ている風景の焦点を変えねばならないということに気つ゛いていなかっ
たからだ。
思考を見つめる必要はなない。
すきまを求め、すきまをのぞき込まなければならない。
すきまを探し、そのすきまのなかに飛び込まなければならない。
すきまに飛び込んでいたなら、彼は思考が消え、夢が消え、記憶が消えてゆく
のを見ただろう。
あらゆるものが置き去りにされ、しだいにそれは遥か遠くに聞こえる物音にな
ってゆく。
そしてある瞬間がやって来る……それが すっかり消え失せると、あなたは超
越している。
あなたは向こう岸に到達している。
人は鼻の頭を見るべきである。

さあ、ここは経文のなかでも実践に役立つ箇所だ
― とても単純だが、正しく理解するように。
なぜなら、心マインドは単純なものごとですら曲解したがるからだ。
心とは曲解しようとするからくりだ。

人は鼻の頭を見るべきである。
なぜか、それが助けになるからだ。
そうすればあなたの意識は第三の目の延長線上にくるからだ。
両目が鼻の頭に向けられていると、たくさんのことが起こる。
基本的なことは、第三の目は鼻先と一直線上に ― 五、六センチ上だが同じ直
線上に ― 位置しているということだ。
ひとたび第三の目の延長線上にのれば、その第三の目の魅力、その第三の目の
吸引力、磁力があまりに大きいので、あなたは知らないうちに引きつけられて
しまう。
その線の上にのりさえすれば、第三の目の魅力、引力が作用しはじめる。
ひとたびその線の真上に来れば、努力をする必要はいっさいなくなる。
ふと気つ゛くと、世界の見え方が変わっている。
両目は二元的な世界や思考をつくりだし、両目のあいだにあるひとつの目はす
きまをつくりだすからだ。
これは見ている風景の焦点を変える単純な技法だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

275鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/31(木) 23:25:35 ID:1d4drIFg0
>>273 そうじゃ、公案も本来は修行者の心を鎮めさせるために編み出されたものじゃ。
 面白いクイズではないのじゃ。

呂祖も自我を観ることを否定してはいないのじゃ。
ただ思考が雑念として沸き起こる状態では見ることができないというのじゃ。
そのために鼻頭を観ることで眉間に気を集める法を教えるのじゃ。
止観の止を教えているのじゃ。

276避難民のマジレスさん:2019/02/01(金) 15:39:21 ID:LC3de7YgO
>>274
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

人は鼻の頭を見るべきである。
だがこれは、みずからの 思念を鼻の頭に固定させるという意味ではない。
心マインドはそのように曲解しかねない。
心は「よし、じゃあ鼻の頭を見つめればいいんだ。鼻先のことを考えて、それ
に集中すればいいんだ」と言いだしかねない。
鼻の頭に集中し過ぎたら、肝心な点を取り逃がしてしまう。
鼻の頭に視線を下ろしつつも、第三の目によって引き寄せられるように、ゆっ
たりくつろいでいなければならないからだ。
鼻の頭に集中し過ぎて、そこに根をはやし、焦点を合わせ、固定してしまった
ら、第三の目はあなたを引き寄せることができない。
第三の目はこれまで一度も働いたことがないからだ。
その吸引力は、最初はそれほど大きなものではありえない。
それは徐々に徐々に大きくなってゆく。
ひとたび第三の目が機能しはじめ、それによって周囲につもったほこりが消え
、仕組みが順調に働いてゆくようになれば、鼻先に意識を向けるだけで、あな
たは引き寄せられるようになる。
だが、はじめはそうはゆかない。
あなたは肩がこらず、圧迫もなく緊張もない、軽々とした状態でいなければな
らない。
あなたはただ一種の手放し状態のなかでそこにいなければならない。

またこれは、目で鼻の頭を見つめながら思念を 「中心の黄色」に集中させると
いう意味でもない。
だから、鼻の頭に意識を集中させないこと ― さもないと心マインドは第二の策
略トリックを弄しかねない……
師は心が引き起こしうるあらゆる事態、あらゆるゲームに注意を向けさせよう
としているだけだ。
心はまず言う。
「よし、では師は『鼻の頭に集中せよ』と言ってるんだ」
師は「鼻の頭に集中せよ」などとは言っていない。師は「見なさい。軽やかに
、力まずに見なさい」と言っているだけだ。
あるいは心はこう言うかもしれない。
「そうか、鼻の頭をとりあえず見て、意識を第三の目に集中させればいいんだ
な」心はつねに集中する側にまわる。
心は集中を餌とし、集中を食べて生きているからだ。
学校や大学で、瞑想ではなく集中が教えられるのはそのためだ。
学校はすべて心をつくりだす工場だからだ。
それは心を製造している。

視線が向かうところに、こころも向かうものである。
どうしてそれを同時に上方と下方に向けることができるだろう?
そうなったら、心マインドはこう言うだろう。
「いいかい、そんなことはできっこない。不合理な要求さ。どうして二つの方
向を、鼻の頭と第三の目を同時に見るなんてことができるだろう?そんなこと
は不可能だ、やれるはずがない。馬鹿を言っちゃいけない」
さあ、何かをつじつまが合わないと言って非難するのが、心の第三のゲーム
だ ― 心はまずまやかしの観念をつくりだしておいてから、それを壊そうとす
る。
そして壊すことに大きな喜びを覚える ― ひじょうに自虐的、加虐的な喜びだ

心は言う。
「いいかい、師はこんなことを言っているんだぜ。馬鹿げているよ!まず鼻の
頭を見て、それからさらに第三の目を見ろだって― どうして上と下を同時に見
るなんてことができるだろう?そんなことはできっこない」

こういったことはみな、月を指す指を月そのものと取り違える ようなもので
ある。
では、これは実際には何を意味するのか?
「鼻の頭」という表現はよく考えて選ば
れたものだ。
鼻は視線の目安とならなければならない。
それだけのことだ ― それは目安にすぎない。
それを目安にすることで、あなたは第三の目の磁場、エネルギー場に入り、第
三の目の磁力のすぐそばにいることになる。
第三の目はそのような形でしか機能しえない。
あなたはその磁力に身をさらし、磁場のなかにたたずんでいるだけでいい。
そうすればその力があなたを引き込んでくれる。
入ってゆく必要はないし、入ってゆこうと努力を する必要もない。
それはひとりでに起こるからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく`)

277鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/01(金) 21:48:03 ID:1d4drIFg0
眉間に集中する方法はなかなか難しいものじゃ。
あまりに集中すると眼が疲れて痛くなり、頭痛までしてくるのじゃ。
ヨーガでは視線は一メートルぐらいの地面に固定して意識だけ集中するというのじゃ。
この書では逆に視線を鼻の頭に固定して意識は向けないようにするのじゃ。
いろいろ試してみると善いのじゃ。

278避難民のマジレスさん:2019/02/02(土) 00:08:31 ID:LC3de7YgO
>>276
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

鼻に視線を向けていない場合には、目を大きく開けて遠くを 見ているため鼻が
見えないか、あるいは目を閉じ過ぎていて 鼻が見えない。
目を大きく開けすぎると、視線を外に向ける という誤りを犯し、気が散りやす
くなる。
鼻の頭を軽く見ることで別の効果が現れる ―
そうすれば目を大きく開いたままではいられない。
目を大きく見開くと、世界のすみずみが視野に入ってくる。
そして気を散らさせるものが無数にある。
美しい女性が通りかかると、あなたはそれについてゆく ― 少なくとも心のな
かで。
あるいは誰かが喧嘩をしていると、関係などないのに、「どうしたのだろう?」
と考えはじめる。
あるいは誰かが泣いていると、好奇心に駆られる。
千とひとつのものごとが絶えずあなたのまわりで起こりつつ゛けている。
目を大きく開いたら、あなたは男性エネルギー、<陽>になる。
目を完全に閉じてしまうと、あなたは物思いにふけり、夢を見はじめる。
あなたは女性的エネルギー、<陰>になる。
両方を避けるために、何気なく鼻の頭を見る― 単純な方策だが、その成果には
目を見張るものがある。
これは道家の人々だけでなく、仏教徒たちも知っている、ヒンドゥー教徒たち
も知っている。
いつの時代にも瞑想者たちは、目を半眼にすることで二つの罠を巧妙に避ける
ことができるという事実にゆきあたった。
外界にかき乱されるか、内なる夢の世界にかき乱されるか、二つの落とし穴が
ある。
内界と外界の境界の真上にとどまっていればいい。
まさにその場所だ。
内界と外界の境界の上にあるというのは、その瞬間、あなたは男性的でも女性
的でもないということだ。
あなたの視界は二元性から解放されている。
あなたの視点は内なる分割を超えている。
内なる分割を超えてはじめて、あなたは第三の目が放つ磁力の圏内に入る。
目を閉じ過ぎると、視線を内に向けるという誤りを犯し、夢を見るような空想
の状態に沈みこんでしまう。
ただ瞼まぶたを 適度に半分ほど閉じると、ちょうどよい具合に鼻の頭が見える
ようになる。
そのために鼻を目安とするのである。
大切なのは、瞼を適度に閉じて、意識を集中させて光を流れ込ませようとする
のではなく、光が自然に流れ込むようにすることである。
これを覚えておくことはとても重要だ。
光は引き入れるものではない、力ずくで引き込むものではない。
窓が開いていれば、光はひとりでに入ってくる。
扉が開いていれば、光はあふれるように差し込んでくる。
光はもち込まなくてもいい。
光は押しいれなくてもいい。
光は引き込まなくてもいい。
光をどうして引き込むことができるだろう? 
光をどうして押し入れることができるだろう?
心を開き、光に対して感じやすくなっているだけでいい。
鼻の頭を見ているときに起こっているのはまさにそれだ。
集中せずに、ただ見ていると……重くならず、力まず、ただ見ていると、突然
、第三の目の窓が開き、光が流れ込んでくる。
いつも外に流れ出していた光が流れ込みはじめ、輪が完結する。
そしてこの輪は人間を完成させる。
この輪は人間を完全に落ち着かせ、くつろがせる。
この輪は人間を円満で神聖なものにする。
人間はもはや分かたれていない。
そうでないかぎり、人はみな多かれ少なかれ精神分裂症にかかっている。
光の輪をつくりだせた人間だけが ―光の循環は精神分裂症を超えている ― 本
当に健やかであり、神経症を少しも患っていない。
さもなければ人はみな似たりよったりだ。
神経症を病んでいる者とそうでない者の違いは程度の差にすぎない。
実際、患者と精神分析医は別の人種ではなく、同類だ。
ひとりの神経症患者がもうひとりの神経症患者を助けようとしている。
そして、ときには手を貸している方が相手よりも重いい神経症にかかっている
といったことがある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

279避難民のマジレスさん:2019/02/02(土) 11:35:33 ID:LC3de7YgO
>>278
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

世にある職業のなかで精神分析医が神経を病む率が最も高い。
世にある職業のなかで精神分析医の自殺率が最も高い。
なぜだろう?
ある意味で、それは当然のことであり、つじつまがあう。
神経症やありとあらゆる狂気を扱ってばかりいるのだから、自分自身も癒えて
いない彼らが影響を受けてしまうのは当然だ。
彼らはこれらの神経症を体内で養っている。
患者が語るすべてのたわごとに耳を傾けていると、精神分析医は無意識のうち
にそれを取り込んでしまう。
患者はありとあらゆるたわごとを精神分析医にぶちまけてゆく。
実際、そのために患者は金を払っている。
徐々に徐々に、精神分析医のなかに大量の神経症がため込まれ、やがてそれが
爆発することになる。
そうなっても無理はない。
もし精神分析医を任命する権限が私に与えられたなら、光を巡らせるこのプロ
セスを精神分析医に求められる基本的な条件、根本条件とするだろう。
みずからの光を巡らせることができるまで、他人を治療する資格はない。
内側で光を巡らせることができるなら、その人はいかなる神経症にもけっして
影響されることがない。
彼は乱されることなく、耳を傾け、手を貸すことができる。
光を巡らせることで、彼はみずからを清め、浄化している。
彼は聖なる人になる。
導師グルと精神分析医の違いはそこにある。
導師だけが真の精神分析医になることができる。
導師だけが真のセラピストになることができる。
みずからの全体性に到った者だけが道の上で苦闘し、暗闇でつまつ゛いている
者たちに本当に手を貸すことができる。
さもなければ、盲人が別の盲人の手引きをしているだけだ ― ふたりはそろっ
てどこかの井戸に落ちることになる。
この『黄金の華の秘密』という書物は、将来、精神分析医になりたい者たちに
とって、最も根本的な実践の手引きとなるにちがいない。
あなたは驚くだろう ― この書物をはじめて西洋の言語に翻訳したのはヴィル
ヘルムだが、彼自身もまた優れた心理学者だった。
彼がこの書物に興味をもつようになったのはそのためだ。
だが、翻訳を終えた後、彼は狂ってしまった。
彼はひどくかき乱されてしまった。
彼が受けた精神分析の訓練とこの書物の内容が 彼のなかで大きな矛盾を引き起
こし、解きがたい 謎を引き起こし、彼は今まで以上に分裂してしまった。
この書物を翻訳することで、彼は一種の狂気へと追い立て られていった。
それまで受けてきた訓練、知識がことごとくかき 乱されてしまったために、彼
は方向感覚をすっかり失ってしまった。
それを覚えておきなさい。
秘法はそれほどむずかしくない。それが むずかしいのはそこだ ― あまりに
単純なので、ただ心マインドが複雑にしてしまわないよう、勝手にひねりを加
えてしまわないよう、見張りつつ゛けることだけが求められる。
そのために鼻を目安とするのである。
大切なのは 、瞼を適度に閉じて、意識を集中させて光を流れ込ませようとする
のではなく、光が自然に流れ込むようにすることである。
意識を集中させて光を取り入れる必要はない。
光は自然に入ってくる。
そして自然に入ってくるなら、その光は美しい。
光を内側にとり入れようとしはじめたら失敗するだろう。
努力すれば必ず失敗する。
そして失敗すればするほど、あなたはさらに懸命に努力する。
やればやるほど、あなたの失敗はいっそう確実なものになってゆく。
光をとり入れようとしないこと。
光が自然に入ってくる正しい状況に身を置けばいいだけだ。
例えば、夜、月が出ているときに、窓辺に近つ゛き、窓のそばに立てば、月は
自然に甘露を降り注ぎはじめるだろう。
あなたは何もしなくていい。
月の光が降り注いでいる場所に立てばいいだけのことだ。
みずからを正しい<場>に置くだけで、ものごとは起こりはじめる ―このうえ
もなく価値のあることが。

鼻の頭を見ることは、ひとえに内なる集中をはじめる際に役立つのであり、そ
うすることで視線が正しい方向に向かい 目安が定まれば、後はそのまま放置す
ればよい。
これは大工が下げ振りをつるすにあたり、いったんそれをつるし終えると、絶
えずその糸を見ることにこだわらないような ものである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

280鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/02(土) 23:14:27 ID:1d4drIFg0
瞑想が難しくなるのは何もしないことが難しいからなのじゃ。
何かがうまくいっていると人は何かを必ずしたくなるのじゃ。
それによって静けさや沈黙が破れてしまうのじゃ。
初心者のうちにはうまくいっいていた瞑想が上達するとうまくいかなくなるのもそのためなのじゃ。
再び何もしないことができるには長い時間が必要になるのじゃ。
流れてくるエネルギーや微妙な静けさや沈黙をそのままにしておくことが瞑想の秘訣なのじゃ。

281避難民のマジレスさん:2019/02/03(日) 00:03:26 ID:LC3de7YgO
>>279
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

両目で鼻の頭を見ながら……いいかね、両目が鼻の先端でその二元性を失うよ
うに、あなたは両方の目で鼻の先端を見なければならない。
そうすればその鼻先で、両目から流れ出している光がひとつになる。
光は一点に集まる。
二つの目が出会うところ……まさにそこに窓が開く。
そうなったらすべてがうまくゆく。
そうなったらそのまま放置すればいい。
そうなったらただ楽しめばいい。
ただ祝い、ただ喜び、楽しめばいい。
そうなったらすることは何もない。
(p211)

両目で鼻の頭を見ながら、背筋を伸ばして楽な姿勢で座り……背筋を伸ばして
坐ることは役に立つ。
背筋を伸ばしていると、性の中枢センターから来るエネルギーをも第三の目で
使うことができるようになる。
単純な方策であり、そこには何も複雑なものはない……両目が鼻の頭で出会う
と、あなたは第三の目にはいってゆくことができる。
性エネルギーもまた第三の目に入ってゆかせるがいい。
そうすれば効果は二倍になる。効果は絶大になる。
なぜなら、性の中枢にはあなたが携えているすべてのエネルギーがあるからだ

背骨をまっすぐに立てると、性の中枢をも第三の目で使うことができるように
なる。
第三の目は二つの次元から攻めるほうがいい。
第三の目は二つの角度から貫こうとするほうがいい。
背筋を伸ばして楽な姿勢で座り……師はことを単純明快にしている。
背筋を伸ばすのはいいが、それを心地の悪いものにしてはいけない。
そうでなければ、再びその心地の悪さに気をとられてしまう。
ヨーガの体位の意味はそこにある。
サンスクリット語の「アーサナ」とは心地のよい姿勢を意味している。
心地のよいことが何よりも肝心だ。
心地よくなければ、心は不快さに気をとられてしまう。
それは心地よいものでなければならない。
東洋人がよくするように床の上に坐ることができなければ ― 彼らは何世紀に
もわたり坐りつつ゛けてきた ― 西洋の探求者が床の上に坐ることができなけ
れば、坐ることに無理があり、心地が悪く、痛みに満ちたものになるなら、椅
子に坐って背筋を伸ばす方がよい。
だが、椅子の背は直角でなければならない。
古代エジプトの王や王妃の絵や彫像を見たことがきっとあるだろう。
彼らの椅子の背は直角になっている。
そのようにして坐るといい。それもヨーガの姿勢のひとつだ。
古代のエジプト人たちはその秘密を知っていた。
とにかく二つのポイントがある。
背骨をまっすぐに伸ばすことと、楽な姿勢を取ることだ。
どちらかが無理な場合には……ときにはそういうこともある。どちらかができ
ない場合がある。
背骨をまっすぐ伸ばすと、心地が悪くなり、楽な姿勢を取ると、背骨が曲がってし
まう。
そんな場合には楽な方を選びなさい。
最善では ないにせよ、心地よさを選ぶ方がいい。
そして背骨 や背筋を伸ばすことなど忘れてしまいなさい。
という のも、心が散漫になってしまうと、何も起こらないからだ。
両方をかなえることができるなら、それに越したことはない。
(p213)
楽な姿勢で座り……背筋を伸ばし楽な姿勢で坐り…… こころを諸条件の只なか
にある中心に保つ。
そして世間から逃げださないこと。
世間のなかで、その諸条件の只なかで生きなさい。
車の騒音が聞こえてくる。
飛行機が飛び去ってゆく。
汽車が行ったり来たりしている。
ありとあらゆるものごとがそこにある……世間が。
だが、世間の只 な か で静かに座りなさい。
なぜなら、ヒマラヤの洞窟へ逃げだすことにはつねに危険がつきまとうからだ

危ないのはヒマラヤの静寂がしみ込みやすいため、自分は沈黙を達成したと勘
違いしかねないからだ。
大気の涼しさがしみ込みやすいため、平常心を達成したと勘違いしかねないか
らだ。
それは借り物だ。
人でにぎわう街にもどってくれば、それはみなたちどころに消えてしまう。
そしてヒマラヤでのあの年月は無駄だったことが、完全に無駄だったことがわ
かる。
あなたは自分をだましていただけだ。
世間の只なかで、中心感覚を獲得するほうがいい。
なぜなら、それはあなたから取り去ることができないからだ。
だからどこにいようと、あなたはこれらの諸条件の只なかで中心にとどまらな
ければならない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

282避難民のマジレスさん:2019/02/03(日) 09:05:58 ID:LC3de7YgO
>>281
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

それは必ずしも頭の中心を指しているわけではない。
中心感覚とは、頭の中心にとどまるということではない。

大切なのは、ただみずからの思念を両目の中間に定めることである。
そして、いいかね、意識の集中ではなく、ただ油断なく目を見張りつつ゛けて
いること、軽やかに注意を払うということだ。
鼻の頭を見ながら、第三の目に軽く注意を払いなさい。
実のところ、鼻の頭を見たとたん、あなたは第三の目に敏感になる。
なぜなら、それは鼻のもう一方の極だからだ。
ひとつの極、外側の極は鼻の頭であり、それは末端だ。
もうひとつの末端は第三の目とつながっている。
鼻の頭に意識を向けるやいなや、もう一方の端もただちに意識に昇ってくる。
だが、ただ気つ゛いていること、努力せずに気つ゛いていること。

大切なのは、ただみずからの思念を両目の中間に定めることである。
そうすればすべては整う。
すばらしい言明だ ― そうすればすべては整う。
あなたはわが家にたどり着きはじめている。
あなたは変革の入り口に立っている。

光は、はなはだ動きやすい。
光はつねに動いている。
光とは運度に他ならない。
この世で光ほど速く動くものはない。
光の速さは一秒間に十八万六千マイルだ。
光より速いスピードで動くものはない。
光は純粋な速さだ。
それは速さの別の名前だ。
光はけっして眠り込まない。
光はつねに躍動し、つねに動き、つねに流れている。
光は、はなはだ動きやすい。
両目の中間に思念を定めると、光は自然に流れ込んでくる。
心配しなくてもいい。
窓を開けて、ただ待てばいい。
光は動いてやまない現象だから、窓が開いていれば、流れ込んでくる。
実のところ、光は何生にもわたって窓を叩きつつ゛けてきたのだが、窓は閉ざ
されたままだった。
そして光は窓をこじ開けることができない。
それは朝がきて太陽が昇っているのに、深く眠りこけているのに似ている。
光線は窓に達し、窓を叩いている。
だが、そのノックの音は聞こえない。
光は音を立てないからだ。
光はそこで待っている。
目を覚まして、窓を開けたとたんに、光が流れ込んでくる。
そして光とともに生命が入ってくる。
光とともに喜びが入ってくる。

両目の中間に思念を定めると、光は自然に流れ込んでくる。
「自然に」という言葉に心をとめなさい。
あなたは行為の主体ではない。
あなたは一種の手放し状態にある。
あなたは光に明け渡している。

注意をことさら中心の宮殿に向ける必要はない。
大切なことはこの数語に要約されている。
あなたの実存をすっかり変容させてしまう秘法、神の王国の秘法、にゃはんニ
ルヴァーナの秘法……。
「諸条件の只なかにある中心」というのは、ひじょうに 微妙な表現である。
中心は至るところにあり、いっさいのものがそのなかに含まれている。
それはあらゆる創造のプロセスが解き放たれる点と結びついている。
あなたが第三の目の地点に到り、そこに中心を据えると、光があふれるように
押し寄せてくる。
そのときあなたは、あらゆる創造がそこから湧き起こる地点に到達している。
あなたは形なきもの、顕れていないものに到達している。
それを「神」と呼んでもいい。
これこそ万物が湧き起こる地点、その空間だ。
これこそ森羅万象の種子そのものだ。
それはあらゆる力をもち、至るところに遍満している永遠なるものだ。
もはや死を知ることはない。
もはやあなたはいかなる肉体との同一化、老若・美醜も知ることはない。
もはやあなたはいかなる種類の病も知ることはない ― 肉体が病まないという
のではないが、病はもはやあなたには起こらない。
なぜなら、あなたはもう同一化してはいないからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

283鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/03(日) 22:01:53 ID:1d4drIFg0
瞑想の真の秘訣がここでもまた強調されるのじゃ。
瞑想中に何か起ころうとそのままにしておくのじゃ。
集中以外の全ての意思をも放棄して座り続けるのじゃ。
そこにこそ至高の境地が花開くのじゃ。
全ての意識が体を超えて広がっているのが感じられるのじゃ。

284避難民のマジレスさん:2019/02/03(日) 22:39:12 ID:LC3de7YgO
>>282
23黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

ラマナ・マハリシは癌で死んだ。
肉体は ひどく苦しんでいたが、彼は微笑んでいた。
医者たちは当惑し、目を疑った。
それは信じがたいことだった。
肉体がこれほどひどい苦痛にさいなまれているのに、彼はすばらしい歓喜に浸
っている。
どうしてそんなことがありえるのだろう?
彼らが何度も「どうしてこんなことがありえるのでしょう?」 と尋ねるたびに
、彼はこうくり返した。
「不思議なことは何もない。私は肉体ではないからだ。だから肉体に何が起こ
っていようと、君たちが私の肉体を見ているのと変わりない。私も自分の肉体
を見ている。 君たちは少しも痛みを感じないだろう?私もそうだ。君たちは目
撃者であり、私も目撃者だ。 肉体は対象、私たちのあいだにある対象物にすぎ
ない。君たちは肉体が苦しんでいるのを外側から見ている。私は肉体が苦しん
でいるのを内側から見ている。君たちが動揺せずに見ていられるなら、どうし
て私にできないことがあるだろう?」
実のところ、医者たちは動揺していた。
彼らは深い同情を感じていた。
彼らは悲しかった。
彼らは無力感を感じていた。
彼らはこの人を救いたいと思っていた ― かつてこの世に生きた最も美しい人
々のひとりを。
だが、それはできなかった。
彼らは泣いていた。
だが、ラマナはまったく動揺していなかった。
人間のなかには超越の地点がある。
姿を顕しているいっさいのものから突如 断絶し、姿を顕していないものと結
びつく地点が。
姿を顕していないものと結びつくことが 自由になること、あらゆる惨めさか
ら自由になること、あらゆる限界、あらゆる束縛から自由になることだ。
一点を見つめ観想することが不可欠である。
これは避けることのできないものだ ―これは欠かせない。
至福の状態に到達したければ、この一点を見つめること、観想、瞑想、あるい
はディヤーナのこのプロセスを通り抜けなければならない。
(p217)
この技法はすみやかに光明を得ることを保障する。
世俗の想念が浮かびあがってきたなら、そのままじっと坐りつつ゛けてはいけ
ない。
さて、ひじょうに重要な、師の第二の助言だ。

世俗の想念が浮かびあがってきたなら、そのままじっと坐りつつ゛けてはいけ
ない。
その想念はどこにあるのか、どこではじまり、どこへ消えてゆくのかを調べな
ければならない。
最初からそれがうまくゆくことはないだろう。
鼻の頭を見ていると、思考がやって来る。
思考は何生にもわたってやって来ているのだから、そうやすやすとあなたを独
りにしてはくれない。
思考はあなたの一部となり、ほとんど組み込まれてしまっている。
あなたはプログラムされたに等しい生を送っている。
自分が何をやりつつ゛けているか観察してみたことがあるだろうか?
なかったら、明日の朝、あることをやってみるといい。
朝、目を覚ましたら、すぐに自分がしていることを観察してみるといい
― どのようにベッドから起きるか、どのように身体を動かすか、どんな思念
が頭をよぎるか……ただ、見守ってみるといい。
一週間も観察すれば、きっと驚くことだろう。
あなたは毎朝まったく同じことをくり返している。
同じ仕草、同じ表情、ほとんど同じ思考。
何から何まですっかりプログラムされてしまっている。
そしてあなたはこれを一生のあいだやってきた
―もしかすると何生ものあいだやってきたのかもしれない。
腹が立ったら、観察してみるといい
―それはいつも同じプロセスを踏んでいる。
あなたは同じ空間を通り抜けてゆく。
幸せなとき、観察してみるといい。
恋に落ちるとき、観察してみるといい。
失恋するとき、観察してみるといい。
それはほとんど同じプロセスだ。
あなたは同じ愚行を何度も何度もくり返し、同じたわごとを何度も何度も口走
っている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

285避難民のマジレスさん:2019/02/04(月) 07:33:06 ID:LC3de7YgO
>>284
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

あなたは意識的な生を生きていない。
あなたの九十九パーセントはプログラムされている
― 他人にプログラムされているにせよ、社会にプログラムされているにせよ
、あなた自身の手でプログラムしているにせよ、プログラムされていることに変わりはない。
だから、はじめて坐って鼻の頭を見つめているときに、思考がこのように言う
ほど、ことは容易ではない。
「こいつのそばには近寄らないほうがいい。このかわいそうなやつを見てみろ
―瞑想なんかにすっかりはまり込んでいる!鼻の頭を見つめていやがる……今こ
いつのところへゆくのはやめておこう」
思考はあなたのことなどおかまいなしに、どんどん走りまわるだろう。
鼻の頭を見たぐらいで止まりはしない。
むしろ逆に、この男が思考の支配から逃れようとしているのを見物しようと、
それまで以上にもっとしつこくやって来るだろう。
静かに坐って瞑想をしていると、ふだんよりも、いつもよりももっと多くの思
考がやってきて、ほとんど爆発しそうな勢いになる。
何百万もの思考が押し寄せてくる。
思考はあなたにかなりの投資をしてきたのに、あなたはその支配から抜け出そ
うとしているからだ。
かれらはあなたをこっぴどい目に合わせようとする。
だから、思考が必ずやって来る。
これらの思考をどうしたらいいだろう?
ただそこにぽつんと坐っているわけにはゆかない。
あなたは何かをしなければならない。
闘っても役には立たない。
闘いはじめたら、鼻の頭を見たり、第三の目を意識したり、光を巡らせること
を忘れてしまうからだ。
あなたはすべてを忘れ、思考のジャングルに迷い込んでしまう。
思考を追いかけはじめたら、道に迷ってしまう。
思考の後を追えば、道に迷ってしまい、思考と闘っても、道に迷ってしまう。
では、どうすればいいのだろう? これがその秘法だ。
仏陀も同じ秘法を使っていた。
実際、秘法というのはほとんど同じものだ。
人間が ― 鍵穴が同じだからだ。
だとすれば 鍵も同じにならざるをえない。
これがその秘法だ。
仏陀はそれを「サマサティ」
― 正しい想起 ― と呼んでいた。
ただ想起すること
― 思考がやって来ても、敵意を抱かず、正当化をせず、非難をせずに、その
ありのままの姿を観る。
科学者が客観的になるように、ただ客観的になる。
それがどこにあるか、どこからやって来たか、どこへ去ってゆくかを観る。
それがやって来るのを観、とどまるのを観、去ってゆくのを 観る。
思考はひじょうに動きやすく、長くとどまってはいない。
あなたは 思考が湧き起こり、思考がそこにとどまり、思考が去ってゆくのをた
だ観守っていればいい。
闘ったりしないこと。
ただ静かに観察していればいい。
するとあなたは驚くだろう
― 観察がしっかりしたものになればなるほど、やって来る思考は減ってゆく。
観察が完璧になると、思考は消え失せてしまう。
後にはすきまが、間合いだけが残る。
だが、もうひとつのポイントを覚えておきなさい。
こころが再び策を弄しかねないからだ。
(p220)
内省をどこまで押し進めても何も得られない。
だが、内省をどこまでも押し進めようとしないこと。
フロイト派の精神分析はまさにそれを行なっている。
思考を自由に連想させてゆく。
ひとつの思考がやって来たら、次の思考が湧いてくるのを待つ。
それがどんどん鎖のようにつつ゛いてゆく……精神分析の諸派がやっているの
はまさにそれだ―あなたは過去にもどってゆき始める。
ひとつの思考が別の思考を呼び覚まし、それが延々と果てしなくつつ゛いてゆ
く。
それにはきりがない。
それに入り込んでしまったら、あなたはまったく何の益にもならない永遠の旅
に出ることになる。
心はそれをやりかねないから、気をつけなければならない。

内省をどこまで押し進めても何も得られない。
この想念がどこから生まれてきたかを見ることでよしとし、その先を究めよう
としてはならない。
こころを探し求めても、とらえることはできない (意識によって意識の背後に
達することはできない)からだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

286鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/04(月) 23:05:05 ID:1d4drIFg0
雑念を見守り、消えていくに任せるのは集中には欠かせない方法なのじゃ。
それに囚われてはいかんが、あまりに追求しすぎてもいかんのじゃ。
泡の如く生まれては消え去るさまを観ているだけでよいのじゃ。
そうすれば消えていくのじゃ。

287避難民のマジレスさん:2019/02/04(月) 23:35:19 ID:LC3de7YgO
>>286
淀みに浮かぶうたかたであります!
(´・(∀)・`)つ

288避難民のマジレスさん:2019/02/04(月) 23:47:10 ID:LC3de7YgO
>>285
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

意識によって意識を超えることはできない。
だから、いたずらに無益なことは試みないこと。
そうしないと次から次へと現れる思考に振りまわされて、自分がそこで何をし
ようとしていたのかすっかり忘れてしまう。
鼻の頭は消え、第三の目は忘れられ、光の循環は遥か彼方に遠ざかってしまう

だから思考をつなげないよう、ひとつの思考だけにする。
連想をはじめてはいけない。
ひとつの思考が現れてくる―それがどこにあり、どこから現れて、いつ消えて
ゆくのかを見守りなさい。
見守っていると、それは消えてしまう。
これを心にとめておきなさい。
仏教徒は思考が現れると、「思考、思考」と言って油断なく目を見張る。
それはちょうど家に泥棒が入ったら、「泥棒だ!泥棒だ!」
と叫んで、みんなの注意を呼び覚ますようなものだ。
ただ「思考、思考」と言うだけで、あなたは油断なく目を見張り、注意深くな
る。
泥棒が入った。さあ、泥棒が何をしているか見守るがいい。
あなたが気つ゛くと、思考はただちに止まる。
思考はあなたを見て、そして少し驚く。
あなたはこれまで一度もそんなことをしたことがなかったからだ。
思考はあまり歓迎されていないのを感じる。
「こいつはどうしてしまったんだろう?いつもよくもてなしてくれたのに、
『泥棒!泥棒!思考だ、思考だ』などと言っている。こいつはどうしちまったんだろう?」
思考は当惑し、何が起こっているのか理解することができない。
「こいつはおかしくなりはじめているのだろうか。鼻の頭を見ながら『思考、
思考』とくり返しているぞ」
気つ゛きそのものが思考の動きを一瞬止める。
思考はその場に釘つ゛けになる。
そして見守りつつ゛けなさい。
非難してはいけない。
放り出そうとしてはいけない。
闘ってはいけない。
非難しても正当化しても、思考と同一化することになるからだ。
ただそこにあって、油断なく目を見張り、思考を見つめなさい。
そうすれば思考は消えはじめる。
現れたときと同じように消えてゆく。
それは空想から生まれ、空想のなかに消えてゆく。
思考が消えれば、観想にもどればいい。
思考には根などないのだから、その元をたどる必要はない。
さもなければ大宇宙の源そのものまでたどらなければならなくなる。
精神分析にきりがないのはそのためだ。
それはけっして終わらない。
精神分析を完全に終えた者などこの世にひとりもいない。
精神分析を完全に終えることなどありえない。
一年、二年、三年、四年、五年、六年、七年と―精神分析に七年間通っている
人もいる。
あなたはどう思うかね?
彼らが止めるのは精神分析が終了したからだと思うかね?
いいや、彼らは精神分析にうんざりし、精神分析医は彼らにうんざりしてしま
ったからだ。
ものごとはいつか決着をつけなければならない。
終止符を打たなければならない。
いつまでつつ゛けられるだろう?
だが、精神分析が完了したことは一度もない―それはありえない。
それはむいてもむいてもなくならない玉葱たまねぎのようなものだ。
その皮をえんえんと剥むきつつ゛けることはできるが、どこまでいってもきり
がない。
だがそれは助けになる。
それは自分自身に、そして社会にもっと適応するのを助けてくれる。
それはあなたを変容させるのではなく、正常な異常者にするだけだ。
それはあなたが住んでいる神経症的な社会にあなたが適応するのを助けてくれ
る。
それはあなたを、変容を遂げた輝かしい存在にするのではなく、生がもたらす
ものは善悪を問わずことごとく受け入れ 、誰もがしているように身をひきずり
ながら歩いてゆくふつうの人間にしてくれる。
それは嘆きながら生を受け入れることを教えてくれる。
それは本当の受容ではない。
真の受容はつねに祝祭をもたらすからだ。(´・(ェ)・`)
(つづく)

289避難民のマジレスさん:2019/02/04(月) 23:49:12 ID:LC3de7YgO
>>288
OSHOはきっと、正常な異常者だったのでありましょう。
くまも、それを目指すであります。
(´・(ェ)・`)つ

290鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/05(火) 22:59:22 ID:1d4drIFg0
>>287 そうじゃ、兼好法師も修行していたのじゃろう。
 
>>289 目指すと善いのじゃ。

批判も正当化もせずに見守るのはなかなか難しい事じゃ。
分別の判断は瞬時に起こってしまうからのう。
それが起こったならば起こったとまたありのままに観るとよいのじゃ。
そうすれば自己同一化されずに消えていくのみなのじゃ。

291避難民のマジレスさん:2019/02/06(水) 03:10:06 ID:LC3de7YgO
>>290
鬼和尚、いつもありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

292避難民のマジレスさん:2019/02/06(水) 06:48:17 ID:LC3de7YgO
>>288
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

ジークムント・フロイトは言った―人間は幸福にはなれない。
せいぜい楽になることができるだけだ。
生をもっと心地よいものにすることはできるが、ただそれだけのことであり、
幸福にはなれない。
それは不可能ではない―精神分析によっては不可能だが― なぜなら、幸福な人
々というのは存在してきたからだ。
私 たちは彼らを知っている。
仏陀や老子やクリシュナのような人たち、私たちはこういった舞い踊る人々を
知っている。
フロイトは幸福ではない。
それは本当だ。
彼は幸福になることはできない。
精神分析を落とし、瞑想的なプロセスに入ってゆかないかぎり、彼は幸福には
ならない。
彼が瞑想を学ぶにはさらにいくつかの生が必要になるだろう。
実のところ、彼は瞑想をひどく恐れていた。
ジークムント ・フロイトだけでなく、カール・グスタフ・ユングのような人で
さえ、恐れていた。
カール・グスタフ・ユングは、この 『黄金の華の秘密』という書物の解説を書
いている。
だが それは知的なものにすぎず、実存的な価値はない。
彼には瞑想の体験がまったくなかった―どうしてそれが実存的な価値をもちう
るだろう?
そして、彼はきわめてエゴの強い人間だった。
エゴの強い人間は瞑想に入ってゆくのがひじょうにむずかしい。
なぜなら、そのまさに戸口のところでエゴを落とさなければならないからだ。
ユングがインドを訪れたとき、まだラマナ・マハリシ は生きていた。
そして、多くの人がユングに勧めた。
「インドにおいでになったのだし、あなたは生の内なる神秘に大きな関心をも
っておられるのだから、ラマナのもとへ行かれるのがいいでしょう。あなたは
『黄金の華の秘密』の注釈を書いて おられますが、ここでは満開の"黄金の華"
が咲いています。 どうしてラマナのもとへ行かれないのですか?」
だが、ユングは一度も足を向けなかった。彼はインドを旅して多くの人々に出
会ったが、ラマナには一度も会いに行かなかった。
なぜだろう?
何を恐れていたのだろう?
この人物に出会うことを恐れ、この鏡と顔を合わせることを恐れていたのだ。
ユングの写真を見たことがあるだろうか?写真を見ただけでも、彼のエゴは歴
然としている。
フロイトはユングほどエゴが強そうには見えない。
おそらくユングは、みずからのエゴゆえに師である ジークムント・フロイトと
袂たもとを分かち、彼を裏切ったのだろう。
ちょっと彼の写真を見てみるといい。その目はとても抜け目なく、計算高い。
いつでも人に食ってかからんばかりだ。
とほうもなくエゴが強いが、ひじょうに頭がよく、聡明で、知性が発達してい
る。
いいかね、精神分析であれ分析心理学であれ他の流派であれ、分析と言うゲー
ムに興じるかぎりあなたは幸福にはなれない。
そのゲームのゆき着く果てはなまぬるい順応生活に他ならない。
それらはあなたが祝祭の炎と化すのを助けはしない。
祝祭は 彼らの手にあまる。
なぜだろう?
それは彼らが思考を分析しつつ゛けているからだ。
分析は必要ではない。
それゆえに『黄金の華の秘密』は言う―人はみなこころを落ち着かせようとす
る、これが正しい観想である。
私たちは実存全体に完全な安らぎをもたらしたい。
分析は助けにならない。
分析は混乱を、不安な状態を生み出すからだ。

これと矛盾するのは誤った観想であり……分析は「誤った観想」だ。

何も得るところがない。雑念が果てしなくつつ゛いてゆくときには、立ち止ま
り、観想をはじめなければならない。
だから、この二つを覚えておくといい。
これらは両翼だ。
ひとつは、間合いがあり、思考がやって来ていないときに観想するということ

そして思考がやって来たら、これら三つのことを見る―思考はどこにあるか、
どこからやって来たか、どこへ去ってゆくか。
しばらくすきまを見ることをやめて、思考を見つめ、思考を観察し、思考に別
れを告げる。
思考が去ったら、ただちに観想を再開する。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

293避難民のマジレスさん:2019/02/06(水) 07:06:10 ID:LC3de7YgO
>>289
正常も異常も、観念的、相対的なものであり、分別を越えたところを目指すのかなと、考えすぎたようであります。
思考の隙間、沈黙の世界をみつめなければいけないのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

294鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/06(水) 22:26:02 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、ただひたすらに座り続けるのじゃ。

 雑念が去ったならばもはや手をつけないでいることが正しい観想というのじゃ。
 努力しないことで努力の及ばない彼方にいくことができるのじゃ。
 それが真の瞑想なのじゃ。
 主体に関係なくただ起こるだけの瞑想がそこに華開くのじゃ。

295避難民のマジレスさん:2019/02/06(水) 23:31:46 ID:LC3de7YgO
>>292
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

もう一度、譬たとえを使って説明してみよう。
道路を走っている車と車のすきまを見ているとき、車がやって来たらどうする
だろう?
あなたは車にも目をやるが、車の細部のことは気にかけない。
型、車種、年式、色、運転手、乗客のことは気にかけない。
そういった分析にはかかずらわない。
あなたはただ車を目にとめるだけだ。
車がやって来て、あなたの前を通り、去ってゆく。
再び、あなたはすきまに注意を払うようになる。
あなたの関心はひたすらすきまに注がれている。
だが、車がやって来たら、しばらくのあいだ車にも注意を払わざるをえない。
やがて車は去ってゆき、あなたは再び安らぎ、観想、間合いのなかに落ちてゆ
く。
雑念が果てしなくつつ゛いてゆくときには、立ち止まり、観想をはじめなけれ
ばならない。
観想したら、再び見つめる。
だから、思考がやって来るたびに、それを見つめ、思考が去るたびに、観想す
る。

これがすみやかに光明を得るための二重の技法、つまり 光を巡らせることであ
る。
巡らせるとは見つめることであり、光とは観想のことである。
観想するたびに、光があふれんばかりに押し寄せてくる。
見つめるたびに、あなたは循環を生みだし、循環を起こさせている。
どちらも必要だ。

光とは観想のことである。
観想せずに見つめるのは光のない循環であり……まさにそれが起こっている。
ハタ・ヨーガにその不幸なあやまちが起こった。
彼らは一点を見つめ、集中するが、光を忘れてしまった。
彼らは客をすっかり忘れてしまった。
彼らはひたすら家の準備をしつつ゛ける。
家を準備することにかまけるあまり、彼らは何のために、誰のために家を準備
しているのか、その目的を忘れてしまった。
ハタ・ヨーガは絶えず肉体を準備し、肉体を浄化してゆく。
ヨーガの姿勢を取り、呼吸法を実践しながら、それをどこまでも果てしなく
つつ゛けてゆく。
ヨーガ行者は何のためにそれをやっているのかをすっかり忘れてしまっている

そして目の前にある光を認めようとしない。
光は人が完全に手放しになったときにはじめて入ってくることができる。

観想せずに見つめるのは光のない循環であり……これがいわゆるヨーガ行者に
起こるあやまちだ。
別の種類のあやまちが精神分析医、哲学者に起こる。

見つめずに観想するのは循環のない光である。
彼らは光について考えるが、それが押し寄せてくるのにそなえて準備したこと
がない。
彼らは光について 考 え る だけだ。
彼らは客について考える。
客について千とひとつのことを想像するが、家の準備ができていない。
どちらも取り逃がす。

これに注意しなければならない!
さもなければ、あなたもまた取り逃がすかもしれない。
準備して待ちなさい。
用意を整えるのだ。
鼻の頭を見つめ、第三の目に注意を向け、背骨をまっすぐに伸ばし、楽な姿勢
を取る―あなたがしなければならないのはそれだけだ。
それ以上のことは必要ない。ヨーガの姿勢を年がら年じゅうやりつつ゛ける必
要はない。
それは馬鹿げている。
いわゆるヨーガ行者がひどく愚かで知性を欠いているように見えるのはそのた
めだ。
彼らの肉体は頑丈であり、長生きするかもしれないが、それに何の意味がある

光がなければ、生は知性の欠けた暗いものになる。
長生きしようが、早死にしようが違いはない。
大切なのはたとえ一瞬でも光のなかに生きることだ。
それで充分だ。
その一瞬は永遠になる。
そして光について考えてばかりいる哲学者たちがいる―光とは何か?光をどう
定義すればいいか、どう定義するのが最良か―彼らは様々な理論、定理、壮大
な思想体系を続々とつくりだすが、光に対する準備ができていない。
光は扉の前でひたすら待ちつつ゛けているというのに。

これに注意しなければならない!
この二つの誤りを犯してはならない。
目を見張ったままでいることができれば、それはごく単純なプロセスであり、
大きな変容力をそなえている。
正しく理解する者は、ほんの一瞬のうちに、もうひとつの実在リアリティに入
ってゆくことができる。
神は遠くにあるのではない。
神はあなたの内側にある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

296鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/07(木) 22:37:42 ID:1d4drIFg0
ヨーガにも眉間に集中する法はあるのじゃ。
しかし、長く時間がかかるのじゃ。
気を巡らさないから効果も遅いのじゃ。
気を巡らせてから集中することで速やかに効果も訪れるのじゃ。

297避難民のマジレスさん:2019/02/08(金) 04:14:27 ID:LC3de7YgO
>>295
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸
 より抜粋

呂祖師は言った。
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
そうすれば成果は求めずとも、おのずからやって来る。
初心者がまず陥りやすい誤りは主に二つある。
それは昏沈こんちんと散乱だ。
それに対処するには、呼吸にあまり深く気をとられてはならない。
呼吸はこころハートから生じる。
こころから呼吸が生じるのである。
こころが動くと、ただちに気(呼吸エネルギー)が生まれる。
気とは元来、こころの活動が変容したものである。
我々の思念は実にすばやく動いて、またたく間に空想に走るが、ひとつの空想
には必ずひとつの息がともなっている。
内なる呼吸と外なる呼吸は、声とこだまのように 一体になっているからだ。
我々は毎日数知れぬほど息をし、それと等しい数の空想を抱いている。
こうして精神の明晰さは、樹が枯れ、灰が冷たくなるように衰えてゆく。

では頭のなかで空想してはならないのだろうか?
人は空想せずにはいられない。
呼吸をしてはならないのだろうか?
人は呼吸せずにはいられない。
最良の方法は、病から薬をつくりだすことだ。
こころハートと呼吸が互いに依存し合っているなら、光の循環を呼吸のリズム
と結び合わせなければならない。
このためには、とりわけ耳の光が必要である。
目の光があるように、耳の光がある。
目の光は外界にある太陽と月が合体したものである。
耳の光とは内なる太陽と月が合体して生まれる種子である。
したがって理解(耳)と明晰さ(目)はひとつのものであり、 同じ霊妙な光に
他ならない。

坐るときには、瞼まぶたを下げて、下げ振りをつるすように視線を定め、光を
下方に向ける。
しかし、下にうまく注意を向けられないときには、呼吸に耳を傾けるようにこ
ころハートを導く。
出入りする息の音が聞こえるようではいけない。
聞こえるのは乱れた息である。
息が乱れると、たちまち 呼吸は荒く、うわついたものになり、伸びやかに広が
ってゆかない。
こころをひじょうに軽やかで微細な状態にしなければならない。
枷かせを解かれれば解かれるほど、こころの働きは微かすかになり 、微かにな
ればなるほど、こころは静かになってゆく。
不意にこころは限りなく静かになって、動きを止める。
そうなったら真の呼吸が出現し、 こころの真の姿が意識されるに到ったので
ある。
こころハートが軽やかであれば、息も軽やかになる。
それはこころのあらゆる動きが気(呼吸エネルギー)に 影響を与えるからだ。
息が軽やかであれば、こころも軽やかになる。
それは気のあらゆる動きがこころに影響を与えるからだ。
こころを安定させるには気を養うことからはじめなければならない。
こころに直接働きかけることはできないからだ。
それゆえに手がかりとして調息法を用いる。
これが「気の力を集中して保持する方法」と呼ばれているものだ。

弟子たちよ、おまえたちは"動き"の本性を理解していないようだ。
動きは外界の事物によっても引き起こされる。
それは支配されるということに他ならない。
走るだけでこころが揺れ動くなら、身動きしないことによって それを鎮めるこ
とはできないだろうか?
こころと気が相互に影響し合うことを知った偉大な聖者たちは、後世の人々に
役立つよう、より簡易な方法を考案したのである。

「鶏が卵をかえすことができるのは、 そのこころハートがつねに耳を澄ませて
いるからだ」
これは不思議な力をもつ重要な言葉である。
鶏は熱の力によってその卵をかえす。
だが熱の力は殻を暖めるだけであり、中まで浸透することができない。
そこで鶏はこころを用いてこのエネルギーを内部に導き入れる。
鶏は耳を澄ますことによってこれを行う。
そのようにしてこころを一心に集中させる。
こころが浸透すれば、気も浸透し、ひなは熱の力を受けて、生命を得る。
それゆえに鶏は、卵から離れるときでさえ、つねに耳をそばだてて聴く態勢を
取っている。
このようにして精神の集中は途切れることがない。
精神の集中が途切れないために、熱の力は昼夜絶えることなく、精神はいきい
きと目覚める。
精神の目覚めは、こころハートが死ぬことによってはじめて達成される。
こころを死なせることができれば、原初の精神はいきいきと目覚める。
こころを死に到らしめるというのは、それを枯渇させ、しぼませてしまうこと
ではなく、こころが分断されずにひとつにまとまるという意味である。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

298鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/08(金) 22:51:46 ID:1d4drIFg0
呼吸を調えることを調息というのじゃ。
それは微かであればあるほどよいというのじゃ。
鼻先に羽毛を貼り付けて、それか息で動かないほどに静かにする法もあるというのじゃ。
息が静かになれば心も鎮まるのじゃ。

299避難民のマジレスさん:2019/02/08(金) 23:52:46 ID:LC3de7YgO
>>297
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

物語をひとつ……
いにしえの禅師、道悟どうごには崇信そうしんという弟子がいた。
道悟に帰依したばかりの崇信は、教師が生徒を教えるように、師が禅の手ほど
きをしてくれるものと思い込んでいた。
だが、道悟はこれといって何も特別なことは言わなかった。
どうやら師には何も変わったことを弟子に伝えるつもりがないようだった。
とうとう我慢できなくなった崇信は、少しも禅を教えてくださらないと言って
師を責めた。
「おまえがここに来てから、禅を教えなかった日はない」と道悟は言った。
「なんですって?」と崇信は言った。
「いつ教えてくださったというのです?」 「朝、おまえがお茶を運んでくれば」と道悟は言った。
「私はそれを飲む。食事を運んでくれば、私はそれを 食べる。おまえがおじぎ
をすれば、私もおじぎをする。
禅を学ぶのに、おまえは他に何を期待しているのかね」
タオは分かち合うことはできるが、分割することはできない。
タオは示すことはできるが、言葉で表現することはできない。
師はタオのなかに生きている。
弟子はその精神スピリットをくみ取らなければならない。
それは教えではないし、教えにはなりえない―教えというのはすべて皮相的な
ものだ。
それは教えよりも深いものでなければならない。
それはエネルギーの伝達でなければならない。
それはこころハートからこころハートへ、 魂から魂へ、肉体から肉体へと伝わ
ってゆくものでなければならない。
それを言葉にすることはできない。
そして弟子は、師の姿をとって顕れているエネルギーを見、観察し、感じ、愛
さなければならない。
やがて徐々に徐々に、師のそばに坐っているだけで、弟子はけっして説かれる
ことのない多くの奥義を学んでゆく。
最も深い奥義のひとつは、師のそばに坐っていると、弟子の呼吸が師の呼吸と
合いはじめるということだ。
距離を越えた響き合い シンクロニシティが起こる。
そうして距離を越えて響き合うことで、二人は出会う。
それは恋人どうしのあいだでも起こる。
深い恋に落ち、愛する人と一緒に肩を並べて坐っているとき、そこで観察する
なら、あなたは驚くだろう。
突然、まったく何の理由もなく、合わせようとしたわけでもないのに 二人の呼
吸が合ってくる。
恋人が息を吐くと、あなたも吐く。 恋人が息を吸うと、あなたも吸う。
突然、二人はつながり、輪になっている。
呼吸はこのうえもなく重要だ。
母親はそのようにして子供とつながっている。
ときに子供と母親が何千マイルも遠く離れているのに、子供に危険が迫ると、
母親の心臓は即座に影響を受けるということがある。
彼らの呼吸は深くつながっている ―彼らは同じような呼吸をしている。
そしてそうなるには明らかな理由がある。
母親の胎内にいる子供は九ヶ月のあいだ母親を通して呼吸していた。
子供は自力で呼吸していたのではない。
それは母親の呼吸だった。
子供は母親の呼吸に従っていただけだ。
母親は子供のために、彼に代わって呼吸をしていた。
九ヶ月のあいだ、二人は深いシンクロニシティのなかで生きていた。
子供が生まれた後でさえ、それはつつ゛いてゆく。
本当の愛があるなら、それは生涯にわたってつつ゛いてゆく。
今や科学でさえもそれを証明している。
アメリカや、ロシアや、他の国々でも、最近、鳥や動物を使った実験がひんぱ
んに行なわれている。
子供を遠くへ連れ去って殺し、同時に最先端の装置につないだ母親を観察する。
子供が殺されると―たとえ何千マイル離れていても―ただちに母親の呼吸が変
化する。
まさにその瞬間、間髪を入れず、母親の呼吸は乱れ、身体に震えが走る。
理由などないのに、はっきりした理由などないのに、母親はパニックに襲われ
、苦痛を感じる。
母親と子供のあいだには何の媒体も介在しない。
何か直感的なつながりがある―彼らを結びつけているものを目でとらえること
はできないが、どこかに見えない糸がある。
弟子は師が何を説いているかではなく、師 の 実 存 の あ り よ う を学ばな
ければならない。
道悟が言おうとしているのはそのことだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

300避難民のマジレスさん:2019/02/09(土) 10:53:46 ID:LC3de7YgO
>>299
25黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸1
 より抜粋

「おまえがここに来てから、禅を教えなかった日はない。 朝、おまえがお茶を
運んでくれば、私はそれを受け取る。 私がどのような仕草で受け取るか、観察
したことはないかね? 私が茶を受け取るとき、私と深い調和を感じたことはな
かっただろうか? おまえが食事を運んでくれば、私はそれを食べる。 おまえが
おじぎをすれば、私もそれに答える。禅を学ぶのに、他に何を期待しているの
かね?」
師は言っている。私の仕草を見守りなさい― 私がどのように歩き、どのように
坐り、どのように息をしているかを、どのようにあなたとともにただ坐ってい
るかを、どのようにあなたを見ているかを、どのように千とひとつの小さな仕
草で私がものごとに感応しているかを。
教義を待ってはいけない。
師の臨在より他に教義などない。
真の教えはまったく教えなどではない。
それは伝達だ―言葉を超え、経典を超えた伝達だ。
そして伝達は呼吸の調和を通して起こる。
私もまた言いたい。
私もまた教え、哲学、宗教として あなたに与えるものなど持っていない、と。
教えることなど何もない。
分かち合うものはたくさんあるが、 教えることは何ひとつない―あるいは、
ただ<無>を教えている!
だが、私が伝えたいその<無>を感じるためには、 私とリズムを合わせなけれ
ばならない。
些細なことが、ごく些細なことが妨げになる。
あなたは何が妨げになるのか 少しつ゛つ気つ゛いてゆかねばならない。
夜のダルシャンの席で、ときどき私は数人のサニヤシン を呼んで、エネルギー
を伝達するのを手伝ってもらっている。
私は何度もプラディーパを呼んだが、彼女を呼ぶと後で必ず気分 が悪くなる。
私は首をかしげた。
何が起こっているのだろう?
彼女は本当にすばらしい女性であり、私をとても愛してくれている。
彼女を呼んで手伝ってもらっているのはそのためだ。
だが、彼女 を呼ぶと必ずそれが起こる。
前回、気分があまりに悪かったので、 私はことの全体を調べてみなければなら
なかった。
そして私には 理由がわかった。
彼女は野菜以外のものを―肉や卵やその他のもの を食べているにちがいない。
それが彼女の呼吸を醜くしている。
それが彼女の内なる調和ハーモニーをそっくりかき乱している。
彼女が私に波長を合わせることができないのはそのためだ。
そして 、波長を合わせることができなければ、障害がつくりだされる。
彼女は私を愛しているが、その愛はいまだに無意識のものだ。
もう少し意識的になれば、彼女はそれに気つ゛くだろう。
私ととも にあるためには、内側にあるたくさんのものを変えなければ ならない
ことに気つ゛くだろう。
私とともにあるためには、私とともにもっと深く進んでゆくため には、こころ
ハートとこころハートの触れ合いをもつためには、 あなたはもち歩いている不
要な荷物を落としてしまわなければ ならない。
つまり肉を食べる必要はないということだ―肉食は 瞑想者にはふさわしくない。
肉を食べると、不要な障害をつくりだすことになる。
それは優しさをかき乱し、あなたのなかに一種の残忍さを 生じさせる。
あなたはそれに気つ゛いていないかもしれない。
なぜなら、あなたはまったく醒めていないからだ。
だが、 私のもとへ来れば、私はまさに鏡のように映し出す。
さあ、プラディーパはみずからの実存のなかに大へんな 吐き気をつくりだして
いるにちがいない。
おそらく彼女自身は 慣れてしまっているので、それに気つ゛かないのだろう。
だが、 私は何度も何度も吐き気を感じた。
というのも、あなたが エネルギーで私と関わるとき、それは一方通行ではない
からだ。
私のエネルギーがあなたのなかに入ってゆき、あなたの エネルギーが私のなか
に入ってくる。
それは一方通行では ありえない。
輪がつくりだされる。
循環が起こりはじめる。
これはひとつの例にすぎない。
そしてこれはプラディーパ だけの問題ではなく、みんなの問題だ。
もっともっと深く私と波長を合わせたいなら、 私に起こったタオを分かち合い
たいなら、あなたは もっと意識し、自分が何をしているか、何を食べているか
、何を読んでいるか、何を聴いているか、どこへ行こうとし、 誰とつき合って
いるかを油断なく見守っていなければならない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

301鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/10(日) 00:21:47 ID:1d4drIFg0
師のエネルギーによって弟子を導くことも出来るのじゃ。
肉を食べていれば体の調子が悪いというだけで悟りを得られないとか、汚染されているのではないのじゃ。
体の調子が悪ければ悪いエネルギーの影響を他にも及ぼしてしまうのじゃ。
根菜類とか緑黄色野菜の小食が健康にもよいのじゃ。

302避難民のマジレスさん:2019/02/10(日) 10:09:06 ID:LC3de7YgO
>>300
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

小さなことでも寄せ集まると、 大きな影響を及ぼすことになるからだ。
誰かに腹を立てたり、誰かと喧嘩したりしたあとで 私のもとへ来れば、当然、
あなたは私から遠く離れている。
イエスがこう言うのはそのためだ。
「寺院へ祈りを捧げに行って、誰かを傷つけたこと、誰か を侮辱したこと、誰
かに腹を立てたことを思い出したら、 あるいは誰かに腹を立てていることに気
がついたら、まず 行って許しを請いなさい。それをすましてから祈りを捧げに
くるがいい。そうでなければ、神と関わることはできない。 まず行って許しを
請いなさい。まずものごとを清算しなさい」
ミケランジェロがシスティナ礼拝堂で仕事をしていたときのことだ ……彼はイ
エスの絵を描いていた。
絵はほとんど完成していて、 あとは仕上げの筆を待つばかりだった。
だが、なかなか最後の一筆 を加えることができなかった。
イエスがイエスらしく描けていなか ったのだ。
イエスの顔に何かが足りなかった―その柔和さ、その 女性的な資質がそこには
欠けていた。
そこにはあの愛の質が欠けていた。
連日、懸命に努力しているうちに、ミケランジェロは、ある 友人と口論をした
ことを思い出した。
彼はまだそれを内側に 抱えていたのだ。
さらに彼は「祈りに行ったとき、友や兄弟 に良い感情を抱いていないことに気
つ゛いたら、まず行って 許しを請いなさい」というイエスの言葉を思い出した。
彼は礼拝堂から駆け出ると、その友人のところへ行って 許しを請い、ことの顛
末てんまつをすべて話した。
「何日も仕事をしていたんだが、イエスの顔がどうしてもうまく 描けなかった
んだ。何か怒りのようなものがそこには残っていた」 ―それは彼の内部にある
怒りだった。
怒りや悪感情を 抱いたまま絵を描こうとすれば、それはあなたの両手 で描かれ
るのだから、その絵にはあなたの内面が表れて くる。その絵には基本的にあな
たが映し出されてくる― 許しを請い、それが受け容れられたとき、 ミケランジ
ェロは気分を一新することができた。
わずか数分の仕事で、絵は完成した。
それは最も 美しいイエスの絵のひとつだ。
わずかに筆を加える だけで、絵はいきいきとし、イエスが浮かびあがってきた。
今やミケランジェロのこころは調和のなかにあったからだ。
(p237)
タオを分かち合うことはできる。
だが、あなたは それを分かち合う方法を学ばなければならない。
そして 多くのことがらにひじょうに注意深くならなければいけない。
それはある意味では単純だが、ひじょうに複雑でもある。
単純なのは、あなたが本当に開き、調和していたら 、それはほんの一瞬のうち
にも起こりうるからだ。
複雑なのは、あなた自身もまったく気つ゛いていないようなごく小さな習癖を
変えなければならないからだ。
あなたは生全体を変えねばならなくなる。
あなたがたに教えとして差し出すものなど何もない、と私が言うのはそのため
だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

303鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/10(日) 22:51:21 ID:1d4drIFg0
心は実に微妙で正直な反応をするものじゃ。
心にほんの僅かな恐れがあっても自我を明け渡すことは出来ないのじゃ。
自我を明け渡せるその瞬間がやってきても恐れが少しでもあれば何か口実を作って逃げてしまうのじゃ。
心の僅かな働きにもよく注意しなければならないのじゃ。

304避難民のマジレスさん:2019/02/11(月) 05:21:04 ID:LC3de7YgO
>>302
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

私はあなたがたを挑発 するエネルギーを分け与えることならできる。
私は哲学や神学の体系を与えているのではない。
私は私そのものを与えている。
それは挑戦だ。
私はここであなたがたを目覚めさせようと努力している。
あなたがたは開き、リズムを感じ、そして生の小さな ものごとを観察しなけれ
ばならない。
呼吸は最も重要 なものだ。
あなたはサットサングのなかにあるときの 息つ゛かいを、師のそばにあるとき
の息つ゛かいを、 愛のなかにあるときの息つ゛かいを学ばなければならない。
呼吸は感情とともに絶えず変化している。
腹を立てているときには、あなたの呼吸はリズムを失い、不規則になっている。
情欲に駆られているときには、あなたの呼吸はほとんど気違いじみたものにな
っている。
穏やかで、静かで、喜びに満ちているときには、あなたの呼吸は音楽的な質を
おびていて、ほとんど歌のようだ。
<存在>にくつろいでいると、欲望を抱かず、満足感を 味わっていると、突然、
呼吸は止まったように静かになる。
畏敬の念に打たれたり、驚異に息を呑んでいるときも、 呼吸はしばらくのあい
だ止まる。
それは生の最もすばらしい 瞬間だ。
ほとんど呼吸が止まりそうになる、そういった瞬間 にのみ、あなたは<存在>と
完全に同調しているからだ。
あなたは神のなかにあり、神はあなたのなかにある。
あなたは呼吸をもっと深く体験し、詳しく調べ 、観察し、見守り、分析しなけ
ればならない。
呼吸が感情とともにどう変化するかを見てみなさい。
例えば、恐怖に駆られているとき、呼吸に起こる変化を 観察するがいい。
そして、いつか恐怖に駆られたときと 同じパターンに呼吸を変えてみるがいい。
あなたは驚く だろう―呼吸を恐怖に駆られたときとまったく同じパターン に変
えると恐怖が湧いてくる。それも即座にだ。
誰かと深く愛し合っているときに、自分の呼吸を観察するがいい。
恋人の手を取り、抱きしめながら、自分の呼吸を観察しなさい。
そして、いつか樹の下に静かに坐り、自分が 再び同じような呼吸をしているの
を見守りなさい。
パターンをつくりだし、同じ光景ゲシュタルト を呼びもどすのだ。
まるで恋人を抱擁している かのように、同じ仕方で呼吸をするがいい。
すると、驚くようなことが起こる。
全存在があなたの恋人になる。
再び大いなる愛があなたのなかに湧いてくる。
それらは連動している。
それゆえにヨーガ、タントラ、タオ―人間意識とその拡大 に関するこの三つの
深遠な方法論システムと科学に おいて、呼吸は鍵なる現象のひとつになっている

この三つはそろって呼吸に働きかけてきた。
(p239)
仏陀の瞑想法のすべては、ある一定の 呼吸の質にかかっている。
彼は言う― 「ただ自分の呼吸を見守りなさい。呼吸を変えなくて もいい。少し
も変えることなく、ただ見守るのだ」と。
だが、不思議なことに、見守るやいなや、ただちに 呼吸は変わる、ひとりでに
変わらざるをえない。
仏陀は 「呼吸を変えてはいけない。ただ見守りなさい」と言う。
だが、見守るやいなや、ただちに呼吸は変わってしまう。
注意深さには独自のリズムがあるからだ。
仏陀が 「呼吸を変えなくてもいい。ただ見守りなさい」 と言うのはそのためだ。
注意深さそのものが独自 の呼吸を生み出す―変化はひとりでに起こる。
そして、次第に不思議 なことが起こってゆく― 注意深くなればなるほど、
さらに呼吸は減ってゆく。
呼吸 はより長く、より深くなってゆく。
例えば、一分間に十六回呼吸をしていたなら、 呼吸の数は六回、四回、三回と
減ってゆく。
あなたが注意深くなるにつれ、呼吸はより深く、 より長くなってゆき、呼吸の
回数がどんどん減ってゆく。
また逆に、呼吸の側から働きかけることもできる。
ゆったりと静かに深く長い呼吸をしてゆくと、突然、 あなたのなかに注意深さ
が生まれてくる。
あたかも ひとつひとつの感情が呼吸システムのなかに もう一方の極をもってい
るかのようだ。
感情は呼吸によって誘発することができる。
だが、一番いいのは、恋をしていたり、友人 のそばに坐っているときに観察す
ることだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

305避難民のマジレスさん:2019/02/11(月) 14:16:52 ID:LC3de7YgO
>>304
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

自分の呼吸を見守りなさい。
なぜなら、その 愛に満ちた呼吸のリズムが最も重要だからだ。
それはあなたの実存全体を変容させる。
愛のなかでは、分離した存在として身構えることの 馬鹿らしさ、虚偽を最も痛
切に感じ取ることができる。
だが、まさにこの分離、この不条理さによって、 人は他の方法では表現しえな
いことを表現すること ができる。
他者であるというまさにそのことによって 、人は互いがひとつであることを祝
えるようになる。
そこに愛の逆説パラドックスがある。
あなたがたは二人でありながら、 一体感を感じている。
ひとつでありながらも 、二人であることを知っている。
二人でありながら ひとつになった状態―そこに愛の逆説がある。
そしてそれは祈りの、瞑想の逆説でもなければならない。
究極的には、あるまれな価値ある瞬間において、人は 恋人、友人、母親、子供
に感じるような一体感 を<存在>に対して感じなければならない。
他者として分かたれているからこそ、人は 互いがひとつであることを祝うこと
ができる。
『ヴェーダ』は言う―タットヴァマシ、我はそれなり。
そこには分かたれているという明晰な自覚がありながら 、しかも深い合一感が
ある。
彼は大洋から分かたれて いながら、しかも大洋から分かたれていない。
自分が愛にあふれている瞬間 をもっともっと見守りなさい。
注意深く醒めていなさい。
呼吸がどのように変化するかを見るがいい。
身体がどのように打ち震えるかを見るがいい。
恋人を抱きしめて、実験してみるといい。
すると不思議なことが起こる。
いつか抱擁し、互いに溶け合いながら、 少なくとも一時間は一緒に坐ってみ
るといい。
すると驚くようなことが起こる― それは最もめくるめく体験のひとつになる
だろう。
一時間、何もせずに、ただ抱き合い、互いの なかに落ちてゆき、互いのなかに
溶けてゆくと 、やがて徐々に、呼吸がひとつになってゆく。
身体は二つだが、こころハートはひとつ であるかのように、息が合ってくる。
二人は一緒に呼吸している。
一緒に呼吸しているとき、 努力して合わせるのではなく、愛の感覚に圧倒さ
れて自然に息が合っているとき―それ は最も貴重な、最もすばらしい瞬間 であ
り、この世のものではなく、はるか 彼方からやって来たものだ。
そういった瞬間、あなたははじめて 瞑想的なエネルギーを一瞥いちべつする。
そういった瞬間、文法は意味を失い、 言葉は途絶える。
それを口にしようとしても、言葉にならず、そのまさに 言葉を失うことで、言
語を絶したものが示される。
そしてそれが、より深い次元レベルにおいて、 師との関係にならなければいけ
ない。
そのときはじめてタオは師から弟子 へ炎のように飛び移ることができる。
あなたは呼吸のわざアートを学ばなければならない。
(p241)
さて経文だ―
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
そうすれば成果は求めずとも、おのずからやって来る。
とてつもなく深い意味を秘めた言明だ。この言葉が鍵となる―

純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
まず第一に、人は決然とした態度を取るようになってはじめて生まれる。
決意とともに、人間が誕生する。
優柔不断な生き方をしている者たちは、本当は人間ではない。
そして何百万もの人々が優柔不断な生き方をしている。
彼らは何についても決めることができない。
彼らは他人によりかかってばかりいる。
誰かが彼らの代わりに決めてやらなければならない。
権威者のまわりに人々が群がるのはそのためだ。
権威主義がこの世から消えない唯一の理由は、無数の人々が自分で決められな
いでいるからだ。
彼らは命令が下されるのを今か今かと待っている。
ひとたび命令が下されれば、彼らはそれに従う。
だが、これは隷属であり、彼らはそのようにしてみずからの魂が誕生するのを
阻んできた。
決意があなたの実存のなかに生まれてこなければならない。
決然とした態度とともに、まとまりが生まれてくるからだ。
いいかね、いくつか決断をするがいい。
決断することで、あなたは個になってゆく。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

306鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/11(月) 22:44:06 ID:1d4drIFg0
ヴェーダにはプラーナがアートマンと記されているのじゃ。
呼吸なのじゃ。
呼吸という空間と繋がる働きは意識が在り、アートマンそのものといえるのじゃ。
呼吸によって個我はなく、全てが繋がっていると物理的に証明されているのじゃ。
それこそアートマンと呼ぶべきなのじゃ。

307避難民のマジレスさん:2019/02/12(火) 00:01:12 ID:LC3de7YgO
>>306
うむ。
薄い大気の層に包まれた、一つの生命であり、意識でありますね。
超科学的なような気がするのであります。
(´・(∀)・`)つ

308避難民のマジレスさん:2019/02/12(火) 00:13:01 ID:LC3de7YgO
>>305
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

優柔不断さとは何か?
それはあなたが臆病であるということだ。
あなたのなかには矛盾し合う声がたくさんあり、どちらへ行ったらいいのかさ
えも決められない。
人々は小さなことにも優柔不断だ―どの映画を見にゆくかといったことさえ決
められない。
優柔不断さがほとんど彼らの生活様式になってしまっている。
これを買おうか、あれを買おうか?買物をしている人々を見てみるがいい。な
んと優柔不断なことか。
どこかの店に坐って人々が、客が出入りするのを見てみるがいい。
あなたは驚くだろう―人々はどうやって決めればよいのかわからない。
そして、どうやって決めればよいのかわからない人たちは、いつもぼんやりと
、もうろうとしていて、混乱している。
決意とともに、明晰さが生まれてくる。
そして決然とした態度がすみずみにまで及び、あなたの基盤と関わるようにな
ったなら、必ず人間が誕生する。
ところで、私のもとにもたくさんの人々がやって来てこう言う。
「サニヤスに跳びこもうかどうか迷っているのです」彼らは私に「跳びなさい」
と言ってほしい。
だが、そうなったら、彼らは要点をそっくり見逃してしまう。
「思い切ってサニヤシンになりなさい」と 私 が言ってしまったら、あなたは決
断するという機会を、大いなる機会を逃してしまう。
またしてもあなたは他人によりかかってしまうが、そんなやり方では魂は成長
しない。
そしてこれは深遠な決断であり、計り知れないほど大きな意義がある。
なぜなら、それはあなたの生活様式を根こそぎ変え、新しい世界観を与えるこ
とになるからだ。
あなたは新しい方向に向かって進んでゆく。
あなたはすっかり変わってしまう。
これほど甚大な影響を与える決断は他人の手を借りず、みずからの力で行なう
べきだ。
人はみずからを賭けるべきだ。
賭けることで、勇気を奮い起こすことで、はじめて人間が生まれる。
そして決断をするなら―いいかね、決断するなら、必ずそれを実行すること。
それができなければ、決断などしない方がいい。
なぜなら、そのほうがもっと危険だからだ―優柔不断であるよりももっと危険
だ。
決断しながら実行しなければ、あなたはまったく無気力な人間になってゆく。
それなら決断などしない方がましだったことになる。
決意しながら、いつまでたってもそれを実行しない者たちがいる。
彼らはみずからの実存に対する信頼や自信を徐々に失ってゆく。
何を決意しても実行などできないのだということがだんだんわかってくる。
彼らは分裂してしまう。
彼らは自分を当てにできなくなる。
決断しているその時ですら、自分はそれを実行しないだろうということがわか
っている。
なぜなら、自分が過去に何をやってきたか知っているからだ。
彼らは決断するたびにそれを裏切ってきた。
そうなったら、ごく小さな決断でさえ、ひじょうに破壊的なものになりかねな
い。
「今日からタバコを止めるぞ」といったごく小さな決断、ごくありふれた決断
、何でもないような決断でさえ…… タバコを吸う、吸わないは大したことではな
い。
それで世界が変わるわけではない。
二十年もすれば結核を患うかもしれないが、それは 治すことができる。
あるいは二、三年早く死んでしまう かもしれないが、それがどうしたというの
だね?
どちらにしても本当に生きたことなどなかったのに。
先日、私は漫画を見ていた。
男が女に、「君は死後の生を信じるかい?」と尋ねる。
すると女が言う。「何言ってるの、これがその『死後の生』よ!」
信じなくてもいい。これがその死後の生だ。あなた はまるで活気のない死人の
ような生き方をしている。
死んだとしてもこれ以上悪くなることはない。
何ひとつ 変わりはしないだろう。
まさにこれが「死後の生」だ!
だが、小さな決断、タバコを吸わないといった取るに足りない 決断でも、実行
しなければ危険なことになる。
あなたは自信を なくしてしまう。みずからの実存に対する信頼を失ってしまう。
自分が当てにならなくなる。
そんな決断はしない方がいい。
タバコを吸いつつ゛けなさい。
決断をするなら、 肚を決めることだ。
そうなったら何が起ころうと、 それをやり遂げるがいい。
そして、それをやり遂げることができるなら、 明晰さが内側に湧き起こり、雲
が消え、何かが 自分のなかで根つ゛き、中心を定めてゆくのがわかる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

309鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/12(火) 23:17:29 ID:1d4drIFg0
>>307 そうじゃ、いずれ全て感じられるじゃろう。

悟りへの最後の関門は恐れなのじゃ。
自分をなくす恐れがあれば逃避し続けて悟りにも進めないのじゃ。
それを乗り越えるのが勇気なのじゃ。
自分という全ての主体を捨てる勇気があれば恐れを乗り越えて悟りにも到達できるのじゃ。

310避難民のマジレスさん:2019/02/13(水) 05:59:45 ID:LC3de7YgO
>>308
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

決然とした態度を取ることは、とほうもなく 重要なことであり、意味がある。
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
呂祖が言おうとしているのはそのことだ。
いったん決意したなら、全身全霊を込めてそれを実行しなければならない。
後もどりしないことをはっきりさせておかなければならない。
サニヤシンたちに「橋を壊しなさい」とくり返して言うとき、私が言おうとし
ているのはそのことだ。
後もどりしないのだから、橋を残しておく必要などないではないか?
梯子を捨ててしまいなさい。
船を沈めてしまいなさい。
昔の岸辺に二度ともどることはないのだから。
船を安全な岸辺につないでおくことは、あなたがまだ揺れ動いているというこ
とを、まだ「いつかはもどらなければならないかもしれない」と考えているこ
とを示している。
数ヶ月前、アヌプが合衆国へ発った。
私は行こうとしている彼に言った。
「今度は、橋を完全に壊してくるがいい」彼は「はい、和尚」と言った。
彼は今もどってきて、私が「どうだった?橋はどうなったかね?」と尋ねると
「壊せませんでした」と言った。
それは何を意味しているのだろう?
彼はここに半身でいることしかできないということだ。
彼はもどるための扉を開けたままにしてきた。
彼は身の安全や保障をすべて確保してきている。
が、問題はこういうことだ―全一にここにいるのでないかぎり、彼は成長しな
いだろう。
そしてこれは悪循環だ―成長しなければ、数ヶ月もすればこう考えるだろう。
「橋を壊してこなくてよかった。和尚の言うことを聞いて橋を壊していたら、
たいへんなことになっていたぞ。こ
こでは何も起こっていない!向こうにすべてを残しておいてよかった。いつだ
って家に飛んで帰れるからな」
彼は一番賢く、良識的な行動を取ったと思うだろう。
だが、彼ははなから逃げもどるための橋を確保し、扉を開けたままにしておい
た。
中途半端で生ぬるく、優柔不断ではっきりしない、逃げ腰の姿勢でここにいた
にすぎない。
逃げ腰の姿勢でいては、私とともにいることにはならない。
純一なこころハートで決断しないかぎり、私とともにいることはできない。
そ の と き 成長が起こりうる。
そ の と き はじめて成長が起こりうる。
だから要点を見るがいい。あなたが私とともにここで全一にいれば、成長は起
こりうる。
そうなったら後もどりする必要はないし、橋もいらなくなる。
だが、私とともにここで全一でいなかったら、そのときには橋が必要になる。
そして「和尚に耳を貸さなくてよかった―自分はなんで賢いのだろう」と感じ
るだろう。
「見ろよ、ここでは何も起こっていない。だからもどるしかない。橋をすべて
壊していたら、どうなっていたことやら」論理的な精神マインドはそのように
働く。
それは自滅的な状況をつくりだす。
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
そうすれば成果は求めずとも、おのずからやって来る。
もっとも重要なのは、成果を求めている者はすでに分裂しているということだ
。そうなったら、あなたのこころハートは働いていない、すでに成果に目を奪
われている。
分裂していたら、成果をあげることはできない。
成果をあげられるのは、ことの成り行きや結果を気にせず、旅そのものをこの
うえもなく楽しみ、目的地のことなどかまわずにいられる分裂していないここ
ろだけだ。
ゴールのことなどまったく気にかけない者だけがたどり着く―彼らの精神マイ
ンドは少しも分裂しておらず、旅の一瞬一瞬が、旅の一歩一歩がゴールになる
からだ。
どこいいようと、自分がいるところがゴールになる。
成果のことなどまったく気にかけない霊的スピリチュアルな道の上にいる人々
が成果をあげる。
成果を気にかけていたら、成果をあげることはできない。
思考が未来のどこかにあって、あなたは現在で働いていないからだ。
そして、仕事が現在において全一に為されてはじめて、成果をあげることがで
きる。
この瞬間が次の瞬間を生んでゆく。
この瞬間が全一に生きられたなら、 次の瞬間は必ずより深い全一性を、 より高
い全一性の質をおびるようになる。
だが人々は分裂したままだ。
この問題は考察するに値する。
なぜなら、これはすべての人の問題だからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

311鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/13(水) 22:26:22 ID:1d4drIFg0
お釈迦様も苦行をやめて最後の瞑想に入る時に悟りを得なければもはやこの座を立たないと決意して座ったのじゃ。
強い決意が無ければどのような法も悟りの助けにはならないのじゃ。
悟りを得るための強い決意こそ最後の関門を破る唯一の力となるのじゃ。
主体である自分を捨てることは全てを捨てることであるから強い決意が必要なのじゃ。

312避難民のマジレスさん:2019/02/14(木) 06:42:51 ID:LC3de7YgO
>>310

黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

先日、アショカが手紙を書いてきた。
彼はここにいるが、 まだ部屋にサティヤ・サイババの写真を飾っているそうだ
―部屋に誰の写真を飾ってもかまわないが、それは たんなる部屋の問題ではな
い。
さあ彼は悩んでいる。
私は彼に言った。「サティヤ・サイババのところへ行きなさい。そして、どう
か向こうでは私の写真を部屋に飾らないでほしい。そうしないと、あなたはま
たもや取り逃がしてしまうからだ。 ここにいてもいいし、あちらにいてもいい
が、大切なのは 純一なこころハート、まとまりをもったこころだ。半身でいる
くらいなら、私とともにいるよりも サティヤ・サイババのもとにいるほうがいい」
だが、私には彼の問題がわかる。
彼は向こうでも私の写真を離さないだろう。
だから、彼がしくじるのは目に見えている。
人は選ばなければならない。
人は決断しなければならない。
人生の旅路を一歩進むごとに、人は岐路に立たされ、選ばなければならなくな
る。
すべての道をわがものとすることはできないし、すべての道を歩くことはでき
ないからだ。
私はものごとの善し悪しを云々しているのではない。
何であれ、あなたが全身全霊で選んだものが正しい 、と私は言っているのだ。
ときには全面的な明け渡しがあったがゆえ に、光明を得ていない師のもとです
ら 弟子が光明を得たことがある。
そして申し分のない師のもとにいながら 何ごとも起こらないということも往々にしてある。
師が完全であるか否かよりも、 弟子の全一性のほうが問われる。
間違った人物のもとにいても、あなたは変容を遂げうる。
その間違った人物でもあなたを変容させられるというのではない が、あなたに
全一な決断があれば、そのあますところのない 決断があなたを変容させる。
そのことのほうがはるかに重要だ。
それがなかったら、仏陀のような人とともにいることができても、 あなたが半
身にとどまり、分裂しているなら、何ごとも起こらない。
いかなる分裂も―未来と現在、目的地と旅、この道と あの道、この師とあの師
―分裂はどれもみな危険だ。
そうなったらあなたのエネルギーは無駄に費やされ、あなたは責任を他人に転
嫁するようになる。
たとえば、ここでアショカに何も起こらなかったら― こんなやり方では何ひと
つ起こるまい―当然、彼は 間違った場所にきてしまったと結論つ゛けるだろう。
彼は自分が分裂しているというポイントを見ようと しないだろう。
彼に、間違った場所にきてしまった、 「この場所は私には向いていない」と
いうことだけしか 見えない。
だが、自分が分裂しているかぎり、どこにいても 、同じことが何度も何度もく
り返し起こるだろう。
勇気を奮い起こしなさい。
私は頭マインド がずる賢く振る舞いたがるのを知っている。
頭は言う。
「両方とっておけばいいじゃないか。何が起こるかわからないぞ。 どちらも選
べるようにしておくんだ。こっちがうまくゆかなくても 、あっちがうまくゆく
かもしれない」
だが、生はそのようには動かない。
ケーキを食べながら取っておくことはできない。
それは不可能だ。
呂祖は言う―
成果は求めずとも
……なぜなら、それすらも分裂になるからだ。
分裂せずに、完全に今ここにあるがいい……

成果はおのずからやって来る。
そして、成果がおのずからやって来るとき、そこにはとほうもない美がかもし
だされる。
成果をたぐりよせなくても、それは花のように開く。
花を無理やり咲かせなくてもいい。
無理やり咲かせたなら、花は死んでしまう。
そういったやり方はよくない。それに早く咲かせすぎたら、その花には香りが
なくなってしまう。
香りを集め、香りをつくりだすために、花は正しい瞬間を待たなければならな
いからだ。
香りの準備が整ったときはじめて花はひとりでに開く
。今や<存在>と分かち合うものをそなえているからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

313避難民のマジレスさん:2019/02/14(木) 19:14:03 ID:LC3de7YgO
>>312
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

人は瞬間を楽しまなければならない。
瞬間に全一に入り込んで、他のすべてを忘れなければならない。
そうすれば、いつの日か、突然、成果が現れる。
いつの日か、見る見るうちに黄金の華が開き、あなたは別世界へと運ばれてい
る。
(p248)
初心者がまず陥りやすい誤りは主に二つある。
それは昏沈こんちんと散乱だ。
この二つの誤りを理解しなければならない。
ひとつは女性的な精神マインドが犯す誤りであり、もうひとつは男性的な精
神マインドが犯す誤りだ。
女性的な精神は、受動的であるために昏沈、怠惰な状態をつくりだすことがあ
る。
そして男性的な精神は、能動的になりすぎて散乱をつくりだすことがある。
これもあれもと手を出して、ところかまわずあらゆる方角へ突進したがる。
女性的な精神は受動的だ。
それは待ちたがる。
ものごとを起こるがままにしたい。
だが、もしそれが無気力な状態、怠惰な状態、一種の死のようなものになって
しまうなら、やはりそれも危険なものになりかねない。
いいかね、能動性にもよいものとよくないものがあるように、受動性にも好ま
しいものと好ましくないものがる。
好ましい受動性とは、注意深く、意識をとぎ澄ましながら待つということだ。
好ましくない受動性とは、眠りこけ、いびきをかきながら、待っているつもり
になることだ。
恋人がやってこようとしている……彼がいつドアを ノックするかもわからない。
さあ、あなたは二つのやり方で待つことができる。
ドアを開け、目を門にくぎつ゛けにし、耳を澄ますというのが積極的な待ち方
だ。
少しでも音がしたら―足音がしたり、ドアをノックする音が 聞こえたら、ある
いは枯れ葉が風にひらひら舞うだけでも、あなたは戸口に駆け寄る。誰かが道
を通りすぎただけでも、あなたは戸口に駆け寄る―彼が来たのかもしれない。
これが積極的な待ち方だ。それは美しいものだ。
だが、ドアに鍵をかけ、明かりを消して、「彼がやって来て、ノックをしたら
、迎えに出ればいいわ」と言っていびきをかきはじめるようなら、それは好ま
しくない方の受動性だ。
これは昏沈だ。
神を待つことそのものはいいけれど、あなたの受動性はいきいきとした生気に
あふれるものでなければならない。
さて、二番目は散乱だ。それは男性的な精神マインドの質だ。
男性の精神は絶えず周囲に気を散らしている。
女性的な精神 はひとりの夫で満足するのに、男性的な精神のほうはたくさんの
妻を抱え込むのはそのためだ。
彼は絶えず気を散らし、通りすがりのどんな女性にも目を奪われる。
彼は自分が結婚していることをすっかり忘れてしまう。
「君は僕の命 だ。僕は君のためだけに生きるよ。君は僕の喜びだ。僕の愛は永
遠だ」 とささやいた当の女性のことをすっかり忘れてしまう。
一瞬のうちに、彼はそういったすべてのたわごとを忘れてしまう。
彼の注意力はいともたやすく四散してしまう。
男性的な精神は活動的すぎる。
だが、好ましい活動はよいものだ。
好ましい活動とは集中した活動、一心不乱な活動を指している ―井戸を掘るた
め、ひたすら一カ所を掘り進めることをいう。
好ましくない活動とは、井戸を掘るため、次から次へと新しい 場所を掘り返し
、水脈を発見できずに土地を荒しまわることをいう。
男性的な精神にはそれが起こる。
彼はこの女、あの女と恋人を 次々に変えてゆくが、真実の愛に触れることはけ
っしてない。
それはたんに表面的な現象にとどまっている。
それはけっして親密なものにはならず、深みをおびることもない。
けっして心から身をゆだね合うことがなく、表面的なつき合い、 せいぜい肉体
と肉体の性的な触れ合いにとどまっている。
それは けっしてまごころハートに触れず、もちろん魂にも触れることがない。
なぜなら、まごころに触れ、魂に触れる ためには、時間がかかるからだ。
人は待ち、そして深く掘り下げなければならない。
これがよく犯しがちな二つの誤りだ。それに用心するがいい。
活動的になりすぎては いけないし、怠惰になりすぎてもいけない。
中間にとどまりなさい。穏やかに活動し、 いきいきとくつろぎなさい。
中間にとどまるがいい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

314鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/14(木) 22:41:14 ID:1d4drIFg0
昏沈とはほとんど意識を失っている状態なのじゃ。
何も覚えていないのじゃ。
しかし、実際には意識はあるものじゃ。
記憶が無いから意識も無いと思うのじゃ。
意識は常にあり、記憶が無いことすらわかるのじゃ。
肉体の意識と記憶があるからのう。
それに気付けば常に意識はあったとわかるのじゃ。
散乱は頭に気が上りすぎて起こるものじゃ。
特に気を頭に上げる法では起こりやすいのじゃ。
それも常に気を巡らす法を行っていればコントロールできるものじゃ。

315避難民のマジレスさん:2019/02/15(金) 04:40:21 ID:LC3de7YgO
>>314
忘我も昏沈でありますね。
意識的に忘我を作り出すことができれば、苦しみを一時的に忘れる助けにはなるでありますね。
そして、仮に相当に深刻だと思っている苦しでも、そのようにして忘れられる程度のものであると、忘我によって知ることができるでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

316避難民のマジレスさん:2019/02/15(金) 06:30:39 ID:LC3de7YgO
>>313
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

あなたの行為には待つという質が そなわらなければならないし、 あなたの待
機には活動の質が そなわらなければならない。
そうなれば、必ず成果があがる。
成果のことは考えなくてもいい― それはひとりでにやって来る。
そして、これらの誤りは正すことができる。
(p250)
それに対処するには、呼吸にあまり深く気をとられてはならない。
呂祖師は、あなたがたにもっとも重要な奥義のひとつを授けている。

それに対処するには、呼吸にあまり深く気をとられてはならない。
少しもあわてて呼吸せず、呼吸に無関心になり、超然として、遠くに離れてい
るかのように、とても静かに呼吸をすることを学ばなければならない。
呼吸に対して距離を保ち、超然としていることができたら、あなたは中道を達
成することができる。
その瞬間、あなたは男性的でもないし女性的でもない。
あなたはその両方であり、かついずれでもない。
あなたは超越している。そうなったら、この二つの誤りは消え失せている。

呼吸はこころハートから生じる。 こころから呼吸が生じるのである。
こころが動くと、ただちに気(呼吸エネルギー)が生まれる。
気とは元来、こころの活動が変容したものである。
気が散っているときには、見守りなさい。
呼吸も乱れているはずだ。
気が散らず、何にも意識をそらされることなく静かに坐っているときには、呼
吸は穏やかで、静かで、リズムをともなっている。
そこには微妙な音楽の質がある。
その質こそまさに中道だ。
というのも、あなたは何もしてはいないが、眠りこけているわけでもないから
だ。
あなたは活動的ではないし、不活発でもない。
あなたはバランスがとれている。
そういったバランスがとれた瞬間に、あなたは実在リアリティに、神に、天国
に近つ゛いている。

我々の思念は実にすばやく動いて、またたく間に空想に走るが、 ひとつの空想
には必ずひとつの息がともなっている。
内なる呼吸と外なる呼吸は、声とこだまのように一体になっている からだ。
我々は毎日数知れぬほど息をし、それと等しい数の空想を 抱いている。
こうして精神の明晰さは、樹が枯れ、灰が冷たくなる ように衰えてゆく。
いいかね、どの呼吸もただの呼吸ではない。
それは思考でもあり、感情でもあり、空想
でもある。だが、それは数日のあいだ呼吸
を観察してはじめてわかることだ。
愛を交わしているとき、呼吸を見守りなさい。
きっと驚くだろう―呼吸は混沌としている。
性的なエネルギーというのはひじょうに荒々しく、粗野なエネルギーだからだ。
性的な空想は荒々しく、 粗野で、動物的だ。
性欲にはこれといって特別なものはない ―動物にはみな性欲がある。
性欲に突き動かされると、人は どんな動物にも負けないような振る舞いをする。
私は動物であることは悪い ことだと言っているのではない。
ただ事実を指摘しているだけだ。
私は事実を述べているにすぎない。
だから性愛を感じるたびに、呼吸を見守りなさい。
それは完全にバランスを失っているはずだ。
だから、タントラでは、セックスの途中に 呼吸を穏やかでリズミカルに保つこ
とを学んではじめて愛を交わすことが許される。
そうなったら、まったく異なる質がセックスに現れる。
それは祈りに満ちたものになり、神聖なものになる。
部外者が見れば何の違いもない。 あなたが相手の男性や女性と愛を交わして
いる姿は、部外者の目には同じに映る。
だが、タントラに精通している者たち、 それを知っている者たちには大きな
違いがある。
これらの秘法が開発され、実験され、観察された 古代のタントラの道場において、
それは一連の 実験の中心課題のひとつになっていた。
呼吸をまったく乱さずに愛を交わす ことができたなら、それはもはやセック
スではなく神聖な行為になる。
そうなったら、あなたはみずからの 実存の大いなる深みへと運ばれ、そして
生の神秘への扉が開かれる。
呼吸はたんに呼吸であるにとどまらない。
呼吸は生命いのちだからだ。
呼吸のなかには生命に内在する すべてのものが含まれている。
では頭のなかで空想してはならないのだろうか?
人は空想せずにはいられない。
呼吸をしてはならないのだろうか?
人は呼吸せずにはいられない。
最良の方法は、病から薬をつくりだすことだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

317鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/15(金) 22:48:51 ID:1d4drIFg0
>>315 そうじゃ、サマーディに入れば気付きも起こりやすくなるものじゃ。
 そうであるからこの書でもそれを求めるのじゃ。

 サマーディに入れば呼吸は殆ど止まるのじゃ。
 呼吸の停止によって心も停止したと知れるのじゃ。
 呼吸と心は常に連動しているのじゃ。
 意識して呼吸しないと苦しくなったりするのじゃ。

318避難民のマジレスさん:2019/02/16(土) 09:18:19 ID:LC3de7YgO
>>316
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

これはタントラの方法論であるとともに、タオの方法論でもある―病から薬を
つくりだす……。
タオとタントラが並外れているのはここだ。
ヨーガは「セックスを避けなさい。セックスを迂回するのだ―それは危険なも
のだ」と言う。
だが、タオとタントラはいずれも「セックスを避けてはいけない。
そのエネルギーを変容させるのだ。
そうすれば、病そのものが薬に変わりうる」と言う。
科学者に尋ねてみるがいい。
彼らはそれとまったく同じことをやっている、とりわけ逆症療法アロパシーに
おいて。
病気そのものから抽出された成分が注射されて、それが薬になる。
逆症療法が近年になって発見したことは、タントラやタオによってはるか昔に
発見されていた。
神から与えられたものにはすべてとほうもない目的が隠されているにちがいな
い。
それを避けてはいけない。それを避けたら、貧しいままでいなければならない

それから逃げ出してはいけない。逃げ出したら、あなたのなかには生きなかっ
た部分が残ってしまう。
いわゆるヨーガ行者が絶えず性的妄想に苦しめられているのはそのためだ。
彼はぐっすり眠れない―それは不可能だ―昼間に彼が拒絶してきたことが、夜
になるといっせいに逆襲して来るからだ。
無意識のなかに抑圧してきたすべてのことが、眠りに就き、コントロールが
弱まると、再び浮上してきて夢になる。
ヨーガ行者、いわゆるヨーガ行者は、絶えず恐れている。
彼は女を見るのが怖い、女に触れるのが怖い。
彼はおどおどしている。いったいこれが「自由」と呼べるだろうか?
こんな恐れを抱いていては自由になれるはずがない。
タオとタントラはまったく異なる姿勢で迫ろうとする。
彼らは言う―神から授かったものはことごとく変容させるがいい、と。
それは生の素材だ。
そのなかにはすばらしい宝が隠されているにちがいない。
呼吸の仕組みシステムを変えることができれば、性エネルギーを変容させるこ
とができる。
呼吸の仕組みを変えることができれば、怒りを変容させることができる。
腹を立てたとき、どんな呼吸をしているか観察してみるがいい。
そして次に怒りを覚えたときには、これまで腹を立てるたびにしてきたような
呼吸をしないようにする。
すると不思議なことに、あなたはもう怒れなくなってしまう。
あるやり方で呼吸しなければ、怒りは続かず、消えてしまう。
怒りの代わりに、憐れみが湧いてくる。
同じように、セックスも消え、セックスの代りに、愛が湧いてくる。
愛はじつに人間的なものだ。
セックスは人間だけのものではなく、動物のものでもある。
だが、愛を知っている動物はいない。
セックスは動物的なものであり、
愛は人間的なものであり、祈りは神的なものだ。
セックスは愛に変容されねばならないし、愛は祈りに変容されねばならない。
セックスのなかでは呼吸は混沌としたものになる。
だからこそ私は、ある目的をもって混沌とした瞑想を選んだ―それは感情を発
散浄化させるためだ。
混沌とした瞑想、混沌とした呼吸は抑圧された怒り、セックス、欲望、嫉妬、
憎しみといったものをことごとく打ち、表面に浮かびあがらせる。
それは大いなる浄化のプロセスだ。
セックスのなかでは、呼吸は混沌としたものになる。
愛のなかでは、呼吸は音楽的になる。
祈りのなかでは、呼吸は止まってしまったように静かになる。

こころハートと呼吸が互いに依存し合っているなら、 光の循環を呼吸のリズム
と結び合わせなければならない。
息を吐くときには、両目から光が出てゆくようにする。
息を吸うときには、光が内側にもどってくるようにする。
呼吸と光の循環を結び合わせなさい。
このようにして呼吸に仕事を与えることで 、呼吸は他の余計な空想から解き放
たれる。
これもまた空想のひとつだ―あなたはあるもの を与えている。呂祖が「人は空
想せずにはいられない」 と言うのはそのためだ―少なくともはじめのうちはそ
うだ。
最高の頂に到ってはじめて空想を落とすことができる。
だが、私たちはそれを使うことができる、 それを踏み石にすることができる。
息が出てゆくときには、光も出てゆくように想像する がいい。
息を吸うときには、光も入ってくる、と。
それを単純な方法でやってみるといい。
息を吐くときには、内側にあった光がすべて放出 されてゆくと感じなさい。
そして息を吸うときには、 <存在>のすべての光が入ってくると感じなさい。
じきに想像は呼吸と結びついて、それと一体になる。
こうすれば空想を使ったことになる。
こうしてゆっくり と呼吸をもっと穏やかで静かなものにさせてゆけばよい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

319鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/16(土) 22:54:17 ID:1d4drIFg0
人体の内部で気を巡らせるのを小周天と呼ぶのじゃ。
自然の気を外から取り入れて体に巡らすのを大周天と呼ぶのじゃ。
それも気が同じであるからできるものじゃ。
気は人の中にあり、人は気の中に在るというのじゃ。

320避難民のマジレスさん:2019/02/17(日) 07:59:57 ID:LC3de7YgO
>>318
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

ヨーガの呼吸法、プラーナーヤーマでやるような 特定のリズムを実修する必要
はない。
人はそれぞれ 自分に合った方法を見いださねばならないからだ。
肉体が違い、心理構造マインドが違うのだから、 あなたがたの呼吸も同じもの
ではありえない。
あなたは徐々に自分に合った方法 を見つけてゆかなければならない。
ひとつ忘れてはならないことがある。
呼吸は穏やかで、静かで、音楽的なものに なってゆかなければいけない。
(p255)
このためには、とりわけ耳の光が必要である。
ここで呂祖はまた別の手ほどきをする。彼は言う―
光は目から入って、そこを出入りするように、耳からも入って、そこを出入り
する、と。
光が耳から出たり入ったりするのを見ることはできないから、これは不思議な
言明だ。
だが、現代の物理学者に尋ねてみるといい。彼らは、音とは電気、電気の作用
に他ならないと言う。音は電気だ。
呂祖が古代の言語で「光」と呼んでいるのはまさにそれだ。
音は耳から入り、耳から出てゆく。
目が肉体の男性的な部分であるように、耳は肉体の女性的な部分だ。
目が外向的であるように、耳は内向的だ。
それゆえに、世界には二種類の瞑想がある。
目のエネルギーに関わる瞑想と、耳のエネルギーに関わる瞑想だ。
耳のエネルギーに関わる瞑想は女性的な瞑想であり、受動的だ―あなたは何も
せずに、ただ耳を傾ける。
鳥の声、松林を通り抜ける風の音、あるいは音楽や、往来の騒音に耳を傾ける。
何もせずに、ただ耳を傾ける。
すると深い静けさが訪れて、大きな安らぎが降り注ぎ、あなたを包みはじめる。
それは目よりも、耳を通してやるほうがやさしい。
耳を通してやるほうがやさしいのは、耳が受動的で、攻撃的ではないからだ。
耳は<存在>に対して何もすることができない。
ものごとを起こるにまかせるだけだ。
耳は扉であり、ただ受け容れる。

目の光があるように、耳の光がある。
目の光は外界にある 太陽と月が合体したものである。
それは外向的だ。

耳の光とは内なる太陽と月が合体して生まれる種子である。
それは内向的だ。

ゆえに種子とは光が結晶化したものである。
いずれも同じ起源をもち、名前が異なっているだけだ。
光と音は名前が違うだけだ。
インドには物語がある―実話かもしれない。いずれ科学がその正しさを証明す
るときがくるだろう。
インドの物語によれば、ある種の旋律メロディには火を生みだす力があるとい
う。
音楽家の前に火のともっていない蝋燭ろうそくを置き、音楽家がある旋律、あ
るラーガを演奏すると、突然、蝋燭に火がつく。
さあ、そんなことはありえないようだし、ただの物語にすぎないように思える。
おそらく神話か、譬たとえ話にすぎないだろう。
だが、音が電気だとしたら、ある種のパターンを形成した波動は火をつくりだ
すことができる。
今や実験が行なわれている。
私が思うに、遅かれ早かれ、科学的にそれを再現することが可能になるだろう。
これはよく知られている事実だが、軍隊が橋を通過するとき、兵隊たちは必ず
リズムを崩すように命じられる。
彼らはふつうは左、右、左、右、左、右といった具合に、一定のリズムを取り
ながら歩いている。
軍隊があるリズムをとって通過してゆくと橋が壊れてしまうということがよく
起こった。
だから、橋を渡るとき、軍隊は右、左のリズムを崩さなければならない。
今ではこれが周知の事実となっている。
ある種の波動が橋にとっては危険なのだ。
カナダでは、植物と音楽との関わりを調べる実験が行なわれた。
ささやかな実験だが、計り知れないほどの意義がある。
同じ季節の花が、同じ時期に、同じ肥料で、二か所に植えられ、同じ庭師がそ
れらの面倒を見た―
それぞれの区画は何から何までまったく同じだった。が、一方の区画には、
ラヴィ・シャンカールのシタールのレコードが用意され、絶えずその音楽が流
されていた。
そしてもう一方の区画には、ポップ・ミュージックが流された。
それはひじょうに示唆に富んだ現象だった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

321鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/17(日) 22:58:14 ID:1d4drIFg0
人は集中する時に目を使うものじゃ。
何かを注視する時の動作を心でも行うのじゃ。
それとは別に耳で聞く時のように集中する法も在るのじゃ。
それを返聴法と呼ぶのじゃ。
丹田に集中するならば丹田の音を聞くかのように集中するのじゃ。
ヨーガでも呼吸音とか心臓の音を聞くように集中する法があるのじゃ。

322避難民のマジレスさん:2019/02/17(日) 23:35:52 ID:LC3de7YgO
>>320
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸
 より抜粋

ポップ・ミュージックが流された区画の植物は、いっせいに音響装置をよける
ようになりはじめた。
まるで逃げだしたがっているかのように、聞くのがいやで、うんざりしている
かのように、植物たちはみな音響装置から身を遠ざけるようになりはじめた。
そして、その区画の花は小さく、成長するのに時間がかかった―他の区画の植
物のほぼ二倍の時間がかかった。
ラヴィ・シャンカールのシタールが流されている他の区画では、 植物たちは音
響装置に身を寄せはじめた。
植物は音響装置を抱き かかえるように、それを覆いつくした。
しかも二倍の速さで成長 し、花も大きく、予想されていたよりも早く花を咲か
せた。
植物でさえ、音響の違いを感じとる。
上空を飛んでゆく飛行機は人間を狂気に駆り立てる。
騒音は日毎にますますひどくなってゆく。
人間が 生き延びられるとしたら、それは奇蹟と言っていい。
いずれも同じ起源をもち、名前が異なっているだけだ。
実のところ、あらゆるものは同じだ。それらはみな「光」「火」「電気」と呼
ばれる素材からできている。
どんな名前で呼んでもいい。違うのは形だけだ。
したがって理解(耳)と明晰さ(目)はひとつのものであり、 同じ霊妙な光に
他ならない。
理解は耳を通して生まれる。明晰さは目を通して生まれる。
明晰さは男性的であり、理解は女性的だ。女性のほうが弟子になりやすい、と
私がいつも言うのはそのためだ。
 質問者 それでは、あなたはどこに住んでいるというのでしょうか?
 マハラジ
 存在と非存在を超えた、意識を超えた空のなかだ。
 その空はまた充満してもいるのだ。
 私を哀れんではいけない。
 それは、「私は私の仕事を終えた。もう何もするべきことはない」と言う人
 のようなものだ。
 質問者 あなたは真我の実現の確かな日時を伝えています。それはつまり、
     その日に何かが起こったということでしょうか? 何が起こったの
     でしょうか?
 マハラジ
 マインドが出来事をつくり出すことをやめたのだ。
 遙かなる昔からの絶え間ない探求が終焉したのだ。
 私は何も望まず、何も期待せず、何ひとつ私のものとして受け取らなかった。
 そこに闘おうとする「私」は残っていなかった。
 ただの「私は在る」さえも消え去ったのだ。
 もう一つ気づいたことは、すべての習慣的な確信を失ったということだ。
 以前、私は多くのことに確信をもっていた。
 今、私には何ひとつ確かなことはないのだ。
 だが、知らないことで何かを失ったようには感じない。
 なぜなら、私のすべての知識が偽りだったからだ。
 私が知らないということ自体、すべての知識は無知なるものだという事実の
 知識なのだ。
 「私は知らない」だけが私にできる唯一の表明だ。
 「私は生まれた」という考えを例にとってみなさい。
 あなたはそれを真実だと受け取っているかも知れない。
 そうではないのだ。
 あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬこともないだろう。
 生まれて、そして死んでいくのは観念であり、あなたではないのだ。
 あなた自身を「私は生まれた」という想念と同一化することで、あなたは死
 をまぬがれない者となる。
 映画のなかではすべてが光であるように、意識が広大な世界となるのだ。
 よく見てみなさい。
 すべての名前と形は、意識の大海のはかない波にすぎず、ただ意識だけが存
 在するのだ。
 意識のかぎりない広がりのなかに、ひとつの光が現れる。
 小さな点は急速に動き、紙の上にペンで形を描くように思考、感情、概念、
 観念を描きだす。
 その描きだすインクが記憶だ。
 あなたはその小さな点であり、あなたの動きによって世界はつねに再創造さ
 れていくのだ。
 動くのをやめなさい。
 すると世界はなくなるだろう。
 内側を見なさい。
 すると身体のなかの広大な光の反映は、「私は在る」という感覚としての小
 さな光の点だと見いだすだろう。
 ただ光だけがあり、それ以外のすべては現れにすぎないのだ。
 質問者 あなたはその光を知っているのでしょうか? それを見たのでしょ
     うか?
 マハラジ
 マインドにとってそれは暗闇として現れる。
 それはその反映を通してだけ知ることができる。
 日の光以外はすべて日の光のなかで見られるのだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

323避難民のマジレスさん:2019/02/18(月) 21:03:47 ID:LC3de7YgO
>>322
γ⌒:"-ヽ〟
(∪(   )
∪∪∨-∨
最初から3分の1くらいのところ、
> 質問者 それでは、あなたはどこに住んでいるというのでしょうか?

から最後まで、マハラジのI AM THATの文章を挿入してしまいました。
ごめんなさい。

324鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/18(月) 22:15:40 ID:1d4drIFg0
マハラジも光について語るのじゃ。
シンクロニシティじゃな。

プラーナや光を通じて人は全てと繋がっているのじゃ。
音も光も一つのものであるから互いに影響し合うのじゃ。
それを感じれば孤独も不安も幻想であったと気付くのじゃ。
個我の幻想が去れば孤独や不安の幻想も存在できないからなのじゃ。

325避難民のマジレスさん:2019/02/18(月) 22:22:36 ID:LC3de7YgO
>>324
うむ。不思議とシンクロしてるでありますね。
(´・(∀)・`)つ

326避難民のマジレスさん:2019/02/18(月) 22:33:04 ID:LC3de7YgO
>>322
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

女性のほうが男性よりも簡単に明け渡し、簡単に理解する。
男は論理的な明晰さ、論理的な説得力を求める。
女は他のものを、心地よいリズムに富んだ説得力を求める。
女性は直感的に耳を傾ける。
女性はそれを言っている人の波動を感じる。
女性の関心は何が語られているかではなく、誰が語っているか、どのように語
っているか、それがどこから生まれてきたかのほうにあるようだ。
女性のほうが深くまで進み、そのまさに精神をつかむ。
男はいつまでも文字に気をとられる。
そして書物の形で誰もが新聞や経典を入手できるようになったために、大きな
変化が起こった。
もともと教えというものは師の口から直接聴くより他にすべがなかった。
それらは口語で伝えられたので、それを受け止める中枢は耳にあった。
今では書物が手に入る。
クリシュナがアルジュナに語り、アルジュナがそれを聴いていたとき、彼は耳
を働かせていた。
大いなる理解が起こり、彼は変容を遂げた。
だが、アルジュナは女性のように耳を使っていた。
今では、あなたは「ギータ」を読む。
読むというのは目を使うということだ。
そして目は理解のことなど気にかけない。
目は論理的な明晰さを求める。
目はまったく違う姿勢でことに当たる。
何世紀にもわたって、世界中のあらゆる宗教が「教えを文字に書き記してはな
らない」と主張してきた。
それには理由があった。
ひとたび書き記されると、質がそっくり変わってしまうからだ。
ひとたび書き記されると、目が重要になり、耳は軽視されるようになる。
私に耳を傾けるのと、私の言葉を読むのとではまったく違う。
本を読むときには、あなたは男性的な精神マインドを働かせている。
耳を傾けるときには、あなたは女性的な精神を働かせている。

坐るときには、瞼まぶたを下げて、下げ振りをつるすように 視線を定め、光を
下方に向ける。
しかし、下にうまく注意を 向けられないときには、呼吸に耳を傾けるようにこ
ころハート を導く。
出入りする息の音が聞こえるようではいけない。
聞こえるのは乱れた息である。
息が乱れると、たちまち呼吸は 荒く、うわついたものになり、伸びやかに広が
ってゆかない。
こころをひじょうに軽やかで微細な状態にしなければならない。
枷かせを解かれれば解かれるほど、こころの働きは微かすかになり、微かにな
ればなるほど、こころは静かになってゆく。
だから呼吸に耳を澄ませなさい。
音が聞こえるのは、息が荒いということだ。
乱れているのは、息が荒いということだ。
感じるだけで音がしなければ、呼吸は
穏やかで静かになっている。
それが<存在>と調和し、自分自身と調和し、実在と調和する正しい方法だ。
呼吸が静かになればなるほど、あなたはさらに深みへと入ってゆく。
ときどき呼吸が止まると……呼吸は実際に止まることがある!
それはここで多くのサニヤシンに起こっている。
彼らは私に知らせにやって来る。
なぜなら、彼らはひどくおびえてしまっているからだ。
呼吸が止まると、自分は死んでしまうという考えが脳裏をよぎる。
先日、サグナが質問をした。
彼は死んでゆくような気分になったという。
彼はおびえてしまった。
おびえてはいけない。呼吸が止まったら、そのままにして、それを楽しみなさ
い。
あなたは死んだりはしない。
そのまさに呼吸が止まることで、あなたは実在の真の姿を知るだろう。
永遠の生を知るだろう、死を知らないものを知るだろう。

不意にこころは限りなく静かになって、動きを止める。
そうなったら 真の呼吸が出現し、こころの真の姿が意識されるに到ったのであ
る。
そのままにしておくことができれば……。
だから私はサグナに言った。
「サグナ、馬鹿だね。君は取り逃がしてしまった!今度それが起こったら、取
り逃がさないように」
呼吸が止まれば、真の呼吸が出現し、真の生命が現れる。
呼吸に依存しない生命、永遠の生命、肉体の一部ではなく、肉体が崩れ、塵ち
りとなって消えた後にも残る生命が。
そしてその瞬間に、意識が達成される。
人はブッダになる。
ブッダとは完全に意識的になった、目覚めた人のことだ。

こころハートが軽やかであれば、息も軽やかになる。
それはこころの あらゆる働きが気(呼吸エネルギー)に影響を与えるからだ。
息が軽やかであれば、こころも軽やかになる。
それは気のあらゆる 動きがこころに影響を与えるからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

327避難民のマジレスさん:2019/02/19(火) 19:38:29 ID:LC3de7YgO
>>326
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

こころを安定させるには気を養うことからはじめなければならない。
こころに直接働きかける ことはできないからだ。
それゆえに手がかりとして調息法を用いる。
これが「気の力を集中して保持する方法」と呼ばれているものだ。
弟子たちよ、おまえたちは"動き"の本性を理解していないようだ。
動きは外界の事物によっても引き起こされる。
それは支配される ということに他ならない。
坐るだけでこころが揺れ動くなら、 身動きしないことによってそれを鎮めるこ
とはできないだろうか?
こころと気が相互に影響し合うことを知った偉大な聖者たちは、 後世の人々に
役立つよう、より簡易な方法を考案したのである。
あなたはそれを知っている。
走れば、息は激しく乱れ、どんどん速くなってゆく。
ヨーガの各種の体位はそのためにある―例えば完全な蓮華座。
背筋をまっすぐ伸ばして坐り、完全に沈黙して、大理石の彫像になってしまっ
たかのように、不動の姿勢を保つ。
それはランニングとはまったく逆の姿勢だ。
これは呼吸を静めるための外的な手段にすぎない。
走ることで呼吸を速めることができるなら、仏像とそっくりな姿勢で坐ること
で、それを鎮静させることもできるはずだ。
身動きせず、仏像のように坐っていれば、確かに呼吸はだんだんゆるやかにな
ってゆき……やがて止まる。
最初はほんの一瞬にすぎない。
心臓発作ハートアタックか何かに襲われたのではないかと恐れる必要はない。
それは神の到来ゴッド・アタックだ。

「鶏が卵をかえすことができるのは、そのこころハートがつねに 耳を澄ませて
いるからだ」これは不思議な力をもつ重要な言葉である。
鶏は熱の力によってその卵をかえす。
だが熱の力は殻を暖めるだけ であり、中まで浸透することができない。
そこで鶏は こころを用いてこのエネルギーを内部に導き入れる。
鶏は耳を澄ますことによってこれを行なう。
そのようにしてこころを一心に集中させる。
こころが浸透すれば、気も浸透し、ひなは熱の力を受けて、生命を得る。
それゆえに鶏は、卵から離れるときでさえ、つねに耳をそばだてて 聴く態勢を
取っている。
このようにして精神の集中は途切れることがない。
これは鶏だけでなく、すべての女性、すべての母親、人間の母親にすら当ては
まることだ。雷をともなう激しい嵐がやってきても、彼女には聞こえず、彼女
が眠りから覚めることはない。
だが、子供が泣きだしたり、身動きをはじめたりするとそれだけで、耳が絶え
ず子供に焦点を合わせていたかのように、彼女は即座に目を覚ます。
汽車が通りすぎても彼女は目を覚まさない。
飛行機が通りすぎても彼女は目を覚まさない。
だが、子供が少しでもそわそわしだすと、彼女はただちに耳をそばだてる。
彼女は全身耳となって子供に耳を傾けている。
彼女は耳を通して子供とこころハートとこころハートで結ばれている。
まるで子供の心臓ハートの鼓動そのものを聞くことができるかのように、彼女
は絶えず耳を澄ましている。
これはすべての瞑想者がみずからの鼓動を聞くことができるほど深く耳と結び
つく方法だ。
最初のうちは、呼吸を聞くことができるのは息がひどく乱れているからだ。
だが、あなたが聴いて、聴いて、聴きつつ゛けるならば、その聴こうとする努
力そのものが呼吸をさらに静かにさせてゆく。
そしてその傾聴が深まり、聴くこつがわかり、いかに醒めているかがわかると
、すべての音色、すべての音が消え、呼吸が止まる瞬間がくる。
それは歓喜、洞察、悟り、サマーディの大いなる瞬間だ。

精神の集中が途切れないために、熱の力は昼夜 絶えることなく、精神はいきい
きと目覚める。
精神の目覚めは、こころハートが死ぬことによって はじめて達成される。
瞑想中に突然、心臓が止まりそうに感じても、心臓発作だと勘違いしてはいけ
ないと私が言ったのはそのためだ。
呼吸が止まると、心臓が止まりそうな感じがする。
それは死ではない。あなたの真のこころハートが誕生しようとしているのだ。

こころを死なせることができれば、 原初の精神はいきいきと目覚める。
こころを死に到らしめるというのは、 それを枯渇させ、しぼませてしまうこ
とではなく、 こころが分断されずにひとつにまとまる という意味である。
これが黄金の華の秘密だ。
こころが死ぬことができれば、花が開く。
今あるあなたとして死になさい。
そうすれば再誕生することができる。
イエスは言う。
「再び生まれないかぎり、人が神の王国に入ることはない」
(´・(ェ)・`)
(おわり)

328鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/19(火) 23:02:48 ID:1d4drIFg0
>>325 そうじゃ、全ては繋がっているのじゃ。
 マハラジもオショーなのじゃ。

サマーディに入ると呼吸は止まるのじゃ。
日常でも強く集中しなくてはならない時には呼吸を止めるじゃろう。
それが無意識のうちに起こるのがサマーディなのじゃ。
それが始まると恐れてしまう者もいるじゃろう。
知識があれば恐れずに進むことも出来るのじゃ。

329避難民のマジレスさん:2019/02/20(水) 00:01:55 ID:LC3de7YgO
>>327
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服1
 より抜粋

呂祖師は言った。
昏沈こんちんと散乱という二つの誤りは、静かな行を 中断せずに毎日続けるこ
とによって克服しなければならない。
そうすれば確実に成果が現れるであろう。
静座して瞑想しなければ、しばしば散乱していてもそれに気つ゛かない。
散乱に意識を向けることにより、おのずと散乱を取り除くことができる。
昏沈に意識を向けるのと、昏沈に無意識であるのとでは実に大きな 違いがある。
昏沈に無意識であることが真の昏沈である。
意識されている昏沈は完全な昏沈ではない。
そこにはなおいくばくかの明晰さがあるからだ。
散乱は想念マインドをさまようままに放置することから起こり、 昏沈は想念が
まだ清らかでないことから起こる。
散乱は昏沈よりもずっと容易に直すことができる。
病気に例えてみれば、痛みやかゆみを感じている場合には それを治療する薬が
あるが、昏沈は感覚を失ってしまう病気に似ている。
散乱は鎮めることができるし、混乱は整えることができる。
だが昏沈や無気力な状態は重くて暗い。
散乱や混乱にはまだ一定の場所があるが、 昏沈や無気力な状態ではただ魄アニ
マのみが活動している。
散乱の場合にはまだ魂アニムスが存在しているが、 昏沈の場合にはまったき闇
が支配している。
瞑想中に眠気をもよおすならば、昏沈の影響を受けている。
昏沈の克服に役立つのは呼吸だけである。
鼻から出入りする息は真の呼吸ではないが、 真の呼吸の出入りはこれと結びつ
いて起こる。
それゆえに、坐るときにはつねにこころハートを静かに保ち、 気エネルギーを
集中させなければならない。
こころを静めるにはどうすればよいか?
呼吸によってである。
息の出入りをこころが意識していれば いいのであり、耳に聞こえてはならない。
耳に聞こえなければ、息は軽く、軽ければ、純粋である。
耳に聞こえるようなら、気息は荒く、荒ければ、濁っている。
濁っていれば、昏沈と無気力な状態が生じ、眠気に誘われる。
これは自明の理である。
呼吸するとき、こころハートをいかに正しく使うか を理解しなければならない。
それはこころをを用いない用い方である。
聴くことに微かすかに光を当てるだけでいい。
この句には秘められた意味がある。
光を当てるとはどういうことか?
それは目の光がもつ自然に照らしだす働きのことだ。
目は内側を見るだけで、外界を見るわけではない。
外を見ることなく明るさを感じていることが 内側を見るということであり、内
側を実際に見るということではない。
聴くとはどういうことか?
それは耳の光がもつ自然に聴く働きのことだ。
耳は内側を聴くだけで、外界の音を聴くわけではない。
外界の音を聴くことなく明るさを感じていることが 内側を聴くということであ
り、内側の音を実際に聴くということではない。
したがってこの場合、聴くというのは無音の状態を聴くだけであり、 見るとい
うのはそこに何の形もないのを見るだけである。
目が外界を見ず、耳が外界の音を聞かなければ、それらは おのずと閉じて内界
に沈んでゆきがちである。
内側を見、内側に耳を傾けるときにのみ、 感覚器官は外に向かうこともなく、
内に沈み込むこともない。
このようにして昏沈と無気力な状態を取り除くことができる。
これが、太陽と月がその精と光を結合させることである。
昏沈に襲われて眠気をもよおしたなら、 立ちあがって歩きまわるがいい。
頭がすっきりしてきたら、坐りなおす。
やがて修行の成果が現れてきて、 昏沈や眠りに陥ることはなくなるだろう。
ある暑い昼下がりのことだ。
一匹のフクロウが樹にとまっていると、白鳥が飛んできて一緒にとまった。
「ふうっ、暑いねえ、フクロウさん」
と白鳥は言った。
「太陽が照っているので、暑くて汗びっしょりだ」
「何だって?」とフクロウが言った。
「君は何を言っているんだい?太陽だって?暑いだって?闇が深まれば暑くな
るのさ。君の言う太陽とやらはいったい何のことだ?君は頭が変にでもなって
しまったのかい?君は私に何を言いたいんだ?太陽なんてものはありゃしない
。あったためしがない。その熱を発する光とやらはいったい何のことだ?そん
なものなど聞いたことがない。闇が深まれば暑くなるに決まってるじゃないか
。私を馬鹿にしようとしているのかい?私ひとりが言ってるんじゃないよ。私
たちのどの経典にもそう書いてあるんだ」
白鳥は唖然として、「この盲目の老いたフクロウにどうやって説明すればいい
のだろう?」と考え込んだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

330鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/20(水) 23:27:05 ID:1d4drIFg0
昏沈と散乱は陰陽のどちらかに偏りすぎたために起こるというのじゃ。
陽気に傾きすぎれば散乱し、陰気に傾きすぎれば昏沈するのじゃ。
それを防ぐには日々の精進とあまり凝視しすぎないことというのじゃ。
耳を僅かに傾けるような返聴法ならば陰陽どちらにも偏らずに実践できるというのじゃ。
それが陰陽合一の法というのじゃ。

331避難民のマジレスさん:2019/02/21(木) 07:03:29 ID:LC3de7YgO
>>329
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

「いいかい、兄弟。俺はこの目で見ることができるんだ。今は真昼で、太陽が
照りつけているから、とても暑いんだ。なのに君は暗いと言う。どうすれば説
明できるんだろう?」
フクロウは言った。
「じゃあ、あの大木のととこへ行こうじゃないか。あそこにはフクロウがたく
さんいるし、偉い学者さんもいる。彼らに聞こうじゃないか―彼らは経典に精
通しているし、ものをよく知っている連中もいる。さあ、行こう!君が私を馬
鹿にしているのかどうか今にわかるさ」
彼らは飛んでいった。そこは盲目のフクロウでにぎわっていた。
「この白鳥がやって来て」とフクロウは言った。
「今は真昼で、 太陽が照りつけていて、至るところに光があるから暑いんだと
言うんだ。みんなはどう思う?」
「何を言っているんだ」
とフクロウたちは言った。
「俺たちの村では 、親父もその親父もそのまた親父も、誰ひとり太陽なんて見
た者 などいないし、記録にも残っていない。だから、太陽なんてものは ないん
だ。そんなものあるはずがない。あいつはおまえをかついで いるだけだ。あい
つに耳を貸してはいけない。あいつは狂っているか 、大ぼら吹きか、そのどち
らかだ。あいつは俺たちの宗教をつぶそう としているんだ。俺たちはいつも暗
闇のなかに住み、いつも暗闇を 崇拝してきた。闇は俺たちの生き方の土台その
ものだ。あいつは 俺たちの生き方を壊してしまう。あいつはそういうやつなん
だ。 お望みなら、多数決で決めてもいい」
あるフクロウが顔をあげて言った。
「どちらが真実なのだろう? 存在するのは闇だろうか?それとも光だろうか?」
「闇だ、闇だけが存在する」
とフクロウたちはいっせいに叫んだ。
「では、どうしてこんなに暑いのだろう?」
「闇が深いからだ」
と フクロウたちは叫んだ。
「熱は闇の作用なのだ」
「やつをここに置いておくわけにはゆかない」
とフクロウたちは 再び叫んだ。
「やつは我々の宗教、伝統、我々が大切にしてきた 過去そのものをだいなしに
してしまう。ただちにやつを追放しろ! あいつは目がつぶれているか、完全に
いかれている」
この小さな寓話には、たいへん価値のあるいくつかの真理が含まれている。
まず、真理は伝達することができない―真理を伝える方法はない 。
私の真理は私の真理だ。
それを語ることはできるが、語ること で真理が伝わるわけではない。
それに耳を傾けることは理解する ことではない。
あなたは自分自身の目を開かなければならない。
真の師マスターの役割は、「神は存在する」と語ることでは ない。
それはあなたが目を開き、魂の窓を開くのを助け、目 が見えるようになり、
「神」という言葉が意味するものを みずからの血と骨と髄に体現できるように
させることにある。
あなたの代わりにこの目で見ることはできない。
あなたの代わりにこの足で歩くことはできない。
あなたの代わりにこの翼で飛ぶことはできない。
あなたはみずからの生を生き、 みずからの死を死ななければならない。
これはつねに覚えておくべき 最も基本的なことがらのひとつだ。
さもなければ、人は借り物の知識 という重荷を背負うはめになる。
それは知識とはまったく無縁な贋にせのコインにすぎないが、知識に似ている
ので、あなたがたは だまされてしまう。
人類に起こっていることはそれだ。
人類は借り物の知識の呪いのもとで生きている。
人々は『聖書』『コーラン』『ギータ』を鸚鵡おうむのように唱えている ―盲
目の老いぼれフクロウが『コーラン』『ギータ』『聖書』を唱えている。
だが、それは彼ら自身が体験したものではない。
彼ら自身が体験しているのはまったく逆のことだ。
彼ら自身の体験は『ギータ』『聖書』『ヴェーダ』『法華経ダンマパダ』 の真
理をひたすら否定するものでしかない。
彼らの本音はこうだ―
「仏陀は狂っている」、
「イエスは人をだましている」、
「ソクラテスはひじょうに賢いかもしれないが、用心しなければならない。
彼に耳を傾けてはならない。彼は我々の宗教をつぶしてしまう」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

332避難民のマジレスさん:2019/02/21(木) 20:17:26 ID:LC3de7YgO
>>331
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

人間は盲目のまま宗教をつくりあげてきた。
しかもひとつではなく無数の宗教を。
盲目の目には<一なるもの>が見えないからだ。
盲目の目は多くのものを信じることしかできない。
それゆえにこれほど多くの宗教がある―この小さな地球に三百前後の宗教がある
― そしてそれぞれの宗教がこう主張している。
「私の真理が唯一の真理だ」、
「私の 神が唯一の神だ」、
「他の神はすべて偽物だ」、
「他の真理はすべてでっちあげだ」 、
「他の道はすべて荒野に行き着くだけだ―私の道だけが天国に通じている」
この三百の宗教は絶えず闘い合っている。
どの宗教も現実に気つ゛いて いない。
どの宗教も現実を真正面からのぞいていない。
彼らは信じている。
これらの宗教は宗教ではなく形骸化した伝統だ。
彼らは耳で聞き―いつの時代 にも耳で聞き―そして信じてきた。
信じることは安易であり、探索することには 危険がともなうからだ。
鸚鵡おうむのようにくり返すことは何の苦もない。
冒険に満ちた発見の旅にでかけるためには生命を賭けなければ ならない。
それは危険だ。
探索することは危険だ。
信じることは、 手軽で、慰めになる。
あなたはどこにも赴かなくてすむ。
それは 既製品としてあなたに与えられる。
だが、それには手垢がついている。
そして手垢にまみれた神とともに生きる人間は悲惨だ。
神は新しいものでしかありえないからだ。
体験はどこまでもあなた自身のものでなければならない。
他人の体験は真実の生の基盤となりえない。
仏陀は見たかもしれないが、仏教徒になることは助け にならない。
仏陀は仏教徒ではなかった―それは確かだ。
イエスは見て、直面し、了解したかもしれないが、キリスト 教徒になることは
まったく愚かしい。
キリストにならないかぎり 、けっして神を知ることはない。
真に宗教的な人は形骸化した伝統を避ける。
真に宗教的な人は手垢にまみれた神を避ける。
信仰を避け、自分を開いたままにして、 いつ真理が立ち現れても応じる姿勢
でいる。
もちろん彼は働きかける―働きかけるのは宗教的な人だけだ ―信者たちはけっ
して自分に働きかけたりしない。
信者たちは自分に働きかける必要がない。
真理を探索し、探求し、探し求める者は自分自身に懸命に働きかける。
なぜなら、落とさなければならないものがたくさんあるからだ。
落とさなければならない不純なものがたくさんあるし、 溶かさねばならない障
害物や障壁がたくさんあるからだ。
目を開けて、耳をふさいでいるものをはずし、 ハートの感受性を取りもどさな
ければならない。
人は存在とリズムを合わせなければならない。
<存在>と完全にリズムが合っていれば、 目が開いて、そこではじめて見る こ
とができるようになる。
その見ることが変容になる。
その見ることがあなたを根こそぎ変える。
その見ることが新しい洞察力、新しい生命、 新しいもののとらえ方になる。
あなたは もはや肉体に閉じ込められてはいない。
もはや想念に閉じ込められてはいない。
もはや何にも閉じ込められてはいない。
あなたは解き放たれていて、無限であり、永遠だ。
そしてあなたのなかを流れるこの永遠を感じる ことが、神を知ることだ。
永遠の過去と永遠の未来へと延び広がっている この無限を見ることが神を見る
ことだ。
あなたの実存のなかに宿る神性を感じる ことが、神を知ることだ。
これは手垢にまみれることがない。
キリスト教徒やヒンドゥー教徒やジャイナ教徒やイスラム教徒を見る と、そこ
には手垢にまみれた人々がいる。
あなたは街で履きふるされた 靴など買いたくない。
街で他人が使った古着など買いたくない。
だったらなぜ魂のために手垢のついた信仰を、使い古され、 ぼろぼろになって
いる、汚く醜い中古の靴や着物を買うのだろう。
そして自分の人生を美しく飾ったつもりになるなんて。
あなたは自分の魂を侮辱している。
あなたは自分自身の人間性をおとしめている。
キリスト教徒になったり、仏教徒になることは、 自分自身の人間性をおとしめ
ることだ。
探求は独りで行なうべきものだ。
探求はどこまでも個的なものでなければならない。
多数決によって真理を決めるわけにはゆかない。
真理はどこまでも個的であり、かつ私的なものだからだ。
それは客観的な現象ではない。
あなたは私の肉体を見ることができる。それは客観的な現象だ。
私の肉体が存在するかどうかを他人は簡単に判別することができる。
だが、私が光明を得ているか どうかを他人が判別することはできない ―まし
てや多数決で決めることなどできない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

333避難民のマジレスさん:2019/02/22(金) 07:11:13 ID:LC3de7YgO
>>332
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

覚者ブッダが覚者ブッダなのは、彼が覚者 であることを人々が多数決で決めた
からではない。
彼が覚者なのは、誰のものでもない彼みずからの宣言によるものだ。
彼の他には誰も証人はいない。それはまったく私的なことだ。
あまりに内面的なことなので、誰もそこまで立ち入ることができない。
真理は多数決では決められない。
だが、人々はそのようにして決めている。
宗教が信者を増やすことに熱中するのはそのためだ。
信者の数が多ければ多いほど、真理を多く手にしていること になるからだ。
キリスト教徒のほうがジャイナ教徒よりも多くの真理を手に していると主張で
きるのは、彼らの背後に大群衆がひかえているからだ。
投票をすれば、キリスト教徒が勝って、ジャイナ教徒が負けるだろう。
だが、それは投票で決まる問題ではない。
千匹のフクロウが投票で 「世界には闇しかない。太陽は存在せず、光も存在し
たことがない」 と決めたとしても、嘘が嘘であることに変わりはない。
1羽の白鳥が「昼だ」と宣言すればそれで充分だ。
真理は民主的なやり方で決められるものではない。それは群集とは何の関係も
ない。
カトリックは産児制限に反対しているし、イスラム教徒も産児制限に反対して
いるが、そこには単純な理由、政治的な理由がある。
その理由というのは、もし産児制限 が認められたら、信者の数が減りはじめる
からだ。
そして彼らの力はひとえにそこに かかっている。
彼らはいつか世界にこう証明できるよう、信者の数を増やしたいのだ。
「見ろ、こんなにたくさんの人々が我々についているのだから、 真理は我々の
もとにあるにちがいない」
ジョージ・バーナード・ショウの有名な言葉を覚えているだろうか。
彼と論争していたある男が言った。
「でも、こんなにたくさんの人が私の言葉を 信じてるんですよ。これだけ大勢
の人たちが間違うはずがないじゃないですか」
するとバーナード・ショウはこう言い返した。
「こんなに大勢の人たちが信じているのだったら、間違っているに ちがいない。
これだけたくさんの人たちが正しいなんてことがありえるかね?」
これだけたくさんの人たちが正しいなんてことがありえるかね?
(p274)
群集は盲目だ。
群集は光明を得ていない。
真理はつねに少数派の手にある。
仏陀が現れるとき、彼は独りだ。
イエスがエルサレムを歩くとき、彼は独りだ。
ソクラテスが闘うとき、彼は独りだ。
確かに、少数の探求者たちがソクラテスのまわりに 集まってきて、ある学派が
生まれるが、その学派は少数派だ。
そしてソクラテスと行動をともにするには勇気がいる。ガッツがいる。
なぜなら、彼はあなたを慰めるためにいるわけではないからだ。
彼は慰めになるものを一掃してしまう。
あなたの 幻想をこなごなに打ち砕いてしまう。
なぜなら、それが あなたに真理をもたらす唯一の方法だからだ。
彼はあなたの目を無理やり開かせる。
彼はあなたを眠りにつかせるための子守唄など歌わない。
彼はあなたを目覚めさせるために屋根の上から大声で叫ぶ。
彼はあなたにショックを与え、あなたを叩く。
先日、プラディーパが私に会いにやって来た。
彼女は泣いていた ―私が深い衝撃を与えたのだから無理もない。
彼女は、ある日、 不意にハンマーで頭を殴られるなどとは夢にも思っていなか
った。
そして自分が私の吐き気の原因であったことにもこころハートを 痛めていた。
彼女は私にこころを寄せて、みんなと同じように私を 愛しているからだ。
こういったすべての理由で彼女は泣いていた。
だが、私はあなたがたに、とりわけプラディーパに言わなければ ならない。
私が強く打つときには感謝するべきだ、と。
なぜなら、 打つに値すると見ないかぎり、あなたを強く打つことはないからだ。
私は相手かまわず打ちはしない。
私が打つのは、誰かが 本当に成長していると見なしたときだけだ。
あなたが成長 すればするほど、より多くのことが求められるようになる。
私はみんなに肉食を落とせと言ったわけではない。
だが、私は プラディーパが深い衝撃を受けて肉食を落とすような言い方を した。
彼女の意識が成長しているので、今や肉食は障害になっている。
高く舞いあがっていない者たち― 彼らは好きなだけ重荷を担いでもいい。
だが、高く舞いあがりはじめた者たち― 彼らは不用な荷物をすべて落とさな
ければならない。
あなたのエネルギーの純度が高まれば高まるほど、 もっとそのことに注意深く
ならなければいけない。
なぜなら、貴重なものが失われてしまうかもしれないからだ。
その貴重なエネルギーをつくりだすのは実にたいへん だが、なくしてしまうの
はごく簡単だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

334鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/22(金) 23:00:15 ID:1d4drIFg0
真の宗教とは信じる者が自ら探求することを要求するのじゃ。
アートマンは知識ではなく実践し、探求すべきものとヴェーダにも記されているのじゃ。
お釈迦様も修行者に怠けている者は死んでいるのと同じであり、精進する者だけが生きているとまで言うのじゃ。
神も本の中の聖人による知識ではなく自ら探求して見出されるべきものなのじゃ。

335避難民のマジレスさん:2019/02/23(土) 00:38:33 ID:LC3de7YgO
>>333
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

失うものが何もない者たち―彼らは悩まなくてもいい。
彼らはあらゆる種類の愚行をやりつつ゛けてゆけばいい。
彼らの全存在はそうした愚行とぴったり波長が合っている。
このことはひとりひとりが覚えておかなければならない。
あなたがたが成長してゆくにつれて、私はもっともっと 多くのことをあなたが
たに求めるようになるだろう。
美しい物語がある…… インドには偉大な画家、最も偉大な画家のひとりである
ナンダラル・ボースという天才がいた。
彼はもうひとりの天才、 アヴィニンドラナート・タゴールの弟子だった。
アヴィニンドラナート・タゴールは、ラヴィンドラナート・タゴール の叔父だ
った。
ある日の早朝、アヴィニンドラナートとラヴィンドラナート は一緒に坐り、お
茶を飲みながら、あれこれのことを語り合っていた。
そこへナンダラルがクリシュナの絵をもって来た。
ラヴィンドラナートは追想録のなかでこう書いている。
「これほど美しいクリシュナの絵は見たことがなかった―今にも 絵のなかから
飛び出してきそうなほどいきいきとしていた―今にも フルートから笛の音がこ
ぼれてきそうだった。私は茫然とした」
その絵を見たアヴィニンドラナートは、それを家の外に放り出し、 ナンダラル
に言った。
「こんなクリシュナの描き方があるものか。 ベンガルの下手な画家だってもっ
とうまく描く」
ラヴィンドラナートはひどいショックを受けた。
ラヴィンドラナートは 叔父の絵も知っていた。
叔父もまた生涯にわたりクリシュナを描いていた。
ラヴィンドラナートは、ナンダラルの絵と比べれば叔父の絵など足もと にも及
ばないと確信していた。
ナンダラルの絵のほうがはるかに優れていた。
だが、彼は黙っていた。師と弟子の あいだに口をはさむのはよくないことだ
った。
ナンダラルはアヴィニンドラナートの足に触れて 、出ていったまま、三年間、
姿を現さなかった。
ラヴィンドラナートは何度もアヴィニンドラナートに尋ねた。
「かわいそうに、あの男に何をしたんです? -彼の絵のほうが優れていたの
に!」
するとアヴィニンドラナートは泣きながら言った。
「おまえの言う通りだ。彼の絵のほうが優れている。私は あんなにすばらしい
作品を一度もつくりだすことができなかった」
ナンダラルがいなくなると、アヴィニンドラナートはその絵 を取りに行き、そ
れをいつも部屋に飾っていた。
「だったら、なぜ」とラヴィンドラナートは尋ねた。
「あなたはあんな無慈悲な振る舞いをしたのですか?」
アヴィニンドラナートは言った。
「私はまだあれ以上のものを 彼に期待しているからだ。彼が美しい絵を描くか
どうかが問題 ではない。これは始まりにすぎない。彼はもっと大きな力を 秘め
ている。私はもっとたくさんのことを彼に求めるつもりだ」
そしてナンダラルは三年間ベンガルの村々をさまよった。
師に 「村の画家だってもっとましなクリシュナの絵を描くぞ」と言われた から
だ。
彼は村の画家、ふつうの貧しい画家について習った。
三年間、 彼はベンガルをさまよい、あらゆる地方を訪ねた。
そして、 ある日のこと、彼は姿を現し、師の足に触れて言った。
「あなたのおっしゃった通りでした。 私はたくさんのことを学びました。 よ
く私の絵を投げ捨ててくださいました」
アヴィニンドラナートは彼を抱きしめて言った。
「待っていたよ。歳を取るにつれ、おまえは帰ってくるだろうか と不安になっ
ていた。私は幸せだ。おまえの絵はみごとだったが、 おまえにはもっと大きな
力が秘められている」
あなたのなかにもっと大きな力が秘められて いるのを見たら、私はすかさずあ
なたを打ちすえる。
あなたがたが私とともにここにいる、私があなたがたと ともにここにいる理由
はただそこにある。
あなたのなかで眠っているものがすべて上昇し はじめられるように、高く舞い
あがれるように、 私はあなたがたを根底からかき立てなければならない。
あなたは自分の潜在力に気つ゛いていないが、私は知って いる。
だから、私が要求をしたらいつも、感謝するがいい。
あなたはこれを聞いたら驚くだろう―禅院では、 師が誰かの頭を棒で叩くたび
に、叩かれた僧は 七度おじぎをして、師の足に触れ、感謝を表す。
そして弟子はその叩かれる瞬間を待っている。
師がわざわざ棒で頭を打ってくれるその 至福に満ちた瞬間が来ることを願う。
いいかね、ここは錬金術の学院アカデミーだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

336鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/23(土) 23:01:27 ID:1d4drIFg0
誰でも真の悟りに達する力はあるものじゃ。
自分自身でそれが出来ないと思えば出来ないのじゃ。
師匠の役目はその力に気付かせることもあるのじゃ。
全ての者に悟りに至る力は在るのじゃ。

337避難民のマジレスさん:2019/02/24(日) 00:39:53 ID:LC3de7YgO
>>335
30黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服2
 より抜粋

あなたがたはただもてなしを受けるためでは なく、変容を遂げるためにここに
いる。
そして変容は苦痛に満ちている。
なぜなら、古いものをたくさん落とさなければならないからだ。
その古いものは簡単に脱げる着物のようなものではない― それは皮膚と化して
いる。
皮膚をはがされたら痛い。
だが、あなたを正気に連れもどすにはそうするより他にない。
あなたの緩衝器を破壊するにはそうするより他にない。
あなたを覆い、拘束している鎧よろいを打ち壊すには そうするより他にない。
徐々に徐々に、あなた自身のエネルギーが起こりはじめ、 あなたの目が開き、
あなたの耳が聞こえるようになる。
そうなったら神は直接の体験になる。
つねに覚えておきなさい。 神の直接体験のみが真の体験となる。
それは多数派が決めるものではない。
それは伝統が決めるものではない。
それを決めるのは神と遭遇したみずからのエネルギーだけだ。
白鳥は狂っているとフクロウが考えても少しもおかしくない。
人々はいつもそのように考えてきた―仏陀も狂い、マホメット も狂い、ツァラ
ツストラも狂っている、と。
自分たちに見えない ものを、どうして信じることができるだろう?
フクロウが白鳥を追い出し、追放しても少しもおかしくない。
彼らは怖くなり、動揺してしまった。
この白鳥がこの樹の上で 暮らすことを認めたら、フクロウの伝統はつぶされて
しまう。
白鳥はフクロウの生き方を壊してしまう。
フクロウたちはいつも暗闇のなかで生きてきたので、いつも暗闇を信じている。
暗闇が彼らの神だ。
彼らの儀式はすべて暗闇から生まれたものだ。
フクロウの 聖職者たちは暗闇を讃え、学のあるフクロウたちは暗闇に関する大
論文を書く。
彼らの哲学には太陽や光や昼の出る幕がない。
そこにこの狂った白鳥が現れて 、異様な考えをフクロウの世界に密かにもち込み、
吹き込もうとする。
フクロウ社会の構造全体が崩れてしまう。
イエスが十字架にかけられたのはそのためだ。
人々が私にひどく反発しているのはそのためだ。
私はあなたがたに新しい光景ゲシュタルト、新しいパターン、 新しい生き方、
実在への新しい参入の仕方を授けようとしている。
当然、古い生活様式に大量のもとでをかけてきた者たちは腹を立てる。
狂ったように腹を立てるだろう。
彼らは自分たちの世界から私を追放したい ―彼らはまさにそれをやろうとして
いる。
それはまったく自然で、単純なことだ。
ひとたびそれを理解したら、あなたは笑いはじめるだろう。
人はどのようにして、またなぜ神の存在を信じつつ゛けているのだろう?
人はどのようにして、またなぜ魂の存在を信じつつ゛けることができるのだろ
う?
フクロウたちと同じ理由からだ……「俺たちの村では、親父もその親父 もその
また親父も、だれひとり太陽を見たことがない。だから太陽なんて ものはない
んだ。あいつはおまえをかついでいるだけだ。あいつに耳を 貸してはいけない
。あいつは俺たちの宗教をつぶそうとしているんだ」
あなたは父親から「神は存在する。神はキリスト教を伝えた」 とか「神はヒン
ドゥー教を伝えた」と聞かされたことがあるだろう。
父親もまたその父親から聞かされ、それが延々とつつ゛いてきた。
うわさ話、ゴシップだ。父親も知らなければ、あなたも知らない。
勇気を奮い起こし、借り物の知識はすべて落としてしまいなさい。
サニヤシンに最初から求められるのはこれだ―そしてこれは 真理を科学的に探
索してゆくに当たり、最初に求められることでもある。
先入観をすべて落とすこと。
先験的アプリオリな概念をすべて落とすこと。
あたかもそれ以前には伝統などなかったかのように、 経典などなかったかのよ
うに、まるでアダムやイヴのように、 最初から、最初の第一歩から、ABCからは
じめること。
D・H・ローレンスはこう言っている―私は彼にまったく同意する―
「世界中の経典がすべてなくなってしまったら、人間は宗教的になるかもしれ
ない」
あらゆる伝統が完全に消え去れば、そのときはじめて希望が生まれる。
そうでないかぎり、誰が探索したいと思うだろう?
苦労せずとも 伝統があてがってくれるし、何の代価も払う必要がないのだから
、 気にすることはない。
他の人々が知っているのだから、ただ信じればいい。
だが、知ることと信じることは正反対のことだ。
信じることは暗闇のなかで生きつつ゛けることであり、 知ることは変容するこ
と、変身すること、永遠に輝く もうひとつのヴィジョンへと移行することだ。
これらの経文を信じる必要はない。
それらは実地に試してみなければならない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

338避難民のマジレスさん:2019/02/24(日) 10:29:38 ID:LC3de7YgO
>>337
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服2
 より抜粋

これらの経文はたんに手掛かりであり、あなた の実存のなかで実証してゆくべ
きものだ。
やってみないかぎり、あなたは要点を見逃しつつ゛けるだろう。
あなたはみずからの肉体を深遠な霊性の 研究室と見なすようにならなければ
いけない。
そしてみずからの生を、実在を究明する 大いなる冒険として見なければなら
ない。
そしてあなたは意識をとぎ澄まし、注意を払い、 内と外で何が起こっているか
見なければならない。
これらの経文は鍵だ。
みずからの実存に本当に働きかけようとしたなら、驚くだろう。
あなたはみずからの実存にすばらしい宝、無尽蔵の宝を秘めて いる帝王であり
ながら、乞食のように振る舞っている。
昏沈こんちんと散乱という二つの誤りは、静かな行を中断せずに 毎日続けるこ
とによって克服しなければならない。
そうすれば 確実に成果が現れるであろう。
成果は副産物だ。
成果のことは考えなくてもいい。
それについて考えると、それを得られなくなる―それが条件だ。
成果のことを考えてはならない。
成果のことを考えはじめたら、あなたは分裂してしまうからだ。
そうなったら修行は中途半端なものになり、実質のある精神マインドは未来に
飛んでゆく―「どうやって成果をあげよう」と。
あなたはすでに成功した自分の姿を、ブッダになった自分の姿を夢見はじめて
いる―どれほどの美が、どれほどの恵みが、どれほどの祝福があなたのものに
なるかを。
精神が貪欲どんよくさの、野心の、自我エゴのゲームを演じはじめている。
けっして成果のことを考えてはならない。
成果はおのずと生まれる副産物だ。
本当に誠実に自分自身に働きかけていたら、影があなたにつきそうように、成
果はおのずとついてくる。
成果をあげることを目的にしてはならない。
呂祖が「成否のことは思い煩わず、静かに黙々と働きかけなさい」と言うのは
そのためだ。
そして、いいかね、成果のことばかり考えているということは、失敗の恐れも
念頭から離れないということだ。
それらはともに連れそっている。
それらはひとつの包みに入っている。
成功と失敗は切り離すことができない。
成果のことが頭にあるかぎり、どこか奥深いところに恐怖もある。
あなたがそれをなし遂げられるかどうか誰にもわからない。
あなたは失敗するかもしれない。
成果を思い浮かべると未来に連れ去られ、貪欲さというゲーム、自我の投影、
野望が湧き起こる。
そして恐怖もまたあなたに動揺を与え、身震いさせる―あなたは失敗するかも
しれない。しくじる恐れがあるために、あなたはたじろぐ。
このたじろぎ、この欲望、この野心を抱えながら、静かに働きかけることなど
できない。
その実践は混乱したものになる。
ここで働きかけていながら、目は向こうを見ている。
この道を歩きながら、目はどこか空の彼方を見つめている。
星の研究をしていたギリシャの占星術師のことを聞いたことがある。
ある満天の星空の夜に、彼は井戸に落ちた。
星を見ながら歩きまわっていたからだ―星に夢中になるあまり、彼は自分がど
こにいるのか忘れてしまい、どんどん井戸に近つ゛いていって、とうとう落ち
てしまった。
近所に住んでいた老女が物音を聞いて駆けつけた。
彼女は井戸をのぞき込み、縄をもってくると、偉大な占星術師を引きあげた。
占星術師は大いに感謝した。
彼は老女に言った。
「ご存じではないでしょうが、私は国王から特別に任命された王宮の占星術師
です。料金は安くありません―大金もちだけが未来を占うだけの料金を払える
のです。でも、あなたは私の命の恩人です。明日どうぞ私のもとにおいでくだ
さい。あなたの手相を読み、出世図を調べ、星占いをしてあげましょう。そう
すれば、あなたの未来が何から何まではっきりとわかりますよ」
老女は笑いだして、こう言った。
「そんなことはすべて忘れちまいな。おまえさんは目の前にある井戸さえ見え
ないくせに、私の未来を占おうって言うのかい?まっぴらごめんだね!」
あまり先を見過ぎてはいけない。
さもないと、目前の一歩を踏みそこなうことになる。
呂祖は、成果はおのずからやって来ると言う。
成果のことは放っておきなさい。
この<存在>は実に気前がよい。
報われないものなど何ひとつない。
これがインドのカルマの哲学のすべてだ―
何事にも善い報いか悪い報いが必ず
ついてくる。
間違ったことをすれば、悪い報いが影のようについてくる。
正しいことをすれば、必ず善い報いがやって来る。
報いの善し悪しを気にかける必要はない。
少しも考える必要はない。
あなたの意識の一片すらそれにかかずらう必要はない。
それらはやって来る―ひとりでにやって来る。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

339鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/24(日) 22:22:00 ID:1d4drIFg0
何事かを為そうとする意識的な努力が悟りを遠ざけるのじゃ。
何もしないことが出来れば悟りは自ずからやってくるものじゃ。
それができなければただひたすらに目前のものに集中するか観察し続けるのじゃ。
自分がしているという意識さえ無くなれば悟りもやってくるのじゃ。

340避難民のマジレスさん:2019/02/24(日) 23:03:43 ID:LC3de7YgO
>>338
30黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服2
 より抜粋

あなたは道を歩きながら、影がついてきているかどうかを確かめるために何度
も何度も振り返るだろうか?
何度も何度も振り返り、影がついてきているかどうか確かめている人がいたら
、あなたは彼は狂っていると思うだろう。
影はついてくる。必ずついてくる。だから、あなたの働きかけが正しい方向を
向き、全身全霊で、正しい努力をもって行なわれていれば、成果はひとりでに
やって来る。
さて、どのように働きかけるのか?まず第一に……昏沈こんちんと散乱という
二つの誤りは、静かな行を中断せずに 毎日続けることによって克服しなければ
ならない。
昏沈とは怠惰、無気力な状態を言う。
それはあなたの女性的な部分ゆえに引き起こされる。
女性的な部分が怠惰で、不活発なのは、それが受動的だからだ。
そして、もうひとつは散乱だ。
それはあなたの男性的な部分ゆえに引き起こされる。
男性的な部分はいつも落ち着きがなく、活動的だ。
それは千とひとつのことを同時にやりたがる。
カミュの小説に出てくる人物は言う。
「俺は世界中の女をすべて手に入れ たい。ひとりでも、数人でも、大勢でも満
足できない。俺は世界中の女が みな欲しいんだ。」
これは極端な男性的態度だ。
女性はひとりの相手で 満足する。
男は大勢でも満足しない。
女性にとっては満足する ことは自然だが、男性にとっては満足しないことが自然
だ。
いずれの部分にも好ましい面と好ましくない面の両極がある。
女性がみずからの受動性に好ましくない形を取るのを黙認したら、 無気力な状
態が引き起こされる。
女性がこの世に多くのものを 創造してこなかったのは、ごくわずかのものしか
創造してこなかった のはそのためだ―優れた女流の画家や詩人や科学者はいない

それは必ずしも男性が許してこなかったせいばかりではない。
たとえ 自由が与えられ―自由は現に与えられている―女性が解放されたとして
も、この不活発な状態は女性の実存の一部だ。
彼女は行為にはほとんど 関心がない。
彼女は行為よりも在ることに関心を寄せている。
そして、この関心は大いなる祝福にもなりうるし、災いともなりうる。
それは状況しだいだ。
もしこの落ち着きが瞑想的なものになれば、もし この落ち着きが本当に<存在>
に対する満足、<存在>との調和になったら、 それは祝福になる。
だが、通常は九分九厘、無気力な状態になってしまう。
私たちはみずからの祝福をどう使えばいいのかわからない。
すると祝福は苦くなり、災いに変わってしまう。
そして男性的な精神マインドは落ち着きがない。
ここにも祝福の可能性がある 。
男性はきわめて創造的になりうる。
だが、実情はそうではなかった。
創造的 であるどころか、破壊的になってしまった。
祝福が呪いに変わってしまった。
その落ち着きのなさゆえに、男性は大きな不安に襲われ、不安で一杯になり、
緊張しきっている。
彼の精神はすみずみまで絶えず煮えたぎっている。
彼は いつも狂気の淵に立っている。
なんとか自分自身をつなぎとめているが、彼の 奥底には爆発寸前の群衆がいる

ちょっとした口実があれば、男は発狂しかねない。
この落ち着きのなさゆえに、男は美しさを、優美さをなくして しまった。
女性は優雅で美しい。
女性を観察するといい。
彼女 の歩き方、坐り方には気品がある。
彼女の実存には微妙な静寂、 落ち着きがある。
彼女の波動のなかにそれを感じることができる。
女性が住んでいない家はどこもかしこもめちゃくちゃだ。
その家に住んでいるのが独り者なのかどうかはすぐわかる。
何もかもがひっくり返り、めちゃくちゃになっている。
その家に女性の気配があるかどうかすぐわかる。
すべてが調和して いて、しかるべき場所に納まっているからだ。
その家には、ある優雅さ 、ある種の繊細な気配、とても微妙な愛や文化の気配
、音楽的な趣がある 。
男が独りで暮らしている家には神経症の匂いが漂っている。
正しく使われているなら、そのどちらも美しいものになる。
そうなったら 、女性的な部分は優雅さをもたらし、男性的な部分は創造性をも
たらす 。
そして優雅さと創造性が出会うとき、人は全体になっている。
だが、それはめったに起こらない―仏陀や、ミーラや、テレサや、 イエスや、
マグダレーナのような人のなかでしか、ごくまれにしか 起こらない。
ふつうはそれと正反対のことが起こる。
つまり悪い面が 出会うのだ。
男の落ち着きのなさや神経症と女の無気力な状態―この 二つが出会う。
そうなったら最も醜い現象を目にすることになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

341鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/25(月) 23:01:35 ID:1d4drIFg0
アニマといいアニムスというのはインドのグナと同じなのじゃ。
活発で活動的なラジャスと不活性で暗いタマスなのじゃ。
それらを克服してサットヴァを優勢にするのと同じというのじゃ。
サットヴァの下で調整されたラジャスとタマスが完全な調和をもたらすというのじゃ。

342避難民のマジレスさん:2019/02/25(月) 23:22:08 ID:LC3de7YgO
>>341
アニマ、アニムスもインドの言葉かと思ってたであります。
ググったら、ラテン語であり、ユングの用語でまあったなでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

343避難民のマジレスさん:2019/02/25(月) 23:39:06 ID:LC3de7YgO
>>340
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき) 
 より抜粋

さて、ここでもう一度思い出してほしい。
男と女について 話しているとき、私は生物学の用語を使っているのではない。
どの男の内側にも男性だけでなく内なる女性がいる。
その女の内側にも女性だけでなく内なる男性がいる。
男はたんなる男ではなく、女はたんなる女ではない。
彼らは両方だ。
男女ともに両性だ。
彼らは両方の性をそなえている。
ある人が男なのは、おそらく一方が優勢だからだろう。
男性の部分が優位に立って―つまりアニムスが意識に昇り、 アニマが無意識の
奥深くに潜んでいると、あなたは男になる。
あるいは、あなたが女であるというのは、アニマが意識に昇り、 女性的な部分
が優位に立って、男性的な部分、アニムスが無意識の なかに潜んでいるという
ことだ。
だが、両性がつねにともにある。
陰陽の極なくして電気が存在しえないように、両極なくして生物は 存在しえ
ない。
「男と女」「陰と陽」「明と暗」「シヴァとシャクティ」 ―あなたは好きな名
前で呼べばいい。
この二つの誤りを克服しなければならない。
静かな行を中断せずに毎日続けることが必要になる。

そうすれば確実に成果が現れるであろう。
この静かな行とは何か?
これが静かな行だ―
(p285)

静坐して瞑想しなければ、しばしば散乱していてもそれに気つ゛かない。
あなたはそれを観察したことがあるにちがいない。
たくさんの人々が私に報告している。
私のまわりでは何千人もの人々が瞑想しているからだ。
これは瞑想者が等しく認める体験だが、瞑想をはじめると、人は突然奇妙な現
象に気つ゛くようになる。
瞑想をすると、これまで一度もなかったほど心マインドが落ち着かなくなって
くる。
最初のうちはこれがひどく奇妙に思える。
瞑想すれば心が静かになるものと期待しているからだ。
ところが、起こっているのはまったく逆のことだ。
心はますます落ち着きを失ってゆく。
日常の生活をしているときよりも多くの思考がやってくる。
店や会社や工場で働いているときには、さほど思考は邪魔にならない。
ところが 、お寺やモスクや教会に坐って数分でも瞑想すると、突然、思考が群
れをなしてやって 来て、まわりを取り囲み、あちこちに引きずりまわしはじめ
る。
頭がおかしくなりそう になり、わけがわからなくなる。
瞑想者は穏やかで静かになるものと思っていたからだ。
ところがまったく逆のことが起こっている。
どうしてこんなことになるのだろう?
その理由はこうだ。
あなたがたはいつもこれらの思考と行動をともにしてきた。
店や工場や会社で働いているときでさえ、これらの思考はつねにそこにあった
のだ。
だが、仕事に夢中になるあまり、気つ゛かなかっただけのことだ。
目新しいのは 思考の群れではない―思考はあなたがどこに坐っていようが気に
かけない。
教会なのか、寺院なのか、瞑想ホールなのか、思考は気にかけない。
ようするに、坐って瞑想しているときには外界の事物に気を取られていない の
で、心がいつも内側で騒ぎ立てているすべてのものにはっきりと気つ゛く よう
になるというだけのことだ。
瞑想のせいでいつもより多くの思考がやって 来るわけではない。
瞑想によってあなたはそこにあるものに、いつもそこにあった ものに気つ゛く
ようになる。あなたが前よりももっと気つ゛くようになるだけだ。
静坐して瞑想しなければ、しばしば散乱していてもそれに気つ゛かない。
散乱に意識を向けることにより、おのずと散乱を取り除くことができる。
外界の雑務から身を引き、完全に身を引き、全力をあげて内界を観察するため
に、少なくとも毎日一、二時間、坐って瞑想することが強調されるのはそのた
めだ。
最初のうちはパンドラの箱を開けたように見えるだろう。
最初のうちは精神病院に踏み込んだように見えるだろう。
あなたは逃げだして、再び雑務に没頭したくなる。
この誘惑を避けなさい。
この誘惑はなんとしても避けなければならない。
さもなければ、けっして瞑想をすることはできない。
この内なる混乱から目をそらすために数々のトリックが見いだされてきた。
超越瞑想は瞑想のテクニックではなく、内なる現実に直面するのを避けるため
のテクニックだ。
マントラが与えられ、それをくり返すように告げられる。
それは役に立つ―瞑想の助けになるのではなく、気を紛らわしておく助けにな
る。
(´・(ェ)・`)
(つづく`)

344鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/26(火) 22:57:42 ID:1d4drIFg0
>>342 そうじゃ、心理学の用語なのじゃ。
 それもまた観念であるがのう。

始めて瞑想して自分の心を観るのは勇気が要るものじゃ。
今まで避けてきた自分の心の苦しみや痛みと向き合うのであるからのう。
その苦を超えなければ心は見えないのじゃ。
強い意志が必要なのじゃ。


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