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鬼和尚の仏教購読会 別館
445
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/06(土) 23:34:51 ID:LC3de7YgO
>>444
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋
日常生活のなかで、自他の思いをいっさい混入することなく、 ものごとに対し
てつねに打てば響くように対処する力をもつなら、 それは環境から生じる光の
循環である。
これが第一の奥義である。
そして、様々なものごとが立ち現れたら、
行為しながら、しかもその行為に同一化してはいけない。
傍観者にとどまりなさい。
何であれ必要なことは打てば響くようにやりなさい。
必要なことはすべてやりつつ、
しかもやり手になってはいけない。
それに巻き込まれてはいけない。
それをやり、それを終わらせてしまいなさい――打てば響くように。
朝早く、世間のしがらみをいっさい断って、一、二時間瞑想することができれ
ば、 さらに、 あらゆる外界の活動と事物に主観をいっさい交えず、 打てば響
くように対処することができれば、 そしてそれを 途切れることなくつつ゛ける
ことができれば、 二、三ヵ月後には天上から真人たちがやって来て、 その行為
を認めてくれるであろう。
主観を交えずに行動しなさい。
状況に留意して、何であれ必要なことをやるがいい。
だが、その行為に執着してしまってはいけない。
そのことを心配してはいけない。
結果を考えてはいけない。
必要なことをただやり、
油断なく目を見張り、
泰然自若として、
遠く離れた中心にとどまり、
そこに根をおろすがいい。
だが、その中心を一日中想起しつつ゛けられるように、
毎日、早朝に、内なる中心に自分を方向つ゛けなさい。
最良の時間は二度ある。
最初のよい時間は早朝だ。
自分自身を中心に方向つ゛ければ、
周辺で暮らしながらも中心を十全に想起したままでいられる。
そして第二の時間はベッドに入る前だ。
再び自分自身を中心に方向つ゛ければ、
深く眠っていても――夢を見たり、無意識になっているあいだですら
――できるかぎり中心の近くにとどまりつつ゛けることができる。
この二つが最良の時間だ。
この二度の時間に瞑想することができれば、どこにも行かなくていい。
僧院や洞窟に入る必要はないし、世間を捨てる必要もない。
そうすればいつの日か、ふと気つ゛くと
花が頭上に降り注ぎ、神々が耳元で
囁いている。
ひとつの魂がわが家に帰り着く瞬間、
全存在がそれを喜び祝う。
スブーティに起こったことはあなたにも起こりうる。
それを熱望しなさい。
それはあなたが生まれながらにもっている権利だ。
その権利をどうどうと主張するがいい。
(p409)
(´・(ェ)・`)
(おわり)
446
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/07(日) 20:45:06 ID:1d4drIFg0
静けさを求めて人の居ない所で瞑想しても、寂しさに耐えられなければ無意味なのじゃ。
それはむしろ常に他人のことばかり考えて瞑想には害になるじゃろう。
それよりは街中の自分の家で瞑想した方がよいのじゃ。
そこでもなにものにも囚われずに瞑想できたならば、悟りはやってくるじゃろう。
447
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/07(日) 22:26:33 ID:LC3de7YgO
>>445
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う
より抜粋
呂祖師は言った。
四つの詩句は、気(エネルギー)の空間に精神を結晶させる。
六月に、突然、白い雪が舞う。
三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
水中にそよ風が吹く。
天上をさすらいながら、受容の精神の力を食べる。
そして、さらに深い秘法のなかの秘法がある――
どこにもない国こそ、真のわが家である。
これらの詩句は神秘に満ちている。
それが意味するのは、深遠なるタオにおいて最も重要なのは 「無為の為」とい
う語句である、ということだ。
無 為 は人が形象(物質性)に巻き込まれるのを防いでくれる。
無 為 に して 為 す ことで、人は鈍くうつろな状態や 生気のない虚無に沈み
込むことから逃れることができる。
これまで光を巡らすことについて語ってきたのは、
外側から内なるものに働きかける、
最初の悟りの手がかりを示すためだ。
これは師を得るのを助けるためのものであり、
初歩の境地にある学人たちに向けられたものだ。
彼らは上方の関門に達するために、下方の二つの関門を通り抜ける。
ものごとが次第に明らかになり、悟りの機縁がうかがわれると、
天は道を明らかにすることを惜しまず、究極の真理を明かしてくれる。
弟子たちよ、これを秘密にし、努力を怠らぬようにせよ。
光を巡らすとは一般的な用語である。
修行が進むごとに、黄金の華はよりいっそう大きく開いてゆく。
だが、それよりもまだすばらしい循環がある。
これまで我々は内側にあるものに外側から働きかけてきたが、
今や中心にとどまって永遠なるものを支配する。
これまでは師を助けるための奉仕だったが、 今や師の指令を広めるのである。
こうして関係はすっかり逆転する。
この技法によってさらに精妙な領域に入って行きたければ、
まず身心を完全に統御し、完全に自由で安らかな状態に入り、
いっさいのしがらみを放下し、どんな些細なことにも心をとめず、
天上のこころを正しく中心に置くよう心がけなければならない。
巡る光が内なるものを照らしだすと、ものに左右されなくなり、 暗いエネル
ギーの動きは封じられ、黄金の華が集中的に照らすようになる。
これが凝縮した極の光である。同類のものは互いに引き合う。
したがって、極性を帯びた深淵の光は上昇する。
それはもはや深淵の光であるだけではなく、 創造的な光が創造的な光に出会う
ことだ。
この二つの実体が出会うと、それらは固く結ばれて離れなくなり、 尽きること
のない生命が発現する。
それはおのずと根元の気(エネルギー)の宮のなかを去来し、浮き沈みをくり返
す。
人は光輝く無限なるものを目のあたりにする。
全身が軽やかになり、今にも飛びそうになる。
「雲が千の山々にかかる」と呼ばれる状態である。
それはあちこちを軽やかに去来し、覚知しえぬほど静かに浮沈する。
脈拍は穏やかになり、呼吸は止まる。
これが真の創造的な交合の瞬間であり、 「月が無数の水面を吸引する」と呼ば
れる状態である。
この暗黒の只なかに、突然、天上のこころが動きはじめる。
これが一陽来復であり、新しい生命
が兆すときである。
ある王に三人の息子があった。
息子たちのうち誰が将来王国を治めるにふさわしいか、適正を調べたいと思っ
た王は、風変わりなテストを思いついた。
王は息子たちに弓と矢をもってついてくるよう命じると、馬に乗って田舎に出
かけていった。
広々とした畑のそばの道端で馬を止めた王は、すぐに射落とせるほど近くの
樹の枝にとまっている禿鷹を指さした。
「おまえにあの禿鷹を射落としてもらいたい」と王は長男に向かって言った。
「だがその前に、何がおまえの目にとまるか言ってごらん」
王子は怪訝な顔をして答えた。
「えーっと、見えるのは草や雲や空や川や樹や……」
「もうよい!」と王は言い、次男に弓矢を構えるよう合図した。
まさに矢が放たれようとしたそのとき、王は再び言った。
「その前に、何がおまえの目にとまるか言ってごらん」
「私には馬、大地、麦畑、それに禿鷹がとまっている朽ち果てた老木が見えます」
と次男は答えた。
「もういい、弓矢を納めなさい」と言って、三男の方を向き、禿鷹を射るように
命じたが、再び同じ質問をくり返した。
「まずおまえには何が見えるかね?」三男は矢をつがえ、弓をぴんと引きしぼ
ると、獲物から一瞬も目を離さずに、落ち着いた口調で答えた。
「見えるのは翼のつけ根だけです……」若者はそう言って矢を放った。
禿鷹は地面にころがり落ちた。
この三番目の息子が王になった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
448
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/07(日) 22:35:04 ID:LC3de7YgO
>>447
四つの詩句
>六月に、突然、白い雪が舞う。
三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
水中にそよ風が吹く。
天上をさすらいながら、受容の精神の力を食べる。
どこにもない国こそ、真のわが家である。
うむ。
この難解な詩句を、じっくり解説してくれるようであります。
楽しみであります。
(´・(∀)・`)つ
449
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/09(火) 00:00:12 ID:1d4drIFg0
六月とは昔の中国の陰暦では真夏なのじゃ。
六月に雪が舞うとは陽気が満ちているところに陰の気があるということなのじゃ。
真夜中に太陽が照らすとは陰の気の中に陽の気があるということなのじゃ。
水は眼であり、眼によって風を起こすとは気を眼の光で導くことなのじゃ。
即ち丹田に眼光を注いで陽気を起こし、眼光で頭頂の上丹田に導くのじゃ。
そうすると陽の気が陰の気に変るから、それをまた丹田に戻すのじゃ。
そうすると頭の中は陽の気で満たされて陰の気が次々に生じて下るのじゃ。
これが陽の気の中に陰があることなのじゃ。
陰の気が次々に下ると丹田は陰の気に満たされて更に陽の気を発する。
これが陰の気の中に陽の気がある状態なのじゃ。
このようにして互いに陰陽の気を強めあう真の回光が起こるのじゃ。
そして意識は気と合致して天地も合一する境地に入るのじゃ。
450
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/09(火) 06:10:44 ID:LC3de7YgO
>>449
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
451
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/09(火) 06:30:29 ID:LC3de7YgO
>>447
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋
王国は集中力をもって働きかけることのできる者が治めるものだが、内なる王
国となればなおさらのことだ。
方向、目標、明晰なヴィジョンをもって生きてゆくことで、あなたのエネルギ
ーは結晶化する。
目標というのはたんなる口実にすぎない。
方向というのはたんなる方便にすぎない。
ふつうあなたの注意力はばらばらに四散していて、ある部分はこちらへ行こう
とし、別の部分はあちらへ行こうとしている。
ふつうあなたは複数であり、 群集であり、あなたの存在の断片が絶えず他の断
片とせめぎ合っている。
そのあなたが どうしてこの世で何かを達成しうるだろう?
どうして充実感を味わうことができるだろう?
あなたの生涯がとことん惨めなものになり、その一生が悲劇に 他ならないもの
になってしまったとしても、驚くべきことではない。
あなた以外の誰にも責任はない。
あなたには無尽蔵のエネルギーがあるが、 そのエネルギーでさえ無駄に費やさ
れることがある。
あなたの断片のひとつひとつが一種の内戦状態にあれば、 価値あることは何ひ
とつ成し遂げられない―― 神に関し
ては言うまでもないし、真理に関しては言うまでもない。
あなたは価値あることを 何 ひ と つ 成し遂げられないだろう。
なぜなら、内側のものであれ外側のものであれ、何かを 実現するためには必ず
ひとつのことが求められるからだ。
つまり、あなたはひとつになっていなければならない―― あなたのエネルギー
が余さずワークに注ぎ込まれ、 あなたの全エネルギーがひとつの問いと化すこ
とができるように。
あなたはたくさんの問いを抱えているが、そのすべての問いが一丸となり、 あ
なたの内にただひとつの問いを生み出さないかぎり、それは役に立たない。
あなたの生がひとつの問いと化し、ひとつの 方向をもてば、それは成就に向け
て動きはじめる。
そうなればそれは結晶化する。
結晶化とは、 あなたがゆっくりとひとつにまとまってゆくこと、 あなたの内側
にすこしずつ<個>が現れてくることを意味している。
そして真理の究極の実現とは、あなたの 実存のなかに究極の統合が実現され
ることだ。
「神」という言葉はそれを指している。
天国のどこかであなたを待っている神などいない。
神はあなたの内側で待っているが、あなたがひとつ であってはじめて彼を見い
だすことができる。
一なるものだけが一なるものを見いだせるからだ。
偉大な神秘家プロティノスの有名な言葉を思い出しなさい
――"一者から一者への飛翔"
まずあなたは独りにならなければいけない。
昨日、私がアムリットに言っていたのはそのことだ。
独りになりなさい、と。
独りアローンとは、 すべてがひとつオール・ワンになることだ。
散逸がいっさいなくなるので、
この独りあること、あるいはすべてがひとつの状態、
この内なる統合は無尽の力を解き放つ。
あなたは漏れなくなる。
凡人というのはあちこちに穴が開き、至るところから漏れている素焼きの瓶かめ
のようなものだ。
いくら水を入れても入れても、どんどんからになってゆく。
いくら努力をしても か い がない。
まず穴をふさがなければならない。
人生は ひ とつ になるための大いなる機会なのだととらえなさい。
いったんひとつの方向に進みはじめたら、 あなたは自分をひとつにまとめるこ
とができる。
あなたのなかで何かが落ち着きはじめる。
中心が生まれ、その中心が神への扉となる。
これらの経文にはこのうえもない価値がある。
それはまたひじょうに神秘的でもある。
というのも、真理を分かち合いはじめるときには、
詩や寓話や神秘の言語を用いなければならないからだ。
そうするより他にない。
数学の言語は適切ではない。
人は譬たとえを多く用いなければならない。
経文に入ってゆくまえに、この小さな話に耳を傾けなさい。
偉大な禅師である南泉はひじょうに歳老いていたが、 法を継ぐ者が現れるのを
待ちつつ゛けていた。
実際、彼には いつでも肉体を離れる用意ができていたが、彼が得たものをすべ
て伝え、 鍵をわたせるように、ただひたすら法を継ぐ者が現れるのを待ちつつ゛
けていた。
彼にはたくさんの弟子たちがいたから、それはとても奇妙に思える。
彼には何千人もの弟子がいた。
なぜ彼は何千人もの弟子たち のひとりに鍵をわたすことができなかったのだろ
う?
(´・(ェ)・`)
(つづく)
452
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/09(火) 22:37:16 ID:1d4drIFg0
>>450
どういたしまして、またおいでなさい。
この回光は実践し続けることで、最後には座っただけで自動的に起こるようになるのじゃ。
陰陽の気が自然に肉体を巡り、肉体からサマーディに入っていくのじゃ。
それを大周天と呼ぶ宗派もあるのじゃ。
もはや意識的な行も必要ではないのじゃ。
453
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/10(水) 01:38:15 ID:LC3de7YgO
>>451
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋
彼のまわりにはすぐれた学者たちがいた――きわめて技量があり、 論理を巧み
に使いこなし、弁舌に優れ、知識が豊かな学者たちが。
だが、彼は待たなければならなかった。
これらの人々は論理は理解できたが、 愛を理解することはできなかった。
そして、 愛はまったく異なる言語を話す。
これらの人々は数学を理解することはできたが、 隠喩メタファーの言葉はまる
で理解することができなかった。
これらの人々は散文を理解することにかけては申し分なかったが、 詩の神秘に
こころを開くことができなかった。
だから彼は待たねばならなかった。
彼は病んだ老躯ろうくを私室のベッドに横たえ、 古びた肉体にかろうじてとど
まっているという状態だった。
法を継ぐ趙州じょうしゅうが部屋に入ってくるのを 南泉がはじめて目にしたの
はその日のことだった。
彼はさっそうと現れ……言葉はひとことも発せられなかった。
師もしゃべらなければ、のちに弟子となる趙州もしゃべらない。
彼はよそものだったが、その部屋に入るときの仕草だけで充分だった。
師は彼に尋ねた。
「おまえはどこから来たのか?」
師はもう何日も口を開いていなかった。高齢の師の病は重かった。
彼はひたすら気力を蓄えておくために、話すことさえしなかった。
何日も過ぎて、彼が趙州に話しかけた最初の言葉が
「おまえはどこから来たのか?」だった。
趙州は言った。
「瑞像ずいぞう院から参りました」。
瑞像とは"至福の姿"という意味だ。
南泉は笑いながら――彼はもう何か月も笑ったことがなかった――尋ねた。
「おまえは至福の姿を見たことがあるかね?」
趙州は言った。
「至福の姿は見たことがありませんが、 横たわる仏は拝見したことがあります」
ここで南泉は立ちあがった――彼はこの一年近く、 床から出たことがなかった
。そこで南泉は立ちあがり、尋ねた。
「おまえにはすでに師があるかね?」
趙州は答えた「ええ、ございます」
南泉は尋ねた。「おまえの師匠は誰だ?」
病気がすっかり消え失せてしまい、再び若返ったかのようだった。
彼の声ははっきりとして、若々しく、溌剌として、生気に満ちていた。
「おまえの師匠は誰だね?」
趙州は笑いながら言った。
「冬の寒さも峠を越えましたが、まだ寒い日がつつ゛きます。 どうか師よ、お
身体を大切になさってください」
まさに絶妙の表現だった。
南泉は言った。
「これで私も安らかに死んでゆける。 私の言葉が通じる者がやってきた。 表
面ではなく深みで出会うことのできる者がやってきた」
趙州は言った。「師よ、お身体を大切になさってください」 ただそう言っただ
けで、師弟の絆が結ばれた。
そして趙州が 「冬の寒さも峠を越えましたが、まだ寒い日がつつ゛きます。
どうか師よ、お身体を大切になさってください」と言うとき、 彼はどのように
譬たとえを使えばいいかを知っている。
彼は詩というものを知っている。そして 彼は愛というものを知っている。
だから 彼は言った。「どうか師よ、お身体を大切になさってください。 どうか
横になってください。床から飛び起きる必要はありません。 あ な た が私の
師です! 私はまだ至福に出会ったことはありませんが、仏を拝見しました」
師は弟子を認め、弟子は師を認めた ――ほんの一瞬のあいだに。
何が起こったのだろう?
起こったことは言葉を超えているが、 それでもそのことを、少なくともその
ことを 言葉で語らなければならない。
少なくともこの物語を 言葉で伝えなければならない。
他に方法はない。
これらの呂祖師の言葉はひじょうに神秘的だ。
深い愛に満ち、共感できるこころハートをもって 理解しようとしてみなさい。
聴き方には二つある。
ひとつは内側で絶えずあら探しをして、とやかく口をはさみ、ものの善し悪し
を決め、 それが自分に合致するかどうか、自分の知識に適合するかどうかを判
定している 批評家の聞き方だ。
批評家は絶えずものを比べて、品定めをしている。
それはこれらの美しい経文を理解するにふさわしい態度ではない。
これらの経文は批評の好きな人の手にはおえない。
これらは共鳴できる力をそなえている人、あるいは、さらに言うなら 感情を分
かち合うことができる人、 波長を合わせることができる人、 こころを開き、全
一に耳を傾けることができる人 にのみ開かれている。
そうすれば肉体の心臓ハート だけでなく、深いところに隠されている 霊的な
こころハートまでもが揺り動かされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
454
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/10(水) 21:25:46 ID:1d4drIFg0
悟った者同士には妙観察智による智慧が在るから互いに一目で分かるものじゃ。
お釈迦様と迦葉の捻華微笑のようにのう。
趙州はまだ悟っていなかったが、決意して修行して既に智慧が付いていたのじゃ。
話す言葉にも含意、隠された意味があったのじゃ。
瑞像院とは南泉の寺なのじゃ。
そこが既に自分の寺というのじゃ。
横たわる如来とは南泉のことなのじゃ。
師匠は南泉じゃと答えたのじゃ。
南泉もそれに気づいて趙州はもはや悟る寸前と知ったのじゃ。
455
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/10(水) 23:18:25 ID:LC3de7YgO
>>453
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋
呂祖師は言った。
四つの詩句は、気(エネルギー)の空間に精神を結晶させる。
あなたにはエネルギーがある、
あなたは必要とするすべてのものをもち合わせている。それなのに
あなたは貧しく、いまだに乞食のままだ。
あなたは自分のエネルギーを使ったことがない、
自分の財宝をまだ開けてみたことがない。
あなたは神から授けられたものに目を向けたことすらない。
あなたは内側を見ずに外に駆けだしてゆくせいで惨めになる。
そして、その惨めさはつつ゛いてゆく。
というのも、あなたを満足させるものは外界には何ひとつ見つからないからだ。
外の世界で何かを見つけた者などひとりもいない。
アレクサンダー大王でさえもだ。
あなたはこの地球をそっくり手中におさめることもできる。
あなたはこの七つの大陸、全世界を支配する天輪聖王チャクラヴァルテインに
なることもできる。
意外に思うだろうが、現代の地理学によれば大陸は六つしかないのに、
古代インドの地理学では大陸は七つあることになっている。
そこにはアトランティス大陸が含まれているにちがいない。
そして七つの大陸すべてを制覇した者は「天輪聖王」と呼ばれている。
たとえ天輪聖王になったとしても、あなたは貧しいままであり、何ひとつ得て
はいない。
それどころか、あなたは多くのものを失っているだろう。
なぜなら、あなたは一生をかけてつまらないもの、世俗的なもの、意味のない
もの、無益なものを求め格闘してきたからだ――そういったものはいつでも死
によって取り去られてしまう。
内なる何かを得ないかぎり、あなたが豊かになることはない。
内なる王国だけが人を豊かにする。
死ですらその豊かさを取り去ることができないからだ。
それが奪い去られることはない。
それが破壊されることはない。
それが取りあげられることはない。
ひとたびそれを知れば、それは永遠にあなたのものになる。
あなたには内なる空間がある。
あなたには内なるエネルギーがある。
すべてのものを手に入れることができる。
あなたはまだそれをのぞき込んだことがないだけだ。
あなたはすばらしいヴィーナを手にしているのに、まだそれに触れたことさえ
ない。
あなたはそのなかにどんな音楽が含まれているのかまだ見たこともない。
あなたはそれをほとんど忘れかけている。
呂祖は言う。四つの詩句は……
たった四つの詩句が
あなたの実存を結晶させ、
あなたの内側に帝王をつくり、
あなたをブッダやキリストやクリシュナ
のような人にすることができる。
この四つの詩句とは何か?
さあ、この四つの隠喩メタファーを理解しようとしてみなさい。
一、六月に、突然、白い雪が舞う。
二、三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
三、水中にそよ風が吹く。
四、天上をさすらいながら、受容の精神の力を食べる。
そして、さらに深い秘法のなかの秘法がある――
どこにもない国こそ、真のわが家である。
さあ、この神秘的な詩句、この秘教的な言辞を解読しようとしてみなさい。
そこには隠された大いなる美と隠された大いなる意味がある。
深く共感するこころをもちなさい。
なぜなら、それが秘教的なものを理解する唯一の方法だからだ。
一、六月に、突然、白い雪が舞う。
六月は一年のちょうど真ん中だ。
それはあらゆるものの真ん中を意味している。
あらゆるものの真ん中にあることができて、けっして極端に偏らなければ、最
初に必要とされる条件を満たしている。
真ん中にありなさい――
これは探求者にとって、実存的な探求の途上にある者にとって計り知れない価
値がある。
いつも真ん中、「中庸」を覚えておきなさい。
食べ過ぎてはいけないし、
完全に食を断ってもいけない――これでもなくあれでもない。
ものに執着し過ぎてもいけないし、ものを捨ててもいけない。
人々とともに暮らしながら、馴れ合い過ぎないこと。
馴れ合い過ぎると、まったく少しも独りでいることができなくなる。
また独りぼっちで暮らしはじめてはいけない。
孤独に病みつきになり、人を避けるようではいけない。
世間にいながら、世間を自分のなかに入らせてはいけない。
世間から逃げだす必要はない。
けっして極端に走らないこと――
これは覚えておくべき最も基本的なことがらだ。
なぜなら、心マインドはつねに一方の極端からもう一方の極端へと動くからだ。
心は極端を通して生きているものであり、真ん中では死んでしまう――これが奥義だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
456
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/11(木) 21:28:31 ID:1d4drIFg0
未だ学問によっても解明できないエネルギーは確かに人の体の中にあるものじゃ。
それが明らかになれば今の医学も根本的に変らなければならないじゃろう。
それは人をサマーディに導くことが出来るエネルギーなのじゃ。
中国では気といい、インドではプラーナというのじゃ。
457
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/11(木) 22:48:48 ID:LC3de7YgO
>>455
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋
食べすぎたあと、何日間か食事を制限する人々がいる。
そして数日間いわゆるダイエットに苦しんだあと、彼らは再びがつがつとむさ
ぼるように食べはじめる。
そしてまた……これは悪循環だ。
彼らはひとつの極端からもうひとつの極端へと動き、もうひとつの極端から再
び元にもどってくる。
行ったり来たり、行ったり来たり、古い時計の振り子のようにどこまでも動
きつつ゛ける。
彼らは振り子の動きによって時計が進んでゆくことを知らない。
時計――これはすばらしい譬たとえだ。
振り子が真ん中にとどまれば、時計は止まる。
心マインドもそうだ――
あなたが極端からもうひとつの極端へ動いていると、
心は存続し、時間は存続する。
心と時間は同義語だ。
あなたが真ん中で止まる瞬間、
時間は消え失せ、時計が止まる。
心は消え失せ、心が止まる。
心も時間も消えてしまったとき、突然、
あなたははじめて自分が誰であるかに気つ゛く。
雲はひとつ残らず消え、広々とした空に太陽が明るく輝いている。
六月に、突然、白い雪が舞う。
そして中国では、この経文が書き記された地方では、毎年六月に初雪が降る。
あなたの実存は冷やされて鎮まる――それが中道だ。
白い雪はいくつかのことを表している。
まず、純白さ、純粋さ、涼しさ、静謐せいひつさ、
すがすがしさ、美、恩寵。
真ん中にいるなら、あなたはみずからの内なる実存がヒマラヤのように、清ら
かな雪に覆われたヒマラヤの頂きのようになってゆくのを見るだろう。
あらゆるものが冷やされて鎮まり、完全な静寂に包まれ、すべてがじつにさわ
やかで、いっさいの汚れが消えている。
汚れは心マインドのものだ。
心がなくなり、思考がなくなれば、不純なものもなくなる。
あなたの実存を汚すのは思考だ。
六月に、突然、白い雪が舞う。
それはにわかに起こる。
ただ真ん中にいるだけで、どこからともなく、忽然と、白い雪が降りはじめる。
試してみるといい。
これは実験だ。
これは理解しなければならない哲学ではなく、試してみるべき実験だ。
何についてもその真ん中にあろうとしてみなさい。
そうすれば大いなる涼しさ、穏やかさ、落ち着きがあなたの内に生まれてくる
のに気つ゛くだろう。
(p423)
三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
こして、これが二つめの譬たとえ――三更(午前零時)だ。
人間には三つの層がある。
ひとつめは肉体ボディ、二つめは心マインド、三つめは魂ソウルだ。
第一の条件を満たしたなら、第二の条件に取り組むことができる。
最初の条件を抜きにして、二番目に取り組むことはできないから、順を追って
進んでゆかねばならない。
途中からはじめるわけにはゆかない。
どこから手をつけてもいいというわけではない。
ものごとには順番というものがある。
まず、あらゆることがらの真ん中を達成しなさい。
そして、心が極端に向かおうとしているかどうか一日中見守りなさい。
極端を避けるようになれば、第二のことがらが可能になる。
極端を避けるようになると、あなたは内側にある三つのもの――
自分の粗雑な部分である肉体、精妙な部分である心、そして彼方のものである
魂に気つ゛くようになる。
肉体と心は物質の二つの側面だ。
肉体は目に見える物質であり、
心は目に見えない物質だ。
そして心と肉体の両方を同時に見るとき、見ているあなたは第三のものだ。
それが三更ザ・サード・ウオッチ――
見張り、観察者、目撃している者だ。
三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
見守ることに専念し、目撃者になりきっていると、 突然、まるで真夜中に太陽
が昇り、まばゆい光を放っている かのように、あなたは内も外も光で満たされ
る。
全存在が燃えあがる。
(p424)
そして三つめの詩句は――
水中にそよ風が吹く。
道家では、水は事物の究極の源を表している。
それはタオそのものを表している。
老子はみずからの道を「流水の道」
と呼んだが、それにはたくさんの理由がある。
まず、水は柔らかく、謙虚であり、最も低い場所を探し求める。
イエスが「この世で一番後になる者が私の王国では最初となり、
最初の者が一番最後になる」と言っているように、水は最も低い場所、くぼみを探し求める。
雨はエベレストに降るかもしれないが、そこにはとどまらず、谷に向かって流れはじめる。
そして谷のなかでも一番深いくぼみにたどり着く。
水はいつも最後にいて、野心をもたない。
水には一番になろうとする野心がない。
そして水になることがサニヤシンになることだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
458
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/12(金) 23:06:59 ID:1d4drIFg0
このような古書は時節の八卦に託して真意を伝えたりするものじゃ。
翻訳されるとわけが分からなく似るのじゃ。
周易参同契にも卦に託して道教の周天等が説かれているのじゃ。
説くところは大体同じなのじゃ。
459
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/12(金) 23:55:51 ID:LC3de7YgO
>>458
確かに、この4つの詩句は、歴史や、古文献の知識がないくまには、OSHOや鬼和尚の解説がなければ、理解不能であります。
OSHOは、かなり自由に解説してるように思えるであります。
(´・(ェ)・`)つ
460
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/13(土) 00:12:45 ID:LC3de7YgO
>>457
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋
水のようになることは、何者でもないものであることに完全な幸せを感じるこ
とだ。
そして第二に、水とは流動に他ならない。
水はつねに流動している。
動きが止まると、水は汚れ、汚水となって、毒すら帯びるようになる。
水は死んでしまう。
水の生命は流動のなかに、生き生きと躍動し、流れることにある。
生命はすべて流れであり、制止しているものはない。
科学者のエディントンはこう言ったと伝えられている――
「『静止』という言葉はまったく意味をなさない。なぜなら、存在しているも
ので静止しているものなど何ひとつないからだ」と。
それは現実に、事実に合致していない。
あらゆるものが成長の、動きの途上にある。
生は巡礼の旅だ。
生においては、名詞は偽りであり、ただ動詞だけが真実だ。
私たちは言語のなかに名詞をつくりだした。
これらの名詞は生に関してひじょうに誤った印象を与える。
それは正しくない。
いつか将来、言語がもっと実存的なものになるときがくれば、名詞は消えて動
詞に置き換えられるだろう―― あ ら ゆ る 名詞が。
川というものはなく、川 と し て 流 れ ゆ く であり、
樹というものはなく、樹 と し て そ び え ゆ く だ。
なぜなら、一瞬といえども樹は静止していないからだ。
それはけっして存在イズネスの状態にはない。
それはつねに生成ビカミングし、流れ、どこかへ向かっている。
<存在>は流動的であり、ゆえに水、"水中"が隠語メタファーになる。
目撃者に気つ゛けば、第三のものが可能になる。
あなたは流れることの美しさに気つ゛くだろう。
安定を渇望したり、現状がいつまでもつつ゛くことを願ったりしなくなる。
あなたは川とともに流れはじめ、
<存在>という川の一部になる。
あなたは変化を楽しむようになる。
人々は変化を心底から恐れ、変化に対して大きな恐怖を抱いている。
ものごとがよい方向に変わってゆくときでさえ、恐れる。
彼らは新しいものを恐れる。
心マインドというものは古いものには実に賢く振る舞えても、
新しいものに出会うと必ず当惑するからだ。
心は新しいものを再びイロハから習わなければならない
――誰が習いたがるだろう?
心は世界をそのまま停止させておきたい。
社会が法を遵守し、古い型を守るのはまさにこの心があるためだ。
世界中で数限りない人々が因襲にとらわれている。なぜだろう?
そこにはかなりの資本が投下されているにちがいない。
これは投資だ――
誰も学びたくはないし、誰も成長したくはないし、
誰も新しいものに慣れ親しみたくはない。
人々はどこまでも古い型を守りつつ゛けようとする。
が、そうなると当然、退屈してくる。
そこで彼らは「どうして退屈なんだろう?どうすれば退屈せずにすむだろう?
」と言う。
彼らは自分たちで退屈をつくりだしておきながら、退屈をつくりだしたそのか
らくりを見ていない。
大勢の人が私のもとにやって来て、自分は退屈していると言う。
「どうすれば退屈から抜け出せるでしょう?」と。
退屈が問題なのではない。
退屈は副産物だ。
問題の奥にあるのは、新しいものを探求する用意ができているか?
冒険に出る用意ができているか?
ということだ。
冒険とは賭けることだ。
それはよくなるかもしれないし、これまで知っていたよりもさらに悪くなるか
もしれない
――それは誰にもわからない。
それに関してはひとつも確実なことは言えない。
生で唯一確かなのは、それが不確かなものであるということだけだ。
人は不確かさより他には何も当てにすることができない。
新しいものは人をひどく不安にさせる。
彼らは古いものにしがみつく。
世界に因襲にとらわれた人々がいるのはそのためだ――
彼らは無用な重荷になっている。
彼らのおかげで世界はよどんでいる――
彼らは古い型を踏襲することにこだわりつつ゛けている。
例えば、インドの歴史はほぼ五千年に達するが、マヌがつくりあげた社会構造
はそのまま残っている。
それは当時は良いものだったかもしれないし、何らかの意義があったにちがい
ないが、五千年が経ったというのにインドにはいまだに不可触賎民がいる。
触れることすら許されない人々がいる。
彼らは人間ではない。
正統派を自認する者たちは彼らの影にさえ触れない。
かつてはそうだった。
今でもいくつかの村では、不可触賎民、スードラが通りを歩くときには「どう
かわきによけてください。そちらに行きますよ」と叫ばなければならない
――というのも、カーストの高い誰かに影が触れると罪になってしまうからだ
。
彼は叩かれ、へたをすると打ち殺される!(´・(ェ)・`)
(つづき)
461
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/13(土) 22:31:02 ID:1d4drIFg0
>>459
そうじゃ、そもそもその詩は四行でもないのじゃ。
かなり意訳されているのじゃ。
無為にして為すという秘訣が欠けているのじゃ。
それだけでオショーならば一章分は説法できたであろうにのう。
日々の精進の果てに全ての思考も捨てて何の計らいもなく、肉体が自らサマーディに入る神秘の法門なのじゃ。
462
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/13(土) 22:56:13 ID:LC3de7YgO
>>460
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋
今でもこの罪を着せられ焼き殺される人々が いるが、この愚劣な社会構造は五
千年も生き延びてきた。
これほど非人間的なのに!
これほど非民主主義的なのに!
インドでは民主主義が成功しそうにないのはこのためだ。
ヒンドゥー教の精神そのもの が民主的ではない。
精神構造のすべて、心理的な条件つ゛けが民主主義に反している のに、どうし
て民主的な国をうまくつくりあげることができるだろう。
民主主義において最も大切な基本は、万人が平等であるということだ。
誰かが誰かよりも価値においてまさるというわけではない――ところが ヒンド
ゥー教徒はそれを受け容れることができない。
事実、スードラ、 不可触賎民は人間として認められていない。
彼は人間ではなく、家畜扱い をされている。
女を人間と見なすことはできない。
女性もまた家畜扱いをされてきた。
さあ、この種の精神――それがどうして民主的になりえよう。
だから民主主義の 名のもとにあるのは混沌以外の何ものでもない。
なぜなら、民主主義の基盤が 存在していないからだ。
だが、この国は五千年にわたりこの社会構造とともに 存続してきて、それを手
放す用意ができていない。
この構造のどこに美点があるのだろう?
美点などどこにもありはしない。
それはただただ醜く、おぞましく、忌まわしく、吐き気をもよおすほどだ!
人々はあまりにも長くそれと暮らしてきたので、もう他のことは何も学びたく
ない ――ただそれだけのことだ。
彼らはそれとともに生きてゆきたい。
彼らはそれが あると安心することができる。
彼らはどんな変化も毛嫌いしている。
いいかね、この傾向は多かれ少なかれどんな人間のなかにもある。
あなたは変わりたくはない。
あなたは変化を恐れている。
なぜなら、変化とともに新たな挑戦が生まれるからだ。
そしてあなたは新しい状況に対処できるかどうか不安に思っている。
古いものならうまく扱えるし、手際よくさばけるから、 古いものに寄り添って
いるほうがましだ。
古いものは意のままに操ることができる。
新しいものはどうなるかわからない。
思い通りになるかもしれないし、 思い通りにはならないかもしれない。
学ぶことができるのは子どもたちだけだ。
子どもたちには何も過去がないので、 しがみつくべき古いものがいっさいな
いので、 いつでも喜々として学ぶことができる。
大きくなればなるほど学ぶことができなくなる。
十三歳位で、人々は学ぶことをやめる。
それが彼らの精神年齢になる。
探求者であるなら、あなたは 絶えず学びつつ゛けなければならない。
生きることは学ぶことだ。
学ぶことはけっして終わらない。
死の瞬間においてすら、 探求者は学びつつ゛ける。
彼は死を学ぶ。
彼はいつでも変わる用意ができている。
水は変化する要素を、永遠の変化を、 流動的な現象を表している。
いつでも変化でき、過去を忘れ、 過去を許すことができ、瞬間とともに進ん
でゆく 用意のある者たちこそが真の人間だ。
なぜなら、彼らは冒険家だからだ。
彼らは生の美を、生の祝福を知っている。
そして生はその神秘をこのような人々に、 こ の よ う な 人 々 に だ け 明
かしてくれる――なぜなら、 彼らはそれに値するからだ、 みずからの手でそれ
を稼ぎ取ったからだ。
賭けることで、彼らはそれを稼ぎ取った。
彼らには勇気がある。
水中にそよ風が吹く。
もしあなたが水のような現象になり、
変化し、絶えず移り変わり、動き、流れ、
けっして過去や古いものにしがみつかず、
いつも新しいものを探し求め、
つねに新しいものを楽しんでいると……
"そよ風"が吹いてくる。
あなたは恩寵に包まれる。
あなたの実存は至福に包まれる。
そうなったら、あなたの内側ではじめて聖なるものが踊りだす……
"そよ風が吹く"とはそのことだ。
神はとてもやさしい。
神はけっしてあなたの扉を叩かない。
神の足音はけっして聞こえない。
訪れるときには、
神は音を立てずに、ひっそりとやって来る。
あなたが水のようになっていないかぎり、
神のそよ風があなたの上に吹いてくることはない。
まず流動的になりなさい。
流動的でありつつ゛けること――これはサニヤシンに対する私のメッセージで
もある。
そして、いいかね。未来は絶えず変化してゆく用意がある者たちのものになる。
なぜなら、今や世界はめまぐるしい速度で変化しているので、
古いものにしがみついている者たちは大きな苦しみを味わうことになるからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
463
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/15(月) 00:45:23 ID:LC3de7YgO
>>462
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋
彼らはこれまで大きな苦しみを味わったことがなかった。
むしろ逆に、進んで変わろうとする者たちのほうがひどい苦しみをなめてきた。
これからは状況が逆さになるだろう。
これからの時代は変化を愛し、喜々として踊りながら変わってゆこうとする者
たち、変化を祝う者たちのものになる。
そして、いつなんどき変化の機会が訪れても、彼らはそれを逃がさない。
未来は彼らとともにあることになる。
歴史は大きな転換をとげ、別の地平を進もうとしている。
「何かが変化しつつあるときには、
けっしてそれを妨げてはいけない」
と私がいつも力説しているのはそのためだ。
恋人との関係が変化しつつあるなら、それを妨げてはいけない。
それを受け入れ、なるようにならせなさい。
別れなければならなくなっても、くよくよしないこと。
執着心があると、いつまでも惨めなままでいなければならない。
変わってゆくものは変わってゆく!
その変化を楽しみ、その新しさを楽しみなさい。
新しいものを受け入れ、歓迎するがいい。
過去をあげつらわずに、 新しいものを受け容れることができるようになれば
、 まもなくあなたはみずからの生が格調の高さ、優美さ、 穏やかな気品を帯び
はじめたことに気つ゛くだろう。
あなたは柔らかな花のようになる。
まさにその瞬間に探求者は踊りはじめる。
まさにその瞬間に祝祭がはじまる。
そしていいかね、イルカやチンパンジーは 遊びを知っているかもしれないが
、 祝うことができるのは人間だけだ。
祭り祝うことはまさに人間的だ。
色々な定義を耳にしたことがあるだろう―― 「人間は理性的な動物である」と
言う者もいれば、また別のことを言う者もいる。
私は「人間は祭り祝う動物である」と言う。
人間が他のすべての動物と袂をわかつのはそこだ。
だが、古いものにしがみついて いたら、どうして祝うことができるだろう?
過去に生き、死んだもののなかで生き、 生があなたに触れるのを許さないな
ら、 あなたは墓のなかで暮らしている。
それは薔薇の茂みが咲き終わり、 しぼんでしまった花に執着し、散った花び
らばかりを集め、 新しい蕾つぼみや新しい花を恐れたり、春を恐れたりしてい
るようなものだ。
これが何百万もの人々、大多数の人々の状況だ
――彼らは咲き終わり、 しぼんでしまった花びらにいつまでも執着し、それを
集めつつ゛けている。
彼らは記憶のなかに生きている……彼らはそれを「郷愁ノスタルジア」 と呼ん
でいるが、愚かなことこのうえもない。
真の人間は郷愁などまったく抱かない。
過去はもうそこにないのだから、 けっしてあとを振り返ることがない。
彼は瞬間に生き、未来に対しては開いたままでいる。
現在は 彼のものであり、その現在ゆえに、 彼は未来を受け容れることができる
ようになってゆく。
彼の窓は風に、雨に、太陽にいつも開かれている。
彼は広場だ。
水中にそよ風が吹く。
人はこの瞬間に到ってはじめて神に気つ゛く。
まず、あなたは中心においてバランスを取りはじめる。
次に、あなたは目撃者、魂に気つ゛くようになる。
そして第三に、あなたは臨在プレゼンスに、ある未知の神秘の臨在に、"そよ風"
に気つ゛きはじめる。
(p431)
そして第四に……
天上をさすらいながら、受容の精神を食べる。
第四の現象はこれだ――
神の臨在に気つ゛きはじめると、
あなたの二元性、あなたの根本的な極性は消えはじめる。
そうなったら、あなたは
男でもないし女でもない、
<陽>でもないし<陰>でもない。
すると突然、
あなたの男が女を食べ、
あなたの女が男を食べる。
この地点で、ヒンドゥー教の
アルダーナリシュバル(両性具有)
という概念が重要な意味をもってくる。
そうなったら、あなたは両方であると同時にいずれでもない。
あなたは肯定と否定の二元性を超越している。
天上をさすらいながら……
だがこれは、あなたがそよ風、霊妙な踊り、神の臨在を知り、
広々とした大空をさすらうようになってはじめて可能になる。
あなたはもはや何にも執着していない。
あなたはもはや地の上を卑屈に這いまわってはいない。
あなたは墓のなかにはいない。
あなたは翼を広げている。
あなたは大空を羽ばたいて、<存在>と<存在>がもたらす
すべての挑戦にいつでも応じることができる――
もはや正統派の考えにとらわれることもなく、
因襲にとらわれることもなく、
社会の規範にとらわれることもない。
あなたは反逆者だ。
そして反逆的な魂だけが
神の臨在を感じるようになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
464
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/15(月) 02:21:54 ID:1d4drIFg0
間違った翻訳でも陰陽が合一するという根本的な主題は正しいのじゃ。
肉体の中にエネルギーがあり、それが陰陽に区別されるというだけでも科学で解明されていない現象なのじゃ。
更にその合一がもたらす変容にはいつの日にか、科学がたどり着けるかどうかもわからんのじゃ。
多くの者に理解不能であるから秘伝とも言えるのじゃ。
465
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/15(月) 07:49:05 ID:LC3de7YgO
>>464
鬼和尚、いつもありがとうであります。
間値がった翻訳はどの部分でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
466
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/15(月) 23:55:49 ID:1d4drIFg0
↑その詩は本来
玉清留下逍遙訣。四字凝神入氣穴。六月俄看白雪飛。三更又見日輪赫。水中吹起藉巽風。天上遊歸食坤德。更有一句玄中玄。無何有鄉是真宅。
と続くのじゃ。
かなり長いのじゃ。
四字とは無為にして為すということなのじゃ。
それによって気は穴に入るというのじゃ。
欲心では入らないのじゃ。
水の中の巽の風なのじゃ。
それは目を持って気を導く事なのじゃ。
更に一句有り玄の中の玄とは陰の中の陰なのじゃ。
一切を捨て切り受容性の極地に入るのが深奥の秘訣なのじゃ。
老子から続く道家の法なのじゃ。
全て詳しく解説すれば本が一冊できるほどなのじゃ。
467
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/16(火) 00:19:03 ID:LC3de7YgO
>>466
おー!
流石であります、鬼和尚!
読み方すらわからぬ、情けないくまであります。
(´・(ェ)・`)つ
468
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/16(火) 00:34:58 ID:LC3de7YgO
>>463
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋
神の臨在――これこそが天国だ!
そうなったら、あなたを完全に結晶化させる
第四の奇蹟が起こり、あなたの二元性は消える。
これが起こるまでは、あなたは奥深くでは分裂している。
あなたが男であれば、あなたはみずからの女性性を抑圧しつつ゛けているし、
また抑圧せざるをえない。
社会はあなたに「自分が男であることを忘れるな」と教える。
もしあなたが声をあげて泣いたなら、誰かがきっとこう言うだろう。
「何をやっているんだ。女だったら声をあげて泣いてもかまわないが、
君は男だろう。だったら泣くんじゃない」
すると即座に涙は止まる。
あなたは涙を抑え、涙をぐっとのみこむ。
あなたは男であり、男らしくしなければならないから、泣いてはいけない。
泣くことができなければ、
どうして笑うことができるだろう?
あなたの笑いは中途半端で生ぬるい。
それは笑いすぎたら緊張がすっかりゆるみ、
抑えていた涙がこぼれはじめるかもしれないという恐れがあるからだ。
この現象を観察したことはないだろうか?
人は笑いすぎると、泣きだしはじめる。なぜだろう?
笑いすぎると、どうして涙があふれてくるのだろう?
笑うということは、あなたが自分を容認しているということだからだ。
容認すれば、あなたはあらゆるものを受け容れてゆく。
ひとつのことだけを認め、あとは認めない
などということはできない。
ひとつのことを抑圧すれば、あなたはありとあらゆるものを抑圧せざるをえな
くなる。
これは覚えておかねばならないとても基本的なことがらだ――
ひとつのことを抑圧すると、それと同じ分だけ自分の全人格を抑圧しなければ
ならなくなる。
泣くことができなければ、あなたは
笑うこともできない。
笑うことができなければ、あなたは
泣くこともできない。
怒ることができなければ、あなたは
慈悲心をもつこともできない。
慈悲深くなることができなければ、あなたは 怒ることもできない。
生はある一定の水準を保っている。
何であれひとつのことを受け容れれば、 生の他のことも同じ分だけ受け容れ
ざるをえなくなる。
あなたにはできないことがひとつある―― 「涙は抑えるけれども、腹の底から笑う」――それは無理な相談だ。
男はもっともっと男らしくなるように教え込まれる。
小さな男の子たち――私たちは彼らの土台を、基本的な バランスを変えようと
し、単極になるよう強要してゆく。
男の子たちを無理やり男に仕立てあげねばならないので、 いくつかのことを禁
じなければならない。
喧嘩をしても、私たちは何もとやかく言いはしない―― 男は命を懸けて闘うも
のだというわけだ。
銃やピストルで殺し合い ごっこをしたり、探偵小説を読んだりしても、私たち
はとがめはしない。
だが、女の子には銃をもたせない。
女の子にはこう言い聞かせる―― 「人形で遊びなさい。お見合いをしたり、お
母さんになったり、お家をつくったり、 ご飯をつくったりするのよ。そういう
ことをして遊びなさい。それがあなたの 人生なの、そうなることになっている
の。だから、準備をするのよ」
女の子は樹に登り、枝から逆さにぶらさがったりしてはいけないと言われる。
私たちはそれをさせない。私たちはこう言う――「おまえは女の子なんだよ。
女の子はこういうことはしないものさ。おまえには似つかわしくないね」。
徐々に徐々に、私たちは極を、一方の極を強調し、他の極を完璧に抑圧してゆ
く。
これが精神分裂症のもとになる。
社会はいまだに人の実存を丸ごと受け容れる ことができないので、誰もが分裂
症にかかっている。
実存するものリアリティに向かって進んでゆくにつれて、 あなたは自分の実存
を丸ごと受け容れなければならなくなる。
あなたは男であると同時に女、 または女であると同時に男だ。
誰も男だけではないし、 誰も女だけではない。
そして、あなたがそのどちらでもある というのはすばらしいことだ。
なぜなら、それによって あなたの人生、あなたの実存は豊かになるからだ。
それは あなたに様々な彩りを加える。
あなたは七色のスペクトル、虹そのものになる。
あなたは単色ではなく、すべての色があなたのものになる。
四つめに、あなたが 神の臨在のなかに入ってゆくようになると、 分裂症は跡
形もなく消え失せる―― 分裂症が消えるにはそうするより他にない。
精神分析は大して役には立たない。
実のところ、それはあなたの極性を強調しつつ゛ける。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
469
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/16(火) 23:14:02 ID:1d4drIFg0
>>467
言葉の意味だけはオショーの説くのと同じなのじゃ。
含意は周天の法の奥義なのじゃ。
例えば初心の者が偶然姿勢を正しくしてサマーディに入れたとしても、数秒から数十分位で終わってしまうのじゃ。
未だ気が足りず、循環もしていないからなのじゃ。
丹田の陽気が大量に生じて頭頂に入り、そこからまた大量の陰気が生じて丹田に戻るという循環が起これば、いつまでもサマーディに入っていられるのじゃ。
それを恐れて思考や分別が起これば、止まってしまうのじゃ。
肉体の陰陽の気の循環と、全てを受容する心構えがあってサマーディは長時間続けることが出来るのじゃ。
その秘訣を伝えた詩なのじゃ。
470
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/17(水) 06:57:26 ID:LC3de7YgO
>>469
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
471
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/17(水) 07:21:24 ID:LC3de7YgO
>>468
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋
心理学はいつか男性優位ではない地点にまで到らなければならない。
さもなければ、心理学の名のもとにいつまでも愚行が演じつつ゛けられてゆく。
ジークムント・フロイトは、女性は男根への羨望を抱いていると言う。
まったくのたわごとだ!彼は男性は乳房への羨望を抱いているとはけっして言
わない。
これは男性指向の考え方だ。
実際、女性はどんな羨望にも苦しんでいない。
むしろ逆に、男が多くの羨望に苦しんでいる。
それは男には子どもが産めないからだ、子どもをつくることができないからだ
。
子どもをつくることができないので、男は その代用として他のたくさんの創造行為を行なう。
詩を書いたり、絵を描いたり、 彫刻をしたり、建築をしたりする。
これらは代用の創造行為だ。
奥深くで彼は ひとつのことを――自分が生命を産みだせないことを知っている
からだ。
そちらのほうがはるかに真実に見えるが、 フロイトはそのことについては一言
も語っていない。
彼は女性はひとり残らず男根への羨望を抱いていると言う。
これはまったくのたわごとだ。
心理学はいまだに男と女という 古びた区分けを手放せないでいる。
人間は男と女の両方だ。
だが、この究極の統合は第四のステージではじめて起こる。
天上をさすらいながら、受容の精神を食べる。
"受容"とは女性性を意味している。
あなたはその対極を食べる。
そして、いいかね、食べるとは吸収するということだ。
「弟子たちはみな人の肉を食べなければならない」
といういにしえの格言があるのはそのためだ――
それは師を食べなければならないからだ。
それを文字通りに受け取ってはいけない。
それは譬たとえにすぎないが、ひじょうに深い意味が込められている。
食べるとは吸収すること、消化することを意味しているからだ。
師はあなたの一部になり、もはや分離してはいない。
イエスが最後の晩餐で弟子たちに別れを告げるとき言っていたのはそのことだ
。
彼はパンを裂いて弟子たちに配り、
「このパンは私だ。それを食べなさい。それは私の肉だ」
と言い、ワインを注いで弟子たちに配り、
「このワインは私だ。それを飲みなさい。これは私の血だ」と言う。
これもやはり譬えだ。彼は弟子たちに言っている。
「人食いになりなさい。師を食べ、師を消化しなさい。そうすれば、あなたと
師のあいだに分離はなくなる」
それはこの第四の言辞についても当てはまる。
あなたは自分のなかのもうひとつの極を食べなければならない。
呂祖は男性の弟子たちに語っていたにちがいない。
なぜなら、いつの時代でも、男たちのほうが冒険心や探究心が旺盛だからだ。
女性のほうがもっと落ち着き、くつろいでいるように見える。
だから、そこにいたのは男性の弟子たちだったにちがいない。
彼は男性の弟子たちに語っていたにちがいない。
だから彼は「みずからの女性を食べなさい」と言っている。
だが、それは女性の弟子たちにも当てはまる。
彼女たちはみずからの男性を食べなければならない。
二元性が消え失せるように、内側でもう ひとつの極を吸収しなければならな
い。
ひとたびこの四つの詩句が成就されたなら、 すべてのなかで最も深遠な秘密が
明かされるだろう。
そして、さらに深い秘法のなかの秘法がある―― どこにもない国こそ、真のわ
が家である。
さあ、ここではじめてあなたは自分が存在していないことに気つ゛く。
だが、自分が存在しないといっても、それはたんなる空虚な状態を意味するも
のではない。
あなたのなかの人格は姿を消すが、臨在が現れてくる。
内側にあった<存在>からの分離感は消え失せるが、全体があなたのなかに宿る
ようになる。
あなたはもはや孤島ではない。
今や自分がどこにいるかをつきとめるすべはない。
それゆえに……
どこにもない国こそ、真のわが家である。
もう自分がどこにいるのか、
自分が誰であるのか言うことはできない
――それこそが真のわが家だ。
この"どこにもない"というのは、実にすばらしい言葉だ。
インドの偉大な神秘家スワミ・ラーマティルタは、
最高裁判所で検事をやっていた友人の話を何度も何度もくり返したものだった。
この友人は完璧な無神論者であり、絶えず神の存在を否定する説を唱えていた
。
彼は筋金入りの無神論者だったので、みんなに注意をうながすために、居間の
壁に誰の目にもわかる大きな文字で「神はどこにもない GOD IS NOWHERE」と書
きつけていた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
472
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/17(水) 08:44:44 ID:LC3de7YgO
>>466
玉清留下逍遥訣
四字凝神入氣穴
六月俄看白雪飛
三更又見日輪赫
水中吹起藉巽風
天上游歸食坤徳
更有一句玄中玄
無何有郷是真宅
玉清は逍遥訣を留め下せり
四字は神を凝らして氣穴に入る
六月に、俄かに白雪の飛ぶを看て
三更に又、日輪の赫たるを見る
水中に吹起し巽風を藉る
天上に游歸し坤徳を食らう
更に一句有り、玄中の玄
無何有郷はこれ真宅なり
↑読み方見つけたであります。
(´・(∀)・`)つ
473
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/17(水) 23:06:04 ID:1d4drIFg0
↑それでよいのじゃ。
気を鍛錬する秘訣でありながら、心を制御することが大事とされているのじゃ。
無為の為によって神気を貯めるのじゃ。
欲心も分別もせずに全てを忘れて丹田に集中するのじゃ。
気が大量に発生して体を通れば、さまざまな現象が起こったりするのじゃ。
体が震えたり、自動的に動いたり、映像が見えたりするのじゃ。
それらに囚われず全てを受け容れる境地が玄の中の玄なのじゃ。
474
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/18(木) 06:51:12 ID:LC3de7YgO
>>471
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋
彼に会いにきたり訪ねてきた者たちはみな、まずこの「神はどこにもない」と
いうこの文字をいやでも目にすることになる。
あなたが「神はある」と言おうものなら、
手ぐすねを引いて待っていた彼がただちにとびかかってくる。
そうこうするうちに子どもが生まれて、子どもは言葉を覚えはじめたが、まだ
まだたどたどしかった。
ある日のこと、父親の膝に坐っていた子どもがその文字を読みはじめた。
「どこにもない NOWHERE」という単語は長すぎて読めなかったので、子どもは
それを二つに分けてこう読んだ――
「神は今ここにいる GOD IS NOW HERE」
NOWHERE は NOW と HERE の二つに分けることができる。
父親は驚いてしまった。
この言葉を書いたのは自分だが、一度もそんな読み方をしたことはなかったか
らだ。
意味がまるで逆さになってしまう……神は今ここにいる。
彼は子どもの目を、その天真爛漫な目をのぞき込み、
はじめて何か神秘的なものを感じた。
はじめて子どもを通して神が話しかけたような気がした。
彼の無神論、生涯をかけた無神論は、
この子どもの言葉ゆえに消え失せてしまった。
そしてラーマティルタは、この友人は息を引き取るときには、
彼が知るかぎり最も敬虔な人物のひとりになっていたと言っている。
が、その変化は子どものちょっとした読み違いで起こった。
子どもは「どこにもない NOWHERE」を一息で読むことができなかった。
この「今ここ NOW-HERE」
と「どこにもない NOWHERE」という言葉はすばらしい。
神が今ここにいることがわかると、
神はどこにもいないことがわかる。
どちらも同じことだ。
神はどこか特定の場所にいるわけではなく、それは確かに真実なので、神はど
こそこにいるという言い方はできない。
居場所をつきとめることはできないし、それを確定することはできない。
ナナークは、
神の居場所を尋ねるのはまるで見当違いであり、
神がいない場所はどこかと尋ねるべきだと言っている。
神があまねく存在しているのであれば、
神は至るところにいると言っても、
神はどこにもいないと言っても大差はない。
神があまねく存在しているのであれば、
ど こ そこ に と言うことには意味がないからだ。
神はある。
どこにもない国とは今ここのことだ。
今が唯一の時間であり、ここが唯一の場所だ。
今ここで神を見いだすことができなければ、
どこへ行っても神を見つけることはできない。
この瞬間、ま さ に こ の 瞬 間 に ……
三つのステップが実現され、
第四のものが達成されたら、
これが起こる。
これは秘法のなかの秘法だ――
神はどこかに腰かけている人物ではない。
神が人物として知られることはけっしてないし、
人物として知られたことも一度もない。
神を人物として認知した人々はみずからの空想にだまされていただけだ。
キリストの姿を見るなら、それはあなたの空想だ。あなたがそれをつくりだし
ている。
クリシュナの姿を見るなら、それはあなたの空想だ。
空想力を培うことはできるし、空想の翼を広げることはできるが、あなたは夢
をつむぎだし、夢を投げかけている。
それはあなたの夢を見る心の働きだ。
真理は人物ではないし、真理は ど こ か に、外にあるものではない。
それは客体として見つかるものではなく、
みずからの目撃しつつある主体だ。
そしてそれは、あなたの男と女が消えて
ひとつになってはじめて実現する。
フランス人が言うように、三つの性別がある――男、女、そして聖職者。
彼らは冗談で言っているのだが、そこにはなかなか深い意味が込められている。
まさに三つの性別がある――男、女、そしてブッダだ。
ブッダは男とも呼べないし女とも呼べない。
いずれかの肉体をもってはいるが――
男の肉体かもしれないし女の肉体かもしれない――
ブッダはもはや自分の肉体に同一化していない。
彼はただ純粋な目撃者だ。
彼は、あなたが彼の肉体から離れているように自分の肉体から離れている。
あなたと彼の肉体とのあいだには距離があるが、 彼とその肉体のあいだにも同
じような距離がある。
あなたは外に立って彼の肉体を見ているが、 彼は内側の深いところに立って自
分の肉体を見ている。
だが、 あなたと彼の肉体のあいだの距離 と、彼とその肉体のあいだの距離は
同じだ。
彼はもはや自分の肉体に同一化していない。
彼は男とも呼べないし女とも呼べない。
彼はただ超越している。
そしてこの彼方なるものが開かれたとき……
どこにもない国こそ、真のわが家である。
あなたはわが家に帰り着いている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
475
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/18(木) 22:26:08 ID:1d4drIFg0
回光して陰陽の気を循環させた肉体は何か人と違うものに変化するのではないのじゃ。
むしろ人間の本来の姿に戻るというのじゃ。
子供に近いからだがその本来の姿なのじゃ。
欲はなくなり、常に快があり、知識は乏しくとも智慧は在るのじゃ。
そのような肉体に戻ることが真宅に還ることなのじゃ。
476
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/18(木) 22:44:11 ID:LC3de7YgO
>>475
うむ。
くま禅病予防のため、熱感として感じられる「気」をコントロールして巡らせていたとき、明らかに精神的な瞑想とは異なり、肉体の実感として容易く感じられるものだったので、
あの先に、そんな世界が広がっているとは、思えなかったであります。
むしろ、集中して座っているとき以外に、日常で、腰や背中、脚などが突然発熱してきたりしてたので、あまり深入りしない方がよいかなと思ってしまったのでありました。
(´・(ェ)・`)つ
477
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/18(木) 23:22:48 ID:LC3de7YgO
>>474
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋
この詩句は神秘に満ちている。
それが意味するのは、深遠なるタオにおいて 最も重要なのは「無為の為」とい
う詩句である、ということだ。
わが家に帰り着いてはじめて「無為の為」
という言葉の究極の意味がわかるよ
うになる。
だが、あなたはまさにその始めから、その方角に向かって進んでゆかなければ
ならない。
そうしてはじめて、いつの日か究極なるものが起こる。
無為の為とは何だろう?
活発に動きまわるのはとても簡単だし、
何もしないでいるのもとても簡単だ。
夜も昼も活動的で、絶えず動きまわり、落ち着きのない人々がいる。
西洋ではそれが起こっている。
人々は過剰なほど活動的になってしまっている。
彼らはほんの一瞬も落ち着いて坐ることができない。
坐り心地のいい、すてきな椅子に坐っているときでさえ、そわそわしながら姿
勢を変えてばかりいる。
彼らは落ち着くことができない。
人生そのものが騒々しい。
彼らはいつも忙しくしているための何かを必要としている。
彼らは忙しく動きまわり、自分自身を狂気に駆り立ててゆく。
東洋の人々はひじょうに消極的で、怠惰になってしまった。
彼らは怠惰のあまり死に瀕している。
彼らは怠惰のせいで貧しい。
彼らは自分たちが貧しいのは世の中のせい、他人のせいだと言わんばかりに、
世界全体を非難しつつ゛けている。
彼らが貧しいのは、彼らが怠け者、完璧な怠け者だからだ。
彼らが貧しいのは、行為が完全に消え失せてしまったからだ
――その彼らがどうして生産的になれるだろう?
どうして豊かになれるだろう?
彼らは搾取されてきたから貧しいのではない。
インドの裕福な人々の有り金をすべて分配したとしても、貧困はなくならない
だろう。
裕福な人々がみな貧乏になることは確かだが、貧乏人が金持ちになることはな
い。
貧困はずっと奥深いところに、無為ゆえにある。
そして一方の極を選ぶのはとても簡単だ。
為すことは男性的であり、無為は女性的だ。
呂祖は「人は無為の為を学ばなければならない」と言う。
人はこの複雑なゲームを学ばなければならない。
人は行為しなければならないが、やり手になってはいけない。
人はあたかも神の道具として働いているかのように行為しなければならない。
人は行為しながら、しかも無我の状態にとどまらなければならない。
行動し、対応しながら、しかも落ち着きを失ってはいけない。
行為を為し終え、適切な対応をすませたら、休息を取ればいい。
働かなければならないときには働き、遊ぶときには遊べばいい。
働き、遊んだら、休息を取り、浜辺で寝ころべばいい。
浜辺で太陽の光を浴びながら寝そべっているときには、
仕事のことは考えないこと――
会社のことを考えてはいけないし、
書類のことを思い浮かべてはいけない。
世間のことはすっかり忘れてしまいなさい。
太陽の光を浴びて、そのなかに身を横たえなさい。
それを楽しむのだ。
これはあなたが無為の為を身につけてはじめて可能になる。
そして会社では何であれやらなければいけないことをやりなさい。
工場でやらなければならないことをすべてやりつつも、
行為しているときでさえ、目撃者でありつつ゛けること。
奥深くでは、ゆったりとくつろいで、完全に
中心が定まり、周辺は車輪のように動いているが、
中心は台風の目のようになっている。
中心では何も動いていない。
これが完全な人間だ。
彼の魂はくつろいでいる。
彼の中心は完全に穏やかだ。
彼の周辺は活動し、世間の千とひとつのことを行なっている。
これが私のサニヤシンの概念だ。
だから私は
「世間を捨ててはいけない、世間にとどまりなさい」と言う。
世間のなかで行為し、やらねばならないことはすべてやりながら、しかも泰然
とし、超然とし、触れられずに、池のなかの蓮のようでありなさい。
無 為 は人が形象(物質性)に巻き込まれるのを防いでくれる。。
みずからの内奥の中核が無為のなかにあることを思い出せば、あなたはだまさ
れることはないし、形やイメージに巻き込まれることはない。
それは物質的なものだ。
あなたは世俗的にはならない。
無 為 に し て 為 す ことで、 人は鈍くうつろな状態や生気のない虚無に沈
み込む ことから逃れることができる。
そしてもうひとつの危険は、ある種の鈍さ、生気のなさ、鈍感さ、否定的な
空虚さ、虚無に退行することがあるということだ。
これもまた避けなければならない。
無為の為がこれを防いでくれる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
478
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/19(金) 22:15:20 ID:1d4drIFg0
>>476
そのような熱感も気を通す時期によくあることじゃ。
ありのままに受け容れる心構えがあれば続けられたじゃろう。
知識もまた必要なのじゃ。
深く学び実践して恐れを超えて進むのじゃ。
479
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/19(金) 23:49:34 ID:LC3de7YgO
>>478
うむ。
確かに、怖れであったのでありましょう。
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
480
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/20(土) 09:10:58 ID:LC3de7YgO
>>477
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋
行為はあなたを積極的にさせ、無為はあなたを消極的にさせておく。
行為はあなたを男性的にさせ、無為はあなたを女性的にさせておく。
両方のバランスが取れたら、それらは互いを打ち消し合って、彼方なるものが
開き、突然、あなたの内にブッダが生まれてくる。
これまで光を巡らすことについて語ってきたのは、 外側から内なるものに働き
かける、 最初の悟りの手がかりを示すためだ。
これは師を得るのを助けるためのものであり……
最初の二つの詩句――六月に、突然、白い雪が舞う
と、次の三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ
――これらは初歩の境地であり、あとの二つの詩句――
水中にそよ風が吹くと、次の天上をさすらいながら、受容の精神の力を食べる
はより高い境地だ。
最初の二つは初歩の境地であり、あなたが師を見いだす助けになる。
師と出会ったときには、この二つの境地を体得していてはじめてその人を師と
認めることができる。
体得していなければ、仏陀のような人に出会ったときも、自分が何を取り逃が
したのかも気つ゛かずに彼の傍らを通り過ぎてしまうかもしれない。
いつかあとになってこの二つの境地を体得したなら、あなたは声をあげて泣き
、後悔するだろう。
ブッダと道ですれ違ったことを思い出すからだ。
そうなったら、「どうして取り逃がしてしまったのだろう」
とひどく悔やむことになる。
最初の二つはあなたが師を見いだす助けになる。
最初の二つの境地は、外側から内側へと働きかけなければならない。
働きかけは外側からはじめなければならない
――今まさにあなたはそこにいるからだ。
そして内側に入ってゆきはじめなければならない。
次の二つの段階では、あなたは師を見いだし、師はあなたを見いだしている。
次の二つは師の指令を実行することにある。
プロセスは逆になる。
今や内なるものが外に働きかけるようになる。
最初の二つの段階では、あなたは修養し、実践し、瞑想していた。
あなたは働きかけ、探し求め、闇のなかを手さぐりしていた。
次の二つの段階では、あなたは師を見いだし、彼の声を聴き、彼の目を見つめ、
彼のハートを感じている。
師の臨在があなたの実存に満ちわたっている。
信頼が湧き起こっている。
今やただ従って、師の指令をひたすら実行すればいい――
これらの指令を実行してゆくことが、あなた自身を実現することになる。
これは……初歩の境地にある学人たちに向けられたものだ。
彼らは上方の関門に達するために、下方の二つの関門を通り抜ける。
ものごとが次第に明らかになり、悟りの機縁がうかがわれると、
天は道を明らかにすることを惜しまず、究極の真理を明かしてくれる。
弟子たちよ、これを秘密にし、努力を怠らぬようにせよ。
最初の二つにはあなたの側の大きな集中的な努力が必要とされる。
あなたは意識的に働きかけ、腰を据えて働きかけなければならない。
それは骨が折れる。
最初の二つの境地が容易でないのは、あなたの目が閉じているから、あなたの
ハートが鼓動していないからだ。
次の二つの境地が易しいのは、今やあなたの目が開いているからだ。
あなたは師の存在を知り、師のメッセージを聞いた。
今やものごとは明らかになった。
今やあなたは見ることができる。
ヒマラヤの頂は遥か遠くにあるかもしれないが、あなたはそれを見ることがで
きる。
まだ千マイルも旅をしなければならないかもしれないが、あなたはそれを見る
ことができる。
遥か遠くからでも陽に照らされたヒマラヤの頂を見ることができる。
あなたはそれがそこにあることを知っている。
今やそれはたんに時間の問題でしかない。
あなたはあの頂と麓を何度も何度も往復したことがある
案内人ガイドがそばにいることを知っている。
今やあなたは耳を傾け、従うことができる。
最初の二つの境地は大きな疑いに包まれている。
人は悪戦苦闘しなければならない。
そこでは道を誤る可能性がひじょうに高い。
些細なことで、実に些細なことで人は道をはずれてしまいかねない。
あとからふりかえってみれば、そのばかばかしさがわかるだろう。
ごく些細な、まったく取るに足りないことなのに、それが妨げになってしまう
ことがある。
探求者は油断なく、しっかりと目を見張っていなければならない。
最初の二つの境地では、ごくごく注意深くあらねばならない。
そうしてはじめて初歩の境地を体得することができる。
初歩の境地を体得すると、高い境地に手が届くようになる。
天は道を明らかにすることを惜しまず……
師を通して、天は<道>を明らかにしはじめる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
481
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/20(土) 22:57:28 ID:1d4drIFg0
少なくともサマーディにまで至るには精神による鍛錬だけでなく、気による鍛錬も有効であることを道教やヨーガは示しているのじゃ。
心の鍛錬が苦手な者とか、行き詰まりを感じている者には福音となる可能性も在るのじゃ。
宗教的な修行であるから、心だけを鍛錬するしかないと思うのは誤りなのじゃ。
気や肉体もまたサマーディへの道となるのじゃ。
482
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/20(土) 23:09:13 ID:LC3de7YgO
>>481
うむ。
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
483
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/20(土) 23:25:53 ID:LC3de7YgO
>>480
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋
天は……究極の真理を明かしてくれる。
弟子たちよ、これを秘密にし、努力を怠らぬようにせよ。
光を巡らすとは一般的な用語である。
修行が進むごとに、黄金の華はよりいっそう大きく開いてゆく。
だが、それよりもまだすばらしい循環がある。
ここまで私たちは自分が取り組み、自分が努力して行なう光の循環について語
ってきた。
だが、行なう必要がなくひとりでに起こる、それよりもさらにすばらしい循環
がある。
それは天からの贈り物、天の恵みだ。
最初の二つの境地を体得すると、あなたの前に師が現れる。
次の二つの境地を体得すると、あなたの前に神が現れる。
そして第五の秘密、秘法のなかの秘法とは、ものごとがひとりでに起こりはじ
めるということだ。
あなたは何もする必要がない。
むしろ、あなたが何かをすればそれは邪魔になる。
今やあらゆるものがみずからの内なる力によって動いている。
タオが、あるいは神が
あなたに乗り移っている。
あなたは乗っ取られている!
あなたは完全に消え失せ、今やあなたのなかには神しかいない。
神が花として咲き、樹として繁るように、
神はあなたのなかで黄金の華となって花を咲かせる。
今や 神のなすがままであり、あなたの出る幕はない。
今やそれは 神の意志であり、あなたの意志は仕事を終えてしまった。
最初の二つの段階では強い意志が求められ、
次の二つの段階では進んで明け渡すことが求められる。
そして四つの境地を体得し終えると、
意志は必要でなくなるし、
明け渡すことも必要でなくなる。
いいかね、明け渡しはまた 意志を落とすためのものでもある。
最初の二つの境地では意志の鍛練をしなければならない。
次の二つの境地ではその意志を落とさなければならない。
それが明渡しだ。
そして明け渡しによって意志が落とされたとき、 究極の秘法のなかの秘法とは
意志でもないし、明け渡しでもない。
やはりここでも意志は男であり、明け渡しは女だ。
第四を超えて行くことで、あなたは 男と女の両方を超えて行く。
意志が去り、明け渡しもまた去ってゆく…… もはやあなたはそこにはいない、
どこを探しても見つからない。
そこには何者でもないもの、 <無>、にゃはんニルヴァーナがある。
そこでタオはみずからの仕事を成就し―― 春が訪れると樹に花が咲き、
雨が降ると雲が湧き、
朝になると太陽が昇り、
夜になると空に星が散りばめられるように
―― いっさいのことがいかなる努力もなしに進行してゆく。
太陽は朝になると何の努力もなしに昇ってくるし、
星は夜になると何の苦労もせずにまたたき、
花は何の奮闘もせずに花を咲かせる。
あなたは究極の自然の一部になっている。
だが、それよりもまだすばらしい循環がある。
これまで我々は内側にあるものに外側から働きかけてきたが、
今や中心にとどまって永遠なるものを支配する。
これまでは師を助けるための奉仕だったが、
今や師の指令を広めるのである。
こうして関係はすっかり逆転する。
この技法によってさらに精妙な領域に入って行きたければ、
まず身心を完全に統御し、完全に自由で安らかな状態に入り、
いっさいのしがらみを放下し、どんな些細なことにも心をとめず、
天上のこころを正しく中心に置くよう心がけなければならない。
巡る光が内なるものを照らしだすと、ものに左右されなくなり、
暗いエネルギーの動きは封じられ、
黄金の華が集中的に照らすようになる。
これが凝縮した極の光である。
同類のものは互いに引き合う。
したがって、極性を帯びた深淵の光は上昇する。
あなたが二つに分けられていたら――
男と女、否定と肯定、闇と光、頭とこころ、思考と感情に分断されていたら、
あなたのエネルギーは下降してゆく。
分断は下降への道だ。
分断されず、ひとつになっていれば、あなたは上昇しはじめる。
ひとつであることは上昇することであり、
二つであることは下降することだ。
二元性は地獄へと到る道であり、非二元性は天国へと到る道だ。
したがって、極性を帯びた深淵の光は上昇する。
それはもはや深淵の光であるだけではなく、 創造的な光が創造的な光に出会う
ことだ。
そしてこの統合があなたの内側で起こるとき、
大いなる創造性が爆発する。
人は自分にどんな可能性が秘められているか
けっしてうかがい知ることができない。
そこには詩人が待ちうけているかもしれないし、
画家が、歌手が、舞踏家が待ちうけているかもしれない。
自分の内側で何が待ちうけているのかけっしてわからない。
あなたの男性と女性が出会い、
潜在能力が解き放たれたとき、それは実現する。
ウパニシャッドはそのようにして生まれた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
484
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/21(日) 23:05:51 ID:1d4drIFg0
>>482
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
陰陽の合一という観念は多くの宗教で何度も現われるものじゃ。
気だけでなく心の性質という面でも語られるのじゃ。
三つのグナのうちサットヴァを除く二つラジャスとタマスも、陰陽と捉えることもできるのじゃ。
サットヴァはその二つが理想的にバランスが取れた時に現われる実践に向いた心境なのじゃ。
485
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/21(日) 23:19:56 ID:LC3de7YgO
>>483
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋
『コーラン』『聖書』、カジュラホ、コナラック、タジ・マハール、アジャン
タ、エローラもそうだ。
このような創造性はどれも、現代人が
いわゆる創造性として知っているものとは完全に異なっている。
ピカソの創造性はタジ・マハールを設計した者とはタイプが異なっている。
タジ・マハールを設計した者――
彼の極性は消え去っていた。
彼はスーフィ―の神秘家だった。
それは彼のヴィジョンであり、深い瞑想から生まれたものだった。
今でも満月の夜にタジ・マハールに瞑想すれば、驚くようなことが起こる――
あなたの内側深くにある何かが上昇しはじめる。
上に向かって動きはじめる。
満月の夜に、一時間ほど、ただそこに坐って、
タジ・マハールを眺めながら深く瞑想するだけで、
あなたの内側の熱が鎮まってくる。
あなたのなかを雪が舞い、
涼しさが、すがすがしさが生まれてくる。
あるいは優れた仏教の神秘家によって
彫られた仏像を見つめていると――
ただ瞑想し、その仏像を眺めていると、
あなたのなかの何かが落ち着いてくる。
ピカソの絵を見つめていると、頭がおかしくなりそうになってくる。
一時間もその絵を見つつ゛けていたら、吐き気をもよおしそうになる。
それは創造性というよりも嘔吐と言ったほうがいい――まるでピカソは
自分の神経症を絵にぶちまけているかのようだ。
おそらく彼の神経症は軽くなっただろう。心理学者もまたそれと同じことを
言っている。
狂人に絵の具とキャンパスを渡して、絵を描くように言う。
絵を描きはじめると、たちまち彼の狂気は軽くなってゆく。
だから、今では絵画を使った心理療法、絵画療法を唱える精神分析の流派があ
る。
そう、それは可能だ。
絵は重荷を解き放ってくれる。
内側で進行していることをキャンパスにぶちまけると、
あなたは楽になる。
胃の調子がおかしく、気分が悪いときには、吐いてしまうと楽になる―― 絵を
描くときに感じる解放感はそれとまったく同じ種類のものだ。
吐いてしまうと楽になるが、吐き出されたもの を見る人たちはどうなるだろ
う?
だが、誰が彼らのことを気つ゛かうだろう。
それに愚かな人々というのはどこにもいるものだ。
これは現代絵画だと言えば ――それはただの嘔吐かもしれないのに――彼らは
それを賞賛する。
彼らは 「批評家がこれは現代アートだと言うのだから、きっとそうなのだろう
」と言ってくれる。
聞いた話だが…… 現代画家の展覧会があった。
人々は絵の前にたたずんで、これはすばらしいとほめ そやしていた。
優れた批評家たちも顔をそろえていたが、彼らも絶賛していた。
すると そこに画家がやって来て、こう言った。
「待ってください!絵がさかさまになってる」
絵が逆さになっていることに誰も気つ゛かなかった。
実際、逆さにかかっていたおかげで、よけい神秘的に見えたのだ。
人々はまったく愚かだ。
何につけても彼らは流行を追い求める。
そんなものは 創造性ではない。
それは神経症、あるいは神経症にむしばまれた創造性だ。
別の種類の創造性があり、 グルジェフはそれを「客観芸術」と呼んでいた。
内なる極性がもはや極性を失い、
内なる分裂が消え、あなたがひとつになったとき、
そのとき創造性が解き放たれる。
そのときあなたは人類にとって 計り知れない助けとなることをやっている。
なぜなら、それはあなたの全体性、 あなたの健康な状態から生まれてきたも
のだからだ。
それは<全体>の歌だ。
それは旧約聖書の「雅歌」のようなものだ――
とほうもない美と、とほうもない輝きを放っている。
同類のものは互いに引き合う。。
あなたがひとつになっていると、
神はあなたに引き寄せられてくる。
一なるものは一なるものに引き寄せられるからだ……
"一者から一者への飛翔"。
あなたは神に向かって飛翔をはじめ、
神はあなたに向かって飛翔をはじめる。
(´・(ェ)・`)つ
(つづく)
486
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/21(日) 23:23:20 ID:LC3de7YgO
>>485
満月の夜にタジ・マハールに瞑想・・・
優れた仏教の神秘家によって彫られた仏像・・・
鬼和尚、みーはーな関心でおはずかしいのでありますが、鬼和尚のおすすめの、国内にある仏像があれば、教えてください。
(´・(ェ)・`)つ
487
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/23(火) 00:09:52 ID:1d4drIFg0
大日如来の像がよいじゃろう。
何処の寺にあるものでもよいのじゃ。
空になった心が味わえるのじゃ。
神仏をイメージすれば今の自分のイメージ以上の智慧と力も発揮できるのじゃ。
488
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/23(火) 00:19:06 ID:LC3de7YgO
>>487
ありがとうであります。
いろいろ行ってみるであります。
(´・(ェ)・`)つ
489
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/23(火) 00:30:40 ID:LC3de7YgO
>>485
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋
それはもはや深淵の光であるだけではなく、 創造的な光が創造的な光に出会う
ことだ。
この二つの実体が出会うと、それらは固く結ばれて 離れなくなり、
尽きることのない生命が発現する。
それはおのずと根元の気(エネルギー)の宮 のなかを去来し、
浮き沈みをくり返す。
あなたの創造性が完全に解き放たれると、
神の創造性があなたのなかに降りてくる。
そしてこの二者の創造力の出会いが起こる。
創造者だけが創造者に出会うことができる。
創造者だけが創造者に出会う力量をそなえている。
そして、この二つの創造力、人間と神の創造力が出会うとき……。
いいかね、そこには二つの出会いがある。
最初の出会いはあなたの内側にいる男と女の出会いであり、
第二の、最終的な出会いは、全一で円満な人間としてのあなた
<全体>との出会い、人間と神との出会い、究極の出会いだ。
それは永遠のものだ。
ひとたびそれが起これば、あなたは死を超える。
それが元にもどることはありえない。
人は光輝く無限なるものを目のあたりにする。
全身が軽やかになり、今にも飛びそうになる。
「雲が千の山々にかかる」と呼ばれる状態である。
今やあなたは千の山々にかかる雲のように無限なるものだ。
それはあちこちを軽やかに去来し、 覚知しえぬほど静かに浮き沈みする。
脈拍は穏やかになり、呼吸は止まる。
これが真の創造的な交合の瞬間であり、
「月が無数の水面を吸引する」と呼ばれる状態である。
この暗黒の只なかに、突然、天上のこころが動きはじめる。
これが一陽来復であり、新しい生命が兆すときである。
そしてそれが起こると、
あなたの内なる創造者と
<全体>の創造者とのこの出会いが起こると、
あなたはこのうえもなく静かに、完全に静かになり、
気配がひそみ、脈拍は穏やかになり、呼吸が止まる。
これが真の創造的な交合の瞬間であり、
「月が無数の水面を吸引する」 と呼ばれる状態である。
満月になればそれがわかる。
海水は月に向かって浮上をはじめ、月に行きたいと願う。
それとまったく同じように、
人間は神に到達したいと願う。
だが、内側にこのうつろな空間を、
内側にこのまったき虚空を生みださないかぎり、
わずかに浮上しては、再び降下することになる。
だが、あなたがひとつの不在――否定的な不在ではなく、
完全に肯定的な不在になることができたら、
月は無数の水面を引き寄せる。
そうなったら、あなたは上昇し、
どこまでも昇りつつ゛け、そして
月との出会いが起こる!
この暗黒の只なかに、突然、天上のこころが動きはじめる。
ふつうの心臓が止まり、
ふつうの脈拍が停止するとき、
あなたははじめてまったく異なる質が生まれてくるのを感じる。
あなたは再び息を吹き返すが、
その息はもはや前と同じものではない。
あなたの脈は再び打ちはじめるが、
それはもはや同じ脈ではない。
今や神があなたのなかに生きている。
今やあなたはそこになく、
ただ神だけが存在している。
私たちがブッダを「バグワン」と呼ぶのはそのためだ。
神が彼のなかで生きはじめる瞬間がやって来た。
人は姿を消してしまった。
人はたんなる中空の竹となり、
そこを神の歌が流れはじめた。
それが究極の目的地だ。
(´・(ェ)・`)
(おわり)
490
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/23(火) 00:33:59 ID:LC3de7YgO
>>489
中空の竹・・・以前講読会で取り上げたマハムドラーの詩にも出てきた表現でありますね。
心を揺さぶる講演でありました。
(´・(ェ)・`)つ
491
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/23(火) 22:14:20 ID:1d4drIFg0
>>488
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
>>490
全てを流れるままにしていればその境地も訪れるのじゃ。
その時、自分とか、自分のものはもはや無いのじゃ。
全ては流れ去り、通り過ぎていくものであることが実感できるのじゃ。
自分がしているということもまたなくなるのじゃ。
それが無為の為なのじゃ。
492
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/23(火) 22:45:25 ID:LC3de7YgO
>>491
> 自分がしているということもまたなくなる
それが無為の為
うむ。
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
493
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/23(火) 23:10:34 ID:LC3de7YgO
>>489
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬
呂祖師は言った。
沈黙が訪れると、一片の思考すら湧き起こらない。
内側を見ている者は、突然、見ていることを忘れてしまう。
このとき、身心は完全に解き放たれてしまうであろう。
いっさいのしがらみは跡形もなく消滅する。
自分の精神の宮と坩堝るつぼがどこにあるのか、もはやわからない。
肉体を確かめたいと思っても、つきとめることができない。
これは「天が大地に浸透する」という状態であり、 すべての霊妙なものが根元
に帰るときだ。
長足の進歩を遂げると、影もこだまもすべて消え去り、 学人は深い静けさのな
かで悠然としている。
これは不可思議なものすべてが根源に帰り、 気(エネルギー)の洞穴に納めら
れたということだ。
場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。
そこは形なき空間であり、そこでは千の場所も万の場所も ひとつの場所に他な
らないからだ。
時間を変えずとも、時間はおのずと変わってゆく。
これは測ることのできない時間であり、 そこでは無限の劫こうも一瞬に他な
らないからだ。
こころというものは、静けさの極点にまで 達しないかぎり、動くことのできな
いものだ。
人が動きを起こしてその動きを忘れるようなら、それは本来の動きではない。
それゆえに外界の事物の刺激を受けて動くのは本性の欲望であり、 外界の事物
の刺激を受けずに動くのは天の動きであると言われる。
だが、思念が起こらないときには、正しい思念が湧いてくる。
それが真の思念だ。
ものごとが静まり、悠然としていると、 天の活動のあらわれが突然動きだす。
これこそ何の意図もない動きではないだろうか?
無為にして為すとは、まさにこれを意味する。
最も深い秘密は、いついかなるときも、 欠かすことのできないものである。
これは こころを洗い、思念を清めることであり、沐浴である。
それは無極にはじまり、再び無極へと帰る。
仏陀は意識を創出する無常なるものを宗教の根本的な真理として語る。
生命と人間の本性を完成させる仕事のすべてが 「虚空を生み出す」という言葉
に含まれている。
すべての宗教は、死から出て生に入るための 霊的な仙薬を見いだすという点で
は目的を同じくする。
この霊的な仙薬はどこに帰するのか?
それはいつも無念無想の境地にあるということだ。
道教で説かれる沐浴、洗い清めるという最も深遠な奥義は、 こころをからっぽ
にする修行につきる。
これですべてのことに片がつく。
ある満月の夜のことだ。
大地は初々しい花嫁のように見えた。
月の光は雨のように降り注ぎ、空も海も
大いなる喜びに包まれていた。
樹々は酔っぱらい、酔いしれ、
陶酔しているかのように風に揺られ、
山頂に雪を抱いた遠くの山々は
深い瞑想のなかにあるブッダのように見えた。
松の老木を吹き抜ける風は清らかな調べをかなで、
舞い踊る天地万物には、もう少しで触れられそう
なほどのしっかりとした手応えがあった。
そして、このような歓喜と祝福に満ちた夜に、
彼方なるものが地上に降りてきた。
希有な女性である千代能が光明を得た。
彼女は再び楽園にもどった。
彼女はわが家に帰り着いた。
時が消え、時の感覚がなくなり、永遠のなかで、
永遠なるものとして生まれるとは
なんという瞬間だろう!
完全に消滅しながら、
しかもはじめて存在するとは
なんという瞬間だろう。
尼僧の千代能は何年にもわたり修行してきたが、
光明を得ることができなかった。
ある夜のこと、彼女は水をなみなみと張った古い手桶を運んでいた。
彼女は歩きながら、桶の水面に映る満月を眺めていた。
と、突然、桶をたばねていた竹のたががはずれ、
桶はばらばらになってしまった。
水はこぼれ、月影は消え去り、
そして千代能は光明を得た。
千代能がいただく桶の底抜けて
水もたまらず月も宿らず
光明は起こるときに起こる。
起こるように命じることはできないし、
それを引き起こすこともできない。
それでも、それを引き起こすために
多くのことを為すことはできるが、
どんな行為も光明を引き起こす原因にはならない。
どんな行為も光明をもたらしはしないが、
光明を受け取れるようみずからを準備することにはなる。
それは訪れるときに訪れる。
あなたの行為はすべて、光明を受け取れるよう、
それが訪れたことを知り、その到来を認識できるよう
準備をすることに他ならない。
それは起こる……
だが、自分に用意ができていなければ
見逃しつつ゛けることになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
494
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/23(火) 23:13:30 ID:LC3de7YgO
>>493
>すべての宗教は、死から出て生に入るための 霊的な仙薬を見いだすという点で
は目的を同じくする。
この霊的な仙薬はどこに帰するのか?
それはいつも無念無想の境地にあるということだ。
道教で説かれる沐浴、洗い清めるという最も深遠な奥義は、 こころをからっぽ
にする修行につきる。
これですべてのことに片がつく。
うむ。
>尼僧の千代能
の話の原典は何でありましょうかうか?
(´・(ェ)・`)つ
495
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/25(木) 02:56:12 ID:LC3de7YgO
>>493
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)
それは刻一刻と起こりつつある。
吐く息、吸う息のひとつひとつが光明をもたらす。
なぜなら、光明とは
<存在>を成り立たせている素材
そのものに他ならないからだ。
だが、それを認識するのはむずかしい。
それがそこにあることに気つ゛くのはむずかしい。
神は存在する。
神の存在は疑いようがない。
問題は、私たちには神が見えない、
見る目がそなわっていないということだ。
瞑想や祈りや浄化はすべて、あなたに
見る力をそなえさせてくれる助けになるにすぎない。
ひとたび見ることができたら、
あなたは驚くだろう―― それはつねにそこにあった。
昼も夜も、年がら年中、
それはあなたの上に降り注いでいたのに、
あなたはそれをとらえることができるほど敏感では なかったし、それに満たさ
れるほどからっぽではなかった。
あなたはあまりにも自我エゴで一杯になっていた。
元をたどるなら、これが 最も基本的なことがらだ―― あなたがいなくなると
、 ただちに光明が起こる。
虚空が現れると、 ことはすべて片つ゛いてしまう。
あなたがいつつ゛けるなら、あなたは 無知のままであり、闇に満たされてい
る。
あ な た が闇だ。
そこに あ な た が い る ことが"魂の闇夜"だ。
あなたがいるとき、 あなたは<存在>から分離している。
それが闇をつくりだしているものだ―― 私と<全体>とのあいだには 溝がある
、隔たりがあるという 思い。
そうなったら私は独りぼっちになる。
そうなったら恐怖に包まれて、苦しみが生まれる。
私はひどく孤独な、ちっぽけな存在であり、 いずれ死がやって来たら、跡形も
なく消されてしまう。
死にあらがって身を守るすべはない。
こうして人は震え、おののきながら生きている。
だが、私たちが 震えや恐怖を引き起こしている。
<存在>から切り離されているというその 思いがそれをつくりだしている。
この分離感を落としたとたん―― 自分は切り離されていない、
けっして切り離されることもないし、 分離など起こりようがない、
自分は全体の一部であり、 元から全体に組み込まれている、
自分は全体のなかにあるし、 全体は自分のなかにある
ということを見た瞬間―― 問題は解消し、永遠に溶け去ってしまう。
死が消え失せ、恐怖が消え失せ、苦悶が消え失せる。
そして恐怖、不安、苦悩に巻き込まれていた エネルギーが一挙に解き放たれる。
その同じエネルギーが魂の祝祭と化す。
光明とは何だろう?
それは本当のあるがままの自分 を見る度量のことだ。
私たちに自我エゴなどというものはない。
自我というのはたんなる思い込みにすぎない。
私たちがそれをつくりだし、それを投影している。
それは私たちの幻想であり、私たちの夢だ。
それは実在せず、現実にはないものだ。
気つ゛きを深め、内側を見つめれば 見つめるほど、自分というものは消えて
ゆく。
気つ゛けば気つ゛くほど、あなたはいなくなる。
そして覚醒がすみずみにまで 行きわたる瞬間、あなたは消え失せる。
もはや水はなく、 水面に映る月影もなく、 あなたの手はからっぽだ。
それはからっぽであり…… ことはすべて片つ゛いている。
それが千代能に起こった。
彼女は長いあいだ修行してきた。
彼女はありとあらゆる瞑想を行ない、 ありとあらゆる技法を修得してきたが、
それでも悟ることができなかった。
それを引き起こすことはできない。
それはあなたを超えている。
あなたに引き起こすことができるなら、それはあなた以下のものだ。
あなたに引き起こせるなら、
それはまたもや 自我エゴの新しい飾りにすぎないものになる。
それを引き起こすことはできない。
それが起こるよう仕向けることはできない。
それが起こるためには、あなたが消えなければならない。
だから世界中の経典を学びつくすこともできる。
あなたは豊かな学識をそなえた知識人にはなるだろうが、
それでも光明を得ないままでいる。
実のところ、知識を蓄えれば蓄えるほど 自我が膨らんでゆくために、
あなたは 前よりもっと光明から離れてゆく。
苦行を積めば積むほど、あなたの自我は膨らんでゆく。
「私はこれをやっているし、あれもやっている。
私はずいぶんたくさんのことをやってきた―― 断食をくり返し、数しれぬほど
礼拝をしてきた」
やればやるほど自分に価値 があると思い、光明に値すると思うようになる。
光明を要求することはできない。
光明が訪れるためには、人は 完全に消えなければならない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
496
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/25(木) 22:35:19 ID:1d4drIFg0
>>494
それは実在した尼僧の話じゃな。
禅宗で修行して桶が抜けたことで観照が起きたのじゃ。
分別や観念が桶であり、月の影が自分なのじゃ。
観念が無ければ自分もなかったと気付いたのじゃ。
絵にもなっているのじゃ。
497
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/25(木) 22:55:19 ID:LC3de7YgO
>>496
鬼和尚、ありがとうであります。
絵画になるくらいでありますから、有名な話なのでありますね。
検索したら、仏光国師語録 という本に記されてるようありますが、
OSHOは本当に博学な菩薩でありますね。
(´・(ェ)・`)つ
498
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/25(木) 23:11:48 ID:LC3de7YgO
>>495
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)
神が訪れるためには、思考 マインドがやまなければならない。
それを「神」と呼ぼうが、「光明」と呼ぼうが―― それは同じものだ。
千代能は長いあいだ修行をしてきたが、 光明を得ることができなかった。
光明は探し求めることによって 見いだせるようなものではなく、 探求がすべ
て無益であることが 明らかになったときに訪れてくる。
そして、いいかね、私は 「探し求めてはいけない」 と言っているのではな
い。
探し求めないかぎり、 探求が無益であることは けっしてわからないからだ
。
私は「瞑想をしてはいけない」 と言っているのではない。
瞑想をしなければ、 するのではなく 向こうから訪れてくる 瞑想がある とい
う理解にはけっして到らない。
瞑想は、たんにあなたの目を洗い清め、もっと見えるようにしてくれるだけだ。
あなたのこころハートは、 もっと敏感に冴え、とぎ澄まされ、 愛に満ち、感
じやすくなる。
あなたの実存は今まで見た ことがないものをとらえはじめる。
あなたはみずからの実存の内にある 新しい空間を探求しはじめる。
新しいことが毎日、刻一刻と起こるようになる。
あなたの瞑想は風呂のようなものだ―― 風呂に入るとすっきりするが、 その
さわやかさは悟りではない。
それはたんに道を整えるだけだ。
あなたが光明に到ることはけっしてない。
それはつねに向こうからやって来る ――光明があなたのもとに到る。
神があなたのもとにやって来れるよう、
神のための道を整えなさい。
神を見いだすことはできない。
できるのは、 神があなたを見つけだしてくれるように、
深く信頼して、待つことだけだ。
千代能もそのようにして取り逃がしていた。
彼女は探求し、探求し、その探求にあまりにも 巻き込まれすぎていた。
だが、この探求もまた 「私は求道者だ」「私は凡人ではない」「私は精神的
だ」「私は宗教的だ」 「私は高潔だ」と言って、あなたのエゴを膨らませる。
もしこの"おまえよりも私のほうが高潔だ" といった態度が生まれてきたら、
あなたは道に迷ってしまう。
それは人生で犯しうる 最大の罪であり、最大のあやまちだ。
他人よりも自分のほうが高潔であり、自分は聖者だが他人は罪人であり、
「見ろ、私の徳の高い人生を」といった思いが浮かんできたら、 有徳の人にな
ってしまったら、あなたは道に迷ってしまう。
なぜなら、この 自分は徳が高いというエゴは もっとも微妙なエゴであり、
落とすのがひじょうにむずかしいからだ。
鉄の鎖を捨てるほうがやさしい。
ダイヤモンドを散りばめた金の鎖を身にまとうことができたら、 それを捨てる
ことはいっそうむずかしくなる。
なぜなら、それは鎖のようには見えず、高価な装飾品のように見えるからだ。
汚い牢屋から脱け出すことはやさしいが、 もしそれが宮殿だったら、誰が脱け
出したいと思うだろう?
脱け出すどころか、なかに入りたいと思うだろう。
罪人のほうが聖人よりも神に近い。
なぜなら、罪人はその境遇から脱け出したいと思っているが、 聖人は得意にな
って自分の幻想にひたっているからだ。
千代能は尼僧だった。彼女は微妙な、自分は正しい ――ものをよく知っている
、高潔な人間だ ――という態度を楽しんでいたにちがいない。
彼女は偉大な出家者だった。彼女はすばらしい美貌に恵まれていたと言う。
あまりに美しいので、ある僧院を訪ねたときには断られてしまった。
こんなに美しい女性を僧院に入れると、僧侶たちが動揺するかもしれないから
だ。
その後、彼女は顔を傷つけてやっと別の僧院に入ることができた。
彼女はすばらしい美人だったにちがいないが、ちょっと考えてごらん…… 彼女
は自分の顔を傷つけて、それを醜くしておきながら、 深いところではこう考え
ていたにちがいない。
「私のみごとな捨て方を見なさい。私はとても美しい女性だった。なのに私は
その顔 を傷つけた……こんなことをした者はかつていなかったし、これからも
いないだろう。 私の捨て方を見なさい。肉体への執着のなさを見なさい。私は
美貌のことなど少しも 気にしていない。私はどんな犠牲を払っても光明を得よ
うと決意している」
こうして彼女は見逃しつつ゛けていた。 だが、ある満月の夜に それは起こった。 それは意表をついて、突然、起こった。
それはいつも不意に起こる。
それはつねに突発的に起こる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
499
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/26(金) 16:02:51 ID:Encevg.s0
>>497
横レス失礼します
「無水無月」というoshoの本で
”あれこれとたくみし桶の底抜けて
水たまらねば月もやどらじ”が紹介されています
千代能以外の禅師の話も色々書かれていておすすめです
500
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/26(金) 22:09:40 ID:1d4drIFg0
>>497
そうじゃ、かなり学んでいるのじゃ。
オショーは既に如来なのじゃ。
菩薩はまだ悟っていない修行者なのじゃ。
>>499
ご苦労さんなのじゃ。
501
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/26(金) 23:07:27 ID:LC3de7YgO
>>499
情報提供、ありがとうであります。
>>500
如来でありましたか。覚者でありますね。
(´・(ェ)・`)つ
502
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/26(金) 23:19:50 ID:LC3de7YgO
>>498
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)
だが私は、 それは他の誰にでも起こりえたと言っているのではない。
それは千代能に起こった。
彼女が為したことはどれもその原因ではないが、 彼女が為したことのすべてが
彼女の内側にあるものを―― 何をやっても失敗に終わる、 人が成功することは
ありえない という理解を生じさせた。
彼女はまったく望みのない 状態に到ったにちがいない。
その絶望は為しうることをすべてやりつくしたときにはじめて感じられるもの
だ。
そしてその絶望が訪れたときに、 はじめて希望が生まれてくる―― その救い
ようのなさのなかで、 自我エゴは大地に叩きつけられ粉々になる。
人はもはや何ものも要求しない。
自我はその絶頂に達して はじめて、その頂点で消えてゆく。
中途半端な自我を落とすことはできない。
それはできない相談だ。
なぜなら、まだ先に望みがあるからだ。
「わからないぞ、もう少し努力すれば、 もう少し修行すれば、もう少し執着
を捨てれば……わかるものか。
まだすべての方角を調べたわけじゃない、まだ望みはある」
とそれはつぶやく。
自我というのはしぶとい。
だが、可能なあらゆる方角をすべて探しつくし、 究めつくしたのに、いつもし
くじってばかりいれば、 失敗につぐ失敗を重ねていれば、いつまで探求し、 探
索することをつつ゛けていられるだろう?
いつの日か探求や探索は落ちてしまう。
だからこのパラドックスを覚えておきなさい―― 光明は探求を落とした者たち
にしか起こらない。
だが、探求を落とすことができるのは誰なのか?
それは充分に深く究めつくした者たちだけだ。
これはパラドックスだ。
これは理解しなければならない大いなる秘密のひとつだ。
それを胸の奥に沈潜させなさい。
片方だけを選ぶ可能性は高い。
「探し求めよ、そうすれば汝は見いだすだろう」と言う者たちがいる。
それは真理の半面にすぎない。
ただ求めるだけで見いだした者はひとりもいない。
また「求めても神が見つからないのなら、そもそもなぜ求めるのか? 待てばよ
い。やがて神の恵みとして起こるだろう」と言う者たちもいる。
そのようなやり方でもけっして起こらない。
あなたがたは何世紀にもわたり、何生にもわたって 待ちつつ゛けてきたが、い
まだにそれは起こっていない―― そのような仕方では起こらないことは それだ
けで充分に明らかだ。
では、 それはどのようにして起こるのだろう?
それは探し求めることをやめた探求者に起こる。
それはもてる力をすべてふり絞って探求したが、 しくじった者、完璧にしくじ
った者に起こる。
その失敗のなかで、 最初の光線が、不意にあなたに射してくる!
救いようのない絶望感にひたっているとき、 光明のことはすべて忘れようと諦
めているとき、 探求がやんで、光明を得たいという欲望さえも なくなってしま
ったとき、突然、それが訪れる ……そしてそれで何もかも片ずいてしまう。
それはそのようにして千代能に起こった。
それはそのようにして仏陀に起こった。
それはいつもそのようにして起こる。
仏陀は六年間にわたって働きかけてきた―― 懸命に働きかけてきた。
思うに、これだけ激しく 働きかけた者は他にはいないだろう。
彼は命じられたことはすべて、 できると耳にしたことはすべて、 どこかで拾
い集めることができたものはすべて やりつくしてしまった。
彼はあらゆるタイプの師のもとを訪ね、 実に厳しい修行を重ね、誠実に、真
面目に取り組んだ。
だが、六年が虚しく過ぎていったある日のこと、仏陀は、 このようにしていて
もそれは起こらない、 働きかければ働きかけるほど、 私というものが強くなっ
てゆく、 という事実に気つ゛いた。
その日、彼はくつろいで、 探し求めることを完全に落とした。
すると、まさにその夜のこと…… その夜もやはり満月だった。
満月と光明には どこかつながりがあるにちがいない。
満月は海に与えるのと同じくらい 深い影響をあなたのこころハートに与える。
満月はあなたを揺り動かし、美や至福へと向かわせる。
それはあなたのなかに何かを……仙薬をつくりだす。
それは人の感受性をひじょうに高めるので、 あなたは今まだかつて見たことが
ないものを 見ることができる。
それは満月の夜のことだった。
仏陀はゆったりとして、完全にくつろぎ、 はじめてぐっすりと眠った――何か
を探し求めて いるとき、どうして眠ることができるだろう?
眠りのなかでも探求はつつ゛き、欲望は夢を紡ぎだしつつ゛けている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
503
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/27(土) 11:10:33 ID:LC3de7YgO
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)
今や、何もかもが失敗に終わってしまった。
彼はこの世間を、王国を、恋愛や人々との関係 の喜びや苦しみを、肉体と心の
苦悩や歓喜を見てきた。
続いて彼は禁欲の修行者、僧侶となり、 たくさんの道に従い、それもまた見
てしまった。
彼はいわゆる世間を味わい、 いわゆる出世間をも味わったが、 いずれも失敗
に終わった。
もはやどこにも行くところはない、 これ以上は一寸たりとも動けない。
欲望はみな消え失せてしまった。
そこまで絶望しきっているとき、 どうして欲望を抱くことができるだろう?
欲望とは希望のことだ。
欲望とは、まだ何かする ことができるということだ。
その夜、仏陀は "為しうることは何もない、いっさい何もない" ということを
知るに到った。
その要点を見るがいい。
そこにはとほうもない美しさがある…… 為しうることは何もない、いっさい
何もない。
彼はくつろいだ。
彼の身体はゆったりとくつろいでいたにちがいない。
彼のこころハートはゆったりとくつろぎ、願望も、未来もなかったにちがいな
い。
この瞬間がすべてだった。
空には満月がかかり、 彼は深い眠りについていた。
そして、朝が来て、目覚めたとき、 彼は通常の眠りから覚めただけではなく、
私たちみなが生きている形而上的な眠りからも 覚めていた。
彼は覚醒をとげた。
彼は弟子たちによくこう言った。
「私は懸命に働きかけたが、成長することができなかった。 そして働きかける
という考えそのものを落としたとき、私は成就した」
私が自分の仕事ワークを「遊び」と呼んでいるのはそのためだ。
あなたがたは矛盾した立場に立たざるをえない。
それが「遊び」という言葉の本当の意味だ。
あなたがたは働きかければ何かが起こる かのように妙に深刻な姿勢で取り組
んでいるが、 それは働きかけることを通しては絶対に起こらない。
それは働きかけることがやみ、 遊び心に満ちた気分が生まれ、 くつろいだ気
分になったときにはじめて起こる…… しかもそれは努力して身につけたくつろ
ぎではなく、 こう理解することで生まれるくつろぎだ――
「何をやっても、"私"をますます強めるだけだ。 何をやっても、自我エゴをま
すます膨らませるだけだ。 自我は障壁なのだから、何をやっても元のもくあみ
だ」
これを見抜くと、行為はかき消えてしまう。
そして行為なくして、どうして 行為の主体が存在できるだろう?
行為が消えれば、その影である 行為の主体も消えてゆく。
そしてあとにはあなたが残される――
<全体>のなかに、この宇宙的な遊戯の 一部として、丸ごと、完全な状態で。
それが光明だ。
これらの経文にはとほうもない価値がある。
それらに瞑想するがいい。
呂祖師は言った。
沈黙が訪れると、一片の思考すら湧き起こらない。
内側を見ている者は、突然、見ていることを忘れてしまう。
沈黙には二つの種類がある。
ひとつは修養して身につけるものであり、
もうひとつは訪れてくるものだ。
修養して身につけた沈黙は抑圧された騒音にすぎない。
黙って坐ることはできるし、長期にわたって坐りつつ゛け、
何か月も何年も訓練をつつ゛けてゆけば、次第に騒音を抑圧できるようになっ
てゆく。
だが、あなたは依然として火山の上に坐っている
――それはいつ噴火するともかぎらない、
ちょっとしたきっかけがあれば充分だ。
それはほんとうの沈黙ではなく、強いられた沈黙にすぎない。
これが世界中で起こっていることだ。
瞑想しようとしている人々、静かになろうとしている人々は、
ただ自分に静けさを強いているだけだ。
強いることはできる。
自分の周囲に何層もの静けさを張りめぐらせることはできるが、
それは自分自身をだますことに他ならない。
そんな皮相なものでは役に立たない。
沈黙があなたの実存そのものから湧き起こってこないかぎり、 外から内側に強
いられたものではなく、 逆に内からやって来たものでないかぎり
――それはやって来る、 内から外に向かって湧きあがってくる、
中心から周辺に向かって湧きあがってくる ……それはまったく異なる現象だ。
呂祖は言っている。
沈黙が訪れると―― いいかね、それはもたらされたものではなく、 強いられ
たものではなく、訪れるものだ――
一片の思考すら湧き起こらない。
そうなったら、あなたは火山の上に坐っているのではない。
私の方法論全体が沈黙を 修養して身につけるのではなく、 内なる騒音を発散
浄化カタルシスして、 それを投げ捨てることにあるのはそのためだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
504
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/27(土) 23:03:54 ID:1d4drIFg0
自ら行うことは自我を起こすことになるから、観照も起こらないのじゃ。
努力し続けて自我も起こり続けてしまうのじゃ。
努力の果てに全ての努力を放棄して、今まで努力していた者に気付くのじゃ。
努力もまた必要であったのじゃ。
それがなければ、放棄して観ることもなかったのじゃ。
505
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/27(土) 23:22:34 ID:LC3de7YgO
>>503
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)
私のもとにはじめてやって来た人々はひじょうに困惑する。
仏教の師のもとにいたことがあるなら、
彼らはヴィパッサナをやり、坐を組み、自分自身に ある決まった姿勢を強いて
いただろう。
なぜ姿勢をくずさないのか?
それは身体をある一定の姿勢に強いてとどめておくことで、 心マインドもひと
つの形に押し込めておくことができるからだ。
肉体ボディと心マインドは連動している。
心は肉体の内なる局面であり、 それは物質的な現象だ。
それはあなたの実存とは何の関係もない。
それは肉体と同じように物質的なので、肉体に何かをすれば、 それは自動的に
心にも反映する。
だからいつの時代にも人々は姿勢を整える訓練を行なってきた――
蓮華坐の姿勢で坐り、仏像のように、石仏のようになるよう肉体に強いる。
身体を微動もさせないでいることができれば、 心がある種の静けさのなかに入
ってゆくのに気つ゛くだろう。
だが、それはまやかしであって、本物ではない。
身体の姿勢によって力つ゛くで静かにさせているだけだ。
試してみるといい――こぶしを握り、顔をしかめ、 歯を噛みしめて、憤怒の姿
勢をとってみるがいい。
そうして憤怒の姿勢をとってみると、 驚いたことに、本当に怒りを覚えはじめ
る。
俳優はそれをやっている――
身体を動かして一定の姿勢をとり、 そこに入りこんでゆくと、やがてその気
になってくる。
二人の偉大な心理学者ジェームズとランゲは、今世紀の初頭に実に奇妙な 理論
を編み出した。
それはジェームズ&ランゲの理論として知られている。
彼らは昔から常識とされてきたことにそぐわない、ひじょうに奇妙なことを言
った。
ふつう私たちは、人は怖くなって逃げだす、恐怖に駆られて走りだすと考えてい
る。
ジェームズとランゲは、それは真実ではないと言った――走るから、恐怖を覚
えるのだと。
馬鹿げて見えるが、そこにはいくらかの真実が含まれている――半面の真理が。
常識にも半面の真理はあったが、これもまた同じ全体のもうひとつの半面を言
ってい。
笑いはじめたら、悲しみが前よりも少し軽くなった感じがする。
冗談を言って 笑っている友人たちのそばに行って坐るだけで、自分の悲しみや
惨めさを忘れてしまう 。
あなたは笑いはじめる。
すると笑いはじめたとたんに、気分がよくなってゆく。
身体からはじめることもできる。
試してみるといい!
悲しみを感じていたら、駆けだしてみるといい。
家の近くを七回ほどまわって、 深呼吸をし、陽光を浴びて、風に吹かれなさ
い。
七回まわったら、立ち止まって、心境の変化がないかどうか 見てみるといい。
いいや、同じであるはずがない。
肉体の変化が心を変えてしまった。
肉体の生化学が心を変えてしまう。
ヨーガの姿勢はそのためにある。
それらはすべて心を一定のパターン に押し込むための姿勢だ。
それは本当の沈黙ではない。
本当の沈黙はひとりでに現れて くる沈黙でなければならない。
私が勧めるのは、肉体に無理強い してはいけないということだ。
それよりも、踊ったり、歌ったり、身体を動かしたり、 走ったり、ジョギング
したり、泳いだりするがいい。
肉体をありとあらゆる仕方で動かしなさい。
そうすれば 心マインドもまたありとあらゆる仕方で動き、そのようにして 内側
をかきまぜることで、発散浄化カタルシスがはじまり、 心は毒を放り出してゆ
く。
大声で怒鳴り、怒り、枕を叩きなさい。
すると驚くようなことが起こる―― 枕を叩いたあとは、気分がすっきりする
。
心のなかにあったものが解き放たれたのだ。
妻や夫を殴るのも、枕を殴るのも大差はない。
枕は、妻や夫を殴るのと同じくらい完璧に役に立つ。
肉体にとっては殴る相手が誰であろうと同じことだからだ。
殴るポーズを取るだけで心は怒りを放出しはじめる。
心と肉体は協調して働いている。
カタルシスからはじめなさい。
そうすれば子ども時代から内側にため込んできた がらくたを一掃することがで
きる。
怒っていたのにそれを外に表すことができなかったのは、 怒れば母親が取り乱
してしまうからだ。
あなたはそれを抑え込んでしまった。
あなたは腹が立ち、怒鳴りたかったが、 そうすることができず、逆に微笑み
を浮かべた。
内側にため込んできた す べ て の も の ――あなたはそれを投げ捨てなけれ
ばならない。
そうして待っていると…… 沈黙があなたのなかに降りてくる。
その沈黙には他にはない美しさがある。
それはまったく別のものだ。
そこには異なる質がある。
そこには異なる深みがある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
506
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/28(日) 23:40:56 ID:1d4drIFg0
これがオショーのダイナミック瞑想なのじゃ。
現代人はストレスを多く抱えているから先ずはストレスを発散させるというのじゃ。
それから沈黙が起こってくるのを待つのじゃ。
そうすればより深く瞑想に入ることが出来るというのじゃ。
507
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/29(月) 00:08:45 ID:LC3de7YgO
>>505
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)
沈黙が訪れると、一片の思考すら湧き起こらない
――思考が起こってこないように抑え込んだわけではない。
見張っていたわけではないし、こちこちに身を固め、 一片の思考がよぎるのも
許さなかったわけではない。
あなたは闘っているのではなく、 手放しの状態になっているのだが、 何ひと
つ湧いてこない。
一片の思考も起こらず、 思考がひとりでに消えてゆくとき ――それは美しい。
そうなったらあなたは完璧に静かであり、 その沈黙はよいものだ。
強いられた沈黙はよいものではない。
内側を見ている者は、突然、見ていることを忘れてしまう。
その体験のなかで、こんなことが起こる――内側を見ている者は、突然、見て
いることを忘れてしまう
これが本当に内側を見るということだ――
内側を見ていることさえ忘れてしまうということが。
内側を見ていることを覚えていたら、それはまたしてもひとつの思考にすぎない。
最初は外界を見ていたし、今度は内界を見ているが、そこには自我エゴがある。
最初は外向的で、今度は内向的だが、そこには自我がある。
最初は樹々を見ていたが、今度は思考を見ている。
最初に見ていたのは客観的なものであり、今見ているのは主観的なものだが、
ことのすべては少しも変わっていない。
あなたは依然として二つに――見る者と見られるものに、観察者と観察される
ものに、主観と客観に分割されている。
二元性がしぶとく残っている。
これは本当の沈黙ではない。
二つのものがあれば葛藤が起こらざるをえないからだ。
二つのものは静かではありえない。
ひとつになると、どんな葛藤も起りえないので、あなたは静かになる。
沈黙を強いるのではなく、それが自然に降りてくるのを許しなさい。
強いられた沈黙は作為的であり、一方的に押しつけたものだ。
これこそ私がここであなたがたとともに、私の人々とともに起こそうとしてい
る大いなる変革のひとつだ。
古い技法はすべて基本的に何かを強いている。
私が理解するところでは、けっして何も強いてはいけない。
むしろ、もち歩いてきたがらくたをすべて放り出すがいい。
もっともっとからっぽになり、もっと広々とした空間をもちなさい。
内側にもう少し空間をつくりだせば、その空間に沈黙が訪れてくる。
自然は真空を嫌うから、がらくたをすべて放り出して、からっぽになることが
できたら、彼方なるものが内側に降りてくるのを目の当たりにするだろう。
舞い踊るエネルギーがあなたのなかに、あなたのすべての細胞のなかに入って
くる。
あなたは言葉もなく、音もない歌、聖なる音楽に満たされる。
この音楽のなかには見ている者がいない。
この音楽のなかには見られている者がいない。
観察する者が観察されるものになっている。
踊り手は踊りそのものになり、あらゆる二元性が消え失せている。
この非二元性こそ真の沈黙に他ならない。
このとき、身心は完全に解き放たれてしまうであろう。
このような瞬間には、手放し状態のままでいなければならない。
姿勢のことなどいっさい忘れてしまいなさい。
やろうとすることはすべて忘れて、何もしようとしてはいけない。
無為の状態にありなさい。
ただゆったりとして、
完全にくつろぎ、何もせずにいる。
くつろげばくつろぐほど、あなたの実存にさらに深い沈黙が浸透してゆけるか
らだ――ただ開いて、感じやすくなり、くつろいでゆくがいい。
いっさいのしがらみは跡形もなく消滅する。
すると驚いたことに、落とそうとしていたのに落とせなかったすべての欲望が、
いつの間にか消え去っている。
世間のしがらみ、頭をわずらわす仕事、そういったあらゆる雑念や行き交う思
考の流れは、もはや跡形もない。
あなたは驚くだろう――
あの連中はみなどこへ行ってしまったのだろう?
と不思議に思うだろう。
あなたは奮闘していたが、努力しているときには、一片の思考ですら追い出す
ことはできない。
やってみるといい。
思考をひとつでも放り出したいと思ったら、あなたは完全に失敗する。
それは放り出せない。
放り出そうとすればするほど、なおいっそう大きな音を立てて自分に跳ねもど
ってくる。
静かに坐って、猿のことを考えないようにしてみるといい。
それは単純な実験だ。一匹だけではなく、猿が次から次へとぞろぞろやって来
て、あなたに百面相を見せてくれる。
追い払おうとすればするほど、猿たちはますます扉を叩いて、「なかに入れて
くれ」と言うだろう。
猿たちはあまり行儀がよくないから、ことわりもせずに、なかに飛び込んでく
るかもしれない。
あなたは猿また猿に取り囲まれる。
忘れようとすればするほど猿はますますたくさん現れる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
508
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/29(月) 22:26:40 ID:1d4drIFg0
観る者と観られる者の二つがある時、それは未だ観念による自己認識があることを示しているのじゃ。
記憶から想起される自分という観念を観ているから二つが在るのじゃ。
記憶からの観念が無ければ、観る者と観られる者の二つは無いのじゃ。
観る者と観られる者が一つであるありようが実現するのじゃ。
509
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/29(月) 23:04:43 ID:LC3de7YgO
>>507
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)
忘れようとすればするほど猿はますますたくさん現れる。
何かを忘れようとしたら、それをますます思い出すことになるからだ。
それは思い出そうとするのと同じだ。
努力をすることで忘れることはできない。
沈黙が降りてくると、突然、いっさいのしがらみが消えてしまう――跡形もなく
消え去る!
後には痕跡すら残らない。
あなたは信じられない、あのすべての騒音は……どこへ行ってしまったのだろ
う?
それがかつて自分のなかにあったことすら信じられない。
それが今なお他人のなかにあることが信じられない。
これは目覚めた人々がみな直面しなければならない基本的な問題のひとつだ。
あなたがたはあらゆる問題を抱えて私のもとにやって来るが、私の苦境がわか
っていない。
私にはまずこのことがわからない――あなたがたはどうしてそんなにたくさん
の問題を抱え込むことができるのだろう?
どうやってそれを抱えつつ゛けているのだろう?
あなたがたは本当に信じられないようなこと、不可能なことをやっている!
なぜなら、私が思考をつかもうとしても、 それはすり抜けていってしまうから
だ。
それはつかめない、それは逃れ去ろうとする。
ところがあなたがたは「思考を止めたいのですが止められません、 その努力に
すっかり疲れ果て、退屈し、うんざりしています」と言う。
あなたがたは本当にみごとな芸当をやっている!
いつの日か沈黙があなたの上に降りてくれば わかるだろう……それは痕跡すら
残さない。
内側に思考が存在していたことすら信じられない。
思考はすっかり消え失せている。
それは影にすぎなかった。
思考は本質的なものではなく、 影にすぎない。
影は消えても跡を残さない。
そもそも 影には実体がないから、その足跡を見いだすことはできない――
あなたがたの思考もそうであり、 あなたがたの想念マインドもそうだ。
自分の精神の宮と坩堝るつぼがどこにあるのか、もはやわからない。
この状態が起こり、内に沈黙が降りてきて、それにおおいつくされると、内を
見ているのか外を見ているのかわからなくなる。
誰が見ている者で、誰が見られている者なのかわからなくなる。
自分の精神の宮と坩堝がどこにあるのか、もはやわからない。
そうなったら自分が誰であるかを言うことはできない。
あなたはそこにいる――
実際、はじめてあなたは存在しているのだが、ではそれはいったい何者なのか
、それは何なのか?
答えはやって来ない。
中国の武帝がボーディダルマに尋ねた……
ボーディダルマは武帝をひどくいらだたせていた。
ボーディダルマは大胆不敵で、歯に衣を着せず、ずばりとものを言う男だった。
武帝は尋ねた。「私はたくさんの善行を積んできたが、天国でどのような報酬
を得られるだろう?」
ボーディダルマは深い軽蔑のまなざしを武帝に向けながら言った。
「報酬だって?あなたは地獄に堕ちるだろう!天国なんてとんでもない」
武帝は言った。「良い行いをしたのに、地獄へ堕ちると言うのかね?
私はたくさん寺を建て、無数の仏像をつくり、無数の仏教僧を養い、寺院を国
費で維持し、仏陀の法ダルマ、その教えを広めるために大いにつくしてきた。
国中の者たちが仏教徒になろうとしている。
人々は瞑想をし、祈りを捧げている。
経典の翻訳も進められ、何千人もの学者が翻訳に取り組んでいる。
なのにあなたは何の報酬も得られないと言うのかね?
私の行為は神聖なものではないと言うのかね?」
するとボーディダルマは言った。
「神聖なものだって?この世には聖なるものなど何もない。聖もなければ、俗
もない。だが、いいかね」と彼はつつ゛けた。
「この自分は徳を積んだ人間だという思いを落とすがいい。この偉業を成し遂
げたという思いを落とすがいい。そうしなければ、無間地獄に堕ちてしまうぞ」
当然、武帝は気分を害し、いらだった……きっと豊かな教養を身につけた文化
人だったにちがいない。そうでなければボーディダルマに乱暴な振る舞いをし
ていただろう。
だが、その彼ですら誘惑には逆らえず、気分を害し、腹を立てながら尋ねた。
「では、私の前に立っているあなたは誰なのか?聖もなく、俗もなく、徳もな
いならば、私の前に立っているのは誰なのか?」
ボーディダルマは笑いながら言った。「私は知らない」
だが、武帝は理解することができなかった。
あなたがたも取り逃がしたかもしれない。
ふつう私たちは、到達した人は自分がだれであるのかを知っていると考える。
だから彼は「自己知識を達成した人」と呼ばれる。
ところがボーディダルマは
「私は知らない」と言う。
これは自己知識の最高峰だ。
これこそが 本 当 の 自己知識だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
510
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/04/30(火) 22:47:57 ID:1d4drIFg0
既に自分が無い者には自分の知識も無いのじゃ。
それが真の無我なのじゃ。
自分の知識があればまだ無我ではないのじゃ。
一切の自己を無くしてありのままにあるのが無我なのじゃ。
511
:
避難民のマジレスさん
:2019/04/30(火) 23:14:05 ID:LC3de7YgO
>>509
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)
人は消えてしまった。
知る者がそこにいるだろうか?
知るということは、知る者と知られるものがあるということだ。
そこにはもはや二元性はない。
知る者がそこにいるだろうか?
そこには沈黙だけが、とほうもない沈黙だけがあり、分割はなく、分かつこと
のできないものがある。
「私は知っている」などとボーディダルマが口にするはずがない。
もし彼が「そうだ、私は自分が永遠の魂であることを知っている」
と言っていたら、この出会いはごくありきたりのものになっていただろう。
おそらくそのほうが武帝は納得しただろうが、ボーディダルマは面目を失って
いただろう。
彼は正直だった。
彼は「私は知らない」と言った。
「私は自分が誰なのか知らない」
と言う者に誰がついて行くだろう?
武帝はこの男について行くことを諦めた。
武帝に理解できないことがわかると、ボーディダルマは言った。
「皇帝ですら私を理解できないとしたら、他の者たちなど当てにはならない」
そこで彼は山に入り、壁に向かって九年間坐りつつ゛けた。
人々がやって来て、「なぜ壁の方ばかりを向いているのですか?」
と尋ねると、彼はこう言ったものだ。
「人々の方を向いても、みんな壁と似たようなものだ。
壁の方を向いているほうがましだ。壁ではない者、感応力と理解力をそなえた
者が来たら、そこではじめてその人に顔を向けるとしよう」
「私は知らない」
という彼の言明には計り知れない美しさと気高さがある。
(p473)
自分の精神の宮と坩堝るつぼがどこにあるのか、もはやわからない。
肉体を確かめたいと思っても、つきとめることができない。
こうして沈黙があなたを覆いつくし、あなたを包み込む瞬間、自分の肉体を確
かめたいと思っても、つきとめることができない。
もう肉体はないとも言えるし、 もはやあなたは分離していないので、 全存在が
あなたの肉体になっている とも言える。
この状況はときとして人を狂気に追い込みかねない。
注意するがいい。
目を開けても肉体が見つからず、
目ではとらえられないといったことが起こっても、 心配してはいけない。
先日の夜、あるサニヤシンが私に尋ねた。
「鏡の前に立っていると、何だかわけがわからなくなってしまいます。
というのも、鏡に映る姿が自分だとは思えないからです」
それは途方に暮れさせる。
鏡をのぞき込むたびにこの問い―― 「これは誰だろう?」という問い が湧き
起こってくるので、彼は最近では鏡を避けている。
「これは私だ」と感じることができない。
さあ、これでは頭がおかしくなっても無理はない。
このために彼はひじょうにかき乱されていた。
だがこれは役に立つしるし、確認のしるしだ。
現によいことが起こっている。
彼は肉体との同一化を解きはじめている。
それはよいことだ。
彼は正しい道の上にいる。
私は彼にできるかぎり鏡をのぞき込むよう、 そして暇を見つけたらいつも鏡の
前に坐って、 鏡に映った肉体を見つめ、「これは私ではない」 と感じつつ゛け
なさいと言った。
「これは私ではない」とくりかえす必要はない。それはまやかしになる。
ただ感じるだけでいい! それは彼にひとりでに起こっているから、問題はな
い。
これは彼の自然な瞑想になるだろう。
それで充分だ。
ゆっくりゆっくり、やがていつか鏡に映る影を 見ることができなくなる瞬間が
やって来る。
そのほうがもっと通常の感覚をかき乱す。
スワパーヴァにそれが起こった。
私は彼にこの瞑想を与えた。
何か月もそれを行なったあと、ある日、 鏡の前に立っていると影が消えてし
まった。
「何が起こっているのだろう?」 と彼は目をこすった。
狂ってしまったのだろうか?
鏡がそこにあり、その鏡の前に 立っているのに、影が消えてしまっている。
そして、その日、彼の存在はすばらしい変容をとげた。
スワパーヴァは今ではすっかり人が変わり、 まったくの別人になっている。
はじめて私のもとにやって来たとき、 彼はエゴの固まり以外の何ものでもな
かった―― しかもインドでいちばん危険なパンジャビ風のエゴだ。
実際、彼はこのパンジャビ風のエゴのために罠にかかっていた。
彼が真理について知りたがっていたので、私は 「君には賭ける用意ができてい
るかね?」と尋ねた。
「君にはすべてを賭ける勇気があるかね?」―― さあ、それは彼のエゴへの挑
戦だった。
彼は「できない」と言うことができなかった、身を引くことができなかった。
彼は「ええ」と言ったが、「何をやれと言われるかわかったものじゃないぞ」
と少し怯えているようだった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
512
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/01(水) 22:05:05 ID:1d4drIFg0
i肉体が自分だと認識している者には肉体の観察が効果を発揮するじゃろう。
観察する者が自分と思えば、観察されるものは他のものとなるのじゃ。
肉体が観察されれば肉体は他のものとなるのじゃ。
そのようにしてエゴもなくなっていくのじゃ。
513
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/01(水) 22:51:52 ID:LC3de7YgO
>>510
>自分の知識も無い
>一切の自己を無くしてありのままにある
とは、自分の記憶をを失うと言う意味ではなく、
記憶にもとづいた思考をしなくなると言う意味でありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ
514
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/01(水) 23:08:41 ID:LC3de7YgO
>>511
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)
だが、彼はジャンプした。
そしてそれが鏡のなかで起こった日 ――彼の影が消えた日―― 彼の奥底深く
にある何かが変化し、動いた。
今や見違えるように変わったスワパーヴァを見ることができる。
彼はひじょうに素直シンプルになり、謙虚になり、 ヴィパッサナ倉庫でもくも
くと働いている。
彼は百万長者の大金持ちだ。
彼は自分が所有している大きな会社の社長であり、 彼のもとで何百人もの人々
が働いていた。
今や彼は一介の労働者のようにアシュラムで働いているが、 これほど幸せだっ
たことは一度もなかったし、 これほど至福に満ちていたことも一度もなかった。
この瞬間があなたにもいつか訪れるかもしれない。
瞑想していると、沈黙が降りてきて、 自分の肉体を見いだすことができなく
なる。
鏡のなかをのぞいても、そこに顔は映っていない。
心配せずに、紛れもない確認のしるしとしてとらえなさい。
何かすばらしいことが起ころうとしている―― あなたの古い自己証明アイデン
ティティが崩れつつある、 あなたの古い自己像が消えつつある。
神があなたをわがものとするまえに、 あなたは完全に消えなければならない。
肉体を確かめたいと思っても、つきとめることができない。
これは「天が大地に浸透する」という状態であり……
自分の肉体を見ることができず、自分の肉体を感じたり、自分の肉体に触れる
ことができないとき――
これが「天が大地に浸透する」と言う状態だ。
楽園が降りてきつつある。
神があなたのもとへやって来つつある。
神はすでに到達している。
神のこころはあなたのハートとともにあり、
神の手はあなたの手に握られている。
あなたが消え失せたのはそのためだ。
部分が全体になったからだ。
すべての霊妙なものが根源に帰るときだ。
今やあなたの生はすみずみまで霊妙な輝きをおびるようになる。
一瞬一瞬が比類のない瞬間となる。
ひとつひとつの体験がすばらしく、えも言われぬものになる。
それからはあなたの生は純粋な詩となる。
それからはあなたはけっして退屈することがない。
生は刻一刻と新たに移り変わってゆくのに、どうして退屈していられるだろう?
人々が退屈しているのは、古びて、生気を失った、鈍重な自我エゴをもち歩い
ているからだ。
彼らが退屈しているのはそのためだ。
自我がなければ、退屈もない。
そうなったら生は喜びだ!
そうなったら起こるひとつひとつのことが神からの贈り物になる。
人は絶えず額つ゛きたい思いにかられ、感謝の念を抱きつつ゛ける……
すべての霊妙なものが根源に帰るときだ。
長足の進歩を遂げると、影もこだまもすべて消え去り……
「神々が谷間にいる」瞬間がやって来る という、呂祖の最初の言葉を覚えてい
るだろう。
あなたは丘の上に坐っており、 全世界が谷間のなかにあるという感じをもつ
。
音が、ひじょうにはっきりと、実にありありと 聞こえてくるが、それは遥か遠
くにあって、 谷に響くこだまのようだ。
今やそのこだまさえも消えてゆく。
すべての影が去ってゆく。
千代能を覚えているだろうか?
彼女はみずからの光明を祝ってこの詩を詠んだ。
千代能がいただく桶の底抜けて
水もたまらず月も宿らず
水面の鏡像、影、こだまはすべて消え去った。
あるがままのものだけが残っている。
そして、そのこのうえもない美しさが。
学人は深い静けさのなかで悠然としている。
これは不可思議なものすべてが根源に帰り、 気(エネルギー)の洞穴に納めら
れたということだ。
外側の生はすみずみまで絶えることのない霊妙な輝きに包まれる。
あなたは浜辺で再び子どもにもどり、風のなかを走り、陽光を浴び、あたかも
ダイヤモンドの鉱脈を見つけたかのように
貝殻やきれいな色石を集めている。
外界の森羅万象のすべてが霊妙な輝きの質をおびる。
では内側では何が起こっているのだろう?
不可思議なものすべてが根源に帰り……
深い洞察のなかでは、外界の霊妙な輝きに合わせて、不可思議なものすべてが
その源に帰る。
不可思議なものとは何だろう?
在ることそれ自体が最大の奇蹟だ――ただ在ることが。
それを感じるのに金持ちである必要はない。
それを感じるのに教育を受ける必要はない。
それを感じるのに有名になる必要はない。
ただ在ること……。
あなたが在ることそのものが最大の奇蹟、最大の神秘だ。
なぜあなたは存在しているのだろう?
理由はない。
あなたはそれを稼ぎ取ったわけではないし、それを求めたことすらない。
それはただ起こっている。
だから外界には霊妙な輝きがあり、内側には不可思議な世界がある。
光明を得ている人はそのようにして生きている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
515
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/02(木) 22:11:56 ID:1d4drIFg0
>>513
記憶に基づいた認識をしなくなるのじゃ。
それが本来の認識なのじゃ。
それができれば刹那毎に新しく今ここにある真の実在が知覚できるのじゃ。
そこにはもはや知覚する者とされる者の区別も無いのじゃ。
516
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/02(木) 22:45:33 ID:LC3de7YgO
>>514
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)
そして、今やこういったことが起こりはじめる。
場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。
もうヒマラヤに行く必要はない、
街の雑踏マーケットプレイスを捨て去る必要はない。
あなたは人で賑わう街にとどまることができるが、もはやその場所は前と同じ
ではない――
場所そのものが変容してしまう。
街の雑踏さえもがとても美しく、それと比べればヒマラヤなど取るに足りない。
ありふれた現実がこの世のものとは思えない美でみなぎるようになる。
毎日そばを通りながら一度も目にとめたことがなく、気にもとめなかった樹が
、突然、弾けたように花を咲かせ、あなたの意識に花とかぐわしい香りを浴び
せかける。
生はありとあらゆる色にあふれ、極彩色になり、ものごとはひとりでに変わり
はじめる……
それはひとえにあなたがこの内なる静けさ、この無我の状態に到ったからだ。
場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。
私が「私のサニヤシンは世間を離れてはいけない」といつもくり返し強調する
のはそのためだ。
これを光明を得たかどうかを判別する基準にするがいい――あなたが光明を得
たら、世界はおのずと姿を変える、それは変わらざるをえない。
それに世間から逃げたとしても、どこにも行くあてはない。
どこへ行っても、あなたは再び同じ世界をつくりあげる。
それをつくりだす青写真があなたの内側にあるからだ。
この女のせいで厄介なこと――子どもや、家や、責任――が生じてくるのだと
考えて、その女性と別れることもできる。
その女性やかわいそうな子どもを置いて、逃げだすこともできる――
これまで多くの男たちがそれをやってきた。
だが、あなたはかつてこの女性に恋をしたのだ。
あなたの内側にはまたしても恋に落ちる可能性がある。
遅かれ早かれ――おそらくは早いうちに――もうひとつの家庭をもち、別の男
や別の女ができ、子どもが生まれ、責任が生じてくる。
生をそうたやすく、そう手軽に変えることはできない。
あなたはたんにまわりの環境を変えるだけで、奥深くでは青写真をもち歩いて
いる。
まわりの環境は青写真によってつくられる。
青写真が再びそれをつくりだす。
それは種子に似ている。
あなたは樹を倒したが、種子をもち歩いている。
種子が再び地面に落ちると、樹がまた必ず生えてくる。
種子を焼いてしまわなければならない。
そうなったら、どこにいてもこの奇蹟が感じられるようになる。
場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。
この世界そのものが楽園になり、
この世界そのものがにゃはんニルヴァーナになり、
この肉体そのものが仏陀の身体になる。
そこは形なき空間であり、そこでは 千の場所も万の場所も ひとつの場所に他な
らないからだ。
時間を変えずとも、時間はおのずと変わってゆく。
これは測ることのできない時間であり、そこでは 無限の劫こうも一瞬に他なら
ないからだ。
何にも手を加える必要はない。
そしてこの二つが世界を構成している要素だ。
見るがいい、呂祖が言っていることは、今や現代の物理学によって完全に裏
つ゛けられている。
アルバート・アインシュタインは、世界はたった二つのもの、時間と空間から成り立っていると言う。
実のところ、それらは二つではなくひとつのものであるから、新しい言葉をつ
くりださねばならない。
彼はそれを「時間と空間」と呼ばずに「時空」と呼ぶ。
時間と言うのは空間の第四の次元であり、二つの 言葉のあいだにはハイフンさ
えいらない。
空間を変えなくてもいいし、時間を変えなくてもいい。
それらはひとりでに変化してゆく。
た だ 自 分 自 身 を 変 え さ え す れ ば い い 。
ハートに変化が起これば、全存在が変化する。
天国はどこか別の場所にあるわけではないし、 地獄もどこか別の場所にあるわ
けではない。
それはあなたの内側にある、 どちらもあなたの内側にある。
あなたがそれらをつくりだす。
だが、人々は愚かなことをやりつつ゛けている。
先日ある人が手紙を寄こした――「どうしたことでしょう?……」彼は妻を四
度 変えていた。
これが四度目の結婚であり、その女性は彼にとって一緒に暮らす 四人目の女性
だった。
そして今、彼は「いつもどうしてこうなるんでしょう?
最初はすべてがすばらしく見えるのですが、半年も経たないうちにまた 同じよ
うにだめになってしまうんです」と言っている。
いつもまったく同じことがくり返されるのは、 あなたが前と少しも変わってい
ないからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
517
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/03(金) 12:21:09 ID:LC3de7YgO
>>516
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬
そしてことは入り組んでいる。
例えば、あなたは妻にうんざりしている―― 心マインドはつねに新しいものを
、感情を煽る 、何か新しいものをしきりに欲しがっている。
あなたはその女性を知ってしまった。
彼女の地形をすみずみまで知りつくしてしまった。
今や 彼女の地理に精通してしまい、もうこれ以上探検の余地は残されていない。
あなたは別の女性に関心を寄せるようになる。
別の女性に関心を寄せはじめる と、妻はますますもめごとをつくりだすように
なる。
あなたが彼女にではなく 別の誰かに関心を寄せているのに気つ゛くと、嫉妬が
生まれてくる。
彼女はたくさんのもめごとを引き起こす。
小言を言うようになり、意地悪になって ゆく。
彼女ががみがみ言えば言うほど、あなたはますます彼女がいやになってゆく。
さあ、この悪循環を見るがいい。
彼女はあなたがそばにいて欲しいのだが、やることなすことすべてがあなたを
遠ざけて しまう。
彼女はますます所有欲をつのらせ、いちだんと嫉妬深くなってゆき、家庭生活
を営むことは不可能になってゆく。
それは地獄になってしまう。
あなたはできるかぎり彼女を避けるようになる。
夜遅くまで会社で働き、仕事が なくても会社に居座りつつ゛けるようになる。
家に帰ればいやでも妻と顔を合わせる ことになり、また同じ苦しみを味わうこ
とになるからだ。
そして彼女が本当に求めているものは何だろう?
あなたにそばにいて欲しいのだ。
ところが彼女はその逆の ことばかりやって、あなたを追い払おうとしている。
そして邪魔者扱いにされればされるほど、別の女性がさらに美しく魅力的に見
えてくる 。
別の女性が魅力的で美しく見えるようになればなるほど、ますますその女性と
一緒に いたくなるし、その女性もあなたともっと一緒にいたくなる。
そしてやがて彼女は 「私と一緒にいたいのなら、あの女ひとと別れてね」と言
いはじめる。
妻と別れたとたん、その男が自分のなかに見いだしていた 美しさが消え失せて
しまうことに、その女性は気つ゛いていない。
男がその女性のなかに見ている美しさの 九割はもうひとりの女性に負うてい
る。
その女性は男の妻を敵と見なしているが、そうではない。
実は彼は、あの妻のおかげで恋に落ちてくれたのだ。
こういったことは無意識のうちに行なわれる。
それを見るがいい!
見なければ、それはいつまでも作用しつつ゛ける。
相手の女性はとても幸福になる。
彼女が幸福になればなるほど、あなたはもっと彼女の そばにいたくなるし、そ
れにつれて、いままでの女のほうはますます醜く見えてくる。
じきにあなたはこの女性と永遠に暮らしたいと思うようになる。
あなたはいままでの 女と別れて、この女性と暮らしはじめる。
それまでの女と別れたその日、まわりの状況はすっかり変わってしまう。
今やこの新 しい女性と一緒にいても、それほど美しく見えないし、それほど魅
力的にはみえない。
あなたを不愉快にさせる者がいないので、催眠状態がだんだん解けてゆく。
半年も経たないうちに催眠は解けてしまう――この女性も前の女性と変わらな
い。
もう 地理の調査は終わり、ことは片つ゛いてしまった。
だが、女性には何が起こったのか わからない――「この人はとっても愛してく
れていたのに、どうなったのかしら?」
彼女は自分でそれを壊してしまった。
そしてこの男も何が起こったのかわからない――
「この女性はあんなにすばらしく見えたのに、ごく平凡な女だった」
またしても動きが、同じ動きが、無意識の奥に潜む同じ種子による 悪循環がは
じまり、彼は別の誰かに恋をしはじめる。
人々は無意識のうちに恋に落ちて、無意識のうちに恋から覚める。
彼らは次から次へと相手を変えてゆくが、自分自身を変えることはない。
彼らは外側を変えつつ゛けるが、自分は同じままだ。
あなたは変えてゆくこともできる――幾多の生涯にわたって、 あなたはそれを
やり、同じことをくり返してきた。
それはとめどない悪循環になっている。 それは車輪だ。
同じスポークが 上がって来ては下がり、 また上がって来ては下がる。
それはまわりつつ゛ける車輪であり、 あなたはその車輪のなかにとらえられ
ている。
醒めなさい。 場所を変える必要はないし、 時間を変える必要はない。
外側のものは何ひとつ変える必要がない。
外界はこれ以上は望めないほど完璧だ。
やらなければならないことはただひとつ―― もっと意識的になり、 もっと油
断なく目を見張り、 もっと注意深く気つ゛き、 もっとからっぽになること。
そうすれば外界に投影するものは何もなくなる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
518
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/03(金) 22:42:09 ID:1d4drIFg0
お釈迦様も全てのものごとは心から作られるといっているのじゃ。
心の中の反応が自らの環境に投射されるのじゃ。
心が乱れていれば、周りも乱れていると感じるのじゃ。
それは外の環境が悪いのではなく、自らの心が原因なのじゃ。
519
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/03(金) 23:45:13 ID:LC3de7YgO
>>517
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)
内側にある種子をすべて焼きつくさなければならない。
内側にある青写真をすべて焼きつくさなければならない。
その青写真を焼き、種子を焼き、 内側にあるものをすべて放り出して、 ただ
からっぽになっていると、彼方から 何かがあなたのなかに入ってくる。
楽園が地上に浸透してくる。 それが変容の瞬間だ。
この変化とともに、全存在が一変してしまう。
女性も、子どもも、人々も、会社も、騒々しい街中も、 すべては元のままだが、もはや前と同じではない。
それはあなたがすっかり変わってしまったからだ。
これが正しい変容の道だ―― けっして外側からはじめてはいけない。
内側からはじめなさい。
こころというものは、静けさの極点にまで達しないかぎり、動くことのできな
いものだ。
人が動きを起こしてその動きを忘れるようなら、それは本来の動きではない。
それゆえに外界の事物の刺激を受けて動くのは本性の欲望であり、 外界の事物
の刺激を受けずに動くのは天の動きであると言われる。
いいかね、天の動きに身をゆだね、神があなたを動かすままにさせることだ。
<全一なるもの>に明け渡しなさい。
そうでないと、あなたは状況に反応しつつ゛け、状況はあなたとその意識に作
用しつつ゛けるだけで、あなた自身には何の変化も起こらない。
相手の男や女を変えることはできるし、仕事を変えることはできるし、家を変
えることはできる。
ものをどんどん変えつつ゛けることはできるが、本当には何ひとつ変わってい
ない。
<全体>があなたをわしつ゛かみにし、あなたのハートがもはや外界の事物に動
かされなくなり、実存の内奥の中核――それを「神」「天」「タオ」と呼んで
もいい――によって動かされるようにならないかぎり……。
あなたがそれを動かすのではなく、あなたが<全一なるもの>の手にするただの
道具となっているとき、それこそまさに「汝の王国は来たり、汝のわざはなさ
れた」という言葉でイエスが言わんとしていることだ。
イエスはそのような言い方をした。
同じ真理をユダヤ流の表現で言い表した。
天の動きに身をゆだねよ――これは中国の言い表し方だ。
だが、思念が起こらないときには、正しい思念が湧いてくる。
これは奇蹟だ――
思いが微塵みじんも湧いてこないときには、
何をやっても正しい行ないになる。
何が正しく何が間違っているかを判別するということではない。
思考マインドが静まり、こころハートが神によって動かされるとき、起こるこ
とはすべて的を射ている。
正しいことをすれば聖人になるというのではない。
あなたが聖人であれば、あなたが為すことはすべて正しいものになる。
正しい行為をすることで聖人になろうとしているのであれば、それはひたすら
自分を抑圧してゆくことに他ならない。
間違ったことを抑圧しつつ゛け、正しいふりをしつつ゛けている。
あなたは偽善者になる。
聖人になろうとしてはいけない。
神にその座をゆずってしまいなさい。
ただからっぽになり、明け渡して、手放しの状態になりなさい。
神にハートの動きをゆだねれば、あらゆるものが美しくなる。
そうなったら、起こることはすべて正しく、間違いが起こることはない。
つまり、自我エゴから生まれるものはすべて間違っているということだ。
ボーディダルマが「あなたは地獄に堕ちる。
あなたが行なってきたことはうわべは崇高で、宗教的に見えるが、奥深くでは
自我が得意そうに笑みを浮かべている」
と言ったのはそのためだ。
自我から生じるものはすべてあなたを地獄へ、苦しみのなかへと連れてゆく。
自我を落とし、ものごとが起こるにまかせなさい――風が吹くと樹が揺れ動き、
太陽が昇ると鳥たちが歌いだすように。
<全体>に身をまかせきってしまいなさい。
あなたはこの生を独りだけで生きているわけではない。
神があなたを通して生きるがままにさせなさい。
そうすればすべてがよきものとなる。
神から生まれるものはすべてよい。
それが真の思念だ。 ものごとが静まり、悠然としていると、 天の活動のあらわ
れが突然動きだす。
これこそ何の意図もない動きではないだろうか?
今や個人的な目標がないのだから、あなたの人生には何の目的もない。
無為にして為すとは、まさにこれを意味する。
人が生きているのは、神が人を通して生きることを望んでいるからだ。
人が行為するのは、
神が人を通して何かをしようと望むからだ。
だが、こちらへ行こうがあちらへ行こうが、それは人のあずかり知るところで
はない。
どんな役割が与えられても、あなたはそれを演じつつ゛ける。
それは神の演劇であり、脚本も監督も神がつとめている――あなたは自分の役
を可能なかぎり完璧に演じる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
520
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/04(土) 22:41:12 ID:1d4drIFg0
自分のために行った善事は慈悲の心からの行ないではないから善事とはならないのじゃ。
助かる者もいるから悪とか無意味ではないがのう。
王様は自らの支配のためにそれと同時に何人も殺したりしているから大抵地獄行きなのじゃ。
何でもお見通しなのじゃ。
521
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/04(土) 23:03:46 ID:LC3de7YgO
>>519
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)
どんな役が与えられても、あなたはそれを演じ切る。
所帯を切り盛りしているなら、所帯を切り盛りするがいい。
商売をやっているなら、商売をつつ゛けるがいい。
そういったものを変える必要はない。
ひとえに必要なのは、自分がやり手であるという考えを落とし、
ある目標に到達しなければならないという考えを落とし、
どこかにたどり着かねばならないという考えを落とすことだ。
どこであれ神が望むところ へ運ばれてゆきなさい。
風に舞う枯れ葉になりなさい―― そうすればすべてがよきものとなる。
そうすれば生は至福に満ちてくる。
もはや緊張などありえないし、不安も起こらない。
失敗のしようがない。
欲求不満を覚えることはけっしてない。
なぜなら、そもそも最初からあなたは 何も期待してはいないからだ。
これが目的のない生を生きることだ。
無為にして為すとは、まさにこれを意味する。
最も深い秘密は、いついかなるときも、欠かすことのできないものである。
これはこころを洗い、思念を清めることであり、沐浴である。
呂祖は、これを「沐浴」と呼ぶと言っている――
神があなたの上に振り注ぎ、あなたは清められ、きれいに浄化される。
神が一面にあふれかえり、あなたは跡形もなく消え失せ、無意識の片隅にすら
痕跡は残っていない。
神は至るところにみなぎり、あなたをくまなく満たしている。
神は光であり、
神があなたをくまなく満たすとき、それは「光明」と呼ばれる。
あなたは光に満ちあふれる。
それは無極に始まり、再び無極へと帰る。
今やあなたはわが家に帰り着いている。
今やあなたは生まれる前と同じように、天地がはじまる前と同じように、再び
ひとつになっている。
禅の人々はそれを「本来の面目」と呼んでいる。
本来の顔はひとつであり、無二であり、男でもなければ女でもなく、<陽>でも
なければ<陰>でもない。
誕生するやいなや、この形ある世界に生まれ落ちるやいなや、あなたは二つに
なる。
瞑想に入ってゆくと、再び深い沈黙が降りてくる。
突然、<二>が消え失せる。
あなたは再び<ひとつ>になる。
始めにあなたは両極を超えていた。
終わりにあなたは再び両極を越える。
ただその二つのあいだでのみ、あなたは分断されている。
そのはざまに世界がある。
始めに神があり、終わりに神がある。
源が目的地だ。
源に舞いもどってもいいし、目的地に消え去ってもいい。
言い方は違うが、それらは同じことを指している。
仏陀は意識を創出する無常なるものを宗教の根本的な真理として語る。
生命と人間の本性を完成させる仕事のすべてが 「虚空を生み出す」という言葉
に含まれている。
そもそも宗教というものは"虚空を生み出す"という単純な現象に帰することがで
きる。
からっぽになれば、あなたは満たされる。
いっぱいなら、あなたはうつろなままだ。
あなたが完全にいなくなれば、彼方なるものの存在が浸透してくる。
自分自身を押しとどめ、自分にこだわりつつ゛けるなら、あなたはうつろなま
まであり、ただの影、鏡像にすぎず、現実のものではない。
すべての宗教は、死から出て生に入るための 霊的な仙薬を見いだすという点で
は目的を同じくする。
完全にからっぽになるという秘法――これこそあらゆる宗教が探し求めてきた
仙薬だ。
それを飲めば不死になる。
なぜなら、死ぬ者は存在せず、あなたはすでに消え去っているからだ。
もはや死は起こりえない。
あなたはすでに死んでしまった!
自我エゴとして死んだ者は永遠の生命を得ている。
この霊的な仙薬はどこに帰するのか?
それはいつも無念無想の境地にあるということだ。
自我がもはやなくなり、あなたがからっぽになり、沈黙が内側に降りてくる
とき、あなたはどのように生きるだろう?
あなたは永遠に目的をもたずに生きてゆく。
薔薇のしげみが花を咲かせるとき、そこにどんな目的があるだろう?
朝になって鳥が歌いはじめるとき、そこにどんな目的があるだろう?
太陽が昇るとき、そこにどんな目的があるだろう?
いったいこの<存在>にはどんな目的があると言うのだろう?
この<存在>はビジネスではないから目的はない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
522
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/05(日) 23:04:33 ID:1d4drIFg0
沐浴という言葉は道教では特別な意味を持っているのじゃ。
それは身を清めて神に会う準備をすることなのじゃ。
一切の観念をすて新たな身となって全てを放棄する準備なのじゃ。
その後に神も身に降りるというのじゃ。
523
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/05(日) 23:20:33 ID:LC3de7YgO
>>521
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)
それはまったき喜びであり、遊び心に満ち、
ヒンドゥー教徒はそれを「リーラ」と呼んでいる。
それはまさに
エネルギーの喜びだ。そこに
エネルギーがあって、
エネルギーが舞い踊り、歓喜している。
エネルギーがあるとき、あなたはその
エネルギーを楽しむ。あなたは
走り、歌い、踊り、泳ぎ、遊ぶ。
エネルギーは表現に喜びを見いだす。
あなたは創造的になる――純粋な
エネルギーに駆られて、絵を描き、詩を書き、音楽をつくる。
<存在>は
エネルギーであり、
エネルギーは何の理由もなく
舞い踊ることを欲する。
踊りのための踊り、
絵のための絵、
恋のための恋……
在るために在ることを。
それはいつも無念無想の境地にあるということだ。
道教で説かれる沐浴という最も深遠な奥義は、 こころをからっぽにする修行に
つきる。
これですべてのことに片がつく。
やらなければならないことはただひとつ――
こころハートの内にもち歩いているものを
すべて吐き出し、それを投げ捨てることだ。
そうすれば為されるべき唯一の基本的なことがらをやり終えたことになる。
これですべてのことに片がつく。
とてつもなく美しい言辞だ。
これですべてのことに片がつく。
他には何もいらない。
経典はいらないし、僧侶はいらない――
これですべてのことに片がつく。
必要なのはただひとつ――
神があなたのなかを流れられるようにからっぽになりなさい。
神にその座をゆずりなさい。
神があなたを笛にできるように、中空の竹になりなさい。
神が歌うときには美がある。
神が歌うときには歓喜がある。
神が歌うときには笑いがある。
あなたが歌うときには惨めさと涙と苦悶しかない。
なぜなら、 自我エゴというのは実にちっぽけなものだからだ。
自我は歓喜を内に含むことができない、
そのなかにおさまるのは苦悶だけだ。
歓喜は無限のものだから、その 歓喜を包み込むために、あなたは 無限になら
なければならない。
大海を包み込みたければ、人は 広大無辺にならなければならない。
からっぽになることで、人は広大無辺になる。
からっぽになることで、人は広々とした空間になる。
からっぽになることで、あなたの下地は整えられる。
あなたは主人になることができる。
主人に準備ができれば、神は 客として訪れることができる。
からっぽになる ことで、あなたは主人になる。
主人になりなさい。
神はあなたの扉を叩きながら 戸口でずっと待っているのに、
あなたの耳には届かない。
あなたの内側には大へんな騒音がある
――どうして扉を叩く音が聞こえるだろう?
愚かな私事わたくしごとにすっかり夢中になっていて、
どうして無念無想の純粋な美しさを見ることができるだろう?
あなたは銀行預金をいかに増やすかで悩み、
政治の世界でいかに成功しようかと悩み、
どうやってもう少し有名になろうかと悩んでいるが、
神はあなたの扉を叩きつつ゛けている。
神はいつでもみずからを注ぎこもうとしているが、
あなたのほうに 神を受け容れる準備ができていない。
その通り、呂祖は正しい。
あらゆる宗教において最も基本的なことがらは、 虚空をあらしめることだ。
あらゆるヨーガやタントラ、あらゆる錬金術の体系―― タオ、スーフィ―、ハ
シディズム――の行法は、すべて こころをからっぽ にするという、ただこの一
事につきる。
これですべてのことに片がつく。
この美しい物語をもう一度くり返そう。
尼僧の千代能は何年にもわたり修行をしてきたが、光明を得ることができなか
った。
ある夜のこと、水を張った古い手桶を手にした彼女は、歩きながら桶の水に映
る満月を眺めていた。
突然、桶を束ねていた竹のたががはずれ、桶はばらばらになってしまった。
水はこぼれ、
月影は消え去り、そして千代能は
光明を得た。
彼女は詩を詠んだ。
千代能がいただく桶の底抜けて
水もたまらず月も宿らず
これですべてのことに片がつく。
(´・(ェ)・`)
(おやり)
524
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/06(月) 22:13:37 ID:1d4drIFg0
結局全ての技法も方法も自分を放棄するところに行きつくのじゃ。
光を巡らすのも陰陽を合一させるのもそのための方法に過ぎなかったのじゃ。
一切を放棄して悟りに行き着くのじゃ。
観念が無ければ自分もまたあることができないのじゃ。
525
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/06(月) 22:34:07 ID:LC3de7YgO
>>523
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん1
まだはっきりつかめないなら、仏教徒の三つの観想
―― 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん――
を使って説き明かしてみよう。
まず空観が三つの観想の最初にくる、 いっさいの事物は空であると見なされる。
次に仮観が行なわれる。
すべてが空であることを知りながら、 事物を破棄せずに、空の只なかで自分
の仕事を行なってゆく。
だが、事物を破棄しないとしても、それらに注意を注ぐこともない ――これが
中観だ。
空観を実践しているときには、 万物を破棄しえないことを知りながら、 それら
に気をとめないようにする。
このようにして三つの観想はひとつになる。
だが、とどのつまりは空を体験することで力が得られる。
それゆえに、空観を実践するときには、 空は紛れもなく空であるが、仮象も
空であり、中心も空である。
仮観を実践するには大きな力が必要である。
このとき仮象は明らかに幻影であるが、 空も幻影であり、中心も幻影である。
中観の道にあるときには、やはり空の心象を生み出すのであるが、 空と呼ばず
に、中心と呼び、また仮観を実践するときにも、 それを仮観と呼ばず、中心と
呼ぶのである。
中心そのものについては、別に説明する必要はないだろう。
禅の逸話をひとつ……
禅師蜷川にながわが臨終の床についていると、
もうひとりの禅師一休が訪ねてきた。
「私が道案内をいたそうか?」と一休は尋ねた。蜷川は答えた。
「私はこの世に独り来て、独り去ってゆくのです。
どんな手引きをしてくださると言うのです?」
一休は答えた。
「もし君が本当に生まれ、本当に死んでゆくと思っているなら、自分は来ては
去ってゆくと思っているなら、それはまぼろしだ。
来ることもなく去ることもない道を教えよう」
一休がその言葉でいともあざやかに道を示してみせたので、蜷川は微笑を浮か
べ、黙ってうなずくと、静かに息を引き取った。
これは美しい物語だ。この物語について理解しなければならないことがいくつ
かある。
それは呂祖の経文に入ってゆく助けになるだろう。
まず第一に、真理を探し求めている者にとっては、死でさえも機会になるとい
うことだ。
探し求めていない者にとっては、生ですら学ぶ機会にはならない。
人々は何ひとつ学ぶことなくその生を生きてゆく。
彼らは成熟というものを知らないままその日々を過ごしてゆく。
彼らはほとんど眠っている。
人々は夢遊病者のように生きている。
彼らは酔っぱらっている――
自分が何をしているのか気つ゛いていないし、なぜそれをしているのか気つ゛
いていないし、自分はどこから来たのか、どこへ去ってゆくのかも気つ゛いて
いない。
彼らはまさに風のなすがままに運ばれてゆく流木のようだ。
彼らの生は偶発的なものだ。
この「偶発的」という言葉を覚えておきなさい。
何百万もの人々が、ただ偶発的な生を生きている。
自分の生のたずなを握り、それを偶発的なものから実存的なものに変えてゆか
ないかぎり、変容は起こりはしない。
それがまさにサニヤスというものに他ならない――
偶発的なものを実存的なものに変えようとする努力、
無意識の生を意識的な生に変えようとする努力、
目覚めようとする努力。
そうなったら生は学びのプロセスになり、死もまたそうなる。
そうなったら人は学びつつ゛ける。
そうなったら、一瞬一瞬、ひとつひとつの状況が贈り物としてやって来る。
そう、苦悩でさえも神からの贈り物になる。
だが、学び方を覚え、贈り物の受け取り方を身につけた者たちにだけだ。
ふつうはどのようにして受け取ればいいかわからず、
どのようにして吸収すればいいかわからないために、
あなたにとっては祝福でさえ贈り物にならない。
あなたは生をロボットのように生きている。
こんな話がある……
ある男が夜更けに帰宅した。彼は妻に帰宅が遅れた言い訳をした……。
ちょっと飲み過ぎていたこの気の毒な男は、腹を立てている妻に、バスを乗り
間違えてしまったんだよと言った。
妻は言った。「はいはい、よくわかったわ――あなたの姿を見ればすぐにわか
るわよ。でも、バスを乗り間違えたことにどうして気つ゛いたの?」
夫は言った。「ああ、隅っこのほうで二時間ほど立ってたら、人が次々とやって来てハンバーガーやコーヒーを注文して
ゆくんだよ。
それでやっとおかしいってことに気つ゛いたのさ」
それはバスでさえなかった!
あなたが生きている生は生ですらない、生ではありえない。
あなたのなかに光がないのに、どうしてそれを「生」と呼べるだろう?
あなたのなかに愛がないのに、どうしてそれを「生」と呼べるだろう?
あなたは機械のように動いているのに、どうしてそれを「生」と呼べるだろう?
(´・(ェ)・`)
(つづく`)
526
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/07(火) 22:52:48 ID:1d4drIFg0
観念の中に生きる者はそもそも何をしたらよいのかさえわからないものじゃ。
半分寝ているような状態で苦から逃避し、快楽を求めてさまようだけなのじゃ。
自分が何処から来て何者であり何処へ行くのかもわからんのじゃ。
一切の苦から永遠に解放された不死の境地があることすらわからないのじゃ。
それを知識としても理解し、実践する者は幸いなのじゃ。
527
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/07(火) 23:14:56 ID:LC3de7YgO
>>525
54黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)
意識とともにはじめて生が訪れてくる――誕生によってではなく、
意識によって。
瞑想者だけが生きはじめるようになる。
他の者たちは自分をだましているだけだ。
彼らは本当に生きてはいない。
彼らはありとあらゆることをやっているかもしれない。
彼らはやりつつ゛ける。まさに最後までやりつつ゛ける。
富を築き、権力を握り、あれこれの野心を達成する。
彼らはどこまでもつつ゛けてゆくが、それでもその 人生の合計、総計はゼロ
だ。
テキサス州のオースティンで行なわれたロデオ大会で優勝した六十歳の男に、
ニューヨークの新聞記者がインタヴューをしていた。
「あなたのお歳でロデオの チャンピオンになるなんて大したものですね」
「いいや」とカウボーイは言った。
「親父には負けるよ。親父は八六歳だけど、いまでもフットボールの球を蹴っ
てるよ」
「へぇー」と記者は口をあんぐり開けて言った。
「お父さんにお会いしたいな」
「今はだめだよ。エル・パソで、じいさんの介添えをしているからな。じいさん
は 百十四歳なんだけど、明日結婚するのさ」
「あなたの家族は本当にすごいんですねえ」 と記者は言った。
「まず六十歳のロデオ・チャンピオンのあなた、八十六歳になる フットボール
選手のお父さん、そして百十四歳で結婚したがっているお祖父さん」
「とんでもない、だんな、そうじゃないよ」とテキサス男児は言った。
「じいさんは結婚したかないんだけど、せざるをえなくなったのさ」
このようにして人生はその最後まで過ぎてゆく。
これは本当の生ではない。あなたは犠牲者にすぎない―― 無意識の本能の犠牲
になり、生物的衝動の犠牲になり、 生理現象の犠牲になり、自然の犠牲になっ
ている。
これは隷属だ。 この無意識のすべてから自由になることが解放だ。
体内の生化学の束縛から自由になること、 あなたの内にある無意識なものすべ
てから自由になること、
自分自身になること、
意識の光となること―― それが本当の生のはじまりだ。
意識を保ち、
しっかりと目を見張り、
瞑想的に生きはじめたとき、
そこから はじめて自分の歳を数えなさい。
ひとつひとつの行為が意識の香りを放つ とき、あなたはわが家に近つ゛きつ
つある。
そうでなかったら、あなたはどんどん遠ざかりつつある。
生はあなたが目覚める機会をたくさん与えてくれる。
だが、あなたは目覚めるどころか、 この好機を活かすどころか、むしろ自分
を 無意識に溺れさせるもっと効き目の強い麻薬ドラッグを探しはじめる。
苦しみがやって来たら、それは目覚めるための好機 なのに、あなたは麻薬を探
しはじめる。
その麻薬はセックスかもしれないし、酒かもしれないし、LSDかもしれない。
その麻薬は金かもしれないし、政治権力かもしれない。
どんなものでも麻薬になる。
あなたを無意識にさせておくものはすべて麻薬だ。
あなたを非本質的なものごとに没頭させておくものはすべて麻薬だ。
薬を売っているのは薬局だけではない。
それはどこでも手に入れることができる。
学校や大学でも麻薬は売られている。
というのも、そこでは野心がつくりだされ、 野心は人々を無意識にさせておく
からだ。
野心は人々に影、まぼろし、夢を追わせ、走りまわらせておく。
いわゆる政治家は最大の麻薬密売人だ。
彼らは絶えずあなたのなかに権力への渇き、権力への餓え、 貪欲をつくりだ
しつつ゛け、あなたはそのとりこになってしまう。
野心を抱き、競争心を燃やすことは、 酒に溺れることと同じだ。
そしてこちらの酒のほうがよく効く。
ふつうの酒は禁じることができる。
この酒はどんなところでも――両親から、聖職者から、 政治家から、教授から
いともたやすく手に入れることができる。
社会はこの麻薬にどっぷりとつかっている。
何か追いかけるものがあると、あなたは気分がいい。
追いかけるものが何もなくなると、とたんにどうしたらよいのかわからなくな
る。
あなたはただちに何か新しく没頭できるものをつくりだす。
いつの時代にも覚者たちが観察してきたのは、 苦しみがやって来たときには
、 それは時がきたという、 「目覚めなさい」という 神からの示唆だというこ
とだ。
だが、あなたはその苦しみを麻薬で紛らわせてしまう。
あなたの妻が死ぬ――あなたは 深酒をあおりはじめたり、賭け事に手をだす
ようになる。
それはこの生が永遠につつ゛くものではない ということに気つ゛く絶好の機会
だった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
528
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/08(水) 23:00:50 ID:1d4drIFg0
この世において真の幸福への道を求める者は少ないものじゃ。
金や権力や名声を求めることだけで人生を終えてしまうのじゃ。
それは動物や虫と変わりない愚かな生き方なのじゃ。
苦痛から逃れて快楽を探しているだけであるからのう。
永遠に苦から逃れる方法があることさえも知ろうとしないのじゃ。
529
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/08(水) 23:52:29 ID:LC3de7YgO
>>527
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん1
この家は砂上の楼閣であり、 この生は紙でできた船であり、いつ沈んでもお
かしくない。
気まぐれな風がひと吹きすれば、生は終わりをつげる。
目覚めなさい!
妻は死んでしまった。あなたも 同じ列に並んでいるのだから、いずれは死を
迎える。
そして その列は「死」と呼ばれる窓にどんどん近くなってゆく。
だが、 あなたは目を覚まさない。
あなたは別の妻を探しはじめる。
破産しても、 あなたは目を覚まさない。
敗北を喫しても、 あなたは目を覚まさない。
あなたは前よりも激しく、 なおさらやっきになって探しはじめる。
ある婦人が七人の医者を抱えた付属病院に行った。
彼女はある医者の部屋に入り、 二十分後に悲鳴をあげながら待合室へ駆けおり
てきた。
彼女からことの顛末てんまつ を聞いた別の医者が最初の医者を呼んでこう言っ
た。
「あの患者になぜ妊娠している なんて言ったんだ?彼女は妊娠なんかしちゃい
ない。死にそうなほどおびえていたぞ」
「わかってるさ」と最初の医者が言った
「でも、彼女のしゃっくりは治っただろう?」
耳を澄ませば、目を凝らせば、 人生に起きた苦しみはすべて 祝福が姿を変え
たものだ ということがわかるだろう。
それは あなたのしゃっくりを治してくれる。
それはショックかもしれない……が、 あなたにはショックが必要だ!
なぜなら、あなたは自分のまわりにたくさんの 緩衝器を張りめぐらせているか
らだ、自分のまわりにたくさんの ショック吸収装置を育てあげてきているから
だ。
それを壊さなければならない。
それが壊されないかぎり、あなたは 夢を見ながら生きてゆくことになる。
そしていいかね、 夢のなかでは 夢は現実のように見える。
あなたはそのことをよく知っている――あなたは毎晩 夢を見るが、夢のなかで
は夢は実に生々しく見える。
それにあなたは自分の 夢を支える理屈や論理をいつでも見いだすことができる。
たとえ 夢が破れても、まったく何の実体もないその 夢を支えるための理屈を見
いだすことができる。
聞いた話だが…… ある朝のこと、男はひどく驚いた様子で目を覚ました。
彼は妻を起こしてこう言った。
「ねえおまえ、昨夜は、恐ろしい夢を見てしまったよ。十キロもあるマシュマ
ロを 食べてる夢なんだけど、おまけに、自分の枕がどうしても見つからなくて
さ」
目を覚ましているときでさえ、あなたは 何か理由つ゛けを見つけるだろう。
まわりを見渡せば、いつでも必ず 理由つ゛けを見いだすことができる。
あなたの頭マインドは実にずる賢い。
頭はたくさんのゲームを演じ、 たくさんのトリックを仕掛けてくるが、 それ
はひじょうに筋が通っているように見えるし、 大きな説得力があるようにも見
える。
あるフランス人が帰宅すると、息子が祖母と一緒にベッドに入っているので 仰
天した……。
――こんなことはフランスでしか起こらない!―― 「おい、おまえ」と彼は言
った。
「どうしてこんなまねができるんだ?」
「だって」と息子は言った。
「父さんは僕の母さんと寝てるじゃない。 だから僕は父さんのママと寝てるの
さ。ちっともおかしくないよ」
あなたは何でも理屈をつけることができる――馬鹿げたことでさえだ。
油断せずに目を覚ましていなさい。
あなたの頭マインドは必ず夢のほうの肩をもつ。
あなたの頭は夢見のプロセスの源泉だ。
それゆえに、 あなたの頭にはそれらの夢を支えるつとめ、義務がある。
意識をしっかり とぎ澄ましていなければ、あなたは 何度も何度も自分の頭に
だまされ、弄ばれ、罠にかけれられて、これまで 何度も出くわした、何度も悔
やみ、何度も決意し、そして 「もう二度とごめんだ!」と誓った同じ愚かさに
陥ることになる。
だが、頭は巧妙な誘いの手口でやってくる。
頭マインドは最も優秀なセールスマンだ。
頭は誘い方がとてもうまい。
頭はいつもあなたの無意識の欲望を助けているために、肉体もまた 頭に協力す
る。
目覚めようとする努力は並大抵のものではない。
それは人が生において遭遇しうる最大の挑戦であり、 真の人間、勇敢な人間だ
けがそれに向き合うことができる。
目覚めるという挑戦を受け容れるには度量がいる。
それはありうる最大の冒険だ。
月へ行くほうがやさしい。
エベレストへ行くほうがやさしい。
太平洋の底へ行くほうがやさしい。
みずからの自己のなかへはいってゆくとき、本当の問題が生じてくる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
530
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/09(木) 23:44:07 ID:1d4drIFg0
人の真の幸福は心の中を探すより他はないものじゃ。
しかし、人が恐れるのも心の中を観ることなのじゃ。
心には苦があり、孤独があり、隠してきた醜さが在るのじゃ。
それらから眼を背けていた生き方から改心して心を観るようになるのは強い決意が必要なのじゃ。
531
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/10(金) 02:18:35 ID:LC3de7YgO
>>529
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)
そうなると 過去全体がそれに抵抗する。
過去全体が山のようにあなたの上にのしかかり、あなたを押し戻し、 あなたが
大空へ――無限なるもの、永遠なるもの、神、 にゃはんニルヴァーナへと翔け
昇るのを許さない。
これはすばらしい寓話だ。
ひとりの師がこの世を去ろうとし、 もうひとりの師が別れを告げにやって来る。
だが、なんという別れの告げ方だろう!
死という機会が使われる。
そう、ごくごく意識的な人々だけが 死によって開かれる機会を使うことがで
きる。
無意識に見られる死は敵であり、 意識的に見られる死は最大の友達だ。
無意識に見られる死は、 あなたのすべての夢を、 あなたのすべての生活様式
を、 あなたが築きあげてきたすべての世界を、 あなたが元手をかけてきたあら
ゆるものをこなごなに打ち砕いてしまう ――すべてが崩れ落ちる。
だが、意識的に見られた死は 新たなる生の始まり、 神に到る扉になる。
蜷川にながわが息を引き取ろうとしていたとき、 一休は尋ねた。
「私が道案内をいたそうか?」
彼は、死は始まりであって終わりではないと言っている。
「私の手引きはいらないかね?私の助けはいらないかね?あなたは 新しい存在
のありようを学ぶことになる。
新しい光景が開かれてくる。
あなたは 新しい次元、新しい地平に入ってゆこうとしている ――私の手引きは
いらないかね?私の助けはいらないかね?」
蜷川は答えた。
「私はこの世に 独り来て、独り去ってゆくのです。 どんな手引きができると言
うのです?」
その通り、私たちは独りで来て、独りで去ってゆく。
そしてこの二つの独りあることのあいだに、私たちは ともにあること、関係性
、愛、家族、友人、仲間、国家、教会、組織など すべての夢をつくりあげる。
私たちは独りで来て、独りで去ってゆく。
<独りあること>が私たちの究極の本性だ。
だが、その二つのはざまで、私たちは どれだけ多くの夢を見ることだろう!
人は夫や妻に、父や母になる。
人は金、権力、威信、社会的地位をかき集めるが、 空手で生まれ、空手で死ん
でゆくことをよく知っている。
この世のものをもってゆくことはできない―― それでも人は集めつつ゛け、そ
れでも人はしがみつき、執着心をますますつのらせ、 いずれ去らねばならない
この現世にもっともっと深く根をおろそう
とする。
この世界を旅籠はたごとして使うのはいいが、そこに家を建ててはいけない。
それを使うのはいい、だが、 それに使われてはいけない。
ものを所有してもしかたがない。
何かを所有しはじめたとたんに、人は それに所有されてしまうからだ。
所有すればするほど、いっそう 所有されてしまう。
使うがいい!
だが、 死がやって来つつあることを、 死がいつも途上にあることを心にとめ
て、 それを忘れてはいけない。
いつなんどき死が扉を叩き、 何もかもそのままにして 立ち去らねばならない
かもしれない。
いつもあなたは中途半端 のままで立ち去らねばならない。
人は生で何ごとも完結させることはできない。
蜷川は抜かりなく答えた。
「私はこの世に独り来て、独り去ってゆくのです。 どんな手引きができると言
うのです? 死を前にしてどうやって私を助けることができるでしょう?
生きているあいだは助け合うという幻想を抱くこともできますが、 死を前にし
てどうやって?」
彼は深遠な真理を語っているが、真理はまだまだ奥が深い。
一休はさらに高い真理をもって答えている。
これを覚えておきなさい―― 真理と虚偽のあいだに葛藤があるのではない。
真の葛藤は より低い真実とより高い真実のあいだにある。
虚偽はどこまでも虚偽だ。
虚偽に何ができるだろう?
真理をどう損なうことができるだろう?
虚偽と真実を選び分けるという問題ではけっしてない。
問題はつねに 低い真実と 高い真実の はざまにある。
蜷川が言ったことは確かにすばらしい真理だ―― 私たちは独り来て、独り去っ
てゆく。
だが、それよりもまだ高い真理がある。
一休は答えた。
「本当に来ては去ってゆく のだと思っているなら、それは君のまぼろしだ」
誰が来て、 誰が去ってゆくのか?
すべてはあるがままにある。
来ては去ってゆくというのもまた夢だ。
例えば、夜になって、 眠りにつくと、夢がはじまる。
朝になると、夢は消える。
自分はどこかに行って、 そこから帰ってきた と思うだろうか?
ふと気つ゛くと、いつもの部屋のいつものベッドの上にいる。
それはすべて夢だった!
あなたは遠くの場所まで旅をしていたかもしれない―― 月や惑星や恒星を訪れ
ていたかもしれない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
532
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/10(金) 23:38:25 ID:1d4drIFg0
来た如しと書いて如来というのじゃ。
この世に来た事も無く、去ったことも無いのが悟りを得た存在なのじゃ。
観念による謬見が無い故に、来る者も去る者もいないと知れるのじゃ。
ただ意識として常に在り続けるだけなのじゃ。
533
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/11(土) 04:39:11 ID:LC3de7YgO
>>531
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)
だが、朝になって目を覚ますとき、あなたは 星の上で目覚めるわけではない
。
眠りについたその同じ場所で目を覚ます。
人生は夢だ!
私たちは今いる場所にいる。
私たちは今あるがままにある。
私たちは一瞬も動いていないし、 みずからの本性から微動だにしていない!
これこそ真理の究極の表現だ。
そう、蜷川は重要なことを、とても意義深いことを言っていた――
「私たちは独り来て、独り去ってゆく」―― だが一休は、それよりもさらに深
遠なことを言っている。
彼は言う。
「何が去り、何がやって来ると言うのかね? あなたはくだらぬことを言って
いる! 誰が生まれ、誰が死んでゆくと言うのかね?」
波が立ち、再び 海のなかに消えてゆく。
海の波は波立つ前と同じように 海であることに変わりはない。
それはまた消えて 海にもどってゆく。
形は現れては消えてゆくが、 実在は今あるがままの姿でありつつ゛ける。
変化はすべて見せかけにすぎない。
深いところに、最も奥深いところにある 中核では、何もけっして変化しない。
そこではすべてまったく同じままだ。
時間は周辺で起こる現象だ。
中心には時間もなく、変化もなく、動きもない。
そこではすべてのものが永遠だ。
蜷川が息を引き取る寸前のこの対話の 要点を見てみなさい。
これは死を前にして論じるようなことがらではない。
人々は死が迫ると、相手を助け、慰めようとする。
「まだ死にはしないよ。死ぬなんて誰が言ったんだい?君はもっと長生きする
よ」
容体を知っているときでさえ――医者が「できるかぎりの手はつくしましたが
、もうこれ以上はどうすることもできません」と言っているのに――それでも
家族の者たちは、あなたは死なないというふりをしつつ゛ける。
家族の者たちは夢がもう少しつつ゛くように、手を貸そうとする。
家族の者たちは奇蹟が起こって生命が救われることを願ってやまない。
この対話はこのうえもなく美しい。
誰かが死を迎えつつあるなら、 死がやって来たことを気つ゛かせてやったほ
うがいい。
実際、死が今日訪れようと訪れまいと、 すべての人に気つ゛きをうながす方
がいい。
死が訪れるのが明日であろうと明後日であろうと違いはない。
それはいずれは訪れる。
ひとつ確かなのは、 死は必ずやって来るということだ。
生において唯一確実なもの――それは死だ。
だから、最初から死について語るほうがいい。
いにしえの文化では、子どもたちはみな 死を自覚させられたものだ。
あなたのまさに基盤は 死の自覚の上に築かれるべきだ。
死を自覚している人間は必ず 生を自覚するようになるが、 死を自覚していな
い人間は生に対しても無自覚でありつつ゛ける ――なぜなら、生と死は同じコ
インの裏表だからだ。
一休は言った。「もしもそう思うなら……」 だが、いいかね。彼は 「もしも」
という言葉を使っている。
なぜなら、一休は知っているからだ。
彼はこの男、蜷川を知っている。
一休はどこまでも見通すことができる。
この男には一点の曇りもない。
一休は蜷川が行き着いていることを知っている。
おそらく彼は一休を挑発して、何か 美しいことを、真理に触れるようなこと
を言わせようとしているだけなのだ。
おそらく彼の発言は仕掛けにすぎず、 ゲームをして遊んでいる。
だから一休は言う―― 「 も し も 君が、自分は本当に来ては去ってゆく と思
っているなら、それはまぼろしだ。
来ることもなく、去ることもない道を教えよう」
来ることもなく去ることもない道とは何だろう?
そう、あなたの内側にはある場所がある。
そこはあなたの永遠の故郷であり、 そこでは何ひとつ起こらず、 そこでは何
ひとつ変わらない―― 誕生もなく、 死もなく、 来ることもなく、 去ること
もなく、 生じることもなく、 滅することもない。
すべてのものがいつも同じだ。
一休がその言葉で あざやかに道を示してみせたので、 蜷川は微笑を浮かべて
うなずくと、 静かに息を引き取った。
それにまさる表現はありえない―― 蜷川がひと言も発しなかったのはそのた
めだ。
だが、彼は微笑んだ……。
語りえぬものを微笑みで表し、 語りえぬものをうなずくことで表し、 語りえ
ぬものを指し示すことはできる。
彼はそれを表情で示した。
彼は認め、うなずくことで、一休に言った。
「よろしい、非の打ちどころがない。 あなたもまた故郷に帰り着いている」
(´・(ェ)・`)
(つづく)
534
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/11(土) 23:38:25 ID:1d4drIFg0
蜷川も一休の言葉で死の寸前に悟ったのじゃろう。
どこかから来るでもなく、去って行くのでもない意識に戻れたのじゃ。
それに気付けば笑って死ねるのじゃ。
身体がなくなっても永遠に消えることの無い意識に還るだけであるからのう。
535
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/11(土) 23:50:14 ID:LC3de7YgO
>>534
OSHOは、蜷川も悟っており、その事を一休は見通してたと解釈しているようでありますね。
いずれにしても、確かに美しいお話しであります。
(´・(ェ)・`)つ
536
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/12(日) 00:04:33 ID:LC3de7YgO
>>533
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)
二人の師が言葉を交わすことはきわめてまれだ。
というのも、二人の師が出会うとき、ふつうは ともに言葉を発することがない
からだ。
言うべきことは何もない。
だが、二人の師が言葉を交わすとき、 そこには必ず大いなる遊びがある。
そこには遊び心がある。
いいかね、それは議論ではなく、対話だ。 彼らはもっとうまい表現を引き出そ
うと互いを挑発している。
一休はそれを語った。
蜷川は満足した、 心から満足した。
一休は何を言ったのだろう?
――私たちが思い描く生は生ではない、
まだ私たちはそのありのままの姿を 一度も見たことがない、ということだ。
私たちはあまりにも幻想に心を奪われて、 最後の最後まで幻想のとりこになっ
てゆく。
聞いた話だが…… 夫を亡くした義理の母のことで心を痛めている男がいた。
その八十二歳になる 未亡人は深い悲しみにくれていた。
ある夜のこと、彼女を家から連れだすために、 彼は八十五歳の男性とのデート
を仕組んだ。
その夜更けに、デートを追えて帰宅した 彼女はすっかり頭にきていた。
「どうしたんですか?」と男は尋ねた。
「私を何だと思ってるの?」と彼女は息巻いた。
「あんな男、顔を三回 ひっぱたいてやったわよ」
「てことは……」と男は言った。
「迫られたんですか?」
「ちがうわよ!」と彼女は答えた。「あんな男、死んでるも同然だわ!」
だが、そんな歳になっても人々はデートをしつつ゛ける。
もし本当に幽霊というものがいるならば、 彼らはあなたがたがしているのと同
じことを、 まったく同じことをしているにちがいない。
そして、それは死後の生までつつ゛いてゆく。
ある恋人たちの話を聞いたことがある…… この深く愛し合っている二人のカッ
プルは心霊主義者だった。
彼らは クリスチャン・サイエンスを信じていた。
ある日のこと、彼らは死やそれに 類する深遠なテーマについて話し合っていた
が、どちらか先に死んだ方が死後 三十日経った時点で必ず相手に連絡を取るよ
うにし、相手も心を開き受容的に なって三十日後の特定の時間にそなえること
にしようと約束した。
しばらくして男が交通事故で死亡した。
女性は熱心に待っていた。
三十日が過ぎ、 ちょうど約束の時間がやって来た。
彼女はドアを締め、明かりを消すと、半信半疑 で尋ねた――「ジョン、あなた
そこにいるの?」
だが、信じられないことにジョン の声が聞こえてきた。
ジョンは言った。「やあ、君、僕はここにいるよ」
彼女はいった 。「あなた元気にしてる?そこで幸せに暮らしてる?」
すると彼は言った。 「僕はとっても幸せだよ。この雌牛をごらんよ――なんて
すてきなんだろう?」
「雌牛ですって?」と彼女は言った。
「頭が変になってしまったの!?私は天国のことをもっと聞きたくてたまらな
いのに、あなたったらばかな雌牛の話ばかりして!」
すると彼は言った。「天国だって?君は何を言ってるんだ。僕はプーナの コレ
ガオンパークの雄牛になっちまったんだよ!」
それがつつ゛いてゆく―― その同じ愚かさが来世まで持ち越される。
意識的にならないかぎり、あなたは この輪のなかを堂々巡りしつつ゛け、 こ
の輪はまわりつつ゛けてゆく。
それは実に退屈であり、 それをつつ゛けてゆくのはまったく馬鹿げている。
だが、 気つ゛くためには大いなる努力が必要になる。
気つ゛くためにはみずからの眠り、みずからの 無意識な状態との長い格闘に入
ってゆかねばならない。
その闘いは困難で骨が折れるし、しかもその道は上り坂だ。
さあ、経文だ……これらの経文は、 目覚めるための計り知れない 助けとなっ
てくれるだろう。
呂祖師は言った。
まだはっきりつかめないなら、仏教徒の三つの観想―― 空観くうがん、仮観け
かん、中観ちゅうがん―― を使って説き明かしてみよう。
師の慈しみは限りない。
彼はあなたがたの眠りが深い
ことをよく知っているので、
何度もくり返し要点を明確にする。
最初は聞き逃したかもしれないので、
師はもう一度くり返す。
二度目も聞き逃したかもしれないので、
師はもう一度くり返す。
仏陀は光明を得たあと四十二年間を生きたが、
朝も夕も、昼も夜も、四十二年間、同じことを言っていた。
絶えず同じことをくり返し言っていた。
なぜなら、あなたがいつそれを理解するか誰にもわからないからだ。
いつあなたが受容的になるか誰にもわからない。
いつあなたのハートに小さな窓が開いて、
客が入って来ることができるようになり、
一条の光があなたを貫くか誰にもわからない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
537
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/12(日) 23:06:29 ID:1d4drIFg0
>>535
そのようじゃ。
一人来て一人去っていくとは悟っていれば言えないことであるがのう。
まだ自分があるのじゃ。
それもまた一休の言葉を引き出す演出と解釈したのじゃな。
大乗仏典ではよくある演出なのじゃ。
538
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/12(日) 23:24:06 ID:LC3de7YgO
>>536
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)
二十四時間、あなたはいつも同じままでいるわけではない。
ときにはひじょうに頑なになって、入り込むのがとてもむずかしいこともある。
ときには耳がすっかり遠くなって、声が耳に届いていても、聞こえないかもし
れない。
だが、 ときにはもう少しこころを開いて、 もっと感じやすくなり、 もっと
愛情深くなり、 もっとしっかり聴くことができ、 あまり理屈っぽくなくなって
いるときもある。
柔和で、女性的になっているときもあれば、 強情で、男性的になっているとき
もある。
それは周期的に変わってゆく。
それを見守ったら、じきにあなたは 理解力が高まる瞬間や、 理解力が低下す
る瞬間が あることに気つ゛くようになる。
あなたは二十四時間、同じままでいるわけではない。
あなたは絶えず変化し、流動している。
師が話しつつ゛けなければならないのはそのためだ。
いつがあなたにとってふさわしい 瞬間なのかは誰にもわからないから、 師は
どこまでもくり返してゆく。
正しい瞬間がやって来れば、 必ず変容が起こる。
一瞬でもハートを射ることができれば、 あなたはそれからはまったくの別人
になる。
もう二度と同じ人間にはもどらない。
呂祖は話しつつ゛ける…… 私たちは、次第にこの美しい書物『黄金の華
の秘密』の終わりに近つ゛いてきている。
彼はまたしてもくり返す――まだはっきりつかめないなら…… 彼はあらゆ
ることがらをはっきりとさせたが…… まだはっきりつかめないなら、仏教徒の
三つの観想―― 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん―― を使って説き
明かしてみよう。
明晰さとは何だろう?
明晰さとは雑念がない心の状態をいう。
雑念は空に浮かぶ雲のようだ。
空が雲でいっぱいになっていたら、太陽を見ることはできない。
あなたの空に、あなたの内なる大空に、あなたの意識に雲がかかっていないと
き、明晰さが生まれる。
いいかね、明晰さとは頭が切れることではない。
頭が切れる者たちは、明晰な人々ではない。
頭の回転を早くさせることは簡単だ。
頭が切れるというのは、抜け目なく立ちまわるということに他ならず、ずる賢
さをましな言葉で言い換えただけのことだ。
頭が切れる者たちはずる賢い人々ではあっても、明晰な人々ではない。
いいかね、理知的であることは聡明であるということではない。
理知的であることはやさしい。
情報を集めればいいし、知識を習得すればいい、そうすれば、すばらしい知識
人、学者、パンディットになることができる――だが、そんなものは明晰さで
はないし、そんなものは聡明さではない。
聡明さというのはそれとはまったく逆のものだ。
頭のなかを知識がうごめいていないとき、内なる空に一片の雲もよぎっていな
いとき、何の計算もなく、何の狡猾さもなく、何のずる賢さもないとき、まっ
たく何も考えず、ただあるものをすべて映しだす鏡のようになっているとき――
それが明晰さだ。
明晰さとは鏡のような質をいう。
そして明晰になることが神に直面することだ。
神を知識で知ることはできない、神は明晰さによって知られる。
神は利口な頭や、小賢しい知恵によって知られるのではなく、天真爛漫なここ
ろによって知られる。
天真爛漫であることが明晰さだ。
イエスが「幼子のようにならないかぎり、私の王国に入ることはできない」
と言うのはそのためだ。
彼は何を言おうとしているのだろう?
彼はただこう言おうとしている――その内なる空がまだ雲に覆われていない、その鏡がまだほこりで汚れていない、その
知覚が一点の曇りもなく澄みきっている幼い子どものように清らかにならない
かぎり……。
彼はものをあるがままに見ることができる。
彼はそれをゆがめないし、ゆがめることで利を得ようとはしない。
彼は投影せずに、どんな状況もすべてありのままに見る。
彼は受動的な鏡になっている――それが明晰さだ。
(p509)
まだはっきりつかめないなら、仏教徒の三つの観想―― 空観くうがん、仮観け
かん、中観ちゅうがん―― を使って説き明かしてみよう。
この仏教徒の三つの観想は、最も優れた瞑想の方便のひとつだ。
いいかね、それは方便であって、哲学ではない。
それを哲学ととらえてしまうと、要点を丸ごと見逃すことになる。
それは起こった。
何世紀にもわたって、仏教哲学に関する様々な大論文が書かれてきたが、それ
は愚にもつかないたわごとだ。
なぜなら、仏陀は哲学者ではないからだ。
彼はいかなる哲学も教えなかった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
539
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/13(月) 23:02:27 ID:1d4drIFg0
明晰とは気付いていることということもできるじゃろう。
知識とは記憶であり、記憶に頼れば今ここにあるものごとにも気付かないのじゃ。
常に注意深く心の働きに気付いているようにすれば観察も容易になるのじゃ。
自分を認識する微妙な心の働きにも気付くようになるのじゃ。
540
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/14(火) 03:12:23 ID:LC3de7YgO
>>538
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)
実際、彼は反哲学的な姿勢を強く取った。
仏陀が町を訪れるときは、必ず弟子たちが先に町に行って、「哲学的な質問を
仏陀にしないでください」と触れてまわるのが慣例になっていた。
仏陀は十一の質問のリストを用意していた。
その十一の質問のなかにすべての哲学が含まれていた――神について、天地創
造について、輪廻転生について、死後の生について等々。
この十一の質問のなかには、ありうるすべての哲学が含まれていた。
その十一の質問のリストを見れば、どんな質問もできなくなる。
そのリストが町中に伝えられた。
「仏陀は哲学者ではありません。形而上学者ではありません。思想家ではあり
ません!だから、こういった質問は仏陀にしないでください。彼は哲学者では
なく、医者としてここに来たのです。目が見えなければ、薬を調合しますし、
耳が聞こえなければ、手術をします」
仏陀は「私は医者だ」と何度もくり返し言っていたが、 彼の名のもとに壮大な
哲学が生まれ、 彼が方便として用いた言葉が 哲学的な教義になってしまった。
例えば、空くう――"すべては空である"―― これが根本的な原理であると主張
する仏教の教派がいくつかある。
それは方便にすぎない。
それは客観的事物については何も言っておらず、 人間の心マインドについてあ
ることを言っているだけだ。
それはあなたが明晰になるのを助ける、 ただそれだけのことだ。
仏陀の関心は客観的な事物ではなく、 あなたの明晰さにある。
彼は「明晰であれば、存在の実相がわかる」と言う。
だとしたら、客観的な事物 について語ってみてもしかたがない。
まったく何の益にもならない。
それは光や色や虹や花のことを 盲人に語ってみるようなものだ。
それはまったく馬鹿げている。
盲人に昇る太陽のことは伝えられない。
盲人に銀色に輝く月の光のことは伝えられない。
盲人に樹々の緑のことは伝えられない。
盲人にとって「緑」は何の意味もなさないからだ。
言葉は聞こえてくる―― あなたが「神」という言葉を耳にするのと同じよう
に、 盲人は「緑」という言葉を耳にする。
あなたは理解しないし、盲人も理解しない。
その言葉を何度も何度も何度も聞いているからといって、 自分は神が何である
かを理解しているなどといった馬鹿な考えを抱いてはいけない。
神を理解するためには 神を目で見なければならない。
それ以外に方法はない。
緑を理解するためには目で 緑を見なければならない。
それ以外に方法はない。
ラーマクリシュナはよく語っていた…… ある盲目の男が友人に招かれた。
彼らはキル――おいしい乳製品―― を用意した。
盲人はキルが大好きだったので、「これはいったい どんなものですか、どんな
見てくれをしているのですか?」と尋ねた。
盲人の隣に哲学の大家が坐っていたが、哲学者のつねとして、 教えたり、理屈
をこねたりする機会を逃すはずがない。
彼はただちに 盲人に、キルが何でできていて、どんなふうに見えるか話しはじ
めた。
彼が「それは真っ白だ」と言うと、盲人は尋ねた。
「待ってください!私には何のことだかさっぱりわかりません。"真っ白" とい
うのはどういうものですか?すみませんが、それを説明してはくれませんか?」
哲学者にはありがちなことだが、彼は相手が盲人であることに気つ゛かないま
ま、 "真っ白"がどういうものであるか説明しはじめた。
彼は言った。「白鳥や白鷺しらさぎ を見たことがあるかね。そう、キルは真っ
白な白鷺や、白鳥や、白い花にそっくりだ」
「鷺さぎですって?」と気の毒な盲人は言った。「ますますわけがわからなく
なってきましたよ。
私には白が何なのかわからないのに、またややこしくなってきた。
その鷺というのは何ですか?私は一度も見たことがないのです」
まだ相手の目が見えないことに気つ゛いていないので、 哲学者の言うことはす
べて的はずれなものになってしまった。 彼は白鷺がどういうものかを説明しは
じめた。彼はここでひとつ工夫をこらし、 盲人に手を差しだして、それに触る
ように勧め、こう言った。
「いいかい、鷺の首は、この曲げた私の手のようになっているんだよ」
すると盲人は楽しそうに笑い、大喜びをした。彼は心の底から感謝して 哲学者
に言った。
「これでキルが何だかわかりましたよ―― 曲げた手のようなものなんですね。
わかりました。どうもありがとう」
哲学者はここで自分が何をしでかしたのかに気つ゛いた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
541
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/14(火) 22:56:11 ID:1d4drIFg0
全てが空であるとは法則ではないのじゃ。
客観的な事実でもないのじゃ。
ただ修行のための観念なのじゃ。
他の一切の観念を捨てるための、観念を滅するための観念なのじゃ。
542
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/15(水) 03:18:48 ID:LC3de7YgO
>>540
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)
白さを盲人に説明することはできない。
そのすべはまったくない。
だが、彼を助けることはできるし、彼の目を治療することはできる。
彼を眼科医のモディ先生のもとに送ればいい――彼はときどきここへやって来
る。
盲人には手術が必要だ。
目が見えるようになれば、説明はいらなくなる。
白がどういうものか、緑がどういうものか自分でわかるようになる ――神もそ
うだし、天地万物もそうだ。
だから、いいかね、まず第一に、これら ――空観、仮観、中観――は方便に
すぎない。
彼はただ「これは方便のひとつだ」と言っているだけだ。
物語をもうひとつ……これではっきりしてくるだろう。
ある男が街から帰ってきたが、ふと見ると、家が火事になっていた。
子どもたち、幼い子どもたちは家のなかで遊んでいる。
怖くてなかに入れない ので、彼は外から大声でどなった。
彼は大きな声で「みんな出ておいで!火事だぞ」 と叫ぶ。
だが、子どもたちは遊びに夢中になっていて耳を貸そうとしない。
そこで男は方便を思いつき、大声で 「聞こえるかい?おまえたちに街でたく
さんおもちゃを買ってきたぞ!」と叫ぶ。
すると子どもたちは全員駆けだしてきた。
男はおもちゃを買ってきてはいなかったが、 子どもたちは「街へ行くのだった
ら、おもちゃを買ってきてね」と頼んだのだった。
外に出て、おもちゃがないのを知って、子どもたちは「おもちゃはどこにある
の?」と尋ねた。
男は笑いだして言った。「おまえたちを火に包まれた家から連れだすために嘘
をついたんだよ。おもちゃは明日、買ってきてあげるよ」
これが方便だ。
いいかね、 方便は真実でもないし虚偽でもない。
方便は役に立つか役に立たないかであって、 真実か虚偽かというものではけっ
してない。
「真偽」という言葉は方便には当てはまらない。
ここで行なわれている瞑想はすべて 方便であって、真実でもなければ、虚偽
でもない。
それらは役に立つか役に立たないか、 必ずそのどちらかであり、真偽がとり
ざたされる余地はない。
火事になっている家から出てこられるように、 私はあなたがたにおもちゃを与
えている。
外に出たら、あなたがたにもわかる。
あの子どもたちでさえ理解した。
家が燃えているのを見たとたんに、彼らは おもちゃのことはすっかり忘れてし
まい、 父親の愛情を理解した。
彼はこの子どもたちをこころから愛していた にちがいない。
だからこそ嘘をつくこともできた。
それは嘘だった。
あなたがたは驚くだろうが、 いつの時代にも禅師たちは言ってきた ――仏陀
は大嘘つきだ、と。
だが、仏陀の慈悲は 嘘をつけるほどに 深いものだった。
彼は方便を編み出した。
観想の対象となる三つのもの ――空と仮象と中心――これは方便だ。
"空"とは、外界にあるこのいっさいの世界、 客観的な世界は完全にからっぽで
あるということだ。
それを空であると見なしなさい。
「それは空だ」と観想すれば、驚くようなことが起こる。
「世界はいっさい空である」と見なしはじめると、 即座に多くのことがひとり
でに変わりはじめる。
あなたは貪欲でなくなる―― 事物が空であるなら貪欲になってもしかたがな
い。
あなたは野心的でなくなる―― 事物が空であるなら野心を抱いてもしかたが
ない。
大統領の椅子がまったくうつろなものである ことがわかれば、誰も興味をもた
なくなる。
あなたがそれに実体を与え過ぎ、必要以上に 現実に仕立てあげているために
、 野心が芽生えてくる。
お金がうつろなものである ことがわかれば、誰が気にかけるだろう?
それを使うのはいいが、金のことで 頭を悩ませる必要はない。
あなたを取り巻くこの世界はすべて空…… とめどなく姿かたちが移り変わって
ゆく夢のようなものだ と見なすようにするがいい。
グルジェフはよく弟子たちに 「通りを歩くときには、自分は 夢を見ているの
であり、傍らを通り過ぎてゆく人々は 夢の現れにすぎないし、店もすべて 夢な
のだと思い起こすがいい」 と言っていた。
そしてこれに三ヶ月間瞑想を つつ゛けると、それが起こりはじめる。
すさまじい爆発が起こる。
突然、あらゆるものがうつろになる。
店はそこにあり、人々は歩いているし、買物をしている。
確かにあなたの傍らを人々が通り過ぎてゆく。
表面的には何も変わらないが、突然、 見えるのはうつろな影だけになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
543
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/15(水) 23:41:40 ID:1d4drIFg0
燃える家から子供達を救うために玩具を与えるという方便は法華経に記されているものじゃ。
全ての法は方便とも言えるじゃろう。
それは自らの本心をどこまでも観察する勇気と意欲がない者のための嘘であり、方法なのじゃ。
方便によって導かれて自分を見るまでに成長できる者は幸いなのじゃ。
それも仏陀の慈悲なのじゃ。
544
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/16(木) 07:29:09 ID:LC3de7YgO
>>542
>>542
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)
映画館に行けば、スクリーンの上にあるのは うつろな影にすぎないことはよく
わかっている のに、あなたはそのうつろな影にだまされてしまう。
映画館に坐っていると、実に様々な感情が通りすぎてゆく。
悲劇が起こると、あなたは泣きはじめる。
おそらく映画館が暗くしてあるのはそのためだ。
そうしなければ、あまりに愚かでばからしく見える。
もし誰かが――妻や友人がそばに坐っていて、あなたが 泣いているのに気つ゛
いたら、彼らは笑いだすだろう。
彼らは「どうしたんだい?あるのはからっぽのスクリーン だけで、他にはなに
もないじゃないか。映画がそこに映り、 白と黒が――あるいはカラーの映像が
――戯れているだけだよ。 みんな影さ」と言うだろう。
だが、あまりにも影に夢中になり過ぎて、 影に実体があるように見えはじめて
くる。
仏陀の方便はちょうどこの反対だ。
仏陀は言う ――これほど実体感があるように見える人々―― 彼らを夢であり、
空であると見なしなさい、と。
すると、いつの日か驚くようなことが起こる。
全世界が白いスクリーンになり、 影だけが通りすぎてゆく。
影だけが通りすぎてゆくとき、 あなたはみずからの内に大いなる 無執着が生
まれてくるのに気つ゛く。
あなたは超然として、遠く離れている。
そうなったら問題は何もない。
二つめは"仮象"だ。 あなたが「全世界は空であり、夢にすぎない」 と見なし
、瞑想し、絶えず観想していると、 第二の現象が起こりはじめる。
いいかね、それを夢と見なしても、 それだけで世界が消えてしまうわけでは
ない。
そういう錯覚に陥ってはいけない。
「世界は夢だと思いつつ゛けていれば、やがて世界は消えてしまう」 などど思
わないこと。
世界は消えはしない。
スクリーンに映る映画が影にすぎない ことはよくわかっていても、それでも
それはつつ゛いてゆく。
ただそう思うだけで、 それが消え去るわけではない。
映画館に坐って瞑想していると映画が消えてしまい、 他の者たちには見えても
自分には見えず、 ただ白いスクリーンだけがある、 などどいうことはありえな
い。
そんなことはけっしてない。
瞑想者にも映画は見えるが、 ただ見方が違う。
彼はそれが夢であることを知っている。
世界が消えるわけではない。
世界はありつつ゛けるが、それは 重要性を失い、実体をもたなくなってゆく。
それはまっすぐな棒を水のなかに入れるときのようなものだ。
水中に入ったとたんに、棒は曲がって見える。
取り出すと、もちろんどこも曲がっていない。
もう一度 水のなかに入れると、やはり曲がって見える。
そうなればそれが目の錯覚だったこと がはっきりわかる――棒は曲がって い
るように見えるだけで、曲がってはいない。
だが、いくら目の錯覚だとわかったとしても、 それで棒が曲がらずに見えるわ
けではない。
だから、まず最初、あなたは 「この世界は空である」と瞑想する。
すると、つつ゛いて第二のことがらが生じてくる―― それでも世界はありつ
つ゛けるが、 もはやそれはまぼろしだ。 もはやそれには実体がなく、 夢と同じものからできている。
最初の無意識な知覚の仕方では、 世界には堅固な実体があるように見えた
―― それはひじょうに客観的であり、 まざまざとそこにあった。
空に瞑想したあとも、 世界は依然としてそこにあるが、 もはや実体を失い
、 ただの想念マインドのゲーム にすぎないものになっている。
それは夢のようなものだ。
ヒンドゥー教徒たちが「世界は幻影マーヤだ」 と言うとき、彼らが言おうとし
ているのはそのことだ。
それは聖者の目から世界が消えてなくなるということではない。
それはたんにもうそこには価値がなくなったということだ。
それは無価値なものに、完全に無価値なものになってしまった。
そして三つめは"中心"だ。
世界がもはや実体感を失い、 客観的な世界が姿を消して、 主観的なまぼろし
になるとき、 あなたの内側に新しい体験が生まれてくる。
ここではじめて あ な た が実体をもつようになる。
通常、人は客観的な世界に みずからの実体を投影している。
それを外界から取りもどすと、 あなたが実体をもつようになる。
世界がありありとしていたら、 あなたの影はうすくなってゆく。
世界が現実感を失えば、 あなたの影が濃くなってゆく。
もう一度映画を使って説明してみよう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
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