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鬼和尚に聞いてみるスレ part9

330としぼっくり:2017/07/30(日) 23:38:56 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践して行きます。

331避難民のマジレスさん:2017/07/30(日) 23:42:05 ID:sJeMfFzk0
>>329
これで止瞑想が心置きなくできそうです。
止観を極めて参ります。
ありがとうございました。

332避難民のマジレスさん:2017/07/31(月) 07:04:09 ID:czRftzgI0
>>318
そうですか、私は今無我を目指しているようです。またお願いします

333としぼっくり:2017/07/31(月) 18:21:49 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
死を超える事を目標にしたら、悟りを得る事は出来ますか?

334蓮恵:2017/07/31(月) 18:35:05 ID:hu.n.GIQ0
人間の全ての感情、欲望、行動、思考が形成されたものであるなら、どのような行動をとれば良いのですか
どのようにして形成力を越えられるのでしようか

335鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/31(月) 22:09:19 ID:1d4drIFg0
>>330 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでない。

>>331 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>332 善いことじゃ。
 無我の次には大悟があるじゃろう。
 またおいでなさい。

>>333 出来るじゃろう。
 死を超えるには大悟徹底するしかないからのう。
 自分が死を超えたかどうか常に観察する事で大悟まで行き着けるじゃろう。
 実践によって証明するのじゃ。

>>334 ただひたすらに心を止め、心を観察するのみなのじゃ。
 観察に没入し、無意識にまで観察し続けられるならば形成力をも超えて気付きが起こるのじゃ。
 それまで精進あるのみなのじゃ。

336としぼっくり:2017/07/31(月) 22:21:23 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践によって証明します。

337としぼっくり:2017/07/31(月) 23:23:37 ID:DAY232aw0
>>336
お礼続けて質問すいませんでした。

338としぼっくり:2017/08/01(火) 07:55:17 ID:DAY232aw0
>>336>>337またまたお礼に続けて質問申し訳ありません。
質問ですが、死を超えると、苦は全て無くなるのでしょうか?

339避難民のマジレスさん:2017/08/01(火) 12:30:44 ID:N6CebM/M0
鬼和尚は、数年前と比べて 生活の質は向上しましたか?

引っ越しをした現在の住居は、住み心地は如何ですか?

そもそもなぜ引っ越しをしたのですか?

母上様はまだご健在でしょうか。

340避難民のマジレスさん:2017/08/01(火) 20:48:00 ID:KPTPnXc20
鬼和尚さま
以前、
「過去に孤独や恐怖があると、それが自我に起こりはしないかと不安や恐れになるのじゃ。」
とレスされたのを読みました。

「自我に起こりはしないか」と思っているのも自我なのですか?
自分自身が、「自分にそれが起こるかも」と不安になっているのですか?
なんだか変なかんじというか、妙な違和感があるのですが、
どうしてでしょうか?これはなんでしょうか?

341鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/01(火) 21:24:47 ID:1d4drIFg0
>>336>>337 何度でも聞くとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>338 そうじゃ、死の無い時、そこに自分という観念も無く苦も無いのじゃ。
 死を超えることを願って修業すれば自然に全ての苦を滅することもできるのじゃ。
 死こそ全ての苦の最たるものであるからのう。
 死を超えて不死の境地に至れば一切の苦も無いのじゃ。
 
>>339 既に全てにおいて安楽なのじゃ。
 住み心地はよいのじゃ。
 前の住居が老朽化で壊したからなのじゃ。
 生きているのじゃ。

342鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/01(火) 21:33:23 ID:1d4drIFg0
>>340 自我は何も思わないのじゃ。
 それは観念であるから何も思えないのじゃ。
 思いは自我とは関係なく勝手に起こるものじゃ。
 観察によって確めるのじゃ。

343としぼっくり:2017/08/01(火) 21:45:43 ID:DAY232aw0
ご丁寧な説明大変ありがとうございます。
死を超える事を願って修行して行こうと思います。いつもいつも本当にありがとうございます。

344としぼっくり:2017/08/01(火) 22:49:25 ID:DAY232aw0
>>343お礼に続けて質問申し訳ありませんが、言葉の無い観察しているのですが、言葉無く観察していると、無意識に観察出来るようになり、自我にも気付くのでしょうか?

345としぼっくり:2017/08/01(火) 23:03:20 ID:DAY232aw0
>>343追記です。
観察する時は、頭の中で〜を観察すると言葉にして観察してますが大丈夫でしょうか?

346避難民のマジレスさん:2017/08/02(水) 10:51:49 ID:KPTPnXc20
>>342 ありがとうございます。
では、縁によって過去の恐怖などの記憶が起こった時に、
それを自分のものと錯覚すると、不安や恐れが起こるということでしょうか。
そしてそれをまた自分のものと錯覚すると、苦が起こるのでしょうか。

感情や思考が勝手に起こっていると観察でわかる時があります。
さらに精進して確かめます。

347としぼっくり:2017/08/02(水) 15:44:04 ID:DAY232aw0
>>345訂正です。
×頭の中で〜を観察する
⚪︎頭の中で何々を観察する

348としぼっくり:2017/08/02(水) 15:58:01 ID:DAY232aw0
>>345申し訳ありません、もう一度訂正です。
×頭の中で〜を観察する
⚪︎頭の中で自分の本心観察する、自分と感じるものは何か観察する
連投になってしまい申し訳ありません。

349避難民のマジレスさん:2017/08/02(水) 18:16:13 ID:3/0pAEng0
母上に持病はありますか?
鬼和尚は?

350鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/02(水) 22:03:17 ID:1d4drIFg0
>>343 どういたしまして、またおいでない。

>>344>>345>>347>>348 そうじゃ、言葉にしても出来るじゃろう。
 素早い自我の認識も日々観察していれば無意識に観られるようになるのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>346 不安や恐れは想起によって勝手に起こるものじゃ。
 それが既に苦なのじゃ。
 何度も自分のものと認識するのではなく、それらの働きに自己同一化が為されているのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>349 糖尿病とかいっておったのう。
 運動しないからじゃな。

351としぼっくり:2017/08/02(水) 22:09:39 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。精進して行きます。

352としぼっくり:2017/08/02(水) 22:27:47 ID:DAY232aw0
>>351お礼と分けて質問すいません。
質問ですが意志に依った観察を続けていれば無意識の観察が出来る様になるという事でしょうか?

353としぼっくり:2017/08/02(水) 22:45:59 ID:DAY232aw0
>>352スルーしてください。すいません。ありがとうございました。

354346:2017/08/03(木) 06:42:03 ID:KPTPnXc20
>>350 ありがとうございました。
まだ私にはよくわからないようです。精進いたします。

355香雪:2017/08/03(木) 19:48:25 ID:q6UBxgPc0
鬼和尚様 こんばんは。

ブログ拝読いたしました。ありがとうございます。
質問があります。観察をしてるわけではなく、朝、仕事へ行く準備をしている時に、
また身体と思考がほんの数秒とまりました。
その刹那に準備すべき道具が一つだけ脳裏によぎり、行動に起こりました。
これが、日常の習慣的な行動という記憶に依存した阿頼耶識の作用ということでしょうか?

356鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/03(木) 20:36:41 ID:1d4drIFg0
>>349 わしに持病はないのじゃ。

>>351>>353 どういたしまして、またおいでなさい。

>>354 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>355 そのように言えるじゃろう。
 日々の習慣による行動は考える事無く記憶に依って起こるものじゃ。
 思考さえも習慣による記憶が起こしているともいえるのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

357としぼっくり:2017/08/03(木) 20:41:24 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
意志に依った観察が無意識の観察に変化するコツとかは無いのでしょうか?

358としぼっくり:2017/08/04(金) 18:09:27 ID:DAY232aw0
連投すいません。
質問ですが、世の中は捨てた方が良いのでしょうか?

359香雪:2017/08/04(金) 18:38:17 ID:q6UBxgPc0
鬼和尚様
ご返事をもらうたびに、なんと表現すればよいか分からないような
言葉にならない理解をいただいております。
このまま精進し続けようと思います。
ありがとうございました。

360鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/04(金) 21:39:15 ID:1d4drIFg0
>>357 それは集中の行で深い瞑想に入った時にやることなのじゃ。
 そうすれば早く無意識に観察できるようになるのじゃ。
 止観によって修業は全て速やかに進むのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>358 捨てられるならば捨てるがよいのじゃ。
 金銭とか衣職住の確保で必要ならば捨てないでよいのじゃ。
 自らの状況で判断するのじゃ。

>>359 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

361としぼっくり:2017/08/04(金) 21:50:52 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
質問ですが、深い瞑想とはどの様な状態でしょうか?

362としぼっくり:2017/08/04(金) 22:10:04 ID:DAY232aw0
連投すいません。
質問ですが、自我とは本心の中にあるものなのでしょうか?

363蓮恵:2017/08/05(土) 18:45:32 ID:NzzPrVro0
心にある感情、信条のほとんどが何かからの逃避でした

かといって逃避することが悪いわけではないのだと思います
むしろ、本心を見られないことがまずいのではと

人間は苦を克服してどうやって生きれば良いのかという道しるべ、光、そのような確固とした指標を持ちません

364鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/05(土) 21:14:34 ID:1d4drIFg0
>>361 思考が自然に止まる位の瞑想の深さでよいのじゃ。
 日々瞑想していれば速やかに到達できるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>362 本心とは自らの心を偽らないことであるから、その中に何かがある訳ではないのじゃ。
 本心を観るようにすることで心の働きがありのままに観られるようになるだけなのじゃ。
 自我は記憶に依ってあると認識されている観念に過ぎないものじゃ。
 謬見であるからどこにもないのじゃ。

>>363 悟りを目指して生きるがよいのじゃ。
 悟りが得られたならばもはやどのように生きると言う計らいも無いのじゃ。
 ただありのままに生きるようになるじゃろう。
 それでよいのじゃ。

365としぼっくり:2017/08/05(土) 21:53:16 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
無意識の観察が出来る様になるには、ひたすら観察し続けるしか無いと言う事でしょうか?

366避難民のマジレスさん:2017/08/06(日) 01:00:36 ID:.szgK0XQ0
鬼和尚さま
相談に乗って下さい。
私は3年前に転職をしました。それは、兄から今の会社を勧められ、難しい試験だったのですが、ひょんな事に受かってしまったからです。以前の会社に大きな不満があったわけではないので、転職するか迷ったのですが、これも何かの運命だと思って、転職しました。私は、迷った時は、瞑想をして心を落ち着けます。その結果出てきたものが運命かと思ってそれを選びます。
しかし、今の会社は、以前の会社に比べ忙しく、給料も安くストレスも溜まります。今はちょっぴり後悔しています。
鬼和尚は、選択が大事とおっしゃいますが、選択の基準はなんなのでしょうか。
また、これは運命なのでしょうか。(運命だったと思って自分を納得させたい感情があります。)

367避難民のマジレスさん:2017/08/06(日) 07:15:07 ID:WH/BMzy.0
>思いは自我とは関係なく勝手に起こるもの。

私の捉え方が適切かご教示下さい。

喜怒哀楽は先天的に備えている感性と後天的に得たものから発されます。

1 後天的に得たもの。
これが認識と観ました。
悟ったら気に障らなくなるものですね。

2 先天的に備えている感性は敏感になったり鈍くなることはあると思います。
美しいものをみて美しいと思う。
残酷なものをみて心が痛む。
それは勝手におこるものですから、思いですよね?

悟った後は、これらの感性はあるが、とらわれないということですよね?

3 中から湧いてきて、こうしょう!と意志をもつ。
それを意というのですよね?
論理的解釈をもってこうしょう!と決めることは意ではないですよね?

4 瞑想したり思いついたりする中、禅の◯が浮かんできました。
結局のところ答えはない。
答えを導くのでなく、整理するのでもない。
◯は即ち大円境地ですよね?
その認識を流してしまうことが大切と思いました。

5 ◯
これ以上はないように感じると同時、未だ残る不
安があります。
これと向き合うことが必要なのですよね?

368避難民のマジレスさん:2017/08/06(日) 07:33:39 ID:czRftzgI0
深い瞑想は前後不覚になるくらいトランス状態に入るからこそ、無意識に観察できると思っていました。
が、そこまで必要ではなかったのですか?思考が自然に止まる位で十分?
もしかしてトランス状態はサマーディに入る時の状態ですか?

369避難民のマジレスさん:2017/08/06(日) 07:36:01 ID:czRftzgI0
つまり、トランス状態になるくらいの深い瞑想はサマーディに入るときに必要だが、止観ではそこまでなる必要はないということですか?

370鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/06(日) 22:50:13 ID:1d4drIFg0
>>365 集中の瞑想がよく出来るようになれば早くできるのじゃ。
 そうであるから止観を一緒にする意味があるのじゃ。
 実践あるのみになのじゃ。

>>366 それはおぬしの目標とするものが何であるかによって違うのじゃ。
 金をためることが目標ならば稼げるかどうかを基準にするがよいのじゃ。
 今は儲からなくとも技術を身に付けて稼げるようになるならばそれを基準にすると善いのじゃ。
 自分の目標をちゃんともっていないと他人の勝手な思惑で動かされてしまうのじゃ。
 それが例え善意であったとしても、自分にとってよいものとは限らないのじゃ。
 運命は自分が目標を持って築くものなのじゃ。
 今からでも自分をよく観察して、一生を費やすに値する目標を持つと善いのじゃ。
 そしてそのために最適な基準を作るがよいのじゃ。

>>367 1,2 は共に観念なのじゃ。
 悟れば無くすこともでき、使うことも出来るのじゃ。
 認識されたものであり、なくてよいものじゃ。

 3 論理的にできるものも意志なのじゃ。
 
 4 それは雑念なのじゃ。
   捨ててよいものじゃ。
   囚われれば魔になるものなのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

 5 雑念に囚われているうちには不安も残るのじゃ。
  なにものにも囚われずに進むのじゃ。

>>368>>369 本当に深く瞑想に入ったならばもはや認識もないものじゃ。
 観察も無いのじゃ。
 思考が無い状態で観察は十分なのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

371としぼっくり:2017/08/06(日) 23:02:43 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
質問ですが、集中した状態で観察を続ければ無意識の観察が出来る様になると言う事でしょうか?

372避難民のマジレスさん:2017/08/06(日) 23:38:17 ID:.szgK0XQ0
>>370
鬼和尚さま
ありがとうございます。
自分の目標を定めることが重要なのですね。
私は、自尊心が強く自分が尊敬されたいと思っています。でも、実際どれだけ尊敬されても飽き足らないこともわかっています。今回は、多分、新しい会社に受かったことで、みんなから褒められたいという欲があったのかなと思います。なので、この欲、苦を滅する為に、鬼和尚さんのブログなどを読んで実践しています。今の所目標は苦を滅することですね。これからも頑張っていきます。

373避難民のマジレスさん:2017/08/07(月) 05:40:22 ID:czRftzgI0
>>368
まだまだですが無意識の観察ができるよう頑張りたいと思いです。ありがとうございました

374鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/07(月) 21:42:23 ID:1d4drIFg0
>>371 そうじゃ、できるようになるじゃろう。
 日々の実践によって前にはできなかったこともできるようになるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>372 善いことじゃ。
 またおいでなさい。

>>373 どういたしまして、またおいでなさい。

375としぼっくり:2017/08/08(火) 12:16:16 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。何度もお聞きして申し訳ないのですが、無意識の観察はどうしたら出来る様にになるのでしょうか?何度もお答え下さっているのに中々理解出来ずににすいません。

376鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/08(火) 21:22:09 ID:1d4drIFg0
何度も行えばできるようになるのじゃ。
ゲームとかスポーツの技と同じなのじゃ。
最初は意識して行わなければ出来ないが、習熟してくれば無意識にできるようになるのじゃ。
指が覚えるとか、体で覚えると言うのと同じなのじゃ。
日々繰り返し練習することで身についてくるのじゃ。
そして無意識のうちにできるようになるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

377としぼっくり:2017/08/08(火) 22:19:19 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践して行きます、

378避難民のマジレスさん:2017/08/09(水) 17:14:55 ID:czRftzgI0
自我についてお尋ねします。
ある人が「お前は馬鹿だ」と言っても、その対象が自分でなければ何も感じず、自分が言われた悪口なら不快感が生じます。この場合、悪口を聞いて浮かんだ悪い人物イメージに名前などによる自分のイメージを投射するから不快になると考えられます。
そして、一時的に自分を忘れる忘我は投射(分別)が停止した状態、無我は自我そのもの(分別のもとになる無意識領域の記憶)が消えた状態という理解で良いですか?

379鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/09(水) 20:48:52 ID:1d4drIFg0
>>377 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>378 忘我はそのような理解でよいのじゃ。
 無我はまだ分別も分別の元となる記憶種子も残っているのじゃ。
 ただ自我が観念と気付いて主体として認識する作用が放棄されただけなのじゃ。
 観念は主体ではなく、主体になることもできないからのう。
 分別が記憶種子と共に停止するのは、大悟して無認識になった時なのじゃ。
 その時も記憶はなくなった訳ではなく、知識として活用することも出来るのじゃ。
 そのように理解すると善いのじゃ。

380としぼっくり:2017/08/10(木) 17:55:53 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
オショーさんが見守る事について語られてますが、見守る事は重要なのでしょうか?

381避難民のマジレスさん:2017/08/10(木) 17:59:26 ID:czRftzgI0
>>378
新たな疑問が生じたのでお願いします。

1.一度無我が起きると二度と自我は生じなくなるのですか?

2.無我、すなわち自我が主体でないと知るには、自我投射対象・作用・主体の止観、または思考が自動的に起きていることを観察すればいいということですか?

2.大悟徹底の分別停止は記憶種子停止の後に起こり、それ以前で分別が一時的場合を除いて完全停止することはないということですか?

382避難民のマジレスさん:2017/08/10(木) 19:31:54 ID:gy.DD9Vw0
鬼和尚さん

このところ座るときの姿勢を研究中です。
究極まで力を抜いても倒れずにいられる姿勢というのを探しているのですが、なかなか見つかりません。
力を抜いて座っていると、5分くらいで伸ばしていた腰が曲がってきて、背筋もだんだん丸くなってきます。
それでも倒れずに集中できていれば良いんでしょうか?

でも、背筋が曲がってくると雑念が起きてくる感じもします。
腰を伸ばして背筋もまっすぐにしたまま力を抜ききれる姿勢は可能なのでしょうか?

383鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/10(木) 21:09:21 ID:1d4drIFg0
>>380 それはわしが言う観察と同じ事なのじゃ。
 観察によって人は苦を滅し、悟りも得られるのじゃ。
 それと同じようにオショーも見守ることで悟りもやってくると教えておる。
 それは全ての瞑想の目的であり、そのために修業もあるのじゃ。
 見守ること、観察によって人は気付き、真の変容を迎えるのじゃ。

>>381 1 そうじゃ、自我が自分ではないと完全に気付いたならば、もはや自我は生じないのじゃ。
      それはただの観念であり、あるものではなく主体でもないと気付くからのう。
 2 思考ではなく観念が起きている事を観るのじゃ。
  観念は言葉とイメージからなり、思考の元となるものじゃ。
  思考だけではその根本である観念までは見られないのじゃ。

 3 そうじゃ、それは無我になってもあるものじゃ。
  まだ観念による分別はあり、行為もあるのであるからのう。
  分別による認識が止まり、無認識にいたって大悟徹底なのじゃ。
  それでもまた分別による観念を使うことは出来るのじゃ。

384鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/10(木) 21:12:02 ID:1d4drIFg0
>>382 背筋が曲がってはいかんのじゃ。
 雑念も出てくるじゃろう。
 骨盤を垂直にしてバランスによって背筋を真っ直ぐに保つようにすれば可能なのじゃ。
 尻の筋肉と下腹の筋肉で骨盤を垂直にして、上体からは力を抜くのじゃ。
 そうすれば自然に無念無想の境地に至れるのじゃ。

385としぼっくり:2017/08/10(木) 21:52:32 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
観察する事が瞑想の目的なのでしょうか?

386避難民のマジレスさん:2017/08/11(金) 07:07:06 ID:czRftzgI0
>381
2.の観念が起きている事を観るは、例えば「バナナが食べたい」と思った時、バナナという観念、食べたいという観念が自然に起きているを見るということですか?
それに自我を投射しているだけだというわけですよね

387避難民のマジレスさん:2017/08/11(金) 20:03:49 ID:Daf3Ag0M0
>>384
鬼和尚さん、ありがとうございます。
背中を伸ばしたままの状態でいるには、やはり少し下腹に力を入れてバランスを取るしかないのでしょうか?
いつもはあぐらで瞑想しているのですが、どうしてもやっぱり徐々に背中が丸くなってきます。
もう少し下腹に力を入れれば良いでしょうか?
バランスの取り方がまだ掴めません。

あと、自分でいろいろやってみたのですが、少し高めで硬めの座布団に座って、半跏趺坐の両膝を地につけてバランスを取る方法もありでしょうか?
これだとあまり下腹に力を入れずにいられるので楽と言えば楽ですが、ただちょっと足が痺れます。

388避難民のマジレスさん:2017/08/11(金) 20:22:09 ID:czRftzgI0
「思考ではなく観念が起きている事」の意味を具体的にお教えいただけると嬉しいです。

389鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/11(金) 22:19:07 ID:1d4drIFg0
>>385 そうじゃ、全ての瞑想の目的は観察する事なのじゃ。
 苦を観察できれば苦が滅するじゃろう。
 自我を観察する事が出来れば自我が滅し、認識を観察する事が出来れば認識も滅するのじゃ。
 それまで精進あるのみなのじゃ。

>>386 そのようなものじゃ。
 自分という観念も縁起によってただ起きているものと観られるじゃろう。
 それは自分ではなく、自分のものでもないと気付くのじゃ。
 ただの観念であったと気付いて厭離も起こるのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。

>>387 そうじゃ、下腹には力を入れるのじゃ。
 下腹に力を入れていれば背中が丸くならないならばそうするとよいのじゃ。
 自分のやり易い方法ならばなんでもありなのじゃ。
 自分に合わせていろいろ試してみるのじゃ。

>>388 思考は観念から起こるものじゃ。
 観念は感覚の接触から起こるものじゃ。
 思考がやんでも観念はあるものじゃ。
 言葉とイメージからなる観念が自我の本体なのじゃ。
 自分という観念が観られなければ自我は滅しないのじゃ。
 自分の名前とイメージを、自分であり、主体であると認識している限り自我は滅しないのじゃ。
 その仕組みが全体として観察できれば観念と気付いて自我も滅するのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。

390としぼっくり:2017/08/11(金) 22:24:08 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。精進して行きます。

391避難民のマジレスさん:2017/08/12(土) 07:55:06 ID:czRftzgI0
>>386
バナナと食べたいという観念を見れば、それらがなくなれば自我は生まれないことから、自我はそれらを縁起として生じていることがわかり、滅すると、理解しました。

392香雪:2017/08/12(土) 18:47:36 ID:q6UBxgPc0
鬼和尚様 こんばんは。

質問です。空観や観察を続けていると、記憶の想起では一枚の写真のように、
見た記憶がイメージとして脳裏に浮かんできます。言葉として浮かんできたりもします。

言葉として浮かんできた場合、そのまま思考に進んでしまうことが多いため、
思考が進んでしまった場合は、「思考は空」を念ずるか、もしくは「思考している」ことを見守っていれば収まります。

ところがイメージの場合、イメージが頭に浮かんだまま、先へ進みません。
特に何も湧いてこないので、分別か認識に働きかければいいのかな?と思いました。

仮にそうだとすれば、イメージとしての記憶の想起を捉えてから、認識と分別のどちらを観察したり、
空観をしたりすることが重要になってくるのでしょうか?

もちろん現時点では観ることができないのですが、観るという意思を働かせることが、
かなり大切なような気がしています。よろしくお願いします。

393避難民のマジレスさん:2017/08/12(土) 19:52:02 ID:kV7xIwD.0
>>389
鬼和尚さん、ありがとうございます。
今日もいろいろ座り方の研究してみましたが、私の場合、どういう座り方をしても、骨盤を固定した状態を維持するには下腹と尻の辺りにかなりしっかり力を入れていないとできないようです。
そうしないとどうしても背中が丸くなってきます。
それでも胸から上は力を抜いていれば瞑想できるようなので、とりあえず骨盤を固定して座る練習を続けようと思います。

下腹に力を入れたまま呼吸するのには慣れていなかったのですが、やってみると今までできなかった、長く息を吐いたり吸ったりすることが自然にできたので、このやり方が正しいのかなと思いました。
このようにして下腹に力を入れていることで、鬼和尚さんがブログに書いているようななるべく長く息を吐く呼吸というのが可能なのですか?

それから、鬼和尚さんや瞑想に慣れた方などは、そんなに意識しなくても下腹と尻の筋肉に自然に力が入って、骨盤を固定することができるということでしょうか?
私は仕事で背筋を伸ばして普通に座っているだけですぐ疲れるほどです。
下腹と尻の筋肉に自然に力を入れることに慣れれば、正しい姿勢を保つのも簡単なのでしょうか?

394鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/12(土) 21:45:02 ID:1d4drIFg0
>>390 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>391 そのような理解でよいのじゃ。
 後は実践によって確めるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>392 イメージもまた空と観るのじゃ。
 それが表すものも、全て無であり、空と観るのじゃ。
 そうすれば無となるじゃろう。
 更に進めばそれを想起させるものも空と観ることもできるようになるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

395避難民のマジレスさん:2017/08/12(土) 21:50:35 ID:czRftzgI0
>>391
無我の理解が深まりました。ご指導ありがとうございました

396鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/12(土) 22:08:46 ID:1d4drIFg0
>>393 そうじゃ、下腹に力を入れると長い呼吸も可能なのじゃ。
 横隔膜が十分に働くからのう。

 長く瞑想をしていれば自然に下腹や腰に力が入るようになるのじゃ。
 それも習熟するほど、最低限の力でできるようになるのじゃ。
 それによって骨盤も垂直に出来るから姿勢も正しく出来るようになるのじゃ。
 骨盤は人体の最も大きな基盤であるから、それを正せば姿勢も正しくなるのじゃ。

397鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/12(土) 22:09:23 ID:1d4drIFg0
>>395 どういたしまして、またおいでなさい。

398としぼっくり:2017/08/12(土) 23:05:42 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、言葉の無い観察をして、徹底した観察をしているのですが、言語中枢を働かさずに徹底した観察をした方が良いのか、徹底した観察をして言語中枢を働かさない様にした方が良いのかどちらなのでしょうか?

399としぼっくり:2017/08/12(土) 23:56:15 ID:DAY232aw0
>>398追記です。
ややこしく書いてすいません。
言葉の無い観察をして徹底した観察をした方が良いのか、徹底した観察をして言葉の無い観察をした方が良いのかどちらなのでしょうか?

400香雪:2017/08/13(日) 01:56:38 ID:q6UBxgPc0
鬼和尚様 ありがとうございます。
今、生じているものを空と観なければならないということに気が付きました。
更に進めるように少し変えつつ、がんばってみます。
それでは失礼いたします。

401避難民のマジレスさん:2017/08/13(日) 19:20:27 ID:4nJZYcxk0
>>396
鬼和尚さん、ありがとうございます。
今日も骨盤を固定して座る練習をしていましたが、下腹と背筋を使って骨盤を立てて座ることができました。
ちょっと力を使いますが、集中したまま瞑想できたのでこの瞑想の練習を続けようと思います。

ところで、この座り方だと呼吸が自然に長くなっていくのですが、呼吸のことは自然に任せていれば良いんでしょうか?
集中すると呼吸は小さくなるということですが、長くなった呼吸が自然に小さくなることはあるのですか?

402鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/13(日) 21:00:03 ID:1d4drIFg0
>>398>>399 徹底した観察をひたすら行うと善いのじゃ。
 その結果、言葉も使わないようになるのじゃ。
 そうすればより深く観察できるじゃろう。
 言葉を使わないようにと思えばそれが妨げになるじゃろう。
 ただひたすらに観察あるのみなのじゃ。

>>400 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>401 善かったのじゃ。
 呼吸は自然に任せてよいのじゃ。
 集中が深くなれば自然に止まるのじゃ。
 小さくはならないのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。

403としぼっくり:2017/08/13(日) 22:10:50 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
徹底した観察をして行こうと思います。
いつもありがとうございます。

404そらいろ ◆EHlCk/f57s:2017/08/14(月) 02:07:33 ID:6/mYWvvU0
鬼和尚
私が今世に生まれてきた目的は何でしょうか?

405避難民のマジレスさん:2017/08/14(月) 14:10:43 ID:6ZZgOq8Y0
鬼和尚様に質問です。
自我を観照するには、自分だと思っている対象、主体、自我の投影の全てを観察するということをこのスレで拝読し、まず、自分が何を自分だと思っているかを調べてみました。
すると、まず自我の投影が大きいのは自分の顔。そして名前でした。
そこで、鏡に映った自分の顔を、瞑想で鍛えた集中力で見つめました。
顔を見た瞬間に見慣れた自分という感覚が浮かびましたが、じっと目を見つめていると、自分が見つめ返しているので、普通ではない感覚になってきました。
それから、同時に名前も心の中で唱えてみたところ、反射的に自分への嫌悪感のようなものが浮かび、少し泣きそうになりました。
それでも、名前を思い浮かべ続け、どんどん鏡に顔を近づけ、顔のアップを見つめ続けたところ、心臓が痛くなってきて、少し命の危険を感じました。
心臓の痛みに意識を向けると、顔から意識がそれるので、心臓は痛くなくなりますが、心も元に戻ってしまいます。
心臓が痛くなろうが、このままじっと見つめ続けていたらいいのでしょうか?

また、名前だけの観察もしてみました。
特に下の名前に自我を強く投影しているようです。
最初の一文字で自我が反応しはじめ、二文字目までで、自我の意識がハッとします。
このときの自我の動きをじっと観察することは自我の効果的な観察方法ですか?よろしくお願いいたします。

406避難民のマジレスさん:2017/08/14(月) 20:37:43 ID:KpwqfX7o0
>>402
鬼和尚さん、ありがとうございます。
呼吸は小さくなったり浅くなったりするのではなくて、止まるのですね。
実際に呼吸を自然に任せてやってみましたが、何となくわかりました。
この座り方でさらに練習してみます。
ありがとうございました。

407鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/14(月) 21:24:09 ID:1d4drIFg0
>>403 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>404 それを自ら探し、実践するためなのじゃ。
 目的がわからないのならば探すのじゃ。
 わかれば実践すればよいのじゃ。
 そのための自由が人には与えられているのじゃ。
 虫や動物にはできないことなのじゃ。
 自ら目的を探すのじゃ。

>>405 痛みを観察して無くしたらよいのじゃ。
 それから観察を続けるとよいのじゃ。

 どこまでも極めるならば効果的じゃろう。
 途中でやめてしまうならば効果的ではないのじゃ。
 おぬし次第なのじゃ。
 ただひたすらに精進あるのみなのじゃ。

408鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/14(月) 21:24:47 ID:1d4drIFg0
>>406 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

409としぼっくり:2017/08/15(火) 14:49:21 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
オショーさんは瞑想は集中ではないと仰ってますが、集中する瞑想は間違いなのでしょうか?

410鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/15(火) 21:52:32 ID:1d4drIFg0
>>409 それは観察こそ悟りを得るための瞑想であると言っているのじゃ。
 集中はそのための集中力を養うものであるからのう。
 集中だけではサマーディにまで達して終わりであるから悟りは得られないのじゃ。
 悟りは得られないが集中もまた瞑想と言えるのじゃ。

411としぼっくり:2017/08/15(火) 22:08:24 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。勉強になりました。実践して行きます。

412としぼっくり:2017/08/15(火) 23:03:10 ID:DAY232aw0
>>411お礼に続けて質問申し訳ありません。質問ですが、毎回座る時にはどの様な気持ちで座ればよろしいのでしょうか?

413避難民のマジレスさん:2017/08/16(水) 06:47:59 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚
半年くらい前に酷い腰痛に苦しめられ、寝床から一人で起き上がることも出来ないほどだったのですが、一切気にする事を止めたら、勝手に治っていました。
腰痛が在ると信じる事で、実体化した例だと思います。もしかすると腰痛だけではなく、あらゆる現象が同じ原理で成立しているのではないでしょうか?
今、鬼和尚が在ると思うから会話している訳ですし、私が在ると思うから、意見の相違が生まれたりして苦しみも生じますが、腰痛みたいなもので、意識せず、自然に任せておけば、人間関係の縺れなども勝手に解決しているのではないでしょうか?
このように鬼和尚に聞いている時点で、意見が違う可能性が生まれる訳で、腰痛化する可能性もありますが、そもそも、自然に任せておけば疑問も勝手に解決するのかもしれない。

414龍氣:2017/08/16(水) 14:14:25 ID:ABypUN3M0
一番、大事なことを言い忘れておりました。
三宝に帰依します。
悟れば、戻って教えを説きます。

415鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/16(水) 22:05:17 ID:1d4drIFg0
>>411 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>412 今こそ自分を観る時と思って座るとよいのじゃ。
 ただひたすらに自分を観ることに想いを統一するのじゃ。
 そうすれば悟りも自然にやってくるじゃろう。

>>413 自然に任せれば治ることもあるじゃろう。
 治らないこともあるじゃろう。
 疑問もなくなることもあるじゃろう。
 なくならないこともあるじゃろう。
 ただひたすらに実践あるのみなのじゃ。

>>414 善いことじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

416としぼっくり:2017/08/16(水) 22:16:31 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践して行きます。

417龍氣:2017/08/16(水) 22:31:05 ID:ABypUN3M0
いまだ迷いもあり、
狂気を持つ者としての自分も確かに存在します。
もう、ほとんど欲は残っていませんが、
私がもう火の粉を飛ばさないように、名前はお返しします。
失礼します。

418進路探訪者:2017/08/17(木) 04:16:32 ID:DIiPmWc60
ご無沙汰しております。

先日はご回答ありがとうございました。

あの後、自分なりに工夫した結果、自分の観念に深く迫ることができました。

それは、私がRPGをやっていて感じる強烈な羞恥心です。

RPGというのは、ロールプレイングゲームの略であり、ゲーム中で主人公
の役割を自分が担うことで、そのゲーム中での主人公の経験を体感的に
体験(≒経験といっても良い場合もあるかもしれません)するゲームです。

多くの場合はファンタジーな世界で冒険をするのですが、没入感がすごく
主人公との一体感がすごいです。

しかし、ファンタジーな世界ではお約束となる、聞いてるだけで
恥ずかしいようなワードやセリフに対しても、それらのやり取り
をしている主人公は自分の化身なのでその気恥ずかしさも
自分の感情と区別がつかず、聞くに堪えない気持ちが増幅します。

本来はファンタジーの世界とは仮想現実なので現実との区別が容易
であるはずです。

しかし、RPGというファンタジー世界が現実化する仕組みを通して、
自分の中でファンタジーと現実の世界の区別がつきません。

その結果、現実世界での常識や感覚と強烈な違和感を起こして、
気恥ずかしいものだという観念が沸き上がり、これを嫌悪すべきだ
という思考が発生します。

なぜ私の中でファンタジーと現実の区別が(理論レベルでなく感覚的に)
つかないかというと、「自己同一化」が原因で、これはRPGという仕組みが
明確化してくれました。これは私にとっては森羅万象で発生しております。

このRPGでの主人公との自己同一化はどうすれば区別できるでしょうか。
非現実でときに幼稚や妄想に聞こえるセリフを、「この世界では有効だ」
と肯定すべきでしょうか。逆に幼稚や妄想に聞こえるという現実に根差した
感情を「筋違い」と否定すべきでしょうか。

419としぼっくり:2017/08/17(木) 18:09:38 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
観察者になれば良いのでしょうか?
いつもお礼と分けて質問して申し訳ないです。

420鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/17(木) 21:56:54 ID:1d4drIFg0
>>416 どういたしまして、またおいでなさい。

>>418 ゲームをやめれば区別できるのじゃ。
 何も肯定せず否定もせずありのままにみるのじゃ。
 そうすれば迷うことも無いのじゃ。

>>419 そうじゃ、観察そのものになるのじゃ。
 何が起きても肯定も否定もせずただ観るとよいのじゃ。
 すべてをただひたすらに観るのじゃ。
 悟りも向こうからやってくるじゃろう。

421龍氣:2017/08/17(木) 22:52:14 ID:y6jROAYY0
多分、私に向けての言葉であった気がしますが、
言葉は届きました。
今は、ある趣味を行えば観察と集中の中にいることができて楽しみを覚えます。
善事ではないかもしれませんが、想いは落ち着けて進みます。
ありがとうございました。

422としぼっくり:2017/08/18(金) 00:30:22 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践して行きます。

423鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/18(金) 21:43:04 ID:1d4drIFg0
>>421 なんだかわからんが実践するとよいのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>422 どういたしまして、またおいでなさい。

424<削除>:<削除>
<削除>

425龍氣:2017/08/19(土) 02:20:49 ID:BDZBJGoI0
偽和尚、大変申し訳ないのですが、
一つ上のレスを削除してもらえないでしょうか?

426としぼっくり:2017/08/19(土) 09:17:07 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
覚者は観察そのものになっているのでしょうか?

427偽和尚★:2017/08/19(土) 09:40:18 ID:???0
>>425
削除しました。

428龍氣:2017/08/19(土) 10:30:05 ID:.0vrqrG20
ありがとうございます。
鬼和尚、自身が大変おかしなことを言い続けていたことに気が付きました。
心を落ち着けて歩みます。

429避難民のマジレスさん:2017/08/19(土) 18:43:13 ID:/vyuynCU0
鬼和尚さん

また、縁起の法について質問させてください。
鬼和尚さんのブログには、縁起によって感情や思考などが起こっていく過程が自我なしで起こることを観察できれば良い、
というようなことが書かれているのですが、うまくいかないので教えてください。

例えば、雷が鳴って怖いという感情が起こった時は、その恐怖が自我なしで起こることを観察すれば良いと思うのですが、
雷が危険なものであるという知識や記憶を保持しているのがまさに自分だと思っている場合、
どう観察すれば縁起の法によって観察されたことになりますか?

・雷が鳴る→耳で聴く→雷についての記憶が起こる→怖いという感情が起こる
上のように観察しても、自分が雷についての記憶を持っているという前提があるので、自我なしで感情が起こっていることになりません。
どう観察したら良いでしょうか?

430避難民のマジレスさん:2017/08/19(土) 20:57:47 ID:KPTPnXc20
鬼和尚さま
瞑想中に「あ、今熟睡してる」と感じる時があります。
身体中の力が抜けきってリラックスしてるのがわかり、
体を手放した深い眠りの中で意識だけはっきりしてるようなかんじです。

不思議なのは、普段、熟睡中のことはまったく覚えてないのに、そう感じることです。
記憶がなくても、深い眠りを実は意識が覚えているのでしょうか?
それともこの感覚は眠りのものとは別なのでしょうか?

431鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/19(土) 21:48:41 ID:1d4drIFg0
>>426 悟ればもはや観察も無いのじゃ。
 全てなのじゃ。
 しようと思えば妙観察智で観察できるのじゃ。
 自在なのじゃ。

>>428 そうじゃ、心を落ち着けて進むのじゃ。
 またおいでなさい。

>>429 そのような時は知識や記憶を保持しているものが自分と思っていると観察するのじゃ。
 なにがあっても全てをありのままに観察するのじゃ。
 それによってうまくいかないと思っているとも観察するのじゃ。
 それが全てをありのままに観察するということなのじゃ。
 成功したという思いも失敗したという想いもありのままに観るのみなのじゃ。

>>430 意識は常にあり深い眠りの中でも認識しているのじゃ。
 それは記憶とは違うのじゃ。
 記憶ではない認識があるのじゃ。
 瞑想の中では注意集中している故に気付くが眠るときには気付けないだけなのじゃ。
 全ては同じ意識なのじゃ。

432避難民のマジレスさん:2017/08/20(日) 09:06:42 ID:KPTPnXc20
>>431
お答えありがとうございます。
「瞑想の中では注意集中している故に気付く」というのは、
その記憶ではない認識、意識に気付くということでしょうか?

433香雪:2017/08/20(日) 10:34:21 ID:nV2bV5Bs0
鬼和尚様 こんばんは。
横になって数息観のような、アナパナサティのようなことをしてました。
すると、雑念や思考が突如として灰色のブラックホールのようなものに
吸い込まれて落ちていくような瞬間が観えたのですが、阿頼耶識とはこれですか?

その刹那に、瞑想中に顕れる充実感のようなものが一瞬で顕れましたので、
魔境を観たという雰囲気はしないのですが、いかがでしょうか?

434鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/20(日) 20:43:42 ID:1d4drIFg0
>>432 そうじゃ、記憶によらず存在する意識に気付くのじゃ。
 深い瞑想で記憶さえも止まってしまっても意識はあるのじゃ。
 それに気付くのじゃ。

>>433 それはまだ阿頼耶識ではないのじゃ。
 思考の無い意識なのじゃ。
 囚われなければ何ものも魔境にはならないのじゃ。
 なにものにも囚われずに進むのじゃ。

435進路探訪者:2017/08/21(月) 00:24:00 ID:DIiPmWc60
>>420

ご指導ありがとうございます。

ゲームはすでに辞めております。

しかし、自分の思考の中でいまだにゲームをプレイしているのでしょうね。

とりあえず自分がゲームをやっている感覚まで辞め切ろうと思います。

それで区別ができるようになるかはおいて置き、辞めてみます。

436としぼっくり:2017/08/21(月) 12:14:56 ID:DAY232aw0
>>431
ありがとうございます。

437避難民のマジレスさん:2017/08/21(月) 17:19:41 ID:czRftzgI0
自我が名前やイメージから生じるのであれば、名前を書いた紙や写真を置いて何も考えず見る訓練がいいように思われますがどう思われますか?

438香雪:2017/08/21(月) 18:26:11 ID:nV2bV5Bs0
>>434
鬼和尚様 ご返事ありがとうございます。
これが意識か、と何か納得できました。
阿頼耶識そのものが観られるまで、
囚われないように気を付けていこうと思います。
またよろしくお願いいたします、失礼します。

439429:2017/08/21(月) 19:13:51 ID:nKbCGV.k0
>>431
鬼和尚さん、ありがとうございます。
ようやく縁起の法が理解できました。
つまり、今ここに起きているすべてが、刺激とその反応によってのみ起こっていることを観れば良いのですね。

ただ、私はこのことに気づいたというよりは思考によって理解した感じなので、まだ自我なしで反応が起きているとは感じていません。
もっと言うと、自我なしでというよりも、自我なしで体が刺激に反応していても構わないというか、そのように刺激に反応する生きている体を自分のものだと思ってしまっている感じなのです。

体を自分ではなくても、自分のものだと思っていることについて、縁起の法とは別に、何か助言をいただけないでしょうか?
よろしくお願いします。

440鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/21(月) 21:57:45 ID:1d4drIFg0
>>435 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>436 どういたしまして、またおいでなさい。

>>437 そうかもしれん。
 試してみると善いのじゃ。
 いろいろ試して自分を知ると善いのじゃ。

>>438 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>439 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 そのような時はただ体を自分のものだと思っていると観察すればよいのじゃ。
 そうすればその状態から脱却できるのじゃ。
 実践によってのみそれは可能になるのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

441避難民のマジレスさん:2017/08/22(火) 06:29:47 ID:czRftzgI0
>>437
はい、試してみます

442蓮恵:2017/08/22(火) 08:24:52 ID:cxZA.SSo0
鬼和尚様

観念が自己でないならば、どんな状況(自分という人間が存在して、他者がいる)のどこにも自分がいないということなのですか

443避難民のマジレスさん:2017/08/22(火) 10:13:01 ID:KPTPnXc20
>>434
理解できました、ありがとうございました。

忘我とサマーディの状態というのは同じことなのでしょうか?
また、一瞬の忘我、一瞬のサマーディでも、悟りの機縁になるのでしょうか?

444避難民のマジレスさん:2017/08/22(火) 13:08:55 ID:ERk3pqoU0
場違いなようですが、鬼和尚さんへ長文を書いて送ります。

海外からのアクセスが制限されており、ブログの方に書き込みが出来なかった故のことです。

ご容赦ください。

��

鬼和尚様

��

 初めまして。

5年ほど前から、こちらのホームページにて勉強させて頂いております。

ありがとうございます。

ところで、勝手ではありますが、当方のブログで下記URLの提唱を

http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-72.html

紹介させて頂きました。

(ブログの名前は、したらばさんの運営基準に則って差し控え致します。)

��

今も老師のお言葉を参学の道標にさせて頂き、日々を過ごしております。

瞑想を実践している合間に、上記の内容が思い出され、

この度��取り上げさせて頂いた次第です。

��

また、初めての交信で不躾な話ではありますが、いつか直接お目に掛かる

ことが叶えば有りがたいです。

��

さて、末文ではありますが一言失礼いたします。

大変暑い時節ではありますが、どうぞお身体ご自愛なさってお過ごしください。

今後も更新を楽しみにしております。

��



445429:2017/08/22(火) 19:17:38 ID:cBH.07fA0
>>440
鬼和尚さん、ありがとうございます。
体を自分のものだと思っていると観察したら、何だかすぐに効果が現れてきました。
今では、いつから体を自分のものだと思うようになったのだろう?という気持ちです。
そもそも自分とは何だろう?と思っています。
次は、この気持ちを持っている自分を観察すれば良いと思うので、続けてみます。

ところで、こうした観察を続けるだけで、いつか自我の成り立ちに気づいて悟れる日が来るのでしょうか?
観察している時は、物の見え方が変わって見えますが、それ以外の時は自分にとくに変化はありません。
いつか何かが変わる時が来るのですか?

446鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/22(火) 22:08:15 ID:1d4drIFg0
>>441 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>442 そうじゃ、自分などないのじゃ。
 それは架空の観念なのじゃ。
 物理的な繋がりも無視して自分という固体があると認識しているだけなのじゃ。

>>443 状態としては同じであるが忘我はサマーディの必要条件であるのじゃ。
 我を忘れた状態がサマーデイなのじゃ。
 それが一瞬でも悟りの世界を知る機縁になるじゃろう。
 今まで教えられてきた全てが変るからのう。
 サマーディを目指して精進するとよいのじや。

447鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/22(火) 22:15:41 ID:1d4drIFg0
>>444 ご苦労さんなのじゃ。
 求めれば会うこともあるじゃろう。
 おぬしも体に気をつけるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>445 その日は来るじゃろう。
 もうかなり変容しているのじゃ。
 自分では気付かないのじゃ。
 変っていないと思う時ほど変っているのじゃ。
 頓悟は気付きによってもたらされるのであるから観察をそのまま続ければやってくるのじゃ。
 自らの変化をあまり意識せずそのまま進むとよいのじゃ。

448避難民のマジレスさん:2017/08/23(水) 12:51:32 ID:KPTPnXc20
>>446
一瞬でも機縁になるのですね。ありがとうございました。

修行が一進一退のような気がして疲れを感じていましたが、
他の方への「変っていないと思う時ほど変っているのじゃ。」
とのお答えにも励まされました。
精進いたします。

449としぼっくり:2017/08/23(水) 17:51:36 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
新しい何かを探すために観察するのでしょうか?

450429:2017/08/23(水) 20:09:11 ID:mJUsgr5Q0
>>447
鬼和尚さん、ありがとうございます。
頓悟というものがあるのですね。
いつか悟れたらうれしいです。
自分の変化についてはあまり気にせず観察を続けたいと思います。
それから、でも私は自分にどの方法が向いているかということもよくわかっていないので、数息観なども続けてみます。
わからないことが生まれてしまったらまた質問させてください。
いつもありがとうございます。

451鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/23(水) 21:27:55 ID:1d4drIFg0
>>448 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>449 そうじゃ、その心構えで観察するのじゃ。
 同じものを観ようとすれば記憶を観ていることになるからのう。
 それでは今まで気付かなかった自分には気付けないのじゃ。
 気付かなかった自分を見る為には新しい何かを観る心構えが必要なのじゃ。

>>450 どういたしまして、またおいでなさい。

452としぼっくり:2017/08/23(水) 21:51:00 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。新しい何かを探すために観察して行こうと思います。

453鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/24(木) 20:27:54 ID:1d4drIFg0
>>452 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

454としぼっくり:2017/08/25(金) 10:09:45 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
逃避を無くすにはどの様にしたらよろしいのでしょうか?

455としぼっくり:2017/08/25(金) 19:05:48 ID:DAY232aw0
>>454鬼和尚さんすいません。改めて質問させて下さい。
逃避しない様にするにはどうしたら良いのでしょうか?

456鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/25(金) 21:42:25 ID:1d4drIFg0
>>454>>455 それには先ず自分が逃避していると気付くことが大事なのじゃ。
 気付かなければしないようにすることもできないのじゃ。
 そして逃避の原因を追究するのじゃ。
 恐れとか、痛みの記憶とか、執着などが逃避の原因になるものじゃ。
 それらの原因から逃避が起こり、原因が無ければ逃避も無いと観察するのじゃ。
 そうすれば逃避もまた止まるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

457としぼっくり:2017/08/25(金) 22:02:16 ID:DAY232aw0
丁寧なご回答本当にありがとうございます。いつも分かりづらい質問で申し訳ありません。早速実践して行きます。

458鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/26(土) 21:40:26 ID:1d4drIFg0
>>457 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

459香雪:2017/08/27(日) 08:32:18 ID:nV2bV5Bs0
鬼和尚様
認識についてご質問があります。よろしくお願いいたします。

過去の掲示板の中で「阿頼耶識による認識は後頭部や首のあたり」というのを拝見しました。
音を聞いている場合、後頭部や首のあたりで聞いている感覚は、認識が作用しているということなのでしょうか?
今朝の数息観ではそのような感覚を得て、耳で聞くと言うよりも認識が聞いていると感じ思いました。

それから、これも数息観の間だけなのですが、雑音が多い中で数息観をしているので、
勘違いかと思っていたのですが、建物がパチンと鳴るような一瞬の物音が鳴ったりすると、
身体が揺らぐような何かが同時に揺らぐような感じがします。

自我の観照も起こっていない状態なのですが、認識についての感覚を得ることなどあり得るのでしょうか?

460避難民のマジレスさん:2017/08/27(日) 11:08:04 ID:czRftzgI0
思考が自分ではないについて観察と思索で出た結論は以下の感じです。
記憶から認識されて無自覚に生じるのが思考(とその結果起きる感情も)であり、それは身体の作用にすぎない。どんな考えも辛い感情も嬉しい感情もいつまでも続くことはなく、必ずいずれは消える。
本来自分とは消えないものだから、現れたり消えたりするものが自分であるはずがない。よって、思考は自分ではない。
和尚さん、何か足りない箇所はありますか?

461避難民のマジレスさん:2017/08/27(日) 16:42:07 ID:czRftzgI0
過去ログに「深い瞑想や眠りに入る時に過去を辿って生まれる前まで遡れば、過去生が見えてくる」とありました。
時間を遡り知識を使って受精卵になるまでイメージできたとして、それよりまえは何をイメージすればいいのですか?

462としぼっくり:2017/08/27(日) 17:30:12 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
自分を頼りにした方が良いのでしょうか?

463避難民のマジレスさん:2017/08/27(日) 18:14:29 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん、身体の一部を失う事になりそうなのですが
そのことを思うと生じる苦悩をどうやって越えていけば
良いのでしょうか?

464蓮恵:2017/08/27(日) 19:53:54 ID:QZjWADYU0
和尚様
我々の普段、自分の心だと自覚している心が、実際の本心とかなりの解離があると知る機会がありました

自分の感覚が全て正しいと思わず、
常に疑念を抱き続けることも必要なのでしょうか

465鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/27(日) 21:19:19 ID:1d4drIFg0
>>459 認識は常に作用しているのじゃ。
 それに気付くことが肝心なのじゃ。
 気付けば変容が起こるじゃろう。
 起こらないならば気付いていないのじゃ。

 瞑想をしていれば空間にも意識は広がり、敏感になるものじゃ。
 音も自分の中から発したように感じるのじゃ。
 それらにも囚われれば魔になるのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

>>460 そのような理解でも善いのじゃ。
 後は実践によってそれを観察し、確かなものとして気付くのじゃ。
 そうすれば思考と自分の同一化が完全になくなるのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>461 知識によるイメージではなく自分の感覚を思い出すのじゃ。
 それはよく観察すれば残っているものじゃ。
 恐れが無ければ全て見えるじゃろう。
 
>>462 そうじゃ、自分を頼りにするのじゃ。
 他人を頼ってはいかんのじゃ。
 自分の目的に邁進するのじゃ。

466鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/27(日) 21:26:44 ID:1d4drIFg0
>>463 全ての生き物はいずれ必ず肉体の全てを失うものじゃ。
 それが苦になるのは肉体への執着があるからなのじゃ。
 執着があれば苦があり、執着がなければ苦は無いと常に観るのじゃ。
 そうすれば苦はなくなるじゃろう。

>>464 そうじゃ、常に疑念を持って観察すると善いのじゃ。
 今ここに認識する自分さえも本当に自分であるのか観察してみるのじゃ。
 そうすれば自分がどのようなものであるのか本当に見えるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

467避難民のマジレスさん:2017/08/27(日) 22:26:01 ID:czRftzgI0
>>460>>461
はい、できるかどうかわかりませんが、やってみようと思います。ありがとうございました

468としぼっくり:2017/08/27(日) 22:39:41 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。自分を頼りにして行こうと思います。
質問ですが、鬼和尚さんの止観法で悟りを得た人はいるのでしょうか?

469避難民のマジレスさん:2017/08/27(日) 22:50:30 ID:Y5LPInQE0
>>466
やってみようと思ったのですが、執着とは何だろう?とか雑念が湧いて来たり、執着がある状態、執着がない状態というのがイメージ出来ず、上手く行きません。

また、そうは言っても、どうしても無くすのは嫌である、とても自分には受け入れられないとも思ってしまいます。

どうにかして失わずに済む方法があるような気がして、そんな事は無いと分かっているのに、失う事なんて考えたくない気持ちもあります。

470香雪:2017/08/28(月) 18:33:55 ID:nV2bV5Bs0
鬼和尚様 ご返事ありがとうございます。
常にということですが、正直とても難しいと感じています。
ですが、今回感じたことを手掛かりすれば、
何とかなるかもしれないとも、また一方では思っております。
変容を目指してがんばります。

瞑想中の知覚に関しては、どこまでも自分の進度を図る物差しとして、
何とか囚われずに進めていければと考えております。
今後も精進しようと思います、ありがとうございました、失礼します。

471鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/28(月) 21:48:14 ID:1d4drIFg0
>>467 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>468 まだじゃろう。
 おぬしが悟れば最初の一人となるじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>469 数息観もするとよいのじゃ。
 イメージはしなくてよいのじゃ。
 そのなくすのは嫌とか自分には受け入れられないと言うのが執着の想いなのじゃ。
 失わずにすむ方法があるような気がするのも、考えたくないと思うのも執着なのじゃ。
 それを受け入れ、肯定も否定もせずにありのままに観察するのじゃ。

 手術をできるかぎり遅らせて西式健康法などを精一杯やってみるとよいのじゃ。
 健康になると強く念じれば健康になるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>470 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

472としぼっくり:2017/08/28(月) 23:02:39 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
質問ですが、鬼和尚さんが10年位説法しているのに何故一人も悟りを得た人はいないのでしょうか?

473そらいろ ◆EHlCk/f57s:2017/08/29(火) 02:06:07 ID:1ATs4QSA0
鬼和尚
自殺しようとしている人に対してどのような言葉をかければよいですか?

474避難民のマジレスさん:2017/08/29(火) 17:04:37 ID:Y5LPInQE0
>>471
数息観というか、呼吸法は、何故か苦しくなってしまい、続いた事がありません。

>それを受け入れ、肯定も否定もせずにありのままに観察するのじゃ。

これは、どうすることでしょうか?自分の気持ちを知り、書き込めるのだから、ありのままに観察できているように思います。

475鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/29(火) 22:14:45 ID:1d4drIFg0
>>472 それはおぬし自身がよくわかっているじゃろう。
 自己を見ることの恐れ、悟りへの恐れ、自己が消えるという恐れ、。
 そのような恐れがあるたびに心は逃避してしまうのじゃ。
 それがなければ直ぐにでも誰でも悟りは得られるじゃろう。

>>473 何が問題なのか聞くとよいのじゃ。
 その問題をゆく観察するようにいうのじゃ。
 どんな問題も観察すればとけるものじゃ。

>>474 胸の中心とかに集中するとよいのじゃ。
 もっと詳細に観察するのじゃ。
 それらの想いが在ると知っただけでは観察では無いのじゃ。

 西式健康法もやるとよいのじゃ。
 死人も生き返らせたというのじゃ。

476としぼっくり:2017/08/29(火) 23:40:36 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。精進します。

477鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/30(水) 20:49:55 ID:1d4drIFg0
>>476 そうじゃ、恐れを乗り越えて精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

478避難民のマジレスさん:2017/08/31(木) 18:07:27 ID:czRftzgI0
無我について、本来一切の人の心身の働きは主体無く起こるものであるが、そこに主体があると感じ、主体があると思うのが自我を認識する働きなのじゃ。
これは、思考感情が自動で起きるのを知ることが一つ。もう一つは、身体を空の方などで観察して体が自分の意志でなく勝手に動いている事に気づいて主体がないことを知る。
最終的に歩いたりものを食べることも自動で動いていると分かるくらい身体を観察しないと無我に至らないということですか?

479鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/31(木) 20:54:47 ID:1d4drIFg0
>>478 そのように知るのではなく気付くのじゃ。
 知識だけでは厭離は起こらないのじゃ。
 自ら心身を観察して気付くのじゃ。

 実践していつでも気付きが起これば無我になるじゃろう。
 どのくらいで起こるかは本人次第なのじゃ。
 一度観たら起こるものもいるかもしれん。
 何度も観なければならないものもいるかもしれん。
 最後までやり遂げる者に無我の門は開くのじゃ。

480避難民のマジレスさん:2017/08/31(木) 22:04:13 ID:czRftzgI0
はい、私も知識ではなく実感するのが大事と心得ております。感情は体の作用であることはだんだん実感し始めております。
が、身体はまだまだ手の観察を始めたばかりで達成は遠い先のようです。けれど、時折自分の体の一部を物のように感じたり、一瞬体が勝手に動いてるような気がする時があります。
更に集中を深めて観察したいと思います。

481避難民のマジレスさん:2017/09/01(金) 07:31:22 ID:czRftzgI0
思考を観察すると、ある事柄に意識を向けるとそれに関係のある記憶が想起・認識されることで、その事柄についての思考が起きるように思われます。
意志で行っているのは意識を向けることだけなのにそれ以降の作用も自分の意志でやっていると錯覚することで、自分が思考しているのように感じられる。
以上のように観察しましたが、どうでしょうか?

482としぼっくり:2017/09/01(金) 15:06:04 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
観察はどうやってするのでしょうか?

483避難民のマジスレ:2017/09/01(金) 20:41:14 ID:7vAopbZ60
鬼和尚様
道元禅師は悟っているのでしょうか?

484鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/01(金) 21:45:33 ID:1d4drIFg0
>>480>>481 そのような観察でよいのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>482 観たり聞いたり感じたりしたことをありのままに受け入れ、認めるのじゃ。
 自分は今息を吸ったとか、吐いたとかでもよいのじゃ。
 それもまた観察の元になるのじゃ。
 そのようにして心身を観察するのじゃ。

>>483 悟っているのじゃ。
 今もおぬしの心にいるじゃろう。
 観てみるとよいのじゃ。

485避難民のマジレスさん:2017/09/01(金) 21:47:34 ID:czRftzgI0
>481
それは良かったです。また来たいと思います。

486避難民のマジレスさん:2017/09/01(金) 22:23:12 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践して行きます。

487474:2017/09/02(土) 00:04:26 ID:Y5LPInQE0
>>475
鬼和尚さん

>それらの想いが在ると知っただけでは観察では無いのじゃ。

それらの想いが在ると知る事と詳細に観察するとでは、何が違うのでしょうか?

488鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/02(土) 21:51:51 ID:1d4drIFg0
>>485 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>486 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>487 知っただけでは苦や恐れや逃避の反応から離脱できないのじゃ。
 自ら観察して気付いてそれらの苦はなくなるのじゃ。
 例えば道に落ちている縄が蛇に見えたとき、他人にそれは縄だと教えられてもやはり恐れは在るじゃろう。
 自分の目で縄であると確認するまで恐れは心にあり続け、行動も制限されるのじゃ。
 
 同じように人の心にも執着などの想いがあれば、それがあると知っただけではなくならないのじゃ。
 詳細に観察してそれが無意味な習慣とか過去の記憶によるものと気付けばなくなるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

489避難民のマジレスさん:2017/09/03(日) 06:20:39 ID:4JU0ODqY0
いつも教えていただき、ありがとうございます。
仕事は苦行です。怒りが生じ、苦も生じます。
怒りが生じることで観察のチャンスがあるはずなのですが、
私の技量では観察する余裕はありません。
苦が生じるために、修行への意欲は高まるかもしれません。
しかし、時間の大半を他人のために売り渡すことになります。
金銭的な問題がクリアされているならば、仕事は辞めた方がよいのでしょうか?
このところ、ずっと悩んでいます。

490避難民のマジレスさん:2017/09/03(日) 17:48:25 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
>>482で観たり聞いたり感じたりしたことをありのままに受け入れ、認めるのじゃ。
と仰ってますが、ありのままに受け入れるのが難しいです。どうにか良い方法は無いのでしょうか?

491香雪:2017/09/03(日) 20:45:28 ID:nV2bV5Bs0
鬼和尚様
ブログ拝読しました。ありがとうございます。
今日も認識について伺いたく思います。
阿頼耶識の認識とは、例えば中空を眺めて焦点を定めない時は10人の人が何をしているか一度に分かる。
そして、そのうちの一人に焦点を定めた時に、自我の観念が起こり消えていく。
このようなものですか?

それから、阿頼耶識を色で無理にでも表すならば白で空観をすると無色透明になり雲散霧消する。
こんなような想像と言うか、妄想をしたのですが、これはもしや意外と本当だったりしますか?
よろしくお願いいたします。

492鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/03(日) 22:03:48 ID:1d4drIFg0
>>489 そうじゃ、しないでよいのじゃ。
 働くのは身を養うためであるからのう。
 金銭があるのならば働かないで修業したらよいのじゃ。
 周りの目がうるさいというならば自分で会社を作って働いているふりをすればよいのじゃ。
 
>>490 その時はありのままに受け入れられないと観察するのじゃ。
 逃避が起これば逃避したと観察し、隠蔽したならば隠蔽したと観察するのじゃ。
 そうすればその反応さえも消えていくのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>491 それはまだ自我の起こらない忘我の状態なのじゃ。
 阿頼耶識による認識は何かがあると感じた時点で既に起きているのじゃ。

 そのような理解でも善いのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

493としぼっくり:2017/09/03(日) 22:29:08 ID:DAY232aw0
ありがとうございございます。実践して見ます。

494避難民のマジレスさん:2017/09/03(日) 23:05:11 ID:Y5LPInQE0
>>492
鬼和尚さん、横ですが

>その時はありのままに受け入れられないと観察するのじゃ。
>逃避が起これば逃避したと観察し、隠蔽したならば隠蔽したと観察するのじゃ。
>そうすればその反応さえも消えていくのじゃ。

逃避や隠蔽を観察できたら、もう二度と、そのことで逃避や隠蔽は起き無いのでしょうか?
何度も逃避や隠蔽が起こる場合は、どうしたら良いのですか?

逃避や隠蔽を観察出来れば、その反応が消える仕組みを教えてください。

495487:2017/09/03(日) 23:25:52 ID:Y5LPInQE0
>>488
ご回答ありがとうございました。

>詳細に観察してそれが無意味な習慣とか過去の記憶によるものと気付けばなくなるのじゃ。

詳細に観察するとは、どうすることですか?無意味な習慣と分かっていても中々無くなりません。

496としぼっくり:2017/09/04(月) 15:08:07 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
ありのままがわからないです。ありのままとは一体何なのでしょうか?

497香雪:2017/09/04(月) 19:08:20 ID:nV2bV5Bs0
鬼和尚様
ご返事ありがとうございます。なるほどこれが忘我なのか、と納得できました。
阿頼耶識はやはりとても難しく、そもそも自我は空と念じたところで心身共にざわめいてる始末です。

しかし、このたび教わったことを手掛かりにして、阿頼耶識は白のような想像も加味しつつ、
最後まで実践していこうと意を新たにできました。

ありがとうございました。

498鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/04(月) 20:32:23 ID:1d4drIFg0
>>493 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>494 完全に観察されるまでは起こるじゃろう。
 完全に観察されれば起こらなくなるのじゃ。

 何度も観察するのじゃ。
 観察が出来ればそれが自分ではなく、自分のものではないと気付くからなのじゃ。
 自己同一化がなくなるのじゃ。
 逃避や隠蔽していた自分という観念が客観的に観察されてなくなるのじゃ。
 客観的に観察されたものは自分ではないからのう。

>>495 それを何度も観察するのじゃ。
 そうすれば自然に詳細に観察する事になるのじゃ。
 何度も観察して気付けばなくるのじゃ。
 知識ではなく気付くことでなくなるのじゃ。
 それには何度も観察するしかないのじゃ。

499鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/04(月) 20:34:18 ID:1d4drIFg0
>>496 ありのままとは何の付け足しも省略もしないことなのじゃ。
 怒りが起これば怒ったと観察する事なのじゃ。
 怒らなかったとか、これは小さい怒りとか思えばありのままではなくなるのじゃ。
 それがありのままなのじゃ。

>>497 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

500としぼっくり:2017/09/04(月) 21:46:25 ID:DAY232aw0
いつもすいません。勉強になりました。ありがとうございます。修行続けて行こうと思います。

501蓮恵:2017/09/04(月) 22:12:47 ID:fDmYjxio0
鬼和尚さま

この世界の全ては意識でできているのでないでしょうか。

同一同体であり、不可分の意識です。
観念が生じれば分割されますが。

分割がなければ意識が材質というよりも、世界そのものが一つの意識であるというか

502避難民のマジレスさん:2017/09/05(火) 05:57:08 ID:fpGbb5P20
>>492 ご教授ありがとうございました。
いろいろな観念に捕らわれていて、自由な行動ができません。
働くべきだ、などといった社会通念も自己観察で滅することができますか?
原因として思い当たるものが多すぎます。

503避難民のマジレスさん:2017/09/05(火) 17:49:44 ID:Y5LPInQE0
>>498
縄が蛇かどうか見極める勇気が無い場合、自分は逃避しているといくら観察しても
見極める勇気は得られないのではないでしょうか?

504としぼっくり:2017/09/05(火) 18:05:39 ID:DAY232aw0
お礼に続けて申し訳ないです。
質問ですが、観察が中心なのでしょうか?

505sage:2017/09/05(火) 20:44:25 ID:vd1QzfGM0
観照が起こる条件について確認させてください。

観照が起こるためには、前提として自我を捨てる覚悟を持ち「体の各パーツや思考など」に対する
自己同一化を観察により厭離させる必要があり、ほとんどすべての対象への自己同一化が消滅したとき
観照が起こり、無我になる、で合ってますか?

微妙な違いとかがあれば指摘してくれると助かります。

そして、鬼和尚の教えでいうと観照が起こるためには
「自己同一性が付与された対象を観察して厭離すること(自己同一化の観念を厭離させること)」が直接的に必要なのであって
「「褒められるのは良い」とか「学歴がないのは悪いことだ」というような自我の種々の好悪の観念などは厭離させる必要性はない(観照を起こすという観点からのみ見た場合)
ということで合ってますか?

506鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/05(火) 21:35:31 ID:1d4drIFg0
>>500 どういたしまして、またおいでなさい。
 
>>501 そうじゃ、全て意識なのじゃ。
 分別がなければ一つであることが感じられるのじゃ。
 それは知識ではなく感じることなのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。

>>502 出来るじゃろう。
 旅に出るなどの今の環境から離れることで、それも観察できるようになるじゃろう。
 他人から離れることで、他人からの条件付けもわかるようになるのじゃ。
 実践してみるとよいのじゃ。

>>503 逃避していると観察できたならば既に蛇を観ているのじゃ。
 それもまた反応のひとつであるからのう。
 実践によって確めるのじゃ。

507鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/05(火) 21:41:18 ID:1d4drIFg0
>>504 そうじゃ、観察によって悟りは訪れるのじゃ。
 集中の瞑想はそのための集中力を身に付ける役に立つだけなのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>505 そのような理解でよいのじゃ。
 後は実践によって確めるのじゃ。
 またおいでなさい。

508避難民のマジレスさん:2017/09/05(火) 23:46:30 ID:Y5LPInQE0
>>506
鬼和尚さんは、下記のように言っています。

>質問ですが、鬼和尚さんが10年位説法しているのに何故一人も悟りを得た人はいないのでしょうか?

>>それはおぬし自身がよくわかっているじゃろう。
 自己を見ることの恐れ、悟りへの恐れ、自己が消えるという恐れ、。
 そのような恐れがあるたびに心は逃避してしまうのじゃ。
 それがなければ直ぐにでも誰でも悟りは得られるじゃろう。

逃避しているならば、逃避していると観察すれば、逃避は消えるんですよね?
しかし、それだけでは、自己を見る事が出来ない、自己が消えることの恐れを
乗り越えられないのではないですか?

逃避が無ければ直ぐにでも悟りを得られるのに、誰も悟りを得られていない
=誰も逃避が無くなっていないという事ですよね?

逃避している事を観察しても逃避は無くならないと言う事の証明のように
思えるのですが?

また、世の中には自殺者が居ますが、この人たちは、自己が消える恐れを
乗り越えているのに、どうして悟りが訪れなかったのでしょうか?

509sage:2017/09/06(水) 18:10:05 ID:vd1QzfGM0
>>507
ありがとうございます。

あと、阿頼耶識を厭離するっていうのは、膨大な阿頼耶識の働きのほんの一部でもとらえられたら、
膨大な規模を誇る阿頼耶識のすべてが消滅するんですか?

例えば「今、目の前の物体をコーヒーカップだと阿頼耶識により認識している」、という過程がとらえられたとして、
たったそれだけで過去から現在に至るまでに蓄積された膨大な観念のすべて、諸々の悪感情や想念のすべてが
消え去る、というのは少しむしが良すぎる感じがするんですが、、

510避難民のマジレスさん:2017/09/06(水) 18:59:58 ID:czRftzgI0
ある思考・感情があるとして、その原因を観察するのが苦滅、原因から思考・感情に至る過程を観察するのが悟りの修行でいいですか?

511進路探訪者:2017/09/06(水) 19:26:04 ID:DIiPmWc60
ご無沙汰しております。

最近は、感覚と感情と自分が区別されるものだと分かりました。

嫌な感覚があり、怖いという感情が芽生えても、逆に感覚と感情を力技
で意識すると、それがはっきりしたものであるので、逆に自分そのもので
はないということが理解できました。

しかし、①刺激が強すぎると、たちまちその刺激に感覚から感情、自意識
の何から何まで囚われ区別できず、どうしようもありません。

また、②いきなり嫌な刺激に直面すると、それが感情にまで達するとして、
それを自意識と力技で区別する時間がありません。現実とは時間の流れが
速いので結局感覚に自意識が支配されてしまいます。

この2点につき、何とかならないでしょうか。

512としぼっくり:2017/09/06(水) 20:29:51 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践して行きます。

513鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/06(水) 20:46:44 ID:1d4drIFg0
>>508 それはまだ逃避を観ていないのじゃ。
 多くの者が悟りを求めながら悟りを回避しているのじゃ。
 それが逃避であると言うことにも気付かないのじゃ。
 
 悟りを求めない者は自己が消える恐れがなくても悟れないのじゃ。

>>509 阿頼耶識の働きはとめることが出来るようになるのじゃ。

 例えば目が見えなくなったら今見ている膨大な視点も全て消えるじゃろう。
 空を見ていても目が見えないだけで空は全て消えるのじゃ。
 そのように認識が変容すれば認識された観念的存在は全て消え去るのじゃ。
 しかしなくなったのではないのじゃ。
 いつでも使うことも出来るのじゃ。

>>510 それらはまだ苦を滅するだけなのじゃ。
 さらに根本原因が自分があるという無明であると観察して自分を滅するのが悟りの修業になるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

514鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/06(水) 20:56:33 ID:1d4drIFg0
>>511 二つとも数息観などを行い、不動心を身につければ無くすことができるのじゃ。
 心が動揺することがなくなるからのう。
 不動の心で何事も観察できるのじゃ。
 一日五分でも効果は出るじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>512 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

515避難民のマジレスさん:2017/09/06(水) 22:54:22 ID:Y5LPInQE0
>>513
では、どうすれば逃避を見られるようになるのでしょうか?

悟りを求めていないと、どうして自己が消える恐れが無くても、悟れないのでしょうか?

516としぼっくり:2017/09/06(水) 23:28:56 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
観察に集中すれば良いのでしょうか?

517避難民のマジレスさん:2017/09/07(木) 02:30:31 ID:vd1QzfGM0
>>513

509です。そうですか、一部さえ観られればそれで大悟に至れるんですね、
しかし、自分に観照が起きて、いざ認識を滅するぞ、という段階に立った際にきちんと認識を
滅するという手順を進められるか不安です。
本来は今の段階の自分がそんなこと思案する必要もないんでしょうが、、
というのも「認識を厭離する」ということが、鬼和尚の説く教えの中で今の自分自身にとっては最も想像しづらくピンと来ないプロセスなんです。

例えば、手を観察してそこから自己同一化の観念を厭離するというのはわかります、観察する対象がきちんと
目の前にありますし、そのあとの手順も、単に手を観察して観察の作用により厭離が起きればいいだけですし、
あるいは善悪の観念のような観念であっても、その観念の真偽を突き詰めていったら最終的には滅することができる、ということも学びました。

思考に対する自己同一化の厭離の手順も手を観察する際と似たようにすればいいのだろうと思います。

しかしながら、「認識を厭離させる手順」というのがどうしてもまったくピンときません、
阿頼耶識が記憶から認識するプロセスを観察する、っていったってそのプロセスは手のようにどこかにわかりやすく置いてあるわけではないじゃないですか、、
手から自我が厭離される様は無理に図として表そうとすれば脳内にイメージが浮かびますが、認識が厭離される様は手順のイメージが浮かびませんし想像もできません、
「認識のプロセスをとらえる」という様は何となく想像がつきますが、それを観察できた後にその認識するプロセスが?阿頼耶識全体が?
どんな風にどこからどこへ(どこなんていうのもたぶんないのでしょうが)どのように厭離され本来の認識が無事にそれにとって代わるようになるのかというところが
もっとも不明瞭です。

こんな状態の自分でも、いざ観照が起きて認識を滅する段階に立って認識の働きを観察することができればどうすれば認識が厭離されるか
というのは勝手にピンとくるものなのでしょうか?後から理解がついてくるようなものなのでしょうか?

観照が起こる→阿頼耶識の認識プロセスを観察できた→自分「ああ、こんな感じで厭離されるのね」→認識を厭離できた

こんな感じで簡単で自然な流れとして進むようなもんなんでしょうか?

518避難民のマジレスさん:2017/09/07(木) 07:21:48 ID:czRftzgI0
>510
そのように修行します

519進路探訪者:2017/09/07(木) 20:59:12 ID:DIiPmWc60
>514

ご指導ありがとうございます。

あれからまだ修行の実践は行っていないですが、感情というのが実は
その全てが重要ではなく、余分な感情があるから人は苦を感じると思い
至りました。

自分が法に則った言動をしていれば、仮にそれにケチをつける者がいても、
それに対して不安や恐怖で押しつぶされません。

もちろんそれらの感情はあるし、無くならない気がしますが、相手が単に
無理筋なことをいっているだけという「理屈」に集中すれば、自分の正しさに
納得が生まれ、不安や恐怖に負けないようになる気がします。

だから不安や恐怖から逃げるのと集中は外からは似てるけど違うというのも
分かってきたような気がします。

これで成長できているのでしょうか。

520鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/07(木) 21:40:17 ID:1d4drIFg0
>>515 自らの本心を真摯に観察する以外にないのじゃ。
 自分は本当に悟りを求めているのか、常に自分に問いかけてみるのじゃ。
 本当に悟りを求めていなければ到底悟れないのじゃ。
 山に登るのに強い意志が必要なのと同じなのじゃ。
 自己が消える恐れなどの一つの障害がなくなっただけでは一つの岩を乗り越えたと言うぐらいなのじゃ。
 自らの本心を受け入れ、死を超える道が修行しかないと知れば実践する気にもなるのじゃ。

>>516 そうじゃ、観察に集中するのじゃ。
 集中すれば観察できるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
 
>>517 そうじ、無我になれば自然に出来るようになるものじゃ。
 もはやそれ以外に観るものはないからのう。
 後から知識によって認識を厭離したとわかるのじゃ。
 実践によって証明するのじゃ。

>>518 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

521鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/07(木) 22:03:47 ID:1d4drIFg0
>>519 実践しなければ成長は無いのじゃ。
 知識ではなく観察による気付きによって成長もするのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

522としぼっくり:2017/09/07(木) 22:12:22 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践して行きます。

523鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/08(金) 21:53:50 ID:1d4drIFg0
>>522 そうじゃ。実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

524避難民のマジレスさん:2017/09/09(土) 14:26:38 ID:vd1QzfGM0
>>520

わかりました、どうもありがとうございました。

525避難民のマジレスさん:2017/09/09(土) 20:12:44 ID:vd1QzfGM0
自我が消える恐怖というのは自分が消えることを心底のレベルで受け入れるだけでは完全に
消えることはないのでしょうか?

肉体を自己と同一化している観念が消えない限り自我が
消える恐れも消えないのでしょうか?つまり「自分を肉体だと思っている」限り自我が消える
恐れも消えないんでしょうか、、

526鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/09(土) 21:51:29 ID:1d4drIFg0
>>524 どういたしまして、またおいでなさい。

>>525 そうじゃ、観察が完全でないと消えないのじゃ。
 原因が肉体を自分と思っていることならば、その原因から観察する事で消えるじゃろう。
 それによって自我の投影も肉体から厭離されるじゃろう。
 実践によって確めるのじゃ。

527避難民のマジレスさん:2017/09/10(日) 06:03:11 ID:fpGbb5P20
>>506ご教授ありがとうございました。

別の質問なのですが、最近は腕時計型などの活動量計なるものがあり、
睡眠の深さを計ったりできるそうです。
この装置は、止の行の進捗具合の目安として使うことができますでしょうか?

528避難民のマジレスさん:2017/09/10(日) 10:29:23 ID:czRftzgI0
苦滅はその苦を消すことはできても対症療法に過ぎず、自我が無限に作られ続けることまで抑えることはできない。しかも膨大な苦を消し尽くすのは無理。
根本的に自我による苦を消すには悟りしかないと気づいたのですが、合ってるでしょうか?

529避難民のマジレスさん:2017/09/10(日) 14:20:06 ID:czRftzgI0
HPに集中法が書かれていますが、これと制感の法とはどんな関係がありますか?
先に集中してそれから制感するとさらに集中度が上がるのでしょうか
どちらかだけでは不十分でしょうか

530鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/10(日) 21:20:12 ID:1d4drIFg0
>>527 できるかもしれん。
 計ってみるとよいのじゃ。
 いろいろ試してみるのじゃ。

>>528 そうじゃ、そのような理解でよいのじゃ。
 後は実践するがよいのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>529 制感は集中の助けになるものじゃ。
 外で物音がするたびに集中が途切れたら瞑想も出来ないからのう。
 感覚を制御して集中を深める効果があるのじゃ。
 鋭敏すぎて外の刺激に反応しすぎる者が制感をするとよいのじゃ。
 しなくても集中出来る者はしなくてよいのじゃ。
 自分に合わせて法を選ぶのじゃ。

531進路探訪者:2017/09/10(日) 22:03:07 ID:DIiPmWc60
>>521

ご返信ありがとうございます。

しかし、日常の仕事での会話の中でさえ何か掴んだ気がします。

自分の感情に怒りや恐怖、不安もあるけど、他方で相手を諭したり、
相手の悪い点を指摘したいという感情もたしかに全て存在している。

問題はどう感じるかではなく、どれを選び取るか、その時にどれを
とるべきかを、きちんと自分の意思で納得して選び取ろうとすること
が大事な気がします。

これが不動心と同じ感覚なのだなと納得したと考えています。

532避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 01:46:10 ID:YAWI8URw0
無我になる→そのまま今に集中する(観察)→サマタ瞑想の第四禅定の状態になる
体感として言葉にしにくい領域だと思うけど認識を滅するってこんな感じの事?
無我になった状態でただ集中(観察)してればその内体感できるって事でいいの?
(この段階だと「する」っていうより「ある」とか「いる」だと思うけどまぁ便宜上)

533避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 03:45:08 ID:YAWI8URw0
初歩的な質問で悪いけどそもそも阿頼耶識って何?
それと自我を消した後ただ心の作用を観察してればいいの?

534避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 04:25:15 ID:YAWI8URw0
認識(阿来耶識)から関連付けされる記憶の観察?
533の心の作用の観察は忘れて

535避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 07:16:22 ID:czRftzgI0
>529
今までの問答で何をするかはわかっているので、実践するだけです
どうもありがとうございました

536避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 18:05:30 ID:YAWI8URw0
>>532〜534の質問はやっぱり答えなくて良いです
自己解決出来ました

537避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 18:29:00 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
気づきが起こるまで観察し続けるしか無いのでしょうか?

538避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 18:32:31 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん

このサイトの人↓は悟っていますか?
http://houtokuji.a.la9.jp/jikonokaiketsu.html

539鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/11(月) 20:53:00 ID:1d4drIFg0
>>531 善かったのじゃ。
 それにも囚われずに進むとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>535 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>537 そうじゃ、観察は気付くためにあるものじゃ。
 気付くまで観察し続けるのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 
>>538 悟っていないのじゃ。
 仏教とは関係ない感情の高振りを書いているだけなのじゃ。
 無意味なのじゃ。

540避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 21:01:16 ID:vd1QzfGM0
525です、ありがとうございました。

541避難民のマジレスさん:2017/09/12(火) 05:51:58 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚
私は性格的に理論的に物事を見ていく傾向があるので、語らせてください。

見えるものと見えないもの
目の前に林檎があるとして、それは、感覚、知覚、知性、知識などによって受け取られた仮象です。だから、本来は林檎など無いと言えますね。
しかし、人間が認識するとき、林檎は生まれる。
また、「林檎」が「割れた」とか、形態の変化も見ますが、これも、人間的な解釈であり、それ自体は本当は変化していないと言えます。変化は人間がそう見るからそう見えるだけで。
林檎が現象であれば、勿論、我々自身も同じですね。林檎が割れたが言語現象ならば、私の死も仮象に過ぎません。認識の世界(有の世界)があるならば、それを支える認識を越えた無の世界のようなものがあるはずです。その無こそが我々自身では無いでしょうか?

542避難民のマジレスさん:2017/09/12(火) 05:58:40 ID:o7TfOr0I0
結局、無自体は認識出来ないので、無以外の見える世界だけを見ていくと、切り絵のように無の輪郭が見える。・・おしいとこいってますか?
鬼和尚が言われる、悟りとは、この無の領域を知ることではないでしょうか?
我々や世界の実体が「無」なのであれば、何かに生まれ変わるとか、不死であることなども、納得できるんですよね

543避難民のマジレスさん:2017/09/12(火) 12:45:07 ID:t8PlW.qA0
鬼和尚さん、苦滅について教えてください。

例えば、会社など組織の中でうまく楽をした人がいて、その分、自分が労力を払わないといけない時、すごく苦が生じます。
原因は、他人のせいで自分の生存のためのエネルギーが減ってしまうと思ってしまうことと、不公平感です。
こういう場合は、どう観察すれば原因がなかった場合を想定できますか?
なかなか他人のせいじゃないとも思えないし、不公平でも仕方ないとも思えないので、苦を滅することができません。
どうしたら良いでしょうか?
もやもやして疲れてしまいます。

544香雪:2017/09/12(火) 18:43:07 ID:nV2bV5Bs0
鬼和尚様
認識についてのご質問です、よろしくお願いします。

眼耳鼻舌身意に接触する前の段階が観えれば認識を観たことになるのでしょうか?
記憶からイメージもしくは言葉が想起され、それを空と観ることはできるようになりました、時々。
以前に伺った際には、何かがあると感じた時点で既に認識は作用しているとのことでしたが、
これは、何らかの気配を感じているが、記憶への依存が起こる前に観るということですか?

545鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/12(火) 22:00:24 ID:1d4drIFg0
>>540 どういたしまして、またおいでなさい。

>>541>>542 そうじゃ、無であればそこには我々も無いじゃろう。
 無自己なのじゃ。
 そして無認識に至って大悟徹底なのじゃ。
 想像すらも超えたその境地に進むのじゃ。

>>543 苦がなくならないのならばその原因は正しいものではないのじゃ。
 自分の本心を飾らずに受け入れるのじゃ。
 例えばそれは実は自分自身が楽をして他人に労力を払わせたいと思っているからかもしれん。
 その真の欲求と逆になるから苦になるのかもしれん。
 そんな欲求が無ければ苦にはならないと観察するのは容易なことじゃ。
 どのようなものであっても自分の本心を飾らずに受け入れ、観察する以外にないのじゃ。
 
>>544 無我にならなければ認識は見えないのじゃ。
 我があるのに認識を観ようとしても我が邪魔をするのじゃ。
 認識主体である自我がそれを見ることはできないという観念があるからのう。
 先ずは無我を目指すがよいのじゃ。

546香雪:2017/09/12(火) 22:14:11 ID:nV2bV5Bs0
鬼和尚様
なるほどやはりそういうものなのですね。
自我を消していくのもやはり手探りな感じですが、
おっしゃられる通り、一つ一つ片付けて無我を目指していこうと思います。
ありがとうございました。

547543:2017/09/13(水) 00:23:00 ID:0GihLr0IO
>>545
鬼和尚さん、ありがとうございます。

じつは今日この質問をした後で、その人と相対する場面があり、私は何故かその人に別のことを訴えていました。
自分では些細なことだと思って過ごしてきたことで、労力とは関係ない、ちょっとした精神的なストレスになっていたことについてです。
その事を何故か相手に話しながら、その時は自分でもあれ?と思っていたのですが、話が終わってみると、労力についての苦が消えていました。

つまり、その直前まで不満に感じて苛ついていたり、このストレスの原因だと思考していたことが、さっぱり外れていました。
本心では労力についての不満があったのではなくて、別の些細なことにものすごいストレスを感じていたみたいです。
実際はそのストレスで疲れていたようで、疲れまでとれてしまいました。

それでちょっと混乱しそうなのですが、これはどういうことなのでしょうか?
これが感情や思考は自分ではないということですか?
つまり、思考や感情も本心とは関係なく勝手にやっているだけということでしょうか?
でも、些細なことにストレスを感じていたという本心?も大層なことではないので、何だか勝手な動きのような気もします。
本心とは一体何のことなのでしょうか?

548避難民のマジレスさん:2017/09/13(水) 10:43:58 ID:vd1QzfGM0
行為者の感覚が消える地点、すなわち「自分が行為を行っているんだ」という誤った感覚が消える地点は
鬼和尚が「観照」と呼んでいる現象が起き、無我に至ったのと同じ地点でしょうか?

また、そうであるなら「行為者なんて元からいなかった、ということがわかった」とおっしゃっている非二元の先人達は
鬼和尚の教えでいう「観照」が起き、無我に至った人である(無認識まで至ったかはわからないが少なくとも無我までは)、と判断していいのでしょうか?

549鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/13(水) 22:34:46 ID:1d4drIFg0
>>546 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>547 それはまだおぬしが自分の本心を把握していないということなのじゃ。
 自分が今知っていることより他に本心があり、それを知らないのじゃ。
 本心とは偽らない心なのじゃ。
 自分の心を偽っていれば本当は自分がどのように感じ、どのように反応するかわからなくなるのじゃ。
 偽らない心を受け入れ、見るようにすれば本心はわかってくるのじゃ。

>>548 そのような理解でよいのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

550543:2017/09/14(木) 00:56:37 ID:FocWw5K20
>>549
鬼和尚さん、ありがとうございます。
そうか、この状態は自分が、何をどう感じどのように反応するかがわかっていない状態なのですね。
そう思って今回のことを捉え直してみると、自分で些細なことと決めつけていたことは、本心にとってはとても重要なことだったということになります。
自分の価値観や性格はそこに強く影響されるものだったわけです。

私は自分のことがわかっていなかったせいで、その些細だと決めつけていたことが大きな苦の原因になることが推測できませんでした。
自分のことをわかっていれば、すんなり今の苦の原因がわかって解決も早かったはずです。
自分の知らなかった面を知ることができたことに、今ようやく気づきました。

たぶん他にも自分で気づいていない自分の本心があるはずなので、探っていきます。
今回は自分でも意外でした。
鬼和尚さんに質問しなければ、苦がなくなってそれで終わってしまっていたと思います。
ありがとうございました。

551そらいろ ◆EHlCk/f57s:2017/09/14(木) 01:45:54 ID:F20GGGvA0
鬼和尚
世間には、人が生まれてから死ぬまで、あらゆるしくみや決まり事があり、自由などほとんどないのですね。
そして大抵の人は、しくみや決まり事に見事に従っているのですね。
従うかどうかは、自主的に選択しているのかと私は思っていたのですが、そういうわけでもなさそうで、わりと盲目的なのですね。
そういうことが私の思っていることとは全く逆なんです。

私はこれまでずっと世の中に対して違和感を感じていましたが、それは私の考えとは違うからだとわかってはいたんですが、実はわかっていなかったと言いますか、ようやく気付いた感じです。
うまく認識出来ず、ギャップばかりを感じていました。
何かあると「信じられない」と思っていました。日常的にです。
それをスルーし他人を見ず自分を見るのが修行と思ってやってきました。

しかし、ようやくギャップ=苦の元は私の考えだということもわかりました。

いつどうやってその考えを持ったのかはわからないので、前世と関係あるのかなと思ったりもしていました。

違和感の正体は、土居健郎著「甘えの構造」とか山本七平著「空気の研究」とかルース・ベネディクト著「菊と刀」などに書いてあることはあてはまるなと思っていましたが、なんの解決にもなりませんでした。
むしろ、あれも違う、これも違う、ということを考える材料にしていました。

552避難民のマジレスさん:2017/09/14(木) 05:58:57 ID:YUVcWBgU0
>>551
山本七平はいかがわしい人物だから信用してはいかんのじゃ。

553541:2017/09/14(木) 18:01:55 ID:o7TfOr0I0
ありがとうございます。
確かに、我々と言うのは、思考的な表現ですね。
全ては解釈です。
我々が経験する世界は全て現象です。
「区別」は人間の思考の働きで、本当にうごいて居るのは無と言う全体です。
椅子が倒れたと認識しますが、本来は椅子もなければ倒れることもなく、なにも動いてない。
何かが動いているように見えるのは心の働きです。
無門関に出てくる、旗が動いているのか、風邪が動いているのか、いや、心が動いているのだと言う結論は、本当にその通りです。
全ては自分の心です。鬼和尚も私も心の反映で、有の世界は自分の心の世界です。

554541:2017/09/14(木) 18:08:39 ID:o7TfOr0I0
こうやって、会話していても、自分の心からレスポンスを貰っている訳で、自分の理解力以上のものは認識できない。
だから、相手から何かを得ようとしても無駄なのだ。洞窟の壁の絵と会話しているようなもの。
本当に欲しいものは壁の絵からは受け取れない。
全ては無から流出した仮象である。

555541:2017/09/14(木) 18:14:03 ID:o7TfOr0I0
かといって、流出を留めることはできるのだろうか。
例えば、完全性の象徴として、鬼和尚を生み出したが、、
無から不完全なる私が生まれ、私が生れたことにより、完全性を説く鬼和尚が生まれる。

556541:2017/09/14(木) 18:50:00 ID:o7TfOr0I0
何故、無は安定しないのか、どうして有を生み出すのか
その本性が無だと解っていながら、有を生きるしかないのか

557541:2017/09/14(木) 19:58:46 ID:o7TfOr0I0
有を滅ぼす事ができるようになった。
有はまた立ち上ってくるだろうけれど、
その都度、滅する事が出来る

558避難民のマジレスさん:2017/09/14(木) 20:09:20 ID:czRftzgI0
思うに公案は問の中に思考を回させるような種が仕込んである。例えば、達磨はなぜ中国に来たかは、なぜという言葉によって理由を懸命に探させるよう誘導する。しかし、達磨が来たことをありのままに見ればそこには理由も何もなく来たという行為があるのみである。こうした公案はトンチ問答のようなもので、いきすぎると本来の悟りから離れてしまうだろう。
と最近考えた次第です。

559541:2017/09/14(木) 20:46:26 ID:o7TfOr0I0
有を滅ぼすと、無と言うストレスゼロの最高に幸せな境地に立てるのですが、それは、人々が、大抵、悪夢の中に居るからで、滅ぼす事が出来ると言うことは作り出す事も出来る訳で、
有を宝物のように磨きあげる事も出来る。
有は素材に過ぎないからね。
だけど、子煩悩と言うように、最高の宝が苦しみを生み出す場合もありますね。
鬼和尚が「人に親切にするのじゃ」と言うのは、有を愛に変えることで、愛の世界に包まれることが出来ると言う事なんでしょうね。

560541:2017/09/14(木) 21:06:04 ID:o7TfOr0I0
ただ、有に囚われた状態で親切にしても、恨みつらみも増えていく事が多いし、振り回されて消耗したりする。
やはり、無と言う自他未分離の境地での自然なふるまいが愛に繋がるのかなと思います。

561541:2017/09/14(木) 21:17:22 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。無認識と言うのは、認識が無の基盤に立っていると理解していることとは違うのですよね?
鬼和尚も、鬼和尚と名乗っている認識はあると思うのですが、その認識が虚構であると、知っている状態を無認識としていますか?
認識を認識している状態の事でしょうか?

562鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/14(木) 21:23:36 ID:1d4drIFg0
>>550 そうじゃ、些細なことでも本心を受け入れてこそ変化は起こるのじゃ。
 本心を認めなければいつまでもそのままなのじゃ。
 本心を見つめて進むのじゃ。
 またおいでなさい。

>>551 それはむしろ家族などから条件付けされた考えじゃろう。
 友人なども同じ価値観を共有するのじゃ。
 自分の本心を真摯に見るのじゃ。

>>553 善かったのじゃ。
 後は実践あるのみなにのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>558 そうじゃろう。
 それもまた本来は必要無いものじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

563鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/14(木) 21:24:23 ID:1d4drIFg0
>>561 そのような理解でよいのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

564541:2017/09/14(木) 21:33:48 ID:o7TfOr0I0
全くの無認識だと、車の運転が出来なくなります。鬼和尚さんは運送業だと聞きましたが、道路標識は認識しないのですか?

565541:2017/09/14(木) 21:39:36 ID:o7TfOr0I0
実践とは何の実践になりますか?
あえて言えば今、認識に囚われずに生きると言うことを実践しています。
たまに、現象を実体化してしまうことがありますが、「色は私を離れてあるだろうか」「形は私を離れてあるだろうか」「臭いは私を離れてあるだろうか」「やっぱり無があるだけだ」と気が付きます。これを、ある種、仏法の実践ととらえてよろしいでしょうか?

566そらいろ ◆EHlCk/f57s:2017/09/14(木) 22:00:17 ID:F20GGGvA0
>>562
ありがとうございます。
家族の行動を見ていると私と逆なので家族ではないと思います。
幼いころ親から言われたことに疑問を持ったことは記憶しています。
友人はいますが、同じ価値観を共有できたと思える人はいません。
もし同じ価値観を持ったなら、私と同じように苦悩を持つのではないかと思います。

567避難民のマジレスさん:2017/09/15(金) 00:23:41 ID:vd1QzfGM0
>>549
ありがとうございました。

568避難民のマジレスさん:2017/09/15(金) 18:51:42 ID:.d4fjvgs0
鬼和尚さま

微細身やサトルボディとは何なのでしょうか
鬼和尚さまが気と言っているのと同じようなものですか?

ヴォパッサナーでも微細身を感じられるようにするといいなど言う人がいますが、
観察と関係ありますか?
観察が繊細になっていくと自然と感じされるものなのでしょうか?

自我や認識を滅したり悟りの修行になりますでしょうか?

569鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/15(金) 22:40:47 ID:1d4drIFg0
>>564 認識も無認識も使えるのじゃ。
 自在なのじゃ。

>>565 止観をすると善いのじゃ。
 集中し、自らの本心を観察するのじゃ。
 
 本心を観察していないと無意味なのじゃ。
 本心を観るのが仏法の実践なのじゃ。

>>566 常に真摯に本心を観察していれば原因にも気付くじゃろう。
 体験によって作られたものかもしれん。
 本心を観るのじゃ。

>>567 どういたしまして、またおいでなさい。

>>568 それらもまた妄想なのじゃ。
 気とは違うものなのじゃ。
 観察によって真実に気付けば妄想と知れるのじゃ。
 修業にはならないのじゃ。
 囚われれば煩悩にもなるものじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

570541:2017/09/15(金) 23:28:54 ID:o7TfOr0I0
例えば、「女の子にもてたーい」みたいな本心があったとして、観察して、理解したら、どうしたらよいでしょうか

571避難民のマジレスさん:2017/09/16(土) 00:56:15 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
観察するのが辛いのですが、苦が無く観察し続ける方法はないのでしょうか?

572568:2017/09/16(土) 06:20:50 ID:88jKuaRs0
>>569

そうなんですね。
自分は凡夫でも判断しやすいる修行の方法では無執着が一番だと思ってまして、
何であれそれに囚われないように気をつけています。

これからも囚われないように気を付けていきたいと思います。
ありがとうございました。

573鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/16(土) 21:48:38 ID:1d4drIFg0
>>570 それはおぬしの人生の目的によって異なるのじゃ。
 悟りを得たいと想い、そのために邪魔になるならば原因から観察して滅すると善いのじゃ。
 邪魔にならないならば放って置いて善いのじゃ。
 特に悟りを求めていないならばもてもてになるように努力すればよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>571 集中が深くなれば苦は無く観察できるじゃろう。
 自分を忘れられるからのう。
 上から自分を見ている感じになるのじゃ。
 肉体の反応はあるがそれはもはや自分の苦ではないのじゃ。
 そこまで至るのに精進あるのみなのじゃ。

>>572 そうじゃ、囚われずに進むのじゃ。
 またおいでなさい。

574541:2017/09/17(日) 04:44:42 ID:o7TfOr0I0
女の子とやりたいと言う本心の原因が、結局のところキンタマ(睾丸)だとしたら、悟りを得るために睾丸除去手術をしなくてはならないのでしょうか?

575鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/17(日) 21:45:52 ID:1d4drIFg0
>>574 それが修業の妨げになっているならば観察すると善いのじゃ。
 そうでなければ何もしなくて善いのじゃ。
 悟りを得るのでないならばナンパでもするとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

576541:2017/09/17(日) 21:53:11 ID:o7TfOr0I0
観察してもキンタマは無くならないかと。

577避難民のマジレスさん:2017/09/18(月) 06:09:50 ID:fpGbb5P20
>>530ご教授ありがとうございました。
活動量計を購入してみました。計測しているのは心拍数と体の動きのようです。
不安や興奮があるとき、心拍数が上がるのが数値でわかり面白いです。
止の行のとき、心拍数が下がるかと思いましたが、むしろ少し高いようです。
行が上達すると心拍数は下がりますか?

578避難民のマジレスさん:2017/09/18(月) 07:49:58 ID:DAY232aw0
>>571ご回答ありがとうます。
質問ですが、新しい何かに気づくまで観察し続ければ良いのでしょうか?

579避難民のマジレスさん:2017/09/18(月) 09:16:07 ID:DAY232aw0
>>578ご回答ありがとうございますです。
すいません。

580避難民のマジレスさん:2017/09/18(月) 12:31:28 ID:rIFRVnQI0
感情と身体反応は同じものでしょうか?

観察していると、身体反応→感情となっている時もあるようです。

身体的にお腹の辺りが重たい・窮屈・熱い 感じだと、怒りが生まれやすいようです。
反応として、怒りに変換されやすいといいますか…。

恐怖は身の毛がよだつような背筋がゾワゾワっというような感覚です。

可笑しい事があれば腹がゆれますし、
悲しいは胸が苦しく涙が出たりします。

安らぎや安心は暖かく身体に力の入っていない状態です。

緊張や不安は身体の特に肩あたりに力が入っているし 呼吸も浅くなります。
(普段はこの状態が多いです)

感情を、
このような身体反応として観察するのですが、その反応に飲み込まれないようにするのが、感情と離れる事なのでしょうか?

それとも、それが起こる原因を観察し、身体反応そのものが出来るだけ起きないようにすることでしょうか?

581避難民のマジレスさん:2017/09/18(月) 21:06:56 ID:Jw3dzeXk0
鬼和尚さん

子供の頃、狡いことをしてはいけないと厳しく教えられてきたことが原因で、他人が狡いことをすると必要以上に怒ってしまいます。
そして、自分も狡いことをすることを許せないので、他人が狡いことをすることを許せません。
でも、それが苦を生んでしまう場合があるし、よく考えれば誰しも狡さを隠しているだけです。
他人を許せるようになるには、どうしたら良いですか?
上手くいかないので教えてください。

582鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/18(月) 21:25:32 ID:1d4drIFg0
>>576 百年すればなくなるじゃろう。

>>577 下がるじゃろう。
 神経が落ち着くからのう。
 さらにどんどん試してみるのじゃ。

>>578>>579 そうじゃ、続けるのじゃ。
 注意して心を観察するのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>580 同じではなくそれらは連携して起こるものじゃ。
 そうじゃ、反応をも飲み込まれないように観察するのじゃ。
 反応は起こるままにしておくがよいのじゃ。
 それは起こっては消えていく性質のものと気付くじゃろう。

>>581 そのように原因がわかっていれば全て観察して滅することも出来るのじゃ。
 親に教えられたから狡いことが許せず怒りが起こり、それがなければ怒りも無いと観察するのじゃ。
 何度も観察すれば消えるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

583避難民のマジレスさん:2017/09/19(火) 18:51:50 ID:czRftzgI0
通常、感覚→認識→分別→感情という反応のところを、トラウマは感覚→認識→感情と反応すると聞きました。悪口などを聞いたときの苦の感情の記憶が強すぎて思考を飛ばしていきなり反応が出てしまうからだと思います。そうなのですか?
そうだとしたら、トラウマを滅するときは感覚から感情が起きる過程を観察するのがいいのですか?

584避難民のマジレスさん:2017/09/19(火) 19:12:28 ID:sVk/xi5.0
>>582
鬼和尚さん、ありがとうございます。

狡さについては少しずつ洗脳が解けてきたような感じですが、今度は自己イメージとの同一化が止まりません。
自己イメージを汚されて、被害を被ったという怒りが止まりません。
以前は、自己イメージは自分の肉体でも財産でもない、と思っただけで苦がなくなったのですが、今回はそう思ってもやっぱり被害を受けたという気持ちが起きてきます。

苦を観察してみると、相手に同じだけの被害を与えるか、弁償させたいというような、自分の財産を奪われたのと同じ気持ちです。
さらにどう観察したらいいのでしょうか?
昨日からずっと怒っていて、それでも怒りが止まらないので疲れました。

585鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/19(火) 21:42:21 ID:1d4drIFg0
>>580 全てそのような反応なのじゃ。
 分別を思考と思っているようじゃのう。
 分別は思考ではないのじゃ。
 パターンによって認識する作用の一部なのじゃ。
 ものごとをあれこれと分けて記憶と合わせる働きなのじゃ。
 思考は感情の反応の後に起こるものじゃ。
 全てを固定観念がない状態でありのままに観察するのじゃ。
 
>>584 それは思っているからなのじゃ。
 記憶を観てしまっているのじゃ。
 以前に成功した記憶を思い起こして観察と思っているのじゃ。

 自己イメージを自分としてみている働きそのものを受けいれ、観察するのじゃ。
 そこから怒りも起こると観察するのじゃ。
 観察と思うことを明確にわけるのじゃ。

586避難民のマジレスさん:2017/09/20(水) 07:00:00 ID:czRftzgI0
分別は思考ではなく脳の反応ということですか?
感情後の思考は、あんな事言いやがってとかなんて嫌なやつだとか思うことですか?

587避難民のマジレスさん:2017/09/20(水) 12:52:05 ID:DAY232aw0
>>578ご回答ありがとうございます。
質問ですが、真の観察とは一体何のでしょうか?

588避難民のマジレスさん:2017/09/20(水) 20:34:13 ID:t8PlW.qA0
>>585
鬼和尚さん、ありがとうございます。
思考と観察を区別できるようにしてみます。
悪戦苦闘していたら、自己イメージについての苦がなくなってきてしまいました。
観察できたというはっきりした感覚があれば良いのですが、自己イメージがそもそもはっきりしないものなので、何となく苦が消えてしまった感じです。
これでも観察できたのでしょうか?

それから、さらに観察していたら、狡いということよりもさらに、卑怯な人間に対する怒りがあることに気づきました。
狡いというのは、自己の利益のために動物でもそう動くと思えますが、卑怯というのは、動物でもあることなんでしょうか?
弱い者に対しては苛めていいとか、弱そうと見ると反射的に苛めているとか、そういう反応が許せません。
すぐに反撃しにくい場面だったのが悔しくて、怒りが湧きます。
もっとコテンパンにやり返したかったです。逃げられたのがムカつきます。
こんなに怒っているのはやはり原因があるのでしょうか?
どんなことが原因になり得ますか?

589鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/20(水) 22:26:06 ID:1d4drIFg0
>>586 そうじゃ、思考は認識や感情の後に起こるものじゃ。
 よく観察してみればわかるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>587 自らの心の働きをありのままに認め、認識することなのじゃ。
 それに何か働きかけようとしてはいかんのじゃ。
 好悪とかも起きればありのままに認めるだけでよいのじゃ。

>>588 苦が無くなったのならば出来ているのじゃ。
 思考できなくても気にしなくてよいのじゃ。

 あるかもしれん。
 肉食動物は子供とか病気のものとか弱いものから食べていくのじゃ。
 おぬしの心の中に原因があるじゃろう。
 親とかが弱いものをいじめる者には攻撃してよいと思っているものであったとか。
 自分の攻撃欲を満たすために卑怯な者を攻撃してよいと言ったとかじゃな。
 そのような原因を自らの心の中に探すのじゃ。

590避難民のマジレスさん:2017/09/20(水) 23:29:40 ID:czRftzgI0
続けてお願いします。
ある嫌なことを思い出して嫌な気分になった時、嫌な記憶で自分のイメージが傷ついたと自我は感じます。でも、記憶から嫌な気分になるのは自動で起こっていること。その過程には主体がないのにあると勘違いして主体像を投射し、自分が嫌な気分を感じていると思ってしまう。だから、自分が嫌な気分を起こしているわけではないことを観察して、結果そこに投射する主体がない事に気付き、自我を投射する作用をなくす。
これが無我の観察ですか?

591避難民のマジレスさん:2017/09/21(木) 02:28:37 ID:DAY232aw0
>>587ご回答ありがとうございます。
質問ですが、新しい何かに気付く事が大事なのでしょうか?

592避難民のマジレスさん:2017/09/21(木) 12:44:09 ID:ydE4b1w.0
質問です、例えば右足に対して強く自己同一化の観念を持っている人がいるとします、
その人は右足に対する観察だけ忘れていましたがその他の身体部位のほとんどを観察し、それにより
厭離し、最終的には観照が起きて無我に至ったとします。

しかし、右足に対する自己同一化の観念を観察するのを
忘れていたのであれば何か機会があれば自分を右足だと思ってしまうことになる右足に対する自己同一化の観念は残存したままなんでしょうか?

つまり観照が起き、無我になったとしても自己同一化の観念の残りかすみたいなものは個別に観察されない限り残り続けるということでしょうか?
そしてそのような観察しそこなった自己同一化の観念も認識を滅してしまえばその他のすべての観念と一緒に
消滅するんでしょうか?

593避難民のマジレスさん:2017/09/21(木) 12:50:31 ID:ydE4b1w.0
訂正です

× つまり観照が起き、無我になったとしても自己同一化の観念の残りかすみたいなものは個別に観察されない限り残り続けるということでしょうか?
そしてそのような観察しそこなった自己同一化の観念も認識を滅してしまえばその他のすべての観念と一緒に
消滅するんでしょうか?

◎つまり観照が起き、無我になったとしてもそれまでの過程で観察し忘れてしまった自己同一化の観念の残りかすみたいなものは個別に観察されない限り無我に至ったとしても残り続けるということでしょうか?
しかし、そのような観察しそこなった自己同一化の観念も認識を滅してしまえばその他のすべての観念と一緒に
消滅するんでしょうか?

594541:2017/09/21(木) 18:46:06 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。5年前鬼和尚に宣言した通り、生活を楽にする為に資産を作りました。また、好きなことも片っ端から始めました。哲学も極めた、法学も、宗教も、音楽も、科学も、瞑想も、だが、私は退屈なのです!

595541:2017/09/21(木) 18:51:36 ID:o7TfOr0I0
あとは、女かな。ハイデガーもアーレントと言う恋人に狂ったそうだが、俺も狂いたい。

596541:2017/09/21(木) 19:55:00 ID:o7TfOr0I0
でもね。本音を言うと疲れたから寝たいんだよ。
疲れることはしたくないと言うのも本音、美女をつれ回したいのも本音

597避難民のマジレスさん:2017/09/21(木) 19:55:09 ID:DAY232aw0
>>591スルーしてください。すいません。ありがとうございます。

598避難民のマジレスさん:2017/09/21(木) 20:00:29 ID:t8PlW.qA0
>>589
鬼和尚さん、ありがとうございます。
観察の状況を思考できなくても良いのですね。
観察できているかどうかがいまいちわからなくて試行錯誤なのですが、何となく気づいて、何となく厭離されていくということでも良いのでしょうか?

卑怯な人に対する怒りも、何となく消えてきてしまいました。
親など周りの人の考えもあるし、子供の頃に卑怯な人に出会って恐怖を感じたりしたことなど、いくつかの複合的なものが原因のようで、それらの原因について思い出していたら何だか怒りがなくなってきました。
それに、卑怯さというのも縁による自動的なものだと思えてきました。

でも、苦の場合は、苦が消えることで観察できているかがわかるかもしれませんが、自分を観察するときも、こんなに曖昧で良いのですか?
何だか心許ない感じです。

599鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/21(木) 21:13:15 ID:1d4drIFg0
>>590 そのような理解でよいのじゃ。
 それが十二因縁の正確な理解なのじゃ。
 苦から自我の観念まで完全に観察する事で全て厭離できるのじゃ。
 後は実践在るのみなのじゃ。

>>591 そうじゃ、その心構えが大事なのじゃ。
 一日で気付けなくとも日々続けることで自我にも気付くのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>592 そのようなことはないのじゃ。
 一度、厭離が起こってしまえばもはや戻らないのじゃ。
 自我が観念であると気付いたのであるからのう。
 もはや何を観ても無我なのじゃ。
 その後に無認識にも至るのじゃ。

>>594->>596 寝たらよいのじゃ。
 女子もナンパしたらよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

600鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/21(木) 21:17:00 ID:1d4drIFg0
>>598 それでよいのじゃ。
 観察は知識を固定することが目的ではなく、厭離を起こすことが目的であるからのう。
 苦が厭離されればそれでよいのじゃ。
 気付くことによる厭離の過程は自動的に素早く起こる故に、それ自体を認識するのは困難なのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

601避難民のマジレスさん:2017/09/21(木) 21:32:04 ID:czRftzgI0
>590
どうやら理論的な理解はこれでいいようで安心しました。所詮頭でわかっただけなので、実感できるよう瞑想に励みたいと思います。
面倒な質問にお付き合い頂きありがとうございました

602避難民のマジレスさん:2017/09/21(木) 21:44:01 ID:DAY232aw0
>591.>597ご回答ありがとうありがとうございます。わざわざすいません。実践して行きます。

603避難民のマジレスさん:2017/09/22(金) 00:28:50 ID:ydE4b1w.0
592です

ということは「自分は〜である」といった自分が何者であるかということに関する観念は消えるが、
それ以外の観念((例)これはパソコンだ)は残るということでしょうか?

前者のたぐいの観念は無我の段階で消えて、後者の様な観念は認識を滅したときに消えるということ?

604541:2017/09/22(金) 05:03:42 ID:o7TfOr0I0
女子をナンパすることと悟りは矛盾しませんか?
ナンパしつつ事業も成功させ悟ることもできますでしょうか?
或いはナンパしたいと言う本心を観察して滅却することもできるのでしょうか?

605541:2017/09/22(金) 18:59:24 ID:o7TfOr0I0
ひとり部屋の中で心を観察している時に、欲望が現れなくても、生活空間に女が現れた時に連動して欲望も生じる事があるよね
逆に、現れを深く観察すると、欲望が消えてしまう事もある。
さて、どうしたものか。

606避難民のマジレスさん:2017/09/22(金) 20:27:07 ID:FocWw5K20
>>600
鬼和尚さん、ありがとうございます。
囚われずに進んでみます。

ところで、進むというのは、自分だと思っているものは何かということを探っていけば良いのですよね?
そして、自分だと思っているものを観察して厭離していくことが、進むということで良いですか?

607鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/22(金) 22:09:59 ID:1d4drIFg0
>>601 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>602 どういたしまして、またおいでなさい。

>>603 そのような理解でよいのじゃ。
 後は実践で確めるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>604 悟りを求めていない者はナンパするとよいのじゃ。
 悟りを求めるならば止観を修業するとよいのじゃ。
 全部は無理じゃろう。
 一つ一つ実現するとよいのじゃ。
 それも観察によって滅することが出来るじゃろう。

608鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/22(金) 22:12:34 ID:1d4drIFg0
>>605 自分が本当はなにをしたいのか本心を明らかにするとよいのじゃ。
 それによって道も決まるのじゃ。
 本心を観るのじゃ。

>>606 そのような理解でよいのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

609避難民のマジレスさん:2017/09/23(土) 10:05:20 ID:zvPsXPv60
お尻が痛いので立禅でもよいでしょうか?

610避難民のマジレスさん:2017/09/23(土) 11:49:53 ID:ydE4b1w.0
>>607

ありがとうございました。

611避難民のマジレスさん:2017/09/23(土) 19:08:27 ID:4r9Nyxn.0
>>608
鬼和尚さん、ありがとうございます。
改めて自分を見ようとしたんですが、苦を感じていることが多くて、苦の観察ばかりになってしまいます。
苦の観察だけで悟ることはできますか?
それとも、苦の観察以外の自分についての観察もした方が良いですか?

612541:2017/09/23(土) 19:10:04 ID:o7TfOr0I0
本心からなにもしたくないですね。
この詰まらない結論。もう少し大恋愛したいとか、悟りを得たいとか、政治家になりたいとか、無いのかと思うが、なにもしたくないと言う糞みたいな本心

613避難民のマジレスさん:2017/09/23(土) 19:36:28 ID:4r9Nyxn.0
すみません、もう1つ質問させてください。

鬼和尚さんの以前のブログに、執着の原因がまた執着である例として、
「例えば子供の頃におもちゃを買えなかったから、今、いろいろなものを集めているが求めても得られない苦が起こるとかなのじゃ。」
と書かれているんですが、この話の場合は、実際どうしたら執着がなくなるのですか?
子供の頃に得られなかったものを今手に入れても苦がなくならないのなら、その気持ちはどうしたら収まるのでしょうか?
過去に戻れないと取り返せないと思ってしまうような執着心などは、どうしたら良いのでしょうか?

614541:2017/09/23(土) 20:06:26 ID:o7TfOr0I0
やりたいことをやりつくしてしまった。
鬼和尚。困った。

615鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/23(土) 21:07:22 ID:1d4drIFg0
>>609 善いのじゃ。
 いろいろ試してみるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>610 どういたしまして、またおいでなさい。

>>611 苦の原因を次々に追求していけば自我に行き当たるじゃろう。
 全ての苦の根本は自分があるという観念なのじゃ。
 その観念によって苦があると気付けば無我になり、悟りも訪れるじゃろう。
 ただひたすらに本心を観察し続けるのじゃ。

616鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/23(土) 21:10:11 ID:1d4drIFg0
>>612>>614 それは善かったのじゃ。
 何もせずただ座り続けるがよいのじゃ。
 自然に悟りも訪れるじゃろう。
 
>>613 元になった執着の原因を追究するのじゃ。
 それが孤独感であり、自分があるという観念が更にその原因であると気付けばなくなるのじゃ。
 原因から起こる事を観察していけば収まるじゃろう。
 それも原因がわかり、観察すれば無くなるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

617避難民のマジレスさん:2017/09/24(日) 09:29:51 ID:czRftzgI0
自己探求を続けてついに自分があることが苦の原因であることに気付きました。これで無我瞑想に専念できます。
和尚さんを疑ったこともありましたが、ここは本物だと思いますよ、皆さん。苦を気にしなくする他のスピ系と違ってここは根本的に苦を滅却するところだと思います。

618541:2017/09/24(日) 16:06:41 ID:G2RHzlNw0
鬼和尚。例えば、フェイスブックを見たら、元カノが結婚しており、凄いショックを受けたんですね。このショックは何だろうか?
じゃあ、その女と結婚したかったのかと言うと全くそんなことはなかったのですよ。
要は、私は、女と言うものを、自分を称える道具かなにかだと思っているのかもしれない。
つまり道具が意思を持ち、自分以外の者を支えている、その事実に不快を感じる。愛とは全く正反対の感情ですね。
これは、異性関係一般に関する本心に近いと思う。

619541:2017/09/24(日) 17:40:51 ID:o7TfOr0I0
本心と言うか本能ですかね。
他者を養分として自己を拡張しようというのは自然界でもよく見られる活動です。
ただ、他者も、全く同じ本能を持っているので、この欲求は必ずしも満たされない。
女も男も、自分を幸せにしてくれるパートナーを探している。
あれ?これって、悪いことじゃないよね。
つまり、貴方を食べさせておくれ、私を食べていいからと言う関係性だよね。

620541:2017/09/24(日) 17:55:27 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。本心には本能由来のものと、理性由来のものが有りませんか?
中世ならば悪魔の囁きと天使の囁きとも言えますが。
本能由来の本心は「みんな俺の奴隷になれ」でしょう。
しかし、人間はそう言う生き方が最悪であり、教官も得られず、自分も他人も傷つけて、地獄行きだと言うことを経験的にも直観的にも分かっている。

621541:2017/09/24(日) 18:05:44 ID:o7TfOr0I0
もはや、本心ではないんだよな(笑)
本心ではなくて、幾度もの反省を経て鍛えられた良心なんだよ。
良心は、恋人の幸せを祝ってやりなさいと言っている。ただ、それは社会的仮面で、本心では、悔しー!!俺の女取りやがって、ボケが!ぶん殴ったろか
と言う訳だ。

622541:2017/09/24(日) 18:14:39 ID:o7TfOr0I0
じゃあ、本心に従って、女を取り戻したらいいじゃないか?と言う話もあるだろうが、別にそこまでして取り戻したい女でもないと言う本心(最低だな)女そのものを愛しているのではなく、女に愛されている自分と言うイメージを愛している。さらに、女に袖にされた自分と言うイメージを嫌っている。

623541:2017/09/24(日) 18:33:02 ID:o7TfOr0I0
仏教的に不思議な話ではなくて、お釈迦様も「私は、東西南北探し回ったが、己以上に愛しい存在を見つけられなかった」と言っている。これこそ、まさに本心の告白ですよ。自分の生存を不利にすることが嫌だから、恋人と結婚するのも嫌だが別れるのも嫌なわけだ。

624541:2017/09/24(日) 18:42:49 ID:o7TfOr0I0
何故悟りを求めるかと言うと、これら矛盾や分裂を止揚する究極の答えがあると思うからなのだ。
だらか、本心が「女の娘とセックスしたい」であったとしても、突き詰めて行くと「そう言うことも含めて、苦しみから解放されたい」でしょう。
だから、「女とセックスしたい」と「悟りを得たい」は表裏一体なんですよ。「煩悩」があるから、その滅却もありえるわけで、煩悩が強いほど、悟りへの希求も強くなる。心のシステム上、どっちかだけ削ると言うわけにはいかないのです。

625541:2017/09/24(日) 18:50:09 ID:o7TfOr0I0
所で、何故私が元カノが結婚してショックなのかと言うと、「アイツら俺にたいして優越感に浸ってやがるな」と考えるからなのです。それは、私がそう言うことを通して優越感に浸りたいからそう思う訳です。つまり、自分の邪な心が自分を傷付け陥れている。釈迦は清い心を持ちなさいと言った、イエスも邪な心で女を見るなと言った。
それは、全部自分に反ってくるから。もし、私が結婚と言う現象と優越感を結び付けなければ、誰が結婚しようと劣等感に苛まれたりしないはずだ。

626541:2017/09/24(日) 19:06:03 ID:o7TfOr0I0
よく、幸せになりたいと言うが、幸せと不幸せの対立概念だから、幸せなろうとすると、不幸せが襲ってくる事になる。
幸せと言う概念と金持ち、結婚、悟り、地位や名誉と結び付いているから、それらの欠如が不幸せとして襲ってくる。幸せを滅却しないと不幸せも消えない事になる。
もし、この世に幸せと言う現象が無ければ、不幸せもない。順観、逆観してみる。

627避難民のマジレスさん:2017/09/24(日) 19:41:12 ID:r3AdvIzY0
>>615
>>616
鬼和尚さん、ありがとうございます。
苦の観察でも悟れるなら、とりあえず苦の観察だけを続けてみます。

そこでまた質問なのですが、私の苦の半分以上は劣等感なのですが、これも最終的には自分があるという観念から起こるということですか?

私の劣等感は、とくに誰と比べて劣っているということはないのですが、自分は劣っているという気持ちがどこかにあって、人と関わるときに苦を感じることが多いという感じのものです。
大体いつも子供の頃の経験がその苦の原因だったりするので、その記憶を思い出すと苦が減るのですが、自分があるという観念から、それが起こっていると感じたことはあまりない気がします。
劣等感が自分という観念から起きているというのは、どうしたら実感できるでしょうか?

628鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/24(日) 21:22:14 ID:1d4drIFg0
>>617 善いことじゃ。
 おぬしも本物じゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>618->>626 そうじゃ、愛と執着は違うものじゃ。
 それがわかってよかったのじゃ。
 執着しなければ苦は無いのじゃ。

>>627 そうじゃ、自分という観念から劣等感も在るじゃろう。
 劣った自分という観念があるのは自分があるからなのじゃ。
 自分の観念とは自分の名前とイメージなのじゃ。
 心の中に自分の名前や顔かたちなどのイメージがなかったら劣等感はないじゃろう。
 心の中に自分の名前やイメージがある時、劣等感もあるじゃろう。
 そのように観じてみるのじゃ。
 実はそれは劣等感でもなく恐れとか不安かも知れん。
 自らの本心を観ることで全て明らかになるじゃろう。

629541:2017/09/25(月) 07:40:05 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚、人は本心では、別に金も欲しくないし、余計なことはしたくないんですよ
ねっころがってゴロゴロしていたいのが、大多数の人の本心だし、私の本心でもあります。
猫や犬でも、腹が減ってなければ、ゴロゴロしています。人間も基本的には同じはずですが、
これ重要ですが、人間は他者と共に生きると言う側面が大きい。犬猫よりも、個体生存性が弱い。
だから、犬猫に比べると、他者の目を意識する存在と言える。本心はゴロゴロしていたいのだけど、他者に嫌われたくないから、勤勉なふりをしたり、金を稼いだり、様々な努力をする。

630そらいろ ◆EHlCk/f57s:2017/09/25(月) 07:48:37 ID:HSM21ZvE0
鬼和尚
思考と本心は別ですか?

631541:2017/09/25(月) 07:51:31 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚、聞いてますか?
この本心と言うのが、結構、しょうもないもので、昨日と同じようにゴロゴロできればいいやと言うのが、殆どの人間の本心なんですよ
人間と言うか殆どの動物が、本心はこんなところにあります。
本心はゴロゴロしたいのに、他人に見栄を張るために、残業して高い車を買ったり、海外旅行して、自分を納得させている。

632541:2017/09/25(月) 08:00:00 ID:o7TfOr0I0
困ったことに、他人に見栄を張りたいのも本心なんですよ。ゴロゴロしたいのも本心だし、見栄を張りたいのも本心。
だからインスタグラムでリア充アピールされると誰しも内心穏やかじゃないんだよね
だがよ、この悔しー!と言う嫉妬のエネルギーを含めて本心なのかもしれないよ。

633541:2017/09/25(月) 08:07:15 ID:o7TfOr0I0
あと、人間の本心は「死にたい」と言うこともある。人間関係で八方塞がりになると、死にたいと思うよね。
ご破算願望ね。だから本心と言っても意外とろくなもんじゃないんだよ。

634541:2017/09/25(月) 08:13:21 ID:o7TfOr0I0
しかも、本心と言うのは現状を破壊する何の力も持っていないんだよ。
むしろ、現状を強化する方向に働く事が多い。
ただ、人間には「退屈」と言う気分がある。
これが襲ってくると、人間は、「あー、彼女欲しい!」とか「仕事辞めて独立しよう!」とかマジで思う事がある。つまり一定ではない。
さっきまで「ゴロゴロしたい」だったのに「彼女欲しい」に本心が移り変わりつつあるからね。
それは、太陽の動きとか気候の変化とも関係があるよな。

635541:2017/09/25(月) 08:21:31 ID:o7TfOr0I0
これはとある哲学者の人間存在の分析だけど、まず気分がやってくる、それを退屈と認識する(了解性)そして、「あー暇だ!」と「語る」
それを受けて「彼女欲しい!」などと可能性を見て、「ナンパしにいこう」などと、己を企投する訳だ。

636541:2017/09/25(月) 08:36:07 ID:o7TfOr0I0
俺は、三島由紀夫と言う人は、全部解っていた人だと思うんだよ。
彼は仏教に対する深い理解もあったし、当時最先端だった実存哲学なども理解していたと思う。
彼の絶筆は仏教の唯識論をテーマにしている訳だからね。
何かと言うと、彼は信念に身を捧げたと言うことだよ。誰かに作られた世界観ではなくて、自分の本心からの善、或いは究極の美のために身を捧げた。全身が信念の人なんだよ。どこをとっても信念しかない。だから、異質すぎるし、どこか気持ちが悪いようにも見える。

637541:2017/09/25(月) 08:41:39 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚なども、そうじゃないですか、自分でキャラクターを作り、その通りに生きている。
一切、世間と関係していない。その自我は「他者の眼差し」から生じているのではなくて、自分の意志や信念から生じている。

638541:2017/09/25(月) 08:48:15 ID:o7TfOr0I0
三島なんかも、エネルギーがビンビンに脈打っていたでしょう。
自分でキャラ作りをしていても、がらくたの寄せ集めで、生命が備わらない場合も多い。
ちょっと、からかわれれば、その演技は瓦解して、羞恥の渦に巻き込まれる
三島は、自衛隊に野次られても、自我崩壊したわけてわはなく、ちゃんと、古式に則り、切腹までやりとげた、これは演技で出来ることではない。
世間に一切迎合せずに、しかも血の通った信念がそこにあったのだ。
「認めてクレクレちゃん」ではないのだよ。

639541:2017/09/25(月) 08:55:27 ID:o7TfOr0I0
彼らはプッと笑われたら瓦解するような自我ではない
我々の自我は、キモーイなんて言われたら直ぐに瓦解して、世間にゴマすり始める。
多分、彼らの強さは、存在に死を内包することにある。
その信念の為に死のうと深く決意する事だ。

640541:2017/09/25(月) 09:01:47 ID:o7TfOr0I0
三島の偉いのは、あれでいて、ちゃんと家庭も持っていたと言う事だ。
一説によると、三島の家庭環境は複雑で、精神医学的にはかなり病的であったとも言われる。
三島は、あのような狂気の信念を持ちながら、ごく一般の孝行息子を望む両親の要請にもこたえているのである。
完全に全てを否定して、全てをゼロから作り上げないと出来ない芸当じゃないか?

641541:2017/09/25(月) 09:17:50 ID:o7TfOr0I0
俺は、三島のその姿が、淡々と善行を施す鬼和尚と被るんだよ(笑)

さて、このスレに来る皆さんなら気が付いているように、全ては自分の思考である。
だったら何を恐れるのだ?
全ての顛末を先駆的に受け入れる生き方をしようと思う。
つまり、クーデターが成功しようが三島由紀夫は三島由紀夫として生きる事が大事だった。
そこに、世間にちやほやされたいとか、誰かを見返してやるとか、奥さんに誉められたいみたいな意識は無いわけだ。
三島由紀夫が三島由紀夫として生きて死ぬ事だけが大事だった。
そのように、一切の後悔の無い、納得ずくの生を私も生きたい。

642541:2017/09/25(月) 11:17:37 ID:o7TfOr0I0
この一連の書きこみ、自分では意識していなかったが、現代思想の根幹に関わる問いのようでもある。つまり、いかに生きるべきか問題なのだが、
かつては、宗教や親父、天皇や世間がそれを決めていた訳だが、現代ではそれらの信用が全く無い。そこで、ハイデガーなどは「本心(良心)の声に従いなさい」と言うような事を言ったわけだ。
ただ、結果、ナチズムみたいなことになってしまい、本人も晩年はぼんやりとしたことしか言わなくなってしまったようだが、三島由紀夫がハイデガーに影響されていたことはあると思う。
ただ、死の先駆性の思想が直ちに民族主義に繋がるかと言うとそうでもないと思うし、繋がっちゃ悪いのかと言う論点もある。
それは鬼和尚を見ても解るが、生きながら死人となっている鬼和尚には民族主義も何も無い。
そこは趣味の問題だろう。
私は、そこまで、民族主義は思わないが、確かに、人間は歴史性と言うものをアイデンティティの根拠にしたがる傾向はあると思う。
ただ、死は、そう言った神話やお話を否定破壊してしまう。だから趣味の問題だと思うよ。
三島が生きる舞台装置として天皇や武士道が必要だったと言うことはあると思う。

643そらいろ ◆EHlCk/f57s:2017/09/25(月) 18:59:12 ID:HSM21ZvE0
鬼和尚
埋もれてしまっているかもしれませんので念のため、
>>630もお願いします。

644避難民のマジレスさん:2017/09/25(月) 19:02:04 ID:ydE4b1w.0
猫や犬のような動物にも阿頼耶識は備わっていますか?

645避難民のマジレスさん:2017/09/25(月) 20:00:19 ID:VdfIeYe.0
>>628
鬼和尚さん、ありがとうございます。
心の中に自分のイメージがなければ劣等感は起こらない、という言葉はとても分かりやすいです。
ありがとうございます。

それから、劣等感ではなく恐れや不安ではないかというのは、その通りです。
私は大人になるまで安心できる場所がなく、常に不安を抱えていました。
生きるのが不安でそれをなくすために生きてきたようなものです。
人と関わっているときも、相手が不安を感じずに、自分ばかりが怯えているので自分が劣っているように感じるのです。
鬼和尚さんに指摘されて、よく考えればこれは劣等感ではなく不安や恐れなのだなと思いました。

自分が脅かされるかもしれないという不安も、心の中に自分についてのイメージがなければ起こらないということで合っていますか?
不安がない状態を求め続けてきたので、不安がない状態が可能ならば、ぜひその状態を体験したいです。

心をよく観察すれば、心の中に必ず自分についてのイメージがあるわけではなくて、それがない時もあるということでしょうか?
それを確認することができれば、不安がない状態を体験できるのでしょうか?

646541:2017/09/25(月) 20:09:07 ID:o7TfOr0I0
話は変わるが、子供の頃、極度にボケーとすることで認識のフレームを外す方法があって、それをすると世界が突然回り出すと言う現象があったのだが、似たような経験したことある?子供の頃は出来たはずだが、大人になったら出来なくなった。鬼和尚は出来る?

647鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/25(月) 21:27:20 ID:1d4drIFg0
>>629 ->>646 そのように考える原因を自分の心の中に探すのじゃ。
 原因がわかればそれも消えるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>630 別と言えるじゃろう。
 本心は思考することも出来るが思考そのものではないのじゃ。
 むしろ思考によって本心を隠すこともあるのじゃ。
 本心は本当に思っていることなのじゃ。

>>644 あるのじゃ。
 ものごとを認識しているからのう。
 記憶によって行いを決めてもいるのじゃ。
 
>>645 そうじゃ、自己イメージがなければ自分が脅かされると言う不安も無いじゃろう。
 その原因を追究すれば不安も無くすことができるじゃろう。
 それは親に放置されたとか孤立したとかの原因があるのじゃ。
 原因から不安がおこり、原因が無ければ不安もないと心の中に観察するのじゃ。
 そうすれば消えるじゃろう。

648541:2017/09/25(月) 22:13:31 ID:NhrNGD3M0
鬼和尚。そのように考える原因は私がそのように考えたからで、それ以外に原因は無いですよ。
そのように考えなければ、そのような観念は生まれませんが、考えたからと言って苦痛が生まれるわけではないので、特に消そうとは思いません。

649避難民のマジレスさん:2017/09/25(月) 22:24:38 ID:ydE4b1w.0
644です、そうなんですか、
猫や犬は阿頼耶識を厭離しようと思ってもやはりできないんですかね?(猫が観察するところなんて想像つきませんから)

阿頼耶識って厭離する必要のあるものであるなら、厭離しようとしてもできない彼ら動物達がかわいそうに思えてきます。

650そらいろ ◆EHlCk/f57s:2017/09/25(月) 22:41:17 ID:HSM21ZvE0
鬼和尚
本心がわかったり、本心にしたがったりしている時は、苦はないでしょうか。

651そらいろ ◆EHlCk/f57s:2017/09/26(火) 03:13:21 ID:HSM21ZvE0
鬼和尚
ブログにも書いてありますが苦の観察はとても難しいです。
まずそれが苦なのかそれとも苦ではないのか、単なる思考とか雑念なのか、
それがわかることが難しい。
本当にメクラです。
また、それが苦であるとわかっても、
それがどの様な苦なのかそれがわかることもとても難しいです。
それがわからないとどこに原因を探していいのかもわかりません。

652避難民のマジレスさん:2017/09/26(火) 15:14:38 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、手を観察した場合、それが自己ではないという気づきが起こり厭離が起こる。

言ってみれば手からの厭離は簡単に起こるんですけど、
「目の裏のあたりに私がいる」という感覚がなかなか落ちません、目の裏あたりに私という感覚を
強く感じていて、そこから外界を見ているのが「私」であるという感覚が根強くあるんですが、もしかしてそれは観照が起こらないと落ちないんでしょうか?

653避難民のマジレスさん:2017/09/26(火) 19:57:57 ID:uCTaZ5cc0
>>647
鬼和尚さん、ありがとうございます。
不安の原因をじっくり探してみようと思います。
自分の子供時代は自分にとっては当たり前のものだったので、それらが不安の原因になっていると、ちゃんと考えてみたことは今まであまりなかった気がします。
気づかずに抱えていた不安も整理できそうです。
ありがとうございます。

また別に質問なのですが、心の中にある自分のイメージというのは、なくすことはできるのですか?

654避難民のマジレスさん:2017/09/26(火) 21:20:26 ID:czRftzgI0
和尚さんがただ観察しろというのは、原因を考えながら見るより観察しているうちに原因に気付く方がいいからですよね?
どちらにせよ苦も自我も原因に気づかないことには乖離しないのに違いがないですよね

655鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/26(火) 22:08:49 ID:1d4drIFg0
>>648 それは原因ではないのじゃ。
 真の原因は本心の中にあるじゃろう。
 本心を受け入れるのじゃ。

>>649 できないのじゃ。
 人間だけがそれをできるのじゃ。
 この幸運を活かすのじゃ。
 
>>650 それが完全に観察されて厭離されなければ苦はあるじゃろう。
 本心は観察の基礎となるものじゃ。
 本心を観なければ意味は無いが、本心を受け入れただけでも苦はあるのじゃ。

>>651 苦であるか苦ではないか見分ける必要は無いのじゃ。
 ただ本心をありのままに観察すればよいのじゃ。
 心の働きが観察できれば厭離は起こるのじゃ。
 観察は分別とは違うものじゃ。
 ただありのままに認め、観察し続けるがよいのじゃ。

656鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/26(火) 22:17:45 ID:1d4drIFg0
>>652 それが自我の感覚をもたらしているならばそれを観察できた時に観照は起こるじゃろう。
 そしてなくなるじゃろう。
 その感覚に自分の名前やイメージが投射されているのか観察して観るのじゃ。
 目の奥が自分であり、自分の名前であるのか観察してみるのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

>>653 無くすことができるのじゃ。
 どんなイメージも無くすことができるのじゃ。
 消えるのではなく自己同一化がなくなるのであるがのう。

>>654 そうじゃ、自然に気付くほうがよいのじゃ。
 推測や思考からわかっても観察にはならないからのう。
 改めて観察するより、自然に気付くほうが一瞬で厭離は起こるのじゃ。
 違いないのじゃ。

657541:2017/09/26(火) 23:12:11 ID:o7TfOr0I0
本心とはしょうもないものだと思う原因が本心にあると?
なるほど、本心のパワーを開放して大成功をおさめたいと言う本心があるわけですが、
本心では自分の事をしょうもないと思っているのかもしれませんね。だから、本心の力で一発逆転とか思うわけですからね。

658避難民のマジレスさん:2017/09/27(水) 06:56:54 ID:czRftzgI0
>654
あ!そうかという腑に落ちる経験が大事なんですね。ありがとうがございました

659避難民のマジレスさん:2017/09/27(水) 11:57:40 ID:ydE4b1w.0
652です。
そうですか、目の奥から見ている自己感覚を観察すると一時的に
「ああ、目の裏あたりに自分という感覚があるが、その感覚に今気付いているということは目の奥の自己感覚は自分自身ではないのだ」
という感じになり、一時的にその目の裏あたりの自己感覚との非同一化というか乖離が起こるんですが、
気を緩めて何かしようとパッと動いて観察をやめるとまたその目の奥の自己感覚が自分だと思ってしまい、一体になってしまいます。

これはその自己感覚を維持させる何かがあり、それがまだ観察されていないという質的な問題でしょうか?
それとも目の裏の自己感覚は根強い習慣的なものであり、それゆえに何回も観察をしないと厭離し切れないという量的な問題でしょうか?

660541:2017/09/27(水) 17:57:50 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚の普段の精神状態ってどんな感じなんですか?
①いつもウキウキ、ハッピー
②退屈だなあ
③しーん・・
④それ以外だとすると、どんな感じでしょうか?

661そらいろ ◆EHlCk/f57s:2017/09/27(水) 18:45:47 ID:cZ2RhCWA0
鬼和尚
今ここ、であればそれは本心ですか?

662避難民のマジレスさん:2017/09/27(水) 20:37:21 ID:dpLRfrSw0
>>656
鬼和尚さん、ありがとうございます。
自分とか自分の不安が見えてきた気がします。
今まで当たり前過ぎて見えていなかったのですが、見通しがよくなったというか、見えてきました。
自分のイメージも見えたら不安がなくなることも、何となくわかる気がしてきました。
観察を続けてみます。
また質問させてください。
ありがとうございました。

663鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/27(水) 21:42:58 ID:1d4drIFg0
>>657 そうじゃろう。
 更に本心を受け入れるがよいのじゃ。

>>658 どういたしまして、またおいでなさい。

>>659 ただひたすらに観察を続けるのじゃ。
 そのうちに原因もわかり、習慣も途切れるのじゃ。
 日々続けることが大事なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>660 三ぐらいじゃな。

>>661 そうじゃ、瞬時もなく認識されたならばそれが本心なのじゃ。
 少しでも経てば思考や感情による解釈が起こってしまうのじゃ。
 今ここにある心をありのままに見続けるのじゃ。

>>662 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

664541:2017/09/27(水) 22:16:52 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚、しーん・・ですか?
その境地を目指すために頑張る意味があるのでしょうか?

665541:2017/09/28(木) 00:25:58 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚は退屈を感じませんか?
その世界には楽しみとかは在るのでしょいか?

666避難民のマジレスさん:2017/09/28(木) 05:51:37 ID:fpGbb5P20
>>582
活動量計による瞑想時の心拍数ですが、
安静に座っている時、60回/分
横になっての睡眠時、50回/分
のところ、瞑想時、70回/分
と現在ざっくりとこんな感じです。
姿勢の維持に余計な筋力を使っているのかもしれません。
さらに続けてみます。ありがとうございました。

667鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/28(木) 19:58:08 ID:1d4drIFg0
>>664>>665 頑張らないでよいのじゃ。
 何もしなければ自然に没入するのじゃ。
 退屈するものも無いのじゃ。
 全てが楽しいのじゃ。

>>666 そうじゃ、続けるとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

668避難民のマジレスさん:2017/09/28(木) 20:25:26 ID:IOMLtO8.0
鬼和尚さん質問ですが、
注意深く観察すれば良いのでしょうか?

669避難民のマジレスさん:2017/09/29(金) 13:00:25 ID:ydE4b1w.0
>>659

そうですか、ちなみに鬼和尚には目の裏あたりに自分がいて、そこから外界を見てる
という感覚もないんですよね?

670避難民のマジレスさん:2017/09/29(金) 13:01:50 ID:ydE4b1w.0
間違えました。

>>663です。

671避難民のマジレスさん:2017/09/29(金) 21:13:35 ID:czRftzgI0
体が勝手に動いているとは、例えば本を読む時、意識は本を読むと考えるだけで、手を動かして本を取ってもう一方の手でページを捲ってなどといちいち動作を考えていないで行動していることですか?
そして、身体の乖離は、思考は目的を考えるだけで体は無意識に動いていることに気づくことですか?

672鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/29(金) 22:39:27 ID:1d4drIFg0
>>668 そうじゃ、注意深く観察するのじゃ。
 何も見落とさないように、些細な事こそ大事に観察するのじゃ。
 そうすれば気付くことも多くなるものじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>669 そのような感覚は無いのじゃ。
 おぬしは見るものが自分であると言う観念が強いのかもしれん。
 それをよく観察してみるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>671 そのようなものじゃ。
 気付くことができれば厭離は自然にできるのじゃ。
 それが自分ではないと気付くのであるからのう。
 実践あるのみなのじゃ。

673避難民のマジレスさん:2017/09/30(土) 05:56:02 ID:czRftzgI0
>>671
おおそうですか。何かもっと難しいことをしなければならないのかと勘違いしておりました
ありがとうございました

674避難民のマジレスさん:2017/09/30(土) 12:46:53 ID:DAY232aw0
>>672ご回答ありがとうございます。
質問ですが、大いに楽しく生きたら良いのでしょうか?

675避難民のマジレスさん:2017/09/30(土) 13:21:00 ID:ydE4b1w.0
>>672

ありがとうございます。
それから一応確認なんですが「観察する」っていうのは
「思考を挟まずに対象をただ見る」
ってだけでいいんでしょうか?対象をただ見れれば
それが自己ではないという気づきとそれによる厭離は後からおのずとついてくるからという理由で。

また、ただ見ててもすぐ気づきが起こらない場合でも、ずっと見てればいつかは対象が自己ではないという
気づきが起こるはずであるから、すぐ気づきが起こらなくても焦らずにもっと対象をただ見続けていれば
いつかは気づきが起き厭離される、そしてそれが「観察」であるという理解でいいでしょうか、、

676鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/30(土) 22:28:54 ID:1d4drIFg0
>>673 どういたしまして、またおいでなさい。

>>674 それは自由なのじゃ。
 おぬしが大いに楽しく生きていたいと思えばそうしたらよいのじゃ。
 鬼のように修行して悟りを得た後も鬼のように学びたいと思えばそうしたらよいのじゃ。
 おぬし次第なのじゃ。

>>675 そのような理解でよいのじゃ。
 ただ観察するだけと言うのも難しいのであるがのう。
 ただひたすら実践あるのみなのじゃ。

677避難民のマジレスさん:2017/10/01(日) 06:49:40 ID:YWyUsy120
いつも教えていただきありがとうございます。
試験勉強のため、コーヒーを使って眠らずに無理していたら躁鬱病を発症した人がいます。
今は、睡眠薬を含む向精神薬で、副作用は多々あるものの症状そのものは抑えられています。
しかし、睡眠薬がないと眠れない体になっています。
私は向精神薬は、このように依存性があり、毒でもあるため、将来認知症などを招くと危惧しています。
また、睡眠薬による眠りはニセの眠りであるとも考えています。
以下のことを教えてください。
1.向精神薬は減薬していくべきでしょうか?
2.人にはなぜ眠りが必要なのでしょうか?

678避難民のマジレスさん:2017/10/01(日) 14:03:22 ID:DAY232aw0
>>676ご回答ありがとうございます。
質問ですが、注意深くなれば良いのでしょうか?
何度も同じ様な質問申し訳ないです。

679541:2017/10/01(日) 19:42:45 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。実はいつも通っている牛丼屋のバイトの男が昔の会社の上司の息子で、しかも中学の同級生だったのですが、こう言う不思議な偶然はなぜ起きるのでしょうか?
しかも、私は長年その男と会いたいと思っていたのですが、不幸な別れ方をしたので長年連絡を取れなかったのに、そうとは知らずその親と長年交流していたのです!!
どうみても、自分の心の状態が現象世界と関連している。まあ、現象世界と言うのは元々心の世界と言う意味ですが、そうは言ってもこのような偶然が重なると驚きます。
実は一週間くらい前も、五年間会わなかった人と二日連続で離れた場所で出会ったりしているのです。そのようなことがあるのは、何か精神に根元的な変化があるときに限られます。
鬼和尚も、瞑想を深めると、それに連動して不思議なことが起きたりしませんでしたか?

680541:2017/10/01(日) 19:50:33 ID:o7TfOr0I0
これは瞑想になっているか分かりませんが、最近私は、現象としての自分の背後にあるものを感じようとしています。
その過程において、現象世界への自我の執着が緩んできて、自我がストップをかけてきた出来事がどんどん現象化するのかなと思っています。
要するに、私は、その友人が嫌いではなかったが、嫌な思い出があったので、会いたくないと思っており、本心は会いたいと思っているが、自我がストップをかけていたのかと思います。
しかし、現象の背後にあるものに意識を移していくと、自我が弱まり、抑圧が消えて、無意識が解放され、友人と再会したりするのかなと思います。

681鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/01(日) 21:45:16 ID:1d4drIFg0
>>677 1 そうじゃ、減らしたほうがよいのじゃ。
      肝臓もおかしくなるからのう。

    2 休めることで肉体も成長したり、修復したりできるのじゃ。
      細胞の修復は微小の働きであるから身動きを最小にする時間が必要なのじゃ。

>>678 そうじゃ、注意深く観察するのじゃ。
     今そのように何度も聞いているようにのう。
     わからないことがあればわかるまで何度も聞くように、自分の心もわかるまで何度も注意深く観察するのじゃ。

>>679>>680 そのようなことは留意していなかったからわからんのじゃ。
 外の世界は何も感知しないようにしていたからのう。
 自分の本心だけを観るがよいのじゃ。

682避難民のマジレスさん:2017/10/01(日) 22:37:39 ID:DAY232aw0
>>681ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自我は自分なのでしょうか?

683避難民のマジレスさん:2017/10/02(月) 00:22:56 ID:ydE4b1w.0
>>676

わかりました、ありがとうございます。

あと、間違ってたらすいませんが、以前、鬼和尚は「観察」という修行法を知ったのは悟った後だ、というようなことを
おっしゃっていたと思うのですが(記憶違いでしたらすいません)、悟った後にはもちろん観察されるべき自我はもういない状態ですよね、
つまり観察する対象がもうすでにないなら、鬼和尚は実際に何かを観察して厭離したという経験はないんですか?

また、それにもかかわらずなぜここまで「観察」について実践的な指導やアドバイスをできるくらい観察に対する理解が深いんですか?

何度も質問して申し訳ないです。

684541:2017/10/02(月) 02:19:33 ID:o7TfOr0I0
!鬼和尚。

「外の世界」などあるのですか?
人間は自分の心の純粋な外側の世界を見ることは出来ないと思いますが。

685541:2017/10/02(月) 02:28:21 ID:o7TfOr0I0
言語を使ってコミュニケーションしているので、お互いに話の焦点があっていない気がしますね。
単語に対する理解が人それぞれ違うので、同じことを話していても話が見えなくなってしまう。

686避難民のマジレスさん:2017/10/02(月) 02:47:21 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さんは、確か、お経を読んでいたとき、観照が起こったと書かれていたと思うのですが
どうしてそうなったと思いますか?

また、他の人にそれを勧めないのは、どうしてですか?

687避難民のマジレスさん:2017/10/02(月) 07:00:28 ID:DAY232aw0
連投すいません。質問ですが、厭離が起きるまで観察し続ければ良いのでしょうか?

688避難民のマジレスさん:2017/10/02(月) 12:06:16 ID:DAY232aw0
>>687厭離できるまででお願いします。すいません。

689鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/02(月) 22:15:42 ID:1d4drIFg0
>>682 違うのじゃ。
 自分があるという観念も誤謬なのじゃ。
 自分はなく、自我も無い自分に投射された名前とイメージなのじゃ。

>>683 観照は自我を観察して起こるものなのじゃ。
 わしも観察によって自我を厭離したのじゃ。
 それが観察による厭離であると言葉によって表すことができたのは悟った後なのじゃ。

 全ての悟りは何らかの形で自我が観察され、厭離されて起こるものじゃ。
 そうであるから指導するには実践と智慧によって観察を知るべきであり、そうしたのじゃ。
 
>>684 おぬしのために仮にそう語るのじゃ。
 
>>685 わからなくてよいのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

690鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/02(月) 22:21:02 ID:1d4drIFg0
>>686 それは何度も多くの経を読み、追求していたからじゃろう。
 他人はそんなに多くの経を何度も読めないじゃろう。
 面白いものではないからのう。
 
>>687 そうじゃ、何度も観察すればそれは自然に起こるじゃろう。
 実践によって確めるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

691避難民のマジレスさん:2017/10/02(月) 23:05:34 ID:DAY232aw0
>>682ご回答ありがとうございます。
自分はなく、自我も無い自分とは何なのでしょうか?

692避難民のマジレスさん:2017/10/03(火) 01:57:39 ID:Y5LPInQE0
>>690
ご回答ありがとうございます。
お経を読むことで何を追求されていたのでしょうか?

693避難民のマジレスさん:2017/10/03(火) 05:48:22 ID:YWyUsy120
>>681
ご教授ありがとうございました。
私は精神科医を信用できません。薬漬けにするだけだからです。
一生なおらない、といいますが、一生なおさせない療法と思います。
しかし、自己診断で減薬するのも危険に思います。
どうしたらよいのでしょうか?

694避難民のマジレスさん:2017/10/03(火) 19:28:19 ID:ydE4b1w.0
683です。
ありがとうございます。私が誤解していたようです。申し訳ございません。

悟るときは何らかの形で観察が行われる、とおっしゃっていますが、常に能動的な観察の際中
でなくても悟りが起こることはありますか?

例えば四六時中観察をしている人が、さて今日は疲れたから寝よう思って、寝室に向かう途中のふとした瞬間に自分という感覚が消えて
いわゆる観照が起こる、ということはあるんでしょうか?

695鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/03(火) 20:52:08 ID:1d4drIFg0
>>691 謬見なのじゃ。
 誤ってあるものと認識されたものなのじゃ。
 本来無いものをあると認識してしまっている妄想とも言えるのじゃ。

>>692 不死の境地なのじゃ。
 わしもお釈迦様と同じく昔は死を恐れていたものじゃ。
 不死の境地への道がないかと追求していたのじゃ。
 そしてそれを見つけることが出来たのじゃ。
 おぬしも精進あるのみなのじゃ。

>>693 西式健康法などを学び実践して腸の大掃除をすると善いのじゃ。
 脳の不調は腸の故障によるものなのじゃ。
 腸によって各種のホルモンや免疫物質などが作られるから腸が弱ると脳もおかしくなるのじゃ。
 それを腸脳相関と呼ぶのじゃ。
 腸を大掃除して不調を直せば脳も大抵よくなるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>694 そのようなこともあるじゃろう。
 マハリシは寝ていたときに起きたのじゃ。
 常に自分を追求していればどこでも頓悟が起こる可能性はあるものじゃ。
 精進在るのみなのじゃ。

696避難民のマジレスさん:2017/10/04(水) 15:17:08 ID:DAY232aw0
>>695ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分を追求した方が良いのでしょうか?
それとも、自分とは何か追求した方が良いのでしょうか?

697鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/04(水) 20:50:31 ID:1d4drIFg0
>>696 それはおぬし自身が興味を持てるほうでよいのじゃ。
 自分に興味があるならば自分を追及するとよいのじゃ。
 自分とは何かに興味があるならばそれを追求するとよいのじゃ。
 おぬし次第なのじゃ。

698避難民のマジレスさん:2017/10/04(水) 21:34:31 ID:DAY232aw0
>>697
ありがとうございます。
質問ですが、自我に気付くとはどう言う事なのでしょうか?

699避難民のマジレスさん:2017/10/04(水) 23:16:11 ID:DAY232aw0
>>698スルーしてください。すいません。
質問ですが自分を追求したり、自分とは何か追求したりするのは、自我に気付く為でしょうか?それとも自分に気付く為でしょうか?

700避難民のマジレスさん:2017/10/05(木) 00:30:39 ID:ydE4b1w.0
>>695

なるほど、必ずしも能動的に観察の作業を行っている時じゃなくても観照が起こる可能性は
ある、ということでしょうか?

それから、認識を観察することについてはっきりさせたいというか、確認させていただきたいんですが、
認識(阿頼耶識)を観察するっていうのは、
「認識(阿頼耶識)が目の前の対象物に膨大な記憶の中からその対象物に適したラベルやイメージを投影し、
そのラベルやイメージを対象物に当てはめて認識している過程」
を捉えてただ見ることが認識を観察するということなんですか?

わかりやすく言うと、目の前の名もないありのままの「それ」に対し過去の記憶から勝手に「観念A」を投影して
「名もないそれ」を「観念A」であると認識する[過程]を捉えてその過程をただ見るということが「認識を観察する」ということなのか、ということです。

そして、その過程を捉えてただ見ることができれば、それは過去の記憶を見ているだけでありありのままを見ていなかったんだ、
と気づけばそれによって厭離が起こる そんな感じでしょうか?

少しでも違っていたら指摘していただけると助かります。

701避難民のマジレスさん:2017/10/05(木) 18:41:43 ID:czRftzgI0
「何かものを見ればそれがりんごだとか石だとか分類し別けるのが分別なのじゃ。そしてそれがりんごであると認め、知るという働きが認識なのじゃ。」について質問します。

Q1.分類と認めるの違いがわかりません。記憶と照合してりんごと分類している時点で認め、知ることになっていませんか?それとも赤くて丸い物と記憶抜きで分類し、その後記憶を元にりんごと認めるという意味ですか?

Q2.2行目はりんごが既知であればりんごと認め、未知であれば知るのが認識という意味ですか?

702鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/05(木) 20:47:39 ID:1d4drIFg0
>>698 それが何であるかに気付くのじゃ。
 それが物としてあるものなのか。
 あるいは物としてはないものなのか。
 寝ていてもあるものなのか。
 寝ているときは無いものなのか。
 などに気付くことなのじゃ。

>>699 どちらでもないのじゃ。
 自我が何であるかに気付くためなのじゃ。
 自分とは何であるかに気付くためなのじゃ。

>>700 そうじゃ。

 そうじゃ。

 そうではないのじゃ。
 ただそれが記憶に依存した認識であると気付くのじゃ。

>>701 1 それは分類される前にはりんごとしては認められず、知られていないのじゃ。
 りんごを認めるとは第三者の視点であるからそのようにいうのじゃ。
 分類され、記憶と照合される前にはあかくてまるい物体なのじゃ。

 2 分類されて記憶と照合されてりんごとして認め知るといことなのじゃ。

703避難民のマジレスさん:2017/10/05(木) 21:39:36 ID:czRftzgI0
>701
分別認識は速すぎて観察しづらいですが、頑張って観察しようと思います
ありがとうございました

704避難民のマジレスさん:2017/10/05(木) 22:02:47 ID:DAY232aw0
>>702両方共答えて抱きありがとうございます。
質問ですが、自我が何であるかに気付いたら観照が起こるのでしょうか?
それとも自分とは何であるかに気付いたら観照起こるのでしょうか?
それとも両方に気付かなければ観照は起こらないのでしょうか?
気付く時は両方同時に気付くものなのでしょうか?
質問が沢山になってしまい申し訳ありません。

705避難民のマジレスさん:2017/10/05(木) 22:02:48 ID:ydE4b1w.0
>>702

700です。鬼和尚の私に対する返答の三行目の
「そうではないのじゃ。
ただそれが記憶に依存した認識であると気付くのじゃ。」

というのは
700レス目の中の私の最後の質問↓
「そして、その過程を捉えてただ見ることができれば、それは過去の記憶を見ているだけであり、ありのままを見ていなかったんだ、
と気づけばそれによって厭離が起こる そんな感じでしょうか?」

という質問に対する答えとして「そうではないのじゃ。」ということでしょうか?

そうであれば、認識の厭離が起こるためには私の上記の文にあるように
「その過程を捉えてただ見ることができれば、それは過去の記憶を見ているだけであり、ありのままを見ていなかったんだ、
と気づけばそれによって厭離が起こる」
というのではなく、もっとシンプルにもっと単純に、認識が観念を投影する働きを見て、ただそれが記憶に依存した認識であると単純に気付くだけで厭離が起こる、
ということですか?

706避難民のマジレスさん:2017/10/06(金) 00:17:08 ID:5b5rHLEE0
鬼和尚まだみんなの難しそうな質問に答えてたんですね
めんどくさくなったりしないんですか?

707旅の客人:2017/10/06(金) 09:59:10 ID:kcjko4As0
鬼和尚 様、質問させていただきます。
寝ている自分に気付いたときは、気付いているままで良いの
でしょうか?(恐怖を感じて無理やり起きてしまうのですが)。

708鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/06(金) 21:49:53 ID:1d4drIFg0
>>703 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>704 どちらでも起こるのじゃ。
 自我とは自分という観念であるからのう。
 自我と自分の二つがあるのではないのじゃ。
 ただ言葉のみの違いなのじゃ。

>>705 そうじゃ。
 それを観るのは無我になった後であるがのう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>706 わしは何も思わないのじゃ。
 ノー思惑なのじゃ。

>>707 そうじゃ、それでよいのじゃ。
 ついでにいろいろ観察すると善いのじゃ。
 それが自分ではないと気付くじゃろう。

709避難民のマジレスさん:2017/10/07(土) 01:27:31 ID:ydE4b1w.0
>>708

705です、すいません、「そうじゃ」というのが何に対する返答なのかがはっきり
汲み取れなかったんですが、要するに結論から言うと
無我に至った後に認識(阿頼耶識)の働く過程をとらえることができれば、そこから更なる過程を経ることなく
認識の働く様に気付いたのと同じ瞬間に認識(阿頼耶識)が厭離され無認識へ至る、という理解でいいですか?

710旅の客人:2017/10/07(土) 03:36:29 ID:XGGScHBs0
有難う御座います。
勇気を出して観察してみます。

711鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/07(土) 22:17:10 ID:1d4drIFg0
>>709 それでよいのじゃ。
 しかし言葉通りになるのではないのじゃ。
 それは最初何が起きたのかすらわからんじゃろう。
 知る必要も無いのじゃ。
 言葉も観念もないからのう。

 ただ悟りを伝えるためだけに言葉としてそのような気付きがあったと言えるだけなのじゃ。
 
>>710 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

712避難民のマジレスさん:2017/10/08(日) 20:06:20 ID:DAY232aw0
>>708ご回答ありがとうございます。
質問ですが、プッタタートと言う人は悟っていますか?

713避難民のマジレスさん:2017/10/08(日) 20:35:04 ID:DAY232aw0
連投すいません。
プッダヴァチャナはお釈迦様の本当の教えなのでしょうか?

714避難民のマジレスさん:2017/10/08(日) 20:51:52 ID:ydE4b1w.0
>>711

ありがとうございました。

715鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/08(日) 21:10:05 ID:1d4drIFg0
>>712 悟っていないのじゃ。
 何も知らないのじゃ。

>>713 違うのじゃ。
 全体から切り取られて編集された言葉はもはやお釈迦様の教えとは言われないのじゃ。
 人を殺してはいかんとかいうのを、人を殺すということをお釈迦様は教えたというように変えることもできるからのう。
 止観が理解できない者たちが編集した故に、自説を補強するだけのものになっているのじゃ。

>>714 どういたしまして、またおいでなさい。

716避難民のマジレスさん:2017/10/08(日) 22:31:41 ID:DAY232aw0
>>715大変勉強になります。ありがとうございます。
質問ですが、観察し続ける事が難しいのですが、何か良い方法は無いのでしょうか?

717541:2017/10/09(月) 06:24:10 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚、時間や空間は心の中にありますか?心の外にありますか?

718避難民のマジレスさん:2017/10/09(月) 17:09:58 ID:czRftzgI0
夢を分析したところ、その中の自分には思考、感情、分別もちろん自我もと覚醒時にあるものの全てがあると気付きました。
この結果をどう活かせばいいですか?

719541:2017/10/09(月) 18:08:26 ID:irpWTyyc0
鬼和尚、私の前世は何でしょうか?
ちなみに、輪廻転生は現代人が来世に江戸時代に転生することはなく、歴史学的な時間秩序に基づいているのでしょうか?

720鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/09(月) 21:14:34 ID:1d4drIFg0
>>716 そのような時は集中し続けるのじゃ。
 集中することで我を忘れて、観察し続けられるのじゃ。
 自我の好悪とかがないからのう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>717 時間も空間も心の外も中も無いのじゃ。
 ただ実践あるのみなのじゃ。

>>718 観察に活かせばよいのじゃ。
 夢の中でもなくならないそれらがどのように生起するのか観察してみるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>719 今の環境を反映したものじゃろう。
 環境が最悪ならば最悪なことをした者じゃろう。
 最高ならば最高なことをした者じゃろう。
 それらも観念分別在るのみなのじゃ。
 わしは江戸時代に生きていると思っていた者など一人もいないからのう。

721541:2017/10/09(月) 22:49:05 ID:o7TfOr0I0
答えが意味わからんです(笑)

722避難民のマジレスさん:2017/10/10(火) 01:22:18 ID:5b5rHLEE0
鬼和尚くらい修行が進むと、目の前で知り合いや家族が死んでも悲しんだりショック受けたりはしなくなるのですか?

723避難民のマジレスさん:2017/10/10(火) 05:50:59 ID:czRftzgI0
>718
「夢の中でもなくならないそれらがどのように生起するのか観察してみるのじゃ。」は「夢の中でもなくならないそれらが覚醒時にどのように生起するのか観察してみるのじゃ。」の意味ですか?

724避難民のマジレスさん:2017/10/10(火) 10:56:14 ID:GijSlBiA0
和尚さま。
気になるコメントを見かけたので便乗させてください。

ブッタタートが悟っていないとのことですが、
どのように判断されたのでしょうか。

今後、いろんな方の法話を読むときの参考にしたいので
教えて頂けないでしょうか。

725蓮恵:2017/10/10(火) 20:36:58 ID:/840N4pM0
鬼和尚さま
思考を黙らせるのに必要なのは、思考によって思考を止めることではなく、無分別に近づくことのみだと愚考しました。

当然未だ無分別に到っておりませんが、分別から離れつつある見地とは、例えるなら足場が不安定でグラグラとなるような、もしくはめまいのようなクラクラする感覚に近いのではないでしょうか(頓珍漢な表現で申し訳ありませんが)

逆に言えば、日頃我々の分別による見地は固定化されすぎて、安定しすぎているようです。

今の私では、先の不安定な感覚であるグラグラ、クラクラを追求していくしか無さそうです。

726避難民のマジレスさん:2017/10/10(火) 21:00:03 ID:czRftzgI0
「人の運命、人類社会の発展、そのすべては神佛によって制御されている。1人の人間が生まれてから死ぬまで、その一生の運命はすべて定められており、例え髪1本が抜け落ちることも、すべて塩梅されたこと。」というのは本当ですか?
また、自殺というこの世の修行を放棄する行為もまた神佛によって制御されているのかそれとも人間の自由意志によるものですか?

727避難民のマジレスさん:2017/10/10(火) 21:51:41 ID:x/6oSfDM0
プラユキ・ナランボー、ネルケ無方、藤田一照
この三人は修行者としてはどのくらいのレベルの人達なのでしょうか?

728鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/10(火) 22:11:16 ID:1d4drIFg0
>>721 わからないでよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>722 そうじゃ、それは滅びる性質のものであるからのう。
 それによって何かがなくなったり、生じたりすることもないとわかっているのじゃ。
 全てが足されることも引かれることも無い一つなのじゃ。

>>723 それが夢の中で起こるのならば夢の中で観察するしかないのじゃ。
 今ここでしか観察は出来ないからのう。
 観察が無意識にもできるようになれば夢の中でも観察できるのじゃ。
 自分は夢を見ていると観察する事もできるのじゃ。
 実践あるのみなのじや。

>>724 何も知らないのじゃ。
 法を知識と思っているのじゃ。
 南方仏教のものならば観察を主としている筈なのに四諦も厭離も知識として捉え、行うものと思っているのじゃ。
 悟っているならばそれほど無知なはずは無いのじゃ。
 クリシュナムルティも知っていたというからのう。

729鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/10(火) 22:31:46 ID:1d4drIFg0
>>725 集中していればいずれ思考は止まるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>726 嘘なのじゃ。
 自分の意志で行うことが全てなのじゃ。
 自分の意志で死ぬから自殺なのじゃ。
 全て決められていたならば自殺ではないのじゃ。
 神が他殺の真犯人なのじゃ。
 
>>727 おぬしと同じぐらいじゃな。
 精進して遥かに遠くへ行くがよいのじゃ。

730避難民のマジレスさん:2017/10/10(火) 22:43:09 ID:czRftzgI0
>723>726
なるほど、夢でも観察できるよう精進したいと思います
自殺は意志、考えてみれば当然のことです。これに関しては改めて明日質問します。
今回も丁寧な指導ありがとうございました

731避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 03:05:20 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚がお経を読んでいる際に観照が起きたっていうのは、その時が初めての
観察体験だったんですよね、

しかもそこからの流れで一気に無認識まで至ったということは
ほとんどの人が通るであろう、
①見性体験が起こる→②自我が戻ってくる→③悟りの探求をさらに進める→④ある程度のところに落ち着く(無我の段階でしょうか)
→(⑤無認識へ至る(至る人は少ないであろう段階))という順序の②と③と④を一気にすっとばしていきなり⑤まで行ったみたいな感じですよね(正確には鬼和尚の場合の①は見性体験が起きたというか観察の結果として無我に至ったんでしたか)、

ほとんどの人は何年もかけてある程度のところに至るというのを聞くと鬼和尚って豪運すぎますよね、
たとえて言うなら初めての宝くじで一千万当たってその軍資金を株にあてすぐ成功して億万長者になり、それにより一生不労所得での生活に
すみやかに安住した、みたいな(下世話なたとえですいませんが)

732避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 05:45:59 ID:04sFW9n.0
いつも教えていただきありがとうございます。
悲しいという感情が起ったので、せっかくの機会なので観察をしてみました。
最初は「悲しみが起こっている」などと思考していたのですが、
そのうち「心臓がどきどきしている」とか「みぞおちあたりか強く脈打っている」とかになり、
悲しみを観察しているのではなく、肉体におこっている変化の観察になりました。
脈絡がないためか、結局どのような観察結果になったのかはおぼろにしか思い出せません。
何かを獲得できたような感覚もありません。
観察とはこのような感じでよいのでしょうか?

733541:2017/10/11(水) 06:44:50 ID:o7TfOr0I0
実践が全てと言いますが、何を実践すればよいので?

734避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 09:33:39 ID:GijSlBiA0
>>728
ありがとうございます。
今後の参考にさせて頂きます。

735避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 18:14:54 ID:DAY232aw0
>>720ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分と思っているものは何か観察すれば、自分とは何であるかに気付きますか?

736避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 18:40:51 ID:czRftzgI0
無我やサマーディに至るには、または無我やサマーディの修行を始める前には、苦を一つ残らず完全に滅さなければならないのですか?
人間なんだから苦の一つや2つくらい残ってもしょうがないと思うのですが、それらもやはり完全に消し去らねばならないのでしょうか

737避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 20:11:07 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、ラマナ・マハルシの問答集「私は誰か?」の解説をしていただけませんか?
一応貼っておきますので、もしよろしければ、是非お願いいたします。

738避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 20:12:59 ID:jfWCoXjM0
私は誰か?

生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないこ
とを願っている。誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られ
る。そして幸福だけがその愛の源なのである。それゆえ、人間の本性であ
る幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、
人は自分自身を知らねばならない。そのためには、「私は誰か?」という問
いで探究する知識の道が最も重要な方法である。

1 私とは誰でしょうか?

七つの要素*1 から成る粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、
聴覚、触覚、視覚、味覚、臭覚は、それぞれの対象である音、感触、色、
味、匂いをとらえるが、私はそれらではない。五つの能動的な器官である
言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官は、それぞれ話すこ
と、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをす
るが、私はそれらではない。五つの生気*2、すなわちプラーナなどは、吸
気などの五つの働きをするが、それは私ではない。ものごとを考える心で
さえ、私ではない。対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働
きもない無知も、私ではない。


*1 七つの要素: 栄養液、血液、肉、脂肪、骨、髄、精子。

*2 五つの生気 : パンチャ・プラーナ。 身体で働いている五つのプラーナ(気)。アパーナ、
下降する気。プラーナ、上昇する気。サマーナ、食べ物をアパーナに運ぶ気(消化)。ヴィ
ヤーナ、プラーナとアパーナをとらえる気。ウダーナ、食べ物や飲み物を上下に運ぶ気。

2 もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?

今述べたことすべてを「これではない」、「これではない」と否定してい
ったあとに、ただひとつ残る覚醒――それが私である。

3 覚醒の本性は何でしょうか?

覚醒の本性は、存在-意識-至福である。

4 真我の実現はいつ得られるのでしょうか?

「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見る者」である真我
は実現されるだろう。

5 世界が(実在として)存在しているときでさえ、真我が実現されるとい
うことはないのでしょうか?

ないだろう。

6 なぜでしょうか?

見る者と見られている対象は、ロープと蛇のようなものである。錯覚で
ある蛇という知識がなくならないかぎり、実体であるロープという知識は
得られない。同じように、世界が実在であるという確信がなくならないか
ぎり、実在である真我の実現は得られないだろう。

7 対象として見られている世界は、いつ消え去るのでしょうか?

すべての認識作用とすべての行為を引き起こす原因である心が静かにな
ったとき、世界は消え去るだろう。

8 心の本性とは何でしょうか?

「心」と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。心はす
べての想念を起こさせる源である。想念を離れて心のようなものは存在し
ない。それゆえ、想念が心の本性である。想念を離れて、世界と呼ばれる
独立した実体があるわけではない。深い眠りのなかに想念はなく、世界も

ない。クモが自分のなかから糸を出し、それをまた自分のなかに引き入れ
るのと同じように、心はそれ自身から世界を投影し、再びそれ自身のなか
へ還元させる。真我のなかから心が外に出るとき、世界が現れる。それゆ
え、世界が(実在として)現れているとき、真我は現れない。真我が輝い
て現れるとき、世界は現れない。人が絶え間なく心の本性を探究しつづけ
るならば、心は真我をあとに残して死滅するだろう。「真我」と呼ばれてい
るものは、アートマンである。心はつねに何か粗大なものに依存すること
によってのみ存在する。それはひとりであることができない。微細身ある
いは個我(ジーヴァ)と呼ばれているのは、心である。

9 心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?

身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。もし身体のなか
のどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハー
トのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所で
ある。絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろ
う。心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」と
いう想念である。この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。二人
称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことである。
一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。

10 どうすれば心は静かになるのでしょうか?

「私は誰か?」と尋ねることによってである。「私は誰か?」という想念
は、他のすべての想念を破壊するだろう。そして燃えている薪の山をかき
混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅
ぼされてしまうだろう。そのとき真我は実現されるだろう。

739避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 20:16:54 ID:jfWCoXjM0

11 「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょ
うか?

他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に
起こったのか?」と尋ねるべきである。どんなに多くの想念が起ころうと

かまわない。想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」
と入念に探究すべきである。それに対して現れる答えは「私に」だろう。
そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こ
った想念は静まるだろう。このように修練を繰り返せば、心は源にとどま
ることに熟達するだろう。微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、
粗大な名前や形が現れる。心がハートのなかにとどまっていれば、名前と
形は消え去る。心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは、「内
にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。心をハートから外へ出させ
ることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。このよ
うに、心がハートのなかにとどまっているとき、すべての想念の源である
「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。人は何をするときに
も、「私」という自我性なしにそれをすべきである。もしそのように行動す
れば、すべてはシヴァ神の本性として現れるだろう。

12 心を静かにする他の方法はないのでしょうか?

探究以外に適切な方法はない。他の方法で心を静めても、心は制御され
たように見えるだけで、再び勢いを増して現れるだろう。呼吸の制御によ
っても心は静められるが、それは呼吸が制御されている間だけのことであ
り、呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆りたてられ
てさ迷いだすだろう。心も呼吸も、その源は同じである。想念とは、実は
心の本性である。「私」という想念が心の最初の想念であり、それが自我性
である。自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。そのため、心が
静かになれば呼吸も制御され、呼吸が制御されれば心も静かになる。けれ
ども深い眠りのなかでは、心は静かでありながら、呼吸は止まっていない。
これは、身体が維持されるように、そして死んでしまったと他の人びとが
思わないようにとの神の意志によるものである。目覚めの状態とサマーデ
ィにあっては、心が静まっていれば呼吸は制御されている。呼吸は心の粗
大な姿である。死の時までは、心は身体のなかに呼吸を保っている。身体
が死ぬと、心は呼吸とともに出ていく。それゆえ、呼吸を制御する修練は
心を静める(マノニグラハ)助けにすぎず、心の消滅(マノナーシャ)を

もたらすことはない。
呼吸を制御する修練と同じように、神の姿に瞑想することや、マントラ
の復唱、断食などの修練も、心を静める助けにすぎない。
神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通して、心は一点に集中さ
れる。心はつねにさ迷いつづけるだろう。鼻を鎖でつながれた象が、他の
何もつかまえられないように、心も神の御名や姿に満たされていれば、他
の対象をとらえることはないだろう。心が無数の想念へと拡散していると
き、そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。だが、想念が決意を固め
て一点に集中すれば、強いものとなる。そのような心にとって、真我を探
究することは容易になるだろう。すべての規則制限のなかでも、適度な量
の清らか(サートヴィック)な食事を取るという方法が最上のものである。
これを守ることによって、心の清らかさは増し、真我の探究の助けとなる
だろう。

13 心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現れてきます。
いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?

真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう。

740避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 20:18:09 ID:jfWCoXjM0
14 数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象
が取り除かれ、純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?

可能か、可能でないかという疑問に屈することなく、真我への瞑想を続
けるべきである。たとえ、人が大罪人であるとしても、「ああ、私は罪人だ。
どうすれば救われるだろう?」と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。「私
は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、真我への瞑想に強烈に集中する
べきである。そうすれば、確実にうまくいくだろう。ひとつは善く、もう
ひとつは悪いという二つの心があるのではない。心はただひとつだ。幸運
と不運の二種類があるのは、心ではなく、心に刻まれる印象である。心が
幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ、不運な印象の影響を
受けたとき、それは悪と見なされる。
心は世間のものごとや他の人びとに関することへとさ迷いでぬよう、戒

められなければならない。他の人がどれほど悪くとも、彼に対して憎しみ
を抱かぬようにしなければならない。欲望と憎しみは、どちらも避けなけ
ればならない。人が他の人びとに与えるすべては、実は自分自身に与えて
いるのだ。もしこの真理が理解されるなら、人びとに施しをしないでいら
れようか。自己が現れると、すべてが立ち現れ、自己が静まればすべては
静まる。謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現れるだろう。
心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。

15 探究はどのくらいの期間修練されるべきでしょうか?

心のなかにものごとの印象があるかぎり、「私は誰か?」と尋ねなければ
ならない。想念が起こったなら、そのとき、その起こったまさにその場で
問うことによって、破壊されるべきである。もし真我に到達されるまで、
不断に真我への黙想に打ちこめば、それだけで想念は消滅するだろう。要
塞のなかに敵がいるかぎり、敵は反撃を続けるだろう。もし敵が姿を現す
たびに滅ぼしていけば、要塞はわれわれの手中に落ちるだろう。

16 真我の本性とは何でしょうか?

真実、存在するのは真我だけである。世界、個我、神は真珠貝のなかの
銀色の輝きのように、真我の内に現れるものである。これら三つは同時に
現れ、同時に消え去る。
「私」という想念が絶対にないところ、それが真我である。それは沈黙
と呼ばれる。真我そのものが世界であり、真我そのものが「私」であり、
真我そのものが神である。すべてはシヴァ、真我である。

17 すべては神のなせるわざではないのでしょうか?

欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。太陽がただそこに存在するだけ
で、日長石は火を発し、蓮の花は開き、水は蒸発していく。磁力が存在す
ることによって磁石の針が動くように、人びとが三つの宇宙的機能*3 や五
つの神聖な活動*4 に支配され、それぞれのカルマにしたがって行為し、そ
して休息するのは、ただ神が存在するという美徳によるものである。神は

何の意志も持たず、いかなるカルマも彼に属さない。それは、世間の行為
が太陽に影響をあたえず、すべてに遍在するエーテルが他の四元素の長所
や短所に影響されないのと同じである。

*3 三つの宇宙的機能 : 創造、維持、破壊。

*4 五つの神聖な活動 : パンチャ・ヤジュニャ。『ヴェーダ』の学習、祖霊への食物の供養、ホ
ーマの献火、すべての生き物への食物の供養、人間への供養などを示すヒンドゥー教徒の義
務。

18 帰依者のなかで最もすぐれているのはどのような人でしょうか?

神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者であ
る。自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も
起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである。
どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべ
てのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をま
かせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろう
か? われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこ
にあろう。荷物をおろして安心しなさい。

19 無執着とはどういうことでしょうか?

想念が起こるとともに、その起こったまさにその場で、あますところな
く完全に消滅させること、それが無執着である。真珠採りが自分の腰に石
をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を採るように、誰もが無執着ととも
に自己の内に深く潜り、真我という真珠を手に入れなければならない。

741避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 20:19:04 ID:jfWCoXjM0
20 神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのでしょうか?

神やグルは解放への道を示すだけだろう。神やグルが人を解脱の状態に
連れていくわけではない。
実際は、神とグルは異なるものではない。トラの顎にくわえられた獲物
に逃れるすべがないように、グルの慈悲深い眼差しにとらえられた者は、
グルによって救われ、見棄てられることはないだろう。けれどもひとりひ
とりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め、解
脱に達しなければならない。人はただ自分の知識の目によってのみ、自分
自身を知ることができる。ラーマ神がラーマ神であることを知るために、

鏡の助けが必要だろうか?

21 解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素の本質(タットヴァ)を
探究する必要があるでしょうか?

ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それ
が何であるかを調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人に
とっても、意識の性質を調べたり、その構成要素を分類して数えたりする
必要はない。彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを
払いのけることである。世界はひとつの夢のようなものと見なされなけれ
ばならない。

22 目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?

目覚めている間は長く、夢を見ている間は短い。これより他に何の違い
もない。目覚めの間に起こることが真実に見えるように、夢の中で起こる
ことも夢のなかでは真実に見える。夢の中では心はもうひとつの身体をと
っている。目覚めの状態でも、夢見の状態でも、想いや、名前と形は同時
に現れるのである。

23 解脱を願う者にとって、本を読むことにはどんな価値があるのでしょ
うか?

すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たなければならない
と述べている。それゆえ、心を静かに保つべきだということが、聖典の最
終的な教えである。ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必
要はない。心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問
いつづけるべきである。この探究がどうして書物のなかでできるだろう
か? 人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。真我は
五つの鞘*5 の内にあるが、書物はその外にある。真我は五つの鞘を棄て去
っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物のなかに求め
るのは無駄なことである。いずれ学んだことをすべて、忘れ去らなくては
ならないときが来るだろう。


*5 五つの鞘 : パンチャ・コーシャ。 真我を覆い隠す五つの身体の鞘。アンナー・マヤ・コ
ーシャ、身体の鞘。プラーナ・マヤ・コーシャ、生気の鞘。マノ・マヤ・コーシャ、心の鞘。
ヴィジニャーナ・マヤ・コーシャ、知性の鞘。アーナンダ・マヤ・コーシャ、至福の鞘。


24 幸福とは何でしょうか?

幸福とは真我の本性そのものである。幸福と真我は別のものではない。
世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。われわれは無知ゆえに、
ものごとから幸福を得るものだと思っている。心が外へ出ていくと、不幸
を体験する。心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻
っており、真我である幸福を楽しむのである。同じように、眠りの状態、
サマーディ、失神状態、あるいは、得たいと願っていたものが得られたり、
嫌っていたものが消え去ったりしたときには、心は内面に向かい、純粋な
真我-幸福を楽しむのである。このように心は休むことなく動きまわり、
真我からさ迷いでては、また戻ってくるということを繰り返している。木
陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。灼熱の太陽のなかを歩
いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。木陰からわざわざ出て
猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。
賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。同じように、真理を知る人
の心は、ブラフマンを離れることはない。その反対に、無知な人の心は、
悲惨を味わいながら世界をさ迷い歩き、つかの間の幸福を味わうためにブ
ラフマンに戻ってくる。実際には、世界と呼ばれているものはただの想念
にすぎない。世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は
幸福を体験する。世界が現れると、不幸を味わうのである。

25 洞察力(ジニャーナ-ドリシュティ)とは何でしょうか?

静寂にあることが洞察力と呼ばれている。静寂にあるということは、真
我のなかに心を帰り着かせることである。過去、現在、未来の出来事を知
るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。

742避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 20:19:57 ID:jfWCoXjM0
26 無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?

無欲が智慧である。二つは別のものではない。それは同じである。無欲
とは、心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。智慧と
は、何の対象物も現れないことを意味している。言い換えれば、真我以外

の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、真我をけっして離
れないことが智慧である。

27 探究と瞑想の違いは何でしょうか?

探究とは、真我のなかに心をとどめておくことである。瞑想とは、自己
をブラフマン、つまり存在-意識-至福であると思いなすことである。

28 解脱とは何でしょうか?

束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが
解脱である。

743鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/11(水) 21:02:14 ID:1d4drIFg0
>>730 どういたしまして、またおいでなさい。

>>731 見性は自我を見ることではないのじゃ。
 本性が見られただけなのじゃ。
 そうであるから見性なのじゃ。
 一部の禅の者が無我とか悟りの意味で使っているが間違いなのじゃ。
 それも本心を見るには役に立つものであるがのう。

 自我を観るのは観照なのじゃ。
 大抵の者はそこから無我となり、大悟に至るのじゃ。
 白陰も大悟二度とか言っているのじゃ。
 真摯に求めていればやがて誰もがそこに至るのじゃ。
 それは大地のように永遠普遍のものであるからのう。

>>732 それでよいのじゃ。
 感情が肉体の反応を起こすことが見えたのじゃ。
 今ここに起こることをありのままに観ればよいのじゃ。
 やがて自我が自分という概念とは無関係であることさえ観えてくるがそれもありのままに受け容れればよいのじゃ。

>>733 止観を実践すればよいのじゃ。
 集中と観察なのじゃ。
 わしのブログなどを参考にするのじゃ。

744鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/11(水) 21:23:51 ID:1d4drIFg0
>>734 どういたしまして、またおいでなさい。

>>735 真摯に探求すれば気付くじゃろう。
 恐れや逃避があれば気付かないこともあるじゃろう。
 おぬし次第なのじゃ。

>>736 滅さなくてよいのじゃ。
 修業の邪魔になるものだけを滅するとよいのじゃ。
 サマーディには一つの苦も滅さなくても至れるのじゃ。
 ただ姿勢をよくして座るだけでよいのじゃ。
 
>>737>>738 1は仏教でもよく使われる五感や身体が自分ではないと気付くための教えなのじゃ。
 それらはよく観察する事で自分ではないと気付くじゃろう。
 五蘊を観察する仏教の法とは少し違うがのう。
 心身の要素を観察して厭離する意図は同じなのじゃ。

 2 それらの心身の要素を観察して行き、全てが厭離されて残るのが覚醒なのじゃ。
 それを私と言っているがもはや私も無いものじゃ。
 言葉の便法によって私と言うのじゃ。

 3 その覚醒の本性とは存在であり、意識であり、至福と言うのじゃ。
  お釈迦様が不死の境地とか言ったものと同じなのじゃ。
  死もない永遠の意識こそ覚醒の本性なのじゃ。

 4 真我とはそれ自体が認識するものでありながら、認識はされないものなのじゃ。
  認識できたならばそれは真我ではないのじゃ。
  全てが見る者となる時、真我は実現したと言えるのじゃ。


  5 そこにはもはや世界とかの概念設定されるものは存在しないのじゃ。
  世界があったならばまだ真我は実現したと言えないのじゃ。

       
 6 全ての概念設定を離れて認識が実現すれば真我も実現すると言えるのじゃ。
  虚妄の世界と真実である真我は両立しないのじゃ。

745鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/11(水) 21:38:28 ID:1d4drIFg0
>>738>>739 7 認識が記憶に依存していれば概念は起こり続けるのじゃ。
  認識作用が記憶への依存を止めた時に心は止まり、虚妄の世界も消え去るのじゃ。
 
 8 ここで心と呼ばれるのは観念を投射する記憶に依存した認識なのじゃ。
  それは今ここでも絶え間なく悟りを得ない者の心にさまざまな観念を作り出しているじゃろう。
  それが個我の観念をも生み出すのじゃ。
  その作用がなくなり、虚妄の世界゛消えて真我は表れるというのじゃ。

 9 個我を起こす認識の働きは心臓への集中によって見出されるというのじゃ。
  それは心臓に限ったことではないがのう。
   一度、その働きが観られたならば自我は消えさるのじゃ。

 10 常に自己を探求することで心は鎮まると言うのじゃ。
   それが完全に観察された時に、個我は滅し、真我が実現されるのじゃ。

 11 雑念が起こればその都度、それが自分から起こる事を観察するように言うのじゃ。
   常に全ての注意を自己の探求に向ければ悟りも自ずから訪れるのじゃ。

 12 呼吸の制御も神を瞑想することもマントラも断食も心を鎮める助けになるだけなのじゃ。
   自分とは何かを観ることが真の悟りへの道なのじゃ。
   
 13 雑念がどれほど浮かび上がってきても日々の実践によって消えていくのじゃ。

746鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/11(水) 22:20:32 ID:1d4drIFg0
>>740 14 長年の執着も一つの気付きで消え去るように、観念の蓄積も認識を観れば消え去るじゃろう。
 それらは妄想に過ぎないからのう。
 妄想を妄想とわかってしがみつく者はいないのじゃ。

 15 観念があり続ける限り探求は終わらないのじゃ。
   それがどのくらいで終わるかは本人次第なのじゃ。
   日々の実践だけがその道を近ずけてくれるのじゃ。

 16 真我とは唯一つの実在であり、永遠の意識なのじゃ。
   全ての者の全てなのじゃ。
   神仏などの観念さえそこに含まれるのじゃ。
   ただ妄想としてであるがのう。

 17 神が意識であればそれは人に何かをさせるものではないのじゃ。
   ただ在るがままにあるのみなのじゃ。
   人はただ自ら実践してその意識の至福に至ることができるだけなのじゃ。
   それこそが恩寵と呼ぶべきなのじゃ。

 18 金や物を捧げるより、自らを真我にゆだねきった者こそ最も優れた帰依者であるというのじゃ。
   帰依とは神仏に回帰することであるが自らの心身をささげつくす者は少ないものじゃ。
   自分自身にさえ自らをささげ尽くすことは難しいのであるからのう。

 19 無執着とは今ここにのみ在ることなのじゃ。
   過去を想い、未来を臨んでいれば今ここにはいないのじゃ。
   心に浮かんでは消える雑念をその場で手放して真我を得るのじゃ。

>>741 20 どれほど優れた師匠や神も人に悟りを得させることはできないのじゃ。
  お釈迦様でさえ道標になるだけと言ったのじゃ。
  人は自ら悟りへの道を歩まなければいかんのじゃ。

  21 知識は塵芥であり、糟糠であると空海も言ったのじゃ。
    実践こそ真の悟りへの道なのじゃ。

  22 目覚めと夢は同じ意識の現われなのじゃ。
    夢の中でも観念はありつづけるものじゃ。
   
  23 聖典を読めば実践すべきことが書かれているのじゃ。
    実践が全てなのじゃ。
    知識を集めれば知識に執着し、妨げになることもあるじゃろう。
    実践あるのみなのじゃ。

  24 真の幸福は真我の実現によってのみ達成できると言うのじゃ。
    その他の幸福は幻想であり、一時の気休めに過ぎないのじゃ。
 
  25 心を鎮め、心臓に真我を求める力こそ洞察力なのじゃ。 
    超能力ではないのじゃ。

747鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/11(水) 22:27:29 ID:1d4drIFg0
>>742 26 無欲とはなにものにも囚われない心なのじゃ。
    智慧とはそのような心そのもの働きなのじゃ。
    欲があれば智慧は無く、智慧があれば欲は無いのじゃ。
    欲が無く智慧のある状態が真我実現なのじゃ。
    
   27 探求と瞑想との違いは真我を求めることと、ブラフマンの法との違いと言うのじゃ。
     真我探求の法は心臓にひたすら集中し、真我を求めることなのじゃ。
     ブラフマンの瞑想は心身をどこまでも広げてブラフマンと一体化する法なのじゃ。
     悟りを得ればそれらも一つの法と知れるのじゃ。

   28 解脱とは自己の本性を探求し、悟ることなのじゃ。
     それが存在しないと気付いた時に人は無我になり、無認識にも至るのじゃ。
     それこそ解脱なのじゃ。

748避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 22:35:19 ID:OYxDwooY0
鬼和尚すげーwww
脱帽です…。

749避難民のマジレスさん:2017/10/12(木) 17:23:19 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、解説ありがとうございます!
一瞬で片付けてしまうとは、まさに鬼ですねw
悟った人同士ですと、言わんとしている事もツーカーなのでしょうか?

750避難民のマジレスさん:2017/10/12(木) 17:40:04 ID:jfWCoXjM0
この「私は誰か?」という問答集の総評を聞かせてください。
それと↓もラマナ・マハルシの言葉なので、コメントをお願いします。

生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないこ
とを願っている。誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られ
る。そして幸福だけがその愛の源なのである。それゆえ、人間の本性であ
る幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、
人は自分自身を知らねばならない。そのためには、「私は誰か?」という問
いで探究する知識の道が最も重要な方法である。

751避難民のマジレスさん:2017/10/12(木) 19:03:22 ID:czRftzgI0
和尚さんは無我・サマーディに至るには苦をすべて取る必要はないとおっしゃいました。では、執着もすべて取る必要はないのですか?

752鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/12(木) 20:55:56 ID:1d4drIFg0
>>748 おぬしには負けるがのう。
 わっはっは。

>>749 そうじゃ、まさに鬼じゃ。
 医者が他の医者の言葉が直ぐにわかるように、悟った者同士もわかるのじゃ。
 特に難しいことは言っていないのじゃ。

>>750 マハリシは質問する者が観念に陥らないように常に心臓の真我に実際に集中するようにと答えているのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。
 悟った者は常に実践を説くのじゃ。
 悟らない者は知識を説くのじゃ。
 それが悟ったものと悟らない者の違いなのじゃ。
 マハリシも自ら悟り、不死の境地を知っているから皆をそこに導こうとしているのじゃ。

 それもまた実践によって真の幸福を実現するための言葉なのじゃ。
 全ての幻想を滅し、心の中にある真実を実現した者だけがそのように語りかけることもできるのじゃ。
 
>>751 そうじゃ、全ての執着を滅しなくて善いのじゃ。
  執着は心の働きによって次々に作られてしまうものであるからのう。
  全て滅しようとしてもきりがないのじゃ。
 修業の邪魔になる執着だけを取れば良いのじゃ。

753避難民のマジレスさん:2017/10/12(木) 22:27:44 ID:czRftzgI0
>751
はい、そのように修行したいと思います

754避難民のマジレスさん:2017/10/13(金) 07:21:55 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、

>>738
の書き込みの中の9項目目に
「もし身体のなか
のどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハー
トのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所で
ある。」
と書かれていますが、それは人は一般的に言って心臓のあたりに自分という感覚を強く
感じやすいということでしょうか?

そして、そうであるなら心臓らへんに対する観察は自我の正体を見るうえで効果的である、
ということなんでしょうか。

755541:2017/10/13(金) 10:46:36 ID:o7TfOr0I0
これだけの人間が真我探求して見付からないと言うのはどう言うことなのだろう。
心臓の辺りに真我があるならば、心臓の辺りを意識したら見付かるはずである。
何でそんなに難しい話になるのだ?
真我があるならば、もう見付かってもいいだろう
何年も探求して見付からないとしたら、それが幻想だからではないでしょうか?

756541:2017/10/13(金) 11:01:24 ID:o7TfOr0I0
確かなことは、意識と特定の肉体が何故か結び付いている事だよね。
それは、意識が肉体から生じているからなのか、或いは、意識が特定の対象(個別の肉体)を現象化し続けているかどっちかだろうね
この肉体は昨日と今日では別の性質を持つが、知性が、同一のものと見なしているから、昨日と同じ自分の肉体と判断している。
だから、全て幻想とは言えるのだが、それでも特定の肉体と言う認識システムと意識が関連していることは否定できない

757541:2017/10/13(金) 11:06:30 ID:o7TfOr0I0
つまり、どうして、意識は、この眼球(視角システム)やこの脳(認識システム)を通して、世界を眺め見るのか?
それは、「そう言うものだから」としか言いようがない。
つまり、意識は、この肉体を通して世界を経験しようとしており、それに「私」が異議申し立てをしても、意に関しないのである。
俺様は、そうしたいのだ、文句あるか?と言わんばかりである。

758541:2017/10/13(金) 11:11:18 ID:o7TfOr0I0
その時の私ってなんなの?この今、文字を打とうとして打っているものよ
まあ、あえて言うなら、この「世界を考え、語るもの」に、私は、自我意識を感じている訳だ。
鬼和尚の理論からすると、この世界を考えて語っているものを観察するときに、観照が起きることになる。

759541:2017/10/13(金) 12:44:02 ID:o7TfOr0I0
観察しようと思うと思考は消える。
と言うより「誰かに語ろう」とした瞬間に思考は生まれる。ほら、この通り。
私は、この語りや思考にidentityを感じており、自覚もあるし、観察してもいるが、観察されたからと言ってこれが滅却される事もなければ、永遠に触れているとも言えない。

760避難民のマジレスさん:2017/10/13(金) 12:57:15 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚としては
相当の覚悟、己を捨てられる、という強い意志があれば人はたった一日であっても観察
しまくって大悟に至れることは現実的に可能であると思われますか?

761避難民のマジレスさん:2017/10/13(金) 18:21:43 ID:DAY232aw0
>>744ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分を探求すれば良いのでしょうか?

762避難民のマジレスさん:2017/10/13(金) 20:01:12 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、解説ありがとうございます。

ラマナ・マハルシの教えの実践としては「心臓に集中して、私という思いの生起を見る。」で良いでしょうか?
鬼和尚的には、心臓でなく他の部位に集中してもOKで、自我の観察が出来れば効果は同じということですか?

763鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/13(金) 21:28:21 ID:1d4drIFg0
>>753 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>754 違うのじゃ。
 強く集中していると集中の対象と同一化が起こるのじゃ。
 そのために心臓に自分があると感じられるのじゃ。
 集中の対象は何でもよいのじゃ。
 集中力によって自我を観やすくなるだけなのじゃ。

>>755 真我などないのじゃ。
 ただ集中のための対象に過ぎないのじゃ。
 何も無いのが真我なのじゃ。
 
>>760 できるじゃろう。
 マハリシも一日で悟ったのであるからのう。
 今日にも死ぬというようなほどに強い動機が無ければ難しいかも知れんがのう。

>>761 そうじゃ、自分を探求すればよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>762 そのような理解でよいのじゃ。
 どこにでも自分の生起は観られるじゃろう。
 大事なのは集中力と観察力なのじゃ。

764避難民のマジレスさん:2017/10/13(金) 22:00:25 ID:ntpTPdXY0
>真我などないのじゃ。
バッサリw
真我も観念であることを見破らなければいけませんね。
私も真我に囚われていましたが、ようやくそれも自分の考えであることが見えてきました。

765避難民のマジレスさん:2017/10/14(土) 08:30:43 ID:aIZyr5vQ0
>>763
鬼和尚さま
「強く集中していると集中の対象と同一化が起こる」とありますが、ああいうのは何がどうなっている状態なのでしょうか?

例えば虫を観ていて、虫と自分とどちらが自分かわからなくなるとか、自分が虫になったとか、言いますが、
ああいうのは自分の側の分別がなくなるとか、認識の仕方が変わっただけのことなのでしょうか?
例えばこの場合、自分の側ではなく、虫の側に何か影響はあるのでしょうか?

例えば誰かが鬼和尚さまに集中して、鬼和尚さまと同一化した場合、
鬼和尚さま側は何か感じたり変化があったりするのでしょうか?

766避難民のマジレスさん:2017/10/14(土) 10:41:47 ID:czRftzgI0
スピ系の精神性の高い人は、神仏や高次の宇宙人の訪問を受けたり、UFOに招待されるそうですが、和尚さんにそういうことはありますか?
また、見知らぬ普通の人からあなたはオーラがすごいですねえとかあなた只者じゃないですねえとか言われたことがありますか?

767避難民のマジレスさん:2017/10/14(土) 16:50:27 ID:5b5rHLEE0
悟るとモテますか?

768鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/14(土) 20:07:27 ID:1d4drIFg0
>>764 そうじゃ、全て捨てて進むのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>765 自分という観念が集中の対象に投射されているだけなのじゃ。
 それは観念である故にどこにでも投射されるのじゃ。
 自分がそう感じるだけなのじゃ。

 虫とかわしには影響はないのじゃ。
 
>>766 そのようなことはないのじゃ。
 妄想なのじゃ。
 そのような者もいないのじゃ。
 全て幻想なのじゃ。

>>767 もてもてなのじゃ。
 わしもおぬしにもてもてなのじゃ。

769避難民のマジレスさん:2017/10/14(土) 22:16:01 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
本心を観るのは何故でしょうか?

770避難民のマジレスさん:2017/10/14(土) 22:21:26 ID:czRftzgI0
>766
はあー、和尚さんにかかるとそれらは全部幻になるんですね。ひやー

771765:2017/10/15(日) 03:05:14 ID:aIZyr5vQ0
>>768
単に自分の観念、自分にとってのことなんですね。
ありがとうございます。

ところで、ただ意識だけがあり、個々の分別が錯覚であっても、
個々の境界に関係なく影響し合うものというのはないのですか?

同一化はその人の観念ということですが、シンクロニシティだとか虫の知らせとか双子が同じことを考えているとか、
個々の垣根を超えて影響し合うように見える状態は、何ですか?
ああいうものも偶然や錯覚なのでしょうか?

ただ意識だけが在るという悟りの境地からすると現象は全て幻なのでしょうが、
個々が存在してるとする現象レベルにも意識だけが在ることの片鱗や現れが見えるのかなと思ったのですが。

772避難民のマジレスさん:2017/10/15(日) 05:10:57 ID:04sFW9n.0
>>743ご教授ありがとうございました。そのように観察を続けます。

別の質問があります。
他者のために生きなさい、という教えと、自分のやりたいように生きなさい、
という教えがありますが、両立しない場合もあると思います。
例えば、仕事をすれば資本家のためや、納税を通じて社会のためになると思いますが、
自分のやりたいことをやる時間はなくなります。
このような場合、どのような判断基準が正しいといえるのでしょうか?

773避難民のマジレスさん:2017/10/15(日) 07:04:18 ID:ydE4b1w.0

身体部位を厭離できた際に想念のエネルギーのようなものが放出することはその身体部位を厭離できたか
どうかに関係ありますか?

身体部位に対する自我の観念(=体への自己同一化の観念)ではない、善悪の観念のような自分を
しばりつけるような類の観念を手放せたとき、その観念にひっついていた感情のエネルギーのようなものが
放出するのを感じる時がよくあるんです。

しかし、身体部位に対する自己同一化の観念を厭離できた際は上記のようなエネルギーの放出が起こるときもあるんですが、ないときの方が多いんです、
身体部位を観察してじっと見つめ続けていたら、気づいたらいつのまにか自分とは思えないような感覚になっていた
とか、そんな感じのケースの方が多いんですが、それって厭離できているんでしょうか?
想念のエネルギーのようなものが放出されないと厭離できた感が薄いんですが、想念エネルギーが放出
される感覚と身体部位に対する自己同一化の観念を厭離できたかどうかには関連性はないんでしょうか?

また、身体部位をじっと見続けていて(この腕がなくなっても私という感覚はあるだろう、したがってこの腕は自分ではない
というような考えるプロセスさえも省いてただ見続けて)ずっとその部位を見てたら気づいていたらどうもその身体部位が自分とは
思えなくなった、というようなぼんやりと薄い手ごたえでもきちんと厭離されているんでしょうか?

774避難民のマジレスさん:2017/10/15(日) 07:18:05 ID:ydE4b1w.0
訂正です

× また、身体部位をじっと見続けていて(この腕がなくなっても私という感覚はあるだろう、したがってこの腕は自分ではない
というような考えるプロセスさえも省いてただ見続けて)ずっとその部位を見てたら気づいていたらどうもその身体部位が自分とは
思えなくなった、というようなぼんやりと薄い手ごたえでもきちんと厭離されているんでしょうか?

○ また、身体部位をじっと見続けていて(この腕がなくなっても私という感覚はあるだろう、したがってこの腕は自分ではないというような考えるプロセスさえも省いてただ対象を見続けて)
ずっとその部位を見ていて気づいたらその身体部位が自分、または自分のものであるとは思えない感覚で対象の身体部位を見ていた、というようなぼんやりと薄い手ごたえでも
「それが自分、または自分のものだとは思えない感覚」になればきちんと厭離された、と判断していいのでしょうか?

775避難民のマジレスさん:2017/10/15(日) 12:34:27 ID:czRftzgI0
分別と認識についてお聞きします。
鳥の声がしているのに気付いた時、小鳥の声だと思ったなら、どんな小鳥か分からなくても小鳥の声という記憶と照合したことになるから、認識でいいですか?
聞いたことのない鳥の声でなんだろうと思っているときは、分別なのか、それともとりあえず記憶から鳥の声ということがわかっているから認識になるのどちらですか?

と、ここまで書いたら記憶と照合しないで分けることができるのか、分別とは何なのかわからなくなりました。認識との違いは名前や性質などの知識情報がついているかいないかでしょうか。

776避難民のマジレスさん:2017/10/15(日) 18:37:19 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、「自分」という観念から生じる根源的な不足感を埋めようとして快楽に
執着したままでも無我に至る観照は起こりえますか?

もし起こらないならどの程度執着心を落とせば観照は起きますか?自分で内観してリストアップ
した限りでも数えきれないくらいの対象に対する個別の執着が見つかったんですが、それら全部ですか?
そうでなければどれくらいの執着を落とせば観照は起こりますか?助けてください。

777避難民のマジレスさん:2017/10/15(日) 19:58:26 ID:ydE4b1w.0
ごめんなさい、何度も尋ねてしまって、

非二元の本とかでよく目にする「悟りを求める探求心が落ちない限り悟りはない」
というのは
「悟りを得ようとして観察をしようとする心の働き、言い換えれば悟りへの探求心が止まない限りは鬼和尚のおっしゃる「観照」はおこらない」
という意味ですか?

自分の今の現状が「自分はこの体だ」という思い込みから自分は死に得る存在であるという死の恐怖に震えていて、
解決の道は観照が起こることだとも思っているんですが、観照が起こらない限り肉体が自分であるという観念も落ちず、したがってその観念が生じさせる死の恐怖も存続し続ける、
しかし、探求心が落ちない限り非二元で言われる悟り(鬼和尚のおっしゃる観照)は起きない、しかしどう頑張っても、どう他の色々な要素を手放そうとしても悟りへの探求心が落ちず
それゆえに、自分は今どうすれば、、、と感じているんですが、
そんなこと言ったって、自分のやれることは観察しかもはやないと思っているので観察をつづけているんですが悟りを得ようとするエゴエゴの
探求心を残したまま観照を目指しても観照は起きますか?

778鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/15(日) 22:28:56 ID:1d4drIFg0
>>769 本心でなければ嘘の心なのじゃ。
 嘘を見ても何も起こらないのじゃ。
 おぬしの金を二倍にしてやると言って金を預けても嘘ならば二倍にならず金も返ってこないのじゃ。
 そのように嘘を信じても損をするばかりなのじゃ。

>>770 わしでなくとも幻なのじゃ。
 
>>771 全てが観念の世界であれば影響も観念なのじゃ。
 そのようなこともあるじゃろう。
 しかし人が機械を使い通信しあうのと同じなのじゃ。
 囚われれば妨げになるものじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

>>772 自分のやりたいことが他者のためにならないならばそれは違うことじゃろう。
 しかしそれほど違うことも無いものじゃ。
 絵を描きたいとか劇をしたいとかも他者のためになる作を創る事が出来るじゃろう。
 そうでなければ誰にも注目される事の無い無名で終わるからのう。
 自分のやりたいことで他者のためになる道を探すと善いのじゃ。

>>773 それはエネルギーというより感情的な開放感じゃろう。
 今までストレスを与えられる囚われなどを持っていたものが、それを解放したときに感じたりするものじゃ。
 身体などの特に囚われのない部位を厭離しても起こらないのは当然なのじゃ。
 例えば今まで自分を苦しめてきた観念が要らないものと気付いた時に重荷を下ろしたように感じるのじゃ。
 
 その感覚が無くとも自分と感じなければもはや厭離は出来ているのじゃ。
 
>>775 そうじゃ、認識できているのじゃ。
 何かの鳥の声と言う認識なのじゃ。

 知識情報がなくとも類似や推測などが働いているのじゃ。
 それも記憶からの分別の一部なのじゃ。

779鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/15(日) 22:47:05 ID:1d4drIFg0
>>776 それが障害にならないならば起こるじゃろう。
 障害になるならば起こらないのじゃ。
 悟りを最も求めていたならば何も障害にならないのじゃ。

>>777 それが強い囚われとなり、障害になるならば起こらないのじゃ。
 そうでなければ起こるじゃろう。
 他人の言葉はあてにはならいなものじゃ。
 そうであるから仏陀達はただ道標になるだけなのじゃ。
 なにものも信じずただ鬼のように探求し続けるがよいのじゃ。
 それがおぬしの道なのじゃ。
 それがあっても心身を完全に観察し尽くせば必然的に観照は起こるじゃろう。

780避難民のマジレスさん:2017/10/15(日) 22:51:05 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さんは不死の探求の最中に観照が起こったそうですが、不死の探求とはどのような内容だったのでしょうか?

ここで我々に勧めている方法(心身を完全に観察する?)との違いはあるのでしょうか?

781771:2017/10/16(月) 00:11:58 ID:6WTCjnEc0
>>778
ありがとうございます。
悟った見地からすると全ては観念でどうでもいいことなのでしょうね。
そのレベルからすると、現象のひとつひとつをいちいち取り出してあれこれ言っても何の意味もないことだ、
というのはわかります。

そういう見聞きするひとつひとつの事象を囚われにせず、
修行していくのが大切ですね。
ありがとうございました。

782避難民のマジレスさん:2017/10/16(月) 07:45:17 ID:czRftzgI0
>775
未だ両者の違いが理解できたわけではありませんが、現時点ではそんなに厳密に区別する必要はないかなと思っております。
ありがとうございました

783避難民のマジレスさん:2017/10/16(月) 08:11:16 ID:ydE4b1w.0
>>779

ありがとうございます。探求心が自然と落ちるためには自分が完成させた観念の資料を見ながら
観念を一通り手放せれば徐々に探求心も落ちていくと思うので、それらを手放す作業をとりあえず
やり抜こうと思います。

観察について質問させてください。
脳みそや心臓、後頭部や背中、顔の形体などの目に見えないところはどう観察すればいいですか?

784541:2017/10/16(月) 11:37:52 ID:uckpFOu60
全て幻ならば嘘も幻ですよね

785鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/16(月) 20:25:44 ID:1d4drIFg0
>>780 ただひたすら経典を読み、瞑想していたのじゃ。
 全く違うのじゃ。
 自分が何をしているのかもわからんかったのじゃ。
 経典を読むことが自然に観察に繋がっていたと後で知れたのじゃ。
 止観ができる者は幸せなのじゃ。

>>781 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>782 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>783 それらもまた注意を向ければ感覚があるじゃろう。
 心臓は動いているとか、触感があるとか熱があるとかわかるものじゃ。
 そのような感覚を観察するのじゃ。
 それもまた五感のうちであるのじゃ。

>>784 その考えも幻なのじゃ。

786避難民のマジレスさん:2017/10/17(火) 05:29:05 ID:ydE4b1w.0
>>785

783です、ということは頭だったり心臓、背中、顔のように目に見えないところの観察は
実際に目に見える状態で観察する必要はなく、その部位がある場所の「感覚」を見て(感じて?)
その感覚にひっついている自己同一化を観察する、そういう理解でいいですか?

また質問なんですが、日常で生活を送っているとエゴからの欲が沸いてくる時が多々あります。
例えば美味しいものが食べたいとか、タバコを吸いたいとか、めんどくさいから風呂に入りたくない、とかの
快楽に対する執着と不快に対しての拒否心です。

それらの欲や執着心が沸いたまさにその時、私は下記のうちのどのような対処を行うべきでしょうか?
①「〜したい、〜したくない」という執着心や拒否感が沸いたとき、その執着心や拒否心を観察によって手放す
②「〜したい、〜したくない」という執着心や拒否感が沸いたとき、その欲に従ってその欲望を満たす行動をする(美味しいものが食べたいなら食べるという行動に移す)

しかし、②の行動を行うと、「自分は今、エゴからの欲を行動に移している、悟りの道とは正反対の方向に向かっている」という感じがして大きな違和感を感じます、
さらに罪悪感も感じます、その罪悪感は「悟りを目指しているものはエゴの差し出す快楽に向かうべきではない」
という観念からのものなのですが、その観念が正しくない、間違っている、とはどうしても思えなくて、したがって
その観念は外れないまま残存しています。

また①の行動を移した場合、それは以前もやったことがあるんですが、沸くたびにこの執着はどこから沸くのだろう
とかその場で色々やって手放そうとして生活できないくらいに身動きが取れなくなり、沸くたびに手放そう手放そう
というのが忙しすぎてほかのことがほとんどできなくなる、最終的にその執着心は弱まるんですが、自分の理解だと
「私」という観念が生じさせる根本的不足感を何とかしないと執着心はそこからまたどんどんとわいてくる、と思うと
「自分の手放そう手放そうとやってることって結局うわずみをすくってるだけだよなぁ」と思えてきます。


それゆえ、別にそういう欲が沸いてもその場では放っておいてもいいんじゃないか?
どっちにしろこれから私が行っていくワークによって「私」という観念が消えれば不足感も消え、それに
伴い欲も消えるのであれば別に今そうした執着心をなんとかしようとしなくてもいいのでは?
とも思っています。

だからと言ってそうした欲が沸いたときに欲望を満たす方向に向かうというのも大きな違和感があり、
「これじゃまずいよなぁ」と思えてしまうので結局のところ自分はその時どうしたらいいんだという
感覚になります。どうしたらいいのでしょうか?

その欲望が沸いたということに気づいたらただそれに気づいていさえすれば美味しいものを食べてもいいんでしょうか?

787避難民のマジレスさん:2017/10/17(火) 06:12:27 ID:04sFW9n.0
>>778ご教授いただきありがとうございました。
同じような質問で恐縮ですが、またお願いいたします。
例えば、一人で穏やかに静かに暮らしたい、という本心があったとします。
周囲はそれを望んでいないとします。
この場合、自分のために、自由に、やりたいように振る舞うべきでしょうか。
それとも本心を抑圧し、周囲の期待に応えるべきなのでしょうか?

788541:2017/10/17(火) 07:30:41 ID:ixanSuLQ0
>その考えも幻なのじゃ

でもその考えも幻ですね。ループですが。

789避難民のマジレスさん:2017/10/17(火) 11:45:43 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、
>>779のレスの中の
「心身を完全に観察し尽くせば必然的に観照は起こるじゃろう。」という鬼和尚の言葉は

例えば手という一部分を厭離までもっていくことが可能であるなら、体全体を部分的にどんどん
厭離させていけば、最終的には体全体に対する同一化がはがれて、肉体が自分であるという観念も
消える=観照まで自力で持っていける、ということですか?

自分は「自力で悟りを起こすことはできない」、といろんな本に書いてある通りに信じ込んでいたんですが、
自力で体全体を部分的に観察→厭離させれば最終的には観照に至る、ということが可能ということですか?

790避難民のマジレスさん:2017/10/17(火) 19:24:25 ID:czRftzgI0
身体の同一化は、肉体を自分だと思うのか肉体を自分の物だと思うのかどちらですか?

791避難民のマジレスさん:2017/10/17(火) 19:26:44 ID:DAY232aw0
>>763>>768
この前はお礼を言い忘れてすいません。
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、観察者であれば良いのでしょうか?

792避難民のマジレスさん:2017/10/17(火) 19:48:54 ID:czRftzgI0
すいません、これもお願いします
思考の同一化は、思考を自分だと思うのか思考を自分の物だと思うのかどちらですか?

793避難民のマジレスさん:2017/10/17(火) 19:54:12 ID:Y5LPInQE0
>>778
鬼和尚さん、ご回答ありがとうございます。

>経典を読むことが自然に観察に繋がっていたと後で知れたのじゃ。

とは、どういう事でしょうか?
経典を読んでいる最中に雑念が浮かんできて、それを観察していた、ということですか?

794鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/17(火) 22:34:50 ID:1d4drIFg0
>>786 そのような理解でよいのじゃ。
 
 どのような対処も行わなくて善いのじゃ。
 観察だけをするのじゃ。
 食べなかったならば食べなかったと観察するのじゃ。
 食べたならば食べたことを観察するのじゃ。
 観念は間違っていないと思うならば観念は間違っていないと思っていると観察するのじゃ。
 欲を満たしたならば欲を満たしたと観察するのじゃ。
 観察によって何かをしようとも思わなくてよいのじゃ。
 ただひたすらに観察してみるのじゃ。

>>787 それはおぬし次第なのじゃ。
 自分のしたいようにしたいと思えばそうするのじゃ。
 周囲の期待にこたえたいと思うならばそうするのじゃ。
 自由なのじゃ。
 死と言う限界の在る身で自ら願う道を行くのじゃ。

>>788 その考えも幻なのじゃ。

>>789 そうじゃ、できるじゃろう。
 お釈迦様もマハリシも自らの意志で観照を起こしたのじゃ。
 死も超える強い意志があれば可能なのじゃ。
 そのような意志の無い者は自らを手放す時を待つ以外にないのじゃ。

795鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/17(火) 22:41:08 ID:1d4drIFg0
>>790>>792 それはおぬしの認識している通りなのじゃ。
 おぬしが肉体を自分だと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。
 おぬしが肉体を自分のものと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。

 おぬしが思考を自分だと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。
 おぬしが思考を自分のものと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。

>>791 そうじゃ、観察者でいるのじゃ。
 ただひたすらに観察するのじゃ。
 死の恐れも超えて観察できれば悟りも訪れるのじゃ。

>>793 例えば般若心経ならば肉体を空とか読むとおりに肉体は空じゃな、と観想するのじゃ。
 そのように読んでいれば経を読むことが自然に修行になるのじゃ。
 お釈迦様がいま自分に説いているかのように読んでみるのじゃ。

796避難民のマジレスさん:2017/10/18(水) 06:51:20 ID:czRftzgI0
>790
自分がどちらなのかわからなくなりまして、観察してみます

797避難民のマジレスさん:2017/10/18(水) 10:53:25 ID:ydE4b1w.0
>>794

786です、二つの質問への回答ありがとうございます。
「食べなかったならば食べなかったと観察するのじゃ。
 食べたならば食べたことを観察するのじゃ。
 観念は間違っていないと思うならば観念は間違っていないと思っていると観察するのじゃ。
 欲を満たしたならば欲を満たしたと観察するのじゃ。」
という文の「観察する」とは、その原因を分析したり、思考を挟んだりせずただその行為や思いに気付いていること。
という意味で置き換えて理解していいですか?

すなわち
欲を満たしたならば欲を満たしたと(その原因を分析したり、思考を挟んだりせず)ただその行為や思いに気付いていること
観念は間違っていないと思うならば観念は間違っていないと思っていると(その原因を分析したり、思考を挟んだりせず)ただその思いに気付いていること

というような意味で「観察する」という言葉を理解していいですか?

そして、障害になりえるエゴのパターンに阻まれた際はただ気づくだけではなく、しっかり原因を分析し、突き詰めていってそれを解放し、それ以外の時は
自分の一挙手一投足を分析も何もせずにただ気づいている状態でいる(=観察する、ただ気づく)ということでいいでしょうか?

798541:2017/10/18(水) 18:41:38 ID:mmf5Fyts0
鬼和尚。その考えも幻ですよ。

799鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/18(水) 21:47:39 ID:1d4drIFg0
>>796 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>797 そのような理解でよいのじゃ。
 注意深く気付いているようにするのじゃ。
 どのような特徴も見逃さないように観るのじゃ。
 そうすれば気付くことも多くなるのじゃ。

 障害になりえる苦には原因を探すと善いのじゃ。
 それから自分を追及するのもよいのじゃ。
 障害になりえるものへの強い囚われが自分というものの認識を強くしている場合も多いからのう。

>>798 その考えも幻なのじゃ。
 昔のインド人はそのようにループになりえる考えはそれ自体が矛盾しているゆえに成り立たないと考えたのじゃ。

800避難民のマジレスさん:2017/10/18(水) 22:53:48 ID:WybGUs/o0
>>799
インドの話、納得しました。
さすが和尚ですね。

鬼和尚、最近ハートの辺りがモヤモヤと苦しいです。
以前は観察でこのモヤモヤが開放される感覚があったのですが、最近どうもうまく行かない。
これは最近慣れない環境に生活が変わり、自我を強烈に感じているからかもしれません。
鬼和尚のように悟るとこのハートのモヤモヤは無くなるものなのでしょうか。
またこれを無くすには、やはり観察なのでしょうか。

801541:2017/10/19(木) 04:07:42 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。では、全てを幻だとする鬼和尚の考えは成り立ってないではありませんか。

802避難民のマジレスさん:2017/10/19(木) 05:39:22 ID:04sFW9n.0
>>794ご教授ありがとうございました。
確かに私は自由のようです。本心を偽らずに行動したいと思います。
問題は、私の場合、それが本当に本心なのか確信が得られず、
時間ばかりが経過してしまうことのようです。

803避難民のマジレスさん:2017/10/19(木) 20:28:01 ID:ydE4b1w.0
>>799

ご回答ありがとうございました。

804鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/19(木) 21:10:48 ID:1d4drIFg0
>>800 無くなるじゃろう。
 そうじゃ、観察してそれが何か見極めるのじゃ。
 そうすれば消えるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>801 その考えも成り立っていないのじゃ。

>>802 そのように迷うのはどちらも自分のやりたいことだからなのじゃ。
 周囲の期待にこたえたいのもやりたいことなのじゃ。
 むしろ何がやりたくないことなのか観察して見極めたらよいのじゃ。
 その反対が本当にやりたいことなのじゃ。

>>803 どういたしまして、またおいでなさい。

805避難民のマジレスさん:2017/10/19(木) 23:38:20 ID:DAY232aw0
>>795ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自我を滅するとは自分を滅するという事なのでしょうか?

806蓮恵:2017/10/19(木) 23:54:00 ID:ETmMy/0M0
鬼和尚さま

瞑想の研究が効を奏して、条件によりますが日常においても、雑念の起きない妙な時間が起きるようになりました。
少しだけですが、上のような力を得たようです。

この力なら、この力だけが真に人を救えるのでは、密かに愚考しています。

807避難民のマジレスさん:2017/10/20(金) 00:26:39 ID:Wz03wK1Y0
>>804
鬼和尚、
ハートのモヤモヤが起こるようになり、より悟りたいという気持ちが大きくなりました。
観察を続けてみようと思います。
ありがとうございました。

808541:2017/10/20(金) 04:47:53 ID:o7TfOr0I0
全て幻であるならば、真実は「全て幻である」ではありませんか?それともただの方便です?

809541:2017/10/20(金) 04:58:43 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。この娑婆世界は観念で成り立っています。例えば、「一万円札が落ちている」とか「田中さんが山で熊に教われた」と言う出来事すら、ある意味では虚構です。
そして、それらの虚構が生まれる原因の大部分は「私は人間である」と言う観念です。
我々は無意識に人間らしく世界を解釈しています。存在を一万円札とか熊とか山とか田中さんと解釈しますね。
私は人間であると言う観念を捨てるならば、そこにあるのは存在です。
マハリシ等が言うように、私は存在すると言う観念すら捨てるならば、あらゆる存在を成立させる無の境地に至るでしょう。

810541:2017/10/20(金) 05:14:42 ID:o7TfOr0I0
人間と言う観念世界は人間と言う喜びをもたらしますが、苦しみももたらします。
現代人が無意識に取り込んでいる人間と言う観念は高々200年から300年前に西洋で生まれた人間概念に影響されています。その人間概念の特徴としては、独立性、自由性、完全性等が上げられますが、これらは元々西洋人が抱く神の属性であり、その自己投影でした。それゆえに、老いて、病んで、運命に翻弄されて死ぬと言う目の前の自然現象としての人間の現実に基本的に我慢がなら無い面がある。その事が文明の発展をもたらした面もあるでしょうが、第一次大戦や第二次大戦のような、情け容赦の無い神々の戦いをもたらした面もあるでしょう。

811541:2017/10/20(金) 05:20:34 ID:o7TfOr0I0
また、世界から切り離されて存在する人間と言うイメージは、そう信じる者に根源的な不安感や孤独感をもたらします。人間が酒を飲んで憂さ晴らししたり、ひたすら集団に同調したりするのは、この観念がもたらす根源的な不安感や孤独感に起因するように思います。

812541:2017/10/20(金) 05:36:47 ID:o7TfOr0I0
さて、我々は、このような人間観念を前提とした観念世界を生きている。自己の無謬性を信じるならば対立する他者を片っ端から葬り去らねばならない。それと同時に、人間には所詮人間みたいな卑小なイメージも持っているわけで、我々の生活の喜怒哀楽は、この自己イメージと言う私小説をあらゆる機会に読み上げているだけとも言えるでしょう。人間の人生の起伏は人間と言うイメージの起伏に過ぎない。人間としての喜びも悲しみも、自己演出して自分で勝手に苦しんだり喜んだり怒ったりしているわけです。

813541:2017/10/20(金) 05:42:24 ID:o7TfOr0I0
勿論、このような私の分析も観念でありましょう。
これは人間が生きる世界を解体する為の観念です。根本的な世界観を解体してしまえば、もはや一万円と千円札の違いもなく、それが失われることも得られることも無いでしょう。

814541:2017/10/20(金) 09:49:52 ID:o7TfOr0I0
現代の虚構性、価値観の中でその虚構の価値をもって虚構に対するのはその価値を強める事になってしまう。
例えば、「鬼和尚くん。残業頼むよ」と言われたとき、現代人は「ちょっと妻の体調が」とか「子供が風邪を引いて」と言った断り方でないと角がたつ。それは現代の価値観を利用して、或いは逆手にとって、構造上否定できない上司の命令をひっくり返した訳だ。例えば、鬼和尚は、大地震が起きたとき「別に大したことではないのじゃ」と言った。「人が無数に死のうと富士山が噴火しようとなにも起きていないから、淡々と座れば良いのじゃ」みたいなニュアンスの発言もあったと思う。本当の本質的な救済とはそう言うことであろうと思う。
自然災害で死んだ人は返ってこないし壊れた家も元通りではない。
だから、それが「何でもないこと」でなければ、本当の意味での救済は無いのである。
ヒューマニズムの観点から人を救うことは悪いことではないが、いきすぎると、無限に国の責任が問われたり、目の前の人間を助けられなかった事で己を苛む。
これらのことが本当の意味で解決すると言うことは「元々なにも起きていなかったのだ」と言う基盤に立たなくてはならない。
その基盤に立ったとき、人々は真の意味で許し合い、助け合い、悼みあうことができる。
人間と言う枠組みではなく、無と言う共通基盤に立ったときに、それは可能となる。
この掲示板で修業をしている人達はまさに、人間と言う枠組みを捨てて、無の境地に立とうとしている。そしてそれはこの掲示板を越えて、まだ少ないが、沸き上がりつつある運動だと思う。
だから、頼むぞ、君達が目覚めた分、私の修業も進むし、世の中が明るくなるだろう

815避難民のマジレスさん:2017/10/20(金) 18:13:34 ID:ydE4b1w.0
仏陀は菩提樹のもとに至る前、苦行をしていたと言われている期間は鬼和尚の言う「観察」
は行っていたんでしょうか?

また、菩提樹の下に来て、悟りを得るまでここを動かない、と言っておよそ一週間の間その菩提樹の下
にいた間(他所から聞いた話です、しかもうろ覚えなので間違ってたらすいません)は鬼和尚の言う「観察」を常に行っていたんでしょうか?
それとも悟りを得る直前しか「観察」を行わなかった、と思われますか?

816541:2017/10/20(金) 18:51:57 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。良寛さんは悟っていたんですかね。

イメージですが、人間関係のいざこざやもつれなどを、ニコニコ笑いおどけながら「無」に帰させ、解消させてしまうような力のあるイメージです。
法然とか日蓮や弘法大師のような生真面目で威厳がありすぎるタイプとは正反対ですが「現実」生活の中では良寛的な柔和さの方が威力を発揮するような気がします。
たとえ、悟りのレベルは低くても、問題解決能力は高い。
それとも、悟りのレベルが高まれば、おのずと、問題解決能力も高まるものでしょうか?

817541:2017/10/20(金) 18:57:40 ID:o7TfOr0I0
バッと相手の懐に入ってしまって、場や集団の雰囲気を変えてしまう。

そのような存在になりたい訳です。

と言うのも、ちょっと交渉ごとがあって、私は割と胆力はあるので、相手の理屈を粉砕しようかと思ったのですが
それだと、相手をやっつけたとしても、非常に恨みを残すことになる。
という訳で、柔軟路線に変更しようと思うのです。

818541:2017/10/20(金) 19:04:27 ID:o7TfOr0I0
不思議なものです。強硬路線で、集団のリーダー2、3人を粉砕する論理を探っていたのですが、
観念的に論破できてしまえると(勝てるとわかっていると)知った時点で、「だったら柔軟路線でも良いな」と戦略が大いに転換してしまった。
戦略が転換すると、存在の性質も変る。元々観念の相手を恐れ、観念の相手に備えている訳ですからね。思考と言うものは面白いものです。
思考によって生み出された「敵」が思考によって「味方」に転じることもある訳です。
しかし、もし、思考を書いていたら、敵から味方と言う弁証法的展開は無い。
この世は思考によって作られており、だからこそ、それを思考によって変えられるのかもしれません。
もっとも、このレベルの思考になると、思考と言うよりは瞑想に近いものになっていますが

819541:2017/10/20(金) 19:05:33 ID:o7TfOr0I0
↑ ×思考を書いていたら←○思考を欠いていたら

820541:2017/10/20(金) 20:55:43 ID:RnFr4kXY0
柔軟路線が行けるなと思ったとたん、柔軟ろせんというか、別に交渉する必要性すら感じなくなってしまったw
存在が無に転じた瞬間である。

821鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/20(金) 21:37:30 ID:1d4drIFg0
>>805 自分は滅しないのじゃ。
 ないものは滅することもないのじゃ。
 それを観察してみるのじゃ。
 
>>806 善かったのじゃ。
 そのような時に自分を観察してみるのじゃ。
 気付くこともあるじゃろう。

>>807 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>808 その考えも幻なのじゃ。

>>815 苦行をしている間はしていなかったのじゃ。
 七日間瞑想している時に時々できていたじゃろう。
 悟りを得る寸前に完全に観察したのじゃ。
 
>>816 悟っていたじゃろう。
 次はおぬしの番なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

822541:2017/10/20(金) 21:41:24 ID:RnFr4kXY0
ええ?以前聞いたら、悟って無いのじゃと言ってたぞ。鬼和尚、てきとー過ぎ(笑)!

823避難民のマジレスさん:2017/10/20(金) 23:37:01 ID:DAY232aw0
>>821ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分を厭離して、認識を厭離するのが悟りなのでしょうか?

824避難民のマジレスさん:2017/10/21(土) 05:38:44 ID:6RllZ6Zk0
>>804 ご教授ありがとうございました。そのように観察してみます。
ところで、相手をやっつけると結局は自分がやっつけられることになると聞いています。
しかし、それを知っていても、相手をやっつけたくなります。
そして実際やっつけてみると、やはり気分がすっきりします。結果については夢想だにしません。
このような衝動は、本当に自分がやりたいからやっていることなのでしょうか?

825香雪:2017/10/21(土) 19:00:55 ID:V.gQOPRg0
鬼和尚様 こんばんは。
お久しぶりでございます。ご質問させていただきたいのですが。
無我とは自我が、自分を示す言葉とイメージがなくなっただけの状態で、
間違った認識による記憶との照合、そこから起こる自他を区別する分別、
記憶から起こる思考とイメージ、観念による身体の作用、感情的な反応、
などの自我を自分と思い続けている状態の時とそれほど変わらないのですか?
無我とは単に自己同一化が解消されただけの状態なのでしょうか?

よろしくお願いいたします。

826避難民のマジレスさん:2017/10/21(土) 19:09:35 ID:DAY232aw0
連投すいません。
質問ですが、観察している時は、思考は使わないのでしょうか?

827鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/21(土) 20:16:29 ID:1d4drIFg0
>>822 おぬしに自分で判断させるためなのじゃ。
 それも幻なのじゃ。

>>823 自分はないから厭離できないのじゃ。
 認識は厭離されるじゃろう。
 それが出来れば大悟徹底なのじゃ。
 先ずは自我を厭離するのじゃ。

>>824 それも親などからの条件付けからくるものじゃ。
 やられたらやりかえせとか教えられるとそのように感じるのじゃ。
 それも自分がやりたいからではなく、そうすれば親から褒められると言う記憶からのものなのじゃ。
 やらないと親から責められるという感情から解放されるのじゃ。
 本心を観察してみるのじゃ。

>>825 記憶との照合は在るのじゃ。
 その他はかなり変るのじゃ。
 全てが自分に見えたりするのじゃ。
 身体は自然に動くのじゃ。
 感情もかなり変るのじゃ。
 自分を侮辱されたからと怒ったりしないのじゃ。
 もはや自分はないと気付いているからのう。

828鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/21(土) 20:18:12 ID:1d4drIFg0
>>826 本当は思考を使わないで行うべきなのじゃ。
 しかし思考が起こってしまっても失敗とか思わないでよいのじゃ。
 思考したときは思考したと観察すればよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

829避難民のマジレスさん:2017/10/21(土) 21:22:29 ID:DAY232aw0
>>827>>828ご回答ありがとうございます。
質問ですが、思考を使わずに観察すれば良いと言う事なのでしょうか?

もう一つ質問申し訳無いのですが、自我を滅して、認識を滅するのが悟りなのでしょうか?それとも自我を厭離して、認識を厭離するのが悟りなのでしょうか?

830香雪:2017/10/21(土) 21:29:51 ID:V.gQOPRg0
鬼和尚様 ありがとうございました!

やっぱり苦滅ともかなり大きな違いがあるんですね。
改めて無我を目指していこうと思います。
また何か聞きたくなったらお邪魔しますので、よろしくお願いします。
失礼します。

831避難民のマジレスさん:2017/10/21(土) 23:16:04 ID:ydE4b1w.0
815です、
そうですか、しかし七日間しか観察していなかったかもしれないのにあそこまで仏教
の教えというか理論体系を築き上げたのってすごいですよね、釈迦は悟った後に色々考えて
そういう細かい数々の概念を作っていったんでしょうか?
108の煩悩の区別とかも釈迦が考えたんでしょうかね、そうだとしたらよく七日間しか観察
してないかもしれないのに考え付いたな、と感心します。

832避難民のマジレスさん:2017/10/22(日) 04:22:02 ID:DAY232aw0
連投すいません。
質問ですが、なるようにしかならないのでしょうか?

833避難民のマジレスさん:2017/10/22(日) 04:51:06 ID:DAY232aw0
>>832追記です。
お釈迦様の言葉で
思いわずらうな。
なるようにしかならんから、
今をせつに生きよ。
と書かれてあったのですが、本当なのでしょうか?

834避難民のマジレスさん:2017/10/22(日) 12:36:55 ID:czRftzgI0
阿部敏郎のブログから
多くの人が勘違いしていることの中に「修行」があります。
修業とは、いまよりもっと上等な自分になるためとか、悟るためとか、何かになるために行うことだと思っているのです。これは人のマインド(自我)が時間の中に存在しているから起きる発想です。
しかし実際には時間は存在せず、ただいつも「いま」だけが展開しています。その「いま」を生きる態度を「修行」と呼ぶのです。
マインド(自我)の引力は強力で、うっかりするとすぐに頭の中の物語に吸いこまれてしまいます。いつも頭の中を生きている人には、このことさえもピンときません。思考が湧いたときに、それを思考だと見抜き、思考が作りだす物語に埋没することなく、いまここを生きることを「修行」と言うのです。
したがって幾多の禅師が言うように、修行そのものが悟りなのです。

修行そのものが悟りというのは本当ですか?

835避難民のマジレスさん:2017/10/22(日) 16:22:27 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん

本心を見れば何が起こるのでしょうか?

836避難民のマジレスさん:2017/10/22(日) 16:28:46 ID:Y5LPInQE0
>>795
ご回答ありがとうございました
肉体が空ということのイメージがよく掴めないのですが
空とはどういうことなのでしょうか?
科学で言うところの原子核の周りを電子が回っていて
肉体としてあるように見えている物は、実はほとんどがスカスカの
空間だとかそういう話でしょうか?

837鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/22(日) 19:52:24 ID:1d4drIFg0
>>829 そうじゃ、思考を使わない観察が理想的なのじゃ。
 自我も認識も厭離すれば滅するじゃろう。
 もはや自己同一化がなくなるからのう。
 実践によって確めるのじゃ。

>>830 どういたしまして、またおいでなさい。

>>831 そうじゃ、悟った後にさまざまな法や戒や律を作っていったのじゃ。
 何も考えていなかった悟った直後の説法は失敗したりしているのじゃ。
 煩悩は三毒だけなのじゃ。
 増えたのは後の者が付け足していったからなのじゃ。
 
>>832>>833 そのようなことはないのじゃ。
 お釈迦様は常に修業に励むようにと説いたのじゃ。
 ダンマパダにも励むようにと言葉が遺されているのじゃ。
 
>>834 嘘なのじゃ。
 悟りが何か知らない者がそのように書くのじゃ。
 修業と悟りが違うのは登山することと山の頂上とが違うようなものじゃ。
 登山すれば頂上にも至れるが、登山そのものを頂上とは言わないのじゃ。
 修業も日々続ければ悟りに至れるが、修業そのものは悟りではないのじゃ。
 このような明白な違いがあるのじゃ。

838鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/22(日) 19:57:17 ID:1d4drIFg0
>>835 変容が起こるじゃろう。
 真の変容は常に何らかの形で自己の本心を観ることで起こるものじゃ。
 師匠とか他人の指摘で本心がわかることもあるがそれも自ら本心を観ているのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>836 ただ無いと言うことなのじゃ。
 そのようにイメージすることなのじゃ。
 原子とかは関係ないのじゃ。
 肉体も食べることとか水を飲み空気を吸うという条件にょってあるものじゃ。
 条件が無ければ直ぐに消えるものじゃ。
 或いは時とともに衰えて消えたり、事故とか病でもなくなる性質のものじゃ。
 そのように幻と同然と観想することで肉体への執着と自己同一化を無くす方法なのじゃ。

839避難民のマジレスさん:2017/10/22(日) 20:23:27 ID:czRftzgI0
>834
はっきり嘘と言い切るところが和尚さんらしい。やっぱり悟りは必要ということですね。

840避難民のマジレスさん:2017/10/22(日) 20:29:08 ID:czRftzgI0
>834
と思ったら、彼のいう悟りの説明がありました。

そもそも悟っている人など誰もいないのですから。逆の言い方をすれば、全ての人は最初から悟っています。
その人が内側から消えた時、そこに悟りがあります。
悟りとは、個人の精神レベルのことではないのです。個人という錯覚が消えた時、もともとあったありのままのリアリティーを悟りと言います。

引用元
http://abetoshiro.jp/archives/4497230.html

これは合っているでしょうか?

841避難民のマジレスさん:2017/10/22(日) 23:12:00 ID:uhL2Zu5U0
鬼和尚、
私は意識に思考が起こり、五感が起こると観察しました。
それらを連結させて私と言う自我が幽霊のように立ち上っている。

この意識に気づいたことが悟りであるとしばらく思っていましたが、鬼和尚の心の模式図を見ていて、この意識は阿頼耶識なのではないかと考えました。

そこで質問なのですが、
この意識上で、記憶との照合である認識作用が起きている様を観察すれば良いのでしょうか。

842避難民のマジレスさん:2017/10/23(月) 14:00:07 ID:ZcjPAbko0
少し内容がわかりづらかったかもしれません。

阿頼耶識というスクリーンみたいな意識に私を生起させていると言いましょうか…。
そして生起させている原因は五感と思考による刺激である、と感じます。

この先に進むには、この阿頼耶識を「これが阿頼耶識である」とレッテル付けしている作用に気づくことかなと思いました。
いかがでしょうか。

843避難民のマジレスさん:2017/10/23(月) 16:13:43 ID:ydE4b1w.0
>>837

ありがとうございました。

844避難民のマジレスさん:2017/10/23(月) 20:29:46 ID:Y5LPInQE0
>>838
ご回答ありがとうございます。

どういった場合、本心を見る事は有益なのでしょうか?

例えば、修行なんてやらないでナンパでもしたいけれど、
修行やらなければならない気がしてナンパやっていても
何か罪悪感を感じ気が引けるというような場合、本心を見れば、
ナンパに打ち込めるようになったりするのでしょうか?

空の観想、やってみようと思います。

845鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/23(月) 22:19:28 ID:1d4drIFg0
>>839 そうじゃ、悟りなくしては老病死の苦を滅することも出来ないのじゃ。
 観念遊戯に陥る事無く修行するのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>840 悟っているものがいないのに全ての人が悟っているとは一体どういうことじゃ?
 全ての人が悟っているならば悟っている人が誰もいないというのはおかしいのじゃ。
 そのような完全に狂った論理を受け容れる側もおかしいのじゃ。
 奇を衒ったことを言えばよいというものではないのじゃ。
 個人が消えただけでは小悟なのじゃ。
 そこまで至っていない者が観念によって考えた幻想なのじゃ。

>>841>>842 それはまだ自我が完全に観えていないのじゃ。
 自我が完全に観られれば無我になるのじゃ。
 阿頼耶識が観られるのはそれからなのじゃ。
 自我を完全に観察するのを目標にするのじゃ。

>>843 どういたしまして、またおいでなさい。

>>844 おぬしがこれから生きる上で全てにおいて有益なのじゃ。
 行き先がわからない者がどこにも行けないように、自分の本心がわからなければどこにもいけないのじゃ。
 ナンパがしたいというのが本心ならばナンパをすればよいのじゃ。
  罪悪感があるならば本当はナンパなどしたくないということなのじゃ。
 そのように本心がわかれば自分の本当にしたいことがわかるのじゃ。
 それがなくてはどこにもいけないのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

846避難民のマジレスさん:2017/10/24(火) 04:10:49 ID:ZcjPAbko0
鬼和尚、
「肉体も思考も私ではなく、私はこの意識である」などと悟ったつもりでいる者、「この意識が本質であり私個人はいない」と記憶を基に認識している者こそが自我であると観察したのですが、自我はもっと気づきにくいものなのでしょうか。
それとも灯台もと暗しのように近すぎて気づいていないのでしょうか。

847避難民のマジレスさん:2017/10/24(火) 06:14:05 ID:6RllZ6Zk0
>>827
ご教授ありがとうございました。本心が観察できるように努力します。
別の質問なのですが、私は他人がくちゃくちゃ音を立てて食べていると苦を感じます。
その原因は親からそのような行為を強く戒められたからだ、と知っています。
しかし苦はなくなりません。
なぜなのでしょうか?
親からそのような指導がなければ苦が生じない、
ということを観察できていないからでしょうか?

848避難民のマジレスさん:2017/10/24(火) 18:24:29 ID:czRftzgI0
>840
もうこの人のブログは読まないようにします

849鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/24(火) 23:12:36 ID:1d4drIFg0
>>846 そのように言葉に出来るようなもならば未だ気付いていないのじゃ。
 いま自分の名前を呼ばれればおぬしはそれは自分だと認識するじゃろう。
 そのよう名前と姿かたちのイメージを持つものが自我なのじゃ。
 それを観察してみるのじゃ。

>>847 完全に観察していないからなのじゃ。
 それは両親に対しての怒りを投射しているのかもしれん。
 自分は怒られたのになぜ今の他人は怒られないのかと思うからかもしれん。
 そのような真の原因をもっと詳しく観察してみるのじゃ。

>>848 そうじゃ、読まなくて善いのじゃ。
 真の目覚めた者は常に自分の心を観るようにと勧めているのじゃ。
 ただ知識を押し付けているのは目覚めていない者なのじゃ。
 おぬしも心を観ればそこに真の悟りを見出すじゃろう。

850避難民のマジレスさん:2017/10/25(水) 00:14:09 ID:v0wSFOKY0
>>849
鬼和尚、何度もありがとうございます。

今この瞬間をあるがままに観てみます。
あえて言葉にすると、映像と背中の圧迫感と手の感覚だけがあります。
そこをイメージで補完し、「横になってスマホを見ている私」になります。
鬼和尚のおっしゃる自我とはこのイメージとは違うのでしょうか?

851避難民のマジレスさん:2017/10/25(水) 00:22:25 ID:v0wSFOKY0
もちろん映像と背中の圧迫感と手の感覚というのも過去との照合でそのように認識したものだと思います。
これらすべての認識が外れたところに悟りがあるのかなと思っていますが、どうなのでしょうか。

852避難民のマジレスさん:2017/10/25(水) 07:29:39 ID:DAY232aw0
>>837ご回答ありがとうございます。
厭離に対して質問ですが、完全に観察すれば厭離は起こるのでしょうか?

853避難民のマジレスさん:2017/10/25(水) 12:27:32 ID:DAY232aw0
>>852スルーした下さい。すいません。
質問ですが、観察に思考は必要無いのでしょうか?

854進路探訪者:2017/10/25(水) 19:58:06 ID:DIiPmWc60
鬼和尚さんご無沙汰しております。

ひょっとしたら悟りの入り口に立てたかもしれません。

最近、自分は煮ても焼いても自分であることに気づきました。

物心つく前の自分の顔や動きを思い出せば、そのころの自分の感覚を
思い出しました。そして、その感覚を通して、自分はその頃から今まで
全く変わっていないことにも気づきました。その感覚は物心つく前だから
周りの目なんて存在しないし関係ありません。単に生物的に生まれて成長
してそのような感覚を持つに至ったという事実があるだけにすぎません。

変わったとすると学校や社会で勉強や仕事を通じて能力が図られ、それにより
能力のある自分という理想像が生まれ、そのギャップに苦しんでいる点です。

しかし、自分は良い悪い関係なく絶対的な存在です。

物心つく前の自分が根源であるとすれば、それが過不足なく自分の全てであり、
それが全てであるから当然理想像とのギャップといった悩みもまたありません。

今までの自分は周りの目を気にしていましたが、それは自分の頭にあった理想像
が壊されたときに、自分の中で起きた喪失感にすぎず、それは私が自分の理想像
を自分であると思い込んでいた自我が感じている感情にすぎません。したがって、
自我以外の私にとってはそのような喪失感は無縁で、理想像という学校や社会が
生み出した幻想に、根源的に存在する子供のころの感覚が囚われることも当然
ありません。

恋愛、友人や家族兄弟などの人間関係についての悩みも、根源的には存在しないものであり、
自分の根源を思えばどうでもよくなりました。

また、前世は見えませんが、もしあるのであると仮定すれば、私の前世はADHDや
ダウン症なんだろうなと何となく直感しました。

私は悟ったのでしょうか?

855鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/25(水) 21:27:19 ID:1d4drIFg0
>>850>>851 違うのじゃ。
 感覚だけを観察するのじゃ。
 ただひたすらに観察し続けるのじゃ。
 
>>853 必要ないのじゃ。
 思考は無くても観察できるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>854 まだなのじゃ。
 その自分がどのようなものであるのか観察するのじゃ。
 完全に観察できれば厭離が起こるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

856避難民のマジレスさん:2017/10/25(水) 21:42:14 ID:v0wSFOKY0
>>855
鬼和尚、ご回答ありがとうございます。

感覚だけをただひたすら観察すると、鬼和尚の仰る自我が見えてくると言うことでしょうか?
何度も質問してしまい申し訳ございません。

857避難民のマジレスさん:2017/10/26(木) 00:07:53 ID:DAY232aw0
>>855ご回答ありがとうございます。
質問ですが、観察は目的ではなく手段なのでしょうか?

858避難民のマジレスさん:2017/10/26(木) 06:47:19 ID:DAY232aw0
>>857スルーした下さい。すいませんでした。

859避難民のマジレスさん:2017/10/26(木) 13:08:59 ID:fuOAkotI0
鬼和尚、
主体の観察についてお教えください。
自我の観察のうち、主体が現れた後で自分が思考しているイメージが現れるところまでは観えるようになってきました。しかし、主体はイメージというより、「自分が行なっている」というリアルな実感として現れていて、それがイメージだとは思えません。
むしろ自我が投射されていない場合のほうが、遠くで勝手に起こっていてリアリティを感じられないという状況です。

実感を伴うことが本当のことだと認識しているようですが、その認識には介入せず、ただ主体をより詳しく観察し続ければよいのでしょうか?

あと、詳しく観察しようとすると集中のために心身に緊張が生じます。一方でリラックスして全体を眺めるようにすると、詳細を見落としているように思います。観察に習熟すれば、全体を詳しく観察できるようになるのでしょうか?

860鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/26(木) 21:19:59 ID:1d4drIFg0
>>856 感覚を観察するならば感覚だけを観察するのじゃ。
 それによって自我の起こることも気付くのじゃ。
 
 そこに自我がある筈だとか思っていると観念を観てしまうのじゃ。
 観念は自らの思うとおりに働くのであるからのう。
 観たいと思うものを作り出し、観てしまうのじゃ。
 それによって観念遊戯に陥ってしまうのじゃ。
 ただひたすらに今ここにあるものにのみ集中し、観察していると本当に自我か起こることも見える瞬間がやってくるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>857 そうじゃ、悟りを得る手段なのじゃ。
 修行はみんなそうなのじゃ。
 悟った後には衆生を導く手段になるのじゃ。

>>859 そうじゃ、どんどん観察すると善いのじゃ。
 悟りも向こうからやってくるじゃろう。
 
 慣れれば上手くできるようになるじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

861進路探訪者:2017/10/27(金) 00:26:30 ID:DIiPmWc60
>>855

ご返信ありがとうございます。

私は、自分の子供のころを思い出すときは、自分が小学1年であった
ときのころをイメージしております。

そのときの感覚が一番思い出しやすく、その時の感覚をつかむのが容易
であるからです。

しかし、物心つく前の記憶については難しいです。

小学一年の物心ついたころの感覚をつかみ取るのでよいのでしょうか。

862避難民のマジレスさん:2017/10/27(金) 03:21:21 ID:v0wSFOKY0
>>860
鬼和尚、再度ご回答頂きありがとうございます。

見たいものを見てしまう観念遊戯に陥るとは今までも身に覚えがあり、深く納得しました。
心を横に置き、今ここにあるものそのままを観察することが大事なのですね。
糸口が掴めたように思います。
実践してみます!

863避難民のマジレスさん:2017/10/27(金) 06:31:48 ID:DAY232aw0
>>860ご回答どうもありがとうございます。
質問ですが、無意識の観察ができる様になれば良いのでしょうか?

864避難民のマジレスさん:2017/10/27(金) 19:15:20 ID:LC3de7YgO
鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2 [自己啓発]
長文連騰でつぶしてしまったであります。
ごめんなさい。
明日、新規に建てるでありますが、長文にならないように気を付けるであります。
γ⌒:"-ヽ〟
(∪(   )
∪∪∨-∨

865避難民のマジレスさん:2017/10/27(金) 19:59:30 ID:VrFZalN.0
鬼和尚、
再度ご質問なのですが、観察の際に「注意」「焦点」があると思います。
「椅子に座りつつも注意を足に向ける」などの注意です。

足に注意を向けると、足のイメージが湧きます。
また私というイメージから、足への注意の矢印のようなイメージと、距離感のイメージが湧きます。
それらはイメージにより認識したからそのように感じたのだと思います。
イメージはイメージとして横に置き、今ここで起こっていること素直にそのまま観ることが観察でしょうか?

866鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/27(金) 22:38:29 ID:1d4drIFg0
>>861 それによって起こる今の感覚を観察するならば善いじゃろう。
 今ここにあるものごとを観察するのじゃ。
 記憶を観てしまってはいかんのじゃ。
 それは既に無いものであるからのう。
 気をつけて進むのじゃ。

>>862 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>863 そうじゃ、日々続けていればできるようになるじゃろう。
 毎日の修行ができないこともできるようにしてくれるのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

>>862 ゆるすのじゃ。
 どんどんやるとよいのじゃ。

>>865 それもまたイメージがわいたと観察してよいのじゃ。
 横に置いたりしなくてよいのじゃ。
 心の働きを全て余さずありのままに観るのじゃ。
 なにも操作せずありのままに観察を続けるのじゃ。
 それを続けていれば更に深く観察できるようになるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

867避難民のマジレスさん:2017/10/28(土) 08:04:48 ID:DAY232aw0
>>866ご回答ありがとうございます。
質問ですが、悟りを得る事が目的なのでしょうか?それとも死を超える事が目的なのでしょうか?

868避難民のマジレスさん:2017/10/28(土) 11:50:17 ID:czRftzgI0
誰かがおしゃべりをしているのを聞いた時、はじめは聞き流していたのに、「あ、自分のこと!」ど話の内容が自分の悪口だと知ったとします。その瞬間嫌な感情が起きます。
この場合、はじめは自我はなくて「自分のこと!」と気付いた瞬間に起きるのが自我でしょうか?
とすると、自分の何かの事柄の記憶と聞いた言葉を照合したとき自我が生じていることになります。

869避難民のマジレスさん:2017/10/28(土) 19:51:29 ID:WRAz50E60
>>866
鬼和尚、度々ありがとうございます。
とにかく見に起こる現象全てを観察し尽くすのですね。
やってみようと思います。

870避難民のマジレスさん:2017/10/28(土) 19:52:55 ID:WRAz50E60
身に起こるの間違いです。
失礼しました。

871鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/28(土) 22:01:51 ID:1d4drIFg0
>>867 それはおぬし自身が決める事なのじゃ。
 おぬしは死を超えたいと思うのじゃろうか?
 それともなにやらすごい悟りというものがあるらしいから得たいと思うのじゃろうか?
 自らの本心が求めるままに道を進むのじゃ。

>>868 それは既に自我は起こっているのじゃ。
 自分の名に反応しただけなのじゃ。
 忘我の状態から名に反応して自我が起こることもあるじゃろう。
 そのような時こそ自我が起こる事を観察する好機といえるじゃろう。

>>869 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

872避難民のマジレスさん:2017/10/29(日) 06:20:37 ID:czRftzgI0
対象を認識している時点で既に自我があるということですか?
自分の名に反応したのではなく、過去に自分のやったことで思い当たることが話しの中に出てきたのです。

873避難民のマジレスさん:2017/10/29(日) 10:05:58 ID:DAY232aw0
>>871ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分の本心が求めるままに目的を決めたら良いと言う事なのでしょうか?
もう一つ質問申し訳無いのですが、悟りを得れば、苦は全て滅するのでしょうか?

874避難民のマジレスさん:2017/10/29(日) 10:43:25 ID:DAY232aw0
連投すいません。
質問ですが、自分の本心が求めるままに道を進めば、何の目的も無くても悟りは得れるものなのでしょうか?

875避難民のマジレスさん:2017/10/29(日) 13:43:42 ID:DAY232aw0
>>874追加です。
質問ですが、自分の本心が求めるままに道を進むと仰ってますが、心の主人にならなくてもいいのでしょうか?

876蓮恵:2017/10/29(日) 17:23:32 ID:QZjWADYU0
鬼和尚さま

力の抜き方が下手で、どうしても姿勢が定まりません
前後に倒れます
方法的には、力みで体を固定せず重心が不安定なまま、上から吊るされたような揺れない点を見つけるというのであっているのでしょうか

877鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/29(日) 20:52:35 ID:1d4drIFg0
>>872 日常では殆ど自我があるのじゃ。
 我を忘れている時を除いてのう。
 自分に思い当たることや自分にまつわることがらや自分のものについて気がつくのも自我があるからなのじゃ。
 我を忘れていれば思い当たることもないじゃろう。
 思い当たる自分が忘れられているからのう。
 
>>873 そうじゃ、自らの本心の求める道を行くのじゃ。

 悟りを得れば全ての苦は滅するじゃろう。
 精進在るのみなのじゃ。

>>874 本心が求めているのが悟りならば悟りは得られるじゃろう。
 本心が金を求めているならば金が得られるじゃろう。
 おぬしの本心次第なのじゃ。

>>875 心の主人になるとは無理にでも強制して悟りを求めることではないのじゃ。
 本心から悟りを求めているのではない限り、悟りは得られないじゃろう。
 本心では金とか名声とか権力などを求めているならばそれらを得て修業を終えてしまうからのう。
 老病死の苦を超える手段が悟りしかないと見極めて本心から悟りを求めるのが本当に心の主となることなのじゃ。

>>876 少し違うようじゃ。
 下腹と腰に力を入れて安定させるのじゃ。
 上半身からは力を抜くのじゃ。
 背骨や頭が垂直になるようにバランスを保つのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

878避難民のマジレスさん:2017/10/29(日) 21:21:36 ID:DAY232aw0
>>877沢山の質問に答えていただきありがとうございます。自分の本心の求める道を行こうと思います。

879避難民のマジレスさん:2017/10/29(日) 21:55:40 ID:czRftzgI0
>872
おーなるほど、自分のものについて気がつくのも自我があるから、納得です。
毎回目から鱗の落ちる返答をありがとうございます。

880鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/30(月) 21:47:08 ID:1d4drIFg0
>>878 そうじゃ、前進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>879 どういたしまして、またおいでなさい。

881避難民のマジレスさん:2017/10/31(火) 12:16:33 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
考えない観察をすれば良いのでしょうか?

882避難民のマジレスさん:2017/10/31(火) 18:47:08 ID:czRftzgI0
視覚の観察をしています。
Q1.襖を観察して、白い物が目の前にあると感じるのは認識で、目の前に白い襖があると感じるのも認識で、襖に描かれた木を見て木と感じるのも認識でいいですか?
この例の場合、分別はどのようなことを言うのですか?

触覚の観察をしています。
Q2.皮膚の感覚の観察で、金属を額に当ててヒヤッとした時、冷たい感覚を認識した(分別でも思考でもなく)という理解でいいですか?

883避難民のマジレスさん:2017/10/31(火) 19:30:30 ID:DAY232aw0
>>881スルーして下さい。すいませんでした。

884避難民のマジレスさん:2017/10/31(火) 20:12:27 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、「無我から無認識に至る過程」に関して質問させてください。

私の頭だけの理解では、
無我に至ったら主体と客体という感覚が消え、あえて言葉にするなら「見るものすべてが
自分である」、というそんな感じの感覚になる、と私は理解しています。

それを踏まえて話を進めます。

ある人が無我に至り、それゆえに個人感覚が消え、すべてが「いつなるもの」である、という体感を得た後に、
観照に至る前の修行中の段階において見ることのなかった強い観念、例えば「怒るのはダメだ」という観念がその人が無我に
至った後にその人のマインドにあまりにも強固な思考パターンとして沸いてきたとします。

そこで、 質問1

その場合、その人は無我に至ることで得られる「主体と客体というのがないという感覚」、すべてが「いつなる
もの」である、という感覚をそれによって失うことなくその沸いてきた思考パターンに対処することは可能でしょうか?

それともそのような強固なエゴ的思考パターンにとらわれることによって主体と客体という感覚がある、という
ところまで逆戻りしてしまうんでしょうか?そしてすべてが「いつなるもの」である、という感覚も消えて無我に至る前の状態に
逆戻りするんでしょうか?


質問2

無我に至ることで得られる「主体と客体というのがないという感覚」、すべてが「いつなるもの」である、という感覚を失うことなくその沸いてきた思考パターンに対処することが可能であった場合、
一度、無我に至ってしまえば、どのような残存しているエゴ的思考パターン(観念)が沸いてきて再びそれらにとらわれても
常に無認識に至るために認識の作用を観察し、認識を厭離させるということは常に可能な状態でい続けられるんでしょうか?

わかりやすく言うと、無我に至る前の段階では無認識に至るために認識の作用を観察し、認識を厭離させるということが常に不可能であるのなら、逆に無我に至った
場合なら、どのようなエゴ的思考が沸いてきても認識を厭離できる可能性は24時間常にあるのか?
というところが疑問に感じたので質問させていただきました。

質問3

ある人が無我に至った後に上記のようにエゴ的思考パターンが沸いてきてその思考に完全に
飲み込まれ同一化してエゴまみれな状態になっている最中に認識を観察→厭離させる、ということは可能でしょうか?

質問4 

ある人が無我に至った後に上記のようなエゴ的思考パターンが沸いてきてもそれと一体化せず、
「ああ、これはまだ自分の中に残存していた観念だ」というように俯瞰的に観察できている状態から
認識を観察→厭離させる、ということは可能でしょうか?

質問は以上です、よろしくお願いいたします。

885鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/31(火) 21:56:45 ID:1d4drIFg0
>>881 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

>>882 ① そうじゃ、白いと言うのもすでに分別なのじゃ。
  分別しなければ色も無いのじゃ。

 ② そのような理解でよいのじゃ。

>>884 1 いかなる思考であろうと囚われて無我であることを失うことは無いじゃろう。
 
  2  常に可能なのじゃ。

 3 本当に無我になっているならばエゴまみれになることはないのじゃ。
   常に可能なのじゃ。
  
  4 常に可能なのじゃ。

886避難民のマジレスさん:2017/11/01(水) 06:41:50 ID:czRftzgI0
>882
白い物が目の前にあると感じるのは分別をしていて、かつ認識もしている状態という理解でいいですか?

887避難民のマジレスさん:2017/11/01(水) 07:13:48 ID:czRftzgI0
執着する物はいずれ朽ちてなくなるから空と考えるのが一般的な空の法ですが、社会的地位に執着している場合、自分がいずれ死ねばそんな物を持てなくなるからその社会的地位は空であると考えるのも空の法ですよね?

888避難民のマジレスさん:2017/11/01(水) 11:41:43 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
縁起の法は何の為にあるのでしょうか?

889避難民のマジレスさん:2017/11/01(水) 16:52:52 ID:ydE4b1w.0
>>885

そうなんですね、わかりました、ありがとうございます。

それから、申し訳ないですがまた長文で質問させてください。

質問1
私は鬼和尚がいつだったか、「無我のままでは生活ができない」とおっしゃられたのを見たと思います(間違ってたらすいません)
しかし、無我に至ったと思われる先人たちが現に生きて生活していらっしゃることを考えると、彼らは少なくとも「無我のままでは生活ができない」
という状態ではない、と自分は推測します。
そこで質問は、そのような完全な無我の状態ではなく、無我に至った後、支障なく日常生活を
送れている状態であっても認識を観察して厭離させることは可能ですか?

質問2
日常生活が送れないほどの完全な無我の状態のさなかに認識を観察→厭離させることは可能ですか?

質問3
日常生活すら送れない無我の状態というのは観照が起こって無我に至った直後に誰しもが一瞬なるもの、そんな感じのものなんでしょうか?
そうでないなら、観照が起こる→無我 という流れの中のどの辺で「日常生活すら送れないほどの無我の状態」になるのですか?

質問4
日常生活すら送れないほどの無我の状態から日常生活が送れる無我の状態に移行するためにはどのようなきっかけが
必要とされるんですか?

890鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/01(水) 21:55:26 ID:1d4drIFg0
>>886 そうじゃ、それでよいのじゃ。
 白とか認識しているのは既に分別したからなのじゃ。
 分別しなければ色も無いのじゃ。

>>887 そうじゃ、なくなってしまうものというのも空の性質なのじゃ。
 それも執着をなくすためのものなのじゃ。
 
>>888 苦を滅し、自我をも厭離するためなのじゃ。
 苦から根本の原因である自分があるという無明にまで観察が及べば無我にもなれるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>889 1 できるのじゃ。
 いつでもできるじゃろう。

 2 できるのじゃ。

 3 悟った後に一時的になるのじゃ。
   もはや自分が無く認識も無いからこの世の価値観や常識を無と知るのじゃ。

 4 人に教えを説くために無意味な価値観や常識に従う意志が必要となるのじゃ。
 

 45

891避難民のマジレスさん:2017/11/02(木) 03:14:56 ID:ydE4b1w.0
>>890

889です、そうなんですか、ということは鬼和尚のおっしゃる「日常生活も送れないほどの無我の状態」
というのは認識を厭離し無認識になった直後になる状態であって、観照が起き無我に至っただけでは
「日常生活も送れないほどの無我の状態」にはならない、ということですか?

892避難民のマジレスさん:2017/11/02(木) 06:50:50 ID:czRftzgI0
>887
これを観察に活かそうと思います。ありがとうございました

893避難民のマジレスさん:2017/11/02(木) 13:19:41 ID:DAY232aw0
>>890ご回答ありがとうございます。
質問ですが、どうやって観察するのでしょうか?
もう一つ質問申し訳ですが、どうやって追求するのでしょうか?

894避難民のマジレスさん:2017/11/02(木) 16:25:57 ID:ydE4b1w.0
追加で質問すいません、釈迦は菩提樹の下で悟る直前、国と家族をほったらかして悟りの道
を歩んだ、ということに強い罪悪感を感じた、という話は鬼和尚は聞いたことはありますか?また、それは本当の話なんでしょうか?

895鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/02(木) 21:39:56 ID:1d4drIFg0
>>891 そうじゃろう。
 まだ認識は残っているからのう。
 慣れた日常生活はおくれるのじゃ。

>>897 どういたしまして、またおいでなさい。

>>893 今まで通り観察するのじゃ。
 観るものを追求するのじゃ。
 そのように思えるのも自分が主体であり、主体から観察や全ての働きが起こっていると感じるからなのじゃ。
 実際には全ての心身の働きは主体なくして起こるものじゃ。
 主体はあとから投射される観念に過ぎないものなのじゃ。

>>894 そのようなことはないじゃろう。
 身を捨てても悟りを得たいと思っていたのであるからのう。
 お釈迦様が悟る前に魔が家族の姿で迫ってきたことをそのように心理的に解釈する者がいたのじゃろう。

896避難民のマジレスさん:2017/11/02(木) 22:59:53 ID:1yJIgtKg0
鬼和尚、

主体や客体というのは、時間差による錯覚。
実際は主体も客体もイメージであり、起こる現象が今ここにただ起こっているだけであると観察しました。

しかしこの先は何をどのように観察すれば良いのでしょうか?
阿頼耶識を観察したいと思っています。

897541:2017/11/02(木) 23:17:57 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚、一休さんは悟っていたとおしゃっていましたが
一休の師匠の華叟宗曇や兄弟子の養叟(ようそう)は悟っていたのでしょうか?

898541:2017/11/02(木) 23:20:28 ID:o7TfOr0I0
ところで、私は、権力や女や名誉が大好きなのですが、苦の元だからこれらへの執着は捨てたほうが良いのでしょうか?

899541:2017/11/03(金) 06:29:57 ID:o7TfOr0I0
人間関係にも恵まれ、立ち上げた商売も成功しつつあります。
しかし、成功のなかにも、「信頼を失わないようにしなくては」など、気を回す事が多く、新たなストレスの元になりそうです。
例えば、商品に傷がついていたりしないかとか、健康上問題はないだろうかとか、誠実であろうと思うほど、心配が増えてくる。
これは、客観的には商品の質の向上に繋がるし、勿論、悪いことではないが、精神を疲弊させる面もある。結果に一喜一憂することなく、顧客にも職員にも振り回されることなく、淡々と製品や運営システムを向上させていくことは可能ですか?

900541:2017/11/03(金) 06:42:46 ID:o7TfOr0I0
和尚。食欲や性欲などは、観念だけではなく、肉体に由来する面もあると思いますが、それらも厭離可能ですか?

901避難民のマジレスさん:2017/11/03(金) 11:57:59 ID:DAY232aw0
>>895ご回答ありがとうございます。
観るものを追求すると仰ってますが、やっぱり追求の仕方がわかりません。自分とは何か追求するのと原因を追求するのでは追求の仕方は一緒なのでしょうか?
自分と感じるものは何か観察していれば追求していることになると仰ってましたが、観察すれば追求していることになるのでしょうか?
観るものを追求するとは追求して観るを追求するのでしょうか?それとも観察して観るものを追求するのでしょうか?
追求がいまいち分からずしつこいようですが質問させて頂きます。すいません

902541:2017/11/03(金) 12:31:18 ID:28Zc32Jo0
いつもながら沢山質問してすみません。

以前鬼和尚は鈴木大拙を「悟っていたのじゃ」と言っており、親鸞や法然などは「悟って居なかったのじゃ」とおっしゃっていましたが、
鈴木大拙自身は『日本的霊性』のなかで、法然、親鸞を高く評価し、「南無阿彌陀仏」にこそ日本精神の真髄があるとし、学識も修行もしていないが、ひたすら念仏を唱えて、日々の生活に自足している妙好人のような人々を称賛していましたが、大拙は、人々が、釈迦のような真のさとりを得ることは無理だと思っていたのでしょうか?
或は、禅の悟りよりも浄土真宗の信仰の方が、真の悟りに近いと考えていたのでしょうか

903避難民のマジレスさん:2017/11/03(金) 15:33:09 ID:ydE4b1w.0
>>895

わかりました、ありがとうございました。
それから、また質問させてもらいます。

質問1
以前、鬼和尚は「すべての観念は主体を想起させる」というようなことをおっしゃっておられましたが、
無我に至った人の場合その段階ではまだ観念は残っているから、それらの残っている観念が認識された際に主体という感覚を起こす、ということが
無我に至った後でもありうるんですか?

でも主体の感覚があるならそれは無我と言えるんでしょうか?

質問2
観念が想起させる主体の感覚、というのは自我とはまた違うものですか?

904避難民のマジレスさん:2017/11/03(金) 15:46:57 ID:rVd9uqEE0
鬼和尚さん、腰痛になってしまいました。
軽いぎっくり腰のような症状です。
何をしたら改善できますか?
ストレッチなどはやっていますが、ここ数週間なかなか治りません…。

905避難民のマジレスさん:2017/11/03(金) 17:16:31 ID:czRftzgI0
過去にどぶにはまって友人に笑われた嫌な記憶があるとします。この場合、どぶにはまった自分を自分だと思うから恥ずかしいのであり、どぶにはまった自分は自我といえます。
そして、どぶにはまる行為を自分の行為だと思うから、どぶにはまった自分を自分だと思って苦が生じます。さらに、どうしてその行為を自分の行為と思うかは、自分の体を自分だと思っていて、その自分の体の行為も自分のものだと思っているからです。
だからこうした過去の行為の苦を乖離するには、行為を生じさせる自分の体を自分のものだと思わないように乖離する必要があると考えました。行為に基づくすべての自我は身体の乖離により解体されるというのが結論です。

まとめると
自分の体を自分のものだと思う→自分の体の行為を自分の行為だと思う→どぶにはまった自分を自分だと思う→苦

この見解は正しいでしょうか?

906糞和尚:2017/11/03(金) 21:28:01 ID:YUVcWBgU0
>>902
それはあくまでも「日本的」霊性なのじゃ。
鈴木大拙は禅をやっていたのじゃ。
仏教の日本独特のものを取り上げただけなのじゃ。

907避難民のマジレスさん:2017/11/03(金) 22:26:09 ID:XZhaK0vE0
>>899
鬼和尚じゃないけど,品質課を作ればいいんじゃないの?
品質課に人員を割けなければ,受け入れ検査,出荷検査など,商品を検査することにして
検査項目,検査方法を決めて,チェックシートを作って,結果を記入して,記録に残すとか

908鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/03(金) 22:34:23 ID:1d4drIFg0
>>896 自分を観察するのじゃ。
 自分を観察して厭離しない限り阿頼耶識も観察できないものじゃ。
 恐れとか何かの理由で自分が観察できないのかもしれん。
 そのような逃避をも観察してみるのじゃ。

>>897 悟っていたじゃろう。
 
>>898 執着は捨てたほうがよいのじゃ。
 苦になるからのう。
 どんどん捨てるのじゃ。

>>899 出来るじゃろう。
 自分には出来ると唱えているとできるようになるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>900 しようと思えばできるのじゃ。
 しなくてよいのじゃ。

>>901 自分という観念を起こす原因を追求するのじゃ。
 どんどんやればそうなるじゃろう。
 やらなければならないのじゃ。
 自我がある限り観るものはあるとおもえるじゃろう。
 まずは自分を観察するのじゃ。
 それが観るものなのじゃ。
 恐れがあるから観られないならばその恐れも観察するのじゃ。

>>902 大拙はスゥエデンボルグなども賞賛していたのじゃ。
 オショーと同じく、全ての宗派を包摂しようとしていただけなのじゃ。
 悟ったとは言っていないのじゃ。
 ただ真宗の者を取り入れるためにゴマをすっていたのじゃ。

909鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/03(金) 22:40:39 ID:1d4drIFg0
>>903 1 真に無我になったならばないじゃろう。
 既にそれが観念とわかってしまったのであるからのう。
 忘我ならばあるかもしれんのじゃ。
 観念は全て刹那に起こるものじゃ。
 忘れていたものも刹那に思い出したりするのじゃ。

 2  違うものなのじゃ。
 それに自我が投射されているのじゃ。
  自我は名前とイメージによる観念であり、分別された認識とは違うものなのじゃ。
 客体と主体を分別された後に自我の観念は投射されるのじゃ。

>>904 痛むところよりずうっと腰の上とか尻等に硬いところや痛む所を探すのじゃ。
 そこを揉み解すのじゃ。
 心臓に向けてさするのじゃ。
 そこが治れば治るのじゃ。
 
>>905 そのような理解でよいのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。

910541:2017/11/03(金) 22:53:23 ID:o7TfOr0I0
>>897 悟っていたじゃろう。
一休の兄弟子の養叟(ようそう)と一休は確執があり、喧嘩別れしたとの話ですが
それは周囲の凡人の解釈で、実際は、どっちも悟っていたので「喧嘩」などはしていなかったのですかね。
悟った人同士でも、意見の相違や感情のぶつけ合いはあるのでしょうか?


>>900 しようと思えばできるのじゃ。
 しなくてよいのじゃ。

しなくてよい。つまり性欲や食欲は放置プレイでよいのでしょうか?
結構、こいつらの力は強いですよね。

>ただ真宗の者を取り入れるためにゴマをすっていたのじゃ。

www予想外の斬新過ぎる解釈
それは本当に、大拙の真意なのでしょうか?鬼和尚の主観と言うことはないのですか?

911541:2017/11/03(金) 22:57:31 ID:o7TfOr0I0
大拙の代表的な書物である『日本的霊性』だけを読むと(多くの人はこれしか読んでいない場合もある)、真宗を取り入れるどころか、
なむあみだぶつと唱えていればいいんだと真宗の信仰に自信を持って、むしろ、禅者のうちに真宗に転向するものが出そうな勢いかと思います。

912541:2017/11/03(金) 23:06:00 ID:o7TfOr0I0
でも、鬼和尚の解釈は面白いと思います。
我々は内心小馬鹿にしているものをあえて賞賛することはありますからね。
歴史上の人物とかの手紙や発言を、そのまんま受け取る学者とかは、人間と言うものが全く分かってないなと感じる事はあります。

913避難民のマジレスさん:2017/11/03(金) 23:49:55 ID:ltsvCJfk0
>>908
鬼和尚、
厭離とは、主体だと思っていたものを客体視した時に起こると考えます。
思考や肉体から厭離し、それらをただ観ている視点に立ち、苦から離れることと理解し、また経験しています。

しかし今回私が観察したのは、思考が現れている瞬間は、それを離れて観ている主体など実はいないということでした。
思考の直後に、それを観ている主体という観念が起こっています。

思考→それを観ている者→「思考から離れているぞ」…

という一連の流れが意識に起こっていました。
これは思考に限ったことではなく、五感もそうでした。
何かを触った瞬間は、それを感じている主体はなく、その直後に感じている主体を作りだしていると言いましょうか。

これは何か別の方向に行ってしまってるのでしょうか。

914避難民のマジレスさん:2017/11/04(土) 02:31:51 ID:ydE4b1w.0
903です。

鬼和尚の主体という概念、難しいです、、、
また、分けて質問します。

質問1
鬼和尚の
「真に無我になったならばないじゃろう。」
という私への返答の中の「真に無我になったならば」という言葉は、
「認識を厭離して無認識に至ったときになる完全な無我の状態になったならば」という意味ですか?
それとも
「本当に無我に至ったのなら(まだ無認識まで至ってはいないが観照が起こって無我に至った)」という意味ですか?

質問2
>>909の文章の中で鬼和尚のおっしゃられたことをまとめると
「すべての観念は主体を想起させるが、無我に至った後はすべての観念が主体を想起させることがなくなる」
ということですか?

質問3
私は目の裏に自己感覚というか主体の感覚があるんですが、上記で言われている「すべての観念が想起させる主体」
と私のこの主体の感覚とはまた別物ですか?

質問4
「すべての観念が想起させる主体」というのを実感としてどんなものか認識してみたいのですが、
そこを意識してそれがその主体だ、というようにわかるものでしたらどうすれば「すべての観念が想起させる主体」
というのを意識の上で捉えられるか教えてくれると助かります。
それとも、それはかなり微細な感覚で人間には到底認識できないようなものなのでしょうか?

915避難民のマジレスさん:2017/11/04(土) 05:52:59 ID:czRftzgI0
>905
身体の観察という膨大な作業を前に呆然となりますが、実践したいと思います。

916避難民のマジレスさん:2017/11/04(土) 09:50:04 ID:DAY232aw0
>>908ご回答ありがとうございます。
まずは自分を観察すると仰ってますが、自分の本心を観察して、自分を観察するのでしょうか?それとも自分を観察して自分の本心を観察するのでしょうか?

917避難民のマジレスさん:2017/11/04(土) 16:18:49 ID:czRftzgI0
顔を観察する時、和尚さんは実際にどのようにされたのですか?鏡を前に置いてじっくり眺めたのか、顔を触って触覚を使って観察したのですか?

918鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/04(土) 21:55:09 ID:1d4drIFg0
>>910>>912 ただ単にお互いを必要としていなかったのじゃろう。

 修業の邪魔になる執着を滅するとよいのじゃ。

 大拙は何でも褒めていたのじゃ。
 騙されてはいかんのじゃ。

>>913 それでよいのじゃ。
 何度でも観るのじゃ。
 完全に観察されれば厭離されるのじゃ。

>>914 1 無認識ではない無我なのじゃ。

 2 そのような解釈でよいのじゃ。
   無我でも主体の無い観念は未だ起こるのじゃ。

 3 それが別かどうか自ら観察してみるのじゃ。
   おぬし以外には誰にもわからないのじゃ。

 4 おぬしが目玉の裏に感じているものかもしれん。
   おぬし以外には誰にもわからないのじゃ。
   ただひたすらに観察するのじゃ。
   実践あるのみなのじゃ。

>>915 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

919鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/04(土) 22:02:38 ID:1d4drIFg0
>>916 どちらでもないのじゃ。
 自分の本心だけを観察するのじゃ。
 
>>917 何もしていないのじゃ。
 わしは体が自分とは思っていなかったのじゃ。

920避難民のマジレスさん:2017/11/04(土) 22:38:23 ID:DAY232aw0
>>919ご回答ありがとうございます。
質問ですが自分の本心だけを観察して、自分という観念が起こす原因を追求すれば良いのでしょうか?

921避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 00:20:47 ID:vrNcXKcg0
>>918
鬼和尚、ご回答頂きありがとうございます。今まで思考や肉体を観ることにより「それは私ではない」という距離を取る観察でしたが、転じて思考や肉体の感覚に成り切ることも苦を滅するものだと気づきました。
痛みの後に「私」が起こり、「私が痛みを感じている」という錯覚が苦の原因でした。
痛みそのものになってしまえば痛みは苦ではなく、ただの痛み。と認識しています。
このまま観察を続け、完全に悟ってみたいと思います。

922避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 04:15:41 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん

主体と意識には、どのような違いがありますか?

923避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 05:07:29 ID:ydE4b1w.0
>>918

わかりました、ありがとうございました。

924避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 05:48:06 ID:czRftzgI0
>917
子供の頃から体が自分とは思っていなかったのですか?それとも何かのきっかけで修行を始める頃には体が自分とは思っていなかったのですか?

925避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 12:50:13 ID:DAY232aw0
>>920追記です。
それとも自分の本心だけを観察していればいいのでしょうか?

926避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 15:38:31 ID:Tu1eESLY0
>>909
鬼和尚さんありがとうございます。
腰痛はここ2日でかなり良くなりました。
鬼和尚さんのおかげですm(__)m

927鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/05(日) 21:12:51 ID:1d4drIFg0
>>920 自分の本心を観て自分と言う観念が起こることを観察するのじゃ。
 そして原因も追究するとよいのじゃ。
 自分と言う観念が見えなければ原因を追究することもできないのじゃ。

>>921 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>922 主体は観念なのじゃ。
 本来無いものじゃ。
 意識は観念ではないのじゃ。
 本来存在するものであり、全てなのじゃ。
 観念も主体も意識とは言えるが、謬見によるものなのじゃ。

>>923 どういたしまして、またおいでなさい。

928鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/05(日) 21:22:05 ID:1d4drIFg0
>>924 最初からなのじゃ。
 何を自分と思っているかは人によって違うのじゃ。
 わしは記憶を持つものが自分と思っていたのじゃ。

>>925 本心をどこまでも追求していけば自分に突き当たるじゃろう。
 自分がある人間はなにを観ても最後には自分にいきつくのじゃ。
 恐れずにそれを観るがよいのじゃ。

>>926 よかったのじゃ。
 またおいでなさい。

929避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 22:07:45 ID:bP6oxyAs0
記憶を持つものって誰なんですか?

930避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 23:51:49 ID:ydE4b1w.0
>>928

横レス失礼しますが、「肉体が自分だ」という観念が外れるのは観照が起きたと同時にやっと外れる
ものではないんですか?それによって死の恐怖も消え去る、そういう流れだと思ってるんですが、
子供のころから肉体への同一化がないってかなり特殊では?と感じまして、、

931避難民のマジレスさん:2017/11/06(月) 06:26:45 ID:DAY232aw0
>>927>>928ありがとうございます。実践していきます。

932避難民のマジレスさん:2017/11/06(月) 07:00:31 ID:czRftzgI0
>924
和尚さんのような人でも10年かかったのなら、体を自分と思っている私は悟りにどれだけかかるか不安になります。
一方、執着と人との比較と人目を気にすることが全て自分があることから来ると気付きました。自我乖離に向けたいい兆候だと思います。

933避難民のマジレスさん:2017/11/06(月) 15:58:58 ID:FnHdG3lo0
鬼和尚
最近坐禅をしていると、座禅中のほとんどの時間は忘我の状態だったと気が付きました、
時々、それを眺めている自分がいるんですが、ほとんどの時間は忘我になっているんですね、
実際の普段の生活においても同じような状態だなと、ここ数日、そのような理解が起きたのですが
この理解は正しいでしょうか。

934避難民のマジレスさん:2017/11/06(月) 16:17:29 ID:U6SatYxg0
鬼和尚、ブログの
> 何にも気付かないで変ることもないならば、それは観察ではなく観念遊戯をしている事になるのじゃ。
について二つ質問があります。

1."何にも気付かないで変ることもない"以外の観察と観念遊戯の違いを見分けるすべはないのでしょうか?
2.また、観念遊戯とはどういう状態のことなのかも詳しくお聞かせください。

935避難民のマジレスさん:2017/11/06(月) 17:16:11 ID:DAY232aw0
>>931お礼に続けて質問申し訳です。
質問ですが、自分と言う観念が起こることを観察して、その原因を追求すると言う事なのでしょうか?

936鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/06(月) 20:48:08 ID:1d4drIFg0
>>929 誰もいないのじゃ。
 誰かが持っているのでもないのじゃ。
 ただ行雲流水の如く主体無くしてあるだけのものなのじゃ。

>>930 無我になる前からなのじゃ。
 自分が肉体ではないと思うものは普通にいるのじゃ。
 思考とか感情が自分と思う者も多いじゃろう。
 肉体は自分のものではあるが、自分そのものではないと思うのじゃ。
 
>>931 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>932 日々実践すれば悟りも近いのじゃ。
 よい気付きなのじゃ。
 自我も見えてきたのじゃろう。
 自我乖離も近いのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>933 それでよいのじゃ。
 よい瞑想なのじゃ。
 忘我と気付きが多くなれば無我も近いのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

937鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/06(月) 20:59:58 ID:1d4drIFg0
>>934 1 今ここにないものごとを空想しているならば観念遊戯なのじゃ。
 今ここにあるものごとを観ているならばそうではないのじゃ。

 2 思考している時とか過去を思い出している時とか未来のことを考えているならば観念遊戯なのじゃ。
  
>>935 それでよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

938避難民のマジレスさん:2017/11/06(月) 21:18:32 ID:czRftzgI0
>>932
その言葉を励みにがんばります。ありがとうございました

939避難民のマジレスさん:2017/11/07(火) 14:24:08 ID:U6SatYxg0
>>937
お教えありがとうございます

例えば心が動揺したときに
"同じシチュエーションでも動揺するときとしないときがある"と発見したとします。
それにより何ら変わることはできなくても"するときとしないとき"という発見があったので観察してることになりますか?
それとも過去(記憶)と比較するという思考が入っているので遊戯になってしまいますか?

940避難民のマジレスさん:2017/11/07(火) 16:06:53 ID:ydE4b1w.0
>>936

そうですか、でも鬼和尚は悟る前に死を恐れてはいたんですよね、
肉体が自分だ、という観念がなくてもいまだどこかに自分という感覚があって、それが
死ぬことで消えることが怖かった、そんな感じなんですか

941避難民のマジレスさん:2017/11/07(火) 17:08:18 ID:DAY232aw0
>>937ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自我を厭離させれば、無我なのでしょうか?

942541:2017/11/07(火) 18:16:18 ID:nhEvgxNI0
鬼和尚は因果律は自己を離れて客観的に実在すると思いますか?

943鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/07(火) 22:19:55 ID:1d4drIFg0
>>938 どういたしまして、またおいでなさい。

>>939 そうじゃ、それが観察なのじゃ。
 記憶された観念をも観察して比較しているのじゃ。
 記憶された観念をあれこれと操作するのが思考であり、観念遊戯になるのじゃ。
 それぞれについてなぜ動揺したり、動揺しないのか条件を観察してみるのじゃ。
 
>>940 そのようなものじゃ。
 感情が自分ではないと思うから恐れもないわけではないのじゃ。
 何を自分と思っていても恐れや不安はあるのじゃ。

>>941 そうじゃ、無我になるじゃろう。
 無我を目指すのではなく、自我を完全に観察して厭離が起こり無我になるのじゃ。
 自我を観ることを目指すのじゃ。

>>942 おぬしがそう思えばあるのじゃ。
 思わなければ無いのじゃ。

944避難民のマジレスさん:2017/11/08(水) 02:25:50 ID:ydE4b1w.0
ラマナとかニサルガダッタは悟りの完成には無我に至るだけじゃなく認識を厭離させる
必要がある、ということを明確に認識しているんでしょうか?

私が無認識について言及しているところを単に見逃しているだけかもしれませんが彼らが
認識を厭離させる必要性やその具体的手順について説明しているところを聞いたことがありません。

945避難民のマジレスさん:2017/11/08(水) 02:32:51 ID:ydE4b1w.0
それとも色々なものを厭離させていった中で知らず知らずのうちに認識も厭離していたが
それを特別重要なこととしてみていなかったが故に別に概念化して提示するほどのものでもないだろう
的な心境だったんでしょうか

946避難民のマジレスさん:2017/11/08(水) 10:22:08 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん、心を観察するとは、こういう感じですか?

イライラしている場合、イライラしていることに気づく

混乱している場合、混乱している事に気づく

絶望している場合、絶望している事に気づく

>>927
ご回答ありがとうございます

947避難民のマジレスさん:2017/11/08(水) 10:51:59 ID:DAY232aw0
>>943ご回答ありがとうございます。
質問ですが、何を指針にすれば良いのでしょうか?

948避難民のマジレスさん:2017/11/08(水) 17:05:47 ID:U6SatYxg0
>>943
わかりました。そのように取り組んでみます。ご指導ありがとうございました。

あとですね、もともと自律神経失調症なんですが
最近になって、ほぼ一日中動悸が止まなくなりました。就寝時は特に激しくなります。
痛みや不安感は無いので昼間は気にしないでいられるのですが
就寝時の煩さが酷すぎて薬を飲まないと眠れなくなりました。
このような状態を改善するマッサージ等あったら教えていただけないでしょうか。

949避難民のマジレスさん:2017/11/08(水) 20:33:28 ID:FCZrbmx.0
鬼和尚、
意識が世界を作っていると言います。
「何か」を蛇と認識した時、本当にそれは蛇なのだと思います。
実はそれは縄だった!と気づいた時に縄になるのだと思います。
実相は蛇にも縄にもなるのだと思っていますが、鬼和尚はどのようにお考えですか?
なぜそのような質問をするかと言うと、どう思い返しみてもこれは蛇だったのに、今見ると縄になっている、と言うことが多いのです。

950鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/08(水) 20:35:00 ID:1d4drIFg0
>>944>>945 知らんじゃろう。
 知識として記憶している訳ではないのじゃ。
 それを語ったのは禅の者とオショー位なのじゃ。
 優れた運動選手が自分の動きを全て言葉やイメージで認識し、伝えられるのではないように、
 大悟した者も自分に起きたことを全て知識として記憶し、伝えられるのではないのじゃ。
 
>>946 それでよいのじゃ。
 今ここで起きている心の働きをありのままに認め、気付くのじゃ。
 それが本心を観察する事なのじゃ。

>>947 自らの本心を指針とするのじゃ。
 本心は何を欲しているのか。
 本心は何をしたがっているのか。
 本心はどうしたいのか。
 全て知るがよいのじゃ。
 そのために本心を観るのじゃ。

>>948 もともと人間は心臓が動悸しているものじゃ。
 それを気にしてはいかんのじゃ。
 気にすることが心の病になるのじゃ。

 気にして集中すると動悸が激しくなるのじゃ。
 自分で心臓に集中して動悸を激しくしているのじゃ。
 それによって眠れないのじゃ。
 人の体は集中する処に血液を送り込んで激しく活動するのじゃ。
 走る者は足に集中し、手を使うものは手に集中して激しく動かす準備とするのじゃ。
 寝るときは足の先に集中するとよいのじゃ。
 よく眠れるじゃろう。

951避難民のマジレスさん:2017/11/08(水) 22:37:34 ID:Y5LPInQE0
>>950
ご回答ありがとうございます

主体や自我の観察は、どうすれば良いですか?
自分という感覚を観察しようとしても「ああ、自分が居るなぁ」くらいしか
分からないのですが

952避難民のマジレスさん:2017/11/09(木) 10:14:11 ID:DAY232aw0
>>950ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分の本心に従えば良いのでしょうか?

953避難民のマジレスさん:2017/11/09(木) 15:03:01 ID:ydE4b1w.0
>>950

ありがとうございました。

954避難民のマジレスさん:2017/11/09(木) 15:39:56 ID:U6SatYxg0
>>950
確かに集中すればその部位が暖かくなるわ、なるほど!
…と思いってやってみたのですが、よけいに気になるようになってしまいました。
まるでインド小話のグルに「薬を飲むとき猿のことを考えるな」と言われた男のよう…お恥ずかしい限りです。
修練が足りないのですね。当分はあきらめて薬で凌ぐことにします。
お教えありがとうございました。足先だけに集中できるようになるまで集中の訓練頑張ってみます。

955鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/09(木) 20:19:24 ID:1d4drIFg0
>>949 縄は咬まないのじゃ。
 縄と思ったものが蛇であったならば死んだりするじゃろう。
 縄であるから死なないはずと思っていても死んだりするのじゃ。
 そのように事実を誤認していれば大きな災いにあったりするのじゃ。

 本当は違うものを記憶によって創っていたのかもしれん。
 ただひたすらに観察してみるのじゃ。

>>951 それがどのような原因でいると感じるのか観察してみるのじゃ。
 寝ている時はそのように感じないじゃろう。
 それでは何があるときに自分は感じられるのか、何が無ければ自分は感じられないのか観察して気付くのじゃ。
 更にそのように自分と感じるものは何なのか見極めるのじゃ。
 
>>952 本心に従う以外に人の道はないのじゃ。
 偽りの心に従えば迷うばかりであるからのう。
 先ずは本心がどのようなことを欲しているのか観察してみるとよいのじゃ。

>>953 どういたしまして、またおいでなさい。

>>954 そうじゃ、足に集中するのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

956避難民のマジレスさん:2017/11/09(木) 22:44:04 ID:FCZrbmx.0
>>955
ご回答ありがとうございます。

私はまだ認識のない実相を見たことがないので何とも言えないのですが、認識なくとも毒があって噛みつく細長い「何か」は存在しているということでしょうか?


私が「何か」を「毒があって噛みつくもの」と認識するから、それはそのような特性を帯びるのではないか?それがこの世界なのではないか?と考えています。
もちろん、縄かと思って触ったら蛇だった…ということもあります。
それも、縄と蛇の情報を阿頼耶識が貯蔵しており、様々な認識が相まって予想も付かないことが意識で起こっているのではないかと。
まったく夢と同じ意識の世界がこの現実なのではないかと考えていますが、実際はどうなんでしょうか?

957避難民のマジレスさん:2017/11/10(金) 10:08:37 ID:DAY232aw0
>>955ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分の本心を観察するだけで、自我を観れるのでしょうか?

958避難民のマジレスさん:2017/11/10(金) 17:39:39 ID:DAY232aw0
連投すいません。
鬼和尚さんに沢山質問させて頂きましたが、未だに自我を厭離させる方法がいまいちわかりません。
自分とは何か追求して観察したら良いと仰られますが、追求して観察する事自体が中々出来ないと思います。
心身の全てを観察すれば良いと仰られますが、自分は自分を追求して行こうと思ったので、中々心身の全て観察して行こうと思いません。
具体的に確実に自我を厭離させる方法はどの様にしたら良いのでしょうか?
自分を追求するとか、心身の全てを観察するとかだけでは無く、自分の本心を観察して行うのか、具体的に全体的にお教え頂けるとありがたいです。
自我を観る、厭離させる方法がわからないので普通の人が出来る方法で具体的に出来る方法をお教え願えないでしょうか。
宜しくお願い致します。

959避難民のマジレスさん:2017/11/10(金) 21:53:23 ID:ydE4b1w.0
>>754で質問した者です。
それに対する>>763の鬼和尚の私に対する答えの内容がいまいちわかりませんでした。

>>738のレスの中に書いてある

> 9 心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?
>
> 身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。もし身体のなか
> のどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハー
> トのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所で
> ある。絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろ
> う。心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」と
> いう想念である。この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。二人
> 称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことである。
> 一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。

という上記の文ではハートが心の起源となる場所である、というようなことが書いてあるので
一般的に「私」という感覚はハートの中に強く感じられる、というようなことを言ってる、ということなのかなと
おもうんですが、また別のことを指しているんでしょうか?

960鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/10(金) 22:49:37 ID:1d4drIFg0
>>956 おぬしがなにものも認識しなくても蛇はおぬしに噛み付いたりして死んだりするじゃろう。
 誰かがおぬしの知らぬ間に後ろから殴ればやはり死んだりするのじゃ。
 全てが認識ではないのじゃ。
 唯識も本当は認識優勢論なのじゃ。
 思考や論理に囚われてもいかんのじゃ。
 常に現実を観察して進むのじゃ。

>>957 どこまでも追求すればいずれ観られるじゃろう。
 全てはおぬしとおぬしのものとおぬしのものではないものとして観られているからのう。
 本心を観るならばどこにいっても自分に突き当たるのじゃ。

>>958 おぬしが自我をどうしても観られないというならば、それは自我を観ようとしてはいないからなのじゃ。
 心身の全てを観察すればいずれは観られるのになぜそれだけは実践しようとしないのじゃろうか?
 それでも具体的に自我を観る方法が知りたいとはおかしなことじゃ。
 心身を観察する方法が普通の人でも出来る方法なのじゃ。
 お釈迦様もそれを説いているのじゃ。

 誰でも自我を観られる方法でも自我を観られない者は自分が消える恐れや不安などから観ようとしていないのじゃ。
 そこに逃避があればどんな方法も無意味なのじゃ。
 これからどのような方法を教えてもそれを実践していこうとは思わないと書くじゃろう。
 そして又普通の人でも自我が観られる方法をきくじゃろう。
 本当に自我を観察し、厭離しようと本心から思う者は、どのような困難な方法でもやり抜くじゃろう。
 それが本心からの欲求であるならば当然なのじゃ。

 先ずは自分の本心を観察して、何を本当に求めているのか、何から逃避しているのか気付くのじゃ。
 それが出発点になるのじゃ。

>>959 ただ集中している所に常に自分が感じられるだけなのじゃ。
 実践して見るとよいのじゃ。
 胸に集中していると胸に自分と言う感覚がわくじゃろう。
 眉間に集中していると眉間に自分がいる感覚があるじゃろう。
 マハリシはハートに集中している者であったからそう感じたのじゃ。
 実践によって確めてみるのじゃ。

961避難民のマジレスさん:2017/11/10(金) 23:08:07 ID:DAY232aw0
>>960お答え頂き本当にありがとうございます。鬼和尚さんの仰る通りです。反省しています。
心身の全てを観察したいのですが、自分の本心を観察して心身の全てを観察したら良いのでしょうか?

962避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 09:48:10 ID:czRftzgI0
一旦乖離したものが元に戻ることはありますか?
例えば、観察して乖離した手が、しばらくほっておくとまた自分のものという感覚に戻る事はありますか?

963避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 10:16:20 ID:ozubKx8M0
>>960
鬼和尚、ありがとうございます。
唯識も本当は認識優勢論であるとはどういうことでしょうか?

964541:2017/11/11(土) 11:12:19 ID:o7TfOr0I0
この「蛇縄問題」は興味深いですよね。

>おぬしがなにものも認識しなくても蛇はおぬしに噛み付いたりして死んだりするじゃろう。

この場合の「おぬし」が何を意味しているかですよね。
おぬし=真我だとすると、蛇に噛まれたところで、自分には何もおきていないわけです。死んでも居ないし噛まれても居ない。
おぬし=肉体だとすると、「蛇に噛まれて死ぬ」こともありえる。

肉体は老病死を免れないが、それを見ている何かは、老病死を超越している。

真我の立場に立てば、「生命」すら超越しているので、もはや、蛇と縄の区別すら、絶対的ではない。
だからこそ、落ち着いて、蛇と縄を区別できるとも言えるでしょうが

鬼和尚はどう思われますか?

965541:2017/11/11(土) 11:21:28 ID:o7TfOr0I0
西洋の存在論哲学を援用して考えて見ましょう。

蛇も人間も毒も縄も「存在」な訳です。

あらゆるの出来事は「存在の内部交流」のようなもので、その出来事が忠臣蔵だろうと、蛇に襲われるだろうと、車に轢かれるだろうと
それらの出来事はあくまで「人間的解釈」或いは「言語現象」であって、存在論的に観ると、エネルギーがグルグルめぐっているようなもの「存在の戯れ」のようなものといえましょう。

蛇と縄を区別できるのは人間だけです。蛇も縄も、人間の世界にしか存在しません。
蛇も縄も「仮象」に過ぎませんが、そのような区別は生きていくのに便利なので人は採用しています。
つまり、蛇や縄は、「生きよう」と言う人間の「気がかり」「配慮」が生じさせたとも言えます。
だから実体ではない。自殺志願者にとっては、毒蛇は「恋人」ですらあるかもしれない。

966541:2017/11/11(土) 11:45:29 ID:o7TfOr0I0
「全てが認識じゃない」

例えば、マムシの中にも「毒の無いマムシ」も居るかもしれませんね。
しかし「マムシ=毒をもって危険な蛇」と言う知識や認識があれば、その存在者は「毒蛇」に見える訳だ。
また、現代では、精巧に作られた蛇のロボットもあるかもしれません。
そう思えば、蛇と縄を区別するのは、そう簡単ではない。
いや、区別不可能なこともあるかもしれません。
かつては、白人と黒人(有色人種)は明確に「区別」されていた訳ですからね。
白人と黒人で生物学的に何かが変ったわけではなく、これは単に「認識」が変ったのです。
白人と有色人種は別人種と思われ、殺しても罪にならず、人権は存在しなかったのです。
これは、縄と蛇が「実は同じものだった」と言う事例です。
しかし、黒人と白人とが「同じである」と言う根拠も特に無く、結局は「その時代の人間がそう思うからそうする」と言うもの以上のものではない。
時代が変り、新しい分類学が生まれれば、「何で、これらを一緒のものと考えていたのだろう」と言う話になりえる。

つまりですよ。蛇と縄の区別にしても、現在の分類学が生物と非生物で分類しているので区別されるが(学問的区別)
「ほそ長いもの」の集合を一つの種類とするという新たな分類学が生まれれば、蛇と縄は学術的に同じ種族であるなどと言う話にもなりえる。
いやいやいやと、学術が生まれる前から人々は蛇と縄を区別しているよと言う主張もあるだろう。これを情動的区別としよう。
つまり、生命に危険があるか、無いかの区別である。すると、毒の無い蛇は、太いミミズとか別の名称が与えられているかもしれない。
という訳で、蛇と縄の区別は意外と「一筋縄ではいかない」のではなかろうか。
結局は、背後にある、文化的秩序を見ているのであって、本来自然に区別は無い。

そもそも、何故、我々は、これを蛇と呼び、これを縄とするのか
何故これが「蛇」に見えるのか。
それは「私とは何か」の追求とリンクするものが在ると思う。

悟りを得ようとする人が自我が生まれる瞬間を観察するように、蛇と縄が分別される瞬間も「観る」必要があるのではないでしょうか?

967541:2017/11/11(土) 11:53:17 ID:o7TfOr0I0
やはり、結論とすると

存在と言うレベルでは、蛇も縄も同じである。しかし、人間の「認識」がそれらを区別すると言わざるを得ない。

蛇を蛇たらしめて、縄を縄たらしめるのは、人間の認識である。

「人間」が居なければ、蛇も縄も無いのである。

それは「全ては人間の認識が作り出すならば縄を蛇にしてみろ!」と言う話ではない。

そうではなく、「人間」が生まれた瞬間、縄と蛇が生まれるのである。

現代の哲学では、存在論と存在の違いとする。存在的には縄と蛇は区別されるが、存在論的には「無」であると言うように。

968541:2017/11/11(土) 11:57:15 ID:o7TfOr0I0
>存在論と存在の違いとする

↑誤解が生まれそうなので、「存在論的な見方と存在的な見方の違い」と修正

存在論的な見方とは、言わば、「悟った人の視点」と言い換えても良いと思う。あらゆる観念性が落とされた視点のことである。
存在的な見方とは、我々の日常の物事の見方で、実際は対象それ自体ではなく、観念を見ているあり方のことである。

969541:2017/11/11(土) 12:07:55 ID:o7TfOr0I0
この喩えを好んで用いたマハリシは、存在論的な意味で「蛇と縄の喩え」を言っているのだが、

普通の人々は「ん? 生物的な区別の話か?」と思ってしまう。

勿論、鬼和尚も、本質的には、存在論的な意味で、この喩えを用いているのだが、説明が雑なので、やはり、存在的な区別の話に聞こえてしまうのだw

970541:2017/11/11(土) 12:22:08 ID:o7TfOr0I0
まじで、現象学と止観の方法論的差異について考察して見たい

それは全く同じものなのか、違うのか

現象学を一言で言うと、「経験とは何か」と言うことを考察していく学問である。
それにあたって、あらゆる実在性を括弧でくくる(エポケー) 何故、それがそのように見えたり感じたりするのかと言うことを考察する
外界に対しても、観念に対しても同じような態度を取る。

止観は外界にはさほど関心は無いが、心の考察と言う点では一致するものがあると思う。

971541:2017/11/11(土) 12:24:16 ID:o7TfOr0I0
根本的な違いとしては、現象学は特に「悟り」と言う状態を志向しないということである。

恐らく、止観もその過程で、悟りへの執着を取り除くだろうが、そうはいっても「悟り」と言うことをどこかに意識はしていると思う。

一方で、現象学者には「悟り」と言う概念がそもそも無いのである。

972541:2017/11/11(土) 12:38:37 ID:o7TfOr0I0
>説明が雑なので

失礼、説明がシンプルなので、に修正w

973避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 17:25:02 ID:8qFvIk/s0
鬼和尚、質問があります。
和尚のブログなどを参考にして、ヴィッパーサナーをしています。
自分の心を観察しようとして、ブログにある、

> 真のヴィパッサナーをしようと思う者、本当に心を観察しようと思う者は、坐る前にこのように決意し、誓うがいい。
> 「私はいままで心の中にある恐怖や不安、嫌悪感、劣等感から逃げてきた。しかし、もう逃げはしない。心の中に表れるものを全て逃げずに観察する」
> と、自分自身に強く誓うのじゃ。

> そして坐るがいい。
> もはや逃げないと、今まで逃げて隠したりしてきた恐怖や不安、嫌悪感、劣等感、孤独感、悲しみ、苦しみなどが襲ってくるじゃろう。
> そのような思いを、誓った通りに逃げずに観察するのじゃ。
> 恐ろしいなら恐れていると、不安なら不安だと、嫌悪するなら嫌悪していると、劣っていると感じるならなら劣っていると感じていると、孤独なら孤独だと、全て観察するのじゃ。

の通りにしてみたのですが、不安、嫌悪感、劣等感などは普段の生活でありありと感じる事があるのですが、瞑想中だと
こういった感覚が湧き上がってきません。そういった感覚が湧き上がるまで待って観察すればいいのでしょうか?
それとも、そういった感覚が起こるようにわざと記憶を思い出すようにしたり、念じるなどのことをしたほうがいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

974避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 19:44:21 ID:ydE4b1w.0
>>960

ありがとうございました。

975鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/11(土) 20:28:18 ID:1d4drIFg0
>>961 わしもおぬしも、もはやそうではないとわかっているのじゃ。
 ただ自分の偽りの無い心だけを自分に明かすのじゃ。
 本当は何をしたいのか。
 何のために悟りを求めようとしているのか。
 それを自分に確めるのじゃ。
 それは実は金や名声や権力のためなのかもしれん。
 そうであるからそれらを楽しむ自我が必要なのかもしれん。
 それが本心ならばそれでよいのじゃ。

 悟りの道に求めるものはないと知れるのじゃ。
 いずれそれらが死には対抗できないものと知り、虚しくなれば真に悟りを求めることもできるのじゃ。
 善事を積んで福楽を得ればそれらも楽しめるのじゃ。
 それもまたお釈迦様の教えなのじゃ。
 自らの本心を知って求める道を行くのじゃ。

>>962 それが習慣になればそう感じることも出来るのじゃ。
 しかし完全に厭離されればそれが自分ではないと知っている故に、完全に元には戻らないのじゃ。
 大人が子供の遊びに付き合っているようなものじゃ。
 鬼ごっこの鬼は本当の鬼ではないと知りながら逃げ回るようなものじゃ。
 
>>963 認識が心身全ての活動の源であるというようなものじゃ。
 何かを認識しないとそれを考えることも行動することも出来ないからのう。
 認識が心身の全てに先立って働くものと言う程度の意味なのじゃ。

>>973 それは深い瞑想に入っているからじゃろう。
 普段感じるならば普段の心境で観察して見るとよいのじゃ。
 恐れや不安から観察できなくなれば瞑想に入ってそれらを観察してみるのじゃ。
 そして原因を追究していくとよいのじゃ。

976鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/11(土) 20:29:07 ID:1d4drIFg0
>>974 どういたしまして、またおいでなさい。

977避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 21:31:20 ID:DAY232aw0
>>975
鬼和尚さん今まで沢山の質問に答えてくださり本当にありがとうございました。
今まで鬼和尚さんと質問を通した会話は本当に楽しかったです。
いつの日か本当に悟りを求める日がきたらその時はよろしくお願いします。
自分の本心を知って求める道を行こうと思います。
本当にありがとうございました。

978避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 21:40:54 ID:czRftzgI0
>962
自分の手という感覚が視覚だけではなく触覚の記憶からも生じている場合、視覚による観察では乖離に不十分で、さらに触覚の観察による乖離も必要なことはありますか?
今の自分の手がそんな感じがしているので質問しました。

979避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 23:05:07 ID:soI.jltg0
>>975
鬼和尚、ご回答ありがとうございます。
そのような意味でしたか。
となると、やはり認識が世界を作っていると考えてしまいます。
いわゆる実相などあるのでしょうか?
実相を実相と観た時点でそれは実相ではないのでは?と思ってしまいます。
それを確かめたいがため、悟りを目指しているところもあります。


541さん、哲学的な考察ありがとうございます。
私は哲学はさっぱりですが、探求していたらいつの間にか現象学的な解釈で世界を見るようになっていました。
それが本当にそうなのか、観察を通じて知れればなと思っています。

980541:2017/11/12(日) 07:28:35 ID:o7TfOr0I0
>>979さん

お返事ありがとう御座います。是非とも、意見交換をして、お互いに悟りを深めていきましょう。

981541:2017/11/12(日) 07:32:40 ID:o7TfOr0I0
>>いわゆる実相などあるのでしょうか?

979さんは哲学にもお詳しそうなので
実相に関しては、「我々に知る事はできない」と言うのが、カント哲学の結論ですよね。
いわゆる「物自体」です。
ただ、あらゆる観念を剥奪して言った先の「存在」のようなものは感じられるような気がします。
「厭離された手」などがその片鱗を見せている気がしますね。

982避難民のマジレスさん:2017/11/12(日) 12:52:28 ID:gH6Q6Ryw0
鬼和尚は、老子と、その著作の老子道徳経をどのように評価されますか?
もし悟りに有用なら、信心銘の時のように鬼和尚の訳解をお願いしたいです。

983避難民のマジレスさん:2017/11/12(日) 15:34:33 ID:8qFvIk/s0
>>975
ありがとうございます。
普段注意して、沸きあがってきたら見るようにしてみます。

984鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/12(日) 21:37:55 ID:1d4drIFg0
>>977 よかったのじゃ。
 本心を受け入れ、認める事はどのような道に行こうとも無駄にはならないじゃろう。
 またおいでなさい。

>>978 それも必要じゃろう。
 完全に観察できなければ厭離は起こらないのじゃ。
 全てをありのままに認識するのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>979 あるのじゃ。
 阿頼耶識をも滅することは認識の全てがなくなるのではないのじゃ。
 本来の認識に回帰することなのじゃ。
 それが悟りなのじゃ。
 それによって真実の世界も見えるのじゃ。
 
>>982 断片しか残っていないのじゃ。
 それも意味不明なのじゃ。
 ほとんどが後世の創作のようじゃ。
 あまり役にはたたないのじゃ。

>>983 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

985避難民のマジレスさん:2017/11/13(月) 18:41:42 ID:czRftzgI0
>978
そうですか、そのように修行します

986鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/13(月) 20:29:21 ID:1d4drIFg0
>>985 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

987避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 14:49:06 ID:gH6Q6Ryw0
>>984
そうだったんですね。
では、鬼和尚も悟っていたと言われていた盤珪禅師の「臼ひき歌」はどうでしょうか?
一応貼っておきますね。

988避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 14:49:44 ID:gH6Q6Ryw0
生れ来りしいにしへ問へば、何にも思はぬ此心。
来る如くに心を持てば、すぐに此身がみな仏。
不生不滅の此心なれば、地水火風はかりの宿。
かりの火宅に心をとめて、我ともやして身をこがす。
過去も未来も只今ばかり、心とめよより只歌うたへ。
心とめずはうき世もあらじ、何もないこそ活如来。
恋しゆかしも只今ばかり、あはぬ昔しがある故に。
昔おもへば夕べの夢よ、とかく思えば皆うそじや。
夢と思へば浮世の中に、うきもつらきもなきものを。
因果歴然我なす事を知りて迷ふは身のひいき。
有為の転変身にならはして、それに迷はば己が損よ。

989避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 14:50:24 ID:gH6Q6Ryw0
有為の転変わが為す事を知らで迷うて身のひいき。
うその世界をまことのやうに化しばかさる化物ぢや。
いつか五欲を身にならはして、それに習うて日をくらす。
人にをしへはもとないものぢや、是非を争ふ我身なり。
仏道修行つとめし後は、何もかはりは得ぬものぞ。
迷い悟りはもとないものぢや、親もをしへぬならいもの。
後世のつとめも此頃いやと出入の息のあり次第。
無為の心はもとより不生、無為がなき故迷ひなし。
をしやほしやと思はぬ故に、いはば世界が皆我ものじや。
きめう不思議は一つもないぞ、しらにや世界が皆ふしぎ。
かねを持たりや貧者がいやし、もたぬむかしを忘れたか。
後世を願ふとひいきを、いとど我まんにそつかけて。
悪を嫌ふを善じやとおもふ、嫌ふ心が悪じやもの。
としはよれども心はよらじ、いつも変らぬ此心。
嬉し芽出度や老せぬ君に尋あふたりや我ひとり。
我と造れる心の鬼が責めて苦しむ身のとがを。
やすく養う浄土は爰よ五萬五萬の奥もなし。
さとる心を我ぢやと思へ、念と念とで相撲とる。
さとるさとると此頃せねば、朝のねざめも気が軽い。
よきもあしきも一つにまるめ、紙につつんで捨ておけ。
死んで、世界によるひるくらせ、それで世界が手に入るぞ。
とかく浮世はもとないものぢや、心とみよより唯うたへ。

990避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 14:51:09 ID:gH6Q6Ryw0
仏さまこそおいとしうござる、そとの飾りにまばゆかろ。
内の仏にや、そりやまだはやい、門の仁王にまづなりやれ。
われと浄土をたづねて見たら、けつく仏にきらはれた。
鬼の心であつめた金をがきにとられて、目がまうた。
地獄嫌の、極楽好きで、らくな世界に苦をうけた。
金がほしさに命をすてて、すてて見たれば、金いらず。
冬の頃しも悦ぶたき火、夏のくるほどあらいやや。
夏の頃しも乏しき風も秋の果てぬに早やにくむ。
人にかたきもと無きものぢや、是非を争う我が成る。

991避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 20:20:46 ID:gH6Q6Ryw0
>>989 訂正です。

後世を願ふとひいきを、いとど我まんにそつかけて。

後世を願ふとひいきを願ふ、いとど我まんにそつかけて。

992避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 22:07:31 ID:Nw8VwStU0
>>988>>991
現代代語訳もアップせんと、ほとんどの人は読めんじゃろう
宝の持ちぐされになってしまうのう

993鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/14(火) 22:08:27 ID:1d4drIFg0
>>988 産まれて来た根源を聞けば何も思わない心なのじゃ。
種子と言うものじゃな。
来るが如く去るが如くに心を持てば皆如来なのじゃ。
心は本来あるものではなく不生不滅の意識であるからには、物質的な肉体は仮の宿なのじゃ。

そのような物質的な肉体に囚われれば、身を焦がす苦があるばかりなのじゃ。
過去も未来も無く在るのは今ここだけなのじゃ。
そのような過去や未来に囚われずに今ここにあるのじゃ。
心が囚われなければ浮世も無いも同然なのじゃ。
そのような無の境地こそ生き仏なのじゃ。
執着も過去の想いがあるからなのじゃ。
本来は今ここにあるのみなのじゃ。

過去を思うのは夕べの夢を思うようなものであり、皆虚妄なのじゃ。
修業の因果は歴然としてあり、修業をなすべきことと知りながら迷うのは身びいきがあるからなのじゃ。
自分だけは死なないとか、特別とか思っているのじゃ。
この世の無常は誰の身にも訪れるものじゃ。
それに迷っていては損なのじゃ。

994鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/14(火) 22:09:01 ID:1d4drIFg0
実践することをも知らなければ迷い傲慢になるのじゃ。
虚妄の世界を本当のものと思って騙したり騙されたりして世を終わるのじゃ。
五欲に慣れ親しみ日を送るのじゃ。

元より仏教もないものであるが、これが正しいとかあれが間違いとか争うもののためにあるのじゃ。
修業の代わりになるものはないのじゃ。
迷いも悟りも無いものとは親でも教えてくれないのじゃ。
後世のための勤めも息のありよう次第なのじゃ。
無為の心は不生であり、無為もなければ迷いも無いのじゃ。

何かが欲しいとか惜しいとかの心は無い故に世界は皆我が物なのじゃ。
それが奇妙不思議と言うこともないのじゃ。
悟らなければ皆不思議なだけなのじゃ。

金を持った者が持っていない昔を忘れて貧乏をいやしむ様に後世を願う心や身びいきも悪なのじゃ。
悪を嫌い善を願う心も悪なのじゃ。

年はとっても心は不変なのじゃ。
不変の心に我はたどり着いたのじゃ。
自ら作った心の鬼も、この浄土にはない安楽の地なのじゃ。

悟ろうとする心があればそれが邪魔になるのじゃ。
 それがなくなれば心も軽いのじゃ。
良い悪いの分別も捨てて死んで生きれば世界が我になるのじゃ。
ありもしない浮世に迷うより、心をとどめずにただ今ここにあるのじゃ。

995鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/14(火) 22:09:33 ID:1d4drIFg0
いとしい仏も外の飾りには眩いものじゃ。
心の内に仏を求めるのじゃ。
それが早ければ門の仁王になるのじゃ。
己の欲で浄土を求めれば仏にも嫌われるのじゃ。
鬼となって集めた金も餓鬼にとられておしまいじゃ。
苦しいのが嫌で快楽がすきでも苦の世界にいるのじゃ。
金が欲しくて命もイランとしても命が無くなれば金も役には立たないのじゃ。
冬には喜ばしい焚き火も夏には暑苦しいものじゃ。
夏には少ない風も秋が終わる頃には激しく吹くものじゃ。
人には元々敵も無いのに是非を争う心が敵を作るのじゃ。

996避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 23:30:50 ID:Y5LPInQE0
>>994
>良い悪いの分別も捨てて死んで生きれば世界が我になるのじゃ。

鬼和尚さん、良い悪いの分別を捨てて良いのでしょうか?

良い悪いの分別を捨てたら、悪事も平気で行えてしまいますよね?

997避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 23:33:14 ID:Y5LPInQE0
>>955
ご回答ありがとうございました

998偽和尚★:2017/11/15(水) 00:37:36 ID:???0
次スレ

鬼和尚に聞いてみるスレ part10
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/

立ててくれた人>乙

ということでこちらのスレは切りのいいところでストップします。(まだしません。多分明日します)

999避難民のマジレスさん:2017/11/15(水) 05:54:57 ID:1wPDzgc60
>>849 ご教授ありがとうございました。
真の原因を観察して、観念を遠離しようとする場合、観念による反応が生じた時、
体に起こる感覚を感じていれば、あるとき突然、
観念を抱くにいたった原因に気づく、ということなのでしょうか?
思考による過去への思索はいりませんか?

1000避難民のマジレスさん:2017/11/15(水) 20:13:48 ID:gH6Q6Ryw0
ありがとうございます!まさに鬼ですm(_ _)m

>>後世のための勤めも息のありよう次第なのじゃ。

これはどういったことを言っているのでしょうか?

1001鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/15(水) 21:56:51 ID:1d4drIFg0
>>996 それは己にとっての好悪の判断なのじゃ。
 りんごは好きであるがみかんは嫌いと言うようなものじゃ。
 それがあれば執着も生まれ、苦と迷いのもとになるものじゃ。

>>999 そのようなこともあるじゃろう。
 思索によることも出来るじゃろう。
 記憶を観察して思い出して原因に気付くこともあるじゃろう。
 原因に気付く事はさまざまな道があるものじゃ。
 注意深く追求していくのが大事なのじゃ。

>>1000 今の息をしている間、日々の生活の中で善事をしたり修業したりすることじゃな。
 生きるとは息をしていることなのじゃ。
 生きているときの行いが大事ということじゃな。

1002鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/15(水) 21:57:27 ID:1d4drIFg0
>>998 ご苦労さんなのじゃ。
 正に菩薩の行ないじゃ。

1003偽和尚★:2017/11/15(水) 23:11:11 ID:???0
それではこちらのスレはストップします。

次スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part10
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/


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