[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
鬼和尚に聞いてみるスレ part9
741
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 20:19:04 ID:jfWCoXjM0
20 神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのでしょうか?
神やグルは解放への道を示すだけだろう。神やグルが人を解脱の状態に
連れていくわけではない。
実際は、神とグルは異なるものではない。トラの顎にくわえられた獲物
に逃れるすべがないように、グルの慈悲深い眼差しにとらえられた者は、
グルによって救われ、見棄てられることはないだろう。けれどもひとりひ
とりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め、解
脱に達しなければならない。人はただ自分の知識の目によってのみ、自分
自身を知ることができる。ラーマ神がラーマ神であることを知るために、
鏡の助けが必要だろうか?
21 解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素の本質(タットヴァ)を
探究する必要があるでしょうか?
ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それ
が何であるかを調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人に
とっても、意識の性質を調べたり、その構成要素を分類して数えたりする
必要はない。彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを
払いのけることである。世界はひとつの夢のようなものと見なされなけれ
ばならない。
22 目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?
目覚めている間は長く、夢を見ている間は短い。これより他に何の違い
もない。目覚めの間に起こることが真実に見えるように、夢の中で起こる
ことも夢のなかでは真実に見える。夢の中では心はもうひとつの身体をと
っている。目覚めの状態でも、夢見の状態でも、想いや、名前と形は同時
に現れるのである。
23 解脱を願う者にとって、本を読むことにはどんな価値があるのでしょ
うか?
すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たなければならない
と述べている。それゆえ、心を静かに保つべきだということが、聖典の最
終的な教えである。ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必
要はない。心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問
いつづけるべきである。この探究がどうして書物のなかでできるだろう
か? 人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。真我は
五つの鞘*5 の内にあるが、書物はその外にある。真我は五つの鞘を棄て去
っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物のなかに求め
るのは無駄なことである。いずれ学んだことをすべて、忘れ去らなくては
ならないときが来るだろう。
*5 五つの鞘 : パンチャ・コーシャ。 真我を覆い隠す五つの身体の鞘。アンナー・マヤ・コ
ーシャ、身体の鞘。プラーナ・マヤ・コーシャ、生気の鞘。マノ・マヤ・コーシャ、心の鞘。
ヴィジニャーナ・マヤ・コーシャ、知性の鞘。アーナンダ・マヤ・コーシャ、至福の鞘。
24 幸福とは何でしょうか?
幸福とは真我の本性そのものである。幸福と真我は別のものではない。
世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。われわれは無知ゆえに、
ものごとから幸福を得るものだと思っている。心が外へ出ていくと、不幸
を体験する。心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻
っており、真我である幸福を楽しむのである。同じように、眠りの状態、
サマーディ、失神状態、あるいは、得たいと願っていたものが得られたり、
嫌っていたものが消え去ったりしたときには、心は内面に向かい、純粋な
真我-幸福を楽しむのである。このように心は休むことなく動きまわり、
真我からさ迷いでては、また戻ってくるということを繰り返している。木
陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。灼熱の太陽のなかを歩
いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。木陰からわざわざ出て
猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。
賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。同じように、真理を知る人
の心は、ブラフマンを離れることはない。その反対に、無知な人の心は、
悲惨を味わいながら世界をさ迷い歩き、つかの間の幸福を味わうためにブ
ラフマンに戻ってくる。実際には、世界と呼ばれているものはただの想念
にすぎない。世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は
幸福を体験する。世界が現れると、不幸を味わうのである。
25 洞察力(ジニャーナ-ドリシュティ)とは何でしょうか?
静寂にあることが洞察力と呼ばれている。静寂にあるということは、真
我のなかに心を帰り着かせることである。過去、現在、未来の出来事を知
るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板