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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について

1管理者:2004/05/13(木) 11:57
新しいスレッドの御提案が有りましたので立ち上げます。提案文は以下の通りです。

891 名前: 犀角独歩 投稿日: 2004/05/13(木) 11:18

管理人さん:

昨晩、三学無縁さんとも話したのですが、『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』において、名無し@ピンキーさん、Happy Birthday!!さん、また、空き缶さんが興味を示されてお出でであった山中師『御本尊集目録』未載でありながら、御筆漫荼羅(真筆)と伝えられる漫荼羅は興味深いものがあります。また併せて、真偽未決御書、また、各文献の著者の実否などを議論するスレッドがあればよいと考えます。

以上、三学無縁さんと連名で提案させていただくものです。

514名無し@富士門流:2005/02/04(金) 02:45:39

>513

訂正です。

×呼んでいない
〇読んでいない

あわせまして、

「今晩は」を「おはよう御座います」に訂正いたします。
(恐らくこの書き込みを御覧になられるのは翌朝だと思いますので)

>510
彰往考来さん、

ご紹介ありがとう御座います。
私も「興風」16号を読んでみようと思います。

515吉祥仙人:2005/02/04(金) 07:09:49
 犀角独歩さんへ

 御教授有難うございました。
 
 余計なことですが、安達泰盛については平左衛門尉の敵対者として、日蓮大聖人の
理解者とするコミックが手元にあります。
 
 さらに御教授いただければと思うのですが、四条金吾への御書に「竜の口にいっしょに
来てくださってありがとうございました。」というのがあったと思いますが、これも
偽書なのでしょうか。

516犀角独歩:2005/02/04(金) 09:15:27

吉祥仙人さん:

実は蓮師の御一代というのは、ほとんどわかっていないというのが現状であることほど、驚く発見はありませんね。生まれた年月も、両親も、出生もよくわからず、四箇格言から遡って蓮師を崇拝し、紡がれた門下教学では修学当時のその影響がかき消されてきました。中世には持住崇拝の基礎理論として、派祖、さらに蓮師の崇重は病的に肥大します。その典型が日蓮本仏論です。ここで相伝類がその正当化を支えました。さらに中興の有寛二師の教学が蓮師の原形教学に取って代わられ、さらに偽書の混入もまた、その原形を曇らせていきました。この延長上に、もちろん、石山、法華講はあり、顕正会があります。また、創価学会の一般会員‘向け’教学もその影響下に留まっています。(しかし、創価大・菅野師『法華経入門』(岩波新書)などを読めば、すでに仏教学の成果を受け入れる将来的方途に向かっていることは看取できます。もう少し言えば、それ故、北林さんの件の本はお話にならないわけです。彼がその論の組立で、旧態依然とした100年前に崩壊した伝承神話をいまだ墨守するのは、その教学によって創価学会・池田さんを肯定してきた学会史から考えようとするからでしょう。しかし、このような論法は、結局、批判され、消え去るものにすぎません)

以上の背景で、ここ当板で議論されてきたのは、蓮師の実像を素描するということでした。
このような、前提があります。

> コミック

案外、こんな漫画は、創価学会員が蓮師一代を知る初歩的(もっと言えば、固定観念)知識の脚になっているのかもしれませんね。『希望の友』はそんな役割を担ってきたのかもしれません。しかし、基礎とする資料が上記のようなものでは致し方がありません。唯、コミックといっても、案外、これらの点を石山・創価教学にとらわれず、一般資料に基づいたのは手塚治師の『ブッダ』であったように思えます。学会教学眼から見ると首を傾げる仏伝に基づきながら、けれど、面白さに引き込まれた若いときの記憶があります。

> 四条金吾への御書

これは事実ではないでしょうか。真跡遺文に載るところですね。
先に挙げた高木師『日蓮』では、

「龍口(たつのくち)において、内意のとおり、日蓮はまさに頚を切られんとした。このとき、供をしてきた檀越四条頼基は日蓮の馬の口にとりついてなき悲しんだ。それは日蓮に「いかなる世にか忘(わすれ)なん」(『崇峻天皇御書』平遺694頁)といわせるほどの悲しみようであった」(92頁)

とあります。

以上、何度か、高木豊師『増補改訂版 日蓮 その行動と思想』を挙げましたが、同書は、一代記の、いまある書で、もっとも信頼がおける(と門下一般も考えている)からです。
学恩に基づき、興門の雄・上杉清文師がプロデュースしたものながら、生前にはその出版が間に合わなかった…、本のいずこにも上杉師は御自身のお名前を載せなかった…、そんな熱い情念を背負った1冊です。

『解題』を記された小松邦彰師(立正大学教授)は

 万人に開かれた
 公準として
 日蓮聖人の生涯

「伝説のヴェールに包まれた
 日蓮聖人伝を排し、
 厳密な考証によって
 その行動と思想の特色を論じ、
 歴史としての客観的な
 日蓮聖人像を作り上げた
 高木仏教史学の画期的到達点。
 旧版に「(二人の日蓮)改稿」、
 「『立正安国論』再考」を増補した
 決定版」(オビ文)

そして、このオビにだけ、本当に小さな字で「福神叢書(1)」と記されています。
上杉師、また、渋澤師の、人となりと思いが伝わる気がします。

この書を推薦します。
また、御遺文集としては『平成新修日蓮聖人遺文集』(発願編者・米田淳雄師/日蓮宗連紹寺不軽庵)を推薦しておきます。

517犀角独歩:2005/02/04(金) 10:50:23

516、一部、文書が落ちてしまいました。

「『解題』を記された小松邦彰師(立正大学教授)は」のあとに

−−「著者の高木豊先生は、先に『日蓮とその門弟』(昭和40年、弘文堂)を刊行し、宗教社会史的方法によって、従来の伝説のヴェールに包まれた日蓮聖人伝を排し、新たな日蓮聖人像を描き出そうとしていた。その姿勢は本書吸盤にも一貫するものであり…真跡遺文を中心に、厳密な考証によって日蓮聖人の行動と思想の特色を論じ、客観的な日蓮聖人像を作り上げた。…高木先生は『日蓮・日本思想大系14』(岩波書店)を刊行している。同書は日蓮聖人遺文の文献学的書誌学的研究に新しい時代を開いた画期的なものであったが、本書旧版にもその遺文研究の成果を見ることができる」(同鄱)

また、−−


という文章が入ります。
毎度、訂正、恐縮です。

518愚鈍凡夫:2005/02/04(金) 12:46:04

安達泰盛と言えば、「霜月騒動」を思い起こさせますが、平頼綱にとって泰盛は、さぞかし恨んでも恨み足りない相手だったんでしょうね。北条貞時を担ぎ上げ、奇襲を懸けて一族郎党を滅ぼすなんぞは、並の怨恨じゃないですね。 (((( ;゚д゚)))アワワワワ

519犀角独歩:2005/02/04(金) 22:23:45

愚鈍凡夫さん、それにしても、おもしろいと思うのは、蓮師というのは、そんな鎌倉時代の立て役者と、よくもまあ、関係していたなということです。

蓮師は、罪人ではありながら、やはり、その時代の表舞台を生きた人だったのでしょうか。
反面、まったくその歴史上では、生存が杳として明確ではない親鸞聖人とは好対照だと思うわけです。…、わたしは、聖徳太子とともに、親鸞、架空人物説に偏るのはそんな理由からですが…。

520愚鈍凡夫:2005/02/05(土) 08:22:28

犀角独歩さん、レス有り難うございます。
蓮祖が平安時代に生きた法然についてはしつこいほど言及しているのに対し、時代は前後するものの、同じ鎌倉時代を生きた親鸞に対しては一言も触れていないのは奇妙ですね。
普通に考えれば、蓮祖は親鸞の存在を知らなかったと考えられますが、親鸞が実在の人物であったとしたら、そこそこの有名人であったと思われますから、不思議ですね。
ひょっして、親鸞の境遇に自分を重ね合わせて共感していたりして・・・・・。

「じゃぁ、何故そのことが遺文にないんだよ!!」(by 外野席)
「むむっ・・・・・。言葉が喉に詰まった。誰かお茶を・・・・」 (-""-;)ムム・・・

「続史愚抄」に親鸞のことが記されているそうですね。

1262(弘長2)年11月28日 庚戌
親鸞上人(範宴、また綽空。初め慈鎮和尚の弟子と為る。後法然上人の弟子。本故皇后宮大進有範の子、右中弁有信朝臣の)寂す(九十歳)。

「吾妻鏡弘長2年」
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/126200.html

521犀角独歩:2005/02/05(土) 11:24:38

愚鈍凡夫さん:

ご紹介のサイトを拝見しました。
ここの文頭に「吾妻鏡に記載無し」とありますね。
これは、何を意味するのでしょうか。あとからの記載ということでしょうか。


《続史愚抄》ぞくしぐしょう
 柳原紀光編の通史。81冊。正元元年(1259)から安永 8年(1779)までの521年間を記した朝廷の通史。寛政10年(1798)に自筆清書本が成立した。但しこの自筆清書本は既に焼失した。記事は簡略だが、元史料名を明記し、或は按文が附されている記事もある。引用元は「新訂増補国史大系(新装版)」(石狩市民図書館蔵)。
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/chrono/kaidai_sa.html

ぜんぜん親鸞聖人とは関係ありませんが、お札図柄から聖徳太子が外れたのは、日本国政府として、その存在に確信が持てないから、というのは本当の話なんでしょうか。ほかには、5万円札、10万円札が出来たときのためのストックなんて、話もありますが。

皆さん、『興風』の熟読でお忙しいようで、愚鈍凡夫さんとわたしだけで、当スレッドから脱線したようなテーマで話し合っていますね(笑)

522愚鈍凡夫:2005/02/05(土) 12:10:15

犀角独歩さん、どうも。

1262(弘長2)年に何があったのか分かりませんが、「吾妻鏡」には弘長2年がすっぽりと抜けていますね。>>520のサイトでは、「吾妻鏡」に記載がないから他の資料で弘長2年の出来事を補ったのではないでしょうか。
また、聖徳太子について、次の記述が真実であったとしたら、インド人にゴータマ・シッタルタは架空の人物であると言ってるようなものかも知れませんね。

**************************************************
厩戸王という一人の有力な王族が実在したことは確かだが、聖人として信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。その聖徳太子という人物が最初に登場するのは養老4年(720)に成立した『日本書紀』においてであり、その人物像の形成に関与したのは、藤原不比等・長屋王・道慈らであった。
その目的は、大宝律令で一応の完成をみた律令国家にあって、その主宰すべき天皇が、中国的聖天子像を体現した存在であることを歴史的に示すためであった。簡単に言えば、皇室の歴史の中に皇太子のモデルとして<聖徳太子>を創出し、これによって皇室の尊厳を確立しようとしたのである。その後不比等が亡くなり、長屋王の変後の天平年間に藤原武智麻呂・光明皇后を中心とした権力が確立するが、大地震・疫病流行など未曾有の危機に陥る。そのようなとき光明皇后は<聖徳太子>の加護を求めるため、行信の手引きで法隆寺に接近し、法隆寺を舞台とした新たな聖徳太子信仰を創出することになる。そこで成立したのが、薬師像・釈迦像・天寿国繍帳などの銘文や『三経義疏』などの法隆寺系の史料であり、さらに救世観音を本尊とした夢殿であった。

(『東アジアの古代文化』104号 「聖徳太子関係史料の再検討」・大山誠一 より原文抜粋)
**************************************************

吾妻鏡本文データ
http://www.nijl.ac.jp/databases/db-room/genpon/azumatop3.htm

「聖徳太子の虚像と実像」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/ooyamasetu.html

523犀角独歩:2005/02/05(土) 13:08:34

愚鈍凡夫さんは実在説派ですか。

わたしもいたほうが面白いとは思っています。
殊に聖徳太子については、梅原猛著『隠された十字架』(新潮社)は、学生時代に夢中になって読んだ記憶があります。また、恥ずかしながら、山岸凉子著『日出づるところの天子』(白泉社)、これもなかなか面白かったですね(コミックですが)

ただ、反面、架空の人物、出来事が、あたかも事実として、定着してしまう「歴史」というものの面白さも感じます。菊水御国さん(懐かしいHNです)がロムされていたら「ムッ」と反論されるかもしれませんが、天皇でも「日本国天神七代・地神五代・百王百代、人王…」と、こう来ますが天神・地神とは?とか、考えるとその成立には興味が惹かれます。また、『日本現報善悪霊異記』の記述は、中世の人々にとって、かなりリアリティがあったと思います。

まあ、そんなことと、聖徳太子、親鸞聖人の実在・非実在と結びつけて論じられる部分と、そうでない部分もありますね。しかしながら、興味深いテーマではあります。

524犀角独歩:2005/02/05(土) 13:13:22

間違えました。@菊水護国」さんでした。失礼。

525愚鈍凡夫:2005/02/05(土) 13:41:17

たぶん、日本武尊のように複数の人物の功績を、一人の人物に投影したのが聖徳太子であり、聖徳太子伝説ではないかと個人的には思っています。
古代から続く歴史の流れとして、人智を超えた昏迷の時代には、スーパーヒーローを求めるのが世の常なんだと思います。注目を集めた歴史上の人物が、歴史を重ねるごとに巨大化し、超人伝説として一人歩きしていくのかも知れません。
また、こうであってほしいといった願望が何時しか伝説化し、信仰と結びついたのが始祖信仰の始まりなのではないでしょうか。

526犀角独歩:2005/02/05(土) 14:03:12

> 525

そうでしょうね。
いまの時代は、それを、案外、コミックが担ってきたのかもしれません。
この前、ある学者さんと話していたら、「カルトごとに、信者が夢中になったコミック主人公がある程度、分類できそうだ」と。世界に誇る日本アニメが、実はアルカイダをモデルにしているという指摘まで飛び出していました。

こういう主人公、偉人伝が、投影される理想化された自画像(補助自我)と、分析できるのでしょうか。話は、さらに横道ですが、伏せ拝、長時間拍手なんかにご満悦という舞台装置に酔うのも、またその延長にあるのかもしれませんね。

527彰往考来:2005/02/05(土) 15:07:40

>521
犀角独歩さん、

お札から聖徳太子が消えたのは、聖徳太子非実在説よりも「聖徳太子および二王子像」(宮内庁所蔵)が、聖徳太子を現していないという説が主流になったことが一因と考えられます。
これについては、『肖像画をめぐる謎』(1998年、世界文化社)の22頁に加藤修さん(朝日新聞東京本社学芸部)が「聖徳太子および二王子像は誰を誰を描いたものなのか」という小論を書いています。そこから要点をかいつまんで引用しますと、
**************************************
「聖徳太子および二王子像」(宮内庁所蔵)が聖徳太子を描いたものではないのではないかと疑われている。タイミングを合わせたかのように高額紙幣の肖像からは、聖徳太子のカオが消えた。(中略)
日本の肖像画としてはあまり例のない立ち姿であることと、二人の王子を従えている構図などに、中国の影響がうかがえることが挙げられる。(中略)
製作年代に問題がある。聖徳太子が亡くなった六二二年。画像の製作時期は、八世紀中ごろとするのが一般的だが、服飾や法隆寺の再建時期などを考慮し、八世紀初頭とする説もある。いずれにせよ聖徳太子の没後一○○年ほどたってから描かれたものである。(後略)
**************************************

なお、同書24頁に
**************************************
お札に登場する聖徳太子は「聖徳太子および二王子像」をもとに大蔵省印刷局の磯部忠一氏が描いた肖像画がもとになっている。宮内庁本のイメージを変えずに、顔つきに陰影などが加えられている。聖徳太子は戦前から戦後に至るまで、紙幣への登場回数は7回に及び、最も登場回数が多い。
**************************************

とあります。

参考までに「源頼朝像」(神護寺所蔵)も源頼朝ではなく、足利直義(ただよし:足利尊氏の弟)を描いたものという説が現在では有力です。(同書12頁)一度茨城大学教授の鈴木暎一氏(鈴木氏は中学校歴史の教科書(東京書籍)を執筆しています)の講義を聴いたことがあるのですが、教科書で昔から「源頼朝像」として記載していたので、急にそうではないとは書けず現在の教科書では“源頼朝と伝えられる肖像画”という表現を使っているとのことでした。ちなみに愚息の教科書(『新しい社会 歴史』平成13年、東京書籍50頁)にこの表現がありました。35頁の聖徳太子像も“聖徳太子と伝えられる肖像”となっていました。 “〜と伝えられる”というのは“〜ではない疑いが強い”という意味なのですね。従って最近では「伝源頼朝像」(『肖像画をめぐる謎』13頁)と表現されています。『大田区史 資料編 寺社2』(昭和58年、東京都大田区)にある『伝・日蓮本尊』(1263頁)も同様の表現で、『大田区史 資料編 寺社2』のこの項に入集している御本尊は“日蓮大聖人の御真筆ではない疑いが強い”ということになろうかと思います。

by 彰往考来

528愚鈍凡夫:2005/02/05(土) 15:27:55

アニメと言えば、オウム真理教の幹部達が「宇宙戦艦ヤマト」世代でしたよね。空気清浄機に「コスモ・クリーナー」と名付けていたのには、ギャグかと思って笑ってしまいました。(^O^)
後で、恐るべきブラック・ユーモアと知って、ゾッとしましたが・・・・・。

> 話は、さらに横道ですが、伏せ拝、長時間拍手なんかにご満悦という舞台装置に酔うのも、またその延長にあるのかもしれませんね。

「伏せ拝」「長時間拍手」といった行為の中に、一般人と違う自分を見ているのかも知れませんね。在家教団独特の歪んだエリート意識と言いますか、「正しい信仰を持つ我々はあなた方とは違うのだ」といった、選ばれし者だけが共有する「至福の時?」に酔っているのでしょうか。そういった恐るべき勘違いをさせるための演出なんでしょうかね。
また、「正しい信仰」という根拠のない曖昧な言葉に、教団との間に「揺るぎない幸福」といった究極の現世利益が保証対象として存在すると思いこんでしまうんですよね。

529吉祥仙人:2005/02/05(土) 21:44:56
 脱線を覚悟で書けば、オウムの最終戦争説・地震兵器はすべて山田ミネコ作
『ハルマゲドン伝説』シリーズからの引用と愚考いたしております。

530犀角独歩:2005/02/06(日) 00:06:39

527 彰往考来さん、有り難うございます。

なるほど、こういうことでしたか。わたしの又聞きより、説得度が違いますね。

また“〜と伝えられる”とは、所謂「伝・〜」という表記ですね。
この書き方が、載ると、所蔵者の誠実さを感じます。

531犀角独歩:2005/02/06(日) 03:16:42

吉祥仙人さん、『ハルマゲドン伝説』ですか。
わたしは、近くオウム問題をまとめなければならない仕事を抱えているのですが、これは一つ、読んでみようと思っています。また、本日は、島田先生にお会いするので、この因果関係は話題にしてみようと企んでいます(笑)

まあ、そのうち、オフ会(研究会)にもお運びください。歓迎します。

532犀角独歩:2005/02/06(日) 03:22:11

> オウム真理教の幹部達が「宇宙戦艦ヤマト」世代

愚鈍凡夫さん、そう、これはよく言われるところなんですね。
桃太郎と変わらない鉄腕アトムなんて、意見もあります。
年を食って、コミックを読まなくなり、久しい時間が経った自分ではありますが、将来、コミックは古典として扱われ、且つ時代に如何に反映したかなんて研究がなされるかもしれませんね。

考えようによっては、大乗経典はSF、コミックは鳥獣戯画のように扱って研究をする学書が現れる…、なんていう憶測は、あながち、外れていないかもしれません。

533通りすがり:2005/02/12(土) 00:36:36
http://www.myouhouji.com/noukotudou/noukotudou.htm
板御本尊、何番かな?

534犀角独歩:2005/02/12(土) 12:14:37

533 通りすがりさん:

なんだか鑑識眼テストみたいですね。
これは第97漫荼羅の模刻ですか。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/097.html

535通りすがり:2005/02/12(土) 17:51:52
独歩さん
今晩は、東金本城寺の板御本尊もと同じ相貌なので大きさとも、略変わらないので
ビックリしています。彫りが石山系とはちょっと違いますね。
富久成寺の紙本を東金本城寺の板御本尊として安置していますが、こんな感じです。
http://www.myouhouji.com/noukotudou/noukotudou.htm

536犀角独歩:2005/02/12(土) 19:20:16

通りすがりさん:

そうすると、東金本城寺、本門法華宗蓮華山妙法寺と、第97大漫荼羅が同じであるという意味ですか。

> 彫りが石山系とはちょっと違いますね

ちょっとというより、まるで逆ですね。石山では、墨の部分を深く掘り取ってしまい、ご紹介の板本尊は墨の部分を浮き彫りにして金を張っているわけですね。
どなたかの話によると、石山の彫刻本尊も、胤師までは、こんな感じであったそうで、それを廃仏毀釈の時、掘り下げて脱魂し、その魂を遷したのが蓮華寺の紙幅であるとか。

しかし、影師代と言われる信行寺板本尊も掘り下げなので、どうもこの点は、わたしは納得がいっていません。ただ、文献が見る限り、弘安2年に仮託する彫刻本尊が浮き彫りが、掘り下げかは読み取れません。

537通りすがり:2005/02/12(土) 21:27:14
独歩さん
すいません、同じというより相貌が非常に酷似しているという事です。
寸法も略同じぐらいで、特に首題と花押は妙法寺の御本尊と大差は無いです。
東金本城寺の御本尊様は猿島富久成寺さんのお写しという容になっています。
その猿島富久成寺の本堂安置の二十八世詳師の板御本尊は平彫りで、妙法寺
と同じ彫刻の手法で日蓮正宗寺院では大変に珍しい御本尊で有名です。
全く凹じゃなく凸で御文字の輪郭を彫り浮かび上がる姿は、猿島富久成寺さん
ぐらいでしょう。

538通りすがり:2005/02/12(土) 21:54:19
http://www.eps4.comlink.ne.jp/~shokeiji/itaman1.htm
これも、妙法寺御本尊と同じ浮き彫り本尊になりますね。

539犀角独歩:2005/02/12(土) 23:09:43

通りすがりさん、わたし、勘違いしておりました。
石山末の浮き彫り(凸)の板本尊ですね。
しかし、こちらはだいぶ、整っておりますね。

540彰往考来:2005/02/19(土) 19:45:29

>533-537
通りすがりさん、犀角独歩さん

533に示された四条畷妙法寺蔵(本門法華宗蓮華山妙法寺)の板御本尊は534で犀角独歩さんが指摘されているように第97番御本尊のお写しであろうと考えます。
但し535と536で指摘されている相貌が同じであるということ、すなわち相貌は
富久成寺紙本(茨城富成寺蔵御本尊)=東金本城寺=四条畷妙本寺=第97番 であるというのはちょっと違うと思います。
私は、
茨城富久成寺蔵紙本=東金本城寺=第85番 と 四条畷妙本寺=第97番 の2系列と思います。

茨城富久成寺蔵御本尊の配座は、『三和町史 資料編 原始・古代・中世』(平成4年、三和町)の403頁に記載されています。この記載が確かなものであると仮定すると、茨城富久成寺蔵御本尊には、第97番御本尊にはみられない“阿闍世大王”と“提婆達多”が配座していて、第85番御本尊(大村本経寺蔵、弘安3年卯月)と類似しています。(第84番は“南無伝教大師”が“阿闍世大王”の右にありますが、第85番は“南無伝教大師”が“阿闍世大王”の左にあります。茨城富久成寺蔵御本尊は“南無伝教大師”が“阿闍世大王”の左にあります。よって第84番より第85番のほうが茨城富久成寺蔵御本尊と類似しています。)
茨城富久成寺蔵御本尊は弘安3年太才庚辰卯月日との脇書があり、(『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』(昭和53年、創価学会、178頁)図顕年月は第85番御本尊と同じです。また茨城富久成寺蔵御本尊の大きさは不明ですが、『三和町史 資料編 原始・古代・中世』によると弐枚続とのことです。なお、第85番御本尊は一紙(丈60.9センチ、幅38.2センチ)です。このことから、茨城富久成寺蔵御本尊が第85番御本尊の模写の類である可能性は低いと思います。ここで使用している“=”はあくまで相貌が同じという意味です。

私は茨城富久成寺さんと東金本城寺さんの御本尊は実物、写真とも拝見していないので、“茨城富久成寺蔵紙本=東金本城寺”との内容は537によります。

以上のことから相貌は
茨城富久成寺蔵紙本=東金本城寺 と 四条畷妙本寺=第97番 の2系列であるといたしました。

by 彰往考来

541犀角独歩:2005/02/19(土) 23:37:23

彰往考来さん、ご教示有り難うございます。
写真その他で考証いたしてみようと思います。

542尾池:2005/03/31(木) 21:41:18
http://page11.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n14634453
に出品中の宗祖御本尊?真偽は如何

543犀角独歩:2005/04/01(金) 00:08:25

> 542

値段も笑えましたが、

> 日蓮大聖人が中山法華寺で修行中、本御曼陀羅を書かれ同寺で保存

蓮師の存命中に「中山法華経寺」があったのでしょうか(大笑)

544尾池:2005/04/01(金) 11:07:07
真偽は偽の方が濃厚ですね。
落札金額も笑えますね、落札するのであるなら、資産家か宗教団体しか
落札出来ませんね^。^

545犀角独歩:2005/04/01(金) 12:06:43

尾池さん、はじめまして。
仰るとおりであろうと思います。

546彰往考来:2005/04/01(金) 12:47:04

>542

写真が不鮮明なので、よくわかりませんが、
配座は19番御本尊に類似しているようです。
文永期の特徴がでていますが、経の字などは
弘安期の書き方のようで、まず偽筆でしょう。
価格は30万円といったところでしょうか。
表装のみの価格です。本体価値はありません。

彰往考来

547がらくた@岐阜県:2005/04/30(土) 17:33:09
この御書は偽筆なのでしょうか ?
http://www.kosho.ne.jp/~kotenkai/tokusen/gazo/gp2805.html
日蓮宗寺院やその他門流にも宗祖筆という断簡や曼陀羅本尊が随所に格護
されていますけど、お分かりになる方ご教示願います。

548れん:2005/04/30(土) 20:14:34
皆さんお久しぶりです。
がらくた@岐阜県さん、初めまして。御提示の断簡を拝見しました。保存状態が多少悪いためでしょうか、画像の映りが悪いですが、一応見た限りでは、真筆のようにも見えます。これが蓮師の真筆ならば御書=著作ではなく、聖教(仏教文献)写本の類と思われます。立正安国会の故山中喜八師の研究によると、蓮師は文永から弘安元年にかけて注法華経編纂のため、各宗の聖教類の収集・書写を集中的に行っていましたから、これが真筆ならば当該時期の聖教写本と見るのが至当と存じます。
伝蓮師筆の曼陀羅・著作・写本の真偽判定については、所謂宗派教学によることなく、安国会の片岡随喜師・山中喜八師の如く、真筆をもって真筆か否かを判断するのが一番確実だと思います。以上ご参考までに。

549がらくた@岐阜県:2005/04/30(土) 23:56:15
れんさん、ご教示有難う御座います。
写本類などは、宗祖が数多にわたり残されていたのですね。
未だに発見されていない断簡などは、今後の研究が期待されますね。
筆法などでは、上記の断簡は宗祖の特徴が、法蔵館日蓮聖人真蹟集成5巻に
紹介されている断簡類に酷似しているので私は間違いないと思います。
有難う御座いました。

550犀角独歩:2005/05/01(日) 06:55:28

れんさん、ご無沙汰しています。お元気そうで何よりです。
わたしごとですが、数年前、とある本山格の寺院で宮崎英修師が鑑定し、真筆と断じたという、何と『開目抄』の断片を、個人的に間近に拝観しました。これがほんものであったかどうか。文字はたしかに蓮師のものに似通っていました。何より、その時に印象に残ったのは、紙の質、墨の色、また筆の走りでした。こうした点は、やはり、現物を手に取らない限り判らないと実感したものでした。
蓮師、真跡の現物を一々に手に取ってきた人の経験値は、そんな具合で蓄積されているのだろうと思ったものでした。

551れん:2005/05/02(月) 22:24:43
犀角独歩さん、ご無沙汰しております。仕事が忙しくこのところはロム専でおりました。
宮崎英修師が蓮師真筆と鑑定された開目抄の断簡を拝観されたのですか。それは貴重なご経験をされましたね。
開目抄については真筆は身延曽存ですが、身延曽存の本(日乾師写本により原型がうかがい知れます)より現行流布本の系統の写本の方が文章が整足しており、身延曽存本は草案本で流布本は清書本ではないかとの学説がありますが、独歩さんが御覧になられた「開目抄断簡」がどちらの系統に属するものか、少しばかり興味が湧きました。
真筆か否かの判定は、やはり、独歩さんの仰るとおり多くの真筆に直接ふれた経験がものをいうでしょうね。その点、宗派教学によらず、専ら真筆によって真筆か否かを鑑別するという方法によって多くの蓮師の真筆を発掘してその写真版を刊行された立正安国会の故片岡随喜師・故山中喜八師の業績は、近現代における蓮師真筆研究の基礎を固めたものとして素晴らしいものと思います。

552犀角独歩:2005/05/03(火) 00:59:44

551 れんさん、浅学の浅はかさ。ご指摘の点はまったくわたしにはわかりませんでした。ただ、たしかに現代では見たことのない紙質、緑がかって見えるの古色、筆の走りがわずかに見える墨色など。目を惹くとことろは多くありました。

しかし、宮崎師真跡お墨付きと言っても直ちに信じないのが私という人間であることはご承知のとおり。鑑定というのであれば、せめて紙の繊維の拡大写真、紙と墨の成分分析結果、年代判定と言った科学資料が付されて然りであると思います。

彫刻本尊のように鮮明な写真すら公開しないで本物だと豪語するばかりであれば、不鮮明な写真から類推するほかありませんが、現物がありながら検査・調査・分析もしないというのは、学的態度としては、怠慢以外の何ものでもありません。率直に言えば、学者の風上にに置けません。これはいまでは蓮師漫荼羅の鑑定の第一人者と相成った例の御仁に特に言えることです。殊更、御書真偽を論ずるに「こんな格調の高い文章は日蓮大聖人をおいて書けるはずはない」と言った類の思い込みには付き合う気も起きません。

けれど、たしかにれんさんが、挙げられるお二方の研究には、そのような科学的アプローチはないものの敬意を表します。しかし、旧態依然に属するでしょう。百年一昔前の鑑定を21世紀になった今でも踏襲するだけで事足りたする古文書研究の有様には納得が行きません。

もちろん、これはれんさんのお言葉を返す意図に基づく投稿ではないことはおことわりしておくことにしておきます。ご返信を深く感謝申し上げるものです。

553れん:2005/05/03(火) 11:45:42
犀角独歩さん、仰るとおり現代における「鑑定」に於いては、‘見た目’だけではなく、放射性炭素による年代測定をはじめとする科学技術を用いた鑑定で万全を期すべきことは言うまでもありませんね。真筆といわれるもののなかには精密な模写や形木もありえますし。
とはいえ、今から七十年程昔、多大な私財を費やしてくまなく全国の蓮師門下寺院を探訪し、片岡師山中師が真筆資料(中には戦災により焼失してしまったものもあります)を写真版として刊行したことは、今日の真筆の学的研究の先鞭をつけ、その基礎資料を学界に提供したという点において、私は評価しております。

554犀角独歩:2005/05/04(水) 00:06:03

れんさん、仰るところはまったく賛同します。
そのうえで、今は70年前ではありませんので、70年経ったところから、過去を敷衍した上で研究がなされるべきであるというのがわたしの申し上げていることです。

555鳥辺野:2005/05/06(金) 23:53:51
皆さんはじめまして、鳥辺野と申します。399で彰往考来さんが発表されました、要山の大聖人筆御本尊の中の、「符法本尊」でしたら要山の宗務院にて御守として販売されているはずです。御守の外観は神社等で売っている物とほぼ同様ですが、「本山要法寺御守」と書かれた和紙の包み紙の中に、小さな曼荼羅が入っています。曼荼羅に書かれている文字は小さすぎてよく読み取れませんが、虫眼鏡で見れば確かに左下に「建治二年太歳丙子正月元日」と書いてあります。曼荼羅の相貌はどちらかというと、本尊集ナンバー26番や27番に似ているように見えます。ただこの時期にはない四天玉の上に「大」の字が冠さっていますので私自身購入した当初から不自然に思っていました。購入したのは平成15年の12月頃でしたが、そのときはほかの書籍「日宗年表」や「日大上人」等も一緒に購入しましたので御守の値段ははっきり覚えておりませんが、確か400円〜800円位だったと記憶しています。真偽未決の曼荼羅ではありますが私にとっては大事な御守であります。いつも仕事の時は肌身離さず持っております。余談ですが昨年末には再び要山に参詣し、その近くにある末寺、実法寺(尊師、郷師建立の鳥辺山御廟所:目師、要山歴代の御墓)にもお参りしてきました。

556鳥辺野:2005/05/07(土) 00:00:42
555の訂正
×実法寺 ○實報寺
失礼いたしました。

557孤高之求道人:2005/05/07(土) 01:20:46
鳥辺野さん、はじめまして。
私は失敬ながら、そのお守りの曼荼羅部分を、知人からコピーをいただきました。
次回オフ会に参加させていただくときには持参し、彰往考来さんはじめ、皆様に見ていただきたいと思います。
鳥辺野さんの仰る通り、かなり不自然な相貌だと思います。

558鳥辺野:2005/05/07(土) 08:30:09
孤高之求道人さん、はじめまして。今後も宜しくお願い申し上げます。

559彰往考来(しょうおうこうらい):2005/05/07(土) 08:52:24

555鳥辺野さん、557孤高之求道人さん

そのようなものがあるのですか。一度拝見させて
いただきたく存じます。

彰往考来

560鳥辺野:2005/05/07(土) 23:27:26
559彰往考来さん、はじめまして。いつも貴重な資料そして分析、興味深く拝見させていただいております。今後も宜しくお願い申し上げます。御守本尊の件ですが、大変申し訳ありませんが、私、恥ずかしながら自宅パソコンを設置したばかりですので、画像をお送りする事ができないのであります。もし機会があればオフ会等で直接お会いして、お見せできればなぁと思っております。

561彰往考来(しょうおうこうらい):2005/05/08(日) 10:11:52

560鳥辺野さん

ぜひ、オフ会で拝見させてください。

彰往考来

562犀角独歩:2005/05/08(日) 10:23:07

鳥辺野さん、オフ会のご参加、歓迎します。

563鳥辺野:2005/05/08(日) 23:12:05
561彰往考来さん
562犀角独歩さん
その時はどうぞよろしくお願い申し上げます。
あ、犀角独歩さんは、はじめましてでしたね。今後も宜しくお願い申し上げます。

564犀角独歩:2005/05/09(月) 10:10:26

鳥辺野さん、こちらこそ、よろしくお願いいたします。

565パンナコッタ:2005/06/18(土) 11:40:17
偽作説についてのスレで、きゃからばあさんの投稿と独歩さんのブログでふと思ったのですが、
「曼陀羅の用途が違う」というのは、護りはともかく自分にとってハッとした思いでした。

きゃからばあさんのお名前は梵字で、空・風・火・水・地を表したものであると思うので、それでふと思ったのですが、
本尊集第八番の上部に梵字が勧請されていますね。これは『アーンク・胎蔵界大日如来』と『バーンク・金剛界大日如来』
を表しています。 佐渡百幅の形式とは違いますし、真言批判は文永六年の「法門可被申様之事」に出てきている事
(蓮祖と同時代の真言師についてですが)を考えれば文永八年の筆とされていますが、かなり遡る事が出来るのではないでしょうか?

566れん:2005/06/19(日) 17:19:41
独歩さんのブログに記された中尾師の蓮師の曼陀羅本尊に関する御見解は、殊にその用途についての御教示は、大いに参考になりました。
私は六・七・八月は多忙なのでオフ会に参加できませんが、秋になれば多少は時間がとれると思うので、秋以降のオフ会から少しずつ参加させて戴ければと思っております。
さて、パンナコッタさんが提示された本尊集第八番の曼陀羅の系年についての疑問ですが、文永八年説については私も疑っています。「日蓮聖人真蹟集成」によって蓮師のバン字花押の変遷を見ますと、バン字の上に記される空点が、観心本尊抄副状の花押を境としてそれ以前はヽ点あるいは棒の様な点であるのに対し、それ以後は鍵手であることが分かります。第八番の曼陀羅を見ますと、その花押はまさに観心本尊抄副状以前の形態のもので、しかも類似する花押を真蹟集成で探しますと、署名・花押ともに文永五年(1268)四月五日執筆の安国論御勘由来に酷似しており、この頃の図顕にかかるものではないかと愚考しております。もっとも、この曼陀羅には本化四菩薩は記されていませんから、蓮師は観心本尊抄に見られる「本朝沙門」の立場ではなくあくまで天台沙門(台密僧)の立場で図顕されたものであろうと思います。以上ご参考になれば幸いです。

567犀角独歩:2005/06/19(日) 18:00:58

パンナコッタさんのご賢察を読み、考えているうちに、れんさんのご投稿となりました。

この漫荼羅については『御本尊目録』に「当御本尊は、一応第8に順列したが、御図顕の年代からすれば、更に遡るものと考える」(P12)とあります。

また第18大漫荼羅の備考を参照にせよとあるわけで、実はこれがパンナコッタさんが金胎大日であるという指摘とつながるわけですね。

そして、小松師の講義でも触れられているとおり、蓮師は文永5年の段階ではまだ天台法華沙門の立場、6年『御輿振御書』で揺らぎ、『安国論奥書』では、その期待を離れるという、つまり、れんさんが仰る台密僧としての図顕であり、かつ、金胎大日の勧請があるという、奥の深いやり取りであるわけですね。お二人のご賢察に改めて敬意を表します。

参)http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/25679747.html

また、れんさんには、秋頃にはオフ会にご参加くださる由、心から歓迎すると共に嬉しく存じます。楽しみにお待ち申し上げております。

568パンナコッタ:2005/06/19(日) 20:05:18

れんさん、ご指摘ありがとうございます。 自分はまだ、うすぼんやりとしか見えていませんので
非常に参考になります。 
独歩さん、佐渡以前の文永中頃の思想変遷は、富士門系では一寸軽く見られてしまうようですが、
なにやら重要な意味がありそうですし曼陀羅図顕にも関わりが大のようですね。

やはり時系列的な蓮祖の思考的変遷(キーワードとしては真言批判)、曼陀羅図示の変化と真筆遺文
内容の変遷を改めて検討、整理することにより、新たに意外な事実が浮かび上がってくる事も在ろうかと
思います。

第18番の大日如来が勧進されている本尊の図顕は文永11年となっていますが、佐渡後は一貫して
真言批判をしていたのにヘンじゃない? という自分の単純な動機もやがて重要な意味を持ってくるかも
しれませんね。

569松栄堂薫香:2005/07/27(水) 00:51:22
http://www.zephy.com/M050307.147.jpg
伝宗祖筆建治二年の曼陀羅御本尊みたいですが、真偽は如何 ?

570パンナコッタ:2005/07/28(木) 11:55:54
>569
真偽の判定は鑑識眼のある方にお任せするとして(即断されるだろうけど)、本尊集の建治二年NO、31〜33と
その前後の物と比較してみて考えてははどうでしょうか。 すると、

 ・太字の四大天玉が四隅に勧進されている形式はこの時代ではない。
 ・愛染の形式がこの時代の物ではない。(上下分離している形である)
 ・日付の位置が左右逆である。
 ・主題の蓮の字の書き方。(行書体である)
 ・主題の経の字の形。
 ・花押の蕨手。(まん丸だ)

 等がパッと見に、大きく相違しますね。 更に細かく見ていけば色々あるでしょうね。
善徳如来の勧請は時代的には合っているが、その上の南の崩し字は前時代的なものではないのか、
(亀若護に使用例があるが用途その物に違いがあるのではないか、どうか)とか、やけに掠れ字、光明点は妙の字以外は
一筆書き? などのややこしい点なども出てくると思いますけれど、 
みなさんは、どうお感じになりましたか?

571大勇者:2005/07/30(土) 10:16:58
パンナコッタ さん
珍しい花押として、NO41と比較してみてはどうでしょう?

572パンナコッタ:2005/07/30(土) 11:26:29
大勇者さん、
バン字を形成しているか、否か というご指摘でしょうか?

573大勇者:2005/07/30(土) 20:17:55
パンナコッタさん どうもです。
いえいえ、どちらもバン字型と思います。

NO41は、花びらのような三枚のあとに右に跳ねるのは珍しいかな、、と。
>569の曼荼羅は左に跳ねるがそのあとのウエーブが、、かな、、と思ったので。

574パンナコッタ:2005/07/30(土) 21:23:08
大勇者さん、お世話さまです。

NO41の花びら3枚とは、どれのことでしょうか?
>569のウエーブというのも、どれなんでしょうか? 蓮の字のしんにょうの
部分でしょうか。

575大勇者:2005/07/30(土) 22:09:21
あぁ すみません。花びら三枚は自分で勝手につけた名前でした(笑
花押の m みたいなところの事です。 m次の ○ の囲み方です。

の→m→○

576パンナコッタ:2005/07/30(土) 22:47:28
大勇者さん、
”日蓮”を囲む大きな丸囲みの左半分のRが扁平した形で、
しんにょうの下部に沿うようにしてS字を描いている という感じでよろしいでしょうか?

577彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/01(月) 07:31:04

>569 松栄堂薫香さん

この御本尊(建治2年2月13日)の出処が明らかでない以上、責任のある鑑定はできないでしょう。トラブルになりかねません。従って、主として現存御本尊の特徴との相違点という形で述べます。
詳細な分析は570でバンナコッタさんが記述されていますので一部重複しますが、
①日付の位置は通常と逆です。弘安3年9月8日の第99番本尊のように例外はありますが、建治期の御本尊には見あたりません。
②諸尊の勧請は建治期と弘安期が混ざっているようです。建治期の特徴である“十方分身諸仏”の配座がみられるのですが、“明星天玉”や“大六天魔王”の勧請が見られます。『御本尊集』によれば現存の御本尊中、“明星天玉”の初出は弘安元年8月の第53番本尊からです。また“大六天魔王”の初出は建治3年2月の第41番本尊からです。但し、“大六天魔王”は身延嘗存の建治元年11月本尊などにその列座がみられますので、建治期の御本尊に“大六天魔王”が勧請されていてもおかしくはないでしょう。
③“経”の字は建治2年ではなく弘安元年8月の書き方に似ているように思います。
④“四天王”の書き方で、“増長天玉” と “広目天玉”に“大”を存するのは、建治3年卯月の第44番本尊からです。
⑤“愛染明王”は建治期では上下分離しています。“愛染明王”がハート型のように左右が対称のような形になるものは弘安2年4月の第62番本尊が初出でしょう。弘安元年8月の第53番本尊もこれに近い形ではあります。
⑥花押も建治期ではないでしょう。典型的な蕨(わらび)手形式は、弘安元年7月以後の特徴でしょう。
⑦特筆すべきは “南無”の崩し方です。松本佐一郎氏は第112番本尊から第114番本尊に丸形になっているお筆の乱れがあることから、「弘安四年の秋、相当御病状が悪かったことは上野母尼書(艮2082)に見える。・・・・丸形のほうが書き易い」(『富士門徒の沿革と教義』昭和54年覆刻第1刷、大成出版社、219頁)と指摘しています。つまり、丸型のほうが力が入らないので書きやすく蓮祖がご病気時の図顕の特徴ということです。この観点から蓮租御本尊をみますと建治期では丸形は建治2年8月13日の第38番と39番だけで、翌日14日の第40番では通常形に戻っています。また建治2年2月の第31番から33番は通常形です。

あえて私の愚論をのべます。今回ご紹介の御本尊は建治2年8月頃の御本尊と弘安元年8月頃の2幅の御本尊をお手本に作成された可能性があるのではないでしょうか。ただそうだとすると、なぜ建治2年の日付に弘安期の特徴を混ぜるというような複雑なことをしたのか理由は不明です。

「古美術、古玩の世界では、偽物を本物と間違う罪は、本物を偽物として葬る罪よりはるかに軽い」(村松友み(“み”は示扁に見)『永仁の壺』2004年、新潮社、106頁)ということだそうです。私は今回ご紹介の御本尊は偽物と考えますが、あくまで個人的見解です。万が一本物でしたら罪は重いということになりますので慎重な判断が必要です。ただ偽物はあくまで偽物です。私見ですが今回のはあまり出来がよろしくないと感じました。偽物のもつ何ともいえないイヤラシさが全体から滲み出ているようでイヤです。じっくり見たいとは思いません。日顕さんのいう二級以下の偽筆本尊と思います。

御法主日顕上人猊下御説法 
日女御前御返事 平成4年9月21日 法観寺寺号公称・落慶入仏法要の砌
****************************************
ニセものにも、もし等級をつければ、超一級から一級、二級、三級、五級、さらには十級くらいまでありまして、まず二級から下は全く話になりません。
****************************************
−『大日蓮』平成11年11月号、41頁

578古池:2005/09/11(日) 09:09:28
独歩さん

はじめまして
独歩さんのプログで紹介されている今成師の「如説修行抄」は日蓮在世時の内紛により日蓮でない門下の誰かがしたためたものではないかという説に大変興味を持ちました。よろしければ内紛の事情等について教えていただけないでしょうか。

579犀角独歩:2005/09/11(日) 13:44:04

小池さん、はじめまして。

「今成師は、日蓮在世に既に偽書として成立し、しかも日蓮その人を批判することを目的にしていたと大胆な推測を載せる。考えさせられる説だった」
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/29698771.html

と、わたしが記したことでしょうか。この御説に関してのみ絞って言えば、わたしは「考えさせられる説」と記したとおり、気分としては落着していません。弟子檀那などの文献的証拠がここでは示されていないからです。ただし、「有りえるのではないか」という思いがないということではありません。わたしにとっても、日蓮の山林隠棲は「我不愛身命但惜無上道」「不自惜身命」「寧喪身命」と言った所説に違反するものであると思えるからです。故に今成師のご説呈示の勇気に敬意を表すると言うことです。

ご参考の便宜に、以下、今成師の原文を転載します。

*** 転載はじめ ***

…佐渡にあって、鎌倉在住の弟子檀越たちを叱咤激励していた日蓮には、自分が遠からずして山林に籠る身になろうとは夢にも思われなかったでしょう。ところが、文永11年(1274)3月26日に佐渡から鎌倉に帰着した日蓮は、5月12日には鎌倉を立って身延山中に隠棲してしまいます。

結句は一人になりて日本国の流浪すべきみにて候。(文永11年5月17日付『富木殿御書』)
度々あだをなさるれば、力をよばず山林まじはり候ひぬ。(文永11年11月11日付『上野殿御返事』)
鎌倉中に且らく身をやどし、迹をとどむべき処なければ、かゝる山中の石のはざま、松の下に身を隠し、(建治元年4月付『法蓮抄』)
去年かまくらより此ところへにげ入り候。(建治元年7月12日)

などといった。不本意な入山を歎く文言が散見されるのですが、日蓮が、このような苦境に立たされることになった原因は一つしか考えられません。それは、門弟間に不協和音が増幅して収拾がつかなくなったことです。

日蓮の流刑地佐渡からの帰着、それを待ち受けた門弟といえば、度重なる弾圧に屈することなく、ひたすらに日蓮の教えを信奉し、教線の拡張に挺身しようとする精鋭たちであった筈です。

彼らが純心であればあるほど、教団の運営方針の意見対立は先鋭化したに違いありません。即ち、教団壊滅の危険を省みずに強硬路線をばく進すべきであるとする、いわば折伏派と、教団百年の計を慮って迂回路線も組み込むべきであるという、いわば摂受派との対立です。

580犀角独歩:2005/09/11(日) 13:44:30

―579からつづく―


日蓮が、いかなる困難にもめげずに信念を貫く人であったことは、その受難の人生を語って余りあるところですが、その日蓮が、「鎌倉中に且らく身をやどし、迹をとどむべき処なければ」「力およばず山林に」「にげ入り候」と告白しなければならなかった事態とは、日蓮が且て経験したことのない危機であったことは間違いないでしょう。とするならば、それが外部からの圧力ではなくて、教団に於て、にわかに決着のつきかねる対立が発生し、日蓮は、その何れにも組みすることのできない立場に追い込まれてしまった――と考えざるを得ないのです。

日蓮の山林隠棲は、「結句は一人になりて日本国の流浪すべきみにて候」になるかも知れないと危ぶまれるほどに、確たる見通しの立たないところの苦渋の選択であったわけですが、そのような道を選んだ日蓮に対して、直ちに従者を遣わしたり、供物を贈ったりする弟子もいました。然し、その反面、強固な反対の烽火をあげる人びともいたのです。
「権実雑乱の時、法華経の敵を責めず山林に閉じ籠り、摂受を修行せんは、あに法華修行の時を失う物怪にあらずや」とは、まさに、身延山に退いた日蓮、および日蓮の行為を容認する弟子たちに対する非難の攻撃であると考えざるを得ません。つまり、日蓮の身延山入山を不満とする折伏派の人たちによって作られたのが、今日話題にしている偽書であると思われます。

それらの偽書は、日蓮教団内部の、主として摂受派の人々を対象として発信されたものですから、広く社会に通用するものである必要はありません。一般性を欠いていても構わないのであります。『開目抄』で、常不軽菩薩の礼拝行を折伏であるとしているのも、それが無道に落ちた母を救う盂蘭盆会の行事として7月14日に盛行していた(閑居友』上の九。『名月記』)という当時の習俗に背くものですし、『如説修行鈔』が、日蓮の一度も口にしなかったところの「法華は折伏にして権門の理を破す」や「如説修行」という言葉を平然として多く用いているのも、社会性を逸脱していることなのです。

『如説修行鈔』の宛名が「人々御中へ」となっており、「此の書、御身を離さず、常にご覧あるべく候」という注意書きを伴っているのも、この遺文の閉鎖性を示すものとして注目されるところであります。…

『開目抄』の、常不軽菩薩を折伏の人であると特定している部分と、全篇一貫して折伏に徹することを勧めている『如説修行鈔』とは、身延山に籠った日蓮を、摂受に堕した者として非難し、折伏路線に邁進すべきであると主張する弟子たちによって作られた偽書であることが明らかになったと思います。

彼らの営みは、強烈な信仰に支えられたものであり、師匠の名誉と教団の発展を願ってなされたものであることは間違いないでしょうが、もともとが山籠という日蓮の実践を否定するところから出発した行動なのですから、そこに理想とされている折伏者像が、日蓮の実像に反するものであることは云うまでもありません。…
(教団における偽書の生成と展開―日蓮の場合― 『佛教文学』第29号 P146)

*** 転載おわり ***

581古池:2005/09/11(日) 14:06:34

独歩さん

ありがとうございます。

>この御説に関してのみ絞って言えば、わたしは「考えさせられる説」と記したとおり、気分としては落着していません。弟子檀那などの文献的証拠がここでは示されていないからです。ただし、「有りえるのではないか」という思いがないということではありません。わたしにとっても、日蓮の山林隠棲は「我不愛身命但惜無上道」「不自惜身命」「寧喪身命」と言った所説に違反するものであると思えるからです。故に今成師のご説呈示の勇気に敬意を表すると言うことです。

同感です。

>身延山に籠った日蓮を、摂受に堕した者として非難し、折伏路線に邁進すべきであると主張する弟子たち
との御指摘は考えさせられるものがあります。このような強硬派がいたとしたらですが。
大変参考になりました。

582古池:2005/09/11(日) 14:41:56

独歩さん

偽書は後世に生まれたものとのみ思っていた固定観念を揺さぶられました。
いままで議論されてきた摂受・折伏説について、曼荼羅は本尊か否かについても、固定観念を捨てて読んで見たいと思います。

583犀角独歩:2005/09/11(日) 21:25:22

小池さん

「固定観念」につき、まったく仰るとおりですね。
わたしはここ10年、「何で自分は、こう考えていたのか、こう信じていたのか」という自問自答を繰り返してきました。

584犀角独歩:2005/10/24(月) 23:51:59

彰往考来さん

本日は、立正大学情報センターに行き、大崎学報130余号を検索し、目についた20余点の掲載文書に目を通してきました。実に平易な文書で分かり易く、これ全部の読破は取り敢えず、日蓮近代教学の入口とすれば、さほとでもない(そんなことはないかもしれませんが)創刊号から順次、読み飛ばしているところを読破していこうと思った次第です。

近年で、わたしが腑に落ちるというか問題意識、文章の調子などで、興味が惹かれたのは小林是恭師、いままでぜんぜん気に留めたことはなかったのですが、この方の論文は荒削りながら実に面白いと思いました。

第93号『最蓮房賜書管見』、第112号『二明王と曼荼羅』はお読みになりましたか。
特にこの2書は、日頃、思っていたツボにピタリと嵌りました。


パンナコッタさん

感動したのは、第109号の山中喜八師『注法華経私考』でした。
その『結語』に

「注法華経に引きたまえる経釈には、本経の扶釈を目的としたものの有ることは論を俟たないが、経釈それ自体の開会のために引文されたものも、また尠くないようである。…或は本経を能摂として、之に比況しておのずから諸経の次位を定め、或は本経の能判として、之に照鑑しておのずからに諸釈を匡し、以て三国仏教の精要をして、法華経に注帰せしめようとと図られたのが、注経御選集の宏謨ではなかろうか。若しこの信解にして誤りなければ、注経全十巻に充満する聖聚を、渾べて本経の規拒として、何のためにその経釈を引かれ、また何の故にその処に注記されたかを、至心研鑽する必要がある。この用意があってこそ、始めて聖訣は顕示され宣授されて、古今東西に類型を絶せるこの一大撰著は、名実倶に「此宗末代規模」となるであろう」(昭和34年2月15日発行 P62)

といいます。
「此宗末代規模」とは『註』に拠れば昭尊遺蹟之事(宗全上聖部 P12)に載る「註法華経一部者。先師聖人以自筆註勘文記奧旨。此宗重宝末代規模也」という一文を指すとのことでした。

なお、御義口伝に関する考証も秀逸でした。
かつて顕正居士さんもご教示くださいましたが、就注法華経御義口伝(注法華経に就いての御義口伝)と言いながら、まったく、この編者は注法華経に拠っていない点を明瞭に説明しています。

その他、瞥見した書は多数ありますが、これは後日とまた、記そうと思います。

585彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/25(火) 06:54:44

>584 犀角独歩さん
>
第93号『最蓮房賜書管見』、第112号『二明王と曼荼羅』はお読みになりましたか
これは残念ながら拝読いたしておりません。表題だけを見る限り面白そうですね。

このころの大崎学報は良い論文がたくさんありますね。

山中氏の注法華経については、氏の関連論文一覧を追ってレクチャーします。
『日蓮聖人真蹟の世界 下』に入集していますので、大崎学報にたよらずとも読むことはできます。
下巻のほうです。

586犀角独歩:2005/10/25(火) 08:45:00

彰往考来さん

> 山中氏の注法華経…関連論文一覧…レクチャー

有り難うございます。楽しみにしております。

ところで、彰往考来さんは、稲田海素師の『御本尊写真鑑』(大正元年12月20日印刷/大正元年12月23日発行/須原屋書店)はお持ちですか。
この本は見開きで右に稲田師の解説が、左にその漫荼羅が配されて編集されています。
惜しくも、立正大学情報センター蔵書の第8番目が破り取られれています。そのために1枚は写真が、1枚は解説がわからなくなっています。

写真が失われた解説は「大聖人御年五十八弘安二年乙卯六月身延山ニ於テ書シテ尊師日顕法師ニ授与シ給タル御真蹟ニシテ京都本宗大本山本圀寺ノ霊宝ナリ、今考ルニ此御本尊ハ恐ハ房州清澄山ノ住人ナル浄顕房ニ授与シタルモノナルベシ、何トナレハ尊師ノ二字ハ法兄ニ対スル敬語ナルベク、日号ノ題ノ字ハ浄顕ノ顕ヲ取リ、又帰伏ノ後チ師弟ノ関係ヲ以テノ故ニ法師ト称シ給ルナルベシ、今暫ク愚見ヲ附シテ以テ世ノ識者ノ高見ヲ待ツ」(原文、旧仮名遣い)

となっています。以上の漫荼羅は、この写真帖以外、入集されているものはあるでしょうか。

この破り取られた写真の裏が次の写真の解説になっているために、こちらは文が失われています。以下、写真です。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/misho_mandara.JPG
(ジャンプしないときはコピペしてください)

ご承知のところがあれば、ご教示いただければ有り難く存じます。

587パンナコッタ:2005/10/25(火) 12:36:26
独歩さん、
注法華経はやはり蓮祖の法華第一の思想を考察する上で、より研究がなされなければいけないの
でしょう。テキストとして最高の部類の物を、自宗内信徒には存在すら知り得ないようにしている
態度は、大いに問題ありです。

 >法華経に注帰せしめようと   は、妙法蓮華経の意だと思いますが、現代の我々の場合は、
区別して(種種の梵本や他の漢訳と分ける意味)押さえておいた方がよいと思います。

御義口伝を金言とするのはもはや論外ですが、漢文の注法華経を読むより御義の口伝形式の書式の方が、
直感的にも”わかりやすい”のではないでしょうか。 普及を目的とするならば優れた物であると
思われます。 ある意味、富士系を後代に存続させる役割をも果たしたのかもしれません。

個人的には御書システムには、早くver upしてもらい掲載して欲しい所です。

588犀角独歩:2005/10/25(火) 14:21:05

587 パンナコッタさん

ご意見にまったく賛同いたします。

しかし、そういうわたしも注法華経については手を着けずに来ましたから偉そうなことは言えません。

なお、ご承知のことと思いますが、注法華経にほぼ忠実に基づくのは日向『金綱集』であるとのことです。先に紹介した山中喜八師『注法華経私考』にもこの点が触れられています。

「金綱集との関連について
 現伝する上足諸聖の遺著のうち、注法華経と最も密接なる関係を有するものは、恐らくは向尊の金綱集ではあるまいか」(大崎学報109 P55)

と記されています。

日向を悪人視する富士の風潮が、この重書から目を遠ざけたのかと思案します。また、日興は盗まれたものは、そこから考えない…、というか、日興已後に属するのかも知れませんが、ないものは軽視してあるものを重視するという風潮が富士においては特に顕著ですね。つまり、一体仏を日朗が持ち去れば仏像は廃され、日昭が注法華経を持ち去れば、その重書を省みないと言った具合です。

日興門下における注法華経研究はどのようなものか、わたしは不勉強でまったく知らずに来ました。個人的な認識としてはほとんどないというように考えてきました。しかし、もし、わたしの管見の如く、日興門下に注法華経に関する論及がなければ、日蓮教学を語るうえではまったく画竜点睛を欠くというほかありません。

愚にもつかない門派意識など捨てて、注法華経と、金綱集に取り組むべきであろうと思います。まず、そのためには仰るように、資料の整備からということになります。

わたしは存じ上げませんが、興風談所では、この2書について、どんな言及が為されているのでしょうか。

589パンナコッタ:2005/10/25(火) 15:30:25
やはり五人所破抄をまともに受け取っているからでしょう。しかし、何で日頂の行動に
富士系の現代人が文句を付けているのか不思議になってしまいます。

ちなみに興風談所のQ&Aでは、
Q1 「五輪九字秘密釈」「円多羅義集唐決」などが表示さません。
A1 現在御書システムでは、写本類を収録していません。「円多羅義集唐決」や
「五輪九字秘密釈」等についても、写本ということで、註法華経や諸要文集とともに未収になっています。
Q2 「白木御返事」は真蹟がある御書なのに表示されません。
A2 「白木御返事」も含め、近年、新出の真蹟には御書システムに収録していないものがあります。
今後、検討したうえで収録していきたいと思います。
Q3 御書の現代語訳表示はできますか。
A3 御書システム2005年版a より、一部の御書について、現代語訳に対応いたしました。今後、バージョンアップごとに
現代語訳対応の御書を追加していく予定です。

  との事。やはり検索機能の利便性は代えがたい物があります。

590れん:2005/10/25(火) 21:00:37
横レス失礼します。
注法華経については山中師「定本注法華経」がありますが、これは絶版で東陽堂あたりでないと出ないとおもいます。私の手元にあるのは東陽堂で入手した本満寺発行の「私集際最要文注法華経」上下巻です。
「図録 日蓮聖人の世界」には−入魂のご持経『注法華経』−の項目で注法華経についてふれられています。
金鋼集については、興風第十一号 「日興上人全集」正篇編集補遺 に
−「金鋼集」そのもの、特にその附録・雑録の成立およびその流伝形態に関しては全くの疑問無しとはしないが、今は極めて日向師に近い上代の作品と規定して置きたい−
とあります。私見では、金鋼集の原本は日向の編纂と考えますが、写伝される過程で補筆等の後人の加筆が加えられた可能性はあると思います。身延山には日蓮自筆の莫大な量の仏典写本があったと聞きますが、明治の大火で焼失してしまったことで、注法華経や金鋼集との関連を知ることが出来なくなったのは至極残念なことです。

591彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/25(火) 21:03:29

>586 犀角独歩さん
> 稲田海素師の『御本尊写真鑑』
「蓮祖及び門下の曼荼羅について」 のスレッド57を参照ください。
ここでいう『御本尊寫眞帖 全』(=『御本尊写真鑑』)はかつて私が国会図書館でコピーしたものが手元にあります。
それのコピーを犀角独歩さんに送ります。日顕法師授与御本尊も入っています。ちょっと写りは悪いですけど。現在国会図書館で『御本尊寫眞帖 全』はマイクロフィッシュ(マイクロフィルム)になっており、写りは極めて悪く資料として使えるレベルではありません。私のものはマイクロフィッシュになる前のコピーと思いますので何とか使えます。
併せて「御本尊集目録」の第63番本尊の注記を参照ください。

しかし心無いことをする人がいるものですね。図書館の本は人類の共通財産であるということがわからないのですかね。

>この破り取られた写真の裏が次の写真の解説になっているために、こちらは文が失われています

該当箇所の文は
「大聖人御年五十九即弘安参年庚辰貮月彼岸第六番身延山ニ於テ書シテ藤原清正ニ授興リ給タル三枚續ノ御真蹟ニシテ京都本宗本山妙覚寺ノ霊寶ナリ」(引用者注:一部現代かな使いに改めました)
で、第73番本尊の解説です。

彰往考来

592犀角独歩:2005/10/26(水) 00:18:36

> パンナコッタさん、御書システムのご案内、有り難うございます。
わたしは個人的には、現代語訳はどうでもいい気がするんですが、それより、注法華経を、という気分です。


> れんさん、お久しぶりです。ご案内、有り難うございます。
わずかな蔵書のなかで、ご案内の書は手元に置いていました。実によく編集されており、一般、初学者にも解りやすい良書ですね。注法華経については、掲載の立正安国会の複製本から正本が偲ばれます。(P80)

ただ、ここに載る解説は、なんだか他人事のようで、注法華経に積極的に取り組もうという意気込みが伝わってこないのは残念でした。

あと、弁明臭いのですが、わたした金綱集を重書と言ったのは、注法華経と密接に関わっているからです。仰るよう、後加文その他の峻別研究も十分に究明されなければなりませんね。その点で賛同いたします。


> 彰往考来さん、有り難うございます。

既に独学徒さんと議論されていらっしゃったところと重なったわけですね。
よく人に過去ログを読みなさいと言っておきながら、つい最近のことにうっかりしてお恥ずかしい限りです。

ご送付のこと、お手数をおかけします。有り難く拝受させていただきます。
また、失した文章をご案内いただき、併せて感謝申し上げます。

一点、確認なのですが、「…授興リ…」は、文脈からすると、「…授與シ(授与し)…」ではないかと思うのですが、どうでしょうか。

593犀角独歩:2005/10/26(水) 08:02:41

参考までですが、『御本尊写真鑑』に載る、以下の模写は見事だと思いました。

もし、花押まで模写され、右下に「日等花押」となければ、一見では御筆と見間違えそうです。

稲田師が記す解説は、なかなか物騒でした。
漫荼羅盗難という話題は、よく出てきますが、信仰対象を盗んだら御利益は消えてなくなると考えられそうなものなのですが、昔の人にはそんな発想はなかったのでしょうか。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/nitto_mosha_nikejuyomandara.html

594れん:2005/10/26(水) 11:47:46
犀角独歩さん
注法華経と金鋼集の関連ですが、注法華経は日蓮滅後早い時期に身延から日昭のもとに移蔵してますから、私見では注法華経と日向の接点は日蓮在世の身延であると思います。よって金鋼集の草稿の成立は注法華経を参考資料に日蓮在世の身延で、ということになろうかと思います。その意味で金鋼集は後人の筆が加わるも、独歩さんの仰るとおり重書であることは動きません。
注法華経には、三ヶ所ほど異筆があり、山中師は日興筆と推定していたようです。この異筆が日興筆であることが確定するならば、日蓮の注法華経の編纂作業に日興が加わっていたことになり、それはそれで興味深く思います。
日等写本は日蓮筆の模写としては大変秀逸ですね。私は寺尾師の著書からコピーしましたが、私も中山からの日蓮曼陀羅類の盗難は身延の大火による日蓮真筆の焼失とともに、非常に惜しく思います。

597犀角独歩:2005/10/26(水) 21:22:04

れんさん、ご教示有り難うございます。

そうですか、異筆は日興の可能性があるのですか。

なにか、日蓮在世の身延、また、その門下の有様の想像を逞しくさせるところがありますね。

日蓮の注法華経を手に取った講義、最長老の日昭が控え、訥々とその聞き書きをまとめる日向、その校閲を日興がし、不足を書き込んだ…、本当に憶測を超えるものではありませんが、六老分裂という嘆かわしい事態以前の、日蓮を中心とする弟子たちの往時がそうであったのであれば、すばらしい光景であると思います。そんな当時に思いを馳せることができました。
有り難うございました。

598彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/26(水) 22:40:56

>592 犀角独歩さん
>「…授興リ…」は、文脈からすると、「…授與シ(授与し)…」ではないか
私もちょっと変だとは思うのですが、原本は明かに“リ”ですね。

599犀角独歩:2005/10/26(水) 23:04:08

彰往考来さん

‘リ’ですか。有り難うございました。

600彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/28(金) 07:39:47

>593 犀角独歩さん
>もし花押まで模写され、右下に「日等花押」となかったら・・・

寺尾英智師の『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』(平成9年、雄山閣出版、真蹟の形態と伝来と略します)によれば、日等師はこの御本尊の花押も模写していて『日蓮大士御判写』に納められています。その写真は『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』の89頁で公開されています。

日等師は中山法華経寺の蓮祖御本尊を5種類6幅(1幅は重複)模写していますが、593で紹介された日家授与漫荼羅以外は日蓮在御判と記されています。
不思議なことに稲田海素編『御本尊写真鑑(御本尊写真帖)』には5種類の日等模写御本尊のうち、日蓮在御判とない日家授与漫荼羅だけが入集しているのです。稲田氏は日興門流から指摘される恐れのある日蓮在御判とある4幅の御本尊を『御本尊写真鑑(御本尊写真帖)』に載せなかったのではないかと私は推測しています。
日等師が在御判とお書きになった意義はわかりませんが、犀角独歩さんがご指摘されているように蓮祖御本尊とみがまうばかりの素晴らしい出来です。私は後世のものが御真筆とすることがないように、花押を書かず在御判と記すことで書写であることを明確にされたのではないかと拝しています。

>稲田師が記す内容・・・物騒・・・漫荼羅盗難

山中喜八師の「房総に現存する日蓮聖人の自筆文書について」(千葉県郷土史研究連絡協議会編『郷土研叢書Ⅱ 日蓮 房総における宗派と文化』(昭和55年、千秋社、217頁)に、
「市川市中山の法華経寺は、おびただしい真蹟御書を所蔵するのに対し、大漫荼羅は一幅も現存しないので、いささか奇異の念を抱かしめるものがあるが、同寺三世日祐師の「本尊聖教事」(略称『祐師目録』。定本遺文第三巻に収載)や、日観師の『正中山法華経寺御霊宝目録』等の古記録によれば、同寺には古来八幅乃至十二幅を儲蔵していたことが明かであり、明治三十二年五月、盗難にあって全部を失ったものである」とあります。
また、『御本尊鑑 遠沾院日亨上人』(昭和45年、身延山久遠寺、193頁)に「明治三十二年五月七日盗難に依って「一夜に失われて了った」とあります。

601彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/28(金) 07:40:29

>594 れんさん >597 犀角独歩さん
>注法華経には3箇所ほど異筆があり山中師は日興筆と推定

『山中喜八著作選集Ⅱ 日蓮聖人真蹟の世界 下』(平成5年、雄山閣出版、5頁、以下「真蹟の世界 下」と記します)に
「この十巻の表裏に注記したまえる経論釈の要文は、合計二千百七章(4)の多数に上り、日興師の筆と想われる三章(5)を除けば、他は悉く聖人の御自筆である。
〔注〕
(4)連続して同一書を引かれた場合でも「又云」と標したものは別章に数え、表題のみのものもこれを一章と見做し、聖祖の附加せる設問または標目等は章数に加えなかった。
(5)他筆による注記は、第一巻に般若経(一−七)、第二巻に大品経(二−一七八)、第四巻に大論(四−一二三)の各一章ずつが存する。なお括弧内の数字は、定本注法華経が附した御注記番号である。」とあります。

「真蹟の世界 下」に入集している「定本注法華経解説」は、昭和55年に法蔵館より刊行された山中喜八編著『定本注法華経』(上下二巻)からの転載です。

この「定本注法華経解説」の前半部分は『大崎學報 第109号』(昭和34年、立正大学仏教学会、43頁)の山中喜八氏による「注法華経私考」と内容的には同じです。但し随所に推考の跡があります。上記引用箇所と同じ部分は「注法華経私考」(44頁)では
「この十巻の表裏に注記したまえる経論釈の要文は、筆者の数えるところでは(3)合計二千百○七章の多数に上り、第一・第二及び第四巻に存する各一章ずつの他筆を除けば、他は悉く聖筆によって埋め尽くされている。

(3)連続して同一書を引かれた場合でも「又云」と標したものは別章に数え、表題のみのものも之を一章と見做し、設問又は標目の祖語は章数に加えなかった。」とあり、特に「真蹟の世界 下」で“日興師の筆と想われる”の箇所が「注法華経私考」では“他筆”となっています。

宮崎英修・茂田井教亨編『日蓮聖人研究』(昭和47年、平楽寺書店、461頁)に「注法華経について」と題する論文が入集していますが、「注法華経私考」を下書きにして推考した形になっていて「定本注法華経解説」の前半部分と「注法華経について」はよく一致します。「注法華経について」で上記相当部分がどうなっているかというと、
「この十巻の表裏に注記したまえる経論釈の要文は、合計二千百○六章(4)の多数に上り、日興師の筆と思われる三章(5)を除けば、他は悉く聖人の御自筆である。
〔注〕
(4)連続して同一書を引かれた場合でも「又云」と標したものは別章に数え、表題のみのものもこれを一章と見做し、聖祖の附加せる設問または標目等は章数に加えなかった。
(5)他筆による注記は、第一巻に般若経(一−七)、第二巻に大品経(二−一七八)、第四巻に大論(四−一二三)の各一章ずつが存する。なお括弧内の数字は、清書本注法華経が附した御注記番号である。」とあり、「定本注法華経解説」と「注法華経について」とは数えた章数が一章異なる点、“想われる”と“想われる”の差、『定本注法華経』と『清書本注法華経』など枝葉の如き差しかありません。

602犀角独歩:2005/10/28(金) 08:48:29

まず、先のわたしの投稿

> その校閲を日興がし、不足を書き込んだ…、

というのは、やや不適切な表現でした。単に「日興が書き込んだ」とするほうが、まだ適切であったかも知れません。

> 600〜601

彰往考来さん、いつもながら、克明なご教示有り難うございました。
殊に、日等模写と稲田師の配慮のご観察、興味深く拝読しました。

注法華経のこと、これはれんさんにもお尋ねしたいところですが、日興が書き込みをしたタイミングは、いつのことなのでしょうか。日蓮の在世、はたまた、身延の廟に置かれ、日昭が持ち去るまでの間でしょうか。

先に取り上げた小林是恭師『二明王の曼荼羅』に「それにしても添書をする日興なる者」(大崎学報 112 P31)という表現があり、目を引きました。実はわたしも、はじめて日興が日蓮真筆漫荼羅ほかに書き込み(添書)をしていた事実を知ったとき、強い違和感を覚えたものでした。石山僧に問うたところ、「日興上人は僧宝にましまして、日蓮大聖人と一体の関係にある唯受一人血脈相承を受けているわけだから、日興上人のみがその権能を有する」云々といった説明を受け、当時、石山信念体系にあり、納得したのです。

しかし、今となっては、やはり、この日興の書き込みには違和感があります。裏書きでも、脇書きでもなく、聖筆に交えて書き込むことに対する嫌悪感です。もちろん、このことは上古から既に問題になっていたようで、『富士一跡門徒存知事』にも

「一、日興弟子分の本尊に於ては一々皆書き付け奉る事、誠に凡筆を以て直に聖筆を黷す事最も其の恐れ有りと雖も、或は親には強盛の信心を以て之を賜ふと雖も子孫等之を捨て、或は師には常随給仕の功に酬いて之を授与すと雖も弟子等之を捨つ。之に依って或は以て交易し、或は以て他の為に盗まる。此くの如きの類其の数多きなり。故に賜はる所の本主の交名を書き付くるは後代の高名の為なり」

という弁明から窺えます。ですから、多の五老門派ではどう感じているのか興味がありました。よって、小林師の言は「やはり」という感じでした。

仮に、注法華経への日興書き込みが蓮師滅後の彼の期間であったとすれば、それを見咎めた日昭が慌てて聖筆保護のために持ち去った…等という類推は当たらないものでしょうか。もちろん、まるで思いつきです。お二方のご賢察を伺いたく思います。

なお、質問の趣旨とは、別に思い出したところを、書き付ければ、中尾師は、この日興の御筆漫荼羅への書き込みと『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』から、

御筆漫荼羅授与は、日興教化の弟子檀那から日興へ、日興から日蓮へと手継ぎを経て願い出、授与者本人が死去、退転をした場合は日興の元にいったん、戻され、そこで、添書をし、あらたな意義付けをして、再授与されていた…、と説明されていました。

まあ、そのための添書であっても、裏書きで十分ではないのかという思いはやはり拭えません。

603れん:2005/10/28(金) 19:07:35
注法華経の日興書き込みの時期…
私見では、日蓮在世、注法華経編纂時とみることも可能と存じます。というのも石山蔵の日蓮真蹟「諫暁八幡抄」第三十二紙から第三十三紙の間に十行程日興が代筆した箇所があることから、注法華経においても日蓮の編纂作業中において日興が代筆した可能性も無きにしもあらずと思えるからです。
日蓮図顕曼陀羅における日興添書については、中尾師のご見解が妥当と思います。私が94年に実見した日興書写曼陀羅(埼玉本法寺蔵)に弟子(日目と推定されている)が添書した例があり、日蓮の曼陀羅に日興が添書したように日興の曼陀羅に弟子が添書した史実があります。これも、中尾師の説の如くであろうと思います。日蓮が書した文字に対する信仰が定着した後世においては、日蓮の筆に異筆が交じることは不快に感じることも止む終えないと思いますが、日蓮や日興の曼陀羅における「…申与之」の添書は、それぞれ許可・許諾のもと、その在世に行われたと見るべきと思いますから、ことさらに問題視することもないと思いました。

604犀角独歩:2005/10/28(金) 19:52:31

れんさん、ご教示、有り難うございます。

> 許可・許諾のもと

なるほど。説得性のあるご教示でした。

このような例は、他の五老方の門派でもあったことなのでしょうか。

605れん:2005/10/28(金) 20:52:49
犀角独歩さん
現在公開されている資料で、私の管見にはいったものでは、日昭・日朗・日向・日頂・日持並びにその門下の曼陀羅に日興ならびにその門下の如き曼陀羅添書の例は無いようです。

606犀角独歩:2005/10/28(金) 21:10:21

れんさん、有り難うございます。

以上のことからすると、日興は、少なくとも文書漫荼羅に関して、日蓮から特別な許可を得ていたと考えられますでしょうか。

607れん:2005/10/28(金) 22:01:18
犀角独歩さん
日興は日蓮が図顕した曼陀羅の内、日興が教化した弟子・檀越のために日蓮に申請して下付された曼陀羅に添書する“許可・許諾”は師僧日蓮から得ていたと思いますか、現存する日蓮真蹟資料によるかぎり、日興は文字曼陀羅について何らかの“特別な許可”なるものは受けていなかったと考えております。これは他の老僧も同様と存じます。

608れん:2005/10/28(金) 22:18:25
蛇の足一本を加えるならば、現存する各種の日蓮自筆の経釈の要文類には日興のみならず、日蓮執筆部分に交じって他の門下の執筆(代筆?)部分がありますから、特に、日興だけが文書に関して特別な許可を得ていたというわけではないと考えます。

609犀角独歩:2005/10/28(金) 22:33:50

れんさん、重ね重ねのご教示、有り難うございました。
たいへんに参考になりました。

610彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/30(日) 15:59:52

>603 日蓮や日興の曼陀羅における「…申与之」の添書は、それぞれ許可・許諾のもと、その在世に行われたと見るべき
れんさん、
私は興師の蓮祖御本尊への添書時期は蓮祖滅後ではないかと考えています。もちろん蓮祖在世当時のものがある可能性を否定できませんが、すべてを在世当時のものとするには下記疑問点があります。
(1)興師の「弟子分帳」に記載がないのに、添書のある御本尊が存在し、第53番本尊などは蓮祖滅後と思われる興師の添書であること
(2)興師の「弟子分帳」に記載がありながら、添書のない御本尊が存在すること
の2点です。
まず(1)の「弟子分帳」に記載がないのに興師添書のある御本尊が存在することです。これは高木豊師がすでに指摘しています(『研究年報 日蓮とその教団 第4集』所収、「日興とその門弟」34頁)が、6幅(うち1幅曽存)あります。
(一)第12番本尊・・・「佐渡国法花東梁阿仏房彦如寂房日満相伝之」
(二)身延曽存(文永11年11月)・・・「因幡国富城五郎入道日常息寂仙房申与之」
(三)第53番本尊・・・「因幡国富城五郎入道息伊予阿闍梨日頂 舎弟寂仙房付嘱之」
(四)第55番本尊・・・「因幡国富城寂仙房日澄母尼弘安三年九月申与之」
(五)第100番本尊・・・「紀伊国切目刑部左衛門入道相伝之 子息沙弥日然譲与之」
(六)第111番本尊・・・「遠江サカラノ小尼給本尊也」
の6幅です。
これらは、「弟子分帳」の成立した永仁6(1298)年以後の添書であると考えると辻褄はあいます。詳細にみてみましょう。

(一)の第12番本尊ですが、“阿仏房彦(阿仏房のひ孫)日満”とあることから、蓮祖在世中の添書記載は有り得ないでしょう。
(二)の身延曽存の本尊ですが、“日常”とあることから、蓮祖滅後の添書と示唆されます。菅原関道師が指摘しているように「確実な資料による限り、富木日常の名乗りは永仁3年図顕の本尊が初見 」(『興風 第11号』平成9年、興風談所、365頁)であるからです。
(三)の第53番本尊ですが、弘安元年8月に頂師に授与されたものです。ここにはとの興師の添書があります。
頂師の富士への帰伏は正安4(1302)年とされ((『富士年表 』昭和56年、富士学林、62頁)、他)、寂仙房日澄の富士への帰伏は頂師帰伏の2年前の正安2(1300)年(『富士年表 』61頁、他)で、澄師は延慶3(1310)年3月14日寂((『富士年表 』67頁、他)です。頂師の寂年は文保元(1317)年(『富士年表 』70頁)ですから頂師が亡くなった後澄師に第53番本尊を付嘱されたのではないことは明白です。従って第53番本尊の澄師への付嘱、すなわちこの添書記載は頂師が富士に帰伏した正安4年になされたのではないかと推測するわけです。
(四)も上記(二)、(三)を考えると、同じ頃の記載ではないかと推測します。
(五)、(六)も永仁6年以後のものであることを否定できる内容ではありません。
次に(2)の「弟子分帳」に記載がありながら添書のない御本尊が存在することです。これも高木豊師が上述の論文ですでに指摘していますように日弁師に授与された第63番本尊で、「弟子分帳」には「富士下方市庭寺越後房者日興弟子也。仍所申与如件。但弘安年中背白蓮了」とあります。「弟子分帳」の記載から、当然第63番本尊に興師の添書があってしかるべきですが、弘安年中には弁師は興師の袂を離れていたわけで、興師の添書がないのは添書が蓮祖滅後に書かれたものであるからという考えを支持します。

以上のことから、蓮祖御本尊の興師添書のうち少なくとも何点かは蓮祖滅後の時期に書かれたと判断されます。

by 彰往考来

611彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/31(月) 07:28:35

>610 訂正です。

誤:(三)の第53番本尊ですが、弘安元年8月に頂師に授与されたものです。ここにはとの興師の添書があります。
正:(三)の第53番本尊ですが、弘安元年8月に頂師に授与されたものです。ここには「舎弟寂仙房付嘱之」との興師の添書があります。

612れん:2005/10/31(月) 12:09:29
彰徃考来さん。
ご教示、深く感謝しております。
勿論、日蓮図顕曼陀羅における日興の添書は、師日蓮の滅後になされたものも存することは存じ上げております。
私が、日蓮在世に日興が添書したと考える日蓮曼陀羅の記載は以下です。
本尊集第二六「南条兵衛…所申与如件」(別紙)
同第三二「富士西山…日興申与之」
同第三二の二「日興祖父河合入道申与之」
第六0「日興」(大廣目天玉の玉の點の中に残存)
第七六「富士下方…所申立如件」
第九二「甲斐国…申与之如件」
第九八「富士上方…日興」第一0四「富士上野…申与之」
第一0七「甲斐国…仍申与之」
第一一六「遠江サカラノ小尼給本尊也」
御本尊集収録のものでは、以上の添書以外は、上記の曼陀羅の他の日興添書を含め、彰徃考来さんのご指摘の通り、日蓮滅後の添書と考えます。
何れにしましても、私の舌足らずで、彰徃考来さんに、ご指摘の労をなさしめてしまったこと、深くお詫びするものです。

613彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/31(月) 12:36:09

>612 れんさん

なるほど、この10幅が在世の添書と考えておられるわけですね。
よく解りました。ありがとうございました。
ただ、私は第一一六「遠江サカラノ小尼給本尊也」(610で第111番本尊としたのは誤記でした。すみません。)については、在世であるかどうか確証はないと考えています。
高木師も滅後のものというご見解であったと記憶しています。

今後ともよろしく。


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