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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について
356
:
伊野 健太
:2004/10/20(水) 19:08
控字本尊 ?
花押のみが、弘安時のボロン型の容(かたち)で後は、薄く、遠くからは
首題やその他が読み取れないと記憶しています。10年前に拝観したので、
よくは、覚えていませんけど。
357
:
勉強中
:2004/10/21(木) 11:31
れんさん申し訳ございません、私は執事さんの説明を聞き入っていたのみで、そこまで気を配ることができませんでした。
私が拝見しましたものは、伊野さんがご提示して下さいましたものと同じものでございます。
私はこの控字本尊の花押と、定善寺文書69番の「日蓮大聖人御判物」(宮崎県史 中世1 P611に写真掲載)とがかぶってしまいます。
定善寺に伝わる「日蓮大聖人御判物」は、控字本尊の偽作に使用されたのではないかとすら感じております。
358
:
れん
:2004/10/21(木) 13:49
勉強中さん・伊野健太さん、ご教示有難う御座居ます。
勉強中さん、控字曼陀羅の花押が定善寺文書の「日蓮大聖人御判物」の花押とかぶるのですか、宮崎県史のコピーが手元にありますが、定善寺の「御判物」は残念ながら一見して蓮師の筆跡とは思えません。そうしますと、控字曼陀羅自体が定善寺の「御判物」と同様に偽作の可能性が出てきますね。この点も記憶に留めつつ、来年の妙本寺さんの御虫払い法要に行こうと思います。勉強中さん・伊野健太さんご教示有難う御座居ました。
359
:
伊野 健太
:2004/10/21(木) 15:12
その時のお能化さんの話では、広布の暁には、籠文字のなぞられた所を
本化国主がうめられる、なんて聞きましたが。事実そんな事はないそうですが。
360
:
伊野 健太
:2004/10/21(木) 16:17
定善寺文書69番「日蓮大聖人御判物」(宮崎県史 中世1 P611に写真掲載)
は、大行授与と明記されている点で、南条時光の関係が考えられます。
保田駅の裏には、南条時光の菩提を供養する寺院が今も日蓮宗の寺院として(保田
妙本寺末)存在していますので、偽筆と考えるのも果して如何なものかと思います。
361
:
勉強中
:2004/10/21(木) 23:48
れんさん御教示いただいているのはこちらです。いつもありがとうございます。
伊野さん、以前空き缶さんも仰られていましたが、執事さんと貫首さまとでは伝統や伝説に対する態度に若干違いがあるのでしょうね。
ところで妙本寺周辺の日蓮宗寺院はほとんど機能している感じがしませんね。
伊野さん御指摘の日蓮宗寺院は大行寺のことでしょうか?
362
:
伊野 健太
:2004/10/22(金) 13:38
お能化さんは、妙本寺に伝わるいわれや伝統を大事にされる方ですね。
昔にお会いしてからは、十数年前の事ですから、今はどうなっているかは
わかりませんけど。執事という方は知りません。
363
:
通りすがり
:2004/11/22(月) 19:06
鎌倉の妙本寺所蔵の曼荼羅、日蓮直筆と判明 /神奈川新聞から
鎌倉市大町1の妙本寺(加藤日暉貫首)の所蔵する曼荼羅(まんだら)1幅が、日蓮の直筆であることが判明し同寺が19日、発表した。日蓮の直筆曼荼羅は戦前から127点確認されている。今年5月、新潟県三条市の本成寺で約半世紀ぶりに直筆曼荼羅が発見されており、同寺の曼荼羅で129点目になる。
曼荼羅は、縦49・1センチ、横31・1センチの1枚の楮紙に油煙墨で書かれている。中央に「南無妙法蓮華経」、周囲に法華経に出る仏や菩薩、守護神の名が記されている。曼荼羅には、日付と与えられた弟子の日行の名、日蓮の署名と花押がある。調査した中尾尭・立正大名誉教授は「筆跡と紙質などから日蓮の直筆に間違いない」と説明した。
曼荼羅は、仏教の世界観を表現した図。画像で表現された物が知られるが、日蓮は文字で表現したという。この曼荼羅は本来、同市小町1の大巧寺が所蔵していたが、江戸時代初期に徳川家ゆかりの妙本寺に渡ったようだ。表装には葵の紋が描かれている。このため、日蓮直筆の曼荼羅はすべて「宗宝」に指定されているが、表に出ず、今まで「直筆」とされていなかったという。
364
:
れん
:2004/11/22(月) 20:39
通りすがりさん、情報有難うございます。鎌倉妙本寺の日行授与曼陀羅は鎌倉遺文にその相貌が翻刻されています。図顕年月日は「弘安二年太才己卯十一月日」授与書は「沙門日行授与之」です。相貌は帝釈天が釈提桓因王となっており、阿闍世大王・大龍王が勧請されているほかは、京都立本寺蔵の沙門日永授与曼陀羅と同じです。但し、図顕讃文が鎌倉遺文では佛滅度後ではなく「佛滅後」になっており、これが御筆誤や鎌倉遺文の誤植の類でなければ、弘安二年十一月までは蓮師は曼陀羅讃文に「佛滅後」と「佛滅度後」を併用していたことになりますでしょうか。神奈川新聞にこの曼陀羅の写真は掲載されていますでしょうか?取り敢えず明日図書館で神奈川新聞をみてみます。
365
:
通りすがり
:2004/11/22(月) 21:39
れんさん、今晩は
妙本寺文書という、寺寶の図解が詳細に出ている本が東大史料編纂所の図書室
で閲覧出来ると思うので、確認して見て下さい。
【書目ID】 186384
【史料種別】 刊本
【請求番号】 1015-617
【書名】 妙本寺文書
【著者名】
【出版事項】 鎌倉: 比企谷妙本寺, 2002.4
【形態】 178p ; 27cm
大きさ: 27cm
【注記】 監修: 中尾堯, 寺尾英智.
妙本寺文書で確認しましたら、佛滅度後になっていますね。
366
:
犀角独歩
:2004/11/22(月) 23:55
横レス失礼します。
日行授与漫荼羅は、通りすがりさんが仰るとおり『妙本寺文書』の27頁に載っていますね。
わたしはこの大漫荼羅の写真を見て、第69大漫荼羅との相似性に目を見張りました。
一見するだけではうり二つという印象です。同漫荼羅は弘安2年11月、今回、真筆と中尾師が鑑識した大漫荼羅は12月、時期からして、似ていて当然ということになるでしょうか。
しかし、
・「經」字の筆法
・大持国天玉の「玉」の点
・大増長天玉の「玉」の点
・讃文の字並び
などの点で異なりがありますね。
特に讃文は
第69
仏滅度後二千二百
二十余年之間
一閻浮提之内
未曾有大漫荼
羅
也
行師授与
仏滅度後二千二百
二十余年之間
一閻浮提之内
未曾有大
漫荼羅
也
の差が認められます。
わたしは正直に記せば、今回、真筆とされた大漫荼羅は第69大漫荼羅の模写かと思っていました。まあ、しかし、中尾師が真筆とお墨付きを下したのですから、ここではとやかく言わないことにします。
367
:
犀角独歩
:2004/11/23(火) 00:12
余談ですが、『妙本寺文書』、この編集方針は実に真摯であると感心しました。
いま話題になっている弘安2年12月大漫荼羅の頁で例を挙げれば、
「3 日蓮聖人曼荼羅本尊 弘安二年十二月日付 一幅(49.1×31.3)
沙門 日行
授与之
弘安二年太才己卯十二月日
(表具貼紙(1))
此弘安二年蓮祖御筆本尊、相州鎌倉
大行寺霊寶三幅逐一也、観理院日勤
修補之節加裡書矣
(表具貼紙(2))
修補之施入
山田傳蔵
武運長久
(箱蓋表)
第四番
第五番 瓔珞 大行寺分
弘安二年十一月 沙門日行
御本尊
弘安四年八月 摩尼女
(同裏)
長慶山巧寺正覺院常住
朗師漫荼羅箱 日玄(花押)
此箱寄進主佐原三右衛門尉」(27頁)
となっています。実に誠実、且つ厳正な編集で貫かれており、好感が持てます。
368
:
通りすがり
:2004/11/23(火) 17:18
鎌倉比企谷妙本寺にある真偽未詳の御本尊にも、真蹟に間違いないと考慮すべき
曼陀羅も今後の研究が必要だと考えます。
369
:
れん
:2004/11/23(火) 17:58
通りすがりさん、神奈川新聞を図書館で見ましたら、神奈川新聞11月22日号に記事がありました。やや不鮮明ながら写真も掲載されてました。見える御筆は沙門日永授与の曼陀羅にそっくりですね。また、この御筆写真で図顕讃文が「佛滅後」ではなく「佛滅度後」であることが確認できました。竹内理三氏編「鎌倉遺文」の「佛滅後」は明らかに誤脱ということになりますね。「妙本寺文書」の出版元はどちらでしょうか?お教え戴ければ在庫があれば取り寄せたいと思っています。
犀角独歩さん、神奈川新聞の写真では図顕年月日が確認できませんが、ご投稿によれば「弘安二年太才己卯十二月日」とのこと、鎌倉遺文には「十一月日」とありましたので、これも鎌倉遺文の誤植のようですね。ご教示有難うございました。
370
:
オオミヤ
:2004/11/23(火) 19:02
犀角さんは真筆曼荼羅といわれるものには常に辛口ですねえ。
371
:
通りすがり
:2004/11/23(火) 19:53
妙本寺文書は、非売品で妙本寺側でも縁故の法縁寺院や一部分の限られた
方のみの文書ですので、頒布はしていません。
東京大学史料編纂所の図書室で閲覧出来ますので、目的事項・研究団体を
明記の上、往復ハガキにて照会してみて下さい。
【書目ID】 186384
【史料種別】 刊本
【請求番号】 1015-617
【書名】 妙本寺文書
【著者名】
【出版事項】 鎌倉: 比企谷妙本寺, 2002.4
【形態】 178p ; 27cm
大きさ: 27cm
【注記】 監修: 中尾堯, 寺尾英智.
372
:
れん
:2004/11/23(火) 20:12
通りすがりさん、ご教示ありがとうございました。時間ができましたら東京大学史料編纂所に問い合わせてみます。
375
:
犀角独歩
:2004/11/25(木) 01:00
れんさんには『妙本寺文書』をご覧いただかなければいけませんね。
376
:
犀角独歩
:2004/11/25(木) 08:12
自己レスです。なにか誤解を招くような言い回しになってしまいました。
375は、れんさんに是非『妙本寺文書』をご覧いただきたいという意味です。
379
:
大勇者
:2004/12/14(火) 16:41
犀角独歩さん
「日蓮聖人と最蓮房」という本とHPが話題になっているのですが、
http://www.houonsha.co.jp/shoseki.html
学会系の出版らしいです。
「最蓮房宛ての御書は実は日興師へのもの」という説のようです。
別に、最蓮房は「藤原能茂」説など興味深い。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/03/03_096.htm
ところで、今後の学会の御本尊の変更など有り得るのかと愁うところですが、
最蓮房への真筆御本尊というのは現存いたしますのでしょうか?
もし現存しており、日興師=最蓮房という解釈出来るのであれば、「富士門流」の
御本尊と言う理論展開は可能なのでしょうか?
宜しければご教示下さいませ。
380
:
犀角独歩
:2004/12/14(火) 18:24
大勇者さん:
> 「日蓮聖人と最蓮房」
> 学会系の出版らしいです。
それはそうでしょうね、報恩社ですから。
> 「最蓮房宛ての御書は実は日興師へのもの」という説
そうですか。荒唐無稽な話ですね。
何でも都合よく話を作ると笑い話以上の意味を持たなくなります。
まあ、日蓮門下にとって最蓮坊とその宛名遺文は本物であって欲しいという気持ちだけはわかります。
> …最蓮房は「藤原能茂」説
石川修道師ですか。この方は研究姿勢は好感が持てます。
> 今後の学会の御本尊の変更など有り得るのかと愁う
愁いますか。何故でしょうか。学会は今後とももっと積極的に教義・本尊・化儀を改変しなければ自己矛盾から脱却できないでしょう。なにも石山住職書写本尊なんかに拘る理由は何一つ残っていないでしょう。日蓮漫荼羅・唱題を卒業して出来上がりとわたしは本気で思っています。
> 最蓮房への真筆御本尊というのは現存
この件は、わたしは存じ上げません。
れんさんをはじめ碩学の方のご教示を賜りたくお願い申し上げます。
ただ、最蓮坊という名の実在人物はいたかも知れませんし、その方が漫荼羅を授与されている可能性もあるでしょう。しかし、架空の人物、偽書であれば、名が同じでもまったく関係がない点は指摘しておきたいと思います。
わたしは現時点では最蓮坊架空人物、該当御書は偽書と考えております。
> もし現存しており、日興師=最蓮房という解釈出来るのであれば、「富士門流」の
御本尊と言う理論展開は可能なのでしょうか?
以上の理由から、このような理論展開は甚だ不可というほかありません。
言葉は悪いですが、与太話の類としか映じません。
381
:
れん
:2004/12/14(火) 19:57
最蓮房への真筆御本尊…。これについては、私も存じ上げません。最蓮房宛の蓮師遺文とされるものの内、立正観抄とその送状については身延三世日進師と富士日目師弟子日朝師の古写本が現存します。
立正観抄進師本奥書「正中二年乙丑三月於洛中三條京極最蓮房之本御自筆有人書之今干時正中二年乙丑十二月二十日書写之也、身延山元徳二庚午卯月中旬重写也」
送状進師本奥書「正中二年乙丑十二月廿日今元徳二年庚午卯月十二日於身延山久遠寺重写之也」
立正観抄朝師本「法華止観同異決」の題号の下「他門徒御書為稽古所持之也」
送状朝師本奥書「貞治三甲辰仲夏三日書写畢執筆日朝」
進師本は身延山蔵、朝師本は茨城富久成寺蔵。
進師本の奥書を見る限り、最蓮房という名の蓮師門弟は実在したでしょうが、蓮師孫弟子の古写本が存する立正観抄は一応は信頼できるものの、その他の最蓮房宛の遺文については、学問的には殆どは後世の偽作と見た方がよいようです。ですから、最蓮房宛の蓮師遺文=日興宛云々は荒唐無稽というべきでしょう。以上ご参考までに。
382
:
犀角独歩
:2004/12/14(火) 20:57
れんさん、ご教示、有り難うございました。
名前の利用、偽作模造の世界の常套手段と言うところでしょうか。
383
:
大勇者
:2004/12/14(火) 21:23
犀角独歩さん。れんさん。
ご教示ありがとうございます。
勉強なりました。
384
:
愚鈍凡夫
:2004/12/14(火) 23:15
れんさん、先日はレス有り難うございました。最近、忙しくて少々タイム・ラグがあります。 (^^ゞ
「弥四郎」の次は「最蓮房」ですか・・・・・。日蓮教学を学ぶ者を愚弄していますね。
┐(-。ー;)┌ヤレヤレ
活字にするのなら、希望的観測ではなく、証拠を提示した上で、論理展開するべきだと思います。
これでは、純真に教学を学ぶ創価学会員に対しても無礼です。
385
:
れん
:2004/12/15(水) 19:28
愚鈍凡夫さん。
活字にするのなら、希望的観測ではなく、証拠を提示した上で、論理展開するべきだと思います…
私も愚鈍凡夫さんのお言葉に同感です。希望的観測だけで持論を展開しても、証拠がなければ無駄な論考になってしまいます。少なくとも学問的批判に耐え得るしっかりしたものを世に問うべきですね。でなければ、根拠無き論考を鵜呑みにした末端の人々が‘破折’されるのが関の山ですから。
最蓮房宛蓮師遺文=興師宛という論考は、その発想はまぁオモシロイですが、私が提示した立正観抄朝師写本(この朝師は目師弟子)の中の朝師の「他門徒御書」の書き入れで根拠が崩れてますね。最蓮房宛の遺文が興師宛ならば立正観抄を興師の孫弟子が「他門徒御書」と誌す筈はありませんから。
386
:
れん
:2004/12/15(水) 19:46
おっと、ご挨拶が遅れました。
犀角独歩さん。こちらこそ独歩さんの御投稿から、数多くのことを学ばせて戴いております。御学恩に感謝申し上げております。
大勇者さん、初めまして。私の拙い投稿が参考になったのなら幸いです。
387
:
大勇者
:2004/12/16(木) 13:40
れんさん。犀角独歩さん。
恐縮ですが、
もうひとつ教えて頂きたいのです。
最蓮房日浄(1308年没)は、下山本国寺に墓銘あり開基とされているようなので、
実在ははっきりしてる人物と思って居りました。
最蓮房=日浄というのも疑わしいのでしょうか?
宜しくお願い致します。
388
:
れん
:2004/12/16(木) 18:13
大勇者さん。ご指摘の現在の山梨県南巨摩郡にある長栄山本国寺は、平泉寺という寺を改めたものと言われています。石山蔵興師筆曼陀羅脇書に「甲斐国下山平泉寺為一周忌」とあり、富士一跡門徒存知事に「甲斐国下山郷兵庫五郎光基氏寺平泉寺」また、三位日順師の摧邪立正抄に「甲州下山若嶋内建一宇号平泉寺、干時下山兵庫五郎光基所領也、有住僧名日永」とあります。以上の史料から平泉寺は下山抄を蓮師より戴いた下山兵庫五郎光基の氏寺であることが分かります。蓮師在世の時は因幡公日永師が住僧を務めており、最蓮房とは直接関係ないようです。身延三世日進師の立正観抄写本の奥書を見る限り、最蓮房は京都に居住し、そこで亡くなかったようですから、本国寺の最蓮房の墓碑は後世に作られた伝承に基づいて造られたものでしょう。
なお、最蓮房の法諱日浄は写本蓮師遺文「得受職人功徳法門抄」が初見です。まぁ写本遺文ですから、真書か否かは分かりませんが、暫定的に最蓮房の法諱は日浄としてよいと思います。
389
:
れん
:2004/12/18(土) 19:23
訂正。
誤)「甲斐国下山平泉寺為一周忌」
正)「徳治二年卯月八日、甲斐国下山平泉寺為尼一周忌」(典拠は日興上人御本尊集 一、御本尊目録)
390
:
名無し@富士門流
:2004/12/27(月) 16:39
>379
>最蓮房への真筆御本尊というのは現存いたしますのでしょうか?
>もし現存しており、日興師=最蓮房という解釈出来るのであれば、「富士門流」の
>御本尊と言う理論展開は可能なのでしょうか?
京都要法寺に日興上人へ授与された本尊がありますよ。
「御本尊集」不掲載の真偽未決ですけど。
「問答第一行戒智徳筆蹟符法沙門日興授与之」との授与書きが入っているそうです。
「付法沙門日興授与之」という授与書きが入ったものもあるそうで。
う〜ん、一度みてみたい。
来年は京都行こうかな!
391
:
大勇者
:2004/12/28(火) 00:26
名無し@富士門流 さん
れんさん
参考なりました。
ありがとうございます。
392
:
犀角独歩
:2004/12/28(火) 23:02
> 「問答第一行戒智徳筆蹟符法沙門日興授与之」
これが本物であったらすごいですね(笑)
とは言うものの、本物であると思っていた時期が、実はわたしはありましたが(汗)
393
:
名無し@富士門流
:2004/12/28(火) 23:50
犀角独歩さん、今晩は。
>これが本物であったらすごいですね(笑)
やっぱり・・ですか、それでは交通費の無駄になってしまいますかね。
ま〜行っても見せてくれないかもしれませんしね。
もう一つの「付法沙門日興授与之」はどうなんでしょうか?
なにやら要法寺の「柴宸殿本尊」は、この二つのどちらかをそう称しているようですね。
「問答第一〜」がNGなら、「付法沙門〜」が「百六箇抄」に記された「日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」の、要法寺随一の曼荼羅で、かつ「柴宸殿本尊」と称されるものなんでしょうか。
394
:
犀角独歩
:2004/12/29(水) 10:11
393 名無し@富士門流さん、東京は雪になりました。
件のこと、わたしはあまり確かなことがいえません。
名無し@富士門流さんのほうがお詳しいことと存じます。
れんさん、通りすがりさんのご意見をうかがいたいと希望します。
ただ個人的には「付法」だなんだというものは、疑ってかかる習慣がついています(笑)
397
:
れん
:2004/12/29(水) 16:50
犀角独歩さん・名無し@富士門流さん、京都要法寺蔵の文永九年と建治二年の興師授与と記された曼陀羅については、御筆写真が公開されてないこともあり、真偽未決としか言えませんね。身延山にも、明治八年の大火で開目抄等の蓮師御真筆類とともに焼失してしまいましたが、要法寺僧侶富谷日震師の著述「日興上人正傳」によると「弘安五年太才壬午八月三十日、付法第一智徳沙門日興授与之」とある曼陀羅が身延山に曽存したことを記録しています。日蓮宗さんで出している年表にも弘安五年八月三十日の事項に「宗祖、日興に大曼陀羅を授与す」とあり、当曼陀羅を真筆に準じた扱いをしているような感じですが、しかしこれも、相貌が伝えられていませんので何ともいえませんね。信用できる興師へ授与の蓮師御筆曼陀羅としては、興師授与と伝承される保田妙本寺さんの‘大本尊’や石山四世日道師の三師伝に見える‘弘安二年’の‘日興上人’と記された曼陀羅位ではないでしょうか。
398
:
犀角独歩
:2004/12/29(水) 22:38
れんさん、有り難うございました。
399
:
彰往考来
:2005/01/01(土) 16:39
京都要法寺蔵の日蓮大聖人筆御本尊について〔1〕
京都要法寺には何幅の日蓮大聖人の御本尊が所蔵されているのでしょうか?
『<日本仏教基礎講座 第7巻>日蓮宗』(昭和53年、雄山閣出版、180頁)には「日蓮本宗」の項があり日蓮本宗の宗宝が紹介されています。それによると4幅の日蓮大聖人の御本尊所蔵が認められます。同書の「日蓮本宗」の項は加藤玄承氏の執筆によるもので同宗の公式見解に準ずるものと考えてよさそうです。同書の「宗宝」の項には、
「○日蓮大聖人真筆御本尊
一、符法本尊 (紺地金襴表装)
脇書 左 建治二年太歳丙子正月元日
右 符法沙門日興授興之
軸 長さ 二三二糎 幅六九・五糎
本体長さ 一三八・七糎 幅五一・三糎
一、称徳本尊 (紺地金襴雲鶴模様表装)
脇書 左 文永九年太歳壬申正月元日
右 問答第一行戒智徳筆跡符法沙門日興授興之
軸 長さ 二一七糎 幅七二・六糎
本体長さ 一○四糎 幅四九・二糎
一、紫宸殿本尊 (朱地古金襴牡丹模様表装)
脇書 年月日等不詳
軸 長さ 一八一糎 幅六四・二糎
本体長さ 八三・五糎 幅四○・二糎
一、帰命本尊 (朱地古金襴表装)
脇書 右 文永□□年太歳七月十三日
左下 沙弥日目授与之
軸 長さ 一九二・五糎 幅七三・三糎
本体長さ 八九・八糎 幅五二・七糎
仏部より天部まで南無を冠す。
日興上人筆曼荼羅本尊十四幅をはじめ本山歴代の先師の本尊等、宗祖大聖人、日興上人、日目上人、日在上人等の絵像等あり。
(以下、略) 」
とあり要法寺蔵紫宸殿御本尊の記載があるのが注目されます。
さて、山中喜八氏編集による『御本尊集目録(平成二年七月訂補四版)』には58番目に京都要法寺の御本尊が入集しています。それによると、御顕示年は空欄(不明)で、幅尺は丈二尺七寸六分(八三・六センチ) 幅一尺三寸三分(四○・三センチ)〔絹本〕とあります。
上記の4幅と対比するに、脇書に御顕示年月日がみられないことと、本体寸法が合致すること(1ミリの差がありますが目録のほうは尺寸からの換算ですのでよく一致するといってよいでしょう)から京都要法寺蔵紫宸殿御本尊は『御本尊集目録』の58番目と判断されます。この御本尊以外の3幅は『御本尊集目録』に入っていないので、偽筆もしくは模写の類である可能性が濃厚といえます。
なお堀日亨編『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』(昭和53年、創価学会、207頁)には京都要法寺蔵日蓮大聖人筆御本尊は、文永九年の称徳本尊のみ入集していますが、この御本尊は御真筆であるかどうか疑義があります。それについては追って投稿します。
by 彰応考来
400
:
犀角独歩
:2005/01/01(土) 18:03
「絹本」で真筆ですか。紺紙金泥(金襴)以上に、真筆とは信じ難いところです。
401
:
愚鈍凡夫
:2005/01/01(土) 21:16
「紙幅」と「絹本」の漫荼羅に、特別な違いはあるのでしょうか?
ひょっとして、信者からのたっての願いで、
「絹本でなきゃやだぁ」 “o(>ω< )o"ヤダヤダ!!“o( >ω<)o"
なんて・・・・・、宣う御仁がいたのでしょうか? ( ̄Д ̄;;
402
:
犀角独歩
:2005/01/01(土) 22:09
愚鈍凡夫さん、新年のご挨拶を申し上げます。
『御本尊集目録』、また桐谷師の論考などを読んでも、蓮師は楮紙を使用していますね。草木成仏という筋目からいくと蚕の糸で作った絹本だとおかしなことになりませんでしょうかね。絹本、紺紙金泥とか贅を尽くした材というより、もっと実質を採ったのが蓮師の有様ではないでしょうか。
だいたい、蓮師に「某に下さる御漫荼羅は、ぜひとも絹本でお願いします」なんて言ったら、「じゃあ、遣らぬ」で終わってしまうのが、この性格でしょう。湯治のついでにお目通りを願った信者を追い返すほどですからね。
403
:
愚鈍凡夫
:2005/01/02(日) 10:57
あっ、犀角独歩さん。明けましておめでとうございます。
そうですよね。
「あの〜っ、で、できれば、絹本に漫荼羅を書いて頂けませんか」 (;^_^A アセアセ…
なんて宣うと、
「アホ・ボケ・カス! オノレは破門じゃ! 二度と来るなぁ!!」
なんて叱責されそうですよね。
ところで、犀角独歩さんは下記の漫荼羅について、偽作の可能性が高いとお考えでしょうか。ご教示願えれば幸いです。
番 号 №011
図 顕 1273(文永10)年6月
授与書 沙門天目授与之
所 蔵 京都府妙満寺
寸 法 縦165.1㎝・横77.3㎝
絹 本
番 号 №058
図 顕 1278(弘安1)年?
讃 文 「仏滅度後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵 京都府要法寺
寸 法 縦83.6㎝・横40.3㎝
絹 本
404
:
犀角独歩
:2005/01/02(日) 22:46
これはまた、愚鈍凡夫さん。何か真偽眼の試験でもわたしに課しているのでしょうか。わざと『御本尊集目録』の『備考』を省いて紹介するとはなかなか(笑)
「(備考)
本集第120 京都本隆寺寶蔵 弘安5年卯月2日の御本尊にも『沙門天目受与之』とある。『受與』の語が他に類例なく、兩つながら、『沙門天目』授與に限ることは、異としなければならぬ、之に關して、日常聖人直授と傳える「御本尊授與書證文相傳」は、
既ニ大聖人御自筆等ニ授與ノ二字之在(リ)、其中ニ天目模ノ御本尊ニ沙門天目受與之云云。
と言い、また
一、天目本尊ノ授與書ノ事。云云。沙門天目受與之云云。此七字ハ謀筆也ト責(ム)可(キ)也。其故ハ受與ノ受ノ字ハウクルト云(ウ)字也。サヅクルハ能化ニ附ク。ウクルハ所化ニ附ク。授與ノ二字能(ク)能(ク)心得可(キ)也。
等と論じている。(「本尊論資料」第2編154頁)」(16頁)
405
:
犀角独歩
:2005/01/03(月) 12:21
自己レスです。
404は、第11漫荼羅についてです。
第58漫荼羅も、わたしは御筆であるとは、個人的には思っていません。
要山といったところで絹本というのが如何にもという気がするわけです。
たとえば、学会では古くなった学会成就本尊を模刻して板に改めたわけでした。
これは石山の中世以降の遣り方を倣ったわけですね。
たぶん、都では紙幅を絹本に模するということがあったんじゃないでしょうか。
これはもちろん、憶測ですが。
上古、漫荼羅はどんなふうになされていたのか、表装されていたんでしょうか。
まあ、されていた気はします。この表層も金襴は贅があり、本紙が絹本であればなおさら。さらに紺紙金泥となるればさらに豪華。それをさらに板に彫って黒漆に金箔であればさらに豪華。しかし、華美を誇れば誇るほど、蓮紙の御筆からはかけ離れますね。
むかしチベットのパンチェンラマ特集をテレビで観たんですが、生きているところから、逝去して塩漬けにされて、内臓を抜いて、肌に金箔を塗り、玉眼を入れて出来上がるのが、いわゆる活仏でした。それを堂内に並べて礼拝の対称にしているんですね、チベット仏教では。テレビですから、生きているときのパンチェンラマから映していて、最後、塩漬けして干した皮に金箔を塗られたミイラを観たとき、その生前との差に愕然とするものがありました。わたしは、これを見て直ちに想起したのは御筆と黒漆金箔の漫荼羅本尊の差異でした。
作るほうは贅を尽くし豪華絢爛にしたつもりでも、元のままには勝らないわけです。
御筆漫荼羅を見慣れると、黒漆金箔板本尊は実に奇妙に映じます。
まあ、愚鈍凡夫さんへの答えになっていないかもしれませんが、楮紙面を叩いて滑らかにし一挙に滑らせた運筆と、配置まで適当に動かして、文字を彫り落としてしまった板本尊、絹本やら、金襴やらで飾りつけた作品は、蓮師のお筆からどうにも遠ざかったものとわたしには映じます。まあ、そんな判断から絹本を偽筆と即断するわけではないのですが、蓮師と贅は整合性を感じないのが正直な思いです。
406
:
愚鈍凡夫
:2005/01/03(月) 12:54
犀角独歩さん、レス有り難うございます。
> 何か真偽眼の試験でもわたしに課しているのでしょうか。
別にそういう意味ではないのです。 (;^_^A アセアセ…
なんとなく、蓮祖が漫荼羅に他の素材を使用した事例は皆無なのだろうかと、ふと疑問の虫がつぶやくものですから・・・・・。
407
:
犀角独歩
:2005/01/03(月) 18:31
愚鈍凡夫さん:
> 蓮祖が漫荼羅に他の素材…皆無…ふと疑問
まあ、たしかにそんな疑問はあってしかるべきですよね。
それはもちろんそうですね。
塔婆、板碑、板直筆、石塔その他諸々…、どうなんでしょうね。
いまのところ、それを支持する資料はないように思えますね。
408
:
愚鈍凡夫
:2005/01/03(月) 19:15
犀角独歩さんの
>>405
のレスにあった表装について、疑問の虫に促されるまま、何となく思いつきで調べてみたのですが、1紙の漫荼羅が意外に多いのに驚きました。
52舗もあるんですね。
これらの漫荼羅は御守りとして授与されたのでしょうか?
番号
001,002,003-1,003-2,003-3,004,005,006,008,010,012,025,028,029,038,039,040,047,049,056,066,070,072,074,075,077,078,079,080,084,085,086,087,088,090,091,094,096,097,098,099,100,104,106,108,109,111,112,113,114,115,116
大漫荼羅とこれら1紙の漫荼羅とはどのような差があったのでしょうか。やはり、「信心の厚薄によるべし」といったことなのでしょうか?
それとも、当時貴重であった紙を有効に使うためでしょうか。
409
:
犀角独歩
:2005/01/03(月) 20:03
愚鈍凡夫さん、これは面白い疑問の立て方ですね。
漫荼羅図示の用途って、詳細についてちゃんと答えられる人は、誰一人としていないだろうとわたしは思っています。ただ、挙げられた一紙もの8割方は四大天玉がなく・韻文が見られるなど、その用途は御護と見受けられますね。しかし、そうでないものもあります。何によって大きさが決まっていったか、やはり願いによるのでしょうか。そうなると絹本も願える…、まあ、そうも言えましょうか。腕の達つ人と詰め将棋を遣っている気分になってきました。うーん、むずかしい。
他の方のご賢察をお伺いしたいものです。
れんさん、どうでしょうか。
410
:
れん
:2005/01/03(月) 20:53
愚鈍凡夫さん・犀角独歩さん。確かに曼陀羅図示と用途については、確かに難しい疑問ですね。何ぶん蓮祖が一紙曼陀羅と十界円具の‘大曼陀羅’についてその図示と用途について明言した御真筆がありませんから私も何とも答えられない疑問です。ただ愚鈍凡夫さんのご指摘にありますように、当時紙は必需品ながら貴重品でもあり、なかなか入手出来ない時もあったと考えられますから、たまたま檀越から供養されて蓮祖の手元にあった?絹布が紙の代用品として用いられたということも可能性は1%位はあるような感じはします。天目師授与?の文永の絹本曼陀羅や要法寺の絹本曼陀羅が蓮祖の御真筆か否かについては、科学技術を用いた鑑定・すなわち放射性炭素の測定による年代測定法で分かるかもしれません。
411
:
犀角独歩
:2005/01/04(火) 02:13
れんさん、有り難うございます。
供養の品で、なるほど、その可能性はあるかもしれませんね。
結局、しかし、決め手は科学的分析、賛同します。
ここのところ、蓮師御筆が次々と‘見つかる’?ニュースが相次ぎますが、まあ、この手で仰るような検査がまったくといってよいほど、行われない蓮師門下一般の在り方には疑問が残ります。
…絹本漫荼羅が、要山、もしくは同じ京都に集中している点は、一つの鍵になろうかと思います。
412
:
彰往考来
:2005/01/04(火) 13:54
犀角独歩さん
>400
>「絹本」で真筆ですか。紺紙金泥(金襴)以上に、真筆とは信じ難いところです。
そうなんです。山中氏の『御本尊集』には入集しているものの疑問があるところです。
日蓮聖人画像を見ても絹本は室町時代以後ではないでしょうか。
茨城県高萩市にある願成寺蔵の日蓮聖人画像も絹本でしたが、明らかに室町時代の画風でした。
413
:
犀角独歩
:2005/01/04(火) 14:25
彰往考来さんも、そのようにお考えになりますか。
そうですよね、やはり。
414
:
彰往考来
:2005/01/07(金) 07:42
京都要法寺蔵の日蓮大聖人筆御本尊について〔2〕
399の続きです。
京都要法寺の紫宸殿本尊を『御本尊集目録』の58番目としますと、それ以外の3幅の御本尊は公開されていないので確認はさらに困難ですが、一部の御本尊については疑義を提示した資料があります。それらについて紹介します。
【1】称徳本尊についての資料
山川智應著『本門本尊論』(昭和48年、淨妙全集刊行會、213頁)
京都の要法寺に在る御本尊は、十界がスツカリ羅列してある。さうしてその脇のところに、『文永九年太歳壬申正月元日』とあり、左の方に『問答第一行戒智徳筆跡苻法沙門日興ニ之ヲ授興ス』とある。これは實物を拜すると、なかなか聖人の御眞蹟によく似た字で書いてある。私は二十五歳の頃に拜見して眞蹟であらうとおもつた。ニ、三年前に石版刷になつたものをみたが、なかなかよく大聖人の御筆に似てはゐる。けれども斯様なものは容易に信ずることはできない、第一に文永九年正月元日というといふのは、「開目抄」より已前である、「本尊抄」より已前である。第二に『行戒智徳筆跡苻法』といふ賛辭を入れられてゐるところにも、すこし疑わしいところがあると申さねばならぬ。
(中略)
また興師授興のもの(引用者注:称徳本尊)は、京都の要法寺にあるのだが、要法寺は興師の弟子日尊師の開基であるし、由緒においては問題はないが、この興師頌徳の本尊なるものが、要法寺にあるといふことの、古い正確なる記録といふものが缺けてゐる。若しも日尊師が、興師から付属せられたものであるならば、付属状なりその記録なり傳説なりが、「尊師實録」なりそれに近い上古のものになくてはならぬが、それがどうしても見えぬようであるのから推考すると、容易に無條件に肯定することが出来ないのは當然のことであろう。況して頌徳苻法などといふことを、大曼荼羅にお書きになるなどといふことをば、直ちに信ずることはどうも出来にくい。況して「開目抄」以前に、本尊の圖顯などといふことは、法義上あり得べきことではない。どうしても朗門との對抗的の造作でないかと疑はれる、研究を要する。
この資料は開目抄以前の本尊の図顕がないとするなど現状と異なる点があると考えますが全体としては、まあ的を得た考えと思うのですが皆さんはどうでしょうか?
by 彰往考来
415
:
名無し@富士門流
:2005/01/08(土) 11:47
>414
今日は、彰往考来さん。
山川師の指摘は、「開目抄」前に十界勧請の大漫荼羅は図顕されていないという意味でしょうね。
所謂「佐渡始顕本尊」より前に、十界勧請本尊があるとするのは疑問なのでしょう。
私もこの正月中に、不鮮明ながらも「称徳本尊」の相貌を目にする機会があったのですが、一見すると建治元年十二月期から建治二年一月期ごろの相貌のような感じがします。
四天王が小さく書かれていることや、首題の下左右に「日蓮 花押」と書かれているところなど、身延曾存といわれ日亨模写本として残る、「御本尊鑑」第15番掲載の建治元年十二月本尊が一番近いように感じられます。
首題の筆法などは、もう一つの模写本である、日等臨写本の建治元年十二月期本尊と、日亨師のそれとは違いがありますので、あくまでも全体のレイアウトによる予測に過ぎませんが。
いずれにしましても、「文永九年」の本尊とは考えられないことは濃厚だと思います。
416
:
彰往考来
:2005/01/08(土) 12:20
>415
名無し@富士門流さん、
そうですか。建治元年12月頃の筆跡ですか。文永9年ごろでは
ないわけですね。
今後ともよろしくお願いいたします。
417
:
れん
:2005/01/08(土) 17:55
名無し@富士門流さん・彰徃考来さんお二方のご投稿のお陰で、京都要法寺蔵の称徳符法本尊の内実が随分と見えてきましたね。文永九年一月の時点で蓮師が十界円具の曼陀羅を図顕というのは現存蓮師真蹟から考えても考えられないですね。蓮師の文永のバン字花押形態は文永十年四月の観心本尊抄送状を境として空点が点或いは棒状のものからカギ型に変化しており、山中師の御本尊集入集のもので言えば一番・二番・八番は花押の空点の形態から文永十年四月以前の図顕、三番〜七番ならびに九番・十番・十二番の無記年の曼陀羅は花押の空点がカギ型であることから、文永十年四月以降の図顕に係るものと推定されます。要山の文永九年の称徳符法本尊は名無し@富士門流さんのご教示によると建治元年十二月の蓮師図顕の大曼陀羅に相似するということなので、まず偽作と見て間違い無いようです。偽作の背景は彰徃考来さんが引用された山川師の論考にある通り、京都日蓮門で主流であった朗師門対策といったところでしょうね。なお、山川師が真蹟として扱っている身延曽存の佐渡始顕の曼陀羅も、身延亨師の写本の注記には絹本と記されており、絹本では皆さんのご指摘の如く、蓮師真蹟とするのは厳しいですね。確実な蓮師図顕の大曼陀羅で十界を図顕されたものは山中師の御本尊集の十三番の文永十一年七月の大曼陀羅を初見とすべきで、この点からも、文永九年の年記にかかわらず十界円具の相貌を有する要山の称徳符法の曼陀羅は偽作の可能性が非常に高いと判断されますね。
418
:
名無し@富士門流
:2005/01/08(土) 23:27
>417
れんさん今晩は。
しかし相伝書は作る、本尊も作るでは・・・いまさらながらですが。
今となっては、朗門で「日朗御譲状」を作ってくれたのが、せめてもの救いです。
419
:
彰往考来
:2005/01/10(月) 08:06
名無し@富士門流さん、
貴スレッド418のご意見に同意するものです。
なお、朗門と尊門の偽筆御本尊を年代順に並べると交互に登場するという奇妙な面があります。
文永5年10月13日(仙台仏眼寺蔵)(日興上人の筆に大聖人が華押を為されたるもの)
文永6年6月4日(野尻亥十郎蔵)「大法師日朗ニ之ヲ興フ、末法第一ノ行者也」
文永9年正月元日(京都要法寺蔵)「問答第一行戒智徳筆蹟符法沙門日興受興之」
文永10年4月8日(塚原根本寺蔵)「末法第一ノ行者法印大阿闍梨日朗、符法ノ見タルニ依テ本尊之ヲ授興ス」
建治2年正月元日(京都要法寺蔵)「筆蹟符法沙門日興受興之」
どうも京都で朗門と尊門が対立した結果、どんどん古い年代のものが偽作されていったのではないかと思えるほどです。
<参考資料>
日目上人奉賛会『御本尊集 奉蔵於奥法寶』(平成12年覆刻版、日目上人奉賛会)
堀日亨編『富士宗学要集 史料類聚〔1〕』(昭和53年、創価学会)
山川智応『本門本尊論』(昭和48年、浄妙全集刊行會)
渡辺宝陽・中尾尭編『日本仏教基礎講座 第7巻 日蓮宗』(昭和53年、雄山閣出版)
村上有信編『妙宗先哲本尊鑑全二冊』(明治17年、村上勘兵衛)
by 彰往考来
420
:
名無し@富士門流
:2005/01/14(金) 16:36
彰往考来さん、いつも貴重な資料の紹介ありがとう御座います。
しかしがっかりしますね。
421
:
彰往考来
:2005/01/16(日) 17:11
北林芳典著『日蓮と最蓮房』の13章に日蝕について事実誤認があります。それは「天文学的に計算すれば、遡って日蝕の起きた日を算出できるんだ。それによると、「愛染感見記」が「拝見」の日付としている建長六年正月一日には日蝕など起こっていない。またその前後を調べてみても、日蝕があったのは建長五年二月一日、正嘉元年五月一日だ。しかも建長のものは記録になく、正嘉のものは『吾妻鏡』に「卯の刻に日蝕正見せず」と記されている。両方とも、天候の関係でまったく観測できない日蝕だったようだ。」という箇所です。
確かに『吾妻鏡』には建長六年正月一日と建長五年二月一日及び正嘉元年五月一日に日蝕があった記事はありませんが、建長四年二月一日に日蝕のあったことが『吾妻鏡』に記載されています。貴志正造訳注『全譯 吾妻鏡 第五巻』(1977年、新人物往来社)によれば、建長四年二月一日の項に「一日 乙卯 天晴る。巳の一點、日三分正現す。」(139頁)とあり、訳者による頭注に「日蝕」と書いてあります。北林氏が『日蓮と最蓮房』で日蝕記事の根拠としてあげている渡邊敏夫著『日本・朝鮮・中国 日食月食宝典』(1994年復刻版、雄山閣)にも309頁に建長四年二月一日の日蝕はちゃんと記載されているのです。正嘉元(1257)年は建長六(1254)年の3年後ですから北林氏が“(建長六年の)前後を調べて”としているのは建長六年に対して前後の数年を意味しているのは明らかです。
このことから、『日蓮と最蓮房』では建長四年二月の日蝕を見落としていると考えます。『日蓮と最蓮房』で「建長のものは記録になく」とされるのは『吾妻鏡』の建長五年二月の項だけをみればそうですがこれでは少々お粗末です。北林氏とそのスタッフは先行研究や関連資料の精査が杜撰ではないでしょうか。
では『吾妻鏡』での日蝕記事はどうなっているのでしょうか? 天文学者の斉藤国治氏は『吾妻鏡』に載った日蝕記事をまとめています(斉藤国治著『古天文学の道』1990年、原書房、53頁)。それによりますと『吾妻鏡』には20例の日食記事(渡邊氏や斉藤氏は“日蝕”ではなく“日食”と表現されています)がみられ、建長四年二月一日と正嘉元年五月一日はその20例中のものです。斉藤氏の同書には「鎌倉での食の概食(食分)」を記載していますので以下にこの2例のみを引用します。
旧暦 鎌倉での食の概食(食分)
建長四年二月朔 深食正見(0.91)
正嘉元年五月朔 曇天不正見、実は夜日食(北米で皆既)
となっていて、建長四年のものは、斉藤氏が同書で「記事に日食正見とあり、計算からもそれが証明される日食は 五例」 とされたもののひとつで正嘉元年のものは、「計算上からは「夜日食」となり、鎌倉では見られない日食は 六例」 とされたもののひとつです。
『全譯 吾妻鏡 第五巻』の正嘉元年五月一日の項には、「一日 乙卯 陰る。卯の尅、日蝕、正見せず。」(294頁)とあります。たしかに当日鎌倉地方は曇りで観測できなかったようですが実際は斉藤氏が計算されているように夜日食で日本では見えず日蝕予報がはずれたというのが真相です。従って『日蓮と最蓮房』で「天候のためまったく観測できない日蝕だった」というのは厳密には誤りです。正嘉元年五月一日は晴れていても日本では日蝕はなかったのです。当時すでに日蝕予報がされていたことは『吾妻鏡』の記事に「貞永元年四月一日辛亥、今日日蝕あるべき旨、宿曜備中法橋これを申す」(『古天文学の道』54頁)とあることから明らかで、『吾妻鏡』の記載内容の分析から斉藤氏は当時の的中率を50%(同書53頁)とされています。的中率が低い理由も同書に記載されていますがここでは割愛します。
『吾妻鏡』の記載は鎌倉での日蝕記事であり、建長四年頃日蓮大聖人は比叡山などに遊学の最中でした。あくまで「愛染感見記」が御真筆である前提での話ですが「愛染感見記」を拝見していますと、私には日蓮大聖人が日本のどこかで建長四年の皆既日蝕をごらんになられたのではないかと思えてなりません。
日本の首都で近年中に皆既日蝕が見られるのは2035年9月2日です。このとき食本影は茨城県のへんを通り、東京は食分0.99ほどの部分食(斉藤国治『星の古記録』1997年第3刷、岩波新書、41頁による)とのことです。この斉藤氏の『星の古記録』には「竜ノ口の法難」の際の光物や「依智の星下り」に対する天文学者としての解釈なども書かれています。少なくとも北林氏の“学説”よりはずっと科学的です。一読をお勧めいたします。
by 彰往考来
422
:
愚鈍凡夫
:2005/01/16(日) 19:09
以下の日蝕の資料は「不動・愛染感見記」に関連して以前に調べたものです。ここの掲示板にも投稿した内容です。もし、訂正があれば宜しくお願いします。
蓮祖と日蝕
ユリウス暦---------------グレゴリオ暦----旧暦--------聖寿
1222(承久4)年02月28日----03月07日--------02月16日----01(誕生)
◎1223(貞応2)年09月26日----10月03日--------09月01日----02
1227(嘉禄3)年07月15日----07月22日--------06月01日----06
1233(天福1)年10月05日----10月12日--------09月01日----12
1237(嘉禎3)年12月19日----12月26日--------12月01日----16
◎1243(寛元1)年03月22日----03月29日--------03月01日----22
1245(寛元3)年07月25日----08月01日--------07月01日----24
◎1249(建長1)年05月14日----05月21日--------04月01日----28
1252(建長4)年03月11日----03月18日--------01月30日----31
1260(正元2)年04月12日----04月19日--------03月01日----39
1265(文永2)年01月19日----01月26日--------01月01日----44
1268(文永5)年11月06日----11月13日--------10月01日----47
1271(文永8)年09月06日----09月13日--------08月01日----50
1272(文永9)年08月25日----09月01日--------08月01日----51
◎1275(建治1)年06月25日----07月02日--------06月01日----54
◎1277(建治3)年10月28日----11月04日--------10月01日----56
1282(弘安5)年08月05日----08月12日--------07月01日----61
1282(弘安5)年11月14日----11月21日--------10月13日(入滅)
423
:
愚鈍凡夫
:2005/01/16(日) 19:13
申し遅れました。◎は皆既日食です。悪しからず。 m(_ _)m
424
:
愚鈍凡夫
:2005/01/16(日) 19:22
再度、済みません。説明不足です。
ユリウス暦---------------グレゴリオ暦----旧暦--------聖寿
1222(承久4)年02月28日----03月07日--------02月16日----01(誕生)
1282(弘安5)年11月14日----11月21日--------10月13日(入滅)
この日付けは日蝕とは関係ありません。単に蓮祖の生誕日と入滅日を記しただけです。 m(_ _)m
425
:
彰往考来
:2005/01/17(月) 13:08
>422
愚鈍凡夫さん、
同じ視点でご覧になっておられる人がいるのですね。感心いたしました。
調査してご報告したいと考えます。
ところで、
>掲示板にも投稿した内容
とありますが、場所を教えていただけませんか?過去ログの量が多く、
とても全部拝見できません。
426
:
愚鈍凡夫
:2005/01/17(月) 14:45
竜口の光り物の話から発展して、「素朴な疑問」の
>>1573
〜
>>1609
あたりに鎌倉時代の天変地異、日蝕問題が話題になっています。
>>422
の表は、「素朴な疑問」の
>>1704
に投稿しています(「不動・愛染感見記」とは違う話題でした。ごめんなさい)。
427
:
顕正居士
:2005/01/17(月) 14:50
『不動愛染感見記』についてはWebに高森大乗さんの論考があります。
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents11.html
『感見記』への言及の初出は『祖師伝』のようです。重要文化財に指定されています。
建長6年の元旦に日蝕があったという記事が当時の文献には見当たらない件ですが、
「感見」という場合、その状況は次の3つのどれかです。
1 覚醒時の幻覚
2 明晰夢
3 夢想
虚空蔵菩薩より宝珠を賜ったのは夢想です。愛染明王感見は明晰夢の可能性がある
と考えます。明晰夢では五感の印象がほぼ覚醒時と変わりません。したがってリアルな
日蝕を見ることはあり得ます。以前に日蝕を見たことがあればですが。
妙法曼荼羅には釈迦多宝がなくても不動愛染は必ずあり、最初は首題と不動愛染だけ
だったのだから、『感見記』のような祖書があって然るべきです。『感見記』に違和感を
いだく理由は基礎的な単語の理解に混乱があるためかとおもいます。「真言」という語は
東密をさし、「天台」には台密を含みます。日蓮が円仁、円珍を批判したのは「理同事勝」
という評価で、東密の「顕劣密勝」の教判を暗黙に認めることになると考えたからです。
*原文は「蝕」でなく、虫扁に虫の字だという。この字は『異体字辞典』
http://140.111.1.40/main.htm
には見つからない。
http://www.geocities.jp/xianzhengjp/
428
:
名無し@富士門流
:2005/01/17(月) 16:59
私も高森師の論考には関心があります。
最大の関心事は、最下部の「※ 本稿の執筆にあたり、立正大学日蓮教学研究所副所長の小松邦彰氏、同研究員の都守基一氏、興風談所の菅原関道氏・坂井法曄氏より教示を得た。記して謝意を表する次第である。」だったりして。
脱線しますが、「竜の口のひかりもの」伝説は日蓮信仰を絶対的確信に導くお話しですね。
これが本当の話しなら、たとえ偶然の出来事といえども、法華経が釈迦の実説でなくとも、日蓮が本仏でなくとも、日蓮信仰は続くのでしょうね。
429
:
名無し@富士門流
:2005/01/18(火) 00:30
自己レスですが、「竜の口のひかりもの」といえば、北林氏は「日蓮大聖人と最蓮房」の中で、「ひかりもの」の正体を究明?していましたね。
↓
http://www.houonsha.co.jp/nichisai/020.html
思ったより面白いですね〜
430
:
顕正居士
:2005/01/18(火) 04:09
寿永3年(1184年)の一の谷の合戦で捕虜になった平盛久は鎌倉に送られ、文治2年(1186年)に
由比ガ浜で斬首されることになった。しかし盛久の所持する経巻(観音経)が光りを放ち、土屋宗遠
は目が眩み、剣は真っ二つに折れてしまった。奇瑞に感じた源頼朝は平盛久を赦免したという。
この話は『平家物語』にあり、謡曲『盛久』で知られている。鎌倉に「盛久頚座」という史跡がある。
竜ノ口法難とその際の奇瑞については日蓮宗以外の文献には記録がない。奇瑞について記した
祖書は『種種御振舞御書』であるが、この書には古来真偽の論がある。したがって日蓮宗外では
竜ノ口法難そのものの存在が疑われて来た。しかし『開目抄』などの記述から頚の座と赦免という
史実はあったのだとおもう。奇瑞は平盛久の話から作られた可能性が高いとおもいます。
431
:
彰往考来
:2005/01/18(火) 07:19
愚鈍凡夫さん、
>426
過去に日食について色々議論されていたのですね。読んでいませんでした。(汗) そスレッドでの議論ではステラナビゲータも出てきて、この掲示板のレベルの高さを伺わせます。(再度、汗々)
>422
『古天文学の道』によれば、422の資料のうち『吾妻鏡』に日食記事の記載があるのは下記6点です。旧暦(( )内は西暦)で示します。422の資料の出典は不明ですが不正見と夜日食は除かれていますね。日本では日食がなかったのだから当然でしょう。内田正男編著『日本暦日原典〔第四版〕』(550頁)には、記録にある日食のOppolzer食表での計算結果のうち京都と鎌倉での食分が記載されていましたので併せて引用します。
旧 暦 鎌倉での食の概食 食分(京都/鎌倉)
貞応2(1223)年9月朔 深食正見(0.81) 8/8
嘉禄3(1227)年6月朔 浅食正見(0.12) 1/1
嘉禎3(1237)年12月朔 雨天不確認、実は深食(0.82) 8/8
寛元3(1245)年7月朔 深食正見(0.85) 9/9
建長4(1252)年2月朔 深食正見(0.91) 9/9
文永2(1265)年正月朔 雨天不確認、実は半食(0.68) 7/7
422では皆既日食を5点示されていますが、『日本暦日原典〔第四版〕』で食分(京都/鎌倉)が10/10(すなわち皆既日食)とされたのは5点のうち建長元年と建治元年の2回で、貞応2年は8/8、寛元元年は9/8、建治3年は9/9となっています。
『吾妻鏡』は文永3年までなので建治の2点は記録がありません。また建長元年も『吾妻鏡』は欠けているので当然記録がないなど完璧ではありません。
日食は太陽と月の交点の近くで朔になる時に起こります。従って旧暦では必ず朔(ついたち)の日が日食のある可能性のある日となります。飛鳥時代の記録などで三月二日など朔ではない日に日食が起こっている記録がありますが、これは当時使用されていた元嘉暦が平均朔望月をつかういわゆる「平朔法」であったためで、日蓮大聖人の時代は宣明暦でした。この暦は日月の運行に遅速のあることを考慮に入れた「定朔法」と考えられ、この場合には日食は必ず朔に起こります。事実『吾妻鏡』の記録でも建長4年は2月朔に日食の記載があります。故に422で建長4年1月30日とあるのは2月朔の誤り(ユリウス暦は3月12日になります)と考えます。
<参考資料>
内田正男編著『日本暦日原典〔第四版〕』(平成4年、雄山閣出版)
岡田芳朗『暦のからくり』(1999年、はまの出版)
斉藤国治『星の古記録』(1997年第3刷、岩波新書)
斉藤国治『古天文学の道』(1990年、原書房)
432
:
彰往考来
:2005/01/18(火) 07:21
自己レスです。
日蓮大聖人の御本尊は虚空会の儀式を表しているとよく説明されます。(例えば『日蓮大聖人御書辞典』(昭和51年、聖教新聞社、264頁))
たしかに首題を宝塔ととらえれば、釈迦牟尼仏と多宝如来を始め諸尊の観請はそうなのでしょう。(詳しいことはわかりません。あしからず) しかし不動明王と愛染明王は違うでしょう。しかも梵字でしたためてあるのです。この理由は?と考えたときに日蓮大聖人の強烈な宗教体験ではないかと思うわけです。(あくまで個人の意見です) そう考えると、不動愛染感見記は実に興味深いものなのです。但し、私の考えたようなことを説明するために後世に偽作された可能性もあります。私は不動愛染感見記の真偽判断はむずかしいと考えます。『日蓮と最蓮房』のように単純に偽筆と決めつけるには、もう少し説明が必要と思います。少なくともなぜ御本尊に不動・愛染が梵字でしたためてあるかを明確にしてから始めて偽筆だといいきれる環境になると考えます。『日蓮と最蓮房』ではそのようなアプローチもなく、間違った日食記事を基に議論しているのは滑稽でしかありません。
『御本尊集』に対する考えも間違っています。偽筆が入っていると指摘するなら、その理由を明確にするべきです。それをしないで、ただ、9番、18番、67番、114番、115番、その他十体前後がおかしいといっても犬の遠吠えにすぎません。まじめに研究している人への冒涜だと思います。
433
:
彰往考来
:2005/01/18(火) 07:30
顕正居士さん、
>427
ご紹介の高森大乗さんの小論は平成13年10月27日に実施された第54回日蓮宗教学研究発表大会で「日蓮聖人遺文『不動愛染感見記』小考」と題して発表された内容をまとめ直されたものと思います。
私は当日のご発表を拝聴いたしましたが、静岡県管引本成寺蔵の木版画『不動愛染感見記』では、『愛染感見記』の上部が切れていないのは、木版画が作成された当時切れていなかったのか、加筆されたのかは解らないとおっしゃっていました。ご発表では図絵の分析などもあり非常に興味深いものでした。
434
:
犀角独歩
:2005/01/18(火) 08:45
彰往考来さんは創価学会で教学を学んだのですか。
> 日蓮大聖人の御本尊は虚空会の儀式
この件に関しては過去に議論したことがありますが、『本尊三度相伝』、一度・本尊口伝に
「此の本尊大漫荼羅とは霊山一会の儀式を書き顕はす処なり」
と明確に示されます。また要山義でも
「日蓮霊山会上多宝塔中に於て、親り釈尊より直授し奉る秘法」
「霊山浄土多宝塔中久遠実成無上覚王の直授相承」
「久遠下種・霊山得脱・妙法値遇の衆生を利せんが為」
「脱益の説所と戒壇の本迹 霊山は本」
「久遠は下種、霊山は得脱」
等と言います。
これを漫荼羅本尊が虚空会を顕したなどと言うのは『人間革命』です。
古来よりの本尊書写相伝とは違っている独自教学?ですね。
余談ながら、「本門寺の戒壇は西面に立つ可き」と相伝されますから、南面に建てた正本堂は、彼山の言葉を持って言えば「不相伝」の建立であったわけです。
しかし、上述はともかく、『日蓮と最蓮房』への指摘は、たいへんに参考になり、その酷評は賛同するところ大でした。
435
:
犀角独歩
:2005/01/18(火) 09:08
久方の顕正居士さんの御投稿を拝読でき、年が明けた実感がようやくと沸きました。
有り難うございます。
また、たいへんに興味深い論考のご紹介、重ねて感謝申し上げます。
感見記の「日蓮授新佛」、この読みに関しても正鵠を得ているという感想を懐きました。「日蓮、新仏(子)に授ける」、もしくは「日蓮、新佛を授ける」でしょうか。
以前、この書が議論に及んだ際、わたしはこれは師資相伝の免許のようなものではないのかということを書いたわけです。高森師は、この点を述べて、昭師に係る辰師伝を紹介しながらも、蓮・興・目・郷の相伝譜に重きを置いている点が注目されました。となれば、この書を蹴る道師以後の相承は、亜流であるとなり、郷門こそ正嫡と読める点は興味深いものがあったわけです。
蓮師漫荼羅、秘された密儀、この点の興味を沸き立たせて已まない名論稿であると思った次第です。
436
:
顕正居士
:2005/01/18(火) 10:44
妙法曼荼羅はまずは虚空会の表現といえます。これは天台智邈の大蘇開悟の体験に由来するでしょう。
ゆえに首題は二仏並坐の宝塔をあらわす。しかしこの宝塔は又よそにあるものではなく衆生の仏性です。
宝塔の内容である釈迦多宝の境地冥合の智とは虚空蔵菩薩より賜った如意宝珠で、一念三千の教理
自体です。
「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠をつつみ、末代幼稚の頚に
懸けさしめたまふ」(『本尊抄』)
題目は袋であり一念三千の教理をつつんでいる。この意味では妙法曼荼羅は袋であり、首題は一念三千
をあらわす。宝珠自体である。だから「密観宝珠」であり、これを如意輪、不動、愛染の三尊であらわす。
妙法曼荼羅の意趣は顕教(教相)と密教(観心)との二重構造になっているのではないでしょうか。
「密観宝珠」
http://www.narahaku.go.jp/resources/kiyo/01/kiyo-01-02.htm
437
:
犀角独歩
:2005/01/18(火) 11:07
顕正居士さん、ご教示有り難うございます。
> 妙法曼荼羅はまずは虚空会の表現
の「まずは」という点を注視しました。
これが「天台智邈の大蘇開悟に由来」という点を拝受いたしました。
上行等に託された使命は滅後弘教ですから、虚空会付属に留まらず、後霊鷲山以降に重点が置かれるわけですね。ですから、二仏並座から、四菩薩脇士と言った有様はたしかに虚空会の儀式に相違ないので、たしかに「まずは」、そうであるというご教示と拝しました。
しかし、蓮師の漫荼羅を旗印にした化導は、まさしく滅後弘教であるので、これを霊山を標としないとただの空論に畢ることになります。
蓮師の直説であるというわけではありませんが、この点の教学系譜は『就・註法華経・口伝』が見事に表現しています。これはまた、先に挙げた本尊口伝とその趣を同じくしていると思えます。
第十四 時我及衆僧 倶出霊鷲山の事
御義口伝に云はく、霊山一会儼然未散の文なり。時とは感応末法の時なり、我とは釈尊、及とは菩薩、聖衆を衆僧と説かれたり。倶とは十界なり、霊鷲山とは寂光土なり。時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出づるなり。秘すべし秘すべし。仍って事の一念三千の明文なり。御本尊は此の文を顕はし出だし玉ふなり。されば倶とは不変真如の理なり、出とは随縁真如の智なり。倶とは一念なり、出とは三千なり云云。
又云はく、時とは本時娑婆世界の時なり。下は十界宛然の曼陀羅を顕はす文なり。其の故は時とは末法第五時の時なり。我とは釈尊、及は菩薩、衆僧は二乗、倶とは六道なり。出とは霊山浄土に列出するなり。霊山とは御本尊並びに日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処を説くなり云云。
438
:
愚鈍凡夫
:2005/01/18(火) 11:24
>>431
:に彰往考来さんが紹介下さった日蝕について、参考までに「吾妻鑑」と照合してみます。
ユリウス暦-------------------グレゴリオ暦-----旧 暦
1223(貞応2)年9月26日--------10月3日--------9月1日
1227(嘉禄3)年7月15日--7月22日--------6月1日
1237(嘉禎3)年12月19日--------12月26日--------12月1日
1245(寛元3)年7月25日---------8月1日--------7月1日
1252(建長4)年3月11日---------3月18日--------2月1日
1265(文永2)年1月19日---------1月26日--------1月1日
吾妻鑑の記述
貞応2年9月1日 庚子 今暁甚雨、日中に及び晴天
未の二刻日蝕、正現す。三分蝕と。
嘉禄3年6月1日 戊申 霽
日蝕正現す(四分)。
嘉禎3年12月1日 戊寅 雨降る
日蝕正現せず。昨日天晴、夜半以後陰雲、丑寅の刻より雨降る。蝕時分に愛染金剛如法佛(五指量)を造立せらる。主計の頭これを奉行す。
寛元3年7月1日 癸巳 天霽
日蝕現ず。
建長4年2月1日 乙卯 天晴
巳の一点日三分正現す。
文永2年1月1日 辛未
日蝕なり。然れども去る夜より雨降り、蝕見えず。仍って御所を裹むに及ばず。椀飯(左典厩御沙汰)を行わる。但し御簾を垂れ出御無し(土御門大納言催すに依って、構え参らるると雖も、用意ばかりなり)。御劔役人は越後の守實時、御調度は越前の前司時廣、御行騰沓は秋田城の介泰盛。
一の御馬 陸奥の十郎忠時 工藤次郎左衛門の尉
二の御馬 越後の四郎顕時 武藤三郎兵衛の尉
三の御馬 城六郎兵衛の尉顕盛 同九郎長景
四の御馬 筑前四郎左衛門の尉行佐 同五郎左衛門の尉行重
五の御馬 相模の七郎宗頼 工藤三郎左衛門の尉
「吾妻鏡目次」
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html
439
:
彰往考来
:2005/01/18(火) 12:19
>438
愚鈍凡夫さん、
ありがとうございました。『吾妻鏡』は」ネットで見られるのですね。
参考になりました。
440
:
彰往考来
:2005/01/18(火) 12:32
>434,436,437
顕正居士さん、犀角独歩さん、
ご教示ありがとうございます。前々から疑問に思っていた点でした。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
>434
犀角独歩さん
ご賛同いただきありがとうございます。
442
:
犀角独歩
:2005/01/18(火) 18:02
再度、顕正居士さん:
先のわたしのレス(437)は、特に二処三会と曼荼羅図示相伝の関係にのみに拘泥し、肝心要のご教示につき触れませんでした。この点をまずお詫び申し上げます。さて、
> 如意輪、不動、愛染の三尊
> 妙法曼荼羅の意趣は顕教(教相)と密教(観心)との二重構造
とは、途方もない慧眼であると拝しました。
容易く莠言を吐くわけには参りません。
熟考し、改めて、ご返信申し上げる所存でございますが、いまのところ、いつのことになるか、年末になるか、若しくは10年先になるか、申し上げることはできません。
実に深いご教示を賜りましたことを謹んで、深く御礼申し上げるばかりでございます。
一つの謎を解くご指南を賜ったことと衷心より嬉しく感じております。
有り難うございました。
443
:
愚鈍凡夫
:2005/01/18(火) 19:38
彰往考来さん、どうもです。
「吾妻鏡」で、こんなサイトもありますので紹介しておきます。
「吾妻鏡本文データ」
http://www.nijl.ac.jp/databases/db-room/genpon/azumatop.htm
444
:
彰往考来
:2005/01/19(水) 08:18
>443
愚鈍凡夫さん、
ご紹介ありがとうございました。こちらの
データベースは充実していますね。原文
の雰囲気がよくでていて、よくぞここまで
と思いました。人物画像もおもしろかった
です。
445
:
ケン
:2005/01/21(金) 19:06
>421 彰往考来さん
いきなりで失礼します。
斉藤氏の『星の古記録』には「竜ノ口の法難」の際の光物や
「依智の星下り」に対する天文学者としての解釈なども書かれていますとのこと
ですが、どのように書かれているのか、簡単に教えていただくことは
できませんか。
なお、斉藤国治『星の古記録』(岩波新書)は、絶版とのことです。
また、本日、神保町の山陽堂(岩波ビル2F)に寄って、探して
もらいましたが、今は見あたらないということでした。
山陽堂のご主人は、「気をつけて探しておくので、しばらくしたら
寄ってみてください。」と言ってくれましたが、ないとなると、
内容が気になるものですから。宜しくお願いします。
446
:
ケン
:2005/01/22(土) 14:48
>445
彰往考来さん
斉藤国治『星の古記録』(岩波新書)は、区立図書館から借りました。
お騒がせしました。
447
:
祝8郎
:2005/01/23(日) 14:33
彫刻本尊は大石寺では日蓮直筆と主張しているのですよね。
しかもそれは「本門戒壇の本尊」である、と。
もしそうであるならば、真筆の立正安国論や観心本尊抄などの国宝よりも価値があることになりますね。
この掲示板は大石寺の僧や信徒、顕正会の人も見ているとのことなので、彼らは国宝認定の請願運動をすぐにでも起こしていいのではないでしょうか。
なぜそういったことをしないのでしょうか。不思議です。
これは犀角独歩さんの御説の反対するということではなく、大石寺僧俗が彫刻本尊を本物だと言うのであれば考えて当然のことではないか、という疑問です。
448
:
祝8郎
:2005/01/23(日) 14:52
すみません、447はスレッドをまちがえました。
449
:
彰往考来
:2005/01/23(日) 15:44
>446
ケンさん、始めまして。
図書館で借りられたとのこと。了解です。なお、
『星の古記録』は追記があるので2刷以後がよい
です。
450
:
ケン
:2005/01/23(日) 16:20
>449
彰往考来さん
恐縮です。
区立図書館で借りた本は、「第1刷」でした。
「日蓮上人と星」の部分(109〜113頁)
にも、追記があるのでしょうか。
451
:
犀角独歩
:2005/01/23(日) 16:38
なんだか、どうでもいいですが、竜口法難の光り物をまさか事実であると思っての議論じゃないですよね、まさか。
452
:
彰往考来
:2005/01/23(日) 16:59
>
ケンさんへ、
2刷以後の追記は「第一章 星月に入る−星食」の最後の頁(3刷では28頁)にあります。
その箇所を以下に引用します。「日蓮上人と星」の部分には追記はありません。
〔第二刷に際しての追記〕一版の時には前述の問題の回答が出せなかったが、その後キメこまかい検証をおこなったところ、確かな回答が得られた。それは永仁六年十二月十二日(ユリウス暦で一二九九年一月一五日)の夜半すぎに、火星が月の南縁の外○・三八度の距離に迫って「犯」がおきているとわかったことである。
この月火の犯は中国の『元史』「天文志」にも
成宗の大徳二年十二月乙丑(十二日、一二九九年一月一五日)、大陰●惑(●字は螢の虫のところが火)を犯す
とある。中国の官廷天文官は日本のお寺の童子のいう「月と星の相撲」を同夜に観察し、記録していたのである。このことの詳細は筆者の別著『古天文学の道』(一九九○)の一三七頁を見られたい。
以上です。なお、この計算結果により得られた「坊主御返事」の永仁六年という年次は『日興上人全集』(平成8年、興風談所)の156頁の頭注に記載されています。
今回の問題とは直接関係ありませんが、日興門流と関係する記事なので追記を指摘させていただいた次第です。
453
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/01/23(日) 18:36
竜口法難については、以下の顕正居士さんのご賢察がありました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/r430
まあ、この件も、ずいぶんと議論しあってきた話の一つとなりました。
やや余談ですが、それでも、斬首が行われそうになったことは事実で、このとき、蓮師はそれまでの自分は死んだのだという宗教的な自覚をもたれのであろうと拝察いたします。また、蓮師は頸を斬られたと思った人々もあった。そこに佐渡から手紙が届いて、幽霊から来たのかと恐ろしがった人もあった…、などという当時の模様が『開目抄』から窺えます。
「日蓮といいし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此れは魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月、雪中にしるして、有縁の弟子へおくれば、おそろしくておそろしからず。みん人いかにおじずらむ」
と記されるところは、そのような意味だと、わたしは読んだのですが、これは違っていますか。
また、学会を含む石山教学では、この宗教的な体験を本仏日蓮が凡夫身を発て本仏身を開顕したとして発迹顕本に充てます。しかし、『三沢鈔』には
「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候し已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」
とあります。発迹顕本、ならば、五重義でいえば本迹相待。しかし「爾前」とくれば、権実相待ということになり、さらに凡夫・仏身ではなく、「法門の事」の範疇です。
(『三沢鈔』、新訂などでは「日興写本」。『平成新修日蓮聖人遺文集』不掲載。
三沢鈔(三沢第二書)建治四年二月。五十七歳作。真蹟在京都妙覚寺。内一九ノ二〇。遺二四ノ三四。縮一七〇二。類五七八。としながら、写本扱)
454
:
彰往考来
:2005/01/23(日) 20:07
>451
犀角独歩さん、
そうです、そのまさかです。(ワハハ、冗談!)
『星の古記録』には「龍の口の法難」の際の光物について天文学者の広瀬秀雄氏の研究を紹介し、氏の研究ではこのときおひつじ・おうし座流星群の一流星が出現したとしています。
また『星の古記録』では「依智の星下り」の際の「明星のごとき大星」について宵の明星、すなわち金星とし、このとき計算では日没後の西天に光度マイナス三・五等の金星が輝いていたはずであると記しています。
かかる故事が事実を伝えているかは別にして天文学者のアプローチは興味深いものがあります。「いずれにせよ日蓮にかかわる星の記事はそれぞれ事実の裏付けがあるようにみえる(113頁)」と指摘されています。
参考までに「龍の口の法難」の際の光物についての広瀬秀雄氏の研究は、「日蓮上人〝龍の口〟法難の時の天変について」と題して昭和29年の『天文と気象6月号』(地人書館、13頁)に掲載されています。
>453
難しいことはよくわかりませんが、犀角独歩さんがおっしゃているようなことが現実であったろうと思います。
455
:
彰往考来
:2005/01/23(日) 20:10
自己レスです。
北林氏は『日蓮と最蓮房』第17章で「十一通御書」を取り上げ、「偽書だと言っている学者がいる(中略)偽書であると言う者が、後世に出ないために、しっかりと論破しておく必要がある」と述べています。一読して内容のないのに驚きました。開いた口が塞がらないとはこのことです。論破しておくといいながら偽書説の内容に触れるわけでもなく当然ながら論破のロの字も出てきません。自分の都合のよい字句を並べ立てただけの全く情けない文章だと思います。『日蓮と最蓮房』がインターネットで公開されているので、僭越ながら私の考えをインターネットの掲示板で述べたいと思います。
北林氏は『貞観政要』の引用が「北条時宗への御状」や「平左衛門尉頼綱への御状」に出てくることや、「北条時宗の御状」の中に、「暗中の錦衣」とあり、「強仁状御返事」に「暗中に錦」とあることから「十一通御書」が偽書ではないとしています。しかしこれは全く可笑しな論法です。『貞観政要』の引用が同じグループである「十一通御書」の「北条時宗への御状」や「平左衛門尉頼綱への御状」に出てくることは著者が同一人物である傍証にすぎませんし、類似の言葉が他の御書に出てくるから偽書ではないとはよく言えたものです。私が「暗中の錦衣」という言葉を使って偽書を作成したら北林氏は真蹟と思うのでしょうか? 偽作者は当然日蓮大聖人の御書に通じているはずで類似表現があったからといって真蹟である証明にはならないのです。『三大秘法抄なぜ真作か』のようにコンピュータを使って計量文献学として研究したのであれば話は別ですが今回のケースはたった一つの言葉を取り上げた単なる思いつきにすぎないものです。
私が目を疑ったのは、「大仏殿別当への御状」にある蒙古牒状の捉え方です。北林氏は「至元三年丙寅正月日と「大仏殿別当への御状」にあるが、東大寺の記録では八月であるから「八月」を「正月」と記載して間違っていることにより、東大寺に残されているような牒状そのものを引用して作出したものでないことがわかる(要旨)」としています。また北林氏は「中国の至元三年は文永三年にあたり、間違いなく丙寅だ」としてあたかもこれらが真蹟で有る証拠であるかの書きぶりです。彼がなぜ“間違いなく丙寅”と騒いでいるのか理解できませんが、恐らくは偽文書に干支の誤りが多いことによるのでしょう。しかしながらただ干支が合っているからといって真蹟である証明にはなりません。そんな単純なものではないのです。何より北林氏のいう“東大寺に残されている牒状”とは、宗性(しゅうしょう)という学僧が書いた『調伏異朝怨敵抄』という書物に収まっている写しであって実物ではないのです。まして川添昭二氏の『日蓮と蒙古襲来』50頁に掲載されている写真で明かなように牒状には至元三年八月日とあって干支の記載がないのです。北林氏には「しっかり目を開いて資料の写真を見なさい!」と言いたいですね。「大仏殿別当への御状」に干支の記載があるのは北林氏の主張とは逆に「十一通御書」が後世のものである疑いが発生します。もちろん『調伏異朝怨敵抄』とは別の異本があった可能性も否定できませんが。
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