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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について
456
:
彰往考来
:2005/01/23(日) 20:11
455の続きです。
浅井要麟氏は「十一通御書の研究」(『日蓮聖人教學の研究』354頁に集録)で種々の観点から疑問を投げかけておられます。これは「十一通御書」の真偽を議論する上で避けて通れない論文です。浅井氏は上記の正月についても、他の資料には後の正月(閏月)とあり「十一通御書」が閏正月でないのを疑問視しています。また「十一通御書」が最初に出てくる文献は『註畫讃』ですが脚色が多いので信用できないことや、『本満寺御書』に集録された経緯などを考察されています。北林氏は『本満寺御書』を『本満寺録外御書』と表現していますが、現行の録外二十五巻二百五十九通では「十一通御書」が除かれている(各種の録外御書を綜合統一する際に重複を避け偽筆の疑いのあるものを除いた)ことを彼はご存知ないようです。北林氏は『日蓮と最蓮房』第20章で「種種御振舞御書」に関して小川泰堂氏を批判されていますが、録外で除外されていた「十一通御書」を再び高祖遺文録に載録したのはほかならぬ小川泰堂氏なのですよ。そのためその後の縮刷遺文や類纂遺文録等に載録されているのです。(『日蓮聖人教學の研究』359頁参照)縮刷遺文にあるためでしょうか創価学会版御書全集や昭和定本にも載録されています。創価学会版御書全集の係年は縮刷遺文とほとんど同じですから関連しているといっても過言ではないでしょう。
北林氏が「偽書だと言っている学者がいる(中略)偽書であると言う者が、後世に出ないために、しっかりと論破しておく必要がある」というのであれば、少なくとも「十一通御書の研究」で指摘された事項をきちんと論破してから自論を展開しなさいと最後に申し上げておきます。それとも尻尾を巻いて逃げ去りますか?
by 彰往考来
<参考資料>
浅井要麟『日蓮聖人教學の研究』(昭和44年(第2刷、初版は昭和20年)、平楽寺書店)
川添昭二『日蓮と蒙古襲来』(昭和59年、清水書院)
『續群書類従 第九輯上 傳部(日蓮聖人註畫讃)』(昭和56年訂正3版、続群書類従完成会)
伊藤瑞叡『なぜいま三大秘法抄か』(平成9年、降文館)
伊藤瑞叡『三大秘法抄なぜ真作か』(平成9年、降文館)
加藤文雅編『霊艮閣版 日蓮聖人御遺文 縮冊御遺文』(昭和42年重刻新版、山喜房佛書林)
堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』(昭和46年67刷(初版昭和27年)、創価学会)
立正大學日蓮教學研究所編『昭和定本 日蓮聖人遺文 第一巻』(昭和63年改定増補版、身延山久遠寺)
457
:
犀角独歩
:2005/01/23(日) 22:52
454 彰往考来さん、そうでしたか(笑)
でも、まあ、たしかに名無し@富士門流さんも仰っていましたが、日蓮信仰を支えている物語の一つですね。わたしも感動したくちです。
455、456のご論功、たいへんに参考になりました。
ただし、本論からずれますが、伊藤瑞叡師の研究、わたしは山上師のほうに軍配を揚げます。
458
:
犀角独歩
:2005/01/23(日) 23:02
自己レスです。
以前のわたしのHPに転載していた文章です。
*** 以下、転載 ***
2001年8月、横浜で開催された、正信会による日蓮聖人の世界展において入手した同会の『これからの御書』というパンフレットに興味深い記述があったので、資料として、ここに転載した。
このコンピュータシステムのことはさておくが、このなかに記された『「三大秘法抄」の真偽』という山上師なる方の文章は石山系においては画期的なものであると感じる。
『三大秘法抄の真偽』正信会・山上師
「三大秘法抄」の真偽問題は、古来ずいぶん甲論乙駁されてきたが、山川智応氏が、文章表現に若干の違和感を示しつつも真撰御書と断定して以来、あまり議論がなされなくなった。しかし近時、伊藤瑞叡氏等がコンピューターによる使用語句等の分析を試み、その結果真撰説を支持し、新聞でも何度か報道され話題となった。御書の真偽判定は、いろいろな角度からなされるべきであり、コンピューターによる分析が試みられたこと自体評価されてしかるべきであろう。だがその分析方法が妥当であるか否かは慎重に検討されなければならない。伊藤氏等がおこなった方法は、諸御書の文体や言語の特徴を抽出分析し、「三大秘法抄」にその特徴が出ているか否かを判定するというものである。しかし、もとより偽書はそれらしく作られるのであるから、あまり妥当な方法とはいえないであろう。
そこでここでは、御書システムを使った「三大秘法抄」に関する一つの分析成果を提示して、真偽論の進展に供したいと思う。御書システムにはすべての御書を対象に10段階に種別されている。R0=真蹟完存からR5=上代諸師写本現存までが、一往信頼度の高い基準となるべき御書。R6は上記の御書と下記R7〜R9を除くすべての御書。ここには真偽未決御書が多く含まれている。R7〜R9は相伝書や偽書など聖人の筆とは認められないものである。
さてそこで、「三大秘法抄」に使われる言葉で、若干特徴的な仏教用語「無作三身」と「一身即三身」を使用している御書を検索すると、興味深い分析結果が得られた。すなわちこれらの仏教用語は、意外にも信頼度の高いR5までの御書には一度も使われず、R6の、中でも真偽未決御書である「当体義抄」「一念三千法門」「授職潅頂口伝抄」「十八円満抄」、さらにR9の「成仏法華肝心口伝身造鈔」「万法一如抄」「無作三身口伝抄」と、いずれも疑義濃厚な御書に使われているのである。この分析結果からは、「三大秘法抄」を真撰とするには少なからず疑問があるといわざるをえない。
この他にも、これほど決定的でなくとも、いくつかの特徴的な文言を抽出し、細かな分析をすればぱより確かな結果を得ることができるであろう。勿論この結果がすべてを決するというわけではない。思想的な面から来歴の問題等、いろいろな角度から再度研究される必要があろう。しかし御書システムによる分析結果は、今後「三大秘法抄」の真偽を論ずる上で、少なからず問題提起となることだけは確かであろう。(山上)
(『これからの御書』データベース型御書システム 11頁より転載)
459
:
彰往考来
:2005/01/24(月) 07:34
>457,458
犀角独歩さん、
ご教示ありがとうございました。山上氏の研究は説得力がありますね。
長年の疑問がひとつ氷解した思いでした。
重ねて御礼申し上げます。
460
:
犀角独歩
:2005/01/25(火) 13:17
日蓮聖人の三光天子物語、彰往考来さんのご紹介を拝読しながら考えたのですが、この成立、案外、顛末が逆かもしれませんね。
天文学者が指摘したり、また、古記録にでてくる天文気象上の事実がまずあり、それにあやかって物語が成立したという順番です。そうなれば、古記録、天文学的計算や、事実から導き出されることと一致するのは当然のこととなります。
関連しますが、たぶん、日蝕、月蝕を予言した支配者階級は、あたかも自分の祈りによって天変が生じたように、その時期に合わせて巧みに物語を紡ぎ、自分自身に関連させ、人々を恐怖と畏敬の念でひれ伏させ、支配を可能にしたのでしょう。
461
:
彰往考来
:2005/01/25(火) 18:06
>460
犀角独歩さん、
う〜ん、どうでしょうか。日蝕、月蝕あたりはそのようなことはあるかもしれません。
ただ、日蝕に関して卑弥呼は日蝕発生のため威厳がなくなり殺されたという説もあります。
金星(明星)の最大光輝では、あとからとってつけたような話を作るのはむずかしいでしょうね。
でもまあ、視点としては面白いですね。とても私に発想できる内容ではありません。
462
:
犀角独歩
:2005/01/25(火) 21:40:28
先だって、日蓮宗大本山の「御前様」と話していたのですが、「龍口法難の光り物…、事実じゃないでしょう。ああいった語り物語を、いまで言う講壇調に語られて、それが幾重にも伝説になって、物語になって、人々を感動させ、いつしか、聖人の御遺文のように編纂されたのでしょうねぇ。しかし、そうした聖人への恭敬の念は、信仰の糧となってきたのは事実でしょう」と語っておりましたね。
なかなか、冷静な遺文への姿勢、けれど、その伝承が紡いだ信仰心と、見事に整合性が取られた聞くに穏やかな感動を懐いた一幕でした。
たしかに卑弥呼が日蝕で殺されたとしても、それは日蝕が、そのような扱われてきた経緯があったればこそでしょうね。
わたしの棲む近くに「洗足池」という池があります。蓮師入滅の池上は、その池の上という意味であろうと思います。蓮師が、池上邸に向かう途中、この池で足を洗われたことに名が由来するといいます。辺の袈裟掛けの松が名所にもなっています。
この伝承、しかし、弘法大師信仰でも同じことが言われているのを知り、いささか驚いたことがあります。
まあ、伝承、伝説、物語、ここで常に意識しなければならないのは「肖り」ということでしょうね。いつも彰往考来さんのご論攷を拝見していると、「真面目一本にお考えだな」と(笑)
感見記の「日[虫*虫]」が日蝕か否か。龍口光物なんかから離れますが、蓮師が生身の虚空蔵菩薩から智慧の珠を授かった求聞持法という秘法は、秘薬として、水銀を使うわけですね。丹と関連の深い空海も然り、水俣病、あるいは奈良大仏造立鍍金でも知られますが、水銀は中毒症状を引き起こしますね。後付物語と言うより、蓮師は薬物中毒、若しくはその後遺症のなかで、種々の奇瑞を「見ていた」のかも知れませんね。そうなると、これまた、まったく天文気象とはかけ離れた話になるかも知れません。この辺は、雖念さんが、ご賢察をお持ちのところでしょう。
463
:
ケン
:2005/01/26(水) 06:34:41
>452
彰往考来さん
御丁寧なご回答をいただきありがとうございます。
また、お礼が遅れて申し訳ありません。
(区立図書館で本を借りた後、
仕事場にこもっていましたので、
拝見するのが遅れました。ところで、
「版」ではなく、「刷」にも追記のある
場合があることを始めて知りました。)
ボクは、難しいことは良く分かりませんし、
特に勉強をしているわけではありませんが、
以前、この掲示板で、竜口の光り物
について質問をさせていただき、
諸兄から色々教えていただいたことがあります。
その際に感じたことは、現在伝えられている
種種御振舞御書の少なくとも1部分は
真跡が存在した可能性があるという点に
一応、説得力を感じています。
一方で、処刑を防止させる程の光り物が
現実に起きたとする点には、従来から
疑問を感じていましたし、依智の星下りに
至っては論外と思っていました。
しかし、処刑を防止させる程の光り物が、
自然現象として、現実に発生可能であるとする説明が
自然科学の立場から可能であるなら、そのような
説明は、今でも聞いてみたいと思っています。
自然科学の立場から、説得力のある説明ができない
のなら、種種御振舞御書におけるこれらの記述部分が
真跡に由来しているという立場には説得力を
感じないと言わざるを得ません。
464
:
彰往考来
:2005/01/26(水) 07:55:31
>463
ケンさん、
>「版」ではなく、「刷」にも追記のある
そうなんです。ちょっと困ったものです。
浅井要燐氏の『日蓮聖人教学の研究』も同じです。
自然科学の立場からの話はひとつの考え方であって
伝説の存在を証明できるものではないと思っていま
す。それはともかく、色々は人のお考えを拝聴する
ことはとてもよいことです。小生の紹介が貴殿のお
役にたてたようでうれしく思っています。
彰往考来
465
:
彰往考来
:2005/01/26(水) 07:56:48
>464
訂正です。
誤:色々は
正:色々な
お詫びするとともに訂正いたします。
466
:
顕正居士
:2005/01/26(水) 12:14:14
>462
法華経信仰には教理の方面と霊験の方面があります。日蓮の滅後に霊験を中心とする祖師信仰が形成
された。これら伝説を排除した「純正日蓮主義」は智学居士田中巴之助によって近代に提唱された。智学
は「竜ノ口法難」は史実に非ずとする史学界に対し史実であると主張した。「竜ノ口法難」は日蓮宗の文献
以外には記録がないが日蓮の真蹟遺文から史実であったと想像される。しかし、『高祖遺文録』の本集に
ついてはすべて真撰と(仮に)扱う智学の教学が普及し、竜ノ口の奇跡も史実になった。次は明治時代に
著述された日蓮伝の説であります。
足立栗園著『赤裸にしたる日蓮大士』第18章「竜ノ口法難」
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049105&VOL_NUM=00000&KOMA=47&ITYPE=0
*『高祖遺文録』
小川泰道(1814-78)編。本集は真書と真偽未決書。続集は偽書。今日の凡ゆる遺文集はこの本集を根源
とする。というか、ほとんど変わらない。真偽未決書の解明は昭和時代の浅井要鱗の研究からはじまった。
467
:
犀角独歩
:2005/01/27(木) 00:10:33
顕正居士さん、ご教示、有り難うございます。
蓮師に係る一代記が、近代に出来上がったものであることは、案外知られていないことである反省は、わたしにもあります。
わたしが吃驚したのは、蓮師の随身仏が海中出現、船守弥三郎の寄進という類の話も、比較的新しい語りであることでした。
教理と霊験、しかし、光り物は…という、論の展開は簡潔ながら、重みがございました。
今後ともご教示のほど、よろしくお願い申し上げます。
468
:
名無し@富士門流
:2005/01/27(木) 02:29:35
「光もの」一つにも、皆様の博識にはただただ敬服するばかりです。
日興師筆「宗祖御遷化記録」によりますと、宗祖入滅時に大地震動があったと出てきますが、これもなにかの方便なんでしょうか?
それとも弘安五年十月十三日に池上近郊で、地震があったという記録はあるのでしょうか?
諸兄の御教示を賜れればと存じます。
469
:
犀角独歩
:2005/01/27(木) 11:39:08
名無し@富士門流さん:
蓮師逝去の際の地震、そのタイムラグはどれくらいかわかりませんが、御遷化記録は信頼できる記述であるとわたしは思います。他の諸賢はどのようにお考えでしょうか。
また、時ならぬ桜が咲いたといことですが、蓮師が亡くなったという場所に建つ本行寺には季節はずれに咲く桜があります。藁科さんが、このお花見のご報告を投稿されたと記憶します。
470
:
犀角独歩
:2005/01/27(木) 11:45:42
【469の訂正】
誤)藁科さん
正)ワラシナさん
失礼しました。
471
:
働き者
:2005/01/27(木) 11:50:03
みなさん、はじめまして。教学的な発言ができないのでこんなことで書き込みさせていただきました。
そういえば先日NHKで放送していたのですが、鯛の浦なんかも何かあるんでしょうか。
地元の漁業に携る人たちは、鯛は決してとらないそうで、万が一網にかかったりしたら、誕生寺で供養してもらっているそうです。
私は日蓮宗の信仰者ではありませんがここを拝見させて頂いて、そうゆうのも日蓮さんの御威光なのかな、ともおもいまして。
失礼しました。
472
:
犀角独歩
:2005/01/27(木) 12:14:06
働き者さん、はじめまして。
鯛ノ浦の遊覧船は、わたしも乗ったことがあります。
不思議な場所であると思います。
まあ、このような因果関係を460でその顛末が逆ではないのかとわたしは考えるわけです。
しかし、鯛が群生していれば、直ちに漁に出るところ、それを妨げたのは、あの場所が蓮師誕生の聖地であることと関連しているだろうとは想像できますね。
あと、蓮華淵でしたか、蓮師誕生の折、真水にしか咲かないはずの蓮が海中から咲いたという伝説が残る場所がありました。
473
:
名無し@富士門流
:2005/01/27(木) 21:56:54
犀角独歩さん、今晩は。
>本行寺には季節はずれに咲く桜があります
これは品種的にそのような桜なのでしょうか。
それとも全国的に稀にみる桜なのでしょうか。
十月に咲く桜ということは、秋桜(コスモス)でしょうか。
御教示くださいませ。
宗祖入滅時の大地震動や、季節外れの桜が咲く等は、かなりオカルトチックな伝承ですが、たまたま偶然宗祖入滅時におこった現象(現証ではありません)として、弘安五年十月十三日の池上近郊での地震が観測されていたりするのかな〜などと、これまでの議論を拝見してふと思いました。
貴重な御議論の邪魔をしてしまったならばすみません。
474
:
れん
:2005/01/27(木) 22:00:00
名無し@富士門流さん、蓮師御遷化の際の地震についてですが、日興師の宗祖御遷化記録の他に、大石寺四世日道師の御傳土代に「弘安五年みつのへむま十月十三日たつのとき聖人御遷化、此時に大地しんとうす、此時かまくらのはんみん(萬人)一同ニ日蓮の御はう(房)他界ト云々。ふしきふしき」の記述をみます。道師は蓮師滅後の弘安六年の出生で勿論、蓮師御遷化に立ち合ってないのですから、これは、興・目両師からの伝聞に属することですが、「此時に大地しんとうす、此時かまくらのはんみん一同ニ日蓮の御はう他界云々」が事実ならば、神奈川から東京にかけて揺れが観測?された関東南部の地震ということになりましょうか。しかし、この地震は他の当時代の記録に残っているのでしょうか?この地震を記録した興師の宗祖御遷化記録・道師の御伝土代は双方ともに筆者の正本が現存しますから、信憑性がありますが、逆にこの二件の記録だけでは、蓮師御遷化時の地震を史実とみなすことは少しばかり厳しいですね。
475
:
愚鈍凡夫
:2005/01/27(木) 22:16:01
名無し@富士門流さん今晩は。
いろいろと資料をあさってみたのですが、1282(弘安5)年に東海・関東方面で地震があったという記録は見つかりませんでした。
小生が去年の12月中頃、大阪の十三あたりをチャリンコで走ってましたら、公園の小さな桜の木が花を咲かせてましたよ。春先と同じような陽気が続いたせいでしょうか。内心、「こいつ変わったやっちゃなぁ、春になったらどないすんねんやろ」といらぬ心配をしてしまいました。 (^▽^;)
異常気象が原因で、植物の体内時計に狂いが生じているのかも知れませんね。
曖昧な記憶ですが、九州あたりに秋に咲く桜の木があったように思います。
476
:
名無し@富士門流
:2005/01/27(木) 23:21:03
れんさん、愚鈍凡夫さん、今晩は。
種々の御教示ありがとう御座います。
>逆にこの二件の記録だけでは、蓮師御遷化時の地震を史実とみなすことは少しばかり厳しいですね。
>1282(弘安5)年に東海・関東方面で地震があったという記録は見つかりませんでした。
やはりそうですか。
愚鈍凡夫さんの十二月の桜で思い出したのですが、銀座の柳の葉も季節をまちがえてまだ葉を音さずにいるとのことでした。
「大地震動」や「季節はずれの花が咲く」等は、いかにも聖者の入滅時らしいので、、、
できれば偶然でもいいので、事実として地震があってくれたなら嬉しかったのですが。
残念!!
477
:
名無し@富士門流
:2005/01/27(木) 23:22:46
訂正です。
>葉を音さずに
は
「葉を落とさずに」の誤りです。
失礼しました。
478
:
彰往考来
:2005/01/28(金) 07:31:33
愚鈍凡夫さんのスレッド424にありますように
ユリウス暦---------------グレゴリオ暦----旧暦--------聖寿
1222(承久4)年02月28日----03月07日--------02月16日----01(誕生)
1282(弘安5)年11月14日----11月21日--------10月13日(入滅)
ですから新暦では入滅日は11月14日です。このころは関東では少し
寒いころです。10月ではありません。
700年前と現在で気象に差があるかどうかわかりませんが、季節はず
れの桜を議論されるのであれば、このあたりも考慮される必要がありま
す。もっとも475で12月に咲く桜を指摘されていますので、関係な
いかぁ〜。
479
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/01/28(金) 11:54:31
名無し@富士門流さん
本行寺さんに電話をして、お尋ねしたところ、旧暦の10月、新暦の11月ぐらいから咲き出し、いまも咲いているそうです。「御会式桜」という名称で親しまれているとのことでした。造園業者に、手入れもさせて大切に守っているそうです。
寺院の言い伝えでは、蓮師入滅に、時ならぬ花を咲かせたその桜の木を幾世代も守ってきたということでしたね。
たしかこの件は、ワラシナさんがご投稿なさっていたと思い、探してみましたら、ありました。
つぶやきすれっど2
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/r726
ワラシナさんのリリカルさが伝わるご投稿でした。
品種であるとのことでした。
いまも咲いているとのことですので、わたしも花見に行って観て来ようと思います。
480
:
彰往考来
:2005/01/28(金) 17:30:02
>479
へ〜え・・。 「御会式桜」ですか。伝説と合致する自然現象があるのですね。
481
:
犀角独歩
:2005/01/28(金) 18:59:45
474 れんさんのご投稿を読み飛ばしていました。
そうですか、「厳しい」ですか。
480 彰往考来さん
御会式桜で検索したら、本行寺以外でも植樹しているところがありました。
http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/pltr/pl13846200434
http://homepage1.nifty.com/morino/sakura/2004/kyoto/041126_1.html
http://myojyuji.or.jp/syoryubyo/parts.html
#sakura
本門寺
http://www.asahi-net.or.jp/~uu2n-mnt/kyuseki/hon_saku.html
ほかにもたくさんあるようで、蓮師入滅の桜の開花にあやかり、植樹されていったのでしょうね。
で、ここで疑問ですが、池上には蓮師入滅の時、この品種が偶然植わっていたのでしょうか。それをふつうの桜しか知らないお弟子が観て驚いて出来た伝承なのでしょうか。
まあ、時ならぬ桜が沙羅双樹のごとく…といったほうが風情がありますね。
482
:
名無し@富士門流
:2005/01/28(金) 19:10:18
犀角独歩さん、御教示ありがとう御座います。
遠方から駆けつけた弟子達は、時ならぬ桜の開花に宗祖の威徳が天をも動かしたものかと思ったでしょうね。
単なる偶然だとしても、いい話しだと思います。
483
:
犀角独歩
:2005/01/28(金) 19:27:15
名無し@富士門流さん、そうですね。賛同します。
484
:
れん
:2005/01/28(金) 20:45:59
481 犀角独歩さん、私の「厳しい」はちょっと言い過ぎた表現かもしれませんが、蓮師門下のみの記述だけでは、客観的にみて史実として立証は難しいかな?という意味で‘厳しい’と書きました。しかし、考えてみますと、宗祖御遷化記録は蓮師御遷化(地震があった時)から三日後の弘安五年十月十六日に興師が執筆したものであり、かつ、本紙裏の継ぎ目には昭師・朗師・興師・持師が花押を記していて、公文書とでも言うべきものですから、御遷化記録の記述は信用できるものと思いますので、蓮師御遷化時の地震は全くの作り話というわけではなく、やはり地震はあったのかもしれませんね。古代中世の考えとして、聖者がなくなる時には地震等が起きるみたいな話がありましたから、偶然とはいえ、蓮師御遷化時に起きた‘地震’は門弟達にとってある意味感慨深く受けとめられたものと思います。
485
:
犀角独歩
:2005/01/28(金) 21:08:44
れんさん、どうも。
それにしてもご指摘の通り、道師の記述まで信用すれば、少なくとも、池上から鎌倉を含む範囲で体感される地震があったことになります。なんか他の記録に残っていてくれればという思いに駆られます。
486
:
ケン
:2005/01/30(日) 06:55:09
れんさん
犀角独歩さん
日ごろから、勉強させていただいています(もっとも、当方の基礎知識が不足しているため、
理解できるのは、残念ながら1~2割以下ですが)。
さて、大石寺日道の『御伝土代』について、れんさんや犀角独歩さんが考えていらっ
しゃる信憑性の程度を、初心者向けに教えてください。もし、信憑性をかなり低くお考え
であれば、その理由もご教示いただけると幸いです。
質問させていただく所以は、れんさんや犀角独歩さんの以下のご発言です。
れんさんのご発言と、質問は以下の通りです。
>474 「この地震を記録した興師の宗祖御遷化記録・道師の御伝土代は双方とも
に筆者の正本が現存しますから、信憑性がありますが、逆にこの二件の記録だけでは、
蓮師御遷化時の地震を史実とみなすことは少しばかり厳しいですね。」
ここで、「筆者の正本が現存」の意味は、『御伝土代』の正本全篇が写真などで公開
されているということでしょうか。あるいは、どなたかが「正本(日道筆)である」と言明して
いるということでしょうか。
ところで、『御伝土代』の正本は、その全篇が大石寺に存在するのでしょうか。
>484 「御遷化記録の記述は信用できるものと思います」と仰っているものの、
「御伝土代」について特に言及されていないのは、100%の信憑性をおけない何らか
の理由があるからでしょうか。例えば、正本(日道筆)であることに100%の信頼をおけな
いということでしょうか、あるいは正本現存(日道筆)は100%確実だが、筆者(日道)に
100%の信頼をおけないということでしょうか。
487
:
ケン
:2005/01/30(日) 06:57:25
続きです。
犀角独歩さんのご発言と、『御伝土代』についての質問は以下の通りです。
>485 「道師の記述まで信用すれば」のご発言も、正本(日道筆)であること
に対してか、筆者に対してかのいずれか又は両方に何らかの疑問をお持ちの
ように感じられます。どのようにお考えでしょうか。
>451 「竜口法難の光り物をまさか事実であると思っての議論じゃないですよ
ね」とのご発言から、「光り物」が事実であるはずはないとのお考えをお示しい
ただいたものと思います。
一方で、以前、「光り物」に関する『御伝土代』の記述と『種種御振舞御書』の記述と
を対比されて、「比較してみれば、同じ所伝に従って、記述されたことは明らか
と思えます。・・・『御伝土代』の記述は看過できないものがありますね。」とご教示を
頂いたことがあります(素朴な疑問: 867名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/11/04(火) 06:09)。
独歩さんのお考えは、『種種御振舞御書』における「光り物」の記述部分については、
『御伝土代』の記述を看過することはできないが、『御伝土代』自体は、そもそもほとんど
信用に足るものではないということでしょうか。
なお、「素朴な疑問」における独歩さんのご見解(全文)を念のため、以下に
引用しておきます。
****** 引用開始 ******
>867名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/11/04(火) 06:09
ケンさん:
横レス失礼いたします。
なるほど、『御伝土代』ですか。この存在を忘れていました。
「江島の方より月の如く光りたる物鞠の様にて辰巳の方より戌亥の方へ光り渡る、十二日夜の明闇人の面も見えざりしが、物の光月夜の様にて人の面皆見え、兵士ども興醒て一丁許り馳せ除きて、或ひは馬より下りて畏こまり、或は馬の上にて蹲まる物もあり」
『種種御振舞御書』では
「江のしまのかたより月のごとくひかり物、まり(鞠)のやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ(味爽)人の面もみへざりしが、物のひかり月よ(夜)のやうにて人人の面もみなみゆ。太刀取目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れけうさめ(興醒)て一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくま(蹲踞)れるもあり」
でした。比較してみれば、同じ所伝に従って、記述されたことは明らかと思えます。
今成師は、この記述を「これはどうみても日蓮聖人ご自身の文体ではない」としています。
けれど、『御伝土代』は元弘3(1333)年の書と目され、となれば、竜口法難の文永8(1271)年から62年後、かなり信憑性は高いと思えます。『種々御振舞御書』の記述が蓮師の書でないとしても、たしかに『御伝土代』の記述は看過できないものがありますね。
****** 引用終わり ******
488
:
犀角独歩
:2005/01/30(日) 08:13:21
ケンさん、ほんじつ、わたしはこれから、東京より長岡に行かなければなりません。
帰りは明日です。ネット、モバイル環境はなく、掲示板の閲覧、メールのチェックもできません。恐縮ですが、明日以降、改めて管見を記させていただくことにします。ご了解ください。
489
:
犀角独歩
:2005/01/30(日) 08:25:03
わたしの大事な友人が、今回の地震議論をロムし、メールを送ってくださいました。
ご本人の了解を得て、転載させていただきました。
*** 以下転載 ***
…なにやら日蓮さんの没時にあったとされる地震の話が・・・。
…結論から申し上げますと、日蓮入滅(1282年=弘安5年10月13日)
に際して関東で大きな地震があったという信頼に足る客観的記録・資料は、
私の調べた限り、日蓮関係の伝承以外に確認できませんでした。
ただ当時の日本列島は、いわゆる(地殻変動の)大活動期の
まっただ中にあったと思われます(ちなみに、最近の日本も
またまた活動期に突入したといわれているようですが・・・汗)。
ご承知のことと思いますが、1257年=康元2年には
日蓮の伝記などにしばしば登場する『鎌倉大地震』が
起こったのをはじめとして、その前後の南関東では
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/tenpen/ihen02.htm
http://contest.thinkquest.gr.jp/tqj2000/30295/history/japan.html
にまとめられているように、やはり同じく『鎌倉大地震』と称せられる
大地震(1222、1223、1293年etc)や、おそらくそれら一連の
地殻・地震活動の一環と思われる大小様々な地震が頻発していますし、
さらに日本列島全体を見れば、大きなところでは京都大地震(1224年)や
阿蘇山噴火(1265年=文永2年、以降たびたび噴火を繰り返し、
日蓮没の前年1281年=弘安4年閏7月にも大噴火)、
さらに1281年=弘安4年6月には浅間山の歴史的大噴火
(一説には、現在の浅間山の姿はこの時の噴火でできあがったと
言われている
http://www.takamine-kougen.co.jp/page6.html
http://www3.ocn.ne.jp/~nippou/topics.htm
)
と、立て続けに天変地異が起こったといわれています。
――ただし1281年の浅間山大噴火に関しては、その事実そのもの、
あるいは少なくともその規模には近年大きな疑問が投げかけられており、
http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/volcanoes/asama/asamasiryo/honbun.html
そんなことで上記リンク先の『天変地異年表』には記されていないのかもしれませ
ん)
そういうさなかの弘安5年10月に仮に関東で地震があったとしても
何ら不思議ではなく、いやむしろ当時の日本、とりわけ南関東では
地震など、日蓮入滅との関係を云々する以前に、
日常茶飯事の出来事だったとさえ言ってよいのではないかと思われます。
が、いずれにせよその地震は、仮に事実あったとしても、上記資料などを
眺める限り、当時として種々の記録にわざわざ特筆されるほどの規模では
なかったようですし、まあ(わざわざ独歩さんに言うまでもないことですが)
世界の歴史をひもとけば、この手の話は宗教家のみならず、
政治家などの偉人の伝説には付き物の話であり、
意地悪な言い方をすれば、もしも日蓮さんが前年に亡くなっていたら、
浅間山や阿蘇山の大噴火と関連づけられた伝説ができていたかもしれず、
またもしもこの年に運良く(笑)彗星でも現れていれば、
ここでも新たな『光り物伝説』が生まれていたかもしれず・・・
といったわけですな。(^^)…
*** 転載おわり ***
以上、ご参考までに
490
:
ケン
:2005/01/30(日) 18:09:08
>488
犀角独歩さん
お忙しい中を、余計なことをお願いして
申し訳ありません。
当方は、全く急いでいません。
1箇月や2箇月以上先でも構いませんので、
お時間ができてからということで、
宜しくお願いします。
491
:
れん
:2005/01/30(日) 22:40:21
ケンさん、はじめまして。486におけるご質問ですが、より適切なご解答は犀角独歩さんがご教示くださることと存じますが、私へのご質問につきまして、お答えします。先ず「筆者の正本が存在」の意味ですが、残念ながら「御伝土代」の正本全体の写真は公開されてませんが、正本の一部分の写真が石山や石山系の団体の出版物に掲載されています(継命新聞社刊「日興上人」など)。また、石山正本を活字翻刻したものは、日蓮宗宗学全書第二巻興門集道師の部に収録掲載されたものと、富士宗学要集宗史部・日蓮正宗歴代法主全書第一巻に収録掲載されたものがあり、興風談所の大黒喜道師編「日興門流上代事典でも正本富士大石寺としておりますから、信用してよいと思います。なお日興門流上代事典の記述によると正本の影写本が東大史料編纂所に所蔵とのことです。次に484において特に御伝土代に言及しなかったのは、御伝土代は興師目師よりの伝承をその直弟子である道師が記したという点では貴重ですが、著者日道師自身は蓮師滅後の出生で蓮師御遷化時の地震に居合わせなかったのですから、御伝土代における道師の地震の記述はあくまで伝聞に基づくものであり、地震のあったその場に居合わせた興師が地震のあったわすか三日後に記述した宗祖御遷化記録に比べると蓮師御遷化時の地震を証する史料としては価値が少しさがると見まして、特に言及しなかった次第です。以上適切な回答とはいきませんが、ご参考になれば幸いです。
492
:
ケン
:2005/01/31(月) 00:25:05
れんさん
分かりやすくご説明していただき有難うございます。
資料としては、信用のおけるものと考えてよろしいと
いうことですね。
有難うございました。
493
:
顕正居士
:2005/01/31(月) 05:44:44
>>487
三師御伝土代と種々御振舞御書
三師御伝土代には種々御振舞御書とほぼ同じ文があります。しかし「祖書に云く」とはありませんし
文章も全同でないから、種々御振舞御書からの引用ではなくて伝承の記載であろうかとおもいます。
三師御伝土代と種々御振舞御書に共通のなんらかの複数の伝承群があったのではないでしょうか。
文献学は新約聖書の成立についての研究から発達しました。共観福音書のイエス伝の記述には
異同が多い。もとの書式化された伝承が複数あったと考えます。
新約聖書のイエス伝はさまざまな過去の神々、英雄の神話と伝説を摂取し、イエスの没後約100年
に共観福音書として成立したと考えられています。
したがって三師御伝土代の真偽を疑う必要はなく日蓮伝説はこの頃にもとが形成されたのでしょう。
494
:
愚鈍凡夫
:2005/01/31(月) 06:35:22
顕正居士さん、おはようございます。
今に伝わる日蓮伝は、口伝・口授で伝えられていたものが、「御伝土代」「種種御振舞御書」などによって文書化され、現在のような日蓮像として伝承されてきたと考えられるのでしょうか。
495
:
犀角独歩
:2005/02/01(火) 01:02:45
ケンさん、本日は疲労困憊です。
明日、記させていただきます。
ここら辺は、実におもしろいところですね。
496
:
犀角独歩
:2005/02/01(火) 12:28:22
ケンさん、既にれんさん、また顕正居士さんが、ご賢察をご披露くださり、ここに愚見を陳べる用もございませんね。
やや論点を代えて申し上げます。
わたしは生まれながら、日蓮本仏論が身に滲みた一人でした。
物心ついたときに、語られる日蓮本仏、戒壇本尊、数々の奇跡物語は、至極当然の「現実」そのものでした。もっといえば、創価学会絶対、池田「先生」絶対、さらに石山絶対、法主絶対も至極当然のことでした。
それを再考し、実像に迫りだして、しばしの時間が経過しました。
わたしがいま感じる晩年の「日蓮」は、炯々とした密教的な要素は持つものの、老いさらばえ、やせ細った生身のその人です。夢破れ、それでも弟子の育成に晩年を過ごし、乏しい食に飢えを感じ、衰えた身体に供養の酒を含み、腹の熱くなることに涙を流す老僧です。本仏などという誇大表現からほど遠い、弱々しい死に行く病衰、老衰したその人です。けれど、数々の奇跡物語で彩られた本仏より、わたしはそんな「日蓮」にこそ、恭敬の念を抱きます。
いわば、いまのわたしにとって、蓮師の奇跡物語は、言葉は悪いのですが、「どうでもよいこと」に属します。
反面、これはたとえば、シャキャムニの超人化などでも同様ですが、自分の信念体系の中心者をどんどんと超人化させ、神格化(いや、仏格化というべきでしょうか)させていく人々の心理のからくり構造に滑稽さを感じるのも事実です。なぜ、そのような物語が紡がれていったのか…、むしろ、その奇跡物語を振り回し力説の裏にある、そのようなものでしか支えられない浮き草のような信仰の危うさばかりが目につきます。そこに見え隠れするのは、生老病死を恐れ、そのことを忘れ、「祈願成就」「不老不死」という願望という煩悩に現実から目を逸らす虚仮威しの威勢であり、それは裏を返せば、極端の戦(おのの)きと不安、弱さというコンプレックスがなせる態とすら覚えます。
『御伝土代』が道師真筆として、そこに記された「光り物伝説」はしかし、蓮師真跡に見られるところはありませんでした。興師もまた語りませんでした。となれば、このような物語を書き記す頃、既に蓮師にかかる超人化、潤色が既にその兆しを見せていたと歴史的経緯でとらえるほうが自然ではないのかと思えます。
光り物という奇跡で、斬首を免れた日蓮より、いざ、首の座に据えられた「ただいまなり」と覚悟したやさき、刑の執行が中止された日蓮の心中の変遷のほうが、よほど、人間味があるものです。
蓮師に係る奇跡物語に、なぜ自分は固執したのか?、そんな自己分析は、実は新たな目を見開かせてくれるものだった…、とその経験を語り、答えに代えさせていただきます。
497
:
ケン
:2005/02/01(火) 12:59:47
顕正居士さん、有難うございます。
ボクは、「光り物」が創作であるとすれば、その創作が行われたのは、日道の
時代から時間がかなり経過してからだと、なんとなく思っていました(もちろ
ん、根拠があるわけではありません)。したがって、『御伝土代』も偽作された
ものと思っていました。
しかし、「三師御伝土代の真偽を疑う必要」がなく、しかも「光り物」が創作
であるとなると、日興や日目、あるいは他の五老僧が活動していた時期に、
既に、伝説が創作されつつあったことになるのでしょうか。なんとなく、
早すぎるような気がするのですが、そんなものでしょうか。
498
:
ケン
:2005/02/01(火) 13:05:21
犀角独歩さん
お忙しい中を有難うございます。
497は、独歩さんからのご回答を見ていない状態で発信してしまい、
大変失礼しました。後で、もう一度良く、読ませていただきます。
取り急ぎ御礼まで。
499
:
れん
:2005/02/01(火) 19:42:37
ケンさん、先日、興風談所さんからお送り戴いた「興風」第十六号を拝見させていただいたところ、興風談所の池田令道師の「大石寺蔵『御伝土代』の作者について」という論文が掲載されておりました。師は御伝土代の筆者について、御伝土代と日時師筆との文字対照をおこない、その他御伝土代の内容の検討をされた上で、御伝土代を全文日時師筆と結論されておられます。私はこれまで、御伝土代を日道師の著作としてきましたが、池田令道師の興風第十六号に掲載された論考における結論が妥当であると考えますので、これまでの御伝土代=日道師著という認識・自説を改め、今後は私も御伝土代=日時師作と比定いたします。
500
:
犀角独歩
:2005/02/01(火) 23:09:52
れんさん、499の説を証憑する場合、では、なぜ時師は道師のなぜ仮託したのでしょうか。
また、そうなると、光り物伝説の成立は、だいたいいつ頃となりましょうか。
501
:
れん
:2005/02/02(水) 15:15:49
犀角独歩さん、御伝土代を時師は道師に仮託して制作したわけではないです。御伝土代には筆者による署名・花押は無く、江戸期前半までの石山歴代の認識は何れも日時師制作というものでした(興師伝に日興上人御遺告〇日道記之とありますが、これは引用にすぎず御伝土代を道師筆とする根拠にはならないと言えます)。すなわち、了玄日精師の家中抄の「日興伝」「日時伝」に三師の伝(御伝土代)を日時作と記録し、三玄日典師は御伝土代の奥書に「三師之傳 日時上人御制作御真筆 日典(花押)」とある通りです。江戸後期の経道日因師にいたりはじめて日道師制作説が唱えられ(因師の三四会合抄・新田南条両家之事)、堀日亨師により道師著述説が定着したものの如くです。今回、池田令道師が御伝土代正本の影写本をもとに時師筆との文字対照を行い御伝土代を時師筆と比定したことで、御伝土代にの作者執筆者について精師・典師の認識が正しかったことが証されたことになります。なお、竜口法難のひかりものについては、御伝土代が時師撰とした場合、御伝土代をもってその最古記録とすることは出来なくなります。とすると、偽書ながら西山日代師の置文により正平十五年(一三六0)以前の成立が確定している「法華本門宗要抄」に‘竜口のひかりもの’の記述が見えますから、‘竜口のひかりもの’の伝説の成立は一三六0年以前ということになろうかと思います。
502
:
犀角独歩
:2005/02/02(水) 15:47:11
れんさん、明確なご教示、深く感謝申し上げます。
また、池田師の研究に敬意を表します。
それにしても、光り物伝説は道師(蓮滅52年)に遡れず、1360年、すなわち蓮滅80年前後の成立ですか。わたしどもが明治天皇の逸話をあれこれと紡ぐ話…、いや、現在のわたしが熊田著『日蓮上人』を語り、彰往考来さんが応師の事跡を探る時間差に比せます。しかし、現代と蓮師門下上代、同じ時間差と見てはいけませんでしょうね。
勉強になりました。今更ながら、自分の浅識、不勉強を恥じ入るものです。
有り難うございました。
503
:
吉祥仙人
:2005/02/02(水) 22:59:59
素朴な疑問なのですが、
竜の口の法難に際し何等かの異常事態がなかったとすれば、なぜ日蓮大聖人は
首をはねられなかったのでしょうか?
そのへんをどう考察されているのか御教授ください。
504
:
ケン
:2005/02/03(木) 01:57:42
れんさん
地道にこつこつと研究されている方がいらっしゃり、それを
きっちりとフォローしている方もいらっしゃることがよく分かりました。
有り難うございました。
505
:
彰往考来
:2005/02/03(木) 07:32:57
>501
横レス失礼します。
昨夜、自宅へ帰ると『興風』16号が届いていました。私も池田令道師の御伝土代=日時
師作が妥当であると思いました。
なお、同号には菅原関道師の「中山法華経寺聖教に見える異筆文書の考察」が記載されてい
て、『龍泉寺申状案』の異筆三紙の筆跡はこれまでいわれていた下野公日秀あるいは白蓮
阿閣梨日興ではなく富木常忍筆と推定してよいと思われるとされています。
池田師の御伝土代のご指摘と併せ非常に思うところがあり、ゆっくり考えてみたいと思い
ます。
506
:
名無し@富士門流
:2005/02/03(木) 11:42:46
>505
彰往考来さん、今日は。
>菅原関道師の「中山法華経寺聖教に見える異筆文書の考察」
これは、御書システムのコラムにも出ていました。
↓
http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/colum_ft.html
写真入で説得力のある論考ですね。
507
:
犀角独歩
:2005/02/03(木) 12:22:49
> 503
竜口刎頸中止については、古くから疑問視されていました。わたしは、学生時代に『創価学会のまちがいをただす』(−キリスト教折伏に答えて−森山諭著)で、この点に触れていたのを読んだのが初見でした。(30年前の話です)
「文永8年9月12日、竜の口の法難となった。このとき、江ノ島の方より不思議な光り物が現れて、死刑執行者が倒れ、日蓮は奇跡的に救われたとの伝説は、彼を不世出の傑僧に祭り上げさせているが、それは後生の偽作らしく…、鎌倉建長寺方丈道隆(大道禅師)の除名運動が功を奏して、死一等を減じられ、佐渡流罪になったという説が本当らしい」(26頁)
「平田篤胤の著『出定笑語附録の部』に、「竜の口の法難は後世の偽作である」と記し、「日蓮自身の筆には、その時の奇跡的な救いについては何も書いておられない。ただ、旅館まで行ったがそのうちに赦されたということのみを記しており、更に近江国(おうみのくに・滋賀県)の住人徳水如茂彦という人が来て、日蓮が鎌倉建長寺方丈に対して、『貴僧の助命運動によって死一等を減じられ、遠流で済んだことは、生々世々忘れない」という感謝状を、同寺に送っているものの写しを持って来て見せた」と記している」(162頁)
この感謝状の文面は尤もらしいのですが、しかし、文永10年佐渡にあって、『小乗大乗分別鈔』に
「道隆…法師等(ども)は鳩鴿(いえはと)が糞を食するが如し」(平成新修333頁)
と記されるわけで、竜口から2年ばかりしか経たず、感謝状を送った相手に、こんな裏腹なことを言うような真似を蓮師はしないであろうと思われます。
故高木豊師は、以下のように類推しています。
「断罪に処そうとする意図があったにもかかわらず、結局は死刑が免ぜられ、流罪に処せられたのは、北条時宗の妻の懐妊によると考えられる。事実、この歳、貞時が誕生している(辻善之助『日本仏教史』中世篇之二)。これに関連して、日蓮が「大がく(学)と申す人は普通の人にはにず、日蓮が御かんきの時身をすてヽかたうど(方人)して候し人」(『大学三郎御書』平遺784頁)と、大学三郎の行為について述べていることに注目したい。大学三郎については、伝承を除けば、ほとんど未詳だが、ただわずかに、大学允(だいがくじょう)という日蓮の檀越の子息であったろうこと、書に秀で、書を好んだ安達泰盛(あだちやすもり)と書を通じての交りをもっていたことがわかる程度である。ところで、大学三郎と親交のあった泰盛はほかならぬ時宗の舅(しゅうと)、つまり時宗の妻の父であり、解任した子(のちの貞時)の祖父に当たる人である。この関係と日蓮の大学三郎についての叙述とを重ね合わせれば、大学三郎が泰盛に働きかけ、泰盛は婿(むこ)時宗に孫の懐妊中における日蓮の刎頸中止を進言したのではなかろうか。「身をすててかたうど」した意味を、右の関係のなかに置いてみることは十分可能である」(増補改訂『日蓮』太田出版92頁)
わたしは、高木師の説が頷けます。
508
:
彰往考来
:2005/02/03(木) 12:45:41
>506
名無し@富士門流さん、
コラムのほうが菅原師の心情がよく現れていますね。
ご紹介ありがとうございました。
509
:
名無し@富士門流
:2005/02/03(木) 13:21:02
>508
彰往考来さん、
「興風」には以下の部分は無いのでしょうか?
******************************************************
二十四年前、私は高木豊先生に尋ねた。
「滝泉寺申状の異筆は日興筆といわれていますがどうでしょうか」
「それはあなた達がやるべき課題じゃないかね」
ようやく筆者にたどり着けた。生前にできなかったことを悔いながらも、今年七回忌を迎える恩師へご報告したい。
「先生、あれは富木常忍の筆でした」
******************************************************
(以上、御書システムコラムより転載。)
510
:
彰往考来
:2005/02/03(木) 19:08:52
>509
名無し@富士門流さん、
そうです。そのような内容はありません。最後にあるのは
**************************************
付記。私事ながら本稿を、本稿執筆中の平成一六年九月八日に逝去された元立正大学教授浅井圓道氏に捧げたい。氏には立正大学大学院の「法華玄義」講義を十年余りも聴講させて頂いた。謹んで速疾頓成を祈念申し上げ、生前の学恩に報いるため今後の精進をお誓いする次第である。
**************************************
でした。
511
:
犀角独歩
:2005/02/03(木) 22:01:45
507、打ち間違えました。
誤)除名運動
正)助命運動
除名のわけはありませんね。「除命」(こんな言葉はありませんが)なら、反対の意味になります。
スレッドの無駄遣いを避けるため、続けて記させていただきます。
名無し@富士門流さん:
彰往考来さん:
ご紹介のところを拝読させていただきました。ここに
「常忍はまさに訴訟に精通」とありますが、これは蓮師その人の特徴であると、わたしは思ってきました。興師観とともに頭の切り替えが必要と思った次第です。
『竜泉寺申状』について、高木豊師は「『日秀等陳状』と呼ぶべき」(『日蓮』208頁)と言い、この後文で「主導者日秀・日弁は日蓮の配慮で、下総の富木氏のもとに避難した」(同209頁)と記されています。
となれば、蓮師とともに陳状を記し、さらに身柄の受け入れまでも常師が行ったという一連の脈絡が、読み取れることになりましょうか。
513
:
名無し@富士門流
:2005/02/04(金) 02:41:24
犀角独歩さん、今晩は。
私は高木豊師の論考を呼んでいないのですが、これを機会に学んでみたいと思います。
514
:
名無し@富士門流
:2005/02/04(金) 02:45:39
>513
訂正です。
×呼んでいない
〇読んでいない
あわせまして、
「今晩は」を「おはよう御座います」に訂正いたします。
(恐らくこの書き込みを御覧になられるのは翌朝だと思いますので)
>510
彰往考来さん、
ご紹介ありがとう御座います。
私も「興風」16号を読んでみようと思います。
515
:
吉祥仙人
:2005/02/04(金) 07:09:49
犀角独歩さんへ
御教授有難うございました。
余計なことですが、安達泰盛については平左衛門尉の敵対者として、日蓮大聖人の
理解者とするコミックが手元にあります。
さらに御教授いただければと思うのですが、四条金吾への御書に「竜の口にいっしょに
来てくださってありがとうございました。」というのがあったと思いますが、これも
偽書なのでしょうか。
516
:
犀角独歩
:2005/02/04(金) 09:15:27
吉祥仙人さん:
実は蓮師の御一代というのは、ほとんどわかっていないというのが現状であることほど、驚く発見はありませんね。生まれた年月も、両親も、出生もよくわからず、四箇格言から遡って蓮師を崇拝し、紡がれた門下教学では修学当時のその影響がかき消されてきました。中世には持住崇拝の基礎理論として、派祖、さらに蓮師の崇重は病的に肥大します。その典型が日蓮本仏論です。ここで相伝類がその正当化を支えました。さらに中興の有寛二師の教学が蓮師の原形教学に取って代わられ、さらに偽書の混入もまた、その原形を曇らせていきました。この延長上に、もちろん、石山、法華講はあり、顕正会があります。また、創価学会の一般会員‘向け’教学もその影響下に留まっています。(しかし、創価大・菅野師『法華経入門』(岩波新書)などを読めば、すでに仏教学の成果を受け入れる将来的方途に向かっていることは看取できます。もう少し言えば、それ故、北林さんの件の本はお話にならないわけです。彼がその論の組立で、旧態依然とした100年前に崩壊した伝承神話をいまだ墨守するのは、その教学によって創価学会・池田さんを肯定してきた学会史から考えようとするからでしょう。しかし、このような論法は、結局、批判され、消え去るものにすぎません)
以上の背景で、ここ当板で議論されてきたのは、蓮師の実像を素描するということでした。
このような、前提があります。
> コミック
案外、こんな漫画は、創価学会員が蓮師一代を知る初歩的(もっと言えば、固定観念)知識の脚になっているのかもしれませんね。『希望の友』はそんな役割を担ってきたのかもしれません。しかし、基礎とする資料が上記のようなものでは致し方がありません。唯、コミックといっても、案外、これらの点を石山・創価教学にとらわれず、一般資料に基づいたのは手塚治師の『ブッダ』であったように思えます。学会教学眼から見ると首を傾げる仏伝に基づきながら、けれど、面白さに引き込まれた若いときの記憶があります。
> 四条金吾への御書
これは事実ではないでしょうか。真跡遺文に載るところですね。
先に挙げた高木師『日蓮』では、
「龍口(たつのくち)において、内意のとおり、日蓮はまさに頚を切られんとした。このとき、供をしてきた檀越四条頼基は日蓮の馬の口にとりついてなき悲しんだ。それは日蓮に「いかなる世にか忘(わすれ)なん」(『崇峻天皇御書』平遺694頁)といわせるほどの悲しみようであった」(92頁)
とあります。
以上、何度か、高木豊師『増補改訂版 日蓮 その行動と思想』を挙げましたが、同書は、一代記の、いまある書で、もっとも信頼がおける(と門下一般も考えている)からです。
学恩に基づき、興門の雄・上杉清文師がプロデュースしたものながら、生前にはその出版が間に合わなかった…、本のいずこにも上杉師は御自身のお名前を載せなかった…、そんな熱い情念を背負った1冊です。
『解題』を記された小松邦彰師(立正大学教授)は
万人に開かれた
公準として
日蓮聖人の生涯
「伝説のヴェールに包まれた
日蓮聖人伝を排し、
厳密な考証によって
その行動と思想の特色を論じ、
歴史としての客観的な
日蓮聖人像を作り上げた
高木仏教史学の画期的到達点。
旧版に「(二人の日蓮)改稿」、
「『立正安国論』再考」を増補した
決定版」(オビ文)
そして、このオビにだけ、本当に小さな字で「福神叢書(1)」と記されています。
上杉師、また、渋澤師の、人となりと思いが伝わる気がします。
この書を推薦します。
また、御遺文集としては『平成新修日蓮聖人遺文集』(発願編者・米田淳雄師/日蓮宗連紹寺不軽庵)を推薦しておきます。
517
:
犀角独歩
:2005/02/04(金) 10:50:23
516、一部、文書が落ちてしまいました。
「『解題』を記された小松邦彰師(立正大学教授)は」のあとに
−−「著者の高木豊先生は、先に『日蓮とその門弟』(昭和40年、弘文堂)を刊行し、宗教社会史的方法によって、従来の伝説のヴェールに包まれた日蓮聖人伝を排し、新たな日蓮聖人像を描き出そうとしていた。その姿勢は本書吸盤にも一貫するものであり…真跡遺文を中心に、厳密な考証によって日蓮聖人の行動と思想の特色を論じ、客観的な日蓮聖人像を作り上げた。…高木先生は『日蓮・日本思想大系14』(岩波書店)を刊行している。同書は日蓮聖人遺文の文献学的書誌学的研究に新しい時代を開いた画期的なものであったが、本書旧版にもその遺文研究の成果を見ることができる」(同鄱)
また、−−
という文章が入ります。
毎度、訂正、恐縮です。
518
:
愚鈍凡夫
:2005/02/04(金) 12:46:04
安達泰盛と言えば、「霜月騒動」を思い起こさせますが、平頼綱にとって泰盛は、さぞかし恨んでも恨み足りない相手だったんでしょうね。北条貞時を担ぎ上げ、奇襲を懸けて一族郎党を滅ぼすなんぞは、並の怨恨じゃないですね。 (((( ;゚д゚)))アワワワワ
519
:
犀角独歩
:2005/02/04(金) 22:23:45
愚鈍凡夫さん、それにしても、おもしろいと思うのは、蓮師というのは、そんな鎌倉時代の立て役者と、よくもまあ、関係していたなということです。
蓮師は、罪人ではありながら、やはり、その時代の表舞台を生きた人だったのでしょうか。
反面、まったくその歴史上では、生存が杳として明確ではない親鸞聖人とは好対照だと思うわけです。…、わたしは、聖徳太子とともに、親鸞、架空人物説に偏るのはそんな理由からですが…。
520
:
愚鈍凡夫
:2005/02/05(土) 08:22:28
犀角独歩さん、レス有り難うございます。
蓮祖が平安時代に生きた法然についてはしつこいほど言及しているのに対し、時代は前後するものの、同じ鎌倉時代を生きた親鸞に対しては一言も触れていないのは奇妙ですね。
普通に考えれば、蓮祖は親鸞の存在を知らなかったと考えられますが、親鸞が実在の人物であったとしたら、そこそこの有名人であったと思われますから、不思議ですね。
ひょっして、親鸞の境遇に自分を重ね合わせて共感していたりして・・・・・。
「じゃぁ、何故そのことが遺文にないんだよ!!」(by 外野席)
「むむっ・・・・・。言葉が喉に詰まった。誰かお茶を・・・・」 (-""-;)ムム・・・
「続史愚抄」に親鸞のことが記されているそうですね。
1262(弘長2)年11月28日 庚戌
親鸞上人(範宴、また綽空。初め慈鎮和尚の弟子と為る。後法然上人の弟子。本故皇后宮大進有範の子、右中弁有信朝臣の)寂す(九十歳)。
「吾妻鏡弘長2年」
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/126200.html
521
:
犀角独歩
:2005/02/05(土) 11:24:38
愚鈍凡夫さん:
ご紹介のサイトを拝見しました。
ここの文頭に「吾妻鏡に記載無し」とありますね。
これは、何を意味するのでしょうか。あとからの記載ということでしょうか。
《続史愚抄》ぞくしぐしょう
柳原紀光編の通史。81冊。正元元年(1259)から安永 8年(1779)までの521年間を記した朝廷の通史。寛政10年(1798)に自筆清書本が成立した。但しこの自筆清書本は既に焼失した。記事は簡略だが、元史料名を明記し、或は按文が附されている記事もある。引用元は「新訂増補国史大系(新装版)」(石狩市民図書館蔵)。
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/chrono/kaidai_sa.html
ぜんぜん親鸞聖人とは関係ありませんが、お札図柄から聖徳太子が外れたのは、日本国政府として、その存在に確信が持てないから、というのは本当の話なんでしょうか。ほかには、5万円札、10万円札が出来たときのためのストックなんて、話もありますが。
皆さん、『興風』の熟読でお忙しいようで、愚鈍凡夫さんとわたしだけで、当スレッドから脱線したようなテーマで話し合っていますね(笑)
522
:
愚鈍凡夫
:2005/02/05(土) 12:10:15
犀角独歩さん、どうも。
1262(弘長2)年に何があったのか分かりませんが、「吾妻鏡」には弘長2年がすっぽりと抜けていますね。
>>520
のサイトでは、「吾妻鏡」に記載がないから他の資料で弘長2年の出来事を補ったのではないでしょうか。
また、聖徳太子について、次の記述が真実であったとしたら、インド人にゴータマ・シッタルタは架空の人物であると言ってるようなものかも知れませんね。
**************************************************
厩戸王という一人の有力な王族が実在したことは確かだが、聖人として信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。その聖徳太子という人物が最初に登場するのは養老4年(720)に成立した『日本書紀』においてであり、その人物像の形成に関与したのは、藤原不比等・長屋王・道慈らであった。
その目的は、大宝律令で一応の完成をみた律令国家にあって、その主宰すべき天皇が、中国的聖天子像を体現した存在であることを歴史的に示すためであった。簡単に言えば、皇室の歴史の中に皇太子のモデルとして<聖徳太子>を創出し、これによって皇室の尊厳を確立しようとしたのである。その後不比等が亡くなり、長屋王の変後の天平年間に藤原武智麻呂・光明皇后を中心とした権力が確立するが、大地震・疫病流行など未曾有の危機に陥る。そのようなとき光明皇后は<聖徳太子>の加護を求めるため、行信の手引きで法隆寺に接近し、法隆寺を舞台とした新たな聖徳太子信仰を創出することになる。そこで成立したのが、薬師像・釈迦像・天寿国繍帳などの銘文や『三経義疏』などの法隆寺系の史料であり、さらに救世観音を本尊とした夢殿であった。
(『東アジアの古代文化』104号 「聖徳太子関係史料の再検討」・大山誠一 より原文抜粋)
**************************************************
吾妻鏡本文データ
http://www.nijl.ac.jp/databases/db-room/genpon/azumatop3.htm
「聖徳太子の虚像と実像」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/ooyamasetu.html
523
:
犀角独歩
:2005/02/05(土) 13:08:34
愚鈍凡夫さんは実在説派ですか。
わたしもいたほうが面白いとは思っています。
殊に聖徳太子については、梅原猛著『隠された十字架』(新潮社)は、学生時代に夢中になって読んだ記憶があります。また、恥ずかしながら、山岸凉子著『日出づるところの天子』(白泉社)、これもなかなか面白かったですね(コミックですが)
ただ、反面、架空の人物、出来事が、あたかも事実として、定着してしまう「歴史」というものの面白さも感じます。菊水御国さん(懐かしいHNです)がロムされていたら「ムッ」と反論されるかもしれませんが、天皇でも「日本国天神七代・地神五代・百王百代、人王…」と、こう来ますが天神・地神とは?とか、考えるとその成立には興味が惹かれます。また、『日本現報善悪霊異記』の記述は、中世の人々にとって、かなりリアリティがあったと思います。
まあ、そんなことと、聖徳太子、親鸞聖人の実在・非実在と結びつけて論じられる部分と、そうでない部分もありますね。しかしながら、興味深いテーマではあります。
524
:
犀角独歩
:2005/02/05(土) 13:13:22
間違えました。@菊水護国」さんでした。失礼。
525
:
愚鈍凡夫
:2005/02/05(土) 13:41:17
たぶん、日本武尊のように複数の人物の功績を、一人の人物に投影したのが聖徳太子であり、聖徳太子伝説ではないかと個人的には思っています。
古代から続く歴史の流れとして、人智を超えた昏迷の時代には、スーパーヒーローを求めるのが世の常なんだと思います。注目を集めた歴史上の人物が、歴史を重ねるごとに巨大化し、超人伝説として一人歩きしていくのかも知れません。
また、こうであってほしいといった願望が何時しか伝説化し、信仰と結びついたのが始祖信仰の始まりなのではないでしょうか。
526
:
犀角独歩
:2005/02/05(土) 14:03:12
> 525
そうでしょうね。
いまの時代は、それを、案外、コミックが担ってきたのかもしれません。
この前、ある学者さんと話していたら、「カルトごとに、信者が夢中になったコミック主人公がある程度、分類できそうだ」と。世界に誇る日本アニメが、実はアルカイダをモデルにしているという指摘まで飛び出していました。
こういう主人公、偉人伝が、投影される理想化された自画像(補助自我)と、分析できるのでしょうか。話は、さらに横道ですが、伏せ拝、長時間拍手なんかにご満悦という舞台装置に酔うのも、またその延長にあるのかもしれませんね。
527
:
彰往考来
:2005/02/05(土) 15:07:40
>521
犀角独歩さん、
お札から聖徳太子が消えたのは、聖徳太子非実在説よりも「聖徳太子および二王子像」(宮内庁所蔵)が、聖徳太子を現していないという説が主流になったことが一因と考えられます。
これについては、『肖像画をめぐる謎』(1998年、世界文化社)の22頁に加藤修さん(朝日新聞東京本社学芸部)が「聖徳太子および二王子像は誰を誰を描いたものなのか」という小論を書いています。そこから要点をかいつまんで引用しますと、
**************************************
「聖徳太子および二王子像」(宮内庁所蔵)が聖徳太子を描いたものではないのではないかと疑われている。タイミングを合わせたかのように高額紙幣の肖像からは、聖徳太子のカオが消えた。(中略)
日本の肖像画としてはあまり例のない立ち姿であることと、二人の王子を従えている構図などに、中国の影響がうかがえることが挙げられる。(中略)
製作年代に問題がある。聖徳太子が亡くなった六二二年。画像の製作時期は、八世紀中ごろとするのが一般的だが、服飾や法隆寺の再建時期などを考慮し、八世紀初頭とする説もある。いずれにせよ聖徳太子の没後一○○年ほどたってから描かれたものである。(後略)
**************************************
なお、同書24頁に
**************************************
お札に登場する聖徳太子は「聖徳太子および二王子像」をもとに大蔵省印刷局の磯部忠一氏が描いた肖像画がもとになっている。宮内庁本のイメージを変えずに、顔つきに陰影などが加えられている。聖徳太子は戦前から戦後に至るまで、紙幣への登場回数は7回に及び、最も登場回数が多い。
**************************************
とあります。
参考までに「源頼朝像」(神護寺所蔵)も源頼朝ではなく、足利直義(ただよし:足利尊氏の弟)を描いたものという説が現在では有力です。(同書12頁)一度茨城大学教授の鈴木暎一氏(鈴木氏は中学校歴史の教科書(東京書籍)を執筆しています)の講義を聴いたことがあるのですが、教科書で昔から「源頼朝像」として記載していたので、急にそうではないとは書けず現在の教科書では“源頼朝と伝えられる肖像画”という表現を使っているとのことでした。ちなみに愚息の教科書(『新しい社会 歴史』平成13年、東京書籍50頁)にこの表現がありました。35頁の聖徳太子像も“聖徳太子と伝えられる肖像”となっていました。 “〜と伝えられる”というのは“〜ではない疑いが強い”という意味なのですね。従って最近では「伝源頼朝像」(『肖像画をめぐる謎』13頁)と表現されています。『大田区史 資料編 寺社2』(昭和58年、東京都大田区)にある『伝・日蓮本尊』(1263頁)も同様の表現で、『大田区史 資料編 寺社2』のこの項に入集している御本尊は“日蓮大聖人の御真筆ではない疑いが強い”ということになろうかと思います。
by 彰往考来
528
:
愚鈍凡夫
:2005/02/05(土) 15:27:55
アニメと言えば、オウム真理教の幹部達が「宇宙戦艦ヤマト」世代でしたよね。空気清浄機に「コスモ・クリーナー」と名付けていたのには、ギャグかと思って笑ってしまいました。(^O^)
後で、恐るべきブラック・ユーモアと知って、ゾッとしましたが・・・・・。
> 話は、さらに横道ですが、伏せ拝、長時間拍手なんかにご満悦という舞台装置に酔うのも、またその延長にあるのかもしれませんね。
「伏せ拝」「長時間拍手」といった行為の中に、一般人と違う自分を見ているのかも知れませんね。在家教団独特の歪んだエリート意識と言いますか、「正しい信仰を持つ我々はあなた方とは違うのだ」といった、選ばれし者だけが共有する「至福の時?」に酔っているのでしょうか。そういった恐るべき勘違いをさせるための演出なんでしょうかね。
また、「正しい信仰」という根拠のない曖昧な言葉に、教団との間に「揺るぎない幸福」といった究極の現世利益が保証対象として存在すると思いこんでしまうんですよね。
529
:
吉祥仙人
:2005/02/05(土) 21:44:56
脱線を覚悟で書けば、オウムの最終戦争説・地震兵器はすべて山田ミネコ作
『ハルマゲドン伝説』シリーズからの引用と愚考いたしております。
530
:
犀角独歩
:2005/02/06(日) 00:06:39
527 彰往考来さん、有り難うございます。
なるほど、こういうことでしたか。わたしの又聞きより、説得度が違いますね。
また“〜と伝えられる”とは、所謂「伝・〜」という表記ですね。
この書き方が、載ると、所蔵者の誠実さを感じます。
531
:
犀角独歩
:2005/02/06(日) 03:16:42
吉祥仙人さん、『ハルマゲドン伝説』ですか。
わたしは、近くオウム問題をまとめなければならない仕事を抱えているのですが、これは一つ、読んでみようと思っています。また、本日は、島田先生にお会いするので、この因果関係は話題にしてみようと企んでいます(笑)
まあ、そのうち、オフ会(研究会)にもお運びください。歓迎します。
532
:
犀角独歩
:2005/02/06(日) 03:22:11
> オウム真理教の幹部達が「宇宙戦艦ヤマト」世代
愚鈍凡夫さん、そう、これはよく言われるところなんですね。
桃太郎と変わらない鉄腕アトムなんて、意見もあります。
年を食って、コミックを読まなくなり、久しい時間が経った自分ではありますが、将来、コミックは古典として扱われ、且つ時代に如何に反映したかなんて研究がなされるかもしれませんね。
考えようによっては、大乗経典はSF、コミックは鳥獣戯画のように扱って研究をする学書が現れる…、なんていう憶測は、あながち、外れていないかもしれません。
533
:
通りすがり
:2005/02/12(土) 00:36:36
http://www.myouhouji.com/noukotudou/noukotudou.htm
板御本尊、何番かな?
534
:
犀角独歩
:2005/02/12(土) 12:14:37
533 通りすがりさん:
なんだか鑑識眼テストみたいですね。
これは第97漫荼羅の模刻ですか。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/097.html
535
:
通りすがり
:2005/02/12(土) 17:51:52
独歩さん
今晩は、東金本城寺の板御本尊もと同じ相貌なので大きさとも、略変わらないので
ビックリしています。彫りが石山系とはちょっと違いますね。
富久成寺の紙本を東金本城寺の板御本尊として安置していますが、こんな感じです。
http://www.myouhouji.com/noukotudou/noukotudou.htm
536
:
犀角独歩
:2005/02/12(土) 19:20:16
通りすがりさん:
そうすると、東金本城寺、本門法華宗蓮華山妙法寺と、第97大漫荼羅が同じであるという意味ですか。
> 彫りが石山系とはちょっと違いますね
ちょっとというより、まるで逆ですね。石山では、墨の部分を深く掘り取ってしまい、ご紹介の板本尊は墨の部分を浮き彫りにして金を張っているわけですね。
どなたかの話によると、石山の彫刻本尊も、胤師までは、こんな感じであったそうで、それを廃仏毀釈の時、掘り下げて脱魂し、その魂を遷したのが蓮華寺の紙幅であるとか。
しかし、影師代と言われる信行寺板本尊も掘り下げなので、どうもこの点は、わたしは納得がいっていません。ただ、文献が見る限り、弘安2年に仮託する彫刻本尊が浮き彫りが、掘り下げかは読み取れません。
537
:
通りすがり
:2005/02/12(土) 21:27:14
独歩さん
すいません、同じというより相貌が非常に酷似しているという事です。
寸法も略同じぐらいで、特に首題と花押は妙法寺の御本尊と大差は無いです。
東金本城寺の御本尊様は猿島富久成寺さんのお写しという容になっています。
その猿島富久成寺の本堂安置の二十八世詳師の板御本尊は平彫りで、妙法寺
と同じ彫刻の手法で日蓮正宗寺院では大変に珍しい御本尊で有名です。
全く凹じゃなく凸で御文字の輪郭を彫り浮かび上がる姿は、猿島富久成寺さん
ぐらいでしょう。
538
:
通りすがり
:2005/02/12(土) 21:54:19
http://www.eps4.comlink.ne.jp/~shokeiji/itaman1.htm
これも、妙法寺御本尊と同じ浮き彫り本尊になりますね。
539
:
犀角独歩
:2005/02/12(土) 23:09:43
通りすがりさん、わたし、勘違いしておりました。
石山末の浮き彫り(凸)の板本尊ですね。
しかし、こちらはだいぶ、整っておりますね。
540
:
彰往考来
:2005/02/19(土) 19:45:29
>533-537
通りすがりさん、犀角独歩さん
533に示された四条畷妙法寺蔵(本門法華宗蓮華山妙法寺)の板御本尊は534で犀角独歩さんが指摘されているように第97番御本尊のお写しであろうと考えます。
但し535と536で指摘されている相貌が同じであるということ、すなわち相貌は
富久成寺紙本(茨城富成寺蔵御本尊)=東金本城寺=四条畷妙本寺=第97番 であるというのはちょっと違うと思います。
私は、
茨城富久成寺蔵紙本=東金本城寺=第85番 と 四条畷妙本寺=第97番 の2系列と思います。
茨城富久成寺蔵御本尊の配座は、『三和町史 資料編 原始・古代・中世』(平成4年、三和町)の403頁に記載されています。この記載が確かなものであると仮定すると、茨城富久成寺蔵御本尊には、第97番御本尊にはみられない“阿闍世大王”と“提婆達多”が配座していて、第85番御本尊(大村本経寺蔵、弘安3年卯月)と類似しています。(第84番は“南無伝教大師”が“阿闍世大王”の右にありますが、第85番は“南無伝教大師”が“阿闍世大王”の左にあります。茨城富久成寺蔵御本尊は“南無伝教大師”が“阿闍世大王”の左にあります。よって第84番より第85番のほうが茨城富久成寺蔵御本尊と類似しています。)
茨城富久成寺蔵御本尊は弘安3年太才庚辰卯月日との脇書があり、(『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』(昭和53年、創価学会、178頁)図顕年月は第85番御本尊と同じです。また茨城富久成寺蔵御本尊の大きさは不明ですが、『三和町史 資料編 原始・古代・中世』によると弐枚続とのことです。なお、第85番御本尊は一紙(丈60.9センチ、幅38.2センチ)です。このことから、茨城富久成寺蔵御本尊が第85番御本尊の模写の類である可能性は低いと思います。ここで使用している“=”はあくまで相貌が同じという意味です。
私は茨城富久成寺さんと東金本城寺さんの御本尊は実物、写真とも拝見していないので、“茨城富久成寺蔵紙本=東金本城寺”との内容は537によります。
以上のことから相貌は
茨城富久成寺蔵紙本=東金本城寺 と 四条畷妙本寺=第97番 の2系列であるといたしました。
by 彰往考来
541
:
犀角独歩
:2005/02/19(土) 23:37:23
彰往考来さん、ご教示有り難うございます。
写真その他で考証いたしてみようと思います。
542
:
尾池
:2005/03/31(木) 21:41:18
http://page11.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n14634453
に出品中の宗祖御本尊?真偽は如何
543
:
犀角独歩
:2005/04/01(金) 00:08:25
> 542
値段も笑えましたが、
> 日蓮大聖人が中山法華寺で修行中、本御曼陀羅を書かれ同寺で保存
蓮師の存命中に「中山法華経寺」があったのでしょうか(大笑)
544
:
尾池
:2005/04/01(金) 11:07:07
真偽は偽の方が濃厚ですね。
落札金額も笑えますね、落札するのであるなら、資産家か宗教団体しか
落札出来ませんね^。^
545
:
犀角独歩
:2005/04/01(金) 12:06:43
尾池さん、はじめまして。
仰るとおりであろうと思います。
546
:
彰往考来
:2005/04/01(金) 12:47:04
>542
写真が不鮮明なので、よくわかりませんが、
配座は19番御本尊に類似しているようです。
文永期の特徴がでていますが、経の字などは
弘安期の書き方のようで、まず偽筆でしょう。
価格は30万円といったところでしょうか。
表装のみの価格です。本体価値はありません。
彰往考来
547
:
がらくた@岐阜県
:2005/04/30(土) 17:33:09
この御書は偽筆なのでしょうか ?
http://www.kosho.ne.jp/~kotenkai/tokusen/gazo/gp2805.html
日蓮宗寺院やその他門流にも宗祖筆という断簡や曼陀羅本尊が随所に格護
されていますけど、お分かりになる方ご教示願います。
548
:
れん
:2005/04/30(土) 20:14:34
皆さんお久しぶりです。
がらくた@岐阜県さん、初めまして。御提示の断簡を拝見しました。保存状態が多少悪いためでしょうか、画像の映りが悪いですが、一応見た限りでは、真筆のようにも見えます。これが蓮師の真筆ならば御書=著作ではなく、聖教(仏教文献)写本の類と思われます。立正安国会の故山中喜八師の研究によると、蓮師は文永から弘安元年にかけて注法華経編纂のため、各宗の聖教類の収集・書写を集中的に行っていましたから、これが真筆ならば当該時期の聖教写本と見るのが至当と存じます。
伝蓮師筆の曼陀羅・著作・写本の真偽判定については、所謂宗派教学によることなく、安国会の片岡随喜師・山中喜八師の如く、真筆をもって真筆か否かを判断するのが一番確実だと思います。以上ご参考までに。
549
:
がらくた@岐阜県
:2005/04/30(土) 23:56:15
れんさん、ご教示有難う御座います。
写本類などは、宗祖が数多にわたり残されていたのですね。
未だに発見されていない断簡などは、今後の研究が期待されますね。
筆法などでは、上記の断簡は宗祖の特徴が、法蔵館日蓮聖人真蹟集成5巻に
紹介されている断簡類に酷似しているので私は間違いないと思います。
有難う御座いました。
550
:
犀角独歩
:2005/05/01(日) 06:55:28
れんさん、ご無沙汰しています。お元気そうで何よりです。
わたしごとですが、数年前、とある本山格の寺院で宮崎英修師が鑑定し、真筆と断じたという、何と『開目抄』の断片を、個人的に間近に拝観しました。これがほんものであったかどうか。文字はたしかに蓮師のものに似通っていました。何より、その時に印象に残ったのは、紙の質、墨の色、また筆の走りでした。こうした点は、やはり、現物を手に取らない限り判らないと実感したものでした。
蓮師、真跡の現物を一々に手に取ってきた人の経験値は、そんな具合で蓄積されているのだろうと思ったものでした。
551
:
れん
:2005/05/02(月) 22:24:43
犀角独歩さん、ご無沙汰しております。仕事が忙しくこのところはロム専でおりました。
宮崎英修師が蓮師真筆と鑑定された開目抄の断簡を拝観されたのですか。それは貴重なご経験をされましたね。
開目抄については真筆は身延曽存ですが、身延曽存の本(日乾師写本により原型がうかがい知れます)より現行流布本の系統の写本の方が文章が整足しており、身延曽存本は草案本で流布本は清書本ではないかとの学説がありますが、独歩さんが御覧になられた「開目抄断簡」がどちらの系統に属するものか、少しばかり興味が湧きました。
真筆か否かの判定は、やはり、独歩さんの仰るとおり多くの真筆に直接ふれた経験がものをいうでしょうね。その点、宗派教学によらず、専ら真筆によって真筆か否かを鑑別するという方法によって多くの蓮師の真筆を発掘してその写真版を刊行された立正安国会の故片岡随喜師・故山中喜八師の業績は、近現代における蓮師真筆研究の基礎を固めたものとして素晴らしいものと思います。
552
:
犀角独歩
:2005/05/03(火) 00:59:44
551 れんさん、浅学の浅はかさ。ご指摘の点はまったくわたしにはわかりませんでした。ただ、たしかに現代では見たことのない紙質、緑がかって見えるの古色、筆の走りがわずかに見える墨色など。目を惹くとことろは多くありました。
しかし、宮崎師真跡お墨付きと言っても直ちに信じないのが私という人間であることはご承知のとおり。鑑定というのであれば、せめて紙の繊維の拡大写真、紙と墨の成分分析結果、年代判定と言った科学資料が付されて然りであると思います。
彫刻本尊のように鮮明な写真すら公開しないで本物だと豪語するばかりであれば、不鮮明な写真から類推するほかありませんが、現物がありながら検査・調査・分析もしないというのは、学的態度としては、怠慢以外の何ものでもありません。率直に言えば、学者の風上にに置けません。これはいまでは蓮師漫荼羅の鑑定の第一人者と相成った例の御仁に特に言えることです。殊更、御書真偽を論ずるに「こんな格調の高い文章は日蓮大聖人をおいて書けるはずはない」と言った類の思い込みには付き合う気も起きません。
けれど、たしかにれんさんが、挙げられるお二方の研究には、そのような科学的アプローチはないものの敬意を表します。しかし、旧態依然に属するでしょう。百年一昔前の鑑定を21世紀になった今でも踏襲するだけで事足りたする古文書研究の有様には納得が行きません。
もちろん、これはれんさんのお言葉を返す意図に基づく投稿ではないことはおことわりしておくことにしておきます。ご返信を深く感謝申し上げるものです。
553
:
れん
:2005/05/03(火) 11:45:42
犀角独歩さん、仰るとおり現代における「鑑定」に於いては、‘見た目’だけではなく、放射性炭素による年代測定をはじめとする科学技術を用いた鑑定で万全を期すべきことは言うまでもありませんね。真筆といわれるもののなかには精密な模写や形木もありえますし。
とはいえ、今から七十年程昔、多大な私財を費やしてくまなく全国の蓮師門下寺院を探訪し、片岡師山中師が真筆資料(中には戦災により焼失してしまったものもあります)を写真版として刊行したことは、今日の真筆の学的研究の先鞭をつけ、その基礎資料を学界に提供したという点において、私は評価しております。
554
:
犀角独歩
:2005/05/04(水) 00:06:03
れんさん、仰るところはまったく賛同します。
そのうえで、今は70年前ではありませんので、70年経ったところから、過去を敷衍した上で研究がなされるべきであるというのがわたしの申し上げていることです。
555
:
鳥辺野
:2005/05/06(金) 23:53:51
皆さんはじめまして、鳥辺野と申します。399で彰往考来さんが発表されました、要山の大聖人筆御本尊の中の、「符法本尊」でしたら要山の宗務院にて御守として販売されているはずです。御守の外観は神社等で売っている物とほぼ同様ですが、「本山要法寺御守」と書かれた和紙の包み紙の中に、小さな曼荼羅が入っています。曼荼羅に書かれている文字は小さすぎてよく読み取れませんが、虫眼鏡で見れば確かに左下に「建治二年太歳丙子正月元日」と書いてあります。曼荼羅の相貌はどちらかというと、本尊集ナンバー26番や27番に似ているように見えます。ただこの時期にはない四天玉の上に「大」の字が冠さっていますので私自身購入した当初から不自然に思っていました。購入したのは平成15年の12月頃でしたが、そのときはほかの書籍「日宗年表」や「日大上人」等も一緒に購入しましたので御守の値段ははっきり覚えておりませんが、確か400円〜800円位だったと記憶しています。真偽未決の曼荼羅ではありますが私にとっては大事な御守であります。いつも仕事の時は肌身離さず持っております。余談ですが昨年末には再び要山に参詣し、その近くにある末寺、実法寺(尊師、郷師建立の鳥辺山御廟所:目師、要山歴代の御墓)にもお参りしてきました。
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