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つぶやきすれっど2

1管理者:2002/12/15(日) 15:25

つぶやきすれっどが、1000レスを越えて、使えなくなりましたので、新たに、つぶやきすれっど2を立ち上げました。よろしくお願いいたします。

何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!
本音、弱根を、思う存分サラしてみましょう!

499犀角独歩:2003/02/14(金) 11:23

Leoさん:

> 一部の仏教界でも「民は由らしむ可し、知らしむ可からず」

なかなか適切な言葉を引用されますね。
まさにこのとおりです。しかし、「一部の仏教界」ではないでしょう。全仏教界、殊に学会を含む石山系の際だった特徴でしょう。

昨日、こちらにも投稿されるとある御仁から、非常に興味深い情報が寄せられました。
たぶん、今後、富士門流教学研究の中心となるであろう拠点で、日蓮真跡遺文の研究会が向こう10年近くの予定で始められるということでした。

もう一つ。学会でも四半世紀前から注目してきた人物が、近く梵本直訳の法華経の出版に着手するとのことでした。これもまた、上述と同様の拠点からであるといいます。

上記、二つの出来事は今後の「日蓮」動向を大きく変えていくものとなることでしょう。その成果がようやくと実を結ぶのはいつのことか、また四半世紀もあとのことになるかも知れません。しかし、確かにいま大きく変わりつつあります。

漫画を読んでいた子どもも長じては文を読むようになります。
生命論は漫画としては面白かったのですが、SFコミックを超えるものではありませんでした。漫画を捨てて良書を読むことで日蓮の実像は知られることになるのでしょう。

私も学会から出た一人として、漫画を捨て書を読む、日々を送りました。それは漢字だらけの書物でした。しかし、その守文はさらに心を頑なにしました。

冷静になって仏教学会に眼を向ければ、仏徒は原典を追っていたのです。僅か100年前からの出来事です。そこで気付かれたのは、2000年前の神話時代の原典は、さらにその500年前のものより神話的であるという事実でした。

どの方向に自分が歩むことが賢明か、どうかその道を過たず、お進みください。
違う道から歩み出しても、その道の到着点が同じであれば、いつかまた、お会いすることになるでしょう。何年先か、あるいは何十年先か、涅槃の先かわかりせんが、再会を楽しみにしております。

500菱村正敏:2003/02/14(金) 20:39
その道の到着点が同じであれば、いつかまた、お会いすることになるでしょう→一切衆生、到着点は違うし同じ。日蓮や釈迦の呪縛から解放されるともっと楽に生きられるかもね。リラックスリラックス。ご苦労さまでした。

501問答迷人:2003/02/16(日) 07:47

133060 ゲットしました。

502犀角独歩:2003/02/16(日) 11:30

> 499

自己レスです。「再会」などと勝手なことを書いてしまいました。
再会するのは個人と、ということではなく、「考え」にということになるでしょう。
そんな意味でした。

503犀角独歩:2003/02/16(日) 11:55

かつて、問答名人さんとアネモネさんと3人で沸騰した議論をしたことが懐かしく思い出されます。ここに初めてお邪魔したとき、私はまだ戒壇本尊論者でしたし、日蓮本仏論者でした。唯授一人血脈相承も信奉していました。

本当に多くの学びと問答名人さんと議論ができたことを嬉しく思います。
そして、アネモネさんと議論し合えたことを嬉しく思います。

富士門教学に引きずられていたときが序分であれば、3人で語り合ったことは正宗分、そのあとは流通分といったところでしょうか。

時間は、あっという間に過ぎ去ってしまうものですね。気付きがなければ、意味なく人生は終わってしまうでしょう。鷹揚に構えている暇はないと考えています。

いちりんさんが記された「気付き」は実に重要でした。私たちに共通する点ではないかと思ってきました。

執着のあるところには自己弁明と言い訳…、こうあって欲しいという願望だけがあり、そこにしがみつく姿は、離れた辺から見ると、滑稽とも、哀れとも映じます。石山人であった過去の自分は、そう想い起こされます。

手が届かない天空と思い仰ぎ見ていたものは、執着を離れて見れば、自分が踏みしめている大地でした。その大地から仰ぎ見る天空は、過去半世紀眺めてきた天空より遙かに広大なものでした。

そんな気付きに向かい、3人で語らい会える時間を持てたこと。懐かしいですね、あの頃のことは。お会いできてよかった。

以下の言葉をかみしめて、また独り歩いていこうと思います。

「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」
これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった。

504五月雨:2003/02/16(日) 12:24

独歩さん

私は、去年の春頃にこの掲示板に巡り会い、そしてやり取りされた議論を読ませて頂きながら、沢山のご質問を独歩さんにしました。もしかしたら、私が一番独歩さんに数多くのご質問をしたかもしれません、いつも独歩さんは真摯に答えて下さいました。
当時石山信仰から脱けきれていなかった私には、それは衝撃的ではありましたが、「真実にたいして正直であれ」というお言葉を道しるべに石山の真実を見てきました。
そしていま、石山信仰の呪縛から解き放たれた私があるのは、独歩さんのお陰です。有り難うございました、心から感謝を申し上げます。

独歩さんが居なくなった掲示板は寂しくなりますが、どうぞお元気でいらして下さい。

505アネモネ:2003/02/16(日) 15:41
犀角独歩さん

この約2年間の掲示板での議論の数々を振り返られ、私のことも思い出に数えて頂いたこと、心より嬉しく思います。

どれほど多くのことを学ばせていただき、気づかせて頂いたでしょうか。
理解するまでには、かなりの時間とレスを要したこともあり、理解し納得する過程においては、ついつい感情的になってしまったことも幾度となくありました。
今となってはそれも良き思い出であり、全てが感慨深く、とても言葉には尽くせない思いです。
それでも敢えて言葉にするならば、少し前の独歩さんのレスの中にありました「一刹那」と「奇跡」という言葉が、今の私の心境に近いものだと感じています。

犀の角のようにただ独り歩む「犀角独歩」さんの、そのただ独りの歩みの一刹那において、実に多くの人々をこの掲示板に集め、意義深い議論を重ねてきて下さいました。
その交わりの場で共に過ごし学ばせて頂いたこと、振り返ればまさに一刹那の奇跡だったようにさえ感じております。

その交わりは長く続いていくものだと思っておりました。
しかし、移り変わっていくことも受け入れなければならないということを、最後に教えられたのかもしれません。

それでも、どうぞまた懐かしくなったら、いつでもお立ち寄りください。
本当に、ありがとうございました。

506無徳:2003/02/16(日) 19:20
皆さん今晩は:

何か独歩さんがこの掲示板でのやり取りから引退するかのような、お話になっ
ているようですが本当でしょうか?

もしそうであるとしたら残念ですね、それに、この掲示板はプロの書き手が集
まる言説空間ではないでしょうから、引退的なけじめはなさらなくてもよいの
ではと思うんですが、

確かに独歩さんが中心的書き手であったことは事実ですが、もっと気楽な形で
の参加でよろしいのではないでしょうか?

ただ、独歩さんの持たれる性格からはっきりしたけじめを就けたいとお考えで
あれば、それも仕方ないかなとは思います。

どちらにしても、まずは独歩さんお考えをお聞きしてから書くべきコメントで
した。

509問答迷人:2003/02/16(日) 21:15

独歩さん

>かつて、問答名人さんとアネモネさんと3人で沸騰した議論をしたことが懐かしく思い出されます。ここに初めてお邪魔したとき、私はまだ戒壇本尊論者でしたし、日蓮本仏論者でした。唯授一人血脈相承も信奉していました。

独歩さん、本当に有り難う!

独歩さんとの議論を通して、僕は、戒壇本尊、日蓮本仏、唯授一人血脈相承という、大石寺教学の根幹が、如何にその根拠が薄弱なものかと言うことを、まざまざと知ってしまいました。本当に貴重な二年間であったと思います。幾度もお会いして、独歩さんの真摯な姿勢に、頭の下がる思いを幾度したことでしょう。

今後、独歩さんは、富士門信徒という枠を超えて、大きくご活躍されることになるのだとご拝察申し上げ、その成果、戦果に大いに期待致しております。

それにしても、寂しくなります。時々は掲示板を覗いてみて下さいね。

510Leo:2003/02/16(日) 21:40
独歩さん

>どの方向に自分が歩むことが賢明か、どうかその道を過たず、お進みください。
>違う道から歩み出しても、その道の到着点が同じであれば、いつかまた、お会いすることになるでしょう。
>何年先か、あるいは何十年先か、涅槃の先かわかりせんが、再会を楽しみにしております。

今までのご教示と今回のアドバイスありがとうございました。

>自己レスです。「再会」などと勝手なことを書いてしまいました。
>再会するのは個人と、ということではなく、「考え」にということになるでしょう。
>そんな意味でした。

了解しました。
(機会がございましたら「個人」としても一度ご挨拶申し上げたいと思っておりました)

511いちりん:2003/02/20(木) 21:30
書き込みが止まってしまって、淋しいですね。

512タロウ:2003/02/21(金) 01:01
興門以外の本尊観について、知りたいです。

513問答迷人:2003/02/21(金) 08:15

いちりんさん こんにちは

本当ですね。今までは、独歩さんが頑張っていて下さったので、次々と書き込みが有りましたが、やはり淋しくなってしまいました。これを、一つの節目として、今までの議論を整理しながら、新しい展開を模索したいと思っています。宜しくお願いいたします。

タロウさん 

以前、独歩さんのご紹介で、富士宮にある、日蓮宗のお寺にお邪魔したことがあります。そこには、紙幅の曼陀羅が奉掲され、その前に釈尊像が祭られていました。一尊四士だったように記憶しています。久遠実成の釈尊を本尊とするわけで、木像の仏像を本尊としていました。また、信徒さんに対しては、信徒さんが総本山の身延山で買ってきた曼陀羅に、住職が裏書きをして、各家庭に祭る形を取っていると話しておられました。たしか、身延山で売っているのは、日蓮聖人の真筆曼陀羅を印刷したもの。

134148 ゲットしました。

514脱会者:2003/02/21(金) 10:04
某学会批判の掲示板で下記の書き込みを見たのですが、日蓮大聖人は釈明の手紙を書いているのでしょうか?
とても気になって仕方がないので、場違いな書き込みですが、知ってる方がいましたら教えていただけないでしょうか。
>法華経の行者は迫害される”というのは、
「観持品第十三」に書かれていること。
日蓮もこれをもって自分は法華経の行者であると
自認していた。
もっとも次の「安楽行品第十四」にて、
法華経を広める者は、他宗を批判しないように
とも書かれている。
当時の日蓮は弟子にこのことを突っ込まれて
釈明の手紙を書いているはず。

515いちりん:2003/02/21(金) 11:40
うわっ。風呂に入っていて、いま気がついた。
大日蓮展は、今月の23日までだ。
土日は、混むだろうから、これから行かなくちゃ。

516問答迷人:2003/02/21(金) 11:40

脱会者さん

開目抄下 574頁(大石寺版)に以下のようにあります。

疑って云はく、念仏者と禅宗等を無間と申すは諍ふ心あり。修羅道にや堕つべかるらむ。又、法華経の安楽行品に云はく「楽って人及び経典の過を説かざれ。亦、諸余の法師を軽慢せざれ」等云云。汝、此の経文に相違するゆへに、天にすてられたるか。答へて云はく、止観に云はく「夫仏に両説あり。一には摂、二には折。安楽行に長短を称せずといふが如きは是摂の義なり、大経に刀杖を執持し、乃至首を斬れといふは、是折の義なり。与奪、途を殊にすと雖も倶に利益せしむ」等云云。弘決に云はく「夫仏に両説あり等とは、大経に刀杖を執持すとは、第三に云はく、正法を護る者は五戒を受けず、威儀を修せず。乃至下の文、仙予国王等の文、又、新医、乳を禁じて云はく、若し更に為すこと有れば、当に其の首を断つべし。是くの如き等の文、並びに是破法の人を折伏するなり。一切の経論此の二を出でず」等云云。文句に云はく「問ふ、大経は国王に親付し、弓を持ち箭を帯し、悪人を摧伏せよと明かす。此の経は豪勢を遠離し、謙下慈善せよと剛柔碩いに乖けり。云何ぞ異ならざらん。答ふ、大経は偏に折伏を論ずれども、一子地に住す。何ぞ曾て摂受無からん。此の経は偏に摂受を明かせども、頭破七分といふ。折伏無きに非ず。各一端を挙げて時に適ふのみ」等云云。涅槃経の疏に云はく「出家・在家、法を護らんには、其の元心の所為を取り、事を棄て理を存して、匡しく大経を弘む、故に護持正法と言ふは小節に拘らず、故に不修威儀と言ふなり。○昔の時は平らかにして法弘まる。応に倶に戒を持つべし、杖を持つこと勿れ。今の時は嶮にして法翳る。応に杖を持つべし、戒を持つこと勿れ。今昔倶に嶮なれば応に倶に杖を持つべし。今昔倶に平らかなれば応に戒を持つべし。取捨宜しきを得て一向にすべからず」等云云。汝が不審をば、世間の学者、多分道理とをもう。いかに諌暁すれども、日蓮が弟子等も此のをもひすてず。一闡提人のごとくなるゆへに、先づ天台・妙楽等の釈をいだして、かれが邪難をふせぐ。夫、摂受・折伏と申す法門は、水火のごとし。火は水をいとう、水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう、折伏の者は摂受をかなしむ。無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす、安楽行品のごとし。邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品のごとし。譬へば、熱き時に寒水を用ひ、寒き時に火をこのむがごとし。草木は日輪の眷属、寒月に苦をう、諸水は月輪の所従、熱時に本性を失ふ。末法に摂受・折伏あるべし。所謂、悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国の当世は悪国か、破法の国かとしるべし。

517脱会者:2003/02/21(金) 21:35
問答迷人さん
御書の語文並びに現代訳まで載せていただき、ありがとうございました。
自分は学がなくて理解不能です。(汗
用語辞典を片手に、何度も読み返して見ようと思います。

518いちりん:2003/02/21(金) 22:48
日蓮さんが、自分は「法華経の行者である」という自覚というか確信を得たのは、やはり観持品の偈からだったのでしょうかね。

しかしまあ、その観持品の偈というのは、「迹化の菩薩」の決意表明であるわけですよね。
であるとしたら、観持品の偈を身で読んだということは、自らが、「迹化の菩薩」ということになってしまうわけです。

でもって、お釈迦さまは、安楽行品において、そんなに気張らんと無理せんでもいいよ。というわけですね。あっちこっちぶつかって、強情をはって布教するのは、違うのだよと。

519三吉:2003/02/21(金) 23:10
強情はって布教するのは違うというのには賛成ですが。。。
布教つーのは「後姿」でせいと思いますが。。
以下、つぶやきです

安楽行品はさいてーだと私は思います。
無理するな=「こーいうヤツには近寄るな」ですから。

あいつは危ないヤツだから近寄るな。
そんなことはいわれんでも日常的にしておる私がいる。


日蓮さんは安楽行品の摂受より、不軽品の折伏といわれた。

すぐ他人様を馬鹿に軽蔑し、悦に入る愚かな私がいるが、
「誰をも軽んじない」姿勢こそが仏教者の生き様との日蓮さんの
メッセージではないかと私は受け止めております。

520問答迷人:2003/02/22(土) 10:13

三吉さん

いつも書き込み有り難うございます。

>「誰をも軽んじない」姿勢こそが仏教者の生き様との日蓮さんのメッセージ

不軽品の折伏とは、具体的には、どのような姿を言うとお考えでしょうか。やはり、堪え忍んで、誰をも軽んずることなく、黙々と菩薩道を行じる姿でしょうか。或いは、声高々と、法華最勝を掲げて、他宗を強く責める姿でしょうか。如何お考えでしょう。お考えをご教示戴ければ幸いです。

521脱会者:2003/02/22(土) 11:46
514の書き込みをした者ですが、
>当時の日蓮は弟子にこのことを突っ込まれて釈明の手紙を書いているはず。
の手紙が「寺泊御書」と判明しました。

523問答迷人:2003/02/22(土) 23:38

脱会者さん

寺泊御書の該当個所は以下の通りですが、まだ、この段階では、釈明が完結していないように思います。やはり、開目抄の516 の前掲文に至って、釈明が尽くされたと言えるのではないでしょうか。

寺泊御書   文永八年一〇月二二日  五〇歳(大石寺版御書486頁)

 或人(あるひと)日蓮を難じて云はく、機を知らずして麁義(あらぎ)を立て難に値(あ)ふと。或人云はく勧持品の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違すと。或人云はく、我も此の義を存ずれども言はず」云云。或人云はく、唯教門計りなり、理は具(つぶさ)に我之を存ずと。卞和(べんか)は足を切られ、清丸(きよまろ)は穢丸(けがれまろ)と云ふ名を給ひて死罪に及ばんと欲す。時の人之を咲(わら)ふ。然りと雖も其の人未だ善き名を流さず。汝等が邪難も亦爾(しか)るべし。勧持品に云はく「諸の無智の人有って、悪口罵詈(あっくめり)す」等云云。日蓮此の経文に当たれり。汝等何ぞ此の経文に入らざる。「及び刀杖を加ふる者」等云云。日蓮此の経文読めり。汝等何ぞ此の経文を読まざる。「常に大衆の中に在って、我等の過(とが)を毀(そし)らんと欲す」等云云。「国王・大臣・婆羅門(ばらもん)・居士に向かって」等云云。「悪口して顰蹙(ひんじゅく)し、数々擯出(しばしばひんずい)せられん」と。数々(さくさく)とは度々(たびたび)なり。日蓮が擯出は衆度(たびたび)、流罪は二度なり。法華経は三世説法の儀式なり。過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は過去の不軽品なり。今の勧持品は未来に不軽品たるべし。其の時は日蓮は即ち不軽菩薩たるべし。一部八巻・二十八品、天竺の御経は一須臾に布(し)くと承る。定めて数品有るべし。今漢土・日本の二十八品は、略の中の要なり。正宗は之を置く。流通に至って宝塔品の三箇の勅宣は、霊山(りょうぜん)・虚空の大衆に被らしむ。勧持品の二万・八万・八十万億等の大菩薩の御誓言は、日蓮が浅智に及ばず。但し「恐怖(くふ)悪世中」の経文は末法の始めを指すなり。此の「恐怖悪世中」の次下の安楽行品等に云はく「於末世」等云云。同本異訳の正法華経に云はく「然後(ねんご)末世」と。又云はく「然後来末世」と。添品法華経に云はく「恐怖悪世中」等云云。当時、当世三類の敵人之(これ)有るに、但八十万億那由他(なゆた)の諸菩薩は一人も見へたまはざるは、乾(ひ)たる潮(しお)の満たず、月の虧(か)けて満ちざるが如し。水清(す)めば月を浮かべ、木を植ゆれば鳥棲(す)む。日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官として之を申す。彼の諸の菩薩の加被(かび)を請くる者なり。

524いちりん:2003/02/22(土) 23:47
寺泊御書って、なかなかいい御遺文ですね。

過去の不軽品は今の勧持品
今の勧持品は過去の不軽品なり
今の勧持品は未来に不軽品たるべし
其の時は日蓮は即ち不軽菩薩たるべし

また、


日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官として之を申す

て、なかなかすごいですよね。
まさに、佐渡流罪に入るときですよね。
生きて帰ることはできないかもしれない、そういう思いも日蓮さんには、あったことでしょうね。
そして、弟子・檀那たちは、ものすごく動揺している。

525:2003/02/23(日) 03:41
折伏摂受

まず折伏摂受適宜は『勝鬘経』の説である。(該当箇所)
http://www.buddhist-canon.com/SUTRA/DCX/FBaoJi/T120217c.htm
上宮太子はこれを『涅槃経』の勢力折伏の説(該当箇所)
http://www.buddhist-canon.com/SUTRA/DCX/GNiePan/T120381a.htm
と折衷し、注した。(該当箇所)
http://www.socket.co.jp/sanbouji/pdf/00084.pdf

日蓮の摂折観も基本は勢力折伏・道力摂受である。

此ノ四菩薩折伏ヲ現ズル時ニハ賢王ト成ツテ愚王ヲ誡責シ、攝受ヲ行ズル時ニハ
僧トナツテ王法ヲ弘持ス。-『観心本尊抄』
「賢王」とは元の世祖フビライ・ハンをいい、「僧」とは日蓮自身を指す。

正法ヲ行スルモノヲ國主アタミ。邪法ヲ行スル者ノカタウトセハ。大梵天王帝釋日月
四天等隣國ノ賢王ノ身ニ入カワリテ。其國ヲセムヘシトミユ。例セハ訖利多王ヲ雪山下王ノセメ。大族王ヲ幼日王ノ失カコトシ。訖利多王ト大族王トハ月支ノ佛法ヲ失シ
王ソカシ。漢土ニモ佛法ヲホロホシシ王ミナ賢王ニセメラレヌ。コレハ彼ニハニルヘクモナシ。-『報恩抄』
しかし日蓮は道力摂受の中に更に摂折があるとし、かつ摂折の意味が逆転している。

「今の勧持品は未来に不軽品たるべし、其の時は日蓮は即ち不軽菩薩たるべし」

日蓮は摂受の中の摂受は未来の目標とし、摂受の中の折伏を行なったといえる。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/

526顕正居士:2003/02/23(日) 03:51
上は顕正居士です。なお。

「摂折の意味が逆転している」のは悪律儀を摂受し、破戒を折伏する、『勝鬘経』とは
逆転している意味です。

527問答迷人:2003/02/23(日) 11:18

顕正居士さん

少し、質問させて下さい。

>「賢王」とは元の世祖フビライ・ハンをいい、「僧」とは日蓮自身を指す。

この本尊抄の文の、このような読み方は、今、初めてお聞きしましたが、日蓮聖人の元意は、そうであったのであろうと改めて、納得しました。

>悪律儀を摂受し、破戒を折伏・・

この点、理解が出来ませんので、お聞きします。聖徳太子は、軽悪は摂受、重悪は折伏、と述べていますが、太子の段階では、勝鬘経に則っていたのに、日蓮聖人が逆転させて用いていると言うことでしょうか。

>日蓮は摂受の中の摂受は未来の目標とし、摂受の中の折伏を行なったといえる。

ここも、少し意味が取れませんが、勧持品は摂受の中の折伏を説き、不軽品は摂受の中の摂受を説いていると言う意味合いが有ると言うことでしょうか。

528問答迷人:2003/02/23(日) 15:53

134614 ゲットしました。

529顕正居士:2003/02/23(日) 19:39
問答迷人さん。今成元昭師が日蓮摂受本懐を唱えておられるが。
http://www3.cnet-ta.ne.jp/o/otowatid/p4c2.htm
「折伏」は力により屈服させる意味の語で通常は「以不淨觀折伏煩惱令不得起」
(不浄観をもって煩悩を折伏し起こることを得ざらしめよ・阿育王経)のように使う。
「摂受」は「摂取」と同じ語で教えなどを受容する(absorb)意味と衆生を摂護する
(conserve)意味とある。「摂受正法」は受容、「摂取不捨」は摂護である。
「勢力折伏」は王者が刑法を制定し警吏が犯罪者を捕縛するなどをいう。なんら
道徳観念を持たない者に五戒を説くなどはできないゆえ、折伏は在家菩薩には
摂受と同様に修行だが、要するに「折伏」は権力をもって悪人を退治する意味で
弘教の方法などではない。

本尊抄の「行折伏時〜」の文により、日蓮の摂折観は特別でないといえる。
しかし出家菩薩の弘教について「折伏」を使う文がある。たとえば『佐渡御書』 。
http://nakanihon.net/nb/gosyo//sadogosyo.htm
これらの文がある遺文にはほとんど真蹟がない。今成師はぜんぶを偽書とし、
真蹟遺文の問題箇所も後人添加とする。だが、日蓮には自らの弘教が勧持品
の説相に合致したという自覚があった。「法華経の行者日蓮」の体験は遺文の
主内容である。かつ日蓮は浄土、真言の祖師、自身所属の山門の円仁を謗り、
同時代の忍性については限度を越えている。『崇俊天皇御書』(真蹟曽存)にいう。
「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。 不軽菩薩
の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」
http://nakanihon.net/nb/gosyo/susyunntennnougosyo.htm
日蓮の矛盾をどう考えよう。ただし、折伏を末法弘教の方軌とした上で、それは
不軽品の精神の実行そのものという説を『寺泊御書』(真蹟完存)は否定している。
「今の勧持品は未来は不軽品為るべし。其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為るべし」

「摂受」は「摂受正法」、「摂護衆生」(摂取不捨)の意味である。悪律儀者は折伏の
対象のはずだが、日蓮はこれら殺生を生業とする武士、漁師を摂受の対象とした
とおもう。「摂受の中の折伏」は権化の菩薩やその眷属であっても「時にあわない」
人々を批判してよいと考えたのでなかろうか。日蓮は「仏種」を本仏が下種すると
し天然と考えなかったから、「但行礼拝」は将来に属する。『本尊問答抄』は天然と
いうので困るのだが。

530問答迷人:2003/02/24(月) 22:29

顕正居士さん

ご教示有り難うございます。少し、日蓮聖人の摂受観、折伏観の大綱が飲み込めました。如説修行抄が、刷り込みとして働いていましたので、顕正居士さんの仰っておられる意味が取れませんでした。日尊師の古写本のみ残す如説修行抄が偽書とすれば、随分と、如説修行抄によって摂受と折伏について、間違った固定観念を持って仕舞ったために、本尊抄の「行折伏」等の文の意味を取り違えてしまっていたのだと思いました。

>「摂受の中の折伏」は権化の菩薩やその眷属であっても「時にあわない」人々を批判してよいと考えたのでなかろうか。

道力摂受の上において、時にあわない人々は、かえって武士漁師よりも重悪であり、摂受の上の折伏によってしか利益する事が出来ないと考えられたのだと思います。

>日蓮は「仏種」を本仏が下種するとし天然と考えなかった

この点、上手く理解が及びません。もし、宜しかったら、もう少しご教示賜れば幸いです。

>『本尊問答抄』は天然というので困るのだが。

本尊問答抄も、日興写本のみを残し、真跡がありません。偽書、或いは、改竄の可能性が有るのではないでしょうか。

531問答迷人:2003/02/25(火) 13:35

135048 ゲットしました。

532ハル:2003/02/26(水) 02:37
「北極へ立っている人へ」
.

あなたは北極に立っている。
あなたの絶えまない求道心があなたをその極北へ導いた。
.
あなたは北極に立っているから、自分とは違う位置に立っている人を
すべて「南」に立っていると見なすのだろう。
だがそれは違う。
.
ぼくは北極に立っていない。
ぼくの周りにいる人は「東」であり「西」であり「南」であり「北」である。
いろんな人がいる。
ぼくも「いろんな人」のひとりなわけだ。
.
あなたの視点。
しかしその視点がすべてではない。
.
あなたへ
ほんのすこし、その位置から動いてみるがいい。
今よりもっと、「いろんなもの」が見えてくることだろう。

533無徳:2003/02/26(水) 23:59
皆さん今晩は:

私もこの度、自前のWebサーバーにてホームページを少々リニューアルして
立ち上げました。以前よりはセキュリティーにも力を入れましたのでよろしか
ったらタマにはお立ち寄りください。 http://sakumayk.com

534いちりん:2003/02/27(木) 10:32

春ですね。
庭にフキノトウが生えていた。
いくつか摘んだ。天ぷらにでもするかなあ。

535五月雨:2003/02/27(木) 11:06

ホント、春が来たようですね。
東大寺のお水取りが終わらないと春はこないと思っていましたが。

春、と聞くだけで何だかワクワクしますね。

春、はる、ハルさん、532の詩はとても素敵でした。
ハルさんが書かれた詩なのでしょうか。
(春からハルさんを連想しての唐突過ぎるレスですね、
ゴメンなさい)

いちりんさんのお家のお庭にはフキノトウが生えるのですか、
いいですね。
私は食べたことはないのですが、
フキノトウのてんぷらはとても美味しいとか。

私も試してみようかな…

536いちりん:2003/02/27(木) 11:57
いま庭に生えていて食べられそうなのは、ユキノシタもそうですね。
これも天ぷらにしたらおいしい。
すぐそばの湧き水の小川では、クレソンが育っていました。これはサラダですね。

東大寺のお水取りは、3月12日ですね。
いちどは、行きたいなあ。

537五月雨:2003/02/27(木) 12:27

ユキノシタも食べられるのですか、知りませんでした。
クレソンまで育っているだなんて、いちりんさんの周りには
自然に生えている食材がたくさんあるのですね、いいなあ。

私もお水取りには行ったことがありません。
石山の呪縛が解けて去年にやっと大仏さんを見たくらいですから。

今年は思い切って行ってみようかな、お水取り。

石山の呪縛が解けると、世界が広がるように思います。

538モヨコ:2003/02/27(木) 15:07
創価学会の友達が、十字架のブローチをつけていたのですが、
十字架=キリスト教みたいなイメージがあり、十字架つけるのっていけない事じゃないの?と聞いたら、
アクセサリーだからいいのよって言っていました。
日蓮宗の教えでは、他の宗教は間違った宗教だよと言っておきながら、
十字架をつけてるのって、認められているのでしょうか?
どこで質問していいのか分からないので、ここで質問して良かったでしょうか?
もしダメなら、管理人さん。削除して下さい。

539みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/27(木) 16:30
一般的にいえば、認められていません。十字架つけて創価学会の会合に行ったら、そのひとは叱られると思われ。それは学会員の家にダルマがないのとか、公明党が選挙でダルマを使わないのと同様。(ダルマは禅宗の菩提達磨が由来。招き猫のタマちゃんも禅宗(豪徳寺)由来なのだがあれは良いみたい)

ですが、人それぞれの価値観なので、別になにやってたってばれなければ、そして本人が気にしなければ全然オッケーだと思われます。

ご友人が十字架をつけるのは、こだわらない性格なのか、キリスト教についてあんまり知識がないのか、信仰がつよくないのか、その原因はわかりませんが、そういうことにこだわらないのは、部外者にとってはとても歓迎すべきことなので、そのお友達には、それはおかしなことだと、モヨコさんから指摘しない方が良いと思います。おかしなことなのだと指摘することによって、宗教的なこだわりが深くなったら、部外者にとってはやぶ蛇ですので。

あと創価学会は広い意味では「日蓮宗(=法華宗)」ですが、狭義の「宗教法人日蓮宗(総本山久遠寺)」という団体とは関係ないので念のため。創価学会は「宗教法人日蓮正宗(総本山大石寺)」という別の宗派の信徒団体でした(現在は破門されている)。

540管理者:2003/02/27(木) 17:52

モヨコさん

>どこで質問していいのか分からないので、ここで質問して良かったでしょうか?

この掲示板は、掲示板のルールを守っていただける限り、何を書き込んでも、何を質問しても御自由です。また、最適のスレッドか見当たらない場合は、この、つぶやきスレッドに書き込んでいただければ幸いです。

541五月雨:2003/02/27(木) 21:20

モヨコさん、初めまして。

>日蓮宗の教えでは、他の宗教は間違った宗教だよと言っておきながら、
十字架をつけてるのって、認められているのでしょうか?

というのがモヨコさんが一番言われたかったことではないでしょうか。
私も学会経験者なのですが、今から10年前には十字架をアクセサリーで
つける人は居なかったように思います。でも、日蓮正宗破門後は何でもありの
様相です。

他の宗教が間違っていると言いながら、他の宗教の象徴みたいな物を
アクセサリーとして付けている姿は腑に落ちないでしょうね。
でもまあそれでOKなのです。ご本人が気にならないのですから、モヨコさん
もそれ以上ツッコミを入れないで、温かく見守ってあげてください。

理不尽だと思われるかもしれませんが、学会という世界は理不尽だらけだった
ような気がします。

「(キリスト教のシンポルの)十字架がよく似合ってるね」と言ってあげたら
いかがですか。ちょっぴり皮肉を込めて(笑)

542孤独な迷子:2003/02/27(木) 22:06
みなさん、こんばんは。

以前参加させて頂いたのですが、しばらく迷子になっていました。
やっとこの掲示板にたどり着けました。

よろしくお願いいたします。

543モヨコ:2003/02/28(金) 05:42
>みかんさん。
>>こだわらない性格なのか、キリスト教についてあんまり知識がないのか、信仰がつよくないのか、その原因はわかりませんが、

友達は前に、助手か2級試験の試験を受かったとか聞いたことがあります。
1日のお題目を3時間はしてるのよ。とかも言っておりました。
話を聞いても理解できない世界なので、創価学会の話はあまりしないでね。とかは、日ごろから言っております。
今後、おかしいな?って思っても、指摘するのは止めようと思います。(^_^)

>五月雨さん。
>>理不尽だと思われるかもしれませんが、学会という世界は理不尽だらけだった
ような気がします。

創価学会は理不尽な組織なんですね。
イベントや行事みたいなことがあると、いつも、イベントや行事の話とかしだすのですが、私はいつも変だな?って、疑問に思いながら聞いていましたが、
今度からは、理不尽な組織のしてることだから、話をしてきても気にしないようにします。

管理人さま。質問できる場所を提供していただき、ありがとうございました。m(__)m
みかんさん。五月雨さん。丁重な回答ありがとうございました。m(__)m
創価学会って組織がどんな所かいろいろ回って調べてきてましたが、
某掲示板などは誹謗・中傷ばかりが多くて、質問とかできる雰囲気ではなかったので、
ここの掲示板みたく、紳士的にマナーがいい場所にめぐり会えた事は、うれしいです。(^_^)

544顕正居士:2003/02/28(金) 12:56
-仏性と仏種-

問答迷人さん。

『法華文句』は不軽品を注して不軽菩薩の礼拝の対象は正因仏性である、縁・了の
仏性もその種子は本有であるが、今はあたらないと述べる。三因仏性は本よりある
のだが、天台や日蓮の学では衆生は久遠の下種を覚知して不退の位に至るという。
久遠の下種とは最初成道の際の久遠の法華経、あるいは久遠の五時八教である。
「本未有善」の衆生は久遠下種がないのか、忘れてしまったのか、明らかではない。
中国で成立した法華宗は『華厳経』のビルシャナ仏(報身)を前提にし、『法華経』の
仏(応身)はこれと別でないとし、応身も一仏に統一する一神教であるから、本仏の
教導の歴史が救済史であって、三因仏性は教導を受ける可能的素質といってよい。
キリスト教の「啓示の光」が「久遠下種」であり、「自然の光」が「三因仏性」であろう。
法華宗は衆生に歴劫の修行をして最後に法華経の仏のように成道せよといわない、
本仏の実在を信仰せよという。信仰によって本仏と一体になることが「成仏」である。
『法華経』自体は永遠の菩薩行により、法華経の仏と等しくなれというのであるから、
不軽品が元初の修行になるが、法華宗はそうならない、本仏でなく衆生に向うのは
信仰ではない。久遠の釈尊、阿弥陀仏、大日如来の三仏の中で久遠の釈尊を信仰
せよが日蓮の教導である、不軽品は釈尊前世の修行の正体である、しかし釈尊は
すでに成道された、久遠の仏の実在への信仰のみが必要である。けれど日蓮がそう
であるように久遠下種を覚知した者は、本仏と一体になった上では、他者の救済へ
向かわねばならぬ、それが久遠の五時八教であり、未来には不軽行があり得る。
『寺泊御書』の文の意は親鸞の往相、還相の教義に類似しているのではなかろうか。

545問答迷人:2003/02/28(金) 19:46

孤独な迷子さん

お帰りなさい。いろんな疑問や、意見やら、いっぱいレスして下さいね。楽しみにしています。

546いちりん:2003/02/28(金) 20:56
>『法華経』自体は永遠の菩薩行

そうなんでしょうね。
要するに、「教菩薩法」。
「菩薩に教えるおしえ」あるいは「菩薩を教えるおしえ」と。

たんなる凡夫であっても、ものすごい弥勒とか、普賢みたいなプロの菩薩であっても、あるいは地湧の菩薩のような真打ちであっても、発心したものは、みいんな菩薩の道を歩んでいる。

そして、それは菩薩と言うことでは、みいんなおんなじ。

そうして、永遠に、無限に、不断に(やすまずに)
いまここで、この場所で、この忍耐の娑婆世界で、俗世で、菩薩を行ずる。

それが、法華経。

547孤独な迷子:2003/03/01(土) 17:20
問答迷人さん

暖かく迎えて下さいまして有難うございます。またいろいろとレスさせて頂きます。
よろしくお願いします。

548問答迷人:2003/03/02(日) 18:03

顕正居士さん

示唆に富んだご教示、誠に有り難うございます。

>天台や日蓮の学では衆生は久遠の下種を覚知して不退の位に至るという・・・本仏の教導の歴史が救済史であって・・・信仰によって本仏と一体になることが「成仏」・・・久遠下種を覚知した者は、本仏と一体になった上では、他者の救済へ向かわねばならぬ、それが久遠の五時八教であり、未来には不軽行があり得る。

なるほど。天台大師や日蓮聖人の教えでは、成仏とは信仰によって本門(久遠)の教主釈尊と一体となる事であり、ここでは、仏種、すなわち本門の教主釈尊の久遠下種が問題にされている訳ですね。そして、本門教主釈尊との一体化を前提条件として、はじめて『法華経』に説くところの永遠の菩薩行、他者への救済、不軽行が成り立ちうる、という事で、ここでは、仏種ではなくて、仏性が問題にされている、と。
又、さらに、本門教主釈尊に一体になろうとする方向と、一体となった上で衆生に向かう方向とは、それぞれ、親鸞の説いた往相、還相の教義に類似している、と。

そうしますと、日蓮聖人の教えは、本仏との一体化を説き、曼陀羅を信仰の中心に置いた形からも、密教そのものということになると思いますが、この点は如何お考えでしょうか。ご教示賜れば幸いに存じます。

549問答迷人:2003/03/02(日) 20:50

136195 ゲットしました。

550顕正居士:2003/03/02(日) 22:40
>日蓮聖人の教えは、本仏との一体化を説き、曼陀羅を信仰の中心に置いた形から
>も、密教そのものということになると思いますが、この点は如何お考えでしょうか。

日蓮は密教そのものを批判していません。批判するのは善無畏、一行、空海、円珍、
円仁です。日蓮の筆写がある覚鑁の『五輪九字明秘密釋』は顕密教判を主張する。
http://www.infosakyu.ne.jp/~yssimizu/sub2.htm
日蓮が反対に「顕教」の立場から「密教」を批判した文はありません。一行阿闍梨が
一念三千の教義を「盗み」(『大日経義疏』)、空海が密勝顕劣をいい、円珍、円仁は
対して「理同事勝」と防衛したが、「事勝」の分は「密教勝」を認めてしまったのを非難
し、密教の経論には密教を成立させる理論自体はなく、天台学の一念三千がそれだ
という。日蓮は「顕・密」や「聖道・浄土」の経典分類を認めず「五時八教」のみ認めた。
だから「顕・密」判、「聖・浄」判の教義を否定するために阿弥陀仏、大日如来の信仰に
反対したともいえる。

最澄は「顕密に優劣はないとおもう」(空海への書簡)と云ったから、「理同」は祖意に
かなう。しかし日蓮の説もいちがいに祖意に反しない。「理劣事勝」はあらゆる経論に
該当し得る。だが日蓮は事相を密教で建立したから、密教の事相を特別に評価した
のは間違いない。「(いくらか)理劣+(すぐれて)事勝」のゆえ、顕密に優劣なしなら、
祖意にかなうからである。彼の「一念三千」は「事の一念三千」である。凡夫が観見し
あたう範囲である。「末法二來入シ始メテ此ノ佛像出現セシム可キ歟」(『本尊抄』)
とは、東大寺のビルシャナ仏のような規模をイメージしたのだとおもう。

551ハル:2003/03/04(火) 04:21
北イタリア、トリノのサン・シンドネ大礼拝堂には、あの有名な「聖骸布」が伝えられています。聖骸布とは十字架にかけられたイエスの屍骸をつつんだ布のことです。
しかしこの聖骸布、1988年に炭素測定によって、たかだか700年前に作られたシロモノだということが分かり、それも大々的に報道されました。
けれどもこの聖骸布の所有者のバチカンは、いまだにこれがニセモノだということを認めていないのです。

信仰対象になっている「モノ」は、それが「科学的・合理的に」ニセモノだと証明されても、それを信仰している人にとっては、たいした動揺をもたらさないようです。
「不合理ゆえに我信ず」という言葉がありますが、「信じている人」にとっては、科学的・合理的な反証はどうやら無意味なのです。

ここで僕は「信じる」ということの凄み、恐ろしさを感じます。
「科学的・合理的に」ホンモノだと証明されたモノを信じることは、たやすいことです。これは「信じる」というのではなく「理解する」ということなのでしょう。
科学的、合理的でないもの。それを信じるということが、本当に「信じる」ということなのかもしれません。

宗教というのは、もしかしたら、「壮大な嘘」なのかもしれません。
その嘘があまりに壮大すぎて、嘘なのか本当なのか、凡人にはおいそれとは証明できないものが、「宗教」になってゆくのかもしれません。

 ―――――――――――――

僕ら凡人は、普段、自信のない生活を送っていますから、誰か偉い人に自信たっぷりに「これはこうなのだよ」と断言されると、ついつい「そうなのかな」と思ってしまいます。
「なんか変だな」と感じても、「あれだけ自信たっぷりに言っているのだから、ちょっと変なことなのだけれど、それには深い意味があるに違いない」と思ってしまいます。

だいたい聖書だとか法華経みたいな聖典には、冷静な頭で見てみると、おかしなことばかりが書かれている。「死人が生き返った」なんてありえるわけがないし、「ワシは××億年前から悟りをひらいていたのだ」なんて台詞は、ふつう、誇大妄想狂でなきゃ言えない。
けれども信仰する人は、その記述を怪しいとも思わずに真面目に読むわけです。

聖典には(冷静な頭で見てみると)あまりに常軌を逸したことばかりが書かれている。いやこれが「嘘」だとしても、これだけの「嘘」を考えつくのはちょっと大した想像力だ。しかも何百年、何千年もその「嘘」を自信たっぷりに言いつづけているのです。

なんか、凄い。

552モヨコ:2003/03/04(火) 22:09
また、疑問なこと言われたので、書き込みしちゃいます。(^^;
釈迦が説いた法華経は今の時代では効果がなくて、日蓮の説いた法華経。
ご本尊か南妙法蓮華経(だったかな?)じゃないと効果がないのよって、言われたんですけど、
釈迦が説いた法華経と日蓮が説いた法華経って、違うものなんですか?

553問答迷人:2003/03/05(水) 10:26

顕正居士さん

ご教示有り難うございます。

>日蓮は「顕・密」や「聖道・浄土」の経典分類を認めず「五時八教」のみ認めた。

なるほど、日蓮聖人が一方で真言を徹底的に批判しながら、他方で、大日如来の相伝を受けている事を不可解に思っていましたが、そういう意味合いで真言批判をされていたと見ると、納得できます。

>だが日蓮は事相を密教で建立したから、密教の事相を特別に評価したのは間違いない

五時八教の教判に立って、密教の事相を法華経開会の上から重用したと言うことですね。了解です。ただ、ここで気になるのは、法華宗としての、日蓮聖人の教えは、信仰によって本仏と一体になることを教え、その為に曼陀羅を建立したことは判りますが、そのような信仰形態が、果たして「法華経」のどの部分に由来するのか、また、もし、法華経には由来せず、法華宗の独創だとすれば、それは、何に由来するとお考えでしょうか。

554有無:2003/03/05(水) 10:27
>552
それは文上の法華経と文底の法華経の違いのことでしょう

555問答迷人:2003/03/05(水) 10:36

ハルさん 

こんにちは

>しかも何百年、何千年もその「嘘」を自信たっぷりに言いつづけているのです。

ほんとですね。石山の、唯授一人の血脈相承、大聖人の出世の本懐たる戒壇板曼陀羅、お肉牙。これらも、根拠が薄弱なのにも拘わらず、何百年も自信たっぷりに言いつづけられていますね。なんだか、怖いですね。

556顕正居士:2003/03/05(水) 20:27
-法華曼荼羅-
は法華経の宝塔品を描いているのだから直接に法華経に由来するといえるでしょう。
釈迦多宝並坐の像は起源が古い。
http://www.fsinet.or.jp/~kyouko-h/chinacave/unkou/unkou07/unkou07-1.htm
日本の最初の二仏並坐の像は東大寺戒壇院のご本尊です。「戒壇」は段差を設け
諸尊を勧請するゆえ "mandala" といいます。2壇に菩薩を配し、3壇に神々を配する
と法華曼荼羅になります。
http://www.chohoji.or.jp/dharma/butu2/mandara/butu-m6b.htm
諸尊にはおのおの梵字(種子・しゅうじ)があるので.法(文字)曼荼羅もあります。
http://www.chohoji.or.jp/dharma/butu2/mandara/butu-m5b.htm
日蓮は漢字で法曼荼羅をあらわした。墨、筆、硯以外には入手が困難な佐渡だから
発明したのでしょう。
*-儀軌。成就妙法蓮華經王瑜伽觀智儀軌、法華曼荼羅威儀形色法經など。

-大蘇開悟-
慧思は智邈が彼のもとに来た時、「昔し霊山でともに法華を聞いた宿縁であろう」と
述べた。智邈は薬王品の捨身供養の段を読誦した際、まのあたりに霊山を見た。
「霊山一会厳然未散」といい、漢字文明圏では常識のように流布した。法華経の次
には法華宗の第3祖、智邈の体験にもとずくといえよう。
*ボーディセーナ(婆羅門僧正)を行基菩薩がむかえた歌(拾遣和歌集)
霊山の釈迦の御前に契りてし真如朽ちせずあひ見つる哉

557問答迷人:2003/03/09(日) 09:30

顕正居士さん

懇切なご教示、誠に有り難うございます。日蓮聖人の文字曼陀羅の由来が、大変鮮明に理解できました。ただ、一点、戒壇と曼陀羅について、合点が行きませんので、お伺いいたします。

>「戒壇」は段差を設け諸尊を勧請するゆえ "mandala" といいます。

そうすると、本来は戒壇と曼陀羅とは、同意義ということなんですね。それでは、報恩抄の

「問うて云はく、天台伝教の弘通し給はざる正法ありや・・・求めて云はく、其の形貌如何。答へて云はく、一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二つには本門の戒壇。」

との文の「本尊」と「戒壇」の関係に於いて、日蓮聖人は、「本尊」を文字曼陀羅として顕わしており、「本尊」=「戒壇」と言うことになろうかと思います。それにも拘わらず、日蓮聖人が本尊と戒壇を別の事としたのは、どういう理由によるとお考えでしょうか。

558顕正居士:2003/03/12(水) 02:00
三大秘法を

戒-戒壇
定-本尊
慧-題目

と三学に配当します。"mandala"は輪円具足と訳し、丸い、完全、集会などを意味し、
具体は壇を指す。戒壇も曼荼羅も壇だから "mandala"と云うが、戒壇は授戒の場所、
曼荼羅は仏菩薩の集会です。曼荼羅と本尊も意義が異なります。曼荼羅の本尊とは
集会の中心の尊でありましょう。

日蓮において本尊とは法華教主釈尊のことであります。しかし本尊問答抄は法華経
の題目が本尊であるとし、法華教主を本尊とするのは法華経の正意でないと云う。
不思議であるけれど日源、日興の写本がある。法華経の題目とは宝塔のことだから
これは釈迦多宝両尊を本尊とする意味になります。

559パルチザン:2003/03/13(木) 14:04
2003年3月、地球規模で動乱の兆しが見えます。日蓮大聖人は、立正安国の為に生涯を送られたと承知しています。
今、世界では、強大な国家権力を手にした者達が、人々の安穏な暮らしも、世界の平和も、武力によって実現できると、大量殺戮兵器を使いたがっています。
我が日本政府も、靖国参拝総理が、力の論理を世界に振り撒いています。
もし、日蓮大聖人がおみえになったら、どんな行動をお取りに成られるか・・・
立正安国論を小泉総理大臣に宛てて、国諌をなされるのか・・・
仏法の真髄を説かれて、国主の迷妄を開かれるのか・・
大聖人御建立の御本尊を信奉する皆さん!一度考えてみましょう!世の中に目を向けて・・・

560疑問:2003/03/13(木) 18:05
こんにちは。
前に慧妙の中で見たのですが、池田さん達が顕氏の御本尊を信者より集めて
焼いた日に阪神淡路大震災が起こったとありましたが本当なのですか?

561顕正居士:2003/03/14(金) 03:30
報恩抄

「一ニハ日本乃至一閻浮提一同ニ本門ノ教主釋尊ヲ本尊トスヘシ。所謂寶塔ノ内ノ
釋迦多寶。外ノ諸佛竝ニ上行等ノ四菩薩脇士トナルヘシ」(大正大蔵経)

法華曼荼羅の構造は第一壇-釈迦多宝、第二壇-仏菩薩、第三壇-神々であるから、
上の文章の意味は「本門ノ教主釋尊」=「寶塔ノ内ノ釋迦多寶」であろう。釈迦応身と
多宝法身の並坐を本門教主釋尊というなら、本尊問答抄の説は不思議ではない。

562問答迷人:2003/03/14(金) 11:03

顕正居士さん

貴重なご教示、誠に有り難うございます。

>上の文章の意味は「本門ノ教主釋尊」=「寶塔ノ内ノ釋迦多寶」であろう。釈迦応身と多宝法身の並坐を本門教主釋尊というなら、本尊問答抄の説は不思議ではない。

なるほど。報恩抄の文をそのまま読めば、「本門ノ教主釋尊」=「寶塔ノ内ノ釋迦多寶」と読めますね。そうすると、日蓮聖人の書かれた曼陀羅で言えば、「中尊の妙法蓮華経及び釈迦多宝」=「本門教主釈尊」とされている事になります。そう考えると、観心本尊抄の「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」という文が、「本門教主釋尊」に対する信仰を述べている意味になります。また、同じく観心本尊抄の末文の「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたまふ。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと、太公・周公の文王を摂扶し、四晧が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり。」という意味も、「五字」という表現をもって「中尊の妙法蓮華経及び釈迦多宝」=「本門教主釈尊」を顕わしていると捉えると、「四大菩薩の此の人を守護」と続いて、釈迦多宝の事が説かれていない理由が鮮明になる様に感じます。

ただ、そうしますと、日蓮聖人が顕わした曼陀羅において、中尊は、「題目だけ」ではなく、「題目と釈迦多宝の二仏並坐」と言うことになりますが、そのような、「複数の中尊」を持つ曼陀羅は、他に例が有るのでしょうか。日蓮聖人の独創なのでしょうか、如何お考えになられますでしょうか。ご教示賜りますれば幸いに存じます。

563五月雨:2003/03/14(金) 11:39

疑問さん、初めまして。五月雨と申します。

>前に慧妙の中で見たのですが、池田さん達が顕氏の御本尊を信者より集めて
焼いた日に阪神淡路大震災が起こったとありましたが本当なのですか?

疑問さんが仰っている内容について、「配偶者がカルトに入ったらどうしますか 」のスレッドにおいて、
116のあ さんのご発言から議論が始まっています。
一度読んでみられらいかがでしょうか。

564問答迷人:2003/03/14(金) 17:29

138027 ゲットしました

565顕正居士:2003/03/15(土) 01:50
>中尊は、「題目だけ」ではなく、「題目と釈迦多宝の二仏並坐」と言うことになります

妙法蓮華経が単に経巻の題ならば、本尊とか、唱題修行とか、云うのは無意味です。
妙法蓮華経は仏名でなければならない。中尊、釈迦、多宝と三尊があるのではなく、
両尊の並坐以外に宝塔はない、妙法蓮華経あるいは宝塔は二仏並坐を指すと思う。
さらに多宝仏は釈尊の教説が真実であることを証明するために来たったのだから、
結局は、「本門ノ教主釋尊」の一尊が本尊であるとはいえます。

>「複数の中尊」を持つ曼陀羅は、他に例が有るのでしょうか。

法華曼荼羅の第一壇は宝塔の釈迦、多宝並坐です。日蓮の曼荼羅も同じであるが、
宝塔を南無妙法蓮華経であらわし、かたわらに二仏の名を書く。釈迦、多宝二仏は
宝塔=南無妙法蓮華経に座っている表現である。中尊・南無妙法蓮華経の脇士で
あるのではない。

○日蓮の法華曼荼羅は従来の絵画による表現と差異があるものではない。

566問答迷人:2003/03/16(日) 11:20

顕正居士さん

>○日蓮の法華曼荼羅は従来の絵画による表現と差異があるものではない。

納得です。ご教示有り難うございます。

>釈迦、多宝二仏は宝塔=南無妙法蓮華経に座っている表現である。中尊・南無妙法蓮華経の脇士であるのではない。

この点に付きましては、日蓮正宗版及び創価学会版の御書編集者は、別の見解を持っていると思われます。創価学会版並びに平成大石寺版の御書では、観心本尊抄の該当個所を次のように書き下しています。

「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊」(大石寺平成版・創価学会版)

ここでは、明らかに、中尊を南無妙法蓮華経として、本門の釈尊は脇士とされています。

観心本尊抄は漢文体で認められていますが、大石寺版並びに創価学会版の、このような書き下し方がはたして正当なものかどうか、判断出来ずにいます。どうお考えになられますでしょうか。

なお、昭和定本及び、行道文庫では、この箇所の読み方は以下の通りです。この場合は、顕正居士さんの、『中尊・南無妙法蓮華経の脇士であるのではない。』のご見解と同じ考えに立っての書き下しで有ろうかと思います。

「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊」(昭和定本・行道文庫)

567顕正居士:2003/03/17(月) 00:44
此時地涌千界出現本門釋尊爲脇士

堅樹日寛の観心本尊抄文段の有名な箇所ですが。

訓読-「甲を乙とする」は「以甲爲乙」と書く。「甲ヲ以テ乙ト爲ス」と読み、「以」の字が
必要です。この文は「本門ノ釋尊二脇士ト爲ル」です。「本門ノ釋尊ノ脇士ト爲ル」では
ないです。

内容
1-宝塔の横に釈迦・多宝が立っている話を聞かない。
2-宝塔=地涌千界の意味がわからない。
3-現実の曼荼羅に変わった所がない。

中古の口伝には経文をでたらめに訓読し、自分の発明を説く形式があります。
「自も我も得たる仏来れり」など。本尊抄文段に引く訓点はこの類いの遊びだろうと
おもいます。

568一字三礼:2003/03/17(月) 12:58

相対的崇拝対象と同一的崇拝対象

相対的崇拝対象
一般的な仏・菩薩の尊像を崇拝する場合、対面者(参拝者・信仰者)はその尊像の手の組み合わせ・持物・標識等の印相(mudra)によって、その尊像の意思・働きを知ることが出来る。この形式は、尊像の自身の主体的な救済の働きを、対面者が認識して崇拝対象とするもので、二元的・相対的関係と考えることが出来る。

同一的崇拝対象
日蓮聖人の顕わした曼荼羅の役割は「観心本尊」にある。建治後半から弘安年間の一般的な曼荼羅相貌では、四天王及び諸神を除いて、首題をはじめとする仏・菩薩等には「南無」が冠されている。この首題を含め、「南無」を冠した諸尊とは、対面者側の帰命の意思表現である。つまり、曼荼羅と対面者とは本来、別の存在であってはならないので、一元的・同一的関係といえる。これが「観心本尊」の由来ではないだろうか。

曼荼羅座配の諸尊を仏像・絵像として表現することが妥当かというと、結論的には「南無」を冠した仏・菩薩を仏像として表現することは出来ない、と考えざるをえない。
たとえ金剛合掌や帰命合掌、十ニ合掌等で表わそうとしても、それは尊像側の主体的意思表現となって、観心行の対象としての一体感は無くなってしまう。
また、極端なことを言えば「南無」を冠さぬ諸尊も可能とするのであれば、曼荼羅本尊の中尊も「南無妙法蓮華経」ではなく、「妙法蓮華経」でも良いということになり、蓮組弘通の唱題行の意味も薄れることにはなりませんか。

569川蝉:2003/03/17(月) 16:57
本尊抄の訓について。

昭定713頁3行(学会版248頁1行)には「小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為す」(小乗釈尊迦葉阿難為脇士)
とある。この訓と同様に、この文は「此の時地涌千界出現して本門釈尊を脇士と為し」と訓むべきだと言う意見があるが、前文は「小乗の釈尊」が主語となっているから、「迦葉・阿難を」とある目的語が主語(主格)の「脇士と為り」と云う訓になるが、件の文ではは、「地涌千界出現して」は直接の主語ではないので、「小乗釈尊迦葉阿難為脇士」と同例にならない。
正式漢文なら
「地涌千界出現為本門釈尊脇士」と書くべきを、鎌倉時代の時代文で、「本門釈尊為脇士」と書いたものであろうと指摘されている。
昭定713頁9行(学会版248頁9行)に
「於正宗十巻中」(正宗の十巻の中に於いて)と書くべきを「正宗於十巻中」と時代文で書いてある。
昭定713頁11行(学会版248頁10行)にも
「分別功徳品自現在四信」(分別功徳品の現在の四信自り)は、正式漢文では「自分別功徳品現在四信」であるべきだが、時代文で書かれている。
故に、「正式漢文の例に倣って、件の文を訓むべし」とは一概に言い得ないと指摘されている。
先師の意見はというと。
「録内啓蒙」には
【或る義に、釈尊を以て題目の脇士と為る義に見るべし。所以は何となれば、地涌千界が垂迹(日蓮と)出現の時、本尊を建立し給うについて、本門の釈尊を脇士とし、閻浮第一の妙法の本尊を立つる意にして、上の「塔中の妙法蓮華経の左右に(脇士)釈迦多宝」等との文にも叶うべし】
と云う意見に対し
【この義現文に順ずるに似たりと雖も正轍の義に非らるべし。
・・・三には、当書の向の文、並びに諸御書に四大菩薩を脇士とせる格に背くのみならず、四菩薩を脇士とするに非らずんば本門の本尊顕れざるが故に。・・四菩薩の本門釈尊の脇士たる事は上の文に既に顕著なる故に、今、文を省き給うなるべし。
是れ則ち「地涌千界(垂迹)が出現して、地涌を本門釈尊の脇士と為す」と遊ばすべきを、次上の「地涌千界」の言と近くかしましき故に、巧みに上の「地涌千界」の言を下に及ぼし用いて、下の「地涌」の二字を略し給うなるべし。】(啓蒙19巻73〜74紙))と解説している。

「祖書綱要刪略」には、
【因みに問う。或る説に云はく、「当今下種の時至れり、宜しく本因口唱の人法を用いて以て本尊を定むべし。法は謂はく南無妙法蓮華経なり。人は謂はく大聖人なりと」。便ち之を証するに本尊抄に此時地涌千界出現本門釈尊為脇士と云うを以てす。意の曰く釈尊を以て而も地涌の脇士と為すと。色相荘厳の本尊の如きは則ち是在世脱益の形像にして都て末法に用無し云々。此の説奈何】
との問いを設け、その説に対して
【彼の的拠とする文の如きは、固と地涌出現して釈尊を以て本尊と為し躬自ら脇士と為ることを明かす。即ち是れ一尊四士の立意なり。・・・
上の文に云はく「地涌千界は己心の釈尊の眷属なり。例せば大公周公等は周武の臣下、成王幼稚の眷属。武内大臣は神功皇后の棟梁、仁徳王子の臣下なるが如し」已上。この文、周武神后を釈尊に擬し、成王・仁徳を下種の機に比し、周公等を以て地涌に類するなり。それ臣は宜しく以て君を補佐す、君は能く臣をして左右せしむ。人臣還って君主をして眷属と為らしむる者は未だ之有らざるなり。総結の文また準知すべし。
而るを曲げて為の字を訓じて恣いままに倒解を作し、自ら古本を見ず、前後の文を検せざるの愚盲を訴う。一と何ぞ暗短なる】(刪略巻之七・三十紙)
と説いている。(続く)

570川蝉:2003/03/17(月) 17:00
(続き)
(総結の文とは、「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起し、五字の内に此の珠を裏て、末代幼稚の頸に懸けさしめ玉ふ。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと、大公、周公の文(成)王を摂扶し、四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり」を指す)

次に山川智応師は、
【「本抄正宗分の終わりに「小乗釈尊迦葉阿難為脇士」とあるのを「小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為す」と訓んだのと同例に「本門の釈尊を脇士と為し」と訓み、本門の釈尊を妙法五字の脇士とする閻浮未有の本尊と解する向き(寛師文段)もあり、その理由は、上の正宗分に「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩」とある文、及び流通分の「此の時地涌千界世に出現して,但だ妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」とあるからで、即ち正宗分の文は、おのずから釈迦・多宝が妙法五字の脇士たるを示し、流通分の文は、地涌出現して幼稚に授けるのは妙法五字なるを証するというのである。
この別証は、また報恩抄の「宝塔の中の釈迦・多宝外の諸仏、並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」とあるのも、また同証とすることが出来るように見える文だし、必ずしもその義はないことはないが、報恩抄すでに曼荼羅の形貌を出されているのに係わらず「本門の教主釈尊を本尊とすべし」といわれ、本抄にも正宗分にすでに「未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」といわれ、流通分の初めにそれを受けて「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば、三国の王臣未だ崇重せざるの由之を申す」とあって、「本門寿量品の本尊」は「寿量の仏」なるを示され、第二十八答にも「事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊」といわれて、上の「寿量の仏」を意味せられているから、大曼荼羅の中尊の南無妙法蓮華経は、名は法であっても体は仏でなければならない。左右の釈迦・多宝は、妙境妙智を表して、八品会上の能説を示し、また五百塵点劫の能覚を示し、中央の南無妙法蓮華経は、所説に約しては、境智冥合の常住の仏果を表し、所覚に約すれば、無始の本覚を示されたもので、ともに本仏釈尊の久遠本有常寂常照の一念三千で、本仏の本体をお挙げになったものである。
だから本抄の正宗分は「本尊為体」に、釈迦仏・多宝仏に脇士の名を用いられず、上行等を本門釈尊の脇士とし、報恩抄も、形貌は大曼荼羅なるに係わらず、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」といわれているのである。
また文字の配合上から、正宗分の迦葉・阿難・文殊・普賢等に同例との説についても、必ずしも尽理といえぬ。・・・鎌倉時代の時代文としては、斯様にも自在に配字したのであって、今も漢文的ならば、必ず「地涌千界出現、為本門釈尊脇士」であるのを、時代文的に配字せられているに過ぎないのであろう】(観心本尊抄講話570〜571頁)
と解説している。

清水龍山師は、
【本抄全篇始中終を通じて「本門の釈尊」は主尊本仏で「地涌千界」は脇士本僧であることは文義意の自然妥当で、断じて主尊本仏が脇士なる地涌千界の脇士となる文義意はない。
一、本門の本尊の体相を明かして、
『本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙○経の(主尊)左右に(脇士)釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩云々。』(昭定712頁。学会版247頁)
二、其の顕現の時を明かして、
『是の如き本尊は在世四十余年之無し、八年之間但八品に限る。』(昭定713頁。学会版248頁)(続く)

571川蝉:2003/03/17(月) 17:01
(続き)
三、其の滅後流行の時を明かして、
『正像二千年の間、小乗の釈尊は(主尊)迦葉阿難を脇士と為し。権大乗ならびに涅槃経法華経の迹門等の釈尊は(主尊)文殊普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り書けども、未だ寿量品の仏有らず(地涌千界を以て脇士と為る)。末法に来入して始めて此の仏像を(地涌千界を脇士とする寿量品の本仏釈尊本尊)出現せしむべき(地涌の垂迹日蓮が顕彰する)か。』(昭定713頁。学会版248頁)
と略して小乗権大乗並びに迹門等の迹仏と、本門寿量品の本仏(文は且く主尊を標して脇士を略す)との正像(小・権・迹)末(本門)三時流行を明かし、続いて広く、
『正像二千年の間、四依の菩薩ならびに人師等は余仏小乗・権大乗爾前迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども、本門の寿量品の本尊(主尊)並びに四菩薩をば(脇士)三国の王臣倶に未だ宗重せず、此の事粗ぼ之を聞くと雖も前代未聞の故に耳目を驚動し心意を迷惑す。請う重ねて之を説け、委細に之を聞かん。』(昭定713頁。学会版248頁)
と数番問答料簡して
四、最後の結示が即ち今の文、
『此時(末法)地涌千界出現本門釈尊為脇士、一閻浮提第一本尊可立此国』
と、すなわち主尊も脇士も前後一貫している。

但し第三の文略明の下には「小権迹の釈尊」には各其の脇士を挙げて「脇士と為し」とあるのに、独り「本門の釈尊」には、但、主尊のみを標して「地涌千界を脇士と為し」の語が省略されている。
然し続いて広明の下には「本門寿量品の本尊」(主尊)「ならびに四大菩薩」(脇士)と、具に主尊本仏と脇士地涌とを並べ挙げられてある。
その結示の今の文、豈に忽ちに正反対に主尊が地涌で、脇士が本仏と成るの理あらんや。況や第一の文、明らかに「釈尊の脇士上行等の四菩薩」とあるをや。
古来吾が宗先哲にも、前の第三の小権迹の主尊及び脇士の文と同じく「脇士と為して」と訓じて、而も其の主尊は興門流の言う「地涌千界」ではなくて、「中尊の妙○経に対して前の文の左右」を今文には「脇士」と遊ばしたまでで、もし「釈迦」と「地涌」と相対すれば「釈迦は主尊」「地涌は脇士」なることは前後一貫、設へ「脇士と為す」と訓ずればとて、「地涌本僧なる日蓮」が「主尊本仏本尊」となる如き、仏宝(本仏)僧宝(本僧)師(本仏)資(本僧)顛倒の義ではなく、「末法に地涌千界が日蓮として垂迹示現して、中尊の妙○経の左右(脇士)に、本門寿量品の本仏並びに本僧四菩薩を脇士と為したる一閻浮提第一の本尊を此の国に始めて造り書き顕彰(出現)せしむべきか」の意である。】(日蓮聖人遺文全集講義第十一巻・527〜529頁)
と説明している。(以上)

572顕正居士:2003/03/18(火) 01:47
本尊抄

其本尊爲體本師娑婆上寶塔居空塔中妙法蓮華經左右釋迦牟尼佛多寶佛釋尊脇士
上行等四菩薩文殊彌勒等四菩薩眷屬居末座迹化他方大小諸菩薩民處大地如
見雲閣月卿十方諸佛處大地上表迹佛迹土故也如是本尊在世五十餘年無之

其ノ本尊ノ爲體(テイタラク)、本師ノ娑婆ノ上ニ寶塔空ニ居シ、塔中ノ妙法蓮華經ノ
左右ニ、釋迦牟尼佛、多寶佛。釋尊ノ脇士タル上行等ノ四菩薩、文殊彌勒等ノ四菩薩
ノ眷屬ハ末座ニ居ス。迹化他方ノ大小ノ諸菩薩ハ民ノ大地ニ處シテ雲閣月卿ヲ見ル
ガ如シ。十方ノ諸佛ハ大地ノ上ニ處ス、迹佛迹土ヲ表ス故也。是ノ如キ本尊在世
五十餘年ニ之無シ。

第一壇-釈迦・多宝(塔中)
第ニ壇-八菩薩(虚空)
第三壇-迹化他方仏菩薩(大地)

1-「リフトの左右に甲さん、乙さん」とはリフトの中の左右の座席をいう。
2-第ニ壇の八菩薩中、上行等の四菩薩は「釋尊の脇士」だから内側に居る。
3-「文殊彌勒等ノ四菩薩」は「迹化他方ノ大小ノ諸菩薩」には属しない。

573いちりん:2003/03/18(火) 11:06
うわあっ。
漢字が
多いですね。

574問答迷人:2003/03/21(金) 08:42

顕正居士さん

>訓読-「甲を乙とする」は「以甲爲乙」と書く。「甲ヲ以テ乙ト爲ス」と読み、「以」の字が必要です。

納得です。有り難うございました。

>第一壇-釈迦・多宝(塔中)

佐渡流罪の時、文永八年十月九日、相州本間依智において認められた曼陀羅、通称「楊子御本尊」(立正安国会の御本尊集№1)には、南無妙法蓮華経の中尊と、愛染・不動の梵字のみで、釈迦・多宝も省かれています。勿論、第二壇、第三壇の諸菩薩等も省かれています。

http://campross.crosswinds.net/GohonzonShu/001.html

しかしながら、日蓮聖人の曼陀羅に対する考え方の原点が窺えるように思えてなりません。愛染・不動を脇士と考えると、中尊の南無妙法蓮華経は大日如来を表している、という説が有りますが、密教の曼陀羅と法華の曼陀羅が融合されているのではないかと思っています。

さらに、日蓮聖人の認められた曼陀羅は、その共通する形として、第一壇の、宝塔を表している南無妙法蓮華経は、第一壇、第二壇、第三壇を貫く形で、最も巨大、且つ、太字で描かれています。つまり、中尊の南無妙法蓮華経が、他の諸尊に対して、極めて優越的に描かれていますが、そのような描き方を以て、日蓮聖人は、何を表そうとされたのかと言う点、如何お考えでしょうか。これは、本尊問答抄の「法華経の題目を以て本尊とすべし」の箇所とも関連してくる様に思いますが。ご教示賜りますれば幸いに存じます。

575問答迷人:2003/03/21(金) 08:49

一字三礼さん

ご無沙汰致しております。宜しくお願いいたします。

>この首題を含め、「南無」を冠した諸尊とは、対面者側の帰命の意思表現である。

何を根拠として、このように判断されたのでしょうか。もう少し詳しくお考えをお聞かせいただけませんでしょうか。宜しくお願いいたします。

576問答迷人:2003/03/21(金) 09:17

川蝉さん

いつもながら、適切なご教示有り難うございます。清水龍山師の

>一、本門の本尊の体相を明かして、『本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙○経の(主尊)左右に(脇士)釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩云々。』

の箇所について、お伺いいたします。「塔中の妙○経の(主尊)左右に(脇士)釈迦牟尼仏・多宝仏」という表現は、『中尊が妙法蓮華経、その脇士が釈迦・多宝』という説のように取れますが、そのような理解で宜しいでしょうか。その場合、塔と妙法蓮華経との関係はどうお考えになられますでしょうか。ご教示賜れば幸いに存じます。

577問答迷人:2003/03/21(金) 09:24

いちりんさん

こんにちは。ご無沙汰しています。

僕も、漢字がいっぱい並んでいると、やはり、身構えてしまいますね(笑) だけど、朝晩の勤行は、お経の漢文を読んでいて、別に何にも抵抗が無いんですよね。漢文で書いてあると、さぞかし有り難いことが書かれているのだろう、と有り難がる反面、その経文に何が書かれているのかという事には、あまり関心が無い。これって、どこか変ですね。

578川蝉:2003/03/21(金) 15:54
576 : 問答迷人 さんへ。
前回は、長文で読みにくい投稿になってしまいました。

『本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙○経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩云々。』(昭定712頁。学会版247頁)
との文に従えば、妙○経は宝塔の中にあるのですから、妙○経と左右の釈迦牟尼仏・多宝仏は宝塔の中身・内容と云えますね。

清水龍山師は「左右」を「脇士」の意味としていますが、
山川智応師の
「大曼荼羅の中尊の南無妙法蓮華経は、名は法であっても体は仏でなければならない。左右の釈迦・多宝は、妙境妙智を表して、八品会上の能説を示し、また五百塵点劫の能覚を示し、中央の南無妙法蓮華経は、所説に約しては、境智冥合の常住の仏果を表し、所覚に約すれば、無始の本覚を示されたもので、ともに本仏釈尊の久遠本有常寂常照の一念三千で、本仏の本体をお挙げになったものである。」
との説明では、「左右」を脇士の意味としてなく、左右の釈迦・多宝、中央の南無妙法蓮華経を一具として、本仏の本体としているようですね。

本尊抄の訓についての、諸学者見解を列挙しましたが、細かい点になると、説明に違いがありますね。

顕本法華宗の井村日咸師は
「曼荼羅が虚空会の儀式を写したものとすると、仏在世の事実から見て、お題目の演題が張り出されて居ったのでは無い、
宝塔の中には釈迦多宝の二仏が並坐されて居っただけで、妙法蓮華経は釈尊の御口から宣示顕説され教説として顕れている説法である。故に音顕であるのを、日蓮聖人は文字としてお書きになったのである。また、諸法実相の理体を中央の南無妙法蓮華経で顕したと云うことで、生仏一如十界互具の理論を曼荼羅の形で示されたと解釈ができる。この両面の意義を兼ね具えて居る所に曼荼羅の特徴がある」(顕本法華宗宗義講習録・104頁)
と講義しています。
虚空会を想像し、中央の題目が音顕の面があると考えれば、大きく書かれたことが、うなずかれます。音顕とは、虚空会にて説かれている(音)末法の要法を顕したもの、との意味のようです。

579一字三礼:2003/03/21(金) 21:07

問答迷人さん:

本当にお久しぶりです。

>>この首題を含め、「南無」を冠した諸尊とは、対面者側の帰命の意思表現である。
>何を根拠として、このように判断されたのでしょうか。

根拠は「南無」の表現する、意味からです。
細かい宗義見解は横に置いて、「南無妙法蓮華経」の文字の意味は、「妙法蓮華経」に「南無」する、帰命するという意味です。ここで「南無」するという行為の主体はだれになるのでしょうか。

この「南無妙法蓮華経」の意味が「妙法蓮華経」が何某かの存在に「南無」する、帰命する、という理解は出来ないと思うのです。

たとえば、2つの表現があるとします。

①南無釈迦牟尼仏(文字)
②合掌印の釈迦牟尼仏像(絵像・木像)

①と②とは、同じ状態を表現していることにはなりません。

①南無釈迦牟尼仏(文字)=釈迦牟尼仏に帰命する
②合掌印の釈迦牟尼仏像(絵像・木像)=釈迦牟尼仏が帰命している

①の場合は、釈迦牟尼仏に帰命しているのは、信仰心を持ってその文字を拝している人と言う事になるでしょう。
②の場合は、釈迦牟尼仏ご自身が、どなたかに帰命している、と言う事になるでしょう。

日蓮聖人の文字曼荼羅は、「文字」の持つ特性によってのみ表現し得るものなのではないでしょうか。
ちなみに私は幼少の頃、なんで曼荼羅の中尊にも「南無」がついているのかが疑問でした。
唱題するこちらが「南無妙法蓮華経」と帰命の意思をいうのだから、帰命を受ける側の本尊は「妙法蓮華経」で良いのではないか、と考えていたのです。

580顕正居士:2003/03/22(土) 00:48
楊枝御本尊

>何を表そうとされたのか

首題と不動愛染しかありません。首題とは宝塔すなわち、釈迦多宝並坐だから、
これだけでもよいのでしょう。以後、首題と不動愛染の種子は大きく書かれます。
「何を表そうとされたのか」? 「これだけでもよい」という意味でしょう。

>密教の曼陀羅と法華の曼陀羅が融合されているのではないか

法華曼荼羅は元来、不空三蔵がはじめたものとおもいます。

○わが国の天台法華宗は中国とちがって円・密・禅・戒四宗兼学です。日蓮は
山門(天台宗比叡山流)の僧であって、彼の云う天台法華はわが国のことです。
日蓮は少時に虚空蔵菩薩を見神し、菩薩のアイテムである宝珠(チンタマニ)を
感得した。これを得て八宗の章疏がよく理解できたというから、一念三千のこと
である。「一念三千ヲ識ラザル者ニハ佛大慈悲ヲ起シ、五字ノ内ニ此ノ珠ヲ裏ミ、
末代幼稚ノ頚ニ懸ケサシメタマフ」。そして立宗後、日蓮は不動愛染を感見した。
首題は具体では宝塔、すなわち釈迦多宝並坐であるが、抽象では「一念三千」
である。虚空蔵、不動愛染、両箇の見神体験の表現が日蓮の曼荼羅であろう。

581川蝉:2003/03/22(土) 11:40
579 : 一字三礼さんへ。
今日は。横から失礼します。

合掌は、敬う、帰依する形でありますが、また、合掌印といって、合掌は実相印である云う考えがあります。
「真言見聞」に
「法華経には、為説実相印と説いて合掌の印あり」
(学会版146頁)
とあります。
宗門上古には曼荼羅を木造にする場合は、すべて合掌印であると云う相伝があるそうです。

>②の場合は、釈迦牟尼仏ご自身が、どなたかに帰命している、と
>言う事になるでしょう

合掌の釈尊像は「釈迦牟尼仏ご自身が、どなたかに帰命している」と云うのでなく、実相を説いている事を象徴する実相印の姿と拝すればよいのでしょう。

>唱題するこちらが「南無妙法蓮華経」と帰命の意思をいうのだか
>ら、帰命を受ける側の本尊は「妙法蓮華経」で良いのではない
>か、と考えていたのです。

顕本法華宗のように、中央の題目を音顕とし、「法華経の肝心・末法の要法であるから、南無妙法蓮華経と受持信唱しなさい」と云う説法を表しているのだと受け取れば、中央の題目は南無妙法蓮華経で良いと云う事になりますね。

582いちりん:2003/03/22(土) 13:02

いちめんでは、『法華経』というお経にあらわされた教え(真理)を拝するのが、南無妙法蓮華経ということなんでしょうね。

ところが、『法華経』というお経にあらわされた教え(真理)とはなにか、と。
それは、いわゆる言葉でいえば、諸法実相。天台流でいえば、一念三千。

で、日蓮さんは、南無妙法蓮華経と。
すなわち、『法華経』というお経にあらわされた教え(真理)とは、じつは「南無妙法蓮華経」であると。そういうことなんでしょうね。

まあ、お釈迦さまも、びっくりですね。
わしは、そんなお経を説いたこともないし、「南無妙法蓮華経」が真理だなんて、聞いたこともないぞ。いったい、それはなんの呪文じゃ、と。
それを唱えて、願いが叶うなどというのは、まるで、バラモンの呪文とおんなじじゃないか、と。

583いちりん:2003/03/22(土) 14:29

それで、日蓮主義に立つと、

お釈迦さん、なにをいうてるのですか。
あなたは、仮の仏さんで、ホンモノじゃありません。
ホンモノの仏さんは、久遠仏といって、ずっとずっと昔から、仏さんなのですよ。
それが『法華経』を説いているのです。
で、あらゆる仏さんは、『法華経』によって成仏したのですよ。
あなただって、じつは『法華経』によって成仏したのですよ。

……という理屈になるんでしょうかね。

584いちりん:2003/03/22(土) 14:31

また、ちがう文脈で言いますと、
南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経は、とても似ていますよね。

南無妙法蓮華経というのは、阿弥陀仏に南無することですよね。
阿弥陀さんにおまかせして生きること。

で、南無妙法蓮華経というのも、妙法蓮華経に南無すること。
妙法蓮華経の教えに、南無すること。

さらには、南無妙法蓮華経というのは、お経の名前じゃなくて、仏さまの名前。
いわば妙法蓮華経仏、妙法蓮華経如来という仏さま。それが久遠仏。
その仏さまに、南無する。
その久遠仏におまかせして生きる。

日蓮本仏主義に立つと、南無妙法蓮華経如来と。
そうして、それがそのまま日蓮さんであり、それが板曼荼羅と。
そういうものすごい理屈になりますよね。

まあしかし、そういうのは所詮は、理屈で、
自分というはからいを捨てて、大いなる仏さまにおまかせしていきる。
それが、南無妙法蓮華経。
そういう意味では、仏さまの名前が違うだけで、南無阿弥陀仏と同じでありますね。

さらには、あらゆる宗教は、そういうことなんでしょう。
大いなる神さまとか仏さまとか、○○さまにおまかせして生きると。

585問答迷人:2003/03/23(日) 09:27

顕正居士さん

>虚空蔵、不動愛染、両箇の見神体験の表現が日蓮の曼荼羅であろう。

なるほど。ずっと疑問に思っていたことの謎解きを初めてしていただいた気持ちです。誠に有り難うございました。

「虚空蔵菩薩から大明珠を授かった」事の意味が、一念三千、南無妙法蓮華経の会得であったと捉えると、曼陀羅中尊の南無妙法蓮華経の意味が鮮明です。また、さらに、愛染・不動の梵字(種子)が、日蓮聖人の実際の感見体験に基づいて、曼陀羅の中尊の南無妙法蓮華経の左右に認められたことにより、大日如来を中尊とし左右に愛染明王・不動明王を脇士として配した、真言密教と軌を一にした本尊が形作られている事に気付きます。

結局、日蓮聖人の教えは、真言密教そのもの、と捉えた方が、より正確に理解できるのではないかと思いました。

586問答迷人:2003/03/23(日) 09:30

139078 ゲットしました。

587問答迷人:2003/03/23(日) 17:01

一字三礼さん

>「南無妙法蓮華経」の文字の意味は、「妙法蓮華経」に「南無」する、帰命するという意味です。ここで「南無」するという行為の主体はだれになるのでしょうか。

一字三礼さんのお考えに異を唱えるものではありませんが、この件に関しては、僕は少し違ったニュアンスで捉えていますので、少し披露させていただきたいと存じます。

ごく単純に考えますと、歴史的事実として、日蓮聖人自体が、南無妙法蓮華経と口唱され、さらに、同じく南無妙法蓮華経と口唱するように人々に勧めたわけですから、その場合は、当然、その行為の主体は、日蓮聖人及び、弟子檀那と言うことになります。この段階では、日蓮聖人と弟子檀那とは、横並びであり、対面関係ではありません。曼陀羅の図顕においても、この横並びの関係は引き継がれていると考えるのが、ごく自然ではないでしょうか。つまり、曼陀羅は、「日蓮聖人の己心中所行法門をそのまま、弟子檀那に対して説示したもの」であり、その曼陀羅説示によって、初めて、弟子檀那が正しく日蓮聖人の修行をそのまま引き継ぐ事が可能となったのだと思います。

つまり、首題、及び諸尊に南無を冠したのは、根本的には、『日蓮聖人の、諸尊に対する帰命の意思表現』であり、曼陀羅図顕に当たって、「日蓮と同じく諸尊に帰命すべし」と弟子・檀那に説示されたものだと思うのです。

まぁ、「なんだ、そう大差ないではないか」と言うこととになるかも知れませんが・・・

588問答迷人:2003/03/23(日) 18:46

川蝉さん

重ねて、ご質問致します。

>妙○経と左右の釈迦牟尼仏・多宝仏は宝塔の中身・内容と云えますね。

となると、結局、宝塔=妙○経と釈迦・多宝、と言うことでしょうか。

>虚空会を想像し、中央の題目が音顕の面があると考えれば、大きく書かれたことが、うなずかれます。

確かに、そのように捉えることは可能だとは思いますが、法華経では、虚空に宝塔が浮かんでいます。曼陀羅から逆に考えると、宝塔も、実は、釈尊の説法、音顕と言うことになるのでしょうか。この辺りの整合性がもう一つスッキリしないように思いますが、如何考えれば良いのでしょうか。

589問答迷人:2003/03/23(日) 19:50

いちりんさん

>「南無妙法蓮華経」が真理だなんて、聞いたこともないぞ。いったい、それはなんの呪文じゃ、

歴史上の釈尊が、『南無妙法蓮華経』の題目の声を聞いたら、やはり、びっくりされるでしょうね。2000年の間に、自分の教えが、世界の果ての国で、そのような、一見似ても似つかぬ教えとなっていることに。

>そういう意味では、仏さまの名前が違うだけで、南無阿弥陀仏と同じでありますね。

また、その同じ国で、同じ様な『南無阿弥陀仏』の念仏の声も聞こえてくるわけです。ますますびっくりされるのではないでしょうか。

>さらには、あらゆる宗教は、そういうことなんでしょう。大いなる神さまとか仏さまとか、○○さまにおまかせして生きると。

歴史上の釈尊は、「自灯明」と説いたわけですから、「○○さまにおまかせして生きる」というのは、一見、歴史上の釈尊の教えとは、対局の生き方を指し示しているように見えますね。なぜ、このような乖離が生じているのでしょう。或いは、表面は乖離しているように見えるけれど、それは、見た目だけで、実際には、南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も、いずれも歴史上の釈尊の教えに基づいていることになるのでしょうか?

590いちりん:2003/03/23(日) 22:56
問答迷人さん

>>さらには、あらゆる宗教は、そういうことなんでしょう。大いなる神さまとか仏さまとか、○○さまにおまかせして生きると。
>歴史上の釈尊は、「自灯明」と説いたわけですから、「○○さまにおまかせして生きる」というのは、一見、歴史上の釈尊の教えとは、対局の生き方を指し示しているように見えますね。なぜ、このような乖離が生じているのでしょう。

わたしは、あらゆる宗教が、、ということで「おまかせ」と書きました。

でもって、じつは仏教は、本来は(つまりゴータマ・ブッダの教えは)、あらゆる宗教の「おまかせ」的なものとは、根本的に違うんじゃないかと思います。

「他力」的なところ、「依存するところ」「信仰するところ」……そういうものは、ブッダにおいては、なかったのではないかと思います。

そうして、大乗仏教は、「他力」的なところ、「依存するところ」「信仰するところ」があるわけですから、ブッダの教えとは、ずいぶんと異なるあり方じゃないかと思います。

原始仏教を実践してるテーラヴァーダの人たちからしたら、大乗仏教のもつ信仰のあり方は、これはもう随分と違うんじゃないでしょうかね。

まあ、ある意味で、大乗仏教のあり方は「信仰」、原始仏教のあり方は「気づき」(アウェアネス、マインドフルネス)と、わたしは思っています。

>或いは、表面は乖離しているように見えるけれど、それは、見た目だけで、実際には、南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も、いずれも歴史上の釈尊の教えに基づいていることになるのでしょうか?

源泉は、お釈迦さまなんでしょうね。
お釈迦さまは、比丘たちに対する教えと、在家に対する教えでは、いくぶん、違うのだと思いますから。みんながみんな出家しなさい、解脱しなさいとは、説かなかったんじゃないでしょうか。

ちゃんとした生活をして、いいことをして、来世は天に生まれるよ、というような教えもありますよね(生天論)。あるいは、「六方礼経」のように、六方を父や、母や、先輩や……として、拝みなさいというような教えもありますし。

だから、在家向けの教えが種になって、それが土深く埋められていて、やがて数百年して、芽が出た。それが大乗仏教なのかなあとも思いますし。

しかしまあ、密教ともなると、これはもうバラモン教みたいですよね。まるで。仏教が10%、ヒンドゥーが90%。

591川蝉:2003/03/24(月) 09:37
588 : 問答迷人 さんへ。
今日は。
>宝塔=妙○経と釈迦・多宝、と言うことでしょうか。

観心本尊抄の説明に依れば、中に、妙○経を中にして釈迦・多宝とが座しているのが宝塔と云うことですね。

音顕とは物体のように形有るものでない虚空会の本門の説法の音声を(要法の五字)を顕していると云うことですので、宝塔は音顕でないですね。経文上では、宝塔は形有るものとして涌出しておりますね。

592taitsu&trade;</b><font color=#FF0000>(qZdgqRP2)</font><b>:2003/03/24(月) 10:37
問答迷人さん
はじめまして。

>・・・曼陀羅は、「日蓮聖人の己心中所行法門をそのまま、弟子檀那に対して説示したもの」であり、
>その曼陀羅説示によって、初めて、弟子檀那が正しく日蓮聖人の修行をそのまま引き継ぐ事が
>可能となったのだと思います。

上記の部分、特に同意です。
人法一箇の本来の説明になるのでは無いでしょうか。
コピペでは一瞬ですが、人に説明となるとこれが中々容易ならざる・・・w

*自分ごと*
私は脱会をせずに、そのまま内部でいます。
しがらみが面倒なので・・w 彼女も内部ですし
結婚も考え(られ)ています。で、
法理に対する自分の姿勢だけは既に学会員ではないと。w
まぁ、偏差値の低い人も入れる学校のイメージです。
バカにしてるんじゃないですよ。佛縁の恩は大いに有るわけですし。
これまでも、特に内部で居る事に不満はあまり無かったですし、
環境的に恵まれていたのでしょうね。良い人ばかりです。
でも、教学面では自分の要求には耐えられなかったようです。
で、今は異端者と冗談で名乗っています。w

うまく書きたい事が纏まらないので、今回はこの辺で・・・w

593仲村 英彰:2003/03/26(水) 18:24
略 初めまして 、、。 大変にご参考になります、、。早々

594仲村 英彰:2003/03/26(水) 19:11
略 諸先輩方々の論戦には「とても参考」になります、。 因みに「小生は20数年間の池田独裁操作にヤット気づいたのは貴HP」のおかげです、。大謝、。
 しかる後「正信会」にも「ウマクダマサレ」ました、。 もう「宗教はコリゴリ」という心境、、。 しかし「ホンマに成仏可能」ならば考えましょう、、。
 早々、。 大阪市: 虎次郎 拝、。

598問答迷人:2003/04/26(土) 12:41

144000ゲットしました。


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