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素朴な疑問

1719大勇者:2004/10/08(金) 11:38
犀角独歩さん 
あ〜すいません。
>>1717を読む前に書き込んでしまいました。

1720犀角独歩:2004/10/08(金) 11:48

大勇者さん、そうでしたか。
まあ、以下、打ちましたので。

> 愛染と不動だけ何故あのような筆になるのでしょうか?

これは蓮師に係る大問題ですね。正確に答えられる人は古今、誰一人としていなかったでしょうね。もちろん、わたしもわかりません。
ただ、『御本尊七箇相承』には「梵字は不動愛染に限る事何の意有りて遊ばざるるや、師の曰はく西天より梵字を三蔵等将来して和漢の二字と成す目前なるものなり、我が仏法も亦復是の如し遠沾の翻訳仮字を梵漢に通ず可き先兆なり」とありますね。

まあ、簡単に言えば、梵字は印度から三蔵法師が中国に持ち込み、漢訳され、さらに和字として読まれた。今度は蓮師の仏法も漢訳され、さらに梵字に翻訳される先兆なのだと…。しかし、これは何故不動愛染のみ梵字であるのかの答えにはなっていませんね。

> あれは梵字なのですか?

これもまた、大問題ですね。梵字(悉雲文字)真四角とか真円に納まる形で記されることが一般的です。しかし、蓮師は縦に長く記していますね。まあ、梵字であると言われれば、そう見えますし、先に挙げたとおり、花押もそう見えます。でも、そんな蓮師の真跡遺文が残るわけでもなく、上古諸師の確実な資料があるわけでもありません。わたしは半信半疑で、やや梵字かな?寄りというところです。

1721犀角独歩:2004/10/08(金) 12:25

昨晩、ある方と話していたら、「自衛隊には創価学会員が多い」とマスコミ、また防衛庁関係者が語っているというのです。わたしは創価学会には35年間いましたが、周りに自衛隊員は一人もいませんでした。ですから、「そんなことはないでしょう」と応えたんです。でも、言い張られるわけでです。また「学会員である自衛隊員が国家機密を創価学会、公明党に漏洩することが問題になっていた」とも言うわけでです。

この辺の実否は如何なものでしょうか。どなたかレクチャーいただけませんでしょうか。

1722大勇者:2004/10/08(金) 14:08
犀角独歩さん ありがとうございます。
私は「弓」(愛染)と「刀」(不動)を勝手に連想(妄想)していました。

平和創価さん
「光明点」「髭題目」の件に関連つけしても
>>1717の大日如来の説は興味が沸きますね。(大日如来は手は2本みたいですが、)マハーヴァイロチャナが「光り輝く」と考えると「瞬間の光」のような事を表現しているのかも。
参考までに
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/008.html
以下エキサイト翻訳での変換です。
日蓮が彼のhonzonに置くロータスの聖典の話に外部の図の最も著しい例は、Mahavairocanaです....上記の曼荼羅?ヘ含んでいます、含んでいる、2、他の、siddham、とは別に、それら、Arcala(Fudo)およびRagaraja(Aizen)アイコンの上部の部分で引かれた、ロータス経典のタイトルの側で。これらの2つの書記素を識別することは全く困難です。というのは、それらは標準の形式で引かれないからです。私は、曼荼羅の左側のsiddhamが不正確に書かれて、右側に記入されたsiddhamがtaizokaiのMahavairocanaの種子文字のうちの1つかもしれない間に、kongokai(amh)のMahavairocanaを表わすために使用される種子文字(shuji)であると思います。

1723愚鈍凡夫:2004/10/08(金) 14:26

>>1721: 犀角独歩さん

「自衛隊にオウム信者が!!」といった話の亜流じゃありませんか。
最近では、「自衛隊に顕正会員が!!」っていうのをネットで見ましたよ。
数からいって、自衛隊に創価学会員がいたっておかしくないですが。
そのうち、「自衛隊で創価・顕正の代理戦争!!」なんて記事が「週刊新潮」あたりに載ったりして。

「自衛隊」幹部に浸透する信徒100万「顕正会」
http://www.asyura2.com/0406/senkyo5/msg/149.html

こういうのも、ありましたっけ。

極秘入手!! 池田大作氏と創価学会・公明党に関する公安 秘 調査報告書の戦慄
http://www.asyura2.com/0406/senkyo5/msg/148.html

1724犀角独歩:2004/10/08(金) 16:36

愚鈍凡夫さん、有り難うございます。
そうですよね、「オウム信者…話の亜流」「自衛隊に顕正会員」というのは仄聞しますが、学会員の自衛隊というのはどうもピンとこないわけです。

その人が語ったところによると、戸田時代から自衛隊である学会員が国家機密を漏洩してきたというのですよ。それが国会でも問題になったとまで言うのですが、どうもわたしには記憶がありません。まるで創価学会を庇い立てする気はありませんが、万が一、学会が自衛隊機密を自衛隊員を諜報として入手し、その前提で池田さんが特に中国や、民間外交をやっているとすれば、これは由々しき大問題ですね。まあ、しかし、こんなことが実際にあるかどうか。

そんな情報があれば、細大に拘わらず、他の方々も情報をお寄せいただければと思います。

1725一会員:2004/10/10(日) 14:30
はじめまして、このHPは最近知り、ほんの時々ですが見させていただいています。
私は学会員で、自衛隊のOBでもあります。
自衛隊の中に学会員はいますが、その割合は世間の学会世帯の割合より少ない程度ではないでしょうか。
自衛隊員といえど一人間です。自衛隊員以外の人と同じように喜怒哀楽・四苦八苦もあり、幸せや不幸に対する感覚・思いも同じです。
たまたま仕事が自衛官であるというだけです。
それから国家機密に関してですが、自衛官がその任務の部署で知る機密(最高の秘密)や秘、取扱い注意等は、例えば暗号とか、武器や武装艦艇の性能とかであり、これは極端に言うなら、ものによってですが、別の部署の自衛官にさえ開示することはしません。
それを守らなければ当然懲戒処分になります。懲戒覚悟で秘密を口外するほどのものって一体どんなものがあるのでしょうか?
通信機器の性能?潜水艦の潜水や能力や速度?人事?暗号?ミサイルの射程?防衛予算の使用明細?個人情報?
そんなものを公明党や学会にもっていったって、ただのゴミ情報でしょう(笑)
第一、今公明党は与党です。内閣の一員に大臣がいるし、副大臣もいるし、政務官もいる。防衛庁の秘密事項を知ることが立場にいるのです。
閣僚さえ知ることが出来ないもので、しかも自衛官なら簡単に手に入るという、創価学会がのどから手が出るほど欲しがる防衛上の国家機密って一体何?
具体的にそういうことを考えますと、件の話は、単なる井戸端会議の暇つぶし談でしかないということでしょう。
ちなみに、防衛大学生には学会員も顕正会員もいます。もし、そんな危険があるのなら、そういう人は入学させないでしょう。
そうそう、私が自衛隊の学校にいたとき、教官が学会員でしたよ。ハハハハ・・。
横から失礼いたしました。

1726犀角独歩:2004/10/10(日) 17:13

一会員さん、はじめまして。

至極尤もなご意見ですね。
たまたま、とある人と話しているときに、こんな話になったのです。わたしが創価学会の弁明をするのはロムの方すれば、奇異なことかもしれませんが、わたしは「そんなことはないでしょう」とその話を否定しました。
島田師『創価学会』(新潮新書)でも日本人の7人に1人は学会員(?)と記されていて、わたしは驚いたのですが、本当にそんな会員数かどうかは別として、この統計数を信じれば、自衛隊員の7人に1人が学会員であれば、平均数、それ以下であれば、自衛隊員になる学会員、会員数に比して少ないと考えるのが統計処理的な姿勢であろうと思った次第です。

貴重なご投稿を有り難うございました。

1727愚鈍凡夫:2004/10/11(月) 21:29

保田妙本寺の「万年救護本尊」についてですが、
総帰命の形を取りながら、四天王が省略されているのは何故なのか。といった謎もありますが、讃文について、聖滅後の他筆の可能性も含めて、漫荼羅図顕の時期と、讃文記入の時期が違うと考えられないでしょうか。もちろん、讃文が蓮祖真筆の場合は1275(文永12)年12月〜1279(弘安2)年12月の間と言うことになるのでしょうが。

「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年雖尓月漢日三ヶ国之間未有此大本尊或知不弘之或不知之我慈父以仏智隠留之為末代残之後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之」

この漫荼羅だけが「大曼荼羅」ではなく、「大本尊」とあるのは何故なのでしょう。これはこの漫荼羅の相貌に関係するのでしょうか。
以前にもこの話題で盛り上がっていた気もするのですが・・・・・。

1728愚鈍凡夫:2004/10/11(月) 21:37

誤→もちろん、讃文が蓮祖真筆の場合は1275(文永12)年12月〜1279(弘安2)年12月の間と言うことになるのでしょうが。

正→もちろん、讃文が蓮祖真筆の場合は1274(文永11)年12月〜1279(弘安2)年12月の間と言うことになるのでしょうが。

です。 m(_ _;)m ゴメン!!

1729中村:2004/10/12(火) 02:00
創価学会は神社にお参り行っては行けないと言っていますが日蓮大聖人様も神社にお参りに行ってはいけないと言っていたのですか?御書で神道について批判をしていますか? 教えてください!

1730犀角独歩:2004/10/12(火) 10:04

1727 愚鈍凡夫さん:

大本尊讃文他筆説ですか、大胆ですね。
でも、わたしも全面的には否定できません。

文永11年、この時期、讃文の挿入はほとんど確定しておりません。先に挙がった第11号はたぶん他筆、大本尊の半年前の7月25日第13号には「大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間 雖有経文一閻浮提之内未曾有 大曼陀羅也得意之人察之」の讃文が見られます。この曼陀羅も実に特異ですね。おかしな例ですが、『立正安国論』の先魁に『守護国家論』があるように、第16号大本尊の先魁にある如くです。

第13号と第16号の讃文は「大覚世尊…二千二百二十余年…雖…」と言った言い回しが似通っています。

わたしは大本尊の讃文が図示の段階で添加されたものであったとしても「大本尊」が直ちに図示を指すのかということで、疑義を呈したことがあります。
つまり、「大覚世尊…大本尊…我慈父…隠留之…上行菩薩出現…始弘宣之」という文脈は、「大本尊」語は大覚世尊を指していると読むことはできます。また、これを余に始めて始弘するのが上行菩薩であるというのは『本尊抄』の寿量仏像を地涌千界が出現させるという考えとも一致します。ただ、第13号讃文と対比すれば、やはり、「大曼陀羅」と「大本尊」は用語の違いと見ることもできます。悩ましいですね。

いずれにしても、この時期で遺る第13号、第16号は他と抜きん出ていることは間違いなく、いっそ、この2舗は他筆ではないのかというあまりにも大胆な暴論を立てたい衝動に駆られそうになります。しかし、このようなことを言い出したら、空き缶さんのご叱責を被ることになるでしょう(笑)

1731愚鈍凡夫:2004/10/12(火) 11:38

犀角独歩さん、どうも。
「万年救護本尊」のあの讃文は、漫荼羅全体のバランスからいっても、隙間を埋めるように記されていることからいっても、漫荼羅図顕の後に書き加えられたことは間違いないと思います。
また、あの「漫荼羅」の副書に「本門寺建立之時、懸本御影堂 可為末代重宝也 建治元年太才乙亥六月十七日 甲斐国波木井郷図之」とあり、本門寺本堂ではなく本門寺御影堂に懸けよとことわっているのは何故でしょうか。このことは、生御影の背後に漫荼羅を安置する奉安型式を連想させます。

この副書について疑問に思うのは、年記が「建治元(1275)年太才乙亥六月十七日」であることです。漫荼羅図顕が文永11(1274)年12月とのことですから、半年後に副書が書かれたことになります。この半年の間にどんな心境の変化が起こったのでしょうか(皆既日食を見た所為か?)。
それと、この御影堂に安置する「生御影」は誰なのでしょう?
蓮祖は、本門寺建立の時に蓮祖生御影を造立し、本門寺御影堂に「万年救護本尊」とともに奉安せよと遺命されたと言うことなのでしょうか。

もし、この讃文が蓮祖の手によって書かれたとしたら、その時点で、蓮祖は漫荼羅正意であったことの証拠になるのではないでしょうか。

「小生の仮説が根底から崩壊しそう」 ( ̄Д ̄;;。

1732犀角独歩:2004/10/12(火) 12:10

愚鈍凡夫さん、「蓮祖は漫荼羅正意」ならぬ、「大本尊正意」となりましょうか?

いま手元に資料がないのですが、この副書も蓮師の筆(ということになっていた)でしょうか。蓮師がご自分の御影像の造立を促したというわけですか?

漫荼羅正意、御影信仰、さらに本門寺、事檀思想が定着したあとの、後人の加筆と見なすのが学的判断となるでしょうか。

仮説は崩壊しませんでしょうね。

1733犀角独歩:2004/10/12(火) 12:19

そうそう、それから御影堂のことなんですが、たとえば三堂といった場合、本堂・御影堂・垂迹堂となるわけですね。門下一般では本堂は釈迦堂で一体仏安置ですね。けれど、石山では、どうなるのでしょうか。やはり、漫荼羅でしょうか。堂宇は、れんさんも引用してくださったとおり、それぞれの尊体を奉安するものですね。興師が建立した(とされる)三堂の本門寺根元が本堂かどうかはわたしは決し得ないところはありますが、それは置くとして、当時の御影堂に漫荼羅の奉懸はされていたのでしょうか。木像であれば、まあ、その可能性はなきにしもあらずですが、盗難事件に触れて、愚鈍凡夫さんが秀でた指摘をされた如く「御影一舗」でした。つまり、これは絵で、たぶん、掛軸ですよね。そうなると、御影掛軸の後ろに漫荼羅の掛軸を懸けたら見えなくなってしまいます。そうなれば、左右に並べ懸けることになるのでしょうか。しかし、これは考えづらいですね。これに準じて考えれば、仮にその後、木像に発展したところで、当初は御影像の後ろには漫荼羅奉懸はしなかったと見るのが自然のように観じます。つまり、御影堂はあくまで御影のみ、本堂は興門では漫荼羅、他門では釈迦像のみという奉安ではなかったでしょうか。

その類推からすれば、たしかに副書の文面は如何にも歴史性から逸脱していると思えます。

1734愚鈍凡夫:2004/10/12(火) 12:47

「建治元年太才乙亥六月十七日 甲斐国波木井郷図之」とあるのですから、意図するところは、蓮祖が何時何処で書いたかを示したものだと思いますが、小生も、この副書は偽作でなければ辻褄が合わないと思います。

「空き缶さんの呪いの藁人形が怖い・・・・・」(by 独り言) (O.O;)(o。o;)

興味深いのは、この「漫荼羅」に特別な意味を持たせたのは日道師か、日郷師か、それともそれぞれに連なる誰かか・・・・・。ということになるでしょうか。

1735平和創価:2004/10/12(火) 18:07
>>1729
中村さん。初めまして。
蓮祖の御書に一節をご紹介します。「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人
は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」『立正安国論』御書17頁。「此
の国は謗法の国土なれば守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて多
くの人を導く」『新池御書』御書1440〜1441頁。天照大神は法華の守護神であり、謗法の国に
は住まないのです。天照大神や諸天善神はこの国にはおらず、神社には神はいないのです。しかし日本
が広宣流布したならば、天照大神や諸天善神がお帰りになってきて神社に神が戻られるのです。

創価学会が神社にお参りに行ってはいけないと言うのはそういう理由からなのです。天照大神に罪があ
るわけではないのです。広宣流布して天照大神や諸天善神がお帰りなされる時を待ちましょう。

1736平和創価:2004/10/12(火) 18:12
失礼。訂正します。

>蓮祖の御書に一節を→蓮祖の御書の一節を

です。

1737犀角独歩:2004/10/12(火) 22:35

平和創価さん:

『新池御書』は偽書ではないでしょうか。

それと、天照大神、八幡大菩薩という神が駄目ならば、何故、漫荼羅にはその二神の名称が書かれてあるのでしょうか。

また、興師が北山に三堂を建立し、垂迹堂(天照大神)、そして八幡社を建立したことは石山文献にも載るところではないでしょうか。

さて、これらの点は如何でしょうか。

1738愚鈍凡夫:2004/10/12(火) 22:55

横レス失礼します。
№16の保田妙本寺蔵漫荼羅をなんとなく眺めていて思ったのですが、この漫荼羅は元々№15の馬渕妙経寺蔵の漫荼羅と同じスタイルだったのではないでしょうか(紙の大きさは違いますが)。その曼陀羅に、蓮祖ではない誰かが讃文を書き込んだ。
何となく、そういうことじゃないだろうか。ふと、そう思いました。

1739問答迷人:2004/10/12(火) 23:18

愚鈍凡夫さん

確か、万年救護本尊は、目師が最後の天奏のとき、携行し、郷師が垂井より持ち帰ったのではなかったですか。もし、そうだったら、賛文を書き込む立場の人は、興師しか考えられませんが、内容的に興師と思われる部分は、本門寺の御影堂云々、に限定されるのではないでしょうか。大覚世尊云々の部分まで興師が書き込んだとは思いにくいです。他に例があれば別ですが。少なくとも、目師が天奏に携行したのが事実であれば、この万年救護の賛文はその時、既に認められていたと思うのです。そして、この本尊は特別扱いされていたと。

1740愚鈍凡夫:2004/10/12(火) 23:36

問答迷人さん

> 確か、万年救護本尊は、目師が最後の天奏のとき、携行し、郷師が垂井より持ち帰ったのではなかったですか。

この時、あの讃文が漫荼羅に書き込まれていたと、事実関係を確認できるのでしょうか。
もし確認できるのであれば、ご教示下さいませんか。小生の推論が間違っているとすれば、思わぬ袋小路に迷い込むことになりますので。
よろしくお願いします。

1741問答迷人:2004/10/12(火) 23:52

愚鈍凡夫さん

>この時、あの讃文が漫荼羅に書き込まれていたと、事実関係を確認できるのでしょうか。

確認するすべは無いのではないかと思います。有るのは状況証拠のみ。この本尊を珍重する所以は、賛文の特異性に有ると思います。そして、それ故、万年救護本尊と称されるのだと思います。目師が携行されたのであれば、その段階でこの本尊には特筆すべき特徴が有ったと考えざるを得ません。それは、この賛文以外に何か特筆すべき点が有るかと考えても、特別見当たらない。だつたら、ゆはり、賛文が認められており。それ故珍重されたのではないかという事です。あくまでも状況証拠ですが。

1742愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 00:27

問答迷人さん、どうも有り難うございます。

保田妙本寺の漫荼羅を眺めていると、何となく作為的なものを感じるのです。
文永11年の現存する蓮祖漫荼羅は、四天王が省略されている漫荼羅が多いですよね。
その中で、この漫荼羅だけにあの讃文が記されているのは何故なんだろう。そういう疑問が頭から離れないのです(困ったもんだ)。

1743平和創価:2004/10/13(水) 07:08
犀角独歩さん

『新池御書』には「守護の善神は法味にうへて社をす天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて
多くの人を導く……仏陀仏をやめて寂光土へ帰り給へば堂塔・寺社は徒に魔縁の栖と成りぬ」
書かれてあります。曼陀羅の天照大神と八幡大菩薩は蓮祖の生命の中の神であり、それを蓮祖
は御本尊として顕されたものと思われます。形を持った社を拝んでも効果はないことを『新池
御書』では示されたのであって、蓮祖の生命の中には守護神は厳然として存在していたと思い
ます。謗法の国の社には守護神は住まず、法華経の行者の生命には守護神は住んでいるという
ように解釈されます。ですから曼陀羅に天照大神と八幡大菩薩の名称が書かれてあってもおか
しくはないと思います。

>興師が北山に三堂を建立し、垂迹堂(天照大神)、そして八幡社を建立したことは石山文献に
>も載るところではないでしょうか。

この点は興師が蓮祖の生命中の天照大神と八幡大菩薩を奉ったと捉えれば、矛盾はないと思い
ます。
『新池御書』は真筆は所在しておりませんが、真筆が所在する『立正安国論』にも「善神は国
を捨てて相去り……魔来たり鬼来たり」と書かれてあります。これは『新池御書』の先の部分
ともほぼ符合しています。『新池御書』が偽書となりますと、『立正安国論』も偽書ともなり
かねなくなります。いずれにせよ『立正安国論』には「善神国を捨てて相去り」と書かれてあ
りますから、御本尊の蓮祖の生命中の神であると拝されます。
興師が建立された堂は蓮祖の生命中の神を奉ったものと考えられますので、『新池御書』
は偽書とは思われません。弘安三年前後の他の御書と著しく異なる表記がありましたら、
偽書の可能性もありますが、そうした点にお気づきになりましたら、またそれを御指摘
下さい。
貴重な御意見有難う御座いました。

1744平和創価:2004/10/13(水) 07:14
犀角独歩さん
訂正です。
>守護の善神は法味にうへて社をす天に上り給へば
         ↓
>守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば

です。重大な御書の一字「て」を見落としました。大変失礼致しました。

1745犀角独歩:2004/10/13(水) 07:52

平和創価さん:

『新池御書』が真跡である証拠があるのですか。真跡はどこに遺っているのでしょうか。
あなたは何を証拠に『新池御書』真跡説を採るのでしょうか。「そう思う」などという子供だましの思いこみはここでは通用しません。
真偽未決所を確実な真書であると証明することは、そんな容易いことではありません。
もう少し真面目に書き込みをするべきでしょう。ふざけるのはおやめなさい。

> 『新池御書』が偽書となりますと、『立正安国論』も偽書

何を言っているのですか。『立正安国論』は真跡が遺っています。
創価学会版『御書全集』にも「正筆所在/中山法華経寺」(目録P2)と記されているでしょう。
『新池御書』とはその価値は格段に違います。
あなたの論法で行けば、「わたしは学会員である」という学会員がおり、その口真似をして非会員が「わたしは学会員である」と言えば、その人は学会員と言うことになってしまいます。真跡内容に準じて、偽書を造れば、内容が類似するのは当然のことなので、あなたの言う如き鑑別識は何の証拠にもなりません。

『新池御書』は偽書である可能性がありますから、蓮師の言葉として使用すれば、虚偽となる可能性を孕みます。資料の呈示には気を付けましょう。

蓮師の命日に嘘はいけません。

> 興師が蓮祖の生命中の天照大神と八幡大菩薩を奉った

生命ではなく、蓮師の教義であり、お心です。
安直に生命という短絡語で判断すれば、思考は停止し、また浅薄なものとなります。
もし、これを生命というのであれば、その証拠を確実な資料から挙げる必要もあります。
蓮師は許より、興師の資料からも「生命」なる概念はまったく見られません。
嘘を書いてはいけません。

さて、それはそれとして、興師が蓮師の教えの中に天照八幡を奉ったというのであれば、それは是ですね。であれば、その後の信徒が興師と同じように奉って何の問題があるのでしょうか。

1746犀角独歩:2004/10/13(水) 08:15

問答さん、愚鈍凡夫さんとの議論からは寄り道ですが、「万年救護本尊」、弘安3年5月9日禅師授与漫荼羅も北山では同様の名前で呼ばれています。『大石寺誑惑顕本書』にも見られますね。この話題は以前も話し合いましたが、「万年救護」思想が先行し、ではそれに適う漫荼羅・本尊はいずれか?という時系列が存するのでしょうね。

1747犀角独歩:2004/10/13(水) 08:28

平和創価さん、あなたの文章の中でもう1点、気になるところがあります。

> 形を持った社を拝んでも効果はない

では、たとえばあなた方が拝んでいる寛師漫荼羅を写真製版して、ラミネートを掛けた印刷物は、あれは漫荼羅の「形を持った」ものではないのでしょうか。形を持ったものを拝んでも効果がないといいながら、形を持ったものを拝むあなたの在り方は自己矛盾を来していますが、この点は如何でしょうか。また、蓮師はいずこに漫荼羅に、あなたが先に呈示した如き方便自我偈を上げる勤行をしろと書き遺しているのでしょうか。この点は『勤行について』スレッドに回答をお寄せください。

1748愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 08:35

確か、西山にも「万年救護」と呼ばれる漫荼羅がありましたね。
それにしても、「万年救護」とは誰が命名して、いつ頃から使われるようになった言葉なんでしょうか。

しかし、保田妙本寺の「万年救護」は副書によると本門寺御影堂に懸けるはずなのに、日目師は何故天奏の際に持参したのでしょう。もし、天皇に献上することにでもなったら、副書の遺命に逆らうことになります。やはり、ここにも虚偽がありそうですね。

1749問答迷人:2004/10/13(水) 08:47

愚鈍凡夫さん

>天皇に献上することにでもなったら

天皇に見せる為で有ったと思います。献上の意思はなかったかと。

資料、思い出せません。独歩さん、何処に書かれていたのでしたか?

1750愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 09:00

でも、天皇にお目通りが叶い、天皇が蓮祖漫荼羅に興味を示された場合、事の成行次第では天皇に蓮祖漫荼羅を献上することになるやも知れません。当然、その時の用意はされていたと思いますが、「万年救護」を天皇が所望した時はどうするつもりだったのでしょうか。
まさか、「これはサンプルです」とは言えないと思いますが。

1751問答迷人:2004/10/13(水) 09:20

万年救護の出所については、意味合いについては、蓮師報恩抄の

「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながる(流布)べし。」

でしょうね。万年救護の成句が出てくる一番早い文献は五人所破抄でしょうか。

「伝教大師は三千侶の衆徒を安(お)く、義真以後は其れ無きが如し。今日蓮聖人は万年救護の為に六人の上首を定む、然りと雖も法門既に二途に分かれ門徒亦一准ならず。宿習の至り正師に遇ふと雖も伝持の人自他弁じ難し。「能く是の法を聴く者此の人亦復難し」と。「此の言若し堕ちなば将来悲むべし」と。経文と解釈と宛も符契の如し。迹化の悲歎猶此くの如し。本門の墜堕寧ろ愁(うれ)へざらんや。案立若し先師に違はゞ一身の短慮尤も恐れ有り、言ふ所亦仏意に叶はゞ五人の謬義甚だ憂ふべし。取捨正見に任す、思惟して宜しく解すべし云云。(富士宗学要集二巻七頁)

>所望した時はどうするつもりだったのでしょうか

うーん。判りませんね。多分、「献上するのではなく、説明の為持参した」と言って渡さなかったのでは無いかと思います。

1752愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 09:53

「万年救護の御本尊に云く上行菩薩出現●弘宣す之れを云云、又仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提未曽有の大漫茶羅也」(五人所破抄一覧)

漫荼羅を指す言葉として「万年救護」が使われているのはこの書ですね。これは、石山35世日穏師(在位:1765(明和2)年10月8日-1770(明和7)年4月8日)の書だったはずですから、随分後のことですね。

1753犀角独歩:2004/10/13(水) 10:24

問答さんに問いかけていただきながら、ちょっと目を離したすきにレスが進んでいました(笑)

目師が天奏に所持した宝物をたしか列挙した資料があったと記憶するのですがどこでしたか。探してみます。ただ、この辺の話の信憑性は如何ばかりか。何せ、紫宸殿に掛ける本尊というのが、れんさんがご指摘くださったとおり削損して紫宸殿本尊だという代物で、これもたしか目師は持って行った話になっていたような。いずれにしても、閲覧に供するためであったと記憶します。

「万年救護」語の要山血脉両抄、北山所破抄、さて、どちらが初出なんでしょうか。血脉両抄の成立年代が決め手ですね、これは。

・法華本門宗血脈相承事(本因妙抄)
「万年救護の為に之を記し留むる者」
・具騰本種正法実義本迹勝劣正伝(百六箇抄)
「万年救護写瓶の弟子日興之を授与す云云」
「釈迦諸仏の出世の本懐、真実真実唯為(ゆいい)一大事の秘密なり。然る間万年救護の為に之を記し留む。」
・五人所破抄
「今日蓮聖人は万年救護の為に六人の上首を定む」

「万年救護」語は、北山では六老全員に掛かりますが、要山では興師に限りますね。

では、「万年救護本尊」となると、愚鈍凡夫さんのご指摘の『五人所破抄一覽』も載りますが、隠師は35代です。17代精師が『家中抄』『日蓮聖人年譜』に既にその用語が見られます。元来、目師直授伝説を、興師授与、次に目師と変えたのは精師でしょうか。それともあとからの改竄でしたっけ?

この点は、れんさんがお詳しかった。れんさん、もしロムされていらっしゃいましたら、ご教示ください。あと、もう1点、冨要『五人所破抄一覽』の「今日蓮聖人者又為に万年救護の(三十五字省略)能聴是法者斯人亦復難と文」のこの35字は何が埋まるのでしょうか。ご多忙のところとは存じますが、ご教示いただければ有り難く存じます。

1754愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 10:57

実は、小生が保田妙本寺の「万年救護本尊」の讃文に疑いを持ったのは、先に問答迷人さんが挙げて下さった「新尼御前御返事」が切っ掛けなんです。
「万年救護本尊」は1274(文永11)年12月図顕、「新尼御前御返事」は1275(文永12)年2月執筆です。
「新尼御前御返事」の存在を知っていて、漫荼羅正意の富士門実力者の誰かが、たまたま手元にあった「蓮祖漫荼羅」の日付けが「新尼御前御返事」の執筆時期に近いことに気づいた。
そこで、「蓮祖の本心は漫荼羅正意に有り」と主張するため、漫荼羅に讃文を書き込んだ。そうすることで、この二つが蓮祖の漫荼羅正意を補完しあうのではないかと考えたのではないか。
まあっ、こんな妄想が始まりなんですが。 (^^ゞ

1757平和創価:2004/10/13(水) 15:04

犀角独歩さん

「生命」という言葉を安直に遣っておりました。より真剣な姿勢でこれから対処して参り
ます。興師が奉った天照大神と八幡大菩薩を我々が拝しても差し支えないですがという御
意見ですが、それは『新池御書』を偽書としての上ですね。独歩さん。それでは逆に『新
池御書』が偽書であるという決定的な証拠はどこにありますか?真書であるという証拠は
ありません。しかし偽書であると仰られるのならばその証拠を提示して頂きたいと思いま
す。真書である『立正安国論』からは神社を拝してはいけないという蓮祖のお気持ちはく
みとれません。この問題は平行線を辿ってしまうように思われます。

次ぎに私が言った「形のあるものを拝んではいけない」というのは、『新池御書』を基と
して謗法にまみれて悪鬼が入った仏像や社を拝んではいけないという意味でした。言葉が
足りず失礼しました。曼陀羅も確かに「形のある」ものですから。

>蓮師はいずこに漫荼羅に、あなたが先に呈示した如き方便自我偈を上げる勤行をしろと書
>き遺しているのでしょうか。この点は『勤行について』スレッドに回答をお寄せください。

この問題は私の今まで勉強してきた創価学会の教学では全く触れられていない問題ですので、
暫く解答まで時間を下さい。この問題を解明するにはかなりの資料が必要ですので日数がかり
ます。『富士宗学要集』さえ持っていない私ですので、現在の力では及ばないかも知れません
がその時は「分かりません」と正直に回答致します。

1758平和創価:2004/10/13(水) 15:21

犀角独歩さん

『新池御書』が偽書である可能性か高いという独歩さんの御意見をお聞きしましたが、
それは興師が三堂を建立し、天照大神と八幡大菩薩等を奉ったという史実と御書の内容
が食い違うという点からですね。『新池御書』の写本の所在や写本が書かれた年代は御
書には書かれていませんし、それをどこから調べたらいいのか皆目見当がつきませんの
で、まだ入り口に来た状態です。

『新池御書』が偽書である可能性はそれ以外の部分からも言えるのでしょうか。他の部分
からも他の同時代の御書と大きく食い違う点や表記の違いがあれば重複しますが御指摘下
さい。

1759平和創価:2004/10/13(水) 15:27
1758
訂正:『新池御書』の写本の所在や写本が書かれた年代は御書には書かれていません
              ↓
  :『新池御書』の写本の所在や写本が書かれた年代は創価学会の御書全集には書か
   れていません 

です。失礼しました。正に教学は剣豪の修行ですね。

1760犀角独歩:2004/10/13(水) 15:39

平和創価さん:

> 『新池御書』が偽書…決定的な証拠

ないでしょう。しかし、だからと言って真筆とはなりません。
蓮師の確実な実像を素描するためには、真跡のないものはそれを断ったうえで使用するのが良心であると言っているのです。
あなたはわたしに反論しているだけのつもりかも知れませんが、斯かる姿勢は仏教学を含む科学全般を否定する姿勢であることをよく了解されるべきでしょう。

また、あなたは『新池御書』が万が一、偽書であった場合、それを真筆であると人々に語った責任、いや増して、蓮師へ対し奉り、責任をどのように取るのですか。責任感があれば、万が一でも虚偽の可能性のあることをあたかも真実の如く語ること慎むの良識に属します。我が身の、身の丈をよくよく知りなさい。また、平行線を辿るのは、あなた自身の創価学会内でしか通用しない固定観念のなせる業でそれ以上でもなければそれ以下でもありません。執着が真実を見る目を濁らせているのです。

『富士宗学要集』はnbがコツコツと苦心励行されて、ネットにアップされておられます。このような地道な作業と、さらにれんさんをはじめ、皆さんのような真摯な研鑽のうえにここの議論は成り立っています。読んでもいない不勉強な分際で莠言を吐くものではありません。もっと謙虚になりなさい。

nb資料室
http://nakanihon.net/nb/siryou.html

現宗研 文献資料
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/bunken.htm

追補

> 新池御書』の写本の所在や写本が書かれた年代は御書には書かれていません

つまり、要するにそう言うことです。書かれていないのではなく、書けないのです。ないからです。真跡があった確かな証拠すらないということですよ。
あなたは禄内・録外という意味はわかりますか。

> 剣豪の修行

嗤わせていけません。あなたの振り回しているのは木刀でも竹刀でもなく、当たってもくすぐったいだけのオモチャの刀です。自分の身の丈をしっかりと知りなさい。

1761犀角独歩:2004/10/13(水) 15:41

【1780の訂正】

誤)nbがコツコツと苦心励行
正)nbさんがコツコツと苦心励行

1762愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 16:59

犀角独歩さんは、「新池御書」が偽書であるといっているのではなくて、真蹟が存在しない遺文に関して、その扱いは、より慎重でなければならない。と仰っているのではありませんか。

蓮祖漫荼羅に日天・月天・明星天は勧請されていますが、蓮祖の星信仰は天拝という形で終生続けられていたと思います(北辰妙見も天拝の対象であったと思われます)。
また、天照大神・八幡大菩薩も漫荼羅に勧請されていますが、龍口へ護送される時に、鶴岡八幡宮社前で八幡大菩薩を叱責した伝説は有名です。
いずれにせよ、法華守護の善神として蓮祖は信仰されていたのではないでしょうか。
この点を見逃してはいけないと思います。

1763犀角独歩:2004/10/13(水) 17:38

愚鈍凡夫さん、蓮師は天照大神がおわすのかと疑義を投げかけたりしますね。あ、そうそう。ご質問の中村さん、はじめまして。ご挨拶もせず、失礼いたしております。

ま、平和創価さんは子供なのか、青年なのか、男性か・女性かも知りませんが、ともかく、若者は真摯に学ぶことですよ。このわたしなど、頭の悪い洟垂れに過ぎない、それでも、これから最期に向かって歩んでいこうと思っています。「臨終ただいまにあり」と言いたいところですが、いま死ぬと解らず終いのことが多くてちょっと残念です。哲学の原意が「知に対する愛」、わたしは江戸っ子で愛知県人ではありませんが、この県名は西周が哲学と訳したより正確な訳語になっているのですね。哲学と科学、そして人間味が人生を豊にします。若いときに特定宗教の閉ざされたせせこましく、狭量な世界観を絶対だ、素晴らしいと思うと、ものすごく損をします。ここの方々はそれを身に染みて知っておられますよ。若いときに、こんな掲示板に出会えていたら、わたしの人生はどんなにか豊かなものであったか。50年を過ぎたいまでは、平和創価さんは今後、学べる時間で、たぶん、ここの誰よりも優位に立っているでしょう。ただし、いまは冨要も読んでいない、この世界の幼稚園児です。まあ、そのうち、立派になって、老いぼれたわたしにたくさん、ものを教えてください。さて、何年後でしょうか。猶予はどれだけあれば、追いつきますか。
待っている…、というより、楽しみにしています。
生意気な若い人が大好きです。まあ、かつてはわたしもそんな青少年でした(笑)

1764釜龍:2004/10/13(水) 17:48
皆様こんにちわ
今日は休みだったのでずっと過去ログを拝見しておりました。そこで、『続 大石寺問題提議』で、聖人御難事抄の「仏滅後二千二百“三”十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり]
の部分と、弥四郎曼荼羅の「二千二百二十余年」が異なるという議論がなされているのを拝見致しておりました。
そこで、日蓮宗の昭和定本日蓮聖人遺文(私の見ているのはコピーのコピーですが)
の聖人御難事抄を見てみましたら、「仏滅後二千二百“二”十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり」となっているのです。
これは、どういったことなのでしょうか?
日蓮宗版と大石寺版が異なっているということでしょうか?真蹟を見ることはできませんので、皆様のご意見をお聞かせ頂きたく久しぶりにレスしてみました。お願い致します。
もうすでに議論されている議題でしたらすいません。

1765犀角独歩:2004/10/13(水) 18:47

釜龍さん、これは確かに昭定はそうなっておりますね。過去の議論は、石山・学会版を基本にしておりました。昭新でもそうなっております。甘い考証であったということですね。反省します。

これは一つ、『日蓮聖人真蹟集成』をお持ちのれんさんのご回答を賜れれば有り難いところです。『日蓮大聖人真跡対照録』』(立正安国会編)をお持ちの方は是非ともご教示ください。

中山法華経寺に真跡が所蔵となっておりますね。真跡と対照したという『平成新修日蓮聖人遺文集』でも「二千二百二十余年」となっておりました。

1766犀角独歩:2004/10/13(水) 18:49

釜龍さん、それから、1760に紹介した現宗研文献資料のは昭定だと思います。
ダウンロードもできます。コピーのコピーより正確だと思います(笑)

1767愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 19:04

今、1279(弘安2)年の「漫荼羅」13舗で確認したのですが、

「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
が6舗

「仏滅度後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
が7舗でした。

僭越ながら、以前と同じツッコミですが、 (^▽^;)

「この違いは一体何なんだ!!」

1768犀角独歩:2004/10/13(水) 19:19

愚鈍凡夫さん、弥四郎漫荼羅の原本は弘安3年5月のレアもののようです。あしからず(笑)

1769愚鈍凡夫:2004/10/13(水) 19:37

レアものと聞くと、ワクワクしながら電卓を連想するのは、老後のことしか考えないオッサンの悲しい性でしょうか。 (;´д`)トホホ

1770鎌龍:2004/10/13(水) 20:23
独歩さん
この違いはどちらかが故意に違えて載せたということになりますね。とすると真筆所持の日蓮宗が変えることはないとすると学会版石山版のほうがそうしたことになりますが、この理由とはなんであるのでしょうか。御伝土代等の「三十余年」と合わせたかったということなんでしょうか。とすると、変えたことによって弥四郎曼荼羅の偽とする一つの要因を自ら作ってしまったということでしょうね。墓穴掘りということですか・・・

1771れん:2004/10/13(水) 20:31
釜(鎌?)龍さん。真蹟集成にて該当箇所を見ましたところ「仏滅後二千二百三十余年」と記されてますが、真蹟には三に縦線が引かれ横に二と記されています。この訂正?が蓮師自筆のものか否か、蓮師真蹟遺文には蓮師自ら訂正や文を後加する例がいくつもありますので、「平成新修」の編者の方はこれを蓮師自らの訂正とみて“二”とされたのでしょう。

1772れん:2004/10/13(水) 20:35
訂正。誤、“二?
正、“二”

1773れん:2004/10/13(水) 20:39
すみません。1772は間違いですので、管理人様におかれてはお手数ですが削除のほどお願いします。
改めて訂正。
誤、“二?
正、‘二’

1774鎌龍:2004/10/13(水) 20:47
れんさん な、なんと!そ、そうでしたか。勝手なイメージだけで学会版石山版を批判したことになり心より謝罪しなければなりません。申し訳ございませんでした。そしてれんさんありがとうございました。

1775鎌龍:2004/10/13(水) 21:02
れんさん と致します、蓮師が訂正した理由はなんだと思いますか?逆ならなんとなく理解できるのですが。む、難しい。

1776れん:2004/10/13(水) 21:26
鎌龍さん、聖人御難事真蹟の該当箇所の訂正?部分については、他筆つまり後人による加筆の可能性も否定出来ないと思います。たしか、かつてこの件で安国会に問い合わせたところ「他筆」であるとの回答を戴いた記憶があります。この訂正?が蓮師自らのものであるとして、なぜ‘三’十余年を‘二’十余年に訂正?したのか。二十余年と三十余年の相違について、蓮師が自らの見解を述べられたものが無いこともあり、私自身、蓮師の意図をはかりかねているというのが実情です。

1777鎌龍:2004/10/13(水) 23:39
れんさん   懇切丁寧にご教示くださいましてありがとうございます。そうですかあ・・・れんさんでもお分かりではないとなるとなかなか難しいですね。本当になぜなんでしょうか。もし他筆の場合もなぜなんでしょうかね。なにか意味がなければしないでしょうし。

1778れん:2004/10/15(金) 21:59
鎌龍さん、ご返事遅くなりました。二十余年と三十余年の相違の理由について、他の蓮師門下の曼陀羅についての口伝書が収録されている「本尊論資料」を見てみましたが、残念ながら相違の理由を述べたものはありませんでした。蓮師図顕曼陀羅の讃文における二十余年と三十余年の違い、聖人御難事の(蓮師筆にせよ他筆であるにせよ)三十余年を二十余年と訂正?している理由は何なのか、これは「永遠の謎」となりそうです。

1779鎌龍:2004/10/16(土) 12:46
れんさん ご返信ありがとうございました。どうやらそのようですね。蓮師は本当に難しいです。私などでは理解できません。またいろいろ教えてくだらい。ありがとうございました。

1780顕正居士:2004/10/18(月) 18:36
「神天上(じんてんじょう)」

「神天上」の教義は日蓮宗のどの派にもありますし、これは日蓮自身に由来するものと考えます。『新池御書』
を特に後世の成立とみなす理由はありません。この思想は「神祇不拝」ではありません。日蓮は天照大神、
八幡大菩薩、千眼(浅間)大菩薩への信仰を抱いていました。ただし日蓮の基本の教義は聖道門を捨閉閣抛
(しゃへいかくほう)せよという法然を「一凶」とし、聖道門の中でも法華経(天台宗)を第二、第三と下す華厳や
東密を「誹謗正法」と批判します。鎌倉、室町の時代には仏教の勢力が強くなり、「本地垂迹」の配当が完成
して、神社の多数が仏教の各宗のどれかと習合しています。したがって「神天上」は「謗法の社」、大石寺日有
のいう「他宗の神社」への不参を述べたものと、後世は解釈されます。

「神仏判然令」によって神仏習合の旧習がほとんど一時に破却され、今日の我々は神仏の関係に疎くなって
います。「神天上」の教義からいえば、「判然」以後の神社は「謗法」(仏教内部の事柄)と無関係であり、不参
の対象ではありません。法華宗の寺院が勧請した社は天上に去るといえども「正直の頭」には宿る意義です。

神仏判然令、近代真宗教学、キリスト教ファンダメンタリズム(戸田城聖)などの集積の影響により創価学会の
神仏の関係に関する教義は特に異様であり、大石寺と訣別した大きな理由でしょう。しかし創価学会出身以外
の僧侶もこれを情緒的には変だと思っても、何が変なのかを的確にとらえられない、神仏関係史に疎くなって
いるとおもいます。

1781問答迷人:2004/10/19(火) 18:13

顕正居士さん

>鎌倉、室町の時代には仏教の勢力が強くなり、「本地垂迹」の配当が完成して、神社の多数が仏教の各宗のどれかと習合しています。したがって「神天上」は「謗法の社」、大石寺日有のいう「他宗の神社」への不参を述べたものと、後世は解釈されます。

なるほど。そういう経緯が有って、「神社への不拝」ですか。それなら、今日的には、何ら、神社参詣は問題とならないわけです。有難うございました。この件、はっきりしました。

1782勉強中:2004/10/19(火) 23:49
顕正居士さん初めまして、横レスにて失礼します。

『新池御書』を真撰とできない理由は、文中に宗祖滅後に建立された寺院のことが書かれているからではないのでしょうか。

「建長寺・円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は大山の頽れたるが如く、威儀の放埓なることは猿に似たり。」

この文中の「円覚寺」は宗祖滅後の弘安五年十二月の建立ではないでしょうか。

御教示くださいませ。

1783顕正居士:2004/10/20(水) 08:10
>>1782 勉強中さん。初めまして。

円覚寺のことは知りませんでした。弘安5年に創建というのが落成の意味なら、弘安3年に円覚寺の名前が
すでにあったかも知れませんが、後世に作られた文書の疑いが生じる箇所です。

もうひとつ変な箇所があるのに気が付きました。「春日大明神の託宣」が引用されています。「三社託宣」と
してまとめられる以前に個々の託宣が知られていても不思議ではありません。しかし引用されている文章、
「春日大明神の御託宣に云く、飯に銅の炎をば食すとも、心穢れたる人の物をうけじ〜」は春日大明神では
なく、八幡大菩薩の託宣です。さまざまな偽書が作られたのは鎌倉、室町の戦火の時代です。中国文明圏
では漢の時代から活版印刷があり、併行して木版印刷が行われました。しかし江戸の泰平をむかえるまで
日本では出版の活動はほとんど停止しました。それで偽書の作者はでたらめな引用をすることがあります。

*三社託宣
http://www21.big.or.jp/~tetsuki/shinto/sanjatakusen.html

『新池御書』を特に後世の成立とみなす理由はない、と述べたのですが、二箇所も疑問点があるのですね。
内容上は問題がない、つまり真蹟に見られる思想の延長だとおもいますが、あえていえば、「謗社不参」と
いう具体的なおきてがわかりやすく導けるのが、宗派意識(宗派財政)が出来てからの創作かも知れない。
真蹟遺文の延長上にあるけれども、いささか「情熱的」に過ぎ、いささか「形式的」な真偽未決書、『如説
修行抄』など「折伏系」の偽書が「本覚系」の偽書以外にあり、日蓮の思想をゆがめていなくても、矮小に
している可能性はあるとおもっていましたが、『新池御書』にはぜんぜん疑問がありませんでした。ご指摘
に感謝いたします。

1784犀角独歩:2004/10/21(木) 02:12

突然思い出しましたが、勉強中さん(はじめまして)、また、顕正居士さんがご指摘になった点、古い『大崎学報』で読んだ記憶があります。ただ、ずいぶん前のことなので、あるいは他の研究誌であったかも知れません。それにしても、そのような賢察に、ご自身のご研鑽で到達されることに改めて、敬意を評するものです。

1785勉強中:2004/10/21(木) 11:18
顕正居士さん御教示ありがとうございます。

犀角独歩さん私の投稿記事は、興風談所の御書システムを参考にしましたまでで、決してオリジナルではございません。
引用を明記せず誤解をまねくような事になってしまいましたことをお詫びいたします。

1786犀角独歩:2004/10/23(土) 08:24

勉強中さん、いえいえ「お詫び」など、とんでもありません。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

1787勉強中:2004/10/23(土) 15:01
犀角独歩さん、お忙しい中でのご返信、誠に恐縮です。

本日の論考は、宗門僧侶との質疑応答も含め、大変にわかりやすく勉強になりました。

余談ですが、都守師の論考も興味深い内容でしたね。

1788犀角独歩:2004/10/23(土) 15:35

勉強中さん、お出でいらっしゃいましたか?
また、過分なお言葉を賜りまして、有り難うございます。
お声を掛けてくだされば、用意していた画像の一切はお見せしましたのに。

わたしも都守師の論考は実に参考になりました。

1789勉強中:2004/10/23(土) 19:46
犀角独歩さん、度々恐縮です。
まだこちらにお邪魔して日が浅い上、独歩さんは講師諸師との談笑中でございましたので、私は池上にてお弁当を戴き、若干の見学をさせていただき帰路に着きました。
またお会いする機会がございましたら、是非ご挨拶させていただきたく存じます。

都守師の論考には、興風談所の坂井師なども注目されていましたね。
宗門からは高橋粛道師をはじめ、富士学林在籍中の御僧侶など6・7名がおみえでしたね。

それにしましても犀角度歩さんの堂々たるお姿はすばらしかったです。
一緒にいらっしゃいました、日興跡条々事に関する論考をされました方は、こちらの掲示板にもお出での方でしょうか。高橋師より直に意見が飛びましたね。
「大石寺教学の研究」で知られる東師も登壇され、ネット界の論師の方々がそろってこのような場に出てこられた事に驚きと喜びを禁じえません。

そういえばネット界の有名人である、波木井氏などもおみえだったんでしょうか。

独歩さん、月曜日もがんばってください。こちらは一般参加は不可のようですから、私は以後こちらの掲示板にて展開されます御所論を拝させていただきます。

1790犀角独歩:2004/10/24(日) 04:19

勉強中さん、ぜひ今度、わたしを見かけられましたらお気軽にお声をお掛けください。

それにしても、石山の富士学林の坊さん、可愛かったですね。わたしの子どもぐらいの年齢の子たちが一所懸命に質問?したのには、思わず笑みがこぼれました。

質問者は『日蓮上人』掲載の写真は由井一乗氏の『日蓮大聖人』に載った御影堂写真を転載したものである、写真は熊田葦城氏が勝手になぞったものであると言っておりましたね。しかし、こうなると、御影堂にあった板漫荼羅は日禅授与漫荼羅である、あるいは、熊田氏はかなり正確に禅師漫荼羅のとおりに線を描いたことになるわけです。また、御影堂安置の板漫荼羅を宝蔵格護を偽ったことにもなるのにと思いながら、その発言を聞いていました。

また、もう一人の質問者は石山歴代貫主が北山に行って禅師漫荼羅を模写できると考えるのかと問うていました。そんなことを考えているのではなく、事実として、熊田氏が、(もしくは由井氏が)発表した写真が禅師漫荼羅と相貌なのかという事実関係を問題にしているのみという説明にあっさりと納得していましたね。しかし、ここで問題にされるべきは、その禅師漫荼羅に「本門戒壇」という腰書きが、では、なぜ付いているのか、また、同漫荼羅は弘安3年5月9日と日付が明示されているのにも拘わらず、腰書きには「弘安2年10月12日」になっている矛盾をどう考えるのかという点です。こんな調子でいくと「由井氏や、熊田氏が、禅師漫荼羅の板本尊を勝手に「本門戒壇の大御本尊」と発表したのだ」と言い出しかねないと思った次第です。

もう一人、わたしが『河邊メモ』が一つの模刻説であると言ったのに対して、長々と河邊師本人の弁明文を興奮した声で読み上げだしたのには、これはいただけませんでした。まあ、20歳そこそこの年端もいかない青年、一般の常識がわからないのも致し方がないと言えば、それまでですが、人を導く教師(僧侶)になろうというもの振る舞いとしては、首を傾げざるを得ない態度でした。

高橋さんの本は既に一般では買えず、立正大学の図書館、あるいは国会図書館でしか見られないと言うご本人の言でした。「そこに書いてあるから読め」というのは、わたしにはどうにも納得がいきませんでした。「質問者は所属と名前を」と言われて、発言を許されているのに、名前を言わず話し出そうとするのは如何な者かと、まず思いました。それはともかく、この本では、『日興跡条々事』の写真が載っているのでしょうか。一次資料も発表されない、「こう書いてある。ああ書いてある」などというものは研究に入りませんから、あれだけ、自信を持って語っている以上、一次資料の写真は載っている本を発表されたのだと、大した進歩であると仄聞していました。ポーカーのブラフじゃあるまいし、「こう書いてある」などという与太話に真面目に付き合う研究者はいません。その意味から、高橋さんの本には、『日興跡条々事』原本写真が載っているのだと、大した進歩であるとご本人の言を聞きながら思った次第です。(まさか、載っていないなんてことはありませんでしょう)

その意味でも、都守師の発表は素晴らしかったと思います。あのように原本(一次資料)の写真を載せて論攷してこそ、研究といえます。

わたしのあとのの発表者も、「一次資料(『日興跡条々事』)の写真を石山は発表しましょう」という当然のご意見でした。

わたしも同じです。「実際、違う」だなんだと文章や言葉でとやかく言う必要はありません。「百聞は一見にしかず」です。わたしの言うところが違うというのであれば「図形」で、「ここが違う」とはっきり明示してくれれば、それで納得できます。ほかのごたくは聞いても仕方ありません。まず、図形ありき、一次資料の発表ありき、これ以外にありません。石山は所謂「本門戒壇の大御本尊」という彫刻の写真と、日禅授与漫荼羅、伝・日増授与漫荼羅など、自分たちが蓮師真筆であると言い張る一切の漫荼羅の写真を公開し、自らの「正義」を訴えればそれでよろしいわけです。

いずれにしても、日蓮宗宗務院に石山の坊さんがやって来たという事実は、微笑ましいものでした。

1791問答迷人:2004/10/24(日) 06:32

犀角独歩さん

お疲れ様でした。遂に世に問うた訳ですね。是非、開陳オフ会、計画して欲しいと思います。万障繰り合わせて参加させていただきます。

1792犀角独歩:2004/10/24(日) 08:07

問答名人さん、有難うございます。
お陰様をもちまして、第一歩です。

昨日はOHPでたっぷりと画像を用意していったのですが、会場で使えないという一幕もありました。これは実に残念でした。明日は60分で講演します。ここではOHP使用できます。まあ、こちらが公式のお披露目となります。ただ、一般参加はできない会合ですので、開陳オフ会、わたしも希望です。

もっとも最短でしたら、今週は29日、もしくは30日日曜日は空いております。
問答さんには早くご覧いただきたいとわたしは願っております。
ご都合の程、如何でしょうか。
『オフ会開催案内』スレッドに移動して、打ち合わさせていただけますでしょうか。

1793犀角独歩:2004/10/24(日) 08:08

↑間違えました。日曜日は31日ですね。失礼しました。

1794みかん:2004/10/24(日) 12:02
 東京・池上の日蓮宗宗務院で、日蓮宗教学研究発表大会があり、日興門流関係の発表もあるというので聴いてまいりました。残念ながら、私は都合で22日は聴くことができず、23日も途中からしか聴けませんでした。池上は小春日和で、とてもよい気候でした。

 わたくしが会場に入ったときに発表されていたのが、『大石寺教学の研究』の東さんでした。「初期興門における本尊思想について」というタイトルで、その時代の本尊観が「造像を厳誡」だったのか、「造像を認めてい」たのかを論じられていました。

 次の方が、犀角独歩さんでした。「大石寺漫荼羅の真偽について――所謂「本門戒壇の大御本尊」の図形から見た鑑別」と題して、板漫荼羅に紙幅の原本が有ったか否かを論じられました。本門寺根源(北山)所蔵の日禅授与の漫荼羅と全体のレイアウトは異なるが、各文字ごとに重ねると一致することを指摘され、「1 日禅授与漫荼羅の各文字を模写・原図とした 2 各文字ごとに丸木板状にレイアウトし直し『パッチワーク』した」と結論付けています。これに対して、3名の日蓮正宗の若手ご僧侶から、批判的な質問・ご発言がありました。OHPが使えなかったので、たくさんの図像が見られなかったのが残念でした。さらに詳しい内容は現在準備されているご著書で読めるものと期待しています。

 その次の方は「『日興跡条々事』について――各刊本対照と真偽問題」との発表でした。日蓮正宗が刊行する諸本に収録されている「日興跡条々事」に大きな異同があること、大石寺では同文献の原本が残っていると主張しているが、公式に発表された写真版が現存せず、疑問が残り、ぜひ公表してほしいと発表されました。それに対して、日蓮正宗・愛知県・妙道寺事務所ご住職の高橋粛道先生から、それについては高橋先生の著書の『日蓮正宗史の研究』で論じているから、それを踏まえて手紙などいただきたい、という趣旨のご発言がありました。

 最後の発表者が都守先生で、「『善無畏三蔵鈔』再考」と題され、録外御書である同遺文には真蹟、古写本が存しなかったので近年あまり用いられてこなかった。ところが最近、京都妙覚寺の寺宝調査で同遺文の断片と思われる真蹟断簡が発見されたという、興味深い事実を報告されました。それを踏まえ「善無畏三蔵鈔」について再検討を加えられました。それに対し、寺尾先生(だったと思う)と、興風談所の先生が質問されていらっしゃいました。

 4つの発表しか聞けませんでしたが、どの発表も大変興味深く拝聴しました。また、さまざまな立場の違いがありますが、それを超えて、日蓮研究、日興門流研究が深まり、さらにはその基礎となる資料の収集、公表がさらに進むことを念願いたします。

 日蓮正宗ご僧侶方が複数で日蓮宗宗務院に乗り込んできたというのは、いろいろ興味深いことですね。

 勉強中さん、お会いできなくて残念でした。また機会があれば是非。

1795犀角独歩:2004/10/24(日) 15:54

みかんさん、有難うございます。
問答さんがご提案くださった開陳オフ、できましたら是非ともお出でください。
勉強中さんもお会いできればと勝手に念願しております。

1796勉強中:2004/10/25(月) 01:31
犀角独歩さん、みかんさん、こちらこそ是非よろしくお願いいたします。

30日・31日はあいにく仕事が入っていまして、帰りも遅くなりそうです。
22日から明日の25日までの4連休のつけが今度の週末です。
しかし大変に勉強になった2日間でした。興風談所の坂井師は、その論考や各種講演に対する質問など、日蓮門下一般でもかなり評価は高いと思われます。興風談所では若手になるのでしょうが、将来的にかなり有力な研究者であると思われます。

次のお休みは11月3日ですが、この日は当初中山法華経寺の霊宝お風入れに行く予定でしたが、交通費の捻出に苦心しているところです。今回はちょっと厳しいかもしれません。
坂井師は犀角独歩さんの御講演を、どのような気持ちで聴講されていたのか、個人的には非常に興味があります。
高橋師も宗旨の根幹の真偽に関する論考に、何の意見もないのかと不思議でなりません。若い僧侶たちは必死であったと思います。しかし私は、熊田氏の「日蓮上人」では「御影堂」を「冨士大石寺の本堂」と紹介していますので、当時「弥四郎曼荼羅」が「御影堂」にあっても何の不思議もないと思うのですが、いかがなものでしょうか。

余談ですが、先日の「『日興跡条々事』について――各刊本対照と真偽問題」の論考と、保田妙本寺執事さんが1996年8月に『「日興跡条々事」の誤写を正す』と題して「冨士門史学研究会会報」第1回に発表されました論考とが、途中までかなり近い内容であったような気が致します。

冨士宗学研究会様には書籍発注の以来のメールを入れさせていただきましたが、直接お話を拝聴できないのは残念です。いつの日かお会いできる事を念願いたします。

1797伊野 健太:2004/10/25(月) 14:22
 富士宗学研究会とは、どこが主体になっている団体の事ですか?
そこでは、書籍を出版されてるのでしょうか。

1798小僧:2004/10/25(月) 21:43
本日、犀角独歩先生の御講演を拝聴させていただきました。
私にとってはほとんど未知のお話でほとんど理解できませんでしたが、元現宗研所長の
石川先生や黒木先生のご質問を伺い、終了後に師僧にかいつまんで電話したところ、
「詳しく話せ、大変なことである」と言われ、ノートもとっていませんでしたので、
「すぐに講演の記録ができると思うからすぐにおくります」と答えました。
私は正宗のひとをだれも知りませんので犀角独歩先生のお話を漫然と聞いていただけだったので、
師僧の強い言葉に「えっ、なんで」とおもったのですが、その後数十分電話で話して、
犀角独歩先生のご発表の重大なることがようやく少し理解できました。
OHPでの映像について説明したところ師僧は是非自分も見てみたいと申しておりました。
本日、お配りいただいたレジュメをさっそく師僧にファックスしましたところ、生まれて
はじめて師僧から「ありがとう」といわれました。
犀角独歩先生にお礼申し上げます。
これから過去ログを読ませてもらい、師僧にもファックスするつもりでおります。
ありがとうございました。

1799みかん:2004/10/26(火) 04:46
>小僧さん。
はじめまして。
小僧さまがおいくつでいらっしゃるのか存じ上げませんが、20代から40代ぐらいでしょうか? ちょうど「若い世代の日蓮宗のお上人には、創価学会や大石寺問題というのは縁遠いのでしょうね」、と土曜に独歩さんとお話したところでした。
師僧さま(小僧さまのお父上でいらっしゃいますか?)の世代ですと、創価学会が日蓮宗を「謗法だ」、身延山を「謗法の山だ」と攻撃して、「大石寺の本門戒壇の大御本尊が日蓮大聖人の出世の本懐だ」と強調していた時代を実体験されているので、大石寺の板漫荼羅には関心がおありなのではないかと、推察いたします。
小僧さまも、これを機会に、すこし大石寺に調べていただけば、いろいろ興味深い発見があるのではないかと思います。

>独歩さん。
月曜の講演も成功したようでおめでとうございます。
こういう形の反響があるのが何よりですね。

1800みかん:2004/10/26(火) 05:44
23日の「日蓮宗教学研究発表大会」における、独歩さんと質問者の質疑応答をテープ起こししましたので、ご参考までに掲載します。

A「富士学林のAでございます。日禅授与本尊ですけれども、どの資料にあたられて検討なされたのか、お答えいただければと思います」
独歩「何でございますか」
A「日禅授与本尊」
独歩「日禅授与本尊の出所に関しましては、北山本門寺の本尊を使用しておりますけれども」
A「『御本尊集』に掲載されていないということですので、山中随喜氏(ママ)、あと片岡随喜居士の編集であります『御本尊集』にはでていないのですけれども、北山本門寺にいかれて写真をとられたということでしょうか」
独歩「その件に関しましては、写真の出所に関しては御当人から控えるように、発表を控えるようにということがございますんで。写真がございますんで、もしご不明な点があれば、この後言っていただければ、ご覧いただけます」
A「わかりました。大石寺にも日禅授与本尊があるということはご存知ですか」
独歩「もちろん、存じております」
A「あと、熊田氏の『日蓮上人』にしか大御本尊の写真が出ていないということなんですけれども、熊田氏の写真というのがですね、あの由井一乗居士という方の『日蓮大聖人』という本があるんですけれども、その御影堂全景の写真のなかからの、拡大してあの本に掲載されていまして。しかも修正が加えられているということはご存知でしょうか」
独歩「はい存じております」
A「ではあの、修正される前の写真と、修正した後の写真との比較検討はなされているでしょうか」
独歩「そのような点は承知しておりますけれども、本日は15分という短い時間ですので、そこまでは割愛させていただきました」
A「まあ、熊田氏の写真についてはですね熊田氏のセンスで、主題と花押と、あと不動、愛染、四大天王等について修正が加えられているということはご存知でしょうか」
独歩「存じております」
A「わかりました。ありがとうございました」
独歩「ちょっと補足すれば出すね。その件に関しましては、ぜひとも大石寺の方から、本門戒壇の大御本尊と言われる彫刻本尊の詳細な写真を発表していただきまして、もう一度図形として考察を行いたい。このように考えております」


B「Bと申します。大石寺に僧籍を置くものです。先ほどの質問とちょっとリンクするんですけれども。いまこちらで、日禅授与の御本尊、大漫荼羅との比較検討が行われましたけれども、これをお聞きいたしますと、大石寺の歴代の人が結局のところ、その、日禅授与本尊を、偽作したというようなことになりますのでしょうか」
独歩「偽作というのはどういった意味でおっしゃっているのでしょうか。あのう、あくまでもですね、本日の発表につきましては、図形上の比較でございまして、つまり、申し上げれば、いわゆる大石寺の言うところのいわゆる本門戒壇の大御本尊と、北山所蔵の日禅授与漫荼羅が、相貌、図形的な意味でございますね、よく似通っているということを申し上げたに過ぎません」
B「ありがとうございました。ひとつ申し上げておきたいんですけれども、日禅授与の御本尊を、大石寺の貫主が臨写できるような環境、ま伝承という意味に起きまして、そういう環境になかったと私は認識しておりますが如何でしょうか」
独歩「あの、そこらへんの歴史な推移または状況というものは、わかりません。わかりませんが、ハッキリいえることは、図形で比較したときに重なっている。ただその一点でございます」
B「はい。ありがとうございます。」


C「X大学大学院修了のCと申します。今般の真偽を検討される際の真偽のテーマというのは原本があるかないかに絞られていると思うんですけれども、それと大石寺の『日蓮聖人の究極の本尊と主張』するというその主張の真偽との、どう重なり合うのか、あるいは重なり合わないのかということについてご見解をうかがえればと思います」
独歩「とくにそれは、リードみたいな言葉でございまして、関連はございません」
C「はい、わかりました。どうもありがとうございました」

1801みかん:2004/10/26(火) 05:46
D「大石寺に僧籍を置くDと申します。レジュメですねえ。一点間違って掲載されている設問がありまして。裏側の河邊メモなんですけれども、この最後に『これも一つの大石寺本尊模刻説に数えることができます』とありますが、実際当人の河邊氏から、『日蓮正宗の宗内各位へ』ということで、えーっとですね、ちょっと読ませていただきます。『この度の河邊メモの件につき申し上げます。私はこれまで種々メモを残しておりますが、その方法は、見聞した事柄につき、後に回顧して書いたものが多く、その際、私の性格として、自分の主観に強くこだわり、その趣旨で書き記す傾向があります。従いまして、今回の件における面談の折の記憶を喚起致しますと、当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和四十五年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったものであります。但しこの話は強烈に意識に残りましたので、話の前後を抜いて記録してしまい、あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、『本門戒壇の大御本尊』が偽物と断じたかのごとき内容のメモとなってしまいましたことは明らかに私の記録ミスであります』」
独歩「あのう、よく存じております。」
D「はい。ご本人が‥‥」
独歩「ですから、その意味から申し上げてですね。ここでもう少し言葉を書き換えてもよろしいんですが、日禅授与漫荼羅の一つの説として私は捉えたということでございます。はい」
D「『模刻説に数えることができます』というまあ、不明瞭な、きちんとした、事実と異なることを書くというのは、まあこういう場で発表されるのにふさわしくないと思いますので、きちんと」
独歩「いま、おっしゃられたのは、大石寺の見解としてそのようなご意見を」
D「いや見解じゃなくてご当人がこのように」
独歩「いや、河邊さんがそのようにおっしゃっているのかもしれませんが、それのとったそのメモを創価学会その他で、それをそのような説として捉えたということがございますので」
D「そう書いてください」
独歩「その、訂正ができないものですから、レジュメには書けなかった。そのいうことがございます」

1802頭角無類:2004/10/26(火) 06:20
犀角独歩さん
はじめまして、頭角無類と申します。

 発表のレジメを拝見させてもらいました。大変興味深い内容でした。素朴な疑問なのですが、大石寺の本門戒壇本尊が、日禅授与の本尊から部分部分を双鉤填墨のような手法を用いて文字を写しとって作られたものだと仰りたいようですが、その場合、文字が完全に一致するはずです。
 なのになぜ、「ほぼ一致」とか、「全体はよく一致」ということになるのでしょうか?
 写しとって作られたとするならば完全一致でなければおかしいことになると思いますが、その点の見解をお聞かせ願えれば幸いです。

1803犀角独歩:2004/10/26(火) 09:57

勉強中さん:

31日のこと、了解しました。

> 坂井師

正信会の僧侶からすれば、彫刻本尊の真偽などさしたる興味でもないということでしょう。また、本山復帰を意識すれば、お宝は手を付けない・コメントはしないが得策という思いがあるのかと…。これは坂井師に限らずこの会の一様の思いであると観察しています。まあ、ここが正信会の限界であるとも思っています。

> 高橋師も宗旨の根幹の真偽に関する論考に、何の意見もないのかと不思議

残念ですね。条々事の発表者とも、そう話しました。彼は高橋師の活字になり、本になっていないものを丹念に集めてファイルにしていたと言っていました。石山のなかにあって真面目な研究者だと尊敬もしていたと、ところが当日のあの態度を見て、がっかりしたと言っていました。わたしも同様です。いずれにしても、一次資料の写真も出さない論攷は説得力はゼロ、もっと言えば、そんな研究はないに等しい、随分と無駄な文章を書いていると思います。まあ、条々事の正本・案文・下書きが興師のものであるというのであれば、その写真を発表することが師の使命であり、また、そうしなければその論攷はただの石山の御神輿担ぎに終わるわけですから、気の毒にも思います。

> 私は、熊田氏の「日蓮上人」では「御影堂」を「冨士大石寺の本堂」と紹介していますので、当時「弥四郎曼荼羅」が「御影堂」にあっても何の不思議もないと思うのですが、いかがなものでしょうか。

そうでしょうか。達師はたしかに御影堂には当初、件の彫刻本尊が安置されていたといい、その後は宝蔵に遷ったと発言していたと記憶します。石山のアナウンスでは、彫刻本尊は広宣流布の暁まで宝蔵に秘蔵厳護、故に顕師も正本堂の須弥壇は倉の造りになっていた、奉安堂も様式としては倉であるといった類の発言をしてたと記憶しています。

精師以降、広宣流布まで宝蔵に秘蔵厳護されていたはずのものが御影堂本堂に置かれているとしたら、以上の石山見解と齟齬を来すという点を1790にわたしは記したのです。


伊野 健太さん:

> 富士宗学研究会とは、どこが主体になっている団体の事ですか?

仰る主体というのは宗派その他のことでしょうか。
であれば、特にありません。雅仙堂さんという在野の研究者が数十年の資料蒐集編纂をまとめ、研究を目的にする団体とわたしは理解しています。

> 書籍を出版されてるのでしょうか。

詳しくは以下のアドレスに問い合わせてみてください。

rmc-info@world.odn.ne.jp


小僧さん:

呼びかけづらいHNですが、そのままコピペさせていただきました。恐縮でございます。
また、わたしへは「先生」などの尊称は無用です。当板はお互い「さん」付けが決まりになっております。そのようにお気軽にお願い申し上げます。

ご投稿、有り難うございました。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。


みかんさん:

ママ起こし、有り難うございました。


頭角無類さん:

> …双鉤填墨のような手法を用いて文字を写しとって作られた

たしかにレジュメを読み直してみますと、そのような誤解が生じる言い回しになっているのかと反省いたしました。レジュメがお手元にあるようなのでご確認いただければと存じますが、わたしは

「(1)日禅授与漫荼羅の各文字を模写・原図とした
 (2)各文字ごとに丸木板上にレイアウトし直し「パッチワーク」した」

と「模写原図」に拠ったのではないのかと申し上げたわけです。

1804犀角独歩:2004/10/26(火) 11:50

もう少し記します。

以下、昨日の講演ではやや触れた点です。

・禅師授与漫荼羅は、北山、石山に2幅ある
・蓮師が同一日・同一授与者に2幅図示したとは考えづらい
・片方は表層剥離、あるいは模写であると考えられる
・1幅は、籠抜に拠ったのか・あるいは模写に拠ったものだろう

ということが前提です。
表層剥離、もしくは籠抜でもう1幅が制作されたとすれば、この2幅に大きな相違はないことになります。この前提で日教研では管見を述べました。彫刻本尊はその禅師授与漫荼羅を模写し、パッチワークしたものであるということです。模写と言ったのはご指摘のとおり、籠字を厳格に使ったとすれば、その相違が説明できないからです。パッチワークと言ったのは配置にズレがあるからです。

ただし、もし禅師授与漫荼羅が2幅の一方が模写である場合、相貌の詳細では相違が生じ、またレイアウトにも相違が生じることは必至となります。わたしが比較・検討に供したのは北山蔵です。ですから、もし、石山蔵に拠れば、あるいは文字の細部、レイアウトに至るまで一致するのかも知れません。

この検証を宜しく行うために、石山が彫刻本尊と禅師漫荼羅の詳細な写真を発表することが望まれます。また、この鑑別は石山こそ、科学・専門家の力を借りて行って然るべきことです。

かつて800万信徒を動かし、30年前の貨幣価値で400億円以上の集金を基になった彫刻本尊、その後、1650万信徒を豪語したわけです。30年、どれだけの延べ人数にしてどれだけの人々が彫刻本尊の基を訪れ、拝観料はどれだけのものになったのでしょうか。また、顕正会はいまでも国立戒壇安置を主張し続けているわけです。その後、正本堂は解体され、さらに喜捨も募って奉安堂を建立。彫刻本尊を本物であると信じる信徒会員が傾けて、全身全霊の思い、金銭、時間、労力を考えるとき、この彫刻本尊の実態を白日の下に晒す責任はむしろ石山にあります。しかし、それをやらないと言うのであれば、こちらがやるしかありません。誤解があるといけませんので、敢えて申し上げますが、わたしが信仰する人々には何の怨みも辛みもありません。そうではなく、その人々と同じ思いで、人生の大半をこの彫刻本尊に注ぎ込んだ一人として、事実を明らかにする責任をわたしは感じているということです。

批判することが悪ではなく、真実を覆い隠すことが悪なのです。
いまここに彫刻本尊とは如何なるものであるのかを徹底的に検証する新たな彫刻本尊真偽論を展開する時期に来ています。石山は60万登山の檄を飛ばし、100万達成を豪語する顕正会はいまだ国立戒壇建立と安置を主張しているからです。

これら活動は「本門戒壇の大御本尊」が本物であるかどうかでその価値は180度逆のものなってしまうでしょう。その行動はまた新規会員信徒の獲得を意味する以上、国家・国民に対する、否、全世界に信徒が居るとすれば、それらすべての人に対して責任を負っています。重要なことは、本物であると信じることではなく、本物であることを証明することです。本物であるかどうかをしっかりと証明する義務を「信じさせる側」は負っている点を見逃してはなりません。

わたしは彫刻本尊の徹底検証を行いそれが実に石山のいうとおりであれば、それは喜ばしいことです。しかし、違っているとすれば、それは真実を明らかにしなければなりません。事実に対して正直であれ、真実を受け容れる勇気を持つこと、それ学問の選択であっても是の如く生きることが八正道であるとわたしは考えるからです。

1805犀角独歩:2004/10/26(火) 11:53

【1804の訂正】

誤)それ学問の選択であっても是の如く生きることが八正道であるとわたしは考えるからです。
正)それが苦悶の選択であっても是の如く生きることが八正道であるとわたしは考えるからです。

1806きゃからばあ:2004/10/26(火) 13:52
3年ぐらい前に書き込みしていた、無徳民です。
当時、紛らわしいHNで「無徳さん」に御迷惑をお掛けいたしましたので、今回、HNを改めました。

犀角独歩さんの

>批判することが悪ではなく、真実を覆い隠すことが悪なのです。

は、同感いたします。

どうか頑張って下さい。
私ももう一度、自分なりに調べてみようと思います。

1807犀角独歩:2004/10/26(火) 15:44

きゃからばあさん、お久しぶりです。

ご健闘をお祈り申し上げます。
何かございましたら、お気軽にお声をお掛けください。

1808れん:2004/10/26(火) 17:44
犀角独歩さん、日蓮宗教学研究発表大会での発表、お疲れさまでした。私は仕事がありましたので、残念ながら拝聴の機会を逸したのですが、勉強中さん・みかんさん・小僧さんのご投稿を拝読しまして、犀角独歩さんの御研究の一端を拝読することを得たのは幸いでした。件の弥四郎曼陀羅の写真は熊田葦城氏の「日蓮上人」(明治44年刊)所収の写真が有名ですが、大正4年刊・荒木英一(清勇)師著「大日本国所立 聖教の正義」(手持ちのものは興門資料刊行会から昨年再版されたもの)の口絵にも「本門戒壇ノ大御本尊」の写真が収録されています。この写真も写りが悪く不鮮明ですが、熊田葦城氏の「日蓮上人」収録のもの全く同じ板曼陀羅ですので、彫刻弥四郎曼陀羅が、禅師授与蓮師御筆曼陀羅からのパッチワークであるとの独歩さんのご指摘は正鵠を得たものと思います。何れにせよ、私は仕事で開陳オフ会にも参加できない身ですので、犀角独歩さんの近刊書籍を拝読できる日を楽しみにしております。

1809頭角無類:2004/10/26(火) 17:55
なるほど、仰せの趣旨はよくわかりました。懇切なる説明ありがとうございます。

>> …双鉤填墨のような手法を用いて文字を写しとって作られた
>たしかにレジュメを読み直してみますと、そのような誤解が生じ
>る言い回しになっているのかと反省いたしました。

と言われていますが、レジメを読む限り、
「透けるほどの薄紙を曼荼羅に宛い、文字の輪郭をこれまた細い筆をもって写しとっていく」また、
「大きな薄紙が用意できれば」云々
と紙の大小にまで話が及んでいますので、双鉤填墨的手法を用いて首題を写しとったという前提でのお話しであると承ったのですが、私の理解が「誤解」であると指摘される意味がわかりません。またこの度のレスでは、

>もし禅師授与漫荼羅が2幅の一方が模写である場合、相貌の詳細
>では相違が生じ、またレイアウトにも相違が生じることは必至と
>なります。

と言われていますが、この場合の「模写」とは、「臨写」を指すものでしょうか?それとも「臨写」とまでも言えない「お手本とした」という程度のものでしょうか?

そうなると、発表のレジメに論じられている「双鉤填墨的手法」を用いたという前提での画像の重ね合わせはあまり意味のないもののようにも感じられるのですが。

またレジメをよく見返してみますと、御説の一番強い根拠としておられる「首題」においても異なりがあるように見受けられるのですが・・・

重須蔵の「日禅授与本尊」その鮮明な写真をご紹介頂けると多少納得がいくかもしれません。公開はしては頂けないのでしょうか

何かとお忙しいこととは思いますが、よろしくお願いします。

1810犀角独歩:2004/10/26(火) 19:31

れんさん、しばし、お久しぶりです。
熊田葦城『日蓮上人』でも実は写真は2枚あるとのことでした。
種々、有り難うございます。


頭角無類さん:

> 私の理解が「誤解」

いえ、頭角無類さんのご理解が誤解であると申し上げたのではありません。
ここの部分で、わたしが記したかったのは、禅師授与漫荼羅>2転の漫荼羅>模写原本>彫刻本尊という手順であること、この課程のどの段階かでで籠抜の技法が使われ、文字が写されたが、それを確実に使用していないこと、殊に諸尊勧請、讃文等はこれまた別の文字のパッチワークに拠っている思えること、さらに不動愛染は殊更に書き換えられていること等、さらに種々検討するべき点があることを、籠抜ばかりを記し、それ以下を省略してレジュメの文にしたので、単に一切を仰る如き双鉤填墨的手法で制作したと取られかねない文になっており、誤解が生じることになったと意味のことを記したのです。

> …「模写」…「臨写」…「お手本とした」

もしゃ 1 0 【模写/▼摸写】
(名)スル
芸術作品などをそっくりそのまま写し取ること。また、写し取ったもの。コピー

りんしゃ 0 【臨写】
(名)スル
手本を見て書くこと。臨書

てほん 2 【手本】
(1)初心者が絵や字を習うときにまねて似せるべき絵や字。
(三省堂提供「大辞林 第二版」より)

という言葉の使い分けでよろしいのでしょうか。

> 「双鉤填墨的手法」を用いたという前提での画像の重ね合わせはあまり意味のない

「各漫荼羅・本尊の文字の輪郭を取り、大石寺彫刻本尊に重ねて比較検討する方法を採りました」という方法を採ったとわたしはレジュメに記しました。
しかし、これは直ちに「「双鉤填墨的手法」を用いたという前提」ではありません。
図形を比較するうえで相似形を探す方法として、輪郭線を使用したという意味です。
レジュメ本紙はカラー印刷ですが、お手元にあるものは白黒のコピー、またはファックスなどの2転のものではなく本紙でしょうか。そうであれば、ご確認できようかと存じますが。

> またレジメをよく見返してみますと、御説の一番強い根拠としておられる「首題」においても異なりがあるように見受けられるのですが・・・

主題において、もっとも大きく異なるのは經の字旁です。
北山蔵禅師漫荼羅では經の旁は[一/リ/エ]となっております。
これは極めて特異な筆法であると言えようかと思えます。
この点を彫刻本尊では[一/ツ/エ]となっている点で異なっていることを申し上げました。ただし、この一画の欠損は華の字の縦棒が經の字旁に長く伸びている箇所とほぼ重なっております。図形的には、この位置と重なっていることを申し上げました。しかし、これはこのように文章で書くとなかなかご理解いただくことは難しいところと存じます。
しかし、レジュメに載せた写真でもおわかりいただけるかと思いますが、実際の文字の大きさバランスその他、相似形をなしています。


> 重須蔵の「日禅授与本尊」その鮮明な写真をご紹介…公開

もちろん、講演その他の段階ではこの写真を呈示しております。
また、拙書には当然、その写真を載せています。ご高覧を賜れればと存じます。

1811愚鈍凡夫:2004/10/26(火) 20:06

1280(弘安3)年日禅授与漫荼羅には、「本門寺に懸け万年の重宝たるべし、」と記されているようですが、この文を書き込んだのが日興師で、保田妙本寺の「万年救護本尊」の副書が蓮祖の正筆であったとすれば、何故、日興師は「本門寺」の何処に懸けるのかを示さなかったのでしょうか。「万年救護本尊」は、「本門寺」の「御影堂(誰の御影かは別として)」と場所の指定があります。日興師の性格からすれば、蓮祖に習って「どこそこに懸け奉るべし」との指定があってもおかしくはないと思うのですが。
このことは、「万年救護本尊」の副書の存在を日興師が知らなかった、もっと妄想を膨らませれば、副書は日興師の時代には存在しなかったということではないでしょうか。
少なくとも、傍証ぐらいにはなりそうに思います。

以前にもあった疑問ように思うのですが、
北山では日禅授与漫荼羅を「戒壇之本尊」と称するそうですが、「使い回しかい」とのツッコミがありそうですね。 (^◇^;)
ところで、「本門戒壇」の「本尊」とは、本門寺の戒壇堂に安置する本尊という意味でしょうね。
ならば、本門寺の本堂に安置する本尊は?
まるで、疑問の堂々巡りですね。困ったもんだ。 ( ̄ヘ ̄)ウーン

1812犀角独歩:2004/10/27(水) 00:40

愚鈍凡夫さん、さすがの問題意識。

> 日禅授与漫荼羅には、「本門寺に懸け万年の重宝たるべし、」と記されている

ええ、北山蔵はそうなっていました。
ところが石山蔵では、この文が反対に削り取られているわけですね。

> 日禅授与漫荼羅を「戒壇之本尊」

そうなんですよ、『大石寺誑惑顕本書』に「万年救護」「戒壇之本尊」とありますね。
亨師は伯耆漫荼羅と伝承と記していました。

> 「本門戒壇」の「本尊」とは、本門寺の戒壇堂に安置する本尊という意味

そう、ここですよね。つまり、本堂用の本尊と戒壇院用の本尊が別に必要になることになります。そのほかに御影堂となりますね、ここには御影。本堂は他門では当然、釈迦像でした。

で、石山の話ですが、精師は御影堂と本堂と、おまけに戒壇まで三つ併せて堂宇を建立。これと関連するのかどうか知りませんが、建った門が三門。
そこで正本堂が建ったとなると、御影堂は単なる御影堂に戻ったことになり、正本堂は本堂+戒壇の意義付け。それでまた、この正本堂を壊して奉安堂にして本堂の意義がなくなったわけで、そうなると御影堂はまたもや、本堂の意義を吹き返したのか…、二転三転、ややこしい堂宇の意義付けの変遷が近代の石山事情の一側面であったりしますね。

1813勉強中:2004/10/27(水) 01:11
犀角独歩さん、ご返信ありがとうございます。

愚鈍凡夫さんお久しぶりです。

浅学の為間違いがありましたらご教授願いたいのですが、万年救護本尊の副書ですが「千葉県の歴史」の巻末に書かれているものは誤記であって、佐藤教授の論文から「本御影堂」ではなく「御本尊堂」が正しかったと記憶していますが違いましたでしょうか。

れんさん、空き缶さんもご覧であれば、ご教示願いたく存じます。

1814れん:2004/10/27(水) 04:16
犀角独歩さん、「日蓮上人…実は写真二枚…。ご教示有難うございます。
勉強中さん、万年救護…副書…「本御影堂」ではなく「御本尊堂」が正しかったと記憶…。そうなんですか。私は保田妙本寺文書に関しては、現在「千葉県の歴史」以上の物は持ち合わせてないので、実際に妙本寺等に行かれて実物を拝観された勉強中さんのご教示は大変参考になります。副書「御本尊堂」ですと、副書の意図は保田の万年救護は本門寺建立の時本堂に懸ける本尊とすることにあると言うことでしょうか。ただ若干悩ましいのは「日興上人御遺跡事」(正本御筆写真、継命新聞社刊日目上人49ページ収録)では‘日蓮聖人御影’をも「本門寺建立之時者可奉納本堂」としている点ですね。この点、空き缶さんのご教示の如く保田の万年救護と蓮師御影はセットになっているようにも見えます。
愚鈍凡夫さん、戒壇堂、重須の順師心底抄・代師葦名阿闍梨御返事では曼陀羅図の如く仏像安置、しかし順師後年の著の摧邪立正抄では本門戒壇…安置本門大曼陀羅、この辺の会通はどうなるのでしょう?興門でも上代ではこの辺が未整理であるかの如く見受けられますね。

1815愚鈍凡夫:2004/10/27(水) 07:46

犀角独歩さん、
お忙しい中でのレス、有り難うございます。
その時その時で、都合のいいように解釈していくから整合性がなくなってしまうんですよね。

勉強中さん、どうも。
小生と違って真摯な態度で教学と取り組む姿勢、凄いと思います。

> 佐藤教授の論文から「本御影堂」ではなく「御本尊堂」が正しかったと記憶していますが違いましたでしょうか。

この見解が正しいとすれば、副書が蓮祖の正筆であることに疑いを持ってしまいます(結果的に御影堂の場合でも同じですが)。理由は、蓮祖が一つの漫荼羅にだけ、特別な意義を持たせるとは思えないからです。
紙幅であることを考えると、果たして千年もつでしょうか?
そして、聖滅後、紙幅の漫荼羅にもしものことがあったらどうするのでしょうか。
やはり、本門の戒壇を備えた本門寺本堂の本尊は、仏像ではないでしょうか。
蓮祖は、仏像に添える脇士によって本尊の差別化を図り、本門の教主釈尊を現そうとしていたのではないかと思います。法華経の虚空会をモチーフにした、蓮祖独自の虚空会がイメージとしてあったのではないかと想像します。

れんさん、どうも。お忙しそうですね。
小生は最近、初期興門派が仏像正意であったことに注目しています。これは蓮祖が生前、漫荼羅を示しながら、弟子たちに本門の本尊の立体像を語っていたからではないでしょうか。
予算を含めた諸般の事情から、それがいつしか漫荼羅正意へと変遷していったということではないかと思っています。

1816愚鈍凡夫:2004/10/27(水) 07:53

説明不足ですので、補足です。

> 本門の戒壇を備えた本門寺本堂の本尊は、仏像ではないでしょうか。

とは、「本門寺本堂」に「本門の戒壇」が備わっているという意味ではなくて、比叡山や高野山のように、寺院群で構成されているのが小生の「本門寺」のイメージです。

1817頭角無類:2004/10/27(水) 11:56

犀角独歩さん

いちいちの御返事恐れ入ります。

>北山蔵禅師漫荼羅では經の旁は[一/リ/エ]となっております。
>これは極めて特異な筆法であると言えようかと思えます。
>この点を彫刻本尊では[一/ツ/エ]となっている点で異なってい
>ることを申し上げました。

私の所持するレジメはコピーなので、ハッキリ分からなかったのですが、なるほど言われてみるとそうですね。とても興味深いです。
でもこれで一つなぞがとけたような気がしました。

 『日興上人詳伝』を読み返してみたのですが、

「(日禅師授与本尊について)北山本門寺にも法道院にも存在する。予が拙いためかいずれがご真筆でありやは判断しかねる。幸いに両本尊を同座申し上げたら判明するであろうか。(中略)『御本尊衆目録』には北山本門寺蔵御聖筆十一幅の中にようやく鉄砲曼荼羅という一幅だけしかのっておらず(中略)これと法道院の御分との学的判断は安国会主にも問い合わせもしようし、とにかく将来の楽しみに留保しておく」

という意味深な下りがあって、北山蔵と大石寺蔵の「日禅師授与本尊」には何らかの相違点があるのだろうと、漠然と思ってはいました。どのような違いがあるのかこれが大きな謎だったのです。

 山中喜八氏の『御本尊図集解説』に、

「およそ首題の『經』字の御書体は、著しき年代的特徴を有し、四種類に分かつことができる。(中略)今後若し、聖筆の真偽を判じ、或は臨模・作為を弁別する場合は、第一に此の点を考察すべきであろう」

 と記されております。これは山中氏が「經」の字によって偽書判定を行った御本尊が存在したことを物語っています。富士学林A氏も質問していたようですが、山中氏は北山蔵の「日禅授与本尊」について、[一/リ/エ]となっている「經」字の旁、その点を根拠として不収録とされたのか、と思い、一つ謎が解けたわけです。

 個人的には『御本尊集』収録の御本尊について、真偽にやや疑問があるものも存在しますが、いまのことろ、山中氏の研究を否定した人は居ないようです。

>> …「模写」…「臨写」…「お手本とした」

 私も言葉が少し足りなかったのですが、山中氏が御本尊偽作の系統について、「臨模・作為」と表現されるように、偽作本尊には、
①模写(双鉤填墨)、
②臨写(横に置いて字をまねて写しとる)、
③作為(手本のまま写しとるのではなく多少相貌を変更したりして創作する)
大きくこの三つの系統があると言われています。私もこの三つを言いたかったわけです。
その上で、

A仮に北山蔵のものが「臨写」・「作為」の類であったとして、制作者が「經」の字を書き損じたのか。(模写でこのような間違いがおきることは考えにくい。)

B山中氏の研究に合致しない、超例外的に[一/リ/エ]の經のつくりの御本尊が存在するのか。

 これらの点がさらなる疑問となってくるわけです。

 大石寺蔵の「日禅師授与本尊」の「經」のつくりがどうなっているか、北山蔵とどのように違うのか是非拝見したいものです。今の段階では大石寺蔵の真偽についても判断はできかねますが、その点も併せて、何か御研究されていることがあればお教え頂ければ幸いです。
 また、これらの研究については、昭和60年2月号の『日蓮宗新聞』に新たに「真筆本尊」として紹介された『聖運寺曼荼羅』について、偽作であるとの判断を加えた寺尾英智氏の研究(『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』)にも詳しいので参考までにご紹介します。

1818犀角独歩:2004/10/27(水) 14:10

頭角無類さん、毎日、有り難くご投稿を拝受させていただいております。

> 北山蔵と大石寺蔵の「日禅師授与本尊」には何らかの相違点がある

ええ。わたしもこの点にはもちろんのこと、注目しております。
亨師のご研究を見れば、両漫荼羅の相違については、その加筆のみの相違が読み取れるばかりです。

この点は現宗研の講演では話しました。

「弘安3年太歳庚辰5月9日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京 法道院」(冨要9-178)

「弘安3年太歳庚辰5月9日、比丘日禅に之を授与す、(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし、(伯耆漫荼羅と称す)」(富要8-215)

先に愚鈍凡夫さんの応答でも触れた点です。
興師の言を信じる限り、興師加筆は石山蔵です。となれば御筆はこちらかと思いたいところですが、重要な「本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべき」が削損され、北山にはしかし、その加筆があるといいます。さて、どちらが御筆か、もしくはと思惑は巡りますが、興師の仰る如く、これは将来に託された研究課題の一つと思います。


> 山中喜八氏の『御本尊図集解説』…『經』…聖筆の真偽を判じ

ええ、この点はわたしも、半年前にアップしてこの点を指摘しました。
これは頭角無類さんがご指摘くださった論点とまた違うのですが、わたしはこの「經」字の筆法を以て、少なくとも彫刻本尊原本は弘安2年10月の特徴を示していない点を主張したものでした。
以下、転載です。

―― 「板本尊『経』の止筆は偽作の証拠」という1項には頷けるところがあった。

 安永は「経」の一時に着目する理由を以下のように説明する。「立正安国会の山中喜八氏が大崎学報で述べているように、経の字の変遷は『聖筆ノ真偽ヲ判ジ、或ハ臨ぼ(リンボ=見て写すこと)作為(サクイ)ヲ弁別(ベンベツ)スル場合ハ、第一ニ考察スベキデアロウ』と述べているように、経の書体の年代的相違は決定的なものである」

 そのように紹介したうえで、弘安2年における日蓮の「經」の筆法は、旁の「工」の三画は止めずに細く伸ばしている点を挙げる。(これを日蓮門一般では「光明点」という)そして、安永は「光明点は先が、尖っている」が板漫荼羅ではそうなっておらず「規格に反して太く止められている」と指摘するのである。

 これは実に重要な鑑別識である。写真で見る限り、確かに經の最終画は止筆になっているように見える。仮に止筆ではないにしても、同時期の光明点のように細く長く伸ばして書かれていないことは動かない。

 この点を弘安2年11月御筆漫荼羅(No.69)で比較してみよう。上図、左が板漫荼羅の「經」、右が真筆の「經」である。たしかに同一書体とは見えない。筆法の差は歴然であり、板漫荼羅の字体は弘安2年という時代性を反映していない。このことから安永が言う如く、とても弘安2年の筆とは見えない。

 また、『「ツ」の字形の経は弘安二年のものではない』という1項も設けている。「板本尊の旁(つくり)は片仮名の「ツ」の字の如くに、筆が切られている」という。この安永の指摘もまた頷ける。真筆では一筆に流麗に書かれるが、板漫荼羅は「ツ」様に彫られている。

 こうして改めて板漫荼羅の相貌の全体を見直すと、御筆漫荼羅と比較して、全体的な構成に大らかさがない。日蓮御筆の特徴とも言える紙幅に縦横無尽に筆をふるった闊達さがない。全体的な構成も著しく相違し、中央題目と花押が大きく場所を取り、弘安2年当時の特徴を示していないのである。 ――

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html


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