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素朴な疑問
1731
:
愚鈍凡夫
:2004/10/12(火) 11:38
犀角独歩さん、どうも。
「万年救護本尊」のあの讃文は、漫荼羅全体のバランスからいっても、隙間を埋めるように記されていることからいっても、漫荼羅図顕の後に書き加えられたことは間違いないと思います。
また、あの「漫荼羅」の副書に「本門寺建立之時、懸本御影堂 可為末代重宝也 建治元年太才乙亥六月十七日 甲斐国波木井郷図之」とあり、本門寺本堂ではなく本門寺御影堂に懸けよとことわっているのは何故でしょうか。このことは、生御影の背後に漫荼羅を安置する奉安型式を連想させます。
この副書について疑問に思うのは、年記が「建治元(1275)年太才乙亥六月十七日」であることです。漫荼羅図顕が文永11(1274)年12月とのことですから、半年後に副書が書かれたことになります。この半年の間にどんな心境の変化が起こったのでしょうか(皆既日食を見た所為か?)。
それと、この御影堂に安置する「生御影」は誰なのでしょう?
蓮祖は、本門寺建立の時に蓮祖生御影を造立し、本門寺御影堂に「万年救護本尊」とともに奉安せよと遺命されたと言うことなのでしょうか。
もし、この讃文が蓮祖の手によって書かれたとしたら、その時点で、蓮祖は漫荼羅正意であったことの証拠になるのではないでしょうか。
「小生の仮説が根底から崩壊しそう」 ( ̄Д ̄;;。
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