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本門の戒壇について

1野菊:2003/10/09(木) 09:02
またまた新スレッド作ってしまいました。<(_ _)>
本門の戒壇というとすぐ国立だの富士山だのとなってしまいますが、
私は一番重要なのは、自誓戒ということが本門の特徴だと思うのです。
偉い坊さんから授かるのではなくて、自らすすんで御本尊に誓う。
折伏といえどもこの例外ではなくて、説き伏せて、泣き脅して(笑)
某教団などとは違い、我々はそんなことはしませんが、そんな方法で会員を
増やしたところで、他人に強制されて立てた誓いでは本門の戒壇ではないわけです。
どうでしょう?

29れんげ:2003/11/16(日) 22:43
本題と違う質問なのですが宜しくお願い致します。m(__)m

ROOKさん、こんばんわ。
ROOKさんは確か「日蓮大聖人の本流」というHPの管理人さんでいらっしゃいますよね。
現在HPは閉めていらっしゃるのですか?。。

30ROCK:2003/11/17(月) 21:59
空き缶さん、こんばんは。

>これは大石寺第六世日時師の書写本尊ですね。

そうです。『富士宗学要集』の「第三曼荼羅脇書等(六世日時上人御筆の分)」に、

──────────────────────────────────
応永十一年甲申六月日 奥州柳目法華講衆達現当二世の為なり  陸前妙教寺

(「第三曼荼羅脇書等」『富士宗学要集』8巻、p193、1978年)
──────────────────────────────────

とあります。

[付記]
堀師は『宗門史に顕れたる布教』という講本において「興師 徳治三年○、駿河国
富士下方熱原住人神四郎法華講衆と號し」(P22)としています。これが真実であれ
ば、「法華講衆」という名称の所見は徳治三年まで遡らねばなりませんんが、『日興
上人御本尊集』で確認したところ「法華衆」でした。堀師がなぜ徳治三年の本尊をさ
して「法華講衆」としたのかは不可解なところです。

>大石寺の戒壇本尊はこの日時師の代に造立されたものと、思っています。

以前は、日有師説を取っていましたが、陸前妙教寺蔵の日時師書写本尊の脇書の
ことから、日時師まで遡れると考えています。
「仏滅後二千二百二十余年」と見られるのは宗祖滅後203年の「穆作抄」ですから、
大石寺流本門戒壇大御本尊は日時師以降に成立し、それが日鎮師の時代に表面
化したものではなかろうかと推考しています。
ちなみに、「日興跡條條事」の初見は宗祖滅後279年を待たねばならないので、第二
条の「弘安二年の大御本尊」とは大石寺流本門戒壇大御本尊であると考えてもよい
わけです。

31ROCK:2003/11/17(月) 22:07
れんげさん、こんばんは。

>「日蓮大聖人の本流」というHPの管理人さんでいらっしゃいますよね。
>現在HPは閉めていらっしゃるのですか?。。

はい。昔は「日蓮大聖人の本流」を主宰していましたが、諸般の事情で
所属していた講から退講(退会)しましたので、そんな自分が「日蓮大聖
人の本流」を称するのはおこがましいのではないか、と思い一時閉鎖した
のです。
ホームページについては近いうちにリニューアル・オープンしたいと思って
いますので、その際はよろしくお願い致します。

32れんげ:2003/11/17(月) 23:34
ROOKさん、こんばんわ。
お返事ありがとうございました。m(__)m
HP拝見させていただいておりました。。リニュ―アル・オ−プンされるとのこと、楽しみにしています。。
ROOKさんは大阪の方でいらっしゃるんですよね。私も大阪なんですよ。どうぞ今後とも宜しくお願い致します。(*^_^*)

管理人さん、本題から外れた投稿でした。お許し下さいませ。m(__)m\(^_^メ)れんげさんにイエロ−カ−ド!
ごめんなさい。以後気を付けます。m(__)m合掌

33空き缶:2003/11/17(月) 23:53
ROCKさん

それにしましてもROCKさんは、富士門のことに詳しいですね。しかも、ご指摘が鋭いです。

私も新しいHPのオープンを楽しみにしています。

34れんげ:2003/11/18(火) 00:46
空き缶さん、こんばんわ。いつも有り難う御座います。m(__)m

ROCKさん、ごめんなさい。m(__)m 
ROCKをROOKと誤って書き込みしておりました。大変失礼致しました。合掌

35空き缶:2003/11/18(火) 22:58
ROCKさん、れんげさんこんばんわ。
チョッとした資料です。

御本尊目録(妙教寺奉蔵) 

24.日時上人 応永十一年六月日
  奥州柳目法華講衆現当二世の為也
  板倉表具廿八の廿二

○.日時上人 今不伝 古目録に見ゆ
  板本尊、但し脇に日主上人御判有之
  是は客殿に奉安置申候

以上「奥人第三号」より抜粋

上記の通り「奥人第三号」の、「応永十一年六月日」時師書写本尊の次に出ている「板本尊」の事が気になるところです。時師と板本尊の関係を示す資料の一つであると思います。

36ROCK:2003/11/18(火) 23:33
空き缶さん、こんばんは。

>富士門のことに詳しいですね。しかも、ご指摘が鋭いです。

いえいえ、まだまだ未熟です。
大石寺門流の基礎知識は少々(本当に少々ですが)あっても、こと
興門他山のことになると悩むところがあります。

>「板本尊」の事が気になるところです。

私の着眼点はちょっと違います。
私はむしろ「日主上人御判有之」との文に注目しています。なぜなら、
日主師は「日興跡條條事示書」において「大聖より本門戒壇御本尊」
(歴全1−P459)と記しています。
つまり、「本門戒壇大御本尊」(厳密には「本門戒壇御本尊」ですが)と
いう呼称の初見は日主師の「日興跡條條事示書」においてはじめて見
出せる訳です。
そして、今までの流れを纏めると、

○「法華講衆」の初見=宗祖滅後123年、日時師書写本尊
○「仏滅後2220余年」の初見=宗祖滅後203年、「穆作抄」
○「本門戒壇御本尊」の初見=宗祖滅後290年代、「日興跡條條事示書」

となりますから、日時師以降の大石寺僧によって板曼荼羅が造立され、
それが日鎮師の時代に表面化し、日主師によって板曼荼羅は「本門戒壇
大御本尊」へと祀り上げられたのではないかと推考しています。

37ROCK:2003/11/18(火) 23:39
れんげさん、こんばんは。

>私も大阪なんですよ。どうぞ今後とも宜しくお願い致します。(*^_^*)

こちらこそ宜しくお願いします。
れんげさんは確かshamon先生の所にも投稿されておられたと記憶
しています。
機会があれば、shamon先生を囲ってお話できたらよいですね。(笑)

>ROOKと誤って書き込みしておりました。大変失礼致しました。

いえいえ、気にしてません。
悪名高い某掲示板ではPOCKと呼ばれていましたからね。(苦笑)

38空き缶:2003/11/19(水) 00:38
ROCKさん

なるほど、私は板本尊ばかりに気を取られすぎですね。

悪名高い某掲示板とは、かの○太郎氏の出てくるところですか?

39ROCK:2003/11/19(水) 00:49
>>36補足]

「客殿に奉安」されている「板本尊」を大石寺流本門戒壇大御本尊とは
考えていません。私が注目しているのは「」日時師造立の「客殿に奉安」
されている「板本尊」に日主師の「御判」があるということです。こうした
例があるならば、日時師以降の大石寺僧によって造立された板曼荼羅
に日主師が「本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆」という讃文を添加
したとも考えられなくないからです。
しかして、「日興跡條條事示書」に「大聖より本門戒壇御本尊」と記され
ているものではないかと推考する次第です。

40ROCK:2003/11/19(水) 00:59
空き缶さん、こんばんは。

>私は板本尊ばかりに気を取られすぎですね。

そんなことはないですよ。
「客殿に奉安」されている日時師造立の「板本尊」が存在することから、
大石寺流本門戒壇大御本尊の成立時期は日時師の時代まで遡ること
ができるかもしれませんが、真実、大石寺流本門戒壇大御本尊を日時
師が造立したかどうかはまだ確固たる確証が持てないのです。
しかし、日時師・日有師・日教師・日鎮師・日主師というラインにおける
発展的形成であると考えた方が私としてはやや納得がいく訳です。
これはあくまで、私の愚考ですので、空き缶さんの研鑚成果を否定する
ものではありません。

41ROCK:2003/11/19(水) 01:05
>悪名高い某掲示板とは、かの○太郎氏の出てくるところですか?

○太郎氏とは直接論争したことはありません。
まぁ、旧掲示板に記した私の駄文に反駁を加えてきましたが、あまりにも
的外れな論難でしたので放置しておきました。
これについては来春刊行する拙書『大石寺教学の研究』の中で反論して
おきました。

○太郎氏は「監獄ROCKが狂って云く」とは言いますが、「POCK」とは言
いませんね。悪名高い掲示板とは2chです。(もっとも私はかなり以前に引
退しましたが。)

42空き缶:2003/11/19(水) 01:45
ROCKさん

色々とありがとうございます。

私は○太郎氏と散々やりあってしまいました。あのような方を、相手にしてしまったことは情けない限りです。
本日も「○○缶」や「△△缶」等、とてもここには書き込めないような呼ばれ方をされ、誹謗されています。
私は彼が主に書込みをしている掲示板「○○談所」を、「書込み禁止」にされてしまいました。また、「日蓮正宗の掲示板」は掲示板自体がなくなってしまい、他の掲示板にお誘いしたのですがうまく逃げられてしまいました。

でも、これでよかったと思います。法義論争よりも、ここで皆様のお知恵を拝しながら、研鑚していた方が価値的だと感じています。

話は変わりますが、『日出台隠記』の出ている書籍ですが、私がネットで調べたところ全33巻で60万円となっていました。とても手が出せないと思いました。

43野菊:2003/11/19(水) 02:16
空き缶さん、ROCKさんこんばんわ。
私、大石寺門流や板本尊のことなどほとんど興味がなくて細かく知りません
でしたが、おかげで少しわかりました。<(_ _)>
ところで、非常に初歩的な質問なのですが、私のご本尊は佐渡始顕の曼荼羅
なのですが、板曼荼羅の図式というのは全然違うのですか?

44れんげ:2003/11/19(水) 10:16
皆さん、おはようございます。
いつもご教示くださり有り難う御座います。m(__)m

野菊さん、私がお受けした懐中・御本尊も、我が家の御本尊も、佐渡始顕の御本尊(複写)ですよ。

ROCKさん、お返事ありがとうございます。
>機会があれば、shamon先生を囲ってお話できたらよいですね。(笑)
そのような機会^^ありますよ。よろしければお声掛けさせていただきましょうか。。
shamon師は、一面とても気さくでご陽気なお上人でもいらっしゃるんですよ(笑)。

45空き缶:2003/11/19(水) 12:28
野菊さん

「板曼荼羅」の相貌ですが、色々です。京都要法寺・保田妙本寺等、大石寺系以外の日興門流諸山でも造立されています。

問題の大石寺のいう「本門戒壇の大御本尊」(板曼荼羅)ですが、相貌は北山本門寺所蔵の「万年救護本尊」(弘安三年禅師授与の本尊)によく似ているといわれています。

「佐渡始顕の御本尊」とは、茂原藻原寺所蔵の御本尊のことでしょうか?すみません知識が無いもので。

46空き缶:2003/11/19(水) 12:40

失礼しました。「茂原藻原寺所蔵の御本尊」は身延で認められた御本尊でした。

47管理者:2003/11/19(水) 16:48
ROCKさん、今日は。
>来春刊行する拙書『大石寺教学の研究』
是非、この板の「書籍情報」に研究の成果の著作の宣伝を兼ねてご紹介下さい。
>近いうちにリニューアル・オープン
との事、是非オープンの時はURLをこの板に書き込み下さい。

空き缶さん、今日は。
>ここで皆様のお知恵を拝しながら、研鑚していた方が価値的だと感じています
有り難う御座います。

板本尊の表面は何削りか、かんな削りなら桃山時代以降ですが、ちょうな?削りなら以前となるが。大石寺の板曼陀羅は、観た人の言うにはかんな削りだとか。
私もスレ違いしてはレッドカードに成るので、皆さんには、分かり切った板曼荼羅の削りの有無を書きました。

大変貴重な書き込みを有り難う御座いました。

必要な綱目のスレッドが有りましたら、ご遠慮なく新スレッドをお建て下さい。

48管理者:2003/11/19(水) 16:54
追伸てす。
研究の成果の著作の宣伝=「の」が三個も単語の後に付けてしまい、大変読みづらくてすいませんでした。m(_ _)m

49ROCK:2003/11/19(水) 17:53
管理人さん、こんばんは&御邪魔してます。

>「書籍情報」に研究の成果の著作の宣伝を兼ねてご紹介下さい。
>是非オープンの時はURLをこの板に書き込み下さい。

ありがとうございます。出版時期が確定すればお言葉に甘えて書き込ませて頂き
たいと思います。
宗門の方は教科書的存在のようなものにしたいとおっしゃっていたので、多少の
自信はあるんですけれど、私としては〝まだまだだな〟と思っています。

>板本尊の表面は何削りか、かんな削りなら桃山時代以降ですが、ちょうな?削り
>なら以前となるが。大石寺の板曼陀羅は、観た人の言うにはかんな削りだとか。

細井日達師は昭和47年9月12日、日正寺竜口法難会において、

──────────────────────────────────
また、戒壇の御本尊様は楠の板である。楠の板で大部古くなりほこりが後ろの方にた
まり今度お水洗いする事になり、洗ったのである。実際に大御本尊は楠の板で、其の
時分はカンナがなかった、鎌倉時代には手斧である。だから、あの御本尊は手斧けず
りである。それを見ればすぐわかる。それを知らないで漆を塗ってあるからあれは足利
時代に出来たとか、最近は徳川時代に出来たなどととんでもないことを言う。ところが
あれは後ろをみるとみんな削ったあとがちゃんと残っている。それをみても明らかに鎌
倉時代である。しかも、手斧で明治時代の人は知っている。まるいものではない。 あの
時代には鉞みたいな手斧で削った。其の板です。実際に見ればはっきり分かる。(中略)
そういうことを見てもはっきり鎌倉時代の板本尊である。 そうすると、また向うの悪口を
言う人は、身延には楠はない、あんな寒い所に楠はない、あれは静岡県富士の辺でな
ければ無いんだ。だから結局富士へ来てから造ったんだという。ところが、あにはからん
や、身延の入口の大野山本遠寺という寺がある。これは身延駅から身延へ行く手前に
今でもある。その寺にちゃんと千二、三百年前からの楠の木が今でも生きている。もし、
それが千年の木としても、大聖人様が七百年とすればまだ三百年以上の木があったわ
けである。

(『日達上人全集』2輯5巻、p434−435、1980年)
──────────────────────────────────

と述べています。参考までに。
ところで、細井師は「その寺にちゃんと千二、三百年前からの楠の木が今でも生きている」
と云っています。確かに大野山本遠寺には楠がありますが、身延町の天然記念物に指定
される際に測定された樹齢は450年ですから、宗祖在世の時代から身延に楠があったかど
うかは疑わしいと思います。
細井師は何を根拠に「千二、三百年前からの楠の木」としているのか甚だ不可解ですね。
真実、大野山本遠寺に樹齢が1200年を超す楠があればその楠が天然記念物に指定され
るはずですから。

50ROCK:2003/11/19(水) 18:21
空き缶さん、こんばんは。

>他の掲示板にお誘いしたのですがうまく逃げられてしまいました。

○太郎氏は基本的に自分の掲示板以外は書き込まないようですね。
まぁ、彼らは「遊び相手」としては面白いですが、研鑚に役立つかと云えば、
そうではないでしょうね。彼らはあのような表現をしますのでどうしてもこちらも
口汚くなってしまうわけです。これは宗祖の誡めに背くものですから、なるべく
放置するのが一番かと思います。

51ROCK:2003/11/19(水) 18:22
野菊さん、こんばんは。

>私のご本尊は佐渡始顕の曼荼羅

佐渡始顕の大曼荼羅とは高橋智遍師の『日蓮聖人小傳』のp674−675に載って
いるところの大曼荼羅でしょうか。私はどうも大石寺門流以外の基礎知識は欠如
しているようです。(苦笑)

>板曼荼羅の図式というのは全然違うのですか?

大石寺奉安堂に安置されている本門戒壇大御本尊と称されるところの板曼荼羅の
相貌は私にも分かりません。「当家諸門流継図之事」に板曼荼羅の相貌について記
されていると聞きます。これについては私よりも川蝉先生が詳しいでしょう。
板曼荼羅の写真は明治・大正年間に大石寺門徒の出版物(『日蓮上人』『聖教乃正義』)
に掲載され、私もその写真を元に解読を試みましたが、不鮮明なため明確な相貌は
分かりませんでした。

52ROCK:2003/11/19(水) 18:23
れんげさん、こんばんは。

>shamon師は、一面とても気さくでご陽気なお上人でもいらっしゃるんですよ(笑)。

shamon師とは一度お会いしたことがありますよ。
まだ、れんげさんがネットに出てこられる以前でしたが、猫町さんと三人でお会いしたことが
あります。ネットではあのような闘将ですが、会ってみるとれんげさんの云われるようなお方
でしたね。
また機会があれば、れんげさんたちと一緒にお会いしたいものです。

53れんげ:2003/11/19(水) 18:47
ROCKさん、こんばんわ。
そうでいらっしゃいましたか。。shamon師とお会いになられたことがお有りなのですね。それは失礼致しました(笑)。
猫町さんも今は流離いの武者修行の旅に出ていらっしゃることでしょう?。。。
>また機会があれば、れんげさんたちと一緒にお会いしたいものです。
本当ですね。ぜひ実現させたいですね。楽しみにしています。(*^.^*)合掌

54空き缶:2003/11/19(水) 19:07
ROCKさん

○なるべく放置するのが一番かと思います。

→やはりROCKさんは、人間の完成度が私とは格段に違うと思います。私はどうも、彼らにものを言われると反論したくなってしまいます。
 かつて波木井坊竜尊氏からも、彼らのことは相手にせずに自らの信仰を全うするよう、アドバイスをいただいたこともありました。
 ところが性格的に黙っていられませんでした。(涙。。)まー今回、問題の掲示板がストップしたことは御仏智だと思い、研鑚の姿勢を正していきたいと思います。

れんげさん、管理者さん

○「佐渡始顕の曼荼羅」について

→やはり私は、一度も拝したことがないですね。どのような相貌の御本尊様なんでしょうか?

55川蝉:2003/11/19(水) 20:15
皆さん今晩は。
空き缶さんへ。

吉川弘文堂で最近出版された立正大の中尾暁教授の「日蓮」に始顕曼荼羅の模写の写真が掲載されています。1700円でしたか。
始顕曼荼羅の相貌について、文章での説明は困難です。

ROCKさんへ。

本化妙宗出版の「創価学会が真実なら日蓮聖人の信仰をやめます」に、いわゆる大石寺の板本尊の相貌が紹介されています。
管理人さん本化妙宗本部に、まだ「創価学会が真実なら」は在庫がありますか?。
「先生」と付けられるとこそばゆいです。当掲示板は「さん」づけに統一するようにとの管理人さんのご意向もありますから「さん」づけでお願いします。
来春にはいよいよ出版ですか。心待ちにしています。

56川蝉:2003/11/19(水) 20:28
書き忘れましたので追伸です。。
ROCKさんへ。

>佐渡始顕の大曼荼羅とは高橋智遍師の『日蓮聖人小傳』のp674−
>675に載っているところの大曼荼羅でしょうか。

そうですね。

中尾暁教授の「日蓮」に掲載されている模写と字体が違いますね。「日蓮」に掲載の始顕曼荼羅は身延の法主さんの模写と説明にあったように記憶しています。
今、ちょと「日蓮」は手元に無いので、このコメントを打ちながら、なんだか自信が無くなりしたが、たしか始顕曼荼羅の模写の写真であったと思います。

57野菊:2003/11/19(水) 20:54
川蝉さん、解説ありがとうございます。
自分でこの佐渡始顕の大曼荼羅の話を振りながら、言葉にするには難しくて
躊躇しておりました。蛇足ながら、私ども国柱会、本化妙宗の提唱する佐渡始顕の大曼荼羅
は、日蓮正宗の提唱するような板本尊のように他のお曼荼羅に利益がないとか、
これが本物といった考えではありません。佐渡始顕その現物は未だ不明でありますが、
智学先生は、その曼荼羅の因縁次第、時、処、内容からみて、その「模倣」であっても
佐渡始顕(四聖帰命)こそ日蓮門下の本尊として統一するに相応しいとの考えで定めて
います。会員はご開眼式の後いただきます。
詳しくは、日蓮主義大観1のp316に佐渡始顕の理由が書かれています。
まだまだ教学が足りないのでうまく説明できませんが、ご本尊は写真を撮って乗せる
わけにもいけませんのでよろしくお願いいたします。<(_ _)>

58ROCK:2003/11/19(水) 21:45
川蝉さん、こんばんは。

>本化妙宗出版の「創価学会が真実なら日蓮聖人の信仰をやめます」
>まだ「創価学会が真実なら」は在庫がありますか?。

『創価学会が真実なら』はもう絶版になっていますが、仕事柄(古書関係)、
幸いにして書庫にありました。相貌図は文章上、掲載することはできませんが、
高橋智遍師の御論考を引用してみます。

──────────────────────────────────
問題の「板マンダラ」ですが、座配・勧請・讃文・縁起など――他の「略式」本尊と
おなじであツて、別に最大御利益・最高御利益をもたらす特別なものは何一つ見
出せません。仏部では、「三世諸仏」「十方分身諸仏」が略してあり、十界のなか
「修羅界」の「大阿修羅王」と「畜生界」の「大龍王」等がまツたく略してあるかち、
それだけ御利益が略されたことになると、大石寺流・創価学会流の議論をすれば、
できないこともありません。「修羅界」「畜生界」がないから、十界円具・十界具足で
なく、八界だけの…二界不足・不具足・片輪な「マンダラ」だと、これまた大石寺流
の難クセをつけ得ないこともありません。さあ……こうなると「板マンダラ」のどこが
特別にありがたいのか、一向に私にはわかりません。

(『創価学会が真実なら』p51、1961年)
──────────────────────────────────

>当掲示板は「さん」づけに統一するようにとの管理人さんのご意向もありますから
>「さん」づけでお願いします。

了承致しました。
管理人さん、すみませんでした。m(__)m

>来春にはいよいよ出版ですか。心待ちにしています。

出版時期は今のところ流動的です。三月には本として完成することができるようですが、
三月・四月は教科書等の出版で印刷やさんが忙しいので五月の連休明けにしてはどう
かと言われていますので、よほどのことがない限りは五月より遅くはならないと思います。

59ROCK:2003/11/19(水) 21:59
空き缶さん、こんばんは。

>ROCKさんは、人間の完成度が私とは格段に違うと思います。

いえいえ。私なんぞは人格識見に欠けた、ヤンチャな凡愚の人間ですよ。
相手しなかったのは、彼らとの論争が当時執筆していた原稿の内容と重なる
ため、相手すると「ネタバレ」になってしまうということがあったからだと
思います。
まぁ、それは結果的によかったかもしれませんが。

>研鑚の姿勢を正していきたいと思います。

それがよいと思います。
あまり相手にしすぎると、『慧妙』において攻撃されることがありますしね。

60れんげ:2003/11/19(水) 23:18
皆さん、こんばんわ。
空き缶さんへ
私がお受けしている御本尊は、玉沢妙法華寺所蔵の「伝法曼荼羅御本尊」の複写です。
過去にお世話になっておりました本化妙宗のお寺の開基お上人の御縁で撮影された「伝法曼荼羅御本尊」、それを表具されたものを、私は開眼して戴いております。
書体はとても力強く全体のバランスがとてもよくて見事なものですよ。合掌

川蝉さん、(^^; 中尾堯教授・著「日蓮」私の手元に御座います。(^^ゞぽりぽり
P172に「佐渡始顕の曼荼羅本尊」の写真がのっていました。身延山久遠寺日享『御本尊鑑』の謄写本による。とございました。

私のお受けした御本尊は、佐渡始顕の御本尊とお聞きしていたのですが、先ほど調べましたら、伝法曼荼羅御本尊とございましたが、呼び名が違うだけなのでしょうか。。合掌

61空き缶:2003/11/19(水) 23:41

れんげさん、こんばんわ。


「伝法曼荼羅御本尊」とは、由緒ある御本尊様ですね。日蓮聖人から日昭上人に授与された「伝法」の御本尊様ですね。

佐渡始顕の御本尊は「伝法曼荼羅御本尊」と相貌が似ているということでしょうか?
弘安年期の御本尊と比べますと、花押の形が違うのではないかと想像するのですが、いかがなものでしょうか。
私は「佐渡始顕の御本尊」は未見であり、どうにもイメージできません。

62ROCK:2003/11/20(木) 01:43
本門戒壇大御本尊と称される板曼荼羅の写真が掲載されているサイトを思い出しました
ので一応、参考までに。

┏大石寺奉安堂に安置されている本門戒壇大御本尊と称する板曼荼羅の写真

http://campross.crosswinds.net/Gohonzon/DaiGohonzon.html

┏阿部日顕師書写本尊(上)と細井日達師書写本尊(下)

http://campross.crosswinds.net/NShoshu.html

大石寺貫首は本門戒壇大御本尊と称される板曼荼羅を書写しているはずなのですが、
板曼荼羅、細井師書写本尊、阿部師書写本尊は何れも相貌が異なっているのは興味
深いと云うか不可解です。

63野菊:2003/11/20(木) 09:26
ROCKさん、みなさんおはようございます。
写真のサイト紹介ありがとうございます。
板曼荼羅の感想としては、文化財としては価値があるのかもしれませんしれませんが、
第一印象としては三千世界を顕すには、なんか奉られている神仏、世界が少ないと思
いました。
佐渡始顕は、細井日達師書写本尊(下)の方が似ていますね。
私の御本尊には上部に横向きにも左右に神仏が奉られています。
左下に私の名前を入れていただいています。
何がどこかの配置はよく頭に入っていません。読誦の時はづーと
妙行正軌を熟視していますので、ようはお経を暗記してないので
御本尊を直視できるのはお題目の時だけなのです。爆

64川蝉:2003/11/20(木) 09:53
空き缶さんへ。

中尾教授の「日蓮」に掲載されているものより不鮮明ですが、他の本にあった始顕本尊のコピーを管理人さん宛送りますので、空き缶さんの住所を管理人さんにお知らせして、回送していただいて下さい。

管理人さんへ。

お手数おかけしますが、回送よろしくお願いします。

65管理者:2003/11/20(木) 11:57
れんげさんへ。
佐渡始顕の御本尊とは違います。空き缶さんがお答えになっております通りです。

空き缶さんへ。
佐渡始顕の御本尊は、四聖の処(釈尊・多宝・四菩薩と十方分身仏・三世の諸仏)の勧請形態に成っています。

佐渡始顕の御本尊の座配は、建治何年か「檀越某ご返事」?以降でしたか、座配が(釈尊・多宝・四菩薩と十方分身仏・三世の諸仏)に変わりましたが、建治前の座配が以後と似ているのは一体もなく、大聖人のお意を邪推は出来ませんが不思議です。
因みに、伝法曼荼羅ですが。鬼子母神に鬼子母神王と、これ又142体のお曼荼羅には一体も有りません。それと、釈迦多宝と四菩薩だけで、「十方分身仏・三世の諸仏」等が勧請されてません。

ROCKさんへ。
>管理人さん、こんばんは&御邪魔してます。
お邪魔なんて飛んでもありません。色々とご教示、換えって有り難う御座います。
>本門戒壇大御本尊と称される板曼荼羅の写真が掲載されているサイト
有り難う御座います。私も出版の日を楽しみにお待ちしてます。

川蝉さんへ。
>お手数おかけしますが、回送よろしくお願いします。
了解しました。今佐渡始顕本尊の転写本の写真を取り込んだのですが、ちょっと細かいところまではどうか。

野菊さんへ。
大先生の「本尊造立私議」の巻頭に佐渡始顕本尊の写真が有ります、大きく分かりやすく出来ませんでしょうか?もし出来ましたらHP(容量は大丈夫でしょうか)に一時的に張り付けてURLの書き込みお願いします。

66管理者:2003/11/20(木) 13:15
川蝉さんへ。
勝手に佐渡始顕の本尊の写真(小さい)をうPしました。此では細部までは確認不明ですが、参考程度で。

野菊さんへ。
一応佐渡始顕本尊の写真をうPしました。↑のお頼みしました件は白紙にして下さい。

空き缶さんへ。
川蝉さんの活字版佐渡始顕と併せてご参考まで。
http://plaza15.mbn.or.jp/~hongemyousyuu/%8D%B2%93n%8En%8C%B0.html

67空き缶:2003/11/20(木) 17:15
皆様こんにちは(こんばんわ)

川蝉さん、いつもありがとうございます。是非拝見させていただきます。

管理者さん、アドレスをリンクしました。お手数おかけします。また、上記リンクも拝見いたしました。ありがとうございました。

ROCKさん、リンクの写真は、由井一乗氏撮影の写真ですね。私も「日蓮上人」で拝見しました。由井氏は「南条兵衛七郎殿御書」御真筆の一部や、「唱法華題目抄」日興写本等を所持していた方ですね。たしか大石寺の大講頭だったと記憶しています。

68管理者:2003/11/20(木) 17:36
空き缶さんへ。
川蝉さんからのメールはまだ未着(行方不明なのか?)です、もう暫くお待ち下さい。

69空き缶:2003/11/20(木) 18:40

管理人さん
お世話になります。

デジタル資料の情報です。

なんと下記URLの法華宗のHP「e−図書室」にて、「註法華経」が一品ごとにダウンロードできます。
http://www.hokkeshu.com/

以前私が「昭和定本遺文」の紹介をさせていただいた時には、なかったと思います。

70野菊:2003/11/20(木) 18:44
管理人さん、川蝉さんのメールは郵政公社のメールだと思いますよ(^○^)

写真ありがとうございました。開眼してなければよろしいですよね。(^_-)-☆

71管理者:2003/11/20(木) 18:55
野菊さん、有り難う御座います。
よくよく観たら、郵政ですね。この様にそそっかしくて、頭からメールでの転送と思いこみすぎ。(^_^;

72管理者:2003/11/20(木) 19:14
空き缶さん、
法華宗のHP「e−図書室」の情報有り難う御座います。
しかし、私は一太郎は使ってなく観ることは出来ませんが、山中喜八先生の註法華経のコピーで今のところ間に合わせます。
情報、有り難う御座います。

あっ野菊さんへ。
開眼はしてません。でも、例え開眼はして無くとも、無礼な事は避けるべきでは、例えばポスターとか、あれ剥がれて足で踏まれたら大変ですから。

73川蝉:2003/11/20(木) 20:17
管理人さんへ。

始顕本尊コピーは郵便です。今日お昼まえに投函しました。

何でしょう。管理人さん紹介の写真の始顕本尊とひどく書体が異なります。
もう一冊の他の本にも、管理人さんに郵送したコピーと同じ本尊を始顕本尊として掲載しています。

田中智学大居士さんの模写は字体(書体)を真似ないで座配だけを写したものなのでしょうかね。

空き缶さんへ。
郵便の住所を管理人さんへお知らせして下さい。

74管理者:2003/11/20(木) 20:38
川蝉さんへ。お疲れさまでした。

>管理人さん紹介の写真の始顕本尊とひどく書体が異なります。
今、山川先生の「本門本尊論」の219頁に出ているのが写真の「佐渡始顕本尊」です。
でも、この座配は、建治何年か不明ですが、以降の座配ですので、佐渡始顕のご真筆の座配は何に属するのか。

75管理者:2003/11/20(木) 20:40
追伸です。
>山川先生の「本門本尊論」の219頁に出ているのが写真の「佐渡始顕本尊」です。
は、佐渡一ノ谷妙照寺所蔵佐渡始顕本尊、を書き忘れました。失礼しました。

76管理者:2003/11/20(木) 20:57
空き缶さんへ。

>しかし、私は一太郎は使ってなく観ることは出来ませんが、山中
>喜八先生の註法華経のコピーで今のところ間に合わせます。
文中不適切な表現、誤解を招くような文中でしたらご容赦の程。m(_ _)m

又、法華宗のHP「e−図書室」にて、「註法華経」が一品ごとにダウンロードできます。
http://www.hokkeshu.com/
を、書籍情報へ転載させていただきました。またまたご容赦の程。m(_ _)m
どーも、夕方よりチョンボが多い。

77空き缶:2003/11/20(木) 21:07

川蝉さん、管理人さん、色々とお世話になり申し訳ありません。

78管理者:2003/11/20(木) 21:19
空き缶さんへ。
飛んでもありません。何か「佐渡始顕本尊」の情報が御座いましたら何なりとお書き下さい。
それ以外も結構です。
因みに、伊豆の在るお寺に所蔵「板曼荼羅」は、戦時下の宗教弾圧によりて「天照大神・八幡大菩薩」の部分の金箔を葉がした「板曼荼羅」が現在でも残っています。何方でも観ることが出来ます。

79野菊:2003/11/21(金) 04:38
御本尊に関して思うこと

田中智学先生 日蓮主義教学大観一より
予は考えるに、聖祖認めたまふ所の御本尊は御一生中ただ一通あるのみである。
そは文永十年七月八日佐渡一の谷においてお認めあったのがそれである。
而しておそらくこの時表裏二面(義学上)の御認めがあったものと推考し奉る
ことができる。その一は四聖歸命の式、その二は總歸命の式である、「元祖化道記」
等の傳説に「總歸命」とあるは即ち内観の邊より書かせたまひしもの、若し、教化
の票式としては因果の正しき目安に乗けたる、六道には歸命を省きたまへる、四聖
歸命の御本尊である、建治、弘安の御本尊は具略の差はありとも、みなこれを寫さ
せたまひしものである。以下省略
==================================
長いのと、漢字の変換が難しいので省略しました。

要は、智学先生は、これ以降の曼荼羅もご聖人が顕されたものは、すべて
この佐渡始顕の模倣というか、変化したもので、基本は佐渡にあり
ということだと思うのですが、それも含め全部で7つの本尊を佐渡始顕とする
理由を述べていらっしゃいます。

佐渡始顕の実物その物は発見されていない訳で、書体を真似てみたとろろで
ご聖人の直筆ではありませんから、智学先生は書体など真似しないと思います。
真似すべき、尊ぶべきは、板切れでも書体でも無く、ご聖人の精神であり、
信仰するのは、本佛のお悟りの世界、大曼荼羅の世界であります。
板や紙に書かれた文字を拝むのではありませんから、例えご聖人の直筆、
本物の板曼荼羅であったとしても形見として、また、文化財として尊くても
それゆえに教えが正しい、ご利益があるというものでは無いと思います。
私は私の目の前にある小型の御本尊で充分であります。
要は、その御本尊に向かいお唱えするお題目が重要であると思います。

80野菊:2003/11/21(金) 04:53
追伸 <(_ _)>
それゆえに(って、佐渡始顕主義ということですね)国柱会、本化妙宗は
7月8日が顕正会と言って御聖日なのですが、他の門派では御聖日では
無いのですか?
(管理人さん、ROCKさん空き缶さん、川蝉さん、みなさん 夜中に朝早く
かってな主張ばかり失礼しました。今日明日と留守にしますのでレスが遅れます)

81川蝉:2003/11/21(金) 11:32

>その一は四聖歸命の式、その二は總歸命の式である

分かりました。中尾暁教授の「日蓮」や他の二冊に掲載してある始顕曼荼羅は總歸命の式の方で、管理人さんが掲示された始顕曼荼羅は四聖歸命の式の方と云うことですね。

82れんげ:2003/11/21(金) 21:01
皆さん、ご教示ありがとうございます。m(__)m
先ほど、身延山より帰って参りました。

空き缶さん。管理人さん。ご教示下さいまして有り難う御座いました。m(__)m

先ずは取り急ぎ御礼申し上げます。合掌

83空き缶:2003/11/21(金) 21:29

川蝉さん

本当にありがとうございました。初めて拝見しました。

「明治の大火」で宗祖真筆は焼失してしまったんですね。あの火事は門下にとって、非常に大きな痛手でしたね。


管理人さん

ありがとうございました。
これからも宜しくお願いします。

84空き缶:2003/11/21(金) 21:40

れんげさん

お帰りなさいませ。


野菊さん

大石寺では、やはり「本門戒壇の大御本尊」建立の日と伝わる10月12日が記念日ですね。

重須では日興上人の御振舞いに習い、10月13日(御入滅の日)に御講を開催すると思いますが、ROCKさんいかがでしょうか?(突然ふってしまいすみません。重須の事はよくわからないのに書いてしまいました。)

85ROCK:2003/11/21(金) 22:22
空き缶さん、こんばんは。

>「明治の大火」で宗祖真筆は焼失してしまったんですね。

「明治大火」で焼失した本尊には、「智徳第一付法沙門日興授与之」と記された
弘安二年八月(弘安五年説もあり)の日興師授与本尊も含まれていたようですね。
現存する日興師授与本尊は二幅で、何れも要法寺に所蔵されているようですが、
これらの本尊の真偽は私には分かりません。

>10月13日(御入滅の日)に御講を開催すると思いますが

どうなんでしょう。
私は重須の事はほとんど知りません。と言うよりも、重須は大石寺、要法寺に比
べてあまりにも情報が入ってこないのですね。
重須公式サイトの「主要行事」を見ましたがありませんでした。
http://www.ba.wakwak.com/~honmonji/gyouji.htm
昔(先代・片山日幹師)は開放的で、重須の出版物も信徒以外にも配布していた
ようですが、本間師になられてからはそういったこともしなくなったと知人が嘆いて
いたくらいです。そういった意味では、重須は閉鎖的であるし、興門研究でも遅れ
ているな、というのが私の感想です。
せめて、『北山本門寺入門』でも出して欲しいものです。

86ROCK:2003/11/21(金) 22:33
[補足]
>現存する日興師授与本尊は二幅

ここには万年救護本尊を含んでいません。
万年救護本尊は日興師に授与された本尊ですが、私が>>85において「日興師授与本尊」
としたところの定義は脇書に「日興」と記されているという意味です。
ちなみに、富谷日震師は『本宗史網』では「智徳第一付法沙門日興授与之」本尊を弘安
二年としていますが、『日興上人正伝』では弘安五年としています。
富谷師編纂の『日宗年表』を見ましたが、弘安二年・弘安五年の項に本尊授与がなされ
た旨の記述がありませんでしたので、何れが正であるかは分かりません。

87空き缶:2003/11/21(金) 23:09
ROCKさんこんばんわ。

重須の件、勝手にふってしまいすみませんでした。日興上人御在世中は毎年御講を開催していたらしいことが、興風談所の「興風11号」に出ていたような気がしましたが、今は行っていないのですね。それとも私の勘違いでしょうか?


→「明治大火」で焼失した本尊には、「智徳第一付法沙門日興授与之」と記された
弘安二年八月(弘安五年説もあり)の日興師授与本尊も含まれていたようですね。

この御本尊の模写は、残ってないんでしょうか?

88野菊:2003/11/22(土) 14:58
みなさんこんにちわ<(_ _)>
先日、智学先生が始顕曼荼羅、推考して書いたような記述を私がしましたが
本部の詳しい方にお伺いしましたら、明治初期もでは確かに存在し、智学
先生はご覧になったはずで、どこかにその記述があったとのお話でした。
で、現物物は九州方面で所在不明になったというような話でした。
(参考までに)

89管理者:2003/11/23(日) 18:23
佐渡始顕の御本尊「総帰命」を私が転写して持っております。ご入り用の方はメールを頂ければ「宅ふぁいる便」にて送らせていただきます。

ご存じの通り、「総帰命御本尊」は明治の大火にて消失しましたが、消失前にそのままそっくり書き写した物が、伊東市霊跡本山佛現寺に御座います。
その写しを20数年前、私が許可を貰いまして移させていただきました。

尚、日享『御本尊鑑』の総帰命の座配で大竜王等が抜けてます。

90管理者:2003/11/23(日) 19:21
追伸、
「宅ふぁいる便」でお送りするのは、佐渡始顕の総帰命の写真のファイルです。
が、抜けてました。<(_ _)>

91ROCK:2003/11/24(月) 23:11
空き缶さん、こんばんは。

>この御本尊の模写は、残ってないんでしょうか?

どうなんでしょう?
『御本尊集』にも『日蓮聖人門下大曼荼羅集成』にも載っていませんし、模写は
ないものかもしれません。
重須貫首の書写本尊は『日蓮聖人門下大曼荼羅集成』に僅かに見られますが、他
の興門は基本的に非公開ですから。知人の御指摘によれば「興門派信徒はご本尊
を信仰の対象ととらえているため興門本尊研究は殆ど行われていない」とのこと
ですので、なかなか難しいところです。

92空き缶:2003/11/24(月) 23:18

ROCKさん、こんばんわ。執筆活動お疲れ様です。

重須にも「万年救護本尊」(弘安三年、禅師授与の曼荼羅)があると聞きますが、こちらも『日蓮聖人真蹟集成御本尊集』や『日蓮聖人門下歴代大曼荼羅本尊集成』には掲載されていないようです。
これは、大石寺からの圧力なんでしょうか?

93ROCK:2003/11/25(火) 09:01
空き缶さん、おはようございます。

>こちらも『日蓮聖人真蹟集成御本尊集』や『日蓮聖人門下歴代大
>曼荼羅本尊集成』には掲載されていないようです

『日蓮聖人門下大曼荼羅集成・解説』において宮崎英修氏は「本集
につづいてこれに収録しきれなかった諸師及び徳川時代に活躍した
門家諸師の本尊集の続刊を予定している」と述べておられます。
宮崎氏はもうお亡くなりになられましたが、『日蓮聖人門下大曼荼羅
集成』の続刊が刊行され、その中に北山の万年救護本尊も収録され
てほしいと願うものです。

しかし、宮崎氏以降は富士大石寺教学の研究を行っておられる方が
いなくなったのは少し寂しいものです。(尊門教学は日蓮教学研究所
の田村莞爾氏が行っておられますが…。)

94ROCK:2003/12/12(金) 20:42
[自説訂正>>27>>30

最近、『御本尊集・奉蔵於奥法寶』を手に入れて一読したところ、>>27および>>30
における《「法華講衆」という呼称の所見は応永十一年の日時師書写本尊》とする
愚考は訂正せざるを得なくなった。すなわち、『御本尊集・奉蔵於奥法寶』に、

──────────────────────────────────
日行上人(三八)
 文和二年三月十二日(一三五三)
 奥州一迫柳目法華講衆武庫掃部
 柳目妙教寺蔵

(『御本尊集・奉蔵於奥法寶』P78、2000年)
──────────────────────────────────

とあったのである。
一瞬、目を疑った。なぜなら、上記本尊が所蔵されているという妙教寺の「本尊
目録」には「奥州一柳目法華衆武庫掃部○○○」(『奥人』3−P18)となってお
り、『富士宗学要集』にも「文和二年三月十二日、奥州一柳目法花衆武庫掃部□
□□」(富要8−P189)となっていたからである。
『御本尊集・奉蔵於奥法寶』の本尊写真を見たが不鮮明で何れが正なのか断定し
難い、というのが正直な感想であるが、『御本尊集・奉蔵於奥法寶』に「奥州一
迫柳目法華講衆武庫掃部」と記されていたこともひとつの事実であり、今は《「
法華講衆」という呼称の所見は応永十一年の日時師書写本尊》との愚考を訂正し、
文和二年の日行師書写本尊とする次第である。

95直人:2004/02/21(土) 07:44
《概略・上代興門教学史の諸問題》

A、相承書の件

一、種々の史料精査の結果、二箇相承の成立時期は宗祖滅後60年代に重須
において偽作されたものである。

二、二箇相承偽作の背景は宗祖滅後53年より起こった西山との紛争である。
その対立過程で日興正嫡思想・血脈相承思想が形成された。二箇相承はそ
うした思想の集大成とも云うべきもの。こうした対立過程で偽作(換骨奪胎)さ
れたものが「日代置状」「大内文書」である。

B、本門戒壇之願主弥四郎国重の件

一、「本門戒壇之願主弥四郎国重」云々は日行師以降の添加(>>94)である。
添加された理由は定かではない。しかしながら、日行師の時代にはすでに、二
箇相承が成立していた。

二、二箇相承には「国主此の法を立てらるれぱ富士山に本門寺の戒壇を建立
せらるべきなり」と記されている。二箇相承が重須によって偽作された文書であ
るならば、「本門寺の戒壇を建立」とは当然、重須思想となる。それゆえに、「本
門戒壇之願主弥四郎国重」云々を添加して重須に対抗したものかもしれない。

C、宗祖本仏思想の件

一、宗祖本仏思想がはじめて見られるのは日順師の著述である。日順師の時
代と云えば、日道師滅後である。日時師・日影師は武州仙波において中古天台
恵心法門を修学している。

二、日道師以降、釈尊本仏思想から宗祖本仏思想へと変遷した背景には日順
師による宗祖本仏思想の影響があったものかもしれない。かくして、大石寺は中
古天台恵心法門を基盤として宗祖本圧思想を形成してゆくようになったものかも
しれない。

96空き缶:2004/02/24(火) 15:06

直人さん、お久しぶりです。
 
 関東天台や細草檀林との関係、大石寺系の日蓮本仏論は、保田妙本寺がそうであったように恵心流中古天台本覚法門と日隆教学が基礎となっているみたいですね。

97直人:2004/02/25(水) 23:02
空き缶さん、こんばんは。

>関東天台や細草檀林との関係

大石寺僧は細草檀林が開創されるまでは武州仙波などの天台の檀所に天台を
学びに行ってましたね。細草檀林で思い浮かべるのは日寛師ですが、日寛師
もまた武州仙波に修学していたと主張する人もいますね。私は疑問に思って
いますが…。

>日隆教学が基礎となっているみたいですね。

日隆師の教学思想は門外漢です。しかし、私の周りでは日隆師の本仏思想は
高い評価を得ていました。

PS.

>C、宗祖本仏思想の件(>>95

○上代日興門流略史
http://www.sincere.ne.jp/~naohito/nenpyou.html

誤記を上記のサイトにて訂正しておきました。

98直人:2004/04/04(日) 14:44
■本門寺戒壇のこと

 宗祖が戒壇建立について述べている著述はわずかに「三大秘法抄」「百六箇抄」
「日蓮一期弘法付嘱書」があるにすぎない。けれども「日蓮一期弘法付嘱書」は宗
祖滅後60年代・重須によって偽作された文書(詳細は今春発行の『大石寺教学の
研究』所収「二箇相承の考察」参照)であるから、「日蓮一期弘法付嘱書」を本門寺
建立の依文とすることはできない。
 今日においては大石寺門流を中心に富士戒壇思想が根強いが、はたして彼らの
主張する戒壇思想はいかにして形成されてきたのであろうか。「三大秘法抄」によ
れば、宗祖は、

  戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法
  を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並
  びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立
  すべき者か

として、いまだ戒壇建立地を定めておられない。ところで「三大秘法抄」は弘安四年
の著述(大石寺日時本では弘安五年)であるが前年の著述であると伝えられる「百
六箇抄」には、

  富士山本門寺本堂なり。上行院は祖師堂云云弘通所は総じて院号なるべし

として、富士戒壇思想が記されているだけでなく、上行院(要法寺の前身)に言及
しているが、これより後の成立である「三大秘法抄」に戒壇建立地が明示されてい
ないことから「百六箇抄」は尊門による偽作であることが明らかである。したがって、
富士戒壇思想が明示されている信用のおける文献ではわずかに「三時弘経次第」
があるくらいであろうか。すなわち、日興上人は「三時弘経次第」において、

  本門寺 富士山 末法

と述べている。けれども、これが宗祖の立義であったかと云えばそうではないように
思う。それは、宗祖が戒壇建立地を明示していないこと、五老僧も「宗祖は戒壇建
立地を定めていない」(「富士一跡門徒存知之事」趣意)と述べているからである。し
たがって富士戒壇思想は日興上人によって形成されたものであるように思う。
 ところで、日目師は「日興上人御遺跡之事」において、

  日蓮聖人御影並びに御下文、園城寺申状上野六人の老僧の方巡に守護し
  奉るべし。但し本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。 この条、日興上人
  の仰せによって支配し奉る事此の如し。この旨に背き異議を成し失いたらん
  輩は永く大謗法たるべし。

と記しており、興門においては早くから本門寺建立が論じられていたようである。
ところで興味深いのは、「御影並びに御下文、園城寺申状」として大石寺門流に
おいて最重要視されている本門戒壇之大御本尊が記されていないことである。
「日興上人御遺跡之事」には記されていないが本門戒壇之大御本尊は大石寺
に秘蔵されていたと考える人がいるかもしれない。けれどもその考えは正しくな
い。それは大石寺門流は身延時代、本堂には本門戒壇之大御本尊が安置され
ていたと説明するからである。

  この弘安二年の戒壇の大御本尊こそ、日興上人が身延においてお受けして、
  身延の正本尊として安置し奉った。

 身延時代に本堂に安置されていた本尊が大石寺では秘蔵されているとするの
は合理性がないように思えるのである。
 これらのことから、本門戒壇之大御本尊は日興上人・日目師の時代にはなく、
この時代における本門寺本堂に安置する本尊とは大曼荼羅を設計図として仏像
を造立するというものであったように思う。それは、日順師、日代師が広宣流布の
暁には仏像を安置すると考えていたこと、日尊師が日興上人の教説として大曼荼
羅は広宣流布の日までとしていることによるものである。ただ、遺憾なるは日興上
人の著述に日順師、日代師、日尊師の如き本尊思想(造仏思想)を見出せないこ
とである。(未完)

99慎之輔:2004/04/06(火) 18:09
今日もお疲れ様でした。局の先輩に頼まれてネットで本化聖典大辞林を
検索購入しました。
昭和63年国書刊行会のもので価格¥14000でした。
今朝、連絡したらすぐ買いにいかれたようで、なかなかの上物だったそうです。
(^○^)

100空き缶:2004/04/21(水) 03:28
100レスゲットです!!

富士門流信徒の掲示板にて、主筆を振るわれている犀角独歩さんの日蓮正宗大石寺所蔵・本門戒壇之大御本尊に対する感懐です。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

近く「図解必携 大石寺本尊鑑別」の出版予定だそうです。
直人さんの「大石寺教学の研究」と併せて、手にするのが待ち遠しいです。

101直人:2004/04/22(木) 00:26
空き缶さん、こんばんは。

>http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

私の考えと基本的に同じですね。違う点は私は日禅授与本尊が板曼荼羅の
土台となったとは考えていないことくらいですね。

>直人さんの「大石寺教学の研究」と併せて、手にするのが待ち遠しいです。

空き缶さんも『妙本寺教学の研究』とか書いてみてはいかがでしょうか?
執筆は疲れるけれど楽しいもんですよ。そして、苦労した分だけ自分の血肉
となって報われますよ。

102空き缶:2004/04/22(木) 20:41

直人さん、私も出版するしないは別として、何らかの形に残したいと思っています。

 但し私は手元の資料や、情報提供に協力してもらえる人脈が少なすぎだと感じています。
 資料を増やすのには資金的な問題があり(仏教書はマーケットが狭いせいか高いですよね)、仕事や家族との時間を考えると、人脈を広げるのには自由になる時間が少なすぎだと思っています。

 だから時間をかけて、ゆっくりとやりたいと思います。その間皆さんの出版物や、掲示板上での御教授をもとにしっかり学んでいきたいと思っています。
 私には身近に法義法門の指導をしてくれる方はいません。したがって、ネット上の皆さんがたよりなんです。

103直人[TRACKBACK]:2004/04/27(火) 14:28
>>98の続き

 富士戒壇思想の初見は日興上人であることを>>98に記した。しかし、日興上人以降の
興門においては戒壇論が論議されていないようである。それが史料の散逸によるものか、
或いは、実際に戒壇論議が行われなかったのかは定かではない。大石寺中興の祖と仰
がれる日有師も戒壇論には何ら言及しておらず、興門において戒壇論が再び見られるの
は日教師の「類聚翰集私」においてであった。

  天生原に六万坊を立て法華本門の戒壇を立つべきなり(富要2−P323)

 かかる戒壇思想は純粋な大石寺教学とは云い難い。否、むしろ、かかる戒壇思想は要
法寺教学と云うべきであろう。なぜなら、六萬坊思想は「百六箇抄」後加文に見られるから
である。

  四大菩薩同心して六萬坊を建立せしめよ、何れの在処為りとも多宝富士山本門寺上行
  院と号す可き者なり時を待つ可きのみ云云。(宗全2−P29)

 この後加文を大石寺思想とすることは決してできない。なぜなら、「多宝富士山本門寺上
行院」とは大石寺ではなく、要法寺の前身である上行院をさすものであるからである。したが
って、「百六箇抄」は宗祖滅後100年代に尊門において偽作され、それが文明十一年、日教
師に相伝されたことによって日教師の著書に「百六箇抄」の如き戒壇思想が見られるのであ
ろう。
 六萬坊・天生原戒壇思想は顕正会の根本教義とも云えるがかかる戒壇思想の根源が要法
寺義である以上、顕正会の戒壇論は何ら根拠をなさないものとなろう。とは云え、要法寺義を
継承―もっとハッキリ云えば要法寺亜流なのは大石寺そのものかもしれない。例えば、空き缶
氏が云われるところの、

  この板本尊を代代受継いでいる大石寺の管長は「生身の釈迦・日蓮」なんだそうです
  (http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/3171/1070036052/r13

という思想は決して大石寺本来の立義ではない。かかる思想の根源は要法寺である。大石寺
が9代100余年間にわたって要法寺から貫首を迎え入れていたことはあまりにも有名である。要
法寺出身の日舜師が大石寺19代として貫首職に就こうとした際、若年だったため、大石寺檀徒
が反発した経緯がある。その際に日舜師援護策として法詔寺日感師(要山僧)が、

  其の器量の善悪を簡ばず、但相承を以って貫主と定められ候、故を以つて一山皆貫主の下
  知に随い、貫主の座上を蹈まざる事悉く信の一字の修行にて候釈迦日蓮代代上人と相承の
  法水相流れ候えば、上代末代其の身の器は替われども法水の替わる事少しも之れなく候、
  此くの如く信ずる時は末代迄も仏法松柏の如くにて、常に寺檀仏種を植え、三宝の御威光鎮
  えに於閻浮提広令流布は疑いなき事に侯、此の旨を相知り侯上は如何様の僧貫主となると
  も相承伝受候上は、生身釈迦日蓮たるべきこと開山の御本意一門徒の肝要にて御座候
  (富要5−P271)

と述べたのが発端である。かく云うと「御本尊七箇相承」の「代々の聖人悉く日蓮」との文を持ち
出してくる人がいるだろうがそれは通じない。そのことの詳細は『大石寺教学の研究』所収「御本
尊七箇相承の考察」において記しておいた。(この稿続く)

104直人:2004/05/06(木) 18:40
>>103の続き

 日教師の時代の大石寺貫首は日鎮師であるが『日蓮正宗歴代法主全書』によれば、《鎮院
主》の三師からは戒壇思想を窺うことはできない。
 ところで、大石寺の所伝によれば、日院師と同時代に生きた日辰師は「御書抄・報恩抄下」に
おいて、

  日本一同に順縁の広宣流布の時上行等の四菩薩国王国母大臣導師と成て寿量の妙法を
  弘通し玉ふ時富士山の西南に当たりて山名は天生山と号す此の上に於いて本門寺の本堂
  御影堂を建立し岩本坂に於いて二王門を建て六万坊を建立し玉ふべき時彼の山に於いて
  戒壇院を建立(達全2−5−P334)

と述べている。六萬坊思想は「百六箇抄」後加文にも記されている如く明らかに要法寺義である
と断じてもよいが、天生原(天生山)戒壇思想は決して要法寺本来の戒壇思想とは思えない。
天生原戒壇思想の先駆者である日教師でさえ尊門時代には六萬坊思想に留まっており天生原
戒壇思想を展開していない。

  此戒院は広宣流布の時御崇敬有り、最も六万坊を建立有るべしと(富要2−P220)

 日教師が天生原戒壇思想を展開したのは富士の方面へ行った後である。「御書抄・報恩抄下」
は書籍になっていないようで私にはその詳細はわからないが、大石寺の所伝によれば、日辰師は
1558年から2年ほど重須に滞在していたようである。この時期に記したのが件の「御書抄・報恩抄
下」であると云うのである。日教師・日辰師が何れも富士(重須)において天生原(天生山)戒壇思
想を展開しているのは単なる偶然ではあるまい。天生原(天生山)戒壇思想は要法寺義でもなく、
大石寺義でもない富士の伝承であったと考える方が賢明と思うのは私だけであろうか。
(この稿続く)

105直人:2004/05/07(金) 23:53
>>104の続き

 日辰師は1587年、日院師に書状を送り要石両山の通用を申し入れているが日院師は日辰師
の《造仏読誦》を邪義として拒否している。しかし、大石寺は日主師の時代には相当衰退したよう
で日主師は日?師に通用を要請している。
 かくして要法寺との通用は《昌就精盈舜典忍俊啓》の九代百余年間にわたって続くのである。
その後、日寛師の出現によって今日の大石寺教学が確立するのであるが、日寛師も天生原戒
壇思想に肯定的であった。

  事の戒壇とは富士山天生原に戒壇堂を建立するなり(宗全4−P324)

 かく云うと「依義判文抄」の、

  戒壇の方面は地形に随うべし国主信伏し造立の時至らば智臣・大徳宜しく群議を成すべし
  兼日の治定は後難を招くに在り寸尺高下注記すること能わず(宗全4−P47)

という文を持ち出してくる人がいるかもしれないがそれは正しくない。それは一つにはこの文は
日順師の「本門心底抄」からの引用であること、もう一つには、日寛師以降の大石寺貫首にも
天生原(天生山)戒壇思想が見られるからである。

  
  戒壇の地を富士の天生山に撰び置き板本尊及戒壇堂の御真筆在り
  (35代日穏師「五人所破抄一覧」富要4−P205)

  後五百歳中広宣流布の金言虚しからずんば、上一人より下万民に至るまで此の三大秘
  法を持ち奉る時節あり、此を事の広宣流布と云ふ。其時、天皇陛下より勅詔を賜はり富士
  山の麓に天母が原と申す曠々たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立
  (56代日應師「本門戒壇の大本尊縁由」應全P3)

 日寛師がいくら現・大石寺教学の大成者と云えども百余年にわたる両山通用の間に流入し
てきた要法寺教学を完全には払拭できていないようである。それゆえに日寛師以降の大石寺
貫首も「天生原」云々と述べているのではあるまいか。

106空き缶:2004/05/08(土) 02:03

 直人さん、それにしてもすごいですね。
 どうも最近の日蓮正宗信徒さんや、創価学会員は「富士宗学要集」も所持していない方が多いようです。

 恐らく、直人さんと同年代の創価学会員は、ほとんど教学らしい教学は身につけていないと思われます。
 日興師を「僧宝」と仰ぎながらも、日興師の遺文はほとんど知りません。いったいどういうことなのかと首を傾げたくなります。
 彼らは「日蓮大聖人御書全集」に掲載されている、五人所破抄・富士一跡門徒存知の事・日興遺誡置文・御義口伝だけが日興師の著作であると思っています。
 私からいわせれば、どれも疑義濃厚だと思います。日興師を「僧宝」と仰ぐなら、せめて日興師の真筆が現存する遺文ぐらい知っていただきたいと思います。

107直人:2004/05/08(土) 19:47
空き缶さん、こんばんは。

>どうも最近の日蓮正宗信徒さんや、創価学会員は「富士宗学要集」も
>所持していない方が多いようです。

 古参会員信徒さんは持っているかもしれませんが、最近入信の大石寺門徒
さんは持っている人が圧倒的に少ないようですね。それは『富士宗学要集』の
版権が創価学会にあること、また宗創問題で対立している教団が出している
書物なんか買いたくないという感情でもあるんでしょう。ですから、私の知る大
石寺門徒さんは山喜房仏書林版を買っています。

>直人さんと同年代の創価学会員は、ほとんど教学らしい教学は身につけて
>いないと思われます。

 私は知りませんが教学ある人もいるでしょう。それにしても教学で批判して
くるなら『富士宗学要集』くらいは読んでおいてほしいものです。以前、私より
少し若めの学会員さんと討論したことがありますが、彼は『富士宗学要集』を
読んでいなかった(知らなかったというべきか)ためひとつのことで延々何時
間も話した記憶があります。「御書根本」を謳うなら「富木殿御書」の如くやっ
てほしいものです。

  我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して
  万歳悔ゆること勿れ

  (「富木殿御書」『昭和定本日蓮聖人遺文』P1373、1971年)

>五人所破抄・富士一跡門徒存知の事・日興遺誡置文・御義口伝だけが日興
>師の著作であると思っています。

 「御義口伝」「日興遺誡置文」は知らない人はいないでしょうけど、「五人所破
抄」「富士一跡門徒存知事」は知らない人もたまにいますから討論するとき大変
です。(ここ数年は原稿執筆に追われていたのでしていませんが。)

>日興師を「僧宝」と仰ぐなら、せめて日興師の真筆が現存する遺文ぐらい知って
>いただきたいと思います。

108直人:2004/05/08(土) 19:53
>>107最後がうまく書けなかったので…m(__)m

>日興師を「僧宝」と仰ぐなら、せめて日興師の真筆が現存する遺文ぐらい知って
>いただきたいと思います。

 『日興上人全集』『日蓮宗宗学全書』はせめて読んでおいてほしいものです。そう
でなければ興門教学史を語れません。

109直人:2004/05/08(土) 21:41
>105の続き

 1912年、東京本門独一講(日蓮正宗大講頭・由比一乗氏)は『総本山大石寺真景』を刊行し
ている。その中に富士山麓の写真を掲載し、

  冨士天母が原(本門戒壇堂建立地) (『総本山大石寺真景』)

と云い、その後、荒木清勇氏も『聖教乃正義』(1921年)富士山麓の写真を掲載し、

  事の廣布の時本門戒壇堂及六萬坊を建立せらるへき霊地也 天母ヶ原(『聖教乃正義』)

と云うのである。かくの如く大正期における大石寺門流の本門戒壇思想とは《天生原戒壇・六
萬坊》というものであったようである。
 堀日亨師は六萬坊伝説については、

  この日教要山僧にして石山に帰入せし者の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて、
  坊舎建立の事実を空理にする人々の伝説は、まじめな後人を誤らす事大なり。ことに空談
  にもせよ、天生が原の寸地にいかに重畳しても、摩天楼にしても六万の坊舎が建設せらる
  べきや。(詳伝P268)

と云い、六萬坊思想は架空伝説であるとするのであるが、天生戒壇思想については、

  本書には直に天母原と指定することを定めて深由あるべし。宗開両祖の書判に明文なき
  が如しといえども、天母戒壇は富士諸山の共認するところなば、あながちに本師の私言に
  はあらざるべしと信ずるなり。(「類聚翰集私の要領」『隠れたる左京日教師』P57)

と云い、天生原戒壇思想に肯定的なのである。この堀論文はその後、1960年、大橋慈譲氏
が「富木公胤」というペンネームで『大白蓮華』に連載した「富士宗学要集の解説⑭」に引用
され、何ら注釈がついていないことからこの時点でも天生原戒壇思想は存在していたようで
ある。
 昭和期は創価学会による国立戒壇論が主流であったためか天生原戒壇思想・六萬坊思
想が明記されている当時の大石寺門流の教学書はないようである。私が知る限りはさきに
述べた「富士宗学要集の解説⑭」くらいである。
 創価学会による国立戒壇論は今は詳述しないが、池田大作氏は1964年6月30日・第七回
学生部総会において「国立戒壇」の名称放棄を行うのである。

  御書には「国立戒壇」ということばなどはどこにもありません。戸田先生も、ちょっと「国立
  戒壇」ということばをもらしたことがありますが、私も先生がおっしゃったから申し上げたこ
  とも一、二ありますけれども、御書にも日興上人のおことばにも、日寛上人のおことばにも
  「国立戒壇」ということばはないのです。「戒壇」といえば「本門戒壇建立」となるのです。
  (『会長講演集』11−P214)

 しかし、この場で放棄したのはあくまでも名称のみであってその本質は《国立戒壇》なので
あった。
  
  国立美術館、国立競技場、やれ国立博物館などを個人個人が所有していたならば、大
  衆が幸福を分かち合うことができない、研究もできない。そのときに、国立として、全体が
  公共物として、自由にそこで遊ぶこともできる、研究することもできる、見学もできる、それ
  が国立美術館であり、国立博物館であり、国立競技場です。おなじように、国立という言
  葉は使いませんし、使う必要はありませんが、本門戒壇ということも、これらと共通性をも
  っているのです。(『会長講演集』11−P217)

 その後、1969年秋から表面化した所謂「言論出版妨害事件」を契機として大石寺門流は
1970年5月3日・創価学会第33回本部総会において国立戒壇論を公式に放棄するのである。
しかしながら、細井日達師はその後も「国立戒壇」論者であったようである。

  それから、「国立については本宗では言わない、」ということは、国立という言葉が現在
  不適当だというからして、「今後言わない」というだけのことであって、なにも国立という
  精神の、国立ということばは王立でもよい、そういう精神の戒壇を立つとか立たないとか、
  そんなことは論じてない。私は「言葉」「名称」と言ってます。国立という名称は、現在不
  適当だから今後言わない。私は、今後言わないということを五月三日に言った。
  (1970年6月28日・富士学林研究科の砌 達全2−5−P321)

 すでに述べた如く宗祖には富士戒壇思想など片鱗もなく、富士戒壇思想は日興上人によ
って創作されたものである。
 大石寺700余年という宗門史の中での戒壇思想は大石寺本来の立義ではない《天生原
戒壇思想・六萬坊思想》が大部分を占めてきたのである。(了)

110空き缶:2004/05/09(日) 00:17

直人さん、「本門寺戒壇のこと」お疲れ様でした。

ここまでの御投稿をまとめ、私のコミュニティーで紹介させていただいてもよろしいでしょうか?

111直人:2004/05/09(日) 20:22
空き缶さん、こんばんは。

>お疲れ様でした。

 いえ、全然(笑)。私は書くのが好きですから、楽しいです。ですので
〝疲れたぁ〜〟っていう感じは全然しないです。
 いつの日か「大石寺門流における本門戒壇思想の考察」なんて書い
てみたいですね。今回はその下書みたいなものでしょうか。

>私のコミュニティーで紹介させていただいてもよろしいでしょうか?

 こんな文章でも紹介していただけるとはありがたいです。ただ、我儘を
お願いできましたら、>>98に引用文献のページ数の挿入と、>>109の1
箇所を訂正していただければ幸甚に思います。

  >>98上から
  (定本P1864〜1865)
  (宗全2−P25)
  (宗全2−P53)
  (宗全2−P202〜203)
  (達全2−5−P445)

  >>109
  〔誤〕東京本門独一講
  〔正〕東京独一本門講

112直人:2004/05/09(日) 20:29
 創価学会がはじめて「国立戒壇」なる語句を使用したのは1950年11月12日・創価学会第五
回総会における戸田城聖氏の講演においてであった。

  広宣流布は、仏意であり、仏勅であります。われわれ凡夫の力をもってして、これを左右す
  ることなど、ぜったいにできないのでありまして、(中略)しかし、国立の戒壇は、まだ建立せ
  られず、現在にいたっております。それこそ、末代にのこされた仏勅といわなくて、なんであ
  りましょう。 (『講演集』上−P46)

 その後、戸田氏は1951年5月3日・会長就任式挨拶において次のように述べている。

  天皇に御本尊様を持たせ、一日も早く、御教書を出せば、広宣流布ができると思っている
  人があるが、まったくバカげた考え方で、今日の広宣流布は、ひとりひとりが邪教と取り組
  んで、国中の一人一人を折伏し、みんなに、御本尊様を持たせることだ。こうすることによっ
  て、はじめて国立の戒壇ができるのである。 (『講演集』上−P50)

 ここには昭和40年代、広宣流布の方程式とされた《舎衛の三億》なる思想など微塵も見られ
ない。戸田氏の国立戒壇論はさらに加速していく。戸田氏は1955年3月27日・鶴見支部第四
回総会において次のように述べている。

  広宣流布の姿におきまして、また広宣流布の途上におきましては、経済界に、あるいは新
  聞社において、あるいは雑誌において、または、これに類似する文化活動において、あるい
  は映画において、あるいは政治において、また会社の重役といえども、会社の小使いといえ
  ども、皆、御本尊様のありがたいことがわかって、これらの人々のなかから国会議員が出て、
  国立戒壇の請願が出され、国会で可決され、天皇陛下も、また、この御本尊様のありがたさ
  を知ってこそ、初めて広宣流布ができるのです。 (『講演集』下−P27)

 特に会長就任式挨拶・鶴見支部第四回総会における戸田氏の戒壇思想は今日の顕正会が
主張する戒壇思想と全同と云えるかもしれない。なお、顕正会の国立戒壇論は次の如くである。

  日本一国に南無妙法蓮華経と唱え奉る広宣流布のとき、国家意志の表明を以て国立戒壇
  を建立して戒壇の大御本尊を安置し奉れば、日本は仏国となるのである。
  (『日蓮大聖人の仏法』改訂版P164)

113直人:2004/05/09(日) 20:33
>>112の続き

 戸田氏は1956年8月『大白蓮華』に「王仏冥合論」を掲載し、創価学会の政界進出について次
のように述べている。

  このたびの参議院選挙戦では、大いに社会の注目をひいた。宗教団体であるわが学会人の
  なかから、政治家をだすのかということについて、内外ともに、いろいろの議論がでている。た
  とえば、日蓮正宗を国教にするとか、また何十年後には、衆参両院の議席を学会人で占める
  とか、または創価学会が日本の政治をとるとかいう、あらゆる妄説が唱えられている現状であ
  る。しかし、われらが政治に関心をもつゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布に
  ある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである。ゆえに政治に対しては、三大秘法
  稟承事における戒壇論が、日蓮大聖人の至上命令であると、われわれは確信するのである。
  (『巻頭言集』P204)

 文中、戸田氏は「日蓮正宗の国教化」「衆参両院の議席獲得」「政権獲得」を否定しているが
これが戸田氏の本音であったとは云えない。一つには戸田氏はこれに先立つ1954年5月30日・
足立支部第三回総会において次の如く述べている。

  日蓮正宗を国教として、天皇も帰依し戒壇を建立するようになった場合、戒壇の御本尊さま
  をどこの宗派がだせるか。
   (「戸田城聖先生の遺教録」『大白蓮華』104号[昭和35年1月号]P22)

 もっとも、この戸田講演は『講演集』『戸田城聖全集』(和光社/聖教新聞社)では次の如く改
竄されている。

  この日蓮正宗に、天皇も帰依し、国立の戒壇を建立するようになった場合 、戒壇の御本尊
  様をどこの宗派が出せるか。(『講演集』上−P308)

  この日蓮正宗に、天皇も帰依し、国立の戒壇を建立するようになった場合 、戒壇の御本尊
  様をどこの宗派が出せるか。
  (『戸田城聖全集』[和光社]2−P242/『戸田城聖全集』[聖教新聞社]4−P164)

 二つには「王仏冥合論」発表後の1956年12月23日・第五回男子部総会において池田大作氏
が次のように述べているからである。

  まさしく戒壇建立の暁にはわが学会員にとり、かつ、わが学会青年部の手によって内閣を
  結成して王仏冥合を、大聖人様の御予言を達成すべき瑞相ともいえるのではないかと思い
  ます。(『会長講演集』3−P75)

 創価学会青年部の手によって内閣を組閣するとなれば、衆参両院において過半数を占めね
ばならない。過半数を占めるに至らないまでも第一党にならねばならないはずである。そもそも
内閣を組閣するということは政権を取るということであるから戸田氏がさきに述べた「衆参両院
の議席獲得」「政権獲得」を妄説とすることは決してできない。

114直人:2004/05/09(日) 20:40
訂正(>>113
  
  〔誤〕 
  この日蓮正宗に、天皇も帰依し、国立の戒壇を建立するようになった場合 、戒壇の御本尊
  様をどこの宗派が出せるか。
  (『戸田城聖全集』[和光社]2−P242/『戸田城聖全集』[聖教新聞社]4−P164)

  〔正〕
  この日蓮正宗に、天皇も帰依し、本門の戒壇を建立するようになった場合 、戒壇の御本尊
  様をどこの宗派が出せるか。
  (『戸田城聖全集』[和光社]2−P242/『戸田城聖全集』[聖教新聞社]4−P164)

 オリジナルは「国教」、『講演集』は「国立の戒壇」、『戸田城聖全集』では「本門の戒壇」
と変わっていきます。

115空き缶:2004/05/09(日) 21:35

 直人さん、ご快諾ありがとうございました。
 出典の付け加えと、訂正をして掲載したいとおもいます。

 また新しい寄稿も、わたしにとってとてもタイムリーな話題です。
 現在某掲示板にて創価学会員と思われる方と論議しています。是非参考にさせていただきます。

 でも、日蓮正宗宗門の方や創価学会の方との議論は疲れる上、身にならないのできりのいいところでやめようかと思います。
 日蓮正宗宗門と創価学会は、ネット活動家が多いのか、はたまた多重なのかわかりませんが、一人に複数で噛み付いてきますから本当に疲れますよね。
 まあ、根本的にはチョッとしたことで「カチン!」ときて、長々付き合ってしまう私に全て問題があるんだと思いますけど。

116直人:2004/05/10(月) 23:33
空き缶さん、こんばんは。

>是非参考にさせていただきます。
 
 こんな文章でも何らかのお役に立てれは嬉しいですね。

>長々付き合ってしまう私に全て問題があるんだと思いますけど。

 私は今となっては基本的に大石寺系の信徒会員と討論しませんが、あまりにも
ひどい誹謗をしてくる場合は彼らにとって反論不能の書き込みを投稿してしまいます。
 (手加減してやれって言う人もいますが異流義破折に手加減なんかあるもんです
かってんだ!(笑))

117直人:2004/05/10(月) 23:36
>>113の続き

 池田氏は1959年5月3日・第二十回本部総会において、
  
  大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべき、どうしても通ら
  なければならないのが、創価学会の選挙なのでございます。(『会長講演集』4−P81)

と述べている。けれども、真実、戸田氏が云う如く「日蓮正宗の国教化」「衆参両院の議席獲
得」「政権獲得」を目指さないのであれば、「関所ともいうべき、どうしても通らなければならな
い」などとしなくてよいはずである。
 もっとも、戸田氏によれば、国立戒壇は万民一同が日蓮正宗に帰伏し、かつ、国会の可決
を以って建立されるとする(>>112)のである。かくの如く行うのであれば、創価学会員を政界
に進出させ、一定の議席を獲得しなければならない。こうした戸田構想を具体化したものが池
田氏による《学会青年部内閣構想》であったのであろう。
 池田氏は1960年6月10日・中部総支部幹部会において

  創価学会は衆議院には出ません。なぜかならば、あくまでも宗教団体ですから。政治団
  体ではありません。 (『会長講演集』1−P86〜87)

と云い、1961年6月「文化局の使命」と題する巻頭言において、

  われらは政党ではない。ゆえに、けっして、衆議院にその駒をすすめるものではない。参議
  院ならびに、地方議会等、その本質にかんがみて、政党色があってはならない分野に、人
  材を送るものである。(『巻頭言・講義集』1−P33)

と云うのである。しかしながら、この《衆議院不進出路線》はわずか4年で破棄されるのである。
かくして、1964年5月3日・第二十七回本部総会において、

  公明政治連盟を一歩前進させたい。すなわち、公明政治連盟をば、皆さん方の賛成がある
  ならば、王仏冥合達成のために、また時代の要求、民衆の要望にこたえて、政党にするも
  よし、衆議院に出すもよし、このようにしたいと思いますけれども、いかがでございましょうか
  (大拍手)それでは全員の賛同を得ましたので、これをもって決定とします。
  (『会長講演集』12−P175)

と云い、公明党結党の既成事実を形成するのである。その後、1964年6月30日・第七回学生
部総会において、

  御書には「国立戒壇」ということばなどはどこにもありません。戸田先生も、ちょっと「国立
  戒壇」ということばをもらしたことがありますが、私も先生がおっしゃったから申し上げたこ
  とも一、二ありますけれども、御書にも日興上人のおことばにも、日寛上人のおことばにも
  「国立戒壇」ということばはないのです。「戒壇」といえば「本門戒壇建立」となるのです。
  (『会長講演集』11−P214)

と云い、「国立戒壇」の名称放棄を行うのであるが、これは公明党結党に際して政教一致批
判を回避するための詭弁である。

118直人:2004/05/10(月) 23:40
>>117の続き

 公明党は国立戒壇論について次の如く反論する。

  荒木 これは看過(かんか)できぬ問題だ。第一、創価学会は「国立戒壇」論を、今から三
  十年も前、昭和四十五年に教義的にも否定し、公式に完全否定しているからだ。
  白浜 いや、もっと正確にいえば創価学会は、「国立戒壇」論をもっと早い時点、公明党結
  党以前に否定しているよ。(『政教分離』P27)

 このような反論は意味をなさない。なぜなら、これより後に池田氏自身が政教一致的発言を
しているからである。池田氏は『立正安国論講義』(1966年)において次の如く述べている。
  
  かくして、三十九年十一月十七日、公明政治連盟は、公明党として、脱皮し、立正安国論
  に日蓮大聖人が示された王仏冥合の精神を具体化すべく、いよいよ本格的な活動を展開
  することになった。ここに、公明党とは即、創価学会の異名であり、一体不二の関係にある
  ことを知らなければならない。しかして、化儀の広宣流布の推進、王仏冥合の実現による大
  衆福祉、社会の繁栄と個人の幸福、世界の恒久平和の実現以外のなにものでもない。
  (『立正安国論講義』P72)

 池田氏は「化儀の広宣流布の推進、王仏冥合の実現による大衆福祉」と云うのであるが、創
価学会における《化儀の広宣流布》の定義とは国立戒壇の建立にほかならなかった。戸田氏は
1956年3月・「広宣流布と文化活動」と題する巻頭言において次の如く述べている。

  化儀の広宣流布とは、国立戒壇の建立である。(『巻頭言集』P189)

 公明党の政界における役割が「化儀の広宣流布」であるならば、それは、公明党を駆使し宿
願であった国立戒壇の建立を目指したということである。これは戸田氏の「王仏冥合論」の具体
化であり、池田氏の《学会青年部内閣構想》の実現を目指したものと云えよう。したがって、公
明党の『政教分離』における反論は何ら的を射ていないのである。(この稿、了)

119直人:2004/05/11(火) 20:01
 阿部日顕師は未だ教学部長であった昭和47年、『国立戒壇論の誤りについて』と題する著書
を著している。阿部師は『国立戒壇論の誤りについて』において、

  最初に国立戒壇なる語を使用したのは、身延派日蓮宗より出て在家の教団を組織し、明治
  三十五年妙宗式目を論述した立正安国会(後の国柱会)主、田中智学である。
  (『国立戒壇論の誤りについて』P5〜6)

と云い、田中智学居士の「国立戒壇論」について、

  彼の国立戒壇論の要点をあげるならば
  一、大聖人の御一生は国教の奠定にある。
  二、大聖人の本門戒壇は国家中心である。世界の教法統一の根本として国家の道法化を
   目標とすべし。
  三、三大秘法抄の王仏冥合とは法国冥合ということであり、その本門戒壇は、勅命国立の
   戒壇である。

と三点に要約し、

  以上の三点を一言でいうならば、彼の戒壇論は国家中心、国家対象ということに尽きると
  思う。その諤々の議論は、あくまで田中智学個人の見解であり、大聖人の仏法を曲解する
  ところより生じたものである。

と云うのであるが、かかる戒壇思想―特に「一」「三」は大石寺貫首にも見られるのである。
 いま試みに以下にその文を列挙してみる。
 まず、「一」について。堀米日淳師は昭和32年の「新年の辞」において、

  真に国家の現状を憂ふる者は、その根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法による国
  教樹立こそ必要とすべきであります。(淳全P1625)

と云うのである。堀米師にとっての正法とは日蓮正宗をさすのであるから、上記の発言は日蓮
正宗の国教化を意味するものとなろう。
 次に「三」について。堀日亨師は『富士日興上人詳伝』において、

  未来勅建国立戒壇のために (詳伝P277)

  三堂建立は興師の御理想なるも、実現は大国主すなわち大日本皇帝陛下の御命により一
  時に大荘厳を極めた(詳伝P285)

と云い、堀米師は「北尾日大氏に寄す」(昭和9年)において、

  若し戒壇の遺付が一大事と指すならば戒壇建立のことたるや王者の勅宣御教書によるの
  である。それ以前に民衆の力によって建立せよとは仰せられてをらぬ(淳全P1247)

と云うのである。そして、大石寺門流は、

  實に國立戒壇の建立こそは第二祖日興上人にのみ御遺命になつたのだ。そしてその場所
  も富士山と明白に御指示になつている。又、あらゆる正史料から、日蓮正宗のみが大聖人
  の御遺命をうけて富士山に事の戒壇(國立)を建立しようと必死の努力を続けてきたことは
  明白になつた。近頃は田中智学門流でさえも囀つているではないか。
  (『創価学会批判の妄説を破す』P202)

と云い、あたかも大石寺門流こそが「国立戒壇論」の本家本流であるかの如く云い、智学居士
門下を悪罵している。しかるに、国立戒壇論を放棄せざるをえなくなると一転して、

  田中智学の創唱する国立戒壇論の名称(『国立戒壇論の誤りについて』P8)

と云い、《国立戒壇論=田中智学の邪義》という構図を形成するのであるから、厚顔無恥と云う
ほかない。(この稿続く)

120直人:2004/05/12(水) 21:05
>>119の続き

 阿部師は『国立戒壇論の誤りについて』において、

  決して前に挙げた国柱会の思想に同調して使用したというものではない。
  (『国立戒壇論の誤りについて』P8)

と云う。しかしながら、この主張は正しくない。それは堀師・堀米師に智学居士の「国立戒壇論」
と同じ戒壇思想が見られるからである。(>>119
 また、阿部師は『国立戒壇論の誤りについて』において、

  国立戒壇をとなえる者も、幕府とか執権職の存在しない今日において、御教書をそのまま実
  現せよという愚かさはさすがに自覚しているらしく、これを〝国会の議決〟〝内閣の意思〟と
  現代的解釈に転じている。しかし、勅宣については、新憲法にも天皇の国事行為が定められ
  ていることをもって、天皇の詔であるとの解釈になお固執している。しかしながら、いずれも、
  現憲法の解釈について明らかに誤りを犯しており、不可能を実現せよというのに等しい。今日、
  憲法第二十条に定められた政教分離の原則によって、国会も閣議も、「戒壇建立」などという
  宗教的事項を決議する権限を全く有していない。仮に決議したとしても、憲法違反で無効であ
  り、無効な決議は存在しないことと同じである。(『国立戒壇論の誤りについて』P33〜34)

と云い、

  御教書もない。したがって、現在もなお、こうした古い時代の形式に固執し、戒壇の本意を失う
  ことがあるとすれば、それは誤りというべきである。もし、これにあくまで固執するなら当然、憲
  法改定が必要になる。これは、まさに時代逆行であり、また宗門としてこれを主張することは、
  宗教の立場と政治の立場を混同することになる。(『国立戒壇論の誤りについて』P59〜60)

と云う。しかし、阿部師が批判するところの《国立戒壇論・国会の決議・天皇の詔》を主張実践して
きたのが大石寺門流であった(国立戒壇論>>112-113 国会の議決>>112 勅命建立>>119)。そし
て、創価学会が政界に進出したのも国立戒壇を建立するための手段であったはずである。でなけれ
ば、公明党の意義・役割が「化儀の広宣流布」(>>118)となるはずがない。
 結局、『国立戒壇論の誤りについて』は戦後から昭和45年までの20数年間の主張実践を全否定
するものなのである。

121直人:2004/05/16(日) 00:37
>>120の続き

 時系列は前後する。
 池田氏は昭和39年5月3日・第27回本部総会において、

  恩師戸田先生が、大客殿の建立が終わったならば、ひきつづいて、すぐに正本堂を建立
  しなさい。(『会長講演集』11−P170)

と云い、

  正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれがさいごなのであ
  ります。したがって、あとは本門戒壇堂の建立だけを待つばかりになります。
  (『会長講演集』11−P172)

と云うのである。創価学会におけるもっとも早い「国立戒壇論」放棄(名称のみでその本質は
国立>>109)はこれより後のことであった。また、戸田氏は一貫して「国立戒壇論」を貫いてお
り、第27回本部総会における池田発言は、

  イ、宗門によって建立される堂宇は正本堂が最後である。
  ロ、広宣流布の暁には国会の議決によって国立戒壇が建立される。
  ハ、正本堂は本門戒壇(国立戒壇)ではない。

ということである。しかしながら、池田氏は『立正安国論講義』(昭和41年)において、

  正本堂、すなわち事実上の本門事の戒壇が建立されるのである。正本堂建立こそ、日蓮
  大聖人の御遺命たる本門戒壇建立の具体化であり、宗門七百年来待望の壮挙ということ
  ができるのである。(『立正安国論』P658)

  日蓮大聖人御建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手による正本堂建立をもって
  完全に終了するのである。

と云い、正本堂を究極的な戒壇―本門戒壇と位置づけるのである。さらに、昭和42年、細井
師は「新年の辞」において、

  日蓮正宗総本山に、事の本門戒壇堂ともいうべき、正本堂の建立起工式が行なわれる
  (「新年の辞」『大白蓮華』188号[昭和42年1月号]P12)

と云うのである。かくして、正本堂は本門戒壇と意義づけられるのである。けれども、この《正
本堂=本門戒壇》路線がこれ以降定着したかと云えばそうではない。昭和41、2年の時点で
は本門戒壇と意義づけられていた正本堂であるが、昭和47年4月28日に発布された訓諭に
は、

  日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証
  となす。正本堂は、一期弘法付属書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の
  戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。
  (達全2−1−P3)

と云い、「広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき」として、昭和42年の発言よりはやや後退
した感がある。ところで、昭和51年、阿部師が『本門事の戒壇の本義』を著しているが、細井
師は『本門事の戒壇の本義』の緒言において、

  正に正本堂は本門事の戒壇である。
  (『本門事の戒壇の本義』緒言『大日蓮』361号[昭和51年3月号]P23)

と云い、訓諭では「広宣流布の暁」として未来に委ねられていたものが緒言では《正本堂=
本門戒壇》となったのである。

122直人:2004/05/16(日) 00:38
>>121の続き

 こうした正本堂の意義づけに対して真っ向から反発したのが今日における顕正会の前身
である妙信講であった。『日蓮大聖人の仏法』『日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ』によれ
ば、妙信講は「第一次諌暁」「第二次諌暁」「第三次諌暁」(第四次以降は破門後)と称して
細井師・創価学会に対して《正本堂=本門戒壇》とする意義づけを批判し、国立戒壇論を主
張している。こうした経緯を経て、妙信講は昭和49年8月12日、講中解散処分(破門)となる
のである。

  今回、私は所定の手続きを経て本日付をもって妙信講の解散処分を行いました。昭和四
  十五年五月三日、日大講堂において私は大聖人の仏法が日本一国のみにとどまらず、
  全世界の民衆を救済すべき大仏法であるたて前から「今後国立戒壇の名称は一切使用
  しない」旨を公式に言明いたしました。然るに妙信講は、この公式決定に従わず、更に昭
  和四十七年四月二十八日付の正本堂に関する「訓諭」に異議を申立て
  (「元妙信講講員へ」『大日蓮』343号[昭和49年9月号]P12)

 正本堂の意義づけのために著された『国立戒壇論の誤りについて』『本門事の戒壇の本義』
であるが、この二書を以ってしても宗内の戒壇思想の統一を図れなかったようである。

  いまだに妙信講のことについて、妙信講の方が正しいんだなんていうような僧侶があるか
  のようにこの間聞きまして、まことに残念に思っております。
  (昭和51年5月27日・第18回寺族同心会大会 達全2−6−P529)

 それにしても、かくの如く資料を見たとき大石寺門流は本門戒壇論をあまりにも軽々しく論
じているようにさえ感じる。結局、国立戒壇論の放棄は僧俗一致体制の破綻(妙信講破門)、
宗史改竄(国立戒壇論に関する語句改竄>>113-114)しかもたらさなかったのである。そして
その根源は史料批判・先師批判、何より大石寺本来の立義でなかったことに起因していると
云えるのではなかろうか。哀しいかなこれが亜流の宿命なのであろうか。
 なお、正本堂は平成10年、阿部師によって取り壊され、その跡地に奉安堂が建立されたが、
奉安堂の意義は、

  「我々が『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇として奉安堂を建てる」などというようなナン
  センスな、莫迦げたことを今、日蓮正宗においてはけっして考えていないのであります。
  (平成13年1月1日・元旦勤行の砌『御法主日顕上人猊下御言葉集』P19)

というものであって、本門戒壇建立は未来に委ねられているようである。

#変遷が過ぎるので頭が痛い(苦笑)

123直人:2004/05/16(日) 00:46
[加筆訂正]

〔誤〕(>>121)
>日蓮大聖人御建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手による正本堂建立をもって
>完全に終了するのである。

〔正〕
>日蓮大聖人御建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手による正本堂建立をもって
>完全に終了するのである。(『立正安国論講義』P659)

〔誤〕(>>122
その根源は史料批判・先師批判

〔正〕
その根源は史料批判・先師批判をできなかったこと

124直人:2004/05/18(火) 21:24
>>122の続き [結語]

 これまでは史料解説を中心として大石寺門流における本門戒壇思想の史的変遷について
述べてきたけれども、最後に私が思うところの本門戒壇論について述べてみたい。これはあ
くまでも私論であることをご了承下さい。
 宗祖は「三大秘法抄」において次の如くに御教示されている。
  
  戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有
  徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並に御教書を申下して、
  霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つ可きのみ。事の
  戒法と申すは是也。三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈
  等も来下して給うべき戒壇也 (定本P1864〜1865)

 一閻浮提の隅々にまで妙法が広宣流布され、権力者も民衆も妙法を護持してこそ、はじめ
て王仏冥合と云えよう。そうした社会においては本門戒壇はおのずと建立されるであろう。そ
してその本門戒壇とは「三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈
等も来下して給うべき戒壇」であって、日本一国のみの国立戒壇というようなものではなく、敢
えて云うならば「一閻浮提立」「王立」「世界立」といった《国立戒壇の精神を継承した本門戒
壇》となろう。
 決して、

  今、深くこれを思うに、日本国全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に
  純真な、しかも確実な信心をもって本門の題目、南無妙法蓮華経を異口同音に唱えたてま
  つることができたとき、そのときこそ日本国一国は広宣流布したと申し上げるべきであると、
  思うのであります。(達全2−5−P538)

というような偏頗な広宣流布観によって本門戒壇が建立されるのではない。あくまでも妙法が
一閻浮提の隅々にまで流布したとき、一つの広宣流布達成の証として建立されるのである。
 本門戒壇建立は如何に高尚に哲学的に論じたところで成されるものではない。日蓮聖人門
下が真実、「死身弘法」「不自借身命」の精神で一閻浮提広宣流布に邁進してこそはじめて
本門戒壇建立への道が見えてくるのではなかろうか。(「本門寺戒壇のこと」全了)

 上代>>98
 中世>>103-104
 中世・近世>>105
 近代>>109
 戦後>>112-113 >>117-122 〔訂正>>114>>123

125今川元真:2006/05/31(水) 09:55:39
●『本門の三秘密の法』とは、具体的に御書遺文でどこを指すのでしょう。●一閻浮提広宣流布の暁に建てる戒壇堂に造立する彫像とは、漫陀羅に記されている「南無」を冠した名称のものでしょうか。御書遺文に記されているのでしょうか。

126shamon:2006/06/06(火) 23:06:30
三大秘法抄は真蹟であるかどうか疑義があるので、御真蹟である報恩抄から「一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし。此事いまだひろまらず。」

127今川元真:2006/06/07(水) 10:22:03
shamonさん、ありがとうございます。 【本門戒壇】の疑問なのですが、延暦寺に対する戒壇堂の意味でしょうか?漫陀羅の意味でしょうか。シャクソン像+戒壇堂+唱題と考えれば故郷の寺に宛てたものなら合点がいきます。けれど、別の掲示板で「天台では本仏とは言っても本尊とは言わない」と見た事があるのですが、本尊と書いて説明が其の様だと仏像では無くて漫陀羅の様な気がするのですが?如何でしょう。

128shamon:2006/06/10(土) 02:05:10
http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/


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