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哲学・宗教質問箱

594sekko:2012/06/16(土) 01:07:35
ルチアさま
Jeanさまのお答えからルチアさまがミサの「流れと起伏」というのに注目なされたことはよかったです。

ミサの一番大事なところは一つのストーリーが毎回更新されるところで、それで各自がまた大きな流れに入っていけるところだと思います。

唐突ですが、私は最近、風姿花伝のおかげでベルグソンの Elan Vitalがすごくよく理解できました。

お能のテクニックやら型は、マチエールとしての水のようなもので、それは完全に習得しなくてはならないのですが、それを一つの流れとして動かすものは、言葉では表せない、というものです。でも、その流れの中にだけ能の本質があるので、マチエールとしての水がどんなに完璧でも能にはならないのです。

音符と音符の間、楽節と楽節の間に音楽があり、ステップとステップとの間にダンスがあるのと同じです。

ミサの典礼のひとつひとつのパーツはいわばマチエールの部分であって、それをどんなにチェックしたり変えたりしても、一番本質的なのは、そのマチエールを貫いて動かして、どんな流れとするのかということではないでしょうか。

Elan Vital をインスパイアしてもらって、各自の支流に戻ると、マチエールとしての水は、また濁り水になったり蛇行したり堰き止められたり汚染されたり、悪くすると涸れてしまったりするかもしれませんが、そんな時に、また、大きな流れとは何なのか、この流れをスタートさせた最初の息吹きとか何なのかを感じなおさせてくれるのが、各種の典礼とか霊操とか祈りなんだと思います。

私が前に、「ある」ではなく「なる」に向かいたいと言ったのもそういう意味なんです。

「ある」のは、この世のレベルでは私を構成するさまざまなマチエールに過ぎず、それをすり合わせたり統合したりしながら「なる」に向かう流れを大事にしたいということです。

「なる」に向かって人間が自由意思を行使できるかどうか、それが、人間に自由意思を与えた神の賭けなんだとユダヤ教の話で読んで感心しました。聖霊の風と自由意思の風が共振して流れに参入するように招かれているという感じでしょうか。その「神の賭け」に加えて、神が先に私たちを愛したので救い主をおくってくれたというのがキリスト教ですね。

で、「神」は、「ありてある者」「私はあるという者だ」というように、「ある」ものなんですが、もちろんマチエールではなく、無限なわけで、そのような「ある」に「なる」ための流れが創られた、その流れは私たちの中にもある、と思います。

音やステップをただ連ねても音楽やダンスにならないように、人生も、小さな幸不幸や成功や失敗や困難やアクシデントの集積ではなく、それらを運ぶ大きな流れなので、この人生が終わったとしても、その流れは続き、どこに向かうかべきなのかを知っているかどうかで、「なる」ための歩みは変わってくると思います。

http://setukotakeshita.com/

595mimemegene:2012/06/16(土) 14:20:06
竹下様
竹下様

ご返事に,深く感謝しております.

●あまりに嬉しくて,今朝1時間の黙想は,竹下様の書かれた
「私はまさにリジューのテレーズの死後への決意を読んで、死ぬ前に死んだ後にやることをきっちり考えておくのと考えないのでは差が出るなあ、と納得したんです。」をずっと祈りました.

これまで私の今への「神の望み」は沢山祈りました.
それが死んだ後にも続く「望み」であることに,気づきが深まりました.

22日から年の霊操に入るのですが,その準備のために,神様は竹下様を通って,メッセージを伝えていると,感じました.
竹下様に心から感謝します.

●プリユール氏の「死者の書」では,最初に書くべきことが抜けておりました.
全て竹下様のお陰で,心の霧が晴れたので,翻訳等をお尋ねしました.

経緯で申しますと,
私は実母葬儀で,「母が帰天しました.『別れは小さな死』だと感じています」と挨拶しましたら,司式神父が「神の元では,死は小さな別れです」と言い直して下さいました.この神父の言葉に,私も家族親族一同大変癒されました.

この経験を深める本を探してもなく,ようやく竹下様ご著書「ヨーロッパの死者の書」に出会いました.
通読して「死者の書」の著述意図に照らされました.

そして,ご著書には,

-人々は「良き死」のための実用的な智恵の貧困さに愕然とする時がいつか来ることを予感し始めた.そんな時代に,新しい「死者の書」の創造が目指されるとしたら,それはより完全な「生」を知るための模索でなくてはならない.172頁-

-要は,こういうテキストで編まれた「死者の書」が葬礼の書ではなくて「希望の書」となることである.「死者の書」は死者を送る時に読む「生きるガイド」であり,自分が死に直面した時に読む「死ぬガイド」であり,死後に近親者に思いを込めて読みあげてもらう時には「生き続ける」ガイドとならなければならない.174頁-

-死者と残された者とがともに生きた精神の風景の中に,時空を超越するような普遍的なメッセージがきっと隠されている.そんな確信を持って,ジャン・プリユールは「西洋人の死者の書」を著した.173頁-

と書かれています.
「これだ,これなんだ」とその時思いました.

第7章プリユール氏著書解説は沢山の教示がありました.でも,上記3センテンスがとても意味深く,私の求めを言い表して下さっています.
3センテンスがなければ,アウグスチヌスの祈りでのお尋ねで,私の求めは止まっていたと思います.

ご著書発刊の意図に促されて,私は動いていると感じております.
第7章の何処かに「なおこの「死者の書」は来春翻訳出版を予定している」等の予告を探したのは,私だけではないと思います.

●それで,ぜひ原著を手にしたいと願います.何卒よろしくお願い致します.
私はフランス語は初歩レベルです.まずは,在日フランス人や神父他数人で読んでみようと思います.
本当に有難うございます!!

596ルチア:2012/06/16(土) 15:43:11
mimemegene 様
mimemegene様

私の質問に丁寧に答えて下さり、感謝いたします。
mimemegene様が教えて下さった本を全部ネットで見てみました。
ご教示頂いたところをプリントして、これからの勉強の指針にしたいと思います、何冊か既に持っている本もありますが来週本屋さんへ行ってみます。(竹下様の御著書が、どんなに重要かという事も再理解できました)

そうですね、聖書の中で気に入った所をノートに書き写せば良いのですね。お祈りのカードはノートに挟んで折々に見るのですが、思いが及びませんでした。いつも神父様が「皆さん、私の話を聞きに来てくれるのも良いのですが、一日5分聖書を読んでくださいね」と仰っていることが、形を持って感じ取れてきました。
こうして、自分の勉強の仕方を見つけて行くのですね。お力添え有難うございます。

「祈り」難しいです…。これも個人的には大難問の一つです。理由は簡単で私が現実的すぎて、忙しい人間だからだと思っています。でも、聖堂の中に入ると心が落ち着きますので努力してみます。

ご親切、心より御礼申し上げます。

597ルチア:2012/06/16(土) 16:23:08
竹下
竹下様

伝えて下さった事、有難うございます。

「風姿花伝」も「ベルグソンの Elan Vital」も、ネットで調べてみました。(分かったふりをするのは良くありませんから、すみません「お能」とか古典の素養がないのです)私に理解できたのは「とても難しそう」という事と、神父様が恩師と仰っている「ガブリエル・マルセル」はベルグソンのお弟子さんという事だけです。そして、竹下様の「音楽」「ダンス(身体表現)」と、カソリックがやっと繋がって理解できました。

ミサの与り方の姿勢というものを教えて頂いた気がしております。そして、個人が孤立した点として存在しているのではないという事も。

竹下様は「私の書いた本を、しっかり読んでください」と仰らずに、初歩的な質問に答えて下さり、何とも御礼の言いようがありません。
有難うございました。

598jean:2012/06/16(土) 18:19:45
sekkoさま
>末っ子の役割の問題、これは面白いテーマで、いつかじっくり書いてみたいと思っています。

楽しみにしています。本が出たら、買います。

竹下さんの周りには各社の編集者がいて、原稿の相談に乗ってくれるでしょうが、私も2年ほど前まで某出版社(ビジネス・理工系)にいたので(編集です)、もし出版先とは関係のない編集者に頼んでみたい何かがあれば、協力しますよ。いまは早期定年退職し、時間はありますから。

599jean:2012/06/16(土) 23:16:50
ルチアさま
>今私が勉強をするならどのような本をお勧めに

勉強もいいですけど、時間があるなら聖堂に座っているのはもっといいかもしれません。

でも、それだけでは突き放したような冷たい言い方なので、一冊挙げておきます。人それぞれに好みや感性の違いがあるから、ルチアさんに向くかどうか分かりませんが、私はこの本、好きです。『カルメル会の会則とその精神』。ドン・ボスコから出ています。文庫本サイズの、青色の表紙の割と薄い本です。700円ぐらい。執筆者はフランス人の神父さんです。本文は取っ付きにくいかもしれません。序文が4、5ページあって、これは日本在住の神父さん(多分イタリア人)が書いています。この序文が良く出来ています。熟読玩味されたらいかがでしょう。四谷のサンパウロでも棚に置いてあります。入って右の奥、カルメル会の著作がある棚です。

600sekko:2012/06/17(日) 01:55:53
みなさまへ
ここでのやり取りはとても勉強になりました。

何が求められているのか、わかったような気がします。

書きたいことがたくさん出てきました。

元気で長生きしなくっちゃ。

(で、死んじゃったとしても、その時はまた別の形で同じ路線で行こうとは、まさにテレーズや多くの聖人や、それから先だった多くの方に教えていただいたんです。キリスト教とは限りません。死後、あえなくブラックアウトってことも当然考えられますが、どういう場合にどういうことができるのかって、ずっと考えてきたんです。それが、『自由人イエス』の解説で書いた「自由他在」なのです。「他在」の流れにいる限り、自分が死んでもあんまり関係ないんですよ。私の年代の日本人は戦争も飢饉もない国に生まれて60年も生きてきたという多分人類史で初めての幸運な世代に属していると思うんで、これをみんなで還元していかないとだめだなあと思います。)

http://setukotakeshita.com/

601mimemegene:2012/06/17(日) 13:03:31
ルチア様
祈りのこと

「ヨーロッパの死者の書」194頁に,
「子供を対象にした公教要理のクラスでも,自分の言葉で祈りの文句を作文させる.神は初めから『対話する相手』として教えられているのだ」とあります.

日本でよくある,もらうばかりの勉強よりも,このほうがステキですね.
私も祈りの作文をしてみました.良かった!
ルチア様も作文してみませんか?

さて,私の例ですみませんが,祈りが「生活そのもの」で,「難しいのは祈りではない」ことを分かち合います.

このサイトは竹下様の意図を大切にする場所なので,
個人的なほんとに一例に過ぎず,私的な濃いめなあり方だけなので,全て無視して下さっても,結構です.
「大問題で難しい」とおっしゃるので,そのお気持ちを受け留め,一度だけでも,分かち合えればと願いました.


●「霊操」114番
「観想における人物を見ること。すなわち、聖母マリア、ヨセフ、はしため、また、誕生直後のみどりごイエスを見る。さながらそこにいるかのように、出来る限りの畏敬と敬意を尽くし、自分を貧しき者、とるに足りぬ小さき下僕とみなし、この方々を見、観想し、入用な物の世話をする。」

と,とても堅苦しく,?な,表記です.(大問題で難しいかも)

でも,この最後にある「入用な物の世話をする」を,私は今でも実際にします.霊操の時も,日常でも.

どのようにするかというと,イメージします.(驚かないでください)

祈りの中で,イエス様のオシメを取り替えたり,抱っこして散歩に行ったり.
「イエス様,少しお爪が伸びましたね.」「イエス様,お体を拭きますよ.梅雨時だから,汗をよく拭きましょうね」.と声をかけ,奉仕します.

私の気づきで言うと,
ルチア様の目の前に,みどりごのイエス様がいらっしゃる.
イエス様は,ルチア様に,全てをゆだねて,保護と養育を求めていらっしゃいます.
ルチア様はそれに応えて,イエス様を抱き,奉仕します.

この幸せを一生涯味わって生きている人達も沢山います.

家事で言うと,マリア様,ヨゼフ様に仕えます.
ベッドメークをしたり,シーツを綺麗にして,洗濯をします.お部屋の掃除をします.
「マリア様,ヨゼフ様に言われて,ヨゼフ様のベッドよりも,藁を多く入れました」・・・
朝食時,パンにバターをぬる時「ヨセフ様,バターはこのくらいですね」
「マリア様,今日はお好きないちごジャムですよ」と言って,自分のパンをぬります.
「卵は上手く半熟にできて,嬉しいです.ヨセフ様,どうぞ召し上がって下さい」・・・

ポイントは,イエス様,マリア様,ヨセフ様,とお名前を呼んで,入用な物の世話をすることです.
普段している家事が,そのまま聖家族への奉仕になります.聖家族も,生活し,暮らしをしました.

ままごとのようですが,聖イグナチオ・デ・ロヨラは,大切な祈りとして,この「お世話」を取り上げています.

祈りの時間をとって,お世話をイメージしても良いですし,単に家事をしながらやってもいいんです.

福音書を読むときも,このような感じを思い起こすと,リアルに体感できて,うまくいくことが多いです.
これは私の傾きです.

●祈りの時間を取れないなら,無理をすると,誰でも疲れるだけで,心から捧げられなくなってしまいます.

では,どうするかというと,日常生活で,食事の時,お風呂や,トイレや,家事や,通勤他で祈ります.
私の場合,青信号で歩き出す時,「さあ,イエス様,一緒に渡りましょう」・・・
というように,動作をイエス様と一緒にします.主語をイエス様にして.それだけでも私には祈りです.

●ルチア様が聖堂の中で心の落ち着きを「感じ」るのは,とても素晴らしいです.

ですので,その落ち着きの「感じ」を,普段の忙しさの最中に,思い起こして,味わうのは,どうでしょうか.
できれば,五感夫々を感じながら.
私なら,これは神様を感じること=祈り になります.

●大問題で難しいと思っているものは何でも,大問題になります.

小さく,具体的な行いや動作でも,祈りです.
例えば,今,心臓のあたりに手をあててみてください.何かが変わりますか?
聖堂の中での心の落ち着きの「感じ」を心に感じてみませんか?

胸:
最後の晩餐で主イエスの胸に顔をうずめていた,羨ましいヨハネ.
死後に槍でつかれた胸.
百人隊長が拳で叩いた胸
放蕩息子が父親と重ね合った胸
どんな感じがしますか?
そのうち,その部位が,イエス様の部位と重なって感じられるようになってきます.

●祈った後,振り返った時にも分かります

「〜だと思った」と書いている時は,祈ったのではなく,考えていた.
「温かくなった」「嬉しかった」等と心の言葉がでてきた時は,祈っていた.
「何の理由もなく,幸せを感じた」時は,祈っていた.
「悲しくなった」ら,祈りが失敗しただけ.やり直す.

●御言葉を書き写す時に,イエス様を思い出して書く祈り.

書き写す時が祈りの時だと思えれば,それも祈りです.
祈り味わいながら,書いている自分を,どう感じますか?
私なら,「私って,なんて幸せなんだろ〜」と言います.

●私の変化 例

勉強しているという思い込みが弱点になるので捨てた
教えてもらって,その場で心が温かく豊かになったら,それは勉強ではなく,恵み.(このサイトのように)
恵みと知識,どちらを求めているかがわかってきた.
互いの,本当の気持を,イエスと語り合う
「どうしたら良いか示してほしい」と,神に強く言い続ける
「直観」だけが頼り
祈って,心が温かくならなかったら,祈りを失敗しているから,やり直せばよい.
祈りは対話
傾聴だけだと,イエス様は物足りないとお感じになるかも.イエスの聖心で,私はそう感じます.

●人さまざまで・・・

十字架の根本にひざまずき,死んでいくイエスを見上げ続け,歓びに溢れて,語り合い続ける.
この祈りだけを,毎日ずっとしている人がいます.
ルチア様も色々な祈り方をお聞きだと思います.

●「できない」と思うのは・・・

仕事でも,何でも,「無理だ,できない」と思う時,それは神様の働きかけではないようです.
その思い全部を,イエス様に丸投げしたら,受け取ってくれます.
私も知人から教えてもらって,スッキリしました.
いやな気持ちを数分味わって,楽になるまで,その気持を何度も手放してみて,渡してみて,綺麗サッパリ,なかったコトに.

先々の事で心配するくらいなら,それを全て渡してしまって,
今(過去でも未来でもなく)を幸せだと感じます.
私には大事な祈りです.

●知らなくて,恥ずかしくて,自己卑下してしまうとき・・・

未来の心配や問題を思い起こさせるのは,悪い手口からの影響です.
自己卑下や無関心は,愛の反対だから,
イエスを愛する心を消し去ろうとする策略です.
神様は,誰かとルチア様を比較して,どちらが良い等は,なさらないです.

●自分もゆるせない・・・
沢山の祈り方があります...

●私は,迷ったら,神が喜ぶ方を選び,選んでもできなかったら,できるようにと願います.

神が喜ぶ方の選び方は,恵みと暖かさを感じる2択を並べて,味わって,神様の望みはこちらでしょうか?と尋ねてみたとき,しっくり来る方です.

---

それで,ルチア様のご返事に感謝しています.
また私は,勉強の仕方を教える意図等なく,私の経験を分かち合っているだけなんです.
このサイトは竹下様の意図を大切にする場所なので,
私も,上記のように,「不器用だから,こんな事までしてるのか〜」という事も分かち合っています.

神様はルチア様を愛し,ルチア様用のプロセスを計画されています.
ルチア様が好まれる事だけ,なさって下さい.

ご紹介した本は,デーケン神父がイエズス会士なので,その傾向にしました.
カトリックの多様な宝石は,竹下様の著書から掘り出してください.ザクザクと.
全冊目の前に並べたら,「少しだけでもわかれば,そこから始めよう!」と謙虚に思う程の量ですね.

まず優しい1冊を複数回通読して,気に入った箇所を味わうようになさってみてはいかがでしょうか.
ルチア様の「心の中にある聖書」と比べてみると,楽しいです.

竹下様の3冊も,冒頭で書いたように,味わい深いですね!
「二人の自分」や「祈りを深めるために」だけでも,数ヶ月かかります.
楽しいから読みたいという気持ちの時に読めたら,もっと幸せですね.

福音書も,腑に落ちたり,気に入ったり,気づきがあったりしたところを深めると,それが心の扉になっていきます.

神様は無理強いをしませんから,締め切りもありません.
浅く広い知識よりも,神様とルチア様との対話で培われてきたお智恵を大事になさって下さい.

これまでの素敵な人生経験は全て神の御計画だと思います.

スペシャルプログラムをルチア様のために神は用意されています!

以上

602ルチア:2012/06/17(日) 16:41:22
jean 様
伝えて頂いたこと、有難うございます。

助言して下さった事を大事にしていきたいと思っています。『カルメル会の会則とその精神』、読んでみます。jean様の紹介文を読んだだけでも、魅力的な御本である事がわかりますので。

見知らぬ人間に親切にしてくださり、御礼申し上げます。

603ルチア:2012/06/17(日) 17:08:10
mimemegene 様・竹下様
mimemegene様

「無視」など、とんでもありません。何回も読んでしまいました。
有難うございます、こんなに丁寧な文で伝えて頂き、お時間も頂戴してしまったでしょうに、何と御礼を伝えたら良いのでしょうか…。

竹下様

「竹下様のサイト」で勝手にやりとりして申し訳ありませんでした。こんなに素晴らしい真心をお持ちの方が集うのは、運営なさる方の心の大きさかと考えます。竹下様、有難うございました。

前回の主日に「驚いて」から、また次の主日を迎えました。一週間前には予想もしなかった思いで、今日を過ごしております。

皆さん、お世話になりました。ご厚意、この先も忘れられないと思います。
有難うございました。

604sekko:2012/06/20(水) 19:56:49
mimemegene さま
ヨーロッパの死者の書、古い版ですが、注文したらもう着きました。古本ですが十分読めます。すぐ必要でなければ10月末に日本に行く時に持っていきます。10月最後の日曜のイグナチオなどはいかがですか。この下にあるサイトのアドレスをクリックして、その中のerrataという場所にあるアドレスに連絡ください。すぐ必要でなければ10月末に日本に行く時に持っていきます。10月最後の日曜のイグナチオなどはいかがですか。ルチアさまもよろしければどうぞ。

http://setukotakeshita.com/

605迷える大羊:2012/06/22(金) 00:26:11
家族の宗教
 広くいろいろな方のご意見、体験談がいただければ・・と思う話なのですが、夫婦、あるいは身内との間で信仰が違う、という方はいらっしゃいますか?信仰が違う、といっても無宗教とクリスチャン、あるいはその他というのではなく、例えば、カトリックとプロテスタント、など所属宗派、教会が異なる場合。あるいはキリスト教と仏教系新興宗教といった塩梅の実際に信仰を持つ者同士の「違い」です。

 具体的には・・・。
 ・信仰の違いによって、夫婦、または身内の仲に問題が生じた、といったことはないの  か?

 ・子供がいる場合、どちらの教会に連れて行く、などでもめたことはないのか?どう解決  しているのか?

 ・これが特に聞きたいことのですが、プロテスタント(あるいはプロテスタント同士でも 宗派が異なる場合)とカトリックは同じキリスト教ですが、変に「同じ」だけに、かえ って細かいメンタリティの違いがハナについて・・なんてことはないのか?

 いろいろワケあってキリスト教に関わることになり6年以上、本もいろいろ読み、こちらのサイトでしつこいくらいにいろいろ聞いて(先生には迷惑だったかな、失礼だったかなと思いつつ)、キリスト教世界の幅広さにいろいろと驚きました。特にカトリックに関してはステレオタイプなヴァチカン発の情報では知ることができない面がいろいろと。
 自分でいうのも何ですが、カトリックからプロテスタント福音派まで大抵の教会に足を踏み入れましたし、もしかすると、その辺のクリスチャンより教会によく行ってるかも・・な生活です。
 身内はムリは言わないけど、できればクリスチャンになってくれないかなぁ的な願いは今でも、端々に感じられます。

 別に無神論者ではありませんし、イエスも好きです。でも、実際のクリスチャンの人の信仰心をみると「そこまでは・・・」と思ってしまうし、教会で讃美歌を歌うことは何年経っても恥ずかしくてたまらない。悩みや困難にぶち当たると神様についていろいろ考えますが、そうでない時は神様のことなんざ全く考えてません。品行方正でもなく、慈愛に溢れているわけでもない、イエスの精神とは程遠い全くの俗人です。

 あと、いろいろ教会を巡ったり、講習なども受けた結果、正直いうと、カトリックの方が好きというか、合うような気も。これまで、ある意味失礼だったり、しつこいと思えるような質問をぶつけられた先生からすると「ほんとかよ?」と思われそうですが・・。
 いえ、別にカトリックにすごーくいい人がいたというわけではなく、また、プロテスタントにすごくイヤな人がいた、というわけではありません。教義的に納得した、ってわけでもありません。

 変なところに感心するなよ、あるいはそれは違うよと言われそうですが、いいなぁと思ったのはその「淡泊さ」でして。なんていうか、「キリスト教ですか?」「ええ、そうですよ、それが何か?」くらいのさりげない信仰ぶりが好ましい感じがして。
 「私はクリスチャン、クリスチャンたる者・・」みたいな力みがない、といいましょうか。あと、日本の神社仏閣、関連する行事に妙な壁を作る人も少ない、聖書を過剰に崇めすぎない、教会べったりでもない、というあたり。

 あと、現実的な問題として、教会によって、牧師によって、たとえ同じ教団であってもカラーやムード、教えすらガラッと変わってしまうプロテスタントに比べると、カトリックの場合、教会によってあまりにもいろいろ変わってしまう(少なくともプロテスタントほどには)なんてことがなく「安心」という点もありますね。実際、プロテスタントの身内は引っ越しの後、現在の教会に落ち着くまでに、周辺の教会をいろいろ彷徨いましたし。
 あとは文化的な重厚さ、歴史の厚さはなんだかんだいっても魅力的です。

 まあ、これまでいろいろ述べた通り、キリスト教とか教会自体にまだまだ疑問がありますし、知識は増えたものの、信仰心というやつにもまだわかったようなわからないような、ですし、クリスチャンになるとすれば・・という「仮定」の話ですが。

 ただ、仮に「その日」、つまり、クリスチャンになろう、という日がきた場合、プロテスタントの身内に向かって「いや、実は俺、カトリックの方がいいかなぁ〜と」なんて言ったらどんな反応があるんだろ?やはり、やめといた方がいいかな、面倒が多そうだし、といろいろ考えたもので、スレを立てさせていただいた次第です。
 

606安井 彰:2012/06/22(金) 23:40:03
アウグスティヌス
竹下さま、

ちくま新書版「キリスト教の真実」を楽しく読み始めさせていただいています。
ところが校正ミスでしょうか、85ページの教皇グレゴリウス1世によりイングランドに派遣されたベネディクト会士アウグスティヌスの生年−没年がアウレリウス・アウグスティヌスのものになっています。4世紀と6世紀の違いもあるし、アフリカとイングランドの違いもあるし、ちくまにクレームもんではないでしょうか?
akirayasui@kxe.biglobe.ne.jp

607sekko:2012/06/23(土) 00:22:51
訂正
ご連絡ありがとうございます。

p.85のアウグスティヌスについては、すぐに指摘してくれた人がいたのですが、重版には間に合わず、今度出る3刷りから訂正してもらいました。カンタベリーのアウグスティヌスと呼ばれるこの人は、生年が不詳で、没年はグレゴリウス一世と同じ604年です。文脈からどの時代の人か分かるので私は原稿に入れなかったのでチェックもしていませんでした。大きな誤解はないと思いますが申しわけありません。

後3刷りで訂正したのは、

1)p.83の7行目 「フン族」を削ること。
2)p.108の2行名 「東ローマ帝国」→「神聖ローマ帝国」
3)p.181の5行目 「神聖ローマ帝国」→「西ローマ帝国」

2)と3)は単純ミスですが、世界史を勉強している人などには迷惑だったと思います。

1)は、フン族ではなく七世紀には何度もアウストラシアによって破壊され、八世紀にはサラセン人に焼かれています。ここで関係ある修道院は二つあって、焼かれた年ももちろん分かりますが、このあたりは、もともと細かいことを書きこんでも煩雑になるばかりなのでたたみかけて書いたものなので、新版では

ブルゴーニュの修道院も何度も破壊され、

とだけしてもらいました。

丁寧に読んでくださる読者の方々に感謝します。

サイトのerrataのコーナーにもそのうちに載せてもらいます。

まだ他に単純ミスの間違いがあるかもしれません。お気づきの方はご一報ください。

http://setukotakeshita.com/

608KIMI:2012/06/23(土) 20:54:21
家族の宗教について
夫の家族が「・・バの証人」でした。私は幼児洗礼のカトリックで結婚はカトリック教会です。夫の両親も来てくれました。夫の兄も成人してから無宗教のようですが、夫は子供の時から神を信じていたので神なしではやっていけないそうです。夫の両親は今も信仰活動を続けているようですが、そのことは話題に出ません。昔は大反対で大騒ぎしていたのにあれはいったい何だったのだろうと思います。夫はまだカトリックの洗礼を受けていませんが、子供は洗礼を受けさせました。私の両親からは反対されたことはないです。両親はふたりともカトリックです。参考になるかどうか分かりませんが。

609迷える大羊:2012/06/26(火) 22:59:21
レスありがとうございます
>KIMIさん

 レスありがとうございます。お礼、遅れてすみません。そうですか、ご主人が「あの」教団で、ご自身のご家族はカトリック、と。私なんぞ比べものにならないくらい、いろいろ、おありになるんでしょうね。ただ、ご主人自身は信徒をやめてはいないものの、例の教団に対しての帰属心は、今現在さほどないのでしょう?

 聞いた話では、例の教団で一家で信者の場合、離脱したり、「信仰」を捨てようとすると家族と絶縁状態になる、と聞きますが、最近は違うんですかね? まあ、あの教団といえども人により様々ってことなのでしょうか?いずれにしても、家族の宗教とか信仰に関する問題に関しては「正解」がない・・んでしょうね。

 余談ですが、私のキリスト教とのファーストコンタクトは「・・バの証人」でした。高校時代の友人がそうでした。話も結構聞きました。人は神が自らに似せて作り給うたもの、進化論など邪悪などなど。ただ、知識はないにしても、子供心にどこかロジックが独善的で変だ・・と思ったのと、自宅に二人組で勧誘に現れるようになったため、心苦しいながらも縁切り・・となりましたが、その友人とは。
 その後、双方のご家族がうまくいきますように、お祈りいたします。

610迷える大羊:2012/07/11(水) 02:10:15
カトリック国と自殺
 今週(2012年7月4日号)のニュースウィーク誌日本版の「欧州に蔓延する自殺という疫病(EUROPE'S WHITE WIDOOWS)」(バービー・ラッツァ・ナドー記者)について(ウェブ版なし、紙媒体のみ)。

 簡単にいえば、財政危機、信用危機に端を発する不景気・失業、緊縮財政で追い詰められ、特に状況のひどいイタリア・スペイン、ギリシャなどで、中小企業主(家族や従業員を養えなくなったことを苦にして)や若者(スペインの25歳以下の失業率はなんと50%超)の自殺が著しく増えている・・という記事です。

 記事によればイタリアでは財政再建の為、徴税を厳しくする方向に動いていて、「エク・イタリア」なる徴税専門の公社ができ、その取り立てが例えば、経営難の中小企業の経営者などにとっては厳しいものらしくて。原題のEUROPE'S White WIDOWSというのはイタリアで自殺者の未亡人たちが人生への「降伏」の意を込めて白旗を振ってデモ行進したことからくる題だそうです。

 で、この記事を読んで痛ましさもさることながら、疑問に思ったのはイタリアにしても、スペインにしてもカトリック国で、特にイタリアでは実際の信仰の程度はともかく、名義上は9割方がカトリックなわけですよね?
 もちろん、皆が皆、教会に毎週通い、常に神様のことを考え・・ってわけではないでしょうし、昔みたいに、自殺者は葬儀しない、村八分、なんてことはないにしても、自殺というのはやはり、タブーなのではないのか?
 信仰心とか宗教が自殺への抑止力になってないの?との疑問がわきました。現代の現実のカトリック国の自殺への感覚は、非カトリック国と大して変わらなくなっているのでしょうか?

 まあ、カトリック国であるはずのフランスの離婚率はきわめて高いし、やはり、公式には避妊ダメ、であるはずのカトリック国のイタリアの出生率は世界最低レベルであることを考えると、自殺について同じことがあっても不思議ではありませんが・・。

611sekko:2012/07/02(月) 07:37:10
迷える大羊さま
この件について、あまり答えになりませんが、書きたいことがあったので、ブログの方にアップしておきました。ごらんください。

http://spinou.exblog.jp/18174878/

http://setukotakeshita.com/

612迷える大羊:2012/07/02(月) 11:44:54
なるほど
 ブログ拝見いたしました。良く言えば「寛容」、悪く言えば「適当」なカトリックの世界で、かつて、どうして自殺が殺人犯以上の厳しい扱いを受けていたのか?かねてから不思議だったんですが、その感覚、考え方がよくわかりました。

 キリスト教、少なくともカトリックの世界では神の救いを信じられなくなる、絶望すること、拒否することが何よりも罪、という考えなんですね。

 あと、私が今回のニュースウィーク誌の記事に興味を持ったのは、痛ましさもあるけれど、自殺もそうですが、他にもカトリック国とかラテン系へのステレオタイプが覆されるような話がいろいろ出てくるから、なんですよね。

 まず、カトリック系、ラテン系っていうと、借金や徴税なんて、少々汚い、ずるい手を使ってでも免れて、それこそ、今日本で問題となっている生活保護の不正受給なんかもやって、考えられるあの手この手を使って、経済危機などなんのそので、たくましく強かに生きていく・・というステレオタイプがあったのですが、そういうことができない人間だって大勢いる、という、考えてみれば当たり前の事実が改めてわかったってこと。

 あと、男は働いてナンボ、妻子を養ってナンボ、という昔ながらの価値観の男性がこれまた、大勢いたこと。ステレオタイプでいえば、こういう状況になれば、ヒモになってでも、とにかく頼れるものは何にでも頼って、プライドなど捨ててたくましく生きていく・・って思ったのですが、これまた、そういうことができない不器用な「男らしい」男性が大勢いること。
 記事中の徴税公社エクイタリアの前で焼身自殺した男性も、結局、自殺するまでに、経営難とか税金とか借金とかについて、奥さんには全然話をしてなかったみたいで・・。個人的には、さっさと話してしまえばいいのに・・、そっちの方が結局のところ誠実だし、楽なのにとも思いましたが、プライドというか、自分の不甲斐なさとか情けなさが先にたってそれができなかったみたいで・・・。

 詳細は実際の記事をご覧いただくとして、結局、国や宗教に関係なく、こういう経済苦、借金、徴税苦っていうのは真面目というか不器用で正直な人間ほど、まともに苦しんでしまうっていうのが、なんだかなぁ、と思わされます。

 問題の徴税公社エクイタリアの職員にしても、やはり精神的にストレスの多いイヤな仕事で顧問弁護士が辞めたようですね、記事によれば。そりゃそうだろうな、と思いましたけれども。


 

613jean:2012/07/02(月) 23:53:05
自殺が駄目なのはユダが自殺したから?
竹下さんがブログで書いておられたように、自殺は告解できない唯一の罪、自殺したら敗者復活のチャンスがないというのは、その通りですが、それは後付けの理由という感じがしなくもありません。その前に、普通の人々に自殺はよくないと思わせる何かがあったのではないでしょうか。あの裏切り者のユダは自殺した、自殺するとユダのようになる、それは嫌だ、という思いがベースにあったのでは? 何の根拠もない勝手な想像でしかありませんが。

614Takata Yoshitomi :2012/07/07(土) 12:27:33
「自由人イエス」を読みました。
先日「自由人イエス もう一つのキリスト論」をamazonで購入し、数日かけて一応読了しました。スクルス司祭の「すすめのことば」の通り、訳者の竹下さんに感謝します。私が高校時代に福音書を読んだ第一印象は、ここに本当に自由な人がいるということでした。この本はただ一度通読して終わるべきではなく、生活しながら、読み続けるべき著作だと思います。私はフランスの神父、学者としてGerard Bessiere, Joseph Moingt,Timothy Radcliffeといった人の著作を眼にしてその学殖と誠実なキリストへの信仰に尊敬を持っています。最近では訳書の出たミシエル・アンリの「キリストの言葉」を原書と照合しながら少しずつ読んでいます。信仰のキリストと歴史の中のナザレの人イエス、それを繋ぐ十字架と復活という出来事をなんとか理解したいという気持ちです。これからも優れた著作の紹介と現代日本への提言を期待します。

http://ytakata.apionet.or.jp

615sekko:2012/07/07(土) 20:31:01
まだ迷える大羊さんへ
あ、ラテン系のステレオタイプって、私の感覚では、そしてたとえば普通のフランス人の感覚では「マッチョ」ですよー。

女性の権利を早くから認めて、男女平等共稼ぎ社会が出現した北欧系プロテスタント国とちがって、南欧系カトリック国って、男は外で稼いで、彼ら同士でつるんで、そのマッチョさを男兄弟間の絆の強さで担保するって感じの…まさにちょっとマフィア的な強がりの感じです。

ラテンの母さんは、家の中では絶大な力を持ってたくましそうですが、社会の中での「稼ぎ手」としての認知は低いような。

だから、家族を養えなくなった男のつらさっていうのは自己否定につながるくらい厳しいものもあるのではと想像します。少し前までの日本もそんな感じだったんじゃないでしょうか…

http://setukotakeshita.com/

616sekko:2012/07/07(土) 20:45:26
Jeanさま
私はむしろ、たとえイエスを裏切った後でも、赦しを信じてすがりさえすれば救ってもらえたはずのユダが、絶望して自殺したという話を伝えてきたことの方が後付けの感じがします。

イエスはユダの足もしっかり洗って、聖餐でも他の弟子と差別せず、復活の時にもユダはまだいたという説もあるほどです。そもそも、ほとんどの弟子がみな保身に汲々として四散していた十字架刑の後で、死刑の判決を聞いてすぐに後悔して自殺したなどというユダの消息に気をとめている余裕などだれにもなかったはずですから、ユダの自殺の話こそ、「勧善懲悪」的な教育的配慮で付け加えられたような…

もっとも、「裏切り者」と「自殺者」を結びつけるユダのエピソードが、その後のキリスト教世界に影響を与えたのは確かで、私は今そこのところを掘り下げる『ユダ論』を書き下ろしているところなので、またごらんください。

http://setukotakeshita.com/

617sekko:2012/07/07(土) 21:22:54
Takata Yoshitomi さま
『自由人イエス もう一つのキリスト論』を読んでいただいてありがとうございました。この本はほんとうにすごいですね。

偶像崇拝にとらわれている犠牲者は人間ばかりでなく神も同じことで、そこから自分を解放してしこうとする人は、同時に、神もいっしょに解放して連れて逃げなくてはいけない、という感じがしますね。

自分だけ自由になろうとしても、結局、偶像崇拝のシステムを維持している連中と同じく、エゴイズムの足枷に再びとらわれてしまいます。

ほんとうの自由というものがどれだけ、エゴイズムや時間や空間などを超えるものかということが分かりますね。

フランスで、偶像崇拝を否定するあまり無神論という新しい檻の中で発言する知識人たちに比べて、「それでもカトリック教会に残る」という自由な選択をした思想者たちの書くものには、いつも新鮮な解放感を味わわせてもらえます。

http://setukotakeshita.com/

618迷える大羊:2012/07/18(水) 22:24:29
クリスチャンと葬儀
 こちらに出入りするようにになって以来、何度となく繰り返している話で申し訳ないんですが・・。
 日本の一般的な仏式の葬儀の風習、とくに焼香については、人にもよりますが、日本のカトリック教徒は概ねこだわらず、普通に行う人がほとんど。プロテスタントでもリベラルというか、あまり保守的でないところは普通に行いますが、保守的な教会(非常にぶっちゃけて、なおかつはっきりいってしまうと、「新改訳」聖書を使用する教会)ですと「本当に信仰心があれば自然とそんなことはできなくなります」とか「(焼香しないのは)クリスチャンの証です」みたいなことを言われます。

 で、ご質問ですが、カトリック国、キリスト教国の一角であるフランスのカトリック教徒(なんちゃってカトリック信徒は除いて)はどうなのでしょう?
 つまり、例えば、キリスト教式以外の葬儀に参加する際、「これは異教崇拝だからできません」みたいなこだわりがあったり、日本の神社で「おみくじ」は占いであり、神の御計画を覗き見る不届千万な行為ってことで絶対やらない・・みたいな人が多いんでしょうか?
 それとも、日本の大多数のカトリック教徒同様、こだわらない人がほとんど?

 なぜ、この話を今頃また遡上にあげたか?というと、個人的に最近、また葬儀というものに関わり合いになりそうな状況だからですが・・。

619sekko:2012/07/19(木) 05:28:38
いろいろ大変ですね。
フランスでは、一般的なカトリック信者、なんちゃって信者も含めて(もちろん少数の教条主義的な人はどこにでもいるでしょうが)、つくづく思うんですが、たいていは意識していないと思いますが、もちろん他宗教一般に寛容で、でも、その本音は、前にブログでも書いたんですが、要するに、

「自分ちの伝統宗教だけが宗教だと思っていて、世界の他宗教は宗教じゃなく《文化》だと思っている」

ような気がします。もちろん、自分ちでいろんな原理主義的主張をするイスラムとか、歴史的罪悪感を持たざるを得ないユダヤ教とかについては、同じ「アブラハムの宗教」として葛藤だの警戒だの偏見だのがそれなりにありますが、それ以外の地域の多神教だの仏教だのは「エキゾティックな異文化」程度の認識です。

仏教が無神論で哲学で生き方マニュアルだという見方は根強いですし、仏教、ヒンズー教、神道など、ギリシャ・ローマ神話と同じくらい歴史的、文学的、民族学的、審美的な扱いだし、ヨーロッパに直接の影響関係がない分もっと単純に憧れたり反対にスル―したりするので、セレモニーに参加する機会があるとしても、「信仰の踏み絵」にならず「興味深い異文化体験」か、もしくは「他文化リスペクト原則」の体験という認識だと思います。

いろいろなセレモニーというのは、時代や環境とともに変化してきたもので、セレモニーが人のためにあるので人がセレモニーのためにあるわけではありませんし。

私なんか、母の一周忌のお経をお墓の前で浄土真宗(実家の宗旨)のお坊さんにあげてもらいましたが、その時参加したのはカトリックのシスターたちも含めて全員カトリックだったので、それでもいいですか、と聞くと、お坊さんから「私が行っても、よろしいんですか・・・」と言われてしまいました。でも、浄土真宗では亡くなれば南無阿弥陀仏で即成仏で極楽浄土にいるわけなので、お経も回向のためというより出席者が故人をしのぶためだとも言われたので、どちらもノープロブレムでした。「何教でも何宗でも宗教者が故人のために祈ってくれるのはありがたいことだ」というのは、伝統のメジャー宗教にいる人にはよくある感覚だとも思います。

故人の宗旨をリスペクトして、遺族感情もリスペクトして、自分の立場が周りにとって挑発的なものにならないように控えめにしている、というのが葬儀に臨んでの「普通の大人」のスタンスだという気がします。

http://setukotakeshita.com/

620迷える大羊:2012/07/22(日) 19:10:35
教会通い
 いつも、恐れ入ります。ところで、クリスチャン、キリスト教信者の教会通いについて、ですが・・。
 キリスト教徒にとって礼拝やミサは安らぎと大切なコミュニケーションの場であることは理解しているつもりですし、通常の週末に毎週通うのは、別に何らあれこれいうべきことでもないのは当然です。

 しかし、年に何回もない旅行やらお出かけやらの際にも、また、年に何回、どころか十何年に一回の葬儀だとか、親類の集まりの際にまで「教会があるから、早く帰る・・」みたいなのは一体どうなのか?と・・。イエス様って年に何回単位の行事の際すらも、ミサとか礼拝に参加しないと、忠義を認めない、救いを与えてくれない神(であり人間)であるお方なんですかねぇ?という疑問が・・。

 それ信心深いっていうより、「イエス依存症」だろ?って思うんですが、このような人に対してはどのように接したらいいんでしょうね?

 葬儀のお焼香にしたって、レスいただいたように「他宗教は宗教じゃなく《文化》だと思っている」でええやん、大体、踏絵と違って信仰を試しているわけでなし、遺族や故人がクリスチャンじゃないんだからしょうがないじゃん、としか言いようがない、と思うんですが・・。

 しかし、ことがことだけに言い方には注意せんと、と思いますが、一方ではこんなに人に気を遣わせる「信仰」って何やねん?と思ってしまいます。

621mimeme_gene:2012/07/23(月) 14:49:43
竹下様、 感謝!
竹下様

妻の友人の奥様が自死で帰天されました。
ご著書の「聖アウグスチヌスの祈り」をカードに転記して、その友人に妻が渡しました。
友人から、翌々日に電話が妻にきて、

「これからは、子供たちと3人で暮らすと思っていました。
この詩を読んで、
これからも家族4人で暮らしていくんだと納得して、とても慰められ、救われました」
と分かち合ってくださったそうです。(友人は未信者)

妻と二人で、とても良かったと話し合いました。

竹下様のおかげです。
妻と二人で、竹下様に感謝します。

622迷える大羊:2012/07/29(日) 20:52:18
イジメとキリスト教
 現在、日本では、滋賀県大津市で中2の少年がイジメを苦に自殺した事件が大体的に問題になってます。イジメそのものの酷さもさることながら、学校、教育委員会、警察の事なかれ主義、隠蔽が非難の嵐となっていまして・・。概要はこちら。

http://wiki.livedoor.jp/emiliano/d/%B9%C4%BB%D2%BB%B3%C3%E6%B3%D8%B9%BB%A4%A4%A4%B8%A4%E1%BC%AB%BB%A6%BB%F6%B7%EF#

 今回の確かに大津の事件は酷過ぎるとは思いますし、実態ののさらなる解明が望まれます、と思う一方で、私個人は加害者当人はともかく、それ以外の関係者をあまり高飛車に「裁く」気にもなれないのです。

 誤解を招きそうな話ですが、古今東西、少年少女の集まるところにイジメが100%ない、なんてことはあり得ない、と思うのです、単に程度の差の問題で。大人社会にだって酷いイジメはあるところにはありますし・・。
 はっきり言って、「私はイジメに関わったことありません」なんて言いきれる人なんてどれだけいるんでしょう?ひどいイジメを食らっていない、あるいは積極的にイジメに加担したことがなくても、面倒に関わるのがイヤ、自分自身がターゲットになるのがイヤ、で見て見ぬふりをしていた、くらいは誰にでもあるのではないのか?と。もし、そんなことない、と言い切れる人がいたら、イエスの「罪なき者からこの女に石を投げよ」とか、「偽善」の文字が思い浮かんできます。

 昔はこんなことなかった・・みたいなことをいう年配者の方もいますが、警察庁や法務省のデータを丹念に調べると、少年非行・犯罪は「昔」の方が圧倒的にひどく、荒れ果てていて(特に昭和30年代)、そんな中で、イジメだけは酷くなかった・・というのはちょっと信じ難い話です。単に記憶が美化されているだけ、単に問題にならなかっただけで、今以上に酷いイジメが横行していた、と考える方が自然・・だと個人的には思っています。

 私自身の少年時代を「正直に」振り返れば、いじめられっこだった時期もありましたが、逆にイジメてた(今にして思うと)、あるいはイジメに加担はしないまでも、面倒に関わるのがイヤ、自分自身がターゲットになるのがイヤ、で見て見ぬふりをしていたこともあります・・。
 関係者は何してた、ともいいますが、自分自身の少年時代を省みるに、自分がいじめられっこと認めるのは非常に屈辱的で、大人に訴え出るのは二の足を踏みます。現実的にも、大人に頼った・・という事実は子供社会での立場を一層悪くすることも多いですし・・。
 まあ、今回の大津市の場合の「関係者」は酷過ぎますけども。

 個人的に考え付く策としては、戦争や殺人、その他犯罪が世界から無くならないのと同様に、人間、特に子供の世界にイジメは付き物という前提、つまり性善説ではなく、性悪説で学校運営のスタイルを考える、例えば、特定のメンバーばかりで固定された閉鎖的な人間関係をつくらないようにする、逃げ道を用意する、イジメられっこであることを公の場に訴えることは決して恥ずかしいことでも何でもない、という啓蒙、教育を行うってことが必要な対策かな?と・・。
 少なくとも思いやりの心を育てるだの、道徳教育だのみたいな精神論、観念論は全然役に立たない、と個人的には思ってます。

 前置きが長くなりましたが、このイジメに関して、私は優等生的発言、現実からかけ離れた理想論はガラでない、嫌いな方なので、ずばり本音をいうと、イジメに関しては評論家・呉智英さんの2006年11月26日の産経新聞紙上での発言

 「被害者が自ら死を選ぶなんてバカなことがあるか。死ぬべきは加害者の方だ。いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ。死刑にはならないぞ、少年法が君たちを守ってくれるから」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%99%BA%E8%8B%B1

 に共感してるんですが、これ、クリスチャン的、キリスト教的にはマズい・・んでしょうか、やっぱり・・。でも、現実のキリスト教圏とかキリスト教国の人間、特にアメリカなんかみると、とても「敵を赦せ」とか「敵を愛しなさい」って感じはしませんが・・。むしろ、日本など目でないくらいにやられたらやり返せ、やられっぱなしで帰ってくるな、が徹底しているような気もしますが、偏見でしょうか?まあ、聖書でも旧約の方には 目には目を」という言葉もあったりしますけれども・・・。

 それにしても、子供時代の人間ってどうして残酷なんでしょうね?

623sekko:2012/08/01(水) 01:45:41
迷える大羊さまへ
しばらく留守にしていたのでお返事遅れてすみません。

まず、「教会通い」が親戚のイベントよりも優先したりする話について。

上智大学のサイトのキリスト教Q&Aでこんなのがあります。

54.洗礼を受けたいと望んでいるのですが、家で反対されます。家庭に不和を起こしても洗礼を受けるべきでしょうか。

家の人がキリスト教のことをまったく知らなかったり、伝統的な宗教に熱心であったりする場合には、反対されても当然でしょう。娘が洗礼を受けるとお嫁にやるときに障害になると考える人もいれば、主婦が家事を放りだして信心などにこりはじめると迷惑だ、と考える人もいるでしょう。家の墓はどうなる、と心配する人もいるかもしれません。いずれにせよ、あせって無理をしないようにしてください。
あなたがまだ自立して生計を立てておられないなら、やはりご両親の許しをいただいてください。若い人たちがいかがわしい新興宗教の勧誘にのって大変な被害 をこうむった例もありますから、心配されるのは当然です。指導してくださった司祭や先生に頼んで、ご両親と話していただくのもよいかもしれません。時機を 待てば、そのうちわかっていただけるでしょう。
もしあなたが一家の主婦で、ご主人がキリスト教のことをよくご存じないとしたら、やはりきちんと話しあって、了解を得ておかれることをお勧めします。主婦が教会にいりびたって家事をなげやりにする、というのであれば、それはキリスト教的に見て正しくありません。神への愛はもっとも近い隣人への愛として表れるはずですから。でも、もし教会に行くことが家事に支障をもたらさず、むしろ奥さん、お母さんが教会に行って、喜びをもって帰ってきて、家庭がもっと明るくなった、と喜ばれるようになれば、しめたものです。洗礼の望みも、自然に了解されることでしょう。
確かに福音書には、キリストに従うための厳しい心構えが言われます。「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタイ10・37)。でも、このような言葉は、それが語られた文脈や状況を無視して理解すべきではありません。 それは確かに、人間が生きていく上でよりどころとする最終的な価値基準のことを言っています。そして神の前で、家族や血縁の愛は決して絶対的な基準とはなりません。でも、その神への愛に目覚めさせ、それをはぐくんでくれるのは、実は他ならない両親の愛であり、家族の愛であり、隣人の愛です。
隣人の愛を深く体験した者のみが、逆説的に、それを越える神への愛を知るようになるのですね。
洗礼は大きな恵みですが、でも、神の大きなみ心を信 じて、あまりあせらないようにしてください。神は一人ひとりを心にかけ、いちばんよいように導いてくださいます。もし神があなたに、洗礼への本当の望みを お与えになったのなら、きっとそのための道も準備してくださるでしょう。

引用終わり。

私はこの意見に全面的に賛成です。

でも、個々のケースで、どんな習慣でも大羊さんのおっしゃるように、「依存症」みたいになってしまうこともあると思います。

それは信仰とかキリスト教とか教会とかとはもう別の次元の問題だと思います。

でも、本人が信仰のため、と思い込んでいるなら、その共同体内のしかるべき人に相談してその依存症状態から脱却するのに協力してもらうことも可能かなあと思います。

その共同体自体が依存性を誘発しようとしているなら別ですが。あり得ない例えですが、もし誰かが私に夢中になって家族関係をおろそかにしているという訴えが家族からなされたら、私なら本人とよく話し合って、もっと柔軟で自由なスタンスでいてくださるように仕向けるでしょう。

もうひとつ、いじめの話。

いろんな言説がありますし、私も書いたことがありますが、

玉聞伸啓さんの「いじめと闘おう!」サイト

http://www.ijimetotatakaou.com/

が、対策と克服を具体的に提示していて今、一番共感しています。

昔のいじめはいわゆる「弱い者いじめ」が多くて、そこにははっきりと「弱い者いじめはダメ」という自主規制もそれなりに生まれていたと思うんですが、今はみんなが横並び的な部分で、何が基準でいじめられているのか分からない、権力関係にも似ていて、外部からの介入がより難しい部分もあるのかもしれません。

ネットを通してなどだとなおさら分からないし。

やられればやり返せ、と言うのも、大人ですら一度自力で負のスパイラルに落ち込んだら鬱から抜け出せないことも多いくらいですから、簡単なことではないし、ましてや赦すとか赦さない以前に、被害者の自死をふせぐためには、これはもう、大人が命をかけて関わるべきだと私は思っています。

大人の社会のハラスメントやDVも、絶対に他からの援助が必要な場合の方が多いと思います。

あとはやっぱり、子どもが幼児のうちから、理屈抜きで、理由なしに誰かをいじめたり攻撃してはいけない、他の子どもたちはたとえ好きになれなくとも絶対にリスペクトしなくてはならないことを徹底的に繰り返すのが必要だと思います。

http://setukotakeshita.com/

624迷える大羊:2012/08/07(火) 19:40:16
お忙しい中、恐れ入ります
 誤解されては困りますが、教会に通ったり、イエスとか神様に頼ること、信じることを貶めてるわけでもありません。
 私だってちょくちょく行きますし、聖書だって読みますし・・。

 この問題は善し悪しっていうより、私自身の性格というかメンタリティとの兼ね合いの問題もあるのかも?です。
 身内は食事の際も「イエス様の御名により」って毎回唱えてお祈りします。当人にとっては大事なアイデンティティ確認であるのはわかりますが、こちらとしては毎回連呼されると、ちょっと押し付けられてるような、プレッシャーを感じちゃうのですよ・・。
 私にイエス様への願いに付き合わせるくせに、焼香しない、他宗教の流儀には従わない、付き合わない・・っていうのはなんだか手前勝手にみえたこともありましたね。
 まあ、時々ふざけて「イエス様にも、仏陀様にもお願いして」って混ぜ返しますけど(^^;。

 自分で何がどう気に食わないのか、整理して考えると、どうも、その「自意識過剰」さがハナについてしょうがない、ってことですね。例の焼香の問題も、別に信仰を試す儀式であるわけでもなし、三位一体のキリスト教の神も異教の神も、誰も気にしとらんわい!って言いたくなってしまって・・。
 つまりクリスチャンであること、というアイデンティティを(私からみて)過剰に確認したがる部分がどうにも、個人的にイラっとするところがあって。「私の宗教ですか?キリスト教ですけど、それが何か?」ぐらいの信仰の方が個人的には好ましく映るんです。
 私としては、身内の信仰に関しては、もうちょっと「さりげない」ものになってくれないかな?と。
 でも、こればっかりは善し悪しでなく、人それぞれですからね、面と向かっては言えないところが、つらいところ。

 ここがカトリック関係者のサイトだから「ヨイショ」をしているわけではなく、カトリックとか正教会とか聖公会の方が個人的に、なんとなく良さ気に映ったのは「さりげない」人が多い印象があったもので。毎週のように教会に来てる人って意外と少なくて、あんた本当に洗礼受けた教会員なの?って人が結構いるし、「現法王が嫌いだからミサいかねぇ」なんて人がいたりしますし(笑)。
 本来は「誉める」ようなことでもないのかもしれませんが、私個人としてはなんとなくそっちの方が「安心」なんですよね。

 もっとも、カトリックとか正教会の場合、自発的に信仰の道を選んだっていうより、家代々の宗教という人が多く、それらの人々にとっては日本の葬式仏教における「檀家」に近い感覚になっているせいもあるかもしれないですが・・。
 あと、これらの教会は世界各地に教会があるグローバルな組織で、歴史も長く、異文化間の摩擦、コミュニケーションに関しても「経験豊富」で「老獪」である、って部分もあるんでしょうね。
 プロテスタントの場合、教会にもよりますが(というか差が激しい)、細かい教団組織にバラバラに分裂し、個々の教会は決してグローバルとか「経験豊富」とはいえず、少人数でこじんまりとまとまっていることが多い、この辺の孤立感とか「若さ」が「自意識過剰」な信仰になりやすい理由かな?と思ったりもしました。

 まあ、以上は私の体験と独断と偏見から、勝手に考えたことで、どこまで的を得ているかは不明ですし、もし不快感を覚える部分があったならば、ご容赦願います、悪意はございません。

625sekko:2012/08/09(木) 00:51:28
迷える大羊さま
この掲示板を昔から見ている人はご存知かもしれませんが、迷える大羊さんは、今の奥様とご結婚なさる前にすでに、奥様のキリスト教との熱心な関わりについて不安を抱いていらっしゃって、ここでご相談されていました。

私は大羊さんも奥様もリアルには存じ上げませんが、その頃、そのテーマをいっしょに考えてコメントしてくださったリアルの友人がいます。

実は、あの頃、その彼女と会った時、大羊さんの話題が出て、「後から難しくなることが見え見えだから、やめておいた方がいいのに」とか、「もし私の息子なら考え直しなさいとアドヴァイスするのに」とかいう話になりました。

あの時そういう「本音」を言わなかったのは、もちろん、大羊さんが宗教について誠実に考えていらっしゃること、当時フィアンセだった奥様を真剣に愛していることなどを理解したからですが、もう一つ、私の方針というか指針があって、それに従ったからです。

それは、

イエスを不和の原因にしない、イエスの名において人と争わない、

ということです。

これは、イエスだけでなく、神さまでも仏さまでもアッラ―でも同じです。

多くの人の「救い主」として信仰の対象になっているシンボルを不和、争い、戦争などの原因にするのは常に人間の愚かさや弱さ、頑迷さや卑怯さからくることだと思います。救い主として崇められているような存在が、自分の名のもとで人々が不和になったり不幸になったりすることを望むとは思えません。

で、私は、大羊さんが今でも「迷える」大羊でありながら、その一線を守っていることを、頼もしく思います。

こういうことって、日常の小さな不満の積み重ねがいつしか、

「君はぼくとイエスとどっちが大切なんだ」とか

「ぼくをとるのかイエスをとるのか」というような短絡的なフレーズとなって口から滑りだし、

「もちろんイエスさまよ、最初から言ってるじゃない」とか

「そんな問題の立て方をする人なんて信じられない」とかいう応酬と共に、

愛だの絆だのがあえなく消えたり切れたりすることが往々にしてあるからです。

もちろんそのような問題の立て方は「イエスを不和の原因に巻き込む」ことであり、なすべきことではありません。たとえ、ある種の人が、自分でも気づかずに、神さま大事、教会第一で家庭の不和を招いているようなことがあったとしても、それに対して宗教の言葉で返すのは正しいやり方ではないと私は思っています。

大羊さんは、共同体の縛りの強い信者や信念を前にしていろいろフラストレーションもあると思いますが、一度、それらを宗教の地平から切り離して、どうすればお二人の生活で互いの力や思いやりをつなげていくことができるか工夫してみてください。大羊さんが奥様をリスペクトし抜く決意はどんな神さまだって肯定してくれますよ。

以上、なんだか、大羊さんの一連の質問の陰にもやもやしたものを勝手に感じたので書いてみました。的外れならスルーしてください。

http://setukotakeshita.com/

626迷える大羊:2012/08/10(金) 21:23:09
恐れ入ります。
??御心配をおかけします。まあ、細かい不満、不安はあるにせよ、不和というわけでもないです。宗教については最初からわかっていましたし、
 まあ、宗教というのは数ある家庭問題のバリエーションの一つで、そういう問題がなくても離婚してしまう夫婦は離婚しますし(友人が離婚しました。)、キリスト教とかイエスそのものが悪いわけでも、不満の原因でもないです。ただ、その信仰具合、形態が「予想外」だったということで・・・。
 私が身内の宗教についてあまり気にしなかったのは、実母がとある仏教系宗教団体の信者なのですが、そのことで家庭内に問題が起こったことなんてなかったからでして、キリスト教?プロテスタント?別に怪しい宗教でなけりゃいいんじゃない、くらいに考えていたのでした。
 実は身内の実家はクリスチャンではなく、ごく普通の無宗教の日本人です。子供時代に肉親を亡くしつらかったところ、日曜学校で通っていた教会の牧師先生にいろいろお世話になり、洗礼・・という、キリスト教に限らず、宗教に入るきっかけとしてはよくあるパターンです。

 ただ、私的に困ったもんだ・・と思ってしまうのは、その牧師先生というのが、話を聞く限り、私からすると非常に保守的というか、ちょっと教条主義的な信仰解釈をする方だったみたいで・・・。今は、その牧師先生もいませんし、身内も引っ越したこともあって、実質的な所属教会も変わってます(というか、正規に所属している教会はない)けども、影響はかなりあったみたいです。何しろ、自分を「導いて」くれた人ですし・・。

 私としては、ノンクリスチャンの私がいうのも変だし、おこがましい気もしますが、「君が知っているキリスト教ばかりがキリスト教の世界じゃないんだよ、キリスト教たっていろいろだよ」ってことをいいたくて、一時期、カトリックとか聖公会の教会やら、いろんな教会に引き回しましたけども。
 以前に比べれば、(私からみて)頑ななところは少なくなったかな・・と思ってますが。

 仮に私がクリスチャンになったとしても、別に洗脳を施されるわけではないですし、この辺の、なんていえばいいのか、神様とか信仰に対する姿勢とか感覚は変わりそうにないですし、万事万歳ってわけでもないと思いますね。

 おっしゃる通り、イエスとか宗教は不満の直接の原因ではありません。それに、身内と出会わなければ、キリスト教とか宗教について、ずっと無知、無理解のままでしたでしょう。 そういう意味では感謝すべき面もあります。

 しかし、かくいう自分も、ノンクリのくせにキリスト教サイトの常連のようになってしまい(なんだかかなり年数が経ったような)、聖書もよく読み(自慢してるわけじゃありません、本当にただ読んでるだけですし、神学的なこ難しい話の知識は未だゼロ、です。むしろ自虐です)、そこいらのクリスチャンより、いろんな教会を訪問した俺って奴も、もしかすると「イエス依存症」か?人のことは言えない・・と思わないでもないです(笑)。
 

627おばさん:2012/08/11(土) 11:53:23
迷える大羊様
竹下様
ホームページで勉強させて頂き有難うございます。運営されていらっしゃる事に感謝しております。

迷える大羊様
現在、この投稿を制作時点で、このサイトの3つの板が全て「迷える大羊様」からの投稿になっております。ご自分で仰られているような「イエス依存症」というよりも「掲示板依存症」のような印象を受けてしまいます。1か月程、投稿をお休みになられて、ご自分の様子をみられてはと考えてしまいますが。
出過ぎた投稿、お許しください。

628sekko:2012/08/12(日) 00:36:30
投稿について
私が迷惑だと思った時はそれなりに表明していますし、偏見のひどいものなどは削除もしていますから、ここで返事しているものについては、みなさまお気づかいなきようお願いします。

「迷える大羊」さまだって、その気になればハンドルネームを変えて続けることもできるのだし、私も普段考えていないことを考えさせてもらっている部分もあります。

一昔前、毎日のようにFAXで長々と質問を寄せられる読者(私より十歳位年上の方でした)がいました。しかも手書きで判読しにくく、大変でした。私はちゃんと返事を書いていましたが、せっかくいろいろ考えて返事を書いたのだから、それを他の人と共有できないのはもったいないなあと思っていました。

FAXでのやりとりは、今はもう限りなくゼロに近く、ネットのスキルのないその方とは、結局私の方から音信を途絶えさせた形になり、申しわけなかったと今でも罪悪感があります。私もデジタルスキルは低いですが、それでも、簡便な今のやり方を一度知ると、もうなかなか昔には戻れません。

ネットのおかげで外国にいても、昔日本にいた頃よりずっと日本のいろいろな人の状況がよく分かって、毎日拝見しているブログなども複数あって、私も依存症と言えば依存症です。まあ誰にも迷惑かけないなら、みなうまくつきあっていきましょう。

私もできる範囲でしかやっていませんので、どうかあまり気になさらないでください。

http://setukotakeshita.com/

629mimeme_gene:2012/08/19(日) 12:05:44
迷える大羊様へ
大羊様

私は毎日祈りますが,その中で幾度もあなた様が心に浮かびました.
だいぶ時間をかけて,少しだけでも,お伝えして良いことを書きます.


●私は,大羊様が御子イエスと出会いますようにと幾度も祈っています.

最初の使徒達は未受洗者です.
多くの方々と同様に,私も幾度も会っています.
全てが恵みで,奇跡ではなく,ともに生きている実感です.

まだでしたら,
イエスと出会いたいと,強く何度も願い,イエスに言い,

出会われているなら,
その出会いを悟り,深められますようにと,祈ります.


●悟りと対話を祈っています.

「心を満たし満足させるのは、広い知識ではなく、ものを悟り、それを内的に味わう事」(霊操2番)

ご自分との内的対話で,御子が全て答えてくれます.
何を聞いても返事があります.
様々な選びも御聖霊が導いてくださいます.

もう既に悟りが芽生えていらっしゃるのかもしれませんね.
三位一体の御交が望む大羊様へのご計画は,
大羊様にしかわかりません.

大羊様は多才な方とお見受けしますので,
一つの深まりや悟りが,全ての対話のきっかけとなりますようにと,祈ります.

630迷える大羊:2012/08/20(月) 19:51:27
投稿の件
 おばさん様がどのようなお立場の方であるか、存じ上げませんが、もし、こちらのホームページ、BBSの運営関係者で、私の投稿により何か不都合、不具合を与えたのであれば、お詫びする以外にありません。
 しかし、内容に関係なく、ただ、投稿が多すぎる、目障りだ、不愉快だ、というご批判でしたら、他のBBSでは受けたことのないご批判ですので、戸惑いを隠せない・・というのが正直なところです。
 掲示板依存症であるのは認めます。何しろ、リアル世界では相談相手が見つけづらいテーマでも簡単に質問出来たりするのですから、つい、いろいろと余計なことを語ってしまいます。実のところ、リアル世界では私、宗教やら政治やら、海外情勢やらって相手が話を振ってこない限り全然話しないのです。そういうことには関心のない人、と思われています。

 ただ、言い訳めいてしまいますが、かなり以前になってしまいますが、竹下先生にはレスについてはムリしないで下さい、忙しい、あるいは答えようのない投稿には無理にお答せずとも結構です、とお断りさせていただいたように思いましたし、実際、お答いただけないことがあっても、なんとも思ったことはありません(他のBBSでも)。

 内容が稚拙、あるいはタイミングが悪い、絡みようがない、などなどでレスがつかない、というのはネットではよくあることですし、ましてや先生はそれが仕事でも何でもないのですから。レスがつかなければ、あ、ちょっとこれは何かまずかったかな?ということで、それ以上話題を進めないようにするだけです。
 私自身もせっかく先生からレスいただいたのに、礼も感想も延べずにほおっておいてしまったこともありますから、お互い様です(忙しかったり、うまく文章が書けない、などで)。

 それより何より、ここは「BBS」ですから竹下先生「だけ」のご回答を求めているわけではありません。特に家族と宗教の問題については多種多様な方々の体験談が聞きたかったところなのですが、私の文章力の稚拙さ故か、内容故か、竹下先生にしかお相手していただけない場合が多く、結果として(特に第三者からみると)、私が竹下先生に怒涛のごとく「課題」を押し付けている・・みたいな形になってしまっているのは、我ながら困ったものだなぁ、悪いなぁとは思ってました。

 こちらのBBSでは、私の「発言中」は他の方は投稿できない、質問できない、とのルールがあるのでしょうか?それならば、申し訳ない、以後気を付けます。
 あるいはそのようなルールがなく、単に遠慮されているだけならば、どうぞ、お構いなく投稿願います、です。

 竹下先生やこちらの方々には感謝こそすれ、悪意など全くない、ましてや「掲示板荒らし、乗っ取り」の意図なんて全くありませんから。

631迷える大羊:2012/08/20(月) 20:18:20
ありがとございます
mimeme_gene様

 ありがとうございます。こちらのBBSでは、聖書のアラ探しみたいなこといったり、一丁前に教会批判みたいなことを言ったりしていたので、キリスト教が嫌い、バカにしている、なんて誤解されていないか?いつも気になっていました。
 全然、そんなことないです。イエスそのものは大好きです。ただ、ちょっと一般的なクリスチャンの方々の「信仰」とはズレているところがあるかもしれませんが・・。

 身内と宗教については、いろいろ気になる(墓やら子供やら・・・etc)ことがあったりしますが、でも、お話をいろいろ伺うと皆さん、いろいろな事情を抱えておられるみたいで・・。別に具体的なアドヴァイス(直接、面識がないのですから無理ですし)でなくとも、「わかっていただける」だけでも大きな励みです。

 そういえば、明日を思い煩うことなかれ・・って聖書にもありましたね。

632mimeme_gene:2012/08/21(火) 01:58:21
まよえる大羊さまへ
大羊様はイエスが「大好き」と書かれています.相思相愛ですね.私もそうです.

キリスト教ほどおめでたい宗教はないと思います.
「全ての人のあらゆる罪がゆるされる」からです.
「じゃあ,どんな悪事をしても,ゆされるの?」と聞かれます.
答えは「ゆるされる」です.公教要理等にも書かれています.

ですので,「その人の罪が私の罪とは違うものだからといって,その人を裁かないように」というのが,私のいつもの自省です.

更には,天国で,「なんでこの人がゆるされて天国にいるの?」と思いたくなってしまう人がいたりして...
私は天国に行く前に,その方からゆるされたいし,和解したいです.

でも,その前に,私にできることは,祈りです.

罪であっても,その人の命の一部だから,イエスは喜んで受け取って,イエスの命へと清めてくださり,私達に返してくださいます.

こう書きたくなる実感があります.
祈りの中で,十字架の下に行き,自分の罪を取り出し,掌にもって,五官の全てでそれを感じてみて,イエスに差し出します.
罪の手触り,味,匂い,色合,温度・・・と感じてみると,自分との対話になります.
そして,その後の喜びは,一度なさってみると,感じると思います.

「心を満たし満足させるのは、広い知識ではなく、ものを悟り、それを内的に味わう事」(霊操2番)
を私なりにやっています.

竹下様の著書を読んで,「この方は,三位一体のどなたかと,何か話されて,それを文章にしている」と直感しました.

正直に言いますが,私は,大羊様の文章を読んで,竹下様が答えられているようには,ピンときていません.
もちろん素養や知性が違います.そのストックは,計り知れないようです.

でも,それだけではなくて,大羊様がイエスに何を話されたかよりも,イエスが大羊様に何を話されているかの方に,私の関心があるからだとわかりました.相思相愛の豊かさや楽しさでしょうか.
大羊様の文に,もっと見つめられるように,なりたいです.

今日はこのへんで.

633Sekko:2012/08/22(水) 23:28:49
ゆるされること、など
mimeme_gene さん、いろいろフォローしてくださってありがとうございます。

>「その人の罪が私の罪とは違うものだからといって,その人を裁かないように」というのが,私のいつもの自省です

というのはほんとですね。

「他人の罪や欠点をあげつらう」というのは、想像力の欠如のせいもあるかなあと思います。自分に厳しい人が他人にも厳しいというのはよくありますがそれですら的外れのことがほとんどなのに、中には自分に厳しくなくて他人にだけ厳しいって人もいますよね。

私は他人に厳しくしないことで自分に厳しくしないことを正当化するタイプかもしれません。

罰せられるのは嫌だけど、あれやこれやの多少の罪悪感はいつも抱いているので謙虚になっていいだろう、ぐらいのいいかげんなスタンスなので自戒します。


キリスト教がおめでたい宗教、というのは私も感じます。いろいろ紆余曲折を経て、本来のおめでたさを回復しつつある、みたいな感じ。

すべての人のあらゆる罪が赦される、ということについて、前にもユダのことで少し触れましたが、今ユダ論でちょうどオリゲネスのアポカタスタシスなどについて書いていたので、あらためて考えさせられます。

「罪が赦される」とは、単にこの世で「罰せられない」ということなのか、あの世で地獄だの煉獄で責められないということなのかと考えると、この世で社会的に罰せられない罪しか犯していず、死後の世界も信じていなければどうでもよくなりますよね。それでも「因果応報」とか「悪業のたたり」みたいな言葉がどの文化にもあるということは、たとえばあまりにも利己的な行為に対して自然に「後ろめたさ」を感じるような心性があった方が、全体として種の存続に有利だからこそ受け継がれてきたとも考えられます。

で、「罰せられない」ということが即「救い」なのかどうかということも気になります。

古来、富や権力を掌中にした支配者などは、人間からは「罰せられない」立場にあるわけですが、満足して生きているかと言えば、最後は「不老不死」の秘法を求めるとか、結局、実存的な不安からの救いを求めてしまうのかもしれません。あるいは老いや死そのものを一種の「罰」だと感じるのかもしれません。だとしたら「原罪によって人が不死の存在でなくなった)という考え方もそれと表裏をなしているのでしょう。

キリスト教が、すべての人のすべての罪がゆるされるという時、その前提は、全ての人はイエスを通して永遠に生きるということがあるからだと思います。永遠に生きるという見方に立ったときには、もう罪とか罰とかいう限定的な枠組みは消えてしまう。「地獄で永遠の劫火に焼かれ続ける」などという表現は、それ自体が現世的な表現であって、神的な永遠や無限の中にはそういう「仕分け」はないという考え方も古来ありました。少なくとも「永遠に生きる」という視点なしには「救い」も「ゆるし」も成立しませんでした。

何年か前に、プロテスタントの教会に垂れ幕がかかっていて「イエスを信じる者は死なないで永遠に生きる」とあったのを見た時に、ものすごくカルト的な印象で愕然としたことがあります。ボーン・アゲインのような運動にも個人的にはすごく違和感があります。でも、確かにキリスト教のおめでたさは「永遠に生きる」「死んでも生きる」ところにあるので、そのことを、今生きている間に本気で視野に入れないとしたら、「救い」も「ゆるし」も言葉だけになってしまうかもしれないなあとも思います。

でも実際そういうことを視野に入れて生きて、死んで、その結果、その後もずっと人々を結びつけつつ生かし続けている人々は決して少なくありません。継承され分かち合われるメッセージ性はそれが思想的なものであれ芸術的なものであれ、永遠とか超越とかいうコンセプト抜きには生まれないのだというのが実感です。

実存的不安に対して儒教や仏教系の「安心立命」的な悟りの境地に至るのは、私には多分不老不死の薬を得るのと変わらないくらい難しいので、それに比べれば、とりあえず、死後も超越的な何かを通してみんないっしょに永遠に生きると想定して「立命」できたらなあと思います。(みなさまからのお祈りが効いてきたのかも…)

http://setukotakeshita.com/

634mimeme_gene:2012/08/26(日) 14:22:26
竹下様
私の感覚ですと、罪は何かを限定や特定してしまうと感じます。
その方にも私と同じ限界があると感じます。
罪に無限の広がりを感じることは、私にはありません。

竹下様のおっしゃるように、「想像力の欠如のせいもあるかなあとおもいます」というのは、とても暖かい感じがします。

御交が全てなさってくださるから、私は、他の人に罪を感じたら「罪という契機から、愛されている実感に私が気づいたように、その方も御交の無限の愛に気づかれますように」と沢山いのります。

御交が無限の愛だから、私たちも愛になるようにと、御交から愛されていると感じます。
聖イグナチオの愛を得るための観想を、「愛になるための観想」と読み替えて、私は日々祈っています。

私自身の大小様々な罪については、日々感じます。
罰という感覚はなくて、御交の愛を受け止めていないという事実を痛悔します。
特に霊操の罪の究明のやり方にならっています。

「キリスト教が、すべての人のすべての罪がゆるされるという時、その前提は、全ての人はイエスを通して永遠に生きるということがあるからだと思います。」と書かれていた文章を読んで、私は、「永遠」というイメージと、今の生活にこの「永遠」をもっと埋め込んでいきたいと強く願いました。

本当にありがとうございます。感謝です。

635phantom:2012/10/07(日) 15:51:24
教会博士
竹下先生、こんにちは。ブログを拝読致しました。
ビンゲンのヒルデガルト、今年は大出世ですね!
このまま、非公式な聖女のままなのだろうなぁ、と思っていたたけに、驚きました。
先生と同じように、私も彼女が大好きなので嬉しいニュースでした。

ヒルデガルトは邦訳がほとんどないのが残念です。日本語では関連書籍も極僅か…題材としてこんなにユニークな存在は他にないのに、もったいないですね。特に精神医学的なアプローチをしたら、面白そうです。

竹下先生の書いたヒルデガルトやアビラのテレサについての文章、いつか読んでみたいです。どうか、是非ご検討を!

636Sekko:2012/10/07(日) 19:05:50
中村 千尋 さま
中村千尋さま、前に書きこんでいただいていたのですが、何か続きがあるのだろうとそのままになっていました。もし、続きがあるなら加筆ください。

http://setukotakeshita.com/

637Sekko:2012/10/07(日) 19:39:56
phantomさま
ブログを読んでくださってありがとうございます。

ディープな聖女もので書きたいテーマはいくつもあるのですが、そのうちにと思っているうちに持ち時間が少なくなっていくような…

私はかなり昔からヒルデガルトが好きでしたが、オリバー・サックスの『偏頭痛』でヒルデガルトの幻視が網膜に映るスコリーだという解説を読んでその図を見た時に、それが私が昔から目を閉じた時に見ているのと同じなので驚きました。目を閉じた時に見える形がいろいろ変化するのは誰にでもあることだと思っていたからです。今でも寝床に入っても眠れないときはその画像をいろいろ操作しながらずっとながめています。

ヒルデガルトが本当に見ていたのは何か分かりませんが、不思議なのは、そういうものを見て、神から与えられたビジョンだと思える心のメカニズムです。

ただの偏頭痛の症状や幻聴をビジョンやお告げだと信じ込む人もいれば、ひょっとして、本当にビジョンやお告げが来ているのに、全くスルーするするタイプの人もいるのかもしれません。

信じ込むためには何かどこかが壊れなくてはだめなのか、たとえ壊れても真実に導かれる人がいるのか、そんなことも気にせずに境界領域をぼんやり生きていける人もいるのか、謎です。

米国大統領候補のロムニーのような人が本気にモルモン教を信じているのか(代回頃フランスに布教活動で滞在していた)というのも私には謎です。

アニミズムとか、お天道様やご先祖さまを拝んだり、各種の神々だとか遠い昔の預言者を崇めたりするのはなんとなく分かります。距離の取り方によっては人生の潤滑油になるかもしれません。

でも、近代以降とか現代になって新たに自分がキリストの再来だとか最終預言者だとか最終解脱者だとか突然新たなお告げを発掘して訳したとか、各種聖人の霊言をキャッチするとかいう生身の人間を教祖として、巨大な金が動く教団になっているような新宗教の場合、現役の社会人に、その「教祖」の言うことを本気で信じるための一線を越えさせるものとは、一体何なのだろうと思ってしまいます。

もちろん育った家庭や地域の影響がある場合は理解できますが、それでも、ロムニーのような人が、単に「信仰を持っている」というアメリカ的モラルの担保として以上にモルモン教に軸足を置いているのは不思議です。

ヒルデガルトの場合は、自分の周りにいる教会の権威たちには全然屈していませんから別ですが、あの時代にあの環境で、自分の言葉で語るには、やはり神のひと押しがあったのか、神の言葉とセットにしてでないと表現できなかったのか、探ってみたいところです。

http://setukotakeshita.com/

638リジュー:2013/02/06(水) 23:03:24
ヴィジョン
竹下様初めまして。以前「聖女伝」を読ませて頂きいろいろ考えました。興味深かったのは、フランソワ・ド・サルとジャンヌ・ド・シャンタルの出会いです。二人のヴィジョン(召命)が素敵です。私自身は聖人洗礼ですが幼稚園、高校がカトリックで影響うけています。私は神父様に心がいってしまう傾向があり、フランソワとジャンヌのような関係に憧れます。竹下様はこういう二人のヴィジョン(召命)をどう思われますか?神の摂理をどうお考えでしょうか?また神父様にイエス様や世の理想的な男性を求める私は人間的にちょっとかもしれませが、神様に対するいろんな方の考えに興味を持っています。竹下様はカトリックの洗礼は受けられていらっしゃるのかと思っておりますが、(すみませんよく存知あげておらず)以前パリの友人宅に訪問し、教会などいろいろ行きましたが、フランス人のカトリック観は日本人と違いますし、私は宣教師の方の特に深い関心と尊敬のような物を持ってしまいます。どうか竹下様のアドバイスをいただきたいです。

639Sekko:2013/02/07(木) 09:15:50
リジューさまへ
リジューさま、こんにちは。

そうですね。「霊的カップル」っていうのに私もちょっと憧れます。

フランソワ・ド・サルとシャンタルの場合はなんだかんだといっても名士同士、エリート同士かなあ、とも思いますが、それでも、いわゆる「相性」を超えた大きな何かを介在させていたのだなあと思います。

上流家庭で妻母嫁と人生のフルコースを味わってその後またフランソワ・ド・サルのような突出したキャラクターと出あい、共に新しい修道会を創り上げたシャンタルの人生はなかなか羨ましいです。

私の身近でよく知っているのはカトリック関係者とチベット仏教関係者なんですが、どちらも独身の誓願を立てている人たちで、「神仏に帰依して人々を救う」という決意と、自分の「個人としての家庭の団欒や子孫を残すことはしない」という決意とがペアになっているのを見ると、自然とリスペクトの念がわきます。

もちろん家庭を持たれていても宗教的使命を遂行する人もいれば、独身でも俗な欲望にまみれている人もいるわけですが、何につけ、禁欲的に専念しているタイプの人には惹きつけられます(自分がそうじゃないからかもしれませんが)。

カトリックの宣教会のヨーロッパ系の神父さんなどで、若い時からずっと日本に来て、カトリックの少ない日本に骨をうずめたいという方たちにも感心します。

昨年お亡くなりになったネラン神父さまのようにリタイアしてから新宿にバーを開いてサラリーマンに寄り添った人もいるくらい(ネランさんについてブログで書いたことがあります。http://spinou.exblog.jp/15666988/ )で、みなユニークで、それなのになんだか波長が日本人っぽくなっていて親しみやすいですね。

ただ、出会いというもの、人柄というものはすごく大事なので、チベット仏教では一人のラマ(指導僧)につくのですが、10年間は、自分に合わなければ替えていいそうです。

いいかえると、10年くらいのスパンで見ていかないと、本当に自分にとって霊的な指導者になってもらえるかという大切なことの見極めはつかないかもしれないということです。

まあ結婚などでも、一目ぼれで何十年も幸せに添い遂げる人もいるのですから、これは運命かもしれません。

シャンタルだって、運命の人フランソワ・ド・サルに惹かれながら、別に告解僧もいたし、なかなか特別な関係に入れなかったですよね。試練があった方が本物の気持ちを確かめられるかもしれません。

ある程度の年配になるとずっと何かの仮面をかぶってきたり何者かの振りをしてきたりしたような人たちにはそれなりの不透明さが出てくるように思います。

そうでない人は年を重ねるごとに生まれるある種のシンプルさによって信頼感をそそってくれます。

「この人の信じている神さまなら信じてもいいな」と思えることもあるでしょう。

ただ、「理想的な男性を求める」的な惹かれ方は、あまり深入りすると失望したり、相手を困らせたりするかもしれませんから、気をつけた方がいいかもです。

あまりアドバイスになってませんが、ケースバイケースだということで、ひとまずこの辺で。

http://setukotakeshita.com/

640リジュー:2013/02/09(土) 22:41:06
(無題)
竹下様

お返事ありがとうございます。ネラン神父様のこと少しネットでみました。とてもいろんなご経験をされた方で、素晴らしい方ですね。宣教師として活動され、引退後は生き方も選択できるのは理想的でもあり、でもそれは神様がその方それぞれに与えたものであり、自分で決めることでもあり、その辺の判断が私は難しいと感じてしまいます。仮に聖職者が聖職者を辞める場合もあるのでしょうけど、それは世間的にみてどうでしょう。仮に結婚したとしてもそれは素敵なことだと思いますが、批判の目でみられたりもするんでしょうか?
「聖女伝」の中のテレーズのことも普通の女の子は聖人になれるか?という所にも考えさせられました。聖人、カトリックは奇跡がが好きとか、いろいろありますが、何というかいわゆる召命もその時々で変わることもあるし、カトリックの世界で自分を大切にしてしまい、世間での付き合いが好きでなくなったり、聖書も自分視点で解釈したり、自分で解釈するのが好きなのは、良くないことなのか、やはり神父様のご指導の下が一番でしょうが。神様の思い方は人それぞれですが、よく違うと言われることもあります。それで少し落ち込んだり、人々と分かちあうことも大切ですが、私の中の神様は自分の中で大切にしたいですし。
霊的指導者は10年位かけてのお付き合いが大切なのだと、10年位自分の近くにいて下さる神父様がいたら本当に理想的ですね。神父様にイエス様を重ねてしまうことはどうでしょうか?自分がそんな気がしてますが。ゆるしの秘跡にしても良く知ってる神父様だと人間的な目で見られてしまったらと思うこともあったり、やはり友人と一緒で人柄が重要なのでしょうんね。確かに偽った生き方や人間的な優しさがあるかどうかは年を経た方は自然とでてしまいますね、そう思います。

641今紫:2013/02/23(土) 07:39:05
ローマ教皇の退位と聖マラキの預言の的中?
竹下様、お久しぶりです。

ローマ教皇ベネディクト16世の退位のニュースは驚きました。高齢の理由でそうなるのは致し方がありません。3月末の次期ローマ教皇が決まる選挙、コンクラーヴェ(根競べに似ていますね)でどんな方になるのでしょうか。

さて、巷(特にネット)ではアイルランドに実在した聖マラキ(マラキアス)の預言が再び浮上しています。偽書の疑いがあるとはいえ、歴代ローマ教皇のことをほぼ、的中しています。たとえば、前教皇ヨハネ・パウロ2世は「労働の太陽」、現教皇は「オリーヴの栄光」といったいかにも彼らの特徴や象徴を現しているようです。12世紀の人がこんな明確な預言を残すことができるのでしょうか。まあ、私は預言と信仰は区別して考えて行動しています。こういう「預言」良くも悪くも「的中」してほしくはありません。

くだらない内容になり申し訳ありません。教皇退位でこんなことを思い出しました。
四旬節は2月13日の水曜日から始まりました。2月13日はファティマのルチア修道女の命日(将来は記念日なる可能性がある)にあたり、これも何かの因縁があるのでしょうか。

花粉症には十分気をつけてくださいますように。先生のご活躍を心よりお祈り申し上げます。

642sekko:2013/02/24(日) 09:16:50
聖マラキですか。
今紫さん、こんにちは。

聖マラキですか。

教皇の引退宣言以来、数々の記事を読んでいますが、さすがに聖マラキを持ち出すようなタイプのものは読んでませんでした。

聖マラキの預言書については『ノストラダムスの生涯』のp171-176で解説してコメントしたことがあります。

その時はまだ前教皇の時代でしたけれど、なるほど、今の教皇の辞任が「時の終わり」で、では、次の教皇は「ローマ人ペトロ」でどんな苦難が待っていることやら…。

ローマ人っていうのはヴァティカンに常駐する枢機卿ってことかしら。

つい先日は、イタリアの左派系新聞が、ヴァティカン内の同性愛ロビーの存在を知ったことが教皇を辞任に追いやったなどと書いてこちらでは多少話題になりましたが、検証記事を読むと何の根拠もない話でした。

それにしても、教皇の変わり目というのはいろんな人がいろんなことを言いだすものだなあと思います。

今の教皇は、次の教皇について、統治能力があり、ルーティーンに陥ることなく、キリスト教諸派の統合を目指し、非キリスト教世界に向けて発信できる人を、などと言っていましたから、適任者が現れるといいのですが。

643Phantom:2013/02/26(火) 12:37:40
(無題)
竹下先生こんにちは!
2月25日のブログ記事、まるで短編小説のようでとっても素敵でした。
「教皇のリタイアが希望を感じさせてくれた」なんて、96歳のシスターがこんなにものびのびとした自由な心をお持ちなのかと、驚くような、嬉しくなるようなエピソードでした。
キリスト教国では、教皇辞職について「裏切られた」とショックを受けた信徒が多い、などとニュースで見ておりましたので尚更です。

時流を諦観でなく、こんな風にポジティブに捉えられるのは、もちろん元来の個人の性質に由来するのでしょうが、一般信徒に比べて何かと制約の多い修道者が(ましてやこの世代の受けた宗教教育は現代よりも厳しかったはず)、その上で自由に開かれた心を持っているというのは、何とも言えずすがすがしく感じられました。

以前カトリックサプリの記事で、パレモニアルで召命を確信し、バチカンで毎日を生き生きと過ごす司祭のエピソードがありましたが、この記事を読んだ時も同じく爽やかな風が吹き抜けるような感動を受けました。

胸のつまるような事件の多い中、このようにある意味で純粋に、自由な心で生きる方々がいるという事を知るだけで、希望が湧いてきます。真似はできないかもしれないけれど、そんな風に視点を変える事で、世界をよりよく生きられるんだと、こちらまでワクワクしてきます。

いつも素敵な記事を書いて下さってありがとうございます。まとまりのない感想で恐縮ですが、どうしてもお礼を伝えたくなってしまいました。

またコンクラーべ関連の記事も楽しみにしております!ネットがある事で海外ニュースは簡単に読めますが、やはりその国の空気感まではどうしてもわかりませんから、竹下先生のブログは本当に興味深く拝見させていただいております。
いつも日本から応援しています!

644sekko:2013/02/27(水) 00:16:25
phantomさま、ありがとうございます。
愛徳姉妹会はもともと活動修道会ですから元気なシスターが多いです。

私たちのトリオが最初に日本で公演した時、愛徳姉妹会の養護施設にも行って、その時には最初に日本に来られたという最年長の日仏混血のシスターも来てくれました。すごくかわいい人でした。その方が100歳になった時、敬老の日に市から祝いの品を持ってきた職員がいて、シスターは何で祝ってもらえるのかピンとこないまま、その人が帰る時に「お大事にね」といたわったそうです。

シスター・クレールは自分たちはいわゆる老後の心配がないのだから、生きている間は他の人のために役に立ち続けたい、と言っています。

確かに普通の人は老後の暮らし、介護、葬式から遺品の整理までいろんなことを考えますが、彼女らは先のことを考えず生涯現役、とも言えるのでうらやましいです。

春には彼女のいる特養のサロンで慰問コンサートをします。

「年寄りやシスターたちがわらわらいるのを見ないようにすればなかなか素敵なところよ」

と言っていました。

私はむやみにポジティヴな人を見るとひいてしまうタイプなのですが、96歳であのポジティヴさを見ると、神さまっているのかも・・と嬉しくなります。

そんなシスターなので、ひょっとして教皇の引退のことを「まだまだ若いくせにがんばりが足らない」とか言うかもしれないと思っていたのですが、人はその時々に自分に合ったがんばりをする見極めが必要だということなのでしょうね。

http://setukotakeshita.com/

645Phantom:2013/02/27(水) 20:57:37
なるほど!
竹下先生、お忙しい中お返事ありがとうございます。

確かに、修道者は生活の心配はありませんね。
知識としては理解していても、その点はうっかり失念していました。一般社会と違って「引退」という概念がないからこその生涯現役なのかもしれませんね。

私自身もいわゆるポジティブは苦手ですが、このシスター方のような自然なあり方は素敵ですね。なかなかシニカルだったりするのもいい感じです。キリスト教ワールドも色々あるけれど、意外と捨てたモノじゃないかも、と感じさせられます。

春の慰問コンサート、きっとシスター方も楽しみにされている事でしょう。感想などブログで様子をアップして下さると嬉しいです。

竹下先生の演奏、いつか拝聴してみたいです。バロック音楽は普段接する機会がありませんでしたが、最近のブログ記事でとても興味を惹かれました。いつも先生のブログから知的好奇心を刺激されます。

646今紫:2013/02/27(水) 21:41:47
次期教皇は統括力のある人を
竹下先生
多忙の中でのお返事ありがとうございます。

次期ローマ教皇はどんな世相や思想に対して寛容かつ統括力のある方が選出されるとよろしいですね。同性愛もどのように受け入れられるのでしょうか。
変わり目というのは何か騒ぎ出す要素が存在するのでしょうか。そのせいで大変な不幸に遭遇しないことを願います。

できれば、よい方向へと進んでほしいのです。

647Sekko:2013/03/30(土) 07:59:21
教皇と陰謀論?
無視しようと思ったのですが、書きたくなったのでブログに思うところを書きました。興味ある方はどうぞ。

http://spinou.exblog.jp/19538718/

陰謀論系のコメントに対応する気はないので次からは削除しますのであしからず。

http://setukotakeshita.com/

648愚者:2013/04/05(金) 23:58:43
(無題)
人権侵害の禁止を骨抜きにし立憲主義を否定する改憲案を、憲法及び学説を学んだこともない無知な人が主張しています。赤ちゃんから高齢者まで全国民に番号を付けて住所氏名生年月日性別、所得資産負債、職歴、婚姻歴、病歴等を国に管理される国民番号法案を国会が審議中。大部分の国民が忌避する原発に固執。福祉の財源に充てるための増税と言ったくせに50兆円も外債購入(売却出来ない米国債)に支出。関税権立法権、食糧自給を放棄し、国内法に優越する国際秘密条約TPPに国民を騙して駆け込む。一票の格差違憲判決を根拠なく議員定数削減に結びつける政府与党。議員を減らして首相が人選するナントカ会議を乱立させ政策を仲間内で勝手に決める無法。マスコミはアベノミクス万歳のごますり嘘つき報道一色。止まらない司法の不正行為・冤罪。アメリカは天使、中韓は悪魔という恣意的な報道。なんだかカルト政党に制圧されたようで大変不吉です。宇沢弘文、鈴木宣弘、孫崎享他の識者やアカデミズムの人々の発言はマスコミが報じない上、度々事実に反する中傷を受けています。竹下先生のテーマと違う相談で恐縮ですが不吉な空気を訴えずにはいられません。どのような抵抗が考えられるでしょうか?

649Sekko:2013/04/07(日) 23:37:30
愚者さま
このご質問は、私がブログ記事http://spinou.exblog.jp/19734282/で、アメリカに対するフランスと日本の対応を比較したことをお読みになってのことでしょうか。

そのブログにも書きましたように、10年前のイラク派兵の時の日本政府の支持の基準がひたすら「英米の便宜を図る」ことであったことを知り、あらためて、あの頃の日本での反対運動はいったいなんだったのだろうかと愕然としました。

原発再稼働反対や、TPP反対にしても全く同じです。

いくら、現実を突きつけても、信頼できるデータや予測を並べて、正論を語り、道理を説き、真の利益を訴えても、政府の方針は国民の声の総意ではなく、「連合国」の声の総意で決まるという現実があるようです。

そして、今や、その「連合国の声」も、実は一部の多国籍大企業のパトロンたちの利益によって決まっているという現実があります。

それにもともと、日本には、国民の意思が国家の意思に変換されるという伝統はありません。

「仁者による徳政」に期待するような伝統がありましたから。

東浩紀さんなどが、国民の声を政府の独断への有効な抑止力とするために情報ツールを駆使して集合知を可視化するというタイプの提言をされているのを読んだことがあります。
でも、いくら集合知が可視化しても、日本の「戦後」は、「政策決定はアメリカの意向に沿う」という合意から出発しているようなので、それを変えない限りは、だれがどんなに正論を唱えても多分「多数で説得」とか「理屈で説得」ということにはならないと思います。

では、どうしたらいいか。

ひとつは、そうやって押しつけられてきた憲法だの政策だのを日本の国益にかなうように巧妙にすり替えて利用する。
今の世の中で国際的な合意である普遍主義や平和主義や環境保全主義などの流れをうまく使ってロビー活動をする。FTAも対EUとか中韓とのものを平行して進めて、アメリカを牽制する。

もう一つは、拝金主義の資本家たちではなくアメリカの一般国民に的を絞って、啓蒙活動をすることが考えられます。アメリカ人は子供の頃から「アメリカ一番」を刷り込まれているのでものの見方が単純ですが、いざ「知らなかった過ち」を突きつけられると本気でショックを受けて懺悔したりします。

私は第二次大戦時の日系人の収容所のことを初めて知ったアメリカ人に面と向かって涙を浮かべて詫びを入れられたこともあります。

アメリカ人は平均的に、ひとりひとりは日本人やヨーロッパ人ほど偽善的でなく、正義感の強いいい人たちだと思います。
だから、ステファン・エッセルの呼びかけにもすぐ反応してオキュパイ・ウォールストリートの運動を始めるし、TPPにですら、http://democracynow.jp/video/20120614-2
で日本人にも明らかにされたように、

「これは貿易協定ではない、企業による世界支配の道具です」「1%の富裕層が私たちの生存権を破壊する道具です」

と糾弾の声を上げたりしているわけです。

従軍慰安婦の話でも多分そうだったのでしょうが、「犠牲者」側がうまく働きかけて利用すればアメリカ人は義憤に駆られてすぐ話がまとまり、それが政府の方にまで届きます。つまり、アメリカは、一応、国民の声が上に達するとそれを反映しないではおけない基本線はあるわけです。

だから、日本人も、アジア政策におけるアメリカの傲慢さを今の情報ツールを使ってうまくアメリカの一般市民に伝えることができたら、「そりゃひどい」ということになるかもしれません。

戦勝国と敗戦国の関係で政府の側にはもうどうしようもない負の前提があるようですから、もうそちらには期待しないで、アメリカ一般市民の「草の根義憤」につながるような正論啓蒙活動を戦略的にやっていく方が流れを変える可能性があるような気がします。

「日本がアメリカに蹂躙されている」というのではなく、あくまでも、日本もアメリカ一般国民も、企業による世界支配の犠牲になっているのだというスタンスで。

国民番号法案も完全にマーケティングのベースデータのような気がしますね。

アメリカ人のピューリタン的メンタリティを刺激すれば、できることもあるような気がするんですけれどね。日本の政治家を変えることよりはまだ可能性があると思います。

最近、北朝鮮の好戦的な挑発なんかについては、ローマ法王に手紙を書いてもらえばどうかとも思いました。

キューバ危機の時に、当時の教皇ヨハネ23世がソ連のフルシチョフに平和を訴える手紙を書き、なんと、共産党機関紙の『プラウダ』に掲載されました。

当時のケネディ大統領がアイルランド系カトリックだったので思いついたのかもしれません。

北朝鮮は表向きは信教の自由があるのでカトリック教会も一応はあり、韓国からのキリスト教NPOもたくさん入っています。金日成の家族にも確かカトリックがいました。

何かそういう超国家的、あるいは、超ビジネス的なネットワークを利用して、小さな危機、ひいては大きな危機を回避できるのではないかと期待します。

3.11の後で、それまで原発のことを問題にしていなかった多くの人が自主的に情報を集めて啓蒙し合い、原発廃止のコンセンサスができた(けれど国家の政策や企業の方針にはもちろん反映しないわけですが)ように、弱者連帯の潜在的な力は普遍的にあると思うのでそれをどうつなげていくかということですよね。

私もずっと考えていきます。

http://setukotakeshita.com/

650愚者:2013/04/13(土) 12:58:23
コメントありがとうございます。
私の環境からforum3に投稿する方法が解らないのでこちらに書かせていただきます。『フランスの不思議』の記事を読み直しました。ヴィルパン外相のイラク戦争反対の国連演説でフランスはいざという時に指導者が理性的な判断ができる国という強烈な印象を受けたので、その後の政治家達の姿勢がそんなものだったとは興醒めです。
伝統宗教のゾンビに匹敵するものが日本にはないのでしょうか?日本人の拠り所というか偶像はいまや市場、自由主義経済、アメリカのようです。
竹下先生やNPOの方々のご指摘のとおり、敵を間違えずに99%がグローバルに連帯して1%に抵抗するべきですが、具体的な方策はあまりにも微力です。
郵政民営化を境に日本の行政機関は金融業者か詐欺屋?みたいになり、産官学の連携も行き過ぎになりました。東大総長がM総研のトップに就任して新聞各紙に広告が出たり。国会や内閣はテレビのワイドショーとなり、芸人が活躍しまっとうな政治家は排除されています。「自由な競争」や「規制緩和」の信者たちが政官財界を仕切っていて、テーマパークのアトラクションみたいなプランをどんどん出しています。

651愚者:2013/04/13(土) 13:11:26
連投2
(続き1)会議や社内のコミュニケーションを英語にする規則とか、秋入学にすれば世界中から優秀な留学生を集められるとか。大震災の美談は飽きられてきて、原発、基地、TPP、改憲、増税の致命的な国内問題を忘れさせるためマスコミは近隣諸国への反感を煽る報道一色です。
夏の選挙で逆転しないと、国民番号法案、秘密保持法案、国家総合安全保障法案(憲法改正)があっというまに成立して、政府に不都合な者をいくらでも取り締まれる全体主義軍事国家への決定的な一歩を踏み出すということです。護憲の運動は存在しますが、驚いたことにカトリックのピース9は猛烈に信者達に叩かれているらしいです。日本が99%が犠牲になる国になりつつあるというのに。B16教皇は何度か市場至上主義と相対主義を公式に非難しましたよね。JP2教皇の死の文化への非難を具体化したものと思います。宗派的な主張ではなく普遍的な、99%が共有する考えです。
竹下先生の『アメリカにNOといえる国』が、本澤二郎氏という評論家のブログの今読むべき本のリストに挙げられていました。

652愚者:2013/04/13(土) 13:26:29
連投3
(続き2)
知識人達はレジスタンスを既に実践してきたとも言えますが、今やメディアと言論の戦場で本気で戦っていただく時です。特にいわゆる保守良識層が、仁者の徳政を信頼する気風につけこまれたのか、政府与党のイデオロギー(市場主義、アメリカと組めば間違いないという信仰)に気づいていない点が難しいのです。与党と、野党を装う市場教政党の八百長が繰り広げられマスコミの政治報道を独占しています。
99%と9条に象徴される立憲主義を殺さないために、知識人やアーティスト達が緩く連携して、石ノ森章太郎氏の999のキャラクターを活用したりして1%を叩きのめし正気にしてあげて下さい。お願いします。
連投失礼しました。

653Sekko:2013/04/15(月) 08:23:37
愚者さま
イラク戦争の頃のことを今思うと、2002年の時点でたとえばドイツではシュレーダー首相がフランスと共に不参加を表明した時、「戦後ドイツの政治家たちがずっとアメリカのいいなりになってきた中ではじめてアメリカの要求を拒絶した」とドイツ国内で絶賛された話を思い出しました。その時にブッシュの政策をヒトラーになぞらえた女性閣僚がいてアメリカが激怒したという話もありました。

で、その後、米独関係がどれだけ壊れたかというと、大して壊れていない。

2002年や2003年の時点での日本なら、日本がもしNOと言っていても、失うものはなかったようにも思います。

フランスに暮らしていてもそうなのですが、一般的に言って、いわゆる欧米人って日本人が思うほどいろいろなことを根にもたないというか、単純というか、すぐ忘れるというか、割と関係を修復しやすい人たちなんです。

拒絶したい時にはバシッと拒絶しても、別の機会に友好的にふるまえばまたうまくいくというような。日本人は自分で前のことを気にして気まずくなったり、あるいは関係が悪くなるのをおそれて嫌なことでも譲歩したりしても、そんなことも分かってもらえないし、譲歩し損ということが往々にしてあります。

こういうメンタリティの問題は、それでも、国際関係をじっくりと観察していれば分かると思うんですけれどね。

それでも難しい問題はたくさんありますね。

たとえばフランスは痩せても枯れても普遍主義の国なので、そして、社会民主主義の国なので、福利厚生の各種手当が、収入の多寡や国籍に関係なく、合法的にフランスに住んでいるというだけで支払われます。

そういう政策のせいで新自由主義経済に後れをとっていて、そのおかげで自分たちは得をしているとドイツやイギリスは公言しています。

理念に殉ずること自体は私はいいことだと思うので、その結果の不都合は受け入れるのにやぶさかではないのですが、問題は、そうやって、「稼ぐ以上にばらまく」うちに、財政赤字が膨大なものになってしまっていることです。

もっとも、CAC40のトップが税金逃れのために国外に投資している金だけで財政赤字の3分の1に達するそうで、噴飯ものという気はするのですが、それでも、カユザックを擁護するわけではないですが、そういうことも知り尽くしている人が政治に目覚めるというのは悪いことだけではないとも思います。少なくとも、政治家になることで金儲けをしようと思っているのではなく、最初から金がある人がようやく政治的使命に目覚めたのかもしれませんし。

清貧だけで生きてきた人ばかりで国を動かすのは別のリスクがあるかもしれませんし、フランス革命などもほどなく恐怖時代に突入したわけだし、「1%をたたきのめして…」などという目線では語れないかもしれません。

個人的にはもっと社会学者にがんばってほしいです。日本の社会学って、なんだか、「ガラパゴス化した日本に特有の社会現象」みたいなものを分析したり解説したりしているようなのが目だって、本質的なものはあまり語られていないような気がします。

多くの人が多様性を活かしながらおっしゃるように緩い連携をして、立憲主義、平和主義を守っていければいいですね。

でも、最近、ドイツに占領された時のフランスのヴィシィ政権について、これまでは親ナチのコラボの極悪政権みたいに言われていたんですが、あの時点では、「平和主義」、つまり戦闘を回避する道だったという評価も出てきています。まあナチに過剰に迎合して自主的にユダヤ人狩りをするなど結果的に道を誤ったわけですが、親独政権なしでみながそろってレジスタンスに向かえっていえば、ずっと多くの血が流されていたかもしれないのも事実でしょう。

どちらにしても、何を譲れない線とするかをまず明確にして、それを歴史の文脈とすり合わせながら個々の場面に対応していくのが大切かと思います。

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654グラ(愛犬の名称):2013/06/21(金) 05:05:41
トラウマについて
竹下先生
先生がご指摘になった「トラウマ」について、補足的な説明をさせていただきます。
なお、このメールへの返信は、気になさらないでいただければと思います。
しかし、なぜ、竹下先生に、宗教相談のメールをするかというと、竹下先生の著作やブログを読んでいて、キリスト教を平易に表現することを通して、若い人たちにも理解してもらおうという姿勢に貫かれているように思えるからです。この「平易に」という意味は、日常の生活感覚を通してということです。

私は、プロテスタントの福音的な教会に身を置く者です。謂わば、キリスト教原理主義者であるかもしれません(笑)
ただ、この日本のプロテスタントも超高齢化社会の到来とともに、絶滅危惧種にリストアップされそうな勢いにあるということです。
そして、その原因のひとつに、敗戦後のプロテスタントのキリスト教が、マッカーサーの占領政策の一環としてアメリカから直輸入されてきたことにあります。負け犬が虎の威を借る、です。(マッカーサーは本気で、キリスト教による日本人の洗脳を考えていたことは事実のようです。)

問題は、敗戦後のプロテスタントのキリスト教の受容が、こうした卑屈な屈折した気分の中で展開したことですが、さらに問題を複雑にしたのが、無教会主義の台頭でありました。
戦時下、非戦を貫いたということで、共産党と無教会は戦後一大ブームとなります。戦後の初代東大総長は南原繁、続いて矢内原忠雄と、無教会出身者を就任させて、新生「東京帝大」は戦前からの権威付けに成功します。(岩波文化も後押しします。)

無教会主義、特に、塚本虎二を中心としたグループは、「教会の外に救いあり」として、カトリック・プロテスタントを問わず、総ての教会に挑戦します。

以上が、敗戦後のプロテスタントの歴史を、私なりの理解で略述しましたが、問題は、無教会主義は「メイド・イン・ジャパン」なキリスト教であり、「かなり異端臭い」のではないかという疑問です。
内村鑑三が主張した無教会(行くべき教会が無い)と塚本虎二の無教会主義は似て非なるものと思います。
しかし、一世を風靡した無教会主義が今や「風前の灯」であることを対岸の火事とは思えません。カトリック・プロテスタントを問わず、日本においては、遠藤周作が指摘した通り、キリスト教受容の根っこが腐るようになっているのかもしれない、これがトラウマです。

竹下先生の著作やブログを読んでいて、こうした不自由さを感じませんから、この「ご相談」は先生にとっては理解不能のような気もします。

しかし、日本の戦後のプロテスタントは、無教会主義と向き合い、清算すべきものを清算しないのであれば、いずれ絶滅危惧種に確実にリストアップされることになると思います。

私も「天の風」に吹かれてみたいものです。

655sekko:2013/06/21(金) 08:15:40
グラさま
興味深いお話をありがとうございました。

>日本においては、遠藤周作が指摘した通り、キリスト教受容の根っこが腐るようになっているのかもしれない、これがトラウマです。

そんな指摘があるのですか…

でも、第二次大戦後の伝統宗教の崩壊ぶりはフランスのような国でも同じで、資本主義の肥大が人々を即物的にしたのは「先進国」の共通した傾向だと思います。

そんな時代に無教会主義の果たした役割もあると思います。

結局、マイノリティ宗教に属するとどこでも共同体主義に陥りやすいということかもしれません。私はフランス人の仏教徒コミュニティと親しいのでよけいにそう思います。

私は、昨年出た中公文庫の矢内原忠雄さんの『キリスト教入門』に解説を書きました。グループとして、あるいは運動としては「風前の灯」なのかもしれませんが、また、教会の本当の意味から逸脱している点もありますが、矢内原さんたちが誠実にキリスト教を説明しようとした姿勢は今も充分通用する重さと深さをもっていると思いました。

日本に限らず、今の世界のキリスト者は、非キリスト者に何かを促したり納得させたりするというのではなく、自分の生き方によって、「人となった神を通して、人は人を愛することができる」というあかしをしていくのがいいのではないでしょうか。

その意味で、

>竹下先生の著作やブログを読んでいて、こうした不自由さを感じませんから

という印象をもっていただいているのは嬉しいです。

「キリスト教信者っていろいろ不自由なんだ」などという印象などもちたくないしもたせたくもないですから。

トラウマのないところでキリスト教にかかわった私はその立場を生かしていきたいと思っています。

ゲラさまもどうか時々は視点をずらせてリラックスしてください。

「天の風」って、吹いてますよ。

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656グラ(愛犬の名称):2013/06/23(日) 08:26:08
矢内原忠雄
矢内原忠雄の「キリスト教入門」を手に取らせていただきました。先日の竹下先生へのメールは釈迦に説法どころではなく、『無知の恥!』も度を超しておりました。大変、失礼いたしました。

私事ではありますが、私が矢内原忠雄を知ったのは、私に同じ教会内の女性を紹介し、結婚へと導き、結婚式の際には仲人までしてくれた、教会の長老格の役員を通してでした。その意味では、彼は今の私たち家族の土台を作ってくれた方であります。その彼は、1937年(昭和12年)12月2日の東大を辞する矢内原忠雄の最終講義に出席しており、その時の様子を語ってくれております。特に、矢内原の最後の言葉、「身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する」との言葉は脳裏に焼きついたと語りました。この彼は、その後、学徒出陣します。彼は学生時代、全日本での剣道での優勝やら、ヒトラーとの謁見、賀川豊彦との出会いがあったようです。彼は仏印に従軍し、傷病兵を置き去りに撤退しようとする上官たちを縛り上げたため、叛乱罪、要凶器上官殺害未遂で軍法会議で死刑の宣告を受けましたが、敗戦により9月に釈放されたという波乱万丈の持ち主です。彼は1984年に召天しますが、葬儀は彼の遺言で「凱旋式」として執り行いました。敗軍の将校が天に凱旋するというのが、彼の信仰でした。
彼にとって矢内原忠雄は福音の証人、人生の教師、信仰の導師であったと思います。彼の死後、彼の蔵書から矢内原の畏友で、矢内原が編集した藤井武全集10巻は、今、私の本箱にあります。
私たちのグループは、その彼を記念して、「凱旋」という私家本を発刊いたしました。

竹下先生が解説でお書きになっている通り、「だからこそ、敗戦の後で、『民主主義』を採用しても実は昔から何一つ変わらず(原文は代わらず)、経済の繁栄に目をくらまされて実存的な弱さの手当てを怠ってきた結果、希望や目標を失って漂流するに至った二十一世紀の日本において、矢内原の言葉が貴重な証言であり続けるのだ。」は、私にとっても「クレドー」となり得ております。

657sekko:2013/06/23(日) 23:50:33
グラさま
とんでもありません、お話はとても参考になりました。

仲人の方がヒトラーと謁見してどういう感想を抱いたのか、何をヒトラーと話したのか、興味津々です。

藤井武さんというのもすごい方ですね。

日本のような国で何につけてマジョリティの側にいる人は空気にのまれて思考停止に陥りがちですから、「日本のクリスチャン」の体験する葛藤は精神を強靭にして貴重ですね。

しかもその中で共同体主義への誘惑を斥けて真の「普遍性」に到達した人々はすばらしいと思います。

矢内原本の解説、短いものなのに変換ミス(「変わらず」を「代わらず」)があったのに気づきませんでした。ご訂正ありがとうございました。

お話からグラさまが男性だと知りました。なんとなく同世代の女性をイメージして書いてました。グラって、犬の名にしても珍しいのでは? 奥さまや愛犬グラちゃんによろしく。(グラちゃんのイメージは柴犬。これも違っているかもですが)

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658ウラヌス:2013/06/24(月) 07:44:38
最近のポストモダン
昨日は詳しい回答をありがとうございました。また質問してよろしいでしょうか?フランスではフーコーやドゥルーズ、ガタリ、デリダ、リオタールといった思想家が20世紀後半に現れて、日本にも影響を与えましたが、彼ら以降フランスではポストモダンの思想はどうなったのでしょうか?私が知る範囲ではバディウとかナンシーが今も現役のようですけど、特にどういう人がポストモダンの今現在の中心なのでしょうか?それと日本では80年代から90年代にかけて、ポストモダンがもてはやされましたが、最近はロールズのような英米系のリベラリズムも影響が強まっているように思われます。フランスではポストモダンの思想はどの程度評価されているのでしょうか?かつて日本でよく読まれたサルトルやフランクフルト学派のアドルノは本国では極左とされ、批判も多かったと聞きました。ポストモダンもフランスでは案外批判が多かったりするのでしょうか?特にソーカル事件以降はどうなったのでしょうか?

659sekko:2013/06/24(月) 16:08:24
これは自分で調べてください
ウラヌスさん、申しわけないですがこういうことはまず自分で調べてください。上のタイトルに説明を加えたように、一般的情報をレジュメして答える場所ではありません。よほど時間があってちょうどそのこと考えていた、というような場合は答えます。お書きになったようなことのキイワードをフランス語でフランスのgooglなどに打ち込めばいくらでも情報は出てきます。フランス語がおできになるのですから今はやり方次第で良質の情報もいくらでも手に入ります。その上で、「ここではこれについてこう言われてあそこではこう言われているがじぶんはこう思うのだが…」というようなピンポイントの疑問が出てきたらまた寄ってみてください。(この掲示板の過去にもポストモダンについての話題はあったように記憶しています。暇があれば検索してください。)

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660ウラヌス:2013/06/24(月) 16:59:01
わかりました
承知しました。では今後は一般的なことは避けます。

661グラ(愛犬の名称):2013/06/25(火) 21:55:36
西洋近代理念
グラはトイプードルで、娘が連れてきましたが、その娘も結婚のため、グラを置いて引っ越して行きました。
十日ほど前のことです。別れる時は、グラを抱き締めて、娘は大泣きしました。私とってグラは、娘が置いて行った「コ・コ・ロ」と思い、<ネコっ可愛がり>しますので、家内から「バ〜カ」と言われている今日この頃です。

竹下先生の「キリスト教の真実」を再読しました。
矢内原忠雄の本で、キリスト教の入門書が文庫サイズというのは、私の中では「想定外」でありましたので、敷居の高いキリスト教も、それも無教会関係の本も、「ここまで来たか」という驚きでありました。
それで、改めて、「キリスト教の真実」を再読しました。
佐藤優氏の「はじめての宗教論 右巻・左巻」あたりから、「ふしぎなキリスト教」橋爪大三郎氏・大澤真幸氏共著と、キリスト教界以外からの積極的なアプローチを、それこそ不思議なモノを見るような感覚で眺めておりました。その線上で「キリスト教の真実」を読みましたが読みやすかったですし、「腑に落ちました!」その感覚がなぜだろうと思い、再読しました。

竹下先生は、ISOをご存知ですか。国際標準化機構のことです。私は、ISO9001の品質管理システムの統括管理責任者(社長の代行)の経験があります。非上場企業でしたが、資本金約5億円、社員はアルバイトまで入れると約1千名の規模で、新規導入の責任を持たされました。
戦後のQC(品質管理)運動はアメリカから持ち込まれますが、中途半端に終わります。ISO9001はこのQC運動をまさに普遍化したものです。
企業がISO導入に積極的になるのは公共事業の入札条件になったからです。
ISOの原理的なことの説明は省きますが、導入時は、文書化が面倒臭いとか、作業手順は気合だとか、それはそれはすごい抵抗に遭いました。しかし、標準化がされると、「言った言わない」の責任の曖昧さがなくなったばかりか、利益も大幅な改善をみて、期末賞与まで支給されることになりました。
ISOは、P(計画)D(実行)C(評価)A(改善)のサイクルを通して、継続的な改善を実施する「運動」です。

竹下先生があとがきでお書きになっている、「『近代理念』とは、『受容』して『順応』し、『停止』や『惰性』に至れるような着地点ではない。それは、たえず『自己定義の統合』に向かって前進し続けることを課された『運動』なのである。」(P275)に符号しております。
ちなみに、神学をまじめに学んでいる牧師は、このISOの原理は理解できるようです。
ISOは、中小企業を中心とした草の根運動として定着しました。
普遍化の意味を生活レベルで理解できる初めてのツールになったと思います。
その意味でも、「キリスト教の真実」は、他のキリスト教界以外からの積極的なアプローチ「本」とは、一線を画していると思います。

662sekko:2013/06/26(水) 06:07:05
トイプードルでしたか
グラさまの思い入れのようなものからなんとなく健気な柴犬を想像したのですが、健気なのはグラさんの方だったのですね。

子供の置いていった犬や猫を世話し続ける親ってすごく多いですね。子供たちってひょっとして、親元から羽ばたくために、ほんとに「こころ」の一部を残してあげようとして、無意識にペットを持ち込むのかもしれません。ペットって、永遠のかわいい二−トですよね。

ISOはもちろん知っていますよ。日本での受容がそういう具合になっていったということは知りませんでしたが、なるほど普遍主義が文化を超えてこういう風に機能していったといういい例の一つですね。有意義なお仕事をなさいましたね。

先ほど別の読者の方にForum3でお答えしたのですが、『キリスト教の真実』と『戦士ジャンヌ・ダルク…』は私の中では実は一続きの本なのです。

以前『バロック音楽はなぜ癒すのか』(音楽之友社)、『聖女の条件』(中央公論新社)、『アメリカにnoと言える国』(文春新書)という3冊で、ユニヴァーサリズムの擁護の路線をはっきり意識して始めました。

何を書いても、形を変えてはいますが、どうすれば、弱者を排除することのない世界に近づけるかという模索を続けていることには変わりはありません。

これからの予定はユダ論とフリーメイスン論とナポレオン論ですが、いつも同じ風を感じ続けて航行していくはずです。お祈りください。

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663グラ(愛犬の名称):2013/06/29(土) 06:08:07
「聖母マリア」
聖書での表記も、イエスの母については、マリアとマリヤに分かれといるように、振り返ってみますと、プロテスタントの、それも福音派と呼ばれるキリスト教原理主義では、マリアの生涯、例えば、15歳でイエスを生み、多分、72歳頃に「被昇天」したなどということは、聖書研究でもその対象にすらなりません。

しかし、イエスの十字架は、神学的にも、天と地を決定的に隔てる出来事であると同時に、天と地を結び合わせ、救済する真理となります。そのイエスの生涯に寄り添い、様々な出来事を「心に納めて、思いを巡らし、(ルカ2:19)、心に留めて(ルカ2:51)」、と記すことで、マリアがイエスの生涯を、その真実の姿を十分に理解できないながらも、心に刻むことを、福音記者ルカは強調します。

竹下先生の「聖母マリア」を読むことで、マリアの生涯とその後の民間信仰の展開を通して、私自身の信仰の在り方にリアリティーを齎しました。
ヨハネの福音書によりますと、マリアは、十字架の足元に留まっております。マリアは、自分が産んだ子を罪人として死刑に処せられる場面に立ち会っているということです。母マリアは、母である自分よりも先に死ぬ「親不孝」の場面に無力な姿を晒しています。さらに、十字架上のイエスからは、「女の方」と呼ばれます。

実は、私は教会の礼拝で、時々、信徒説教者として、牧師たちの「検閲」を受けた説教原稿をもとに礼拝説教をします。「検閲」が通れば、7月21日の礼拝で、先ほどの聖書箇所も含め、イエスが、なぜ「女の方」と呼んだのか、これは同じヨハネの福音書のカナの婚礼での奇跡でも、「女の方」と母マリアが呼ばれることと関連付けて、説教をする予定でおります。

とにかく、竹下先生の「聖母マリア」からも大きな刺激を受けて、聖書の読み方が変わったことをお伝えしたかったのです。
わたし的には、依然として、思弁的であり、敬虔主義的でありますが、日本のプロテスタントの教会が絶滅危惧種もしくはガラパゴス化から抜け出す努力をしたいと考えております。

これと関連して、竹下先生にお尋ねしたいことがあったのですが、躊躇しております。
カール・バルトの神学の出発点となった出来事に、「ブルームハルトの体験」があります。この体験については、わたし的には、結局、思弁的、敬虔主義的な理解に留まっているのではないかという疑問が、最近、湧いてきております。これも、竹下先生の本を読むことで、ヨーロッパのキリスト教文化の伝統を踏まえて、「ブルームハルトの体験」を理解しないと、表面的な理解に終わっていたのではないかという反省を持ち始めているからです
この「ブルームハルトの体験」は、
「神の国の証人 ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ」 井上良雄著 1982年3月 第一版第一刷発行 新教出版社
に、詳しく記載されておりますが、いずれにしましても、躊躇しております。

664sekko:2013/06/30(日) 05:11:23
ブルームハルトの体験
ブルームハルトの体験って、息子の方の1896年10月の出来事ですか、それともおとうさんの方の悪魔祓いの話ですか?

私にとってブルームハウトというのはキリスト教社会主義が行き過ぎて社会党から議員になってしまった人、バルトが評価したように「宗教」という言葉のかわりに「神の国」を語っていた終末論的な人というものなのですが、グラさまにとって問題となっているのはどういうことなのでしょう。(彼についての日本語の本は読んだことがありません)

http://setukotakeshita.com/

665グラ(愛犬の名称):2013/07/02(火) 18:35:27
「父ブルームハルトのこと」
竹下先生
所謂、「悪魔祓い」のことです。
場所は、シュトゥットガルトから鉄道で2時間、ヘルマン・ヘッセの故郷カルフの町から東北に向かって8キロほどのメットリンゲン村。恐らく、ヒルデガルトのビンゲンとも約々二百キロ圏内かと思われます。

この「悪魔祓い」は、映画エクソシストのような内容で、ゴットリービン・ディトゥス(1815年生まれ)という娘の二年以上続いていた憑依状態のなか、1843年12月のクリスマスの期間に決定的な出来事が起きます。ブルームハルトのヴィテンベルクの宗務局への「報告書」によりますと、「娘は頭と上半身を、椅子の背にのけぞらせていたが、人間の喉から出るとは思えない声で、『イエスは勝利者だ。イエスは勝利者だ。』と、吼えるように叫んだ。この言葉は、それを聞いた限りの人々に理解され、忘れることのできない印象を与えた。」と記されております。

ブルームハルトにとって、この「悪魔祓い」についての理解は、キリスト教教義のいう「恵みの勝利」などではなく、さらに、一つの原理とそれに対立する別の原理の戦いというものではなく、活きた人格的な神とそれに逆らうやはり人格的な暗黒の力とのつばぜり合いの戦いであったということです。この戦いは、「模擬戦」などではなく、事実粗野なまでに「肉薄戦」であったということです。

バルトは、教会教義学で、「イエスは勝利者だ」という節を設け、「この言葉は、当時においても新しい言葉であり、そのような言葉として、当時もそしてその後長い間、孤独な言葉であり続けた。」と記します。

私は、ここでバルト神学を説明する能力もありませんが、しかし、この「悪魔祓い」事件は、ヨーロッパの歴史おいては、竹下先生の「聖者の宇宙」=「聖者システムの歴史と実態と意味」(P12)の一齣であるようにも思えます。
ブルームハルト父子・バルトは、信仰覚醒・教会覚醒に進みますが、カトリック的な理解、ビンゲンのヒルデガルトをブルームハルトも知っていたかも?などと想像しております。

竹下先生にどのように説明しようか、右顧左眄してましたら、
井上良雄著 「神の国の証人 ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ」の一節に、
ブルームハルトが東方教会的だということを言うのは、バルトだけではない。エルンスト・ガウグラ-は、そのブルームハルト論の中に、「あるロシアの神学者」が、ブルームハルトの書いたものを読んで、「父ブルームハルトは、私にはプロテスタントの『長老』のように思える」と言ったというエピソードを伝えている。
と記しておりました。
この長老の注釈として、
「ロシア語で『スターレッツ』は、年老いた人の意。ロシア正教会における宗教的指導者、修道士であるが、「長老」というのが、教会内の階層的な職位として位置付けられているわけではない。霊的な賜物によって、権威を持ち、若い修道士たちの訓練に当たった。「長老」は、東方教会の歴史において古くからあったが、十八世紀の後半から、ロシアの修道生活の中で大きな役割を持つようになった。平信徒たちは、その苦悩を癒してもらうために、その周囲に集まった。われわれには、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に描かれたゾシマ長老の姿によって親しい。」
とありました。

竹下先生には、プロテスタントの視点での、この「ブルームハルト的なもの」を、聖者の宇宙的な視点から意見をいただこうかなと思っておりました。といいますのは、ブルームハルトが「肉薄戦」を闘った人間の現実は、キリスト教会全体の歴史での戦いでもあったと思います。
少なくとも、ブルームハルトの戦いは、聖者の宇宙の一齣として、理解される必要があると思われます。

とりとめのない内容になってしまいましたの、無視してください。

竹下先生の本は、プロテスタント側からもアプローチしなくてはならない本だということを伝えたかったのですが…。

666グラ(愛犬の名称):2014/04/17(木) 11:54:08
「ユダ」を読ませていただきました
竹下先生

早速、「ユダ」を読ませていただきました。
時機に適った出版であったと、個人的には感じております。
私は、プロテスタントの所謂福音派に身を置く者ですが、「福音とは何か」という根本的な理解にゆらぎが生じた中に生きている者でもあります。

福音は、救いの歴史だけでは捉えきれないという反省が、教会を変え始めております。
私は、この教会の反省は、正しいものと理解しております。福音は救いだけではなく、救いを包含する、神の歴史全体を理解する必要があります。

ユダの両義性もまたそのように理解する必要があるように思われます。
森有正先生が、「アブラハムの生涯」という講演集で触れておりましたが、創世記15章12節、「深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。」(新改訳聖書の訳ですが)アブラムへの祝福に先立つところの「暗黒の恐怖」は、何であったのでしょう。

ユダという表現では、日本での作品は、大下英治の「十三人のユダ」しか、私は知りません。三越百貨店を私物化した、岡田茂と竹久みちを題材にした作品です。この作品でも、「一人目のユダ」とか、「ユダは誰だ」という章もあります。ユダを裏切りの象徴として使用しておりますが、結局、公器である企業を私物化するという視点も「ユダ」かもしれません。

ユダを、歴史的に、文化的に俯瞰し、調理する、竹下先生の凄みには、相変わらず脱帽です。
大切にしたい、ご本であります。ありがとうございました。

667sekko:2014/04/18(金) 00:42:43
グラさま、ありがとうございます。
ご感想をいただいて嬉しいです。直接の知り合い以外からの最初の感想でした。

サイトの著作紹介のコメントもお読みください。

『十三人のユダ』のことは知りませんでした。

このタイトルの選び方とインパクトにはいろいろなものを感じさせられます。

今日、進化生物学者の書いた『「先送り」は生物学的に正しい』(宮竹貴久)という本を読んだのですが、とにかく生き残るためには生物は死んだふり、擬態、パラサイト、なんでも実践するというのを見て、「裏切り」も含めて、「十三人のユダ」のとった行動は、きっとそれぞれの生存戦略だったということなのだろう、と想像します。

アブラムの「暗黒の恐怖」についても考えさせられます。

ありがとうございました。

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668エトワール:2014/04/26(土) 07:08:29
天使
745年に第91代ローマ教皇ザカリアスは教会会議においてウリエル、ラグエルなどの天使を堕天使と認定し、ラグエルを「聖人の名を騙る悪魔」と非難したといわれています。民間において過熱していた天使信仰を危険視した教会がそれを沈静化するために行った政治的処分で、知名度の高かったウリエル、ラグエルなどの天使がその見せしめとなったというものですが、この年に公会議が開催された記録はなく、その真相は、邦訳されている文献では、あまりよく分かりません。ウリエル、ラグエルらの堕天使事件について、どのようにお考えでしょうか。

669sekko:2014/04/26(土) 23:49:19
エトワールさま
ミカエル、ガブリエル、ラファエルの3人以外の大天使は基本的には名前が啓示されていないということですね。ウリエルら4人はエノク書など旧約外典に出てくるわけで最初から要注意ではありました。

Adelbertという人がこれら外典の天使たちについて詳細に書き出したので、聖ボニファチウスが教皇ザカリアスに進言して745年にこの人を異端として破門しました。Uriel, Raguel, Tubuel, Inéas, Tubuas, Saloac, Simielへの祈りを勝手に作ったということで、これらの天使の集まりは悪魔の集まりだと言われたようです。

(Françoise Bouchard, "Les grands miracles de la dévotion", Ed. Résiac, 1996.)

"Dictionnaire portatif des Conciles" (Paris, Veuve Didot, 1767)によれば 745年10
月25日にローマで、7人の司教、17人Romeの司祭と聖職者が教皇のもとに集まって、Adelbert と Clement du Sacerdoceを異端として前者の著作を焚書したそうです。 正典に出てこない名前を勝手につけてはいけないということです。このことは789年のアーヘンの公会議でも確認されました。

でもその前に787年の第2ニカイア公会議で絵画や彫刻で天使を表現することが許可されたので、天使の図像そのものは多くなりました。その時に参考にされたのは、翼を備えたギリシャの勝利の女神ニケの姿だったりしています。

もっとも、アウグスティヌスが言ったように、天使とは神に仕える「機能」のことであり、その実態は「霊」であり、名前をつけて偶像化するのはまずいということです。

でもその後も、連祷に出てきたり棺に名が彫られたり、7人の大天使をまとめて守護を祈るのが流行ったり、イエズス会士がフィリピンにまで7人の名を広めて女子修道院の名になったり、4人の大天使の名も結局、復活継承されてきました。

人はきっと天使に祈ったり頼ったりするときに「名前」を呼ぶ必要があるのかもしれません。そしてその名前にはちゃんと仕様書や取扱説明書もついていてほしいのが人情なのかもしれませんね。

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670kei:2014/05/08(木) 02:12:04
「キリスト教の真実」について
竹下様
最近になり、ファンになった者です。
遅まきながらではありますが、「キリスト教の真実」という著書につき感想を述べたく存じます。
まず、大きな問題意識に満ちた、とても新書には収まらない労作と存じます。
第1章だけでさえも、一般の日本人にとっては、なかなか常識とはかけ離れたことかと。
拙は大筋において貴方の考え方に同意します。
本書は、いわゆる西側先進国と言われる諸国が、キリスト教の考え方を、これまでの歴史において、「普遍主義」に一般化、脱宗教化してきた過程であり、果たしてそれを非キリスト教世界にまで包摂したグローバル世界化できるのかが問われている、という趣旨、あるいは問題意識かと存じます。
今拙が考えているのは、なかなか困難なことかと。
さらに言えば、非キリスト教世界との接合の中で、キリスト教的な考え方までネグレクトされ、旧約的、あるいはローマ的な考え方が復活してきているのではないか、とも思われます。
貴方は第7章で、「十字架上のイエス」の形象が心の中に刻まれていることを述べておられます。
拙は、シリアという地域が非常に好きなので、シリア戦争に心を痛めてウォッチングしていましたが、政府、反政府、あるいはそれをとりまくイスラム諸国さえ、駆け引き的で、暴力に対しての絶対的嫌悪という言説はなかなか見られませんでした。
また悪いことに、さらにそれをとりまくアメリカ、フランス、イギリスについても、実に形式主義的であり、言葉とはうらはらに、国家主義的でとうてい和平を実現するとは思えぬものだと思っています。
さらに現在進行中のウクライナでもそのようなことが見られると思います。
貴方の他の著作を拝読いたしますと、十字架上のキリストは、権力者の側ではなく、民衆、フォークロアの中にこそ、よりビビッドに映しこまれていたように感じております。
権力者の側ではなく、民衆の中から十字架上のキリストを権威として、その理想を叫ぶ者がでてきたのではないのでしょうか。
双方の側にそのような共通の苦難の形象がないところではなかなか歯止めがかかりにくいことを感じております。
救いとしては、現在カトリックが生命力を取り返してきつつあり、平和主義の立場から強く働きかけているところだと思われます。
なかなか思ったように書けませんが、まずはここまで。
乱文深謝。

671sekko:2014/05/09(金) 07:39:00
keiさま、ありがとうございます
keiさま、

確かに新書としては重過ぎることを詰め込んだあの本を的確に読んでくださってありがとうございます。

日本にいた3週間は韓国の沈没事故のニュースばかり表に出ていましたが、フランスに帰ると、ウクライナはもとより、中東やアフリカでの深刻な内戦や暴力行為(ナイジェリアで200 人の女子高生がイスラミストに拉致されて売られたことなど)のニュースがいっぱいで、平和主義の残滓も見えないように思えます。

それでも、最悪の恥辱や苦痛を与えられて無抵抗で死に至った人を神のペルソナのひとつとして掲げているキリスト教は、根本的なところで「上から目線」を成り立たせない宗教であると思っています。だからこそ、全知全能の神の代理人として君臨した教会だとか王権神授と言って独裁した絶対君主たちとか、異教の討伐や排斥をした人たちなどが席巻した歴史の中でも、いつもそれはキリスト教ではあり得ないといって清貧や弱者救済に乗り出したアッシジのフランチェスコなどの改革者がいつも存在してきたのです。

今のローマ法王フランシスコもそうですが、長く続いたヴァティカンの利権構造をおびやかしてかなりラディカルに弱者の側に立っているわけですが、「上から目線」を封印するというのがキリスト教の根本にある限り、だれも面と向かっては文句を言えないわけです。

他の、「偉い神様の神託を受ける人」とか、「教えや真理を体現している人」とかを崇める宗教よりは、ある意味で自浄力があるのかもしれません。ローマ・カトリックも、宗教戦争や近代革命や二度の大戦など、何度もいつ消滅してもおかしくない危機があったのに、いまだ存続していて一定の存在感を保持しているということ自体が奇跡のように思われます。

「上から目線」を否定すること、弱者や少数者の排除を許さないことを磔刑像が分かりやすく示し続けていることが、キリスト教文化の人たちを通して平和主義への潜在的な力となっていくことを期待したいと思います。

絶望する方がずっと簡単に思えるような世の中ではありますが、最新作『ユダ』についてのコメントにも書いたように、真の平和を標榜するのは結局のところ私たち一人ひとりの心の持ち方にあるのかもしれません。

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672kei:2014/05/17(土) 14:38:35
ジャンヌ・ダルク炎上と復活
竹下様、「戦士ジャンヌ・ダルクの炎上と復活」拝読いたしました。
ジャンヌ・ダルクにつきましては、実は講談社新書で貴著書に初めて接したのです。
ふとリュック・ベッソンの「ジャンヌ・ダルク」を観たところ、裁判の理路整然としたジャンヌの論理に触れて、不思議に思い、いくつか読みすすんだものです。
これまでに貴著他、岩波新書、ペヌルー「ジャンヌ・ダルク」、集英社新書「英仏百年戦争」また物語としては映画バーグマン主演「ジャンヌ・ダーク」「火刑台のジャンヌダルク」劇「ひばり」を見ております。
本書は、3つのテーマで、ジャンヌ・ダルクをめぐる歴史的事象について詳らかに述べられています。それは終章に向かう巡礼のようでもありました。
終章において、ジャンヌ・ダルクと聖母マリアが比較されております。
お告げの2つのタイプと書かれていますが、ある意味同じことのように思えます。
ジャンヌ・ダルクの場合も受容であったでしょうし、彼女は自分を声の器と考えていたでしょう。そしてその受容は聖母マリアを心に留めたことでしょう。
また聖母マリアの場合も、拙は「Mary of Nazareth」の影響を受けておりますが、老シメオンに「剣で貫かれる」と予言されたように、その道は苦難であったでしょうし、最後までその言葉の通り自分で歩みぬかれたと今考えております。
「Mary of Nazareth」では、エジプトからの帰還、主イエスに親族と共におしかけたとき、受難のときにおいて、その言葉が試され、聖母ご自分でその都度足を踏み出したように描かれておりますが、拙は聖母マリアのこれまでの違和感がそれで解消されたと感じました。
ジャンヌ・ダルクの生涯を考える場合、受難も通して考えねばならないと思われます。
「フランスを救え」という声はランスではなく、ルーアンまでも含めて貫徹されていたのではないでしょうか?
ペヌルーの著書、「英仏百年戦争」共にジャンヌの処刑以降にノルマンディーでの反乱が起きていることが述べられています。「英仏百年戦争」などは、ジャンヌの戦闘の意義はあまり軍事的に評価されていませんが、死後にこそナショナリズムの「否定できない潮流をつくる」と面白いことが述べられています。
さらに帰天されてからは、今に至るまでフランスを救い続けていると考えることもできると存じます。
考えてみれば、ジャンヌは、諸勢力すべてに裏切られましたが、そのことでかえってどの勢力にも属さない「民衆の聖女」となり、どの勢力にとっても負い目を持ち、掲げねばならない存在になってしまったのかもしれないと思えます。
リュック・ベッソンの映画は「聖戦」という新たな薪を投げ込むこととなりました。
イラクからウクライナに至るまで、現代の「聖戦」は双方の側に双方の側のための殉教者を出しており、それは交わることがありません。
ジャンヌのようにすべての側に負い目をつくる殉教者がない限り終わることがないのでしょうか、イエス・キリストのように?
ともあれ、日本の中世内戦の天下統一は武将の上からの英雄は居ますが、ジャンヌのような下からの英雄はいません。西欧他国でもここまでの存在はないように思えます。それは単にプロパガンダを超えたものがあるのではないでしょうか?

673sekko:2014/05/18(日) 07:45:21
ジャンヌ・ダルクと聖母マリア
興味深いコメントをありがとうございます。

ジャンヌ・ダルクが圧倒的に意味があると思うのは、あの本にも書きましたように、異端審問と復権裁判によって徹底的にその肉声から生い立ちその他に至るまでの記録が残されて発掘されているところです。

それに比べて、大きな声では言いませんが、聖母がイエスを神殿に連れて行った時にシメオンが言った言葉など、誰が聞いていたのか、書き留めたのか、マリアが自分で言ったのか、「記録」の実証性からいうと、ジャンヌ・ダルクとは全く別の次元のことだと思ってしまいます。もちろんルカに出てくる聖母にまつわるいろいろな情景がその後のキリスト教の信仰や文化において大きな役割を果たしたことは確かなことだし看過できないことですが。

ジャンヌに対してすべての人が一種の「負い目」を持っているという見方はおもしろいですね。確かにその負い目はナザレのイエスへの負い目みたいなものと共通しているのでしょう。

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674kei:2014/05/22(木) 00:20:24
EUとジャンヌ
CNNでEU議会選挙のニュースがありましたが、ル・ペンさんがジャンヌの看板の前で演説していました。
ジャンヌは今反EUの旗のもとに居るのでしょうか?反論はどうなっているのでしょうか。ナショナリズムが曲がり角の時期にはジャンヌももっと普遍的な読み方をしていく必要があるのかもしれないと思います。
詳細な記録が明らかになり、ジャンヌの明晰で敬虔な人物像が明らかになったと思います。
ジャンヌは決して狂信的ではなかったと存じます(そして今度は傀儡論が出てきたようですが)
デリダが正義論の中で「あらゆる決断という出来事は、自らのうちに、決断不可能なものを少なくともファントムとして、しかしながら自らの本質をなすファントムとして受け入れ、住まわせ続ける」と、まるでジャンヌのようなことを述べています。(法政大学出版局「法の力」)
ジャンヌは、まだ自分にもファントムとしてしか見えない正義を、自分の十字架を背負い、畏れおののきて、つくっていったのだと思えます。
そこが狂信的殉教戦士や現代の十字軍と決定的に違うところだと思います。
ジャンヌの名を借りる者は、ジャンヌの孤独な祈りと戦いを欺かないようにしてほしいものだと思います。
復活されたイエスは、信じないトマスに、傷の中に手を入れさせました。我々はどこまで詳細な記録が欲しいのでしょうか。イエスは「どんと来い」と言っているようですが。
ユダを書かれて、まだ読むに至っておりませんが、トマスも書いてほしいような気持ちです。

675sekko:2014/05/24(土) 23:00:30
Keiさま
もともと5月はジャンヌ・ダルクの祝日があり、聖母マリア月でもあり(だから母の日があります)、ル・ペンに取り込まれやすい時期なのですが、娘の代に変わってからもっと利用している感じがします。

ジャンヌが自分でも決断不可能なものをそれでも本質的なものとして抱えていたというのは興味深い視点ですね。

信念に基づいて意志や希望や観測、予測をいくら掲げても、根本なところにある「不可知」を不可知として容認しなくては人は道を見失うのかもしれません。

聖トマスについては『聖者の宇宙』(中公文庫)の第5章で触れたことがあります。どの絵を見てもどきどきするシーンです。

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676グラ(愛犬の名称):2014/07/31(木) 10:42:02
B16の著作から
竹下先生

ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガーの「ナザレのイエス」を読みました。
「チェルノブイリ」が引用されており、それは福島と重なります。
福島原発事故は人災という評価を政府事故調もしております。
まるで、日本にはキリストの教会がないとB16から指摘されたようで、ショックですが、受け止めなくてはならないようです。
ヨーロッパのキリスト「教界」は、日本の教会(新旧ともですが)に対して厳しい視線なのでしょうか。

参考までに、B16の本からその箇所を一部引用させていただきます。
「ナザレのイエス」 (春秋社 2008年)  P52  里野泰昭訳
誘惑の場面の短い記述(マルコ1:13)において、マルコ福音書はアダムとの対比を強調します。それは、人間の苦難のドラマを苦しみ抜くことにあります。イエスは『野獣とともにおられ、天使が仕えていた』。荒野は楽園の対極ですが、和解と救いの地となります。創造に対する反抗と死の力であり、人間存在に対する脅威の具体的な姿である野獣は、楽園におけるように人間の友となります。イザヤがメシアの時として告知したあの平和の状態が現実となるのです。『狼は子羊とともに宿り、豹は子山羊とともに伏す』(イザヤ11:6)。罪が超克されたところ、人間の神との調和が実現されたところでは、創造は和解の状態に戻り、引き裂かれた世界は再び平和の場所となるのです。パウロは被造物のうめきについて語り、『被造物は、神の子たちの現われるのを切に待ち望んでいます』(ローマ8:19)と言っています。西ヨーロッパのベネディクト会修道院の周りに生まれた平和な村落は創造のオアシスであり、神の子たちによる和解の世界を先取りするものの一つの例といえるのではないでしょうか。それとは逆に、チェルノブイリは神の不在の暗闇に閉じ込められた創造の衝撃的な表現ということができましょう。(下線・強調文字は原文にはありません。)


「ナザレのイエス」は2008年に出版されましたから、福島原発事故を知りません。
創造のオアシスに対比されるチェルノブイリは、政治体制をも含めた皮肉も含んでいるかもしれませんが、チェルノブイリは福島のことです。
そこには、キリスト者もキリストにある教会もないと言われているのも同然のような気がします。

私たち、日本のクリスチャンはそのような時代と場所で生きていることになります。

「ナザレのイエス」三巻本は、B16がドイツ人でもあるせいか、プロテスタントの私にとっても良書でありました。B16がチェルノブイリに触れていることを、竹下先生に、ご紹介しておこうと思ったことと、信仰の世界から日本を見て、暗澹としている一人の信徒がいることをお伝えしただけです。

677sekko:2014/07/31(木) 20:33:20
グラさまへ
ありがとうございます。

そう、B16(ベネディクト16世)は教皇庁のエコロジー路線を前面に押し出した画期的な人です。

彼が選ばれた時? Habemus papam ecologistum ! ≫というべきだったという人もいるくらいです。

今回フランシスコ教皇が登場したことで先進国保守派の中でのカトリックの位置が鮮明になってきました。

カトリックもプロテスタント福音派も、先進国では保守ブルジョワジーが力を持っていて、そこでは「キリスト教=倫理(特に結婚、性、同性愛、避妊、中絶、安楽死)」という枠にはめようとしてきました。

カトリックの社会活動、キリスト教本来の持つ拝金主義の否定などは、多くの保守的な人にとって「不都合」だからです。「キリスト教=ピューリタン的で性道徳にうるさいやつ」という矮小化は非キリスト教徒ばかりか、社会の上層にいる多くのキリスト者にとっても都合のいい落としどころでした。

だからこそ、先進国ではない南米出身で底辺の悲惨さと社会の矛盾をよく知っているフランシスコが教皇になって現代世界の格差構造を糾弾し、棄民状態になっているさまざまな人の救済というキリスト教本来の正論を唱え始めると、保守陣営は激しく動揺しているのです。

レーガンらと組んで共産圏と戦ったヨハネ=パウロ2世はまあ都合よかった部分もあるとして、後は同性愛結婚反対とか中絶反対とか言っていればいいので、それは時代遅れだとか、司祭の小児性愛はどうする、など黙殺したり批判したりしやすい部分です。

保守派の人間もそういう道徳だけを言っていれば「倫理的でキリスト教的」だという満足感や優越感を得られるというわけです。

そういう困難な状況の中で、B16は、左派から揶揄される倫理路線、右派から嫌悪される社会活動路線の両方を迂回した「エコロジー」路線を前面に出したのです。

これはすばらしいことでした。左派にも右派にも受け入れられたからです。

地球の環境問題をここまで悪化させたのはエネルギーをはじめとした大資本の利権構造ですから、エコロジーを訴えることは社会の貧困の根本問題をたたくことで左派的にもOK。

そして持続可能エネルギーの開発などの新事業は新しい利権の獲得や事業拡大の可能性もあるので右派にもOK。
政治家たちのイメージ戦略的にもクリーンでポイントが上がります。

フランスの貴族のカトリック保守派で、B16の呼びかけに応えて急進的なエコロジー活動家になった人も少なくありません。無視できない影の影響力やネットワークを持つ彼らにとって、中絶や避妊がどうとかという問題以外の大きな使命感とそれを発揮する場を与えた効果は絶大です。

B16は必ずしも、キリスト教のないところでより大きい罪が繰り広げられているとは言っていません。

彼が、2011/6/9、駐ヴァティカン新任大使にあいさつしたメッセージをお読みください。

これは「フクシマ3ヶ月後」であり、当然フクシマが念頭にあります。大使たちは別にカトリック国から来たわけではありません。日本語の訳を一つ見つけたのでぜひ読んでください。

http://www.paparatzinger.org/Soc.Culture/9.6.2011.Udienza_nv.ambasciatori.pdf

残念ながらあまりこなれていない訳なので分かりにくいかもしれませんが、

「神から自然のよき管理を任された人間がテクノロジーに支配されその奴隷になることはできない」と言い、

神の似姿である個々の人間よりも金やテクノロジーや権力が上に置かれている状況が人の実存的迷いと生の意味の喪失を招いたこと、

超越的なものとの関係を欠いた人と物のヴィジョンは人から大地のルーツを奪い、深いところでアイデンティティも失わせること、

などを語っています。

そして、人間の尊厳は、信教の違いによって変わるものではないこと、正義や平和の希求をリスペクトすべきであると言っています。

さらに、どこの国でも、教皇のこの指針のもとで働くものは各国の諸問題を傾聴するはずであるからどうぞ活用してください、みたいなことも言っています。

つまり、無責任な原発事故を起こす国は神が不在の国と言っているのではなく、神なき闇に閉じ込められたテクノロジーを神の光に照らして考え直さなくてはいけない、どこの国でもキリスト者はそれを自覚して協力しなければならないと言っているわけです。

ですから、「チェルノブイリ‐フクシマ‐神なき闇」のような悲観的な見方をする必要はないですよ。

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678モトカー:2014/07/31(木) 21:46:46
カトリック反宗教改革とユダヤ思想の関わり
栗本慎一郎先生の『ユダヤがイスラムを生んだ』(光文社カッパブックス)の中で、カトリックの反宗教改革時代に、ユダヤ教の思想がカトリックの教義に流入した可能性があると触れられています。
この点につき、竹下先生のお考えをお聞かせ願いたいと思います。

以下、その第三章からの引用です。
「サンタ・テレサは、十六世紀にルターの宗教改革に対抗して起こったスペインの反宗教改革、つまりカトリックを内側から新しいものに変えていこうとする動きの中心人物であると考えられてきました。そういう人物の父親が、じつはマラーノ、隠れユダヤ教徒であったことが、スペインの歴史家によって一九四〇年代に明らかにされたんです。ということは、カトリックのなかの新しい考え方がユダヤ神秘主義と非常に強く結びついているということになります。」

途中略

「サンタ・テレサの特異性は、女性であるということ、しかもユダヤ人の改宗者というバックグラウンドをもっているということにあります。そういう二重のマージナリティをかいくぐりながら、けっしてユダヤ教に帰ることをせず、キリスト教の枠組みを使って、どうやって神との対話を実現していけるのか。」

さらに...

「アンルブラードスとサンタ・テレサは、当時の反宗教改革的なスペインのカトリックの流れのなかで、非常に特異な位置を占めています。そこには改宗ユダヤという状況が流れ込んでいたからです。しかし、こうした系譜は、のちにはイエズス会やカルメル派というかたちで、スペインのカトリック布教活動のひとつの中心を築いていく流れにも影響を及ぼしてゆきます。実際サンタ・テレサは、カルメル修道会を改革して跣足カルメル会を興した中心人物でもありました。」

とあります。

これが真実であるならば、カトリックは最低3度は変質しているような気がします。

1.キリストの教えから、パウロの教え等のギリシャ哲学の影響
2.アウグスチヌス(=元マニ教徒)による古典的なカトリックの教義の定立
3.反宗教改革による、ユダヤ神秘主義の流入

1については、栗本先生の上に挙げた著作のほか、『イエスの王朝』(ジェイムズ・D・テイバー著、ソフトバンク・クリエイティブ株式会社)というアメリカ人の書いた研究書、その他から、そう考えております。

いかがでしょうか?

679sekko:2014/07/31(木) 23:57:35
モトカーさまへ
まず、私のブログ記事からここへ来てくださった方に。

ブログに書いた当該記事はこの記事より二つ前のグラさんへの返事です。

以下モトカーさまへの返事です。

このような言説はあまり意味がないと思うのでスルーしてください。

陰謀論の一種のように、カトリックの有名聖女が実はユダヤ教の影響を受けていた、みたいな「面白いお話し」になっているのかもしれませんが、キリスト教はもともと旧約聖書を聖典にすることで「ユダヤ教」の影響を受けていますし、というより、もともとユダヤの聖典が成就したという形でキリスト教が成立しています。イスラムはその両者の影響を受けています。


アヴィラのテレサは私の好きな聖女で彼女について本格的な論考を書こうとアヴィラやトレドにも取材して準備していたのですが、クリスティ―ヴァに大作を書かれてしまったので仕切りなおそうと思ってそのままです。

テレサの父親は確かに改宗ユダヤ人の家庭に生まれて洗礼を受けた人で、その後ユダヤ教に戻って、さらに1500年(テレサの生まれる12年前)にカトリックに改宗しなおした人です。で、聖人伝や殉教者物語が好きで、幼い子供たちに読み聞かせていたらしく、テレサは大いに影響を受けてイスラムの地で殉教したがっていました。まだイベリア半島にイスラムの足跡が濃い時代です。

しかしそれよりずっと前、改宗しなかったユダヤ人がコンキスタドールで1492年にスペインから完全に追われた前後に、イベリア半島のユダヤ人コミュニティはルネサンスのカトリック世界に広がり、15世紀のルネサンス全盛期には、ユダヤのカバラに影響を受けたキリスト教カバラが生まれたり、プラトン主義、ヘルメス文書のグノーシス主義、魔術、錬金術などがハイブリッドな文化を形成していました。

まあそのような頽廃ぶりが16世紀の宗教改革の原因の一つになるわけです。

この辺の事情は『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実』(中央公論新社)で少し触れました。

ですから、聖女テレサの神秘主義はもとよりハイブリッドなものではありますが、それを知性でねじ伏せる「知的腕力」みたいなものに私は惹かれます。

来年キリスト教の解説みたいなものを新書で出す予定なので、モトカーさんの質問も念頭に置いて書いていきます。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

680モトカー:2014/08/01(金) 21:05:38
ユダヤ
竹下先生...
ご丁寧にお返事をいただき、誠にありがとうございます。

わたくしは、キリスト教とユダヤ教の関連につきましては個人的に昔から興味があり、
いろいろと研究書を読んだり、欧米人の著作にも触れて参りました。
私は、キリスト教はユダヤ教をその起源としつつも、内容は正反対だと考えます。
それは、ひとことでいうと、
旧約聖書の神は、”正義の神”であるのに対し、新約の神は、”愛の神”という点です。

”正義”と”愛”とは人類の二大行動原理だと思いますが、
この2つはまったくの正反対の考え方・価値観であります。

したがって、キリスト教はユダヤ教をその淵源としながらも、
内容は180度違うものであると言えるのではないでしょうか?

旧約中心にユダヤの思想が、今年の5月のNHK教育番組の「100分de名著」で取り上げられていましたが、
その内容もふまえ、自分の考えを加味して申し上げますと、
旧約時代、ユダヤ人は迫害の中で、”正義”を追い求めました。
そして、ユダヤ人は自分たちが正義に反することをしているから(=堕落)、
神は救ってくれないんだ、と考えるのが主流でした。

しかし、イエスは、そうではないんだと主張したのです。
「神に対するまことの信仰があるならば、すでに救われているんだ」と。

律法のために人があるのではなく、人のために律法があるのです。
というのがまさにそれを示す典型的な言葉です。律法=正義だと思うので。

もちろん、旧約にも”神の愛”は語られていますが、正義の傾向の方が強いです。
そして、”正義”の傾向が強いのには、ユダヤ人が古代エジプトにいたことと関係があるのではないか、
と思っています。

古代エジプトの神である「マアト」の思想です。
人は死後、マアトに心臓をはかりにかけられ、重さを調べられて裁かれるのだという...

一般論的にはユダヤ教の中におけるゾロアスター教思想に言及される場合も多いですが、
古代エジプトの、このマアトの思想と、イクナートンによる一神教を目指した宗教改革とに、
ユダヤ教の思想の核があり、それが長い時間をかけて徐々に形成されていったのがユダヤ教であり...

そのユダヤ教にコペルニクス的転回を加えたのがイエスだったのではないか。

これが私の考えです。

いかがでしょうか?

681sekko:2014/08/02(土) 00:37:23
モトカーさま
ユダヤ教とキリスト教の関係については私も別のところで書いたことがありますし、いろいろな本も出ていますから、ここで掘り下げることはしません。ユダヤの神が怒れる父的で、キリスト教の神が慈しみの母的な神だという言い方はよくされますし、明らかに二つは別だと言い切って異端の烙印を押された人もいました。

まあ、素人目には、この二つを結びつけるのは無理があるよなあとつっこみたくなりがちですが、キリスト教の成立におけるそれなりの神学的必然性があったわけで…。最近では中央公論新社の『ユダ』でユダ像の作り方を通してユダヤ教とキリスト教の関係を書きましたので興味があればお読みください。

でも、旧約を読んでるとつい「ユダヤの神様ってどんだけ怒りっぽいんだよ、
万物創造した後の品質管理が歴史なのかよ」と思いたくなりますが、
私たちの基準で見るとなんだかハチャメチャなユダヤ人の行動や意識にも、よく読むと普遍的真実だと頭を下げたくなる部分があります。

たとえば創世記の終わりのほうのヨセフの話ですが、兄たちに奴隷に売られた後、エジプトで出世して家族を呼び寄せるのですが、父の死後さすがに兄たちがいよいよ報復されるのではないかとあせった時に、ヨセフはこういいます。

「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」

この部分は、ケセン語訳新約聖書で有名な山浦玄嗣さんがお孫さんを対象にして書かれた「ヨセフさんの手紙」ではこうなっています。

「そんなこと、もういいんです。どうかそんなに怖がらないでください。
わたしは兄さんたちの弟なのです。
確かに、あれは辛く苦しい日々でしたけれども、そのお陰で今日があるのです。
神さまのなさることは誰にもはかり知ることなどできません。
でも神さまは悪いことも善いことに変えるお方です。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
何にも心配しないで、これからずっと仲良く暮しましょう。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。
どんなことがあっても、わたしは力の限り兄さんたちをお守りします。
兄さんたちの子供たちもしっかりとお守りします。
ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」

これを読んで私は感動しました。

前半はいわゆる「摂理」思想であり、わかります。
ところが「手紙」ヴァージョンでは聖書にない言葉が補われています。

「ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」

の部分です。

今の世界でいくら強調しても強調しすぎることはない言葉だと思いました。
私は今のパレスティナ内戦を頭においています。

イスラエルはハマスというテロリストに対する自衛だとか、植民者を守るとか、イスラエル兵士が殺されたとか言って猛攻撃をやめません。

ヨセフの言葉を聞いてほしい。ヨセフと兄弟たちがイスラエルの12部族の先祖です。

兄たちに奴隷に売られ、七年も牢獄に入れられるという一方的な不運にあいながら、みんなきょうだいであることには変わらない、生意気で兄たちの反感をかうことになった自分のことも許してほしい、と言います。兄たちの一方的な罪を自分が一方的に許すのではなく、ゆるし「合おう」と言っているのです。

互いにゆるし「合う」ことだけが「子どもの代まで仲良く暮らしていく」ための唯一の方法だということです。どちらがより悪いとか、責任の追及、弾劾、制裁、などからは決して「いつまでも」「みんなで」の平和は生まれません。

ユダヤのラビたちがこの言葉をネタニヤウ首相らに喚起してくれればいいのにと思います。

今のエジプトが和平を呼びかけることも、エジプトでの共生を試みたヨセフのことを思うと感慨深いです。幼子イエスもエジプトに避難しました。長じても暴力にあって殺されました。そして復活することで、救いとは報復や制裁によって得られるものではないことを示したわけです。

聖書のヨセフの物語をよく読めば、ヨセフの最後の言葉に、山浦先生の補足がまるまる込められていることが分かるはずです。

考えたら、ここまでの仕打ちを受けながら仲良くするなんて私たちの生活感覚の基準からいえばほぼ奇跡であり、何がその奇跡を可能にしたのかということをじっくり考えさせてくれる最後の言葉でした。

裁きの論理ではなく「ゆるしあい」による歩み寄りだけが、人が共に生きることを可能にしてくれるのだというのが神のメッセージだとしたら、ユダヤの神からキリスト教が生まれたのも納得できる気がします。変わっていくのは「神と人間との関係性」なのですね。

http://setukotakeshita.com/

682モトカー:2014/08/02(土) 09:15:38
旧約聖書
再度のご丁寧なご返答をたまわり、誠にありがとうございます。

「旧約聖書」ですが、私は、加藤隆氏の著作「旧約聖書の誕生」の説が的を得ているのではないかと思っております。

氏はヨーロッパにも留学し、ヨーロッパ人に混じって議論も行った経験もある、ということですが、
みずからの知識とヨーロッパ人とのディスカッションの中から生れたこの考えが真相に近いのではないかと思います。

氏の言説は、「旧約聖書」とは、アケメネス朝ペルシャ帝国が、ユダヤ人に自治を許す代わりに命じて作らせた、
一種の「自治法典」である、というものです。

古代にしては寛容だった同帝国は各民族に自治を許したが、統治上の要請から(=秩序の維持)、
そして、自分たちで規律させるために、ルールブックを作らせた、という仮定です。

その際、ルールだけでなく、民族の自己紹介も記載させたのだそうです。

そしてユダヤ人たちは、帝国の支配者からの命を受け、様々な不文律や慣行、そして語り継がれてきた民族の伝説などを
急いで文書にとりまとめて提出しただろう、というのだそうです。

この仮定の下では、旧約聖書の中にあるさまざまな矛盾も説明できます。

また、アブラハムやヨセフにまつわる物語は、民族の神話であり、「古事記」的なものだと思います。

なので、アブラハムやヨセフ、モーゼのあたりは、信仰的な要素と民話的な要素とが入り混じっており、
未分化で未完成的な説話的なものではないだろうか?、と思うわけです。

”宗教”としてユダヤ教が発達しはじめたのは、北王朝がアッシリアに滅ぼされ、南王朝にも危機が迫ってきて、
預言者たちが活動し始めてからではないでしょうか?

それ以前は、宗教と呼べるほどのものではなかったと考えます。

モーゼ五書と預言者たちの書では、明らかに、傾向が違うと思うのです。

ただ、ユダヤ人たちは、比較的安定したエジプトの富裕で強大な諸王朝と、
変転きわまりないメソポタミアの諸帝国とのはざまで苦労して生きながらえ、
その中から、”民族の処世術”ともいうべきものを学び取っていたのは間違いなく、
それが、アブラハムの流浪の物語から、ヨセフの人生の物語のあたりに結実している、
ということは言えるようには思えます。

いかがでしょうか?

683sekko:2014/08/02(土) 16:37:34
モトカーさま
ありがとうございます。

ここは諸説に関する私の感想を書く場所ではないのでこれで打ち切らせてください。

もっと適切な掲示板が他にあると思います。

あるいは、すでになさっているかもしれませんが、モトカーさんが諸説をまとめたりご意見を発表なさったりするサイトやブログを作られたほうが、有益なコメントも得られるのではないでしょうか。

個人的には、「真相は…ではないか」系言説は、陰謀論も含めて、テーマによっては読むのはいいですが、参入したくはないのでよろしくお願いします。

http://setukotakeshita.com/

684kei:2014/08/31(日) 03:46:12
弱い父ヨセフ
父ヨセフと初めて出会ったといえるのは、ジョルジュ・ラトゥールの「大工ヨセフ」を見たときのことでした。
幼いイエスの蝋燭の灯火で大工仕事に励む父。しかしその目はイエスに向けられず、悲しみをさえ湛えている。
息子の厳しい運命を知りながらも、黙々と自分の出来ることで支えるしかない父。
何か普遍的な父の姿を見た思いでした。

現代日本において、父と家族の姿は悲惨なものです。
子供を養うには特に教育費に大金がかかります。さらに教育環境を整えるためにもまた金がかかります。
父は競争に勝たざるを得ず、また息子にこの厳しい世の中で生きるための(競争を生き抜くための)修行を早期に課せざるを得なくなります。
そしてそこから多くの罪が生まれます。

社会を見渡しましても、族長たる父は、旧約の族長の如く、自分の民を守るために、他の国と張り合っていかねばならない。自国の利益、論理を主張しあい、いっこうに和解が訪れません。

2000年も前に父ヨセフの姿が記されたことは驚くべきことのように思えます。
ケイシャ・キャッスル=ヒューズ主演映画「マリア」も、どちらかというとヨセフの苦労が印象的な映画でしたが、やはりアメリカらしく家長としての父の姿でした。それよりも「Mary of Nazareth」のヨセフのほうが好ましく思えます。
崩壊しつつある悲劇的な家族の姿は毎日のようにTVのドラマネタとなっています。しかし最後を感動的に終わらせようとも、それは感情的に肯定された姿でしかありません。
世界一有名な不思議な聖家族の姿、父ヨセフの姿をもっと描いてほしいものだと思うものです。

現実は、子殺しをしようとするようなノアが描かれているようですが。

685グラ(愛犬の名称):2014/08/07(木) 21:52:37
安全と安心
エコロジーとキリスト教という枠組みについては、新たな可能性を感じます。

福島原発事故を含む、「災後」の混乱は、多岐にわたってしまいました。生活の基本にある、食べることでも食品表示偽装があり、教育の分野でも陰惨な事件が佐世保で起きてしまい、理化学研究所という大組織も30歳の女性の自爆テロの状態です(小保方さんには頑張ってもらいたいですが、笹井氏の自殺によってスキャンダルになってしまいました)。

「災後」の混乱の要因は、安全と安心の枠組みの喪失にあります。そもそも、福島原発事故を防ぐことが出来なかったのは、科学的な知見による実証がなかったことでした。原子力の平和利用というイデオロギーを支えたのは「安全神話」でしたが、しかし実はこれは「安心」神話でしかありませんでした。安全と安心の混同がありました。

エコロジ−は、科学的な知見に基づく、安全でなくてはなりません。
竹下先生に教えていただいた、「神なき闇に閉じ込められたテクノロジーを神の光に照らして考え直さなくてはいけない」は、安心の基準になります。安心の形は多様です。

下記の文書は、2012年4月から、食品衛生法において、一般食品の基準値が、従来の暫定基準値500ベクレル/?から100ベクレル/?に引き下げられた時、この安全と安心の基準を明確に区別して、私が報道機関向けに準備したものです。安全と安心をどう区分けしたか参考にしてください。NHKをはじめテレビ各局の取材に対応する基本的な考え方が明示されております。

「弊社としましては、お客様の水産物に対する安全性、特に放射能汚染の関心の高さとデータの信頼性の確保の観点から、基準値以下であることを挙証できる水産物を取り扱うことを基本原則としまして、取り組ませていただきました。
従いまして、放射性セシウムが基準値以下であることを挙証できるシステムの構築を通して、お客さまに安全な水産物を提供させていただくことで、生産地と消費者を繋がせていただこうと努力してまいりました。
この間、大学の教授および食品分析の専門機関、放射能測定機の製造メーカーの方々と、水産物の安全を挙証できる仕組み作りの話し合いを重ねてまいりました。
この結果、水産物の安全性を、お客さまが納得される安心に結び付けるシステムを構築することで、生産地と消費者を繋がせていただくことといたしました。
大学をはじめとする関係機関と、新たに準備いたします、お客さまが納得される安心システムにつきましては、お客さまの信頼を確保するとともに、生産地の復興の一助を図る目的を持っております。この安心システムは、製品認証スキームに準拠しております。」

固有名詞を普通名詞に変更しており、また差し障りがある表現は一部修正しておりますが、安全と安心の基準と運用を理解していただけると思います。

686sekko:2014/08/11(月) 07:29:53
グラさまへ
なるほど、安全性をみなが納得できる安心に結びつけるシステムに構築する、というのはよい表現ですね。

「安全なき安心」は神話になりかねないわけで、安心はいわゆる「備えあれば憂いなし」というベースに立つべきですね。逆にいくら安全を確保しても、それを安心に結びつけなければ「不安」が安全を脅かすことになるかもしれません。

いろいろ応用して考えられそうです。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

687sekko:2014/08/11(月) 07:37:08
keiさまへ
私もラトゥールのヨセフは好きです。ヨセフには何となく夜なべ仕事が似合うなあと思います。でも確かに映像化は難しいですね。

私が最近家族について書いた記事の一部を引用します。

>>>他のすべての人間の営みと同じように、家族は固定された状態ではない。「家族愛」という言葉はしばしば家族のメンバーをそれぞれ決まった役割に縛り付ける圧力として使われることもある。また共通の敵に対して無条件で結束するようなナショナリズムのひな型のエネルギー源として使われることもある。理性や意思を封印するために「愛」が情動で包み込まれることもあるのだ。聖家族の「両親」は単純な生物的家族愛でごまかせることができない複雑な関係を乗り切った。彼らが自分たちのエゴの外から来る声にいつも耳を傾けたからだ。


やはり個々の人間だけで運営していくには限界があり、視界を広げる必要がありそうです。

http://setukotakeshita.com/

688kei:2014/08/11(月) 10:59:11
スポーツとキリスト教
最近ふとしたことから下記記事を目にしました
(小生サッカードイツ代表ファンです)

教会とスポーツ、ちょっと意外な関係
http://toyokeizai.net/articles/-/44522

スポーツには教育的役割があるが、ドイツでは「公正」「寛容」など、より普遍的な価値観をつかってスポーツを意義付けている。そのため、われわれにはピンとこないが、キリスト教がかかわってくるような一面もある。日本の「体育会系」と比較しながら、ドイツのスポーツを見てみよう。

これは「キリスト教の真実」の具体的事例といえそうです

シリーズ
「ドイツのスポーツはなぜいじめ・体罰がないか」
http://toyokeizai.net/category/deutschland_sport

689sekko:2014/08/12(火) 00:38:42
kei さま
なるほど、キリスト教が「価値OS」になっているという比喩はおもしろいですね。

ドイツ人というかゲルマン人の感じってスポーツをやらせたら強そうです。

第二次大戦中フランスがドイツに占領されていた時、ナチスの若い軍人たちがみなスポーツマンで、身体能力に優れていたのでフランス人女性がまいってしまったという話を聞いたことがあります。そのせいで後からコラボと言われてリンチされたりしましたが、占領軍におもねったというより本気で惹かれたのかもしれないと思ったことでした。

でも、当時のドイツ本国では、女性は教会、子供、キッチンの3Kに閉じ込められていたのだから、(キリスト教?)価値とスポーツは男性に限られていたのかと疑いたくなります…

まあ、フランスでも体育会系のいじめとかはあまり聞きません。

ドイツと同じく年齢序列がなく、学校自体も飛び級も落第があるために年齢差ができるので、クラス内で身体能力を競うのは無理だし。

やはりスポーツは学校外の公立や私立のスポーツ施設に外注です。日本は学校自体が同調圧力の強い閉鎖社会なので、そこでのクラブ活動も、いい方にも悪い方にも展開しそうです。

キリスト教とスポーツというとやはりパウロの言葉を思い出します。

「コリントの信徒への手紙一/ 09章 24−26

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。

競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。

だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」

ヨハネ=パウロ二世が山登りやスキー、水泳を熱心にやっていたことも思い出します。

カトリックのスポーツの守護聖人はドン・ボスコで、19世紀に貧しい子供たちの教育にスポーツを奨励して遵法精神とか連帯を学ばせました。

でも、私が、キリスト教の価値OSがスポーツに反映されているなと思う分野がひとつあって、非キリスト教文化圏出身の者として羨ましいような悔しいような気がします。

それは障害者スポーツです。

耳の不自由な人のスポーツ大会は1924年のパリではじめてThe Silent Gamesとして開催され、ヨーロッパ9ヶ国から145人の参加者があったそうです。4年ごとに開かれているそうで、耳の不自由な人はコミュニケーションのハンディが大きいので他の障害のあるアスリートと別枠になっていたそうです。

後、1988年からオリンピックのすぐ後で開かれるようになったパラリンピックの方は、第二次大戦の傷痍軍人のリハビリとして主に英米で始まった障害者スポーツが起源のようです。

「健常者」と同じ条件では戦えないアスリートのために試合を開催するという発想、これこそは、絶対に「体育会系」のいじめやしごきとは別の土壌から生まれたような気がします。

フランシスコ教皇が9月にローマでインター宗教サッカーを開催するという話はブログに書きました。

スポーツがナショナリズムや商業主義や弱者差別から守られて、本当の意味で「節制」して「賞を得る」ように人々の元気を引き出し力を養ってくれるといいなと思います。

http://setukotakeshita.com/

690kei:2014/08/12(火) 10:25:39
サッカー・性・宗教
スポーツ全体は知りませんが、ドイツでは、かのオリバー・カーンが21世紀になっても
「サッカーは男のスポーツだ」と豪語しておりました。

女子サッカーはノルウェーから始まり、ドイツもワールドカップ優勝2回の強豪国中の強豪国ですが、ドイツ女子ワールドカップでようやく認知されたような状況です。
サッカーはコンタクトスポーツのため、女性保護の観点から向いていないというのはドイツサッカー協会の面々が言っておりました。

最近になって女子サッカーと宗教の問題がメディアを賑わせました。
イラン女子のユニフォームのヒジャブが原因でワールドカップ予選を失格になったのです。
FIFAとしては、ヒジャブが相手との接触で首を絞めかねないという保護上の問題で、アジアAFCの努力で、ヒジャブがすぐとれるようにしてOKとなりました。
しかし、フランスの女性団体が、ユニバーサリズムに反し、サッカーに宗教的象徴を持ち込むものだとして反対しました。
ヨーロッパのUEFAは、ユニバーサリズムの観点からヒジャブ着用を認めておらず、フランスでムスリム女性の出場が取り消しになるという事件もありました。
ヒジャブはアジアでも厳格なイラン以外は着用は個人に任せられて、アジアカップに出たヨルダンはするものもしないものも居ました。
イランは、女性はサッカー場へ入るのも男性とサッカーを集団でTVで観るのも禁止。理由は男性はサッカーを観戦すると野蛮になり女性保護だということです。

性の問題も女子サッカーは提起しました。
ロンドン五輪の前にアメリカ代表のラピノーが同性愛をカミングアウトし、その後スポーツ選手の同性愛カミングアウトが続きました。
女子サッカーで同性愛が多いのは公然の秘密ですが、先進国スウェーデンでも中傷が隠然とあるようです。

ジャンヌ・ダルクでもお書きになっていますが、女性の男性化は罪の一部となっており、まだまだ諍いがあるようです。
マリア・マグダレーナの本を書いていただきたいのは、こうした「罪の女」の始めに、マリア・マグダレーナと新約の「罪の女たち」が居ると思うからです。
マリア・マグダレーナは娼婦の守護聖人となっています。
罪の中を生きる女たちにとってマリア・マグダレーナに象徴される罪の女たちが許されたことはどんなに生きる糧となったかと思います。
イブから始まる罪の女の系譜をぜひ書いていただきたいのです。

その中に同性愛をめぐる問題のヒントもあるような気がします。

PS.漫画ですが「修道士ファルコ」はご存知ですか?
著名な女性漫画家の青池保子さんが書いていますが、フランス修道院まで取材に行ったり本格的なものです。
貴女の著書とも整合性がとれていて、中世ドイツ風俗、教会の地位などとても楽しめます
http://www.aoikeyasuko.com/works/falco/

691愚者:2014/08/16(土) 16:06:37
地上の平和
sekko様
「私達は特定秘密保護法に賛成です。」と主張するカトリックのグループのサイトを見ました。正義と平和協議会や関係司教への非難と数人の記名がありました。彼等は憲法「改正」にも賛成だと推測できます。
カトリック教会には「政治を教会に持ち込んではならない」という不文律があるようです。政治の話をしたかったら教会の外でどうぞ、憲法9条の話は駄目、といった科白を私も耳にしました。つまり政府と同じ考えは「政治的」ではないが、それ以外はダメと言っているのです。以前教会関係の印刷物に「社会経験のない司祭には複雑な世の中の政治的な問題は理解できない。従って憲法や外交などに口を出すべきではない。」という意見が、投書だったか座談会だったか忘れましたが、記載されていました。
「現代世界憲章」、「地上の平和」の平和主義の教えに、つまり聖霊に司教は従っているのです。正平協や護憲活動を拒む人も「地上の平和」を読むべきです。生命、人権、尊厳、自然環境を守る必要条件である平和を外交や経済の次元で考えるのが誤りです。
長々と失礼しました。

692愚者:2014/08/16(土) 17:19:23
続き
sekko様
質問を書く前に字数が足りなくなってしまいました。
平和や護憲のことになると、高等教育を受けた人、柔軟な頭の人、勉強熱心な人、良識豊かな人、イデオロギーに無縁な人が、紋切り型の左右(政府-反政府)路線論争みたいな頑なさで固まってしまうのは何故なのか、ほんとうに不可解です。一種の倒錯ではないかとすら感じます。カトリック信者は一般人が懸念したり議論している問題に関わるべきではないという信念でもあるのでしょうか。
JP2世の、2度と戦争をしてはいけない、という言葉は誰でも知っていて共感するはずですが。保守政党の政策とカトリック信仰を同一するかのような無意識の混乱があるんでしょうか。
平和を実現する人々は幸いである、というときの平和は憲法の平和主義とは全く関係無いということなのでしょうか。

693森下克介:2014/08/16(土) 17:20:08
政教分離の件
前略;
「キリスト教の真実」を読んでいます。途中です。
152頁の、世俗の王たちの徳義を監視するのもまた、「天」ではなく、聖職者や教会権威でしかない。世俗の主権者には、聖職者のコントロールなしの権威を行使するための自由を必要とした。
結局、西洋近代はそのような「神」を世俗の主権者から切り離すことによって、世俗の自由と自立を獲得した。
と有りますが、「神」としては、「聖書」にある、「預言者」が伝える「神からの言葉」がすべてで、現実にはその仲介をする「聖職者」は神と同等でないとすると、一般の信者の皆さんは「本当に信ずべきものとしての「神の代理」の言葉を正しく聞けなくなるのではないでしょう
か?
ここでは、「「そのような神」とは、聖職者の言葉が正しくない」という意味であれば、信者も同じ、聖職者や教会権威を信ずるに値しないという事になる。と云うジレンマが生ずるのではないかと思いますが。いかがでしょうか?
文面がうまくできませんが、先生のご意見をお聞き出来たら大変うれしく思います。
よろしくお取り計らいください。
26−8−16
421−0216
焼津市相川408
森下克介
tel/fax??054-662-0057
Email??morikatsu@palette.plala.or.jp

694sekko:2014/08/16(土) 23:29:46
愚者さまへ
ええと、いろいろなテーマが複合しているので、簡単には答えられませんが、この掲示板の7/31付の私の答えをお読みになっていると仮定してその先を続けてみます。

今の時代は、エコロジーの角度から平和の問題、社会悪や不平等にまで切り込む路線が貴重で有効だと思います。

解放の神学もそうでしたが、カトリック的な社会活動が左派イデオロギーと重なる部分があって共闘したり利用されたりすることもあったわけですが、基本的にはキリスト教には右派も左派もなくて、福音的活動の実践が問われていると思います。

「現代世界憲章」などは普遍宗教と人間の関係の中で到達点の一つとしてまさに画期的なものだと思います。これをじっくり読めば、「聖霊に従う」ということの意味が分かると思うのです。

ただ、「ミッションスクール=お嬢様文化=勝ち組グループ」みたいなものと結びついた小教区みたいなところでは、勝ち組の立ち位置を揺るがせるような反体制的言辞が「政教分離」の名のもとに嫌われて排除されるというのはフランスでもいくらでもあります。

司祭が家族を持たないとか社会経験がないから云々というのはもちろん言いがかりで、そういう人が本気で考えてくれれば、自分状況に縛られずにはいられない人々と違って、クリアで建設的な提言が生まれるかと思います。

少なくとも近代以降に教皇の地位にまで上り詰めたような人々の回勅や説教は、私心なくして考え抜かれた貴重なものだという印象を持っています。

「時の政権」というのは国や時代によっていろいろあるわけですから、そのあり方が福音に反しているものであればキリスト者が従うことができないのは当然だと思います。

でもこれも難しい問題ですね。

たとえばクウェーカーとか絶対平和主義の宗派が、たとえ犠牲を伴ってでも、絶対兵役拒否をすべての信者に強制できるほどの力を発揮するのを見る時、確かに、同じ宗教的力で若者たちを聖戦の名で自爆テロに向かわせる宗派だってあるのだから、複雑な気分です。

どうせなら全員を「絶対兵役拒否」「完全非暴力主義」で「洗脳」すればこの世に戦争はなくなるだろうに…と思ったり、でも兵器産業があれば無人戦争が続くのか、とか、どんなに「洗脳」して戦争をなくしても、違法暴力行為に向かう人やそのために組織される団体などはなくならないだろうから、結局それを取り締まるために合法的暴力装置としての警察は必要だし、とか…。

聖職者が神と同等でないとして世俗の権力者がその力を排してきたという話はあくまでもヨーロッパの歴史の流れで、そこに至るまでには、政教癒着や権威主義の実態がいろいろあったわけです。

すごいと思うのは、カトリック教会が、その中で消滅することもなく、分派することもなく、その葛藤の反省をしながら自己批判も臆せず、福音の道へ絶えず戻ってきたということです。

これについて、9/10発売の『カトリック生活』10月号に「ジャンヌ・ダルクと神学」というテーマで書いたところなので、発売前ですが、関連箇所を少し引用すると、

『コンスタンツの公会議では、公会議によって代表される「戦う教会」はキリストから直接授けられた至高の権力を持ち、その権力は教皇を含むすべての人間の服従義務を前提とすると宣言された。
それは大分裂を解消するために必要なものだったが、単に教皇支持派と公会議主義者の争いという構図ではない。世界を「聖職者」と「非聖職者」に二分して、後者を前者に無条件で絶対服従する下層民となす差別的世界観が提示されたのだ。世俗の者にとっての「徳」とは「服従」であり、「服従」が「信仰」と同義だった。「教会学」が「教会全体主義」というイデオロギーと化したわけである。(・・・・)』

それが今は、

『教会の力とは「服従させる力」ではなく「福音の力」であり、聖性にいざなわれた神の民である地上の教会とは、謙虚な奉仕と愛を実践するものだとされるようになった。その帰結が二〇世紀後半の第二ヴァティカン公会議だ。教会への服従こそが「徳」であり「信仰」であるというイデオロギーの時代を越えて、信教の自由が謳われたのだ。ジャンヌ・ダルク裁判は、もっとも貴重で聖なる一人一人の人格(ペルソナ)を根本的に無化する試みだった。だからこそジャンヌの復権と列聖は、カトリック教会が天に向かって確かに歩を進めていく象徴になる。人は自由意志によって神の呼ぶ声に答えるのだ。』

となったわけです。

ひとりひとりが「神の代理」となるくらいの気持ちで心と耳を傾ける必要があるのかもしれません。

http://setukotakeshita.com/

695sekko:2014/08/16(土) 23:34:16
すみません
さっきのお答えで、愚者様へのお答えと森下さんへのお答えをまとめてしまいました。続いて読んだのと、ある意味で共通した問いだと思ったので。

森下さまも、愚者さんからの質問も合わせて読んでいただけると幸いです。

http://setukotakeshita.com/

696sekko:2014/08/17(日) 00:13:24
Keiさま
Keiさま

ドイツはトルコからの移民家族が娘を公立学校で体育に参加させないとかスカーフをかぶらせることにもフランスと違って寛大なので政教分離がうるさいトルコ本国よりもいいねというトルコ人もいると、ドイツのドキュメンタリーで見たことがあります。

すぐれた女子スポーツ選手に同性愛者がいるというのは、優れた男性ダンサーに同性愛者が少なくないことと同じく、驚きません。

筋力だけでなく競争力や努力のパフォーマンスに男性ホルモンが関係しているのは事実ですし。

だからこそ競技では男女が分けられているのですが、グレーゾーンというのはどこにでもあるわけです。
女性ホルモンの多い男性選手がスポーツで有利になるとは思えないので、グレーゾーンはもっぱら女性として活躍する女性の同性愛者で目立つのでしょう。

勝ち負けが商業効果にも関係するプロスポーツだといろいろ問題でしょうが、勝ち負けとは関係のないアートの世界ではグレーゾーンも問題が少ないなあと周囲を見ていても思います。

娼婦が罪の女とか、男装して戦争に行くのが罪とかいうのは、罪と言っても「社会的罪」の側面が大きいかと思います。

その点イヴの罪は、何一つ不自由しない環境(何しろ「楽園」ですから)にいながら、「神の言葉に背く悪」の誘惑に乗ってしまったという意味の罪なので、ちょっと違うかなあと思います。

同性愛の人たちは「性的な誘惑」には異性愛の人同様に負けてしまうことがあるかもしれませんが、「同性愛であること」の誘惑に負けるわけではありません。

最初からグレーゾーンに生まれる人というのは必ずいますから。

ただ世間がそれをどう見るかということの推移はまた別問題です。

キリスト教の原罪説は、人間に罪悪感を植え付けてよくない、などと言われたこともありますが、逆にプロテクトしてくれているという説もあります。

悪いのは人間でなく誘惑したサタンだと責任転嫁できるということで。

人間が自助努力しなくちゃいけないのは、誘惑に耳を傾けない、耐えるという部分で、その反面教師としてアダムとイヴがいるという人もいます。

完全に罪のない人間はいない、つまり完全な善人はいないということによって二元論を避ける意味でも、原罪は役だったかもしれません。

つまり、すべての人は悪の誘惑にさらされているという点で平等で、その証拠に中世のカテドラルの「地獄図」みたいなものには必ず、普通の人と友に枢機卿の姿の人なんかも炎に焼かれていたりします。

日本のイメージでは「家」の中に邪鬼を入れない、疫病神を入れない、みたいな「家内安全」努力があって、その代わり家族の誰かが罪を犯したら「家」全体が「罪」の連座になったりします。

それに対して、キリスト教的なイメージでは、各自が自分の中に悪魔に入られないように、つけ込まれないように、という感じでしょうか。

うちの猫を見てると、罪のない状態というのはこういうのだなあ、とは理解できるのですが…(智慧の実なんか食べなくてもいいからね。)

「修道士ファルコ」は前にもどなたかから名前は聞いたことがありますが読んだことはありません。おもしろそうですね。私もいつか修道院物のホラーとか書きたいなあと思ってるのですが・・

http://setukotakeshita.com/

697ふうこ:2014/08/20(水) 13:46:54
許しあうこと
「ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」

この箇所に感銘をうけました。sekkoさまは、パレスチナ内戦を念頭に話されていますが、「許しあう」ことなくしては本当の平和はもたらされない、というのはあらゆる人と人との関係性においても言えることですね。
とても身近なことですが、お父さんと長く絶縁関係にあった友人がお兄さんが不治の病で闘病をすることがきっかけでお父さんと会う決心をしました。そのお父さんは、相当な暴君で、愛人を家に連れて来たり、いわゆる「飲む、打つ、買うは、日常茶飯事」暴力的で子供の言い分は全て無視で言いなりでなければならない、というお母さんにとっても友人きょうだいにとっても耐え難い存在だったそうです。お父さんと別れて、やっと平和な生活を送っていた矢先のお兄さんの発病。高額の治療費の支援の要請が表向きですが(お父さんも後悔しているらしい、との話もあり)、友人は「兄は父への恨みで病気を呼び寄せているように思えてならない。父との和解なしには、回復を望めないのでは」と言います。でもお父さんといざ対峙したとき自分がどうなってしまうか不安で、ある神父さまに「許しは癒しにつながりますか」と尋ねたところ、神父さまは「許しは、癒しです」と何度も繰り返され、友人に按手しました。その瞬間は、感動的でした。もしお父さんと和解できたら、それは奇跡だと思います。「許し、許されること」「愛し、愛されること」は、キリストが命を賭して投げかけたメッセージですね。「隣人を愛せよ」という言葉にとどまらず(これは一方的になる可能性があると思います)、ヨハネの「互いに愛し合いなさい」という言葉の意味を思いめぐらしています。

698kei:2014/08/20(水) 15:18:18
修道士ファルコ「辱めの儀式」
原罪という考えかたは、日本人が一番拒否感を感じるところかと思います。
自分もまあ、そんなことを考えなかった頃は常にパーフェクトを目指してずいぶんストレスを貯めていたものでした。
今「ユダ」を読んでいますが、その中で日本的「良心」のことが書かれています。
良心というのは個人的なもので、罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかありません。
日本人は重大なときには耐えかねて自殺まで追い込まれてしまいます。
フーコーの言う「パノプティコン」が当てはまるのかもしれません。
自分もかなりまいったものです。
しかし人は皆罪を犯すようになっており、主によって赦されうるという考えかたはずいぶんと救いになったものです。

さて「修道士ファルコ」の印象的なページをアップロードしておきました。
貴女の著作で、守護聖人がその義務を果たさないときには罰せられると読んでおりましたが、具体的にこのような儀式があるとは興味深く思いました。
この場面は聖女が娼婦に降臨するところで、中世キリスト教の特徴が出ているものと思われます。

いつか著者の青池保子さんとのコラボでキリスト教や中世思想の解説本ができたらと夢みています。

http://fast-uploader.com/file/6964069546497/
http://fast-uploader.com/file/6964069605371/
http://fast-uploader.com/file/6964069660215/

699sekko:2014/08/21(木) 03:08:21
ふうこさま、keiさま
keiさまが

「良心というのは個人的なもので、罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかありません。」

とおっしゃることと、ふうこさまがおっしゃるゆるしの問題は関係があると思います。

「罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかない」わけではなく、ゆるされることで、いい方に向けて解消される気がするのです。

私がユダのコメント

http://setukotakeshita.com/page1.html

で書いたことがそれです(このコメントのエラーをまだ直していません。JP2による平和の定義は3・11の翌日でなく翌年です。回勅のはじめです)。

7/21の読売新聞のインタビューでも、

ユダという存在はキリスト教の『ゆるしのシステム』を思い出させると言いました。

>>人が悪事をなした時に抱くやましい気持ちは、それを隠し通しても解消されない。逆に「ゆるしてもらいたい」と願って告白し、ゆるしを得ることで初めて解消される。キリスト教はそのメカニズムを理解し、「告解」というシステムを作り上げた。現代はキリスト教社会も世俗化して「ゆるしのシステム」も失われつつあるが、竹下さんは「ユダが語られ続けることで、人間には『ゆるし』が必要だということが思い出されるのではないか」と言う。

その意味でユダへのこだわりは、「悪や背信といった暗い部分に倒錯的にひかれるだけではなく、人間同士が『ゆるす』ことで共に生きる可能性につながります」<<

という感じです。

もともとすぐ罪悪感を抱いてしまうようなタイプの人は別ですが、私のような人間は、あれやこれやのプチ罪悪感のおかげでエゴイズムや独善から辛うじて逃れている感じです。

「ゆるしてもらう」っていうのは精神衛生にとてもいいので、そのためには、より難しい方の「ゆるす」努力もしなくては、と思うのですが…。

「辱めの儀式」云々はやはりかなりフォークロリックですよね。

こういう、神仏への祈願とその効験いかんによる対応の仕方は時代や国や文化によっていろいろですね。

「祈願した側の責任だ、いまいち信心が足りなかった」などと言われると私などはすぐ納得しますが、神仏に対して「神も仏もあるものか」とならずに、「約束が違う、謝罪会見で土下座せよ」みたいなことで「次に期待する」飴と鞭みたいなやり方もあるのかも。

いずれにしても、人間の、

「目の前の不幸を何とかしてくれ」、

「目の前の脅威を取り払ってくれ」、

という神仏祈願の欲求は多分なくならないと思うので、それをどうやって信仰の文脈に組み入れていくか、危機管理していくかというのもまた人間の宗教の知恵なのだと思います。特に中世では。そのことについてブログでまた書くつもりです。

http://setukotakeshita.com/

700愚者:2014/09/08(月) 01:32:20
公会議
sekko様
回答ありがとうございます。面白い講義を受けた気分です。
以前、JP2世がコンスタンツ公会議の公会議至上主義を教皇至上主義に変えたとどこかに書いていらっしゃったのを読んだ覚えがあります。
知りませんでしたが、B16世の主な功績は教会の環境倫理の確立だったのですね。戦争は巨大な環境破壊だから、必然的に教会は反戦ですね。今日、資源に加えて金融、法制度、学術、文化などが覇権を争う主な戦場である現実に鑑みればもっともなことです。
カトリックはカルトだとか、洗脳されて非科学的なことを信じてるなどという理解も少なくありませんが、自由意志を尊重して強制を避けるのが本来の教えではないでしょうか?
警察のあり方として、日本は確保して検挙するのが目的であり、傷を負わせたり殺したりしてはいけないという強力な原則が実践されているるらしいです。いくつもの冤罪事件で明らかになった違法な捜査、証拠捏造、暴力的な取り調べとは不釣り合いな慎重さです。
教会がしぶとく生き延びていることに関して、押田神父という人(故人、ドミニコ会)が、教会は神様が設立して今も運営してるんだからこの世が続く限り消え去ることが出来ない、と言っていました。
質問を書ききれないので後ほど投稿します。

701愚者:2014/09/08(月) 19:46:02
現代史のバチカン
sekko様
「カトリック生活」は「カトリック・サプリ」を目当てによく購入します。10月号も楽しみです。引用部分からは公会議の変遷の意味と壮大な激しいドラマが読み取れて面白いです。ジャンヌ・ダルクが500年後に復権し列聖される隠された道筋といい、頑なな瀕死の老人のような?教会が叡智に満ちた預言者に生まれ変わった公会議といい、神業ですね。
ところで、第二次大戦でバチカンはナチスを容認しつながっていたとの理解が、一部では現代史の常識的な知見として受け入れられているようです。
これの反証になる文献ー検証に耐える記録はないのでしょうか?
日本では長年カトリックを看板にしているミッションスクール出身の作家が他の御用識者以上に原発と事故、沖縄戦についてトンデモ発言を重ねています。ナチスの手口発言の閣僚もカトリック信仰を公にしています。また、先週入閣したカトリックの女性閣僚は極端な国粋主義グループのメンバーで、政権と関わりの深い某カルト教団に寄付をしたと言われています。彼等は積極的に某神社に参拝するようです。そして、自信満々で究極の上から目線です。こうした様子がカトリック教会は極右でナチスと同類といった見方を助長する一面があるのではないでしょうか。平和、生命、尊厳を政治の次元に引きずり降ろして、右左のラベルを貼るからおかしなことになるのではないでしょうか。
前述の人々の思想信条も言動も自由ですが、カトリック教会=極右=ナチスの同類、は誤りですから放置してはいけないと思います。護教ではなく、事実の検証が必要だと思います。でも、どこに確かな証拠があるのか知識がありません。反論するささやかな機会に遭遇したら反論するためにそれを知りたいと思います。
ヒントを与えて下さるようよろしくお願いいたします。そういう著作を出版していただければもっといいと思いますけど。

702sekko:2014/09/08(月) 23:51:09
愚者さま
「カトリック教会=極右=ナチスの同類」なんて思われてるんですか。

そうかと思うとユダヤとカトリックの共同の陰謀論もあるし、まあ、何でも組み合されますが、イデオロギーに使われたり、現職の議員や閣僚の言動をチェックされると困りますよね。

ちょうど昨日、キューバのフリーメイスンについて書いていて、そうか、チェ・ゲバラもフランシスコ教皇もアルゼンチン人なんだよなあ、と感慨深く思ってたところです。

日本におけるカトリックのイメージについて、最近岡田大司教の本で、青年の時にプロテスタント教会で洗礼を受けて、「カトリックは宗教改革で否定された反動的な中世の遺物だと思っていた」ら、自由意志と神の恩恵についてのカトリック神学の精緻な教理に出会って「二千年の教会の歴史の遺産と知恵を見い出」して、実存的な飢えと知的探求心の両方を満たされ手「改宗」したとあったのを読んで、なるほどと思いました。

私も、カトリックが、歴史の荒波の中でいろいろな難破もしながらとにもかくにも大船を建て直し維持してきた智慧の結集にはいつも感心させられます。

フランスでは何世紀もカトリックしかないような村はまだいくらでもありますから、そんなところでは、政治的にも思想的にも性格的にもあらゆるタイプの人がいるわけで、「カトリックだから何々」とは別に言われないのは、「日本で家の墓が何々宗のお寺にあるからあの人は…」と言われないのと同じです。

でもそんなフランスでわざわざカトリックから仏教に「改宗」するような人はやはり、仏教徒だから菜食だとか殺生しないとかいう目で見られます。日本で「カトリック」をあえて選ぶ人もそういう意味で、上から目線どころかひたすら謙虚に弱者に仕えるところを見せてほしいですね。今の教皇が言っているのもそういうことですが。

ヒトラーとバチカンの関係についてはいくらでも資料はありますよ。ヒトラーのライヒ・キリスト教は何しろイエスはアーリア人だとか言っているのだし、基本的にお話になりません。でも国際政治のパワーゲームはまたそれとは別ですし、個別にはいろいろなケースが出ました。

今日本語ですぐに何かないかと少し検索したら、wikiに「ドイツのカトリック」というのがありました。多少役に立つかも。

しかし最も大切なのは、そのような時代を経た後彼らがどうそれを乗り越えたかということで、その意味で第二ヴァティカン公会議もそうですが、ポーランド人教皇やドイツ人教皇さらにアルゼンチン人教皇を輩出したことには感心します。

前も書きましたが、世界的に見ると「人材」には事欠かない大きな組織なので、今時、その中から選出されるような人は、ありとあらゆることを考え尽くす知的誠実さに信頼のおける人だなあと思います。聖霊の風に吹かれているとはいえ何でもきっちり文章化してくれるのも分かりやすくて魅力です。

そして、誠実に突きつめれば突きつめるほど単純化する本質的なものもあって、仏教も含めて「普遍宗教」の霊性というのは本当はそういうものなんだなあと思います。

あまり「評判」や「誤解」を気にせず、自分より相対的に弱い人の役にたてることを少しずつやっていくのが一番確かかもしれません。

http://setukotakeshita.com/

703kei:2014/09/10(水) 22:11:20
ユダ
ヒストリーチャンネルでしたか、ビン・ラディンの殺害に重ねて、リーダーを捕まえるには必ず手引きをする者が必要だ、と言っていましたが、アメリカのTVが言うと妙に納得します。

最後の晩餐の動揺からしても、マークされていたのはユダだけではなかったと思われます。
著書のように、イエスは確かにユダを許していたし、ユダの状況を理解してその苦しみを和らげようとしていたようにも思えます。

しかしその後、ユダヤ人と共に、人類最大の悪人とされてしまったのはこれこそ人間の罪の深さというべきでしょうか?

最近でも、キエフ派のウクライナ正教会総主教が、プーチン大統領を「カイン」に例えたとのことです。
シリア内戦(もうアラブ宗教戦争と言うべきでしょうが)では、サウジのイスラムの指導者が、アラウィー派のアサド大統領と戦うことを聖戦扱いにして、アサド大統領は、外国戦闘員を背教者と呼んでいました。こんな取り返しのつかないことをすると泥沼は深まるばかりです。

自らの立場を正当化するために、相手を絶対悪とレッテルを貼るのは今後も続くことでしょう。(世俗的には「民主主義の敵」なる言葉も流行しているようです)

罪深い人間の歴史の中で、ユダも少しずつ人間的な光を当てられているようですが、それはポジティブなことなのでしょうか。
今、教皇は困難な中でも寛容と和解を訴えているようですが、その基本的な立場を貫いてほしいものです。
(ISISに対しては正当防衛の歴史からの理解をしています)

今ユダはどこに居るのでしょうか?

704sekko:2014/09/11(木) 02:09:15
keiさまへ
教皇と正当防衛については前に少し書きました。

http://spinou.exblog.jp/22507342/

ユダについては、そうですね、ユダの罪が少しずつ「人間だもの」みたいな許され方をする傾向は、もしそれが「裏切りを正当化する」ものならポジティヴとは言えません。

でも、これまでユダ一人を悪者にしたてて責任転嫁してきたやり方よりも、ユダ程度の裏切りは「人間だもの」と認めることで逆に、誰でもユダになり得る、それをどう克服するかという一般論の方向に行くならポジティヴかもしれません。

「人間だもの」で許すのではなくて、それを克服しようとするのもまた人間的な営為だと思います。

原罪は「蛇=サタン」の誘惑のせいということで、人間が皆断罪されるかわりに、「悪の誘惑をどうしたら斥けられるか」という方向にスライドしていく場合、ネガティヴではないと思います。でも、ユダの場合はいくら「サタンが彼の中に入った」せいだと言っても、ユダという人間が悪と同義にされて否定されるのだとしたら、それは「救いの対象になるすべての人」を人が勝手に「仕分け」してしまうことになるので、いろいろな差別と共通の根を持つことになるでしょう。

出来心だとか小さな裏切りは、ほとんどは大した結果を生みませんが、運が悪いと大きな災厄を引き起こします。そういう例は少ないのかもしれませんが、それをたいそうに言い立ててもらった方が、自分も含めて凡人には抑止力になるかも、とも思います。

多くの人が、「ユダが悪い、神殺しだ」のように短絡化してやってきた歴史は不思議でもあります。でも、「悪いのはいつも自分や自分たちの仲間ではない誰か」という言説を人は信じたいのかもしれません。

ユダがいるのはやはり普通の人の心の中、なのかもしれませんね。

http://setukotakeshita.com/

705愚者:2014/09/13(土) 00:36:18
ナチスとバチカン
sekko様
おっしゃるとおり評判を気にするべきではないのですが、私の目上の親しい人は、カトリックは嘘と迷信の原点から始まった宗教であることを知った方がよいと忠告してくれました。中学以来の親友はアラブ研究の片倉ともこ氏が寄稿した雑誌を貸してくれて、目を覚ませというメッセージをくれました。片倉氏は「キリスト教は明らかにあり得ない処女懐胎や復活を信じる宗教。イスラム教にはそうしたお伽噺はなく理性に反しない宗教」と記していました。
そんな経験から、カトリック教会に縁のない一般人の印象は、反感と侮蔑が基調にあることを知りました。下はよくあるその種のツイートとコメントです。

http://sun.ap.teacup.com/souun/15241.html

教会は世の終わりまで敵意や侮辱という十字架を担うのでしょうが、その原因の事実誤認や誤解に腹がたつこともあります。
女性が司祭になれないのも時代遅れの性差別といわれますが、私見では「被除階権」という権利は存在しないと思うので性差別には当たらないような気がします。最後の晩餐の原型への拘りが感じられて、カトリックにも原理主義的な聖書への忠実さがあることに気づきました。
最も困惑させられるのは、天動説の弾圧、宗教戦争、異端審問、魔女狩りなどの愚行を犯したのはカトリック教会唯一者だけである。というイメージがいつの間にか定着してしまったことです。
いつの時代にも、最悪の過ちを犯してきたカトリック教会という根強いイメージ。その反面、コペルニクス、ガリレオ、デカルト、パスカル、エラスムス、ルソー、メンデルなどの不朽の思想家たちがカトリックであることはあまり知られていません。ラスカサスは最近まで知りませんでした。
wikiの「ドイツのカトリック」反論の素材になる情報がありました。
近年教皇庁で第二次大戦中の文書などの整理が進み、いずれ公開されるとどこかで読んだ気がしますが、日本で優れた翻訳や解説が出るまでには十年や二十年はかかるのでしょうね。
現教皇は大変好もしい方で、ユーモアのセンスもあるそうなので、厳しい危機に適した人材ですよね。B16世は極端な金融ゲームを公に非難して良識を示しましたが、報道したのはカトリック新聞だけでした。

706sekko:2014/09/13(土) 01:31:37
愚者さま
なるほど…。これは『キリスト教の真実』でも書いたのですが、「西洋近代史」って、プロテスタントがその名の通りカトリックを大批判または全否定するような形で生まれ、その後、理神論とか無神論がカトリックもプロテスタントもまとめてキリスト教を批判、否定するような形で進んできたので、そういう議論には事欠きません。

順番からして一番たたかれているのがカトリックで、言い換えると、プロテスタントや理神論、無神論の勢力の台頭と接触のなかった文化、脅威にならなかった文化は全くたたかれていないわけです。

カトリックの方は何を言われても、最初は「破門だ、異端だ」と言っていても、そのうち「よく考えてみると自分たちもまちがっていたかも」と反省もしてしまい、他宗教への批判がアイデンティティになるところまではいかないので、自己弁護の武装が今一つ足りませんよね。

でも、プロテスタントやイスラムより古くて、しかも、あれこれメンテナンスしながら生き続けているのですから、「今のやり方を見てくれ」といういわば「大人の態度」をとっているともいえるわけです。私は自分も年を取ってくるとそういう方にシンパシーを感じます。

宗教の創生神話とか建国神話とか、教祖の誕生の不思議譚そのものはどこにでもあるのでその表層はあまり気になりません。

同時に、「理性では信じられない」という言い方は、理性や科学では説明がつかなかったり考えられないようなことはこの世にたくさんあって、いや、多分、合理的な部分というのはほんの一部だと思うので、私はむしろ不可知論です。

『自由人イエス』(ドン・ボスコ社)で書かれているように、イエスの「復活」というのは、私には想像もつかないような形で使徒たちの全世界観を覆すようなことが起こったのでしょう。

すごいなあ、ちょっと知りたいなあ、とは思いますけれど、私が知りたいけれど理解を超える、または手の届かない世界の不思議なんて無限にありますから、復活をきっかけに何が起こって何が問われているのかの方が本質的なものだと思います。

カトリックではなく無教会派ですが矢内原忠雄の『キリスト教入門』(中公文庫)も日本におけるキリスト教理解について興味深い本です。プロテスタント無教会主義の明快な、それだけに厳しい信仰の態度は、うらやましいような、やってられないような、日本人には無理だなあ、という感じはします。フランスにおけるカトリックのぬるさの方が「応用がきく」という私の印象は変わりません。

『自由人イエス』、『キリスト教入門』とも私が解説を書いています。よかったら参考にしてください。

http://setukotakeshita.com/

707今紫:2014/09/26(金) 22:07:23
改めて気になるバチカンへの落雷
お久し振りです。
もう大分前のことになりますが前教皇が退位され一時聖マラキの予言が話題になりました。退位を発表したその日、バチカンのサンピエトロ大聖堂に落雷した事件はご存じでしょうか。あの映像は覚えています。巷では様々な憶測と説が交差し混乱しました。これはどういう意味が込められていたのでしょうか。単なる偶然でしょうか、それとも神のおもしめしでしょうか。

708sekko:2014/09/27(土) 18:04:19
今紫 さま
そうですね。フランス系の通信社AFPのカメラマンがあの日、嵐になったので、サン・ピエトロ大聖堂の上の避雷針に雷が落ちるのではないかと期待して柱列の下で2時間も待機して、3度の落雷のうち2度目をキャッチしたのでその特ダネ写真は世界中に配信されました。

BBCのカメラは3度とも録画していてこれも今もネットで見れますが、当時も、「神の存在証明だ」という人や単にジョークとして扱う人もいました。

1981年に初めて社会党のミッテランが大統領選に勝利した夜も大嵐で、オランド大統領も大雨男で、就任後のパレードもずぶ濡れ、ドイツに向かった大統領機に落雷して引き返したことなどもいろいろ言われていまして、フランス国内ネタではそっちの方が熱心でした。

あの日のイタリアは半島部分の西半分、サルデーニャ島まで広範囲で嵐で落雷があったので、別にヴァティカンだけに突然落雷したわけではないし、避雷針が機能していたということでしょう。

前教皇はそんな予報の出ていた日にわざわざあんな発表をしてしまったわけですが、もちろん偶然でしょう。

でもそれだけ「絵になる」ということは、あの大聖堂が「神と人間の中継地点」「神へのアンテナ」と多くの人にイメージとして刷り込まれているのだなという意味ではすごいなと思います。

あの写真だけで「マラキ書」が蒸し返されるとしたら、巷の見た目もっと堅固な陰謀論や終末論には反論してもなおさら無理かもしれません。視点を変えた方がいいですね。

フランシスコが最後の教皇、世界の終わりの教皇などと言われても、彼の福音的にぶれない姿勢は広く評価されていますし、使命感は変わらないと思います。自然現象ではなく、生き方、使命の遂行の仕方によって「神の意志」を伝えようと彼は思っているのでしょう。

この掲示板に時々来る陰謀論や終末論系のリンクは消去しています。あまりこの手の話題をふらないようにご理解ください。

http://setukotakeshita.com/

709愚者:2014/09/28(日) 21:17:48
不穏
「自由人イエス」を読んでから投稿するつもりでしたが、のんびりしてはいられない気分です。
国連人種差別委員会からレイシズムの禁止と規制を勧告されてほどなく内閣が改造され、19人中15人が極端な国粋主義グループのメンバーであると同時に差別団体と親しい関係にあることが明らかになりました。国連が禁止・規制を勧告した類いの団体の代表的なものです。逮捕者も出ています。
欧米の主要紙が取り上げたそうですからsekko様もご存じと思います。しかし国内の主要メディアは全く報道しません。9月25日は外国特派員協会(FCCIJ)で行われた山谷国家公安委員長の講演と質疑応答の驚くべき内容が、タイムズ、ウォールストリートジャーナル、ワシントンポストなどで報じられたそうで、主にwebに表れる独立ジャーナルや識者の記事によって私たち一般人はそれを知りました。
海上自衛隊がNATO軍と合同訓練をすることが決まったなどというニュースも、重要な情報ほど主要メディアは知らせません。
先々週、ロックフェラー家の財団だか持株会社だかが石油事業から手を引いて再生エネルギー事業に出資するBBCのニュースがありましたが、主要メディアは取り上げません。政府もメディアもグローバル化、グローバル人材と大合唱しているのに、グローバルイシューを活発に論じません。
件の国家公安委員長は普通選挙法、婚姻の自由と男女平等に反対していて、離婚禁止法が必要だと公言したそうです。就任時に山谷氏は有名な差別団体との関わりを訊かれて、そんな団体はきいたこともない、と答えたのですが、写真や文書の記録がいくつも公にされてからは、記事の書きぶりが問題だと居直りました。国家公安委員長が差別主義団体の仲間で、それを隠すために就任早々虚言を吐いたのです。ナチスドイツを手本にする閣僚も差別主義(ヘイトクライム)団体の顧問を務めた人も即刻辞任するべきだと思いますが、全くその気配はありません。
遠からず秘密保護法が施行されたら、この程度の常識的な会話も監視や嫌がらせの対象にならないとは言えません。質問したかったのはリベラルという語と概念の理解のねじれについてですが、改めて投稿します。
そういえば、岡田大司教やその仲間は大学紛争で暴れた左翼崩れで祈りを軽んじて運動に走るのは間違いだなどと小教区の古参の人が批判してるという話を聴きました。

710sekko:2014/09/28(日) 23:53:44
愚者さま
ここは一応宗教・哲学のテーマなので、深入りしませんから、Forum3の方にでもまた話題をふってください。他の人も参加してくれるかもしれません。

山谷さんのことは前からネットを通して聞いています。昨日も田中龍作ジャーナルで経緯を読みました。確かにヘイトスピーチの団体の堂々のデモなど、私の知っている日本では想像もつかないことです。でも、フランスにいても日本の情報がこうして伝わってくるのですから、これも30年前には想像もつかなかったことで、このようなグローバル化をなんとかしていい方につなげたいですが・・

>>>岡田大司教やその仲間は大学紛争で暴れた左翼崩れで祈りを軽んじて運動に走るのは間違いだなどと小教区の古参の人が批判してるという話<<<

ですが、ラザリストや愛徳姉妹会を創った近代都市の社会福祉の先駆である聖ヴァンサン・ド・ポール(ヴィンセンシオ・ア・パウロ)はこう言いました。

「あなたが祈っている最中に一人の貧しい人がドアをノックしたなら、神をひとまずおいて、神を迎えなさい。
ドアを開けに行きなさい、あなたに会いに来たのは神なのです」

この言葉を教えてくれたラザリストの神父が弱者を支援する時の座右の銘は

「ゆるす、忘れる、継続する」

なのだそうです。これについてまたどこかに書きます。

時代も国もはなれた今の日本でも、愛徳姉妹会の日本人シスターたちは迷わず聖ヴァンサンの言葉に従っています。というか、貧しい人、一人暮らしのお年寄り、病人などのうちのドアをたたき続けています。もちろん国籍や出自は無関係です。

これは今の教皇の霊性に近いので、今の教皇を煙たがる人も決して少なくないですね。

http://setukotakeshita.com/

711愚者:2014/09/29(月) 02:41:46
sekko様
哲学宗教と関係ない投稿申し訳ありませんでした。
外国在住者はむしろメディアコントロールを免れていることに気がつきませんでした。内田樹、水林章、佐々木中といった知識人もブログやSNSで遠慮なく言論活動をしていて、それが当たり前に外国に届いているのですね。
フランシスコ教皇の著書邦訳を読んだ友人が、教会の未来に希望が持てることが書いてあったと言ってました。
ある神父さんがフランスの教会は見る影もなく縮小してしまったが新しい霊性や霊性の刷新はなぜかフランスで生まれると言っていました。霊性ではありませんが、アメリカでブームになったT.ピケティの本ー特権階級が煙たがる経済史らしいーは12月に翻訳が出る予定だそうです。日本国内では読んだ人による書評はまだありません。もしもsekko様がお読みになったら、どこかで感想を書いていただければと思います。
これからは質問するときはFORUM3に参ります。
ありがとうございました。

712愚者:2014/09/29(月) 03:38:46
訂正
愛徳姉妹会を身近に感じる環境ではありませんが、福音を文字通り実践する修道会なのですね。
信徒であっても聖ヴァンサンの教えを実践できるようにならなくては。
水林先生のサイトは工事中でしたので、取り消します。
sekko様を始め思慮に富んだ知識人がインターネットで言論活動を続けている限りなんとかなると思えてきました。改めてありがとうございました。

713sekko:2014/09/29(月) 06:26:51
愚者さま
ピケティの新著については前にブログで触れたことがあります。

http://spinou.exblog.jp/22257223/

このブログで書いたピケティの以前のパートナーだったオーレリー・フィリペティは、 8月にヴァルス首相がフランスの経団連みたいなのにすり寄って内閣改造した折に怒って出て行ってしまいました。

新著は通して読んでいないのですが、数々の記事や抜粋や著者インタビューを聞いて、この本を取り巻く言説の方に興味を持ちました。

愛徳姉妹会は徹底的な社会奉仕においてぶれがなく、ラディカルです。いつも感動します。私はカトリックの不思議話が好きで、パリの愛徳姉妹会の「奇跡のメダイ」のチャペルの話を本で紹介して以来のつきあいなのですが、今は、「奇跡、なに? それ」という感じでエネルギッシュに活動しているシスターたちの存在そのものが奇跡だなあ、と思っています。

10/22には大阪で彼女らが運営する養護施設「聖家族の家」で子供たちのためにバロック音楽劇をやります。11年ぶりです。

11年前の慰問コンサートのことはトリオのブログに書きました。

http://nitetis.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-c7e8.html

今回は子供たちと踊る趣向もあります。子供たちに今より少しでもよくなる社会を残したいです。

http://setukotakeshita.com/

714今紫:2014/09/29(月) 19:44:09
大天使ミカエル、ガブリエル、ラファエルの祝日
竹下先生

先日はありがとうございました。偶然の出来事であることがわかり安心しました。

陰謀論の件は今後、ふらないように気を付けます。申し訳ありませんでした。

本日、大天使の祝日です。竹下先生に大天使のご加護がありますように。

715kei:2014/10/10(金) 14:45:14
プロファイラー、パルジファル
10月8日放送のザ・プロファイラー「ジャンヌ・ダルク」に出演しておられました。
あの1時間ではとうていプロファイリングなどできないのはもちろんでしょうが、改めて合理的な理由が出れば出るほどそれをすり抜けてしまうことを実感しました。
テロ戦以来、西側の戦争の戦略論理に慣らされてしまっています。そのようなものは結局シャルルの論理なのでしょう。
日本で今ジャンヌ・ダルクの劇がやっているようで、なぜ日本で?と思ってしまいますね。

ところで、「ユダ」の反ユダヤ主義の例にワグナーが入っていません。
楽劇「パルジファル」などはその好例のように思われます。
最初に永遠に呪われて死ねない女クンドリが出てきますが、さまよえるユダヤ人を知らずにはちょっとわからないでしょう。
クリングゾルなどアラビアとなっていますが、どうみてもユダヤ人のことです。
これを見る人たちはユダヤ人のもたらした悪徳からの救済と見ていたのでしょうか。

どうもここには、自分たちの問題点の責任を他者に転嫁してしまう西欧的思考が見られるような気がします。
それが社会主義やイスラムにとって代わられているだけではないでしょうか。

ジャンヌも背教者として処刑され、免罪、そして聖女となったわけですが、こうしたご都合主義が今も続いている気がします。

716sekko:2014/10/11(土) 23:49:35
Keiさま
今赤坂ACTシアターでやっている『ジャンヌ・ダルク』の公演のパンフレットにも記事を書いています。今までとは少し違った視点で書いてみました。機会があればご覧ください。

私はコンサートや講演で日本にいくので、11月の横浜公演の方に行ってみたいと思っています。(コンサートの情報は下のURLから入れるトリオ・ニテティスのブログに載せてあります)

ワーグナーについては複雑な思いがあります。フルトヴェングラーについても複雑なので。

私は中学生の頃から渡辺護さんと交流があり1967年の大阪国際フェスティバルのバイロイト国際フェスティヴァルで講演された時も楽屋でおしゃべりしました。

そんなこともあってゲルマン神話世界と反ユダヤ主義の関係は何となくスルーしたのです。

反ユダヤ主義は「ユダ」本人への憎悪よりずっと政治的でもあり複合的なのであまり深入りできないところでもあります。今はフリーメイスンについての書下ろしを進めているのですが、ユダヤ=フリーメイスンの陰謀論の構造と歴史がまた複雑です。ユダと同じく、フリーメイスンにまつわる言説を通して見えてくる文化の差、歴史というものは興味深いです。

http://setukotakeshita.com/

717愚者:2014/12/24(水) 00:22:19
クリスマスおめでとうございます。
sekko様も藤永先生のブログの読者なのですね。あんな94歳に、できるものなら自分もなりたい、と感じさせる方ではないでしょうか。闇の中で叫ぶ賢者。
T.サンカラの生涯とJ.ジグレール「世界の半分が飢えるのはなぜ?」が改めて取り上げられていて、クリスマスのプレゼント向けの本だと思いました。日本の漫画家がサンカラの伝記を描くといいと思います。井上雄彦氏あたり(他の作家を知らないので)。
岡田大司教との対談を聴かせていただきました。大司教が、我々はずっと以前からキリスト教の悪口を毎日聞きながら宣教している、と言ってましたが、実感がこもっていました。長年の報われない宣教の苦労で、疲労困憊した顔色や表情が固定してしまったのでしょうか。
でも、大司教の指摘のとおりだと思います。音楽家、彫刻家、画家、小説家・詩人などにはキリスト教徒がけっこういるみたいですが、キリスト教の影響に接することのない普通の人は、その人がキリスト教だと思っているところの、キリスト教に非ざるものをキリスト教だと考えていることが多いと思います。よく、ローマ法王に忠誠を誓うカトリック信者という表現を見ますが、少なくとも日本では忠誠を誓ってるカトリック信者に会ったことはありません。しかし、そう定義されているようです。陰謀論の世界ではバチカンやイエズス会はレギュラーらしいし。
一方、映画「天国は本当にある」は意外と空席が少ないとか、銀座の大手レコード店でノートルダム大聖堂のミサのライヴの売れ行きが凄いなどという話も聴きました。
「自由人イエス」を読んでおりますが、むずかしいところは飛ばしています。文章は平易なのに内容は私にはやさしくありません。
幸いなクリスマスとお正月をお過ごしください。

718sekko:2014/12/30(火) 08:03:07
愚者さま
ありがとうございます。

クリスマスって、よく考えるとすごいですね。神が受肉する時、わざわざ赤ん坊になって、しかも飼い葉おけの中で、牛やロバからさえ見下ろされる、世界中のキリスト教会や家庭で飾られる「馬小屋」の中で、一番低い位置にいるのが「幼子イエス」って、「上から目線」の神さまや教祖様とは正反対の究極の「下から目線」。

これが出発点で、最後は、十字架の上に「上げられて」下から見上げられる「さらし者」として殺されて、そのまた後に復活して、ようやく「昇天」して「天の父」と合流するわけですけれど…。

生まれたとたんにすたすた歩いて「天上天下唯我独尊」としっかり「優越性」を宣言しているように見えるお釈迦様のイメージとは違いますよね(お釈迦様は生まれた時に立っていて、亡くなった時に涅槃で横たわってという感じで、イエスは生まれた時は裸かぐるぐる巻かれて横たわり、死ぬ時と昇天が垂直のイメージで逆なのが興味深いです)。

藤永先生は、まだ80代でいらっしゃると思います。まだまだお元気で発信し続けていてほしいです。

カトリックに関して、ローマ教皇に忠誠を誓う修道会は普通にありますけれどね。普通の信者は忠誠というより、「キリストのまねび」というか、キリストをまねて生きた聖人たちの生き方をまたまねて、というようにモデルがたくさんあるので目的地ははっきりしているはずですけれど生き方路線はいろいろなのかもしれません。

よいお年をお迎えください。

http://setukotakeshita.com/

719kei:2014/12/31(水) 13:47:37
JP2とF2
クリスマスネタですが日本の漫画「セイントお兄さん」でマリア様がネットで馬小屋で出産したと書き込んだら「うっそー」「ありえない」との反応だったようですよ
なかなかあの漫画はためになりますね

ジャンヌ・ダルクの舞台、堀北真希ちゃんのがネットであがってますが、ちょっとリュックベッソンに影響されすぎていますね。
モーニングで漫画家の山岸 涼子が書き出したようですが、これもどうもリュック・ベッソンの系統のようです。
「宗教戦争」の時代に妙なとらえかたをされたのは困ったことです。

「イスラム国」ですが、「アラブの春」の混乱の中で、結局極端なイスラム主義にアイデンティティを求めてしまったのでしょうか。
そもそもアラブの春というものが民族主義的な独裁を打破ったとき出てくるのは、西欧型民主主義ではなくイスラム主義というのは当時からみえていたことではなかったでしょうか?
アラブの春そのものも、さまざまな諸潮流がまざりあっていたのに、民主主義と単純に規定してプロパガンダに乗せられてしまって今日に至る気がします。
ウクライナ然りですが。
私は、現教皇フランシス2世のアプローチは正しいように思います。
双方に和解と寛容を促すアプローチ。
キューバとの和解についてはマスコミでもヨハネ・パウロ2世のアプローチと比較されていますが。
無神論なるがゆえに体制を変えようとしてしまったJP2は、その後のブッシュ政権のイラク侵攻から、この混乱を招く引鉄になってしまっている気がします。
JP2は、冷戦崩壊後の世界はフクヤマ主義的なものを考えていたのではないでしょうか。
まさかこのような混乱と弱肉強食の世界となるとは考えていなかったに違いありません。

720sekko:2015/01/01(木) 01:35:45
新年おめでとうございます
フランスはまだ大晦日ですが、これから忙しくなるので今のうちにご挨拶です。

keiさま、現教皇はフランシスコです。選出された時「フランチェスコ一世」と報道されたこともありましたが、正式には、次にフランシスコ二世が登場した時に、今の人がフランシスコ一世とよばれることになるそうです。

(ヨハネ・パウロ一世はなんだか最初から一世と呼ばれていたような印象なのですが、ひと月ほどで亡くなってすぐにJP2が誕生したからかもしれません)

「アラブの春」に関しては、軍事独裁政権がそれまでイスラム主義勢力を抑えていたのが打倒されたことで歯止めがなくなったこと、「民主主義」を求めていた人々はまとまった政党をつくるストラクチャーも余裕もなくて、結局イスラム主義政権が「民主的選挙」で選ばれてしまったというジレンマがあったと思います。

それを言うなら、フランシスコ教皇のアルゼンチンもずいぶん危うい道をたどってきました。フアン・ペロンの正義党がファシズムだったのかどうか、その運命を思うと感慨深いです。今も正義党は健在ですし。

ペロンも教皇と同じイタリア人ルーツがありました。今の教皇の人気もポピュリズム、ペロニズム(ペロニスマ)と評する人もいて、危うい部分もあるなあと案じられます。ともかく、世界中で平和や環境保護を望む人たちが教皇の人気をよい意味で最大限に利用して、特定の国や企業への利益誘導という流れを変えていってくれればなあと思います。

http://setukotakeshita.com/

721kei:2015/01/05(月) 17:43:54
イスラム国とナポレオン
確かCNNだったと思いますが、乳幼児死亡率などの改善は中国の効果が非常に大きいということを見た覚えがあります。

アラブの春からイスラム国への流れは、シリア情勢をウォッチングしていた過程から言うと、結局「民主主義派」が武装闘争になるときに、なんでもかんでも引き入れてしまい、特に欧米がアンタッチャブルのサウジ、カタールなどが、スンニ対シーアの観点から介入して、シリア国内のスンニ派高官などに働きかけ、政権転覆を狙ったときから宗派戦争化してしまいました。
イランとサウジどちらが先に介入したのかは論争の的ですが。
イスラム国の前のISISも、イラクのシーア派政権を牽制するために泳がされていたのはもう周知といってもいいと思いますが、
まさかここまで思い上がるとは、と攻撃にまわっていますが、それは甘すぎるというものです。

フランス革命もナポレオンが居なければあっさりと潰されていたかもしれません。
皇帝を名乗るなどと妙なことをしましたが、近代の思想に基づいた改革を行ったのは、希に見る「良い独裁者」といえるかもしれません。
ある意味ナポレオン帝国が短期で終了してしまったことが、ナポレオンの良い側面がその後に受け継がれたかもしれません。

マルクスもレーニンも革命と民主主義と独裁の関係を研究していますが、それを考えると共産主義独裁が残ってしまったロシアよりも、敗北したドイツやフランスのほうが社会主義の思想をうまく引き継げたのかもしれないとも思ってしまいます。

革命と啓蒙主義的普遍主義思想のイデオロギー化の失敗、そしてナポレオンによるカトリックとの和解と普遍主義、さらに宗教。

こんな感じで考えてゆけばナポレオンは今日的かもしれません。

722愚者:2015/01/13(火) 00:49:47
1/2
sekko様
去年の投稿の誤りを指摘して下さってありがとうございました。藤永先生は21年生まれと思い込んでいましたが、私の誤りで正しくは26年生まれの80代でした。
sekko様が他のところでも書かれたキリスト教の逆説は最も心を惹かれる事柄ですが、精神を調えて集中しないと質問するにしてもまとめることが難しいので(^O^)、後回しにします。
L'art de croire を読んでアメディとアメドの対比には心を打たれました。
今回の事件に関する日本の識者の反応では、「反テロリズムでは一致できるのに、なぜ反戦争で(ともに行進した首脳ら)は一致できないのか?」想田和弘
「Charlie Hebdoが命をかけて守った風刺精神が今向かうべきは、Je Suis Charlie の「熱狂」だ。」伊勢崎賢治
「シャルリ・エブドの風刺は下劣で差別的だが、(中略)マイノリティへの人権侵害を成しているとは言えない。無論テロに正当性を与えるものでもない。」「言えることは二つしかない。いかなる言論に対してもテロ行為は許されないということと、テロリストたちがムスリム社会を代表するかのような捉え方はとんでもない誤りであるということ。」中野晃一
などいまのところ共感できる意見が目につきます。イスラエルの首相が反テロリズムの行動に参加することへの疑問・批判も散見され、巧妙に忍び込んだ「偽善」にも気がついています。

723愚者:2015/01/13(火) 01:51:21
2/2
8日の新聞には「風刺は弱い立場の者から権力に向けるものであって、シャルリの表現は風刺ではなく差別だ。」という日本のムスリムの声が載っていました。トルコ研究とイスラム研究の内藤正典同志社大大学院教授は、欧州のムスリム差別の歴史の理解なしには(ムスリム側から見た歴史という意味らしいですが)、イスラミストによるテロやイスラム国出現の真の原因を解き明かすことはできない、との論を展開しているようです。
犯人が殺されて背景や動機の捜査が出来なくなったのでは?生きた犯人を逮捕することを重視しないのでしょうか?
非人道的な死刑制度がないとはいえ、現行犯として容疑者をためらいもなく射殺するフランスの警察は、犯罪を解明したくないのだろうか、裁判で死刑にできないから凶悪犯は裁判にかけずに殺してもいいといった深層心理でもあるのか?と疑問を感じました。
日本の警察は、犯罪の全容の解明に必要なので、生きている犯人や容疑者を逮捕するのが原則だときいたことがあります。冤罪や不都合な事実が次々出てきたけれど、この原則は人道的だと思います。
キリスト教の伝統と人権宣言の国フランスの警察の姿勢は意外でした。
教皇への忠誠についてですが、洗礼に際して使徒信条を自らの信条とするのを教皇に忠誠を誓うと言い表すのではないでしょうか。教皇様に臣従を誓って家来になる、わけではないですよね。

724kei:2015/01/13(火) 13:09:11
グローバル化と寛容
まず掲示板の趣旨から言って、複雑な一事件の警察の対応などへの質問は控えるべきかと考えます

内藤 正典氏はこのごろとみに過激化しておりますのでお気をつけください

それに比べて酒井 啓子氏は非常にバランスがとれていると思われますので、中東・イスラム問題については参考にしてよろしいかと思います
http://www.newsweekjapan.jp/column/sakai/2015/01/post-901.php

シャーリー・エブドの襲撃については、一連の問題が最悪の形で爆発して切り分けられないまま進行しているかと存知ます

ムハンマド肖像風刺で揶揄・批判の対象しているのは、結局イラン、サウジなどの宗教と政治権力が一体化している国家ではないかと思われます。

しかしムハンマド肖像問題は権力問題とはかかわりなく長い間の文化問題でもあり、権力を批判しているつもりが、ムスリム一般が侮辱されているよう受け取られているように思われます。

フランス国内のムスリムはどうかわかりませんが、イランなどが声高に批判してくるので、ますますお互い過激になり、今回のように犠牲になるのは国内のムスリム達ではないかと。
グローバル社会、ネット社会の難しさが如実に出ているように思います。

例えば私はドイツのBILDはよく見ますが、過激なことを書いていても「またアホやってる」とか大笑いできるのですが。
他国でそのことだけを取り上げて、それがその国の姿勢みたいに広められると慣れない人は憤慨するかもしれません。

サッカーでもテロまでは至りませんが、メディアが煽って暴力沙汰は頻繁にあります。
国内で多数派のことで他国を煽りあいして、その結果戦争になるのは繰り返されてきたことではないでしょうか?

ワールドカップでもドイツ代表が祝賀会でアルゼンチンをからかう悪ふざけパフォーマンスをやったところ、アルゼンチンメディアから「侮辱」と言われて、「そんなつもりはなかった」と謝りました。

グローバル的な節度は求められているとは思いますが、今のメディアの過激化は問題かと思います。

教皇フランシスコ2世が和解と寛容を求め、自らモスクで礼拝している態度はそれに比べてなんと立派かと思います。
今はトルコですが、イランにも行けるようになればいいかと思います。

国家などにはそれぞれ複雑な問題があり、ある程度長期的にみていかねばならないことですが、欧米は性急にすぎて、かえって自分たちに降りかかっているように思えます。

挑発ではなく相互理解の積み重ねが大事かと

725sekko:2015/01/14(水) 00:50:36
keiさま、ありがとうございます
確かに昨日の書き込みはこの質問箱に適していなかったと思うのでForum3に移動しました。この質問箱は、上に書いていますが、死生観などについて迷っていることや考えていることについてピンポイントで私ならどう考えるかを知りたいという人のために開いているものですので、みなさま、それ以外についてはできたらForum3の方に書き込んでください。

このサイトもこの掲示板も、前にボランティアでやっていたフランス語のレッスンをやめた時に、引き続き、何か役に立てればと思ってはじめたものです。その頃、困っていたことについて他の掲示板で相談してみたらとても親切に答えていただいたので、私も自分にできることを何かしたいと思ったのです。それには、他の人よりも分かるのはフランス語とフランスの暮らしかなあと思って、Forum1を作りました。

ひっそりやっていくのが基本方針なのでみなさまよろしくお願いします。

http://setukotakeshita.com/

726愚者:2015/01/25(日) 20:32:54
お詫び
投稿が掲示板にそぐわない内容で申し訳ありませんでした。
フォーラム3への投稿を何度か試みましたが、ハードの機能の限界が立ち塞がりました。
フランスの政教分離に関する著作には心から期待しております。釈迦に説法で恐縮ですが、日本人によるフランスの政教分離に関する研究書で一般人の関心にもある程度応える著作は、今のところ伊達聖伸「ライシテ、道徳、宗教学ーもうひとつの19世紀フランス宗教史」くらいではないでしょうか。この本は私たち一般人には分厚過ぎて堅すぎます。私たちに必要なのは政教分離の宗教史文化史的な、また人物が登場する読み物だと思います。これを書ける人はsekko様の他にいないのではないでしょうか。
板違いで申し訳ありませんが、板垣友三東大名誉教授の興味深いインタビューがIndependeot Web Journal(IWJ) のサイトやアカウントに公開されています。もし未読だったらご一読に値するかもしれません。お騒がせしました。お詫びまで。

727愚者:2015/01/25(日) 20:37:43
訂正
誤 板垣友三
正 板垣雄三
でした。

728sekko:2015/01/27(火) 07:56:57
愚者さま
Forum3 に入れないのですね。

無理なさらないでください。
私もIT弱者なので。(愚者さまの問題は別の者かもしれませんが…)

板垣先生のインタビュー拝見しています。

1/11の共和国デモにネタニヤフがぎりぎりになって来ることを決めたのは、選挙が近くて、対立党の外務大臣らが出席するのを知った後での自国向け政治的パフォーマンスのようです。それでオランドも慌ててアッバス議長を呼んだようです。

政治家たちの思惑ばかりが交錯していたにしろあれはあれでよかったかもしれません。ヨルダンの国王夫妻がいたのも印象的でした。

板垣先生がフランスはイスラムをからかうのは自由でユダヤ人をからかうのには厳しいダブル・スタンダードだと言っていましたが、それは違います。

ユダヤ人差別言辞についてはペタン時代のホロコースト加担という過去のせいで特別に厳しいというのは事実ですが、もう長い間、いわゆる「平均的フランス人」には反ユダヤ主義は見られなくて、イスラム差別も、極右だと思われるのが嫌、不寛容だ、共和国的でないと思われるのも嫌だという自主規制が働いているので事実上見られませんでした。

社会のアメリカ化と共同体主義が進み、ムスリムが共同体化していったので、パレスティナ情勢のこともあり、反ユダヤ人言動は一部のムスリムか極右、ネオナチなどが主体でした。

カトリック文化で育ったけれど冠婚葬祭以外に教会には行かないという普通のフランス人は、「宗教」などもう過去のものだと半分は思っているのです。それなのにキリスト教も含めてを執拗に揶揄し続けていたシャルリー・エブドなどは「無神論の活動家」であるわけです。

それなのにヴァルス首相などが「ライシテこそ共和国の最高宗教だ」みたいな感じのことを言うので、なんか変な具合になってきました。

しかも、日本もそうですが、非キリスト教文化圏の人たちはなぜか「フランス=欧米=キリスト教」と言う連想があるので、シャルリーのせいでパキスタンやニジェールなどで教会が焼き討ちされたりしたのは気の毒です。イラクやシリアのキリスト教に至ってはヨーロッパよりも昔からの伝統ある宗教なのにさらに気の毒だなあと思います。

フランスのライシテについてはフランス人自身、特に知識人たちが自己欺瞞しているので実態は伝わりません。私が解説すると感心されることがよくあります。機会があれば書きますね。

http://setukotakeshita.com/

729kei:2015/03/03(火) 23:18:25
教皇の言葉は命令か?
シャルリー・エブドの復刊号の表紙に教皇などがエブドを追っている画が載っているそうですね。
この雑誌にこだわるわけではありませんが、最近教皇が子供のお尻を叩いてもいいのか、という議論を起こした、というニュースがありました
http://vpoint.jp/world/eu/37080.html

私などは、非暴力のドグマに捕らわれて、ほぼ子供のお尻も叩いたことはありませんが、心のどこかで「それでいいのだろうか?」と思っていたところ、この答えは大変参考になったものです。
しかしそれでも教皇が体罰を容認したというような声が出てくるのですから、なかなか難しいものだと思います。
フランスやヨーロッパは我々と違い、教皇の言葉を絶対命令のような形で聴くような心理的圧力があるのでしょうか?
ウサギ発言についても、私はとても具体的でウィットに富んだ言葉だと思いますが。

残念ながら私は子供のお尻を叩く機会をもう失っておりますが、次に孫が出来るときには、威厳を損なわない形でお尻を叩く方法を考えてみたいと思っております。

730sekko:2015/03/05(木) 07:21:57
keiさまへ
子供への体罰ですが、フランスでもヨーロッパの他の国のように禁止の法律化が話題になっています。個人的には、すべてその家庭での親と子の普段の関係を抜きにしては考えられないし、子供のタイプや親の判断力にもよると思います。子供が小動物や自分よりも小さな子供に害を加えたりいじめたりするような行動をとった時に害のない体罰によって断固とした親の意志を見せるという場合、その親がその信念にふさわしい行動をしているならばありかなと思いますね。でもこんな法律が必要になるほど、今は子供の虐待の連鎖とかの問題があるのだとしたら深刻です。

私自身は子供を叩いたりしたことはありませんが、普段可愛がっている猫にだって、ひどく引っ掻かれた時に思わず叩いたことが何度かあります。たいていはこちらが悪いのだし、犬と違ってそれこそしつけにすらなりませんが、反射的に手が出ることがあるというのは体験しているので、他人を批判することはできません。

で、「教皇の言葉を絶対命令のような形で聴くような心理的圧力があるのでしょうか」、というご質問、フランスに関してはないです。まあ今の教皇は人気者なのでこういう話題も取り上げられますが、普通はたいていスルーされます。『シャルリー・エブド』の復刊号にも、教皇の「私の母を悪く言う者は…」云々が取り上げられて、「福音書を読んでくれ(右の頬を殴られたら左の頬を出せ)」とか書かれていましたが、それでも愛されキャラみたいな扱いです。

もう30年位前、フランスのカトリックしかないような田舎で年配の女性たちのやっていた「昇る星」とかいう信徒の集まりに出たことがあります。みなそれこそ第二ヴァティカン公会議以前の要理でやってきた人たちばかりでしたが、すごくリベラルでフランクでびっくりしたことがあります。
避妊について、ヴァティカンが避妊具を容認してないことについて「そんなことちゃんときいてる人なんてない、家庭をもったことのない人たちに言われたくない」ってみんな言っていました。
まあ、フランスは司教会議もリベラルですが。

もちろん原理主義的な人たちはいますが、そういう人たちって分派していく傾向にあるし、たいていは教皇よりも「過激」ですからね。

フランスは絶対王政の頃も、ガリア教会主義で教皇の勅令が出ても、国会の承認を得なければ適用されなかったので、ある種の禁令が野放しだった例があります。

でもいつの時代も庶民はプラグマティックだったという気がします。社会に別のクライシスの要因が顕在化した時には信仰を刷新する人や下手すると狂信者なども出てくるのかもしれませんが…。

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731ともこ:2015/04/12(日) 00:23:27
サルトル「存在と無」第三部「対他存在」
私は海外の大学で哲学を学んでおり、現在、サルトルの「存在と無」の第三部「対他存在」第三部「他者との具体的諸関係」の部分を英語で読んでいるのですが、とても難しいです。「存在と無」の内容全体ではなく、第三部の第三章について、日本語で詳しく教えてほしいです。また、「存在と無」のオンライン書籍があれば紹介していただきたいです。私の英語力が全く追いついていなくて、困っています。時間がないので日本語の本を取り寄せる時間がありません。助けてください。

732sekko:2015/04/12(日) 00:30:31
ともこさん
残念ですが対応できません。図書館で当該図書の英語の解説書をさがせばいかがでしょう。ネットでも、日本語で助けを求めるよりは英語で検索すればレジュメや掲示板などあるのでは?

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733kei:2015/11/02(月) 07:43:57
神の計画
「フリーメイソン」楽しく読ませてもらいました。なかなか新教と旧教の対立は激しいものだと改めて思い、それを超えた普遍を求める志向について認識を新たにしました。しかし結局エリート主義結社だったなあと実感しました。グローバル時代とはいいながら、対立が深まるばかりで、新しい普遍がでてきてこないようですね。
ところでちょっと質問ですが、カトリック聖職者からも「神のご計画」という言葉をききます。
しかし人間の自由意志を重視しているのなら、個人のあれこれは個人(と守護天使)にかなりまかせておられるということになるのではないでしょうか?
カルヴァンの予定説との違いがよくわからなくなります。お教えいただければ幸いです。

PS.「ナポレオンと神」を心待ちにしています

734sekko:2015/11/03(火) 03:28:33
kei さま
「神のご計画」と人間の自由意志の関係ですが、神学的なことはカトリック系サイトの質問箱でお尋ねになれば答えてくれると思います。

エラスムスはトマス・アキナスを引いて、神の意思と人間の自由意志は別々に存在する、神の意思はあっても固定したものではなく、自由意志による人間の反応に適応するといいました。
その時にルターは、自由意志は神にしかなくて、人間に適用するのはナンセンスであり、人間のすべての行動は神の意思に添っているのだといってユダの例を出し、ユダの行動もすべて神のみ旨だと言いました。

ユダならまあ何とかこじつけられますが、もっと納得のいかない例もこの世にはたくさんありますよね。まあ、それは「この世」のことで「神のみ旨」なんて理解できないのだから不可知論になってしまいそうです。

でも、単純に言えば、神の計画はきっとあって、いろいろ人間に働きかけ続けているのだとは思いますよ。

でもそれに気づくか、アンテナをそちらに向けるか、気づいてもスルーするかなどの自由が人間にあるのでしょう。

でも、スルーされても拒否されても、気づかれなくても、神の方からはいつも情報を発信している(愛し続けている)わけで、いつしか人間の方が、自分の条件が変わった時(病気や老いや孤独その他)などに態度を変えて、今までの生き方を悔いたり、「神の計画」に参入するとか愛に応えるとか新しい関係性に入っていくことがいつまでも可能なのではないかと思います。放蕩息子の帰還みたいに。

「神の意思はあっても固定したものではなく、自由意志による人間の反応に適応する」ということは多分そういうことなのでしょう。

ちょっとハイゼンベルクの不確定原理みたいですが、電子を測定する時はじめて位置だの運動量だのが確定するので、神のみ旨を知りたいとか神のみ胸にゆだねるとか神の計画の役に立ちたいとか誰かが自由意志で決意した時にはじめてそれが見えてくる感じでしょうか。

そういうのを決意なしで自然体でやってしまっている人たちもたくさんいるのでうらやましいですが。

まずは、命を与えられて無事に生きていて信頼できる人がそばにいて、などの幸福に感謝、というところから始めたいです。

http://setukotakeshita.com/

735kei:2015/12/03(木) 17:15:11
聖母マリア
改めて「聖母マリア」を読んでいます。
この著作は貴女の著作を読んだ2作目(最初はジャンヌ・ダルク)で、そのころは不勉強でなんとも思っておりませんでしたが、その後いろいろ読むうちに、聖母マリア崇敬が異端であった時期があるのかなあ?と現在思っています。むしろ聖母マリア崇敬を抑えるためにマリアの従順さをクローズアップしたのではないかと思っています。
神が人間となり、母の胎内から生まれたのがわかっている以上、マリアの聖化は避けられなかったことかと思います。ローマ弾圧時代でも女子信徒は多く、ヨハネ福音書は女性に人気があったとの記述もあります。聖カタリナはマリアの勧めで、キリストと神秘の結婚をしたとされています。
現代は、メディアが英米優先なので、ピューリタン的男女平等が喧伝されておりますが、カトリックのいうように、母性については尊重されるべきものと思います。先進国での少子化の一端はそこにあるかとも思います。
拙の娘も結婚して、旦那の要望に従って専業主婦となりましたが、かえって自由に自分の好きなことをやれて、今和装の免状もとってサイドビジネスになりつつあります。こういう仕事の復帰もあるのか、と目をひらかされております。

https://www.facebook.com/kouji.yamasaki.31

736sekko:2015/12/04(金) 03:41:03
聖女の条件
『聖女の条件』(中央公論新社)の中で、ジャンヌ・ダルクの子とも聖母マリアの子ともさらに敷衍、展開しています。機会があればお読みください。

聖性と母性は都合よく結びつけられることが多いので私は警戒しています。

ただ、日本においては、専業主婦や母親になることで世間の圧力なしに実は自由を獲得する道が女性に開けている部分はあると思います。

でもそれは夫、父親の収入だけでやっていける恵まれたケースで、今はそれがだんだん難しくなっているのは心配です。

母性がリスペクトされるべきだというのはもちろんです。小さな命がこの世に生まれる、命を送り出す、というのは死の時と同じように、永遠とどうつながるかというすごいことだと感心します。

http://setukotakeshita.com/

737kei:2015/12/22(火) 04:02:45
クリスマス
ちょっと変な質問で申し訳ありません。日本でもクリスマスコンサートが教会で行われています
私も近隣の2,3に参加しました。
日本人は「教会」という定盤はほぼカトリックの大聖堂で、ヨーロッパ観光に行くとよく入るのに、ミサを体験してやろうという人はいないし、日本でもほぼ居ないと思います。わざわざクリスマス気分を味わうためにヨーロッパに出かける人もいます。せめてこんなときくらい来ればいいのにと思うのですが。
日本人にはカトリックは海外高級ブランド品のようなものなのでしょうか?中に居るとそんなこともないのですが、確かに感じなくはありません。聖フランチェスコの最初の教会のような貧しい者が集まる教会かというと疑問です。フィリピン人、ベトナム人などは平気で来てくれるわけですが。
アメリカ系では、大ホールに集まってゴスペル歌ってもりあがろうぜ、という教会が日本にも来ているようです。ポピュラーはポピュラーでしょうね。
慈しみの聖年が始まりました。貧者を招く教会というのは何なのかと考えるクリスマスです。

PS 貴女の著書でカトリックの面白さに気づき、(まあそれだけではありませんが)、入信しようという人が出ました、感謝申し上げます。

https://www.facebook.com/kouji.yamasaki.31

738kei:2015/12/22(火) 04:28:33
奇跡
すみません、あと1つ。まとめて答えていただいて結構です。
マザー・テレサの奇跡が承認されました。著書でフランスでは奇跡は割と不思議なこととは思われていない、と書かれていたと思いますが、これは伝統でしょうか?
日本では神道、修験道系で奇跡は出てきますし、神社で○○頼みをしているのは奇跡を待っているようなのですが、いざ「奇跡」と言われると引くと思います。アメリカでは事故などで助かった場合定盤のように「神が助けてくれた」と言いますね。
癌になったと落ちこんでいる(苦しんではいない)人が奥さんの友達に居て、マザー・テレサの奇跡を言って、気晴らしにルルドにでも行ってみたら?と言いたいのですが、ルルドも日本人知りませんね。

https://www.facebook.com/kouji.yamasaki.31

739sekko:2015/12/22(火) 08:27:13
kei さまへ
日本人のキリスト教感にはきっとミッション・スクールのイメージがあるのだと思います。前にもどこかで書きましたが、「日本にはカトリックお嬢カルチャーというものがあるんですよ」と教えてくれた方もいました。

それとは別に、今日のブログでも触れましたが、明治以降の知識人で、特にプロテスタントから無教会主義系で、キリスト教の精神を民主主義や人権などに結びつけて軍国主義や国家神道やらへの抵抗思想とした人たちの系譜もありますね。

でもその人たちは、神の摂理の予定調和などに疑問を感じて、いわゆる信者になる人は少数でした。

日本では、いわゆる貧しい人を救う、共同体から疎外された人を救う、という点では、新興宗教のネットワークが活躍したと思います。困難な状況にある人のところに出かけて行って支援と勧誘をセットにしたことが多かったのですね。

教会の方は、扉を開けて待っているだけで、すでに信者である人の共同体のケアという内向きのものが多かったのではないでしょうか。

貧しい人、一人暮らしのお年寄り、病人、母子家庭などのところに積極的に出向いて寄り添うタイプの活動をし続けてきたのは各種の修道会というイメージでしょうか。でも彼ら彼女らは、それこそマザー・テレサと同じで徹底して奉仕するだけで新宗教やカルトのような勧誘など絶対しませんから目立たないし、「海外ブランド」のようなカトリックとは別物と意識されるのでしょう。

日本にいる外国人がカトリックのコミュニティを通して助け合いやネットワークづくりをするのはうらやましいですね。
彼らの方がある意味では割り切っていると思うし、「困った時の神頼み」式の信仰や帰属意識の強さというものはすごいなあと思います。

ミッションスクール間の国際的なつながりも羨ましい感じです。(私には縁がないものばかりです。)

今の教皇の言っているのは、貧者を招くというより、動く元気もなく傷ついている人のところに積極的に出て行って野戦病院のように助けよう、ということですから、活動修道会の精神と近いですね。カトリックでなくても他のNGOとも協力しあう開かれた奉仕が目指されているのでしょう。

マザー・テレサの列福の奇跡は腹部ガンの30歳の女性で、今回はその13年後の2008年に35歳の男性で複数の悪性脳腫瘍があり、手術室で昏睡し、手術開始予定から30分後に外科医が来たら座って治っていて、「私はここで何をしているのか」と聞いたというやつです。腫瘍はすべて消えていました。奥さんがマザーテレサに助けてくださいと祈ったとか。前の奇跡は患部に不思議のメダイをあてていた、という話でした。

今回は9/5に、「現代の医学では説明不可能」という結論が出て、12/5にそれの奇跡としての神学的整合性が認められたという話で、列聖が来年の9/4ということですね。
マザーテレサのようなビッグネームなら祈る人も多いでしょうから、公式認定されない奇跡の治癒もきっとたくさんあると思います。

日本でも尊者認定されて奇跡を待っている蟻の町のマリアだとか調布のチマッティ神父とかいますし、取次ぎの祈りの文も紹介されていますから、祈っていれば治らないでも気持ちが楽になるかもしれません。
メダイでも他のお守りでも、奇跡でも「神の手」の外科医とかでも、苦しんでいる人が楽になったり治ったりするのは歓迎です。

カトリックでいうと、65歳以上の人は病気でなくとも病者の秘跡を受けられるというので、65歳になるのが楽しみです。
まあそんなことを言っているのは今のところ深刻な病気がないからかもしれませんが、生きている限りは何らかの形で人の役に立てるように、避けられる痛みや病気を軽減してくれる良心的なツールはいくらあってもいいなあと思います。

ルルドも、長崎の「ルルド」にはちゃんと水も湧いているそうです(というか昔から健康にいい水の湧く所に洞窟のレプリカを作った?)から長崎もありかなあと思います。東京カテドラルのルルドもいい感じだけれど水はないです。

不思議のメダイは、贈る人に信仰があれば「信者でなくとも効く」というスタンスですから、差し上げやすいのではないでしょうか。病気を患われているお知り合いの方のためにどうか祈ってあげてください。

http://setukotakeshita.com/

740kei:2015/12/24(木) 00:23:12
父の慈しみの御顔
詳しいご回答ありがとうございます。拙も聖年にちなみ、とにかく募金箱に必ず入れるという戒律を建て実行しているところです。クリスマスコンサートもアフガンやカンボジアへのチャリティでした。
しかし翻って我が国を見ますと、失業率は低く、皆確かに食べてはいけるでしょうが、ワーキングプアーで心のほうがパンクしているようです。カトリックの美しい典礼で心を休めてほしいのですが、ちょっと声をかけると、「クリスチャンです」と言われ、聞いてみればキリスト教系?新興宗教でした。ますますそれにのめりこんでまわりが見えなくなっていくようです。
フランスと同じようなものを感じます。オウムのようにテロをしろと言われればやってしまうような感じです。既存システムからの疎外感は、「自分たち(だけ)が正しい」と言われるとすぐ反応してしまうようです。歴史的にもルネサンスのフィレンツェの閉塞感からサヴォナローラの原理主義が一時期支配しました。日本のプロテンスントでも何やら終末論をほのめかすところもあります、アメリカ映画の「レフト・ビハインド」が教会に(多分映画会社?)が貼ってあってびっくりしました。アメリカはこういう映画は、宗教層の観客動員が見込まれるため、制作されているようです。
教皇のご提起は時期を得たものですが、若干の無力感も覚えます。父の慈しみの御顔とはどういう顔なんだろうか?といつも考えています

https://www.facebook.com/kouji.yamasaki.31

741アップル:2016/03/04(金) 17:07:07
心霊主義について
節子先生、こんにちは。
数年前にたしかキリスト教福音派について質問させていただいたものです。

その時のハンドルネームは忘れてしまったのですが。

福音派教会は日本在住の日系ブラジル人の間にまだまだ存在していますが、
数年前のあの熱狂ぶりから比べると、今は少し落ち着いているような印象です。

かわりに最近増えてきているのが、espritismo のグループです。
調べてみるとブラジル本国では確かに信望する人が多いようです。


彼らのバイブルは、アラン カルデックの書物です。
ブラジルで、サッカー選手にアラン カルデックという選手がいるくらい
多くの人が名前を知っています。


現代のフランスではどうなんでしょう?
アラン カルデック及びスピリチスムのフランスでの位置づけ
を知りたいのですが。よろしくお願いします。




私が知りたいのは、アラン カルデックの国フランスでは

742sekko:2016/03/05(土) 07:55:42
アップルさま
そうですか。

ブラジルではカルデックの本が3千万部も売れているらしいですね。

フランスでは、確かにペール・ラシェーズのお墓はいつも花がいっぱいですごいなあと思いますが、まあオカルトの位置づけですね。

カルデックも、もとは子供たちを迷信から啓蒙しようという合理主義の教育者でしたから、アメリカ由来の「霊との交信」に本格的にはまってからも、霊名(?)を使い分けて、スピリティスムも「科学」の言葉で語ろうとしていました。

だから、一応、宗教とは違う、というスタンスで、無神論のイデオロギー陣営ともキリスト教陣営とも直接衝突しないで、文化人を含むかなりの人の「オカルト趣味」として一時はかなり浸透していたようです。

今はオカルトのon of them という感じでしょうか。

ブラジルのようにカトリック、先住民インディオの土着宗教、17世紀から奴隷として連れて来られたアフリカ人の土着宗教の三つの心性が混然としている所だからこそスピリティスムがその三つをつなぐけれど既成宗教とは直接バッティングしない形で自然にシンクレティズムを形成したのでしょうね。

スピリティスムが新宗教の形をとるとベトナムのカオダイ教のような分かりやすいシンクレティズムとなります。宗教でなく「科学だ」とか「実在する超常現象だ」という形で信奉者を獲得するビジネスになる場合もありますね。

日本では土着のシャーマニズムの伝統や先祖との交流みたいなものが心性として残っているので、カタカナのスピリチュアリスムはそれらとフュージョンすることはなく、カタカナのオカルト、カタカナのスピリチュアリスムとして別枠で存在するのかもしれません。

カルデックはブルターニュの名で、前世がドルイッド教であるとしてキリスト教以前のガリアの土着宗教と結びつけることで正統性みたいなものを担保しているわけですが、そしてお墓もドルメン型ですが、ブラジルではそんなことどうでもいいような気がします。

でも、亡くなった人との魂の交流そのものは古今東西よくある話で、別にわざわざ科学だと言わなくとも、そして詐欺や騙りもあるでしょうが、「宗教」とか「霊性」とかとは別枠で考えればいいのでは、思います。

今、あるジャーナリストが、父親の棺に4つのものを入れて埋葬し、有名な霊媒4人に父親にコンタクトしてそれが何か伝えてもらうというテストをレポートした本を読んでいます。おもしろいですよ。

結局は、病気や治療や治癒と同じで、現象は似ていても、その原因も経過もケース・バイ・ケースとしか言いようがなく、教義や教祖をたてるのは罠か誘惑か誤りか矮小化なのでしょうかね…

http://setukotakeshita.com/

743アップル:2016/03/05(土) 11:19:48
(無題)
お返事ありがとうございます。

フランスでは、なんというかやっぱり予想通りオカルト扱いなんですね。

節子先生がおっしゃるように、もともとブラジルには文化的に親和性があったということで、
独自に発展していったのでしょうね。

日本在住日系人たちが集まるスピリティスムのグループに属する人から
耳にするのは、輪廻転生についての講義を受けたり、
espirita という指導者が無料で人々の悩みを聞いて
アドバイスしたり、病気の人にはspiritual surgeryを施すというような
ことです。

ブラジルではシコ シャビエルという霊媒(故人)が今でもとても
尊敬を受けています。

日本人の私としてはなんだか胡散臭く感じてしまうのですが
ブラジル人たちは「シコ シャビエルは
お金を取らずに人の役に立った人」と讃えます。

福音派の動きが落ち着いてきたのは、彼らの教会のマーケティング戦略
に嫌気がさした人が増えて離れたからだと思います。

節子先生が読んでおられる本はフランスのジャーナリストが書いた本ですか?

私の勝手なイメージでは霊媒による話などは
フランス人にとっては完全にゲテモノ扱いなんじゃないかと思っていました。
でもそうでもないのでしょうか。感心のある人がいるのはいるのですね。

744sekko:2016/03/05(土) 18:48:53
アップルさま
その本について、ブログにリンクをはっておきました。

http://spinou.exblog.jp/25374556/

いろいろ考えさせられます。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

745アップル:2016/03/07(月) 10:15:36
sekko先生
ブログのリンクありがとうございました。

とても興味深く拝読しました。sekko先生のこうしたテーマへのスタンスが
理解できたことがよかったです。

 Le test: Une expérience...のアマゾンの紹介文を読んで、フランスでも
人間はどこでも同じなんだ(死者がどうしているのかを知りたい、死後の生があるのか知りたいという気持ちを持っている)とほっとしました。

死後の生、今日ではそれは理性に基づいた仮説なんだ、という文章は
フランスらしいというか。

またブラジルではどうなのか、ただ遠巻きに眺めているだけでなく私なりに
調べてみたいと思います。ありがとうございました。

746スイス鉄道のように:2016/04/30(土) 23:00:41
縄文に感じて?
こんにちは。
いつもL'art de croireの記事を拝見させていただいております。
出雲に行かれておられるんですね...
そこは、縄文文化が色濃く残る地だと言われておりますね。

そして、”縄文”というと、日本人の遺伝子の4割は縄文系だそうです。
最近読んだ本(『DNAでたどる日本人10万年の旅』崎谷満著)で知りました。
科学的な証明の裏付けがある内容でした。

さらに興味深いことには、古代エジプト人やユダヤ人と縄文人は近縁だそう。
すなわち、ハム=セム語族の先祖の一部は、ペルシアから南インドへ行きドラビダ人になり、
さらに一部は、東南アジアから中国を北上し、朝鮮半島経由で日本に来たらしいとのこと。
しかし、分岐は3万年前だそうです。

しかしそう見ると、南インドのドラビダ系の言語と日本語の関係を研究した大野晋氏の『日本語とタミル語』は一定の根拠をもちますし、
ヘブライ語と日本語は同祖というトンデモ本や日ユ同祖論なども意外と空想でもないように思えてきます。

竹下様はカトリックでおられ、古代ユダヤ文化にもある程度通暁しておられるので、
縄文と中近東の比較をし、どう感じられるかご意見を聞いてみたいような気がします...

http://likeswissrailway.seesaa.net/

747Sekko:2016/05/03(火) 20:50:42
「スイス鉄道のように」さま
そうですね。『キリスト教の謎』でも触れましたが、ローラシア大陸や古代の超大陸のことを考えても、北アフリカから中近東と日本の古代とが関係があるというのは不思議ではないと思っています。

ただ、それらが経由してきたはずの中国では、秦の始皇帝の焚書以来、神話的なものの記録が極端に少ないそうで、各種の技術伝搬はともかく、メンタリティはどこかで断絶してしまった部分があるのかなあと、中国民間信仰の専門家である友人と最近話していて思いました。

ユダヤ教にはメソポタミアよりも古代ペルシャ文化の影響の方が決定的だったかもしれないと思っています。それとエジプトからの移民が合流したかのような部分もあるようですが、いろいろな研究や異説が進行中です。

http://www.setukotakeshita.com/

748スイス鉄道のように:2016/05/15(日) 14:09:14
聖霊降臨について
こんにちは。
聖霊降臨の主日、おめでとうございます。
L'art de croireで聖書の聖霊降臨についてお書きになられておられますが、
私の理解(といいますか、今まで読んだ文献,神父様の講義や説教からの理解)では以下の通りです。

まず、基本的に、旧約と新約は「合わせ鏡」...
対(つい)になっています。少なくてもキリスト教では。
よって、新約の聖霊降臨もまた、対になった記述のひとつ。
すなわち、旧約のバベルの塔の物語によって散らされた人々は、
新約の聖霊降臨によって、”集められた”のだと。
その証拠に、教会のことをギリシア語で「エクレシア」と言いますが、意味は「集められたもの」だそうです。

このように考えると、イエスキリストも、この世にやり残したことがあったのだとも言えます。
キリストは、新約では、旧約の完成として語られています。
律法の完成、乙女から生まれる救世主の物語の成就、動物を犠牲にする祭儀の自らの身による置換、などなど。
旧約の信仰の限界や行き詰まりを打開し、瑕疵を癒やし、完治させる者として描かれている...

しかし、ただひとつ、天に昇る前にやり残したことがあった...
それが、傲慢によって全地に散らされた人々に対する『救い』です。
この瑕疵に気づいたパウロら初期教会時代の神学者たちは、この瑕疵を治癒させる記述を盛り込んだ...
それが、新約の聖霊降臨の記載...
こう考えれば、つじつまがあいます。

旧約は父なる神が働く時代、キリスト生誕から昇天までが子なる神が働く時代。
そして、キリスト昇天後から現在までは聖霊が働く時代。(ヨハネ福音書14章)
つまりキリストはすでに昇天してしまって、この世にはいないので、
「聖霊の働き」を聖霊降臨の記載に描かざるを得なかった、ということだと思います。

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749sekko:2016/05/15(日) 17:32:09
「スイス鉄道のように 」さま
ありがとうございます。

聖霊降臨の意味、「スイス鉄道のように 」さまのご理解でよろしいかと思います。

私が今回ブログに書いたのは、別に解説とか解釈とかではなく、今まで、「聖霊降臨」って不思議だなあ、と思いつつ教科書的にスルーしていたのが、最近フランスのカトリック雑誌で「…ように」の表現に注目しているものを見つけて、なるほど、と感心したことを分かちあうためでした。

標準的な解説や公式見解をさがしていらっしゃる方は、別の形で検索できると思うので、想定していませんでした。だから聖霊降臨と自由という取り合わせに違和感を感じた方があるとしたら申し訳ありません。

それよりも、こんな話題にこんなにまじめなリアクションをする方ってどんな人だろう、と思って「スイス鉄道のように 」さまのブログを拝見して驚きました。

この投稿をくださったこと、また私のブログを読んでくださっている(あるいは偶然に今回だけ?)ことと、プロフィールとのギャップが新鮮でした。

私は何でも好奇心をそそられる性分なので、「スイス鉄道のように 」さまのブログにリンクされていた他の方のブログもあれこれ読んでしまいました。

絶対に自分ではたどりつけなかったようなブログであり分野です。

聖霊降臨祭にぴったりの体験ができて感謝しています。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

750宮野:2016/07/16(土) 19:27:25
LGBT+ カトリック・ジャパン
ご無沙汰しております.お知らせをしたくて,書かせていただきました.
昨秋から,LGBT+ カトリック・ジャパンという信徒団体を私ともう一人の発起人で始めています.
両名ともLGBT+ではなくて,所謂ALLY (協働者)です.
LGBT+とALLYで7/17から毎月ミサを始めます.

数名の司教様や神学者,司祭にお会いして,少しずつ足固めを始めています.
どうぞ,よろしくお願いします.

フェイスブック:LGBT カトリック・ジャパン https://www.facebook.com/lgbtcj
ブログ:http://lgbtcj.blogspot.jp/

751sekko:2016/07/18(月) 18:30:40
宮野さま
ご連絡ありがとうございます。
有意義な活動のイニシアティヴをとられていることもありがとうございます。

パリでは、私が前にBlogでも書いたマレー地区のSaint-Merry教会で月一度、LGBTの他、すべての人にOKのミサがあります。

ダビデとヨナタンhttp://www.davidetjonathan.com/

というパリ市公認のアソシエーションが主導で、もとはゲイの人が中心で、キリスト教同性愛者運動の一環としてもう何十年もミサがあります。ミサ、祈り、分かち合いなどがあります。もとはまだ同性愛が刑法上の罪として残っていた1971年に始まり、1981年の社会党政権の誕生と共に1983年に今の形の公認NPOとなりました。旧約に由来する「ダビデとヨナタン」はグループの刊行物のタイトルでした。

私は男女の同性愛者といっしょに25年も演奏活動をしているので、彼らと日本に行くたびに、日本のコミュニティと連絡を取りたかったのですが、敷居が高くてかないませんでした。

フランス人二人を連れて新宿二丁目に行く勇気はないので、三丁目で、ネラン神父の「エポペ」だとか、最近は歌川たいじさんの「タックスノット」などに行きましたが、全員タバコの煙に弱いこともあって長居はできませんでした。カトリック教会で演奏したり愛徳姉妹会に泊めていただいたりしましたが、いつもなんの差別も受けませんでした。

性的傾向はグラデーションであり、ほとんどのケースは生物学的要因(ホルモン)で決まってしまうので本人には選択の余地がなく、それを「賜物」として受容できなければ他の心身の「障碍」も受容できないものとなってしまいます。

いわゆる「マジョリティ」の人たちよりももっと切実に超越的なものを必要としていらっしゃる方々のために何かお役に立てることがあれば声をかけてください。

http://setukotakeshita.com/

752宮野:2016/07/20(水) 21:44:41
ご返事に感謝
ご返事くださって,こころから感謝します.
フランスの事情も知らず,伺えただけでもとてもありがたいです.

7/17のミサは,20名ほどで分かち合いました.感謝です.
これから毎月,少しずつ心の扉を開きあっていければと願っています.

これから信友になっていきたいと,互いに握手した方で,例えば,
幼児洗礼で,マスールの厳格教育により自己否定感が強くて,30年ぶりにミサにあずかった方,
LGBT+は病気といわれた友人信徒が自殺したため,正教信徒からカトリックに転会勉強中の方,
LGBT+を理由にカトリックへの転会を拒否され,受けられるはずの聖体拝領も拒否された方,
トランスジェンダーを告白せずに受洗した罪悪感を司祭に解放してもらった方,
男性で受洗して性転換後,戸籍変更もできたので,教会籍を女性に変えたかったが,それはローマの判断が必要で,問合せができないため,断られている事例
誕生時から染色体のせいで両性を生きていて,父なる神という表現に今も身が切られると感じる方,
等,様々あります.これからもっと分かち合われると思います.
本当にイエスは,根源的で全てなんですね.
イエスに会いに皆さん来てくださいました.


それで,新宿界隈のこと:
日本キリスト教団新宿コミュニティー教会中村吉基牧師は,新宿5丁目で教会をなさっています.
http://sccmission.net/index.html
東京レインボーパレード2016で,ブースが隣同士でお話もできました.
新宿界隈は詳しいと思います.今度お会いしますので,禁煙の店等いろいろ伺ってみます.

中村牧師は,元カトリック神学生で上智界隈の修道会系出版社勤務経験もあり,代表の神父様とも旧知の仲のようです.
その神父様とも私達はお会いして,LGBT+ 信徒とのわかち合いのため,今度私達のミサの司式をして下さることになりました.
将来は出版企画を種々考えていきます.ぜひそのときは,ご指導をお願いします.

共同発起人の小笠原は仏語TOBを普段から読んでいる精神分析家なので,理論面からもいろいろ考えています.
ホアン・マシア神父にお会いし,私達と協働して下さるとお約束もいただいて,司教団の皆様への献身もして,協働できるように努めたいと願っています.

753sekko:2016/07/20(水) 22:50:27
宮野さま
17日の最初のミサ、実りがあったようでよかったですね。

私は10月から11月にかけて日本なので、もしそちらのミサの日付けがフリーであればぜひ参加したいです。

新宿にそんな教会があるとは知りませんでした。ホームページも興味深く拝見しました。

「ヨーロッパの死者の書」はデジタル版が筑摩書房からもうすぐ出る予定です。

またお気軽にご連絡ください。

http://setukotakeshita.com/

754宮野:2016/07/21(木) 00:08:15
ごミサの予定
本当にありがとうございます.感謝いたします.

10/9or16のいずれかの予定,11/27は確定です.
午後1時30分からミサ その後分かち合いを5時頃までします.
毎月司祭が代わり,多くの方々と関わりが増えるようにと務めています.
場所は,都内の交通至便地です.
場所と司式司祭は未公表なので,別途ご連絡します.
8月からは東京教区ニュースに毎月ミサ案内が掲載され,LGBT+という文字が初めて出ます.

あの素晴らしいコンサートを今年もなさるのですか?

「ヨーロッパ死者の書」は広汎に広まるのが当然必然の書です!
発刊記念対談をしてくださればと...
養老孟司「身体巡礼」(新潮社)と「ヨーロッパ死者の書」の精神潮流の接点
大津秀一「死ぬときに後悔すること25」と「ヨーロッパ死者の書」の知恵
とか.

755スイス鉄道のように:2016/07/27(水) 19:50:32
われわれが為すべきこと
こんにちは。
L'art de croire、いつも拝読しております。
わたくしの今の考えをまとめてみました。

私たちカトリックには、”死”は終わりではなく始まりです。
理由は2つ。

1.
イエス・キリストの十字架における死がなければ、カトリック教会は発足しなかった。
イエスが官憲に捕まった時、弟子たちや取り巻きは蜘蛛の子を散らすように皆逃げました。
ペテロなんか少し遅れて捕まったわけですが、イエスと面通しをされ、「そんな人知らない」と3度言い張って難を逃れました。
もっとも、あとで涙を流しましたが...
結局、イエスの死と復活によってカトリックは始まったのです。
もしイエスが終身刑にでもなっていたら、カトリック教会は今存在していません。

2.
カトリックではミサで信仰宣言をしますが、
「私たちは聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪の許し、からだの復活、永遠の命を信じます」と唱えます。
つまり、将来のいつか、正しい人は神様によって生き返らせてもらえるのです。
それが教義ですよね。
特に、理不尽な死に方をした人は必ず将来生き返ると考えます。
なので、今回の事件の被害者のジャック・アメル神父は、必ず将来生き返ります(復活します)。

よって、死は悲しむべきものですが(なぜなら死を悲しむのは自然だから。自然=神の創造したもの、だから)、それで終わりではありません。
次へつながるものです。

今回の事件によって、「信仰の炎」が心の中で燃え上がるような想いがしております。
愛と赦しといつくしみによる生き方をせよ、そして広めよ、一刻も早く、おまえの身の回りからすぐにでも始めよ、ぐずぐずするな、ぼうっと見ている場合ではない、傍観者になるな、日々の生活のすべての局面で積極的に行動せよ、福音にのっとった生き方によって、ということかな、と...

http://likeswissrailway.seesaa.net/

756sekko:2016/07/27(水) 22:55:41
「スイス鉄道のように」様へ
「スイス鉄道のように」様がそのようにお考えになれることが、今回のテロでカトリックの司祭が犠牲になったことの大きな意味の一つだと思います。

フラ・アンジェリコの言葉に

「世界の闇は一つの影に過ぎない。その後ろに、我々の手の届くところに、喜びがある。この闇の中には、我々に見えることが出来さえすれば、素晴らしさ、言い表せない喜びがある。そしてそれが見えるためには、見ようとするだけでいいのだ」

というのがあります。

死からの復活だけではなく、今ここで呑み込まれた闇からの復活でもあります。

「死」を前にしても「光」の方を見る、ということですよね。

普段はそういうことが理屈としては分かっていても、こういう事件がそういうことをリアルな実践として教えてくれるのは「恵み」なのだと思います。

アメル神父が将来復活するかどうかよりも、今、この世での使命をより広げて新たな使命を遂行し続けているんだなあと思います。

罪のない子供や若者たちがテロの犠牲になるのももちろん不当で悲しいことですが、それだけにリアクションが「怒り」や絶望や恐怖や報復に向きがちです。

アメル神父が犠牲になってくれたからこそ見えてくるもの、言葉にされる赦し、意識される友愛の必要性、などを感じて、感謝の念すら覚えているところです。

http://setukotakeshita.com/

757宮野:2016/07/28(木) 11:09:08
人生は死んでからが本番...
フラ・アンジェリコ氏の言葉に,感謝.

皆様におすすめして,ほとんどの方から「読んで良かった」と言われる自慢の本があります.

?竹下節子先生著「ヨーロッパ死者の書」ちくま新書 ISBN-13: 978-4480056429

私はカトリック国の人々の死生観には,幾つもの入り口があるという深さを初めて知りました.

「戒名という別の名前になるのを嫌悪していて,どうしたら良いか?」と尋ねられたので,この本を紹介しました.入信に至るのはこれからですが.

私は,興味関心(信仰的・霊的・知的)が揺さぶられて,心が動きます.そして,「死を受容して,人間的になる,大人になる」という感じ方になりました.皆様,是非ご一読を! または,再読を!

以下駄文ですが.

私が霊操でいただいたイメージでは,「神の意思で受精し,霊魂と肉体があらわれ,帰天した霊魂は神を賛美して神のために働き続ける」です.

私の両親は帰天していますが,身近にいるようで,嬉しいです.

親しい宣教師は,「死は劇場の幕が上がり,言いようもない素晴らしいドラマが始まる時」と言いました.

難聴の知人に「死は隣の部屋に行くようなもの.でも,私の場合は違うの.今度は目が見えて,耳が聞こえるの」(ヘレン・ケラー)と話したら,嬉し泣きしていました.

熱心な知人は,「私達は今,復活した体を生きている霊気というイメージ」と言い,驚きました.

まとまりがなく,すみません.

758sekko:2016/07/28(木) 17:47:51
宮野さま
ありがとうございます。

キリスト教の死後の世界の考え方で私が一番ぴったりだなあと思ったのは、「二人の胎児の会話」です。ドン・ボスコ新書の『生き方をインスパイアする25の話』にある「おなかの中の対話」で紹介しました。

これをもっと広めたいなあと思っています。

『カトリック生活』11月号にはスターティングについて書く予定です。

http://setukotakeshita.com/

759宮野:2016/07/28(木) 22:06:16
感謝
ご返事に心から感謝します.

サプリ2巻目は,本当に間が悪くて,友人に貸したままになっています.
アマゾンで再注文しました.
多分あのエピソードだと思います!
「スターティング」も待ち遠しいです.

私は最近,Suscipe(霊操234番)を観想する生活が望みになってきています.
生かされて生きているという感じがします.

8月初旬に巡礼風の旅をします.
ローマ:聖イグナチオ・デ・ロヨラへの巡礼
パレ・ル・モニアル:イエスの聖心への巡礼
「観光は?」と言われますが,
「それより,祈れば御国観光ができるし,ガイドは三位一体の御交なんですよ」というと,信徒さんからも呆れられています...

760宮野:2016/08/02(火) 17:01:48
ごミサの予定-変更
三位一体の御交に感謝
竹下先生へ
LGBT+ カトリック・ジャパンのミサ10月日程が変わりました.
晴佐久昌英神父様が司式をして下さいます.

10/23(日)午後2時:集い 午後4時ミサ 司式司祭:晴佐久昌英神父様
場所:都内交通至便地

1/27(日)午後1時30分ミサ その後集い
場所:都内交通至便地

761sekko:2016/08/17(水) 20:32:51
訂正
おしらせ

今発売中の『カトリック生活』9月号(ドンボスコ社)の私の記事に日付の点でミスがあったのをここで訂正します。

実は年号についての単純ミスはよくやるので申し訳ありません。

「私の言いたかったこと」が伝わるかどうかに注意を集中しているので、今の時代、誰でも簡単にチェックできるから訂正してもらえるだろうという甘えがありました。

訂正は次の部分です。

これは私がベースにした批判記事自体に単純ミスがあったものです。

マザー・テレサを批判する人たちの書いたものを紹介する部分で、

「ノーベル賞受賞の折には、ボスニアで組織的にレイプされた女性をめぐる質問に答えて、中絶は平和の最大の破壊者で、母による直接の殺人は直接戦争であると唱えた。
一九九六年のアイルランドの国民投票の折には離婚と再婚の禁止を憲法に加えることを提唱した。」

という部分です。

まず、1979年に「中絶は平和の最大の破壊者」とコメントしてすでに中絶合法化の陣営に批判されていました。次に1994年にカイロで行われた人口問題の国際会議の際の記者会見で、ボスニアのことを尋ねられて「母親による直接殺人」という答え方をしたのです。

それを混同していた批判記事の年代の矛盾にすぐ気づきませんでした。

次に、アイルランドの国民投票は1995年11月でした。そのすぐあと、1996年になって、ダイアナ妃の離婚問題についてインタビューを受けて肯定的に語ったので矛盾しているとまたすぐ批判されたのです。

マザー・テレサが時として激しい批判を受けたのは、それだけ彼女の言葉がメディアにそして政治にまで大きな力を持っていたことの裏返しであり、だからこそ、彼女に対する評価の両義性の意味が何であったのかを、列聖を機会にさぐろうとしたのが私の記事の意図でした。

聖人の列に加えられるという時点で、もう「生前の業績」を超えた次元に参入するのであり、その力が今も大きな実りをもたらし続けているというカトリック教会の列聖システムならではの連帯のパワーを書きたかったのです。

日本にはそもそもキリスト教的な縛りがないので中絶や離婚に関するキリスト教の言説の持つ力とそれに対抗する力のせめぎあいがありません。

でもそれはキリスト教文化圏にとって大問題なので、マザー・テレサのそれに関する言説への批判も厳しいのです。

もちろんカトリック教会全体への批判もたくさんあります。

イスラム過激派への批判よりずっと執拗で激烈です。

聖人の条件となる「奇跡」認定に対しても「蒙昧」批判はいくらでもあります。

私はそういうやり取り自体がどういう文脈で起こっているのかを分析するのが好きです。
奇跡も列聖システムも聖人たちも彼らに祈る人たちもみんな好きです。

私がこの記事で「批判」を紹介したことで誤解を受けるのではないかというお知らせをいただいたので、年代に関するミスの訂正だけここでお知らせすることにしました。

他の「批判」などの内容や証言については、いろんな人がいろんな「目撃」談を長い年月にわたって残しているので、どれが唯一の事実であるかというのは少なくとも私にはわかりません。

でも、マザー・テレサが残して継承された「愛の真実」については疑いをもっていません。

それが私の伝えたかったことでした。

ご理解をお願いします。

http://setukotakeshita.com/

762スイス鉄道のように:2016/11/03(木) 12:45:31
人権、表現の自由、説明責任...
竹下様、お久しぶりでございます。
お聞き及びかどうかわかりませんが、数日前、日本のアイドルグループがナチス風の衣装をコンサートで使用したとして、
海外のメディアまで報道する騒ぎとなっております。

例えば、以下のニュースなどご参考に。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161101-00000035-mai-int
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shivarei/20161031-00063914/
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161101-00000001-jij_afp-ent

結局、ひとことの反論も、説明責任も果たさず、
このアイドルグループの日本の責任者は、謝罪とこのコンサートのテレビ番組への放映を取りやめました。
↓↓↓
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6219483

私自身、ナチスを決して肯定するものではありませんが、
しかし、「表現の自由」という問題もございます。

反論も説明もせず、海外の批判に無条件にこうべを垂れるのはいかがなものかとも思います。

竹下様はいかがお思いになられますでしょうか?
およろしければ、ご見解をたまわりますれば幸甚に存じます。

http://likeswissrailway.seesaa.net/

763スイス鉄道のように:2016/11/03(木) 17:41:00
追伸です...
先ほどの投稿に追伸でございます。
イスラエル大使館がこの件に気づき、関与してきました。
(在日イスラエル大使館のTwitterにコメントしています)
単なるアイドルグループの問題ではなく、結構、おおごとになって参りました...

https://twitter.com/IsraelinJapan/status/793994601312976896

http://likeswissrailway.seesaa.net/

764sekko:2016/11/03(木) 23:02:36
「スイス鉄道のように」さま
うーん、フランスの新聞にも取り上げられていました。

これは表現の自由の問題というより危機管理の問題のような気がします。


ユダヤ人のロビー活動力というのは半端ではないですから、しかも、20年前と違って今のようにSNSが発達していてyoutubeも流れる時代に、危機管理の意識がなさすぎるのでは、と思いました。

私の見た記事ではみな「オリンピックを控えた日本で」ということが付け足されていました。

しかも、カリカチュアやコミックの中の表現などではなく、広く動画が流れるようなもので、未成年の女の子たちにグループでそういう恰好をさせるリスクをとったというのはやはりプロデューサーの責任だと思います。
私が親ならプロデューサーに抗議していたかもしれません。

イギリスの王子のコスプレのスキャンダルもありましたよね。今回はそれよりもパブリックな形ですし。

クール・ジャパンとかでこの種のカルチャーも積極的に売っているわけですから、やはり識別力が大切かと思います。

765スイス鉄道のように:2016/11/03(木) 23:21:45
ありがとうございました
ご返信、どうもありがとうございました。
そうですか。
今回のアイドルグループのプロデューサーが東京オリンピック委員会の理事の一人でもあるという事実から、そういう報道になってしまうんですね...

http://likeswissrailway.seesaa.net/

766スイス鉄道のように:2016/11/21(月) 09:03:33
二人セゾン...
こんにちは。
先日、ナチス風の衣装で問題になったアイドルグループの新曲のプロモーションが始まり、
そのプロモーション用ビデオ(PV)が日本時間の17日に公開されました。
15歳から21歳までの青春真っ盛りの少女たちが東京の風景を背景にパフォーマンスしているのですが、
一度しかない青春の輝き、若さ、純真さ、清楚さなどが見ていて感じられます。
とてもステキなPVに仕上がっています...
シーンは小春日和的でもあり、これからの寒い季節にも心が温まるような作品でもあります。
また、アイドルらしからぬ哲学的な歌詞にもなっております。
曲名は、「二人セゾン」...
およろしければ、ぜひ一度ご覧ください。
↓↓↓
https://www.youtube.com/watch?v=mNpPQXMgtmw

http://likeswissrailway.seesaa.net/

767sekko:2016/11/21(月) 18:38:45
「スイス鉄道のように」様へ
PVはフランスで視聴できないということでした。

でも検索して少し曲を聴き、歌詞など読みました。

あまりコメントできなくてすみません。

私はこの種の集団アイドルグループのコンセプト自体に賛成でないので。
男女ともそうですが、特に女の子たちのは。

みんな可愛いですし、おっしゃるように

「15歳から21歳までの青春真っ盛りの少女たちが東京の風景を背景にパフォーマンスして」、
「一度しかない青春の輝き、若さ、純真さ、清楚さ」

を見せてくれるのは多くの人にとって恵みですが、そんな素晴らしいことが商品化されていることに賛成できません。

似たような輝き、若さ、純真さ、清楚さを持った少女たちを集めてパーツにすることによって生じるひずみも想像できて。

もし私にこの年代の娘や孫娘がいたら、そしてこういうキャリアに夢を抱いていたら、私は絶対反対すると思うし、なぜ反対するのかを本人にじっくり話すこともできます。

いつかこういうことについて書く機会があるかと思います。
今回はこれで。

http://setukotakeshita.com/

768ナカハラ:2017/12/11(月) 16:45:30
フリーメイソンの実態に関するご質問。
サイゾーさんの本年9月号で竹下先生のお名前を拝見してのご連絡です。

ご著書も手配済みです。

サイゾー系の以下の記事に関して、信憑性も含めた竹下先生のご見解をお聞かせいただけると有難いです。

>フリーメイソンは1日4億円以上寄付している!? フリーメイソンで製薬会社の社長が語る「メイソンの真実」!

http://tocana.jp/2015/09/post_7299_entry.html

お忙しいところ誠に恐縮ですが、勝手では御座いますが宜しくお願い申し上げます。

m(_ _)m

https://twitter.com/dotcom07

769sekko:2017/12/11(月) 18:29:30
ナカハラさま
該当記事と同じtocanaのサイトで、前にフランスのフリーメイスンについて私のインタビュー記事が載っています。私の名でサイト内検索をしてお読みください。

該当記事の方は、イギリス、アメリカと、アングロサクソン国のFMについて語っていらっしゃいます。

アングロサクソン系のFMは巨大な慈善親睦団体なので、多額の寄付があるというのは想像できますが、額のことなどは私にはわかりません。アメリカならあり得るかなあ、とも思います。
でも、堂々と寄付できるルートはいくらでもあるのですから、FMを通した匿名で大口の寄付をする人は、FM内での何らかのリターンがあるのでは、とも思います。

またアングロサクソン系のFMはクラブ文化、ロビー文化の伝統の上に成っています。
内部で根回しをしたり利益交換をするのも「文化」です。

でも、国際的に会員同士の便宜を受けられるという意味では、アングロサクソン系FMの別の形であるロータリークラブなどでも同じです。

FMは自分で身分を公表することはできますが、他の会員の名を公表することは禁じられているので、ある会員が外で言っていることの真偽を確認したり訂正したりすることは外部の者にも内部の者にも困難です。ましてやFMを名乗る多くの組織が混在しているので、一般論は言えません。

お役に立てなくてごめんなさい。

私のブログの「フリーメイスン」のカテゴリーにも少し書いています。
選書メチエの中に書いた範囲の歴史などは信用していただいてOKです。

http://www.setukotakeshita.com/

770ナカハラ:2017/12/11(月) 21:10:21
竹下先生宛
ご丁寧なお返事に感謝申し上げます。

有難う御座います。

m(_ _)m

https://twitter.com/dotcom07

771水蓮:2017/12/31(日) 00:04:06
ご教示ください
カトリック信者(一般人)のブログに以下のことが書いてあります。友人が「これって本当?」と確認してきたのですが、私の認識とあまりに違っていて頭の中は???です。

http://blog.goo.ne.jp/maria1968/e/494302a021b693f8f78f9e2f747aaa01

http://blog.goo.ne.jp/maria1968/e/6f10be8c4a88291e68e106146e3b11a8

疑問点1)「カトリックのクリスチャンは、お相手がカトリックの洗礼を受けなければ、離婚歴のある方との結婚は教会法の法律上、することが出来ないのです。」とありますが、私の理解では、カトリック信者は、離婚歴のある人とは、その人の宗教とは無関係に、教会法上では「結婚」することはできず、たとえ法律的に結婚しても「罪のうちに生きている」ことになるので、聖体拝領はいずれにしてもできなくなる、なのですが・・・?

疑問点2)「(離婚歴のある人と)籍を入れるとなると、まずカトリックの結婚講座を必ず受けなければなりません。そして相手の方が洗礼を受けるならば、教会法に基づき、教会で結婚することが出来ます。・・・…彼が洗礼を受けないと、あなた自身がご聖体拝領をすることが出来なくなりますよ」とありますが、私の認識では、離婚歴のある人とは、たとえどんな条件でも教会で(秘蹟として)結婚することはできないはず、なんですが・・・?それとも、離婚経験者がキリスト教徒でなかった場合は、受洗によって以前の結婚が無効になる、なんてことがあるのでしょうか?

疑問点3)それとも、日本だけ特例が認められているのでしょうか?このブログをしている女性はご自分の教会の司祭から、このような説明を受けたということなのですが・・・。

すみません。年末に変な質問で・・・。このブロガーにきいてみたらいいものの、以前にどこの誰とも知らない人のブログに、内容について「本当ですか?」的なコメントをした後、とても不愉快な経験をしたことがあり、それ以来、特定不可能な一般人のブログなどへのコメントは一切しないことにしています。

急いでおりませんので、お手すきのときにでもお返事いただけましたらうれしいです。私も調べてみようとは思っておりますが、竹下先生なら既にご存知かと考えたため…。

772sekko:2017/12/31(日) 02:22:37
水蓮さま
私に確実な返事はできません。

まず、フランスでOKのことでも、日本でダメと言われたことはいろいろあります。
たとえば、65歳以上なら差し迫った病気がなくても病者の塗油を受けることができるはずなので日本で頼んだら、「病気じゃないのにもちろんダメ」と言われました。

他にも、少し前(といっても30年くらい前?)までのフランスの田舎では第ニヴァティカン公会議前の感覚のままの老司祭さんもいて、冠婚葬祭はけっこう自分ルールでやっていました。それで別に不都合もなくみなやっていたような…。

で、フランスの大都市圏でここ数年の間に結婚や離婚をしてきた人を見てきた限りでは、教会で結婚式を挙げていない限りは、法律婚をしていても離婚していても、事実婚を違った相手と繰り返しても、それは、教会的には「未婚」ですから、問題にされたのを聞いたことはありません。

教会レベルで「初婚」でさえあれば、相手が未信者であっても、洗礼を受けている人の方はもちろん聖体拝領もOKです。

ただ、教会法にも、担当の教区司祭の采配によって、どちらかが教会での結婚に「ふさわしくない」と判断されれば、司祭は結婚式を断ることができる、とありますから、法律婚で離婚に至った事情なども判断に関係してくるかもしれません。
法律婚の離婚を経験している未信者がその後で洗礼を受ける、となると、もちろん、教会での結婚のハードルはぐっと低くなると想像します。

もともと七つの秘跡のうち、結婚の秘跡だけは、司祭から授けられるものではなく、自由な男女の神の前の誓いによって成立します。

16世紀に、教会の許可するしかるべき司祭の立ち合いが必要となって、細かい規定ができましたが、1983年の教会法にもいろいろな例外があって、時と場合によっては立ち合いが司祭でなくともよいし、立ち合いがいなくともよいとあります。

つまり、愛し合い永遠の絆を神の前で誓い合う男女がいるところでは、神に祝福される結婚の秘跡が成立し得るわけで、結婚への意志と愛が、最終的にさまざまな規則に優先するというわけで、なかなかすてきですね。

そこにはカトリックの教義に対する知識やら合意すら条件にはなっていません。

で、そうして結ばれた「結婚」は二人だけではなく、聖霊とも永遠に結びついているわけです。

こういう「両性の愛と信頼」至上主義というのは、社会的動物としての人間の習慣にとってはあまりにもラディカルですが、それを「神」のもとに聖霊によって成り立たせるのはまさに「秘跡」だなあと思います。

「結婚講座」についてもいろいろ規定はありますが、実際はケースバイケースですね。どちらもカトリック信者であっても、原則としては複数回、時には別の婚約者カップルもいっしょに司祭との一時間くらいの講座、というか、お話を聞いて、秘跡としての結婚がどういう意味を持つのかを理解しているかを確認されます。

これは子供に洗礼を受けさせる前も同じです。

事実婚のカップルが生まれた子供に洗礼を受けさせるのも、親たちの少なくとも一方が洗礼を受けていて、二人が望み、子供にカトリックの教育を受けさせる意志があるなら問題はありません。法律的にもカトリック的にも「未婚」の両親であっても支障はありません。

そんなことが支障になっていたら、今のフランス人の親で子供に洗礼を受けさせる人などいなくなってしまいます。

一番厄介なのは、やはり、信者同が教会で挙式したのにその後法律上の離婚をすることで、教会的には離婚はできないので、秘跡の無効を認めてもらう道しかないので大変です。

実際は、次の相手とは事実婚のままであればスルーされますが、その偽善に耐えられない人や、法律的に再婚したいけれどそれでは聖体拝領できなくなるのがつらいという人もいます。

まあ、だから、いろいろな面倒を避けるために、最初から法律婚も教会婚もしないで、洗礼を受けた子供と一緒に成長儀礼としてのセレモニーをこなしていく人もたくさんいます。

以上フランスの場合ですから、日本のことは知りませんが、日本では細かいことを言っていたら誰も教会で結婚する人がいないので、未信者同士でも、それなりの手続き(結婚講座4回とか)を踏めば、カテドラルでだって、結婚式を司式してもらえるようですね。

原則初婚、というのも、法律婚のことで、日本は紙一枚の届けですからフランスとはちがいますね。

フランスの法律婚はもともとカトリック教会での結婚に対抗してできたものですから、市長が市役所ホールで男女に誓わせる公のセレモニーという位置づけで、その証明なしには教会婚ができないという法律もフランス独特です。

今の教皇になってから冠婚葬祭に関する規定のいろいろなニュアンスが、まず、「いつくしみの神」という視点にシフトしていっています。

「恵み」というのは何なのかとまず考えたいですね。

2018年が水蓮さまにとって恵み多い年でありますように。

http://www.setukotakeshita.com/

773水蓮:2018/01/01(月) 01:30:54
(無題)
竹下先生、詳しい御即答をありがとうございます。

そういえば、ある小教区では不可能だったことが、隣の小教区では可能であった、といった話をメディアで読むことがありますが、この件もそうなのかもしれません・・・。

>>>法律婚の離婚を経験している未信者がその後で洗礼を受ける、となると、もちろん、教会での結婚のハードルはぐっと低くなると想像します。>>>
やはり、このあたりでしょうか・・・。

他にもこの関連で書きたいこともありますが、個人的なことになりますので、また、いつかどこかで何かの機会がありましたら・・・。

竹下先生にとっても2018年が素晴らしい一年となりますように。平安。

774水蓮:2018/01/04(木) 20:23:15
あけましておめでとうございます
先日(昨年!)の私からの質問に関連して、ブログ記事でお取り上げになり、「こんなこと気にする日本人なんているのかな」とお書きになっていますが、私の印象では、かなりいます!・・・です。

まず、今回の質問をしてきた友人がそうですし、これまでにもいろいろありました。若い頃から渡仏する頃まで、私がカトリックとわかると、必ずといって「離婚できないんですよね」「カトリック信者じゃなきゃ結婚できないんでしょ」「将来結婚して、離婚したくなったらどうするの」等など、結婚・離婚に関する教会の掟をそれはそれは詳しく知りたがり・・・。

というか、カトリックに関して、初めの質問が結婚・離婚以外のことだった人なんて、いたかしら?と思うほどです。(2番目以降の質問は、そんな話ができる間柄の人の場合は、大抵が性的なこと〜避妊、婚前交渉、中絶〜だったような気がします。)

ところで、竹下先生の結婚における聖霊の位置づけと日本の昔の結婚における仲人の位置づけとのパラレルにはおもわずうなづきました。これは(大半の)日本人にとっての「神」は「世間様」だ、という見方と符号するような・・・。今日の平均的日本人の「神」は何なのでしょうね。「自分自身」?「お金」? 友人の中に、最近の日本人にとっての「神」は「日本」そのものになりつつあると言う人がいます。

775sekko:2018/01/05(金) 01:35:27
水蓮さま
そうなんですか。

>>>まず、今回の質問をしてきた友人がそうですし、これまでにもいろいろありました。若い頃から渡仏する頃まで、私がカトリックとわかると、必ずといって「離婚できないんですよね」「カトリック信者じゃなきゃ結婚できないんでしょ」「将来結婚して、離婚したくなったらどうするの」等など、結婚・離婚に関する教会の掟をそれはそれは詳しく知りたがり・・・。
というか、カトリックに関して、初めの質問が結婚・離婚以外のことだった人なんて、いたかしら?と思うほどです。(2番目以降の質問は、そんな話ができる間柄の人の場合は、大抵が性的なこと〜避妊、婚前交渉、中絶〜だったような気がします。)<<<<

私が、宗教帰属の意識の希薄な平均的日本人として生まれ育ってきた時は、そんなこと気にしていませんでした。アテネ・フランセの神父さんとか以外、カトリックだと分かる人とのつきあいもなかったし。ヘンリー八世がらみで「カトリックは離婚できない」というのは知っていましたが、実生活でそれを気にするようなシチュエーションもなかったです。

やはり、日本ではマイナーな宗教だから、それに帰属しているということは好奇心で見られるのかもしれませんね。

フランスではパリやパリ近郊では、帰属と実際がかなり乖離しているからあまり問題になりませんよね。地方では、フランドルの小さな村のことはよく知っているのですが、何世紀も前からカトリックしかないところで、教会も冠婚葬祭受け持ちの氏神様みたいで、村の人はとにかく全員代々カトリックですから、町内会みたいで、避妊だろうが離婚だろうが人それぞれで気にしてない、という感じですね。
都市の一部ブルジョワ階級のアイデンティティとしての保守カトリックは健在ですが、それも建前的な部分が多いし。

今の時代、「拝金主義」という偶像崇拝がはびこっているのはどこも同じですね。

その拝金主義のグローバリズムという弱肉強食に対して、民族主義と聖性を結びつけて自由や平等を規制したり、妙な純血主義やよそ者排除に向かったりなどの共同体ファーストもありますが、どちらも同じ病の裏表のような気がします。

どんな神さまによるプレッシャーも、それを適用するのは生身の人間なので、やはり、誰をも排除しない社会を実現するために何を大切にすべきかを一人一人がちゃんと考えて行かなければと思います。

http://www.setukotakeshita.com/

776ヴィオラ:2018/01/16(火) 06:22:21
北欧の福音ルター派
はじめまして。
竹下さんのご著書は、何冊か読んだことがあるのですが、とても面白いブログをたくさん書いていらっしゃることを最近になって知り、質問したくなってしまいました。
私は、福音ルター派の北欧に長年居住しています。北欧にいると、ヨーロッパ内の東西南北区分に気づきます。東にはオーソドックスなロシア正教、西にはキリスト教、北はプロテスタント、南はカトリックという大まかな区分です。プロテスタントとカトリックは「近代」と「伝統」として感じられていて、合理的な北欧と奇跡などを信じて非合理・迷信の南欧(フランスが入ることもあります)、男女平等の北欧と女性の地位の低い南欧という見方とあいまって、北欧が一番進んでいるという意識につながっています。
南の方のカトリック教会に行くと、告解室があり、悩める人と牧師が向き合って話をしている場面を見かけることがあります。北欧のキリスト教では、人は心の中で神と1対1で対峙し、神と対話するので、大きな違いがあります。細長い十字一本を壁に掛けただけの教会もあり、原理主義的でもあります。フランスから見た地政図というか、北欧の福音ルター派はどのように見えますか。私は信仰がなく、キリスト教についてよく知っているというわけでもなく、深い質問ではないのですが、お返事いただけたら嬉しいです。

777sekko:2018/01/16(火) 08:07:14
ヴィオラさま
ご愛読ありがとうございます。

スウェーデンですか?

今の季節、日が短くて寒そうですが、今年がより良い年になりますように。

うーん、私にとっては、北欧系プロテスタントって、為政者の宗教を国教にした棲み分けの国のまま21世紀って、アナクロニックな気がします。ノルウェーはさすがに2012年にルター派を国教から外したと思いますが。イギリスだって、カトリックは国王になれないという法律は今も生きていますし、カトリックは公務員になれない、のは一九世紀まで続いていましたし。

フランスはすごく世俗的な国で、カトリック文化圏といっても、日本の仏教みたいなユルイ感じです。「告解」に行く人なんてマイナーだし、「告解」でも、私がブログ

http://spinou.exblog.jp/25470580/

で書いたことがあるように、悩んでる人なんて超少ないのでは、と思いますが…。

プロテスタントのみなさんが心の中で神と対話しているのかどうかはわかりませんが、それも、カトリックの人だって、人それぞれだと想像します。

ただ、宗教って、「教え」の側面、「信」の側面、「わざ」の側面があると思うし、生・老・病・死などの実存的な危機を前にする人は、非合理、迷信、奇跡などを必要とする心性は普遍的だと思うので、ちゃんとした宗教にそういう受け皿があった方が、変なカルトや怪しい霊媒などに頼ってしまうよりはリスクが少ないような気がします。

あまりお答えになっていないかもしれませんが、そうですね、今のフランスから見たら、イギリスや北欧の国教会システムって、国別に分かれている正教会と同じで、政教分離してないなあ、という感じですね。今はどうか確認していませんが、スウェーデンでは行政の一部が教会税を通しての住民登録という形で国教会に委託されています。もちろん信教の自由は保障されていますが、非国教徒でも行政事務の経費分は免除になっていませんでした。

今ちょうど政教分離について書いていたところなので。

スウェーデンのおもしろい話題があれば教えてください。

http://www.setukotakeshita.com/

778ヴィオラ:2018/01/18(木) 03:53:01
ありがとうございます
早速のお返事、ありがとうございます!
フィンランド在住です。最近、少し寒くなってきました。

北欧系プロテスタントは、アナクロな感じなのですね。面白いです。政教分離していないというのも同感です。フィンランドでは大統領以下、大聖堂でミサに出て、その年の議会が始まるし。教区に所属していると、教会税あります。教会から抜ければ、払う必要はありませんが。政治と宗教のみならず、大学と宗教も繋がっています。秋の新学期始まりには、学長などが大聖堂のミサに出ます。あと数年に1度、博士号取得者が正装して大聖堂に行進、ミサに出た後、舞踏会という慣習もあります。

北欧の人は、自分たちは世俗化していて近代的、イスラムやその他が宗教的と大体思っているのですが、実は様々な面でキリスト教は深く浸透していると思います。自分の人生を語る時も、特に女性は 犠牲・苦難を経てより大きな意味づけへというような、イエス・キリストの人生を下敷きにしたような語りをよく耳にします。

ただフィンランド人は、すごく自然が好きなのですが、その「自然」という考えには、どこか「キリスト教以前」とか「異教」というニュアンスがあり、キリスト教的ではないものに対する憧憬があると思います。

竹下さんは、フリーメーソンに興味をお持ちですよね。少し違うのですが、私は騎士団(と修道院)に興味があります。騎士団は、その名前もやや奇妙なものが多いのですが(靴の紐、黄金の皮、クマの殺害者とか)、勲章には細部に渡って非常に細かい意味づけがされていて、フェティッシュです。騎士団は過去のものではなく、今も健在です。ヨーロッパでは国家元首かその任命する人物がグランドマスターで、フランス、フィンランド共に、それは大統領です。現在の騎士団は勲章と国旗によって、誇り、感謝、悲しみ、追悼、慰め等の感情を表現します。近代の国民国家は、その基底に軍事と宗教を持っているようなのですが、こうした制度が国民国家の重要なシンボルとして使われていることをどう思われますか。

779sekko:2018/01/18(木) 06:55:05
ヴィオラさま
フィンランドでしたか。議会も大学も国教のストラクチャーを共有しているのですね。

そんなところで、たとえばムスリムが政治や学問の第一線に加わるのは微妙でしょうね。
スウェーデンなどと違って移民の受け入れも少ないような。

私は北欧のような金髪碧眼っぽい国でアラブ系の人や黒人とか目立ち過ぎるのにどうやって混ざっていけるのだろう、ゲットー化しない方が難しいのでは、と不思議です。フランスは特にパリや大都市は人種の混交が多いので、何人でも目立たないですが。

アジア人に対してはどうですか? 人種差別とか文化差別を感じますか?

私の甥(英仏ハーフ)が、2年前タイのダイビングクラブで知り合ったインストラクターの女性がフィンランド人でした。彼女は今甥の息子をフィンランドで育てています。甥はフランスに来るように言っているのですが、フィンランドではシングルで子育てをするのは簡単なのだそうです。

ああ、騎士団の話でしたね、

フリーメイスンと同様、玉石混交というか、19世紀に、過去のもの、修道士の騎士団、十字軍由来や14世紀の騎士団の名を使って民間で再興したものがたくさんあります。

軍事と宗教がセットになって互いを正当化してきたような歴史は事実ですが、例えばフランスの騎士団とおっしゃっているのはレジオンドヌールですか?

その手のものは要するに個人の業績に国が権威付けをするもので、ある意味持ちつ持たれつというか…。フランスでは最近サウジアラビアのプリンスにも勲章を授けたりしたということが批判されていましたが、完全に政治的、外交的なものですね。

この手の「騎士団」の特徴は、フリーメイスンと同じく内部にヒエラルキー、位階がはっきりと分かれていることです。中世の騎士団には内部の位階はありませんでした。

神殿騎士団のことはずっと調べているのでいつかは書こうと思っていますが、オカルトや陰謀説をインスパイアするようなのでなかなか切り口が難しいですね。

今は知りませんが、少なくとも20 世紀の例では、フランスの国家勲章って、くれるという通知は来るのですが、事前に勲章を用意して購入するのは本人なんですよ。もらえるものだと思って手ぶらで行ったらもらえなかったので、持っている人に借りた、という例もあります。つけてもらえるという儀式が重要なんですね。アンチックショップでもいくらでも売ってますし。

ただし、国家勲章をもらった人の娘や孫娘だけが入れる中高一貫校があって、制服もある全寮制というフランスらしくない場所なのですが、これも、女性限定というのも含めてなんだかなあ、と思います。フィンランドもそうですが、「共和国」っていっても、「?」なものはいくらでも残っていますね。

http://www.setukotakeshita.com/

780ヴィオラ:2018/01/19(金) 05:42:44
(無題)
お返事、ありがとうございます。

フィンランドは宗教に関してはアナクロのようですが、政治に関しては民主主義や人権、法の支配の原則などはしっかりしていると思います。
ソマリ出身の国会議員は少なくとも数人いて、アフガニスタン出身の国会議員(女性)もいました。市民権はなくても、永住権があれば地方議会の選挙権・被選挙権があるので、地方のレベルではもっと色々です。学問も出身国による差別というのは、ほぼないだろうと思います。

移民受け入れは、スウェーデンに比べればずっと少ないです。でも、今後人口減少が進めば、増やしていくでしょうね。まあ、スウェーデンは北の植民地帝国だったし、巨富の蓄積があるお金持ち国です。

金髪碧眼の中で、違いが目立つということはありますね。アフリカ系で、道を歩いていて「国に帰れ」とか言われ、嫌な思いをしている人達はいると思います 。でも、最近は減少しているらしいのですが、アフリカ、アジアなどからの養子も普通にあります。今はどこもそうなのでしょうが、極右の政治家はいるし、ネオナチのようなグループもあります。2015 年の「難民危機」では、受け入れ反対と賛成が拮抗していた感じです。賛成論は、困っている人達は助けようというキリスト教的な主張でした。

私は、幸か不幸か人種差別はほぼ感じたことがないのです。日本人に対しては好意的というのは、あると思います。まあ、そういうのもちょっと問題で、だから日本人で良かったとかは全然思いませんが。

少し前の竹下さんのブログで、お葬式に行く前、バッハの無伴奏5番サラバンドを弾いたとあるのを見て、もう10年以上も前のことですが、父のお葬式から帰ってヘンデルの組曲11番のサラバンドを弾いていたことを思い出しました。父とは親しくはなかったのですが、胸がとても苦しくて、なぜかあの曲を弾かなくてはならない気持ちでした。弾きながら泣きました。竹下さんは、ギターを弾かれるんですよね。私はピアノです。

竹下さんのブログ、これからも読んでいきたいと思います。また、何か質問させていただくかもしれません。その時は、どうぞよろしく!

781sacra 桜:2018/03/06(火) 09:26:17
ゆるしの秘跡
ご返答くださりありがとうございます。
質問をした背景はまず、ゆるしの秘跡が現代のカトリックを生きる上で核心となっていると考えるところがあり、この視点から見えてくるものを探しているからでした。

リンクをつけてくださいましたご記事は掲載時に読んでいました。ブログ記事のおかげでこの二作の感動的な映画を知ることができて有難いと思いました。東京のニコライ堂の記事もおもしろく読みました。「マックス・ジャコブの回心」の一連の記事は圧巻です。たしかに私達が生きている時代の少し前にはすごい人々が沢山おられて、遺してくれた書物や作品等は そこから大きな刺激を得られる資料でもあります。先生がご著書や論文を通していろいろ教えてくださることに感謝しています。また、自分でも少し調べてみたい破門の危機を通過された聖書神学者のことなどもありますが、いずれまた質問したく思います。

今回のことは、もっとごく普通の市井の信者の場合のゆるしの秘跡を巡る思考についてことでした。とりたてていうような劇的な回心があったわけでもなく、大抵は温厚で協調性のある、神学に特に深入りする必要は感じられないけれども、それなりにそこそこ教養もあるタイプの一般信者の場合です。もう少し質問をふくらませるか、具体化させることができるか、考えてみます。

それにしても、先生のお尋ねになられたことも神父さまのお答えもどちらもすごいです。そしてそのことをストレートに書いてくださったことも。どうもありがとうございます。

あと、「再教育」という語で表したかったのは、パリの或いは地方の大都市のカトリック学院などで随時開催されている一般にも開かれているセミナー、半日から一日または泊り込みの黙想会や研修会、都市内にある修道院(托鉢修道会等)で定期的に行われている講義など、結構活発なことをご存知だと思います。

また少し日をおいて質問いたしたく、重ねてありがとうございました。

782sekko:2018/03/06(火) 19:18:42
sacra 桜 さま
なるほど、そういうことだったのですね。

フランスにお住いなのだと思いますが、そして、ゆるしの秘跡が核心ということも共感しますが、私の感じるのは、カトリックにはゆるしの秘跡が核心、キリスト教には「赦し」が核心ということかもしれません。ゆるしの秘跡を受ける以前に自分が多くのこと、多くの人に対する「赦し」を全然できていないと思うので。

フランスの司祭さんの話は、https://spinou.exblog.jp/25470580/ に書きました。

その前にも https://spinou.exblog.jp/25452617/ にも書いています。

この19区の司祭は、聖体を授ける時も、告解の時も、わくわく楽しそうで、人間と神さまが大好きって感じでいいですね。司祭と差し出ゆっくりお話をするのにわざわざ約束をとったりするのは敷居が高いですが、告解の時にいろいろお話できるのは気に入っています。

去年は日本で東京カテドラルの枝の主日のミサに出たので、ミサの前に告解したのですが、うーん、ブログには書きませんでした。メンタリティが違い過ぎて。

フランスの私と同世代か少し上の人は、1970年以前にカテキズムを受けた人ばかりで、この人たちは、まさに、68年で教会からも信仰からも離れた後で、リタイアしてからすごく積極的にいろんなカトリックの講座に参加している人が多いです。パリではプロテスタントの講座もカトリックの人が結構います。
この世代の人は、告解というと、罪悪感、許してもらわないと地獄に堕ちるよ的な上から目線メンタリティの司祭を前にしてトラウマになった人がけっこういるのですが、私が「祝福だけしてもらったら?」とかいうと、結局半世紀ぶりに免償してもらってすっきりしたりしているようです。

パリのアンスティテュ・カトリックで神学部長を2011年から二期6年つとめたドミニコ会のチィエリー=マリー・クロー師は、私が2011年に東日本大震災のチャリティコンサートを開いた時にも来てくれたすてきな人ですが、仏教の講座を持っていて、最初に知り合ったのもヴァンセンヌのパゴダでした。彼から神学部のカリキュラムをもらっていたので周りのリタイア組に配りました。

sacra桜さまのおかげで、今年もちゃんと復活祭しなくちゃ、とスケジュール立てはじめました。ありがとうございました。

http://www.setukotakeshita.com/

783sacra 桜:2018/03/07(水) 08:02:23
ゆるしの秘跡
ご教示くださりありがとうございます。

質問に至った理由のひとつに、この四旬節に上映の「ラパリシオン」(2月26日の紹介記事ありがとうございます)と「ラ プリエール」によせてふと思ったことがありました。両作品の制作は確かに誠実です。ただ、そのあとのこと、その先で学ばなければならない事柄についても触れ得る作品を今後は期待したいのです。神秘を感じること、回心の方向に導かれてゆくこと、愛の存在に気づくこと、でも実人生ではそこから先を生きてゆくのでは? そこで「再教育」というか、むしろ「生涯教育」というかたちのコミットメントのことがでてくるのではないかと。そして救済のコンテクストがカトリックであれば、生涯にわたって年一度は「ゆるしの秘跡」を受ける義務があり、程度の差こそあれ真摯に取り組むことになります。

仰るとおりです。フランスの地方都市ですが、通っています教区教会のごミサに与る方々を拝見しても、68年世代の方にはそういうケースが少なくないのではと思います。リタイアされた後はいろいろ考えたりする時間がとれることも、さらに離婚や病気・介護などのファクターが加わる時には尚の事。またその子供や孫の世代の人達に、カトリックに新たに入信されるケースも多いようです。そして新たに獲得された熱心さを継続するためにも教育の継続が必要であり、そこに「ゆるしの秘跡」の理解の大事さがあると。

「和解」というターム。神さまとの和解、教会との和解。その意義は頭では理解できるのですが。アルフレッド・ロワジーの ? Jésus annonçait le royaume, et c’est l’Église qui est venue ? がよぎるわけではありませんが、後者のほうが前者より難しいと思ってしまうところに私は自分の弱さをみてしまいます。

アルジャントゥーユのレポートでは、これは司祭さまとの秘跡というよりおしゃべり枠の対話だったと思っていました。ところで告解はこちらで仏語でなさる方を好まれますか?

既にご存じかもしれませんが、京都大学リポジトリに告解を対象にフィールドワーク調査を試みた珍しい論文があったので、題名とURLを :
? 主体化をめぐる複数の回路とトランスカルチュレイション : マルタにおける告解の事例から ?
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/177240

ご返答くださり本当にありがとうございました。

784sekko:2018/03/07(水) 19:19:07
sacra 桜さまへ
京大の論文、さっそく読みました。

告解が司祭対平信徒とあるのが少し気になりました。司祭も告解をするのですから、マルタのようなコミュニティで司祭同士が告解している内容の方に好奇心があります。それとも内輪同士ではなんだから別の教区から告解司祭にきてもらっているのかしら。

私も一度はフィールドワークを考えて、同じ罪を告解したらだれがどうこたえるのかを比較しようかともしましたが、やはり、向こうに一方的に秘守義務があるのではフェアでないので、もっぱら質問ばかりしています。フランス人司祭は話好きだし考えを言語化するのがうまいですから充実しています。

日本のことはよく知らないのです。しかもマイノリティ独特のメンタリティに同調圧力も加わって、フランス頭で関わると??なことばかりです。

なかよしの宣教師さんや神父さんとは話がはずみますが、突き抜けて自由なのはシスターたちだなあといつも思っています。

密室のフィールドワークというのはもうずっと、霊能者とか占い師を対象に日本でもフランスでもやっていますが、日本ではあまり質問すると嫌がられます。自分は自分の話をするためにいるんじゃない、と言って。
私は時間をお金で買っているのだから取材であることも隠さないのですが。
でも、本当に霊感のありそうな人?からは、「あなたは自分のこと何にも考えていませんね」と見抜かれます。

私は告解司祭とか、占い師とか、心理療法士とか、「罪の精査や来し方行く末など自分のことばかり考えてやってくる人々」と一対一である程度の責任をもって対応する人たちが、相手との「関係性」をどう捕らえているのかに興味があるのです。

だから、聖霊が働くかどうかとは別に人間性の豊かでない相手だとがっかりします。

「和解」についても、個人的にはほとんど気になりません。

私にとって、和解というのはある程度対等な関係にあるからこそ対立している相手との間に赦したり譲ったり赦されたり譲られたりして構築していくもので、「神」とか「教会」など自分より大きいものとの関係ではないからだと思います。

神も教会も一方的に赦しいつくしんでくれるという信頼があり過ぎるのかもしれませんが。
向こうからも信頼されているという気もするのでそれに応えたいです。

論文にあった「善きカトリック信者」の言葉ではないので、聞き流してください。

http://www.setukotakeshita.com/

785sacra 桜:2018/03/08(木) 01:04:48
ゆるしの秘跡
ご返事ありがとうございます。

通常行い難い調査をまとめた稀な論文でしょうか。
でもここでいう「善きカトリック信者」というのは、論文を離れればむしろアブない域に入るところもあるのでは。

共感してしまうは、
>>> 小さい頃は良かった。 [...] でも(大人になった)今はね。 <<<
>>> イヤだから告解に行かない <<<
という胸中が述べられているところでした。
このあたりを追求すると卑近な事柄からやがて形而上の内省にまでいたるから、だから「ゆるしの秘跡」の意味があるのかと。
絶対的に赦されていることを最高の恵みとして受けとめる、それなのに、いやそれだからこそ。と、このあたりに「ゆるしの秘跡」の奇跡が存在するのかもしれないと、ごく普通の信者にとっても。。。そして多分ここでは告解司祭さんと信者とキリストさまの三者で小さな奇跡が実現されるのかなあと。(聖職者の方々も様々な悩みをかかえていらっしゃると思います。ご自身の告解義務の頻度も高いでしょうし。ただ、信者の前にそれをみせる必要は普通ならばないほうがいいと考えます。)

数回にわたって よいご意見とご教示をいただきました。心からお礼申し上げます。先生のご助言のおかげで、からまっていた糸玉がほぐれたような気がします。四旬節後半ですが、さわやかな気持ちで過ごしたいと思います。どうもありがとうございました。

どうぞ、よい四旬節を。

786沖島いちろう:2018/08/25(土) 15:16:16
宗教のじかん
で教えを聞いて努力は正しいかいのりもする

787哲学に興味があります:2018/09/13(木) 12:02:22
カントについて
私は編入を考えています。編入を考えるにあたって、生きるとは何かについて大学の講義で考えました。
そのことを契機に生きることについて考えてきました。
生きている時間は無限ではない。死は誰しも避けることができない。限りある命ならただ生きるのではなく、善く生きたいと私は考えました。このことをなぜ哲学的に研究したいのかと言われても、はっきりと理由が言えるわけではありません。ただ言えることは、編入学を志したきっかけとして、私がこのままの未熟な状態では社会には出れないと感じました。今までの私は、言われるがままに流されて生きてきました。だからこそ、自分に意見があったとしても根拠を考えることができず、説得力のない意見しか述べれませんでした。だからこそ自分を好きになるために自分を形成したい。物事の根本を考えた根のある意見を述べられるよう、哲学を勉強したいと考えました。私の入りたい大学に編入した先輩の多くがカントを選んでいたため、私もカントから研究をしていきました。善く生きるとは何かについてカントも考えています。カントの平和論について、人はそもそも邪悪で放っておけば戦争をしてしまうという意見にとても共感しました。戦争だけではない、他のことにも置き換えて考えることができると考えたからです。平和について真の平和を考えていくのであれば、人間は邪悪ではあるが理性を持っているために、道徳について考えることができる。道徳があって真の平和に導き出せると思います。編入後はカントの考える道徳について、原文から解釈することで理解していくとともに、カントが生きていた時代の近代の近代哲学史を研究したいと考えています。近代史を研究する理由として、カントが平和について考える契機は歴との関係、ロマン主義、戦争が関係していると考えました。カントの考えを深く理解、総括的に理解するために、近代史の研究もして生きたいと考えました。しかし、幸福について、他の哲学者、例えばラッセルも考えていました。カントに絞った理由、根拠は何かと言われたら先輩がとなってしまいます。私の考えが浅はかなことは承知です。でもどういう考え方、カントを選ぶ根拠を考えれば考えるほどわからなくなってしまいまhした。どうかアドバイスをいただけたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。

788マルヤ:2018/10/02(火) 10:42:31
文献についての質問です。
初めまして。
大学3年生で卒論をイエスの父ヨセフについて書こうと考えております。
竹下先生の『〈弱い父〉ヨセフ』を読ませていただきました。ヨセフについて、信仰の起りから現在の家族の形への影響など幅広く書かれておりとても勉強になりました。
今回、こちらに投稿させていただいたのは題名の通り、『〈弱い父〉ヨセフ』の参考文献を教えていただきたいと思ったためです。主要参考文献は、本に載っており、その他の文献は公式サイトで、とのことでしたが、サイトにアクセスできませんでした。ブログや新公式サイトも探してみたのですが見当たりませんでした。もしそちらに載っているようでしたら教えていただきたいと思います。何卒よろしくお願いいたします。

789Sekko:2018/10/02(火) 18:19:05
マルヤさま
ごめんなさい、確かに、他の参考文献はサイトでにあるような書き方をしていますね。

聖ヨセフはカトリックではビッグネームですから私の本の後にもたくさんの論文などが出ています。

google.frではこういうものが最初に出てきます。よくまとまっています。

http://voiemystique.free.fr/saint_joseph_04.htm
https://questions.aleteia.org/articles/135/qui-est-vraiment-saint-joseph/

英語なら、saint joseph theologyで検索するといろいろあります。

日本語では検索したことがありませんが、神学研究があると思います。

ドン・ボスコ社から出ている月刊の「カトリック生活」の今年の3月号は聖ヨセフの特集で、私もフランスの聖ヨセフ崇敬について書いています。バックナンバーを購入できると思います。

プロテスタント雑誌の「信徒の友」の今年の12月号には家族の形を考えるためのヨセフ論を依頼されて書いているところです。

今はネットで多くの情報を得ることができる時代で、取捨選択、そして自分が何を言いたいのか、をよく考えて、卒論以降の生き方につなげるようなものをぜひお書きください。

http://www.setukotakeshita.com/

790マルヤ:2018/10/02(火) 18:45:39
ありがとうございます。
参考文献に関する質問へのご返信ありがとうございました。
参考にさせていただきます。
また何かありましたら質問させていただくことがあるかもしれません。よろしくお願いいたします。

791清眞人:2018/10/30(火) 09:11:47
献本先
清眞人と申します。先日、藤原書店から『フロムと神秘主義』を出版しました。同書で竹下さんの『キリスト教の謎』を取り上げさせてもらいました。第?部につけた補注13と第?部第五章360〜361頁の箇所です。同書を献本させていただきたいので、送り先をご連絡くださいませんか?藤原書店にご連絡ください。

792グラ:2018/11/07(水) 10:55:38
新刊を拝読させていただきました
ご無沙汰しております。
「神と金と革命がつくった世界史」を読ませていただきました。
一度の通読では理解不十分なのは、私の力量の無さだと感じております。

アメリカの中間選挙はどちらが勝利しても分断が解消することはありません。
世界規模で、分断や格差が拡大しているのは、この竹下先生の本を読むと、合点がいきました。
原理的に、偶像崇拝化による「帝国主義化」しているグループのガチンコ勝負の観があるのだと思いました。
超克とは、目を覚ますことなのでしょうが、「気違いに刃物」の現状では、冷たい水をどのように用意できるかということかもしれません。
偶像崇拝のメカニズムも学びたくなりました。
新刊の出版を感謝します。

793Sekko:2018/11/08(木) 01:47:54
グラさま
ありがとうございます。

この本はサイトのコメントにも書いたように、私の拠って立つ普遍主義というものの実現がいかに危ういものかを過去に学ぶために考察したものです。

特定の民族、特定の文化、特定の宗教の優位を担保するような偽の普遍的思考とは違い、脱共同体の地平を視野に入れて、1930年代のムニエの人格主義(他紙のブログの修道経済のところで少し触れました)のような新しい社会的な紐帯を、たとえミクロなレベルでも実践しなくては、と思っています。

http://www.setukotakeshita.com/

794若生敏由:2021/03/02(火) 11:30:57
「神の愛と試練」について
「神の愛と試練」に学ぶところがたくさんありました。
 イエスの荒野での試練をエデンの園の禁断の実の話と結びつけた説明は、とても説得的です。

 自由を神とのかかわりで考えることは、けっして無益ではないのでしょう。対立や矛盾の根源を受けとめたり、特定の方向への誘惑を調整できる力がなければ、自由は人間どうしで共有し合う価値を備えられないでしょうから。

「神は全てを与える。全体性以外は」という言葉は、だれのものなのでしょうか。人間どうしが自由であるためには、人間につきまとう不完全さや不可知を失念せずに、与えられている生と世界の現実に向き合い、何が可能かを考えつづけることが問われるのだろう、とおもいました。

「聖霊がイエスを荒野に追いやった」というマルコの一節について。
 ご存じかもしれませんが、田川健三が自身の訳著で興味深いことを記しています。興味深いというのは、本人が若い頃に出した『マルコ福音書・上巻』(1971)での注解を、『訳と註』(2008)では、不正確だったと率直に認めて、「この箇所は霊が何ほどか強引にイエスを荒野にほうり出した、という意味」であると記していたことです。学者であっても、通念や通説との的確な距離を保ち、確信を提示するのはやさしくはないのだなと感じました。

 それにしても、その箇所が三位一体のベースとなるところだという指摘は、信仰のない者を新境地に立たせるはたらきになりました。ほとんど繰り返しでしかありませんが、人間が求める自由に広がりのある秩序が備わるかどうかは、イニシエーションのような試練を経ることが条件になる、と捉え直せそうです。

795Sekko:2021/03/03(水) 04:07:48
若生敏由 さま
コメントありがとうございます。


>>>「神は全てを与える。全体性以外は」という言葉は、だれのものなのでしょうか。<<<

特定の引用ではありません。Dieu donne tout sauf la totalité.というものですが、あらためて考えると意味は二つあります。

ひとつは、親が子供に「ここにあるものはなんでも好きなように遊んでもいいよ、でも、電気のコンセントには触っちゃいけないよ、危ないから」というように、神は「ここにあるものは何でも食べてもいいよ、でも、あの木の実は食べちゃいけないよ、死ぬ体になるから」と、子を思っての自由の制限。それは、制限を設けることで自由というものを探り獲得し選択することを教えるという「教育的?」意味。「‥以外は全部」という言い回しです。

もう一つは、逆で、神のくれる「全て」は「無限」であり、その「無限」は、人間が実存世界、現象世界では理解できないし到達もできないものです。「全体性」というのは人間の想像できる範囲での「全体」を網羅したもので、そのような有限の全体性は、神から来るものではなく人間が自分の都合のよいように他の人間に押し付ける逸脱にもなるという感じです。(そのまた逆で、全てを与えるけれど、無限を含む全体性は与えられない、とも読めますが、無限というのは「含まれない」ので無理かも。)

ともかく、この世にある限り、「全て」を得ることはできないし、やはり超越的感性にインスパイアされた理念みたいなものに拠って、たえず生き方を更新していくことを促されているのかなあと思います。

>>>「聖霊がイエスを荒野に追いやった」というマルコの一節について。
 ご存じかもしれませんが、田川健三が自身の訳著で興味深いことを記しています。興味深いというのは、本人が若い頃に出した『マルコ福音書・上巻』(1971)での注解を、『訳と註』(2008)では、不正確だったと率直に認めて、「この箇所は霊が何ほどか強引にイエスを荒野にほうり出した、という意味」であると記していたことです。学者であっても、通念や通説との的確な距離を保ち、確信を提示するのはやさしくはないのだなと感じました。<<<


それは知りませんでした。田川健三さんの『批判的主体の形成』は、学生運動が挫折した後で大学に入った私のそれこそバイブル的な本でした。誠実に生きるというのはこういうことかと思いました。その後『イエスという男』は読んで、いろいろな気づきを得ました。
今回、若生さまのコメントを読んで懐かしくなり、田川さんをググったら、「神を信じないクリスチャン」だと自称なさっているとか。

「神を信じる」というのは? credere Deum ?, ? credere Deo ? ,??? credere in Deum ?と三つあって(アウグスチヌスからトマス)、「神の存在を信じる」、「神の権威を真実だと受け入れる」、「愛によって形作られた信仰」だというのを当てはめると、私は田川さんと逆で「神を信じる不可知論者」かなあと思います。

神が存在するなら、神は私が信じるとか信じないとか問題にするとは思えないし、科学とか知性とかが「不可知」領域を減らしてくれるとも思えません。でも神が存在するなら神に信頼してもらえるように生きたいものです。『無神論』(中央公論新社)の最終章で書いたことと基本的には変わっていません。嘘をつかない(少なくともごまかしや偽善のための意図的な嘘は)、という基本姿勢は田川さんから学んだものだと今でも思います。

いろいろ考えさせていただいてありがとうございました。

http://www.setukotakeshita.com/


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