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Japanese Medieval History and Literature

1釈由美子が好き:2007/06/03(日) 21:01:22
快挙♪ 3
 本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!

  41冊!!!

 売れたと云々!!
 すげェ!! としか言いようがない。

 2日で、71冊。
 快進撃である。

382NAO4@吟遊詩人:2007/11/07(水) 04:09:32
慶光院
>阿哈馬江さま、筆綾丸さま
なかなかお話の内容に着いて行けず、お恥ずかしい限りですが。
ネット検索していて、なんとなく分かりました。
あらわに書くと、野暮なのでしょうが・・・

「慶光院」ですが、伊勢神宮の神宮寺の1つで、尼寺でしたが、第六世「慶光院」院主が、徳川家光に見初められ、還俗して「お万の方」と称した。還俗したのであるからこの方を寺名の「慶光院」と呼ぶべきではなく、「永光院」と呼ぶべき。

この神宮寺「慶光院」と関わりのある家系(尼寺なので、院主の子孫とは思えないが)に、「慶光院」という苗字の家が現れ、「慶光院利彰」という方が、摂家「二条家」の分家男爵二条正麿氏の娘文子さんと結婚して一家を成したということでしょうか。
また、「慶光院」という苗字を調べておりますと、伊勢神宮の禰宜の方にこういう苗字の方がいらっしゃるようですね。

*なお、閑院宮典仁親王(明治天皇の高祖父)は、119代光格天皇の父であったために、「慶光天皇」→「慶光院」と明治になって諡号されているので、同名であり、検索のときに若干混乱いたしました。

>六条家のご先祖サマ、有房は、藤原氏だったんでしょうかねぇ
六条家(羽林家)は、久我家(清華家)から出たので、藤原氏ではなく、村上源氏ということですね。

>グランドスラム
山本博文さんがどんな方なのか良く知りませんが、江戸時代に関する本を読む限り、分かりやすく、経済的視点からも鋭く分析されているような印象を持っておりますが。

>「サーストン予想」と「風水」
今日のところは、「慶光院」で疲れてしまいました。また、後で考えさせていただきます。

383筆綾丸:2007/11/07(水) 20:23:31
いとやんごとなききは・・・
NAO4@吟遊詩人さま
http://www.pref.kyoto.jp/kaidai/kaidai-ro.html
http://members.at.infoseek.co.jp/jsjtm/hyaku79.html
歌学の六条藤家との混乱でしょうか。六条藤家なら、有という通字は、おそらくない
のでしょうね。

阿哈馬江さま
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/kuratomi/kuratomiandKorea.htm
「皇室典範第39条によれば、皇族の婚嫁は同族同士かまたは特に天皇の許しを得た
華族にかぎられていた。ここで李王公家一族は皇族か否かが問題になる。皇族だと
すれば国内法上問題は生じないが、皇族の中に異民族を含めることになる。それに
対しては「皇統の破壊」であるとして、きわめて強い反対が予想される。他方、
皇族でないとすれば、皇室典範の改正を要する」(3の(2))
「朝鮮総督ハ天皇ニ直隷スルトアルヲ内務大臣ノ監督ニ属セシメタリ、朝鮮総督ノ
陸海軍統帥権ヲ認メサル結果トシテ」(資料4)
・・・私が風水の本を参考にウロウロしていたところで、倉富勇三郎は、こんな
興味深い問題を追求していたのですね。
http://www.ndl.go.jp/modern/column/S043/S043-001r.html
ソウルで韓国人と話していましたら、マサコと云うので、さるやんごとなき
おほん方を連想したのですが、李方子のことでした。

釈由美子が好きさん
六本木ヒルズの前身について書いたとき、あんな田舎になぜ上屋敷があったのか、
と疑問に思いましたが、山本氏の書に、こうありました。
萩藩の留守居役が幕府の屋敷奉行に入知恵してもらい、六本木の地を下屋敷として
賜り、お殿様が日比谷の上屋敷から引っ越してきたので、上屋敷になった、と(90頁〜)。
http://www1.cncm.ne.jp/~itoyama/kenka.html
山本氏は、赤穂浪士討入と長崎喧嘩騒動の類似性として、元禄期のかぶき者的気質をあ
げていますが、
http://jparchives.sakura.ne.jp/incident/medieval/db/tohgokubusidanseisen.html
深堀氏は、西遷御家人なのですね。

384はぎつきみたえ:2007/11/07(水) 21:02:37
牛ステーキ
>kari さま
>大田原牛

 レストランで出ていたらそっちを食べています(笑)。

 今、ふとしたことで手に取った雑誌『歴史公論』(昭和54年3月号)の、「頼朝・頼家・実朝 源氏政権と北条氏」を読んでいます。
 ずっと昔の雑誌なので、書かれている内容は、今となっては間違っていることがわかっているものもあるのでしょう。
 鵜呑みにしないようにしているのですが、とても面白いです。

 そのなかに、頼朝の天皇観について書かれているコラムがあります。
 文治二年の四月に頼朝が京都に送った奏状には「天下の正道のあるべき姿」が書かれており、
 「院や天皇そして頼朝といえども正道に背くことは許されないという頼朝の思想は、絶対的・超越的な天皇の権威を否定し、「道理」の思想として発展し、院や天皇政治に対する批判の道を開いたのである。」と、あるのです。

 書いた方は「鈴木英雄」氏なのですが、どういう方なのかわかりません。
 私も不勉強で、恥ずかしながら思いあたる方がありません。すみません。

 頼朝の天皇観なんて考えたことがなかったのですが、これは今でも通じる論なのですか?
 何か参考になる資料等ありましたらご教示いただけると嬉しいです。

385kari:2007/11/08(木) 20:32:07
この方でしょうか?
はぎつきみたえさま。
さすがに大田原牛は出せないでしょうね。幾らになるやら見当もつきません。

お尋ねの件ですが。
鈴木英雄「北条時行」(安田元久編『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』 新人物往来社、1990)
http://www12.ocn.ne.jp/~sakumo/siryou2.html
鈴木英雄「天皇養母考―白河院政の成立をめぐって―」(安田元久先生退任記念論集刊行委員会編『中世日本の諸相 上』吉川弘文館、1989)

同姓同名の方は多いので、同一人かどうか確かめるのが難しいですが。

386釈由美子が好き:2007/11/09(金) 08:30:31
すいません。
>おのおの方
 管理人が姿消してて、すいません。
 ここんとこチョー忙しく、水曜日に一段落したんですけど、そしたらバテてしまいますた。

387阿哈馬江:2007/11/09(金) 14:34:12
新羅三郎の後胤、清順尼
筆綾丸さま

 倉富勇三郎についての本、現在、余暇を見て読んでいる最中ですが、一親等の関係者が存命である人を実名でエゲツなく書いている点については、あまり甘心できませんね。ま、面白いといえばソレなりにオモシロイのですが...

> マサコ

 ごく最近、小田部雄次氏の本が出ましたが、文春文庫にも入っております本田節子『朝鮮王朝最後の皇太子妃』(文藝春秋、一九八八年七月)と比較して、どのような新情報や新見解を提示することができているかに注目したいです。

 小田部雄次『李方子――一韓国人として悔いなく』
 (ミネルヴァ日本評伝選)
 ミネルヴァ書房、二〇〇七年九月
 http://book.asahi.com/review/TKY200710230304.html

 なお、数ヶ月前、小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記』(小学館、一九九一年十一月第一版)を古本屋で50円で見かけたので、購入しております。

> 皇族の中に異民族を含めることになる

 関係する論文として、次のようなものもあります。

◎ 島善高「大正七年の皇室典範増補と王公家軌範の制定」(『早稲田人文自然科学研究』第四九号、一九九六年三月、一〜四九頁)

 また、このようなものもあります。

◎ 金英達「朝鮮王公族の法的地位について」(『青丘学術論集』第十四集(財団法人韓国文化研究振興財団。一九九九年三月)、一一五〜一五三頁)

 なお、李方子の実家である梨本(宮)家に関連して、次のような『朝鮮日報』記事があります。コメント等は差し控えたいと思います。できれば御返答の方も...
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%A8%E6%9C%AC%E9%9A%86%E5%A4%AB

NAO4@吟遊詩人さま

> 慶光院

 先日の書き込みは、出先から、記憶だけに頼って書きましたので、アイマイな内容が多く、失礼いたしました。あらためて、以前に調べておいてありましたことを、書いてみます。
 まず、古いものですが、次のような論文があります。

◎ 平出鏗二郎「宮と慶光院との關係」『史學雜誌』第十七編第五號、明治三十九年五月、四八〇(六〇)〜四九二(七二)頁
◎ 平出鏗二郎「宮と慶光院との關係(承前)」『史學雜誌』第十七編第九號、明治三十九年九月、九四七(六九)〜九六七(八九)頁

 これによって、慶光院上人の歴代を挙げますと、次のとおりです。

? 守悦 明治三十八年十一月十八日、贈正四位。
? 寶山智珪
? 清順 山本左京進義里(山本義定の十九世孫)の女子。
     明治三十八年十一月十八日、贈從三位。
? 周養 宇治の山幡四郎右衞門經政の女子。
     山本義時(もと經時。山本義里の養子)の姉妹。
     明治三十八年十一月十八日、贈正四位。
? 周清 山幡四郎右衞門經政の外孫。山本義時の猶子。
○「お萬の方」(永光院)
? 周賢 山本家の出身。
? 周長 山本家の出身。
? 周貞 山本采女末慶の女子。
? 周榮
? 周香
? 周奧 山本家の出身(山本家の血脈、斷絶)。
? 周億 勸修寺經逸の女子。
? 周恭 一條輝良の女子。勸修寺經逸の猶子。
? 周昌 慶應二年六月遷化。

 ちなみに、上記の山本家とは、近江国の“もうひとりのヨシツネ”の家のことであります。
 また、明治以降の慶光院家については、断片的な情報しかありませんが、一応、こちらが現在把握しているのは次の程度です。

  宮橋盈子 のち慶光院盈子
   明治二年四月廢寺、「宮橋」氏を稱す。
   明治四年七月、士族に編入。
   明治三十六年、慶光院に復姓。
  慶光院利敬(よしゆき)
   盈子の養子。二條齊敬の男子。
   明治八年二月十三日生。
   昭和十三年二月十八日歿。
    長女の敏子(明治三十七年二月十八日生)は、
    上野正雄(北白川宮能久親王の男子)の妻。
  慶光院利彰
    妻、文子(あやこ)(大正九年十月生)は、
    二條正麿の女子で、二條弼基の妹。
  慶光院俊
   二條弼基の次の伊勢神宮大宮司となる。

 ところで、やや蛇足気味ですが、

> 「慶光天皇」→「慶光院」と明治になって諡号

 これは、「ウィキペディア」にもそのように出ているようですが、典仁親王を「慶光院」とするのは誤りであります。典仁親王につきましては、弊帳より、本日公開いたしました

 『親王・諸王略傳』 典[典仁]
 http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssr/3t4/te850001.html#18840319

をご覧いただければ幸いです。

http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html

388筆綾丸:2007/11/09(金) 20:24:14
切腹
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4334031994.html
『続視聴草』所収の「赤穂義士切腹図」(48〜49頁)は、細川家の場合で、
「元禄十六年二月四日御預リ被成候十七人之者何モ切腹被仰付四ツ過ヨリ七半過
ニスキ□仕廻申候」(□はズか)
とあります。
http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/knowledge.html
これは、四ツ(午前10時頃)から七ツ半(午後5時頃)までに、17人の切腹を執行
せよ、と読めるから、一人あたりの所要時間は、執行済の遺骸の処理などを含め、
60×7÷17≒24で、おおむね20分、と解してよいのだろう。
おそらく中入りなどはなく、幕府の検使以下列席者はずっと正座して待ち、そうして、
切腹の順番はたぶん旧家禄の多寡に基づき、浪人中とは云いながら、身分低き者は、
ひとり消え、ふたり消え・・・と延々待たねばならぬ。
極度の緊張から、入眠時幻覚におそわれた者もいたろう。幻覚を破るのは、ケキョ、
化虚、ケキョ、鶯の初音である。もしくは、主君の曹洞禅よろしく、道元のトート
ロジーである。内匠頭刃傷の理由は、正法眼蔵の如く不可解で・・・と、自分の名
をよぶ声がして、立ち上がる。
如上の計算を、松平家(10人)、毛利家(10人)、水野家(9人)に当て嵌めると、
20×10÷60≒3.3(h)、四ツ過ヨリ八ツ過ニスギズ、つまり4時間以内で執行せよ、
という命令が幕府から下されたはずで、午後2時には全て終了していただろう。
井上哲次郎氏旧蔵『切腹口決』(同書110頁)によれば、畳の敷き方(数)には、
? 極上舗様、? 上ノ舗様、? 中ノ舗様、? 下ノ舗様、という差別があったらしい。
最初の絵に戻って切腹人をみると、「上ニ白風呂敷畳三畳」とあるから、細川家お預
けの赤穂浪士は、17人が平等の扱いを受けたとして、?か?のいずれかであった可能
性が高い。?〜?の差異の条件はわからぬながら、赤穂浪士の待遇は、極上舗様だっ
たのではあるまいか。
以上は、すこし強引な推量でありますが、幕末の堺事件の時は、?であったのか、?
であったのか・・・。
同書に、薩摩の近思録崩れで切腹した樺山主税の話がありますが、この人は、以前話題
の樺山資紀とどんな関係がある人なのだろう、と気になりました。

阿哈馬江さま
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31963422
数日前、この本を読みましたが、慶光天皇は尊号問題の人ですね。黄昏少将(松平
定信)は、なぜ、あんなに依怙地になったのか、よくわからないですね。政治家と
して度量の狭い奴だな、という印象を受けますね。
小田部雄次氏は、以前話題の『華族』(中公新書)でズッコケましたので、ご紹介
の本は、どうしたものか、と思っておりました。

389はぎつきみたえ:2007/11/09(金) 21:12:22
ありがとうございます。
>kariさま
>鈴木英雄氏

 情報ありがとうございます。
 …うぐぐぐ、事典の北条時行の項を書いている方かもしれなかったとは、気づかなかったのが恥ずかしい…。灯台下暗し。

>同姓同名の方は多いので、同一人かどうか確かめるのが難しいですが

 確かに多そうですね〜。でも、時行の項を書いていらっしゃる方であることが濃厚なので、放ってはおけぬ。
 なんとかどんな方か調べてみようと思います。

390NAO4@吟遊詩人:2007/11/10(土) 07:00:28
ありがとうございました。
>阿哈馬江さま
「慶光院」に関する貴重な調査データ公開いただきありがとうございました。
ネットでは、ここまで到達できないと思います。本当にありがとうございました。
尼寺であった、慶光院から、「慶光院」という苗字の家が派生した理由も分かりました。

ちなみに、「慶光天皇」は、「きょうこうてんのう」と読み、
「慶光院」は、「けいこういん」と読むのですね。

ところで、「慶光院」に関してお詳しい理由というのは、伊勢神宮の神宮寺ということで、史料とかで重要なものを持っているとか、清順尼の果たした役割が注目に値するということからなのでしょうか。

>近江国の“もうひとりのヨシツネ”の家
↑一応知っておりますが、山本家と「慶光院」の結びつきは、初めて知るもので、驚きでした。ところで、山本家は山本義経の後、多くの家に分かれたようですが、慶光院と関わりのある山本家は、戦国〜江戸期には、どこにあったのでしょうか?



>筆綾丸さま
赤穂浪士討入、長崎喧嘩騒動、西遷御家人深堀氏、興味深く拝見しました。ありがとうございます。

>六本木ヒルズの前身  (=毛利家上屋敷)
ご存知かもしれませんが、新撰組の沖田総司の墓は、本当にすぐ近所の「専称寺」という寺にありまして、年に一度総司忌が開かれています。一度だけ参加したことがあるのですが、長州藩と沖田の関わりがあったのですね。(沖田は、白河藩下屋敷の生まれなので、当たり前といっちゃ当たり前なのですが。)

>幕末の堺事件
なるほど、ここで出てきましたか。



>はぎつきみたえさま
>頼朝の天皇観
よく、頼朝は旧体制を破壊しようとしていたのか、大姫を入内させようとしていたことから、やはり、旧秩序に捕らわれていたとか、アマの間で話題になることがあるのですが、この辺のお話にまとまりがつくようであれば、お教えいただけるとありがたいです。

391阿哈馬江:2007/11/10(土) 15:10:57
六条
梨本宮家に関連する先日の書き込みに、リンク先の誤りがありました。出先からの書き込みですので訂正できません。お詫び申し上げます。

 http://www.chosunonline.com/article/20040511000075

NAO4@吟遊詩人さま

 慶光院上人に関する情報は、すべて、紹介いたしました論文に基づいております。山本家についても、平出鏗二郎論文に書かれている程度のことしか知らないのであります。

 ところで、永光院について、かなり以前(おそらく二十年近く前)に入力(PC9800機を使って)してあった情報が出てきました。卜部典子『人物事典 江戸城大奥の女たち』(新人物往来社、一九八八年十二月)の六一〜七一頁を要約したものです。

「お万の方」(永光院)
六条有純の長女。
母は戸田采女正氏鉄(うじかね)(摂津尼崎五万石)の養女(実は弟帯刀為春の娘)。
寛永元年(一六二四)生。
寛永十三年(一六三六)、伊勢の慶光院に入る。
寛永十六年(一六三九)、慶光院第十七代院主となる。十六歳。
慶光院は、伊勢国度会郡氏の伊勢大神宮の別当で、院の格式は高く、門跡並みで、紫衣を賜わった。東下のときは、道中御朱印伝馬人足がつけられ、江戸霊岸島に屋敷を持っていて、江戸参府の際の宿所となっていた。屋敷内には伊勢皇大神宮がまつられていたが、毎年正月には将軍家から鏡餅がおくられるのが慣習になっていた。慶光院主は、内宮の御師で三百石を賜わっている山本大夫の娘が代々なるのが例になっていた。寛永十六年(一六三九)三月、慶光院の跡目相続のお礼に、江戸へ下った。江戸城に登城し、紫衣姿で、将軍家光にお目見えした。すると、彼女の美貌を見て、家光は、彼女が伊勢へ帰ることを禁止して、江戸に留めおいて還俗させ、「お万の方」と改名させた。
お万の方は、春日局にも気に入られた。お万の方は、尼であったので、髪が伸びるまで、田安屋敷に住み、その後、本丸大奥へ移った。大奥女中の行儀しつけ方を勤める。
家光は、お万の方を、他の侍妾とは別格に扱った。春日局が死んだ後、特に家光から、「以後春日同様、諸事念入申付べし」と命じられ、御手当として、別に百人扶持を賜わった。
お万の方は、大奥の制を華美なものに改め、大奥の女たちは、すべてお万の方のおかげであると喜んだ。
慶安四年四月二十日、家光が没したときも、落飾せず、依然として本丸にとどまった。二十八歳。
のち、名を「お梅の方」と改め、大上臈となり、賄料として毎月百口、金子百両を賜わった。
明暦三年(一六五七)正月の振袖火事によって本丸が炎上したため、家光の御台所「中の丸殿」(鷹司信房の女、孝子)とともに、小石川の無量院に移る。本丸復旧後も、大奥において重きをなした。
正徳元年(一七一一)十月十一日、八十八歳で亡くなった。
法名、永光院相誉心安法寿大姉。
小石川の無量院(現在の小石川三丁目)に葬られた。無量院の墓地は、雑司が谷墓地に移されているが、お万の方の墓碑は残っていない。
「第二の春日局」と言われたほど、権力を持っていた。

 〜〜〜〜〜

 「グランドスラム」(ケッ    勝手にヤッテてくださいな)のセンセイ(でイイんですかね?)も、上記の出典を参照されているのでしょうかねェ。

 なお、六条有純の父は、下冷泉の方の冷泉家から養子に入っております。


筆綾丸さま

 家近良樹『幕末の朝廷 若き孝明帝と鷹司関白』
 (中央公論新社、二〇〇七年十月)

 私も買いましたが、まだ読んでおりません。タイトルに「鷹司関白」とあるのにコタエられず、ツイ、買ってしまったものです。

> 黄昏少将(松平定信)は、なぜ、あんなに依怙地になったのか、よくわからないですね

 一応、通説では、一橋の治済を「大御所」にしたくなかったからだ、などと言われているようですが、実際のところは、どのようであったのでしょうか?

> 『華族』(中公新書)でズッコケましたので

 いや〜 あはははは

> ご紹介の本は、どうしたものか、と思っておりました。

 私は、もちろん、定価で購入するつもりは毛頭ございません。古本屋で三割五分引以下の値段のがあれば、買おうとおもいます。

http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html

392釈由美子が好き:2007/11/10(土) 23:27:20
新刊紹介。
 ここんとこ、管理人業務をサボってる釈さんですが、今日も、新しく出た論文集の紹介で、お茶をにごさせて戴きやす。
 すんません。


  阿部猛氏編『中世の支配と民衆』(同成社中世史選書4、同成社、2007年11月)

●A5判・306頁・7000円 ISBN978-4-88621-408-9 C3321

【内容紹介】
 中世の地方権力と民衆の支配・被支配の関係を中心テーマとする十数本の論文を集積し、さまざまな角度から中世社会の実態を究明する。

【目次】
阿部猛氏「開発神話・ノート」
坂口勉氏「田楽・さるごうの起源研究に関する一視点―研究史と物語史料の検討から―」
中野栄夫氏「「上寿」考」
浜田久美子氏「『本朝書籍目録』について―奥書の検討と系統整理―」
平群さやか氏「国司申請荘園整理の研究」
鈴木由美氏「中先代の乱に関する基礎的考察」
鈴木哲雄氏「称名寺領下河辺庄赤岩郷と「ちやうせう書状」」
海津一朗氏「「民衆の城」の社会史―紀伊国南部荘高田土居と職人集団―」
鈴木敏弘氏「周防国国衙領の一形態」
藤井崇氏「義弘期大内氏の分国支配について」
小森正明氏「室町公家社会の一断面―九条政基詠五十首和歌と甘露寺親長―」
薗部寿樹氏「近世宮座における輪番神主と専任神主―大和国大安寺村宮座記録から―」

  http://homepage3.nifty.com/douseisha/rekisi/tyuusei/sennsyo/sennsyo.html#t4



 日本史アーカイブズ的には、6つ目の「中先代の乱に関する基礎的考察」が、注目! ですな。

 去年の4月、「金沢貞冬の評定衆・官途奉行就任の時期について」(『鎌倉遺文研究』17)でデビューしたばっかの日本史アーカイブズ副会長鈴木由美氏、早くもセカンドシングル発表! なのであります♪

393筆綾丸:2007/11/11(日) 10:13:39
『禁秘抄』という恫喝
阿哈馬江さま
http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?isbn_cd=4642033785
前に書いたことが気になり、この本の、第四部「江戸幕府の成立と朝廷」第三章「禁中並公家中諸法度の性格」を読んでみました。
昭実と秀忠と家康の連署の意味について、著者は、次のように書きます。
「日下に署名する者は最下位で、日付に遠い、家康が最上、ついで秀忠、そして昭実の順となろう。・・・そしていま一つ看過してはならないのは、上下の問題のみならず、日下が文書作成者であるということであろう。・・・(この法度は)大御所家康が中心となり作成されたものであるが、形式的にはこれに加えて幕府と朝廷の代表の三人が署名する形をとっており、朝廷の代表というべき関白二条昭実が日下に署しているのは、この法度が形式的には朝廷側の作成にかかることを意味していることになろう。そして、連署の上下を示す大御所家康、将軍秀忠、関白昭実の順は、権力の大小の順を象徴するものであったろう」(580頁)
「(法度の)第一条は、天皇を君主として位置づけ、君主としての勤め、それにふさわしい教養を身につけることを勧めたものであって、暗に大政は朝廷になく幕府にあることを、朝廷と幕府が認め合ったもの、すなわちこの条文こそ朝廷より幕府への大政委任を示すものであった、と考える」(595頁)
以上、僭越ながら、興味深い解釈ですが、私の関心は、この連署において、関白ではなく、なぜ天皇(後水尾)が署名しなかったのか、ということなので、疑問は氷解しませんでした。このあたりの法理を追及した論文はないものでしょうか。
この本を読んで、非常に驚いたことがあります。第一条のほぼ全文が『禁秘抄』からの引用だ、ということです(590頁)。我が国の法制史上、はじめて天皇を規定した法が、ほかにも色々あるだろうに、なぜ『禁秘抄』からの引用なのか。著者の言及はありませぬが、これは家康の恫喝と読めるのではないか。つまり、家康は、承久の変における鎌倉幕府の処断を想起しながら、幕府に逆らえば順徳院のように流すこともありうるから、重々、心せよ、と恫喝したのではないか。第一条に順徳院の『禁秘抄』を引用されたことで、朝廷は震えあがったのではないか。このドスの効いた恫喝・・・家康という人は、つくづく恐い人だ、と思いました。

第五部「伝統の継承と再編」第二章「即位潅頂と二条家」に、
「・・・二条家は幾度かの危機を乗り越え、即位潅頂の家であり続け、弘化四年(1847)の孝明天皇即位大礼において二条斉敬が即位潅頂を勤める。これが天皇への即位潅頂の印明伝授の最期であった」(740頁)
とあります。二条家は、足利将軍と徳川将軍の偏諱を受けてきて、将軍家斉の偏諱を受けた斉敬が最後の即位潅頂を勤めた最後の関白であった、というのは、とても面白い現象ですね。とともに、禁中並公家中諸法度に署名した関白二条昭実は、最後の足利将軍義昭の偏諱を受けているわけですから、昭実・秀忠・家康の連署を見ていますと、昭実という文字が、織田・豊臣をすっ飛ばして、足利幕府から徳川幕府へ権力を移行させた接ぎ木のように見えてきますね。

ちなみに、この労作が第一回「徳川賞」に選ばれているのは、なんとなく象徴的な感じがしました。

黄昏少将は、宝暦・明和の思想事件の影響を考慮していたのかな、という気もしますね。ここで譲歩すると、また尊王の連中がつけあがる、と。

394NAO4@吟遊詩人:2007/11/11(日) 11:02:54
だんだん分かってきました。
>阿哈馬江さま
「山本家」「慶光院」「永光院」に関しまして、早速レスいただき、ありがとうございました。たまたま、書店で「伊勢神宮(所功著、講談社学術文庫)」という本を見つけまして、購入して見ました。慶光院とは、室町・戦国期に途絶えがちになっていた伊勢神宮の式年遷宮を復活させたという意味で功績が大きいのですね。その意味で、勧進を行った初代守悦、3代清順の業績は特筆に価するようですね。
また、この本では、清順は紀州(注)出身と書かれており、山本家は紀州にあった可能性があります。

ところで、「永光院」に関する記述
>慶光院第十七代院主となる
は間違いですよね。(先の所功さんの著書には、3代清順のときに、後奈良天皇から、「慶光院」の号を勅許されたとあります。清順を3代としますと、永光院は6代目になりますか。)


>釈さま
>鈴木由美氏「中先代の乱に関する基礎的考察」
「人生の半分をかけて、時行を追いかけた」著者の努力の成果が結集しているのでしょうね。とても興味深いです。


(注)色々調べていると、この紀州とは、東紀州を意味し、清順上人の生誕地は、三重県熊野市紀和町という伝承と合致いたしますでしょうか。

395ぽこ:2007/11/11(日) 13:02:32
鈴木英雄氏について
>はぎつきみたえさま

 鈴木英雄氏についてなお調べられるご予定ということなので、
 不要かもしれませんが、老婆心ながら知っている限りのことを。
 kariさまが書いてらっしゃるのが一番入手しやすいものと思われますが、
 それ以外の業績として
 『日本思想大系48 近世史論集』所収「大勢三転考」の校注、
 「惣領制小考」(『学習院大学文学部研究年報12号、1966年)
 があります。思想大系付属の月報から「昭和6年生まれ、昭和33年
 北海道大学卒業、共立女子大講師」であることがわかります。
 (ちなみに『中世日本の諸相』の執筆者紹介では共立女子大教授に)
 いずれにせよ、共立女子大学に長く在籍しておられるようなので、
 ここの紀要等をあたるのが一番早いかもしれません。
 「天皇養母考」は源頼朝の天皇観とは直接何の関係もありませんが、
 院政期の天皇家を家族史的に考察している内容なので、鈴木氏が
 この時期の天皇(または天皇家)をどう捉えているかという点に
 おいては多少の参考になるかと思います。
 なお、中世史の方がなぜに『近世史論集』の校注、と思われるかも
 しれませんが「大勢三転考」の内容は古代・中世の歴史ですので、
 こちらも歴史観という点からは面白いと思います。

396はぎつきみたえ:2007/11/11(日) 17:55:24
御礼!
>ぽこさま

 はじめまして。はぎつきみたえと申します。
 どうぞよろしくお願いいたします。

 鈴木英雄氏の件について、どうもありがとうございました!
『中世日本の諸相 上』が、地元の図書館にあるので、きっとそこに執筆者紹介もあるだろうと思っていたのですが、それより先に詳しくお教えいただいて、助かりました!
『日本思想体系』もあるようなので、いっしょに見てみたいと思います。

 私と同じく『大勢三転考』って何?初めて聞いた、という方、よろしければどうぞ↓

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8B%A2%E4%B8%89%E8%BB%A2%E8%80%83

>NAO4@吟遊詩人さま
>頼朝は旧体制を破壊しようとしていたのか、大姫を入内させようとしていたことから、やはり、旧秩序に捕らわれていたとか、アマの間で話題になることがある。

 そうそう、そうなんですよね。
 頼朝についての本なんて山のようにありますから、ぼちぼち見ていこうと思っています。
 とりあえず買っただけで安心して読んでない自分の本棚から…(笑)。
 何か興味深いことを見つけたらお知らせしますね。

 それにしても、疑問に思うこと、知りたいこと、あとからあとから出てくるので、できるだけ長生きしたいな〜、と、ぼけ〜っと思ったりします。

397:2007/11/11(日) 18:06:44
お礼
前略、
鈴木小太郎様

本居宣長の紫文要領を読んでおりましたところ、わからない単語に出会い、
グーグル検索で「ごくねち」(極熱)を検索したところ、あなた様のサイトで
岩佐美代子氏に関連する引用を読むことが出来ました。

まことにありがとうございました。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/iwasa-miyoko-tomoakikun.htm


私は、日本浪漫派から、神風連、そして神風連に影響を与えた国学とさか
のぼって、本居宣長の原文にたどりつきました。

近代以降の評論家たちの評論に惑わされることなく、古典を原文で読むこと
がとても大切な気がしておりますので、あなた様のサイトの存在に感謝し
申し上げます。

どうか今後ともご研鑽をつまれるようお祈り申し上げます。

398相国入道:2007/11/11(日) 22:11:43
レスが遅くなりました。
>はぎつきみたえ様

 私の書き込みを見まして、那須与一伝承館に行かれたと事。こちらこそありがとうございます。KARI様も書いておられますとおり、芭蕉の館をはじめとしまして歴史の宝庫です。先日、芭蕉の館のKARI様の同窓の方とお会いする機会がありまして、芭蕉の館を含めて見学しててみたいとのその方にお話しましたら、「お待ちしています」といっておられて、大変喜んでおられました。
 また時間をかけて見ていただけるのなら、臨済宗の古刹雲巌寺(うんがんじ)に行かれてもよいです。ここの紅葉は本当にきれいで、気が落ち着く場所でもありますので是非いらしてください。

>NAO4@吟遊詩人さま

>平将門と八千代地方ー将門の生きた時代ー
このご案内は、ひょっとして、私のために書いていただいたのでしょうか。でしたら、どうもありがとうございます。

 とんでもございません。実をいいますとそれだけでの理由ではありません。
NAO4@吟遊詩人さまも、書かれておりますとおり、私にも資料館から企画展の案内をいただきまして、皆様に周知した方がよいと考えて書き込みました。
 平将門の乱は10世紀の半ばですので、古代史に分類されますが、中世を見る場合、平将門の乱からみるべきだと唱えている学者の方のおられるのです。中世の原点を知るうえでも必要ではないかと考えまして、この掲示板に書きこまさせていただきました。
 それと地方の企画展は、思わぬものをやっていることが多いです。
 皆さん、地方での中世関係の企画展のご情報がございましたら、どんどん書き込んでいきましょう。

 >釈由美子さんが好きさん

 鈴木由美さんすごいですね。私も負けないようにがんばらなければと思っています。
私自身、先々週から先週にかけまして、歴史漬けの週でした。こんな経験は、学生時代以来なかったのですが、久しぶりによい刺激を受けました。
 後は、自分の研究にいかせればと考えています。

 >KARIさま

 『実隆公記』の輪読をやっておられるとの事、『実隆公記』の輪読というのは、はじめての試みではないでしょうか。遠方でおうかがいすることはかないませんが、ご成功お祈りしています。

 最後に著書のご紹介をします。

 『下野国黒羽藩大関氏と史料保存』
  「大関家文書」の世界を覗く
  新井敦史著
  随想舎 定価2800円。
内容 第一章 戦国期大関氏の動向と権力構造
   第二章 関ヶ原合戦期〜近世前期における大関氏の動向
   第三章 「大関家文書」の世界を覗く
   第四章 「大関家文書」の収納状況
   第五章 黒羽藩主大関家による史料保存

中世末から近世末期まで大関家がどのような形で史料保存を行っていたのか。また、戦国期の大関氏の動向など興味の尽きない内容となっています。皆さん是非一読をお勧めいたします。

399釈由美子が好き:2007/11/12(月) 14:00:08
ご挨拶。
>ぽこさん
 いらっしゃいませ♪
 御教示、ありがとうございます。
 今後とも、よろしくお願い申し上げます。


>浪漫派さん
 いらっしゃいませ♪
 今後とも、よろしくお願いもうし上げます。


 ・・・・・・・・と、管理人の業務のみにて、去る。
 すんません。

400筆綾丸:2007/11/12(月) 20:16:29
伊勢海老物語
NAO4@吟遊詩人さま
三代清順は、織田信秀の伊勢神宮への献金と同時期ですから、織田家と慶光院主の間は、後奈良帝を介して、ある種の関係で結ばれていたのかもしれませんね。
「むかし、女、ありけり。式年遷宮は、織田弾正忠家のお蔭にて、ゆめゆめ忘るべからず、ひとたび生を受け滅せぬ者の有るべきか、と言ひおきて、儚くなりにけり」(『伊勢海老物語』第参段「清順尼御遺戒之事)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A6%8F%E9%A4%85
正徳の頃、八代目周貞は、赤福を、はや一口に食ひてけり。
「命が延ぶるようよ・・・極楽、極楽。あら、もう終わり?」
「ええ。従五位下能登守、山田奉行大岡忠相様の、きついお咎め。大公儀を畏れぬ所行、以ての外、家門断絶に処すべき所、思し召しにより、一等減じ、屹度、閉門蟄居を命ず・・・」
「ふーん、何をしたのか知らないけれど、やむをえまへんエ」
「お奉行さまは、この功により、江戸町奉行へ御栄転の由」
「和光同塵らしからぬ・・・うふふ」
院主の尊顔に、意味ありげな微笑が、泥中の蓮の如くぽっと綻びる。
「餞別は、桑名の蛤になさい」
「伊勢エビではなく?」
「はい。蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ、と申します故」
慶光院主と山田奉行の間に、なにか秘すべき事情の、ありやなしや(『伊勢海老物語』第伍段「周貞尼御遺恨之事」)。

401NAO4@吟遊詩人:2007/11/12(月) 22:57:59
村岡
>相国入道さま
>地方の企画展は、思わぬものをやっている

なるほど、そうですか。それじゃ、期待できますね。私の故郷八千代町は、凄い田舎(なにしろ、鉄道が通っていない!)で、とても全国区の歴史の話なんかできないと思っていたのですが、将門との関わりは結構あるんですね。
↓のサイトに将門伝説が書かれており、面白いです。
http://www.asahi-net.or.jp/~np4m-hrok/masakado.htm

また、検索していると、南相馬市でも、企画展「将門伝説」やっているようです。
http://www.city.minamisoma.lg.jp/hakubutsukan/kikaku.jsp

*何度も言いますが、八千代町へ行きたいという奇特な方がいらっしゃいましたら、自家用車、またはレンタカーがお勧めです。バスは1時間に1本あるかないかです。下妻からタクシーを使う手もありますが。

●村岡
八千代町と接している集落に「村岡」(旧千代川村)という集落があります。将門の叔父平良文は、坂東八平氏の祖ですが、村岡良文とも言い、この地(下総国村岡)から村岡を名のったという説もあります。実は、藤沢市にも「村岡」という地名はありまして、この相模国村岡が、村岡良文の起源という説もあるそうです。私は、たまたま、子供の頃は下総国村岡の近くに、今は相模国村岡の近くにおりますので、不思議な縁だと思っております。

>筆綾丸さま
>伊勢海老物語
う〜ん。芸術ですね。

>はぎつきみたえさま
>それにしても、疑問に思うこと、知りたいこと、あとからあとから出てくるので、できるだけ長生きしたいな〜、
同感でございます。

>『大勢三転考』
どうもありがとうございます。思想史的なお話ですね。陸奥宗光の父親が紀州藩で何か問題を起こしたという記憶はあったのですが、国学者だったのですね。

402亜季多幸孝:2007/11/12(月) 23:31:13
村岡
昨日某会で遠足をやっておりまして、偶然、武蔵国村岡(現埼玉県熊谷市)の付近を通りがかり、村岡良文の話題が出ました。
NAO4@吟遊詩人さんもお書きになられてるように、村岡の地名は相模・下総国そして武蔵と三ヶ所もありまして、今でも
「村岡五郎良文の住んでいた場所は何処なのか」
という論議がありますね。
勿論、地元は我田引水よろしく自分の所こそ、となる訳で、実際にどこもそれなりの根拠があるわけですが(逆に決定的な証拠もないのですが)、今野慶信氏によれば、三ヶ所を移動したのではないか、ということの様ですね。

403高遠彩華:2007/11/13(火) 01:11:06
御礼と勝手に宣伝。
>釈由美子が好きさま
>阿部猛氏編『中世の支配と民衆』
ご紹介、ありがとうございますm(_ _)m。

>NAO4@吟遊詩人さま
>相国入道さま
ありがとうございます。
北条時行を追いかけている期間が、人生の半分を越えてしまいました(笑)。
機会があったら、読んでやってくださいませ。


そして以下は勝手に宣伝です。

滝山城跡ガイドブック『甦る滝山城』出版記念シンポジウム
「北條の城を掘る−甦える北條流築城術−」

日時:平成19年12月2日(日) 13時〜16時
場所:東京純心女子大学 江角記念講堂
   ※東京純心女子大学へのアクセスマップ
   http://www.t-junshin.ac.jp/access.htm
対象:どなたでも参加できます。
参加費用:200円(資料代)

第1部:基調報告
?鉢形城の庭園遺構について
 石塚三夫氏(鉢形城歴史館、学芸担当)
?小田原城、山中城にみる北條流築城術
 小笠原清氏(小田原城郭研究会代表)
?滝山城に眠る謎の遺構
 中田正光氏(城郭研究家)

第2部 討論
コーディネーター:三池純正氏(戦国史研究家、作家)

主催:滝山城跡群 自然と歴史を守る会
共催:滝山城跡文化協会
後援:八王子市、八王子市教育委員会、道の駅「八王子滝山」、加住地区住民協議会、創価大学

404:2007/11/13(火) 06:09:43
(無題)
おはようございます。

>釈由美子が好きさん、
どうかこちらこそ今後ともよろしくお願いします

今日は実は別のことをグーグルで検索して、あなた様のHPにたどりつきました。
鈴鹿俊子さんです。(川田順の奥様)

どんな方だったのかなあと、検索して、古本でもみつけようと思って、おりました。実は最近、辻井喬の「虹の岬」を読んで、意外と面白かったのです。


あと、今月号の角川の「短歌」で、短歌賞次席を貰った方は、大学のご同期くらいにあたるのではありませんか?

405釈由美子が好き:2007/11/13(火) 12:20:07
老いらくの恋。
>浪漫派さん
>鈴鹿俊子さんです。(川田順の奥様)
 わたしは短歌は、全く無知なのですが、かろうじて存じておりますた。

>大学のご同期くらいにあたるのではありませんか?
 え? そーなんですか?

406筆綾丸:2007/11/13(火) 20:09:12
奉書
相国入道さま
http://www.cbs.ne.jp/kurobanehan.htm
ご質問で恐縮ですが。
目録の末尾は、寛文四年四月五日、永井伊賀守(署名・花押)、小笠原山城守
(署名・花押)、大関主馬殿、とあるようにみえます。
寛文四年の老中は、山本博文『お殿様たちの出世』(新潮選書2007年6月)の巻末
一覧表によると、酒井忠清、阿部忠秋、稲葉正則、久世広之なので、この文書は、
いわゆる老中奉書ではないようです。
永井・小笠原両名は若年寄だろうか。しかし、相手が一万八千石の小大名とはいえ、
若年寄が大名に対し、執達如件とは言えないはずで、職掌上、若年寄ではありえまい。
いや、朱印状の御威光のもと、若年寄であっても、この場合は、分を超えて威張ること
ができるのか。
朱印状はいわば厳かな鏡文のようなもので、添付の本書は簡略な形式になるとして、
さて、永井・小笠原両名の職掌は、何なのか。公式の文書に守名があるので、従五位下
相当職か。また、この文書形式は何と呼ぶのか。
ご存知でしたら、お教えください。

はぎつきみたえさま
http://www1.ocn.ne.jp/~hyamaki/210hosomichi/0403kurobane/kurobane.htm
玉藻稲荷神社には、実朝の歌碑まであるのですね。
的が扇ではなく狐だ、というところが実朝の哀しさですね。屋島の沖合で扇を翳
したのは狐だったかもしれない・・・。本歌は人麻呂か。
 我が袖に霰たばしる巻き隠し消たずてあらむ妹が見むため
http://www.bk1.jp/product/02649506
こういうのは、お読みになりましたか? 第一部「実朝編」の実朝君に目新しさはあり
ませんが、安徳帝がコロコロしていて、うんと可愛いですよ。

NAO4@吟遊詩人さま
「子供の頃は下総国村岡の近くに、今は相模国村岡の近く」
妙見大菩薩の御加護が篤いようですね。
『北斗の拳』のケンシロウは将門の輪廻転生の権の姿ではないか、と私は睨んで
います(笑)。

高遠彩華さま
 仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる
 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ
『梁塵秘抄』ではありませぬが、このごろ、時行君は夢にお見えになりますか?

407はぎつきみたえ:2007/11/13(火) 20:21:51
>筆綾丸さま
 私、けっこう筆綾丸さまとシンクロするみたいで、ここ見ているときに筆綾丸さまのカキコが入るのですよ。
 特に決まった時間にココを開いているわけでもないのに、いつも不思議だな〜と思っております。
 今日もまた、ちょっと浮気してココに帰ってきたら、お会いしてしまいました。

>玉藻稲荷神社
 そうなんです!歌碑あるんですよ!
 那須の篠原は私、一番お気に入りの歌なんです。
 音が聞こえる和歌なので。

 ただ、歌碑の存在を知ったのが現地についてからでして、時間がなくて玉藻神社までいけなかったのです。
(往復に8時間かかって、栃木にいたのは2時間だけ)。
 リベンジ狙ってます。

>『安徳天皇漂海記』
 …買ったんです。今、目の前の書棚にあるんですが、未読です…。
 買うと安心してしまうのが私の悪い癖でして…。
 ダイエットの本買って安心して甘いものを食べちゃうわけでして…(女性の皆さまは多く同じ経験をお持ちかと思いますが(笑))。

408高遠彩華:2007/11/13(火) 23:00:52
夢で逢えたら。
>筆綾丸さま
>時行君は夢にお見えになりますか?
残念ながら、今に至るまで一度も、夢でさえも会ったことはありません(>_<)。

「夢にだにあふことかたくなり行くは 我やいをねぬ人や忘るゝ」
ではないですが、相手に思われていなければ夢にも出てきてくれないというのは本当なんだなあ、と思った次第です。

409釈由美子が好き:2007/11/14(水) 18:48:54
村岡五郎良文。
 良文、平高望の息子で、国香や良将の弟ですから、桓武平氏第2世代で、貞盛や将門には叔父さんに当たりますが、将門の乱には、ぜんぜん顔出しませんねェ。何してたんですかね?

 一応、『尊卑分脈』(吉川弘文館、新訂増補国史大系、4巻)の系譜載せときますね。

 桓武―葛原親王―高見王―高望王(平高望)―┬―国香―貞盛……→伊勢平氏とか北条とか。
                      │
                      ├―良兼
                      │
                      ├―良将―将門
                      │
                      ├―良孫
                      │
                      ├―良広
                      │
                      ├―良文……→千葉やら秩父やら。
                      │
                      ├―良持
                      │
                      └―良茂……→三浦とか。


 そー言えば、良文の通称は、みなさんご指摘の如く、「村岡五郎」ですが、この「村岡」を苗字と考えれば、武士の苗字の、ひじょーに早い例と言えると思いまする。

 良文とタイマンはったんで有名な嵯峨源氏の源宛も、『尊卑分脈』(上記の1巻)によれば、通称「箕田宛」で、この「箕田」も苗字とすりゃ、早い例ですわいや。
 それにしても、宛、ひいオジィちゃん左大臣源融なのに、すっかりグレちゃって。

 と、たまには参加してみる。


>高遠さん
>一度も、夢でさえも会ったことはありません(>_<)。
 実は、もう、ず〜〜〜〜〜と前から毎晩毎晩夢で会っているにもかかわらず、目覚めたあーたが、ぜ〜〜〜〜〜んぶ! 忘れちゃってるてーこともあるンでないの?
 『寄生獣』にも、そんな話があったわよ。

410むらじ:2007/11/14(水) 20:38:45
おひさです。
うううっ・・・(><) 恐ろしく高い買い物をしてしまった!
この板でどなたかが書かれていた「風と雲と虹と」(完全版)。
なるべく安いトコで注文したのですが、そんなコトより「実躬卿記」でも追いかけるべきだったかなあ・・・と反省しきりだったのですが。
折も折。↓
>釈さん
私の行動、読まれてました?^^;;;

そういえば海音寺潮五郎の原作では、良文ちょい役で参加しております。
将門と小競り合いをやって負ける役なんですな。
(ちなみに『将門記』にはそんなことは一行も書かれていないはず)。
大河ドラマの放送のほうではそのシーンはなかったやに記憶していますが、新珠美千代演じる将門の母親を戦乱が始まる前に引き取るシーンだけ登場したように思います。
・・・と、史実とはぜんぜん関係のないレスですみませぬ。m(__)m

411筆綾丸:2007/11/14(水) 21:00:51

http://www.kyuhaku-db.jp/souke/introduce/02_6.html#1
http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/6162.html
http://ikr031.i-kyushu.or.jp/jd/html/jd06fhan01.html
http://homepage1.nifty.com/gorozo/real/data/system.htm
ネットで調べてみました。
目録の作成者は奏者番のようで、寛文印知の領地目録は、奏者番奉書、とでも呼びたく
なりますが、ただ、この奉書だけでは法的強制力は発生しない。将軍の添え状と一緒に
するには、老中では濃すぎるので、やや薄い奏者番を奉行とし、所領安堵の権限は老中
へ委任せず、将軍の専権に留めておく、ということなのでしょうね。
興味深いのは、将軍の添え状が、黒羽藩は朱印で福岡藩は花押、というところですね。


将門の「門」は、前々から、名として不気味な感じがしているのですが、朝廷による
蔑称というような可能性はないのでしょうか? 獄門の「門」というような・・・。

412むらじ:2007/11/14(水) 21:35:42
なまえ
>筆綾丸さん
おひさしぶりです。
>門
諱としては確かに珍しいですね。
ちょっと思い浮かんだかぎりですが、『三代実録』の時代に藤原門宗という人がおりました。
呪術的な要素は特段感じられない、ごくふつーの四位官人さんでしたが。
あとは後世になりますが、戦国時代の筑後に筑紫広門という武将がおりましたっけ。
この人の先代もたしか「惟門」といって、もしかすると「門」が通字だったのかもしれません。
遠い昔の先人からいただいた「門」かどうかは、さだかではありませぬ。
同時代に活躍した藤原純友の場合も蔑称らしき匂いは感じにくいですね。
蔑称自体は称徳女帝が愛用していたこともあり、歴史の古さを覚えますが。

413相国入道:2007/11/15(木) 01:13:46
筆綾丸様へ
>筆綾丸様

 レスが遅くなりましてすみませんでした。お尋ねの件ですが、私が紹介いたしました。

 新井敦史著『下野国黒羽藩主大関氏と史料保存』78頁〜84頁に所収されていましたので、お知らせいたします。

 それによりますと、領地目録とともに、江戸幕府将軍から領地朱印状というものが発行されます。以下は新井氏の文章を引用いたします。

 「領地朱印状は、江戸幕府将軍が各大名に対して、従来の所領を引き続いて領有・支配することを承認する公文書であり、領地目録は、各大名が領有・支配する村々を書き上げた目録である。領地朱印状(石高十万石以上及び従4位下・侍従より上の大名へは領地判物)は、寛文4年(1664)4月5日付けで4代将軍徳川家綱から諸大名に発給され、同日付で領地目録も、御朱印奉行の連署をもって発給された。以後、将軍の代替わりごとに諸大名への所領確認がなされ、新将軍名の領地朱印状と領地目録がセットで発給されていくこととなった。領地朱印状の料紙には楮紙系統の上質紙である檀紙が使用され、領地目録の料紙は斐紙(雁皮紙がんびし)系統の間似合紙(まにあいし)が使用された。(これは、日本歴史学会編「概説古文書学近世編」1989年を参照したそうです。)
 黒羽藩主大関氏宛ての領地朱印状と領地目録は、5代藩主大関主馬(増栄 ますなが)が受給した寛文四年4月5日付けのものから、13代藩主大関信濃守(増昭 ますあきら)が安政2年(1855)3月5日付けのものまで、計十組伝存しており、本高18000石の領地について公認されてきたのである。領有・支配する村については、江戸時代を通じて若干の変化が見られるが、本高は、明治維新まで変わることはなかった。
 なお、領地朱印状の「上聞」・「御朱印」・「仰付」という文言の前に一字分の空白部分があるのは、闕字といって、その次の文言(「上聞」・「御朱印」・「仰付」)の主体、すなわち将軍徳川家綱に対する署判者(小笠原長頼・永井尚庸なおつね)の敬意を意味している。」としていまして、
 小笠原・永井は御朱印奉行という役職のようです。
 遅くなってすみませんでした。以上お知らせいたします。

414NAO4@吟遊詩人:2007/11/15(木) 04:40:10
風と雲と虹と 主題歌(加藤剛 歌)
いろいろ検索しておりましたら、↓見つけてしまいました。
「風と雲と虹と」主題歌に、歌詞があったのですね。
http://video.1st-game.net/youtube/v_78fbJ15xRYI.html

何しろ、将門に関する知識は、「風と雲と虹と」が放送されていた頃、海音寺潮五郎さんの小説を読んだのと、赤城宗徳著(注)の「平将門」読んだのと、この当時地元の郷土史家の講演を聴きに行って得たもので、殆ど止まっております。

>平良文
それで、とりあえず、ネットで検索したところ、平将門の乱のとき、良文は鎮守府将軍として陸奥に赴任中で、関わらなかったような書き方をしていますね。一方では、裏で支持していたようなものもあり。ちょっとした成果は、藤沢市の北部にあります「御所見」という地名の由来が分かった点です。平高望の先祖「葛原親王」の御所に由来するようですね。
http://chiba504.hp.infoseek.co.jp/gosyomi/gosyomi.htm

(注)赤城宗徳さんは、今年農林大臣になり、すぐに辞めさせられてしまった赤城徳彦さんのお爺さんです。国会議員でありながら、郷土史の研究していたようです。(恐らく国会議員になる前に地元にいたときに執筆されたものでしょうが)

>亜季多幸孝さま
>武蔵国村岡
適切なフォローありがとうございました。投稿文の中で触れるべきでした。

>むらじさま
>「風と雲と虹と」(完全版)
おー、買われましたか。その投稿私です。なかなか見るのも大変ですね。

>釈さま
>この「村岡」を苗字と考えれば、武士の苗字の、ひじょーに早い例
なるほど、ありがとうございました。

>筆綾丸さま
>奉書
興味深く拝見いたしました。

>浪漫派さま
何となく、釈さまと会話がかみ合っていないのは、浪漫派さまが、鈴木小太郎さんのサイトから来られて、この掲示板をその掲示板と思われているからではないでしょうか。
この掲示板は、日本中世史アーカイブスの掲示板でもあり、管理人さんは、「釈由美子が好き」さまと、「鈴木小太郎」さまと2人いらっしゃるんです。恐らく浪漫派さまは、小太郎さんに呼びかけているのですよね。小太郎様は、きっと今勉強モードなのではないでしょうか。

415筆綾丸:2007/11/15(木) 20:20:09
バタフライ効果
相国入道さま
御丁寧に、痛み入ります。とてもよくわかりました。
此儀両人奉行依被(闕字)仰付執達如件、なる文言から察するに、御朱印奉行と
いうのは、常置職というより、奏者番のうち、特に二人に命じた臨時職という感じ
がしますね。
黒羽藩と福岡藩を分けるのは、十万石の壁ですね。十万石未満で従四下侍従とい
えば概ね老中で、この場合は、御判物奉行、ということになりますか。
奏者番は譜代大名がなるので、小笠原長頼と永井尚庸は大名ということになりま
すが、前者を甲、後者を乙としますと、甲または乙にくだす領地目録は、奉行を
どうしたのでしょうね。
甲乙両名のままとすると、甲乙→甲、甲乙→乙となり、双方代理的な法律行為に
なる。甲乙→乙の場合は甲→乙へ、甲乙→甲の場合は乙→甲へ、執達されたもの
とみなすとすれば、連署といういわば連帯責任の所在が不明となり、法的な瑕疵
が発生するといえなくはない。したがって、甲乙にくだす領地目録に限り、甲乙
とは別の二人を御朱印奉行に命じれば、このような瑕疵を回避できる。小笠原長頼
と永井尚庸への領地目録が残っていれば、事情がわかって面白いのですけれども。
将軍の代替りのとき、禁裏料(たしか一万石前後)については、どのような領地
目録が作成されたのでしょうね。
幕府御用達日本橋越前屋紙納入→納戸口→小者→書院番→奏者番→老中内覧→
将軍御朱印並花押→奏者番→書院番→小者→納戸口→継飛脚→同心→与力→
京都所司代→武家伝奏→関白→典侍→逆鱗→払下げ→典侍→掌侍→女嬬→納戸口
→小者→禁裏御用達四条烏丸雁金屋漉返し→四畳半金泥屏風の裏貼り→島原吉野
太夫・・・バタフライ効果のような、こんなこと、よもやあるまいが(笑)、
文書の形式がわからないですね。

http://www.bashouan.com/pbPhoto_bk5.htm
http://www.bashouan.com/pbKurobane_ds.htm
芭蕉庵桃青の接待役、黒羽藩家老浄法寺桃雪の知行高は、五百石前後かしら。

むらじさん
藤原門宗という人が既にいたのですか。私の妄想は空中分解しました。

NAO4@吟遊詩人さま
御所見は面白いですね。

浪漫派さん
独逸浪漫派、ロマン派音楽、ロマン派絵画・・・と色々ありますが、浪漫派さんの仰る
のは、日本浪漫派と解してよろしいでしょうか。
以前、大津の義仲寺を訪ねたとき、保田與重郎の墓があり、非常に驚いたものでした。
保田は義仲の同行になったのか、と。

416相国入道:2007/11/15(木) 21:20:36
こちらこそ
>筆綾丸様
 こちらこそ、ご丁寧なレスありがとうございます。近世の古文書様式については、まだまだ解明されていない点がたくさんあります。新井氏の著書もその点を、大関氏の視点から見た意欲作です。これから徐々に解明されていくはずです。

>NAO4@吟遊詩人さま

 「風と雲と虹と」私も見ていた一人です。関東のことを扱うということで興味深く見ていました。この番組でちょっと逸話があります。この作品に下野国府が登場するのですが、たまたま、この番組を見ていた、当時の栃木県教育長が、下野国府はどこにあるのだということになりまして、発掘調査がはじまったという、文化不毛の県といわれた栃木県では珍しい事例がありました。下野国府は、開発される前でしたので国史跡として残ることが出来ました。
 また、書き込みにありました、平将門を演じた加藤剛さんが歌った主題歌は、番組では一度も演奏されなかった記憶があります。
 一度「スター千一夜」という番組で、加藤さんが生で歌ったのをみています。歌った後で、加藤さんのお話で、奥さんから「もうやめて」といわれたということを覚えています。

 「風と雲と虹と」の演じていた人たちを紹介します。

平将門・・・加藤剛  藤原純友・・・緒方拳  藤原秀郷・・・露口茂

平貞盛・・・山口崇  平良将(将門の父)・・・小林桂樹

平国香(貞盛の父)・・・佐野浅夫  平良兼(将門の叔父で将門の妻の父)・・・長門勇
平良文(将門の叔父)・・・渡辺文雄 平良正(将門の叔父)・・・蟹江敬三

藤原忠平・・・仲谷昇  武蔵武芝・・・宮口精二  興世王・・・米倉斉加年

源経基・・・菅野菜保之 源護・・・西村晃  源扶(源護の長男)・・・峰岸徹

鹿島玄道・・・宍戸錠 鹿島玄明・・・草刈正雄 良子(実名は不詳なのだそうですが将門
の妻)・・・真野響子(このかたは、「風林火山」で諏訪御料人を演じた柴本幸さんのお母
さんです) 桔梗・・・森昌子 という方が演じていました。

この番組で、関東にもすごい歴史があるんだなと改めて確認したのを覚えています。
 赤城宗徳氏の『平将門』は、国会議員在職中に執筆したものです。赤城氏も、平将門が正統な評価をされるようにということで執筆されたようです。それにしても忙しい中でこれほどの文章を書かれたのには、本当に敬服します。

>平良文
 番組では、平良文の所領は武蔵村岡と放送していた記憶がありますが、多説がありますので、どこが正しいというのは、まだまだ検討する余地はありますね。

>釈由美子さんが好きさん
『尊卑分脈』では、平将門の父は良将となっているのですが、『将門記』では、良持となっていますね。どちらが正しいのか『尊卑分脈』と『将門記』もう一度検討し直す必要がありそうですね。

417阿哈馬江:2007/11/15(木) 22:40:57
 
筆綾丸さま

 遅い返答となりますが、

> このドスの効いた恫喝

 こんな話があります。

 余談になりますが、ちょっと申し上げます。鯨波(【振假名】トキノ)屏風と申しまして、神泉苑(【振假名】シゼンヱン)にありました。私もズッと以前神泉苑で見ました。これは後水尾院樣の御代のことです。御承知の通り中宮樣は東福門院和子、則ち徳川將軍秀忠公の御女でござります。其の時朝廷から徳川家へ金屏風を一双拵へるやうにとの御命が下りました。ところが急に差上げなかったと見えまして、度々の御催促です。それで遂に献ったのが、彼の鯨波屏風です。これは探幽の筆で、安徳天皇様が壇浦で御入水遊ばす図でござります。則ち徳川家では、朝廷に於て、かれこれ仰(【振假名】オッ)しゃるなら、こんなめに逢はせまするぞといふ意味ですなァ。サー後水尾院様大層御立腹で、早速勅によって神泉苑へ御寄付になりました。ところが神泉苑も明治になりましてから一時廃寺同様になりましたので、東寺へ持って行ったと聞いて居ります。只今でも東寺にござりませう。

 下橋敬長談『維新以前年中行事』(上野竹次郎編)「御修法結日」(平井誠二「下橋敬長談「年中行事」 ─ 翻刻と解題 ─」(『藝林』第五十四巻第二号、平成十七年十月)133頁)

> 伊勢海老物語
> 閉門蟄居

 嗚呼、赤福を喰することができるのは、何時のことか...


釈さま

 釈さまにはタイヘンな状況であったようでございますが、私めは、今、冗談にもならない状況となっております。どのようなことか口外できませんが...

 それはさておき、既に御周知のことと存じますが、『將門略記』には、

  三世高望王 ── 鎭守府將軍平朝臣良持 ── 將門

とあり、また、平良正も『尊卑文脈』では將門のオジではなくイトコとなっておりますので、平高望の諸子に関する『尊卑分脈』の記載は不正確のようですね。時間があれば、いろいろと書くことはあるのですが、釈さま同様、余裕がありませんので...


むらじさま

 お久しうございます。

> 門

 勸修寺流の祖、藤原良門もおりますね。他の兄弟と比べて目立たない人ですが。

http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html

418釈由美子が好き:2007/11/16(金) 00:35:50
短レス。
>おのおの方
 管理人業務、怠慢で、すいませんです。


>NAO4@吟遊詩人さん
 管理人代行みたいになっちゃってて、すいません。
 ありがとうございます。


>筆綾丸さん・むらじさん
 すでに亀レス気味ですが、源頼朝の弟に「義門」てのもいますですな。


>むらじさん・NAO4@吟遊詩人さん・相国入道さん
>「風と雲と虹と」
 何度聞いても懐かしいテーマ曲ですよねェ〜♪
 大河と言えば、まず、これが浮かびます。


>阿哈馬江さん
>『尊卑分脈』の記載は不正確のようですね。
 そーなんすよ。三浦なんか、2ヶ所に出て来て、メチャクチャです。

>今、冗談にもならない状況となっております。
>どのようなことか口外できませんが...
 具体的には、わかりませんが、どうぞご自愛ください。

419NAO4@吟遊詩人:2007/11/16(金) 05:37:49
下野国府ですか。
>相国入道さま
>下野国府
「風と雲と虹と」が放送されていたのが、1976年で、下野国府の発掘が1979年↓とありますから、まさしくそうなのでしょうね。それにしても、突然思い立つ教育長は笑えます。
http://www.city.tochigi.tochigi.jp/hp/menu000002000/hpg000001843.htm

場所は、やはり(最初に県庁所在地になった)栃木市なのですね。
いつか、国府跡寄らせていただきます。

>赤城宗徳氏の『平将門』は、国会議員在職中に執筆したものです。
そうでしたか。どうもありがとうございました。

>釈さま
>管理人代行みたいになっちゃってて、すいません。
意識して、そうしているわけではないので、お気遣いなく。

>筆綾丸さま
>御所見
実は、藤沢市には、「葛原」という地名もあるんです。

420むらじ:2007/11/16(金) 06:47:35
平親王
中世の掲示板なのに、平将門の話題となると転がりますね。

>相国入道さま
下野が文化不毛の地とは存じませんでした。
俵藤太以来魅力的な人物を輩出した土地ですよね。
(道鏡以来、と書くといささかさわりがあるかもですが 笑)
(あっ、円仁ならば、問題ないですよね?)
>良子
海音寺潮五郎の原作でもこの名前ですが、名前の由来は父親の良兼からきているのでしょうか。
案外、後世の創作で登場する将門の忘れ形見である良門の名前からヒントを得たものでは?と勝手に憶測しております。
良兼の娘というのも『将門記』の冒頭部分で将門と良兼が「女論」で対立を深めたという記述からそれと推定しているようでして、話題の『尊卑文脈』にも良兼女は出ていなかったように思います。
時がたってしまうと、なにもかもがわからなくなっていくんですね。

>NAO4@吟遊詩人さま
>完全版
そーでした、そーでした。
あれ以来気になっていたんですよ。

>阿哈馬江さま
こちらこそ、ごぶさたしていました。
>良門
おっとと・・・私としたことが。(^^ゞ
最近不勉強なのが、そこはかとなくにじみ出てしまいました。(^^ゞ
良門は内舎人という低い官位で終わった人で、『三代実録』でもほとんど触れられていない人ですよね(もしかしたら皆無かも)。

将門は「平親王」と号したという言い伝えがあるようですが、やや後世に大志を抱き「最勝親王」と名乗った人物のことをフト思い出したりもいたします。
東国という土地は、変革を呼ぶ地と認識されていたものでしょうか。
それとも「化外の地」とされていた未知性が、フロンティア幻想につながったのでしょうか。

>釈さん
>義門
そーでした。そーでした。
「門」の人、探すとけっこういるんですよねぇ。

出勤前のひととき、思いつくことをつれづれに記してみました。
それにしても、外・・・寒そうだなぁ・・・

421信楽:2007/11/16(金) 14:07:24
将門の叔父たち
>むらじさま
>良子
「良」を共有する叔父たちと将門をつなぐ存在というのはどうでしょう。
しかし良兼の子はみな「公」を持つので、公子のようが命名法としては筋が通るような気が。
架空の名前だし別にいいのですが。

将門記に良兼・将門の間を舅甥と書いた箇所があることから
婚姻関係があると推定する本などが多いように見えますが、
婿でなく甥と書いてあるから一族内の序列を示してる可能性もあるのでは、と思います。

その場合もっとも年長の国香をさしおいて良兼との関係を書いている理由はよくわかりませんが。

その国香は
http://www.geocities.jp/renge4249/takamochishisoku/takamochishisoku.htm
こちらを見ると良持とかの名前で書かれた例があるようです
ほかにもヨシモチ名の人物がいたのか誤記なのか、やたら名前があってわけわかりません。
タカモチの子で最も栄えたものがその都度ヨシモチを名乗ったのとか?

422古高家の一族:2007/11/16(金) 16:32:21
お知らせ
はじめまして、の方々が多いかと思います。
現在葛飾区郷土と天文の博物館で「特別展 関東戦乱〜戦国を駆け抜けた葛西城〜」を開催中です。特別展関連企画としてシンポジウムを開催します。
申込締切が近くなったので、再掲させていただきます。

??????シンポジウム 「葛西城と古河公方足利義氏」
シンポジウムでは、今回の展示によって抽出された諸問題や展示の内容をより深く討議し、広く区民を対象に葛西城や葛西地域の戦国時代における歴史的な位置付けを試みます。

??????■開催日 12月1日(土曜日)・12月2日(日曜日)
??????■内容
??????第一部 12月1日(土曜日)13時〜17時
??????記念講演「古河公方足利義氏と東国」佐藤博信氏(千葉大学)
??????報告1 「葛西時代の足利義氏」長塚孝氏(馬の博物館)
??????報告2 「小田原北条氏と古河公方」黒田基樹氏(駒澤大学)
??????報告3 「足利義氏の元服」平野明夫氏(國學院大學)

??????第二部 12月2日(日曜日)10時〜15時20分
??????記念講演「葛西城と戦国考古学」小野正敏氏(国立歴史民俗博物館)
??????報告1 「小田原北条氏と葛西城」谷口榮(当館学芸員)
??????報告2 「武蔵における戦国前期の武士勢力とカワラケ」田中信氏(川越市教育委員会)
??????報告3 「小田原北条氏のカワラケと漆器」佐々木健策氏(小田原市教育委員会)

??????第三部 12月2日(日曜日)15時20分〜16時50分
??????全体討議(講演・報告者参加)

??????■会場 講堂
??????■費用 1,000円
??????■定員 100人
??????■申し込み 往復ハガキに、『葛西城シンポジウム』、参加される方全員の氏名、年齢、住所、電話番号を書いて、11月21日(必着)まで。多数抽選。電子申請でもお申し込みいただけます。

詳細は下記をごらんください。
http://www.city.katsushika.lg.jp/museum/ev-tenji.html

図録に付属しているCD−ROMには、中世前期・後期及び本土寺過去帳の葛飾郡に関わる史料がデータベースとしておさめられています。

話の流れを切ってしまってスミマセン。

423井上渉子:2007/11/16(金) 17:41:50
つれづれ。
しばらくお休み中だった「クイズ・ここはどこ」、井上が乱入して出題しています。気が向いたら覗いてみてください。

>NAO@吟遊詩人さま
ちょっと亀レスになってしまいましたが「御所見」の地名の由来の紹介、実は昔の職場だったので(笑)興味深く読みました。
「こんないな(ry で『御所』ってなんだろう」と疑問に思いつつそのままにしていましたが、由緒ある土地だったのですね。

>古高家の一族さま
特別展自体ももちろんですが、どうしても行けない方には図録とCD−ROMだけでも必見の出来ですね。
お世話になっている知人(笑)に図録を進呈したら「『葛西城の発掘資料は持っていたがこうして図録にまとまってみると見やすくてよい」と好評でした。
シンポジウムもぜひ参加したいと思います。申し込んでいるけど、当選するといいな。

そして突然私信失礼します>むらじさま
先日メールをお送りしました。届いておりますでしょうか。

424筆綾丸:2007/11/16(金) 19:30:18

釈由美子が好きさん
義門をググりましたら、小太郎さんのページがでました。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yugimonin-to-sonoshuhen.htm

阿哈馬江さま
下橋敬長の談話、面白いですねえ。
波の底にも都の候ぞ・・・。
『禁秘抄』のシニフィエを何故理解できぬ、とこんどは絵で恫喝し、後水尾は、
百も承知とばかりに、神泉苑の龍にくれてやった訳ですね。

425釈由美子が好き:2007/11/18(日) 01:27:29
門の付く人。
 「クイズ・ここはどこ」、 ↓ で井上さんが書いてくだすってる如く、再開してますんで、よろしゅうに♪


>筆綾丸さん
 「門」が名前に付く人、探すと、それなりにいますけど、将門がちょー!!! 有名な反逆者なので、イヤがる人もいたかもしれまへんねェ。

426NAO4@吟遊詩人:2007/11/18(日) 02:55:06
将門とか
>平将門と八千代地方ー将門の生きた時代ー
↑帰省したついでに行って参りました。何しろ小さな歴史民俗資料館なので、展示スペースは狭く、こじんまりとやっております。八千代町内もしくは、近隣の市町村の方々、たまたまこの地方を通りかかった方々で、将門が好きな方は、お寄りください。将門とこの地方の関係がよく分かります。

遠方の方々、わざわざお越しになるほどではないと思います。町内・県内の遺跡のパネル写真、出土物(瓦、陶器片、鉄製品)、江戸時代の文書などが展示されておりました。地元の方が見れば、ここがそうか、あそこがそうかと楽しめるのですが、遠方の方々が来られたら、労力の割には、がっかりするんじゃないだろうかと思います。

私としましては、結城廃寺跡の出土物(「法成寺」と記載の瓦など)に興味がいきました。また、仁江戸(注)という集落と将門の関係がより鮮明に分かって、良かったです。

(注)「仁江戸」は、「にえど」と読みます。「『仁』+『江戸』だ」とか言って、小学校の時に自慢していた友人がおりましたが、名の起こりは知りません。古くからあった集落で、「風と雲と虹と」で森昌子が演じておりました桔梗姫の伝説がございます。
この集落は、鬼怒川をはさんで、将門の生誕地「鎌輪」と隣接しており、この位置関係を今頃になって気がついた次第です。面白いと思ったのは、この地に「五所神社」というのがございまして、「五所(御所)神社」とパネルに書かれており、なるほどなあと思ったわけです。因みに、以前ご紹介しました平良文と関わりのあるとされる下総国「村岡」は、仁江戸集落と接しております。

>井上渉子さま
>御所見
反応してくださると思っておりました。藤沢市では開発が遅れた地区ですが、私は好きなんですよね。近世以前をイメージするのに。(すいません。馬鹿にしてるわけではありません。本当に好きなんですよ。)
それで、よくよく考えると、相模国府は最初は高座郡(国分寺が海老名市、一宮が寒川町にありますので)とのことで、御所見地区って国府に近く、平安時代には結構開けていたんじゃなかろうかと想像してしまうわけです。

427釈由美子が好き:2007/11/19(月) 11:19:20
最勝親王
>NAO4@吟遊詩人さん
 秋は、展示の季節ですが、今年は特に豊作なようですなァ。

>「五所(御所)神社」
 新皇の御所があったつーことなんでしょか?


>信楽さん
>婿でなく甥と書いてあるから一族内の序列を示してる可能性もあるのでは、
 養父子関係とか、婚姻関係とか、猶子とか、ホントの血縁関係とは別の関係が系図に影響してる可能性が、確かにありますので、むつかしいですよねェ。


>むらじさん
>やや後世に大志を抱き「最勝親王」と名乗った人物
 以仁王ですよねェ〜♪
 バラまいた令旨の結果を見ることなく、将門よりも、とっとと負けちゃいましたが。

428NAO4@吟遊詩人:2007/11/20(火) 00:31:12
桜川市の中世史料展
故郷八千代町の歴史民俗資料館で、桜川市(旧真壁町)の企画展の広告を見つけました。
中世がお好きな皆様には、興味があるのではないでしょうか。

中世文書の他に、真壁城発掘調査現地説明会や、小田城跡の説明会もあるそうです。

>釈さま
中世にのめりこんで、半年ほどになりますでしょうか。イベント情報が入ってくるので、楽しんでおります。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003839.jpg

429相国入道:2007/11/20(火) 02:07:22
百聞は一見にしかず
>NAO4@吟遊詩人さま

 「平将門の生きた時代」行かれたのですね。まだ私は、おうかがいしていなのですが、行ってみる価値はありそうですね。それは、実際に行ってみますと、見学してよかったということがよくあります。
 例えば、『風林火山』の武田信玄の館跡の武田神社は、わが地元の栃木県足利市の足利氏館跡の鑁阿寺みたく、平地に建っているものとばっかり思っていましたら、実際は高台建っていたということがわかりまして、百聞は一見にしかずだなという典型的な例を見ました。
 実際企画展を見てみて、それぞれの人がどのように感じるかということが重要ではないでしょうか。近々行ってみて確かめてみたくなりました。

 >下野国府
 下野国府では、NAO4@吟遊詩人様にフォローしていただきありがとうございました。本来は、私が栃木市にあるとお伝えしなければならないところ、説明が不足してしまいましてすみませんでした。下野国府の所在地は、栃木市といいましても、現在の町の中心地からは大きく外れているところにあります。それこそ自家用車で行かないと見学できないところにありますので(それがかえって残った原因でもあるのですが)、よろしくお願いいたします。

 それから、中世史で八千代町や隣の下妻市を支配していたのは、結城氏の家臣でありました多賀谷氏です。
 届いたばかり文献ですが、『常総の歴史』第36号に「下妻の戦国武将多賀谷氏について」佐久間秀樹氏 という論文が収載されていました。
 佐久間秀樹氏は、下妻市ふるさと博物館の学芸係長の方です。
 『常総の歴史』第36号の定価は1100円です。
 購入先は、崙書房茨城営業所
 〒315−0014 茨城県石岡市国府4−6−5
 電話・FAX0299−24−0595です。

>文献のお知らせ。
 崙書房では、下記の新刊書が刊行されました。
 千野原靖方著 『常総内海の中世』地域権力と水運の展開です。
印旛沼・手賀沼から霞ヶ浦・北浦・利根川の下流域は、古代・中世には太平洋に湾口を開いた大きな内海であった。平安末から戦国時代にかけての常総内海を中心に繰り広げられてきた水運の実態、当水域支配の様相を考察(本の出版宣伝を一部紹介)。
 永年里見氏・千葉氏を考察してきた著者が、常総の水運史を本格的に考察したもので、是非一読をお勧めしたいです。
 定価は3800円です。
購入先は崙書房本社 千葉県流山市流山2−296−5 ?04−7158−0035です。

>むらじさま

 平将門の乱の話題を出したのはこの私です。八千代町で開催されている。『平将門と八千代地方ー将門の生きた時代ー』の企画展を紹介した折に、「平将門の乱から中世史をみる必要があると唱えている学者の方がいます。」ということ書き込んだことから、このような広がりがおきました。
 後、わが県は文化不毛の地といわれまくられて、いつもいつも悔しい思いしています。
たまに、文化的なことを行ったと思えば、宇都宮城には、わけのわからない櫓の復元をしてみたり、昨年本当にあったのですが、県議会議員の質問で、県立図書館の予算が減らされているので、増額してほしいとの要望に対し、栃木県教育長は「県立図書館には今までにたくさんの、蔵書を購入したのだから、いまさら増額する必要はない」という開いた口がふさがらないような回答をしている始末です。
 いつになったら、文化不毛の地といわれなくなるのか、お先真っ暗です。

 >井上渉子様

 足利成氏のファンとのこと、一通、足利成氏の文書が検討を要すから復活した文書がありますのでお知らせいたします。『戦国遺文古河公方編』第272号文書です。全文を掲出いたします。
 「就当社怪異注進、巨細御披見候、佳例之由申上候、目出候、
  就之弥祈念可然候、謹言、
   八月十四日         成氏(花押)
 鷲宮神主殿                       」
『戦国遺文』では、佳例が徳例となっていること、写本の悪さから検討を要すと記してたのですと、佐藤博信先生は述べておられたのですが、実は栃木県の足利市から、双鉤填墨(そうこうてんぼく ふたえ文字でに書き写すもの。かごうつしともいって輪郭のなかを墨でうずめるもの)写しが出てきまして、この文書は検討を要する文書ではないということが確認されました。
 詳しくは、『松龍史談』第7号 菊地卓氏 「下野国一社・八幡宮から発見された「足利成氏書状写」について」で述べられています。
 意味は、栃木県立博物館の荒川善夫氏から示教されたそうでそれを公開しますと「当社(鷲宮神社)で不思議な奇端があったとの注進があったが、手紙を披見しました。このような奇端はめでたいことが起こる前兆だと鷲宮神社が申し上げてきたが、自分にとってもめでたいことだと思います。これについてなお一層祈念していただければ幸いです」ただ、荒川氏の意味では、鷲宮神社が、足利市の一社八幡宮になっています(文書の写の宛所が擦り切れているためです)。足利市の一社八幡宮がこの文書を保存してくれたことによって、成氏の文書が復活したことで、編者の佐藤博信先生も大変喜んでおられました。

 なお、『松龍史談』ですが、価格は1,000円です。
 購入先は、〒326−0005 足利市大月町666 松龍山蜜蔵院
 ? 0284−41−7723にお問合せください。

>釈由美子さんが好きさん

 先日は、中前勉の見学会があった日に横浜でお会いしたのですが、どうしてももう一つ、見学したい企画展があったため、ご一緒できずに本当に申しわけありませんでした。

 その企画展は、神奈川県秦野市立桜土手古墳展示館で「鎌倉御家人の館」という企画展を開催しています。期日は平成19年9月22日(土)から11月26日(月)までです。
入館は無料です。
 地元である秦野市の東田原中丸遺跡で、白いかわらけが出土したそうで、白いかわらけはどういう用途で使われたのかは解明されていないそうです。この東田原中丸遺跡は、源実朝の首塚(みしるしづか)の近くにある遺跡だそうで、なぜ実朝の首塚があるのかというと、伝承では、実朝が公暁に鶴岡八幡宮で暗殺された時に、実朝の首をこの地に収めたそうです。また、この遺跡は有力御家人の一人波多野氏の館跡ではないかとも言われているそうで、今後もこの遺跡を発掘していくそうです。

 また、この資料館では次の文献も発売していました。
 『秦野市史研究』第6号と第18号です。

 第6号には、下山治久氏「中郡郡代大藤氏とその文書」
       武俊次氏 「波多野本庄北方考」の論稿が収載されています。
 大藤氏は、後北条氏の有力家臣のひとりで、下山氏はその文書の紹介分析を行っています。武氏の論稿は波多野氏の所領についての紹介をしてるものです。

 第18号には「波多野氏シンポジュウム」を収載しています。
熊谷忠興氏「越前の波多野氏と永平寺について」・藤村耕市氏「波多野氏傍流の広澤・和智・江田氏について」・波多野近二氏「三河国の森下波多野氏について」・関恒久氏「相模河村・松田沼田氏について」・湯山学氏「相模武士団の中の波多野氏について」です。
 第6号は昭和61年(1986)刊行で定価は700円です。第18号は平成10年(1998)に刊行で定価は800円です。

 問合せは、秦野市立桜土手資料館 〒259−1304 神奈川県秦野市堀山下380−3 0463−87−5542にお願いいたします。
 http://navi.city.hadano.kanagawa.jp/

今回の企画展見学は、本当に「百聞は一見にしかずの」連続でした。

長くなりましたが以上お知らせいたします。

430NAO4@吟遊詩人:2007/11/20(火) 21:10:47
どうもありがとうございました。
>相国入道さま
>『常総の歴史』第36号に「下妻の戦国武将多賀谷氏について」佐久間秀樹氏
>千野原靖方著 『常総内海の中世』地域権力と水運の展開

面白そうな文献紹介いただきありがとうございます。私の通った高校が一部下妻城(多賀谷城)址内にあったこともあり、多賀谷氏には興味はあったのですが、以前は判りやすく書かれた本が無く、現在に至るもあまり知らないのが正直なところです。どうもありがとうございました。

下妻城って、平城で大した事ないと思っていたのですが、常総地方って、川や沼が多かったせいか、そういった地形を利用した水城のような城だったらしいですね。
↓のブログ、往時を連想できて、面白いです。

http://shioyatsure.seesaa.net/article/52838436.html

431釈由美子が好き:2007/11/22(木) 01:38:14
今日は寝るので、
>おのおの方
 すいません。レス、今度書きます。
 このごろ、管理人業務怠慢で、申し訳ござんせん。

 「クイズ・ココはどこ」、よろしゅう。

432釈由美子が好き:2007/11/22(木) 20:36:17
すいません。
>おのおの方
 私、しばらく地下潜行します。

 今日も本屋さんから原稿の進捗状況確認の電話が掛かって参りまして、マジ、シャレにならなくなって来てしまいました。

 ブログだけは、なんとか続けるつもりですので、すいまんせんが、よろしくお願い申し上げます。

433水戸御史太夫:2007/11/23(金) 00:18:56
結城2題
結城市民文化センターアクロスでは12月2日に市民劇「結城合戦物語」を上演するそうです。http://www.mmjp.or.jp/yuki-across/

茨城県立歴史館では来年1月20日まで「信長・秀吉・家康と結城水野家」を開催します。
水野家は家康の生母伝通院の実家であり、近世では結城に1万石を領しました。天下人の文書を中心に展示します。信長の「天下布武」など、この3名の文書をまとめてみる機会はそうないと思います。ぜひお越しください。予算の関係で図録はありません。
http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/

434NAO4@吟遊詩人:2007/11/23(金) 04:26:04
水野家
>水戸御史太夫さま
ご無沙汰いたしております。「結城2題」ご案内ありがとうございました。
水野家というと、天保の改革の「水野忠邦」を連想してしまい、しかも墓が、結城市山川にあるので、結城藩水野家と水野忠邦を結び付けてしまうのですが、同祖とはいえ、水野忠邦の唐津藩水野家の旧領「山川藩」が、たまたま結城藩と隣接していたということなのでしょうね。

435筆綾丸:2007/11/23(金) 20:53:39
歌舞伎
NAO4@吟遊詩人さま
幡随院長兵衛と大立回りを演じた、おおうつけのカブキ者水野十郎左衛門は、たしか、
水野日向守勝成の孫でしたね。
歌舞伎で思い出しましたが、成田山と関係の深い成田屋は将門の敵になりますから、
平将門が歌舞伎になることはあり得ず、市川団十郎が将門を演ずることは、日本史上、
永遠のタブーなのでしょうね。菅原道真くらいなら、人畜無害ですが(笑)。


釈由美子が好きさん
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0206258400
この本で、以仁王の件りを立ち読みしましたら、福原の話がありました。
福原は高麗人が風水思想に基づいて計画した都で、清盛の別荘は風水で云う明堂だ、
と。著者は、『高倉院厳島御幸記』の文言を傍証の一つにしてますが、歴史はその
ように見れば、そのように見えてしまうものだ、という好例かと思われました。

436NAO4@吟遊詩人:2007/11/24(土) 06:14:41
幡随院と藤沢
>筆綾丸さま
「幡随院」と言うと、「幡随院長兵衛」を連想し、ネットでも殆ど、長兵衛が検索に引っかかりますが、元はといえば、浄土宗の幡随院の側に長兵衛が住んでいたために、こういう名前になったわけですよね。

ところで、幡随院の開基であります「幡随意」上人は、現在の藤沢市(注)の生まれでして、藤沢市善行に生誕地「幡随院」がございます。個人宅だそうなのですが、どこから見ても立派なお寺の格好をいたしておりまして、とても不思議なのです。この敷地内に、上人の産井があるそうですが、公開はされていません。最初写真を載せようと思ったのですが、個人宅なので、控えようと思います。

恐らく、↑のネタは筆綾丸さまも、藤沢に所縁のある井上さまも、ローカルすぎて知らないのではないかと思い載せて見ました。
http://press.jodo.or.jp/newspaper/1990/199002_276_4.pdf

>水野十郎左衛門
系図でどういう位置にあったのか意識していなかったのですが、改めて調べて見ると、おっしゃる通り、水野日向守勝成の孫のようです。勝成自身豪傑で、問題児だったようで、十郎左衛門は、その血を引いて泰平の世に適合できなかったのでしょうか。

>成田屋
なるほど、そういうことになりますか。
私の故郷では、将門を敬ってなのか、祟りを恐れてなのか、成田山に参拝しないという家が結構あるそうです。

(注)「藤沢」というより、かつては、藤沢近郊の「相模国善行寺村」なのでしょうが。

437NAO4@琵琶法師:2007/11/25(日) 09:22:44
「博物館」と「講座」セットで
連続投稿お許しください。

昨日は、第6回史料講読講座でしたが、講座の開かれる「小岩」が、企画展「関東戦乱」が開催されている「葛飾区郷土と天文の博物館」に近いので、両方楽しんでしまおうと、目論見まして、上手くいきました。

●企画展「関東戦乱」
文書といい出土品といい充実した展示でした。博物館の予算がよほどあるのか、考古学ボランティアの層がよほど厚いのかといった印象です。
低地の城なので、木製品の出土物がしっかり残っているのが、珍しいところでしょうか。
井上様の「義氏くん」もしっかり活躍しておりました。

博物館もさることながら、最初に興味を持ったのは、最寄り駅の京成「お花茶屋」駅から、博物館までの道が、下町には異様に広くまっすぐだった点でして、「何かの跡であろう」と思いながら進んでいきますと、道路の一部が親水公園という公園になっておりまして、説明書きがありました。元々は「曳舟川」という水路だったようで、納得いたしました。

●史料講読講座
第6回となりますが、実躬卿記に記録された「御教書」を題材にいたしました。細川さんの学説の「『嘉元の乱』の真相」を拝聴できて、うれしいやら楽しいやらでした。

京成「お花茶屋」から、JR「小岩」方面にどうやって抜けようかと思いましたが、京成「小岩」から、JR「小岩」行きのバスに乗り、途中で降りて、小岩区民館へ行きました。見慣れない道なので、よく分からなかったのですが、下町のおばちゃんは親切で、途中まで案内してくださいました。ありがとうございました。

余談ですが
・私のHNが日本史に合わないとのご指摘もあり、「琵琶法師」使って見ました。
 他板さんの都合もあるので、今日だけの限定版でございます。
・昼食は、顔見知りの方に目撃されないよう「お花茶屋」駅前の松屋で「牛飯]セットで!

438筆綾丸:2007/11/25(日) 20:19:25
鯰と鞭
琵琶法師さま
浄土宗新聞の記事を読みながら、慶長期に九州の基督教徒達が浄土宗に帰依したの
なら、寛永期の島原天草の乱はどのように説明するのだろう、と疑問に思いました。
有馬ミゲル直純は、ころびバテレンで有名な人ですね。背教者伴夢が、キリシタンと
どう付き合ったのか、気になりました。
神田山新知恩寺裏長屋在幡随院長兵衛は根っからの浄土宗門徒で、対するに、やぶ
にらみの旗本退屈男水野十郎左衛門成之はニヒルな無神論者で、気に入らねえな、
野郎の仏心に焼入れてやるか、となったのかもしれませんね(笑)。

http://nifty.bk1.jp/product/02942985
この本に、秀吉が城普請の前田玄以に宛てた消息があり、これが、地震と鯰を結び
つけた最古の史料だそうです(同書89頁)。
「ふしみのふしんなまつ大事にて候まま・・・」
伏見の城普請は鯰に留意すること・・・文意がやや不明ですが、興味深い消息ですね。

本日の大河ドラマでは、忍城主の成田氏が、この無礼者め、とガクト謙信に鞭でひっぱ
たかれてました。

439NAO4@琵琶法師:2007/11/26(月) 05:23:14
成田氏
>忍城主の成田氏が、この無礼者め、とガクト謙信に鞭でひっぱたかれてました。

どなたかフォローしてくださることを期待しつつ。
成田長泰が上杉政虎(謙信)に打ち据えられた話は、『関八州古戦録』に載っている話だそうで有名な話なのでしょうが、「成田氏が八幡太郎義家にも下馬の礼を取らなかった。」ということで、どれほどの名門なのかと思ってしまいました。http://www.digistats.net/clan/na/narita2.htm

ネット検索では、藤原北家基忠流とあります。源義家の生年は、1036年〜1106年、藤原基忠の生年は、1056年〜1098年で、ほぼ同年代であり、成田氏が成立しているとは思えないのですが、あるいは、基忠と義家の関係を下馬の礼を取らないことを許されたとしているのでしょうかね。

440kari:2007/11/26(月) 16:13:50
再掲させてください。
就実大学 史学会主催 公開講演会

日時:平成19年12月1日(土) 14:00〜
場所:就実大学 T館611教室(〒703−8516 岡山市西川原1−6−1)
講師:西山 克 氏(関西学院大学教授)
演題:「怪異学の誕生 ― 妖怪・怪異・予兆」

入場無料。 詳細は http://www.shujitsu.ac.jp/web/department/cultural/history/kouen0411.html
へアクセスしてください。

同日ですが、以下のようなご案内を頂いております。

説話文学会・仏教文学会 合同例会

12月1日(土)14:00〜 於 甲南大学5号館21教室

プログラム
1、シンポジウム「説話と意匠」
「三角五輪塔の起源 ―重源創案説を問い直す―」
               奈良国立博物館 内藤栄 氏
「中世〜江戸初期の扇絵と絵物語から」
               学習院女子大学 徳田和夫 氏

2、講演  16:00〜
「宇治拾遺物語の問題性」
               早稲田大学    小林保治 氏
※参加無料。
http://www.konan-u.ac.jp/frame/access_index.html

441はぎつきみたえ:2007/11/26(月) 16:53:22
親鸞にふられました。
 こちらで以前話題になった、築地本願寺境内の「カフェ・ド・シンラン」。
 本日、開店時間に合わせ、行ってまいりました。

 …が、「今日は14:00からの開店になります。」
 何で今日に限って!!
 今からここで約2時間30分もつぶせない!
 泣く泣く帰ってまいりました。
 日祝がお休みだというのは抑えてたんだけどなあ。
 リベンジしたいけど、往復の交通費を考えるとちょっと二の足を踏みます。

 築地本願寺にははじめていったのですが、本堂が大きくて教会みたいなところでした。
 自由に出入りできるのがうれしい。
 いすに座ってぼ〜っとしているのが心地よかったです。

 で、12月15日、こちら築地本願寺で「TOKYO BOUZ COLLECTION」というのが行われるそうです。
 個人的には「東京ボーズコレクション法要 世界の平和を願う」が気になります。
 「日本仏教を代表する宗派が一堂に集結。特徴ある袈裟や衣を間近に披露し、ご自慢の声明を聞かせ…」
 私は予定がほかにあるのでいけないのですが、声明に興味のある方、いかがでしょうか。
 面白そうですね。

 http://www.jbf.ne.jp/2007/12/tokyo_bouz_collection.html

442筆綾丸:2007/11/27(火) 20:25:01
御教書
釈由美子が好きさん
お忙しいところ、恐縮ですが(ブログに書くべきかもしれませぬが)。

駿河守宗方、依有陰謀之企、今日∧午/刻∨被誅了(中略)仍執達如件
 嘉元三年五月四日   相模守判
遠江守殿
越後守殿

この御教書は、直前に連署の時村が殺されたため、執権の単独署名となったもので
あり、御教書は、本来、執権と連署の両名で出すものであるから、これは珍しい例
といえる。しかも、連署すべき連署が地の文の謀反人に殺害されたがゆえに連署で
きなかった、という意味においても、非常に珍しい単独署名の御教書であって、
物騒な鎌倉時代においても、とりわけ珍重すべき一品である。・・・こんな解釈で
よろしいですか?
同様の御教書は鎮西探題(並びに長門探題)にも、同日付で直接通知されたはずで、
執達を一旦受理した六波羅探題が、両探題名で同じ内容を間接的に通知したのでは
ないだろう、と解してよろしいですか。
両探題は南方より北方が格上だから名宛人の位置は北方が前にくる、これとパラレル
に、執権と連署の署名は執権が前にくる、というのが鎌倉期の書式のようですが、
江戸期では前後が逆転する、つまり、老中連署の場合、格上の老中は後にきて、これ
とパラレルに、名宛人が複数の場合は、格上の者が後にくる、という書式になるよう
に思われます。
公用書において格式の上下は重要ですが、鎌倉期と江戸期で、なぜ前後の逆転が起き
たのか、下克上思潮の射影のように、それは室町時代のいずれかの時期に発生したも
のであろうか、という疑問を覚えました。
六波羅探題について、鎌倉の職制に倣い、執権と連署に準ずる者を探題の中に同時に
設置すれば済むと思いますが、北方と南方というと、あたかも別個の機関のような趣
があるものの、これは単に名称の問題にすぎず、北方が執権に準じ、南方が連署に準
ずる、したがって、両者連名でないと、六波羅の執達は有効にならない、どちらか
一方だけの執達は通常ありえない、と解すればよろしいですか。
承久の変後の朝廷対策を考えますと、内裏と仙洞の相対的な位置関係から(?)、
北方は主として天皇に、南方は主として上皇に、それぞれ対応するものとして律儀に
設置された、そして、こんな律儀なことを考えたのは几帳面な義時だったにちがい
ない、というようなことはないでしょうか(笑)。
嘉元の乱と云い、平禅門の乱と云い、ともに大地震後のクーデタ(と云うより、
逆クーデタと云うべきか)だというところが、妙に気になりますね。鯰が地震の原因
で、地震が乱の原因とすれば、三段論法により(?)、乱の原因は鯰である、と言え
なくもないですね。鯰と地震の正の相関について、鎌倉時代は、まだ発見できなかっ
たようですけれども。

443釈由美子が好き:2007/11/28(水) 07:27:24
>筆綾丸さん
 すいません。ボチボチ、ブログに書きやす。

444中世初心者:2007/11/28(水) 12:30:19
「真慈悲寺」シンポジウム
以前、日野市の「幻の真慈悲寺を追う」展を紹介させて頂きました。
その時に「鈴木小太郎さん」からシンポジウムの詳細がわかったら教えてとの事でしたので投稿します。
また、「NAO4@吟遊詩人」は見に行かれたそうですね。感想文拝見しました。

さて、シンポジウムの件ですが、下記のようです。
参加者の応募状況はわかりません。
なお、この日は展示の最終日ですので、シンポを聞いてから展示を見るのは無理と思います。
【概要】
日時 12月16日(日) 午前10時から午後4時
場所 日野市役所 5F505会議室
定員 先着100名
申込先 日野市郷土資料館 042-592-0981
資料代 (予価)1,000〜1,500円
研究報告
・「真慈悲寺」の地理的・歴史的環境 渋江芳浩(あきる野市文化財保護審議会委員)
・「幻の真慈悲寺」調査事業プロジェクト 小黒恵子(日野市郷土資料館)
・関東御祈祷所について 今野慶信(新宿歴史博物館)
・経筒と瓦から見た真慈悲寺 深澤靖幸(府中市郷土の森博物館)
・真慈悲寺を巡る丘陵地の遺跡について 斎藤進(東京都埋蔵文化財センター)
・地域の中の中世寺院 斎藤慎一(江戸東京博物館)
コメンテーター  峰岸純夫(都立大学名誉教授)

以上です。

445うさたろう:2007/11/28(水) 23:15:41
鎌倉遺文研究会延期
みなさまご無沙汰しています、うさたろうです。
さて標題の件ですが、鎌倉遺文研究会の次の例会は予定が変更になり、
12月8日(木)の18時から、会場は早稲田大学文学部第2研究棟
第7会議室となったそうです。

報告の詳細は以下の通りです。
報告者:児嶋貴行氏
題目:「代銭納制のメカニズムの再検討」
 [報告者の一言]
 代銭納制のメカニズムは佐々木銀彌氏の研究によって明らかにされている部分が多く
、貨幣史研究等でも参照されているが、その成立の背景や条件を改めて検討すると、ま
だ研究の余地が残されている。事例の再検討を通じて、メカニズム解明の手がかりを得
たいと考えている。

以上、ご連絡と告知でした。

446NAO4@吟遊詩人:2007/11/29(木) 03:00:45
でしゃばってしまいますが
>筆綾丸さま
>実躬卿記
文書の書式もさることながら、「凡珍事珍事」と書かれている「時村暗殺→首謀者宗方の誅伐」の図式の裏に、「得宗家 対 北条庶家」を読み取り、貞時首謀者説を組み立てた細川さんの学説「嘉元の乱」が、面白いのでございます。

結論急いでしまいました。皆様、編集長ブログをどうぞ。

>中世初心者さま
その節は、「幻の真慈悲寺を追う」展ご案内くださりありがとうございました。結構楽しませていただきました。京王百草園にも、いずれ寄らせていただこうかと思っております。

447中世初心者:2007/11/29(木) 14:56:58
百草園
NAO4@吟遊詩人さま
百草園も是非おいで下さい。
梅の名所ですのでその頃が一番と思います。
それから、昨年の梅がとうに散ったあと、おそらく四月下旬頃だと思いますが、真慈悲寺プロジェクトが現地ガイドをやってました。
私は参加してないので状況がわかりませんが、確か、来年もやると聞いたような……。
お詫び;先の投稿で「NAO4@吟遊詩人」さまを呼び捨てにしてることに気づきました。ごめんなさい。

448筆綾丸:2007/11/29(木) 20:02:32
Nacht der langen Messer(長いナイフの夜)
NAO4@吟遊詩人さま
レーム粛清を題材にしたルキノ・ヴィスコンティの「La caduta degli dei(邦訳名:
地獄に堕ちた勇者ども)」を思い出しました。貞時がヒトラーで、時村がレーム、と
いう構図になりますか。

中村直勝『日本古文書学 上』では、親王又は内親王が下達する文書に「教」というもの
が中国にあり、御教書は中国の制度を取り入れて摂関家が初めて用いたもので、後冷泉
天皇の治暦期における関白頼通のものを最古の例として挙げています。
また、江戸期のものですが、聖護院門跡御教書もあります(491頁)。

 ・・・依聖護院御気色、執達如件
     慶長三年十二月五日  法眼(花押)
                僧都(花押)

僧官(僧正、僧都、律師)と僧位(法印、法眼、法橋)の相互関係も、面倒臭そうで
すね。

以下は蛇足です。

直勝さんは、院宣、女院令旨、御教書、長者宣などを準公用文書に分類し、広義門院令旨
を例示したあとで、
「法理上、広義門院は女院であって上皇ではないから、院宣の出せるわけはない。その
非法を敢てして足利尊氏は後光厳天皇を擁立したのであった。古文書等には関係のない話
ではない。院宣の出せない身分が、出した院宣は無効である。古文書学上からもこの挙は
断然排斥すべきであり、後光厳天皇以下の北朝は、たしかに偽朝である。古文書学の権威
が如何に大きいか。一例として併叙したのである」(455頁)
と憤慨してます(笑)。
院宣ですら、遡及すれば、私的要素が強いもので、院政の確立と軌を一にして権威(オト
リテ)を帯びたにすぎず、要するに、継続すれば有効になるというだけのことですね。
古文書学の権威(オトリテ)の問題ではない、と思いました。

「織田信長が”藤吉郎女どもへ”宛てた消息は、完全に私文書であり、私事であるに拘
らず、”天下布武”の朱印が押してある。だから、形式上の異法であるからと言って、
それを偽文書であるとして、片附けるわけには行かぬ」(548頁)
禿鼠の浮気など悋気せずともよい、と諭す手紙に「天下布武」の朱印を捺すのは、天才
ならではの独創ですが(笑)、氏の如くしかつめらしく考えず、これは Sophisticated
な駄洒落の如きものだ、と解すればいい。

449相国入道:2007/11/30(金) 00:43:27
先日八千代町に行ってまいりました。
>NAO4@吟遊詩人 さま

 私も先日、八千代町の「平将門と八千代地方」行ってまいりました。思った以上に平将門の乱の、遺跡の紹介・出土遺物の展示など従来知られていなかったものまで紹介されていました。新たな発見がたくさんあり、もう一度行ってみたくなりました。
 それから、先日NAO4@吟遊詩人 さまからご紹介されました。桜川市歴史民俗資料館(旧真壁町)の企画展も併せて見学してまいりました。『加茂部文書』は、永享12年簗田景助書状は、結城合戦の源安王丸(足利持氏遺児)挙兵に関するもので、その原文書が展示されていました。どれも必見のもので、NAO4@吟遊詩人さまのみならず皆様も是非いらしてください。
期間は、両館とも12月16日までです。(休館は月曜日です)開館時間は、9時から5時まで。
 それから、NAO4@吟遊詩人 さま、このHNが、日本史にあわないとの、ご指摘を受けて琵琶法師さんと改めておられましたが、吟遊詩人も琵琶法師も、私は同一のものと考えています。はるか昔ですが、吟遊詩人を研究していたヨーロッパの方が、もうすたれてしまった吟遊詩人の詩を復元するために、琵琶法師の演奏を参考にしようと、わざわざヨーロッパ(確かギリシャだったと思いますが)に琵琶法師を呼んで「平家物語」を演奏してもらったというニュースを見たことがありました。ですから吟遊詩人というHNが日本史にあわないとは、私はとても思えないのですが。
 それから、下妻城のご教示ありがとうございました。あの周辺の城郭は地形を生かしたつくりになっているのが多いのですね。やはり現地に行って確認することが以下に大事かということ再確認しました。

 >企画展のお知らせと図録のお知らせ
 ?企画展のお知らせです。埼玉県ふじみ野市の市立大井郷土資料館で
 「中世のムラ」という企画展を開催しているそうです。
 期間は12月9日(日)までです。図録が200円で販売されているそうなので、期間がありますので、皆さんも是非参加してください。
 連絡先は049―263−3111です。休館は月曜日です。時間は9時から18時まで

 ?1市3町合併記念 『新市誕生・指定文化財展』
  期間12月9日(日)まで月曜日が休館。12月7日も休館
  場所は、埼玉県熊谷市立文化センター 3階美術展示室。ここに、熊谷市立熊谷図書館が入っています。時間が9時から17時までです。
 そこで、注目なのは熊谷市の民家から、『足利尊氏御判御教書』が発見されその文書が展示されていますので、お知らせします。文書の全文は
 「永福寺雑掌申、武蔵国、春原庄内平塚郷事、早任寄附之旨、
  沙汰付下地於彼雑掌、可被執進請取之状、如件、
   観応3年7月28日  (花押)足利尊氏
  仁木修理亮殿               」
 とあります。その文書はその後個人から、熊谷市に寄贈されたそうです。
 同時に、成田氏の事跡を記した「成田記」も展示されていますのであわせてお知らせいたします。
 それから、終わってしまった企画展を紹介してしまって申しわけありませんが、先日まで、埼玉県の朝霞市博物館で、「もんじょ」と「ぶんしょ」古文書解読と記録保存という企画展を開催していました。その図録で埼玉県立文書館に所蔵されています。『安保文書』(あぼもんじょ)が全点カラー写真で集録されています。定価は1000円です。    朝霞市博物館にあるはすでので、048―469−2285に問い合わせてください。

 >うさたろうさん
 鎌倉遺文研究会の開催日は、12月8日ではなくて、12月6日(木)ではなかったでしょうか。それから、発表者は小嶋貴行氏ではないでしょうか。間違っていたらすみません。

450NAO4@吟遊詩人:2007/11/30(金) 03:36:11
簡単なレスで申し訳ありません。
>相国入道さま
>桜川市歴史民俗資料館(旧真壁町)の企画展
状況お話いただきありがとうございました。何とか時間を作って行ってみたいと思います。

>HNが、日本史にあわないとの、ご指摘
ご心配いただきありがとうございました。「琵琶法師」は1日限定ですので、面白いことは面白いのですが、旧に復しております。

>筆綾丸さま
>貞時がヒトラーで、時村がレーム
「嘉元の乱」で、貞時は「へたれた」という表現を細川さんはされておられました。まあ、徹底的に北条庶家を潰すのではなく、抗争の過程で腰砕けになり、宗方に責任を押し付けて逃げてしまったということのようです。

>私事であるに拘らず、”天下布武”の朱印が押してある。
そうだったのですか。この書状は有名ですが、面白いですね。

>中世初心者さま
>百草園も是非おいで下さい。
>梅の名所
なかなか、ゆったり過ごせそうで、よさそうですね。

451筆綾丸:2007/11/30(金) 22:01:43
御筆様
NAO4@吟遊詩人さま
中村直勝『日本古文書学 中』に、おどろいたことに、「伊勢内宮周清上人願文」があり
ました(218頁〜)。
ある観世音菩薩座像の胎内文書として、秀頼自筆の六字名号(南無阿弥陀仏)と一緒に、
この願文が出てきた。千姫(秀忠娘・秀頼室)は、大坂城落城後、桑名藩主本多忠刻に
再嫁し、慶光院周清上人の知遇を得た。忠刻の姫路転封に伴い、播磨姫と呼ばれたが、
産む児産む児、悉く夭折するので、占ってもらうと、秀頼の祟りと知れた。播磨姫
あわれ、と願いを容れて、上人は願文を奉納した。能筆の長文ですが、一部、釈文を
引用しますと。

・・・我等屋敷に、秀頼様を、斎ゐ置かせられ、御神体には、御筆様を籠め申候、末代、
我等寺の御座候うちは、代々申置、御神体と崇がまへ申候へく候・・・
   けんな九年の九月きちにち いせないくうしゆせい上人 (黒印)
  ひてよりさまへの御くわんしゆ(願書)

慶光院というお寺の御神体は、元和九年以後は、御筆様(秀頼自筆の六字名号)だった、
ということになるのですね。おどろきました。
この願文を読むと、慶光院は千姫の縁で徳川家と深い関係になったのかもしれませんね。
邸内に秀頼を斎き祀り、御神体を御筆様としたのですから、家光に見初められた剃髪の
佳人も、さぞや、複雑な心境だったでしょうね。
不謹慎な言い方になりますが、幽冥境を異にする秀頼様を、そこはかとなく裏切るよう
な、なんかこう、嫌な嫌な佳い感じ・・・perversion はひとり家光だけのものではな
かったのである(笑)。
御筆様の筆跡をみますと、決して能筆ではないものの、これが自裁直前のものかと思う
と、心なしかふるえているようで、なんだか哀れですが、さはさりながら、南無阿弥陀
仏とあるからには、秀頼の信仰は浄土宗系だった、と解していいのでしょうね。

追伸:書き込みの後に、広告が勝手に入ってしまい、削除できません。解決方法教えて
ください。

452NAO4@吟遊詩人:2007/12/01(土) 09:10:18
Re:御筆様
>筆綾丸さま
>「伊勢内宮周清上人願文」
面白いお話ありがとうございました。徳川家と慶光院の関係は、千姫に遡るのですね。
姫路城に、千姫化粧櫓というのがあるので、本多家に嫁いだことは知っていたのですが、桑名時代があったのですね。

秀頼自筆文が、御筆様として残っているのも面白いお話です。

追伸:恐らく、広告はブログのように、最初の投稿文のみではないでしょうか。ちょっとやってみますね。

453筆綾丸:2007/12/01(土) 20:08:50
黒印状
NAO4@吟遊詩人さま
奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 下巻」(吉川弘文館)を眺めていると、また驚い
たことに、「伊勢慶光院黒印状」がありました(729頁〜)。原文は漢文で、尼寺宛にし
ては異様な感じがしますが、釈文を全文、引用しますと。

今度東国在陣に就きて、祈祷の祓の太麻ならびに熨斗鮑三折到来、遠路の懇情喜び入り
候、将亦、造営の山口祭の事執行せしむるの旨、先ず以って然るべく候、作事の趣、
かれこれ平井弓右衛門尉申すべく候也、
  (天正十年)四月十五日                信長(黒印)
(宛所欠く)

注釈は以下の通り。
祈祷の祓は慶光院が伊勢神宮で祓に用いる玉串。太麻は伊勢神宮で捧げる神符。あわびの
肉を薄くむき、のばして干したものが熨斗鮑。古くは食用としたが、後には儀式の肴や
進物の添えものなどにした。慶光院清順尼の努力によって戦国時代の伊勢大神宮(皇大
神宮・豊受大神宮)の遷宮が行なわれた。永禄六年(1563)の外宮(豊受大神宮)の正
遷宮、また天正十年信長の寄進による皇大神宮の正遷宮は、清順尼の勧進などの功によ
ることが多大である。信長が山口祭の執行されて結構だといったのはこの理由による。

信長が武田氏を滅ぼして安土に凱旋するのは、天正10年4月21日ですから、慶光院は、
武田氏の滅亡を祝して、間髪を入れず、信長の武運長久を賀したのでしょうが、清順
という尼さんは、なかなかの政治家です。慶光院は信長の父信秀の代からも、織田家
と関係があるようですけれども。
慶光院主の政治的な運動を考えますと、千姫の場合も、純粋な信仰心から出たものでは
なかったろう、という気がします。奇貨置くべし、つまり、これで徳川家との絆を強固
にできる、という打算があったのではないか。
お万の方が家光に見染められて「生贄」になった時、慶光院としては、いやさか、弥栄、
これで我が寺も安泰でおます、と言祝いだような気がしますね(笑)。
この黒印状のすぐ後、信長は死にますが、訃音に接して、慶光院主がどのような顔をし
たのか、目に見えるようです。

広告は仕方ないのですね。

454相国入道:2007/12/20(木) 00:20:49
昨日は
>皆さんこんばんは、

 本日は、葛飾区立天文博物館で「葛西城と古河公方足利義氏」のシンポジュウムに行ってまいりました。本日は200人を越える聴衆で立錐の余地がなかったです。
 その中で、佐藤博信氏の講演「古河公方足利義氏と東国」の中で、従来検討の要アリとされてきました文書が、実は芳春院殿(足利義氏の母で北条氏康の妹)文書ではないかという提起がありました。
                (通)
 文書は、「諸役之事、此者無相違可透也、仍如件

      葛西様
      (印文 日本王天下光)
      弘治4年2月18日

     福田小次郎」 『戦国遺文古河公方編』825号文書。

 この文書は、茨城県古河市の『福田文書』に所収されているもので、従来は印文が、不明ということから、検討の要ありとしていた文書だったそうです。

 しかし、『簗田文書』の原文書が発見され、芳春院殿契状『戦国遺文古河公方編』1259号文書の印文が「日本王天下光」と記載されていることから、『福田文書』は、検討の要ありではないという発表をされていました。
 佐藤氏のみならず、長塚氏・黒田氏・平野氏の発表も参考になるものばかりで、本当に充実したものでした。明日も参加したかったのですが、仕事の関係でおうかがいすることが出来ずに本当に残念です。今度記録として刊行されると思いますのでそれを参照できればと考えています。

>NAO4@吟遊詩人 さま

 お詫びとお知らせがあります。

 お詫びですが、11月30日の書き込みで、NAO4@吟遊詩人さまを呼び捨てに書いてしまった場所がありました。後で確認してわかったのですが、呼び捨てにしてしまい本当にすみませんでした。該当の部分は訂正しておきます。

 お知らせは、先日書き込みました。ふじみ野市立大川郷土資料館の企画展『中世のムラ』見学してまいりました。八千代町の歴史民俗資料館同様に、コンパクトにまとめてあり地元の、資料を駆使して紹介しているところが本当によかったです。
 場所ですが、東武東上線ふじみ野駅から、循環バスが出ています。大川総合庁舎前で下車してください。郷土資料館というよりは、図書館はどこですがと聞かれると、図書館の中に入っていますので、そのほうがわかりやすかったです。

 昨日・一昨日と連休でしたので、一昨日は、ふじみ野市の企画展を見学した後に、江戸東京博物館の『江戸博カルチャー』家永遵嗣氏の「北条早雲の時代」を聴講し、昨日は葛飾のシンポの前に日野市の「幻の真慈悲寺を追う」の企画展を見学してまいりました。どれも、充実したもので本当によかったです。

 >中世初心者さま

 はじめまして、昨日は、「幻の真慈悲寺を追う」見学させていただきました。本当に充実した展示内容で本当によかったです。12月16日のシンポジュウムのご案内ありがとうございます。その日は、仕事の関係でお伺いすることができず本当に残念です。ご成功お祈り申し上げます。

455NAO4@吟遊詩人:2007/12/20(木) 09:51:36
CD−ROM
>筆綾丸さま
>清順という尼さんは、なかなかの政治家です。
そうですね。この頃の伊勢神宮がどのような立場にあったのか(為政者にとって、どのような意味のある神社であったのか)近世・近代の位置をもって推し量るのは危険だと思いつつ、中央政局と巧みに関わりあっていたということでしょうか。

まあ、とにかく古文書とは面白いものなのですね。

細かいことですが、この文献に出てくる「平井弓右衛門尉」って弓衆かもしれませんね。
もしかしたら、六角氏の重臣で娘を浅井長政に嫁がせたという平井氏と関係あるのだろうかと勝手に推測しました。

慶光院文書については、↓のHPを見つけました。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/22/saiho_keihikarin%20monjo.htm


>相国入道さま
なかなか精力的に展示会やらシンポジウム回られているようですね。中世の考古学としては、朝倉氏の一乗谷遺跡に匹敵するような調査であったとか。一乗谷は史跡公園として素晴らしかった(十数年前ですが)ので、であるなら、発掘跡地をみても面白いかもと思っています。今度史料講読講座の前時間に、葛西城周辺へ行ってみようかと思っています。


●CD−ROMの中身
第六回史料講読講座の帰りに、一緒に勉強させていただいている方から
「先日、行った企画展「関東戦乱」で、図録と一緒についてきたCD−ROMの中身は何?」と聞かれていたのですが、やはり史料でした。写真ではなく活字になったものです。ファイルメーカーで作られており、使いやすそうです。製作者に中前勉の方々のお名前がたくさん並んでいます。1500円の図録についているので、これだけの情報量を何と格安なお値段でいただけるのでしょうかと思った次第です。ただ、アマチュアの場合、どう生かすかですが。

456筆綾丸:2007/12/21(金) 05:31:00
慶光院シューマン
NAO4@吟遊詩人さま
慶光院の歴代院主は、
? 守悦
? 寶山智珪
? 清順
? 周養
? 周清
○「お萬の方」(永光院)
? 周賢
? 周長
? 周貞
? 周榮
? 周香
? 周奧
? 周億
? 周恭
? 周昌
とのことですが、四代目以後の通字「周」が気になりました。
相国寺は、義堂周信をはじめ、周麟、周鳳・・・というように「周」を継ぐ僧が一杯い
ますが、慶光院は四代目から臨済宗になったのではないか、と思いました。
もしかすると、お萬の方は「周萬」と言い、周清を「しゅせい」と訓じたように、
「しゅまん」と訓じたのではなかったか(笑)。
ちなみに、浪漫派音楽の巨匠ロベルト・シューマンの妻の名はクララでしたね。

平井弓右衛門尉についての注釈はありませんが、可能性は高いですね。

ほぼ同時期の信長黒印状から、信長に祝儀を贈った面々を列挙しますと。
? 京都上京中・・・革袖物十
? 山城醍醐寺理性院・・・巻数・ゆがけ二具
? 真田昌幸・・・馬一疋黒葦毛
? 山城青蓮院尊朝法親王・・・扇子
? 伊勢外宮神主中・・・御祓一万度・熨斗三拾把
? 本願寺・・・太刀一腰・銀子三百両・端午帷五・肩衣袴
? 山城三千院最胤法親王・・・不明
なんだか、涙ぐましいばかりの御祝儀です。過去の経緯があるせいか、本願寺は気張っ
てますが、青蓮院の扇子は、抑制が効いていて、お洒落ですね。
残存史料の制約がありますから、なんとも言えませぬが、伊勢の内宮が信長の為に御祓
を十万度した、というようなことは、まさか、なかったのでしょうね。

457NAO4@吟遊詩人:2007/12/03(月) 03:05:04
勝手に留守番
>筆綾丸さま
>慶光院は四代目から臨済宗になったのではないか、と思いました。
ネットで調べて見たのですが、その形跡はありませんでした。3代清順が臨済宗の尼といった記述はあるので、初めから臨済宗なのかもしれませんね。

>もしかすると、お萬の方は「周萬」と言い、
お見事でございます。(笑い)

>奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 下巻」(吉川弘文館)
これまた、面白そうな本ですね。

>青蓮院の扇子
本当に涙ぐましいです。

ところで、前の投稿に書こうとしたのですが、確証がつかめず、削除してしまったのですが、「慶光院」の建物(現在は祭主職舎)は、豊臣秀吉が造らせたそうです。(伊勢神宮 所功著、講談社学術文庫 p146〜147)

●気になっていた展示
歴史読本1月号に次の記事があり、気になっております。

「島津氏一門家の雅と由緒」
期間:開催中〜平成20年2月3日
場所:鹿児島県歴史資料センター 黎明館
これは、第一回史料講読講座で教材にした「越前島津家」と関わりのある展示のようです。
紹介文に、
重富(越前)島津家が拠り所とした中世に断絶したとされる越前島津家(島津氏初祖忠久の二男家)の歴史と由緒、近世の越前島津家の再興をめぐる動き・・・・

でも、ちょっと遠い!

458筆綾丸:2007/12/03(月) 09:39:10
女房奉書の木瓜紋の留袖?
NAO4@吟遊詩人さま
臨済宗相国寺派で足利将軍家と関係が深い、というようなことでしょうか。
こういう方面では、秀吉は信長の政治理念の律儀な継承者なのでしょうね。

『増訂織田信長文書の研究』は面白いです。
上巻口絵に信長制札があり、これは信長の古文書第一号で16歳の時のもの、藤原信長
という署名になっています。この制札は、第二次大戦の空襲で焼失したそうですが、
花押は足利氏の武家様花押で、ひどく平凡なものです。16歳の頃は、まだ唯の真面目
な秀才という感じです(笑)。

信長が義昭に異見した、有名な17ヶ条の最後の一条に驚きました(上巻575頁)。

諸事に付きて、御欲にふけられ候儀、理非にも外聞にも立ち入らざるの由、其聞え候、
然らば不思議の土民百姓にいたる迄もあしき御所と申しなし候由に候、普広院殿様を
左様に申たると伝え承り候、それは各別に候、何故御かげ事を申候哉、是を以つて御
分別参るべく候哉の事

おまえは欲深で、道理も外聞もあったものではなく、悪しき御所と仄聞する。普広院も
悪しき御所と言われたと聞くが、同じようなものだ。なぜ、そんな陰口をたたかれるの
か、よく反省したらどうか。

普広院は義教のことなんですね。これはたぶん、言うことを聞かなければ、義教のよう
な死に様になるぜ、という恫喝であって、なかなか凄味がありますね。

下巻に、「三条西実枝宛正親町天皇女房奉書」というのがあります(253頁)。

神泉苑を東寺に返還するようにと信長に言われた(たたいま右大将とのより、もとのこと
く東寺へ返しつけられ候)ので、このよし心得よ、三てう大納言とのへ、という内容の
ものですが、驚嘆すべきことに、この料紙の袖に信長の朱印が捺されている由。
この女房奉書が宸筆なのかどうか、著者は言及されてませんが、天皇の女房奉書の袖に
朱印を捺す、などという大胆不敵なことをしたのは、日本の歴史上、信長だけではないで
しょうか。料紙の袖は至高の空間で・・・「藤吉郎女どもへ」の朱印は料紙の奥にありま
したけれども。
「東寺神泉苑文書」としてあるそうですが、実物を見てみたいですね。

459NAO4@旅の空:2007/12/03(月) 23:03:13
伊勢におります。
>筆綾丸さま
別に調査に来たわけではないのですが、勤続20年ということで、休暇をいただき、今伊勢におります。明日、伊勢神宮と徴古館に行ってみる予定です。
慶光院と足利家の関わりですが、wikiを見る限り、そもそも中世に尼寺を認めたのは、足利家なのではないだろうかと思えるのですが。つまり、元々臨済宗か律宗しか尼寺は無かったのではと。みなさま、御批判お願いします。

460NAO4@旅の空:2007/12/04(火) 18:01:47
面白いもの見つけました。
>筆綾丸さま
今日、徴古館で、慶光院のことを聞いてみました。詳しい方は居なかったのですが、「遷宮上人??慶光院記??(浜口良光著 神社本庁長老慶光院少宮司を祝う会)なる本を見せていただきました。「周」の字の由来は書いてなかったのですが、お萬の方が慶光院門跡だというぬは、誤りだと。
家光が20代頃に慶光院門跡の継承はなかった。また、山本家と関わりのない公家の姫君がこの時期慶光院門跡を継ぐはずはないとも。
慶光院がお萬の方慶光院出という噂を知るのは、時代が下がって、周恭のときとか。お萬の方は尼だったのだろうが、慶光院とは、関わりないとのこと。当たり前だとおもっていたことが、そうでは無かったという事例です。

461筆綾丸:2007/12/04(火) 21:55:24
大奥の妄想
NAO4@旅の空さま
大変な行動力に驚嘆しております。とても興味深いお話、痛み入ります。
周恭尼となると、ほとんど幕末ですね。
剃髪にすれば美少年かと見紛うばかりのどこかの町娘を拉致してきて差し出すと、男色の
家光は錯覚して本気になった。・・・時が流れ、お万は伝説の人になり、本当の背景が
不明になった。由緒正しい尼寺の出身にちがいない、と誰かがいい、伊勢に慶光院という
尼寺があるわ、と誰かが言い、噂に尾ひれがビタビタくっついて、いつの間にか「史実」
になった、というようなことかもしれませんね。
あるいは、お万の方などという女性は、存在しなかったのかもしれませんね。

462釈由美子が好き:2007/12/04(火) 23:53:15
ちょっと浮上。
 原稿(書評)が1コ出来たので、浮上しますた。


>NAO4@旅の空さん
>勤続20年
 素晴らしい。カタギですね。
 私は今まで1度も就職したことがありません。

>伊勢神宮と徴古館
 良いですねェ〜♪


>筆綾丸さん
>大奥の妄想
 そー言えば、よしながふみ氏の『大奥』(白泉社)、3巻、いつ出るんでしょかねェ?


 では、また潜ります。すいません。ぶくぶく・・・・・・・・。

463NAO4@旅の空:2007/12/05(水) 02:34:22
追加
>筆綾丸さま、皆様
>行動力
たまたま熊野に行こうとして通りがかっただけでござます。
慶光院の話ばかりすると、中世好きの皆様を退屈させてしまうかもしれませんが、先の情報を発信してしまったので、もう少し付け加えますと、「周」の通字を含めて、慶光院に関する調査は、皇學館大学図書館か、神宮文庫で調べたらと言われましたが、そこで調べている時間がなかったので、引き上げてきました。ご興味のある方はそちらで調べられてはと思います。
さて、先の本には、慶光院と織田家、浅井家、豊臣家、徳川家の関係が書かれています。筆綾丸さまが書かれている信長の黒印状がありますので、慶光院と織田家の関係は自明ですが、清順上人の実家が近江源氏の山本家なので浅井家とも親しかったというのです。それで、お市の子である淀殿、お江与とも親しく、淀殿の慶光院宛文書が残っており、お江与も男子が授からなかったので、慶光院上人に相談して家光を授かったとか。千姫との関わり合いも、浅井家繋がりで説明できるわけです。
ただ、この辺の話になると、もう少し史料を押さえる必要があると思います。
なお、内宮までの道すがら、千姫の菩提を弔っているという寂照寺という寺を見つけました。千姫は江戸で亡くなったはずですが、経緯は調べておりません。

また、徴古館図録を見ると、件の黒印状徴古館にあるようです。常設はされてないようです。

>釈編集長さま
お疲れ様です。かたぎが良いかどうかはわかりません。
伊勢は、歴史的に興味深い国ですね。

464阿哈馬江:2007/12/05(水) 15:54:15
NAO4@旅の空さま
もっと続けてください!
お願いいたします。

ただし、明日から数日の間、インターネットに接続できない環境となりますので、後でまとめて拝見ささえていただきます。どうぞ、よろしく!

http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html

465筆綾丸:2007/12/05(水) 23:04:14
月僊
NAO4@旅の空さま
http://www.mie-kyobun.or.jp/Tayori/Rekishi/Rek021.htm
http://www.hyakugo.co.jp/mie/03/10/k03.html
寂照寺は月僊に関係があるのですね。月僊の名は、何となく知っていたのですが、まさか
千姫ゆかりのお寺とは、おどろきました。
慶光院は、時の権門とのバランス感覚が絶妙なんですね。

466うさたろう:2007/12/05(水) 23:37:44
6日でした。
>相国入道さま
鎌倉遺文研究会の日程は、ご指摘の通り6日でした。
明日ですね。
ご指摘ありがとうございます。
お名前は「児」嶋さんでよいようですよ。

467kari:2007/12/06(木) 17:58:47
こんなの載せていいのかな。
怪異・妖怪ものが多いと言われそうですが、お許しください。

就実大学考古学クラブ主催講演会
「天狗はどこから来たか?」
講師 杉原たく哉 氏
2007年12月21日(金) 午後4:40〜6:10
就実大学 A館210教室(2階) 〜入場無料〜
http://www.shujitsu.ac.jp/web/department/cultural/history/kouen0411.html

468NAO4@旅の空:2007/12/07(金) 01:59:23
三鱗
和歌山県新宮市の神倉神社近くで、たまたま立ち寄ったうどん屋で面白いもの見かけました。
神棚にかかっていた幕に三鱗紋がくっきりとあるではないですか。
北条氏と関わりのある神社でもあるのかと思い、店主に聞いたところ、京都に「巳さま」とかいう商売の神様があるとか。お稲荷さんは、狐ですが、こちらは蛇だとか。旅先なので、携帯では、この神様検索しきれないのですが。

>筆綾丸さま、Armadjanさま
お話お付き合いいただき、ありがとうございます。
慶光院ネタはもうあまりないのですが、実際に、慶光院まで行ってみました。お土産物屋が並ぶ「おはらい町」の中にあり、誰かに教えていただかないとちょっと分からないと思います。参宮案内所で聞いたら、若いお嬢さん方ちゃんとご存知でした。

469NAO4@吟遊詩人:2007/12/08(土) 00:30:01
宇賀神
↓どうも馬鹿なことを書いてしまったようです。
「巳様(みぃさま)」とは、宇賀神であり、弁財天と神仏習合した神様のようですね。
北条の「三鱗」は、時政が江ノ島弁才天に参詣した折に、龍神が残していった鱗に因んで作ったとされているので、北条家の家紋というより、弁財天の表象として先にあったと考えたほうが良いようです。
江ノ島には、三鱗紋のマークがいたるところにありますが、外国人に「このマークは何だ?」と聞かれて、「歴史的に有名なファミリーのエンブレムだ。」と以前答えたことがあり、とんでもない出鱈目を教えていたことに気がつきました。

●黒羽藩大関氏と水野家のつながり
この掲示板を読んでないと、旅先で見た↓の写真の手水鉢にも興味を持たなかったのでしょうが、新宮市の神倉神社と阿須賀神社に似たものがあります。

神倉神社の解説によると、
新宮第2代城主水野重良が、下野国那須城主大関高増の母の延命と繁栄を祈願して、寛永8年(1631年)同社に寄進したもの。大関高増のは母は水野重良の父重仲の養女で、高増の父政増の夫人。
材質は黒雲母花崗班岩で、巨大な一枚岩を刻んで仕上げている。正面に願意や年号・寄進者名・奉行名が彫られている。阿須賀神社にも同種の手水鉢が寄進されている。
とありました。

この水野家とは、紀州藩徳川家の家老になった水野家です。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003883.jpg

470筆綾丸:2007/12/08(土) 20:45:43
付家老
NAO4@吟遊詩人さま
熊野はいかがですか。むかし、新宮城の下を車で通過したことがあります。
新宮の水野氏は、尾張徳川の成瀬氏と同じく、付家老というやつですね。
石高は三万石を超え、並の大名より上にもかかわらず、あくまで家老にすぎないから、
参勤交代はなく、殿様の参勤交代につき従うだけで、江戸に(上・中・下)屋敷はなか
ったのでしょうね。
一万石未満の旗本でも、大名並に参勤交代をした交代寄合というのがいましたけれども。

471NAO4@吟遊詩人:2007/12/08(土) 23:48:59
黒羽藩大関氏関係の話 その2
>筆綾丸さま
紀州藩の付家老と言うと、新宮城主水野氏3万5千石の他に、田辺城主安藤氏3万8千石がいたようで、興味深いです。
この他に、一門家老として三浦氏1万5千石があったということです。この三浦氏、元は正木氏で、先祖は相模の三浦氏で、一族のお万が家康の側室となり、紀州頼宣、水戸頼房の生母となったことから、外戚として家老に招かれたようです。

>熊野はいかがですか。
よかったです。歴史的に興味深かったのもありますが、精神的にも癒されました。(笑)
熊野三山、新宮近辺の名所、高野山などを巡ったのですが、いつか熊野古道を巡礼したいなあとも思いました。
フランスからスペインにかけてのサンチャゴコンポステーラの巡礼路にも憧れていたのですが、日本にも十分魅力的な巡礼路はあったのでですね。
熊野本宮で、時宗の石碑を見つけました。時宗では、今でも上人の代替わりがあると、熊野本宮でその催しがあるとのこと。
時宗の念仏聖たちが、それまで貴族や皇族のものであった熊野参詣を一般民衆に広げたのですね。

●高野山で見かけたもの
高野山奥の院に続く参道の両側には、近世の大名家や、現代の資産家の墓・供養等がたくさんあります。織田家、上杉家、武田家など、よほど著名な家は、案内マップにもしっかり書いてあるのですが、それ以外は例え大名家でも、丹念に見てないと見逃してしまいそうです。それなのに、やはり何かの縁でしょうか、↓見かけてしまいました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003885.jpg

472相国入道:2007/12/09(日) 06:51:22
企画展のお知らせ
>企画展のお知らせをいたします。

 東京都東村山市立ふるさと歴史館におきまして、下記の企画展を開催していましたので、お知らせいたします。
 『正福寺展』12月16日まで
 時間9時から午後5時まで 月曜日休館
 図録400円。入館は無料です。
 この正福寺は、臨済宗のお寺でが弘安元年(1278)と北条時宗を開基として仏海禅師(石渓心月)を勧請開山、法海禅師(無象静照)を住職(実質開山)に創建されています。
 伝承によりますと、北条時宗が武蔵野に鷹狩りに行った折この地で病を得て命が危ぶまれたので、地蔵と観音に祈念し、名号陀羅尼を唱えたところ、右手に錫杖、左手に丸薬を持った一人の黄衣の僧が現れた。時宗の問いに、近くの草庵の僧であると答えて、左手の丸薬を時宗に与えたら、たちまち病が平癒して、この地に「正福寺」を創建したそうです。
またこの寺は、北条時頼の開基との伝承もありますが、多説があるようです。
 この正福寺の地蔵堂は、都内唯一の国宝だそうで、今年は創建600年にあたるそうです。ちなみに、地蔵堂の創建は応永14年(1407)で創建者は未詳だそうです。
また、正福寺には、北条氏の家紋三鱗があります。閑静なお寺ですので、企画展共々見学にはよいです。さらに、ふるさと歴史館の近くには、新田義貞の鎌倉攻めの折に戦死した飽間氏の板碑が所蔵されている徳蔵寺があります。レブリカはよくみることがありますが、この際本物も見てみるとよいです
 徳蔵寺の近くには、新田義貞が鎌倉攻めのときに戦った久米川古戦場の碑があります(ここでは、中先代の乱のときも合戦があったそうです)。この地域だけでも結構見ごたえのある史跡がありますので是非見学してみてください。
 帰りには、甘いものがほしくなると思いますので、東村山名物「だいじょぶだぁ饅頭」か「だいじょうぶだぁどら焼き」を購入して帰られるとよいです。
 ここに住んでいる人たちは、有名な音頭の歌詞と同じく「情けが厚い」人たちばかりでした。

 >うさたろうさん

 児嶋さんでよいのですか、すみませんでした。メールでは小嶋さんになっていました。
私はおうかがいできなくて申しわけありませんでした。

 以上お知らせいたします。

473NAO4@吟遊詩人:2007/12/10(月) 01:18:27
実朝の墓は?
>相国入道さま
企画展「正福寺展」ご案内いただきありがとうございます。いろいろ興味深いお寺ですね。
ただ、期間が1週間しかありませんね。行けるかどうか。

>筆綾丸さま
「織田信長文書の研究(奥野高廣著、吉川弘文館)」上、下、補遺・索引 図書館にありましたので、借りてきました。感動の反面、あまりの大部なのに驚いております。

●高野山のお話
高野山へは、旅している間に突然行きたくなって、予定を変更して行ったものですから、あまり下調べをせずに行きまして、片っ端から見ていきました。ただ、この掲示板の都合上、高野山にあるという「実朝の墓 or 供養塔」は押さえないとなあと思ったわけです。

ただ、事前に高野山のどこにあるのか調べておかなかったものですから、現地で携帯で検索をかけてみると、「金剛三昧院」が、最も可能性があると思え、行ってみました。北条政子が頼朝と実朝の菩提を弔ったのは確かであり、そのために国宝の多宝塔↓がありました。

ただ、「墓or供養塔」のような標識は無く、元々そういう形ではないのかもしれません。ただ、金剛三昧院の方に聞いてみるくらいのことはしたほうが良かったかなあと悔やまれます。ネットでも、実朝の墓というと、秦野の首塚と鎌倉寿福寺の墓は写真が見られるのですが、高野山に関しては、あるとは書かれていますが、写真とか実態を示すものが見つかりません。追求しておく価値はあったなあと本当に後悔しております。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003887.jpg

474筆綾丸:2007/12/10(月) 09:15:34
蜘蛛巣花押と機械仕掛けの神
NAO4@吟遊詩人さま
http://www.reihokan.or.jp/bunkazai/kenzobutsu/taho.html
高野山のこの解説は色々と変なものですが、数年前に見たとき、とても美しいフォルム
なので、驚きました。北条政子のイメージと合わず、大工の優れた技量のお蔭で、二位尼
はえらく得してるな、と思ったものでした(笑)。

「増訂織田信長文書の研究」は、ほんとに面白いですね。
天正8年「近衛前久宛朱印状案」(下巻478頁)の文面をみますと、近衛前久の名を呼
び捨てにしていて、両者の関係を知る上で、これはとても興味深いですね。
天正8年「本願寺顕如光佐宛黒印状」(下巻522頁)に、本願寺が信長に進上したもの
として、「三副一対 徽宗筆」とあって、これには驚きました。現在残っていれば、間違
いなく国宝だと思いますが、もしかするとこれは、亡国の天子徽宗の絵らしく、本能寺
の変で焼失したのではないか、つくづく勿体ない、と思いました。
下巻の末尾(848頁)に、信長の花押の経年変化があって、佐藤進一「花押を読む」に
説明がありますが、(7)〜(9)の原拠は何なのか、さすがの碩学もわからない、と降参
されてます。前から気になって仕方ないのですが、誰か解明してくれないかな、と思
っています。
トポロジーではありませんが、(5)と(6)はおそらく(3)と(4)の変形で、そうなると、
(7)〜(9)もその延長線上にあるもので、「信長」の字を崩したものではないか、とは
思っています。これは蜘蛛の巣のように見えますが、なぜ、こんなフォルムにしたの
だろうか(笑)。
信長の内面を理解する上で、この「蜘蛛巣花押」は非常に重要なものであって、世界中
のトポロジストは、サーストン予想の研究をしばらく中断して、この花押を解読しなけ
ればなりません(笑)。

永禄11年(1568)9月、信長上洛時、山城国の寺々に出した禁制の中に、「西八条
偏照心院」宛のものがありますね(上巻202頁)。
峰岸純夫氏の著書にあったと思いますが、こういう場合の禁制は、漫然と待っていたの
では出してくれず、ぜひ禁制をください、とお願いに行かないと駄目なんですね。
従って、この場合も、西八条偏照心院の住職が、信長(の側近)の所にお願いに行った
可能性があります。
側近「西八条偏照心院の妙齢の尼が、禁制の件で参っておりますが、いかが取計いま
   しょうか」
信長「西八条偏照心院? なんだ、それは?」
側近「昔々、坊門家の姫君が鎌倉に嫁ぎ、ゆくりなくも亭主を謀殺され、泣く泣く磯の
   浜千鳥、是や此の逢坂山の不如帰、と都に戻り、亡き夫の菩提を弔うため、
   清和天皇六世孫経基王所縁の邸跡に、金剛偏照、一宇の庵を結び・・・」
信長「くどい。簡潔に申せ」
側近「は。右大臣実朝公の菩提寺」
信長「実朝か。ふん、そんな奴もいたな。許す」
信長の最後の官職が右大臣だったのは、単なる偶然である、と語り伝えるとなん。
同じ時に、本能寺に禁制を出しているのは(同書204頁)、デウス・エクス・マキーナ
(機械仕掛けの神)といいますか、後年のキリスト教との関係を暗示するかのような、
どこか運命的なものがありますね。
翌年に「偏照心院宛丹羽長秀奉書」があるので(同書337頁)、この寺の窓口は信長の
重臣丹羽長秀だったのでしょうね。

475釈由美子が好き:2007/12/10(月) 13:55:56
コミケ情報♪
 コミックマーケット73(2007年コミックマーケット冬)のお知らせです。

[場 所] 有明・東京国際展示場 (東京ビッグサイト/有明臨海副都心)

     http://www.bigsight.jp/

[開催日] 2007年12月29日(土)〜31日(月)

 日本史史料研究会の本を販売します。

○12月30日(日曜日。2日目)
サークル名:「北斗公館」
ブース  :西地区(西2ホール) けー12b

★予定は未定ですが、『太平記』4コマ本を出すはず。

★委託販売

・中島善久編・著『官史補任稿 室町期編』
 (日本史史料券研究会研究叢書1、2007年、1500円)

・細川重男著『鎌倉北条氏の神話と歴史−権威と権力−』
 (日本史史料券研究会研究選書1、2007年、1500円)


宣伝だけして、また潜行します。すんません。ぶく、ぶく・・・・・。

476はぎつきみたえ:2007/12/10(月) 20:08:53
高野山
>NAO4@吟遊詩人さま

 高野山にはリフレッシュ休暇をもらったときに行きました。
 結縁灌頂に参加して↓

http://www.shukubo.jp/00_kechi.html

 金剛三昧院に泊まったのです。
 夢に出てこい〜!!と、強く念じて寝ましたが、実朝には会えませんでした〜。

 西室院というところに「源家三代墓(供養塔)」がありますが、確かな由来などは存じませんです。

477高遠彩華:2007/12/11(火) 00:48:15
源氏三代墓。
>NAO4@吟遊詩人さま
>はぎつきさま
西室院の源氏三代墓、↓これです。
先だって高野山に連れて行っていただいた時に、お参りしてきました。
しかし、どれが誰のお墓なのかわかりませぬ(^_^;)。

高野山へも、町石とかを見にまた行きたいものです。いいところですよね〜。

>釈由美子が好きさま
>冬コミ
宣伝、ありがとうございます(^_^)。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003891M.jpg

478NAO4@吟遊詩人:2007/12/11(火) 01:12:48
おおこれですか!
>高遠彩華さま、はぎつきさま
>西室院の源氏三代墓
お教えいただき、ありがとうございます。写真あったのですね。ところで、源家三代とは、頼朝→頼家→実朝ですよね。まさか、頼信→頼義→義家じゃあないですよね。
何となく、頼家はお気の毒ですが、こういうところに出てくるのが不思議な気がしたもので。

今度行くときは、宿坊に泊まって、ゆっくりしたいと思います。

>筆綾丸さま
文書から、織田政権が浮かび出てきますね。明らかに天下統一を掲げて、勢力を拡大していたのが分かりますし、近衛前久をこき使っていた。巻末の解説もなかなか面白いです。

479はぎつきみたえ:2007/12/11(火) 20:22:49
ありがとうございます
>源氏三代墓
>高遠さま
 写真ありがとうございます。
 ネット検索したんですけどいい画像がなかったので。

 …花がどれも見事に枯れてますね(^_^;)。

480通りすがり:2007/12/11(火) 21:06:15
源家三代墓
現在は西室院(正確には多聞院)内に位置する源家三代墓(近世地誌『通念集』では頼朝・実朝・政子)は、頼朝庶子貞暁が師の仁和寺隆暁から譲られた一心院にあったもので、鎌倉期の石塔と評価されているようです。
参照 山陰加春夫「高野の聖たちー高野山一心院谷の場合ー」(『密教文化』218、2007年)

481NAO4@吟遊詩人:2007/12/13(木) 05:32:08
勝手に留守番
*昨日は、どうも掲示板を運営している「tea-cup」のサーバー移動で、ほぼ終日この掲示板にアクセスできなかったのではないかと思います。管理人に代わりまして、お詫び申し上げます。

>通りすがり様
>源家三代墓 (近世地誌『通念集』では頼朝・実朝・政子)
お教えくださり、ありがとうございます。頼家ではなくて、政子だったのですね。
納得いきます。

>はぎつきみたえさま
>結縁灌頂
なかなか、凄いですね。マニアックというか。

>高遠彩華さま
「町石」って、亜季多さまが、金石文のところで載せている案件ですよね。そうか、大門まで行かなかったなあと後悔しております。もう少しこのサイトよく読んでおけば良かったと思っております。




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