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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板

391やす:2008/11/25(火) 21:36:12
「感泣亭秋報」第3号
 小山正見様より「感泣亭秋報」第3号をお送りいただきました。杉山平一先生をはじめ著名の人々からの原稿が並ぶのをみて、編集の御苦労とともに、書いて下さる人々の人脈といふのは、やはり書かれる詩人の愛され方によるものであることをあらためて感じた次第です。

 杉山平一先生の一文に「私たち、能見久末夫や太田道夫や塚山勇三らと違って、同人たちの推薦によって選ばれた大木実、中村眞一郎らの中の一人として、小山正孝が登場したのだった。」と、わざわざ垣根を作って区別して見せてあるのは、恋愛を詩にする手際についてだけでなく、そのやうな恋愛を実際にやってのけ、かろやかに四季のサロンの仲間にも入ってゆけた、才能に「育ちの良さ」と「したたかさ」も兼ね備えた山の手詩人への「嫉妬の思い」でもあるに違ひなく、杉山先生らしいなあ、と思はず微笑んでしまひました。

 また巻末「感泣亭アーカイヴズ便り」にありました、正見氏の八戸・弘前訪問記、ならびに小山正孝の父潭水が家元をつとめた「盆景」界の現状についての報告は、いまに四季派も「絶滅危惧種」になるんぢゃないか、といふ不安をもよぎらせました。詩人の青春を育んだ「津軽文化圏」が確固とした健在を示すなか、村次郎の実家旅館がすでに「「本丸跡」とでも記すしかない様子だった。廃墟になるのは簡単なことだと思った。」とあるのを読んでは尚更のこと、星霜移り人は去るの感を深くします。

 とまれ一詩人を顕彰する雑誌といふ意味では「小山正孝研究」といふ誌名でよいわけですが、さきの著作集たちにも「選集」の名は印刷されませんでしたし、これまた秋を誌名に謳って追善の意義を明確に感じさせます。ここにても七回忌に思ひを馳せ、厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

感泣亭秋報3 2008年11月13日(詩人の祥月命日)刊行 \500

詩 夕方の渋谷 小山正孝 2
小山正孝の詩 杉山平一 6
小山正孝が追求しつづけたもの 里中智沙 10
ソネット逍遥3 桃井隼 14
小山正孝の詩世界2 近藤晴彦 16
正孝あれこれ 比留間一成 20
詩集「逃げ水」を読み返す 杉本正義 21
旅立たれなかった『冬の旅』−小山正孝「雪つぶて」−甲斐貴也 22
小山正孝さんと岡鹿之助 伊勢山俊 24
小山正孝の見た紙漉町 三上邦康 25
「井田川」周辺 南雲政之 26
詩 確定 森永かず子 28
詩 私の愛するあなたは 大坂宏子 30
回想 小山先生のこと 春木節子 32
回想 小山正孝さんの思い出 富士原桃子 33
「ポンペイ」三篇由来譚 坂口昌明 34
感泣亭アーカイヴズ便り 小山正見 43

392やす:2008/11/29(土) 15:01:45
山口正二詩集『夜光蟲』
 投稿フォームより戦前名古屋詩集のネット上の復刻について御案内を頂きました。早速リンクを張らせて頂きましたのでので御報告申し上げます。

【山口正二】『夜光蟲』1933/あざみ文藝研究會(あざみ叢書??第1巻)(名古屋)/24p/19cm並製/\0.20

 詩集も稀覯ですが、併せて公開されてゐる随想に、当時の同人誌の状況を窺はせる記述や、詩人たちとの交流がふんだんに盛られ、興味深く拝読しました。
 大正10年、白壁尋常小学校に入学した詩人は撞木町や東片端町界隈で育ち、市立第二商業学校を経て、都筑善雄と同人誌活動を展開。『名古屋地方詩史』によれば「薊」「楡」といふ詩誌に拠って、杉本駿彦、折戸彫夫、坂野草史らモダニズム詩人との通行もあった詩人と云ひます。昭和9年に徴兵で志を絶たれるも、戦艦「日向」に配属された海軍では抜群の珠算力を発揮。友人から送られてきた詩集『プルシア抄』や『ふるさとへの道』が没収された条りに思はず反応してしまった次第です(同舌門蚊 笑)。

 此度のテキスト再刊、惜しむらくは原本の詳しい書誌情報が不明なことですが、図書館にも所蔵がない本などは、画像で掲げられると、訪問者に詩集の雰囲気を「時代なり」に感じ取ってもらへるかもしれません。とりわけ孔版詩集といふのは、姿そのものに詩魂がこめられた手作りの記念碑であるやうな気がいたします。

 先日の二葉館における中部ペンクラブの朗読会で一言御挨拶させて頂いたことが御縁となったものと存じます。
 あつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。

393やす:2008/12/03(水) 10:00:12
『日本語が亡びるとき』
「いったいいつごろからだろうか。
 日本に帰り、日本語で小説を書きたいと思うようになってから、あるイメージがぼんやりと形をとるようになった。それは、日本に帰れば、雄々しく天をつく木が何本もそびえ立つ深い林があり、自分はその雄々しく天をつく木のどこかの根っこの方で、ひっそり小さく書いているというイメージである。福沢諭吉、二葉亭四迷、夏目漱石、森鴎外、幸田露伴、谷崎潤一郎等々、偉そうな男の人たち──図抜けた頭脳と勉強量、さらに人一倍のユーモアとをもちあわせた、偉そうな男の人たちが周りにたくさんおり、自分はかれらの陰で、女子供にふさわしいつまらないことをちょこちょこと書いていればよいと思っていたのである。男女同権時代の落とし子としてはなんとも情けないイメージだが、自分には多くを望まず、男の人には多くを望んで当然だと思っていた。また、古い本ばかり読んでいたので、とっくに死んでしまった偉そうな男の人しか頭に思い浮かばなかった。日本に帰って、いざ書き始め、ふとあたりを見回せば、雄々しく天をつく木がそびえ立つような深い林はなかった。木らしいものがいくつか見えなくもないが、ほとんどは平たい光景が一面に広がっているだけであった。「荒れ果てた」などという詩的な形容はまったくふさわしくない、遊園地のように、すべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった。
 もちろん、今、日本で広く読まれている文学を評価する人は、日本にも外国にもたくさんいるであろう。私が、日本文学の現状に、幼稚な光景を見いだしたりするのが、わからない人、そんなことを言い出すこと自体に不快を覚える人もたくさんいるであろう。実際、そういう人の方が多いかもしれない。だが、この本は、そのような人に向かって、私と同じようにものを見て下さいと訴えかける本ではない。文学も芸術であり、芸術のよしあしほど、人を納得させるのに困難なことはない。この本は、この先の日本文学そして日本語の運命を、孤独の中でひっそりと憂える人たちに向けて書かれている。そして、究極的には、今、日本語で何が書かれているかなどはどうでもよい、少なくとも日本文学が「文学」という名に値したころの日本語さえもっと読まれていたらと、絶望と諦念が錯綜するなかで、ため息まじりに思っている人たちに向けて書かれているのである。」水村美苗著『日本語が亡びるとき』(58-59p) 2008.10筑摩書房


 長い前説の最後にこんなことが書いてあるのですが、問題作と呼ばれてゐるらしいです。 西岡さんのブログで教へて頂きました。近頃『島国根性 大陸根性 半島根性』といふ金文学氏の比較文化論を読んで感心したところですが、慰められて悦に入ってゐると、ここではしっかり喝が入りさうな内容です。
 私なんかは、本文がなくとももうこの箇所だけでいい。感涙なんですけど(笑)、世界に興亡した各種言語について歴史分析をしながら、現今の英語(米語)圧勝状況に説き及び、いったいどんな結論が引き出されてくるのかハラハラしながら読み続けました。そして本来佳境に入るところなんでせうが、福田恆存の「印籠」が出てきて、却って人心地ついたやうな次第。このサイトも及ばずながら同様の趣旨を以て「国語の存亡」を憂いてをりますから。
 ただ、終盤に水村さんは「日本の国語教育は日本近代文学を読み継がせるのを主眼を置くべきである。」と口を酸っぱくして、三度も仰言ってゐるのですが、そこだけはちょっぴりガッカリしました。「日本近代文学」ぢゃ手ぬるいですから。読み継ぐべきは「論語」「芭蕉」など古典なんだと思ひます。走り読みのくせに重箱の隅を突いて恐縮ですが、178pの「危惧は危惧に終わり」は「杞憂に終わる」が正しいかもしれません。そんなところにも、福田恆存以降の戦後世代がすでにもう、なにかを享け損ねた気配さへ感じるのです。拙サイトの文章だって、ぜんたいがひどいものです。
 さきの金文学さんには『第三の母国 日本国民に告ぐ』といふ著書もあって、日本人の喪った数々の美徳のなかで、唯一顧みられてないのは「忠孝」だと仰言ってるんですね。よその国の人に江戸時代の文人の心得を教へられました。水村さんもきっと「忠孝」までいったら「なにそれ?」なんだと思ひます。私だって実はよくわからないけど太乙翁の軸にもちゃんとさう書いてある(笑)。良心を以て歴史の軋轢に苦悩する近代文学ぢゃ、「謙譲」以外の日本人の美徳は育たないと思ひますね。
                      (ひとり言につき、この項コメント不要です)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000533.jpg

394やす:2008/12/05(金) 00:18:19
漢詩詞華集
 最近の収穫から。いづれも日本の漢詩アンソロジーです。

『日本詩選』安永三年(1774)寛政六年(1794)再刻江村北海編 京都唐本屋吉左衛門ほか3軒刊 大本十巻7冊。江戸時代後期の漢詩ブーム幕開けを告げる一大詞華集。江村北海は主君青山侯が移封されたのに従ひ、郡上に47歳から五年間住み、その後も度々出張講義をしてゐる親美濃派(本当は田舎が嫌だったかも 笑)。「頼山陽家臣団」ができる一世代前の美濃の詩人たち(山田鼎石、宮田嘯臺ら)にとって、彦根の龍草廬とともに精神的支柱だった詩人です。


『日本名家詩選』安永四年(1775)藤元水晶編 京都山崎金兵衛刊 小本七巻1冊。藤元水晶は南宮大湫の高足で、安永元年に35歳で亡くなった美濃詩人の俊穎。つまりこれは遺編著であります。『日本詩選』に先立って企画されたにも拘らず、こちらの袖珍版は(おそらく)編者の夭折によって刊行が遅れ、江戸の出版も未だ京都には及ばなかったのか、こちらも寛政10年に再版が出てゐるのですが、一時代の権威宗匠が編んだ浩瀚な詞華集ほどには評判が残らなかった模様です。双方の選詩センスについて、はやく語れるやうになりたいですね。序跋をup しました。


『名家詩選』明治二十八年(1895)太田淳軒(才次郎)編 東京東雲堂刊 文庫版1冊
江戸時代が終はって社会から見捨てられたはずの漢文ですが、どっこい新文化の息吹のなかで後継者の無いまま空前の盛況を博したのも、実はこの明治時代でした。遺稿詩集だけでなく、活字によるこのやうな先人詩集の携帯本も各種刊行されたやうで、今では読む人(読める人)がゐないので簡単に手に入ります。しかし人選を見る限りこの本も江戸漢詩人を総決算した感のある一冊です。

ほかにも、別集(個人詩集)をもたない牧百峰の作品が読める『天保三十六家絶句』天保九年(1838)の端本をやはり破格で購入。所載の三十種(巻中17〜21丁)をupしましたのでご覧ください。

京寓遇梁公圖自西遊歸見過賦贈
烟鎖春城籠暖香 小留且勿促歸装 故園松竹陰長在 不似櫻花開落忙

京寓、梁公圖(梁川星巌)の西遊より帰り過ぎらるに遇ふ、賦して贈る
烟は春城を鎖して暖香を籠む 小留かつ帰装を促すことなかれ 故園の松竹、陰
は長く在らん 似ず桜花の開落の忙しきに

遅遅として進まぬ『梁川星巌翁』の伝記読耕、やうやく西遊から美濃に帰るも臀
の温まらぬうちに京へ出たところです。

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395やす:2008/12/05(金) 20:36:49
扶桑書房一人展目録
 扶桑書房さんの一人展目録が到着。今年もカラーページ盛り沢山。書影が掲げられてゐるのは、泉鏡花ほかの高額本ですが、眼福は井伏鱒二の『随筆』。山本信雄の詩集『木苺』の意匠の元となった本であります。また、つい先日ガラスケースの中にみた『赤土の家』は、ビニールコーティングされてなかったら(笑)40万円です。
私は去年同様、当日会場の開館時間と閉館後の飲み会が楽しみ。テロと金欠が起こらないことを祈ってゐます(汗)。

「第2回 扶桑書房一人展」
日時  2008年12月23日(祝)12時〜18時
場所  東京古書会館(東京都千代田区神田小川町3-22)地下1階

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396やす:2008/12/17(水) 23:38:43
梁川星巌の手紙
『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノート (閑人専用)

 梁川星巌の伝記と全集を机上にでーんとひろげ、ひきつづき『星巌集』の版本を拾ひ読みしてゐます。いな、詩を読むといふより、星巌の詩を通じて中国の故事を勉強してゐるといった方が正しいです。不審に思ったことを調べるのは、いまや漢和辞典よりさきにgoogleに頼る有様。様々な賢者隠者仙人詩人の名と字と号が、次々に現れては覚えられず忘れられてゆくのですが(笑)、肩の力を抜ける場面もあって、食べ物やかみさんが出てくると、俄然生彩を帯びてくるんですね。版木で摺られた漢字の字面から直接ウィットやユーモアを感ずるのは、時を超えて鮮烈かつ何とも云へぬ温かい読書体験には違ひありません。

 食香魚
芙蓉紅浅雨初凉 [魚發]々銀刀落夜梁 一段人生快心事 香魚時節在家郷

 香魚を食ふ
芙蓉、紅浅くして雨初めて凉し。溌々たる銀刀、夜梁に落つ。一段人生快心の事。香魚の時節家郷に在り。


 旅夕小酌示内
燈火多情照客床 残瓢有酒且須嘗 又労袖裏繊繊玉 一劈青柑[口巽]手香

 旅夕小酌、内に示す
燈火多情、客床を照す。残瓢、酒有り、しばらく須らく嘗むべし。また袖裏の繊繊玉を労すれば、一劈の青柑、手に噴いて香ばし。 (繊繊玉・・・勿論おべんちゃらです。)

 さて美濃大垣の田舎には金森匏庵といふ後輩がゐて、旅先から星巌にいいやうに使はれてゐるのですが、何とかを送ってくれだの、誰々の書を斡旋してやらうだの、さういふ物に即した細々した消息を記した手紙が、全部遺ってゐるんですね。地元産の奇石を二人で欲しがった結果、値段がつり上がってしまったことを愚痴ってみたり、古書の購入を依頼して「しかし五両弐三歩ならば、尤も妙に御座侯、・・・(されど) 実は六両にても高き者には無之侯」なんて、金払ひの未練がましいところは、全く私と変りません(笑)。
 さらに「頼氏は口腹家ゆゑに一度話し申し侯ことは一向に忘れ申さず候につき、困り入り申し侯。」って云ってますけど、山陽のやうな駄々っ子でないだけで、私は星巌先生の方が食ひしん坊だと思ってます(笑)。如亭先輩には敵はないかな。
 そんな当時の、180年前の今月今夜の手紙も引いてみました。

 梁川星巌書翰(金森匏庵宛 文政11年12月12日)
峭寒御勝常奉賀侯。小生無事に勤業仕侯、御放念可被下候。扨て石之義、(郷里の)舎弟より、追々かけ合申侯処、先方にて申候は、大垣魚屋嘉兵衛(金森匏庵)より至て懇望にテ、金三両より下にては、売り不申侯旨にて、初よりは、金壱両斗り価をあげ申侯故、舎弟も大に困り、小生方へ右之趣き申越侯。無拠右之価にて買取申侯。小生も買かけ申侯物故に、三分や壱両之事は思はれず、右之段御推察季希上侯。来春は、先便に申上侯通り、伊賀に遊歴、帰途は必御地に向、曾根へかへり申侯。僅の石にて、交際に隙を生じ侯てはあし(悪)く、石は来春迄、小生あづかり申置、何か様(いかさま)共可仕侯間、左右に御承知可被下侯。
○明史(『欽定明史(1739)』4帙40巻?)之義、急に御謀り之程奉希上侯、今年中に、小生方に参り申候様奉願上侯。
○珊瑚之義、急に御はからい奉願上侯、何卒急便に御返書奉願上侯。
○餘清斎法帖(王献之の摸刻)、御望も無御座侯ば、見せ本は御返し可被下侯。
○此間名硯出で申侯、価は金拾五両と申し候得共、此節之事、十両位には可仕侯。厚さ貳寸五分斗りにて、紫端溪、うらに眼三つ御座候。何分御返書急々奉願上侯。
西征詩不殘出来申候。委曲は後便に付し申候。草々不喧
 十二月十二日
                          緯上
煙漁老兄


 梁川星巌書翰(金森匏庵宛 文政11年12月17日)
十家詩話(『甌北詩話』)、尾州に無御座侯はば、此方より差上可申侯間、御申越可被下侯。本月十二日発御手帖接手、益御勝常之由奉賀侯。明史の義、御懸合被下侯処、六両位よりは引不申との事、何卒六両にても不苦侯間、急に御買取の程奉希上侯。しかし五両弐三歩ならば、尤妙に御座侯、明史は小生読かけに御座侯に付、何卒して求め置度、何分今年中に落手仕侯様急に奉頼上侯。実は六両にても高き者には無之侯、此節価少々あがり申候。珊瑚、餘清斎法帖慥に落手仕候。繻子之義は先御預り置可被下侯。其内売候はば御売り可被下侯。萬一一向に望む人も無御座候はば、御戻し可被下侯。〇細香よりの繻子之切、並手帖御伝達、慥に落手仕侯。○今春御托し横巻下の巻も、年内に落成可仕侯、後便には必ず差出し可一申侯
○中島(棕隠)先生(美濃遊興)の義、委細承知仕侯。実に遊歴中之拙計(不詳)可発一笑。帰途彦根へ立寄申候様子、一昨日帰京、小生方へ今朝参り申、暫く話し帰り申侯。
○頼(山陽)氏へ鴨を御送りの由、頼氏の横巻も、急に謀(計ら)ひ可申侯。頼氏に鴨御贈之節、別に一つ御求め可被下侯。是は小生より価を出し可申侯。小生も頼氏に鴨を約束いたし置候処、時々催促にあひ困入申侯。其かはりに、横巻を謀り可申候。頼氏は口腹家故に、一度話し申侯事は、一向に忘れ不申候に付、困入申侯。
○石之義、舎弟より度々かけ合申侯様子なれ共、彼理九郎(谷利九郎)、なかなかむつかしき男にて、兎角かたつき不申困入申侯。
○全唐詩之義、今一往高田梅二郎へ御かけ合可被下侯。何れ一帙は上木いたし度者なれ共、先づ半帙にても口あけをいたし度、何分急に御かけ合可被下侯。全唐詩の十両と申す本も、此方に引とどめ、吉治方にあづけ置申候。年内無余日寒気之節御自重奉頼侯。何分明史之義は、急に御かけ合、御越し奉頼侯、其かはり何にても又々御世話可申上侯。猶重便に期候。草々不一
 十二月十七日
                         梁緯拝上
煙漁老兄 文案下

 今月号の「日本古書通信」でも誠心堂書店の御店主が解説してをられましたが(連載「江戸の古本屋」)、「見せ本」といふのは、見計らひの為の見本のことで、仕官せず生計を立てることができるやうになったといっても、詩人は自らの潤筆料だけに頼る訳にもゆかず、講詩・校讐に加へ、書画骨董の斡旋まで何でもしてゐたんですね。

397やす:2008/12/21(日) 08:33:53
御礼2件
 『昧爽』の山本直人様より『四季派学会論集』拙論の感想に添へて、紀要抜き刷り「龜井勝一郎と敗戦--自伝『我が精神の遍歴』の成立背景」(東洋学研究 45号,2008)、「戦争と信仰--戦時下における龜井勝一郎」(同40号,2003所載)をお送り頂きました。ありがたうございました。
 御論文の中で冒頭に表明される「(戦争に)協力したとされる文学者の中から逆説的な抵抗を導き出すことが後世の我々のなしうる唯一の責務」といふ姿勢。「逆説的な抵抗」といふと保田與重郎の「イロニー」を思ひ浮かべますが、「日本浪曼派」に参加した亀井勝一郎にもさういふ上方文化的な屈折があったのかどうか、太宰治しか読んでゐない私には、氏の根底にも屈折といふより責任感がデスパレートに、出自に対する贖罪意識を伴って生真面目に蟠ってゐるものと予想するのみですが、とまれ当時の日本が掲げる建前理念を危なっかしく研ぎ澄ませてみせることで、非政治的な彼岸に精神の自由を確保しようとしてゐた「青春群像」のひとりだったことでは、一致してゐるやうに思ひます。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 さて、文化のみち二葉館で催された小展示の際に提供した、高木斐瑳雄の写真類ですが、一個人が所有する筋合ひのものではないため、相談した結果、このまま二葉館が保管・寄贈の労を執って下さることになりました。資料に一番愛情をもって下さる名古屋近代文学史研究会の方々の意向も伺ひ、しかるべき展示スペース整備に向けて、最終的には市でも県でもどこでもよいので最善の場所に収まってくれたらと念じてゐる次第です。予て懸案だったことが片付いて、ホッとしてをります。

398やす:2008/12/26(金) 00:13:40
上京記
 この週明けに上京、田中克己先生の実家へ久しぶりに御挨拶に伺ひ、昔のアルバムや手紙をお借りしてきました。文学者関係のめぼしい来翰は、かつて大垣国司氏が持ち去り行方知れず、残りも古本屋に売り払ってしまったことは、生前本人から直接伺ってゐましたから、このたびの選別の際、手紙の束から保田與重郎と堀辰雄の会葬案内状が出てきたのには吃驚しました。売ったりする筋合のものではないですが、しかしほかに文学者関係で残された葬儀案内はなく、つまり二者が先生にとってやはり特別の存在だったこと、また奇しくもこれが四季とコギトの中心人物の終焉を示す即物的な資料でもあってみれば、これも御縁といふのでせうか、お土産に頂けることになりました。封筒にはそれぞれ(おそらく先生の手で)保田氏からの礼状(昭和55年)と、堀多恵子氏筆の年賀状(昭和26年)が収めてありました。保田與重郎の田中克己宛書簡といふのは、見るのも初めてでしたし、礼状葉書ですが、これまでに買ひ戻し得た 伊東静雄、 三好達治からの二葉と並べてみれば、些か感慨無量のものがあります。
 ほかの手紙も年末年始にゆっくり拝見するつもりですが、まとまった分量で残されてゐたのは、恩師和田清博士(1890年11月15日 - 1963年6月22日)と実父西島喜代之助(1883年2月11日 - 1961年8月20日)からのものでした。学校時代の先生や父親から私信などもらったことのない私にしてみれば、これまた驚きでしたし、晩年まで大切に保管してをられたことに、あらためて師の人となりをみる思ひです。
 御遺族の皆様および埜中さまともお会ひでき、キリスト者だった先生夫妻をクリスマスの時期にしのぶことができたことが何よりの追善となりました。年末恒例となった「扶桑書房一人展」にも楽しく参加、神保町での収穫とともに胸を一杯にして帰ってきた次第です。

よろこびていみじきはふり訃らすふみいだきかへるをしは聴せるか

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399やす:2008/12/31(水) 08:51:40
大晦日
 毎年暮れのニュース「今年の漢字」は「変」ださうです。私事でも父が死んで変動の一年でした。般若心経と論語の素読に親しむやうになり、章句が口を衝いて出るほど馴染んできたこと。これなんかも日常の変化かもしれません。論語から多く引いてゐる『漢文法基礎』なんかも再びトイレで読んでゐます(笑)。
 書斎に掲げられた「黄巒書屋」の扁額と村瀬太乙の屏風。陋屋に於いて吾が居住まひを正してくれるやうになった風変りなコレクションです。また梁川星巌の伝記を読みはじめ、詩人観が親しみあるものに一変。著者伊藤竹東先生箱書の星巌掛軸や『西征詩』を入手できたことも、併せて今年の収穫と呼ぶものと云へませう。

 さてこの年末は、田中家からの借用物の検分をしながら、DVDで全24枚組といふ、漢字学の泰斗故白川静博士の文字講話なんぞも、折々拝聴してゐます。漢字のなりたちを語って毎回話題にはかならず日本語と日本文化への想ひを添へられ、日本が神の国であることや、また昨今騒がしい歴史観についても一言、私見を開陳されてをられます。真に尊敬すべき見識に感銘を深くするばかり。戦前世代最後の碩学の遺言といふべき、渾身の一節を引いてみます(コメント不要です)。

 なほ忌中につき年始の御挨拶は控へさせて頂きます。皆様にはよいお年をお迎へ下さいますやう。今年も一年ありがたうございました。

『DVD白川静文字講話』 第10回「戦争について」より
 最近わたくしは一寸いろんなものを読む機会がありまして、孫文のものなんかを読んでをったんですね。さうしますと孫文が、丁度辛亥革命の翌々年ぐらゐであったかと思ひますが、犬養木堂が逓信大臣になったときがある。そのときに孫文が木堂にあてた手紙がありまして、これ大変おもしろい手紙であると思ひまして、わたくしちょっと控へてきたんですが・・・一寸そこ読み上げますね。大変長い手紙なんでありますけれども、要するに中国がどういふ風になるかちふことでありますけれども、その時孫文はすでに大統領になってをる、辛亥革命の翌々年ぐらゐであったかと思ふんであります。「この四億の人間を奴隷化する力をもつものは、必ず全世界の覇権を握ることになります。そこで列強ははじめ中国を併呑しようとしましたが、他の列強に阻まれました。」といふやうなことが書いてあるんですが、これは辛亥革命当時、中国にをりましたフランスの社会学者、そのひとが辛亥革命の状態を、そのまま書いたものがありましてね。その中に「今の中国の状態はまるで洋菓子をナイフでさくやうに、西瓜を割るやうに分割占領することは容易である。しかし、さういふ場合に、日本が蹶起してこれを阻むといふやうなことがあっては・・・といふやうなことを恐れて、列強は手を出さんのである。」といふやうなことが書いてあるんです。多分それは、中国で生活をしてをったそのフランスの社会学者の実感であっただらうと思ふんですね。だから孫文も、この中国を分割支配するといふ調子で、当時イギリスやフランスは非常にたくさんの借款を清国に供与して居りましたからね、それの代償としてここを欲しいといふ風にしてとるとすれば、あるいは分割は容易であったかもしれん。しかし、日本が日露戦争において示したやうな、ああいふ風な力を見てをるから、列強は手控へてをるんだといふやうなことを、孫文がこの手紙の中で言うてをるんです。 しかしこのときに、孫文があとにつけ足して言うてをる言葉はですね、実は日露戦争は日本がアジアのために戦ってくれた戦争である、アジアの民はすべてさう思うてをった。だから日本がもしあの戦争を義戦として、アジアのための戦ひとして、終始そのやうな行動をしてくれたならば、我々は東方の君子国であるところの日本を、我々の盟主として、他の勢力に対抗することができたであらう。しかるに朝鮮を併呑するといふやうなことは、痛恨に堪へぬ遺憾事である。これによって日本はあの大きな犠牲をはらった日露戦争の戦果を、悉く失うてしまった、といふことを言ってゐるのです。そして今からでも遅くない、泥縄式といはれてもいいから、この問題を解決しなさいといふことを、孫文はいうてをる。
 これは大変長い文章で、いま御紹介しただけでは意を尽くさんのでありますけれども、おそらく孫文だけでなしに、当時のアジアの心ある人々が、皆そのやうな気持であったんであらうと思う。もし日露戦争を日本が、アジアのための義戦として終始することができたならば、今日の日本のあり方は余程変はって居ったであらうと思ふのであります。また今日においてもなほ、そのやうな認識のもとに、戦後のさういふ歴史を考へなほすことができるならば、今日のやうないろいろむつかしい、アジアの内部で、我々が最も将来頼りとしなければならんといふやうな国々からですね、不信をつきつけられるといふやうなことはなかったであらう。これは孫文がまことに痛恨の極みであると言うてをるやうに、わたくしも痛恨の極みであるといふ風に考へてをります。
 今日の問題は、単なる教科書問題としてね、手先で片付けられるといふ問題ではありません。やはり歴史の認識の基本に立って、いったい戦争といふものはどういふものであるか、一体日本はなぜロシアと戦ったのか。戦ふ理由は何にもなかったんです。日本が直接的にはね、何にもなかった。当時ロシアはすでに旅順・大連に権利をもち、満州をも殆ど支配下におき、朝鮮には軍備を禁止して、威嚇的にですね、南進の傾向を示して居った。そのやうな状態は、私は呉大澂といふ清末の金文学者が居ります。『かく斎集古録』という大きな書物を書いた金文の研究者で、わたくしは呉大澂の書物をいろいろ読み、彼の日記も読みました。彼は満州に居って、ロシアのさういふ南進勢力に対して、非常な努力をして戦ったひとです。境界線の画定なんかでもやり直しをさせて、そこに銅柱を立てて、彼が得意とする篆書でこれが境界線である、といふやうなものを建てて、ロシアに対して、なほ低抗するといふやうな気概を示した人です。しかし彼の日記には、しばしば朝鮮をめぐるロシアと日本との暗闘、といふやうなことが見えてをりました。
 日本は本来は満州に兵を出すべきではなかった。出す以上は義戦として戦ふべきであった。もしさうすれば、それからのちの歴史はたいへん変はってをっただらうと思ひます。現在の教科書問題は単なる教科書問題として、何故そんなに拘るのかといふ風に思はれる方も多いであらうかと思ひますけれども、私は孫文のその手紙をみましてね、向ふの有識者がどのやうな気持で当時の日本を見てをったのたか、といふことを考へますと、そののちの軍部の跳梁は、まことに見るに堪へん遺憾なことであったと思ふ。軍部を批判した者は、齋藤隆夫でも(議員を除名され)、中野正剛でもついには自殺にまで追ひやられた。尾崎咢堂でも野に下るといふやうなことで大変圧追をうけた。当時それを批判するものは、殆ど満足に安全を保障されるといふ状態ではなかった。かういふ風なことが日本の謂はば国運をかたむける、日本の国の行手を大きく歪めてしまった、さういふことになったのではないか。
 ま、戦争といふ課題でございましたから、さういふことをも含めて、今日の問題を考へ、将来の問題を考へるために、韓国にしましても中国にしましても、将来これは日本の与国として、日本の同盟国としてね、必ず手を結ばねばならん国なんです。わたしは特に漢文漢字をやってをりますから、さういふ漢字文化圏といふ歴史的な意味あひからも、この文化圏のもつ歴史的な意味を、失ふべきではないといふ風に考へてをる。この文字講話をしてをりますのも、一つはさういふ漢字文化圏の復権といふことを、考へてをるからでありますが、今日はたまたま戦争といふ主題でお話をいたしましたので、どこから日本の軌跡が狂うてきたのかといふことを考へるために、わたくしが一応考へてをりますことを最後に申し添へる、さういふことでお話を結びたいと思ひます。ありがたうございます。

400やす:2009/01/01(木) 22:09:34
『朔』芥川瑠璃子追悼号
 今年もよろしくお願ひを申上げます。

 八戸の圓子哲雄様より『朔』164号芥川瑠璃子追悼号を御寄贈いただきました。
 実は田中克己先生の実家からお借りしてきた昔のアルバムのなかに、このたび口絵写真に採られた詩集出版記念会(1960.4.29)の写真や、夫君比呂志氏とのスナップ写真(1954.7.9)がみつかり、このたびの特集をひとしほ親しく感じてゐます。また、坂口昌明氏が書いてをられますが、戦前「四季」での「葛巻ルリ子」時代には、立原道造が彼女の職場だった文芸春秋社を訪ねて行き、不在だったことなんかもあったと云ひます。或はどこかで読んで忘れてゐるのかもしれません。近頃忘れっぽくていけません。
 連載中の小山正孝未亡人、常子氏のエッセイもさうですが、愛を歌ふ詩人に、心やすらぐ文章を書いて寄せてくれる奥さんが居ったりすれば、これは夭折詩人の青春とは異なる、何か青春といっても琥珀色の気圏が雲蒸される訳で、まことに羨ましい限りに存じます。
 夫人の御冥福を祈りますと共に、ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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401やす:2009/01/02(金) 07:31:25
『初版本』終刊号
 予約の書誌雑誌『初版本』が晦日に到着、終刊号とのことで驚きました(第4号)。さういへば創刊の辞もなければ今回終刊の辞もなく、最後に扶桑書房東原武文氏が、新旧古書番付を引いて人気本の推移を論じてをられますが、初版本市場の変遷と同時に現在の不安材料を語る内容となってゐるのが、少しさびしく感じられました。ただ内容は此度も愛書家が目を細めるものばかりで、とりわけ管理人にとっては、JINさんのモダニズム詩人追跡、そして「詩集の掘り出し達人」のインタビュー記事は興味深かったです。ときに私のことを詩集コレクターのやうに云ふひとがありますけれど、私なんぞは自身の所蔵情報をネット上に開示することで、労なくして新しい情報を得ようとする横着人間(ただの貧乏人)にすぎず、彼のやうに丹念に地方の古書店をめぐって、一旦おさめた奇貨は深く蔵す、得意気に喋って取り上げられるといふやうなつまらぬ禍を避けるのが、本当のコレクターであります。
 今回は終刊号でもあり、特に乞はれて其の極く一部を紹介させられてしまった、といふことでせうね。かつて書庫を親しく拝見した記憶も蘇り、垂涎の書影と体験談は眼福もしくは目の毒です。あ、早速「日本の古本屋」にいって「故国の歌」で検索してるひと誰ですか(笑)。
 編集に関はった皆様方には、たいへんお疲れさまでございました。

『初版本』第4号(終刊号) 2008.12.31人魚書房刊 予約限定300部刊行 \1.000
表紙の本 うねうね川 1
芥川と太宰の識語本 川島幸希 2
三島著書目録稿番外抄 山中剛史 20
小松清の著書 樽見博 29
鏡花外装二題 34
詩集を掘り出す 大地達彦 36
荷風初版本拾いの記 鈴木光 46
清方と英朋の木版口絵 56
耄碌堂主人贋作噺 梶川良 60
陰の珍本あれこれ 山口哲司 66
藤村青一 知られざるモダニズム詩人 加藤仁 78
近代古書目録の旅 「太秦文庫古書目録」 76
雑本蒐書録 其之肆 彭城矯介 86
数寄者・楠瀬日年のこと 平田雅樹 92
文学史的評価と古書価 東原武文 100(当HPが7年前、戯れに選定した当時の「昭和初期抒情詩集番付」はこちら。今なら変更もありますが、一寸さういふおちゃらけたもの作る気力が涌きません。)

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402やす:2009/01/05(月) 22:06:12
更新報告
 「田中克己文学館」に御遺族からの借用資料の掲載を開始します。画像が巨きいので、ブロードバンドでない方には御迷惑をおかけいたしますが、高校大学時代の集合写真など、研究者にもおそらく初めて御覧になる資料が多く珍しからうと存じます。細部に至るまでごゆっくり御覧ください。(無断転載はお断りいたします)
 今年の喪中正月は、そんなこんなでスキャナーとサイト更新作業に明け暮れ、読書は全くお留守になりました。拝聴(拝観)してをりました白川静博士の文字講話DVDは、最後の第20回「漢字の将来」に於いて再び日本の歴史を憂へ、東アジアに於ける「漢字文化圏共同体」再構築の夢が語られてゐます。94歳とは思へぬ志操と、そして四六駢儷体の詩文を朗々と暗誦される記憶力には驚嘆です。共産主義と物欲主義(アメリカニズム)、さらに一神教や戦後教育に反省を求め、礼節と仁による平和を掲げようとする、そんなところが斯界に限らぬ敬慕の対象となってゐる所以なのでせうね。

403やす:2009/01/15(木) 23:17:21
『菱』164号
手皮小四郎様より『菱』164号の御寄贈に与りました。荘原照子の伝記もいよいよ「少女詩人」時代に入り、謎の多い文学的出発を聞き書きと文献と両面から解き明かされてゆくのを興味深く見守ってをります。投稿詩にみられる少女らしい淡い同性愛が、やがて告白しないまま失恋の孤独をかみしめる乙女の心情へと成長してゆく様を見、また母から英語、父から漢学と、あのモダニズム詩を書く教養を殆ど家庭学習により授かったといふ事実を知って、本人の詩人的な素質とともに、旧家の精神的な財産といふのはものすごいものだと思ったことです。次回は初恋のゆくゑと、それからそろそろ交友関係にも若い詩人達の名も現れてくるのでせうか。たのしみです。ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。

404やす:2009/01/15(木) 23:18:42
『近代文学 資料と試論』第9号
 碓井雄一様より『近代文学 資料と試論』第9号の御寄贈に与りました。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 今回の碓井様は、師である林富士馬を、そのまた師であるところの伊東静雄との関はりに於いて論ぜられます(「林富士馬・資料と考察 6伊東静雄と響き合う詩想」)。直前に掲げられた勝呂睦男氏の回想文「忘れがたき年月」が浪曼派詩人林富士馬の面目を明らかにしてをり、碓井様の文章に余韻を引いてゐる様を羨ましく拝しました。師に連なる先輩後輩の交りに薄かった私に殊更さう思はれ、「無益な遠慮と虚勢」を「含羞と自恃」のやうにも思ひなしてゐた過去を恥づかしく回想いたします。
 冒頭、「林富士馬は伊東静雄が最も愛し続けた詩人/知友であった。」と記されてゐることで私の頭に去来するのは、富士正晴氏が何かで書いてゐた回想で、東京で林富士馬と初対面の折、好青年の林氏に対して傍から見て度の過ぎる先輩風を吹かせてゐた伊東静雄が、あとで「あれ位でいいんです」とか嘯いて富士氏を呆れさせたといふ逸話です。富士氏は今回碓井様が抄出の文章中でも「『誕生日』について云ふのに「試論」一篇だけの話をした伊東静雄はやはり眼光の鋭い、たしかな人だったといはないわけにはゆかぬ」なんて書いてゐるのですが、「一篇だけ」なんて語気は伊東静雄の意を見透かすものでありませう。愛情と優位とを確信する相手に対しては、時に不遜の姿で自恃を迫る、また人前で故意にさういふ挙に及んで欝屈の片鱗を垣間見せる人だったんだらうと思ひます。母親に対しても「おまへは黙っとれ」とか怒鳴った事が記されてゐますし、百田宗治も伊東静雄のことを「自恥を知って」ゐるからこそ「きっと不敵なものを蔵してゐる男で、どうかすると傲岸無礼の挙動が平気で行へる種類の人物」と評してゐます。一中学教師の社会的身分と等身大の詩人とみる向きに対して非常な敵意を抱いてゐたと、こんなことは愛読者には今更なことですが、碓井様へ至るいみじき三世代の師事を鑑み、あらためて書き添へてみます。
 晩年の林富士馬を迎へて発刊された同人誌「登起志久」から数へれば11冊。終始篤実の気によって領せられてきた無償の営為も次回の「満願成仏号」を以て終刊となる由。本当に御苦労さまでした。

405やす:2009/01/15(木) 23:22:52
更新報告 続き
 山川京子様主宰の『桃』一月号(Vol.56(1),No.634)の御寄贈に与りました。山川弘至記念館増築に係る地鎮祭の祝詞を、桃の会の野田安平氏が撰してをられます。ここにても会の皆様にはあらためて御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 さて、物を納める蔵も大切ではあるのですが、歳月が日々損なってゆく資料の保存を、なるべく早い段階で画像に於いて留めることが、不取敢自分に出来る精一杯の供養なのではないかと思ひ、昨年「田中克己アルバム」の公開を発心しました。御遺族の全面的な協力を賜り、本日先生の17回忌にあたり、更新を一通り終へることができましたことを、茲に謹んでご報告申上げます。
(なほ、集合写真においてはお名前不詳の方も多く、お分かりの方にはメールにてこっそり耳打ち頂けましたら幸甚です。)

406やす:2009/01/17(土) 18:14:14
初荷のキコー本
 旧臘は、上京した折に見つけた村瀬太乙の初刊行書『菅茶山詩鈔』(嘉永6年序)が「買ひ納め」でしたが、本年の記念すべき「初荷」もまた、長戸得齋の紀行文集『北道游簿』(天保10年序)と、津田天游『天游詩鈔別集』(昭和2年)と、御当地美濃の漢詩文集となりました(ニコニコ)。『北道游簿』は、かつて明治古典会七夕古書入札会で美本を手に取るも、やりすごした紀行本の稀覯本。冒頭にわが町長良村の風景も述べられてゐて、佐藤一斎は跋文で、歴史がてんこ盛りのところが凡百の紀行と違ってゐて宜しいなんて云ってますが、ここはやはり当時の郷土の風景をもっと報告して欲しかったところ。『天游詩鈔別集』は、『美濃の漢詩人とその作品』(山田勝弘著)のなかで、後半の一章を割いて詳しく紹介されてゐる詩集。序文を書いてゐる矢土錦山の扁額を入手してゐることもあって、気になってゐた詩集です。幸運にも二冊とも入手が叶ひ欣喜雀躍。昨日の五反田展『堀辰雄詩集』(デッサン欠\40,000)は残念ながら外れたのですが、これ以上望んだらバチが当ります(笑)。

『北道游簿』(冒頭)    美濃 長戸譲士譲著
文政己丑[12年]季夏、余旧里に帰る。先塋を掃展し、勢・尾間の諸友を訪ふ。還って岐阜に至り、姉夫安藤正修の百曲園に寓すること弥月[満ひと月]なり。路を北陸に取って以て江戸に赴かんと欲す。北勢の原迪齋の、其の子玉蟾を托して遊学せしむに会ひ、是に於て鞋韈千里も蕭然ならざるを得たり。乃ち其の行程を記し、以て他日の臥遊に供す。

七月二十六日。午後啓行[出発]。藍川[長良川]を渡り、長良村を過ぎる。百百峯[どどがみね]を乾[北西]の位に望む。織田黄門秀信の岐阜に在るや、其れ良(まこと)に百々越前守安輝[綱家]なる者、其の地に居れり。山の名を得たる所以なり。土佛[つちぼとけ]の峡を踰(こ)えて異石有り。晶瑩として鑒(かがみ)なるべし。呼びて「鏡巌」と曰く。所謂「石鏡」も葢しまた此の類なり。飛騨瀬川[一支流]を渡りて白金村[関市]に抵る。路岐れて二つと為る。右に折れて二里、関村に出るべし。昔、名冶[刀鍛冶の直江]志津・兼元有り、此に住めり。今に至って其の鍛法を伝へ、良工多く萃(あつま)る。左に転ずれば、下有知[しもうち]松森の二村を歴て上有知[こうづち]に抵る。地、頗る殷盛たり。市端に欝秀たる者、鉈尾山なり。一名を藤城山、佐藤六佐衛門秀方の城趾に係れり。秀方、総見公[織田信長]に仕へ、実に吾が師[佐藤]一齋先生の先[先祖]なり。夜、村瀬士錦[藤城]を訪ふ。置酒して其の弟秋水、及び族太一[太乙]、門人田邉淇夫[恕亭]数輩をして伴接せしむ。酣暢縦談して更深に至って始めて散ず。士錦嘗て頼子成[山陽]に業を受け、其の得る所を以て教授す。就学する者、稍衆(ややおお)し。秋水は画に工みなり。

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407やす:2009/01/18(日) 11:48:20
詩集『揚子江』
 山口融さまより、御尊父正二氏の詩集『揚子江』の あとがき画像をお送り頂いたので追加upしました。戦中に刊行が予定されてゐた戦地での詩篇を、敢へて書き変へず上梓されたのは、徒な戦意高揚でも反戦でもなく、一兵士としての自らの詩想に雑ぜものがなかったからなのだと思ひます。当時軍人詩人として有名だった西村皎三のことを蔑んでゐないのがその証拠ですし、四季派関連で申しますと臼井喜之介と、ウスヰ書房から詩集を出してゐる大西溢雄と、共にお知り合ひであったことにも驚いてゐます。孔版印刷であることも手伝ひ、戦後に出た多くの戦争詩集とは一線を画す氛囲気をあとがきから感じ、興味深く拝見しました。ありがたうございました。

408碓井雄一:2009/01/19(月) 10:30:00
有難うございます。
いつもいつも優しい御紹介と御手紙を賜り、本当に有難うございます。ようやく第9号まで発行することができました。嬉しく衷心より御礼申上げます。拙文「『定本伊東静雄全集』逸文の紹介、ならびに補説」と、林先生への追悼文、近日中にお送り申上げます。今日はこれから、大学の方の今年度の最終講義でございます。高校の方、センター試験が終り、僕は3年生の授業のみ担当ですので、こちらも一段落でございます。来年度も3年生の担当だと思いますが、何にせよ、4月中旬まで大勢の前で声を出すのは暫くお休みです。この間に自分の勉強の充実を……、と毎年思うのですが、サボってばかりおります。次号、7月上旬にはお届けできることと存じます。何卒お見守り下さいませ。

409やす:2009/01/21(水) 21:21:08
最近の経済的不況の折、伴侶にこれ以上本を買われるのを防ぐため、家人が目録を先に受け取り・・・
 碓井様、センター試験も終りひと段落された由。わが職場ではセンター終了を受けてのこれからが正念場です。今年もよろしくお願ひを申上げます。

 「田中克己アルバム」の写真の不明人物については、皆様から情報を募ってをります。かつて成城高校の国語教師であられた山川京子様よりは、成城国文学会の人々のほか、宮崎智惠・大伴道子合同出版記念会にも参加されてゐた由、御電話を頂きました。これには気が付かず、当日の雰囲気をお話し頂いた記憶力とともに吃驚です。ありがたうございました。

 さて本日到着の目録、和洋会の「お願い」に笑ひました・・・(今のところU^ェ^;U )。また石神井書林目録に『詩集西康省』の並本が\5250で出てゐましたのでお知らせします。

410やす:2009/01/22(木) 23:06:01
『天游詩鈔別集』
 風日事務局より歌誌「風日」の御寄贈を忝くいたしました。その精神的支柱である保田與重郎を回顧した「五十年記念誌」の頒布について、年会費の名目でお取り計らひ頂いた為、和歌の門外漢である私にまで昨年一年間、購読を賜ったのでした。谷崎昭男氏が草される先師の回想を楽しみに拝読してをりましたが、今号の話題は先だってこちらでも紹介させて頂いた身余堂写真集『保田與重郎のくらし』をめぐっての一文。いづれ一冊にまとめられる時を楽しみにしたいと存じます。ありがとうございました。

 探求書の『天游詩鈔別集』(津田天游著、昭和2年刊)を丸善から受取りました。馴染み深い岐阜市内の土地を詠みこんだ漢詩が目白押しに並んでゐます。金華山、達目洞、忠節橋、雄総山、岩井薬師、・・・尤も当時の風景なら写真がすでにある時代なので、何もわざわざ漢詩で偲ぶ必要はないのですが(笑)。用字・典故も江戸時代より易しくとっつきやすさうです。しかし、今しばらくは梁川星巌の伝記に齧りついてゆくことにします。「読書ノート」ゆるゆる更新してゆきますのでよろしく。

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411やす:2009/01/23(金) 23:51:35
御礼:『定本伊東静雄全集』逸文の紹介
 碓井雄一様
 林富士馬追悼文「先生の御事」(「新現実」71、2002.1)および「『定本伊東静雄全集』逸文の紹介、ならびに補説」(「昭和文学研究」48、2004.3)のコピーをお送り頂きありがたうございました。書き込みを賜りましたので、掲示板より重ねての御礼を申し上げます。
 思へば私は田中克己先生の臨終に際して文章を書いてをりません。ですが碓井様同様、年少の友人として接して下さった師の家に足く通ひ、奥様から毎度手料理を振舞はれ恬然長居してゐた貧乏青年、世代をはるかに隔てた不肖の弟子としての想ひを言葉にするなら、全く同一のものになると思ひます。違ふのは、碓井様の2年間に対して吾が5年間(ただし酒と文学論議は無し)。そして120通も手紙を頂いた碓井様に対して、私は最初に「一度いらっしゃい」と葉書一枚を頂いただけ。矍鑠たる浪曼派詩人との濃密な交際といふより、いつも横に控へる奥様と先生を肴にして三人で雑談に興じてゐたことが多かったやうに思ひます。一緒に撮った写真も5年間のあひだに適ま来訪客があって撮って頂いた一枚があるきりです。それは自宅改築の際の仮住まひでの写真で、段ボール箱に囲まれた先生は入歯を外しはなはだ冴えず、私も着たことのない色のセーターを着て表情硬く・・・けだし唯一の大切な写真には変りありませんが、あんまりひとにみせたくないのであります(笑)。
 『定本伊東静雄全集』の逸文ですが、刊行された『伊東静雄青春書簡』以外のものに限ってもこれだけの分量があるのですね。改訂版定本の刊行が無理でも新たに拾遺資料として一冊にまとまると有り難いのですが、それも難しければHPに上してしまふのも一策です。研究者も愛読者も多い詩人ですから(嫌な言葉ですが業績価値も商品価値もあり)此処で勝手に「孫引きベータ版」を掲げてしまふ訳にもゆかないのが残念ですが、今回碓井様が整理して報告されてゐる新見資料の書誌のみ掲げさせて頂きます。

書簡:杉山平一宛(昭15.9.29付)、三島由紀夫宛(昭19.11.21付):『定本伊東静雄全集』第7刷(人文書院1989.4)別刷付録
歌詞:「木枯し」:『新修女子音楽』水野康孝編(大阪開成館、昭12.9):小高根二郎「伊東静雄・その詩碑と拾遺と」『文学館』5 (潮流社1984.11)
書簡:吉田貞子宛(昭7.5.4付)、宮本新治・貞子宛(昭9.2.3付)、宮本新治宛書簡(昭9.2.18付)、杉山平一宛、三島由紀夫宛(前述):同上(小高根二郎)
書簡:下村寅太郎宛(推定昭18.春)、下村寅太郎宛(昭18.10.27付):『伊東静雄―憂情の美学』米倉巌(審美社1985.9)
書簡:小高根二郎宛(昭25) (昭26.1.15):「当館所蔵の伊東静雄書簡について」『大谷女子大学図書館報』19(人文書院1987.1)
散文:短文4篇:『呂』3(昭7.8)、4(昭7.9)、6(昭7.11)、7(昭7.12) :赤塚正幸「伊東静雄読書目録」『敍説』9(敍説舎1994.1)
書簡:肥下恒夫宛(昭10.8.22〜18.10.12):飛高隆夫「肥下恒夫宛伊東静雄葉書二十通他一通」『四季派学会論集』6(四季派学会1995.3)
書簡:品川力方海風杜宛(昭13.11.20):「館蔵資料から 未発表資料紹介」『日本近代文学館』146(日本近代文学館1995.7)
散文:『呂』第四号(昭7.9):碓井雄一「伊東静雄の「全集」と「文庫本」・覚書」『群系』(群系の会、1996.8)
書簡:大塚格宛133通:大塚梓・田中俊広『伊東静雄青春書簡―詩人への序奏』本多企画 (1997.12)
散文:「一つの詩集」:『野人』第六号(昭14.9.20):碓井雄一「『定本伊東静雄全集』逸文の紹介、ならびに補説」『昭和文学研究』48(昭和文学会2004.3)

 文中『呂』の逸文の紹介者である赤塚正幸氏は、かつてわが職場で教鞭を執られた先生。おかげで図書館には四季派関係の文献が完備してゐます。過去の紀要所載論文も許諾を受けCiNii からFull Textを公開させて頂いてゐますので併せてお知らせ致します。
 ありがたうございました。

412:2009/02/04(水) 18:58:42
わが忘れなば
はじめまして。佐藤ゆかりと申します。

詩集にも古書にもまったく詳しくなく、なのにこんな「まさに素人!」の投稿していいのだろうか…と不安になりつつ、どうにも気になってメールしております。

私、「この道を泣きつつわれのゆきしこと わが忘れなばたれか知るらむ」がとても好きです。何というか、生きようという力がわいてくるような歌だと思います。

この歌を検索しているうちに「四季・コギト・詩集ホームページ」に出合いました。
田中克己さんのいろいろな歌にふれることができ、喜んでおります。

そして、「エッ」と思いました。
私は今まで「わが忘れなば」と思っていたのですが、『戦後吟』の写真に「わが忘れたば」とあります。
「わが忘れたば」と「わが忘れなば」は意味合いが少しだけ変わるような気がしています。
中嶋様も「わが忘れなば」と書かれていらっしゃいますが、田中克己さんは『戦後吟』のあとに「たば」を「なば」に変えられたのでしょうか。
もともと「忘れたば」なのか、それとも「なば」に変えたのか(それとも現代用語では「たば」は「なば」なのかと考えたりもして…)などいろいろ考えております。
変えたならば「深い」と勝手に思ったりもしています。

「たば」と「なば」についていろいろ検索したのですがまったくヒットしません。それで、思わず投稿してしまっております。
もしも、ご存知でしたらお教えいただけると幸いです。
このような変な投稿で申し訳ありません。

413やす:2009/02/04(水) 21:42:52
お詫び
佐藤ゆかり様、管理人のやす@中嶋康博と申します。詩を感ずるのに素人も玄人もありません。
さてお尋ねの件ですが、「ご存知」も何も、これは小さな画像を掲げた私のミスなのですが、再度スキャンしました画像を御覧頂ければ分かるやうに「忘れなば」で正しいのです。申し訳ありません。
「生きようという力がわいてくるような歌」といふのは、あたらしい解釈ですね。
私にとっては、落ち込んでゐる時に口ずさんで、さらに完膚無き迄に悲しませる感傷的な歌なのですが、いぢけすぎて悲しみの向かふ側をみて居る節も感ぜられます。
思ふにひとは一度泣きつくした所から再び立ち上がる力も涌きあがってくる訳ですから、さういふ解釈も成り立つかもしれません。
この歌に復唱して「たれをかも恨むにあらむこのみちを??いつよりわれはなきそめてこし」なんて歌もあります。
立派な公開資料に見合はぬ拙いノートを併載してをりますが、今後ともよろしく御贔屓に下さいませ。レファレンスありがとうございました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000554.jpg

414:2009/02/05(木) 10:48:05
ありがとうございました
中嶋さま

ありがとうございました。詩集も「忘れなば」ですね。
お詫びなんてとんでもない。むしろ、私の見当違いでお手数をおかけしてしまいました。本当に申し訳ありません。

詩(本もみんなそうだと思いますが)はいろいろな読み方があるんですね。中嶋さんの「完膚無き迄に悲しませる感傷的な歌」に「そんな見方もあるのか!」と驚くやら、「確かに」と唸るやら。世界が広がり、ドキドキしております。
私はこの歌を人から教えていただきました。
「哀しみから立ち上がる」というよりも、「この道を泣きつつも頑張って歩んできたことを、誰が知らなくても私自身が知っている。それでいい」と言う感じでしょうか。

詩って本当にいいですね。今回、それをすごく感じています。
これからもHPによらせてください。よろしくお願いいたします。

415やす:2009/02/07(土) 19:25:23
御案内
>佐藤さま
「頑張って歩んできた」といふのは、読者の事情に依った解釈なのか、今一つピンと来ないのですが、「私自身が忘れたらこの私の徒労を知る者もなくなってしまふんだなぁ…それでいいか(嗚咽)。」といふのが私の理解でしたが、前向きに解釈されたのは珍しいことに思ひます。

さて、文化のみち二葉館からは次回の特別展「春日井建と仲間たち」の御案内を頂きました。そもそも和歌と現代詩と両方苦手な人間にして、さきの「この道」の歌さへオロオロ解釈、コメントもできなくって恐縮しきり。頂きましたチラシをとりいそぎ御紹介いたします。

416やす:2009/02/07(土) 19:51:56
詩集『揚子江』
山口融さまよりは、先日(1月18日)紹介しました父君正二氏の戦塵詩集『揚子江』(昭和51年私家版)の御寄贈に与りました。本来戦争中に出る筈だった詩集ですが、戦後手許に戻ってきた原稿を改作せず、30年後に再び刊行することにしたといふ代物。内容は掲示板で予想した通り、日中戦争で実際に戦った当事者の、のっぴきならぬ現実が、思想ではなく詩想を通じて吐露されてゐました。巻末には「文字、仮名づかい、何れも原文のまま」とし、読みづらいのは「それはとりもなおさず戰爭を知らないと云ふことに庶(ちか)いのではなかろうか」と記されてゐます。たしかに仮名遣ひの他にも、当時の中国語が説明無しでたくさん詠みこんでありますが、もとより生き残った知友の机辺におくるため、自ら孔版を刻し、たった200部刷って製本した私家版の詩集です。味方を疑はず、敵を蔑まなかった一日本兵の心情が、生のままに感ぜられ、当時抱いた詩情と真(まこと)を、そこにそのやうにしか在り得なかった青春を、三十年後の著者が併せて懐かしんだ。そのやうにみるべき作品集でありませう。序詩を紹介させて頂きます。

  (序詩)軍艦旗
              山口正二

おれはもうおれのおれではない
理窟も議論も無く、さうなんだ
おれが獨りのおれの時は
社會とか、秩序とか、
生きる爲の方針とかについて、そして又時々は見榮と謂った
こと等や、極くつまらない損とか得とかの區別までも、
ちゃんと考へてゆかねばならなかった。
そんなに多く、持ち切れない條件を背負ひまはっても、
おれは矢張り阿呆の様にしか生きてゐなかった。
おれは
今、もう棒ッ切れの様に單純だ
唯、鬪へばいいのだ。
大きなカのほんの一つの細胞となって
敵に打つかればいいのだ。
そして、勝てばいいのだ。
戦ひは勝てばいい様に、
おれは、誰の爲にとも、何の爲にとも考へる必要はなくて、
唯もう撃ち出された彈丸の様に、眞ッ直ぐに翔ペばいいのだ。
こんな簡単なことが、
おれを数倍も偉く感じさせる。
ともかく
おれはもう充分満足して、おれの動くのを凝視めてゐる。
おれの腦髄にも、網膜にも、
ああ、體中に、
はたはたとはためく軍艦旗
おれは
いっぽんの軍艦旗になって進む。
                    『揚子江』より

詩集の現物を手にすれば、飛騨高山で同じく謄写版印刷を生業とした和仁市太郎の詩集と同じ「手作り感」を実感できます。昨今の、小綺麗で均一装幀の自費出版詩歌集ブームの中にあって、慥かにこの「紙碑」は内容と同等の異彩をを放ってをります。いづれホームページで全文が公開されるのを俟ちたいと存じます。
ここにても厚く御礼を申上げます。ありがとうございました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000557.jpg

417やす:2009/02/11(水) 16:05:39
Book Review
 去年の10月に『ボン書店の幻』の改訂再版が出てゐたことを知らず、先日新本を求めて所感を記したのですが、同じ月にもう一冊、日本漢詩人選集(研文出版)で梁川星巌の巻が出てゐたこと。これまた不敏にして先週まで知りませんでした。昨晩さっそく県立図書館へ行って借りてきました。収録詩篇が少ないものの、解説は丁寧で江戸詩人選集(岩波書店)との重複はありません。『梁川星巌全集』での伊藤・冨永両先生による注釈以後、新たに補足された語釈や故事について知ることができ、わが拙き読書ノートにも裨益するところ大です(現在【ノー ト13 頼山陽との永訣 江戸へ】まで)。ともにBook Reviewより御笑覧ください。

 また図書館のついでに、全集の第4巻も借用してきました。5巻本のうち手許にこの巻だけないのですが、第1巻〜第3巻の星巌詩集本篇に比べて、350冊しか作られなかったこの第4巻(紅蘭詩集)と第5巻(書簡)のみを手に入れることは至難の業。結局コピーをとることになりさうです。

 中野書店『古本倶楽部・お喋りカタログ』第三号に『萱草に寄す』書入れ並本現る(\315,000)。これまた目録に出るたび切ない気分。

418やす:2009/03/14(土) 19:46:26
(無題)
 花粉症に加ふるに風邪が長引いてゐたため、連日眠気覚めやらず、読耕ままならず、この一ヵ月修養も遅滞してをります。
 山川京子様よりは『桃』の御寄贈を忝く致しました。山川弘至の戦地における遺著といふべき、古事記を和歌の調べに翻案した『日本創世叙事詩』が、版元を変へて三たび再版されます由、お慶びを申し上げます。民族受難の時代に詩人がなすべきことはなにか、神の国に在ることの意義や自覚を求心的に問ひ進めていった末に、凝(こご)り固まった祈りの姿が茲に示されてゐる、そのやうに思ひます。激烈な序文はもとより京子氏が後版跋文で補足された当時の詩人の消息を、今の日本人がどう享けるのか。彼が殉じ得た神話の詩精神が、このさきも歴史を祓ひ鎮め続ける祝詞として活き続けることができるのなら日本は決して滅びない。さうして漢詩文をふくむ古典を通じて、廃仏毀釈以前の日本人が規範とした慎ましい道徳のありかたに再び思ひを寄せることができるのなら、日本はその歴史に安んじて周りを見回すことだってできる、そのやうに思ってゐます。
 ありがたうございました。

419やす:2009/04/26(日) 08:58:19
近況報告
 近況報告を疎かにしてをりました。まとめて記します。

 鳥取の手皮小四郎様より『菱』165号の御寄贈。今回の荘原照子の伝記は読みごたへがありました。田舎らしからぬ執筆陣を聘した『白梅』といふ文藝雑誌をめぐり、中原中也15歳、荘原照子14歳の投稿詩歌の紹介、そして当時三木露風に激励された喜びを今も寸分違はず記憶してゐる元文学少女の老婆と、うなぎ丼を食べながら相対する筆者。残り物をビニール袋に「ドサドサ」詰めて持って帰らうとする姿をリアルに描いて締め括る、手皮様らしい文章と精緻な考証に感歎です。

酔ひたふれ正体も無き吾が父を山門に見て走りよりしも
山門に酔ひ仆れたる父をめぐり人集ひをれど吾は泣かなくに

 当時の、父親を歌った短歌が『マルスの薔薇』のなかの人物描写そのものであったことに「びっくり」ですが、「びっくり」はむしろそんな歌を父自身の目に触れるかもしれぬ雑誌に投稿する恐るべき14歳の少女といふべきかもしれません。この時代の詩人は光と影のコントラストの強いトラウマが、モダニズムを纏ふことなく素のままに渦巻いてゐる感じ。引き裂かれる初恋をめぐっては「いずれ詳しく触れ」られる予定です。


 八戸の圓子哲雄様から『朔』165号ならびにお便りを拝掌。雑誌はこのたびも小山正孝未亡人常子氏の一文に癒されました。丸山薫を語りつつ、引用された八木憲爾氏との件りもあたたかく、本が唯一の財産だったといふ詩人の文学気圏の中に留まり、いつまでもこのやうに回想してくれる奥さんをもつ喜びといふのは、やはり四季派詩人ならではの特権であると思はれたことです。


 圓子様のお便りには、『朔』編集局へ宛てた田中克己先生からの風変りな感想のことが書かれてゐました。そんな折、田中先生のハガキをまとめて送って下さった埜中美那子様には、宛先である辻芙美子様とともに、あらためてこの場を借りまして御礼を申上げる次第です。
 写真も同封されてゐましたので早速アルバムも更新しました。辻芙美子氏は帝塚山学院短期大学時代の四期生。ドイツ語を買はれ卒業後、服部正己博士の秘書に推薦された田中先生の教へ子です。最晩年の来信は、私が先生の御宅に出入りしてゐた時期と重なってそれまた思ひ出深し。けだし私宛ての手紙は、最初においでなさいと呼ばれた絵葉書一枚きりでしたから(笑)。

 みなさまには御身体御自愛のこと御健筆をお祈り申上げ、厚くお礼を申し上げます。
 ありがたうございました。


 さて、読耕が滞ってゐる梁川星巌先生の伝記は、このあと佐久間象山と出会ひ尊王路線を深めてゆく道行きです。日ごろ親炙してゐる「朗読CD」のなかには象山先生の『省[侃言]録せいけんろく』の触りも収めてあって、曰く、
「君子に五の楽しみあり、而して富貴は与らず。一門礼儀を知りて骨肉釁隙なきは一の楽也。」
 またこれも収録の『教育勅語』は、いぶせきこの頃繰り返し聞くうち覚えてしまひました。
「父母に孝に 兄弟に友に 夫婦相和し」
 朝晩般若心経を唱へながら喟然たる日々を送ってをります。

420やす:2009/05/02(土) 11:13:18
(業務連絡)
半月前よりトップページのcounter故障、大凡の数字を足して本日復旧しました。

421やす:2009/06/01(月) 11:50:01
宮田嘯臺翁
 昨日、旧加納宿の当分本陣だった漢詩人宮田嘯臺の旧宅に御挨拶に伺ひ、復刻本『看雲栖詩稿』の全文公開について御承諾いただいた御礼を申し上げるとともに、子孫である佳子様よりは、詩人の遺墨・文献の類を示され、当家に伝はる貴重なお話をお伺ひすることができました。早速、撮影画像を追加させて頂くとともに、この場をもちまして改めて御礼を申し上げます。
 拝見した遺品でびっくりしたのは、復刻された手稿本6冊の他、なほ未公開の漢詩集が1冊あり、多くの「まくり」の類も遺されてゐたことでした。まくりは、岐阜教育大学(岐阜聖徳学園大学)の教授であった故横山寛吾先生が、宮田家を調査された際に筆跡を解読された白文が遺されてゐましたので、テキストに起こして公開、順次読み下してゆければと思ひます。また漢詩のみならず、加納宿の好事家連で巻いた狂歌の写しもまとめられてゐて、こちらは全て佳子様が読み下され、すでに一冊のテキストになってをりました。安永4年(1775年)に25でなくなってゐる詩人の弟(士瑞)が参加してゐることから、狂歌流行の気運のなか、先代を中心とする近所の文学好きのサロンの中で、若き日のユーモアを存分に発揮したものと思はれます。ただ、和歌や芝居の知識も要りさうな江戸時代の狂歌の解釈は私に荷が重いかも(汗)。一例を挙げるとこんな感じ、友人の篠田氏より新蕎麦が送られ、皆で食べた時の模様です。

「花鳥軒の蕎麦切に」

秋なから蕎麦の名代は花鳥軒 はらのはるへ[春の春辺/腹の張る屁]をもてなしにして (霞亭)
扨も扨もこの蕎麦切りの信濃よさ[品の良さ] ほほう見事な花鳥軒とて (州蕷)
花鳥軒たたの鳥とはおもはれす 此ほうちょう[包丁]の手きはみるにも (丁江)
御馳走は花鳥の軒の蕎麦しゃとて はらはるならぬ人とてもなし (滄浪)
花鳥とほうひ[褒美/放屁]のうたのそろいしは 蕎麦にくさみ[ネギ]の取りあわせかも (奈何)
麺盤たるほうちょうときく蕎麦切は くふにしかさるへ[屁]けんどん哉 (奈何)

 蕎麦食べながらの歌会で、誰か大きなおならでもしたんでせうね。奈何は嘯臺翁の父。さても「緡蛮たる黄鳥・・・鳥に如かざる可けんや」を引ッ掛けて洒落のめしてしまふとは磊落な親父さん。二十代とおぼしき翁はこのなかでは(霞亭)の名で時折顔を出します。おそらく脇本陣の詩友、森求玉も混じってゐる筈ですが、どの号が誰なのか判然としません(滄浪は秦滄浪ではないらしいです)。

 当日は少し離れた塋域に立ち寄ることも出来、一日の御縁を墓前にあつく感謝申し上げることができました。訪問記をご覧ください。


 さて、皆様からお送り頂いてをります種々の雑誌、個々に御礼は申し上げてをりますが、ここでの御紹介が久しくお留守になったままでをります。誠に申し訳ありません。殊にも國中治様から4月にお送り頂きました、杉山平一先生の詩業を縦横に論じた論文の数々は、読後感を昨年末に半分書いたまま、継ぎ穂を失ってしまひ、書きあぐんでゐる始末。わたくし事で頭が思考に集中することができず、加之、BookReviewが投書を受けて削除されることもあり、自分のつまらぬ意見よりテキストの紹介に専心した方が、よほど世の為、精神衛生にも適ふと思ったものですから、いましばらく頭を使ふ更新を避け、テキスト紹介作業に集中したい考へです。よろしく御理解賜りたく存じます。

422やす:2009/06/25(木) 23:15:56
『龍山遺稿草稿』と『詩稿』のこと。
 加納の宮田佳子様よりは、ひきつづいて宮田嘯臺の若き日の盟友である左合竜山の詩集『龍山遺稿』の写本草稿と『詩稿』と題された謎の(?) 写本草稿をおあづかりしてゐます。
 『龍山遺稿』の写本は、岐阜県図書館にも昭和16年に寄贈された一冊がすでに所蔵されてゐますが刊本と異同がなく複写本と思はれ、拾遺詩を含んだ原草稿といふのは、編者嘯臺自筆の書き入れとともに、200年前の地元漢詩の新資料発見といふ意味でも、たいへん貴重な文献かと思はれます。
 またもう一冊の『詩稿』と題された文庫本大の写本草稿ですが、裏に嘯臺翁の長子である「宮田[龍共]」といふ名が入ってゐます。普通に考へればこの夭折詩人の自筆草稿といふことになるのですが、途中に現れる「辛巳元年」といふ年号が、宝暦11年(1761)としても文政4年(1821)としても、氏の生没年[明和4年(1767)〜安永9年(1780)]とずれてゐて、合はないのです。後半に「初夏村瀬士錦君見訪」といふ詩があることから、どうやらこれは文政4年、嘯臺翁75歳時の詩稿である可能性が大です。この年の春に翁が村瀬藤城(士錦)の生家である上有知(こうづち:黄土)に自ら赴き、30歳の藤城が礼をもって迎へ、今度は夏に藤城が加納にやってきた。さういふことではないかと思ひます。藤城先生はすでに嘯臺翁の古希(文化13年)に賀詩を贈ってゐます。師である山陽が以前、加納に枉駕したときに与へたといはれる「悪印象※」も、嘯臺翁の中ではもう過去のこととして、人格者村瀬藤城との往来のなかに氷解してゐたことでありませう。
(※文化10年当時34歳だった山陽は、美濃の田舎の宿場町に訪れ、集まった詩人たちを一瞥して「青田のごとし」と評した由。一代前の詩壇が流行させた平易低俗の弊が「擬宋詩」として、新世代詩人たちによって軽蔑され始めた頃ですから、狂俳が蔓延したといはれる美濃の地で嘯臺翁が奉呈した詩の謙譲さといふのは、山陽のためには「単なる文学好きな田舎爺」の媚態とでも映ったのでありませうか。)
 しかし、ならばなぜこの詩稿ノート裏に「宮田[龍共]」と記されてゐるのでせう。これは『三野風雅』に於いて父兄の順に詩人が載せられてゐるなか、三男の精齋が長男のを差し置いて前に記されてゐることや、二人とも同じ吉太郎といふ通称であること(嫡男としての通称を継がせたのかもしれませんが)、ともに謎です。或は多作家と伝へられる嘯臺らしく、息子が作って白紙のまま残してあったノートを、借用して自身の詩稿帳に使用したものかもしれません。

423やす:2009/06/25(木) 23:23:42
つづいて村瀬藤城のこと。
 先日ネット上で偶然村瀬藤城の自筆詩稿を見つけました。眺めてゐたらば、なんと以前BookReview『漢詩閑話 他三篇』で紹介されてゐた地元旧家に伝はる掛軸の詩篇とそっくり同じものを発見。早速その事実を著者の御遺族へ報告し、御挨拶かたがた先日、件の掛軸の写真を撮らせて頂きにお邪魔いたしました。
 往時の長良川の渡し場の面影は、鉄橋と堤防によって偲ぶよすがもありませんが、藤城の詩に記された森鬱たる背後の山や神社はそのままです(写真)。
合せて梁川星巌の詩軸も提示され、現在解読中。ともに故中村竹陽翁の秘蔵品だった由、残念ながら翁の従弟で口語詩人の深尾贇之丞にまつはる資料はありませんでしたが、土地に根ざした文献が、縁りの家に百年以上もそのまま蔵されてゐる有り難さを、しみじみ感じて参りました。
 さて次の日のことですが、偶然頂きものの福井のお土産「織福」といふ和菓子の包み紙に見覚えのある署名をみつけました。村瀬藤城の署名とこんなところで出会へるとは、連日の遭遇にびっくりした次第(笑)。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000568.jpg

424やす:2009/06/30(火) 22:38:48
「口語俳句 新刊号」
 在京時代勤務してをりました下町風俗資料館の元上司、松本和也様より「口語俳句 新刊号」の御寄贈にあづかりました。ここにても厚くお礼申し上げます。ありがたうございました。
 長らく自然消滅状態にあった雑誌の復活は、往年のロックグループの一夜限りの再結成みたいですが、「言うべきことは言っておこうというわがまま」と謙遜される松本館長、否「まつもとかずや」氏らしい節操と節廻しに触れてなつかしく、東京にをりました当時の極貧詩人時代の自分もなつかしく思ひ返されました。もとより作詩上においては180度ことなる立場にあった私ですが、下町の風景が変貌してゆくことに対して、下町風俗資料館ですごした6年間、「いまどきの若い者」なりに心を痛め、今はまた、日本の庶民が当たり前のこととしてゐた生活上の信条さへ、風前の灯下にあることを、ことさら強く感じつつ文章を拝読しました。
 「口語俳句」と「一行詩」とはどこが違ふのか、「口語俳句」と「川柳」とはどこが違ふのか、むかし館長にお尋ねして困らせたことがありました。思ふにそれを「一行詩」として一句ごとにタイトルをつけるのは(そのギャップにポエジーも生れるのですが)事々しく野暮天なのであり、また「川柳」には「あてこすり」はあっても真の批判精神はなかったことを思へば、「鹿火屋」の流れを継ぐ末裔の思ひとして、「川柳」とも一線を画されたのではなかったかと、さう解釈したことと思ひます。戦後民主主義の思想を投入された俳句が、ときに異物を注射された生き物のやうにのた打ち回ってみえることもあり、却ってそんな破調もふくめて「口語俳句」の持ち味として主張してゐるんだらうな、民主主義を前衛する自負と庶民の生活にうごめくエロティシズム、これらが同居した産物として「口語俳句」といふブランドであり、歴史的エコールなんだ、と思ひ至ったことがありました。
「ストリップ嬢の傍らでかぶりつく天皇がいてもいいよね」
 伝統に対する「わがこころのレジスタンス」の最たる一句でせうか。

 しかし「戦争を知らない子どもたち」の世代が老境を迎へ、日本はいまや「戦争を知らない老人たち」が、昔ぢゃあり得なかったやうな情けない事件で世間を騒がす前代未聞の時代に突入して参りました。伝統文化に対して、レジスタンスどころか介護認定をしなくてはならない現状に接して、日本の国はさきの敗戦で切り花のやうに、文化の命運をすでに絶たれてゐたのだらうかとも思はざるを得ません。戦前の面魂を存した斯界の巨匠たちが、たまさか戦後の自由な空気にふれて発火した、最後の燃焼といふべき精神的所産のピークを最後に、日本といふ国は物質的な豊かさと引き換へに精神的にはゆるやかに滅びていったのだと、この頃の私は考へるやうになりました。こんにちの日本文化を代表するとも云はれるアニメブームさへ何かしら、手先が器用だった職人文化の亡霊の仕業に思はれることが多々あります。
 などと、つまらぬ意見を礼状にも認め、大いに頻蹙を買ったことと存じますが(笑)、なにとぞお体御自愛頂き、再び怒りの爆発にむけて御健筆をお祈り申上げます次第です。ありがたうございました。

「口語俳句 新刊号」44p 2009.6.1発行 \500
 〒344-0007 埼玉県春日部市小渕2172口語俳句発行所

425やす:2009/07/13(月) 00:09:02
『マルスの薔薇』
 鳥取の手皮小四郎様より『菱』166号の御寄贈にあづかりました。荘原照子の伝記は、投稿雑誌『白梅』で三木露風、『婦人之友』で佐藤春夫、『若草』で萩原朔太郎と、雑誌ごとに変容を遂げつつ先輩詩人に認められ、頭角をあらはしてゆく様子を追ひながら、のちに『マルスの薔薇』のなかで仮託して描かれるところの、詩人の生涯を決定づけたといってもよい、青年歌人小川五郎との出会ひと別れについても詳しく触れられてゐます。非常に興味深いです。

 この「マルスの薔薇」といふ小説ですが、導入と締め括りこそ詩的に過ぎる憾みが残るものの、主人公、宍戸タカナをめぐる人物配置の周到さ、実在の恋人からの手紙を思はせる、時衛との往復書簡を挿入する条りなど、処女詩集に収められる習作らしくはない、構想・表現ともに密度の高い散文作品であります。今年は100年祭の太宰治が何かと話題になってゐますが、こんな作品こそ「斜陽」の先行作品と呼んでもいいのではないでせうか。旧家の主人と取巻連はロシア文学を意識して設定されてゐます。主人公が幼児期に見聞きした祖母からの庭訓や、父の嫉妬に纏はる鶏の挿話は封建時代の墨色に彩られ、従兄からの暴虐に「電気に酔はされた蛙の子」になってしまったトラウマの描写にはエロスが漂ひます。彼女が育った一旧家の没落、その様相を綴る際のアレンジには、かう呼んで良いなら大陸モダニズムと日本浪曼派、太宰治といふより、(当時の小説を多く読んだことのない自分ですが、)むしろ安西冬衛や檀一雄を髣髴させます。それをまた、自立を夢見る羸弱な少女の視点を通して語ってゐる訳ですが、最後は唐突に、露天商に身を持ち崩し結核を思はせる病臥の身に主人公を陥れてをり、絶望を袋小路につきつめることで実作者自身は一種の再生を図ったのでせうが、これを「ろまん」と呼ぶには余りに告白の産物に過ぎたのかもしれません。つまり前回も書きましたが、寺の門前で酔ひ潰れる父親の描写など、現実にあったことを脚色して織り込み、赤裸々な恋愛の挫折表白とともに親族の怒りを買って「絶縁」が取り沙汰されたといふことであります。
 詩人らしい一瞬の輝きを形象化したモダニズム女流詩人の奇跡の作品集であることに変はりはありませんが、これが作者「テルちゃん」のあづかりしらないところで秋朱之介によって勝手に編まれてしまったといふ事情を察するなら、新人作家の彼女にとっては、(誤植の多さなどといふことよりも)、あらかじめ飛躍の芽を摘まれる理由を包含しての、不本意な出発を用意されてしまった、そんな側面はなかったのでせうか。次回の連載を楽しみにします。

 また今回、この雑誌の到着と時を同じくして、東京浄土宗の古刹一行院から頂いたメールによって、詩人の祖先の一族のひとりであった、庄原篁暾の塋域が明らかになりました。これも何かの符合を感じて感慨を深くしたことです。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『菱』166号 2009.7.1発行 71p
 〒680-0061 鳥取市立川町4-207 小寺様方 詩誌「菱」の会 \500

426やす:2009/07/15(水) 22:18:38
『桃』七月号
 山川京子様より『桃』七月号の御寄贈にあづかりました。今回巻末に掲載されたのは詩人山川弘至の母の手紙。昭和18年当時といへば、応召直前の詩人は27歳です。家名顕彰を託すに足る俊英とは云へ、手紙のなかで吾子に対し敬語を使用する萱堂の心映えには、詩人が気高く純粋に育つ基を見る思ひがしました。と同時に、帰省の折の慈愛と孝養と、決して他所の家庭と変るものではないことも分かって心温まる内容。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000572.jpg

427やす:2009/07/19(日) 02:00:51
六曲一双屏風・『聖代春唱』・『三野風雅』異本のこと。
 加納の宮田邸にて、嘯臺翁の染筆に係る立派な六曲一双屏風を拝見させて頂きました。それぞれ詩人の古稀、および八十二歳時に書かれたもので、宮田家の家宝といふより、まさに加納宿の文化財と呼ぶべきものと思はれました。追って詳しく紹介したいと思ひます。

 またお土産に、文政九年80歳の嘯臺翁の序文を戴いた『聖代春唱』といふアンソロジー詩集を賜りました。奥付のない、地元吟社が発行した自費出版の稀覯本です。そしてここになんと「宮田[龍共]」氏の名が再び現れてゐました。彼が宮田家を継ぐことのなかった養子であるらしいことや、また文政4年の『三野風雅』刊行時には死んではゐなかったことなど、これで確かなものになった感じが致します。内題に「九峯童梅龍、姓森名敬け小字菊之助継業(森梅溪)之男」とありますから、題字を書いてゐるのは実に嘯臺翁の畏友、森東門の孫といふことになります。正に『三野風雅』第二冊目に収められた人たちによる続編といった趣きですが、掲載は一人一首、順序も[龍共]氏が翁より前になってゐて、まちまちです。こちらも全文を公開する予定です。

 さて、『三野風雅』といへば、美本の揃ひが最近かわほり堂の古書目録に現れて驚愕しましたが、佳子様が
「県立図書館に寄贈した5冊のセットものとは別に、題簽のないこんな一冊があったんですよ」
 と話題に差し出された本を手にとった私はさらに吃驚。この、『三野風雅』第2冊目と思しき一本ですが、「巻三」に収められてゐる筈の宮田嘯臺翁がなんと「巻二」に収められてゐるではありませんか。つまり本来巻三(19丁)と巻四(16丁)を内容とする筈の第2冊目が、巻二として34丁のページが振られてゐるといふ事実です。おそらく第一冊目を巻一に宛てた為にさうなったに違ひなく、アンソロジーは計画段階では10巻5冊セットではなかったことがわかります。収録詩篇の異同をみると、通行本の巻四の初めに収められてゐる井上正方と、最後に収められてゐる伊藤冠峰が抜けてゐます。井上正方の詩篇は34丁あった巻二を(19丁+16丁)の巻三+巻四に分けた際、追加された1丁に収めたことが分かりますが、末尾の伊藤冠峰のために用意されたスペースは、これがどうみても版木に上から紙をかぶせて「隠して刷った」感じです。さらに奇妙なことを云へば、巻頭もまた「菅原達有功采録 西川軌子範校字」の1行が潰して摺られてゐて、題簽も貼られた形跡がなく、サイズも少しばかり大きい。これはおそらく、まだ「お上の許可」を得てゐない「試し刷り」版の一冊ではないでせうか。収録詩篇の一番多い嘯臺翁には、抜き刷りとして早々に配られたものでありませう。また伊藤冠峰については、載せるべき詩が未だ確定してゐなかったのかもしれません。結局掲載は2編でしたが「被せ」は丁の最後まで及んでゐます。遺族との「著作権交渉」がクリアされてゐなかったか、34年も前に亡くなってゐる冠峰の拾遺詩はうまく輯まらなかったのでせう。掲載された2編「読史」と「石川太乙過訪喜賦」は、「詩集を刊行してゐる人は新作か拾遺を収める」といふ編集方針に違ひ、冠峰の詩集『緑竹園詩集』に収録の詩篇です。この詩集には金龍道人の序があり、道人を先輩と仰ぐ翁と冠峰との交流も活発だったことが確認できます (163「春日宮田贈子(ママ)祥」199「次韻宮田士祥兼呈弟士瑞」455「和宮田士祥雨後作」など)、看雲文庫に『緑竹園詩集』はありませんでしたが、もしや嘯臺翁に憚る処あって刊行者津坂拙脩が、この抜き刷り印刷の際に配慮して削除したと考へたのは穿ちに過ぎたやうです。
 とまれ大変興味深い出版資料なので、これまた別に全頁を公開したいと思ひます。お待ち下さい。

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428やす:2009/07/28(火) 22:46:05
山川弘至記念館増築
 日曜日、郡上市にある山川弘至記念館増築竣工のお披露目にお招き与りました。悪天候にも拘らず歌誌「桃」同人の皆さんが多数参集され、主宰の山川京子氏の晴れ女の神通力の効あって、歌碑参拝と展示見学の間だけは篠突く雨も上がるといふ奇跡に恵まれました。

 この記念館、奥美濃旧高鷲村にある詩人の実家が独力で建設せられた、石碑と対をなす詩人を景仰する「祠」と呼ぶべき建物であることは、3年前の開館時にすでに述べたところですが、少時から28歳の戦死に至るまでの吾子ゆかりの品々を大切に保管せられた萱堂の慈愛と、歌誌「桃」を興し、やまと歌の道統を亡き夫の志とともに半世紀かたくなに墨守された京子氏の純愛と、それらを俟って初めて実現を見た「祈念館」とよぶべき性質の資料館であることを、今回の訪問で再び強く味はひました。それは一人の若い戦没知識人を顕彰しながら、決してひとりのものではない、稀有な愛情に貫かれた兵隊遺族の心情が、戦後変はり果ててしまった日本人の国家観の喉元に突き付け続けてゐる「匕首」であるのには違ひなく、志なかばに斃れた詩人国学者の矜恃と無念とを、同時に守り鎮めんとする館設立の趣旨といふのは、これを文学館と呼ぶより、確かに靖国神社と変はらぬもののやうにも思はれるのであります。明るい木のぬくもりの感じられる新展示室で、歩兵操典の字句を書き綴った手帳に涙する見学者の婦人の隣にあって、殊更さう思はれたことです。
 建立が、さうして詩人を殉教者として尊ぶ人々や、辛くも歌によって自らを支へてこられた御遺族の心映えをうつして、英霊の故郷「ふるくに」と呼んで差し支へない日本の農村風景を今も伝へる山深い村里になされたことは、来館者の多寡に拘わらず、里帰りを果たした詩人の安らぎとしてここに特筆すべきことであります。
 今後は、さきに開館した「蔵」を別館、今回草庵を拡張した展示室を「本館」と呼ぶことになるさうです。このたびの増築によって、詩人の旧蔵書900冊が京子氏が寄贈した400冊と一緒に保管されることとなり、その文業の拠りどころとなった師友の人々とともに俯瞰できる展示にしたいとは、事務方一切を引き受けてをられる野田安平氏の抱負でした。尤も整理にはまだまだ時間もかかり、とりわけ酸性紙に印刷された資料については劣化が進行中であり、現状の記録と、山奥まで足を運ばれない人たちに対する公開を兼ねた電子化作業が、ホームページ開設を前提に俟たれるところです。しかしながら精神的支柱である京子氏の全幅の信頼のもとに、野田さんが着実に進められる活動の様子を実見することができたことは嬉しく、この深い山林の中にひっそりと佇む文学館が、地方行政による「ハコモノ」とは全く違ふ形で日本の精神史の断絶面を保存するタイムカプセルのやうに存続してゆくだらうことには、深い安堵を感じた次第。山霧に包まれた奥美濃の深緑を堪能した一日となりましたが、翌日は京子氏の米寿のお祝ひかたがた歌会も催された由、ここにても感謝とともにお慶び申上げます。ありがたうございました。

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429やす:2009/07/30(木) 22:29:54
林富土馬と山川弘至
 碓井雄一様より『近代文学資料と試論』終刊号をお送り頂きました。当初からの予定で10号をもって区切りをつけられたわけですが、連載「林富士馬・資料と考察」の記念すべき最後は、詩人の単行本一覧と紹介に充てられることになりました(見送りになった、碓井さん宛の林富士馬書簡紹介は心惹かれますね)。かうして一覧してみますと、いづれの詩集にも長い序跋を、自ら書き、また師友からも戴いてゐることが、殊更この詩人に似つかはしい、浪曼派風の仕儀であることがよく察せられます。つまり大切にされるのは文人の矜恃と友情。前回書いた山川弘至とは、昭和17年に同人誌『まほろば』を創刊してゐるのですが、『天性』と『帰郷者』の2誌が合流したといふ事情のなかで、それぞれ両極にあった二人は、親しく交はるところがあったのでせうか。碓井さんや山川記念館の情報から検証してみたい関心事です。ともに浪曼派らしい人柄を感じるものの、ディレッタントとして戦後文壇から距離を置いた林富士馬には、師であった山岸外史の無頼派の視線と、伊東静雄のイロニイに富んだ市井人の視線と、双方を按配した韜晦の気分が感じられ、一方の山川弘至には、先人保田與重郎のさらに向ふ、国学に邁進して潔癖さゆゑに自決した蓮田善明の面影が重なります。山川弘至は自ら命を絶った訳ではなく、断たれた学者としての可能性が惜しまれてなりませんが、退ッ引きならぬ気分は当時同人たち全員に共有のもので、ことさら違ひを説くのは結果論に引きづられた言いざまかもしれません。
 ただ、ともに素封家の長男であったものの、田舎と都会の違ひといふのはあったでせう。これは山川弘至と増田晃を対比する際にも思はれることですが、林富士馬が父を介して佐藤春夫をはじめ伊東静雄や太宰治の知遇を得、昭和14年に早々と『誕生日』と命名された処女詩集を刊行して「詩人の出発」をなしたのは、同人たちにはさぞ羨ましく映ったことでありませうし、年令も僅かに皆より先輩であった彼にして、恵まれすぎた条件が却ってロマン派文学者として立つための宿命=憧憬の根となるべきモチベーションを奪ひ去ってしまったといふのは、御本人が一番自覚してをられたかもしれません。戦後、自らの浪曼派の祝祭の記憶から皇国史観をとり除いていった詩人には、いったい何が残されたのでありませうか。もう一世代前の先輩が味はった、逃げ隠れできぬ社会的敗北を背負はされた方が、却って新しい文学的な動機付けになり得たかもしれません。晴れがましい出発の記憶だけがついに詩人としての存在理由を強く規定するやうになった、とは言ひ過ぎかもしれませんが、文壇外にあって文学に臨む姿勢を語り続けた詩人は、三島由紀夫のやうな野心ある後進にとって、やがて物足りなく感じられ遠ざけられることになります。本分が開業医であった詩人にとって、学者・教育者として文学に係ることもままならず、さりとてこの一筋に繋がる決意は確かなものだったと、生涯文学青年の志を大切にされたスタンスといふのは、現在、一図書館員の身分にすぎぬ自分にとっては、やはり羨ましく思ふところなのですが、碓井さんがどのやうなお考へなのか伺ってみたいです。前誌『登起志久』から数へて11年になります。師への献身が、次にどのやうな形をとって顕れるのかを、楽しみに待ちたいと存じます。

 収録はほかにも初期の森鴎外を連載攻究してこられた小平克氏の論文や、伊東静雄や四季派研究で著名な米倉巌氏による佐藤一英の言論を追った珍しい論考。

 まことにお疲れ様でございました。そして長らく御寄贈を賜りましたことを、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『近代文学資料と試論』10号終刊号 2009.6.29「近代文学資料と試論」の会刊行
【目次】
森鶴外『普請中』と「舞姫事件」−『普請中』の本文読解とトポス的読解− 小平克 1-29p
『詩と詩論』における佐藤一英の言説 −(付論)詩学の現在と詩的言語− 米倉巌 30-46p
芥川龍之介「青年と死と」論 −〈大正〉的言説との関わりから− 乾英治郎 47-59p
林富土馬・資料と考察 −(七)単行本一覧、作品の紹介も少し− 碓井雄一 60-85p
後記 86p

430やす:2009/08/12(水) 00:35:58
『新編 丸山薫全集 全6巻』
 『新編 丸山薫全集 全6巻』が刊行された由、週刊新聞「読書人」で知りました。此度も編集に携はった潮流社の八木憲爾会長が祝辞をよせてをられます。職場に国文学科はなくなってしまひましたが、教科書とも所縁の深い詩人であることから、図書館にも収めて頂けることになりました。追加される第6巻目が「補遺」の域を出た、非常に内容の濃いものであるといふ事で大変楽しみです。

 丸山薫は、堀辰雄、三好達治とならんで雑誌「四季」の創刊同人ですが、自ら「四季」の詩史上の位置や意義について、昭和28年に出た創元版文庫のアンソロジー『日本詩人全集(第8巻)』の解説のなかで語ってゐます。しかし同じく『日本現代詩大系(河出書房:第9巻)』で解説を書いてゐる三好達治とは違って、「四季派」と呼ばれてゐることを追認した上で、当時戦犯の張本人扱ひだった保田與重郎と「コギト」の名を出し、いみじき評言で両者の結びつきを語り、総括を行ってゐるのです。これは書かれた時代をおもへば非常に思ひ切った立言であり、私は最初読んだときに非常な驚きと、「この人の言ふことは信じられる」といふ信頼の気分に包まれたことを思ひ出します。
 しかも他のインテリ詩人たちのやうには外国語を弄しなかったに拘らず、主知的かつコスモポリタンな詩想を道徳のやうに堅持し、常に若い詩人たちの動向にも注意を払ってきました。戦後豊橋に隠棲したのを機に、地元の詩人会に引っ張り出され会長に推されるのですが、現代詩が猖獗を極めたこの東海地区で、おそらく「取り仕切る」やうな野暮は何一つせず、非常に詩風の離れた詩人や、カリスマ性とは縁のない散文作家、小田実、城山三郎といった後進の人達からも慕はれてゐたやうです。「朝鮮」といふ詩を戦前に書き示した詩人にして納得しつつ、それはイデオロギーの産物ではない、上記の、抒情の正統を推進し得た自負の表明と合はせて、「肥った静かな重量感の人柄」の絶妙の重心を思ふのであります。
 本来が「四季」の創刊同人といふ「伝説的人物」であって然るべき人物ながら、非常に現代的なイメージも伴ふのは、そんなところにありませうか。愛知大学の講師もされてゐた由、世に伝はる署名も筆よりサインペンが多い(ただ自分のがさう 笑)気がします。

 期間限定特価、分売不可の由。以上、勝手気ままな報知宣伝です。

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431やす:2009/08/26(水) 21:15:42
『朔』166号
 圓子哲雄様より『朔』166号の御寄贈に与りました。今号は和泉幸一郎の未公開資料として、自筆書入れのある同人誌の切り抜きが写真版で公開されてゐます。これによれば遺稿集『母の紋』がまとめられた際、編者はこれらの訂正を見ることなく初出に拠った模様です。誌名が分からぬのは残念ですが、かうした細々した戦前の資料が途切れることなく発表されるネットワークを、現在ひとりで支へてをられる御苦労を偲びます。パソコンはされないといふことですが、いまインターネットで「圓子哲雄」と検索しますと、青森県近代文学館ホームページの「青森県ゆかりの作家」や、また朝日新聞ホームページでは、圓子さんがこの夏語られた、詩人村次郎についての記事などを閲覧することができます。御年79歳と伺ひ、あらためて御自愛を祈らずにはゐられません。
 それはまた、戦時中の青春時代を惜しみなく回想する小山正孝夫人常子氏も同様で、こちらは卆寿を迎へられるとのこと。詩人との出会ひの一瞬を、今もまざまざと心にとめてをられる、その心の若やぎに目を瞠りました。一体にシニカルな詩人に嫁いだ妻といふのは、耐へるばかりの人生かと思はれがちですが、文章を信ずる限り、どうやら田中克己先生とは次元の異なるラブロマンスを体験されたやうでもあります。田中先生の奥様に、いま少しの年月が許されたなら、きっと楽しいお話を沢山書いて頂けたことと、と常子氏の文章を読むたびに思はれてなりません。
 ともに御身体ご自愛頂き、御健筆をお祈り申し上げます。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

432やす:2009/09/13(日) 13:21:43
『新編 丸山薫全集 全6巻』その2
 『新編丸山薫全集』が到着しました。早速「補遺」の第6巻目をぺらぺらめくってゐます。加納高校ほか、岐阜県の学校の校歌を作詞されてゐたとは知りませんでした。地元がらみでは「うかいのうた」なんて詞も収録。(『中部日本新聞』昭和30年5月30日号)

「うかいのうた」

ながれを くだる うかいぶね
えぼしの おじさん つなもって
ホーホーホイと こえ かけりゃ
てじなの ような はやわざで
みずを くぐって アユをとる
ふしぎな とりよ うのむれよ
あれ また くぐる それとった
へさきの かがりび もえたって
きらりと おどる ぎんのいろ
けれども うしょうに たぐられて
せっかく のんだ そのサカナ
のどから みんな はいてだす
はいては のんで またもはく
なんびき たべても ハラペコの
うのとり くろい よるのとり(93p)


 「座談会」記録や「来翰集」も興味深いです。亡き盟友三好達治の詩業を俯瞰して、詩篇ごとに詳しいコメントを付した50ページ余りは、原本が『世界の名詩9 三好達治詩集』(講談社1969)と聞くと、なんだか古本屋の平台にうち捨てられてゐさうな本でありがたみが感じられないのですが、かうして全集にまとめられると貴重で、ハッとさせられますね(429-481p)。また『新しい詩の本』(筑摩書房1952)といふ入門書で子供向けに詩を説いてゐるのも、戦前の口語抒情詩人たち作品から、どんなテキストが選ばれたかといふ興味とともに、易しいながら的確な解釈が、山形の小学校の教鞭をとったそのままの肉声として伝はってくるやうです。

「風と花(田中克己)」

 これはおとうさんの気持ちをのべた詩です。この本のはじめのほうでのべた「たかの羽(※永瀬清子)」という詩が、わが子への希望にみちたおかあさんの詩だったのとははんたいに、「風と花」は、子どもをなくしたかなしいおとうさんの詩です。
 このおとうさんがなぜかなしいかは、詩を読めば、だれにでもすぐわかります。どんなふうにかなしいか、どのくらいかなしいかが、あじわってみたいところです。
 風の吹く日に子どもが死んだので、風の音がきこえる夜には、子どもをおもいだします。死ぬまぎわに子どものいったことばをおもいおこすからです。季節は春になって、いろんな花が咲くのに、このおとうさんの気持は、そとの明かるいのとははんたいに、いいえ、明かるければ明かるいほど、なおいっそうかなしいのです。ある日、庭の大きな木蓮の木に花がさいたのでその木の下でよくあそんだ子どものことをおもいだして、いよいよたまらなくなりました。そしてその晩、ねていると、死ぬときにいった子どもの声が、ほんとうに耳にきこえたようにおもいました。いそいではねおきて、雨戸をあけてみると、風がきて、木蓮の大きな花びらがポタリとおちるところでした。
 春には花が咲きます。花は、草や木の、明かるいいのちのしるしです。ところで、いけないことに、春には風がよくふきます。風はむごたらしく、その明かるいいのちのしるしを散らしていきます。この花と風との二つのもののとりあわせが、子どもをなくしたおとうさんのかなしみを、読む人にもわかるように生かしています。そこのところをあじわってください。
 うれしい心も詩になります。かなしい心も詩になります。かなしい心を詩にあらわして、読む人にわかってもらうことで、このおとうさんの気持も、いくらかははれたことでしょう。
子どものことばだけをかたかなにしたのは、そのほうが、おさない子どもの気分があらわれると、作者が考えたからです。(400-401p)

 そして今回の編集では初めて、戦時中の「愛国詩」群も公開されることになったのですが、30年ぶりの全集の意義といふか、心残りに対しての清算といふか、目玉には違ひないのですが、私はこれを分売不可とした理由のひとつぢゃないかとさへ思ったことです。前回編集時にお蔵入りとなった愛国少年詩集『つよい日本』(国民図書刊行会1944)をはじめ、雑文でも、例へば山川弘至と杉山平一といふ二人を並べて誉める書評なんかが収められてゐます。尤も考へてみれば、お二人とも処女詩集を戦時中に刊行せざるを得なかった同世代の詩人なのですから驚くことではないのでせうが…。

「新らしき個性…-近刊詩集の感想」(『日本読書新聞』昭和18年3月20日号)

 詩が自己のはげしく郷愁するこころから出發する。詩が自已のはげしく憎むこころから立ち上がる。またはげしく憧れるこころから歌ひ出す。しかもそれらの個人の憧れなり、憎みなり、郷愁なりが、そのままに國土への郷愁なり、民族の憧れなり憎しみにつながる。國土に生ふる草木のなかの一本として郷愁し、民族の中のひとりの自己として憧れ悩む。――民族の血の中の一血球としてこころ――國土の相貌を帶びる一個性としての性格――さうした詩がいま若い詩人たちの中から生れやうとしてゐる。
 まほろば叢書(大日本百科全書刊行會)の「ふるくに」(山川弘至)を手にして、僕はこんな理想論的なことを感じてゐる。ここには單にいまの若い人達の誰しもが一應抱いてゐる國家とか民族とか郷土とかの觀念はない。詩人はやはりみづからに發する情緒で歌ひ、それは飽くまでみづからの個性に終始するがごとくにうけとれる。にも拘らず、それら個性をとほしたもののひびきは悉く波紋してより大きな、よりひろい彼岸にまで共鳴する。かうした大■な詩の効果は、やはりその詩人の個性の「在り方」に由來するものとしか思はれないのだ。(■不詳)
 嘗て理想を見失ひかけた一時代があつて、その現(うつし)みの中に時代と全く切り離されたが如き詩人の個性が無方向にポツンと存在した。詩はその個性に孑孑(ぼうふら)が湧くやうに發生し、その個性に閉じこもることによつて個性をすら失つてゐた。それと反對に、いまや明かに一つの目覺ましい黎明がきてゐる。日本がうごき、世界が動くときに、世界の脈搏の中にある日本と、日本の脈搏の中にあるみづからを感じることによつて、詩は詩人のそれぞれの個性をとほして、その個性が代表する、より大きな民族の聲音にまでも達しやうとしてゐるのだ。
 別の例として杉山平一の「夜學生」(京都市左京區田中門前町第一藝文社)をとらう。
ここには愛情をもつ詩人の個性からする二つの異なつた方向をとる反射がある。一つは詩人みづからと、みづからと同じ時代と環境に育つた知識人に對するものであり、一つは詩人のはたらく一工場の勞務者達へ向けられたものである。この二つの反射は屈折に富むこの詩人の個性をとほしてそれぞれに、微笑ましく巧みな作品を作り上げてゐる。しかもその現れが詩人の個性をいつさうはつきりと示してゐるかといふ問題になるなら、僕は躊躇なく後者の系列にある作品を數へるであらう。
 詩人の個性の位置は現実の只中にあるべきだ。みづから狹めることなく、思ひ切つてもののまん中に置かねばならない。(496-497p)

 安智史氏による解説(749-762p)でも、これまでの批評家たちが避けてきた部分、すなはち丸山薫が「純粋詩人」と「公的要請に係る詩人」の二面で身を処してきた結果としての、戦時中の社会的責任の自覚についてが踏み込んで語られてゐるのですが、もはや「戦争詩即ち悪」といふ図式的な偏見が無効である現在、この解説のなかではむしろ「大正期民衆詩人たちが主張した詩の民衆化の理念を、戦後から大衆社会にむかおうとする社会状況の中で、図らずも拡大再生産する立場に立った、といえる側面もあるだろう(762p)」と、戦後、豊橋に隠棲した後の地域活動に対して、はっきりした物言ひがなされてゐます。確かに校歌の作詞や「うかいのうた」なんてのはその産物でせうし、もっと云へば、中央に現れた若い戦後現代詩詩人たちの作品に賛意を送る「進取の気性」は、昭和15年当時のヒトラーに寄せた期待(560p)と、そんなに根が違はないやうに私には思はれる。また戦前に「朝鮮」といふ詩に発露した詩人の自覚が、無名のファンだった小田実少年の出世を喜ぶ(379p)一方で、中河與一の人と文学を擁護する一文ともなる(340p)。しかしそれは天邪鬼でなく日和見でもなく、恒産者でない詩人、外国語も堪能ではなかった丸山薫が守った誠実さの表れ方だったと、私は思ってゐます。ここから窺へるのはただ、時代とともにありながら右往左往しない人間性への信頼とも呼ぶべきものではないでせうか。頂点を見定め難い「山容」に生える雑多な草木が、二段組で1032pもあるこの「補遺巻」一冊にはびっしり植わってあって、従来の「丸くて大きな山」といふ表敬的な印象をかきわけて、実地に入り込むことができるやうになった、といふのが私の感想です。

 ただ、この一巻の為に分売不可の全6冊を抱き合はせで買はなくてはならないのはよいとして(笑)、残念なのは、『中原中也全集』のときと同様、造本が並装になってしまったこと、各巻巻頭に写真が一葉も収められなかったこと、そして私の大好きな(笑)「月報」がなかったことでした。さきに出た全集をそのまま再刷して付すなら、写真や月報もなければ仕切り直しにはなりませんし、前回と同じ装釘でこの6巻目だけを刊行したらよかったのです。いっそ別巻として、写真をあつめた「文学アルバム」、さらに第4次「四季」終刊号で行はれた追悼文を補完して「回顧」の巻など望みたいところですが、現在詩人の顕彰を街ぐるみで行ってゐる豊橋市の力を俟ちたいですね。

433萌葱:2009/09/19(土) 17:08:14
お尋ね
 亡父がこの分野の仕事に関係しておりましたこともあってか、父宛にお手紙をいただき、何とかその方の思いを叶えたいと図書館などあたりましたが、見つかりません。ご存知ならば教えていただけませんでしょうか。

 大正10年6月頃創刊の「かぎろい」という詩歌誌について。第4号まで出されているようですが。(山口県近代文学年表、97、226頁に記録があるようです)この「かぎろい」に故 野上巌(新島 繁)氏が当時 短歌など寄稿されていたようで 足跡を調べておられるようです。

 突然のお尋ね申し訳ありません。もしご存知でなければ、どのように探ればよいか教えていただけないでしょうか。

434やす:2009/09/19(土) 21:05:43
(無題)
こんばんは、萌葱さん、こちらではおしさしぶりです。
お訊ねの雑誌「かぎろい」は、「コギト」の前身、大阪高等学校の「かぎろひ」ではないのですね。
すでに検索済かとは存じますが、国会図書館、日本近代文学館、神奈川県立近代文学館等にもない雑誌です。
書誌に言及する『山口県近代文学年表』が、すでに30年以上前の刊行ですから、公の機関に寄贈されてゐないとすれば、
原本は、お持ちだった執筆者の手許からも散逸してゐる可能性が高いのでせう。
不取敢は山口県立図書館宛にメールで手掛かりを問ひ合はせられては如何でせうか。映画で話題になった地元人物についてのことですし、
県立のレファレンスカウンターなら、調べた結果を詳しく報告して下さる筈です。
勿論連絡先アドレスをリンクされれば、この掲示板からも御存じの方には直接お知らせ頂けるかもしれません。
拙サイトの守備範囲でない詩人ですが、社会的改良を志すことが文学者の良心として命じられてゐた時代の詩業です。調査結果が集成されれば喜ばしいことですね。
以上、私個人ではお力になれさうもなく、面目ありません。ありがたうございました。

435萌葱:2009/09/19(土) 21:52:34
ありがとうございます
 ご丁寧なお返事ありがとうございます。お察しの通りまともなルートでは見つかりそうもなく、かえって闘志が?(苦笑)わきます。地元を攻撃してみようと思います。
 掲示板を汚して申し訳ありませんでした。

436(モ):2009/09/19(土) 22:22:44
(無題)
通りすがりですが…『ポエチカ』にちょいちょい「野上巌」の名前が見えますね。
http://www.geocities.jp/moonymoonman/i/poetica.txt

437やす:2009/09/19(土) 23:12:39
(無題)
モダボ隊長、ナイスフォローありがたうございました。
http://webcatplus-equal.nii.ac.jp/libportal/HolderList?txt_docid=NCID%3AAN10555392

438やす:2009/09/23(水) 15:39:28
彼岸の中日
 どこにも遊びに行けなかった連休の最終日は先考の展墓。祝日法でも秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」といふ趣旨なのであるらしい。戦前は「秋季皇霊祭」といふ名でしたが、これは明治になって歴代天皇の忌日をまとめて奉祀するために作った新しい祝日だったやうです。ぢゃあ江戸時代はどう天皇をお祀りしてゐたのでせう。
 神仏混交の時代、天皇家も仏式で葬儀供養が行はれてゐた訳ですが、写真は、先週『五経』の揃ひを買った際に「おまけ」で付けてくれた折本です。中には崩御した天皇が日にち順に列挙してあるだけ。発行元は八幡様の総本社である宇佐神宮のやうです。
 これを見ますと・・・つまり三十日以外の毎日が誰かの命日なんですね。開巻劈頭、天照皇大神から天忍穂耳尊〜日向三代の計五柱の御名をつらね、神武天皇が朔日に薨じたといふところから始まってゐます(旧蔵者は「暦ニハ見ヘズ」と頭書)。おそらく神事と関係するのでせう、晦には該当者がをられぬことになってゐるのも意味深です。
 天皇家の菩提寺とは別に、江戸時代も神社ではこんな記録をもとに何らかの「日々のおつとめ」を行ってゐたのでありませうか。さうして当時の庶民は、これ買って一体どうしてたんでせうね。
 とまれ、珍しい「おまけ」付きの『五経』11冊の揃ひはなんと\1000でした。こちらの方は、読めもしない私が買って一体どうしたものかと(苦笑)……最近の収集物から、でした。

『天皇御崩日記』安政6年3月15日 豊前國宇佐宮 岩坂大神健平 謹撰

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439やす:2009/10/04(日) 20:59:48
寄贈御礼
 手皮小四郎様よりモダニズム詩人荘原照子の伝記を載せる『菱』167号の御寄贈にあづかりました。
 文学の先輩、小川五郎との生涯最大の恋愛と失恋につづいて、峠田頼吉といふ牧師と結婚(駆け落ち)したといふこと、詩人が時に峠田照子と記されてゐる理由を初めて知りました。もとより詩人に関するプライベートな略歴さへ詳らかにしない私にとって、手皮様の筆に上る報告はすべて驚きの連続な訳でありますが、今回は稀覯本『マルスの薔薇』に纏はる世間の誤解を解く見解も示されてをり、胸がスッとする心地を覚えたことです。

 昭和四十二年の夏、荘原の生存を報じた新聞や週刊誌は、必ずといっていいほど、『マルスの薔薇』と御真影一件を記事に織り込んだ。そして「札付きの危険思想家」「特高警察と憲兵が監視」等といった解説と相侯って、なにかこの小説が反骨のモダニズム女流詩人によって書かれた、当時の世相に対する痛烈な風刺の書であるかのような印象を与えた。
 もっとも『マルスの薔葎』といっても、それを読み記憶している人間が居るとしたら、それはもう奇蹟に近いようなことで、ほとんど知ることがない。中国との全面戦争に突入する大日本帝国の軍人を邪揄したものだと言われれば、そういう筋金入りの小説なのかと畏敬をもって彼女を思い出すだけだ。
 ところが、この稀書をいくら読み返してみても「危険思想の持ち主が書いた危険な小説」とは思えない。 御真影を売り歩く木場女史の話にしても、タネを明かせば、この小説をモダニズム文学らしく装うために仕掛けた細工の一つのような気がする。
 ぼくには徹頭徹尾、宍戸タカナと時衛の恋物語に終始しているとしか映らない。タカナと時衛の物語 ──それはすなわち彼女自らが語ったように、荘原と小川五郎の物語だった。

 ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

440やす:2009/10/21(水) 11:52:25
代休日記
【その1】
月曜日、地元図書館の研修会で関西大学図書館まで視察に行って参りました。ここには前から気になってゐた『五山堂詩話』の初刷り本と思しき10冊本が所蔵されてゐることが分かってゐたので、見学の合間に是非その本物を実見できたらと念じてゐたのですが、当日の申請は残念ながら却下。帰還後メールで各巻の奥付情報についてレファレンスを試みたのですが・・・版本に記された正確な刊行者名を訊ねることはレファレンスの範囲外とのことで、受け付けてもらへませんでした。重ねて残念です。

【その2】
まだ手にとってをりませんが、川島幸希氏『初版本伝説』無事出版の由、お慶び申上げます(予約者には31日以降手渡しとのこと)。
初版本・・・近頃は、「初刷本」には興味があるんですが(笑)、近代文学の本を殆ど買はなくなってしまひました。「ちょっと中身を見てみたい」程度の熱意では自分の手に届きさうな本も少なくなり、たうとう某書林の目録さへ来なくなってしまった次第。思ひ当たる節もありますが、むしろ何も買ってないのにこれまでよく送って下さったといふ気持。けだし古書価暴落の今日にも、極少量の供給しかないこの初版本の世界だけは、格差社会の勝ち組顧客によって値崩れもなく安泰のやうに思ひなしてゐたのですが、よくよく考へてみればこんな地味なコレクションに血道を上げる成金がゐるとも思はれず、今号の「古書通信」対談記事でも皆さんボヤいておいででしたが、本屋さんも経営の合理化を余儀なくされてゐる最中なのでありませう。
(尤も我が書庫にも、もう本のおさまるスペースはなく、漢詩文の注釈書も山のやうに溜まってゐますから、これ読む(理解する)だけで余生は潰れるでせうね。)

【その3】
まだ行ってをりませんが、文化のみち二葉館にて 「佐藤一英の足跡」展が始まりました由。御案内を頂きましたので早速紹介。
稀覯本の第一詩集『晴天』や『大和し美し』(ボン書店刊)の書影を飾った古書目録に胸ときめかした頃が、懐かしく思ひ起こされます。

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441やす:2009/10/24(土) 20:19:17
佐藤一英展
文化のみち二葉館で開催中の佐藤一英展を見て参りました。チラシの書影写真が寂しかったのは間に合はなかっただけで、『晴天』「青騎士」といった稀覯本のほか、切手になった油絵の肖像画など、御遺族保管の資料を中心に充実した展示と存じました。 写真upします。
帰途、名古屋で和本を扱ふ古本屋さんに。先日の目録で地元漢詩集が売り切れだった悔しさを滲ませてゐると、御店主がおもむろに、そんなマイナーな詩集注文してくるのはいつも3人で、うち一人は「キャンベルさん」だよと聞いてびっくり。スッキリ諦められました(笑)。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000588.jpg

442やす:2009/11/04(水) 23:35:42
近況
今週上京を予定してゐたのですが、家庭の都合でゆけなくなりました。
高価な詩集や掛軸を注文してバチがあたったかな。
神田古本まつりもあった先週行っておけばよかったのですが、残念です。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000589M.jpg

443:2009/11/16(月) 21:35:34
明治・大正期の文人写真
 秦鼎の書の解読では、大変お世話になりました。
 引き続き、地元の「図録」誌の準備を進めています。先般、旧家から、添付の写真が提供されました。この写真の裏書にある方々のうち、「土方久元」は最前列左から三人目と思われますが「細川文学博士」「坂 正臣」「藤沢南岳」はどの人か不明です。(但し、土方・坂・藤沢の略歴は知ることができました。)研究範疇から外れているかも知れませんが、何かご教授願えることがあればよろしくお願いします。

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444やす:2009/11/17(火) 09:32:00
(無題)
お早うございます。熊崎さま、御無沙汰してをります。
人物の顔など全く分かりませんが、「細川」は「細川潤次郎」といふひとでせうか。
またその下に「御奇(寄?)所良?事」とあるのは、或は「御器所ごきそ良事」といふ名前なのかもしれませんが、坂・藤沢両翁よりも前に記されてゐるのはどういふことなのか。名なら有名人でなければいけませんが、ネットでは引っ掛かってきませんね。

大正2年8月23日
中山七里探勝飛騨国漫遊、三留[して]下原村出身之人
加藤鎮之助氏ニ案内セシメシ。伯爵土方久元男爵
細川文学博士、御奇所(御器所?)良事、坂正臣、藤沢南岳翁
東西日本画家四名其他随行四名、本村通過之際
益田郡係勝会員本村有志者相謀リ迎ヘテ、孝池水畔
ニ昼食ヲ供シタル際時ノ記念撮影、写真技師
金山町山口真一氏

写真は推測するより仕方ありません。不取敢ネット上の情報を添付します。
土方 久元(天保4年1833 - 大正7年1918) 最前列左から4人目?http://homepage2.nifty.com/ryomado/Portrait01/po_hizikata.gif
http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/jinbutsu/hijikatahisamoto/hijikatahisamoto.htm
細川 潤次郎(天保5年1834 -大正12年1923) 最前列左から3人目?http://archives.cf.ocha.ac.jp/exhibition/a_ph_021-0070.html

阪 正臣(安政2年1855 - 昭和6年1931)最前列右から2人目? http://www.urban.ne.jp/home/festa/ban.htm
http://www.rakutai.co.jp/etc/yamashiro/img/093/0931.jpg
藤沢 南岳(天保13年1842 -大正9年1920)の画像はみつかりませんでした。自宅図書館員のレファレンスの限界です。

以上本日フレックス出勤にて、自宅よりとりいそぎの返信まで。以降の御連絡はメールでも結構です。ありがたうございました。

445やす:2009/11/17(火) 22:57:50
訂正
「御奇(寄?)所良?事、坂正臣」→「御哥所主事、坂正臣」
熊崎様ありがたうございました。

446やす:2009/11/19(木) 23:20:20
『桃』終刊のこと
 山川京子様より『桃』十一月号の寄贈にあづかりました。ここにても御礼申上げます。誠にありがたうございました。
 巻末御挨拶にて、来年の三月号をもって創刊五十五年、六百余号の雑誌の歴史に幕が下ろされることが発表されてゐて、まづ仰天。ものごとには何でもをはりがあること、分かってゐても、この雑誌は志を継ぐ人々に託され、名前を変へることなく灯を掲げ続けるものと思ってをりました。今夏奥美濃で行はれた記念館増築のお祝ひの、にぎやかな集ひにも立ち会ってゐましたから、京子氏が親ら終刊を裁可されるなど、思ってもをりませんでした。
 私が田中克己先生の不肖の弟子であることをふりかざし、桃の会の御縁を忝くしまたのは、思へば郷土の先達詩人山川弘至の『遺文集』『こだま』『山川の音』といった著作集が立て続けに刊行され、会が記念館設立に向けてもっとも活溌に活動してゐた時期でありました。私は京子氏今生の思ひの結実を、まざまざと目の当たりにしてをりながら『桃』の刊行にせよ、なにか空気のやうな当たり前のことのやうに思ひなして居ったやうです。記念館の資料管理についても、差しでがましい助言を申し上げたことなど、はづかしく思ひ返されることです。
 作法など何も知りませんが、一首。

長良川つきぬ思ひのみなもとに みのりし桃をたれか享くべき

447TeX:2009/11/21(土) 18:23:36
Re: 明治・大正期の文人写真
藤沢南岳先生は、一番左の人?

通天閣こぼれ話
http://www.tsutenkaku.co.jp/shiryo/data.html
 (写真:1986年3月25日付朝日新聞の記事)

448やす:2009/11/21(土) 21:23:21
(無題)
TeXさま、ありがたうございます。
たしかに、さうかも知れませんね。
(それにしても20年後、私も翁達のやうな顔になりたいものであります。)

449:2009/11/22(日) 09:56:54
藤沢南岳翁の件
TeXさま、ご指摘ありがとうございました。朝日新聞を手に入れてみたいと思います。
もう一人、加藤鎮之助は、地元(現下呂市金山町)出身の人ですから、お顔を確認したいと思っています。加藤素毛の甥ですので、加藤素毛記念館の中島清氏ほうへ問い合わせ中です。
孝池水には「孝感泉」という加藤鎮之助が建てた碑があります。

450やす:2009/11/28(土) 23:00:21
「感泣亭秋報」第4号
 小山正見様より小山正孝研究誌「感泣亭秋報」第4号をお送りいただきました。
 抒情詩を解析することが、読むのも書くのもだんだん億劫になってきた私ですが、冒頭、詩人の交友圏のひとりであった松田一谷といふひとについて坂口昌明氏がものされた論考は、まさにこの会の趣旨「正孝と共に詩や文学に携わってきた仲間たちの業績を掘り起こすこと」に則った紹介。博捜する言ひ回しはいつもながら、も少しお手柔らかにと思ふところですが、『朔』誌上での戦前青森抒情詩壇の掘り起こし作業といひ、次々と未知の詩人にライトを照らしてゆかれる好奇心とバイタリティを羨ましく仰ぎました。
 また先日の詩人を偲ぶ定例会で、小山正孝の漢詩訳についてお話をされたといふ佐藤保氏の一文を拝読。『唐代詩集 上巻』で李白を担当した田中克己とともに、杜甫が遺した膨大な詩篇から何を選んだかがすでに、享受者の批評に類すること、そして漢詩の口語訳が醸し出す「独特の味わいと親しみ」を再認識しました。ちなみに手許の『唐代詩集 上巻』を繙くと、
「ふりかえれば白い雲が見送るようにたくさんうかんでいる」とか、
「無数の花々は金貨のようだ」とか、
「鼠が古い瓦のかげにごましおのからだをかくした」とか、
「かやの実を手のひらいっぱいとることもあります」とか、
「石の間に海の眼のような 水のわき出ている眼がある」とか、
ことごとく四季派風の譬喩や表現に鉛筆で印がつけてあったのを見て、懐かしい限り。
 また久松小学校同窓会の渡邊俊夫氏が語られた「立原道造を偲ぶ会」当時のこと」のなかで、「会は五十回忌で解散」と予め決めてあってその理由、「偲ぶといふ語彙は、故人と交流のあった者に許されるべきで、見ず知らず、赤の他人がやすやすと使うものではない」といふ言葉に感銘。「警視庁鑑識課顔負け」の考証をする堀内達夫氏、「一家言が背広を着ているやう」な鈴木亨氏、「自己主張しないことを主張している」小山正孝氏、といふ、御三方の人物描写も実に興味深く、世代対立も相俟った、なかなか窺ふことのできぬ会の内情なども、ゴシップに落ちぬ消息を伝へてたいへん得心のゆく文章でありました。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

感泣亭秋報4 2009年11月13日(詩人の祥月命日)刊行 \500 問合せは 感泣亭HPまで。

詩 牛肉 松田一谷風に 小山正孝 2
ゴゴーとディディー 呼応する家庭詩 松田一谷氏の場合 坂口昌明 4
小説 葦 松田谷 18
小山正孝訳の杜甫詩 漢詩和訳の流れのなかで 佐藤保 26
ソネット逍遥4 桃生隼 32
愛と叛逆 渡邊啓史 34
生活の中の性愛「未刊ソネット集」の世界 里中智沙 38
気息から放散するポエジー 藤田晴央 42
小山正孝の詩世界 三 近藤晴彦 44
詩 多羅葉 馬場晴世 46
詩 ほんとうに存在しないもの 森永かず子 48
詩 心中をしてもいいような人 大坂宏子 50
回想
「立原遣造を偲ぶ会」当時のこと 渡邊俊夫 52
中教出版での小山さん 宮崎豊 56
関東短大時代の小山先生 新井悌介 56
感泣亭アーカイヴズ便り 58


>熊崎様
加藤鎮之助氏といふのは骨相からして最前列左から2人目でせうか…。

451:2009/11/29(日) 02:03:01
加藤鎮之助について
中嶋様
 ご指摘のとおりです。素毛記念館の展示写真と、飛騨漫遊の写真は特徴のある、はえぎわが一致していました。加藤鎮之助は、明治2年生まれで、梅村騒動が鎮静し、鎮之助となずけられたとのお話でした。加藤家はこの地域の名主のため梅村側とみなされ、この騒動で焼き討ちにあったとのことです。その後、鎮之助は、東京で農本を学び、殺虫剤の開発により財をなしたとうかがいました。
 飛騨漫遊の画帖三冊と書籍一冊が遺品として保存されています。数頁の書画は撮影させていただきました。改めて、訪問し詳細を見せていただきたいと思っています。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000598.jpg

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452:2009/11/29(日) 19:26:11
加藤鎮之助写真他
加藤鎮之助の写真です。加藤素毛記念館に展示されているものを部分拡大したものです。
裏書に記載がある方々の当時の年齢を概算したところ、土方久元:80歳、細川潤次郎79歳、藤澤南岳71歳、坂 正臣58歳、甲斐虎山47歳、加藤鎮之助44歳、首藤白陽46歳、後藤秋崖27歳、煙律調査中となりました。お顔と氏名の確認はさらに情報を集めながら確定したいと思います。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000599.jpg

453やす:2009/12/02(水) 23:09:42
散文集『巡航船』
 杉山平一先生が散文集『巡航船』を刊行され、一本の御寄贈にあづかりました。ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 今回は函の意匠が素晴らしく(「黒」冒頭で触れられてゐた黄色と鼠色の配色の美しさを初めて実感)、カバーの挿絵(聖橋とニコライ堂)も魅力的ですが、シックな本体の装幀が函にぴったりしてゐる分、カバーで隠れてしまふのが勿体無い感じもします。
 収録は小説集『ミラボー橋』を中心に、これまでの散文からの選集ですが、さきの全詩集や土曜美術社版・思潮社版の選集にも収録のなかった「機械」が新たに選ばれてゐて、恰度、國中治先生がものされた杉山平一論「『四季』の最後の詩人」の理解を助けるやうな内容となってゐます。國中さんが「機械好き」とともに杉山詩の特色として指摘された「乗客観察」を前面に出した短編「巡航船」が、そのままタイトルとなってゐることにも気がつきました。「乗客観察」なら電車の方が杉山先生に相応しい感じですが、電車よりも船の方がポエムがあると思はれたのでせうか、或は師三好達治の『測量船』も念頭に置かれのでせうか、なにか杉山先生らしい気配りに思ひをめぐらせてをりました。
 全詩集刊行以降の拾遺として、今回はもうひとつ、「かくも長き」といふエッセイも収められてゐるのですが、先生が両親以外の親族を、このやうな愛情をもって書かれたものを読んだことがありませんでしたし、また単に家族のことを書いたといふだけでなく、詩人杉山平一の文学出発の状況を、師友との交流からでなく、プライベートな側からみつめてゐる点が新鮮で、結末まで一気に引き込まれます。
 後半に収められた拾遺篇の影響か、全体に「工場経営の負債」に関る文章が多いやうにも思はれたのですが、先生御自身は、或は「詩人らしくない話題ですが」なんて卑下されるかもしれませんが、私は『わが敗走』を読んだときの感動が忘れられず、この企画を立てられた方の選別に敬服します(自選でせうか 汗)。
 さうして負債といふことなら、國中先生の論文に対する感想とともに、杉山先生のポエジーについても、私なりの感想を未だ書ききってはゐない自分にこそあるやうで、感ずるところを、いつかもう一度まとめてみたいとは思って居りながら、荏苒のびのびになって申し訳ない限りです。
 ここにても御礼とお詫びを述べさせて頂きます。ありがたうございました。

杉山平一散文集『巡航船』2009年11月編集工房ノア刊  上製函入374p. \2500

 目次

?「ミラボー橋」
 杉山平一君(三好達治) 11
  *
 父 15
 動かぬ星 42
 虚像 68
 ミラボー橋 86
 黒 91
 季節 95
 暗い手 103
 陰影 112
 月明 124
 巡航船 135
 星空 144
 あしあと 151
 春寒 154
 恋する人 165
 通信教授 185
 あとがき 193

  *『ミラボー橋』拾遺
 機械 199 (既刊単行本未収録)
 覚書 236
 目 254


?
 かくもながき 269 (既刊単行本未収録)
 顔見世 292
 母の死 308
 象 313
 私の会った人 (土曜美術社版『杉山平一詩集』収録)
  花森安治 318
  大西克禮 320
  石川武美 322
  今村太平 325
  伊東静雄 327
  立原道造 329
 また、いつか、どこかで (思潮社版『杉山平一詩集』収録)
  会う 332
  在る 335
  隠す 340
  繰返す 342
 ひとりぼっちの世界 346 (土曜美術社版『杉山平一詩集』収録)
 鳩・公園・ピアノ (思潮社版『杉山平一詩集』収録)
  鳩 351
  公園 354
  ピアノ 357
 星を見る日 (思潮社版『杉山平一詩集』収録)
  桜 361
  犬 362
  星 365
 私の大阪地図(詩) 368

 あとがき 372

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000600.jpg

454やす:2009/12/12(土) 21:48:24
秋田の写本漢詩集
 今月はのっけから、オークションやネット古書店での安物買ひが続いてゐます。
 まづは再版漢詩集の種々32冊を破格値で落札。旧家の蔵から放出されたものと思しく、一緒に送られてきた自筆詩集の巻頭に「以詩為命」と大書してあるのをみれば、なにか旧蔵者だった漢詩人の先生から本たちの行方を託された気分になりました。

 写本『周南峰詩鈔(明治〜昭和29年)』ほか5冊
 著者は鈴木文齋、本名平右衛門、日露戦役に従軍した羽後長野の漢詩人。昭和19年に68歳とあるので明治8年頃のお生まれでせうか。昭和33年1月には翁をしのぶ遺墨展が地元中仙町の公民館で行はれてゐます。当時「御蘭吟社」「八乙女吟社」といふ漢詩・和歌の結社があった模様です。

『周南峰詩鈔』序文「本篇は作者少年時代よりの原作其の侭蒐集する者也。故に無秩序又無方法、随ひて背韻と誤調を免れず。後賢、宜しく斧正を請ふ也。 文齋誌す」(原漢文)

 吊江幡澹園翁 江幡澹園翁を弔す
東北詞壇赤幟移 東北の詞壇、赤幟(盟主の意)移る
堪聞落日梟鳴時 聞くに堪へん、落日、梟(ふくろう)鳴く時
一生才筆揚奇韻 一生の才筆、奇韻を揚げ
百世文潮立供基 百世の文潮、供に基を立つ
桃李盈門衣鉢在 桃李、門に盈ちて衣鉢在れども
風花無跡訓言垂 風花、跡無く訓言垂る
由来木鐸何者振 由来、木鐸、何者か振る
寂寞西山雲一枝 寂寞たり、西山の雲一枝

 頭評は総て明治時代の秋田の漢詩人によるものでした。名と検索結果を記します。
江幡澹園(運蔵、大館市の人『秋田歌集』編者『盍簪余事』著者)、狩野旭峰(大館市1832−1925『旭峰詩鈔』あり)、田口羽山、高橋午山(軍平『征露鐃歌』著者、児玉市隠、伊藤耕餘(直純『金沢史叢』『我観後三年役』著者、藤川豊城、六大山人、六五山人(『仙北郡案内』著者)、小野田半畝、高橋半山、金丸錦村、佐藤弘堂、飯村稷山(粋『佐藤信淵翁傳』著者)・・・。

 活字になることなく遺棄されたこれら草稿の類ひは、ふたたび地元に寄贈できたらと検討中です。

【追伸】無事大仙市役所大仙市教育委員会文化財保護課が寄贈を受け付けて下さりました。といふより町史に写真付きで紹介されてゐた貴重なものだった由、危機一髪で歴史的な地域文献が散逸するところだったのでありました。関係者はすでに上京、おそらく分からずに古本と一緒に処分してしまはれたのでせう。(2010.1.12追加)

 さて年末は自宅に逼塞することが決定、扶桑書房さん主宰の第3回「一人展」にもゆけず、安物買ひもボーナスで赤字になるかも、といふオチを控へて戦々兢々の日々。まさに薄氷を履むが如き暖冬とデフレの師走であります。

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455やす:2009/12/14(月) 00:00:38
詩人川添一郎
 昨日池内規行様より「北方人」13号を御寄贈頂きました(ごぶさたしてをります)。山岸外史を師と仰いだ詩人のひとり川添一郎の事迹と思ひ出を綴ってをられます。拙サイトで紹介させて頂いたアンソロジー『詩集8人』に集結した外史門下の詩人の一人ですが、サムライたちはその後出征、シベリア抑留と帰還後の社会で辛酸をなめた川添一郎の詩は、なにかを沈殿させたやうな抒情詩に変貌、作品を2篇、池内さんが最後に抄出されてゐます。うち一篇。

 父よ

一房の葡萄と三つの林檎
父よ
あなたは
この貧しい供物のなかで
もう夜も更けたれば眠っておいでか

あなたは
わたしの素裸な手に
母と六人の弟妹をのこして
忽然と遠い処へ行ってしまわれた

いまごろは
あの藁葺きの屋根の下で
病める母と幼い弟妹が
寄添って眠っていることだろう

故郷では今宵一夜を
あの竹藪深い軒端に
一つの提燈をかかげ得ただろうか
父よ
あなたの初盆というのに
わたしは故郷へ帰れもしない

だからこうして
夜更けて妻と二人
ふるぼけた書架の上に
一房の葡萄と三つの林檎を供え
あなたの御冥福を祈るばかりです

 詩人からの聞き書きで、山岸外史が「川添君を(第4次四季の)同人に入れたらどうか」と相談したら、丸山薫が俄かに承知しなかったといふエピソードがあったのですが、「二人には一線があったような気がする」といふのも、山岸外史に対しては旧くからの知人の多くがそのやうな姿勢で接してゐたらしく、田中克己先生もまた「何をたよりにしてゐるのかわからん人」などと評してゐるのですが、これはしかし日本浪曼派にあった人物が戦後、政治的に変節したといふこと以外に、その「詩人的気質」そのものに原因があったもののやうに思はれます。けだし田中先生御自身もまた、戦後宗教的に変節し、また東洋学者と二足の草鞋をはいてゐることで「みな仲間はずれにする」と喞ちながら、その実は「詩人的気質」によって敬遠されてゐたので、師事してゐた自分にも十分理解できるのです(笑)。むしろこのエッセイは、孤高の詩人山岸外史と、見ゆることなく私淑しその評伝を書きあげた池内さんとの間を、川添一郎といふ一番弟子が東道し、外史門下として迎へ入れた経緯消息を物語ってゐるのであって、読む者だけでなく池内さん自身にとっても身の証しを立てるたいへんよい文章となってゐることに、読みつつ思ひをめぐらせたのでした。
 ここにても御礼を申し述べます。ありがたうございました。

456やす:2009/12/27(日) 21:04:37
山口正二氏関係詩誌『薊』ほか
 一昨日の郵便にてお贈り頂いたのは、ここ何年ももらったことのない「クリスマスプレゼント」。名古屋の同人誌『薊』『新雪』『名古屋文學』『尾張文藝』などを一括して、同人だった山口正二氏(1913−1985)の御子息融氏よりお送り頂き吃驚、またその中身をあらためながら恐縮してゐるところです。ここにても厚く御礼を申し上げます。
 『夜光蟲』(1933)ほか既刊詩集のテキストを全文公開する融氏のホームページについて、かつて拙サイトで紹介させて頂いたのですが(掲示板過去ログ2008年11月29日、2009年 2月 7日参照)、今回の御厚意をどうお受けしたらよいか、同封のお手紙には「不要な場合には廃棄して頂きたく」とありましたが、とんでもないことです。
 一見すぐに貴重だと分かるのは、山口正二氏をはじめ当時弱冠の名古屋二商の学生たちが興した詩誌『薊』(創刊1933)でせう。最初は文学青年のおちゃらけたガリ版同好誌にすぎなかったものが、活版刷となる辺りから垢抜けし始め、杉本駿彦を迎へ入れた7号などは構成主義の写真を使用した全く面目を一新する表紙で、たった一年でかくまで変るものかと刮目させられます。その間、山口氏の処女詩集『夜光蟲』が「あざみ叢書1」として刊行をみるのですが、誌上に出版記念会の写真も掲げられ、謂はば同人のホープとしてさぞ面映ゆくも晴れがましい夢を膨らませたことでありませう。そのまま文学を続けられたらと思はずにはゐられませんが、7号を最後に詩人は召集され、入営先からは寄稿も雑誌受取りもままならなくなります(雑誌はそれから昭和12年13号まで続き、主宰者で親友だった都築喜雄はまもなく「悲惨な運命」により夭折した由)。そして海兵団のあった呉にあっても『柚の木』といふ雑誌に参加するのですが、憲兵に見咎められ大目玉。敗戦まで軍務に励みながら詩風(題材)を転じ、一兵卒として従軍詩を書き続けることとなるのです(『一枚のはがき』9p・『揚子江』あとがき132p・『その頃』67p参照)。
 また戦後、名古屋詩壇に復帰してから、顧問格として招聘され、最後は山口氏自らが孔版専門職として印刷にも携はった『新雪』『青年文化』『尾張文藝』といふ岩倉〜一宮地区に興った同人雑誌も、今では貴重な地方文学史資料といへるのではないかと思ひます。丁寧正確なガリ版文字をきる職人は同時に発行者であり編集者でもあり、誌面は無償の労力を感じさせる細かいこだはりに満ちあふれてゐます。同人誌経営の常として、遅刊、廃刊、新創刊を繰り返しながら、この昭和22年から27年にわたった一連の活動は、結局山口氏の手許で一区切り=終焉を迎へることになった模様ですが、一冊一冊の編集後記を辿ってゆくと、掲載作品とは別に、地方の若い手作り文芸運動の舞台裏を文字通り手にとって感ずることができ、たいへん興味深いです。
 尤も当時孔版が選ばれたのは、活版が高価だったからであり、つまり粗末な酸性紙に印刷されることが多かったこれら孔版雑誌のバックナンバーは、半世紀以上経た今日、読み捨てられる運命を免れたにせよ、御遺族の仰言るやうに粉韲する寸前の状態にあるのだと云へませう。私もしばらくは手許に置いていろいろ穿鑿してみたいと思ふのですが、繙くたびにボロボロ角からくづれてゆく様をみるにつけ、これはサイトで紹介を一通り行ったのちは、永久保存のため、さきの漢詩写本と同様、しかるべき図書館に寄贈を打診すべきではないか、と考へる次第です。融氏の御意見も伺ひ、その時にはまたここで報告させて頂ければと存じます。
 貴重な資料を本当にありがたうございました。

受贈雑誌

『薊』(あざみ文芸研究会(あざみ社) 名古屋市東区新出来町 都築與詩雄(喜雄)宅) no.1-4 孔版
no.1(1933.4)\0.10,no.2(1933.6)\0.10,no.4(1933.10)\0.10,no.5(1934.1), no.7(1934.7)\0.10, no.9(1935.1)\0.15
『柚の木』(柚の木社 広島県呉市江原町 井上逸夫宅 [印刷は名古屋市東区])
vol.4(1937.8)\0.20

『新雪』(新雪文化倶楽部 愛知県丹羽郡岩倉町 藤井俊男宅→一宮市日比野通 桜井野生宅) 孔版
no.4(1947.8)会費\5,no.5(1947.11)\5,no.6(1947.12)\10,no.7(1948.8)\10, no.8(1948.10)\14
『青年文化』(青年文化会 一宮市広畑町 中島秋夫宅) 孔版
no.1(1949.8)会費\35,no.2(1949.9)会費\35,no.3(1949.10)会費\35,no.4(1949.12)会費\35, no.5(1950.1)会費3ヵ月\100,
『尾張文藝』(尾張文化會 一宮市浅野駅前 下郷聡男宅) 孔版
no.1(1950.3)会費3ヵ月\100, no.2(1950.4)会費3ヵ月\100, no.3.4(1950.8)会費3ヵ月\100, no.6(1950.12)会費3ヵ月\100,no.6(1951.3)会費3ヵ月\150, no.7(1951.5)会費3ヵ月\150, no.8(1951.7)会費3ヵ月\150, no.9(1951.10)会費3ヵ月\150, no.10.11(1952.2)会費3ヵ月\150, no.12(1952.6)会費3ヵ月\150, no.13(1952.9)会費3ヵ月\150, no.14(1955.12)会費記載なし,

『名古屋文學』(名古屋文學社 名古屋市中区梅川町 平野信太郎宅)
no.1(1947.12)\15, no.2(1948.2)\18, no.3(1948.4)\18, no.4(1948.6)\20, no.5(1948.8)\20,
『太鼓』(太鼓の会 茨城県下館町金井町 関操宅) 孔版
no.2(1949.1)会費\45,
『風貌』(東海詩人協會 海部郡蟹江町 藤岡洋次郎宅)
no.1(1952.[3])\50,
『ペン』(名古屋ペンクラブ 名古屋市中区梅川町 成田元忠宅)
no.22(1960.8)\50, no.23(1960.11)\50, no.24(1961.4)\記載なし


【追伸】お送り頂きました貴重な詩誌ですが、【明治・大正・昭和初期 詩集目録】にて紹介をさせて頂きました。もしくは過去ログ、 詩人の項目より御覧下さい。
 書籍と違って雑誌といふ資料は、愛蔵する物でなく、しかるべき公共機関が保存にあたるべき地域遺産だと私は考へてゐます。関係機関に寄贈を打診するとともに、今しばらく斯様な資料の手許にあることの至福の時間を堪能したいと思ひます。(2010.1.11追加)


 つづいて同じく山口さん繋がりで「正二さん」の次は「省三さん」。鯨書房さんより『破衣句』号2冊ご恵送に与りました。ここにても御礼申し上げます。しかしながら団塊世代の無頼派(チョイ悪おやじ連?)のみなさん、いつもながら基調不機嫌です。

コンビニに横殴りの風馬の足(sada坊氏「深夜の風景」)。続けるに…「金のたてがみ嘶けヤン車」とか。
頸筋撫でさすり股揉みしぼる手(同氏「夢いくつか」)。 あー、この仕草よくされてますねー(笑)。
岐阜公園一刻みどりのうねりかな(幻界灯鬼氏「青葉波立ち」) 。 照葉樹林が裏返る金華山がなつかしいです。

 ありがたうございました。良いお年を。

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457やす:2009/12/30(水) 23:44:58
『昧爽』19号
 今年最後にわが家に届きましたのは、山本直人様/中村一仁様共同編集『昧爽』の19号でした。ここにても御礼申し上げます。ご寄贈まことにありがたうございました。
 中村さんが書かれた、今年2月に亡くなった渥美國泰氏の追悼文。テレビドラマを通してしか俳優を知らない私にとって、文壇人と劇団人との関係といふのは、皆目わからぬ事情に属しますが、文壇では保守系批評家の第一人者と目される福田恒存について、却って中村さんのやうな立場のひとが、虚心に渥美氏の回想に耳傾け、福田氏の興した劇団雲の分裂に対して是々非々でもって語る態度が良いです。義憤と人情と同時に「盲従も拒否する」ところが中村さんらしさですが、為に生ずる誤解も受けて立つ堅固な志操は、例へば自らの戦争体験から「世田谷九条の会」に賛同する一方、A級戦犯土肥原賢二を演じて辱しめなかった渥美氏の役者魂とも一脈通ずるところがあるのでせう。葬儀参列者には演劇関係より骨董関係者が目だった由。もとより渥美氏が心酔された亀田鵬齋は、漢詩人が尊王攘となる一世代前、化政期のサロンで活躍した人情に厚い庶民派の文人学者です。
 中村さんらしい義憤は、今回『淺野晃詩文集』刊行の予告文においてより顕著でしたが、1985年に刊行された定本詩集をすでに所蔵してゐる人を念頭に編集中である旨を具体的に伺ひ、私もかつて自らの思ひ入れだけを頼りに『田中克己詩集』に収録する詩篇を選んだときのことを思ひ出し、いたく同感。私淑された先生の著書200冊余と謂はれる文業を俯瞰する「決定版の一冊」が、無事完成に至ることを祈らずにゐられません。中村さんが心配されるやうな、浅野晃の生きざまを否定する人間がどれだけの人物かどうか、相手にするまでもありませんし、またジャーナリズムの書評をあてにしても仕方がないことです。この詩人の大きさを示し、また今回封印の解かれる『幻想詩集』が捧げられた伊藤千代子の追善にも適った書評はかならずや現れませう。
 及ばずながら拙サイトでも広報に努める所存です。残す終刊号とともに、悔いなき編集に専心されますことを祈念申上げます。

458やす:2009/12/31(木) 00:08:58
本年回顧
 年男だった今年、古書の収穫はさておき、職場は危機意識に引締まり、わが家は内憂と外艱に揺れた一年でした。家人のライフワークのみ脚光を浴びましたが、これまた多忙のさまをオロオロ傍観するばかり。来年は数へでたうとう五十になるといふのに、おのが天命に安んずるどころか、不勉強四十九年の非を思ひ知り、加之記憶力の減退に驚き、呆れ、訝しがられる有様です。道なければ巻いて懐にすべき、とはなかなか参りません。
 みなさまにはどうか良い年をお迎へくださいますやう。

【今年のおもな収穫】
長戸得齋『北道遊簿』/津田天游『天游詩鈔別集』/梁川星巌・柴山老山編『宋三大家律詩』/大窪詩佛『北遊詩草』/篠崎小竹『小竹齋詩抄』/伊藤信『日本竹枝詞集』/藤井竹外 掛軸/梁川星巌 掛軸/大槻磐溪『寧静閣一集』/曽我耐軒『耐軒詩草』/梁川星巌『やく天集』/神田柳溪『頼山陽實甫帖』/宮原節庵『節菴遺稿』/頼支峰『支峰詩鈔』/大窪詩仏『詩聖堂詩集』/山中信天翁 掛軸/梁川星巌書簡まくり/『経典餘師』四書之部小學之部/木蘇岐山『五千巻堂集』/堀田華陽編『聖代春唱』(寄贈)/篠崎小竹 掛軸/山川弘至 『國風の守護』/後藤松陰 掛軸/頼山陽 復刻掛軸/村瀬秋水 掛軸/長戸得齋 額/橋本竹下『竹下詩鈔』/檀一雄『虚空象嵌』/高橋杏村 掛軸/文圃堂宮澤賢治全集第2巻端本/古文餘師 前集後集/小高根太郎『富岡鉄斎の研究』など。

459やす:2010/01/01(金) 09:39:25
謹賀新年
今年もよろしくお願ひを申上げます。(掲示板での御挨拶は不要です。)

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460やす:2010/01/05(火) 21:52:06
寄贈御礼
 年明けまして、皆様方から忝くしましたご寄贈を前に大変恐縮してをります。このささやかなサイトを通じて賜りました御縁に対しまして、あらためて深甚の謝意を表すべく厚く御礼を申し上げます。
 石井頼子様、棟方志功カレンダーをありがたうございました。早速和室に掲げさせて頂きました。さういへば今年は保田與重郎生誕100年祭ですね。
 手皮様、富田様、明日より週末一杯出張のため、来週以降にゆっくり御報告させて頂きたく、取り急ぎのお礼のみここにても申し上げます。
 ありがたうございました。

461やす:2010/01/11(月) 21:37:44
上京報告その他
 上京中、古本連との楽しい語らひの他、小山正孝ご子息正見さまと大変有意義な歓談に時を過ごすことができましたこと、あらためて御礼申し上げます。ありがたうございました。
 ではこの連休、東京で1泊した収穫を御報告。


『日塔聡詩集』 (2009土曜美術社)。やはり一年に一度は神保町界隈を歩かないといけませんね。刊行を知りませんでした。詩人については詩集『鶴の舞』をのぞけば、雑誌「曠野」での追悼号(1984)、そしてさきに安達徹氏によってまとめられた『雪に燃える花 詩人日塔貞子の生涯』(2007改版)において触れられてゐることが情報の殆どだったのですが、件の雑誌追悼号の入手が困難な現在、編者によるあらたな解説を付したコンパクトな決定版の刊行は意義深く、多くが自費出版とおぼしき新叢書ラインアップにあって抜きんでた一冊となるものと思ひました(『鈴木亨詩集』もさうですが、旧「日本現代詩文庫」の一冊として刊行して頂きたかったです)。

『北方の詩』高島高詩集 (1938ボン書店)。ボン書店らしからぬ凡様の装釘と思ひきや、表紙は2種類の紙を使用。復刻版(1965)とは似て非なるものでした。(田村書店にて)

『山中富美子詩集抄』 (2009森開社)。これまた刊行を知りませんでした(田村書店に立ち寄ってよかったナァー)。 1983年に『左川ちか全詩集』を刊行した森開社の快挙ですが、左川ちかの方も拾遺を収めた改訂版が再び計画中なのだとか。かたや乾直恵が恋に落ち、かたや伊藤整に恋に落ち、と詩人の恋愛ゴシップが有名ですが、ともに成就しなかったのは知的抒情とはおそらくちっとも関係ない理由からなんだらうなと、かつて『左川ちか全詩集』や上田周二氏が著した評伝『詩人乾直恵』に載せられた写真を見るたびに思ったことでした。ところが今回の刊行の後日談として、病弱を恥じて文学上の知友と会ふのを拒み、突然筆を折って行方知れずになってしまった薄倖の佳人山中富美子が、実は2005年、北九州の病院で老衰のためひっそりと息をひきとってゐたといふ事実が分かったのだといひます(享年91歳)。夢を抱いて上京し病魔に斃れた「おちかさん」に対する追悼が、24歳の文学的才能に鍾るものであるのと同時に、文学と縁を切り地方に埋もれることを覚悟したこの詩人の謎の後半生もまた、明らかになって欲しい気がする反面、謎のままでも良いぢゃないかと思ふのは、夢を封印した彼女の意思を尊重するといふより、やっぱり私がつまらぬ男であるからかも知れません。とまれ初の集成は208p限定300部\3800、知らずに買へなかった人、恐らく後悔します。

雲のプロフイルは花かげにかくれた。
手巾が落ちた。
誰が空の扉を開けたのか。

路をまがつて行くと石階のあるアトリヱだ。
いつもの方角へかたむいて、扉までとどいた日影が、のびて行く所は昂奮する氣候を吐き出す白い海岸だ。
そこはすつかり空つぽだ。そこで海はおとなしい耳を空へ向けてゐる。(後略)     (「海岸線」より)


「モダニズム詩人荘原照子聞書」
 さて、この詩集を編集された小野夕馥氏は、左川ちかとの対比とともに謎に包まれた晩年を送った荘原照子との類似を指摘されてゐます。しかしこのたび手皮小四郎様よりお送り頂いた雑誌「菱」の連載「荘原照子聞書」では、山中富美子が為し得なかった結婚と出産と生活の苦労について多くのページが割かれてゐました。(ここからは前回掲示板で触れた所にさかのぼります)

雑誌「菱」168号(20101.1詩誌「菱」の会発行)
 手皮小四郎「モダニズム詩人荘原照子聞書」第9回「鎌におわれて故郷をたつ」38-47p

 妻子ある牧師男性との結婚は、初恋の人に対する当てつけの気持が働いてのことではなかったかといふ疑念。そして姓が変ったといふことは、病弱な前妻は二人の子を彼女に託し入院ののち亡くなったといふことになるのでせうか。罪ふかき彼女自身が生んだ子供の名についても「どんな漢字を当てたのか知らない」と書かれてゐることが、すでに非常な不吉な次号以降を予感させるものです。そして詩人はこの「できちゃった婚」によって故郷山口を追はれ、牧師失格の夫と岡山で新聞屋を始めるのですが、彼女自身あまり健康でないのに、子供たち3人を抱へての家業の切り盛りに堪へうる筈もなく、加へて出奔直後の父の急死に際しては、おそらく葬儀には参列できなかったであらうといふ客観的な考察も下ります。この時代に「後年のモダニズム詩の対極にある作品」が書かれたといふ事実、それは彼女のモダニズム精神が山中富美子とは異なり静謐な生活に育ったものではない証左ですけれども、さらに新しい職を求めて一家が金沢へ発ってゆくところで今回は終了してしまひます。


小兎よ
わたしの草原を飛び去って
もう帰らぬと思つてゐた
おまへの姿を
今朝 わたしはみいだした
わが子の
愛しい身をおほへる
うす紅色のアフガンに    ※嬰児を包むおくるみ (「兎模様のアフガン」より)


 普通の伝記とは異なり、年譜が謎だった人物に関する「新事実」と「稀覯作品」とが次々に明らかにされ、また敢へて距離を置いた視点で考察してゆく様は、今回特にスリリングです。ハラハラさせられるとともに次号が待ち遠しく、毎回連載で部分的に紹介されてゐる初期作品たちの完成度の高さを見るにつけ、こちらもいづれ全体がまとめて公刊される機会の来ることを、祈らずはゐられなくなって参りました。作品だけ公刊されて伝記が謎のままとなってゐる山中富美子とは正反対で、小野氏がブログで「恨めしい限り」の運命と白されてゐること、よく分かります。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。



 さてさて新刊の『山中富美子詩集抄』ですが、検索しても書誌や書評の類の情報はあんまりヒットして参りません。刊行元ほか一部の書店にしか販路を持たないからでせうが、茲に検索結果が全く出て来ない、四季派マイナーポエットと呼んでも差し支へない無名の閨秀小説家の遺稿集の一冊があります。(おそらく)昨年編まれました。正月明けに御遺族からその500ページにも亘る一本をお送り頂き、先週の出張往復の車中ずっとその集成に読み耽ってをりました。感慨一入、御礼状さへ未だ認めてをりませんが、次回以降に紹介したいと思ひます。

462やす:2010/01/20(水) 07:36:40
御礼
 山川京子様より『桃』一月号の寄贈に与りました。お手紙に添へた拙詠を載せていただき赧顔の至り。 また次回の雑誌終刊を前にされた後記を、感慨をもって拝読しました。

 さきに山口融様よりお送りいただいた『薊』ほかの戦前同人誌ですが、さらに書誌研究家加藤仁様より、当時の雑誌バックナンバーの画像の提供を受け、追加公開させていただきました。【明治・大正・昭和初期 詩集目録(名古屋戦前詩誌)】より御覧下さい。

 皆様にはここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

463:2010/01/31(日) 00:40:49
日塔聡詩集について
こんばんは、いつもいろいろ教えていただいてありがとうございます。

「日塔聡詩集」をお贈りしようかと思いながら忘れてしまって申し訳ありません。
私も安達先生から教えていただいて20冊ほど土曜美術社から送ってもらいました。
さしあげなければならないかたをメモしながら、小屋改築、荷物の引っ越しなどに追われ忘れていたのを中嶋さんのホームページを拝見して思い出しました。

この出版により「鶴の舞」と「鶴の舞以後抄」そのほかのいろいろな詩に出会えて、とても貴重なお仕事をしていただいたと思っています。
お気づきとは思いますがP139にある日塔貞子死去の年が昭和49年となっています。
どうしたらいいかと迷いましたが、土曜美術社に連絡したところ正誤表を入れたいということでしたが入っていましたでしょうか。

娘が「東京かわいいテレビ」拝見したそうです。私は見逃しましたがインターネットで見せていただきました。
これからもどうぞよろしくお願いします。

464やす:2010/01/31(日) 20:34:17
出張帰還
 奥平さま、御無沙汰してをります(「なんとかテレビ」…(^∀^;))。
 購入した本は古書でしたので、正誤表は入ってをりませんでした。年譜をみればどちらが正しいのか判断つくことなので心配ないと思はれますが、もちろん誤植は当事者にとっては居たたまれない関心事です。追ってこの掲示板で御紹介する予定の本も、編者の方がたいへん気を揉んでおいででしたが、私などはそれに懲りてこのやうなホームページを公開形態に択んだといってもいいかもしれません。

 さてこの週末は再び遠地への出張でした。年明けには在京の人々と合流、久闊を叙すことが叶ひましたが、今回は北陸転戦の途次、金沢で大正詩研究の竹本寛秋先生と蓋かたむけて語り合ふ機会を得ました。口語詩の成立過程を専門にされる竹本さんですが、大学では文学ではなく教育系情報学のエキスパートとして重宝されてゐる由、学部改組をめぐる状況は国立も私立も変はりがないやうです。
 また日常の移動は自転車に限るとか。Linux系を能くするインターネット草創期からのエンジニア。でありながら、仕事(飯の種)とは別に今どき文化に熱中する時間も惜しまない。そんな別々のベクトルを共通項として持ってゐるハイブロウな人がすでに自分の周りにはこれで三人も居り、もはや符合ではなく世代交代が進みつつあることを思ひ知った感じです。
 とまれ一陽来復づくしの竹本先生には、今春の故郷北海道への喬遷を控へての得難い歓談となりました。ありがたうございました。

 一方、北国の風にあてられたものか体調をくづして帰ってきたら、家では年越しのごたごたが待ち構へてゐました。こっちはうすら寒い春を迎へさうな予感に、もう滅入りさう。

465やす:2010/02/11(木) 23:37:13
『馬の耳は馬耳ならず』
 八戸の圓子哲雄様より『朔』167号、および新詩集『馬の耳は馬耳ならず』の御恵贈に与りました。今号の『朔』は、青森詩人和泉幸一郎の未発表詩ほかに、小山正孝の若き日(昭和15年、16年)の堀辰雄宛書簡(下書き?)2通が、奥様の手で紹介されてゐます。興味深かったです。
 圓子様の詩集は、これまでお送り頂いてきた『朔』巻末の名物コーナーで、「第二後記」と思って毎回なにが書いてあるのか最初に目を通してゐた文章がまとめられたものでした。エッセイ風の散文詩なのですが、長い雑誌の歴史のなかから斯様に厳選され、今回詩集の名のもとにまとめられたものを拝見すると、裏表紙に3段組みだった作品が大いに面目を新たにしてゐることに驚きます。後半にはすでに読んだ記憶のものもあるのですが、前半の、かなり意識して作られた頃の散文詩に注目しました。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 北国
今年も林檎が実り ずしりと手応えのある実を頬張る 青々とどこまでも拡がりいく空 遠く甘い日が口の中から奔り出てくる
僕達が熊谷に住んでいた頃 父や母の里から送られてくる林檎は 童謡の国の主人公のように 広々とした香りを運んできた 杉の木箱も 北国の冷たい山の香りを運んでいた 母の語る北国 父の物語る北国は いつしか僕の中に深々と育っていった 僕達は 戦災で家を焼かれ 父母の故里《北国》に移り住んで 北国はそのまま僕の中で 甘く醸し出されていった
秋になると 幸せだった子供の国が 再び季節の中から甦ってくる (12p)

466やす:2010/02/11(木) 23:45:52
近況:『山陽詩鈔』ほか
 最近の買物は『山陽詩鈔』の(おそらく)割と初めの頃の版本。この天下のベストセラーは明治に至るまで何度も版を重ねてゐて、見返しや奥付に「天保四年新鐫」と刷ってあっても信用できません。古書目録の記載書誌だけではどんなだか判断できないことが多いのです。状態が悪くても刷りのよい古いものを買はうとずっと機会を窺ってゐたのですが、このたび意を決して注文。届いた本は歴代の旧蔵者に繙かれて「くたくた」になった、河内屋徳兵衛以下6者による版本でした。赤字で補筆してある頭註は増訂版から書き写したものでせうか。嬉しいです。

追伸:
 詩人山口正一関係の資料も、無事愛知県図書館へ(『太鼓』は茨城県立図書館へ)寄贈されましたので御報告いたします。旧臘手許にやってきた貴重資料、すべて収まるべき処へ収まってホッとしてをります。

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467やす:2010/02/11(木) 23:47:31
『躑躅の丘の少女』
 さて随分ひっぱって予告しました四季派の閨秀作家の遺稿集ですが、Book Reviewに明日upします。後日また書き足すかもしれません。

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468やす:2010/02/13(土) 00:09:56
『昨日の敵は今日の友』
 と本日Book Reviewに up しましたところが、富田晴美様より本日の郵便で、今回の本の元となった『兼子蘭子遺作集』、そして田上俊三氏の自伝『昨日の敵は今日の友』が届けられました。
 まだ詳しく読んでゐませんが、岐阜県可児市出身の夫君の自伝には、(おそれてゐたことですが)家族のことが殆ど何も書いてない(笑)。 幼少からの正義感に基づく(もしくは、それが因となった)七転び八起きの人生、その武勇伝・失敗談の数々で埋め尽くされ、ほかに若き日にキリスト教に入信したことなどが書かれてゐて、或ひはお見合ひ時の蘭子嬢、堀辰雄の影響もありそんなところに勘違ひして惹かれた、といふこともあったのでせうか。野村英夫などとはもう、えらい違ひの豪傑キリスト者です。そしてこの数奇な自伝だけでも充分面白いのですが、やはり蘭子氏の遺著と、巻末に晴美様の書かれた年譜を合はせ読むことで、男のロマンとそのために振り回されて犠牲となった家族と、両面から人生といふものを俯瞰することができ、深い奥行きが行間ではなく冊間に醸し出されるやうな気がいたします。

 また『兼子蘭子遺作集』の方は、雑誌の初出コピーをそのまま印刷にかけた本で、少女時代の校友会雑誌は編集後記のついた奥付ページとともに、評判をとった「野薔薇」は小林秀恒の挿絵もそのままに付して復刻されてをり、むしろ私などはこちらを珍重したく思ったほどです。やはり刊記のない非売私家版ですが、発行は2008年11月とのこと。

 この週末にゆっくり拝読したいと思ひます。
 ここにても取急ぎの御礼と御報告を申上げます。ありがたうございました。

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469やす:2010/02/13(土) 12:59:49
(無題)
Book Review の事実関係を中心に訂正。『兼子蘭子遺作集』の複写綴本は刊行5部の由、絶版です。

470やす:2010/03/01(月) 20:59:03
山中富美子の年譜と、高祖保の評伝
 さきに刊行をお知らせした『山中富美子詩集抄』所載年譜の追加訂正について、坂口博氏「幻のモダニズム詩人 山中富美子:西日本文化443号」に記述がありましたので転載します。お手許にお持ちの方は印刷して貼り付けておくとよいかもしれません。

「1914年(大正3年)1月15日 岡山県倉敷町に堀内喬・さわの二女として生まれる。四歳のときに、山中馬太郎・伊勢夫妻の養女となる。養父の仕事(鉄道省勤務)の関係で岡山に居住、養父の本籍地は高知市南新町(現・桜井町)。1931年(昭和6年)四月、福岡県小倉市篠崎へ移転。その後、城野(現・北九州市小倉南区城野四丁目)に養父が自宅を購入、長く住む。1963年(昭和38年)6月養母、1967年(昭和42年)12月養父と相次いで死去。養家に兄弟姉妹なく、岡山の縁戚関係も断ち、天涯孤独となる。2001年(平成13年)2月、認知症などで小倉北区内の病院に入院、2005年(平成17年)6月26日、同病院で老衰のため死去」坂口博氏「幻のモダニズム詩人 山中富美子」《西日本文化》443号(2010.2)37-43p より。

 また同じく「椎の木」ブランドの抒情詩人である、高祖保の初めての評伝が刊行されてゐることを知りました。早速注文、モダニズム抒情詩の愛好家にとって必携の一冊となりませう。装幀・内容ともに掬すべき限定本です。

『念ふ鳥』(外村彰著 2009.8 龜鳴屋刊。A5変型上製 424p 限定208部 \8000)。

 なほ、刊行元の龜鳴屋では、わが職場岐阜女子大学の卒業生でもある金子彰子さんの処女詩集『二月十四日』が、続く最新刊として発売中です。一緒にどうぞ。


【その他 古書目録記事より】

扶桑書房より100号目録が到着。
『宮澤賢治全集』 文圃堂版3冊揃 (11p)

札幌の弘南堂書店2010年国際稀覯本フェア出品目録より
四季萩原朔太郎追悼号原稿 (7p)

471やす:2010/03/10(水) 00:54:39
宵島俊吉『惑星』
宵島俊吉詩集『惑星』大正10年抒情詩社刊行

 著者は関東大震災前夜の東京で「若き天才詩人」の名をほしいままにした、東洋大学系の詩派(のちに「白山詩人」と呼ばれる)の初期の中心人物。ただしその「天才」は詩才といふより、多分に早熟にして奔放な詩的人格に冠せられたものだったやうです。昔、『航路』といふ昭和22年発行の詩集を読んでその抒情詩を好ましく思った私は、その前の昭和8年に出た詩集『白い馬』なら、おそらくもっとよい詩が並んでゐるに違ひないと踏んで探し回り、見つけだした本の瀟洒な装釘に感嘆したものの、その期待が過剰であっただけに内容には却って失望した、なんてことがありました。今回縁あってさらに溯り、大正10年に刊行された文庫版の処女詩集に出会った訳ですが、そこで表白されてゐる、大正口語詩人特有の(といふよりまだ二十歳の青年特有の、といふべきですが)感傷と欲望、ことにも季節に仮託した表現が印象的でした。夏は欝屈した恋愛に汗ばむ狂奔の季節として、秋はその対極から観照を喚起する明澄の季節として、春は朗らかに爆発する生命力謳歌の季節として、そして不思議に冬だけがありません。つまり若々しい。で、若い娘のことがいっぱい出てきて、コンタクトはとれないんだけど、彼女らにも仮託して内から身もだえてみせる。こんな詩を衒ひなく書いて見せるところが、当時の青年にはカリスマに映じたのでありませう。詩人はこの後、もう一冊詩集を出して社会人となり、本名の「勝承夫」に戻って前述の詩集『白い馬』を出して(おそらく)評判を落とすかたはら、むしろ民間作詞家として佐藤惣之助のやうな名声を博します。さらに戦後は母校東洋大学の学長も歴任して当路の人に化けるのですが、詩風にとどまらぬ生きざまの変遷はともかく、最初に読んだ『航路』の堅実な抒情詩について、同じく大正期にデビューした詩人達が刊行した戦後詩集と等し並みにして軽視してゐたのは私の間違ひだったと悟った次第。これは苦労して人格陶冶した結果のぼりつめた詩境だった訳です。さういへば勝承夫は河出書房版『日本現代詩大系』でも、第6巻の大正民衆詩派ではなく、第9巻に昭和抒情詩として紹介されてゐます。同巻にはやはり処女詩集を無視されて茲に編入されてゐる野長瀬正夫もゐて、なるほどと思った次第。

 今回、詩集の中になぜか「大垣」と題された「御当地ソング」がありましたので紹介します。布袋鷺山といふのは楽焼師の名らしいです。当時の大垣といへば稲川勝二郎と高木斐瑳雄が起こした角笛詩社があった筈ですが、東海詩人協会の面々が「東都で評判の若き天才詩人」を呼んで一晩語り明かしでもしたのでせうか。このあとに名古屋の客舎に病臥する詩が3篇並んでゐるので、当時の詩誌を丹念に調べ上げたら何か記事が出てくるかもしれません。

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472やす:2010/03/13(土) 18:09:21
詩集『春と修羅』
 本日わが家に宮澤賢治の詩集『春と修羅』の初版本が到着しました。
 正月に上京した際、神保町の田村書店の御店主に「欲しい本はまだあるの?」と尋ねられ、欲しい詩集で私が買へるやうなものはもう…と言葉に詰まり、ただどんな状態でもよいので、もし私に買へそうな一本が入荷したら、この詩集だけは是非御連絡して頂けたらと、それまでにも方々で話ししてゐた高嶺の花を口にしたのですが、その天下の名詩集がたうとう我が目の前に。私有物として手に取ることはないだらうと諦めてゐただけに、望外の喜び・感慨一入、雀躍してをります。状態もどうして分不相応に良好(笑)です。
 この本、日本近代文学館から何度も刊行されたので、復刻版を持ってゐる人は多いのではないかと思ひます。とても感じよく出来てゐるので、私も若いころはぶらり旅に携行して、山稜や高原に寝転がって披いてゐました。中原中也ぢゃないですが、安く売ってると買ってきて何度かプレゼントにもしました。私が「詩といふもの」に出会った最初の詩人にして、今でも一番に尊敬する自然詩人「石こ賢さん」。その生前に刊行された唯一の詩集です。生涯の宝物として大切にします。本当にありがたうございました。
(ただしかし、妹を思ふ詩を、斯様な今、読み直す破目に陥らんとは。苦笑)

一句。 春が来て心象スケッチ修羅も来ぬ。

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473やす:2010/03/14(日) 00:48:12
『春と修羅』の製本について
 この『春と修羅』ですが、初版本を手にしてみて初めて気付いたことがあります。研究者や古書店の間では知れ渡ってゐることなのでせうが、まず16ページではなく8ページ分を一枚の紙に刷ってゐるらしいといふこと、それに合せて製本が普通の本のやうな「糸かがり」ではなく、「打ち抜き」と呼ばれる原始的な方法に依ってゐるといふことです。
打ち抜き製本とは、一冊分の丁合をとった束にブスブス穴をあけて紐で綴ぢたもので、図書館で雑誌を合冊製本するときなんかに使ひます。小倉豊文氏は「『春と修羅』初版について」のなかで、地元花巻の印刷屋には手刷の小さな機械しかなかったことに触れてをり、もちろんそれが原因でせう。
ではなぜこの田舎の印刷屋を使ったかといふことになるのですが、同じ町内のよしみで、とか、風変りな段組や使用字の指定には一々指示を出す必要があったから、とか考へられはしますが、費用節減のためといふのが一番の理由でせう。丁合作業はたいへんですが手伝へばいいのだし、小さな印刷機で刷れ、綴じる手間もこの方法が一番安く済む…なにしろ私自身が田中克己先生の日記を刊行する際に採用した方法ですから(笑)。
 小倉豊文氏の文章で「殆ど毎日校正やその他の手伝にこの印刷屋に通い」とあるのは、だから「殆ど毎日、印刷現場に立ち会ひ、丁合をとる手伝ひにもこの印刷屋に通」った、といふことではないでせうか。「往復の途次には 校正刷を持って関登久也の店に立寄り」とありますが、もしかしたら校正刷りではなく、近世活字本のやうに順次刷りあがっていった現物を持って行ったのかもしれません。だって毎日「校正」に通ったにしては、あまりにもこの「心象スツケチ」、誤植が多いですから(笑)。でもって誤植があまりにもひどいページだけは切り取り、そこだけ一枚あとから差し込んで繕ってあったりする。或は同じページを2度印刷しちゃったんでせうか。ここ(202-203p)には「製本後に」切り取られた紙が残ってゐるのですが、落丁ではないのです。
 目立つことなので、すでに誰かが書いてゐることだとは思ふのですが、詩人の作品については語る言葉をもちませんので、どうでもよいことを一応紹介しておきます。

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474やす:2010/03/14(日) 01:06:35
文圃堂版『宮澤賢治全集』
 ついでにもう一丁。これは昨年オークションで落札した不揃ひの旧版全集。なかになんと最初の全集である貴重な「文圃堂版」が一冊混じってゐました。けだしこの装釘で当時の詩人たちは宮澤賢治を読んだわけです。昭和10年といふ出版文化のピーク時にあって、造本、サイズ、装釘すべてが出色の出来。その後を引き継いだ「十字屋版」にどう受け継がれていったかもよくわかります。参考まで。

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475やす:2010/03/19(金) 11:37:22
【おしらせ】
停電に関連しWEBサーバを停止します。この間ホームページがみられません。

3/19 19:00 〜 3/20 10:00の間を予定してゐます。

よろしくお願ひを申し上げます。

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476やす:2010/03/20(土) 11:28:07
お薦め一般書
 漢詩文の読耕が滞ってゐる。ご飯(古典)を食べずにおやつ(一般書)ばかり食べてゐるからである。それが余りにもおいしいのである(笑)。
 神戸女学院大学の先生をされてゐる内田樹といふひとの『日本辺境論』(2009新潮新書)を読んで引き込まれました。続いて『逆立ち日本論』(2007)、『街場の教育論』(2008)、『街場の中国論 』(2007)と他の著書にもハマってしまったのですが、自分が社会に対して感ずる違和感をうまく表現できぬまま、このさき古本好きの偏屈爺となっていって一体どう世間と折り合って行ったらいいのか、正直「居心地の悪い老後」の予感に悩んでゐただけに、かういふ物の見方と語りができるひとに(本の上でですが)出会って、本当にホッとしてゐるところです。
 『日本辺境論』は昨年度の新書大賞を受賞しましたが、前書の語り口からしていいです。耳に熟さないカタカナ語は嫌ひなのですが同時に漢語もさりげなく使ひ、全て誰々の受売りと謙遜しながら、おそらく読者の一部として予想してゐる、端から馬鹿にして掛ってくる「頑迷な進取の徒」と「頑迷な守旧派」に対して冒頭それぞれに目配せしてるのが面白い。構造主義とかに全然興味はないのですが、右翼とジェンダーフリーを両つながらにやんわり峻拒する、現代の「中庸」を指し示すこれら読本の数々は「肩のこらない名著」と呼んでよいのではないでせうか。
 ただし私個人のアジア漢字文化圏の再興希望は、論語のみならず、家康公の遺訓や教育勅語を許容する分、著者よりもう少しだけ偏屈です。さうしてこのさき世代交代が進み、敗戦による「断絶」を、人間性を深める葛藤として生きることが難しくなったのなら、もひとつ昔、明治維新の断絶の前の江戸時代のやり方を拝借してでも、この断絶には何らかの文化的な東アジア的決着をつけなくてはならぬと思ったりもします。それは現今の政治家の云ふやうな利害のために日本を「ひらく」ことではなく、各民族の記憶に遺された先賢の風を以てお互ひの「襟を正す」ことから始まるものではないでせうか。(またしても政治っぽくなったのでここまで。)

「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に教わった知的「コンテンツ」ではありません。「私には師がいる」という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。「学び」とはこのブレークスルーのことです。『街場の教育論』155p

 貧しさ、弱さ、卑屈さ、だらしのなさ……そういうものは富や強さや傲慢や規律によって強制すべき欠点ではない。そうではなくて、そのようなものを「込み」で、そのようなものと涼しく共生することのできるような手触りのやさしい共同体を立ち上げることの方がずっとたいせつである。私は今そのことを身に沁みて感じている。『昭和のエートス』68p



WEBサーバ復旧しました。

477やす:2010/03/29(月) 00:47:43
歌誌『桃』終刊号
 歌誌『桃』の641号をお送り頂きました。終刊の実感が湧かないのは、毎号お送り頂いてゐた事を空気のやうに思ひなして居った私などでなく、もちろん主宰者の山川京子氏自身が一番さうであるには違ひなく、氏が雑誌の終焉にあたって最後にしたためた文章(「桃」のはじまり)は、56年前の創刊当時を回顧され、その心情を忖度するになんとも云へぬ気持になるのですが、またこの雑誌を起こすやう強く勧められたといふ、作家松本清張が父方の従兄であったことなど、初耳の御関係にも驚かされた、貴重な回想文でありました。

 とまれ、此度の終刊に際しては、折口信夫、保田與重郎、中河与一夫妻ほかの諸先達をはじめ、本来なら創刊当時の同人も一言なりとも感想を寄せられるべきところ、主宰者を除きそろって幽明境を異とする有様。代はってたまさか私ごとき後学が蕪辞を草し、伝統ある雑誌最終号の誌面をはしなくも汚すこととなった、その忝さと晴れがましさに、胸の詰まるやうな感慨、および御縁の不思議を覚えてゐるところです。

 由来、私は和歌といふものに迂遠で、『桃』誌上における京子氏の選評も、作意のありありと現れたものより顕れないものを称揚される「保田與重郎ゆずり」の姿勢であることに、一種の畏れを抱いてをりましたから、夫君の山川弘至のことを詩人として祖述する文章はともかく、今回ばかりは拙劣な歌でも添へねばと思ひ四苦八苦しました(笑)。いざ自分で作ってみると、詩と同様にこねくり回さないと気が済まず、短いですから煮詰まって自分でもよくわからぬものに凝ってしまふ。歌詠みとして、さうして歌の鑑賞者としても失格(こちらは古典の素養がないから)であることは自任してゐましたが、同人の方々の、日本人として当たり前の日常を淡々と詠み重ねてゆかれる姿勢には、ですから本当に頭が下がります。ぜんたい私がインターネットといふ時代の利器を使って過去の詩人達を好き勝手に祖述しようなどといふ試みが、自身の作意と成心の表れに過ぎない訳ですが、顧みて営々たる歩みの「桃」にはさういふ邪心が一切ない。久しい前から世間では、短歌俳句ブームによる多くの歌誌や句誌が乱立してゐますが、茲に「あざとい個性の発現」を善しとしない国風の短歌雑誌が、創刊当時のまま棟方志功の表紙絵を掲げ、半世紀もの歴史を脈々と保ってきたことに、本当に格別な感慨を感じるのです。つまりその歴史が閉じられたことに際会してゐる自分をも、大切にしてゆかなくてはと、「実在する伝統」の終焉に際して思ひ至りました。「胸の詰まるやうな」とはさういふことです。
 その奇しき際会の思ひを主調低音に、滔々と歌ひ上げられたのが、今回末尾に掲げられた野田安平氏の長歌でありませう。氏にはメールで「今後を託されてゐるといっていい野田様の述懐には、皆さんの注目が集まりますから」と、何を書かれるのか期待したのですが、なんの、万感極まる念ひの丈を一首に託し、このひとが未だ回想モードに入ってゐないことに、却って伝統が途切れることなく託された様子をみて、頼もしく思った次第です。

 巻末に、京子氏は亡き夫君の詩作の中から二編の詩を掲げられました。けだし詩人の絶唱のなかからさらに選ばれた極めつけの二編として、これは山川弘至の代表作と京子氏自らが認定したことを意味しませう。今後、昭和の詩をアンソロジーに編む際には逸することのできない、まことに戦慄を秘めた抒情詩、心に迫る作品と私も思ひましたので、詩に関する掲示板として、あらためてご紹介したいと思ひます。( 『詩歌集 やまかは』1947所載)

  君に語らむ        山川弘至

君に語らむみんなみの
荒き磯辺に開きたる
名知らぬ花の紅の
波高き日はその影を
寄せくる潮に砕きつつ
波しづかなる夕ベには
その美はしき花影を
ひた蒼き水に映すかな

ああ荒磯の岩かげに
はかなく咲きし紅を
君知り給ふことありや
大和島根を遠く来て
このみんなみの荒磯に
北にむかひていつの日も
ひそかに咲きし紅を
君知り給ふことありや

夕荒潮の鳴るなべに
雁の使も言絶えし
この岩かげの潮の間に
かつがつ咲きし紅の
花の色香はいつの日も
高くにほひてかはらねば
ことしげき日もみんなみの
かの岩かげを忘れ給ふな



  ふるさと        山川弘至

そこに明るい谷間があり
そこに緑の山々まはりを取りまき
そこに深き空青々とたたへゐたりき
おほぞらを渡りて吹きし風のひびきよ
あかるく照りし陽の光よ木々のそよぎよ
雲はしづかに 白く淡く
かの渓流のよどみに映りゐたりき

ああ思ひ出づ かの美はしき時の流れを
ああ思ひ出づ かの遥かなる日々の移りを
かしこに 我が古き日の幸は眠りたるなり
かしこに かの童話と伝説は眠りたるなり
思へども思ひ見がたき かの遠き日は眠りたるなり

かの山深き谷峡の村に我が帰らむ日
かのふるさとなる古き大きなる家に我が帰らむ日
太陽はげに美はしく四辺を照らし
あまねく古き日のことどもよみがへられ
あまねく遠き日の夢はよみがへらむ

げに 古く久しく限りなきものよ
汝! そはふるさと
げに 常に遠くありて思ふものよ
汝! そはふるさと
我 かのしづかなる山ふところに いつか
常とはに帰り休らはむ日
そこにこそ かの背戸山の静かなる日溜りに
幾代もの祖先ら温かくそのしたに眠りたる
かのなつかしき数基の墓石
我が やがて帰らむ日を 待ちてあらむ

 戦前の生き方を節操として体現し、示し続けてこられた世代も、京子氏のやうな数奇な運命に翻弄された当時の若者を最後に、この日本から消えようとしてゐます。国ぶりの変貌を、なほすこやかな言霊を信ずることで、些かでも回避することができればといふ願ひ。
 雑誌は終刊しても京子氏を中心とした歌会は、引き続き行はれるとのことです。『桃』の歴史を閉じるにあたって、ここにても御礼かたがた、京子氏の御健康を切にお祈り申しあげます。
ありがたうございました。

【追而】
 また、山川京子氏も執筆してをられる、『保田與重郎選集・全集・文庫』に付せられた月報の文章を纂めて成った『私の保田與重郎』といふ浩瀚な回顧本が、今月新学社より刊行されました。最初に出た南北社版の著作集には、月報執筆のトップバッターとして檀一雄と田中克己先生が書いてをり、その意義を編者の谷崎昭男氏がいみじくも後記で次のやうに記してをられます。

生前の出版にかかる「著作集」と「選集」には、装偵がいづれも棟方志功の手になつたやうに、収録作品の選定から月報の執筆をたれに依頼するかについて、編集者の考へ方はそれとして、当然著者の意向が反映されてゐなければならない。「著作集」の月報の最初を檀一雄と田中克己の文が飾ったのは、他の何といふより、友誼を重んじた保田與重郎の為人を偲ばせる(654p)。

 偶然知った新刊本ですが、合はせて宣伝させて頂きます。

『私の保田與重郎』谷崎昭男編 -- 新学社, 2010.3, 658p.\4200

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478やす:2010/04/04(日) 23:08:01
蔵書刊行年記録更新
 オークションでおとした『再遊紀行』といふ古本が届く。見返も刊年記も無い本ながら、大きな版型(27.4×19.2cm)と江戸中期以前の漢詩集独特の文字体がなんとも古めかしい。東海道中の紀行漢詩集ですが「萬治時己亥季春嘉再遊于東都・・・」の自序があり、予め刷り重ねた風の朱線が「嘉」の字の真ん中に入ってゐて、調べると山崎闇斎だと分かります。巻末にも「二條通松屋町武村市兵衛刊行」とあって、ネット上で

「武村市兵衛は初代二代ともは闇斎門人で、三代目が享保十四年に没して廃業したらしいが(藤井隆『日本古典書誌学総説』158p)、元禄十一年『増益書籍目録』などを見る限りでは、闇斎・敬斎・直方・慈庵などの崎門学派の書のほとんどが武村市兵衛の出版にかかるようである」

 との 記述に遇ひました。しかし「万治」って…万延ぢゃないですよ。吾が「ごん太に小判蔵書」の刊行年記録が、これまでの『蛻巌集』(寛保二年)から、またさらに百年遡及して更新されたのですが、こんな稀覯本が、私ごとき一介の図書館員のお小遣ひで買へる国って…絶句です。

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479やす:2010/04/10(土) 21:02:27
荘原照子聞書 第10回目 金沢時代
 鳥取の手皮小四郎様より『菱』169号を御寄贈いただきました。

 詩人荘原照子の聞書、第10回目となる今回は、彼女ら一家が岡山で食ひ詰めて金沢育児院に移住した1ヵ年半の出来ごとについてです。ともすれば主観に流れ、思ひ込みに固執する聞書が、手皮さんのフィールドワークと稀少な地元文献の博捜によって補強・訂正され、伝記的事実として明らかにされてゆく様は、毎度のことながら説得力に富んで聞書の域を超えてをります。
 この昭和6、7年といふのは詩人にとって、中央詩壇にデビューする直前の最も暗鬱な時代、といふ位置づけが「結果的に」なされるやうですが、後年のモダニズム詩人が生活苦のあげく、伏字の施されたプロレタリア詩さへ書いてゐたといふ事実はまことに衝撃的で、当時はモダニズム系の詩誌でも、例へば「リアン」のやうにマルクス主義を標榜するやうになるグループもあるにはあったのですが、彼女がキリスト者であったこと、羸弱であったこと、さうして末尾の年譜で手皮さんがおさへてをられるやうに、この年の「詩と詩論」に左川ちかや山中富美子が華麗なモダニズムを挈げてデビューしてゐる事実を思ふとき、ルサンチマンの極にあった詩人の精神生活が、革命思想に向かふことなく、むしろ一種の頽廃を宿したモダニズムの美学を許容してゆくことになる、この時代は正にそんなどん底の分水嶺、蛹の時代であったのかもしれない、と知られるのです。

 これは何といふ哀しい馬だ
 骨と皮ばかりの
 何といふかなしいゆうれいり馬らだ!
  (中略)
 これらよはいものたちの吐息をはつきりきいた
 否!否! じつにそれことは
 サクシュされ利×され 遂にはあへぎつつゆきだほれる
 わたしたち階級の相(すがた)ではなかったか!

 その日
 第××××隊がガイセンの日!
 わたしは病む胸を凍らせる
 北国の氷雨にびしよぬれ乍ら
 とある町角に佇ちつくしてゐた!
 ふかい ふかい 涙と共に!

   「我蒼き馬を視たり」部分(『詩人時代』2巻12号1932.12)


 「利×」が「利用」とわかっても、「第××××隊」について「育児園近くの出羽町練兵場で上海事変から帰還した歩兵第七連隊の兵士を迎えた時のものと思う」とさらっと書くには、調査の労と教養の下地の程が思はれるところです。物語は次回、いよいよ一家で上京、さらに夫・子供たちとも別れて独り横浜に移った彼女が中央詩壇にデビュー、といふことになる由。一体どういふ事情なのか、さうして詩がどのやうに変態を遂げて羽ばたいてゆくのか、手皮様からの報告を見守りたいと思ひます。

 さて新年度を迎へて慌ただしいなか、「季」の先輩舟山逸子様より「季」92号を、富田晴美様からは図書館用に『躑躅の丘の少女』をもう一冊御寄贈にあづかりました。

 御挨拶も不十分で申し訳なく存じますが、ここにても再び皆さまに対しあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。

480二宮佳景:2010/04/21(水) 21:07:28
追悼 堀多恵さん
 作家堀辰雄の妻多恵さん(筆名・堀多恵子)が96歳で他界された。
 堀辰雄は昭和28年5月に信濃追分で亡くなつた。病気と戦争で十全な創作活動ができなかつたのは不幸だつたが、その死後ある時期まで、10〜15年に1度の割合で全集が大出版社からコンスタントに出たのは、漱石を除けば、おそらく近代日本の文学者では堀辰雄だけだつたのではないか。
 生前、すでに角川書店が作品集を出して居たものの、最初の全集は没後すぐに企画され、新潮社と角川が激しい綱引きを演じ、角川源義の師である折口信夫が仲裁に登場する一幕もあつた末に新潮社が出版した。角川は10年待つた後で、河上徹太郎に解説を書かせた全集を刊行。さらにその後、堀の愛弟子といふべき中村真一郎と福永武彦が編集した決定版全集が筑摩書房から世に送られた。
 大学生の頃一時期、堀辰雄にイカれて居た。あの生と死を見つめた甘美でありながら強靱な精神が確乎として存在する世界にあこがれてやまなかつた。バイト先の古書店で、上品な白い箱に濃緑の帯がついた筑摩の決定版全集を羨望の眼差しで見つめて居たが、結局学生時代はあまりにも高価で入手できなかつた。この完全版全集は後に、堀の著作権が消滅する直前に筑摩から復刊され、この時やうやく新刊の形で手に入れることができたのだつた。
 書物の世界だけでは満足できず、バイトで貯めた金を使つて、信州まで足を伸ばした。「美しい村」に登場した岩や、エッセーで書かれた石仏を直接目にできたのは嬉しかつたが、軽井沢も堀の終焉の地となつた信濃追分も、やはり高度経済成長の波に洗はれて見事に俗化して居た。強く失望して、その後、軽井沢には足を踏み入れて居ない。
 その際、堀ゆかりの油屋に宿泊したが、その際主から「多恵さんならこの前おみえになつて、しばらく青森で過ごされると仰つて居た」とのことだつた。夫人がお元気であることに一抹の安堵を覚えた。また、この時は足を伸ばさなかつた「風立ちぬ」の舞台となつた旧富士見高原療養所は現在、農協の施設になつて居ると聞いた覚えがある。ただ、信濃追分の森の中の、澄んだ空気にはなるほどここは療養にはふさはしい場所だと強く感じたものだつた。
 その多恵夫人が書いたエッセーの数々だが、病人や病気、その看護を描いたものであるにもかかはらず、決して暗くならず、明るいユーモアを湛へたもので、読後こちらが元気になるやうな文章だつた。書き手のお人柄といふものを強く感じさせる文章であつた。多恵さんはどこかで「堀は戦後、中村さんや福永さんの書いたものの中で生きてきた」と書いてをられたが、ご自身の著作の中でも、夫である堀は生き続けたのだ。産経新聞に連載されて角川書店から出された『堀辰雄の周辺』は、連載当時から本当に愉しく読んで、続きが楽しみで仕方なかつたものだ。連載には、後に中央大学の学内誌を編集されたT記者が尽力したのだつた。そのTさんから
「多恵子さんはまだ元気なんだろ? 年賀状送るのに確かめようと思つてさ」
 と新井薬師に住んで居た頃、突然電話をもらつたことがあつた。今回改めて、多恵さんによる「あとがき」を読んで、これが本になるにあたつて、風日舎のYさんが編集にあたられたのを知つた。角川時代の最後のお仕事だつたのか。単行本になる際に併せて収録された中野重治や福永武彦への追悼文もいい文章だつた。小林秀雄が死んだ時に『文藝春秋』に、小林と堀が旧制一高の頃、野球やキャッチボールをする間柄だつた云々と短い文章(談話?)が掲載されて居たはずだが、その文章は収録されなかつた。
 ある時、著名な批評家の夫人が多恵さんについて、
「あの方は文章家ですもの」
 と感に堪へないといつた口調で言はれたことがあつた。そして、
「堀さんは、あの方(多恵さん)だから結婚されたのでせう」
 とも仰つた。夫人と多恵さんはほぼ同じお年だつたはずだ。妻は妻を知る、といふことかと思つたものだつた。
 堀辰雄の死後、半世紀以上も一人歩み続けた多恵さんの偉大な足跡を目にする時、はるかなるものを仰ぎ見るやうな気持ちがする。矢阪廉次郎氏の学会発表の際に紹介していただいた竹内清巳氏から、江藤淳の「幼年時代」批判を気にした多恵さんが、はるばる九州まで足を伸ばして、堀の養父であつた上條松吉の工場で働いて居た弟子のところに、堀と上條の関係を聞きに出かけたと聞いた。夫とその作品の名誉を守らうとされたのだなと少なからぬ感動を覚えたものだつた。何よりも、堀未亡人ではなくて、随筆家堀多恵子の書くものに、常に敬意を払つてきた。それは今後も変はることはあるまい。
 堀多恵さんの逝去に、心から御冥福をお祈りいたします。

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481やす:2010/04/21(水) 23:49:38
とりいそぎ
もう帰らうかと職場よりパソコンチェックしたら吃驚です。
存じませんでした。慎んで御冥福をお祈りいたします。
匿名氏の二宮佳景さん[鮎川信夫ペンネーム]、お報せありがたうございました。
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/04/2010041701000693.htm

482やす:2010/04/22(木) 22:50:33
追悼
 堀多恵子氏が逝去された。96歳といふから天寿を全うされたといってよいのだらうが、図書館に勤めてをりながら知らずにゐた。迂闊であった。
 四季派といふ、エコールといふより氛囲気と呼んだらいいやうな現象を、基底から醸成してゐた堀辰雄。その職業文筆家らしからぬ、詩的で知的に洗練された西洋風の有閑を愛する資性と、また実際に植物のやうな有閑でなくては身が保てなかった健康を、夫人として側らから理解し支へ、亡きあとは遺影を抱いて、時代とともに「青春の記憶」と遠ざかりゆくイメージに殉ぜられるままに、操を守られた。夫婦の有り様、ことにも結婚について私がことさら引き合ひに出して思ったのは、日夏耿之介である。生涯の頂点となる仕事を成し遂げたのち、そのままそこに留まると連れて行かれさうな精神の高みから、再び現世に生身の作家を引き戻し、子のない余生の充実に貢献したのは、実に年の離れた包容力のある夫人の坤徳に与るところが多い、といふ気がするからである。
 もっとも当の夫君が、頭脳明晰の後輩達から先生と慕はれたのも、書かれたものと書いたひとから立ちのぼる悠揚迫らぬ香りと人徳に他ならない訳であって、さしずめ野村英夫を馬鹿にしたり、堀辰雄の芳賀檀への親近を訝しげに眺めて、四季・コギトの気圏から最も遠い所に位置してゐる加藤周一などは、頭脳明晰の後輩の雄たる存在だが、堀辰雄が好もしいと思ったのはもちろん血筋ではなく、育ちの良さにありがちな正直で向日的な詩人的資性に対する親近なんだらうと思ふ。彼自身は下町の出身だが、さういふ「生存力からみた本質的な弱者」への労はりが、若いころは才気走ったものが好きだった、この穎才の心情の基底には(己が身にも引き付けて)あるやうな気がしてならない。加藤周一が中村真一郎とともに多恵子夫人と行った『堀辰雄全集』最後の月報での鼎談で、夫人が野村英夫をフォローする発言を何気なく繰り返してゐるのは、さうした夫の心情の一番機微のところを、敏感に察して彼女自身のスタンスとしても受け継いでゐる証しなのである。さうでなければ、彼らとは文学的立場も社会的立場も対偶にあったやうな吾が師、田中克己が堀辰雄とともに夫人をも徳として仰いだ理由は説明できない。同じキリスト者でもあり、戦後の抒情詩否定の風潮のなかにあって、この人は全てが分かって下さってゐる、といふ安心があったのであらう。

 私自身も、自らの詩集をお送りした際の受領のご返事として、厚情のこもったコメントを附した御葉書を二度、多恵子様からは頂いてゐる。今は亡い先生達から頂いた礼状とともに生涯の宝物である。また田中先生が亡くなって形見分けに御自宅に呼ばれた際、すでに末期がんで臥せってをられた悠紀子夫人を見舞ひに訪れた多恵子様と、偶然御挨拶を交す機会にめぐまれたが、それが最初の最後となってしまった。いづれも20年も昔の話になるのですが、今更ながら御葉書を掲げさせて頂き、個人的な思ひ出とともに偲び、茲に追悼いたします。

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483やす:2010/04/24(土) 21:46:26
追而
本日、『躑躅の丘の少女』を刊行された富田晴美様よりお電話をいただきました。そして堀多恵子様とは、亡くなる前の週に電話でお話をされ、此度の出版についてあらためて労ひの言葉を賜るとともに、なんと4月14日には追分への訪問も約束されてゐたといふことを聞いて吃驚。その後に自宅で転んで額を怪我され、治療に入院した病院で肺炎に罹ってしまはれた、とのことです。それでも約束の14日の時点では自宅から、「少し延期すれば大丈夫」との御返事だったと云ひますから、大事になるとは思ってをられなかっただけに、逝去と事の顛末を知らされたときには驚かれたさうです。御母堂の遺稿集『躑躅の丘の少女』と、多恵子様の序文(2009.7.3)と、両つながらいみじき形見になってしまったことについて、さぞかし感慨の尽きぬ胸中かと拝察申し上げます。以上御報告まで追書きいたします。

484やす:2010/04/29(木) 19:21:06
連休週間
 さきに二松學舎大学の日野俊彦先生よりお送り頂いてをりました御論文(『清廿四家詩』について「成蹊國文」Vol.43)、ならびに一緒に同封頂いた 『幼学詩選』序跋(村瀬太乙・村瀬藤城)のコピーなど、やうやく落ち着いて読ませて頂いてをります。
 さういへば、友人の蕎麦屋さんの床の間の掛軸をボランティアで掛け替へてゐるのですが、その際、熱心にメモを取られる御婦人から声をかけられ、自宅には藤城の立派な屏風があって手をかけて修繕されたとのお話を伺ひ、今も所縁の漢詩人が地元の人々に愛されてゐることを嬉しく実感。
 また小山正見様よりは、一線を退かれて悠悠自適の生活に入られ、愈々ホームページ「感泣亭」の充実に力を注がれるとのお便りを拝して、羨ましい限り。

 連休週間に入りますが、何方様も事故のなきやう、私は今年もどこにも遠出はせず家居終日、冷酒でも舐めつつ読書三昧で無事過ごせれば本望に候です。



『幼学詩選』 序
某等、某詩選を持ちて来り、余に此の中に就て幼学の為に選せんことを請ふ。余曰く、此れ有るにまた何の選かと。曰く、彼れ巻数頗る多く、詩会吟席に携行不便なり。先生、之を便ぜよと。是に於てか、読み随ひて之を点出し、取ると捨てると殆ど相半ばにして、遂に千四百数十余首を得る。また平生記する所の百余首をも加へ、而して之に授く。
一日、たまたま友生を訪ひ、語るついでに自ら笑ひて曰く、余は儒生にして書を読むを欲せざるも、この頃、幼学の為に詩巻を閲して数日間、三千首を読むは如何。懶惰先生もまた時あらば勤むと謂ふべきかと。生曰く、詩を撰するは容易ならず、回(めぐ) らして一小冊子を出して示さる。取りて之を見れば則ち先師山陽翁の輯むる所『唐絶新選』なり。先づ其の例言を読めば、取捨、大鏡に照らす如く、玉石逃るる所なし。乃はち独語して曰く、此の如くにして始めて之を撰すと謂ひて則ち可なり。余輩の為す所(仕業)は、録するとや集むるとや。況んや翁は少時より唐絶を好めり。[吟]唱、年有りて乃はち心に得ること有りし者なり。余や、匆匆の中(うち)の一時の触目、以て可・不可と為すは実(まこと)に児戯のみ。所謂「聖はますます聖に、愚はますます愚に」、読者、之を何と謂はん。覚えず首縮み、汗背を沾(うるほ)す。[黙]然たるもの之を久しうす。既にして(やがて)徐ろに眉を展ばし、頤を撫し乃ち睥睨して曰く、咄矣(舌打)、此の挙や、将に大人先生の間に行はれんとするか、多く其の量を知らざるを見るや、嗚呼、是れ(わが)『幼学の詩選』なり。弘化丁未(四年1847)冬月、美濃村の村瀬黎泰乙(村瀬太乙)撰し、並びに尾城(名古屋城)の僑居の南窓の下に題す。

 跋
余、嘗て古人の絶句を評して云ふ、盛唐にして供奉(李白)龍標(王昌齢)、中唐にして君虞(李益)夢得(劉禹錫)、晩唐にして玉溪(李商隱)樊川(杜牧)、是れ其の最なり。然れども細かく之を観るに及べは、玉溪は樊川に及ばざるの遠きこと甚だし。唯だ樊川は気勝を以てす。夫れ気勝とは則ち筆健なり。世は小杜を以て之を宜しと目す。偶ま泰一と談じて此の事に及べり。泰一曰く、其れ然り。吾が願ひ未だ高論の暇あらざること此の如し。但だ(わが)鄙見低説、幼学に課するを勤めんと欲するのみ、と。回らして其の手づから輯めたる『幼学詩選』を出し示し、余に跋一言を嘱す。夫れ泰一の作文は奇気有りて芳し。為に先師山陽翁の称許する所と為る。今や斯の選、名づくるに幼学の為と曰くと雖も、首々奇響逸韵、別に一種の活眼目を出し、選ぶに以て必ずしも時好に沾沾(軽薄)とせざるなり。此の選の(世に)行はれる如き、童蒙をして明清より遠く遡る三唐に近からしめんことを庶幾(こひねが)ふ。先師、霊と為り、また当に地下にて破顔するべし。
 時 嘉永紀元戊申(元年1848)首夏(4月)
  藤城山人(村瀬藤城)

485やす:2010/05/21(金) 00:37:05
ニュース 三つ
 目下『淺野晃詩文集』を編集中の中村一仁様より、いよいよ今夏に刊行予定との進捗状況をお知らせ頂きました。さきの『全詩集』では「全詩」と謳ひながら『幻想詩集』が封印され、また意匠や造本も愛蔵家向きではありませんでした。どんな一冊となるのでせうか、たのしみです。


 さらに扶桑書房に於いては、この秋にも稀覯詩集を一堂に集めた前代未聞の古書目録を発行する予定とか。肝煎編集方に恒例の最強パートナーを迎へ、「開運!なんでも鑑定団」でも目利きを発揮されてゐる御店主によって、「間違いなく空前のラインナップ」の詩集たちが、人気と稀覯度と相俟って金額で表示されるのですから、触れこみがその通りなら当節古書界の大事件です。もちろん編集の念頭には田村書店の伝説の『近代詩書在庫目録』(1986年)があるのは間違ひなく、今度は原色図版も数多く載せられることでせう。「詩集の図鑑」にしてどんな「人気番付」となるのか、こちらも興味津津です。ただし全ページ高価な本ばかり並ぶやうだと、昨年の「100部限定目録」同様、私には届かないかもしれませんね(笑)。Yahooオークションより。


 ホームページのカウンターがまもなく10万アクセスを記録します。皆さんの殆どがリピーターと思はれるのですが、毎日20人前後の積み重ねが10万人・・・是亦感無量哉。

486やす:2010/05/07(金) 09:45:28
10万アクセス御挨拶
 サイトのトップページに設置してあるカウンターが2000年1月以来、この10年間で10万アクセスを記録しました。毎日20〜30人の来訪には巡回エンジンも混じってゐませうが、至って地味なサイトにして継続の結果とありがたく、御贔屓の皆さまには厚く感謝を申し上げます。

 顧みれば、先師田中克己先生の詩業を紹介・顕彰しようと、図書館に転属したのをきっかけに開設した、ささやかなHPが始まりでした。“祖述”の対象は、先生が同人だった「四季」「コギト」「マダムブランシュ」をはじめ周辺にあった抒情詩人たちに、さらに地元東海地区の戦前詩人達へと広がり、やがて関係者や御遺族の方々、そして愛書家の皆様からの知遇を賜り、その支援を受けて、コンテンツは次第に私個人の管見とは関係なく、文学資料を蓄積するデータベース的な側面を顕してきた、といってよいでせう。現在、サイトの大きさは4Gb余りあります。やってゐることは、図書館界が推進してゐる「電子アーカイブ」事業と一致してゐる所もあるのですが、現代詩を受けつけぬ偏屈な「私」の姿勢は崩したくなく、反対に著作権など「公」のサイトが手を出しにくい部分を我流にフォローするかたちで、ライフワークの存在理由が今後も確保されたらと思ってをります。

 電子アーカイブといふ側面からみますと、むしろ近年の私が執心する江戸時代の漢詩文、時代も遠く且つ私が初学者ゆゑに私意をはさむ余地もない分野ですが、こちらの方は地域資料を対象とすることで一層「公」に傾く気配いたします。時代の断絶による衰退といふ点では戦前抒情詩との類比も感じさせ、またこの分野を再評価に導いたのが取りも直さず「四季」所縁の富士川英郎、中村真一郎両氏の先見であったこと、そして漢詩を介することで田中克己先生の業績の宏大な範囲にも再び繋がることができること、かうしたモチベーションの円環をもたらしてくれる媒ちとして、決してHPの趣旨とも無縁ではありません。ないばかりか、現代詩詩人のスタンスとは異なる日本文化再考の視点を、極東文化の同質性を視野に今日的意義として啓いてくれたといふ意味では、敗戦によって断たれた先人の志をどのやうに後世に伝へてゆくべきかといふ、私個人が向き合ってきた「コギト」的な問題意識と直結するやうにも思ってゐるところです。日本は自身の存在理由を崩すことなく、中韓の諸国との深い記憶における連帯を文化において思ひ起こす責務が有る筈です。私は今の日本人と中国人と朝鮮人が大嫌いです(笑)。

 このやうなサイトがこのさきどのやうな運命をたどるのかは正直、私にもわかりません。国会図書館が「インターネット資料収集保存事業」に動き出した模様ですが、対象はどのやうに広げられてゆくのでせう。民間好事家のサイトはその多くが、おそらく私のやうな偏屈な個人によって管理されてゐることでせう。文化を保存・継承してゐるなどと、をこがましい気負ひは持たず、信奉する詩人達と一緒に、むしろ伝統に殉ずることができる喜び、といふ謙虚な気持で臨んだ方が良い結果をもたらすかもしれません。私は多くの方々の理解と協力と黙認を経て成り立ってゐるこのサイトの資料情報のコンテンツについて、著作権上の公衆送信権を利己的に主張するつもりは今後もありません。

 感謝の念とともに10万アクセスの御挨拶まで申し上げます。


 読耕は梁川星巌の伝記を再開。連休中の読書の副産物として、ノートは江戸の詩塾を畳んで故山で充電、燕居するさまを、伊藤信先生の文章とともにそのまま写しました。ご覧ください。

487やす:2010/06/02(水) 12:14:49
『遊民』創刊号
職場の図書館まで資料レファレンスにお越し頂いた大牧冨士夫様より、岐阜の詩人吉田欣一氏の生涯を俯瞰する「出る幕はここか 詩人吉田欣一の私的な回想 4〜15p」を巻頭に掲げた同人誌『遊民』創刊号の御寄贈に与りました。

?

 岐阜の詩史といふとき、私がまず思ひ起こすのは江戸後期の漢詩人達の時代なのですが、近代詩以降に限ると、昭和初期の「詩魔」を中心とした戦前詩壇、戦後は彼らと所縁のない殿岡辰雄の「詩宴」や「あんかるわ」系の反戦フォーク世代の詩人達が、断絶に断絶を継いでさんざめき、やがて同人の高齢化とともに、現代詩を以て志を立てようとする若者が後を絶って今に至ってゐる、といふ大凡のイメージを持ってゐます。いま振り返って、共産党に深く関りやがて除名にもなった吉田氏の「人民詩精神」といふものを思ふとき、抒情に述志をことよせた四季やコギトの詩精神で無いことはもちろんですが、前衛の自負を嘯くアプレゲールの政治的気炎そのものか、といへばさうでもないやうな気もし、中野重治同様、古く戦前に詩的出自を持った人ならではの、生きざまや人物に魅力を加味した詩人の一人ではなかったかと、遠くからはお見受けし、大牧氏をはじめ多くの後輩に慕はれて93歳の大往生を遂げられた、郷土詩人の冥利に尽きる生涯に思ひを致しました。



とまれ創刊号のメンバー平均年齢がなんと76歳(!)、ここにても厚く御礼を申し上げますとともに、お体ご自愛のうへ御健筆お祈り申し上げます。ありがたうございました。

同人誌『遊民』創刊号108p \500 遊民社 

488やす:2010/06/02(水) 13:17:32
『伊東静雄日記 詩へのかどで』
 昨日はじめて『伊東静雄日記 詩へのかどで』(思潮社)を手にしました。
用紙が硬くて本文が開きにくく、また勝手に新かな遣ひにされてしまったことなど気になりましたが、内容は詩人のデビューに先立つ青春時代の5冊のノートを、懇切な編注とともにテキストに起こした新発見の資料であり、コギトにおけるライバルだった田中克己が同様の期間に記した詩作日記ノート 「夜光雲」と対比すれば甚だ興味深いものがあります。旧制高校のバンカラ学生とはいへ、その欺かざる心情吐露は勢ひ「恋愛」が中心ともならざるを得ませんが、走り書きが均一に活字に起こされてしまふ事情には、田中先生とおなじく同情するところです(笑)。

 此度の刊行は正しく『伊東静雄全集』補遺巻と申すべき内容ですが、全集の改訂が企画されなかったといふことは、編集後記にしるされてゐるとほり、詩人に関する新資料はこれにて打ち止め、台風時に散逸したと云はれる教員時代の日記など、全集において御遺族の配慮によって抹消された個所が話題となってゐた資料も、完全に公開の可能性がなくなったとみてよいのでせう。もっとも今もって若者たちが伊東静雄の為人に、さまで根掘り葉掘りしたくなる魅力を感ずるものかどうかは不明です。日本人古来の忠信に係る実直さみたいなものが、詩人の美徳と認められるのか。もはや「忠信」を時代錯誤、「実直」を馬鹿正直と侮る現代人には、この日記における日本浪曼派的色彩もイロニーの防禦もない学生の日記は、反発どころか「無害」なのかもしれません。御遺族の公開の決断も係ってそこにありませう。しかしながら編者が、

「そして最後に(老爺心)ながら、現代の若者たちにも、自身の心情とこの日記の内実との間の類似点と相違点とに、なるだけ個々人として、また同時代の青年男女の一員として、賛否と好悪の面とはかかわりなく、目を見開き、耳を傾けてくださることをお願いしたい。これはとてつもなく困難なこと、というよりは、まったく不可能な願望かもしれない。ただそれでも、幾分試みてみようという向きがあれば、幕末・明治維新以後の、(十二分に理由のある)日本の超急ぎ足に思いを致してくださることであろう。現代の混乱の大きな原因の一つがそこにあることは明らかだと思われる。」(編集後記522pより)

と仰言る言葉に、私も深く同感いたします。編集後記より経緯を引きます。

 詩人伊東静雄(1906〜1953)によるこの日記は、1924(大正十三)年11月3日から1930(昭和五)年6月10日の約五年半にわたって、大学ノート五冊に記された。伊東満十七歳から二十三歳、旧制佐賀高等学校文科乙類二年に始まり、京都帝国大学文学部国文学科に入学、その卒業後に大阪府立住吉中学校に赴任して一年が経つまでの時期にあたる。詩人の日記で今日われわれの目に触れることができるのは、人文書院刊行の『伊東静雄全集』の日記の部にかぎられていた。これは1938(昭和十三)年から、その死の二年前、1951(昭和二十六)年にいたるものである。詩人の長女である坂東まきさんによれば、今回見つかったこの日記以上の発見は、今後ありえないだろうという。唯一、住吉中学校教員時代の日記(「黒い手帳」と名付けられていた)の存在が明らかだったものの、いまや完全に行方不明だそうである。
 「詩へのかどで」という副題は、第一冊ノートの表紙の真正面に、大きく筆書きされている。これが書かれた時期はまったく不明であるが、日記ノート自体は山本花子との結婚(1932年4月)を控えた時期に、実弟の井上寿恵男に託されたとのことで、おそらくそのときに記入されたものではないかと推測される。このときの詩人のことばが伝わっている。「この日記はだれにも見せないようにしてもらいたい」と。新妻に見せたくないという配慮からだとされている。(中略)
 本日記の原本は、前述したように、弟さんが保存していたが、その遺族から伊東の長女である坂東まきさんにいわば(返還)され、詩人生誕百年を前にして、坂東さんから柊和典に出版に関するすべてが依託され、さらに柊から上野武彦、吉田仙太郎の両名に編集のための手伝いが要請されたものである。(後略)  (編集後記より)

『伊東静雄日記 詩へのかどで』2010.3 思潮社刊行

内容 ノート第1冊 大正13年11月3日〜大正14年12月3日
   ノート第2冊 大正14年12月4日〜大正15年12月2日
   ノート第3冊 大正15年11月24日〜昭和2年10月7日
   ノート第4冊 昭和3年5月25日〜昭和4年3月5日
   ノート第5冊 昭和4年4月26日〜昭和5年6月10日

編注 略年譜 解説:吉田仙太郎氏

\7980 19.5cm上製函 口絵写真1丁 528p ISBN 978-4-7837-2356-1

【参考】asahi.com(朝日新聞社)  2010年5月13日記事リンク

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489やす:2010/06/06(日) 23:07:18
『杉山平一 青をめざして』
 杉山平一先生より安水稔和氏の文集『杉山平一 青をめざして』をお送り頂きました。最初手にした時、以前刊行された同名詩集の再版かと思ったのですが、これは安水氏による、先生についてこれまで語られた小文や講演録、そして途中からはなんと先生御自身との対談をそのまま収めた内容になってをり、読みながら2006年、四季派学会が神戸松蔭女子学院大学で行はれた際に拝聴した先生の面影が髣髴してなりませんでした。このたびの一冊は実に、この対談に於いてお二人の語り口をそのまま写しとったところ、そしてそこで取り沙汰される詩人達の名が、今ではあまり名前も上ることの少ない戦前の関西詩人達に及んでゐるところ、そんなところに出色を感じました。これまで杉山先生の回想文に出てきた「四季」の詩人達のほか、竹中郁を軸にして、福原清、亀山勝、一柳信二といった海港詩人倶楽部の面々の話は珍しく、また杉山先生が、鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘はれ、北園克衛の詩は好きだったけど断ったとの回想(129p)など、初耳にて、もし実現してゐたら、アルクイユのクラブの詩人達との交流は、もしかしたら同じくマダムブランシュ同人だった田中克己先生の場合とは異なり、杉山先生を敷居の高い「四季」投稿欄ではなく、アンデパンダン色の強い「椎の木」や、社会的関心を強めた「新領土」に続く道筋へと誘ったかもしれない、なんて想像を逞しうしたことです。

「神戸顔って言うのか、ちょっと目が細くてね、色白でね、なんとなく神戸やなって感じの顔はあるんですね(95p)」
「天気のいい日、煙突の煙が真っすぐ上がっていく日があります。たいがい風で靡きますけどね。そんなとき、あらっ、福原清の世界だなあと思うんですね(108p)」

 などの人物観察、日本語の定型詩はソネットのやうな音的な韻ではなく、箍として語調に制約を設けた短詩形にならざる得ぬことを看破したり、抒情詩人は「北」とか「冬」とか名前でも郷里でも北方志向で無いとカッコ良くない、うけない、なんていふことを、憚りなく云ってのけられるところ、著者の安水さんはそれを、
「杉山さんの目っていうか、ものの面白がりようっていうか、ものの本質を見るその思考過程(76p)」
 と評してをられますが、眼光の鋭さは、最後の第4部「資料」における杉山先生の、
「中央の人はね、地方の文化育てよとか、おだてよんですわ、お世辞ばかりいうて。(227p)」 
 とか、
「ええやつはみんな死んどる、悪いことする奴はみんな帰ってきた、という思想がね、ぼくは一部にあるんですねん。戦争への批判ね、戦争を悪く言うものに対してね、もうひとついう気なかったなあ。(228p)」
 との、関西弁による述懐にも極まってゐます。それもその筈、このインタビューは50年前、1961年の録音を起こした大変古いものなのですが、これを読んで、杉山先生の詩を現代詩人達が四季派と切り離して評価しようとする態度になじめない気持をずっと持ってゐた私は、詩をかじり始めた当時に立ち戻って、25年前25歳だったいじましい青年の肩を先生自らが叩いて下さったやうな気持を味はひました。この第4部、「七人の詩人たち」へのインタビューは以下の関西詩壇の先人たち

山村順(当時63歳)、喜志邦三(63歳) 、福原清(60歳) 、竹中郁(57歳) 、小林武雄(49歳) 、足立巻一(48歳) 、杉山平一(47歳)

 に対して行はれた、既に歴史的資料に属する貴重な証言です。もし当時のテープが現存するものなら、あのやうな端折った編集稿(1961.11「蜘蛛」3号所載)でなく、当時の肉声をそのままCDに起こして是非公開して頂きたいものです。第3部の杉山先生との対談も、けだし先生がこれまで著書で何度となく回想してきた話に時間を割かれ、初めて話題に上るやうな「触れたい人に触れぬまま時間切れ」になってしまったやうですが、このインタビューも、「それから、時代の傾斜。戦争。神戸詩人事件。それから。(217p「小林武雄氏へのインタビュー」)」なんて説明の一文を以て片づけてしまふのは、勿体ないといふより、申し訳ない気もしたことです。

 「四季」の流れをくむ関西の同人誌「季」の矢野敏行さんとは、連絡のたびに杉山先生の記憶力と明晰な精神についてが話題に上り、驚歎を同じくしてをります。先生が、私の青年時代に勤めてゐた上野公園の下町風俗資料館まで、「一体どんなひとかと思ってね。」と枉駕頂いたときのことを思ひ起こすたび、それが四半世紀前のことにして、先生には既に古希でいらしたことにも、今更ながら愕然とするばかりです。
 お身体の御自愛専一をお祈り申し上げますとともに、ここにても御礼を述べさせて頂きます。ありがたうございました。

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490kiku:2010/06/07(月) 02:39:35
(無題)
大変ご無沙汰しております。

ご紹介の『杉山平一 青をめざして』、杉山氏ご本人の率直な発言はもとより、往時の詩人たちの動向を知る上でもなかなかに興味深い内容のようですね。ちょっと読んでみたいなァ。一般書店で取り寄せての購入は可能なのでしょうか?


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