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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板
291
:
やす
:2007/09/27(木) 11:51:45
三好達治の葉書
先日、何の気なしに「日本の古本屋」サイトを検索してゐたら三好達治の田中先生宛の葉書がみつかって、破格だったので注文しました。以前買った伊東静雄の葉書と同様、破格は値段のみならず、破れと、それから今回は染みまであって、これらはすべて後年私が買ひ戻せるやうに予定調和的破損を蒙ったのだらうか、と勝手に思ひ込んでは喜んで居る次第です(笑)。Book Reviewサイトにupしましたので興味のある方は御覧下さい。
292
:
やす
:2007/10/06(土) 22:14:45
東濃地方の孔版詩誌
鯨書房さんに入荷した大正10年当時の東濃地方(多治見、恵那)の孔版詩誌数冊をみせて頂く。同人の名前で見覚えがあるのは鵜飼選吉、落合しげる位でしたが、取次店が名古屋東文堂になってゐるものもあってびっくり。「青騎士」創刊前夜の同人誌は珍しく、末尾の他誌消息も興味深い資料でした。国文学科がなくなった職場では、かういふ資料をコレクション構築する計画が果敢無くなり、まずは大きな公共機関に収まることを願ふばかり。
気炎吐き続ける「あ・ほうかい」最新号第6号も頂きました。
ありがたうございました。
293
:
やす
:2007/10/15(月) 12:17:02
『[じょう]荷溪詩集』
郡上藩の文学、杉岡暾桑の『[じょう]荷溪詩集:じょうかけいししゅう』をupしました。
九巻五冊の殆どが郡上に来る前、在京時代の作品であり、菅茶山の末弟である恥庵ほかの著名人との交游や、流行の詠物詩に余念のなかったさまが窺はれ、それはそれで貴重なのですが、巻四の後半から、やうやく田舎の小藩に聘せられてはるばる山峡へやってきた漢詩人の、半ばは都落ちの感慨も諷せられる詩に接することが出来ます。スター扱ひはともあれ、本屋さんがすくないのが不満だったのは、同感ですけど仕方ありませんね(笑)。
毎日人の詩を乞ふ、余、矜恃を施さず。一揮これに応ずれば彼謝するに酒符を以てす。
着処なんぞ須ひん頴芒を惜しむを ※頴芒:筆の穂先
墨雲揮ひ破る[せん]溪(せんけい)の霜 ※[せん]溪:良い紙。「えーい、ままよ。」の意 あり?(笑)。
酒符投到る風葉より多し
省みず先生酒量のなきを
[じょう]荷溪は市街に咫尺たり。資用供給頗る弁に足る。唯だ欠くる所は乃ち書肆。故に虧乏を覚ゆ。
市肆、渾て閲すべき書なし
論衡、筆を下すも、故に蕭疎
文に臨んで腹を捫で奇古を温(たず)ぬ ※お腹を温めると温故を掛けてるのかな。
傚はず、李家の獺祭魚 ※カワウソが獲物をひろげるやうに参考書を並べた李商隠のこと。
294
:
:2007/10/20(土) 10:57:09
増田晃「白鳥」
拝啓。
初めまして。小生、文学及び博物学書のテクスト化を全くの趣味で行っております。
偶々、貴サイトの増田晃の詩集「白鳥」に心打たれ、写真版画像を画面で拝見しながら、手打ちで電子テクスト化を行い、本日公開に漕ぎ着けました。
http://homepage2.nifty.com/onibi/masudaakira.html
門外漢の暴虎馮河の注等、ご笑覧下さい。誤植・注の誤り等、御座いましたらご連絡下されば幸いです。サイトの資料を遣わせて戴き、誠に有難う存じました。今後とも、よろしくお願い申し上げます。
敬具。
http://homepage2.nifty.com/onibi/index.htm
295
:
やす
:2007/10/20(土) 19:19:28
はじめまして。
>やぶちゃん様 はじめまして。
増田晃詩集『白鳥』テキスト版作成のお知らせありがたうございました。ブログも拝見致しました。サイト誤記の指摘もありがたく、日々の入力作業に添へられた詳しい注記には、亡き詩人の幸せ、冥利を思ひました。
増田晃など戦争に身も心も殉じたといってよい詩人たちに対してどのやうな態度で接するのか、厳粛な問題と思ひます。生き残った者が過去を恥かしく思ふのは決死の人々への冒涜に他なりませんし、過去が渾て正しかったとふんぞり返る心得違ひも、たとへば伊東静雄みたいな先生が今に健在なら、ピシャリと窘められたでせうね。体験をもとに一家言ある父君の存在を羨ましく存じました。
清廉の抒情詩に対する偏愛を同じくする者として、今後も街の本屋さんに並ぶことのない、どこでもデジタルアーカイヴされさうもない、古い無名の詩集に対する声援を、何卒よろしくお願ひを申上げます。
296
:
やす
:2007/10/20(土) 19:25:04
『加藤千晴詩集』
といふことで、先達ては『加藤千晴詩集』をお送り頂きながら、紹介する機会が延ばしのばしになってをりましたが、とりあへず『宣告』『観音』『加藤千晴詩集』について、加藤千晴詩集刊行会の齊藤智様による解説(酒田市立図書館報より)を付して紹介させて頂きました。(丸山薫によって生前の刊行詩集を凌ぐと絶賛された遺稿集『みちのく抄』もテキスト化する予定です。)
ことにも今回は、別冊資料として小部数配布された、『宣告』に対する師友からの返信・礼状の公開について合せて掲載許可を頂きました。彼の初期の口語詩に綴られた孤独が、やがて文語詩の端正な肌触りと綯ひ交ぜになって宗教的にのぼりつめてゆく様子、それは昭和初期の同人誌乱立時代に詩魂を享けた詩人が、詩壇の潮流とともに成長してゆく過程と期を一にしてをります。「感想集」を清書するにあたって、萩原朔太郎と三好達治を劈頭に据えたのも、格別の感慨があったからに相違ありません。顕著な宗教性も、キリスト教に帰依してゐる訳でなく、所謂『黒衣聖母』風の跪拝から、東洋的な諦念に根ざすものに漸次変化してゐるやうでもあり、信ずる境地を歌ふのでなく、一心の祈念を赤裸々にするところに共感を覚えます。
残念なのは『詩集?』において編集委員の間に議論があり、収録を見合はせた詩篇があったといふことですが、おそらくは戦争に関るものでありませう。失明と死因の因果関係が不明であることと共に、謎を残す結果となりました。
ともあれ『加藤千晴詩集』が絶版であり、図書館にもあまり所蔵がないので、今後一般の方がこの詩人の存在を知るきっかけとなったら何よりです。齊藤様にはあらためて御礼申しあげます。
ありがたうございました。
砂丘 加藤千晴
ふるさとを想ふとき
僕の眼裏に泛んでくるのは
あのゆるやかな弧線のあひだに
まつ青な日本海をのぞかせた
静かな砂丘の遠景である
海はひたすらに青く
砂はいつしんに陽をてりかへし
そのほかになんにもない
まるで虚無のやうな
それは何といふ静かな
何といふ寂しい景色だらう
だがしばらく視てゐると.
そのきはまりない静寂は
しだいしだいに耀きだし
かがやきは白熱して
しまひには破裂するやうな
息ぐるしさがみなぎつてくる
そこには何か犇めきあひ
何かがしきりに奔騰する
そして聲もない哀しい歌が
陽炎のやうにゆらぎはじめる
はるかな砂丘よ ふるさとよ
をさない僕のたましひは
その灼けただれた砂のうへで
王女のやうなものを戀し
もはや悲しみの人となつた
星をこがれる身となつた
握つても握つても
いのちなき砂のかなしさよ
日本海の波うちぎはに
華やかに消えた陽炎たちよ
逆風はそれらを吹きまくり
怒濤はそれらを打ちくだいた
ああ ふるさとの寂しい砂丘
そこにはいまも
渺茫とした海の果に
をさない夢の挽歌のやうな
すさまじい夕焼がもえるだらう
ああ いま一度
つかれた足をそこにはこび
空しい砂を掘つてみよう
そして崩れる砂のあひだに
過ぎ去った嵐をきいてみよう
そしていつかは
僕もそこに眠るだらう
沸きたつ波のひびきに揺られながら
いつさいの虚妄をそこに埋めて
297
:
:2007/10/21(日) 15:07:13
ありがとうございます
やす 様
われらが愛する四季派の抒情詩人、加藤千晴の『宣告』『観音』『加藤千晴詩集』等のご紹介、お疲れさまでした、そしてありがとうございました。齋藤智様をはじめ、関係者の方々も、もどんなにお喜びのことかと存じます。私などは齋藤様から資料を頂いても、手元に仕舞い込むのみですが、やす様の情熱、積極性には改めて驚かされ、また、感謝申し上げる次第です。多少のかかわりのあった者として、嬉しさを隠し切れません。
(この場をお借りして、齋藤様へお喜びを申し上げることをお許しください。)
齋藤智 様
このたびは、加藤千晴の詩集(業績)について、やす様が丁寧にご紹介くださって、本当によろしかったですね。加藤千晴の詩人としての素晴らしさはもちろんですが、齋藤様の千晴への愛情、そしてご誠実なお人柄がやす様の情熱を更にかきたてたに違いありません。
齋藤様のお喜びのさまを想いうかべながら、わたくしも幸せな気持ちを味わっております。
298
:
やす
:2007/10/21(日) 22:59:10
(無題)
>池内様
こんばんは。御無沙汰してをります。
業績の紹介は齋藤さまの図書館報の一文に尽きてをります。
特には更新報知をしませんが、これから詩集の書影と奥付写真だけでも、詩人indexサイトにペタペタ貼りつけてゆかうと考へてをります。皆様の助けを得ながら、どんな「詩集図鑑」に育ってゆくやら、今後ともよろしく御見守り頂ければと存じます。ありがたうございました。
299
:
やす
:2007/11/19(月) 23:05:42
「コレクターを引退」?!
今月号の「日本古書通信」で川島幸希さんが「古本講座」の連載を終へる由。長い間お疲れ様でした。コレクターを引退(?!)するにあたっての「最後の挨拶」では、自ら蔵書目録は作らないといふことですが、残念といふか、なんとも勿体無い気が致します(U^ェ^;Uその分量を知らないですからね〜 笑)。
さて拙宅の片々たる蔵書とは云へば、全て「詩集目録index」に画像を貼り付ける予定です・・・。これをもって私も近代詩集のコレクターを引退することになるのかな。尤もすでにあるコレクションを手放すつもりはないのですが、川島さんも「古本講座」で仰言るやうに、マイナー作家(=ここでは中堅〜無名詩集)の目録古書価に光が当たり、中身もみないで注文などなかなか出来なくなってきましたから。これは新たな興味分野の江戸漢詩でも同様です。つまりは今手許にある本を、もっと大切に読み直してみようと思ってをります。
「詩集目録index」はさういふ訳ですから、皆様からの提供画像もあれば是非追加したく、リスト上の(或はリストにもない)こんな詩集をお持ちだといふ方がみえましたら、書影と奥付の画像だけで結構ですからメール貼付でお送り頂けましたら幸甚です。家蔵分は今年中にupを終へる予定です。よろしく御協力をお待ち申し上げます。
そして二次情報の「書誌」についてはそんな完成予定図もあるのですが、一次情報「バーチャル詩集図書館」構想に至ってはどうなりますことやら。コンテンツ作りの労力もさることながら、サーバー容量に限りがあること、加へて詩人は著作権継承者の所在がわからない場合も多く、ここでは著作権保護機関が終了してゐない(つまり没後50年を迎へてゐない)と思はれる詩人について、
1. 当サイト上の論評に関係する参考文献として、
2. 戦後に集成本が出ておらず、詩人の作品に接することが困難であり、
3. (そしてこれが一番大切ですが) 管理人が愛着を深くする詩集に対して、
本冊の内容を、改変・誤植が加はらぬやう一冊丸ごと画像によって公開し、往年の詩人の詩業を紹介してゆけたら、と考へてをります。もとより「著作権継承に係る情報を募る」旨のコメントとともに、御遺族から御意見があれば如何様にも取り計らふ所存ですが、各位におかれましては当ホームページの掲げます「隠れた戦前詩人の詩業顕彰」の趣旨に沿って御諒察を賜りましたら、管理人として大変うれしく存じます。
以上、ちかごろ詩集のスキャンに余念のない管理人からの御報告とお願ひまで、でした。
300
:
やす
:2007/12/01(土) 20:29:46
「感泣亭秋報」第二号
??横浜の小山正見さまより「感泣亭秋報」第二号をお送り頂きました。ありがたうございました。
御存知のやうに「四季」の詩人小山正孝を偲ぶ年刊雑誌ですが、私にとって今回一番の読み物は、感泣亭例会での八木憲爾氏の談話を記録した「小山正孝と「四季」」でありました。歯に絹を着せぬ懐かしいお話しぶりが目に浮かびます。戦後角川書店から出た第三次「四季」の創刊号が一万部で半分以上返品、第五号の最終号に至っては千部出して売れたのが三百部といふ「討ち死」の実情など、はじめて知りました。ちょうど同じ頃、詩人も自らが中心となり、戦前「四季」で育った若手第二世代を結集して「胡桃」といふ雑誌を創刊してゐるのですが、八木会長のお話を敷衍すると、「四季」の露払ひ(もしくは斬り込み隊?)をする筈だったこの雑誌の収支も、そら恐ろしいやうな気がいたします。「夏季号」と銘打ち、季刊のつもりだったやうですが、189pといふ大部の冊子を一体いくら刷ったものでせう。この話は出なかったやうですが、実に雑誌「胡桃」は、一冊きりで終ったものの、混迷する戦後詩壇に抒情の正統を問ふ意気込みを感じる誌面で、みなさんが仰言る詩人の意外な一面の、これもひとつだらう、などと私は感じてをります。
また近藤晴彦氏の一文「小山正孝の詩の世界」では、リアリズムに長けた詩人が小説道に精進せず「立原ソネット」の呪縛に苦しんだことを惜しみ、しかも残された小説よりも詩の方に、より物語的余韻が馥郁と感じられる矛盾(?)についても指摘されてゐて、相槌を打ちながら拝読しました。尤も詩人が苦しみつつ書き継いで行った、情慾と実存の淵を垣間見せる戦後詩篇といふのは、(前にも書きましたが)私にはアルコール度が強すぎて堪能することができず、その分、伊勢山峻氏が口を極めて称賛されたところ、「水の上」をはじめ詩人の最初期の詩篇群に一層の愛著を覚えます。かの雑誌「胡桃」とともに赤坂書店から出された仙花紙の処女詩集『雪つぶて』を愛蔵してゐるやうな始末です。
とりいそぎここにても御礼を申上げます。ありがたうございました。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000426.jpg
301
:
やす
:2007/12/08(土) 19:36:35
「昧爽」16号
『昧爽』16号をお送りいただきました。中村一仁氏の浅野晃論は、敗戦を迎へた詩人が北海道での流謫の日々を送るくだりです。当時の「新日本文学」の連中による紅衛兵まがひの吊し上げを、杉浦明平自身の回想による「敗戦奢り」といふ言葉を使って言及するところがいいですね。確かに晩年の杉浦氏は岩波文庫版の『立原道造詩集』の解説でも、親友の立原道造が日本浪曼派に近づいていったのは、単に眩惑されたのではなく、必然的な資質と真摯さによるところを認めてゐて、(岩波文庫に立原道造や伊東静雄が入るやうになったこと自体もびっくりでしたが)良心を感じたものでした。
浅野晃に、弾劾や戦犯疑義に対する弁解の場が与へられなかったこと、中村氏が書かれるまでもなく、それはそれでよかったのであって、反論などせず甘受した一切を詩に託し、思ひを凝らした述志の余生を送るに至って初めて、「本物」が輝きはじめたのではないかと思ひます。「石炭」の詩の最初の4行
爐にいぶる逞しいなま木よ
とめどなくしみ出るわが涙よ
音たてて赤々と燃え進む
それの焔の色とりどりの無言よ
は『天と海』の数章とともに生涯の絶唱です。まさに数奇な運命を生き抜いたひとならではの独白にして代弁、隠喩に富んだ表現は、抒情詩の本統を継いだ戦後詩の精華として長く記憶されることでせう。
そんな詩人のことを小馬鹿にされたと中村様から仄聞して、以前(2006年1月10日)ここでその保田與重郎の直弟子歌人とやらに毒づいてみたのですが、それが今回同じい冊子で中村様によって追悼されてゐる御方とは思ひもよりませんでした。『大東亜詩文集』の編集でこのたび知遇を忝くしました吉村千穎様の萱堂であったと聞いては二度吃驚。 折しも風日社からお頒け頂いた五十年記念誌『風日志』と「風日」の輓近号を読んで、あらましが判然とした次第です (私はてっきり六、七十の方と思ってをりました)。つまり思想云々ではなく、後添への夫人のことを思ひやっての疳積だった訳であり、中村様の心情も忖度できたのでした。前言を反省・ご冥福をお祈りするばかりです。
いったいに保田與重郎は古来女流文学の奔放を嘉する人だし、みやびな学識、慕はれるべき人徳・風貌を、教養ある淑女たちが抛って置く筈がなく、さういふオーラがない日本浪曼派の男達はみんな、真率な烈女歌人にあっては本当のところ「ただの取り巻き」なのかもしれません。
ここにても御礼を申し上げます。ありがとうございました。
同人誌「昧爽」16号 (特集「銀幕の宇宙」) 平成19年12月1日 中村一仁・山本直人共同編集 112p \700
問合せ先
〒340-0011 埼玉県草加市栄町3-1-31-406(中村一仁氏)
〒173-0015 東京都板橋区栄町5-17-201(山本直人氏)
302
:
やす
:2007/12/09(日) 20:50:25
『若き世代に語る日中戦争』
戦後、第四次からの参加ながら、「四季」世代の同人最後の孤塁を、現在杉山平一先生と共に守られてゐる、文壇の重鎮伊藤桂一先生ですが、この度、さきの戦争に対する思ひを聞き書きにまとめた一冊 『若き世代に語る日中戦争』(文春新書)を、ゆくりなくも山川弘至記念館の資料整理をされてゐる野田安平様よりお送り頂きました。インタビュアーは野田様の奥様です。
今や何をどう話しても腥いクレームのついてまはる日中戦争ですが、所謂「従軍慰安婦」「南京事件」「三光作戦」についても、ひとりの女性を前に置いて、自身の戦場体験と戦後に行った取材活動を元に、理性的に誠実に答へてをられます。インタビュアーが、長年小説作法を学ぶ師弟の関係であれば、頓珍漢な問答にもならず、悪の権化の如く伝へ聞く日本陸軍の実情が、ここでは現場の兵隊の目線で率直に語られてゐる印象を受けました。解りづらい軍隊の身分・編成や、対峙した国民党軍・共産党軍の違ひなどわかりやすく説明されてゐるので、当時の歴史を勉強する際の入門にもよいかもしれません。敗戦時に蒋介石が示達した大国らしい襟度、共産党軍が最後に勝利した理由、また大木惇夫の戦争詩のことも出てきます。ですが私には著者が最後に慨嘆されるところの、「自分たちはやることをやったんだ、これでいいんだ」といふ気持。それが子供(団塊世代)にも伝はらない。戦中世代が歴史の中で浮き上がったまま、消えてゆかうとしてゐる。しかし書き残したものから、次の世代の人が推し量って考へてくれたら、といふ切実なメッセージ、そして、
「どうしてこんな無礼な若者が多くなったんだろう、(中略)亡くなった戦友たちが見たら何というか、「こんな日本にするために自分たちは戦って死んだのか」と口惜しがるに違いない。」161p
といふ、何ともいへぬやりきれなさに思ひを致さないではゐられませんでした。
野田様にはここにても御礼申しあげます。ありがたうございました。
303
:
やす
:2007/12/23(日) 11:31:12
ただいま上京中です。
昨日は田村書店の店先で偶然お会ひした郡淳一郎様とティータイム。「稲垣足穂未収録短編新刊編集会議」の触りに陪席させて頂きました(みなさん楽しいお話をありがたうございました)。『一千一秒物語』もたうとう初版本の忠実な復刻が出たのですね(沖積舎 2007/11 300部)、これはかわほり堂で購入。知りませんでした。なにやらタルホづいた一日でありました。
さて本日はこれより「F1」(笑)とも称せられる扶桑書房の古書展に参戦(?)、夜は古本仲間と歓談の予定です。神保町周辺をうろうろしてをりますので、お気軽にお声をかけて下さいませ〜(ホテルの端末より)。
304
:
やす
:2007/12/23(日) 17:29:03
F1実況
保田與重郎と浅野晃の諸著作、『日本の橋』(芝書店版函欠\1800)ほか壁棚の品揃へが軒並安いのに吃驚、所蔵なれば手を出さず。既にして独り退場、逆旅に戻り書之。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000431M.jpg
305
:
やす
:2007/12/23(日) 21:57:40
戦ひ終へて日が暮れて
Salon de 書痴の旧知の面々と久闊を叙し只今散会、御馳走さまでした。おやすみなさい。
306
:
やす
:2007/12/24(月) 11:09:03
(無題)
もいちど会場に立ち寄ってから帰ります。
古本に温まりて新幹線に乗る、亦た楽しからずや。
307
:
やす
:2007/12/24(月) 20:40:53
帰還しました。
古本なかまの皆様、在京中は楽しい時間をありがたうございました。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000434.jpg
308
:
やす
:2007/12/27(木) 21:14:19
「初版本」第2号
本日、古本雑誌「初版本」第2号到着しました。
明日仕事納めなので、年末にかけて隅々までゆっくり拝見させて頂きます。ありがたうございました。
(献本一冊ですので、予約されなかった方には、拙稿はHP版upの機会までお待ち下さい。)
「初版本」2号 川島幸希責任編集(編集協力:東原武文 造本:真田幸治) 2007年12月31日 人魚書房発行 定価\1000(限定300部予約配本)
目録
逸見猶吉 詩と絵画の接点 東原武文 2-11p
陰の珍本あれこれ 山口哲司 12-19p
潤一郎の書棚から 作家の参照した関連文献 山中剛史 20-29p
表紙の本『黄色い帽子の蛇』 (大手拓次編輯「あをちどり」第一輯 全文復刻) 30-53p
文芸市場社以前の梅原北明 佐々木宏明 54-60p
耶止説夫の稀覯本 若狭邦男 61-65p
我が愛する版型詩集の列記 中嶋康博 66-71p
室生犀星自筆題字本考 樽見博 72-77p
「創刊号」余談 78-79p
清方と英朋の木版口絵 (復刻) 80-83p
〈続〉・酔多道士の著作について 平田雅樹 84-91p
雑本蒐書録 其之貳 彭城矯介 92-97p
伝説の売立 川島幸希 98-111p
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000435.jpg
309
:
やす
:2007/12/29(土) 21:07:05
今年最後の収穫報告
和本分野で宿願だった探求書『黄葉夕陽村舎詩』の揃ひ13冊が本日到着。状態不詳で注文したものの、包みを開けてみたら[正篇]、続編、遺稿の装釘は別々で、文化9年,文政6年,天保3年の奥付をそれぞれ持ってをり、虫入りも僅かなら摺りも悪くない。頼山陽の自筆書帖(牧百峰跋)とともに本年最大の古書収穫となりました。休暇はこれを眺めつつ(まだ読むんぢゃないのか 笑)、中途で止んだ『伊澤蘭軒』の読解に再び勤しむ予定です…。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000436.jpg
310
:
やす
:2007/12/31(月) 13:22:07
年末最後の御挨拶
昨夜はNHK教育テレビで中原中也の特番がありました。馬の合った数尠い友人高森文夫さんのことが大きく取り上げられてゐました。筆の一杯入った晩年の原稿に目を瞠り、果てはNHKに入社さして希望通り受付仕事やらせてあげたらよかったのに、と無茶な感想。
さてさて。
古本には時にいろんな紙切れが挟まれてゐて、さながら釣り上げた魚の胃袋の中にもう一疋の魚を発見したやうな楽しみを味はふことがあるのですが、写真は一昨日別便で到着した『竹堂文鈔』に挟んであった紙片。戦前の普通選挙で撒かれたビラのやうですが、真面目な文句が何だか可笑しい。齋藤竹堂のふるさと仙台からの、貴重な郷土資料(?)、「最後の御挨拶」です。
といふことで。
家蔵の詩集の書影も、粗方「近代詩詩集目録index」に画像upを完了いたしました。前にも書きましたが来年は古本集めも程ほどに、読書する時間をもっと大切にしたいと思ひます。特に漢詩集など読ま(め)なくては持ってる意味がありません。折角陋屋に集まってきてくれた本たちに相応しい所有者となれるやう、漢字の脚力をつけ、心を澄ます修養に、孤軍奮闘、刀折れ矢尽きて斃れて後已まんのみ(笑)。 みなさまも良いお年をお迎へ下さい。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000437.jpg
311
:
やす
:2008/01/01(火) 09:45:29
謹賀新年
今年もよろしくお願ひもうしあげます。(御贔屓の方々には追ってメールでも御挨拶させていただきます。)
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000438.jpg
312
:
やす
:2008/01/08(火) 20:58:42
モダニズム詩人 荘原照子 聞書
昨秋コンテンツについての御教示を賜りました鳥取の手皮(てび)小四郎様より、同人雑誌『菱』160号の御寄贈に与りました。早速予告のあった「モダニズム詩人荘原照子聞書」を拝読。お手紙には亡き詩人への供養とありましたが、これは手皮氏自らの青春との再会をも重ねた回想であり、単なる詩壇資料ではありません。非常に濃密な思ひ出が下地にあるせゐもあって、筆致になまじいのお世辞がない分、(絶交の時期を含め) 詩人ときちっと正対してゐる氏の誠実さが感じられ、続きが直ぐにも読みたくなる、まことに好発進の連載第一回目と存じました。
教会での不思議な老婦人との出会ひ、青年詩人だった自分との陽だまりのやうな文学的交歓の日々、そしてある日、彼女がかつて最尖端の詩を書いてゐた名の有るモダニズム詩人であったことを中央の新聞記事が突然に報じます。「荘原照子は生きていた」と。身寄りのない地方都市にひっそりと別名で隠棲してゐた詩人の存在が再び知られるきっかけとなったのは、しかし他でもない田舎の文学青年であった自分の「ある種の優越感」による友人への多弁でした。
「この記事以降、ぼくは峠田と会わなくなった。根っこにあったのは、ぼくの疾妬でありひがみだった」
はっきりこのやうに自分の過去を剔抉する現在の著者によって、和解後の最晩年の詩人の孤愁があばかれるのも、また一種の親愛の情には違ひありません。話全体が「老詩人の孤独な最後」を下敷きにしたものであるはずなのに、「手皮の紹介がなければ(誰とも)会わない」とさへ言はしめた著者の気の置けないまなざしが、往年の閨秀詩人の面影をみるべくもない一老女の偏屈さに、愛すべきいじましさを添へ得てゐるやうにも思はれたことです。
「どうやらテープ起こしというものは、自分のおぞましさにも対面する作業でもあるようだが」
「一時的だったにせよ、かつての荘原照子に戻ったことのある彼女を、このような姿で旅立たせるのは酷いという思いがあった。この異郷の地生きた痕跡を残そうと思った。一身係累なしという思いが、ぼくを焔(ほむ)らとなって衝き上げた。」
ぜひとも惜しみない回顧をして頂きたいものです。聞書きはその出生から、つまり漢学者の親たちにも触れられてゐるのかどうかはわかりません。けだし昨年来地元山形で顕彰されてゐる日塔貞子も、旧家の漢詩人を祖父にもつ、才気の勝った薄倖の閨秀詩人でありました。『マルスの薔薇』のあとがきにあるやうに、詩人は若い日に、自分の与らない所で大切な処女詩集を編まれてしまった訳ですが、拾遺詩篇を含めた定本詩集の刊行実現のためにも、ここは「詩の終章」を自ら書き留めることができなかった詩人に代って、評伝にも等しいこの聞書きが評判を呼ぶことを祈って已みません。今後の連載がたいへんに楽しみです。
ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
「菱」160号(詩誌「菱」の会2008.1.1発行)頒価\800
連絡先 〒680-0061 鳥取県鳥取市立川町4-207 小寺雄造様方
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000440.jpg
313
:
やす
:2008/01/16(水) 21:48:59
追伸 荘原照子の漢詩人の祖たちについて
その後、手皮様からの御教示により、詩人の父は活堂の号で周防詩壇の重鎮をなした人であることが判明(1930.1.9歿、享年60)。彼が剏めた「梅花吟社」について現在情報収集中とのことです。
祖父もまた漢詩人だったらしく、『篁墩詩鈔(上下2巻)』といふ詩集を千鍾房から安政6年に刊行してゐる庄原篁墩といふ人のやうです。「荘原」は結婚前の苗字「庄原」に宛てたペンネームだったのですね。
314
:
やす
:2008/01/16(水) 22:41:11
「桃」1月号
桃の会、山川京子様より「桃」1月号(2008.1.15発行) お送りいただきました。
毎号の巻末に載る山川弘至に関する資料・文章をたのしみに拝見してゐますが、今回は京子様の萱堂が草した娘婿への誄詞(しぬびごと)、ならびに拾遺詩集『こだま』に未収録の詩篇「柿の家」でした。
柿 の 実 山川弘至
ふるさとの 柿の実あはれ
秋ふかく 高山原の
夕陽かげ あはく照らししが
柿の実の つぶら木の実の
赤き実の はだにうつれり
ふるさとを 遠く来はなれ
ふるさとの かの背戸畠の
つぶらなる 柿の実思へば
遠き日の 遠き山河
そのままに 今も 目に見ゆ
ふるさとの 柿の実あはれ
その赤き 柿のおもてに
遠山の秀の 初雪うつし
かの日ぐれ 輝きゐしが
はらはらと 過ぐる時雨に
うら寒く ぬれてありしが
ふるさとの 柿の実あはれ
つぶらなる その実思へば
遠き日の 遠きものみな
そのままに 今も 目に見ゆ
ふるさとの 柿の実あはれ
その赤き つぶら実ひとつ
もぎとりて まほり喰ひし
いとけなき 我のおもかげ
そこにます 父母の声
里人のいくたりの顔
遠き日の 遠きおもかげ
そのままに 今も 目に見ゆ
ふるさとの 山に雪ふり
背戸山に 時雨すぐらむ
ふるさとの 山は暮れけむ
家々に 灯は入りにけむ
遠き日の 遠きおもかげ
つぶらなる かの柿の実の
手ざはり思へば 思ほゆるかも
国学院大学在学中の作品でせうか。歌はれてゐるのは岐阜県郡上郡高鷲村、柿は美濃の名物でもあります。柿の実の詩といふと、神保光太郎の『柿の実抒情』がよくとりあげられますが、それに劣らぬ淳朴の詩篇が、なほ篋底に眠ってゐたことに驚きです。
ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。
さて年末にも書きましたが現在森鴎外の『伊澤蘭軒』と格闘中、漸く半分を読み了へたところです。章立てのリストも添付してBook Reviewコーナーに前半部までの感想を不取敢upいたしました(全部読み終へるのがまたいつになるかわかりませんので 汗)。お暇の方は御覧下さい。
315
:
やす
:2008/01/19(土) 21:52:51
「近代文学 資料と試論」第7号
??碓井雄一様より個人誌「近代文学 資料と試論」第7号をお送り頂きました。
??林富士馬に関する資料紹介シリーズとして、今号は第一詩文集『誕生日』を刊行した当時の、同人誌に発表された学生時代の散文二作品が翻刻されてゐます。
??敬愛する作家、太宰治に原稿を見てもらひ物まねぶりを酷評されたことを、当の小説の中で当の物まねぶりを以て自嘲してみせるなど、たとへば同時期の小山正孝の出発作品「紙漉町」(1939.5)などと並べて読むと、日本浪曼派と四季派における自恃含羞の身振り特色が、文学青年たちに共通した自意識過剰によるもどかしい表現のせゐで、却って分明に対比されるやうにも思はれ、なかなかに面白く、またなかなかこんな風には書けないと詩人の夙成に感歎したことです。
この場にても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
????「近代文学 資料と試論」第7号 2007.12.31「近代文学 資料と試論」の会刊行 \700
????帰国船上での鴎外と石黒忠悳との応酬詩 小平 克 1-20p
????佐藤春夫研究ノート 山中千春 21-28p
????林富士馬・資料と考察(四) 始発期作品二編の翻刻 碓井雄一 29-47p
「てんで常時的な余りにも反時世的な」 「ぷるす」第4号1938.12
「誕生日」 「武蔵野」第2号1939.6
????「林富士馬年譜考」補遺 碓井雄一 48p
????編集後記 [50p]
問合せ先:〒357-0021 飯能市双柳1495-6-A-202 碓井様方 「近代文学 資料と試論」の会
316
:
やす
:2008/01/22(火) 22:28:25
『朔』162号 後藤健次特輯
青森八戸の圓子哲雄さまより『朔』162号のご恵送に与りました。
戦前青森詩壇の貴重資料の翻刻がこのところシリーズとなって続いてゐますが、今回特輯の後藤健次といふ人のことは、和泉幸一郎の遺稿詩集『母の紋』のなかで「後記」を書いてゐる後藤峰夫がそのひとであると、指摘されるまではわかりませんでした。単行詩集もなく終った詩人ですが、あらためてその「後記」の文章に目を通し、今回掲載の清藤碌郎氏の紹介文を読み、その作品に実際に触れてみれば、これは地元詩壇の篤志家を俟つほか顕彰される機会もなかっただらう、まこと奇特な詩人に対するまことに有意義な特輯号であることが分ってきました。パストラル(牧歌)詩社を興してあたらしい抒情詩の勃興に一役買った大正後期〜昭和初年の詩作活動は、一銀行員としてつつましく実生活を送るといった世過ぎの点では、ちょっと田中冬二を髣髴させるところもありますが、やがて筆を折ってしまひます。『母の紋』後記に語られる逸話、後輩和泉幸一郎にランボウの逞しさを語って慰めたやさしさは、同時に詩を捨てた自らに対しても含み言ひ聞かせてゐるやうでもあり、詩人であるまえに人としての潔さを感じたことでした。現在目にすることのできる作品が若い日の発表作ばかりであることが尚更それを裏打ちしてゐるやうですが、無欲・恬淡といふべきなのでせうか。なるほど村次郎氏が一目置いた先輩であることが頷かれます。
哀しみ
若いアカシヤの葉の茂みにおほはれた小径が
五月の陽をところどころに映して続いてゐる。
かつて私達はよくそこを散歩した、病身な彼女と
そして、恋の影でいつぱいの小径に
何を残してきたらう……。
きのふの夢よ、青い葉の茂みが風にゆらいでゐる。
そこには、私達のつつましい心だけが、残されてゐるやうだ。
この場にもあつくお礼を申し上げます。ありがたうございました。
317
:
やす
:2008/02/04(月) 12:04:28
『伊澤蘭軒』読了
森鴎外の『伊澤蘭軒』を読了。後半の感想は引き続いてBook Reviewに上しました。
さて次は何を読みませうか。旧臘入手した『黄葉夕陽村舎詩』の槧本を傍らに積んで、富士川英郎畢世の大作『菅茶山』とゆくか、もうそろそろライフワークたるべき郷土詩に向ふか(やれやれ『美濃の漢詩人とその作品』も『梁川星巌翁』も、まだ読んでなかったのね。哂)。はたまた日々矚目する本の一節に引き摺られ、『伊澤蘭軒』みたく袋小路にどしどし踏み込んでゆくかな。
鯨書房さんより目録17号と「あ・ほうかい」第8号。ありがたうございました。このペースでゆくと同人誌が目録の号数を追ひ越すのは時間の問題であります(笑)。
318
:
やす
:2008/02/08(金) 13:07:53
訃報 川村二郎氏
川村二郎氏が亡くなられました。
ドイツロマン派文学に対する造詣をもって、保田與重郎や伊東静雄ら、日本浪曼派でも特にイロニーをよくした詩人たちについて、深い理解を傾けられた先生でした。
刺謁の機会は終にございませんでしたが、一介の無名詩人の処女詩集をお送りした御返事に、過褒のお言葉を賜った思ひ出は忘れられません。扉に掲げた「田中克己先生に捧げる」といふ献辞に対して、礼を払って下さったのだとおもひます。
七日朝「居間で本を読んだままの状態で発見された」と伺ひました。文士の本懐とも申せませうか。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
319
:
やす
:2008/02/12(火) 22:56:44
いろいろの道草
『伊澤蘭軒』読後にしたいろいろの道草を御報告。
まづは、伊澤棠軒が贈られた『東京繁昌記』に付随して、鴎外が憶ひ起した寺門静軒の『江戸繁昌記』。偶然その原本の揃ひを格安(たった千円)で譲って頂いたので、早速第三編所載の「書舗(ホンヤ)」の章を、註釈本傍らに読んでみました。店主が本の表題を眼鏡越しに見て面倒臭さうに答へる姿や、「(徂来先生はいまだ御存命かね)」などと尋ねる田舎者に対して、小僧が笑ひをこらへながら「(こんな男に売る本)なし、なし、なし」と、手を振る顔付きが目に見えるやう。こんなの読んでゐては修養になりません(笑)。
それから伊澤家で毎旦誦読されたといふ『孝経』。こちらは加地伸行氏の新刊(講談社学術文庫)を購入しました。中学生の孫を念頭に書き下ろされたといふ『論語』(角川文庫ビギナーズ・クラシックス)もさうですが、この本もわかりやすい訳註と、それから孝経をめぐる資料解説が懇切に施されてゐて、道草ではなく、後々のためにも求めました。けだし「二畳庵主人」名義の受験参考書『漢文法基礎』は、今や幻の名著になってゐるやうですが、斜に構へた若気を排され、訓読の効用をはじめ、漢文を人間教育に積極的に位置づけようとされてをられる今日では、もうあのままの形で復刊されることはないやうな気がします。
さて伊澤家をはじめ当時の武家で尊ばれたこの経典が、今文・古文二種あるうちの『古文孝経』であったことについて、かつて小説の中で「お上の事には間違はございますまいから」と書いた鴎外は『伊澤蘭軒』のなかでは何もそれとは言及してはゐないのですが、この本のなかには説明がちゃんとありました。「君、君たらずと雖も、臣、もって臣たらざるべからず(古文孝経序)」。なるほど。しかし加地先生のこの本の序文には反対のことが、つまり孝経の重要な主張が、実は「諫言」にあると(おそらくわざと)書いてもあるのです。学術文庫らしからぬ面白さが理解できるやうに、ゆるゆる頑張ります。
地元の長良川画廊で始まった「岐阜・郷土の先人遺墨展」にて地元漢詩人の掛幅を購入。同庚の御店主と御挨拶、霎時の眼福。最近、地元の別の店で買った佐藤一斎の軸が贋物だったことが判りショックを受けてゐたところだったので、書画専門店嫌ひにならずに済みました。
また掛軸といへばコギトの小高根太郎さんの書かれた富岡鉄斎の伝記を読んで、鉄斎翁の人となりに心酔中。数多ある画集の中からは、極め付きを「従吾所好」の西岡様に推薦して頂き早速注文しました。
かつての日本を支配してゐた皇学・儒学・仏教・道教。それらを包括して感謝する文化が信仰として成立した時代。画の良し悪しがあんまりわからない自分だけに、翁が繰り返し思ひをこめた画賛の意味に、却って素直に理解の目標を置くことができさうです。美術評論家とは反対側からの鑑賞があってもよいと思ふのです。
320
:
やす
:2008/02/16(土) 22:33:03
『鐵齋大成』第三巻
富岡鉄斎画集の極め付きである『鐵齋大成』(講談社1977)全五冊のなかで、さらに極め付きの第三巻が古書店から到着。八十五歳以降最晩年を一覧する寔に豪華な大冊でした。ただ何が書かれてゐるのか賛文の言葉が全く録されてゐないのが残念。英文題目も付して「世界に誇る本邦一の大画家」を標榜した意図はそれとして、座談会など収める余裕があるのなら、「わしの絵をみる時はまず賛を読んでほしい」と宣ふた、翁の遺思を大切にしてほしかったです。さきに求めた正宗得三郎著『鐡齋』(平凡社1961)と合せて鑑賞、訓読不安なれど是もって用に充んか。
321
:
やす
:2008/02/17(日) 23:35:23
富士川英郎著『菅茶山』
富士川英郎氏畢世の大作『菅茶山』をぽつりぽつり読み始めてゐます。
しかし全文「本漢字」を採用してをりながら、また全文が「新仮名遣ひ」といふスタイルがよくわかりません。解説が本漢字で、訓読が新仮名遣ひだと、なんだか居心地悪く逆転した文章を読まされてゐる気もします。他の著作でもさうですから、これは著者のスタイルかもしれません。
そして引用される漢詩文や尺牘に対する解説が、しばしば鴎外張りに省略されてゐて、素養の無い者に故事などがわからないのは困ったことです。例へばこれは若き日の茶山の文章、重陽の日の想ひ出を書いた「研山に遊ぶ記」(72p)から、
(前略) 靈昌曰く、この遊、設(も)し子雅をして同(とも)にせしなば、將に啻(ただ)に米顛の顛のみにあらざらんとす。目今、誰が家にて菊を采(と)り、何(いず)れの山にて帽を落すかを知らざるなりと。相い共に踟躊盤桓(ちちゅうばんかん)、良久(ひさしゅう)して乃ち下る。子雅牛渚(ぎゅうしょ)の興果さず、鶏黍(けいしょ)の約、已に迫る。記をつくりて、これに寄せ、以て[けい]生の車を促すと云う。
と原文が引かれてゐるのですが、それに対する説明が、
「米顛」とは宋の米[ふつ](べいふつ)のことで、彼は文に巧みで、書畫を善くしたが、その言動が奔放不羈であったために米顛と言われたのである。「子雅」は西山拙齋の字であるが、拙齋には岩石癖とでも言うべきものがあり、石を愛してほとんど狂氣に近かったので、靈昌(茶山の友人)は奇岩の多い山の中で拙齋を思い出して、このように言ったのだろう。
と、たったこれだけでは、陶潜の、孟嘉の、李白の、范巨卿の、[けい]康の、故事を知らないひとには何が何だかさっぱり分りません。
よくしたもので、今やインターネットで意味の通じない文句を検索すれば、奇特な文学サイトから故事についても何らかの緒口を得ることができる、有難い世の中になりました。しかし刊行当時はさぞやこの本も難解だったに違ひありません。著者はかうした素養を読者の常識として、果たして明確に念頭に置かれてゐたのでせうか。米元章について、このひとの「奇矯な言動」を以て「顛」を冠せられたと記し、ただ西山拙齋の「岩石癖」を論ったのも、なんだか不親切のやうな気がしたものです。
ともあれ、原詩の抄出は詩集の原本に当るべきでは(45p「驚」「舎」の字)、などと、修養にあるまじき生意気なアラ捜しをしながら楽しんでゐます。わるい読者です。
322
:
西岡勝彦
:2008/02/18(月) 17:40:38
RE:『鐵齋大成』第三巻
>賛文の言葉が全く録されてゐないのが残念
鐵齋の画賛のかなりのものは、「鉄斎研究」全65冊で解読されているようです。
ただし、研究機関でしか買えないような値段がついています。
私は幸いなことに内20冊ほどをオークションで投げ売りされていたのを
密かに救出して蔵していますが、未だまともに読んだことがありません(汗)。
まったく宝の持ち腐れですね。
323
:
やす
:2008/02/18(月) 23:38:12
「鉄斎研究」
>西岡さま
先日来、ブログでは貴重な助言をお聞かせ頂きありがたうございました。その「鉄斎研究」といふ雑誌のことも、初めて知りました。各地の図書館には結構揃ひがあるやうですが、25万円ですか・・・。尤も今の自分にも「猫に小判」「ごん太に論語」でせうから、今度岐阜県図書館に行ったときにどんな雑誌なのだか閲覧してみます。
今後とも御教示よろしくお願ひを申上げます。
さて本日は「日本古書通信」943号が到着。昨年末の古書展「扶桑書房一人展」の顛末について、「応援団」の川島幸希氏から二回に亙る報告です(引っ張りますね 笑)。 また「江戸の古本屋」(橋口侯之介氏)では、偶然にも先日紹介した『江戸繁昌記』:書舗の章の続きが紹介され。さらに今回は、戦前地方詩壇のアンソロジー『福島詩人選集』といふ本について、書誌周辺情報が詳しく紹介されてゐるのも「詩集愛好家」には嬉しいところ(菅野俊之氏)。コレクションの買入価格に関して「リミットに設定しており、それを超えるものはどんなに欲しくても、この世では縁がなかったものと端から諦めることにしている。」とは、まことに拳拳服膺すべき御言葉であります。
古本雑誌「初版本」第3号(6月末刊行予定)の購読継続の案内状も参りました。3月31日までに郵便振込で前金1冊\1000を送金のこと(1人5冊まで)。これは継続案内といふことなので、新規申込みの向きにはまず、
「人魚書房 : syohanbonアットマークybb.ne.jp」まで問ひ合わせてみて下さい。
(バックナンバーはないと思ひます。また古本の話が種切れたので、今度は私は書きません。)
324
:
やす
:2008/02/25(月) 18:04:38
「戦艦献納の詩」
『菅茶山』(富士川英郎著)を毎朝ゆるゆると読み進んでゐます。さきの鴎外史伝や『頼山陽とその時代』(中村真一郎著)の時と同様、詩人の名前が、未見の熟語とともに次から次へと、「茅を抜くに茹たり、その彙ひをもってする。」といった感じで芋蔓式に出てきますが、彼らと菅茶先生の年齢差、そして引用詩の原本丁数などを記しながら、赤鉛筆片手に大詩人の一代記を鷹揚に辿ってゆくのがとても楽しい読書です。
さて。以前に多治見の久野治さんから見せて頂いた「戦艦献納の絵葉書」を、幸運にも入手、早速画像を拡大してupdateしました。またこれまで郷土詩人について折々特輯を組んできた東海地方の文芸雑誌『名古屋近代文学史研究』の総目録が、発行団体である名古屋近代文学史研究会のサイト内で公開されてゐることを最近になって知りました。気になるバックナンバーを現在探索中です。
また。むかし書いたサイト内の文章を読み返して生硬さにあきれることあり、手直しを心掛けてゐます。手始めは紹介文ですねえ(苦笑)。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000454M.jpg
325
:
やす
:2008/03/21(金) 03:25:15
馬頭初めて見る米嚢花
『菅茶山』読書ノート (閑人専用)
やうやく41才の菅茶山と9才の頼山陽が初めて対面する歴史的時日、天明八年六月十日のことを記した詩篇「広島訪頼千秋分得螢字」(広島に頼千秋を訪ひ「螢」字を分ち得る)までたどり着きました。頼千秋は頼春水。山陽の父で、茶山終生の親友であります。
離居屈手幾秋螢 離居(はなれ家)、手を屈すれば幾(いく)秋螢
夜雨西窓酒滿瓶 夜雨西窓、酒、瓶に満つ
十載趨朝頭未白 十載(十年)、朝(役所)に趨むいて頭いまだ白からず
舉家迎客眼倶青 家を挙げて客を迎ふる眼は倶に青し(青眼)
雲低隣屋木陰邃 雲は隣屋に低(た)れ、木陰は邃(ふか)く
石倚勾欄苔氣馨 石は勾欄に倚りて、苔気は馨(かんば)し
喜見符郎紙筆耽 喜び見る 符郎の紙筆に耽り
童儀不倦侍書櫺 童、儀に(行儀良く)して、倦まず書櫺(≒書斎)に侍るを
詩の後半は、息子の「符郎」に勉学をすすめた韓愈の詩「符讀書城南」をふまへてゐるらしいのですが、この本では例によってあまり詳しく説明してゐません。原本詩集にはさらに、
「閲到此詩 馬頭初見米嚢花」
といふ評言が一言、欄外にぽつりと書いてあって、『黄葉夕陽村舎詩』の無記名の鼇頭評は、先輩詩人六如によるものなのですが、この「馬頭初めて見る米嚢花」といふ故事がわからない。しらべてみると雍陶(唐)「西帰出斜谷」の詩に
行過險棧出襃斜 険桟を行過ぎて褒斜を出づ (ホウヤ:成都へ通ずる蜀の桟道と呼ばれてゐる難所。)
出盡平川似到家 平川に出尽して家に到る似たり
無限客愁今日散 無限の客愁今日散ず
馬頭初見米花。 馬頭、初めて見る米嚢花
とあって、「馬頭」は馬の上、「米嚢花」はケシの花で故郷の花の謂。つまり遠地から帰って故郷の土地に入ったことを喜ぶ言葉(『大漢和辞典』)であるらしい。とすれば、『黄葉夕陽村舎詩』をここまで読み到って喜びを記すやうな人とは、頼山陽そのひとではないか、ここは「子成曰く」の文字が頭に抜けてゐるのではないのかとも思ひ、つまりどうして富士川氏はこれに言及しないのだらう、などと訝しく思ったのでした。
ただ、よくよく前後の評言を読んでみますと、ここに到るまでの旅行中の詩群に対して、六如は手厳しい不満の言葉を書き連ねてゐて、やはりこれは六如の言葉であって、「やうやく良い詩に出会った」安堵を、旅が終って広島に着いたことにかけて書いてゐるのだと、合点がゆきました。六如が不満に感じた詩はどれも次に挙げるやうな叙景詩で、富士川氏も誉め、また山陽も「是もとより実境、新奇をめるにあらず」と弁護してゐますら、もとより私などにその不満の理由がわかる筈もありません。
風外鳴榔響 風外、鳴榔(舷を叩く音)の響
清江七曲濱 清江、七曲の浜
征帆銜島尾 征帆、島尾を銜み
去馬蔽松身 去馬、松身を蔽ふ
[鹵差]戸潮爲圃 [鹵差]戸、潮を圃と為し (塩田のこと)
漁村鷺作隣 漁村、鷺を隣と作す
憶曾過此路 憶ふ曽て此の路を過ぎり
結伴遠尋春 伴を結んで遠く春を尋ねしを
「此様句固非儂所好然如此精錬不得激節恨不與賈浪仙同時三年二句一吟涙流而不濺路人之袂
此様の句、固より儂の好む所にあらず。然らば此の如き精錬は激節(激励)せざるを得ず。賈浪仙に与り「三年二句」時を同じくせざるを恨む。「一吟、涙流」すも、而るに路人の袂には濺がず。(六如評)」
「賈浪仙」は唐の「苦吟詩人」賈島で、「両句三年得、一吟双涙流」(詩二句を三年かかって得て、吟ずれば涙が流れた)の故事がある由。六如がこんな推敲では涙なんか催さない、と不満を漏らしたのはどこを指してゐるのでせうか。漢詩の良し悪しを決する当時の基準が、平仄を弁じない私には全く不明であるのは、語義、故事の向ふ、さらに険しい「褒斜の桟道」に分け入る話なので仕方ありません。 不満が最後のところなら、「結伴」とは亡き先妻のことで、ことさら月並みな表現に拠ったのかな、とも思ったのですが「黔驢の技」で深読みをするのは止しにします。
(読書ノートは、誤植や不詳箇所と合せて、今後ブックレビューに逐次累積して上したいと思ひます。)
326
:
やす
:2008/03/04(火) 09:10:52
「四季」と 兵庫の詩人たち展
「季」の同人、紫野京子さまより【「四季」と 兵庫の詩人たち展】の御案内をお送り頂きました。展示規模など詳細は不明ですが、3月15日(土曜日)には特別に、杉山平一先生が講演をされるとのことで、お元気を取り戻されたことを何よりに存じます。関西にお住まいの方にはぜひお立ち寄り頂けたらと思ひます。とりいそぎの宣伝まで。
「ごあいさつ(福井久子氏)」より抜萃
(前略)今回はこの「四季」派の詩人たちの中から兵庫とゆかりのある3人の詩人、津村信夫、竹中郁、杉山平一を中心に資料を展示、紹介します。この企画を可能とするにあたって貴重な資料や助言をいただきました津村信夫の遺児春木初枝氏、竹中郁ご遺族、また杉山平一氏からは資料のみならず記念講演までお引受けいただき、感謝申上げます。この企画展を通じて2008年に生きている我々の詩のルーツに思いを馳せ、詩の現在を、言葉の生きたカを確認する一助になればと願っています。(後略)
「四季」と 兵庫の詩人たち展 3月11日(火)〜3月16日(日)
兵庫県立美術館原田の森ギャラリー(入場無料) 東館1階展示室
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000458.jpg
327
:
:2008/03/07(金) 01:44:08
御礼
お葉書有難うございました。早速宣伝して下さって有難うございます。私のブログにもとりあえず掲載したのですが、初日に出品する絵画作品や詩誌を搬入致しますので、その折にもう少しましなご案内が出来るかと思います。とりあえず御礼まで。紫野京子
http://gessousha.jugem.jp
328
:
やす
:2008/03/07(金) 21:50:04
(無題)
紫野様、御挨拶ありがたうございます。地域の詩人を顕彰することは私たちの仕事であり喜びです。ぜひ来年は岐阜と兵庫を結ぶ漢詩人、梁田蛻巌翁の顕彰を(笑)。盛会をお祈り申し上げます。
先週来の風邪引きは、緩解するも油断。「少し癒ゆるに加はる」とはこのことです。本日早退、また寝たきりの週末を送ることに。どなたさまも御自愛ください。
329
:
やす
:2008/03/09(日) 23:30:18
『桃』3月号
山川京子様より『桃』3月号の御寄贈にあづかりました。
若くして書き散らしたる断簡に迷ひなかりし君を知りたり
巻頭一首の回顧、まことに、詩人山川弘至そのひとの、非常の時代の非常の思ひに係る断簡であればこそ、見た目は同じく推敲の痕を留めぬワープロ原稿とは、おのづから言葉の響きが違ひます。歌のひとつひとつが遺詠のつみかさねにも等しかった時代の詩人たちに比して、きびしく自問するところです。ここにてもお礼を申し上げます。
ありがたうございました。
330
:
やす
:2008/03/10(月) 23:00:07
自家揉碎す[石牙]繚綾
『菅茶山』読書ノート (閑人専用)
終日富士川氏の『菅茶山』読耕。旧友三好達治に触れてあるところで大いに脱線中(「十春詞の穣縟」『三好達治全集』巻七 369-383p)。
ちなみに三好達治が執筆当時に解しかねた、頼山陽の田能村竹田の「十春詞」に対する評言は、
「山陽言ふ。元人の、四體人に著して嬌として泣かんと欲す、自家揉碎す繚綾、といふもの、これと同調、いはゆる穣縟にすぎるもの。」
といふのですが、今日ネット検索で、それが元人ではなく晩唐の韓「半睡」といふ詩であることが瞬時に知られます。
眉山暗澹向殘燈 眉山暗澹として残灯に向ふ
一半雲鬟墜枕稜 一半の雲鬟、枕稜に墜つ
四體著人嬌欲泣 四体人に著いて、嬌として泣かんと欲す
自家揉碎[石牙]繚綾 自家揉み砕く、[石牙]繚綾
まあ何といふか「磨かれた綾絹」を自ら揉み碎いて挑発する、なんて詩なんですね(笑)。
ことのついでに田能村竹田青年の艶詩も晒しときませう。
乍聽鶯兒枕上呼 たちまち聴く、鶯児枕上に呼ぶを
數聲和夢唯模糊 数声、夢に和して唯だ模糊
微香汗凝衾底暖 微香汗は凝りて衾底暖かに
泥得一身骨欲無 一身泥得して骨無からんとす
また三好達治は同じ文中にあらわれる「信卿」を「晋卿(茶山)」の誤記としてゐますが、「信卿」で正しく、これは茶山の季弟、恥庵のことです。『菅茶山』上巻では、32才の若さで夭折する、この菅恥庵(1768-1800)についても、平行して事跡を記してゐるのですが、巻末の人名索引をみると、京都で恥庵の親友だった杉岡暾桑の出番がないのは残念でなりません。『黄葉夕陽村舎詩』付録(恥庵詩草)では「杉岡公曙」の名で、また『荷溪詩集』では「[管]三閘」の名で夫々呼んでゐますから、結びつきにくいかもしれません。後年、郡上藩に招聘される杉岡暾桑ですが、生年と享年が不詳。しかし恥庵については、「余と善し。」「小蘇の穎才、今いずくにか在る、感慨は大蘇(蘇軾=茶山)を慕ふより深し。」と親近を示し、暾桑が亡くなったとき(1822年)嫡子がまだ若くして跡目を嗣いでゐる様子から、杉岡暾桑もまた菅恥庵と同年輩の、当時は三十がらみの同業者だったやうな気がするのです。
ともあれ茶山とは20も年の離れた弟の恥庵ですが、今少し長生き出来たら京都でどんな人物になってゐたでせう。「才気煥発」で「諧謔好き」の好青年。長崎へのひとり旅の末に病臥してゐた時には、まさに立原道造をイメージしてゐたのに、頼山陽が撰んだ墓誌には
「長じて魁梧、腰大十囲、方面深目にして眉間に竪紋(たて皺)有り、酒を縦にし、剣を撃ち、弛(放肆)不羇」なんださうな(笑)。
それならそれで大いに文豪頼山陽と絡んで欲しかった人物ですが、斯様な先輩が目の黒いうちは、茶山塾を飛び出した山陽先生も、京都ぢゃ大きな顔が出来なかったかもわかりません。
331
:
やす
:2008/03/19(水) 09:07:31
上巻読了。
『菅茶山』上巻読了。
ほぼ二百章ある大冊を、機械的に両截製本してゐますが、物語そのものは途中の、茶山先生五十四歳のところ、怙恃なく、子無く、師友も喪ひ、通常の江戸時代文人ならここらを以て終るあたりが、所謂「分水嶺」のやうであります。
「ところで、寛政はこの年十二年を以て終り、翌年は享和と改元されたが、足かけ十二年にわたった寛政年間は、茶山にとって身邊多事の時期であり、多くの親族や知友たちがこの世を去っていったのであった。
先ず寛政三年二月に茶山の父樗平が歿し、同八年二月には母半(はん)が死んだ。そして十二年八月には弟恥庵が京都で客死したのである。また、同僚や先輩のうちでは、二年十二月に中山子幹が、六年七月に佐々木良齋が死に、そして十年十一月には、茶山が最も畏敬し、親愛した西山拙齋が歿したのである。五十歳を過ぎた茶山の身邊は次第に寂寥の影を濃くしていたと言ってもよい[・・・]
が、やがて享和を経て、文化年間に入ると、伊澤蘭軒や、頼山陽や、北條霞亭のような、年齢からいって親子ほども差のある、若い世代の人々が、次第に多く、茶山の身邊に現われるようになったのであった。」(76 章435p)
静かに消えゆかうとする埋火を、掻き立て、引っ掻き回す役割を演ずる頼山陽をはじめ、「江戸後期の詩人たち」の主役級が次々に登場してくるわけですが、なんといっても山陽青年の、出奔、捕獲(笑)、謹慎、廃嫡となったその後の動静に沿って話は進みます。ここに至って『伊澤蘭軒』とも接続、何やらこの本も下巻が賑やかさうな気配。
332
:
やす
:2008/03/23(日) 09:28:03
『保田與重郎のくらし』
風日社から歌誌「風日」(新春号、春季号52巻1,2号)二冊が到着。五十年記念誌購入の名目として会費を納めたので、一年間お送り下さることに決まったのである。私には歌の良し悪しはわからないから、保田與重郎(以下詩人と呼ばせて頂く)のひととなりを伝へる記事を紹介したい。
椿原直子氏の報告「風日創刊五十年記念歌會及び祝賀會の記」(新春号52巻1号)より。
祝賀会会場では谷崎昭男氏が「角川出版に勤務されてゐた頃の思ひ出」として、
「現代仮名遣ひには、人間が言葉を支配するやうな感費があるが、歴史的假名遣ひには、言葉に仕へるといふ謙虚さがある」
と語った詩人の逸話を紹介されたらしい。かつて福田恆存氏が自著『私の國語教室』のなかで、私たちが古典の言語感覚と同じ世界に浸る大切さについて、歴史の連続性といふ観点から日本人として考へるべきである旨を力説されたが、それをさらに直截に表せば、詩人のこの一言に極まるやうに思はれる。
それから詩人の邸宅「身余堂」を改修した際、入口の門を解体したときに中から棟札(むねふだ)が出てきたことを、小田玉瑛氏が報告されてゐた(同新春号「風日火記」)。門とは、保田邸の顔ともいふべき立派な瓦葺で有名な、移築された古刹の山門のことである。
「歌会の後で床脇に立てかけられてゐた棟札を見せて頂く。手に取ると、棟札は縦五十六糎横上方幅が十六糎下方幅は十二糎の撥形をしてゐる。保田先生の丁寧な筆書きは、たつた今書かれたかの如く墨痕彩やか。その墨の香さへ立ちのぼつてくる様だつた。身余堂建立して五十年といふ記念すべき札として大切に保存して欲しいと願ふ。貴重なる故に少し長いが全文を記す。
「この山門は元五條富小路本豊寺に建つ有栖川宮家所縁の名刹也老若善男女の寄心になりし冥加之門の數幾千萬人なるを知らずすべて清浄心ならざるなし今茲春事によりてとりこぼたれしを惜しみしがあたかも鳴瀧身余堂の建立に当りここに移し建つ
昭和三十三年師走廿七日移建上棟
願主保田典重郎
棟梁木曽久次郎
大工牧野金次」
このたび郵便には、さうして歌誌と一緒に新刊本の案内も添へられてゐたのだが、この『保田與重郎のくらし』といふ一冊が、まさにその山門の佇ひから「終夜亭」と名付けられた書斎、広間の隅々まで、佐藤春夫が感歎して已まなかったといふ日本家屋の素晴らしい表情を記録した写真集であることを知って、早速注文することにした。全集刊行時に出た『保田與重郎アルバム』を見たときから、いつかお伺ひしてみたいと思ったものだが、邸宅の様子は詩人易簀の少し前、自ら紹介の労をとられた貴重なローカルテレビ番組が放送されたとも聞いてゐる。次は在りし日の謦咳にも接すべく、ぜひDVDによって映像として拝見できないものか、望蜀の念を深くしてゐる。
(写真は広告から)
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000465.jpg
333
:
やす
:2008/03/23(日) 09:39:18
やすのくらし
さて今月はわが茅屋にも、扁額、屏風と、掛け替へをあまりしない、室内を印象付けるやうな調度品がやって参りました。「いよいよガラクタ屋敷になってきたねー」とは口さがない先輩の言。分不相応な尤物ながら確かにさうかもしれません(笑)。こちら『やすのくらし』の方は、ホームページ上も、実生活も、ヤドカリの如く手当たり次第に「古人の糟粕」を身に纒ひつつ、未だ糟粕の味さへ理解ができてゐないといふ、情けない現状。『黄葉夕陽村舎詩』を傍らに披き、引き続き『菅茶山』と挌闘中。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000466.jpg
334
:
やす
:2008/03/29(土) 22:08:05
書懐
日が明けると四十七歳になります。これまでは「四捨五入で五十だ」、などと笑ってゐましたが、なんだか切実の数字にみえてきました。
私には組織人として軽く見られるところがあるやうです。それは、「ひとの上に立つべき人物」に注がれる目が、他者には容赦なく、自らには、未だしの思ひを諧謔を以て態度に表すからではないかと、自分では思ってゐます。僻みが昂じると、皆から煙たがれてゐるんぢゃないか、と邪推する向きもあるやうです。しかし敬遠されるほどに大きくみられてゐる訳でもない。
伝統を重んじるところがある一方で、権力の粗が目に付いて仕方がないところがあり、かつて詩を書いてゐる時には、それが研ぎ澄まされてゆくばかりで困ったものでした。しかし年とともに漢詩文に泥むやうになり、ともすれば腐らうとする志が、励まされ、慰められ、救はれるやうになりました。暢ばし得ない鬱屈も、古人の風懐に託すれば、僅か二十八文字のなかで昇華することができます。さうして不透明な将来については、「日本古来の偏屈爺さん」になるといふ、笑ふべき目標を持つことが出来るやうになりました。拙サイト上の書きものも、それで随分初めの頃とは変ってきたのではないか、と思ってをります。心境の変化は、次第に人付き合ひにも顕れてくるかもしれませんが、「威厳」と「威張ること」は異なります。虚の肩書きも、私には縁がありません。
拙サイトにおきましては、このさきも近世・近代の詩文資料の公開を進めてまいる所存です。ただ漢詩文については、いくら先賢、先哲、と力んでみたところで、経学と平仄を修めなければ、殆ど外人観光客が漢字プリントの土産物を弄ぶに等しいことは、重々承知のところ。 まづは画像、テキスト、書誌、訓読を中心に、ネット上で閲覧可能な資料を増やすことに愨しんで心掛けたく、学習の過程とともに皆様にはお見守りの程よろしくお願ひを申上げます。
335
:
やす
:2008/03/30(日) 00:33:42
佐谷恵甫
『菅茶山』読書ノート (閑人専用)
文化六年末から文化八年閏二月まで、一年余にわたった頼山陽の黄葉夕陽村舎在塾中、茶山先生が外出時にいつも山陽と一緒に引き連れてゐた、九州からやってきた佐谷恵甫といふ未成年の塾生のことが書いてある。「筑前秋月藩医、箕浦東伯の子」といふことしか分らないが、教員格の山陽と同時期に入塾し、そのまま「悪い先生」に薫陶を受けたこの生徒は、ともに上京を志すやうになった塾生のうちでも筆頭株の俊穎であったらしい。とりわけ目を掛けられてゐたらしい彼の名は、いつも茶山の日記の中で、山陽と並んで記されてゐて、象徴的なのが、故郷に帰るといふ恵甫を、山陽と、それから茶山の甥で、菅家の跡嗣ぎたる長作が見送る箇所である。
九月七日に佐谷恵甫が豊後に帰ったが、山陽と萬年とがこれを送って横尾に至った。
「士成(子成)と長作、恵甫を送つて、横尾に到る。士成、しばしば、長作に先きに還らんことを勧む。長作、なほ従って行く。既にして手を分つ。而れども士成復た送りて橋上に至り、留談してときを移す。長作、茶店に在りて、士成の還るを待ち、風寒の冒す所となるに至れりと云ふ」
富士川氏は、
茶山の日記にはこのように記されているが、この行文のうちになんとなく山陽を非難するような口吻が読みとれるのではなかろうか。
と記されてゐるが、「非難」の内容は、病弱な甥子の健康を気遣ふとともに、彼を「のけもの」にして交はされた内緒話が、恐らくは秘密の上洛計画に関るものであったからに他ならないだらう。人心掌握の才に長けた頼山陽の人柄は、学芸抜群ながら、茶山からは
「年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、二十前後の人の様に候。はやく年よれかしと奉存候事に候。」と、また母梅颸からは、
「子供らしき事も御座候故、私共はたへず子供しかり候様にし加り申候。」とも窘められるやうな、まことに今日呼ぶところの無頼にして純真たる「詩人らしさ」に与るところがあったやうである。田舎暮らしを喞つ上昇志向の青少年たちを根刮ぎ薫染したらうことは想像に難くない。
そして同時にこの一文からは、対照的に、山陽より七歳も年上だったといふ、長作こと菅萬年といふ男の、孤りぽつねんと取り残された疎外感もまた、ありありと察せられるのである。萬年は子のなかった茶山の養子となったものの、生来病弱で、天文や暦が好きな、地味な理系の人物だったらしい。さうしてこの翌年、山陽が塾を去った半年後の七月に夭折してしまふ。遺された未亡人敬は一人息子の菅三を菅家に残し、やがて山陽の代りにやってきた塾の都講、北條霞亭の妻になるのである。
佐谷恵甫はその後ふたたび塾に戻ったものらしい。萬年の死後早々に、九州秋月に帰るとてあらためて、師茶山より特別長い送別の詞を贈られてゐるからである。彼は二年後の文化十一年、茶山江戸行きの際には、大阪在住者として移動中の茶山に謁見してゐるのであるから、この度の「再帰郷」の真意については、茶山も或ひは薄々感づいてゐたのかもしれない。富士川氏はこの詩について言及をされなかったが、一読、おのづから餞別の意に含むところあり、塾の後継者と家の跡取りを失った悔しさ、悲しみを踏まへて読んでみれば、今また手許から逃げてゆく才気一本槍の少年に対し、切に自重を願ふ老先生の心が惻惻と感じられてならない。
「送佐谷恵甫歸秋月」(『黄葉夕陽村舎詩』後編、巻三13丁)
士愨而求能 馬服乃求良 今時俊髦士 轎誕事鴟張 其文非不美 其論非不詳 而察其所安 功過不相償 恵甫未弱冠 才氣耀峰鋩 況能履謙順 早已収令望 有素絢可施 有實名可揚 君若逐時調 正路或易方 願能守故歩 勿學狂童狂 平素誡輕佻 動致郷人誚 唯此一片心 有不顧我耄 秋柳挂斜日 蕭蕭倚祖筵 寒獸鳴空谷 旅雁翔遠天 雲海千餘里 對酌更何年 別後能思我 時亦誦斯篇
「佐谷恵甫の秋月に帰るを送る」
士は愨(つつし)み而して能(わざ)を求め、馬は服して(車に付してから)すなはち良きを求む※。今時の俊髦の士、轎を誕り(小車を偽り)、鴟張(フクロウが翼を広げた様にみせる)を事とす。その文、美ならざるに非ず、その論、詳ならざるには非ざる。而るに其の安んずる所を察すれば、功・過あひ償はず。
恵甫、未だ弱冠ならざるも、才気峰鋩(きっさき)を耀かす。況や能く謙順を履(ふ)み、早や已に令望(立派な声望)を収むるをや。素(そ)有らば絢(あや)に施すべし※ (真白な素地だから絵が描ける)。実あらば名も揚がるべし。君もし時調を逐はば、正しき路も或ひは方(向)を易(か)へん。願くは、能く故歩(今までの堅実)を守り、狂童の狂を学ぶなかれ。平素、軽佻を誡(いまし)むるも、ややもすれば郷人の誚(そしり)を致す。唯だ此の一片の心、我が耄(この老いぼれ)を顧みざること有り。秋柳は斜日に挂(かか)り、蕭蕭として祖筵(送別の宴)に倚れり。寒獣(わたし)は空谷に鳴き、旅雁(そなた)は遠天に翔ける。雲海千余里、対酌さらに何れの年ぞ。別後よく我を思はば、時にまた斯の篇を誦せよ。
※弓調而後求勁焉、馬服而後求良焉、士信愨而後求知能焉。士不信愨而有多知能、譬之其犲狼也、不可以身爾也。(『荀子』哀公篇)
※子夏問曰、「巧笑倩兮、美目盻兮、素以爲絢兮、何謂也」(『論語』八佾)
「狂童の狂」が、家督を放擲して都で名を馳んとする山陽のことを暗に示してゐるのは、言ふを俟たない。すべての元凶は彼なのである。頭註で当の山陽が、
襄輩當各冩一通以貼座側。 (襄輩(わたくしめ)、まさに各一通を写し以て座側に貼るべし。)
と神妙に反省してゐるが、しかしそれ以上何も書かいで良いものを、
平素二句刪去亦似通。 (「平素…」二句は刪去、また通ずる似し。)と恵甫を庇った上、
而仍作乃似可。 (「而」なほ「乃」と作るも可の似(ごと)し。)と、ことさらに詩の上面をなぶったりしてゐる。さうして山陽の父である春水がまた、
有學有識有文采有雅趣。 (学あり識あり文采あり雅趣あり。)
などと恵甫を誉めちぎってゐるのも、穿って読めば、針の筵に座らされてゐる父子二人の様子がありあり目に見えるやうで、なんとも可笑しい。
佐谷恵甫は生没年を詳らかにしない。或は夭折したのか、その後、大成したひとではないやうである。御教示を俟ちたい。
336
:
やす
:2008/03/31(月) 19:50:06
モダニズム詩人 荘原照子 聞書 (2)
鳥取の手皮小四郎様より、「モダニズム詩人荘原照子聞書」の連載が始まった『菱』161号の御寄贈に与りました。
二十歳にふるさとを後にしてから一度も足を踏み入れなかったといふ山口県周防の地に、痕迹すらなくなった生誕地を確定すべく自ら足を運び、遠い日の詩人の記憶を、聞書きや、当時の詩篇、写真帖から偲びます。ことにも宮参りの際にまとった、明治天皇皇女の遺品の産着にスポットが当てられ、由来が探られてゐますが、写真も貴重なら、『マルスの薔薇』刊行時、内容に激怒した兄が妹の廃嫡(勘当)をもとめて親族会議を開いたといふ条りなど、逸話も全て珍しく、初耳のものばかりでした。
次号は「詩人が当時の詩壇や詩人以上に、熱っぽく時間をかけて語った」といふ、一族血族についてさらに深く語られる模様です。季刊誌なので、長い連載になりさうですが、他に類を見ない数奇な詩人の生涯を、ぜひ磐石の資料によって書き上げて頂きたいものと期待してゐます。
ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
「菱」161号(詩誌「菱」の会2008.4.1発行) 頒価\500
連絡先 〒680-0061 鳥取県鳥取市立川町4-207 小寺雄造様方
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000469.jpg
337
:
ハトリ
:2008/04/05(土) 10:24:22
杉山平一 「桜」
はじめまして、
読売の編集手帳で、杉山平一氏の「桜」を知りました。
検索してここにたどり着きました。
HPにも載せさていただきました。
格調高いページで、おそれおおいですが、またおじゃまさせていただき、滋養にしたいと思います。
http://atarasiihi.hp.infoseek.co.jp/
338
:
やす
:2008/04/06(日) 06:46:49
(無題)
ハトリさま、はじめまして。
同人誌時代の先輩、矢野敏行さんの文章が御縁で拙HPにまでお越し頂きました由。杉山平一先生の作品を始めとして、紹介させてもらってゐる詩文の格調を仰いで、精進の毎日です。今後ともよろしく御贔屓願ひます。ありがたうございました。
「あ・ほうかい」第9号の寄贈に与りました。ありがたうございました。
団塊世代のバイタリティーは、老境・宗教・伝統をあくまで拒絶して、実存の深みでもがき苦しむのを潔しとしてゐるやうにみえます。しかし中原中也を評して「詩として文芸評論的な解釈を行う余地がない」と批判した黒田三郎が云ふところの、「詩における生産性」を云々しないと気が済まないやうな「文芸評論的」性分は、わが愛する詩人たちや詩人を語る友達には要らないですね。
昭和初期に活躍したモダニズム詩人、草飼稔の処女歌集『喪しみの詩片』がweb版で復刻、閲覧が出来るやうになった由、ご遺族の薫様より御連絡を頂きました。御礼を申し上げます。
ありがたうございました。
内容ともにPDFによる縦書きの視認性の優れたものが公開されてゐます。ぜひ御覧下さい。
富士川氏の『菅茶山』は、下巻の四分の一強を占める文化11年(茶山67歳)から、一年余を送った江戸詰め生活を討尋中。前回の上京時に交誼を結んだ伊沢蘭軒(38)、狩谷齋(40)はもとより、立原翠軒(71)、塙保己一(69)、太田南畝(66)、市川寛齋(66)、古賀精里(65)、亀田鵬齋 (63)、大槻玄沢(58)、楽翁(57)、屋代弘賢(57)、柏木如亭(52)、葛西因是(51)、大窪詩佛(48)、菊池五山(46)、佐藤一斎(43)といった、著名の人々の名が出るたび、そして日記に細々と記された、方々からのいろんな「貰ひもの」に赤鉛筆を引いて喜んでをります。美濃人である川合春川(64)が足繁く訪問を重ねてゐるのにも注目。まもなく帰途、川崎敬軒 (45)『驥[虻]日記』の出番です。
先月晦に到着した「新村堂古書店目録」ですが、破格割引きの和本をみつけ、長らく探索中の人まですぐに御連絡したのですが、メール不達が今頃になって返ってきて、面目ないこと限りなしです。<(_ _;)>
339
:
やす
:2008/04/11(金) 07:26:34
中島棕隠の「穢名」
『菅茶山』読書ノート (閑人専用)
特にコメントも必要ないやうな頼山陽お得意の悪口雑言。( [??]やす補注)
「京儒、名を挙げ候様、仰せられ下さり候へども、所謂「中風暇乞ひ嫁女」の外は、させる大将もこれ無きと見へ候。近来、梅辻春樵(中風先生の門人)と云ふ詩家、流行り申し候。その友に、かの中島文吉(同門)と申す、是は御存じの先年、穢名あり候者、近来、江戸より帰り、『鴨東四時詞』と申す小冊を出し、竹枝六十五首、猥褻瑣細を極め申し候。元来、竹枝と云ふもの、如何の物と云ふ事を知らぬ様に相ひ見へ候。それはともあれ、あの通の名を被りて、また帰郷、誰も取り合はぬ筈のところ、ヤハリ用ゐ申し候者もこれ有り候、世は広きものに候。その内、京人はただその才か否かを論じ、賢、不肖を論ぜず、その貧富を問ひて、その貧廉を問はず、廉恥と云二字などは夢にも知らぬばかりり多く御座候。春樵は、妻を娶り、その帯び来たる所の金を収め、而して後これを出し候人に候。海保儀兵衛(旧名彦六)[海保青陵 1755-1817]は、江戸吉原にて、儒者彦と云ひし太鼓持なりし。彼の「嫁女先生」に続き候位に御座候ところ、これまた中風仕り候。その外、医者より素読師匠に変じ、只今だいぶん大医などの息子を弟子に致し居り候は、朝倉玄蕃と申すものこれ有り、号は荊山に候[1755-1818]。故岩垣[龍谿 1841-1808]の門人に、遵古堂[塾名]と云ふもの御座候。同門に猪飼敬所と申すもの御座候。これは自身腕は立ち申さず候へども、人の文などを指摘させ候へば、尤もなる事を申し候者に候。皆川[淇園1735-1807]門の小儒、大分これ有り、その巨擘は北小路大和之介[梅荘1765-1844]と申すものに候。先づこれらにてこれ有るべく候。外は斗量帚掃[升で量り、箒で掃き捨てるほど多い]、相応に茶粥は啜り居り申し候と見へ候。襄[のぼる:山陽の名]のごとき新来、控磬其間、御存じの京人之気にて、一年にても古きものを用ゐ申し候ゆゑ、孤立無援に候。登々[庵]などは、親祖父を信服させ候に妙を得申し候ゆゑ、大分よろしきと見へ候。そしてその渡世の致し方は、襄に比して更に倹薄、筆硯書画などの好事は、毛頭これ無く候。楽なる人に候。」
「中風暇乞[致仕]嫁女」というのは村瀬拷亭である。梅辻春樵、中島棕隠とは、茶山もやがて數年後に相い識ることになるのである。武元登登庵が親祖父を信服させる腕前を持っている一方、生活ぶりが簡素で、書畫骨董の癖もなく“氣樂に暮しているというのは、彼の案外な一面を語っているものと言えよう。(下巻309-310p)
「いつぞや京儒列挙、尊問に応じ候。此節、一珍儒これ有り候。西依(成齋[1702-1797]の子墨山[1739-1798])社中に、井川何某と申もの、同社の衣什を盗窃、講席にて見台に向ひ居り候ところを、快手[捕手役人]踏み込み、高手小手に戒め、座に有り合はせた諸生両輩も再び捕へ、罪に極め候。おのれ等は盗[人]の講釈を何の為に聞きに行くぞ、べらぼうめ、と叱られ候のみにて、諸生は逐ひ返へされ候。去々年は、合田何某(栄藏)と申す儒者の心中を致し、死に候者これ有り(北野の妓と相対死す)。今年は、此の盗儒これ有り、人間[ジンカン]には好對これ有るものに候。文吉の盗は大賊ゆゑ、今におけるも縄を漏れ居り申し候。□□□□名教を汚[血+蔑][おべつ:血を流して汚す]候はなし、先生長老の耳に入れるべくもあらぬ事に候へども、あまり珍事ゆゑ申し上げ候。」
山陽はこの書簡においても、「文吉の盗は大賊故、於今漏縄居申候」と中島棕隠の悪口を言っているが、その棕隠の非行とは、どんなことだったのだろうか。(下巻313-314p)
「棕隠の非行」については、大賊すぎて捕まらぬ盗みといふのですが、盗作疑惑なら、いづれ冗談に類した山陽の穿った臆測でせうし、前者の穢名と同じことを指すなら、或は巷間「粋は文吉」とサゲの部分で歌はれる元となった逸事、例へば梁川星巌同様、若き日の風聞があったのかもしれません。彼の詩を江戸贔屓の中村真一郎が買はなかったことからも分るやうに、「粋」が文事の艶に関るものでなかったことは明白だからであります。「先年、穢名」とあるやうに、本人の思惑を超えた儒者にあるまじき事件、しかし側から見れば江戸っ子が囃したてたくなるやうな逸事、つまり誰かお偉い様の鼻を明かすやうな「荒事」を起こして、故郷の京都へ逃げ帰って来たのでせうか。
それにしても「いつぞや京儒列挙、尊問に応じ候。」なんて、報告の内容まで茶山翁に責の一端があるかのごとく最初に断るところ、強の者です。菅茶翁も、言葉には残らなかっただけで若い頃は毒舌家だったといふから、火にくべるべき往復書翰の山陽の分だけが残ったのかもしれません。それなら律義なのはむしろ山陽の方なのですが(笑)。
340
:
やす
:2008/04/12(土) 23:34:57
『昧爽』17号
『昧爽』17号を御寄贈いただきました。ありがたうございました。20号で終刊が予告されてゐる同人誌ですが、ここにきて表紙のロゴが一新され、中身に相応しい立派な表札が掲げられました。今回中村一仁さまの浅野晃論は休載ですが、詩人の「回顧記念誌」が刊行される計画が持ち上がったのは朗報です。関係諸氏の文章とともに、そこには北海道の旧穂別町資料室に眠ってゐる貴重な写真もたくさん掲載される由、折角の御尽力をお祈りします次第です。
さて今号、俳優渥美國泰氏の御文章を読みながら思ったのは、氏がこのたび出演された映画『七人の死刑囚』と、それから、現在騒がれてゐる映画『靖国 YASUKUNI』のことでした。つまりこれらの映画を、両つながら観られる今の日本といふのが、チベット問題を握りつぶさうとする中国や親日家子孫の財産を没収する韓国より余程まともな国なんだといふ、当たり前の一事なのですが、かたや上映館の自己規制、かたやジャーナリズムからの意図的黙殺といった状況にあることが残念でなりません。いっそ二本抱合せで上映したらどう(なるん)でせうね。自分で書いてて自己嫌悪。この話題はこれきりにします。
同人誌「昧爽」17号 (特集「古典再読」) 平成20年4月1日 中村一仁・山本直人共同編集 72p \700
問合せ先 〒340-0011 埼玉県草加市栄町3-1-31-406(中村一仁氏)
〒173-0015 東京都板橋区栄町5-17-201(山本直人氏)
特集「古典再読」巻頭言
「又いづれの書をよむとても、初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず、…幾遍もよむうちには、始に聞えざりし事も、そろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也 本居宣長」
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やす
:2008/04/17(木) 08:30:31
後藤松陰、黄葉夕陽村舎滞在の事
『菅茶山』読書ノート (閑人専用)
下巻はさきにも申しました通り、ほぼ半分の分量が文化十一年(67才)の江戸于役と、文政元年(71才)の大和遊山の記述に費やされてゐます。旅日記など考証材料が豊富の故ですが、もとより道中のお話には「華」があり、その間出会った人々を列挙して、(茶山は、もはや知らぬ者のない著名人でしたから、)当時在世の、名のある詩人たちとは総て相見えたといふ感じに、たいへん豪華な様子に描かれてをります。中村真一郎氏の『頼山陽とその時代』が、詩人達を、主人公山陽との関係によって類別し、名鑑のごとき紹介方法で楽しませてくれたのに対し、この本では富士川氏は、茶山が生涯出会った順番に、人物を列挙して紹介の労をとってゐます。『江戸後期の詩人たち』といふ本で、江戸漢詩に対する最初の火付け役を果した富士川氏ですが、その後、中村氏の大冊『頼山陽とその時代』が読書会に与へた衝撃に、自信と使命感は強められたことでせう。この本を書き進むにあたっては、私淑する鴎外史伝の形式とともに、中村氏の本に対しても、後日比較されることを念頭に置いて、予め結構には意が払はれたことと思ひます。私も人物名が(生年―没年)と共に紹介されるたび、赤鉛筆を引いて喜んでゐました。この度の旅行中でも、江戸にあった川合春川、京都まで旧師を追ってきた山伏の體圓など、美濃人のことが記されてゐます。しかしながら一番嬉しかったのは、これは茶山在郷中のことですが、広島に里帰りする頼山陽に伴はれてやってきた門下の一番弟子、後藤松陰の名を見たときでした。茲に至ってやうやく「山陽軍団」の先鋒が登場といったところです。彼は菅茶山の『筆のすさび』序文のなかで、その滞塾中の様子を茶目ッ気たっぷりに披露してゐますが、けだし茶山の京都滞在中、「羅井の門人美濃大垣の人、菓子を恵む」と記されてゐるのも、当時弱冠の、無名の青年だった松陰であったと思しく、今回もそのまま山陽に随いて春水の三回忌に列しなかったのは、山陽の教育的配慮もあったかしれませんが、春風、春風の二大詩人と面晤するより、廿日余の間、黄葉夕陽村舎で翁の謦咳に接する方を優先したからだったやうであります。
さて茶山は「この後、もはや長途の旅に出かけたことはなかった」訳ですが、寄る年波に加へ、今回帰宅した途端に、姪の娘である梅が疫痢にて病死、続いてその父親で、塾の跡継たる北條霞亭も、厠に「昼夜大凡百行余に及」ぶ状況に陥り、さすがに物見遊山に出かけたバチが当ったと感じたのではないでせうか。翁の子供たちへの眼差しは、江戸で夢みたといふ次の詩篇に見られるやうに、限りなく温かいものだったやうです。菅家を襲った度重なる子供たちの夭札には、詩になることはなかった生々しい慟哭が繰り返された事でありませう。
穉姪能來入夢魂 稚姪 よく来って夢魂に入る
分明見汝徑間奔 分明に汝が径間に走るを見る
汗珠滿面關何事 汗珠 満面 何事に関はる
應覓秋蛩藏草根 まさに秋蛩(コオロギ)の 草根に隠れしを求むるなるべし
今回の読書ノートも最終コーナーに入りました。
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やす
:2008/04/20(日) 17:36:57
読書の法
さきに「昧爽」の巻頭言として「うひ山ふみ」の一節を挙げましたが、「日本古書通信」今号(945号)の連載「随讀随記(小出昌洋氏)」には、読書の悪癖に「鼠読」といふものが紹介されてゐました。並ぶ「ダニ読」といふについては、それを説いた露伴「その人の文によられたい」とあり、だれもテキストに起こしてゐないエッセイなので、一寸紹介してみます。
読書の法
幸田露伴
書を読むは極めて好きことなり。されど書を読むの法をゆるがせにして書を読むは極めて危きことなり。
書巻を手にして[イ占]畢(てんひつ:字面のみ解すること)を事とすれぼ、読書の能事了れりと考ふる如きは、最も無意義の読書法なり。
如何なる種顆の書たるか、如何なる人の著述せる書なるか、如何たる人の編纂せる書なるか、これらの点を都て顧みること無くして妄りに読むが如きは、必ずしも好き結果をのみ呈すべきならず。世には悪を勧むるといふ書も無けれど、たまたま矯激の説を載せたる書の其の弊害甚だ多きものもあるなり。また固陋謬迷の識見を抱ける人の著述にして、其の偏頗の後進を過誤に陥らしむべきものもあるなり。また粗雑孟浪の編纂にかかる書の空しく人を弊せしむるのみなるものもあるなり。以上の如き良からぬ書を読むは、読まざるにだに若かざる場合多し。
偏僻の嗜好を有せざる老成の人の教へによりて我が読むべき書を知る事は、最も大切なる事なり。縦ひ学深しと云はるる人なりとも其の人偏僻の嗜好を有せる人ならば、其の人の言にのみ憑るべからず。須らく他の中正の趣味を有せる人の言をききて考ふべきなり。
問ひ尋ぬべき先輩無き時は、書籍解題の類を購ひ得て、凡そ先づ我が読まんと欲する類の書に、如何なる名の書の有するか、如何なる体裁性質の書のあるかを知りて、さて其の後に審かなる判断により、読むべき書を撰び定むべし。解題を得ずんば目録をなりとも得て覧るべし。
書を読むは猶ほ文を作るが如し。速なる人あり、遅き人あり。各々其の性の然らしむるといふべし。速きが必ずしも勝れたるにあらず、また遅きが必ずしも勝れたるにあらず。人或ひは、書を読むは叮嚀に、いと遅くすべしなどと説くものあれど、遅速は人々の習ひにある事なれば、強ひたりとも益あらんや否や覚束なし。また或ひは、書を読むは幾度も繰返し繰返し読むべし、と説くものあり。これも一概には定めて云ひがたし。速きもよし遅きもよし、要はただ散乱心をもつて書を読まず、熱心をもつて読むべきのみ。
書を読むに二つの悪癖あり。一は多きを貪るの癖なり。此癖ある人は、鼠の物を噛むが如く、甲の書をも二三読み乙の書をも四五枚閲し丙の書をも一二枚窺ひ、畢竟書目をのみ知るに止まりて何等の要領をも得ること無く終るものなり。
他の一の癖は、[虫滿]ダニといふ虫の一処に咬みつけるが如く、書中の一部に拘泥して空しく字句の詮義に過分の心を労し、句読訓詁を読書の目的の如くに考へ誤り、一日二日三日と月日を経て猶ほ一葉二葉を読み得ず、一処に滞りて終に一部の書の意は知る無くして止むの類なり。
蚕の桑の葉を食ふが如く順序だてて漸々精密に咀嚼し行くを読書の一良法とす。
また書を読むに当つて、多少解し難きところあるに関らず、先づ読過し、次でまた読過し、次でまたまた読過し、また次でまたまた読過し、是の如く数十回読過して、其の間おのづから円悟融解して後已む。これもまた読書の一良法なり。但し此の法は才高からざるものの為し難きところとす。
書を読むものは、くれぐれも読書の法に就て熟慮せざるべからず。今ただ其の大概を挙説するのみ。猶ほ各人が自得の工夫に待つあるや論無きなり。
『露伴全集』第24巻418-420p
さて老鋪の書誌雑誌「日本古書通信」、このごろ巻末の目録ページがさびしくなったのぢゃないか、と思ってゐたところ、突如(満を持して?)かの田村書店が参加。全集などでお茶を濁すことなく、超一級の稀覯モダニズム文献を惜しげもなく並べ、しかも店売りでのやうな「お買ひ読」価格が付せられてゐました。早速田中先生のマダムブランシュ時代の盟友だった西崎晋の遺稿詩集を注文のところ、このたび感激の到着。高額ゆゑ久しく見送り続けてゐた稀覯詩集でしたが、早速サーバーのなかへ関連文献とともに画像を「入れ込ん読」。流涎の思ひを同じうされてきた「気の読」の皆様には是非御覧頂けたらと思ひます。
扶桑書房の古書目録とともに近代文学分野で一番頼りになる田村書店の書棚ですが、度々覗きにゆくことのできない遠方の愛書家に、これはうれしいハプニングでした。株式会社化した日本古書通信社への御祝儀でせうか、来月以降も目が離せません。
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やす
:2008/05/06(火) 22:40:01
「郷土史家 伊藤信展」
大垣市立図書館の三階でひっそり行はれてゐた「郷土史家 伊藤信展」を見に行きました。といふか、このたび読了した『菅茶山』のあと次に何を読まうか思案してゐた矢先にこの展示を知ったので、これはもはや『梁川星巖翁 : 附紅蘭女史』(大正14年 梁川星巌翁遺徳顯彰會)に挑戦すべき啓示と判断、願掛けではないですが、心のなかで報告かたがた遺墨遺品を拝して参りました。星巌の難解な詩も、同じく伊藤先生が解釈を施された全集に拠れば解決されるので、今回も『菅茶山』『伊澤蘭軒』同様の「閑人読書ノート」を作ることになるかどうかは未定です。
館員の方には年譜のコピーなど便宜を図って頂きました(写真撮影等要許可)。ありがたうございました。
【伊藤信氏 略歴】 (年譜より抄)
明治20年(1887)4月、海津郡西江村稲山(現在の海津市海津町)に誕生。幼少時より祖母から素読を授かり、旧高須藩士の山内虎二、高須町の市川薫精に学んだ。濃尾震災により父死去。
明治35年(1902)高須高等小学校卒業。西江尋常小学校の准教員として子どもたちを教へる。
明治37年(1904)漢詩人高木竹軒に師事。一字を受け竹東と号す。
明治38年(1905)岐阜県師範学校入学。漢詩結社岐阜藍水(らんすい)同声吟社に入る。
明治42年(1909)師範学校卒業、今尾尋常高等小学校教諭となる。のち岐阜県女子師範学校、大垣中学校、海津中学校、大垣市立高等女学校を転勤。
大正14年(1925)『梁川星巖翁附紅蘭女史』刊行。引き続きライフワークとなる。
昭和 5年(1930)『大垣市史』全3巻を編纂。最後の大垣藩主だった戸田氏共(うじたか)より、書斎に「景星閣」の名を扁額ともに贈られた。
昭和 6年(1931)「美濃郷土研究会」創立。翌年、岐阜藍水同声吟社の盟主となる。
昭和 8年(1933)『濃飛偉人傳』刊行。
昭和10年(1935)大垣市立図書館館長に就任。
昭和12年(1937)『濃飛百家絶句』『濃飛文教史』刊行。
昭和18年(1943)『宝暦治水と薩摩藩士』刊行。
昭和20年(1945) 敗戦。図書館貴重資料の避難に尽カした。
昭和24年(1949)大垣市立図書館館長を退職。
昭和28年(1953) 『梁川星巖全集』編纂はじまる。『岐阜県治水史』『赤坂町史』編纂。
昭和31年(1956)『梁川星巖全集』1〜3巻(星巌詩集の部)を著す。
昭和32年(1957)12月19日、死去。70歳。
昭和33年(1958) 冨長蝶如らにより『梁川星巖全集』の残り2巻(紅蘭の部および雑纂)が刊行され、全5巻成る。
昭和44年(1969)遺稿『細香と紅蘭』刊行。
清痩の姿にどことなく田中冬二を重ねて憬仰してゐます。
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やす
:2008/05/08(木) 12:16:30
顔すでガンス。
先日「黄巒書屋」と書かれた破損寸前のマクリを文字通りの破格で入手、これを表具屋さんに持ち込み、裏打ちをしてもらひ、新しい扁額に貼り付けていただきました。謂はば簡易の表装なんですが、ボロボロとは云へ、篠崎小竹最晩年(亡くなる半年前)の手蹟で、見応へがあります。為書きの主は、福島県岩代町の中島黄山といふ儒者。苗字も自分と同じなら、ここは「黄巒」=地元の金華山となぞらへて、後藤松陰の岳父でもある小竹翁よりこれを授かり、時と場所を隔てた二代目庵主となった気分を喜んでゐる始末。
先主の中島黄山(文化12年〜明治3年)については『漢文学者総覧』に載せる情報のほか知るところが尠いです。名は淳、字は大初・君敬、通称を長蔵と称した二本松藩儒、師は天保9年に讒に遭ひ獄死した鈴木堯民といふひとの由(森銑三著作集8 475p)。ネット上では著作もヒットしない人ですが、幕末ケータイ小説の登場人物にはなってゐるらしい(笑)。なんでもいいや。吾が書斎にはじめて表札が掲げられました。感無量です。(拡大はLink集の写真をクリックして見て下さい。)
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やす
:2008/05/10(土) 22:29:39
『知道詩篇 初編』
川崎の一儒者父子が企画したアンソロジー漢詩集を入手、小出公純ほか郡上藩の好学家老たちの作品が載せられてゐたので一寸紹介します。序の記された文政三年は公純らが藩の文学に杉岡暾桑を招聘した年。さかのぼって江村北海の序文を戴き『濃北風雅』を編輯した公純27歳の春、天明三年からは実に37年が経過してゐる計算です。翌くる文政四年、公純は『三野風雅』の刊行と時を同じくして亡くなるのですが、何か伝手でもあってこの私家版アンソロジーに参加することになったのでせうか。採録詩人の出身地をみると特定の地域に偏ってゐて、これが全国津々浦々に募集したものでないことが分かります。そして序文には
「唐宋の格調を擇ばず、章句の工拙を議せず、貴介公子より以て黎庶に[およ]ぶまで、いやしくも詩あるものは、取って以てその志思若何を観る」
などと刊行趣旨がもっともらしく述べてあり、たしかに「聖霊派」の全盛時代、「工拙を議せず」は納得するにせよ、結城藩の藩主に至るまでの要路の人々が、掲載順序にさへ異を差し挟むことがなかったのかは気になるところです。奥付の無い私家版ですから採算は各詩人からの掲載料に頼ってゐた筈です。もちろん『濃北風雅』では小出公純が第一巻の巻頭に置かれてゐます。
しかしアンデパンダンを標榜するところ、なんだか同じく川崎にあった「詩の家」みたいですね(笑)。自ら詩の第一人者を自称して地方の初学者をあつめ宗匠を気取るところも大正時代にデビューした口語詩人たちみたいです。著名詩人を収めた『文政〜慶応○○家絶句』のアンソロジーより却って面白さうなのも、昭和初期の無名詩人たちを集めたアンソロジーと同様、時を経てひとつの時代を映す資料として、裾野に位置する稀覯書となったからに他なりません。
『知道詩篇 初編』井田経綸編、井田赤城閲 文政三年序 建標楼発行 2,2,1,16,2丁 23.3×16.1cm
知道詩篇序 井田赤城 (略)
知道詩篇序
老子曰く、大国を治めるは小鮮を烹るがごとし。詩道また然り、杓柄を言志永声の間に揚げ、塩梅を孝弟忠信の中に調へ、火度を興観群怨の域に徴し、和羹を烹[食壬]醇沢の滋きに存して、人日に三嚼、もって鹹酸を味ひ、庸言これ信じ、庸行これ謹み、事物の感じる所に因みてもって性情の発する所に賦せば、則ちその温厚和平にして思ひ邪ま無くもまた得べし。若し然らば則ち、士農工商その分を僭せずして身として脩まらざるはなく、家として斉(ととの)はざるはなく、所謂風雲を巻舒し、珠玉を呑吐するも是においてか存す。然らざれば詩三百を誦し、日に日に数千万章を賦するも疾妬誹毀、牆面失愚、それ之を何をか謂はん。吾が師、赤城先生、男経綸の撰ぶ所の知道詩篇を閲して乃ち弟子良[王民]に序を作らしむ。葢し先生の詩を論ずるや、唐宋の格調を擇ばず、章句の工拙を議せず、貴介公子より以て黎庶に[およ]ぶまで、いやしくも詩あるものは、取って以てその志思若何を観るのみ。友人、余を詰って曰く、格調工拙を議せずんば、則ち詩道なんぞ得ん。余、答へて曰く、道外に詩なく、詩外に道なし、若し夫れ夏宵に蓮を嗅ぎ、雪朝に爐を擁して、苟も道に由って以て其の感ずる所を賦すれば、譬ふれば牡丹薔薇の各自その以て芬芳する所を呈するがごとし。友人曰く、妙なるかな詩論、吾が儕の小人をして君子の林に入らしむ、幸ひ焉より大なるは莫し。先生の斯の篇を閲する杓柄、火度、塩梅、和羹、誰か玄味に飽かざる者あらんや。鶴の長脛、鳬の短足、亦ただ先生の詩鼎に投ぜよと云ふ。庚辰秋七月巧夕
長総 秋葉愿良[王民](びん)拝撰
附言 従吾道人山如山 (略)
(参考)『知道詩篇 初編』掲載詩人一覧
赤城長雲卿 「家君。名某、姓井田氏、武州稲毛長尾邑の人。因って長尾某と自称す。」
有斐公子 「名乗顕、字微卿、姓源氏。」
貞[豕生]君 「名乗豪、字傑甫、姓源氏、号雪幹。」
拙齋 「名安親、字子孝、姓藤田氏、通称通栄、上毛矢田藩。」
関思問 「名思敬、号恭齋、俗称関口留五郎、東都の人。」
泰常 「字子久、号象洲、羽州本庄の人。」
子問 「羽州本庄の人、商家、俗称須藤善太郎。」
浅香元敬 「羽州本庄の人。」
今道召 「通称楽之進、羽州象潟大竹邑の人、業は医、八十六翁。」
今道也 「羽州象潟大竹邑の人、道召の孫、通称全常、業は医。」
藤淇水 「名信行、号翠陰、象潟大竹邑の人、通称佐藤春随、業は医。」
綱経 「字淑挙、羽州象潟大竹邑の人、通称佐々木宗琳、業は医。」
藤秀経 「号成蹊堂主人、字子恭、羽州由利畠邑の人。」
南木 「姓齋藤氏、名延秋、通称茂右衛門、羽州仁賀保の人。」
嶋鴻峯 「名公、字十八、号曰く影蘭、祖貫は東都の人、上総福俵に住す。通称嶋公齋、業は医。」
恊卿 「名克、号善庵、上総州青野の人。俗称秋葉恊二。」
木幾道 「名若水、号[扁]衆、上総州山口の人。俗称木村千代太郎。」
陸子孝 「名惟忠、号衡山、上総州清水の人。俗称陸平左衛門。」
宮恭篤 「名惟政、号孝陵、上総州清水の人。通称清宮伊左衛門。」
石保明 「名載止、上総大網の人。俗称石野六右衛門。」
深子直 「名惟康、号民陵、上総御蔵柴の人。通称深山勇右衛門。」
部子山 「名徂東、号雪顧、上総帆丘の人。俗称矢部五郎左衛門。」
秋愿 「字不、号知之、また蒼原と号す、上総青野の人。業は医、通称秋葉良[王民]。」
成象童 「姓小佐野氏、俗称豊吉、甲州芙蓉山下、吉田の人。」
源[山解]谷 「名光、号子龍、俗称竹屋靱負、甲州芙蓉山下、吉田の人。」
源橘園 「姓羽田氏、名知則、字恕安、また菱花亭と号す。俗称主殿、甲州芙蓉山下、吉田の人。」
山桃溪 「名詮、字文言、一号逍遥亭主人、通称山崎宗倫、宇土侯侍医。」
山[山居][山來] 「名如山、字苞卿、一号従吾道人、山桃溪嫡男、江戸の人。」
東道策 「名徳義、号平原、美濃の人、京師錦街に住す。」
頌齋 「名静、字子正、姓伊庭氏、郡上藩亜大夫、俗称又五郎。」
西嶺 「名栄章、字伯煥、武州比企小川の人、俗称磯田長左衛門。書を善くす。」
村子顕 「名惟良、淡[齋」と号す、上総萱場の人。号をもって通称となす。」
釈玄英 「綽号俊山、駿州富士郡巌平の人。曹洞宗。」
石徳齋 「名篤敬、字子行、因州藩、業は医、通称石上周禎。」
新建城 「名峻、字廬卿、俗称新名表助、丸亀藩。」
芸卿 「名芸、号醒顛、上総堀上の人。通称中村養芸、業は医。」
帝出 「名震、姓伊庭氏、号柳湾、一号相牡丹、通称周齋、業は儒医、尤も周易に精し。柳橋の人。」
栄齋 「上総大網の人、業は医、通称齋藤又玄。」
田皎雪 「上総福俵の人、俗称北田栄佐。」
木静立 「名明之、号忘我、上総姫島の人、通称鈴木道安、業は医。」
富主一 「号惺齋、上総南飯塚の人、俗称冨塚戍松。」
飯子徳 「名驥、号後凋園、上総山口の人、俗称飯塚喜十郎。」
荻子徳 「名順祥、号荻城、上総本納の人、通称荻生順祥、業は医。」
根尾翼 「字垂天、号天梯、通称根尾平八郎、東都の人。」
釈柳芳 「長陽の人、東都青松寺寮頭。」
釈摂晃 「名泰忍、相州三浦横須賀邑波嶋山主、浄土真宗。」
雉玉鉉 「名鼎、上総の人、通称雉間玄雄、業は医。」
釈日冠 「名白円、江戸の人、上総州宮谷檀林僧侶。」
倉宗郁 「守静庵と号す。業は医、上総南横河の人、通称倉持宗郁。」
三上君 「名李富、字礼卿、自ら知来館主人と号す。」
新見君 「名正路、字義卿。」
松子方 「名廉、号崛奇、通称松浦凌、業は医、上総牛込の人。」
土無逸 「名惟馨、号孜堂、また牡丹培者と号す。業は医、通称土屋良順、上総富田の人。」
中務敏 「名遜、允懐と号す、上総青田の人、俗称中邑豊造。」
小謝海 「名公純、字君[か]、俗称小出弥左衛門、郡上侯大夫。」
[てき]川 「名潜、字孔昭、郡上侯大夫、俗称鈴木典礼。」
不換 「名恊、字至善、作州九湍邑の人、東都に住す。」
滄海 「名重僖、字孔和、郡上侯大夫、通称鈴木兵左衛門。」
西崕 「名宗定、字孔固、郡上侯侍医、通称中泉甫庵。」
順齋 「名正名、字子苟、濃州郡上藩士、俗称古沢太介。」
文齋 「名昭、明卿と号す、結城藩、俗称茂野喜内。」
韓城 「名包教、字子文、宇土藩、俗称小林貫之助。」
蘭秀 「名惟徳、字君輔、宇土藩、俗称原伝八郎、東都の人。」
平水 「名惟義、字彰伯、濃州郡上藩侍医、通称多和田自快。」
結城老侯 「名勝剛、字子柔、姓水野氏、菎嶽と号す、また淇園と号す。有斐園に住す。」
琅[王干]君 「名勝久、字子敬、仙籟齋と号す、俗称水野道之助。」
華陽君 「名勝安、字子遷、姓源氏、逸齋と号す、俗称水野三男之丞。」
酔月山人 「名勝敬、字子凰、通称大刀彦居閑谷齋。」
絹江 「名昌全、字子徳、結城藩、俗称松井柳吉。」
錦城 「通称赤堀春楼、江都の人、上総一宮に住す。」
明空上人 「名徳現、三州額田郡法蔵寺主、同州幡頭郡徳永邑の人。」
葦齋 「名元敦、字子叙、姓中岡氏、俗称弾之丞、郡上藩。」
弘齋 「名将房、字楽卿、姓直江氏、通称半平、郡上藩。」
文庵 「名忠義、字路卿、郡上藩、俗称氏井多四郎。」
寛齋 「名忠宗、字思孝、棚倉藩、俗称前川恕助。」
[王民]山 「名敬行、字子信、郡上藩、通称速水佐吉。」
跋 井田経綸 (略)
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やす
:2008/05/12(月) 11:58:56
『鴻雪爪翁山雨樓詩文鈔』
『鴻雪爪翁山雨樓詩文鈔』小林正盛編 昭和11年 信之日本社発行 非売品
これまた、岐阜の漢詩人ゆかりの詩集を手に入れました。今回は昭和の刊行で、しかも表題に「鴻雪爪」とあるのに、大垣の図書館にも岐阜や福井の県立図書館にも所蔵が一冊もみあたらないのは不思議です。稀覯本かとも思ひ早速アーカイヴをupしましたので興味のある方はご覧ください。
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やす
:2008/05/17(土) 23:24:36
『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノート
『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノート (閑人専用)
こんばんは、黄巒書屋の稲津康之介です(笑)。
予告の通り、伊藤信先生の名著『梁川星巖翁 附紅蘭女史』(大正14年, [西濃印刷株式会社内]梁川星巖翁遺徳顕彰会刊行)の読耕を開始しようと思ひます。
今日までに梁川星巌とその妻紅蘭を扱った伝記といふのは、これを嚆矢として何冊か存在してゐるやうです。郷土の口語詩人武藤和夫による『勤王詩人梁川星巌』(昭和17年)、青年期の星巌を扱った中谷孝雄の小説『梁川星巖』(昭和18年)、東京に移転した子孫の稲津家、孫曽氏による『先覚詩人梁川星巖』(昭和33年)は、資料の引用に誤謬が散見されるのが残念、大原富枝氏の『梁川星巌・紅蘭 : 放浪の鴛鴦』は星巌夫妻の旅程に沿った西日本紀行が描かれ、なかで伊藤信について「この種の研究家にありがちな惚れ込みよう…空疎な讃辞があまりにも多く」(84p)と苦言を呈してゐます。その他専門書に載せる解説をはじめ、最近はまた『梁川星巌・紅蘭「京への道」桑名・ひとときの休息』(伊藤宗隆氏)なる地方出版書もあらはれました。しかし要するに、詩人の事跡はもらさず伊藤氏の「フィールドワーク」によって集められ、最初にして最大であるこの伝記本の中に収められてゐるのであって、けだし『梁川星巌全集』の全詩篇解釈の偉業とともに、すべての後続書が、唯一最善の参考書の著者として伊藤氏を仰いだことは、氏自らの例言を一読すれば納得ゆくところでありませう。このホームページ風に謂ふならば、伊東静雄や蓮田善明の伝記を書いた小高根二郎さんのやうな方、まづはそんな感じであります。もとより大正年間に成った著作ですから、巻頭の賛序はじめ、古色蒼然たる建前を有してはゐますけれど、為に詩人が今日忘却される原因となった「皇国思想による贔屓の引き倒し」は、この本において戦争中のやうなヒステリックのものとは思はれず、私には、(少なくとも冒頭からしばらく読んだかぎりでは)、憶測を以て断定せず、異説があれば紹介する労を惜しまぬ態度に一層の敬服を感じました。むしろ勤王思想について云ふならば、江戸時代後期に在野にあった詩人たちの、在野たる自負が、そのひそかな「反骨」のよりどころに据えてゐた概念として理解すべきなのであって、これを鬱々たる志として理解してゐる点では、同じ「反骨」でも星巌をヒッピーに譬へる大原富枝氏より、むしろ江戸時代に近い、今は喪はれた忠義の倫理が活きてゐた戦前文化圏の叙述に、一度寄り添って読んでみるのもいい、さう考へてみるのでした。古めかしい叙述が却って目下の漢字修養に適する点など、僻字癖がある詩人自らの詩篇より、むしろ伊藤氏の教養に裨益を蒙ることが多いんぢゃないかな、そのやうに思ってゐます。
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348
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やす
:2008/05/20(火) 07:52:36
『日本古書通信』946号
昨日『日本古書通信』到着、注目の田村書店の目録は、またもやモダニズム稀覯詩書のオンパレードでした。ボン書店あり、椎の木社あり、いままであまりよその目録では見かけたことのないやうな『シュルレアリスムインターナショナル』や芝書店のパンフレット詩集たち、詩集も『ペロケ色の衣装』『偽経』『朝の椅子』等々、書名をキーボードで打ち込んでゐるだけで楽しくなってしまふやうな内容です。みな現状相場よりかなり安く、この期を逃すとなかなかお目にかかる機会も少ないんぢゃないでせうか。今回HP管理人の一押しオススメは、亀山巌画伯装幀、杉本駿彦詩集『暦と地図』\15,000『記憶と秩序』\1,8000かな。この目録ページをいち早く見るためだけに購読者も増へてるんでせうね(笑)。
頭を休めるためには、巻頭の「大学図書館の現在と未来」(早稲田大学図書館 中元誠氏)でクールダウン。拙HPも「ネットワーク情報資源」の外野末席に坐りつつ、同時に原質の図書にふれる楽しさを語りたい、図書館司書といふ仕事とは、別のプライベートな側面から、世の中の文学情報に働きかけることができたら幸ひです。こちらはタダですし(笑)。
349
:
やす
:2008/05/25(日) 19:30:54
中島黄山
仕事で新潟へ出張。帰還するも尽瘁未だ復せず終日茫々、ただし仕事の合間に新潟県立図書館へ調べものにゆき、我家の書斎扁額の持主だった中島黄山の事跡を『二本松藩史』(二本松藩史刊行會, 1926年)に就いて知ることができた。即ち、
名は淳、字は大初、通称長蔵、黄山と号す。二本松の人なり。家世々蚕卵紙を鬻(ひさ)ぐを以て業とし、其の店を号して中屋といひ、又種屋とも言へり。少にして学を好み、鈴木堯民に従ひて学ぶ。酷だ詩を嗜み、才気敏捷、立(たちどこ)ろに数篇を賦す。勤王の志深く、笈を負ひて諸国を遍歴し、藤田東湖、齋藤拙堂、梁川星巌等と交る。明治戊辰の役、奥羽連衡将に成らんとするや、黄山内命を受けて仙台に赴き、同藩の実惰を内偵する所あり。時に仙台の儒者岡千仞、勤王の説を持し、大(おほい)に上下に斡旋す。黄山相共に謀り、百方苦辛、勤王帰順の貫徹に力めしが、大勢既に連衡に決し、又如何ともすること能はざりき。西軍本宮占領の報至るや、黄山急遽国に帰らんとす。道梗(ふさが)りて通ぜず、仙兵の怪む所となり、鎌先に匿る。居ること二旬憂慮措かず、危険を冒して庭坂に至り、国老に見え君公の安否を問ふ所あり。會々梅原親固、事を以て同地に来る。親固元より帰順の説を持す、黄山大に喜び、共に相謀る所あり。是に於て黄山福島を過ぎて二本松に帰らんとす、東兵に遮られて進むことを得ず、乃ち紿(あざむ)きて曰く、「二本松に到り同地の敵情を内偵せん」と。辛うじて帰ることを得たり。
黄山郷に帰り、未だ席煖なるに遑あらず、三春に往いて事を謀らんとし、本宮に到り、其の人在らざるを聞き志を空しうして帰る。一日、安齋宇兵衛と密に事を談じ、相携へて大隣泉孝道和尚を訪ふ。和尚大に喜び、私(ひそか)に西軍参謀渡邊清左衛門に見(まみ)えて請ふ所あらしむ。黄山等清左衛門に謁して其の意中を察し、米澤に赴き事情を報告せんとす。乃ち迂回して飯野(伊達郡)の山路を経て福島に到り、仙台軍事局に告げて曰く、「二本松の西軍、倍々兵数を増し、且つ若松城は西軍の包囲を受けて落城旦夕に在り」と。仙兵之を聞きて恐れ兵を退く、黄山米澤に到り、国老日野和美、用達梅原親固、周旋方和田一等に見えて具さに事情を説く。藩公も亦三人に命じて二本松に赴き、謝罪降伏を西軍に請はしむ。三使二本松に到り、渡邊清左衛門に就きて謝罪歎願書を提出し、総督府の容る所となれり。黄山又此間に処して斡旋する所少からざりき。藩公の東京に召さるるや、黄山又私に糀屋吉助と駕を逐ひて上京し、諸方に周旋する所ありき、蓋し内命に依りてなり。黄山手記に日く、「今日(十一月十三日)に至るまで諸筋へ手を入れ、上の御様子伺ひ奉り候へども、一向に相分り不申、只々心配仕候、定めて奥羽諸侯不残御揃の上朝裁と相見え候」と。能く這間の事情を説明せるものといふべし。
維新後、藩校の致授に挙げられ、尋いで新潟県大属となり、権少参事に進み、明治三年十一月病んで没す、享年五十有六。著す所『中庸解』、『月課私録』、『池南草堂録』等あり。黄山人と為り誠実質直、其の士流に在らざるを以て当時其の説多く用ひられずと雖も、其の功没すべからざるものあり。丹羽和左衛門の植林事業は黄山の建築に基づくと云ふ。
弔林子平
此老胸中百萬兵 此れ老胸中には百万の兵
果然瀕海百鯨横 果然、海に瀕して百鯨横たはる
如今国體論開鎖 如今、国体、開・鎖を論ず
我感高人林子平 我、高人林子平を感ず
晩春途上
烟暖茅檐燕影斜 烟暖たる茅檐、燕影斜めなり
依微春汚透中紗 依微たる春汚、透中紗
霎時飯馬半川水 霎時、馬に飯す、半川水
風弄棣棠無数花 風は弄ぶ、棣棠(山吹)の無数の花
墨水有感
溶々墨水泛龍舟 溶々たる墨水、龍舟を泛ばす
何計翠華接白鴎 何ぞ計らん、翠華白鴎と接するを
不恠禽名冒都字 怪しまず、禽名「都」の字を冒すを (白鴎=都鳥のつもり)
如今關左帝王洲 如今、関左(関東)は帝王(天皇)の洲
述懐
天降喪亂百罹臻 天、喪乱を降し、百罹いたる
閲歴滄桑春又春 滄桑を閲歴すること、春また春
四海英雄半淪落 四海の英雄、半ばは淪落
十年正議空酸辛 十年の正議、空しく酸辛
文山志早期興復 文山(文天祥)の志、早期にまた興り
宋澤誓將攘虜塵 宋沢の誓ひ、将に虜塵を攘(はら)はんとす (ともに宋の忠臣)
生也有涯愛曷止 生また涯あり、愛しきことなんぞ止まん
悲歌吟向眼中人 悲歌、吟して向かふは、眼中の人 (396-399p)
梁川星巌とも面識のあった、在野の勤皇家であったことが判明。
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:
やす
:2008/05/25(日) 19:32:38
巻菱湖記念館
また新潟では御当地の書家、巻菱湖の記念館にも立ち寄り見学、お土産に文庫サイズの復刻本『篋中集』を求めた。日本古書通信で「随読随記」を草されてゐる小出昌洋氏が編集、旧臘上京時には購入を見合はせた本である。現在ネット上でも閲覧できるのであるが、豪宕狷介の巻菱湖が認めた数尠い詩人の一人として年少の梁川星巌が挙げられ、眷属である館柳湾について語る中では秦滄浪の名もみえる。(さうして秦滄浪の曰く「さきに人の君(柳湾)の詩を伝へる有り」といふ「人」とは赤田臥牛に相違あるまい。)
入館料ともども少々高価なのは、私設記念館・小部数私刊本の宿命といったところか。小出氏が古書通信の今月号に「誤植」の不可避について殊更一筆してゐるのも、本書における瑕瑾を気に病まれてのことだらう。
星巌と、筆札を授かった巻菱湖との関係は、新潟県立図書館の郷土コーナーでで閲覧した市島春城の『文人墨客を語る』(昭和10年)のなかにも載ってゐた。江戸で門戸を張るにあたっては師の家に五十日も居候した上、八丁堀の邸を斡旋してもらったこと。また書誌的なことでは『星巌集』の版下について、以下のやうに記されてゐる。
星巖が生前出版した、『星巌集』と云ふ詩集は、菱湖の開係から、菱湖の高足であつた萩原秋巖が版下を書いた。秋巌が字の調べがよかつたので、ひどくその版下を喜んだと云ふに、何故か中途で不和が起り、後には同じ菱湖の門人である中澤雪城に版下を書かせたが、星巖の意に満たなかつたと云ふ。それは兎も角も、題簽だけは是非菱湖に書いて貰ひたいとの望みで、小野湖山が態々使者となつて、菱湖の揮毫を乞うたものが、今流布してゐる、『星巌集』に貼られてある題簽である。
詩集の事の序に遺稿の事にも及ぶが、『星巌遺稿』の版下は、今日誰も気が付くまいが、巌谷一六の書いたものである。一六は中澤雪城の門人で、云はば菱湖の孫弟子に当る。当時の一六の書は雪城の書と弁別のつかぬほどよく似てゐる。要するに、星巌は菱湖と深い因縁があつて、其の遣著は、皆菱湖系の書家に依つて書かれた。 (198-199p)
この本には他にも星巌について、件の吉原游蕩の際、登楼するのに朋輩の分まで奢ったことや、窮地を救った獄吏が「熊」といふ名であること、そして踏み倒した妓楼から酒一樽をもって詫が入ったなど、伊藤本にはない新説も色々書かれてある。今後「閑人読書ノート」の参考に資するべく、不取敢コピーをとってきた。(図書館の司書さんにはポスターの御土産まで頂きました。深謝申し上げます。)
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351
:
やす
:2008/05/25(日) 19:42:52
週末のいただきもの。
池内規行様より「北方人」12号の御寄贈に与りました。
太宰治の心中事件を中心に、実証的な考察を以て、心中のもう一方の当事者たる女性たちの「復権」につとめた在野の文学者、長篠康一郎氏の「太宰治研究に捧げた一生」について、池内様の思ひ出が綴られてゐます。私淑された山岸外史をはじめ、池内様の交游録といふのはロマン派的、反骨的、浪士的にして、かつ道義的な、まことに清廉の詩人たちとの縁しが語られる訳でありますが、今回の長篠康一郎といふ人も、詩は書かずとも奇特な詩人的気質の持主だったのでありませう。長篠氏と、彼が異論を挟んだ「正統派太宰論者」大家たちの「自分に分のない場合は沈黙を守る、歯牙にもかけぬふりをする。」といふ態度が、「まるで太宰治の「如我是聞」と、その中で非難された作家学者との関係をみているようである。」と書かれたのは、けだし長篠氏に捧げられた一番の供養の言葉となったのではなかったかと思ふものです(2007.2.16逝去)。
ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。
352
:
:2008/05/27(火) 00:29:42
拙稿のご紹介ありがとうございます
やす 様
ご無沙汰をいたしております。
このたびは「北方人」掲載の拙稿「太宰治研究に捧げた一生」について、お心のこもったご紹介を賜わりまして、誠にありがとうございました。
なるほど、おっしゃられてみると、私の敬愛する詩人・文学者は、ロマンチストにして非正統派、アウトサイダーの人がほとんどだということに気付かされます。やはり自分の生き方、感受の在りようと関わっているのでしょうか。
それはともかく、長篠康一郎さんについて書きながら、その真実追求の情熱、不屈の闘志、そして誠実さと優しさなどを想い起こし、何分の一かでも見習わなければならないと思ったものです。
やす様に取り上げていただいたことで、一人でも二人でも長篠さんに思いを致してくださる方がいらっしゃれば、これまた何よりの供養と存じ、重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。
353
:
やす
:2008/05/31(土) 22:16:31
「当世書家競」番付
池内さま ご無沙汰をしております。お手紙にも書きましたが、このところ漢詩文の学習が楽しくて入れ込んでをりますが、記憶力の減退には溜息をつくばかりです。ぜひとも池内さまを措いては書けない「浪曼派惑星」の列伝を完成して頂きたく、引き続いての御健筆をお祈り申し上げます。
さて新潟県立図書館でみかけた図録『江戸の魅力 貫名菘翁を中心として』が到着しました。巻末に載せる「当世書家競」番付は、巻菱湖記念館の玄関にもパネル(下掲図)が掛けられてゐましたが、幕末の三筆をはじめ、一齋、山陽、星巌、淡窓(なぜか茶山翁は小さい 笑)以下、名だたる儒者文人の名が列挙され(後藤松陰や牧百峰の名も「頭取」に見えます)、興味は津々、本冊の過半を占める鵬齋・菱湖・米庵・柳湾の遺墨集とともに、たのしく見入ってをります。
そしてこの本も勿論さうなのですが、一緒に送られてきた数々の地方出版物の執筆を一手に引き受けてをられる、越後の文人研究家にして書家岡村浩先生の、矜式すべき御文章に敬服してゐます。芸術として書を研鑽される大学教員は、当今幾らも居りませうけれど、近世・近代の郷里にあった文人について、当時の精神文化圏ごと顕彰すべく、現地探査にも勤しまれる研究者が、一体全国各地の大学に如何ほど「先生」として籍を置き教鞭を執られてゐるものか、私はまったく知らないものですから感動を覚えました。倉卒に認めた御手紙には失言多きことと、反省してをります。
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やす
:2008/06/05(木) 22:38:04
『竹軒百律』
『竹軒百律』(明治44年刊行 私家版)を入手。著者は旧高須藩士の高木竹軒、伊藤信先生の師である。本名を貞一と云ひ、嗣子の名を貞幹と聞けば、なんとなくあの『解析概論』の著者高木貞治の関係とも思はれ、県図書館で伝記や、雑誌「岐阜県教育」大正9年7月号「高木竹軒先生を憶ふ」といふ伊藤先生の回顧記事を繰ってみたが、さういふことはどこにも書いてなかった。
旧紀州儒官の奥村葛陽が序を、貞幹(号耐軒)が跋を撰し、大沼枕山の圏点頭評に係る一冊。本文19丁。著名詩人との詩酒徴逐はみえない。
藍川夜漁図
争先烏鬼勢如鷹 先を争ふ烏鬼(うき:鵜)、勢ひ、鷹の如し。
宛転拏来十二縄 宛転、拏(ひ)き来たる十二縄。
糸竹売声催妓舫 糸竹(絃楽)、(もの)売り声、妓舫を催す。
楼台移影倚漁燈 楼台、影移りて、漁燈(篝火)倚る。
酒酣藍水風初定 酒は酣、藍水、風初めて定まる。
詩就華山月未升 詩は華山(金華山)に就(な)るも、月いまだ升(のぼ)らず。
白石[リンリン]潜不得 白石[リンリン:透き通ってよくみえる]たるも、潜りて得ず。
魚梭織浪乱成綾 魚梭(鮎たち)、浪を織りて、乱れて綾を成す。
【枕山評】余、頃者、此題の七律を評して曰く、「星巌、松陰は本地の人為り。然れども烏鬼の一律なし。果たして何ぞや。抑も亦た後の才子を待たんか」と。又曰く、「通首、星巌を圧せんと欲す。豈に松陰を説かんや」と。
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やす
:2008/06/14(土) 22:18:30
寄贈御礼ほか
山川京子様より「桃」5月号(お礼が遅れて申し訳ありません)、山口省三さまより「あ・ほうかい」10号(あと2号で終刊)、舟山逸子さまより「季」89号(杉山平一先生の新作あり)、それぞれ御寄贈を忝くしてをります。この場にても厚く御礼を申上げます。ありがたうございました。
さて週末、職場の図書館に入ったベストセラーの新書『大人の見識』(阿川弘之2007)をぱらぱら繰ってをりました。
同じ新潮新書の大ベストセラー『国家の品格』(藤原正彦2005)では、武士道が説かれてゐましたが、あの本を読んで思ったのは、著述に品格を添へてゐる著者の「ユーモア」が、所謂「武士道」から紡ぎだされることはない、といふパラドックスでした。イギリスと海軍びいきの著者によるこの本では、日本人に欠けてゐるものはユーモアなんだと、さうして昔の武士には「ユーモア」はなかったが、また「軽躁」でもなかったと、誰にも分るやうに日本人の守るべき美徳が書いてある。かつて『論語知らずの論語読み』なんて本も書かれた著者ですが、皇室に対する敬語、対象をやりこめるのではない書き方も好ましい。今将に去りゆかんとする世代の良識からの傾聴すべき遺言。
「フドーイ。」これどっかで使ったろかしらん(笑)。
さらに先日ネット上でみつけた、これは阿川氏よりはもうひとつ前の前の前位の世代の遺言。
こんな逸話に手放しの感動を覚えるやうになりました…。
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やす
:2008/06/18(水) 17:59:50
日本古書通信6月号
日本古書通信6月号到着。今月の目録ページ、田村書店はお休み。新村堂書店からは、先日拙「Book Review」でもふれました人気の柏木如亭の撰になる、『海内才子詩』3冊\136,000、『詩本草』再版\57,750が出てゐました。なかなかのお値段です。
また今年の七夕市に、立原道造や中原中也の詩集とともに、「杉浦明平の立原道造宛書簡・葉書及び手作り少年歌集」が一括文献として出品されることも記事で知りました。在京の方は手にとってじっくり本物を堪能してみて下さい。
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やす
:2008/06/22(日) 16:27:27
佐渡行
19日より佐渡に出張に行って来ました。仕事専念はよかったのですが、立ち寄ったのは真野御陵のみ。佐渡の文事について「予習」も至らず(御陵には嘉永五年に馮弔を果たした吉田松陰と宮部鼎蔵の碑が建ってゐました※)、レンタカーの返却時に両津市内の地図をみてゐたら、何と「北一輝の生家」と表示があるのにもびっくり。アイランドレンタカーの御親切で、飛行場まで送迎の途中、生家と、それから一般には知られてゐない、丘の辺にひっそり建つ故郷の墓碑にも立ち寄って下さいました(ありがたうございました)。尊王と反骨が綯交ぜになった遺恨の御霊の数々が、今は美しい自然によって鎮められ、世俗から護られてゐる島、といった第一印象。また報告できるといいですね(笑)。
さて新幹線で新潟から帰るさ、東京にて途中下車泊。翌る土曜日は神保町に立ち寄ることができました。田村書店は次回あたり、また「日本古書通信」で大物を並べた目録を打つ予定の由。あの品揃へを「日本古書通信」の目録ページでやってしまふといふ所がすごいです。また「稀覯本の世界」管理人様とは久闊を叙し、渡邊修三書翰(昭和16年5月11日消印加藤泰三宛)、『足穂拾遺物語』郡淳一郎篇(2008年刊)、大町桂月『蔦温泉帖』の和綴豆本(1929年刊)など、御土産に頂きました。ありがたうございました。
帰ってきたらば「新村堂書店古書目録」No.94が到着してゐて、これまた梁川星巌ほかの詩集を注文。佐藤惣之助はこれで田村書店でみつけた『深紅の人』と合せて、大正期の第2詩集〜第7詩集が集まりさうです。梁川星巌については、別にネット上の目録から注文した詩人の処女詩集『西征詩』(上下二冊文政12年刊)が、留守中に到着。稍し虫が入ってゐるものの、貴重かと。早速公開準備中です。お待ち下さい。
(付記:旭伸航空の佐渡便は、新潟−佐渡を25分で飛行、運賃も1時間かかるジェットフォイルと\1000しか違はないのに今秋廃止が決定したさうです。10人乗り超小型旅客機の機影が、国産トキに続いて佐渡から消えることになります。残念。)
※ 「凜烈万古存」石碑(真野御陵入口)
異端邪説誣斯民。非復洪水猛獣倫。苟非名教維持力。人心将滅義與仁。
憶昔姦賊秉國均。至尊蒙塵幸海浜。六十六州悉豺虎。敵愾勤皇無一人。
六百年後壬子春。古陵来拝遠方臣。猶喜人心竟不滅。口碑於今伝事新。
吉田松陰撰
陪臣執命奈無羞。天日喪光沈北陬。遺恨千年又何極。一刀不断賊人頭
宮部鼎蔵撰
異端邪説、斯民(人民)を誣ふるは、復た洪水猛獣の倫(たぐ)ひにあらず。
苟くも(皇室の)名をして維持、力めしむにあらずんば、人心、将に義と仁とを滅せんとす。
憶ふ昔、姦賊が国均(鈞)を秉(と)りて、至尊、塵を蒙り海浜に(行)幸するを。
六十六州、悉く豺虎。敵愾して勤王するは一人として無し。
六百年後、壬子(嘉永五年)の春。古陵に来拝す、遠方の臣(私たち)。
猶ほ喜ぶ、人心の竟に滅せざるを。口碑、今に事を伝へて新なり。
吉田松陰撰す
陪臣にして命(命令)を執る、羞づる無きをいかんせん。天日は光を喪ひ、北陬に沈めり。
遺恨千年、又何ぞ極まらん。一刀をして賊人の頭を断たず。
宮部鼎蔵撰す
(過去ログで矚目の写真を追加します。)
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やす
:2008/06/28(土) 22:13:43
梁川星巌の詩集
『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノート (閑人専用)
詩に一徹、他に何の著書も遺さなかった星巌の詩集は、計画段階に於いてすでに甲・乙・丙…の順序が構想されてゐたものと見え、詩壇を意識した戦略的配慮といふべきか、最初に刊行されたのは『甲集』ではなく、『星巌乙集 西征集』 (文政12年 吉田屋治兵衛ほか刊)、そして『星巌丙集 星巌絶句刪』 (天保6年 玉池吟社刊)でありました。これらが先ず出て、詩人の真価を世に問うたのであります。
巷間よく見かけるの梁川星巌の詩集は、『星巌集』と称する、『甲集』から『戊集』までが9冊に集成され、加ふるに門人アンソロジー『玉池吟社詩』2冊と妻紅蘭の『紅蘭小集』1冊を以てした全12冊のセット本でせう。別集としては『黄葉夕陽村舎詩』『山陽詩鈔』とともに、当時最も知られたベストセラー詩集となりましたが、大部であるにも拘らず数種の後刷りの存在が確認されてをり、異同が夥しいのです。実のところ伊藤氏も詩集の書誌については持て余してゐたらしく、この『梁川星巖翁 附紅蘭女史』に収められた年譜には、なんと『西征集』『星巌絶句刪』の刊行年さへ記されてゐません。残念なことにこの年譜が伊藤氏没後に出た星巌全集第5巻所載の年譜にそのまま引き写されてしまひ、伊藤氏がその後知り得たに違ひない事実を、全集の年譜に書き加へることなく仆れた無念を、思はないではゐられません。著名の先生方による解説が、皆これを元としてゐますから、私もここで梁川星巌の処女詩集、第二詩集の刊行が、文政12年5月、天保6年2月であることをあらためて記しておきたいと思ひます。
さてそれなら『星巌集』はどうなのかといふことですが(口ごもる 笑)、元来初版の『星巌集 ○集』といふのは、先ず、天保戊戌季夏[9年6月]に、『丙集』の増補改訂版を3冊ものとして新鐫刊行し、次に、天保辛丑仲春[12年2月]に、長らく封印してきた最初期の『甲集』1冊を、『乙集』の改訂版2冊と一緒に出し、続く季春[3月]には、『丁集』と、現況の最新状況を集めた補遺と云ふべき『閏集』を合せて2冊とし、さらに『閏集』付録と銘打った『紅蘭小集』を別冊にして刊行されたもののやうであります。(但し『乙集』奥付刊記は天保10年だし、『紅蘭小集』奥付刊記は天保12年1月較刊とあり、謎です。付録扱ひだった『紅蘭小集』は先に全ての工程を終へてスタンバイしてゐたのでせうか。)
要するにこの時点では『星巌集』は全9冊だったのであり、その後の『戊集』1冊と玉池吟社詩人たちのアンソロジー2冊を併せて『玉池吟社詩』の名で刊行されたのは、安政3年正月のことであるらしい。つまり現在世に出回ってゐる12冊セットといふのは、総てそれ以降の一括印刷に係る後刷り「星巌集決定版」であるといふ訳であります。
『星巌集』は、ですから一見端本とも思はれる9冊揃ひの方が古いといふことになります。もっと云へば、見返しと奥付があって刷り状態の良い『丙集』、『甲集+乙集』、『丁・閏集+紅蘭小集』があれば、それぞれ一番古い可能性があるのです。版元の異同が夥しいのは、板木の権利が売買されたからですが、安政6年に起きた大獄に際して、詩人の評価が一時的に封印されたことも関係してゐるのかもしれません。とまれ、初刷りであるなしに拘らず、各集の見返しには同じ干支が刷り込まれてゐるので、これが奥付の印刷年不記と相俟って書誌舛錯の原因となってゐる訳です。判断できる限りの情報をあつめ、考証したら面白いと思ひます。
見返しに記名された代表版元として、江戸千鐘房(須原屋茂兵衛)版のほか、京都竹苞書楼版、東京青木嵩山堂版(明治刷)が存在するやうです。管理人の所蔵本は、見返しを甲集のみに留め、各集の扉紙も省かれた千鐘房13冊セットの後刷りですが、奥付版元に江戸とあるので明治刷りではないやうです。
また『戊集』に続く、江戸玉池吟社を閉じて京都に活動拠点を移した後の作品については、『星巌先生遺稿』(文久3年 老龍庵蔵板)8冊の方に集成されましたが、これまた元治元年版といふものがあり、明治になっても増刷が続けられました。管理人の所蔵本は文久版明治刷りの一組。魁星印のある袋が付いてなかなか綺麗です。
今後、岐阜県図書館の蔵書と合せ、書影や目次を順次公開してゆければと思ひます。お楽しみに。以上読書ノート「寄り道編」でした。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000496.jpg
359
:
やす
:2008/06/29(日) 09:20:31
「初版本」第3号
「初版本」第3号落手。今回は詩集をメインテーマにした話題が少なく、ちょっと残念でした。いちばん反応したのは「福永武彦の世界」(三坂剛氏)の、あとがきかも(笑)。サロン諸氏の御文章ゆるゆる拝読致します。
「贅言
晩年の中村眞一郎氏の仕事をお手伝いし、書庫に出入りする機会のあった私にとって、例えば国文学研究資料館に納められた江戸の漢詩集を中心とした和本数千巻をはじめ(依頼されて、私は納める際に全ての和本を写真に撮った)、スチール製移動書棚何本にも万載されていた古今東西の洋古書・研究書に加えて、昭和初期からの小説本・詩集の数々、そして毎月一〇〇冊以上続々と送られてくる新刊で溢れる中村氏の書庫は、正に知の宝庫そのものであった。(後略)」(35p)
「中村眞一郎江戸漢詩文コレクション」といふのは、以前に国文学研究資料館で紹介展示がなされ、目録も出たやうですが、和本数千巻の書影は貴重なデータですね。また毎月新刊が100冊以上送られてくるとあっては、自宅に無名詩人の詩集など寄贈しても読んでは頂けなかった訳です(笑)。さうして、福永氏に於いても、四季派文化圏で育った雰囲気や、麦書房が作った普及版の「枡型詩集」、星座をあしらったあの清楚な装釘は好きなのだけれど、小説を読まない私は、よい読者ではなかった。謂はば「無意識に点が甘くなってゐる」詩集愛蔵者にすぎなかったやうにも思ひます。
そんな事情を、実は「初版本」の2号に書かせてもらったのですが、3号が発行されましたので拙稿をupしたいと思ひます。編集画面のままで御覧下さい。全頁カラー刷りの雑誌の氛囲気も分かるかと思ひます。
360
:
やす
:2008/06/30(月) 21:33:54
『星巌丙集 星巌絶句刪』
週末に、県図書館へノートパソコンを持ってゆき、『星巌丙集 星巌絶句刪』全頁と『星巌集』の見返し・扉・奥付をスキャナー取り込んできました。最近、熱暴走(?)で突然シャットダウンするやうになった我がパソコン、家ではアイスノンで冷やしながら作業してゐるので、ファンのフル回転の音を聞きながら、いつ止まるかとまさにヒヤヒヤの思ひでありました。
さて、その『星巌絶句刪』を公開します。本書が乙集のあとに、ふたたび甲集を差し置いて出された星巌の第二刊行詩集『丙集』であり、天保6年2月の刊行元は「玉池吟社」、つまり自費出版されました。経済的な理由で一冊になったけれど作品はこの何倍もあるんだよ、と、いった趣きが「甲ではなく丙」「数ある作品から刪省」といった名付けから窺はれます。お玉が池の詩塾はこれに先立つ3ヶ月前に旗揚げしたばかりでした。正に若年の汚名を雪ぎ、江戸の詩壇に星巌ありと宣言する、正念場の一冊だったと思はれます。すでに京都に頼山陽はなく、先輩大窪詩仏の詩聖堂の趾を襲った玉池吟社の名声が、この後一気に、日本一に揚がったのは周知の通りです。そしてたった5年後の天保11年には、『新鐫 星巌丙集』として、この本は面目を改め、全三冊の全容が明かにされることになります。そればかりか翌年には、満を持しての甲集と、その後の丁集が日の目を見、本邦初の女漢詩人の詩集を付録に加へた『星巌集』9冊セットが完成します。名実ともに漢詩はもはやお堅い儒者の専売余技ではなくなったといふこと。そして浩瀚な漢詩集の商業出版に大書店を踏み切らせた背景にあったもの。2種類の丙集は、一介の在野詩人の名声が開花するあとさきを物語るとともに、漢詩を支へる読者層の広がりを、物的にも証明する象徴的な刊行物でもあるやうに思はれます。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000498.jpg
361
:
やす
:2008/07/03(木) 17:30:39
残念・・・。
『中村真一郎江戸漢詩文コレクション』(2007 国文学研究資料館)目録は、発行所に問い合はせたものの、頒けては頂けませんでした。何部刷られたのか、大学図書館や公共図書館にもあまり寄贈されてゐない模様です。残念です。
たうとうノートパソコンのファンが停止。よって電源投入後およそ10分でシャットダウン。再インストール後CDRが焼けなくなり、キーボードも誤変換するやうになった上にこの仕打ち・・・刀折れ、箭尽きたり矣。残念です。
362
:
やす
:2008/07/06(日) 16:10:26
寄贈御礼 『菱』162号 / 『桃』七月号
鳥取の手皮小四郎様より『菱』162号の御寄贈に与りました。早速連載「モダニズム詩人荘原照子聞書」を拝読。フィールドワークがこのたびは実証的な文献探査・考証となり、そこに飄々とした聞き書きの肉声が効果的に織り交ざり、今回も読ませます。副題は「『花神』の祖父 そして詩人の系譜」。江戸時代の漢詩が好きな私にとっては、予告された次回の「漢詩人の父 そして詩歌への目覚め」とともに興味津々です。今まで自分の中で分裂して存在してゐた漢詩と近代詩が、以前に紹介した日塔貞子と云ひ、このたびの荘原照子と云ひ、かうして文字通りの血縁を語る文章に出会ふたびに、両者の接点が模索されます。本来の時間軸ではその間に存在すべき「明治新体詩」が、すっ飛ばされてゐる隔世遺伝ぽいところも、漢詩人達の遺恨が孫世代に憑いてるやうで面白いですね。さうして荘原家の場合、養子の祖父が引っぱってきた「隠れキリシタン」といふ血筋がさらに、詩人誕生にあたっての大きな触媒になってゐる気がします。これは次回語られる父の生涯とも合せてみてゆきたいと思ひますが、伝統を拒絶する前衛詩人が家系を誇りとしてゐた不思議は、まことにそこで解けるのであって、祖母が極秘事項として語った祖父の体験譚も、異界に迷ひ込んだ御伽噺の主人公さながらです。
荘原「それがね、明治になってから祖母が極秘事項として教えたんです。夜中にご開門、ご開門と戸を叩く。仲間がドーレと言って仲間小屋の窓を開けたら、駕籠が来とって、先生のご来診をいただきたいと。由緒あるお方のご命令ですって言うからね。祖父は医者ですから断われんから、道具持って行ったんですって。そしたら山の中、川のそば、グルグルグルグル、分けのわからん迷路のような所に(駕籠を)入れて、そしてそこは御殿みたいな大きな屋敷。りっぱな緞子みたいな蒲団の上に、姫君みたいな人が寝てるんですって。ただ今ご出産で難産だから、先生のご助力願いますって言うから、祖父はお産[婆]じゃないから困って、わしはそれは……とにかくお願いしますと言うから、まあ力んで力んでやって、とうとう安産したんですって、そうしたらみんなが出て来て、おなつかしゅうございますって、泣くんですって、祖父に。私たちはキリシタンで、あっちに逃れ、こっちに逃れして、あなたのご子孫[先祖]も左様と知って……これギクッとして、また俥に乗せられたら今度は目かくしして、グルグル……街中ひっぱり回して、ありがとうございました。そしてまあ普通の治療費か、置いていったらしいですね。これは誰にも言うなよと言って、明治まで黙っていた。」
漢詩は明治以降、衰頽の一途をたどってゆく訳ですが、同様に彫落してゆく旧家の末裔に生まれ、祖先から文才を享けた一少女が、何の因果か漢詩を追ひやった詩壇で新たな断絶の詩史を啓き、花火のやうに燃え尽きていった生涯といふのは、果敢なく夭折するでない、老女の貧窮死といふ壮絶な閉じ方にあっても、何かしら数奇にロマンチックな、「隠れキリシタン」同様の、哀しい伝説の余韻を感じてなりません。
またこのたびは山川京子様主宰『桃』七月号(Vol.55(4),No.631)の御寄贈にも与りました。
石田圭介氏の後記は、個に偏した作為を排する作歌指導のもと、「桃」ならではの面目を昭らかにした一文。しばしば話題となる短歌における形式論議は、文藝における個性とは何なのかといふ、謂はば日本文学の根幹に嬰れる問題に行き着くもののやうに思ひますが、小野十三郎の「奴隷の韻律」は、桑原武雄の「第二藝術論」同様、耳障りが良く、マクドナルドのハンバーガーのやうに子供に選ばせたら必ずそれを選ぶやうな論旨に過ぎません。「新しい」といふ真の意味が、形式ではなく、個人の日々の再確認のなかにのみ存するといふこと。それが月並みに堕してゐるのか、自恃に値する嗜みなのか、といった問題は、もはや字面ではなく、作家の実生活を俟って判断すべきものだと、私は思ってゐます。幕末志士の漢詩や『大東亜戦争遺詠集』なんかはその極地でせうが、それが愛国的で気に入らない「自分が自分が」といった人物は、歌壇と俳壇を腐すのぢゃなく、去って自由詩か散文で一家を建てたらいいんです。
二誌に対しましては、この場にても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
363
:
やす
:2008/07/11(金) 12:04:14
山本文庫
扶桑書房さんから嬉しい四季派ゆかりの買ひ物、中原中也の『ランボオ詩抄(山本文庫)』が到着。たった10銭の文庫本ですが、立原道造の処女出版書『林檎みのる頃(シュトルム)』とともに、詩人の在世時に刊行された数尠い本として、人気を二分するタイトルです。さてこの山本文庫といふ翻訳叢書、とにかく初版が珍しい。或は「最初から第何版の名で刷って、売れ筋にみせかけてるんぢゃないか疑惑」のあるシリーズでありまして(笑)、加へて酸性紙に刷られ、表紙も薄っぺらいので、初版のみならず残存数自体がそんなに多くはないやうです。田中先生も『ヒアシンスと花薔薇(ノヴァーリス)』といふのを出してゐますが、ともに全ページupしましたので、お暇の方は「詩集目録index」から御覧下さい。
(大庭様@横浜市より見やすい画像ビューア版を送って頂きました。ありがとうございました。2008.7.12)
364
:
やす
:2008/07/20(日) 20:25:24
丁艱
クモ膜下出血で倒れ、永らく入院してゐた父が逝きました。73歳でした。手術後の経過が思はしくなく、七年近くも病院に臥床してゐたので、家族はその間に覚悟も出来、窶れ果てた父の死を冷静に受け止めることができました。それでも元気な頃の遺影を床の間の仮祭壇に掲げ、愛犬をあやす姿をビデオでみれば、やにはに昔の記憶が甦り、父を喪ったといふ心の整理を再び7年さかのぼって家族各々が行ひはじめた次第です。煩瑣な社会上の手続きも一段落、思ひを新たにする習俗上の付合ひもはじまりました。あっと言ふ間の一週間でした。
久しぶりの職場に「日本古書通信」が届いてゐました。田村書店の目録は北園克衛の稀覯詩集が勢揃ひ。それから知らない間に、村瀬藤城鑑定の 魚々屋茶碗のオークションが終ってゐました。銘「引船」。ものすごい値段ですね。
365
:
やす
:2008/08/06(水) 17:27:12
「近代文学 資料と試論」第8号
碓井雄一様より「近代文学 資料と試論」第8号の御寄贈にあづかりました。
連載「林富士馬・資料と考察」も残すところはあと2回、今回は『林富士馬評論文学全集』の集成にもれた「序跋」の類をあつめた拾遺集ともいふべき趣きです。文筆業を本業としない(できない)と決めた(諦めた)詩人にとって、それが道楽でも趣味でもない証しをたてる際には、ビッグネームをことさら正面から語るよりか、身近なマイナーポエットを側面から親密に語る際にこそ語り甲斐もあったかと思はれ、また断りきれない義理を果す際に現れる人情の機微といふのも、実に山岸外史と同様、日本浪曼派ならではの詩人ぶり、つまり依頼者に対する優しさを歴々とみる思ひがします。けだし「序跋」といふのも、片々たるものだからこそ、人との縁を大切にする詩人の特性を最もよく表すジャンルのひとつと思ったことです。
むかし、富士正晴との共著となった、師伊東静雄について論じた『苛烈な夢』といふ文庫本を読んだとき、富士氏のやうに食ひ込んだ、或はもっと身近な見聞を織り込んだ読み物にしてほしかった、と不満に思ったものでしたが、語るべき対象に向かって構へたり力んだりすると、空回りする嫌ひがあるのかもしれません。伊東静雄について直接語ったものでない、序跋のやうなところでフッと回顧される師の俤の方が、よほど詩人論として示唆に富んでゐるんだがな、とあらためて思ったことですが、あの『苛烈な夢』の本にしても、本人生きてゐたら、富士正晴の文章ではなくきっと林富士馬の文章を採られたに違ひない、そんなところもふくめて碓井様謂ふところの「他者に示し続けた優しさ」なんだと思ひます。最後に掲げられた「ときじく」に寄せられた一文など、まさに優しさが文章全部を支へてゐますけれど、これを手紙として寄せられた碓井様の幸せ、思ふべきでありませう。
ここにてもあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。
366
:
やす
:2008/08/19(火) 11:41:11
流金鑠石
残暑のさなか、買ひ替へたパソコンの、VistaやOffice2007のインタフェースに振り回され精神を消耗しきってゐます。雑事も重なり、気ばかり急いて本もしばらく読んでゐません。パソコンのみかけを旧に戻すべくネット上を捜索。対応策紹介に付せられたコメントには、
「未だにダイヤル回すタイプのテレビを「ワシにはコレがいいんじゃよ、コレが」とか言いながら使い続ける感じ?」とか「ビデオ録画のできないじぃちゃんの仲間入り」とか(笑)。
しかし「漢文・日本語のできないじぃちゃんの仲間入り」になるよりはましであります。
【寄贈御礼】:山口省三さまより「あ・ほうかい」11号(あと1号で終刊と思ひきや第2ステージの予告も)。「日本古書通信見本誌」「扶桑書房古書目録」ほか皆様ありがたうございました。
367
:
:2008/08/24(日) 22:33:43
田中克己先生のこと
はじめまして。
旧姓、服部美那子と申します。言語学者であった服部正己の長女です。
中島栄次郎さまの検索をし、そして田中克己先生の検索をしているうちに、亡き父、服部正己の名前が目に入り、今日は、一日中読みふけっておりました。小高根太郎さま、次郎さま、保田さま、また父の洋行にあたって、肥下さまからお金を借りていたこと等など、
母からよく聞かされていました。
昭和37年の春、「ゲルマン古韻史の研究」−特にゲルマン語の母音推移についてーを書き上げ、愛妻(サノ子)と喜びを共にしていた写真が母亡き後、着古した彼女の着物の袖の中から見つかりました。父を52歳で亡くした(白血病)母は47歳でした。それから
30年、亡き父を愛し続け、娘の私としては、何とか、今こうしてインターネットという
テクノロジーを利用して、一人でもいいから、ちょっと覗いてやってくださる方はいないか、かすかな望みを託して、投稿させていただきました。どうかよろしくお願いいたします。彼女は、喜んでいることでしょう。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000506.jpg
368
:
やす
:2008/08/25(月) 23:36:15
はじめまして。
はじめまして。埜中さま、管理人の中嶋と申します。
服部正己様の御長女の由、検索とリンクをたどられ、拙サイト「コギトの思ひ出」文中からお越し頂いたものかと存じます。まれにコギト関係者の御親族からメールを頂くことがございますが、このたびの写真を付してのコメント寔にありがたうございました。澆末文化の温床たるインターネットの世界とは申せ、斯様な出会ひもまた戦前文藝最後の青春を飾った共同の営為「コギト」に繋がります大切な御縁かと存じます。現在原本画像を公開してをります田中服部両先生の共著『ヒアシンスと花薔薇』につきましては、茲にあらためて掲載許可をお願ひ申し上げますとともに、拙いホームページではございますが今後とも何卒よろしくお見守り頂けましたら、幸せに存じます。ありがたうございました。
こちらより掲げさせて頂いた写真は、昭和6年卒業間近の大阪高校3年文乙(第2外国語=独語)クラスの集合写真。田中克己、中島栄次郎、保田與重郎、肥下恒夫、松下武雄、丸三郎とまでは分かるのですが、埜中様先君はどこにみえますでせうか。皆さん肝の座った面構へをしてゐますが、碩学の御写真と見比べてあれこれ推測してをります。
さて昨日、わが先考も四十九日法要を無事終へて、人心地ついたところです。やうやく涼しくもなってきましたから、生活も旧に復し和本読耕に当たりたく思ひます。
本日は四季派学会東京事務局より紀要論集の14集が到着。前集から時を置いて三年間の活動記録が凝縮された内容ですので、拙稿はともかく他の皆様の文章が楽しみです。東順子様國中治様はじめ、編集局の皆様お疲れ様でございました。そして拙文をこのやうな冊子にまとめて頂きまして本当にありがたうございました。ここにても御礼を申し上げます。
四季派学会論集 第14集
2005年度 夏季大会四季派学会・中原中也の会 合同企画『特集・中原中也と立原道造』
講演 中原中也と立原道造 ―相照らすふたつの詩精神― 宇佐美斉 (3)
シンポジウム 抒情の変容と可能性 ―四季派をめぐつて― (15)
パネレスト 勝原晴希・坪井秀人
司会 佐々木幹郎
発言 安藤元雄・北川透・宇佐美斉
田中克己について ―戦争詩の周辺― 中嶋康博 (37)
《研究論文》
堀辰雄『菜穂子』論 ―「国境」を視座として― 澤木一敏 (45)
丸山薫『鶴の葬式』の詩世界 ―メタモルフォーゼの詩学― 権田浩美(53)
堀辰雄と野村英夫 河野仁昭 (67)
活動報告・関西事務局便り・編集後記 (84)
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000507.jpg
369
:
:2008/08/26(火) 14:37:45
感謝
中嶋様
お父様が亡くなられたとのこと、ご冥福をお祈りいたします。
そんな中、早速ご返事を頂き恐縮しております。この品格あるHPにたどり着き、厚かましく両親の写真を送ってしまったことに少し後悔しておりました。でも心が晴れました。
父の若かりし頃の写真は一枚も持っていませんので、この大阪高校時代の写真をみて懐かしさで一杯です。この写真の前から二列目、椅子に腰掛けている人物、身体の貧弱さと大きな顔ですぐ父ではないかと。
また、改めて個人的なことにつきましては、中嶋様のメールアドレスに直接、送信させていただきたく思っています。
中嶋様、これからのお仕事のご発展を祈り、心より応援させていただきます。
ほんとうにありがとうございました。
370
:
:2008/08/26(火) 14:49:09
申し訳ありません
付け加えます。この写真の前から二列目、椅子に腰掛けている左端の人物です。
不慣れなパソコン操縦のため、申し訳ありません。
371
:
やす
:2008/08/27(水) 18:13:16
御教示ありがたうございます。
御教示ありがたうございます。大昔にコピーした拡大写真では丁度切れてゐるところですね。ホームページではテキスト・画像アーカイブを通じて引き続きコギト詩人たちの顕彰を続けてゆきたいと考へてをります。コンピューターの性能がどんどんよくなってゐますので、写真資料などは更新して面目をあらためる必要も出てまいりました。原画を再びスキャンする機会に恵まれましたら 「文学アルバム」のなかに掲げさせて頂きたいと存じます。充実に努めてまいりますので気長にお待ち下さいますやう、お見守り下さいませ。ありがたうございました。
もう一枚ございました。こちらは 『保田與重郎アルバム』に所載の写真のコピーです。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000511.jpg
372
:
:2008/08/29(金) 10:34:13
保田輿重郎アルバムの中に
まだアルバムが残っているのですね。
ここに写っている父は、二列目右から二番目だと思います。普段眼鏡をかけていたそうですが、ここでは掛けていません。なんと言っていいか、懐かしい気持ちでいっぱいです。
ご厚意、感謝いたします。
373
:
やす
:2008/09/01(月) 22:21:15
写真もう一枚ありました。
若い日の肖像をご指摘頂いたので、田中先生のアルバムコピーを調べましたところ、もう一葉みつけました。さきの御教示より察しますところ、左端が服部先生(となりが田中先生です)ではないでせうか。昭和3年5月11日の日付がある写真です。
(委細はまたメールにて。)
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000513.jpg
374
:
:2008/09/03(水) 11:58:47
昭和3年5月のころ・・・
また新たな写真が見つかったのですね。昭和3年と申しますと、大阪高等学校に入学して、間もない頃、この時期から田中克己先生と父が何か共鳴する接点をお互いに持ち始めた時期なのでしょう。父の遺作である翻訳本、《全訳叙事詩》「ニーベルンゲンの歌」の略歴の中に、1931年(昭和6年)3月大阪高等学校卒業、とありますので、二人が知り合えたばかりのころでしょうか・・・ありがとうございます。
375
:
やす
:2008/09/03(水) 18:03:21
『南村遺稿』
>埜中さま
入学当初、寄宿舎の図南寮で一緒だったのだらうと思ひます。
今後ともよろしくお願ひ申し上げます。
さて、『南村遺稿』といふ漢詩集の「下巻」だけを持ってゐて、「下」があれば当然「上」もあって揃ひになると思って探してゐたのですが、なんと過日古本屋さんにて全部で3冊揃ひであることが判明。といっても「中巻」があったといふんぢゃなく、後ろに立派な奥付のある「付録」がついて完本だったといふ話。元来、自費出版された漢詩集といふのは刊記のないものも珍しくないですし、付録には別の名前が付いてゐて一寸わかり辛い完本。購入した和本専門の古書店主も、これは扱ったことのないなあと仰言ってゐたし、『如亭山人遺稿』の付録『詩本草』と同様、珍しい本なのかもしれません。こちらも早速upいたしましたので漢詩集愛好家には御覧下さればと存じます。
また神田柳溪の『南宮詩鈔』も上下2冊に分かれた原装本を発見。持ち帰って校合したところ、刷り具合も含め、中身は手許の合冊本と同じでした。製本の途中で2冊にするのが面倒になっちゃったんでせうか。とまれ稀覯本が2冊も手許にあるのは贅沢なことです。
それから「四季派学会論集」第14集所載の拙稿ですが、ページ数の関係で割愛した部分を補ったものを【四季派の外縁を散歩する・田中克己文学館】にupしておきました。冊子をお送りできなかった皆様にはそちらの「完全版」を御覧頂けましたら幸ひです。
376
:
やす
:2008/09/04(木) 21:30:16
「朔」163号
青森八戸の圓子哲雄さまより「朔」163号のご恵送に与りました。
前回に続き後藤健次といふ詩人の特輯です。今回は資料として一戸謙三の文章を使用してゐるので、「一戸謙三特輯号拾遺」の趣きもします。かつて「朔」の初期には寄稿も度々あった詩人とのことですが、対談も含め、さうした当時の人々の遺した証言を、バックナンバーから丹念に拾ってまとめたら、それだけで貴重な詩壇資料の一冊が出来上がるんぢゃないかと思ひました。これは名古屋詩壇の生き証人雑誌「名古屋近代文学史研究」についてもいつも思ってゐることです。
また、小山正孝夫人による中村真一郎氏をめぐっての回想、そして主宰者圓子様の詩集評・人物評を、中村光行氏のあたたかい言葉遣ひで読ませて頂きました。ことにも圓子様は眼を酷使しての体調不全にある由、恢復を願はずにゐられません。
この場にもあつくお礼を申し上げます。ありがたうございました。
377
:
やす
:2008/09/09(火) 08:10:35
『嵯峨樵歌』
昨日到着した漢詩集の原本。『嵯峨樵歌』と『春水遺稿』(付録「新甫遺詩:頼元鼎遺稿」1冊欠)。
「北條霞亭」や「菅茶山」を読んでるときに手に入ってゐたら嬉しさも倍増だった本です。
「9万円が3万円になった、安いっ」って飛びつくのは、もはやブランド品のセールに反応するOL並みの脳味噌のレベルですが、
「そもそも一冊3万円が安いのかな〜。」と言はれても、
「この表紙の紗綾型“エンボス加工”、前蔵者に大切にされた証である紙袋や裏打ち補修の跡を御覧なさい。」と、物欲に領されて心焉にあらず。これでは朝晩唱へてる般若心経の意味がありませんね(笑)。読書の秋に向かって反省。
九日、七老亭に登るの期有るに臥病して果たさず。口占。
山に望みて上ることを得ず。
酒に対して嘗めることを思はず。
枕辺、菊を欠くが如し。
何を以てか重陽を過ごさん。(24丁)
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000517.jpg
378
:
やす
:2008/09/16(火) 19:59:45
論語の素読
最近、文学作品を朗読したCDを巷にみかけるやうになりましたが、生涯教育といふのでせうか、その最たるものに「論語」や「大學」の「素読CD」といふのが出てゐるのを知ったので早速聞いてみました。斯の道の先生(どの筋の先生? 笑)が素読されてゐて、アナウンサーぢゃありませんからちっとも恰好はよくはないのですが、おそらく昔の寺子屋ぢゃ、正座したお師匠さんがこんな調子で誦み上げてゐたんだと思へば有り難くもあり。まさに修養の一助にと、通勤の往き帰りに車の中で聞いてみたのですが、古代の訓読ですからテキストもなく聞いてるだけでは、さすがに何を曰ってゐるのかわかりませんでした(笑)。
それでこの三連休、お恥ずかしい話ですが、初めて「論語」を最初から最後まで、そのCDに就いて読み通してみた次第です。まことに遅まきながら、なのですが、成句の語源のほか、例へば田中先生の名前の由来「克己復礼」はもとより、萱堂の名も正しくは「廉子」ではなく「これん」といふのですが「瑚[王連]」(公冶長)からなのかな、などとも思ったり。明日から出張ですが、これをBGMに、移動時間も耳学問にあてようと思ってをります。
379
:
やす
:2008/09/24(水) 22:42:37
矢野敏行詩集『自鳴琴』
わが若かりし同人誌時代の先輩、矢野敏行様より、詩集『自鳴琴』の御寄贈にあづかりました。処女詩集は深沢紅子氏の描くツユクサのカットを配した函に収められ、羨ましい限りの装釘でありましたが、このたび約四半世紀を隔てて出される第二詩集では、眼目とするところ、最後の四季同人、杉山平一先生のお言葉を戴く「帯」にありませう。
「三好、立原、中也につながる「四季」の新鮮純粋の抒情を守る矢野敏行の美しい詩の灯を消してはならない。」
こんな一言を頂ければ、寡作を恥ぢられる必要はさらさらないです。
いったいに矢野さんの作品は、苦心の痕を消し去った美しい導入部に魅力あるものが多く、逆にオチをつけてみたく気がそそられる終はり方にも、確かに津村信夫ゆずりと云へる気質は存するやうな気がします。雑誌掲載時には物足りなくも思はれたそんな淡白さが、一冊になってはじめて水の味のやうに感じられるのも、実に矢野さんらしく、この度は初期作品も一緒に収められましたが、よくある、「初期の方がよかった」といふ批判も、矢野さんには中らないやうな気がいたします。本当に「生きていれば、佳い詩はいくらでも、書けるような気がした」時代が、誰にもあって、古いノートを読み返したらいろいろなことが思ひ出されてくるものですが、そんな調べこそまさしく「オルゴール」の身上ではありませんか。このたびの詩集は、渝ることのない、渝る必要もない、遠い星と近い星の、瞬きのやうな音色を綴った星座のやうです。
ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました(パソコン早くはじめて下さい 笑)。
矢野敏行『詩集 自鳴琴』2008年 編集工房ノア(大阪)刊 116p,20.2cm上製カバー\2000
鉦と笛は、また思い出したように声を上げ、祭列は一匹の巨大な蛇のように蘇り、ゆっくりと動き出した。・・・・(中略)・・・・魔を払いながら、俗なるものの只中を、鉾がゆく。それは巨体をきしませながら、声を上げ、一匹の聖なる蛇の、形をして。
「祇園祭」より
落葉松の防風林を、シルエットにして、その上、小指ほどの距離をおいて、馭者座が光っている。いびつな五角形の一角から、小さな鈴をつけた短い飾り紐がのびて、それが初頭の風に揺れている。・・・・(後略)
「鈴」より
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000519.jpg
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やす
:2008/09/29(月) 23:31:23
ご修身
先日来「素読のCD」に御執心の『論語』ですが、その後、岩波文庫の定番(金谷治訳)と目から鱗の貝塚茂樹訳(中公文庫)を入手し、『論語集註』の槧本(後藤点)とテキスト(簡野道明註)には専用カバーを誂へ、携帯プレイヤーまで買って親しんでゐます。勿論天下の古典ですから、原文も全訳もネット上でみつかりますが、殊に集註の書き下しは江戸時代の教科書で雰囲気を楽しむ際の、有り難いアーカイヴ。周囲には数(しばしば)しませんが、みな呆れ顔です(笑)。
そして久しく中断してゐた『梁川星巖翁』ですが、こちらも本日よりゆるゆる読耕を再開しました。詩人の「征西」も、広島と三原の間を行ったり来たり、ほぼ一年も淹留してゐるんですね。一簣を覆すと雖も進むは吾が往くなり。まづは読み進めていって、余力あらば文を書きます。
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:2008/10/03(金) 08:49:07
森春濤ほか
【いただきもの】
二松学舎大学の日野俊彦先生より、森春濤についての雑誌掲載論文をお送り頂きました。
漢詩文を専門とされる先生から御論文を忝くするのは初めてで、サイト管理者として非常な光栄に存じます。『下谷叢話』で血筋の大沼枕山には肩入れして語ってゐた永井荷風も、枕山の最大のライバルだった春濤のことはあんまり語ってゐません。これまで外部から祖述するひともなかったために、今では枕山と比すれば「明治詩壇の巨擘」といふ空疎なイメージにより名前のみが世に行はれてゐる感があります。論考は詩人の日常に分け入り、妻との三度の死別や、梁川星巌はじめ非業の死を遂げた勤王家の師友にかこまれて生き残ることとなったその「生き残り方」を、岡本黄石とも対照しつつ、詩から窺はれる述志と慟哭に焦点をあてられた連作。『岐阜雑詩』を郷土に遺してくれたこの先人の生涯については、あらためて勉強しなくてはと思ひます。
ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
※一部はCiNiiでも公開されてゐます。「森春濤「十一月十六日擧兒」詩考」 「幕末期における森春濤」
また今月号の「国文学解釈と鑑賞」が珍しく漢詩文の大特集であることを同時に知りましたので、合せて報知させて頂きます。
【おしらせ】
それからすでに御存知の方は御存知でせうが、Yahooオークションに『山羊の歌』が出現。染み入り並本ですが、記番は50番代の「矢追順子」宛の署名入り。「様」が敬意を払ってゐる人向けの書き方ぢゃなく、くづしてあり、また女性には他に一人しか献呈本が確認されてゐないらしいのですが、この「矢追順子」が長谷川泰子(佐規子)の酒場で働いてゐた時の源氏名なのか、同僚の女給さんか誰か分からないのですが、記憶力減退で忘れたのか未知の名かさへ弁じ得ぬ自分も情けないです。
初見の立花晶子訳『ムーミン』私家版とともに幾らまで上がるか、興味は津々。
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やす
:2008/10/13(月) 20:50:38
モダニズム詩人荘原照子聞書 第4回
【いただきもの】
手皮小四郎様より『菱』163号を、
國中治様より「文藝論叢」71号(大谷大學文藝學會)、および「四季派学会会報 平成20年春号」と、文芸同人誌「愛虫たち」Vol.74 を、
鯨書房さんより「あほうかい」第一期完結となる12号をお送り頂きました。
手皮様の連載「モダニズム詩人荘原照子聞書 第4回」ですが、此度は詩人の父親であり、軍人から野に下った漢詩人の活堂(梅一郎)について、「聞き書き」『続防府市史』『マルスの薔薇』の三資料によって光を当て、謎多き生涯を俯瞰しようする試みです。在支中の版行になる別集もあるらしいのですが、探索して得られた漢詩は一篇にて、
暁山雲 荘原活堂
白雲湧起岫林間 ???? 白雲湧起す、岫(みね)と林の間
触石随風暁更[間] 石に触れ、風に随ひ、暁更(しづ)かなり
[間]識乾坤王澤遍 まま識る、乾坤、王澤(皇威)の遍(あまね)きを
油油不(于?)岸出青山 ????油油として岸(がけ)より青山(雲の謂)出づる????[間]=[門+月]
訓読は管理人です。
今回は写真がなく、著者自ら「臆断を糊としてつなぎ合わせ、脹らませ」と謙遜されてゐますが、本来伝記考察とはさういふ資料の突合せ・縫合作業にあるのではないでせうか。加ふるに「聞き書き」に於いては、縦令そこに誇張があったにせよ、それは当の詩人の、屈折した心情を窺ふ恰好の証言でもある訳ですから、貴重です。
如何なる不始末によるものか軍籍を解かれ、「大陸浪人」を命ぜられ、のち地方新聞の主筆にもなったといふ、この父親の数奇な経歴ですが、しかし詩人の誇張があるにせよ、兄たちが激怒したといふ「マルスの薔薇」における表現上の諱忌といふのが、体制の批判にあるのではなくして晩年の父親のあられもない描写にあったのではないかといふ指摘が、作品を読む限り、なるほどそのやうにも思はれて参ります。
モダニズムを弄する詩人の脚色といふものは、國中さんの私小説風創作において毎度私はひっかかってをります口ですので(笑)、ここは締めてかからなくちぁあなりませんけれども。
さて、次回はその國中様からのいただきものについてじっくり。
手皮様にはここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
【付記】
オークションの期限前夜にテレビで中原中也の特集番組があったせゐか、『山羊の歌』署名本は凾付なみの金額で落札されました。やはり献呈先の女性に理由(いわく)があったのかもしれませんが、よくわかりません。
私は探求本だった宮澤賢治の手帖の復刻を入手。( 抄録復刻版は現在も購入できます。)「ムーミン」には手が出ませんでした(笑汗)。
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やす
:2008/10/20(月) 01:43:11
高祖保書簡集
700ページにも及ぶ活版印刷の『宮崎孝政全詩集』をたった120冊しか作らなかったことにより、鮮烈な印象を刻してデビューした金沢のプライベートプレス、龜鳴屋さんですが、今年になって再び世の詩愛好家へのプレゼントといふべき『高祖保書簡集』(2008.5外村彰編207p \3000)が刊行されたとのことで、遅まきながら早速注文しました。
先輩詩人井上多喜三郎に宛てた書簡集で、自筆詩集『信濃游草』および田中冬二の自筆詩集『菽麦集』の翻刻を含んでゐます。田中冬二はのちに正式に四季同人にもなり、四季派を代表する詩人の一人に目されるひとですが、交友圏をたどると「四季」の詩風と多分にリンクする「椎の木」の詩人たちの名が陸続とあらはれてきます。なかでも高祖保は紛ふことなき一等星で、戦地での病歿といふ悲運が詩人を一層の高みで輝かせてゐる気がします。栞を書いてゐる石神井書林の内堀さんも未見の『禽のゐる五分間寫生』は、龜鳴屋同様、限定本の制作をよくした井上多喜三郎が彼のために刊行した小詩集ですが、なんと表紙の絵が「貼り絵」だったことが判明。それでいろんなバリアントがあったのですね。目下一番「復刻版」をつくってほしい詩集ですが「貼り絵」付きにしたら話題になるでせうね…。名古屋の詩人坂野草史の名まで出てきたのには吃驚しましたが、北園克衛、ボン書店、セルパンといった、つまり「四季」「コギト」に拠らなかった知的抒情詩人たちの人脈を窺ふ好個の資料として、外村氏による写真入りの説明も懇切。
本日「月曜」ゆっくり時間を作って読みたい内容です。
(一部紹介。)
昭和16年7月16日消印 東京市大森区田園調布三ノ三七八 七月十六日 御禮 封書
多喜兄、
ただいま、いただきました。たしかにいただきました。羽榑く天使の訪れのやうに、六十羽の賑やかな「禽」が、タキサン、タキサンと羽おとをあげながら、飛びこんできました。上袋をあける間のもどかしさ、御想像下さい。そしてあけたをりのうれしさ。これも御想像下さい。
玩具の古風な貼り繪は全く多喜兄の独創として、日本一でした。すばらしいでしたさつそく開けた本を、子供部隊に占領されて困りました。全く貼り繪の魅力でした。やつとこさ、返して貰ひ、恐らく多喜さんの思ひやりでせう、貼らずに置いてある十冊ばかりを、家内とあれにしようか、これにしようかと、たのしく苦心しながら全部貼りあげました。何ともいへないうれしさです、なんともいへない、すばらしい試みです。きつと、これは評判になるであらうと思ひます。表題とその下の貼り繪の何ともいへないマッチした美しさ、これを貼るのは大変だつたらうと存じます。ありがたうございました、ありがたうございました。
多喜兄のうれしい心ばえが、なんともいへない魅力となつて一冊を覆つてゐます、他へおくるのが惜しいくらゐです。ゆつくり、一冊一冊の表紙をみてから、送り先の顔を考へ、それから、ゆつくり袋をこさへて、一羽一羽とびたたせようと思つてゐます。
本當にありがたうございました。本當にありがたうさん!です、感謝のほかありません。うれしさで胸がいつぱいです、希臘十字ができあがつたをりのよろこびを、八年ぶりで味はひました。
この第二子は、うんと評判になつてくれると自惚れてゐます。多喜兄の貼り繪がきつと評判にしてくれます。
あつく、あつく、あつく、御礼を、御礼を、御礼を
井上多喜三郎様 坐右
七月十六日
午后四時 保拝
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やす
:2008/10/20(月) 01:45:25
深尾贇之丞の作品集
大正初年に口語詩の黎明を啓いた地元の詩人、深尾贇之丞について、わが職場のある岐阜市太郎丸で、その遺業を故郷の住民に知らしむための講演会が催されるらしい。主催者の深尾幸雄様より、これまで探索された岐阜中学交友会誌「華陽」と三高交友会誌「嶽水会雑誌」に所載の作品(明治34年〜明治44年)をもとに協力を求められ、私からはHP上でのこれら資料コピーの公開から、手始めにお手伝ひをさせて頂くこととなりました。以前訪ねて分らなかった墓碑も、なんと職場の目と鼻の先にあったことが判明、早速翌日出勤前に立ち寄り霊前に御挨拶。
以前『漢詩閑話 他三篇』の紹介の項で触れましたが、後見人だった母方の伯父中村嘉市とは、進路や結婚をめぐってやりとりがあった筈で、現存するらしい詩人の未公開書簡の行方が気になるところです。
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やす
:2008/10/20(月) 02:00:19
白壁の文士たち?
さて大正末年に地方発の口語詩の旗揚げを真っ先に行ったのも地元中京地区、名古屋城下の詩人である御存知、春山行夫・井口蕉花・高木斐瑳雄・佐藤一英たちでありますが、彼らが拠った「青騎士」と、昭和初期に高木斐瑳雄が再び残党・新人を鳩合した「新生」。これらを中心に、文化のみち二葉館(旧川上貞奴邸)で小回顧展が行はれることになり、このサイトで紹介してゐる高木斐瑳雄の アルバム写真など数点の資料協力をすることになりました(ポスターの「斐嵯雄」は「斐瑳雄」の間違ひです)。
また仄聞するところ、愛知県立図書館でも雁行して1920〜1930年代のモダニズム詩人にスポットをあてた企画展が行はれるらしく、何やら名古屋・岐阜がいま熱い(笑)。
本日は資料持参かたがた、今回展示される「青騎士」のコピーを特別に許可頂いたのでせっせと画像スキャン。これも近々に公開できればと思ってゐます。お待ち下さい。
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やす
:2008/10/20(月) 22:06:40
高祖保書簡集 2
月曜の一日、井上多喜三郎宛の『高祖保書簡集』を味読。
当時の詩壇について記した部分、例へばマダムブランシュ同人に椎の木の連中と仲の悪い人がゐて、椎の木にもずいぶん変なテオリシアン(理論家)がゐる、なんて発言(12p)は意味深でしたし、また岩佐東一郎『三十歳』出版記念会(1938.3)では、彼は中村千尾と立原道造の間に座ったらしいのに、立原道造についての言及が全くない(73p)。自身が編集する雑誌「苑」について、「只今の「四季」のやうに感じのよいゆとりあるものをこさへ」たいと抱負を語ってゐたこと(35p)を思へば、つまり意識的に云はなかった訳であります。この度の新修『立原道造全集』には「『暁と夕の詩』贈呈表(1937.12)」が掲載されてゐますが、高祖保の名は、高森文夫・三浦常夫とともに番外に挙がってゐるのに井上多喜三郎の名はありません。プライベートプレスの編集者としても、いかにもディレッタントが好みさうな詩集や雑誌の刊行を楽しんでゐた井上多喜三郎にとって、中央の俊髦詩人である立原道造と縁ができなかったことは、詩人として見切られたやうでもあり、淋しい思ひをしたに違ひありません。田舎住まひの年長の身ながら、正確な批評眼と若々しい詩心を持ち、心優しき人格者でもあった彼だけに、高祖保が配慮して言及しなかったのは当たり前かもしれません。
この本はさうして高祖保を語るだけでなく、彼を通してそんな井上多喜三郎の人柄を語る内容にもなってゐるやうです。なかでも「あげ魔・くれ魔」の綽名を髣髴させるプレゼントのエピソードには事欠かず、厚意に応へるべく高祖保の言葉を尽くした礼状がまた楽しい。本に限ってみても今や稀覯の名詩集『瑞枝』(28p)『夏の手紙』(65p)をはじめ、自分のために編集してくれた第二詩集『禽のゐる五分間寫生』(149p前掲)の贈呈に及んで喜悦は頂点をなしたと思はれ、言葉に尽くせぬ感謝が形となって、心づくしの手製詩集『信濃游草』(181p)に結実するところとなった訳でありませう。
心を許した先輩への手紙で、高祖保は心おきなく手足を伸ばし、肯綮に中る批評や縦横に遊ぶウィットを弄します。誌名変更する「マダムブランシュ」について、
「マダムブランシュがエスプリヌウボオへ転身とは、逆行のやうな感が致します。「エスプリヌウボオ」は字義こそ新しいとはいへ、ずゐぶん使ひふるしの俗おちのした字で、」
なんて、やっぱりさうだよね、と思ったし(30p)、多喜三郎主宰の雑誌「月曜」の、葉書アンケートなんかには脱帽です。
×貴氏の胸のポケットに今何が入ってゐますか 「「貴氏の胸のポケットに今何が入ってゐますか」の返事が入ってゐるだけ。」(95p)。
×春はどこから生まれるか 「木の股から生れるでせう。」 (107p)。
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やす
:2008/10/29(水) 17:54:34
『月瀬記勝・拙堂紀行文詩』
津藩の碩学、齋藤拙堂の玄孫であらせらる齋藤正和様より、『月瀬記勝・拙堂紀行文詩』影印版復刻本の御恵贈にあづかりました。一介の図書館員への御高誼に対しまして、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
ならびに齋藤様のエッセイ「昔の人の名前」(藤堂藩五日会会報より)も興味深く拝読。けだし江戸時代の漢学者の名前には難しい漢字が多いですが、由来は勿論どう訓むかといふことに思ひ至ったことはありませんでした。拙堂の「有終」といふ変はった字(あざな)は『易経』(謙は亨る。君子終り有り:終りを全うできる) に典故ある由。牧百峰や佐藤一斎の名前、「[車兒]げい」「坦」なども『論語』からとられたものかもしれませんね。
また、頼山陽とお互ひを呼び合ふにおいて、齋藤拙堂が年長の頼山陽のことを「大兄」と呼び、私塾の先生である山陽が藩の督学=国立大学教授である拙堂のことを「公」と呼び、それぞれ一目置く者同士の、年齢と身分とを勘案した呼称となってゐることなど、面白いことに思ひました。「○○兄」と書かれるのをよくみますが、「兄」だけでは目上に対する礼儀に当らないのですね。
國中様の論文紹介の一文は停滞中です。もうしばらくお待ち下さい。
『月瀬記勝・拙堂紀行文詩』影印復刻 齋藤拙堂撰, 2008.10, [1,62,54,80,98]p.菰野町(三重県) : 齋藤正和編 私家版非売
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やす
:2008/11/21(金) 03:55:03
『齋藤拙堂傳』『斎藤拙堂物語』
今回の復刻本刊行にことよせて、齋藤正和様御自身の著書について残部をお訊ねしたところ、重ねて『齋藤拙堂傳(複製)』『斎藤拙堂物語』の寄贈をかたじけなく致しました。恐縮の至りです。ここにても厚く御礼を申し上げますとともに、現在『拙堂文話』を釈読中とのこと、完成を祈念申し上げます。ありがたうございました。
さて、拙堂は24歳まで江戸藩邸で育った江戸っ子でしたが、後年幕府の儒官に招聘された際、これを断り、藩主が城外まで出迎へて喜んだといふ話が伝はり有名であります。しかし当時将軍拝謁の後、帰藩が聴されず足止めを食ったときに作った「客中書懐」に、
久絶功名念 久しく絶つ 功名の念
病羸何所能 病羸 なんぞ能くする所ぞ
官途熱如火 官途は火の如く熱く
心地冷於冰 心地は氷よりも冷たし
茗飲秋風榻 茗を飲む 秋風の榻
詩思夜雨燈 詩を思ふ 夜雨の燈
猶餘頭上髪 猶ほ頭上に髪を余して
人未喚為僧 人いまだ喚びて僧と為さず (『鐡研齋詩存』巻九)
とあり、また現存する掛幅では出だしが「久抱功名念」となってゐるさうです。正和氏は、
「「絶つ」と「抱く」とはどちらが本当だろう。この両者の差異は、功名心に燃える気持ちと、高齢や病気のせいで功名心を絶たざるを得ない残念な気持ちとの間の「揺らぎ」が示すもの」ではないかと解釈してをられますが(『斎藤拙堂物語』11p)、或は藩主への気遣ひが、私的な揮毫の「抱く」から、公的な版本の「絶つ」へと改めさせたのかもしれません。抱かなければ絶つこともできない訳ですから、どちらも本当なのでせう。ほかにも「善きかな」と揮毫を求められたら「ぜんざい屋」の看板だったとか、『斎藤拙堂物語』は、エピソードを交へて世に謳はれた文章をも余技となす真面目な人物像をわかりやすく説いた肩の張らない一冊。一方浩瀚な『齋藤拙堂傳』には身贔屓を排して資料を満載せる由。現在読耕を中断中の梁川星巌伝と併読してゆきたく存じます。
『齋藤拙堂傳』(絶版):
齋藤正和著 -- 三重県良書出版会, 1993.7, 427p.
齋藤正和著 -- 三重県良書出版会, [1993.7], 500p. 複製版5部
『津藩の賢人 斎藤拙堂物語』 : 斎藤正和著 ? 私家版(三重県三重郡菰野町大羽根園呉竹町15-2), 2004.10, 71p.
(2003-2004中日新聞中勢版での連載を纂めたもの)
それから文化のみち二葉館の企画展「白壁の文士たち?」も始まったやうであります。明日の木下信三氏の講演は仕事で拝聴できませんが、11月22日には中部ペンクラブの詩の朗読会に久野治氏が参加される由、御挨拶に伺ひたいものです。とまれ会期中には一度伺って現場の雰囲気を紹介します。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000528.jpg
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:
やす
:2008/11/22(土) 00:34:42
「浅野晃ノート」曠野の魂
山川京子様より『桃』11月号(No.633)を、中村一仁様より『昧爽』18号の御寄贈にあづかりました。
『昧爽』の連載「浅野晃ノート」は、詩人が北海道勇払原野で展開した文化活動を丹念に追ってゐて、この地方とはたまさか御縁もできた私ですが、知ることのなかった発電所建設をめぐる穂別村の郷土史など、たいへん興味深く拝読しました。
戦後日本の文化復興が、中央で華々しくアプレゲールによってなされる一方で、実際の生産現場にあった田舎の若者たちに、浅野晃のやうな戦犯扱ひを受けた文学者が信を得て、地域文化の指導者として遇されたことはもっと特筆されていい。宮澤賢治の世界を北の大地に移植すべく、旧友、理解者、弟子たちと交歓する様子がゆたかに描かれてゐて興味深い。
たきぎの早く燃えつきるのは惜しいが
その焔の色は朱くしてわが目を喜ばしむ (・・・・・略・・・・・・)
蜂は海風のなかに時を忘れ
かぐはしき香りの中に時を浪費して惜しまず (・・・・・略・・・・・・)
時を忘れてわれらは楽しく
時を失つてわれらは悔いる (・・・・・略・・・・・・)
時の失はれるをなげくなかれ
われをおきていづくに時といふもののあるべき
(『文学組織』創刊号所載「たきぎの時」より)
富山の高島高の詩集『北方の詩』の復刻本(昭和40年)に、どうして浅野晃が跋文を書いてゐるのか、奇異に思ったことも渙釈したし(『文学組織』は戦後高島が主宰した同人誌)、以前中村様がこの掲示板に書いて下さった「成田れん子」といふ歌人のことも、このたび初めて作品とともに、その数奇な生涯について知りました。山川京子様の「桃」を活動拠点としてゐたといふ条りを読むに至って、びっくりした次第。
金と虹の落ち葉が雲の奥に散る 日高の山の胸奥にちる
かくも絢爛な詩情ならば、和歌に疎い私にも分かります。
ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。
さて、一方わたくしの感想文予告ですが、國中治様の御論文を頂いてから、もう随分時間が経ってしまひました。それで書いてゐても何だか煮詰まってきたので、一旦筆を休めることにしました。不取敢もやもやの状態で公開してみますが、冒頭では國中さんが昨年「立原道造記念館館報」に書かれた鈴木亨氏についての文章も読まずに、勝手なことを書いてゐます。同号には外村彰氏が「井上多喜三郎宛立原道造書簡」について触れた一文も掲載されてゐるみたいですが、それも知らずに書いた先日の掲示板の一文も、ですから大いに憶測です。何とも情けなく、御論考の「後半」到着を心待ちにするばかりです。
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やす
:2008/11/25(火) 21:28:14
「白壁の文士たち2」 / 「1920〜30年代 愛知の詩人たち」
文化のみち二葉館(旧川上貞奴邸)での小回顧展「白壁の文士たち2 −春山行夫・井口蕉花・高木斐瑳雄−」に行ってきました。清潔なスペースに陳列された『東海詩集』(職場からの貸出品)などを観て、(こんな展示ケースがわが図書館にもほしい)と思ったり。また矍鑠たる久野治翁とも御挨拶が叶ひ、当日の朗読会を催されたの中部ペンクラブの方々からもお声をかけて頂きまして、たいへん恐縮いたしました。
そしてその足で、同時期に開催されることとなった愛知県図書館の展示「1920〜30年代 愛知の詩人たち 〜モダニズム詩を中心に〜」も観に行ってきました。
こちらも小展示ながら、ここ数年の特別予算で収集されたといふ貴重な稀覯本が、惜し気もなく展示されてゐるのに瞠目しました。『月の出る町』も『晴天』も『青騎士』もあります。他図書館から借用された『赤土の家』が新刊本同様にビニールコーティングされちゃってる(!)のを見た時は、御挨拶頂いた司書さんとともに苦笑、そして公共図書館として著作権について多々考慮すべき部分もあったこと等、御苦労を伺ひました。
たしかに著作権の現状では、本の表紙のデザインに対して、著作者とは別に装釘家の著作権が働くわけでありますが、人様の著作をキャンパスにして権利をふりかざすのは、やはり本末の転倒とも思はれ、写真集等を念頭においての措置なのでせうが、商業主義とは無縁の詩壇では一寸考へられない事態です。拙サイト内で掲げてゐる書影につきましては、個人の開設であることをよいことに、スキャナーによる精密画像、また撮影者に断りなく転載してゐる古書の書影写真が大分増へて参りました。これにつきましては、著作権法の理念が元来「文化の発展に寄与することを目的とする」ものであることを踏まへ、「色・素材・形状をとどめた表紙・函・帯および奥付の写真等もまた、確証されるべき書誌情報の一部ではないか。」といふ考へのもとに、戦前の稀覯資料に対して行はさせて頂いてゐます。
更に、著作権者情報を募りながら「内容の公開」までさせて頂いてゐる、図書館でのテキスト確認も困難な絶版詩集についても、「詩集は詩人の墓碑に他ならない」といふ、詩人の御霊を顕彰する気持を以て、今後とも臨んでゆきたく思ってをります。
何卒あはせて御理解して頂けましたら幸甚です。
さて、愛知県図書館でも催される11月30日の木下信三様の講演は、このたびも職場の行事ごとのため、拝聴できないこととなりました。残念でなりませんが、文化の日にあった二葉館での講演について、録音を聴かせて頂けさうですので、これを以て慰めにしたいと思ってをります。
会場の様子はこちら
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