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175復興G:2013/11/08(金) 20:49:55 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十四

   かつて神の国は近づいたと洗礼のヨハネは言ったが、神の国は すでにここにある とわたしは言うのだ。


 ひろびろとはるばると光り一元である。

 光りなるものには練習も準備もないのである。準備とは未来のための過程または手段の生活が意味されているのであって、「今」 なるものにのみ、手段、準備でない生活というもの、創造というものが在り得るのである。

 ここに不足の反対、すなわち感謝の生活があるのである。感謝は未来に神にあらわれていただくための準備のためにあるのではないのである。 「今」 ここに、既に、このまますべてのすべてであるところに自我が消え、感謝に満たされるのであって、神に来ていただく準備の生活には神はなく、我(が)があるのみとなっているのである。

 洗礼のヨハネは、すべてなるもの、神の国なるもの、神のための準備を生きているが故に、神ではないもの即ち自分、自我がどこかに残らざるを得ないのである。満たされたるもの、感謝なるもの、すなわち自我の要らない 「神の国は汝らの内にあり」 と言ったイエス・キリストの言葉こそが、生長の家の、光明一元、實相一元のすがたであるのである。イエスは感謝に満たされていたのである。

 準備の生活には天国は有り得ないのである。現象を超えている實相なるものにこそ、完成なるものの純粋なる持続のすがたがあり、これが天国ということ、神の国と言えるものなのである。準備の生活からの脱却こそ、神の国における神の子のすがたなのであり、感謝のすがたなのである。

 生長の家人類光明化運動は準備の生活ではないのである。地上天国建設運動と仮に言うといえども、地上は無いのであり、地上天国も無いのであって、あるのはただただ實相なる天上のみなのである。

 天国という天国、神という神は 「今」 であり、 「ここ」 であり、 「そのまま」 であるのであって、天国なるもの、神なるもの、實在なるものの純粋なる持続があるのみなのである。

 生長の家人類光明化運動は神そのものであるから、 「今」 すべてのすべてなのである。地上天国建設運動もまた神であるから 「今」 すべてのすべてであって、地上超脱の 「今」 があるのみである。

 天上と地上と相対しているのではないのである。相対そのものが無いのである。地上に対する天上もなければ、天上に対する地上も無いのである。それらはすべてみずからの消え切りなのである。

 不完全はなく、あるものはただただ聖なる、完成なる實相のみである。無相にして一切相なる澄み切りの聖なるよろこびの輝きそのものが神の国、實相の国、天国そのものなのである。

 ただあるのは天上のみ、神のみ、「今」 のみなのである。不完全を消すための運動はどこにも無いのである。不完全そのものが無いのである。

 イエス・キリストは 「み心の天に成るが如く地にも成らせ給え」 と祈ることを教え給うたが、み心の成る天のみが實在であり、實相であり、すべてのすべてなのである。ここに満ちたりの感謝の湧出(ゆうしゅつ)があり、「こと終われり」 なのである。

 「地にも成らせ給え」 とは、その満ち足りの上に立ってのよろこびの溢(あふ)れ出(い)での言葉なのであって、これは現象、地なるものに實在性を認めた祈りではないのである。(1998.11.1)

176復興G:2013/11/09(土) 13:26:08 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十五

   ヨハネは神の国を準備する役目としてこの世に出たから神の国は近づいたと言ったのだ。


 神は、神の国は永遠に近づくということは有り得ないのである。なぜならば、神と神の国は一度も神の子人間と離れたことはないからなのであり、はなれたことの無い渾(すべ)ての渾てなるものを神といい、神の国というのである。

 一体(ひとつ)であるものにおいて、近づくということは不可能なことなのである。その不可能なことを不可能ではないと想ってそれととり組むところに迷い、すなわち不自然が生ずるのである。有らざるものを有りと妄想するのが迷いであるからである。

 近づくことの反対は何であるか。それは遠ざかることではないのであって、天国ということにおいては、近づくことの反対は、内にあるということである。内とは、既に、はじめから、はなれずして實在しているという意味である。天国においては、近づくということほど遠く離れていることはないのである。

 それ故、感謝したら神があらわれる、ということは生長の家の實相の哲学においては、感謝すれば神が近づく、という意味ではないのであって、既に、内に、はじめのはじめからある神が、感謝となってあらわれ給うことを意味しているのである。あらわれるのは外からこちらの方に来るということではないのであって、こちらから、内側から、という意味なのである。

 それ故、感謝の神示であると言われている 「大調和の神示」 は、聖経 『甘露の法雨』 の経本においては、 「招神歌(かみよびうた)」 よりも後におかれているのであって、生きとし生けるものとして、神として生かされ、神がすべてを生き、為し給うことが歌われているのである。それ故、内より神があらわれ給いて、感謝を為し給うということがそのままのすがたなのである。

 また、四部経においては、愛行(あいぎょう)の神示とも云うべき 「聖使命菩薩讃偈(せいしめいぼさつさんげ)」 よりも 「招神歌(かみよびうた)」 は先におかれているのであって、神を迎えるための準備として愛行があるのではなく、神が内よりあらわれ給いて愛行を為し給うことが表現されているのである。

 それ故、愛行とは、愛すなわち神が行き給うという意味なのである。神が行くということは天国が行くということである。天国が行くということは無我が行くということである。

 み教えを実行するということも、実すなわち實在なる實相が行くということであり、實相すなわち神が行くということなのである。

 もしも、既に内にある神を観(み)ず、神に来ていただくための準備として行ずるならば、それは同じ行であっても、準備の行であり、神なき自我の行となり、神との間をちぢめるための、埋め合わせの行となり、感謝の湧きようがなく、感謝だけは自分でやらなければならないことになり、一方、自分の無いのが感謝であるから、準備の間は神が居給わないとなれば、永遠に自分が消えず、感謝にはあずかれず、神は西方(さいほう)極楽浄土よりも尚々遠くにはなれてしまうことになるのであって、この行は、同じ行であっても、釈尊が 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」 と言われた無常の行となるのである。

 大聖師は 「愛行は空(むな)しからず」 と私たちのすがたを拝み給うているのである。既に、はじめから、内において、神である實在の實相を祝福されている吾等は幸いなるかな、である。(1998.11.2)

177復興G:2013/11/11(月) 13:22:21 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十六

   すでにわたしが出てこのままが神の国に変貌したのだ。


 私が神癒祈願をさせて頂いていた時、申し込み者の名簿の人々、いや全世界、全宇宙の不幸不完全を一度の祈りで全て消せないものだろうか。との想いが湧いた時、

 「それを既にやったのが私だよ」

 「それを既にやったのが生長の家だよ」

 といっておられる、幸いに満たされた大聖師をたしかに私は観じさせて頂いたのである。

 そのお言葉には、やはり、

 「それをやるとかやらないとかという私自身が無いんだよ」

 という消え切りの、澄み切りの、聖なるよろこびの輝くひびきがあって私はそこに包まれて坐っていたのを、心あらたに想うのである。

 「こと終われり」 である。この 「こと終われり」 から生長の家人類光明化運動ははじまっているのである。既に変貌し給うたところから 「こと終われり」 「こと完成せり」 の純粋なる創造的持続として 「今」 生長の家人類光明化運動はありつづけなのである。

 それは 「今」 なる光明化運動であって 「未来」 なる光明化運動ではないのである。理想ではなく現実を超えた現実としての 「完成」 なる光明化運動なのである。それ故にこそ、生長の家人類光明化運動は神なのである。

 神の起こし給える運動とは、天国なるもの、完成なるものみずからの起こし給う、天国なる、完成なる運動であるということなのである。

 「吾が中に、神が今此処に、そして天国が今此処にある。」 (『日々読誦三十章経』 )

 これが最高の神想観に念ずる言葉とされていることは、神想観の中身の純粋なる持続が人類光明化運動であり、この自性円満の實相なるものを観ずる神癒の展開は、神想観の中身の展開であると言うことが出来るのである。

 今ここに神の国があり、天国があるということは、これから時間をかけて顕わして行くという時間の世界の話ではないということである。今ここにあるのである。これから時間をかけて顕わさなければならないという神はなく、天国もないのである。今ここであってこそ神であり給い、今ここであってこそ天国であるのである。

 それは 「現象無し」 を説く教えにして、はじめて、 「今ここ」 を説くことが出来るのである。それは針の先ほども自分というものの要らない既に完成している世界である。

 ただただ完全が完全なるものを自己展開することがあるばかりである。これを生長というのであるから、満足と感謝の展開が生長ということなのである。感謝して、満足したいのちほどよく生長を実現しているのが神の子のすがたであるのである。

 どこまでも、不完全の存在を認めないのが生長の家であり、その人類光明化運動である。イエスは方便を以て説いているが、そこにもまた完全と完全のいのちがあるばかりなのである。

 釈尊の 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくど しっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょう どうじじょうどう)」 とは、 「方便の成道」 ということも入っているのである。生長の家人類光明化運動が、時に応じ、所に応じて、様々なすがたをとって来たという、その姿そのものが 「悉皆成道(しっかいじょうどう)」 のすがたなのである。ただただ完全が完全し、完成が完成している相(すがた)があるばかりなのである。(1998.11.3)

178復興G:2013/11/11(月) 13:39:57 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十七

   わたしの内に、諸君の内に、ここにこのまま神の国はあるのだった。


 聖経 『甘露の法雨』 には、

 『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり。

 と言い切られているのである。

 釈迦、キリストを完成したのが生長の家である、と大聖師は宣(の)り給うているのである。この戯曲に登場しているイエス・キリストは生長の家によって完成し給うているキリストであると言えるのである。

 實相ははじめのはじめより完全である故に、實相には完成するということは有り得ないのである。それ故に、釈迦、キリストを完成したという、その完成された釈迦、キリストは現象の釈迦、キリストであり、実際には “完成した” ということは、その現象釈迦、キリストは “無い” ということをハッキリとしたということなのである。釈迦、キリストの出来なかったあれこれを出来たというエスカレーションの問題ではないのである。

 嘗(かつ)て二千年前のイエスは、 「神の国は汝らの内にあり」 と宣り給うたのであったが、これでは内にもあるが外にもあるということである。そこを 「汝らの内にのみ」 と言い切られたところが完成したるゆえんなのであって、この言葉を聴き給うて手を打って讃える

 「よくぞ言い切って呉れた!!」

 という實相イエス・キリストの声を確かに大聖師はお聴きになったのである。同じように實相釈尊のお声をも確かに大聖師はおききになったのである。天地一切万物が手を打ってよろこび讃える声をお聴きになったのである。天地一切を完成したもうたのが大聖師であり給うからなのである。

 「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 はまことにも、完成した天地一切万物を照らし出し給うもののことであるのである。それを為し給うたのが大聖師谷口雅春先生にましますのである。「吾れ万物を完成せり」 と宣り給うものこそ 「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 なのである。

 生長の家は一切を完成するのである。何故ならば、神をも完成し、ゆるしたのが生長の家であるからである。

 まことに神と言える神、實相なる神を見出し給うたのであり、この時まではまことにも神を審(さば)くことより仕方がなかったのである。不完全の神、神とは言えない神である以上、審く以外はなく、こちらが審くが故に、ただただ神に審かれているという想いしか有り得ず、 「愛されていた。生かされていた」 という、審き憎むことの反対であるところの、感謝と赦(ゆる)しというものは有り得なかったのである。ここに、神を完成し、神をゆるすという道が開かれたのである。

 「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)にましまし、吾が生みのみ親にまします神よ」

 と宣(の)りごとするとき、このみ親は、「吾が生みの」 なのであって、「私が生んだみ親神よ」 と言い切れており、そして、

 「さすが吾が世嗣ぎよ!!」 と神が手を打ってよろこび給う、そのみ声をたしかにお聴きになったことが、神を完成し、天地一切を完成し給うた時であったのである。その意味においても、釈迦、キリストを完成したるものと言い切れているのである。

 ある誌友が、初期のころであろうと拝察されるのであるが、あまりにもおどろいて大聖師谷口雅春先生に、

 「あなたは一体どなたにましますのですか?」

 と想わず問(き)いた時、

 「本当のことを言うと、手が後ろにまわるよ」

 とおこたえになったということを、先達にお聴きしたことがあったのを想い出すのである。ピラトがイエスに、

 「汝はまさに王なるか?」

 と言う。イエスは

 「汝の言えるが如し」

 と答え給うているのである。いくらイエスが 「そうだ」 と言っても、ピラト自身が自身の言葉で 「まことその通りである!!」 と言い得なければ何にもならないことなのである。大聖師もまた、万人が王の王であることを拝み給うていることについて、

 「まことに先生はこの通りですか?」

 との問いに対して、

 「汝の言えるが如し」

 と私たちにお応えになりつづけであり給うのである。(1998.11.4)

179復興G:2013/11/18(月) 19:58:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十八

   神とは何であるか。神とは 「人間のそのまま」 である。むつかしいことも何もない、「人間そのまま」 が神なのである。


 何であるのが神であり給うか。人間であるのが神であり給うのである。人間でない神はあり給わないのである。「今」 ということである。「ここ」 ということである。「そのまま」 ということである。「そのままの人間」 が神であり給うのである。「そのまま」 なるものが神であり給うのである。斯(か)く書かしめているのが神であり給うのである。斯く書かしめられているいのちもまた神であり給うのである。

 「吾れまた、新しきエルサレムの花嫁の姿をして天降るを見る」 とは、神そのものが新しい、「今ここ」 「このまま」 「そのまま」 なる、完成なる 「吾れ」 の姿をとって吾が内より天降る厳(おごそ)かなる 「当方」 なるものの相(すがた)であり給うことを言っているのである。

 生長の家の聖歌 『神霊降誕譜』 の三番は、

  おしえおや うまれたまいて
  このせかい すがたかわりぬ
  やみおおき 世界は消えて
  ひかりみつる 此の世浄土と
  うちつどい かみをたたえん。

 と歌われているのである。

 既に此の世は変貌しているのである。教え親が生まれ給いてということである。お悟りになってということを超えているのであって、この 「生まれる」 とは、 「吾れ生まれてより已来(このかた)、百千万億那由他阿僧祇劫(なゆたあそうぎこう)以前なり」 というほどの意味であり、また 「吾れはアブラハムの生まれぬ前(さき)より生まれてあるなり」 というほどの意味なのである。「生長の家は久遠の昔よりある」 のであり、「私は母親の胎内より生まれたるに非ず」 であり、人みな 「女の子宮より生まれたることなし」 の祝福となって雨降っている讃嘆のコトバが聖経 『甘露の法雨』 となったのである。

 「おしえおやうまれたまいて」 の 「うまれたまいて」 ということは、限りない自分でありながら自分でない 「自分これ自分に非ず、是れを自分という」 態(てい)の内なるご存在、内なる臨在を拝するお言葉であり給うのである。

 この 『神霊降誕譜』 は、一応、生長の家本部がつくったことにはなっているが、当時のどなたかが歌詞を大聖師のもとにとどけて、それが帰って来たときには、殆ど、全部かわって、別のものになっていたという。大聖師が書き直されたのである。それ故、 「おしえおやうまれたまいて」 という、大聖師がご自分が何ものであり給うか、それを 「自分ならざる自分」 として崇め給うていたところから出で来たって、 「うまれたまいて」 となっていると拝察されるのである。

 四国に巡講され給うたとき、歯が痛まれたので、相愛会の連合会長のお兄さんが歯科医であったので,その人に診てもらわれたのである。弟は大聖師のことは知っていても、お兄さんの歯科医さんは、あまりよく大聖師のことを知らないものであるから、口を器具で治療しながら、「いくら偉い生長の家の谷口雅春先生でも、やっぱり歯は痛みますかねッ」 と言ったそうである。付き添っていたものは気が気でなかったであろう。すると大聖師は

 「谷口雅春は痛んでいても、谷口先生は痛んでいないよ」

 と言われたそうである。まことにみずから、「うまれたまいて」 と拝さずにはいられない、厳かなる 「自分ならざる自分」 なるものの消息である。(1998.11.5)

180復興G:2013/11/18(月) 20:09:26 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十九

   今、太陽は明るく照っている。そのままが日光の中であるように、われわれはこのまま神の生命(いのち)の中に存在を保ち、生き、神の生命を享(う)け、それを生きているから、われわれ自身が初めからこのまま 「神の子」 なのである。その住む世界がこのまま 「神の国」 である。


 太陽は明るく照って、そのままが日光の中である。そして、太陽は日光を自分みずから出しているのである。太陽と日光は同じなのである。日光は太陽であり、太陽は日光なのである。神と人と神の国とはひとつなのである。

 生長の家のみ教えなる太陽は久遠の昔から照っている。そのまま神の子はみ教えの中なのである。み教えが先か、いのちが先か。何故、これを分ける必要があり、それを知る必要があるのか。

 太陽はただただ照っているのであり、いのちはただただいのちしているのである。そこには自分というものは無いのである。ただただその通りなのである。

 想えば、み教えの内も外も無いのである。ただただひとつなるものがありて、伝える方と聴く方との相(すがた)となって、ひとつなるものが自己展開しているのである。説法しているイエスもひとつなるものであれば、聴いている聴衆もひとつなるものなのである。

 ひとつなるものの展開であるが故に、ひとつがひとつであることがそのまま中心帰一なのである。ひとつなるものの展開したそのままに、ひとつであるのである。展開しているいのちそれ自体の内にひとつなるものがあるのである。

 内なるひとつが渾(すべ)ての渾てであり給うが故に、イエスのすべては内に向かっているのであって、外は既に久遠の昔より、アブラハムの生まれ出でぬ前(さき)より既に十字架に架けられているのである。

 一切は内より出でて内であるのみなのである。すべてのすべてなるものを内といい、神といい、神の国というのである。

 今ここに神の国を生きているいのちにとっては、不完全はどこにもないのである。不完全という概念そのものが存在しないのである。イエスは水の上を歩く前に、神の国を歩き給うていたのである。完全なる世界に完全なるものとして歩き給うていたが故に、水の上を歩き給うという自在なる完全の一分があらわれたのである。

 果たして、イエスが水の上を歩き給うたことは善であったかどうか。病を治したことが安息日に仕事をしたということは善であったか否か。

 イエスは善悪を問題にし給うたのではないのである。善のみなる神と神の国を生き給うたのである。それ故、パリサイ人に善悪をきめて貰う必要はなかったのである。

 パリサイ人は善悪を見ているのである。しかしイエスの前にはその善悪を問題にしているパリサイ人もなかったのである。それ故、無いようにふるまわれたのである。今ここに神の国、それ以外何ものも存在しない善のみの国を生き給うているすがたがあるのみなのである。

 因縁、現象の世界から見れば、何故、イエスの前に、病人が現れるか。パリサイ人があらわれるか。右の頬を打つものがあらわれ、上着をとるものがあらわれ、十字架につけるものが現れるのか。それはすべてイエスの心の影であるということになるのである。

 しかし、それが正に影であり、影にすぎないことを知っていたイエスは、やはり 「アブラハムの生まれぬ前(さき)より」 心と心の影である全現象界を十字架につけ、抹殺し給うていたのである。(1998.11.6)

181復興G:2013/11/19(火) 09:34:13 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十

   このままが 「神の子」 であり、このままが 「神の国」 であることに気がつかないで、どこかよそに神の子があり、神の国があるように思っていたのがまちがいだったのだ。


 自分の行いの中に、自分の行(ぎょう)の中に、それをつづける時間と回数の中に、神の子と神の国があるのではなく、 「自分」 というものの要らない、自分というものが全く入る余地のない、 「今」 が神の子であり、神の国であるということは何という厳かな発見であろう。

 それに 「気がつく」 ということと 「気がつかない」 ということとはその領地をせめぎ合っているのではない、ということが 「今」 ということなのである。

 結局は、 「気がつけば」 あるが、 「気がつかなければ」 無いという存在が神の子や神の国ではないと受けとるのが 「今」 ということであり、 「今」 を生きるということなのである。

 「今を生かす」 というのは行(ぎょう)中の最大の行である、というのは、 「今」 が神であり、 「今」 が神の国であり、 「今」 が神の子であり、 「今」 が渾(すべ)ての渾てであるからなのである。

 「気がつく」 「気がつかない」 ということは自覚するかしないか、観ずるか観じないかの問題と同じことであるが、その問題そのものが 「不完全なるが故に實在に非ず」 ということであると受けることこそが 「今」 が生きることなのである。

 神も、神の国も、神の子も すなわち實相は、気がつけばあるが、気がつかなければ無い、ということになれば、その 「気がつくのがなかなか!!」 ということになって、結局は、神も神の国も神の子も遠い存在となってしまうのであるが、 「神の創造には失敗はない」 のであり、 「不完全はない」 ということにおいて、 「今」 文句なしの世界と人間がここにある、ということによって、この問題を超えるのが生長の家の實相哲学なのである。

 ここのところを如何に説明し得るか、ということが、繰り返しになるが二十一世紀に与えられた美しい、光栄あるテーマであるが、これはあくまでも創造的テーマであって、テーマを解決しなければ今、完全な生活はない、神の子ではないということではないのである。テーマさえも完全なるものの自己展開として創造しているというすがたなのである。

 これは二十一世紀にだけのテーマではなく、世紀を超えて、すべての人々のアタックして来たテーマであると言えるのではないか。

 神は割り切れていないということはないのである。「天地一切のものに感謝せよ」 とのコトバは神より出でて神そのものである。神は完全なるが故に、このコトバも完全であり、すべてのすべてなのであって、天地(あめつち)を貫き、天地(あめつち)を天地(あめつち)たらしめてこのコトバは鳴りひびいているのである。

 食前にのぼるものが、野菜であろうと、魚であろうと、肉であろうと、「感謝せよ」 なのである。まことには、野菜は野菜ではなく、神なのであり、魚は魚ではなく神なのであり、肉は肉でなく神なのである。どこにも犠牲になったものの呻(うめ)きはないのである。

 「若(も)しも神のゆるしがなければ、一片の野菜も、魚も、肉も、食前にのぼること能わず」

 である。そこに 「感謝せよ」 が鳴っているのである。

 「現象無し」

 によって宇宙を割り切れている 「生長の家の食事」 である。(1998.11.7)

183復興G:2013/11/29(金) 19:47:11 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十一

   ここに、この身が、このままに神の子であり、神が円満完全であり、神のみが創造主(つくりぬし)であり、神は全知全能であり、その創造に決して失敗がないということを知るならば、神の子であるこのわれわれが、すでに円満完全であり、すでに健全であり、すでに幸福であり、どんな病気も不幸も貧乏もこの世にないことは明らかであるのだ。


 それ故に、完全円満なるものを観る生活のみがあるのである。これは實相のことである。このイエスの言葉には實相という言葉は出て来ないのであるが、神の創造には失敗はあり得ない “そのまま” ということでそれが表現されているのである。

 實相とは何か。そのままでよい、ということである。そのままでよいと言えないものは、實相ではないのである。不完全をあると認めることは、神の創造に失敗があり、神は全知全能ではないことを証明するものであるが故に、完全全能の神を発見した生長の家から観れば、そのままでよいといえないものは實在しないのであり、無いのである。

 何々から観る ということは決して一つの立場に固執した観方ではなく、固執という、そのままでよいと言えないものは不完全なるが故に無いのであり、「無いと言えるすべては無い」 という無の門関を透過したところから観れば、ということが、生長の家から観ればということなのである。

 ここには、生長の家の説法、表現が、すべて神が完全であるから創造に失敗は有り得ないという、当たり前の、当然の、自然の、天然で法然なる、そのままの流れにあるということが示されているのであって、イエス・キリストと大聖師谷口雅春先生とが全く一つの相(すがた)に帰一していると拝察されて来るのである。

 結局、大聖師の追求せざるを得なかった、テーマ、悩みとは、

「完全なる神は何故不完全の世界をつくったか。不完全なものしか造れなかった神は神とは言えず、神は無いのである。
 しかし、何故、完全というものは無いはずであるのに、人間は完全を希求せざるを得ないのか。完全をどこかで知っていなければ求める筈はない。しかし、現実には完全はない」

 この悩みを解決したのが大聖師であり給うたのである。その大聖師の解決したよろこびをそのままここに語り出されていると想われるのである。

 それを自分の力で解決しようとしている間は、ヨハネの悩みを悩みとして悩まなければならなかったのである。既にはじめから完全円満なる實相が内より目覚め、自ずから覚めて自覚なるものが顕現した時、自我が消え、自力が消滅したのである。

 自力、自我が消滅して、實相の完全円満が自覚されたのではないのである。自力、自我を消さねばならぬということになれば、それだけは自分でしなければならないという、一点の自我を残すことになり、それだけは必要であるということになり、自我は永遠に消えないのである。

 ただただ、時満ちたのである。宇宙的に時が満ちたのである。宇宙が時を迎えたのである。「今」 起つ時を恵まれたのである。「今」 が起ったのである。みずから、おのずから起つべくして起ったのである。それは自我を無くしたから、ではなく、ただただ起つべくして起つべきものが立ったのである。

 ここに、自力なき神想観、自力なき聖典読誦、自力なき光明化運動、が起ったのである。よろこびの神想観、よろこびの聖典読誦、よろこびの光明化運動の誕生、発進であった。「私は無いんだよ」 との大聖師のよろこびを大本源として発進した、久遠のよろこびの発進であったのである。(1998.11.8)

184復興G:2013/11/30(土) 15:38:16 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十二

 「住吉大神宇宙浄化を祈る神想観」 は正(まさ)しく、字の通りであって、住吉大御神が吾が内にあってこの祈りをされて 「ア、オ、ウ、エ、イ」 の鳴り響きを鳴り響き給うているのである。それは絶対なる神の絶対なる行(ぎょう)としてのお姿であって、人間力の努力精進をもとにして考えるべきものではないのである。

 神の天地創造は雄渾(ゆうこん)きわまりなき力強さであるが、それは暗(やみ)を相手に光りをすすめて行くという意味での 「光りあれ」 の相(すがた)ではないのである。神の前には何ものも存在しないのであり、克服すべき何ものもないのである。神の前には暗は無く、その無いという空間もなく、ただただ在るものが在りて在るというご存在が神であり給う故に、「今に至るも働き給う」 というすがたには、「疲れ給う」 ということはどこにも有り得ないのである。

 大聖師はお疲れになってお亡くなりになったのではないのである。「自分」 なるものがあれば疲れ給うかも知れないが、

  「私は無いんだよ」

 ということにおいて、ただただ、疲れ給わず、休み給わない神のみがあり給うそのままであり給うたのである。

  若しと思う者は忽(たちま)ち若返り、
  老いたりと思う者は忽ち老い朽つるも宜(むべ)なるかな。

 と聖経 『甘露の法雨』 にお書きになられた、ご本人が、

  「それでは眠らせて頂きます」

 と現象を超え、自我を超えて、堂々とこ昇天されたところ、説法はこれ何ものが為し給うかを指し示し給い、却ってこちらの永遠久遠なる相(すがた)すなわち

  迷いなし、罪なし、病なし

 のすがたを指し示し祝し給うのを感ずるのである。

 ここに永遠に久遠に疲れを知らない生長の家人類光明化運動の自然な姿を拝させて頂くのである。

  「永遠の構図に於て神と偕(とも)に創造するの喜びを感じてゐます」

 というところには、すでに 「自分」 なるものは微塵(みじん)も無く、神のみ すべてのすべてであるが故に、永遠であるところの、よろこびなるもののみが輝いているのである。「自分が要(い)らない」 ということ、「自分が無い」 ということが、永遠ということ、久遠ということ、無限ということであることを、このお言葉は示しているものと拝察されて来るのである。

 「不完全が存在するならば神はない」 という想いは、神が大聖師の中に起こし給いて、『神を審判(さば)く』 を書かしめ給うたのである。その神が再び、聖経 『甘露の法雨』 の中において、

  “汝は罪を以て完全となすや?”

 というみコトバによって、却って、「不完全があれば神は無い」 ということを童子に言わせようとされ給うているのである。そして、童子みずからに、

  『師よ、罪は完全に非ず』

 とみずからの答えとして、言わしめ給うているのである。そして、「汝の言えるが如し」 とお応(こた)えになってい給うのである。大聖師が生まれ給うてよりこの方のお姿は、すべて神が為し給うていたことを通して、吾々もまた神縁というもの、神なる根本因縁というものを指し示されていることを想うのである。(1998.11.9)

185復興G:2013/12/02(月) 11:08:21 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十三

 今朝の早朝行事の先導で、聖経 『甘露の法雨』 の読誦(とくじゅ)において、内より湧き出でた明るい想いだった。

 聖経を誦(あ)げる前に、宝蔵神社に向かっての礼拝の後、この聖経 『甘露の法雨』 を、日ごろ先祖を護り、導き給う、本尊神霊なる生長の家大神、大国主大神、観世音菩薩、地蔵大菩薩、阿弥陀如来……に感謝し奉りて誦げる、という主旨の 「祝詞」 を拝読してから、聖経が読誦されるのである。

 今朝、この 「本尊神」 は、しかし、自分の内にましますのである、と想った時、わが内に大きな大きな、黄金色の合掌があらわれたのである。

 それは、感謝して聖経を拝読してくれる人々への感謝の合掌であると同時に、全存在を如意宝珠(にょいほうじゅ)としてその合掌の内に持されて、限りない 「生かす力」 をもって生かし給うているすがたであった。

 そして、その時、総裁谷口清超先生の 「神想観は、神の世界を神が想い給うのである」 というお言葉を想い出したのである。

 すると、自分はどこにもなく、ただよろこびだけがあって、自分は全く要(い)らなく、ただただ神の眼を以て神が観給い、神が神の合掌で神のつくり給える實在なる姿を観じ、拝し給うのである、という安らぎ、全托の想いが私を満たしたのである。

 それから後、神癒祈願の人型を合掌にはさんだ時、自分ではないもう一つの輝く厳かさで大きな合掌がその一枚一枚の人型をはさんで祝福礼拝して下さっているのを感じたのである。しかも、すでに、その人型は人型でなく、如意宝珠となって、合掌の、掌と掌の間に輝いて存在している感じとなっていったのである。その感じは今も、祈願を終えたあともそれがつづいているのである。

 神が人型を観給うように、私もそれを感じていたのではないかと想うのである。祈りも神が為し給うのであった。

 「……し給え」 と神に祈るとは、神でないものが神に求めているように、たしかに見えるのであるが、そうではなかったのだ。「……したまえ」 とねがうことも神が神に語りかけていたもうたのであった。

 それ故に 「……せんと楽(ねが)わば」 ということばが仏典にあるのであると想えて来たのである。祈りもねがいも神が為し給うのであれば、神はよろこびそのもの、楽しさそのものであり給うのであるから、「ねがい」 は、楽しさそのものがしていることなのであった。

 「……せん」 と欲すること、ねがうことは、楽しさ、よろこばしさから来ている姿であったのである。

 それ故、「ねがう」 ことは、楽しさが楽しさに、よろこびがよろこびにねがっていたことであったのである。

 「願(がん)なき行(ぎょう)は仏(ほとけ)の魔事(まじ)なり」 とは、願(楽<ねがい>)神なき、仏なきものは魔事であることはきわめて自然なことと想われるのである。

 それ故にまた、「地上天国建設を楽(ねが)う」 こと、「人類光明化運動の展開を楽(ねが)う」 ことは、よろこびそのものがねがっていることであったのであり、楽そのものがねがっていることであったのである。

 「よろこびの人類光明化運動」 なるものの明るさということを想わされるのである。(1998.11.10)

186復興G:2013/12/03(火) 09:26:39 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十四

 「神の世界を、神が想い給う」 (総裁谷口清超先生の第一論文 『文化の本源としての神想観』)、そこには全く自分というものは無いのであり、ただただよろこびと感謝だけがあるのである。天地一切が神であり、感謝そのものなのである。これを観ずることを、天地一切感謝といい、天地一切礼拝というのである。

 「天地一切」 という字は 「天地の一(ひ)ト切れ」 と書かれているとも言えるのであって、これは、一即多、多即一の相(すがた)を表現しているのであって、「一ト切れ」 とみえているままに 「天地」 すなわち、すべてのすべてであることを意味しているのであり、 「天地である一ト切れ」 ということであり、一人すなわち 「一ト切れ」 としての個性的存在でありながら、そのままにすべてのすべてである、大調和の相(すがた)を表現したものであるということになるのである。

 更に、「一切」 とは 「一つに切る」 ということでもあるのであって、現象と實相の二つに切るのではなくて、切った結果が一つであるのであって、現象は無いのであって、切った結果、残っているのは實相一つであるということである。實相の独在ということなのである。

 更に 「一切」 とは 「一つが切る」 ということであり、一つなるもの、即ち絶対なるものが切る、ということであって、ただただ實在なる一つなるすべてのすべてなるものが、光りの自己展開の相(すがた)として 「無い」 と輝いているのである。「般若心経(はんにゃしんぎょう)」 の 「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)行深般若波羅密多時(ぎょう じんはんにゃはらみったじ)照見五蘊皆空(しょうけん ごうんかいくう)」 という時の、観自在菩薩が光明燦然として照り輝いている、その輝きの、よろこびの展開として 「現象は無い」 すなわち 「五蘊皆空」 と照らし観てい給う相(すがた)であり、ただただ光りのみの充満展開があるのみなのである。

 またイエス・キリストの 「吾が国は此の世の国に非ず」 とのおコトバにおいて、先ずはじめに 「吾が国」 という、吾れと国との光明燦然たる神の国と吾れとが厳然としてあり、その神と神の国そのものであるよろこびが 「此の世の国に非ず」 すなわち 「此の世(現象)は無い」 との輝きのひろがりとなっているのである。

 「五蘊皆空」 にしても、 「吾が国は此の世の国に非ず」 にしても、ただ常に、「無い」 というだけではなく、先ずはじめに、光明燦然たる實在、實有なるものがあり、その自己展開としての光りのコトバとして発せられているいのちのコトバであるということである。それが 「一切」 ということの一つの意味であると言えるのである。

 また、仏教に 「一切衆生悉有佛性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」 という語があり、一切の衆生は悉く仏性を有(も)つ、という風に解せられていたのを道元禅師は 「一切衆生悉有は佛性である」 と解されたのであったが、生長の家では、「衆生悉有佛性」 を一切してしまったのである。衆生だとか、悉有だとか、それを一つなるものがすべて 「無い」 と切りすててしまったのである。切りすててしまって、「一」 だけが残って、すべてのすべてなるもの、實相独在を實相独在としての成就、すなわち、成り就(な)りせしめたのである。それ故に、ここにまことの 「一切」 の意味、すべてのすべてなるものが露呈して来たのである。

 これらのことを述べた時、大聖師谷口雅春先生は、 「君の直観的解釈は素晴らしい」 と言って下さったあと、そこに居た一同のために實相独在の話しをして下さったことであった。

 昭和三十九年の秋のことだった。(1998.11.11)

187復興G:2013/12/03(火) 09:27:54 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十五

 幽斎殿(ゆうさいでん)での感謝行を終えて下に降りて来て、食堂で話をしている時に湧いたよろこびがあった。

 生長の家人類光明化運動は神である。本源絶対なる神が色々なはたらきをされるその御はたらきにつけたのが神名であれば 「住吉大御神(すみよしのおおみかみ)」 「塩椎大御神(しおつちのおおみかみ)」 とお呼びする意味において 「生長の家人類光明化運動」 ということである、という、それはなぜかよろこびであった。

 生長の家人類光明化運動は、先ず、それみずからに、久遠不滅(くおんふめつ)、金剛不壊(こんごうふえ)なる体(たい)を具(ぐ)しているということである。これがまことの具体ということである。實在の實相なる体を具しているということである。

 この金剛不壊の具体なるものは、自己展開し、みずから顕(あらあわ)れざるを得なくて顕れたのがいわゆる人類光明化運動なのである。

 それ故、生長の家人類光明化運動の自発的活動態勢を、という言葉は、人類光明化運動の展開は、運動なるものそれみずからの、自発によってあるということなのである。神は 「光りあれ」 と宣(の)り給うその自発なるものを表現していたのである、ということである。

 「“自発的活動態勢” の “自発” の “自” は、“自転島(おのころじま)” の “自” ということなのである」 と言った先達があったのを想い出すのである。この人は生長の家人類光明化運動そのものが神の相(すがた)をしていること、久遠不滅、金剛不壊なる体(たい)を具有(ぐゆう)しているその、實体にふれていられた魂であったのではないか、と想われて来たのであった。

 合わせて、再び、人類光明化運動の 「光明とは何か」 ということをさらに深く想わせて頂けたような気がするのである。追求しても追求してもし切れないもの、讃えても讃えても讃え切れないもの、という想いとよろこび、そして光栄というようなものを想ったのである。

 「光明とは何か」 という言葉は、如何にも疑いのコトバであって、満たされたものの、解けたものの言葉ではないように見えているが、今の場合は、嬉しくてその自分自身の中にある、實在なる、神なる、光明化運動に語りかけ、讃えかけ、拝(おろが)みかけているという気がしているのである。

 「神の国は汝らの内にあり」 とは

 「生長の家人類光明化運動なるものは汝らの内にあり」 ということであると想えて来るのである。そして、それが神であるが故に、神である自発なるものに自発されて自分はここに生かされてあり、すべての運為(うんい)が存在するのである、ということであった。

 「光明とは何か」 と問うていることそのことが、光りの實体を有し、光りを放(はな)っている姿であるのであるということである。

 「實在とは何か」 ということも、 「感謝とは何か」 と深く参ずるのも、その姿そのものが光りのすがたであるのだ、ということも想えて来るのである。

 「自転島(おのころじま)」 とは、地球をあらわし、全宇宙の實相を表現しているとも言えるであろうが、それがそのまま如意宝珠の姿であり、潮満(しおみ)つ、潮干(しおひ)るのはたらきを具有し、自(みずか)ら、自(おの)ずからなるはたらきそのものを具有している、その意味をもって 「自発的活動態勢」 ということが新たに想えて来たのであった。(1998.11.12)

188復興G:2013/12/03(火) 10:05:04 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十六

 神想観の中で 「私は無いんだよ」 と宣(の)り給いて、みずからの消え切りであり、澄み切りの聖なる聖なる大聖師が、すべてを救い給うたことについて、「それをやったのが私だよ」 と宣り給うたのであった。それ故、それを宣り給うたのは神であり給うたのである。「見よ、吾れすでに天地を新たならしめたのである」 との 「神示」 のコトバと同じ相(すがた)がそこにあったのである。神のみがそこに在して、渾(すべ)ての渾てであり給うたのである。

  「時が来た。」

 とは、その時であったのである。そして全宇宙が 「今」 そのまま起ったのであった。全宇宙を吾が身体としてそこに起ち給うた大聖師であり給い、神であり給うたのである。それはそこに、そのまま生長の家人類光明化運動の起った相(すがた)であったのである。

 「こと終われり」 「こと完成せり」 が生長の家人類光明化運動の中身なのである。「こと終われり」 「こと完成せり」 が運為(うんい)、展開しているのである。「こうありたい」 「ああありたい」 の不完全、不満足がもとになってはじまっている運動ではないということを更に更に想うのである。それが感謝行としての人類光明化運動である。感謝なるもの、即ち不足ではなく満たされたものの行であり、感謝なるものが為す行(ぎょう)が感謝行なのである。

 感謝なるものとは神なるものであり、自分なきものであり、完成なるもの、渾(すべ)ての渾てなるものの行なのである。

 「神は今に至るも働き給う」 という天のコトバが鳴りひびいている。

 「今」 に至って 「今」 であってはじめて神なのである。「今」 が神なのである。神は常に 「今」 なのである。過去、現在、未来超脱の 「今」 である。すべてのすべてなる 「今」 である。

 「今に至るも働き給う」 ということが何故、永遠に働き給うという意味に受けとれて来るのか、ということである。「今に至るも働き給う」 だけでは、それは現在までのことであって未来は保証出来ないのである。それは、「今」 が神であり、神が永遠久遠であることは直観によって知っているのである。それは現象を超えているということである。この 「今」 が 「久遠の今」 であればこそ、永遠にという意味を味わうことが出来るのである。

 現象の積み重ねだけでは、永遠に永遠ということは出来ないのである。経験することが出来るとすれば、それはすでにそこまでということになって了(しま)うのであって、永遠、久遠は時間のトータルではなく、「今」 が 「神」 が 「實在」 が久遠なのである。時間を超えていることが永遠、久遠なのである。「完成」 なるものが永遠、久遠なのである。「完成」 なるものは完全であるが故に、永遠、久遠を満足しているのである。

 それ故、 「生長の家人類光明化運動はいつ完成するのか」 という問いには、「生長の家人類光明化運動は今に至るも働き給う」 ということなのである。完成のためにではないのである。完成なるが故に、完全なるが故に、 「今」 なる久遠なるものが展開しているのが生長の家人類光明化運動なのである。(1998.11.13)

189復興G:2013/12/03(火) 10:18:19 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十七

 「今すべての病人は起つことが出来るのである」 ということと言い、「『生長の家』 を読み真理を知るだけで遠くにいて病気が治る事実を見よ」 と言うことといい、これはすべて神癒についての 「神示」 であることをあらわしているのである。

 「神癒」 とは、神が癒しそのものであるということである。神が癒しそのものであり、甦りそのものなのである。 「吾れは甦りなり」 とのコトバは、神が癒しそのものであることの光明の鳴りひびきなのである。

 「遠隔の地にいて」 と仮に云うといえども、神には遠くも近くもないのである。すべてのすべてが神であり、神には距離はないのである。へだてそのものがないのである。目無堅間(めなしかつま)そのものであり給うからである。

 「神癒」 には、神と人間とのへだてはないのである。 「遠くにいて」 とは、遠くにいても遠くではないことのよろこばしさの表現なのである。「“遠く” そのものが無い事実を見よ」 ということなのである。ただただひとつなるもの、完成なるものの自己展開があるばかりなのである。「既に、吾れ全宇宙を癒し終りたり」 という事実が,久遠の昔より、神そのものとしてあるばかりなのである。

 「神癒」 とは、神が癒しそのものであり、神は渾(すべ)ての渾てなるが故に、天地一切のものはみずから神癒そのものであるということである。いたるところに神が、癒しそのもの、甦りそのものを観じ給うことを、「神が癒し給う」 と仮に言うのである。

 時空超脱の 「今」 には距離はないのである。その意味をもって、「今、起つことが出来る」 というコトバが発せられているのである。「遠くにいて」 ということは既にはじめより無いのである。

 この 「今」 なる 「ひとつ」 なるものの展開こそが、生長の家人類光明化運動の荘厳なのである。荘厳とは、中心帰一、ひとつなること、渾ての渾てなることそのことにほかならないのである。

 中心帰一なるものそのものの展開、運動が光明化運動なのである。

 すべてのもの悉くはみずから癒しそのものであり、甦りそのものであることを祝福し礼拝する一筋なのが、「今」 起った生長の家人類光明化運動なるものなのである。

 「神癒」 とはひとごとではなかったのである。今ここ吾れなる栄光そのものなるすがたであったのである。神癒はここに見よ、彼処(かしこ)に見よ、というようにはないのであった。今ここ吾れにしかないということであった。

 「神癒」 とは神そのものであり、自分はどこにも要らない、全くの零(ゼロ)なのである。この自分が全く要(い)らない、この自分の要らない度合いが奇蹟的である度合いであるのである。

 それ故 「奇蹟」 的なることは、中身が必ず感謝となるのである。自分は無く、「生かされている」 というよろこびの中身があるばかりなのである。感謝の度合いが奇蹟的なるものの度合いである。感謝そのものが奇蹟そのものなのである。

 しかしながら、神のみすべてのすべてであって、自分は全く要らない、ということは天地を貫き満ちている当たり前のことであり、それを奇蹟的なこととして、大さわぎしないのが生長の家なのである。(1998.11.14)

190復興G:2013/12/11(水) 07:19:47 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十八

 今朝の、神癒の社入龍宮幽斎殿における神想観実修の時に湧いたよろこびであったが、「無の門関」 とは一切を去るということである。「無し」 と宣言することである。「無い」 と言えるすべてのすべてを 「無い」 とすることである。天照大御神も無く、住吉大御神もなく、塩椎大御神も無し。高天原も龍宮海も龍宮城も無し、如意宝珠もなし、欲するものも、好ましからざるものも無し。生長の家もなし、光明化運動も無し。現象も實相も無し。そして、その 「無し」 も無し。

  「ただだた光明遍照」

  「ただただ、そのまま」

  「ただただ生み出すもの」

  「ただただ創造(つく)り出すもの」

  「ただただ龍宮」

  「ただただ高天原」

  「ただただ中(みなか)」

  「ただただ大神」

 ただただ澄み切り、晴れ切りにましまして、渾ての渾てなるもの。ただただ 「吾が国は此の世の国に非ず」 とのキリストなるものの久遠のコトバ。「吾が国なるもの」 の、ただただよろこびの鳴りひびきである。ここに、最終的に、初元的に、完成的に、「ただただ生長の家人類光明化運動」 ということである。

 久しぶりに、十六歳の時に聖経 『甘露の法雨』 の中の

  キリストは又云い給えり、
  『吾が国は此の世の国にあらず』 と。

 のコトバにふれた時の、限りもない崇(たか)く崇く晴れて晴れて澄み渡った、未だに超えることの出来ない、あの荘厳なるものが内に甦るのを憶えたのである。

  『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり。

 と示されている。「内」 にあるとは、まことの吾れの吾れなるものの 「生んだ」 ものとしてあるということであり、自分の自分なるものが創造したものとしてあるということである。

 神と神の国が 「汝らの内にのみあり」 とは、自分の自分なるものが生んだところの、神と神の国ということなのである。

 創造の本源世界すなわち龍宮は 「汝らの内にのみあり」 とは、自分の自分なるものが生んだところの龍宮ということなのである。

 天照大御神も住吉大御神も塩椎大御神も、自分の自分なるものの生んだところのこ存在にましますということであったのである。

  或る日天使(てんのつかい)生長の家に来りて歌い給う――

 というこの實相の世界の相(すがた)において、天使(てんのつかい)は自分の自分なるものの生んだところの、自分の自分なるものより生まれ出でたもうたところのこ存在にましますのである。

 斯くの如き想いが湧いた時、

  「さすが、吾が世嗣ぎよ!」

 との更に更に晴れ渡った、澄み切った、幽の幽なる祝福に包まれて、やっと自己の自己をとりもどした安堵感に満たされるのを憶えたのであり、それは懐かしい限りのものであった。

  「すべてを超えて、今此処に」

 というのが 「“無” の門関」 の意味するものであることを、心新たに想うのである。

 今朝は、雲一つない日本晴れである。幽斎殿で仰ぐ青空の崇さよ。限りもなく底深い崇さというものである。

 生長の家人類光明化運動なるものの裸のすがたの崇さというものをかい間見る想いである。(1998.11.15)

195復興G:2013/12/12(木) 16:52:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十九

 「神癒祈願」 の申し込みの内容をどう観るか。神は如何に観じ給うていられるであろうか。イエス・キリストは、病者を前にして 「この病は誰の罪の結果ならんか」 と問う弟子たちに向かって 「神の栄光あらわれんがためなり」 と言い切っておられるのである。

 神の栄光はいずくにあらわれるのであるか。イエス・キリストの中に神の栄光はあるのである。それが更に更に輝きあらわれんがために、その栄光を祝福し、礼拝せんがためにイエスの前に天降り、あらわれられた観世音菩薩すなわち尽十方無礙光如来がイエスの前に立つ人であったのである。更にイエスにとって、そのように問うている弟子たちをも含めてすべてイエスの内なる栄光を祝福せんがためにあらわれた、それこそ神の栄光そのものであったのである。ただただ、すべては、イエスの内なる愛なるものの光りが更に更に輝きあらわれんがためであったのである。

 如何なる姿をとって現れ、如何なる姿になって行くかは、み心のままであって、イエスはそこに輝いている、實在の實相なる中身だけを観じつづけられていたのである。それが全托の姿ともなってい給うたのである。

 「み心の天に成るが如く、地にも成らせ給え」 とイエスは祈り給うていたであろう。また、「わが意をなさんとにはあらず、み心のごとくならせ給え」 と祈り給うていたであろう。

 しかしながら、このお姿は、そこに既に成っている天なる栄光を観給い、自分は既になく、み心のみが渾(すべ)ての渾てであり給う上に立ってのお姿であり給うたのである。

 神なる栄光のみが渾ての渾てなのである。神の栄光のみ独在なのである。

 「この地上に、不幸、災難があるのは、誰れの罪によるのか」

 との問いに対しても、やはり、

 「誰の罪にも非ず、神の栄光あらわれんがためなり」

 と言い切っているのが、生長の家なのである。即ち聖経 『甘露の法雨』

  此の世界に犯されたる罪もなく
  報いらるべき罪もなきことを教えよ。

 となっているのであり、

  善のみ唯一の實在

 とうたわれているのである。(これは決して同慈同悲の自然な心を無視せよ、ということではないのである。同慈同悲の自然な心こそ観世音菩薩の観世音菩薩たる輝きなのであり、神の栄光そのものなのである)

 ここにおいて、神癒祈願申込者の名簿なるものは、観世音菩薩の名簿であり、尽十方無礙光如来の名簿であり、生長の家の大神の名簿であるということになっているのである。それはそのまま、神なる栄光そのものであるということになっているのであり、それを表現、祝福して、人型はただただ 『實相円満』 とだけ書かれているのである。そして、祈らせて頂くものの内なる神なる栄光が更に更に生長、展開せんがために、天降り給うた名簿であるということになっていると拝察させて頂けるということは何という光栄なることであろう。

 ただただ為すべきことは、神の栄光そのものなる 「實相円満」 をひたすら、一体となって讃え、悦ぶことにある、という想いがつよくなるのを憶(おぼ)えるのである。

 實相円満を観じ、憶念することが全托ということなのである。

 神は如何に観給うか。神はただただ神ご自身を観給うのみなのである。(1998.11.16)

196復興G:2013/12/14(土) 18:31:39 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四十

 みずからにして、おのずからなるものとは、「現象無し」 と、捨てて捨てて、超えて超えて、死んで死んで、死に切って、はじめに帰って帰って、そして、その 「現象なし」 と捨てることも、超えることも、死に切ることも、はじめに帰ることも 「無し」 と超えて超えて超え切った 「無い」 と言えるすべてのすべてを 「無し」 として、神、仏、實相も 「無し」 として、その 「無し」 も 「無し」 としている、そこにそのままがあり、それがみずから、おのずからなのである。それが、實相なるもの、神なるもの、仏なるもの、創造するものなのである。

 そこにおのずからなる、みずからなる、そのままなる光明化運動なるものが久遠(くおん)を流れているのである。久遠なるものとしての生長の家人類光明化運動のすがたがそこにあるのである。

 みずから、おのずからなるものこそが創造であり、生長であり、唯一の善であり、価値なのである。自然(じねん)、法然(ほうねん)、天然(てんねん)なる光明化運動なるものの発進である。

 斯(か)くのごとき発進は久遠の発進なるものであり、「今」 なる発進なるものなのであり、すべてのすべてなる発進である。

 これは過去、現在、未来の流れの中の発進ではなく、「久遠」 なる、「今」 なる、「渾(すべ)ての渾て」 なる発進なのである。この渾ての渾てなるものが、みずからであり、おのずからなるものなのである。時空超脱の発進である。

 「発心(ほっしん)正しからざれば万行(ばんぎょう)空(むな)しく施す」 というよろこびの言葉はまことにも、みずから、おのずからなる発進、すべてのすべてなる発進の久遠なる実体がそこに鳴っている言葉なのである。

 五官の世界すなわち現象には、みずから、おのずからはないのである。それはすべて外より来たったものによって成り立っている、相対的にして、有限、局限なるものなのである。それは時間的にして、空間的なるものであるが故に、「久遠」 ではなく 「今」 ではなく、「渾ての渾て」 なるものでは有り得ないのであり、みずから、おのずからでは有り得ないのであり、そのままではないのである。

 みずからはおのずからなるが故に、相対を超えて 「在りて在る」 ものであるが故に、未だかつて崩れたることは無いのである。「今」 起った、みずから、おのずからそのものなる生長の家人類光明化運動なるもののまことのすがたがここにあるのである。

 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 に於いて 「欲(ほっ)するもの好ましきもの自(おのず)から集り来たり、欲せざるもの好ましからざるもの自(おのず)から去る」

 と観じ念ずる。この如意宝珠なるもののはたらきを称して、おのずからと言い、みずからと言うのである。おのずから、みずからがすべてのすべてであり、おのずから、みずからのみがあるのである。
 みずから、おのずからが神なのであり、天国なのであり、龍宮そのものなのである。

 去るも来るも、欲するも、欲しないも、好むも好まざるも、すべておのずから、みずからなのであり、神ばかり、光りばかり、善ばかりなのである。おのずから、みずからが、そのままであるから、「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり、」 と 「『生長の家』 信徒行持要目」 には「そのまま」について解説されているのである。

 みずから、おのずから、そのままの、如意なる運動が生長の家人類光明化運動なのである。(1998.11.17)

197復興G:2013/12/16(月) 14:32:00 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四十一

 何ごとのおわしますかは解らないのであるが、「吾れ今、神癒(しんゆ)の社(やしろ)、無の門関に坐して、癒(いや)しなる、甦(よみがえ)りなる大いなるものの中にいることを感ずる」 という安らかにして安らかなる想いの湧くのを憶(おぼ)ゆるのである。たしかに神秘なるあるものの中に、吾れもまた神秘なる存在(もの)としてあることを嬉しく想い、座を解いて書きつけざるを得ないのである。

 祈願の申込者と偕(とも)に、すべてのものと偕にその大いなるものの中にいる、ということも書きつけておきたくなるのである。これは私の大いなる発進の基なるものを成していることを想うのである。

 「吾れはまた全宇宙という社(やしろ)すなわち神癒なるもの、甦りなるものの中にいる」 ということも想えるのであり、不思議な想いであるが、宇宙すべてとひとつとなって大いなるものの中にいると同時に、宇宙をすべてのすべてとして、大いなるものとして、その中に自分が抱(いだ)かれていることも想えるのである。そして、「これでよい」 という安らかなるものに満たされているのである。

 「祈願申込書に書いてある祈りの内容はすべて私が摂取する。ただ實相の円満完全を祈れ」

 という声を内にたしかに聴いたのである。そして、申込者と一体である相(すがた)において龍宮海に入り、龍宮に坐して本来の實相(じっそう)の姿を観ずることが浄まるということだと拝察しているのである。それ故に、入龍宮幽斎殿における神想観では、次のように念ずるのである。

 「吾ら現象界の妄想悉(ことごと)く浄められて本来の如意自在(にょいじざい)の實相顕(あら)わる」

 “吾ら” となっていることは却ってこの場合、一体のいのちということをあらわしているのである。それ故、つづいては、一体であることにおいての今度は 「吾れ」 となっているのである。すなわち

 「わが全身如意宝珠(にょいほうじゅ)なり、一切の宝、吾が掌中(しょうちゅう)にあり」

 と。この吾れはすべてとひとつなる吾れなのである。

 入龍宮幽斎殿(にゅうりゅうぐう ゆうさいでん)は 「神癒の社(やしろ)」 となっているのである。これは 「社」 なるものが癒しそのものであるということなのである。社の中に入る、ということは、ここにおいては癒しの中に入ること、甦(よみがえ)りの中に入ることを意味しているのである。そして宇宙全体が神なる癒しの中にあると同時に、宇宙全体もまた癒しそのものであり、吾れを包んでいるのである。

 この意味において、「世界平和の祈り」 の中の、神の愛が 「全地上を覆(おお)い」 というその蔽(おお)い具合の中身の安らかさ、いうことを想わざるを得ないのである。

 また、 「伊勢神宮の神前(しんぜん)に於ける神想観」 の中の

 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう。

 その宇宙浄化の御はたらき現われて住吉の大神となり給う。

 …………

 天照大御神われに流れ入り給いて、その愛の霊光燦然(れいこうさんぜん)として宇宙を照らしたまい、その光いよいよ輝きを増して全人類を引きつつみ、全地上既に愛と平和と地上天国を実現せり」

 という。これは結局、イザナギのミコトが全宇宙を蔽い給うていることをあらわしているのである。そのイザナギのミコトの御はたらきが 「神癒」 ということになっているのであった。

 宇宙の大神とは、宇宙が大神であり、大神が宇宙である。宇宙それ自体のみずから、おのずからなる、それがそれらしくある宇宙自体の甦りが、畏くも宇宙の大神イザナギのミコトの禊(みそ)ぎ祓(はら)いとして表現せられているのである。(1998.11.18)

198復興G:2013/12/25(水) 14:42:18 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四十二

 神癒とは、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚した時に、あらわれるよろこばしき何かであるということである。自性円満なるもの(神=實相)はみずからあらわれるということなのであれば、神癒とは、内より神が癒しなるものがみずから、おのずからあらわれて実現するものであるということなのである。

 例えば、神癒祈願の申込みにおいても、申込みたくなること、そのことが既に内より神があらわれられ、神癒なるものがみずから、おのずからあらわれて申込書を書いているということになっているのである。

 はじめからある神そのものであればこそ、人型の 「實相円満」 という言葉があるのである。「實相円満」 がみずからあらわれて申込書となっているということなのである。

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)の 「信心よろこぶその人を如來とひとしと説き給う。大信心は佛性なり。佛性即ち如來なり」 という言葉は、このあたりのことを表現しているとも言えるであろう。神癒祈願の申込書を書いただけで病気が消えてしまって、お礼状だけが来るというようなことがあるのもまた、あるいはこのことの側面を教えているとも言えるのである。

 生長の家の人類光明化運動の出現は、宇宙的癒しの周期がめぐって来たことを意味していると言えるのである。宇宙の實相がみずから、おのずから顕れ給いて、生長の家人類光明化運動の出現となっているということである。

 ここにおいて、吾々は、二度三度、 「それを為し終ったのが生長の家だよ」 という声を聴くのであり、この 「為し終わり」 より発しているのが生長の家人類光明化運動なるものなのであることに、心を新たにしなければならないのである。

 そして 「こと完成せり」 「こと終われり」 の完全持続として、宇宙的自性円満の自己顕現のすがたとして、神癒なる光明化運動が實在していることを讃嘆し、拝みまつりたく 斯(か)く書かずにはいられないのである。

 斯く、繰り返し、繰り返し言いたくなるのは、生長の家人類光明化運動は神であり、實在そのものである、ということを讃嘆したい願いによるのである。

 生長の家人類光明化運動は實相そのものであって、實相と現象との中間あたりにあって實相を現象に持ち来たすための仲介の役目をする中有的な存在では決してあり得ないのである。

 神は暗(やみ)を知り給わず、悩みを知り給わないのである。それ故、神である生長の家人類光明化運動なるものは、暗を知らず、悩みを知らないのである。癒しそのものであり、甦(よみがえ)りそのものなのである。

 癒しと言えば、病悩を前提とした言葉のようであるが、 「神癒」 ということは、神である癒しなのであるから、この癒しとは、相対的なるものではなくして、神は絶対なるが如く 「神癒」 の癒なるものは、病悩に対する相対の癒しではなく、絶対の癒しそのものなのである。それはみずから、おのずからの新生そのものである、甦りというものなのである。

 それは、生長の家人類光明化運動と言えば、暗を光明化するという、相対の光明のように見えているままに、生長の家という言葉がついている以上は、神そのものであり、この光明も絶対の光明であり、相対の光明ではないということと同じように 「神癒」 もまた同じすがたなのである。(1998.11.19)

199「訊」:2014/12/17(水) 16:19:50 ID:???

『幸福をひらく鍵』55頁より謹写――

 都合が悪いときにも感謝できる者でないと本当に幸福な者になれないのである。誰でも順潮に事が運ぶような時には勇気が出るが、一つつまづくと勇気が無くなり勝(がち)である。順潮に事が運ばず困難が重なる時にも勇気を失わず、正念を失わず、前進する者が最後の勝者となるのである。
 「失敗」だと考える暇に、これが實相をあらわす「機会」だと考えよ。「病気」だと考える暇に、これが實相をあらわす「機会」だと考えよ。イエスはそのように教えたのである。即ち盲目の少年がイエスに近づいて来たときに「この少年が盲目にて生まれたのはこの少年の罪であるか、親の罪であるか」とたづねたときに、「本人の罪にもあらず、親の罪にも非ず、神の御業の顕れんがためである」とイエスは答えているのである。神の御業にて出来た世界が「實相」であるから、「神の御業の顕れんがため」とは「實相をあらわす好機会だ」という意味である。罪を見ないのがキリストの愛である。
 あなたの心の奥底ふかく湧き上がってくるところの願いは、既に「實相」に於て在るものが表現を求めて浮かび上がって来つつあるのである。だから、それは必ず実現すると信じて努力すれば必ず実現する。しかしその願いが実現した場合、他の人が不幸になったり、損害を受けたり、他の人への愛に背くような願いは、「我」の願いであって「實相」の底深く既に在るものではないのである。このような我の願いは必ずしも実現するものではない。

200「訊」:2014/12/17(水) 16:20:44 ID:???


『生命の實相』第三十八巻・8月23日頁より謹写――

 不満足さえも、またまことにありがたいことではある。不満足があるので、われわれは信仰に志し、真理に到達し、救われることができたのである。不満足に対してさえもわれらが感謝するとき、どこに真の「不満足」があるか、「不満足」と見えたのは「満足」の偽装であり仮面にすぎない。
 
 陰極陽転の理は昭々として明らかである。資源不足して人造の代用品いたるところに満ち、人知の進歩かえって増大する。不足は増大の本である。窮せずんば伸び、窮すればさらに伸びる。人はまことに伸びるしか知らぬ偉大なる存在である。 


『人類無罪宣言』133頁より謹写――

罪を解放する道

 罪がなぜその姿を現象界の不幸として、具象化して現わすかといいますと、罪それ自身がその存在を主張するためではないのであります。罪とは「実相を包みて顕わさざるもの」でありますから、理解の便宜上「包み」という字を当てはめて考えてください。「包み」が形にあらわしているのは、「包み」を開いて中の進物(実相)をただ「ありがとう」と受け取ってもらうためであって、「包み」そのもの「包装」そのものに執着してもらうためではありません。(中略)罪が形を顕わすのは、罪自身が自壊するためである。「包み」が形を顕わすのは「包み」自身がその結びのほどかれんがためである。病状が形をあらわすのは病自身が治らんためである。足が痺(しび)れたと気づく不快感は、足の痺れの治ろうとする時起こる――そのように罪が現象界に不幸としてその姿をあらわすのは罪それ自身が存在を主張するためではなく、「神の創造り給いし実相のあらわれんためである」といいうるのであります。
 
 以上の叙述で解明されましたごとく、「罪」が現実的不幸として客観化して現れるのは、罪自身がその存在権を主張するのではなく、神のみ業――すなわち神の創造り給いし完全なる実相のあらわれんためであるとしますと、「悔改める」すなわち心が「実相の方」へ完全に転回(コンヴァージョン)してしまいますと、さらに換言すれば「われ神の子なる実相」と「神の創造り給える実相浄土」とを直接体験で把握してしまいますと、罪はそのまま超越されてしまいまして、「包み」の模様はもう問題とならない。「包み」はその模様などに頓着なく解かれて捨てられてしまうのであります。

201「訊」 1:2014/12/18(木) 10:39:35 ID:???


『常楽への道』(吉田國太郎先生著)185頁より謹写――

◆ 幼な児のこころ

 生長の家では何でも思う通りになると申します。思う通りになると云われたら、『ハイそうですか思う通りになるのですか、有難うございます』、と受けたらそれでよいのです。それを、ただ思うだけでよいのだろうか、などと余計な分別の心をさしはさむ、これだけの一寸した気持の相違が、実は本当に思う通りになるか、ならないかの天と地の岐(わか)れ路になってまいるのであります。

202「訊」 2:2014/12/18(木) 10:41:04 ID:???

 ある日、福田さんが何でも思う通りになると云う話をしておりますと集りの中にいた、村田宗一さんと云われます方が、『先生思うだけでよいのですか、思う位ならば私にだって思える』と云うのだそうです。『本当に思うだけでよいのですね。思う位ならば、皆さん、それ位出来るではありませんか。自分は神の子必ず幸福になる、それだけでよいのですね。これ位ならば出來るじゃありませんか。さあ皆さん思いましょうよ』と申したそうです。(笑声)実際涙が出るほど、澄み切った素直さだと思うのです。先程導かれる者として及第することだけが大切だと申しましたが、これは完全にそこが及第しております。重味があります。その村上さんは永い間の風邪なのですが思えばよいと云われた通り、風邪は無いと思っていたら、そういう意味のことを思っていたら、その風邪が治ってしまったのです。御教を受けさえすればそこに結果がちゃんと現れる。だから力を入れずに、努力もせずに、本当に七つの灯台の点灯者の御言葉の開かれている、その中へすっと私達は入って行ったら、力を入れず努力もせず自分がすっかり変わってしまう。生長の家はそう云う救いであります。自力で励んで苦しみもだえて、やっと救われる救いではない。こちらの力の要らない救いであります。ここが生長の家の真面目であります。その辺には塩田が多く、村上さんは、塩浜の浜子と云う仕事をして居られた。浜子と云うのはどんな仕事か存じませんが、農村の小作人か、あるいは使用人の様な立場に当られるのかと思います。ある日、この村上さんが奥さんの代りに八百屋さんへ買物に行きますと、店頭に松茸がならべられてある。如何にもその松茸が美味しそうなので買って帰りたいと思われたのですが、値段が如何にも高い。これは駄目だと断念して帰られたのですが、その時、思う通りになると云う生長の家の話を思い出されて、松茸は食べられる松茸は食べられると思っていたそうです。何でも無いことですが素直にすーっとそのまま行じた処が尊いと思います。つまり御教の中に融(と)けこんだのですね。するとその翌々日とか翌々々日とか云いましたが、久しぶりに訪ねて来た友人がこれはお土産だと云って放り出したものを開けてみると、それが松茸なのです。やはり思う通りになったのです。それから思う通りになることがぼつぼつ出て来る。あまり有難いので鎮守さまにもお礼詣りに行ったのです。もう霜の来る頃の事でして、鎮守様の鳥居の前に一本の柿の木があって、真赤にすき透る程に熟した一箇の柿が梢についていて、実に美味そうな色をしている。それをみた時に、あれを食べたいなあと思われたそうです。しかし落したらべしゃんこにつぶれてしまうしと思って参詣を済ませて帰って来て、柿を仰いだ時に、又食べたいなあと思ったそうです。

203「訊」 3(終):2014/12/18(木) 10:41:48 ID:???

 しかし手がとどかない。落とせばつぶれてしまう。これは少々無理な願だと思って帰りかけたのですが、その時、そうそう思う通りになるのだったと思い出して、その柿を眺めながら、これは食べられるのだと思われたそうです。その状景を思い、柿の木の下でこの柿は食べられるのだと、素直に念じている村上さんの姿に何とも云えない尊い光がみえる様な気がするのであります。こういうことを馬鹿馬鹿しいとか、薄ッぺらだなどと思わないことです。そんなこと余り馬鹿馬鹿しいとか、お伽噺じみているとかそんな風に思う心が自分を殺してしまうのであります。村上さんはそんな風には思わなかった。そこが偉いところです。食べられるのだと思い、思う通りになると思って、四五歩歩いていきますと、その柿の木の下にせまい溝があってそこを綺麗な水がさらさらと流れているのですが、素直にいまのように思って四五歩歩いた時に後でバシャッと音がした。ひょっと振返っていたら、その熟柿が水の中へ落ちて(笑声)水の中を流れている。それを拾いあげた。その時に村上さんの心に何でも思う通りになると云う心がサーッと入って来て、強い強い信念となったのであります。そして今迄にない信念のこもった心で、力強く何でも思う通りになるぞと思ったのです。思う通りになるのだと云われたら、そんな気がしてもしなくても、思う通りになるのだと、一応乗って行ってみたらちゃんとこうした信念に入ったのです。素直な心根に神のはからいが自然と与えられて、こうなってきたのであります。その時村上さんはようし何でも思う通りになるのだ、俺はいつ迄も浜子ではいない、必ず浜親方になるのだと信念を固めたのであります。そして自分の信じた通り遂にこの村上さんは浜親方になりまして、西伯方村北浦の二番浜と云う浜を自分のものとしたのであります。ところが二番浜という浜は今まで扱った人が誰も成績をあげたことがない。しかし、俺はこの浜でも必ずよい成績をあげる、欠損などはしない、と云う信念で通しました処が、今まで三番塩も取れないようなところから一番塩ばかりが採れるようになった、と云うのであります。本当にこの世界は心ばかりが生きている世界で物質と云うものは無い世界であって心の内容通り、その通りに現われてくるのであります。

 この体験談でも証明されているように御教の中へすーっと自分を入れて行く、後は神が好いようにして下さいます。

<了>

211「訊」:2014/12/18(木) 14:37:55 ID:???

 思わしくないのは貴殿のメンタルであって、私の方はなんともございません。ですんで、

>>>4年経っても神がよくしてくれない人は単なる能書きマンの証明して
るのでしょうか?<<<

 とは、意味がわかりませんね。

 以上です。

 あとこちらは「WEB誌友会用の資料」を、確認するための場所です。痴呆症である点を考慮し「後日の削除要請」と致しましょう。

 それでは、がんばってください。

221神の子さん:2014/12/19(金) 19:22:57 ID:BSasglMk
web誌友会参考文献板 と云うんだよねここは 昨日は専用版に嵐に入るし、今日は此処だ

やはり名の通り どこかしこ関係なく鬱憤晴らす、「本流派」スポンサー トンチンカン あらし

またまた嘘つきトキ&訊けが喜んでいるよ

227トンチンカン:2014/12/19(金) 19:38:34 ID:r6TJQSCM

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221 :神の子さん :2014/12/19(金) 19:22:57 ID:BSasglMkweb

誌友会参考文献板 と云うんだよねここは 昨日は専用版に嵐に入るし、今日は此処だ
やはり名の通り どこかしこ関係なく鬱憤晴らす、「本流派」スポンサー トンチンカン
 あらし
またまた嘘つきトキ&訊けが喜んでいるよ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・「どこかしこ関係なく鬱憤晴らしている」のは、<曳馬野お爺さん>の方ですよ!!


・八方破れの <八つ当たり> なのですよね、、、 マサノブ爺さん・・・

228トンチンカン:2014/12/19(金) 19:44:20 ID:r6TJQSCM

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『総裁追放』というコトバに ピリピリ している、マサノブ爺さん・・
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・講習会の「受講者数」の、減少に次ぐ減少・・


・マサノブ爺さんを非難する「外部組織」の、急激な拡大・・


・「教団組織」から「外部組織」への、「信徒達の流出」が止まらないばかりか、尚一層
 加速してきたのであります・・


・マサノブ爺さんに迫り来る『総裁追放』の声を、今までのように <無視> 出来なく
 なってきたのであります。


・独裁者としての強がりを演じてはおりますが、「小心者のマサノブ爺さん」にとっては、
 内心 ビクビク しているのです、、、 居ても立ってもおられないのであります。


・「人間智」の限界に来ているのであります・・・




(参考) web誌友会参考文献板
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213 :神の子さん :2014/12/19(金) 18:42:43 ID:pF4uezM2

只今 訊けさん推薦で広報活動に参っています 耳触りのいい話で釣っておいて 実はこ
こだけの話ですが 版が荒れ 教団と本流両方にダメージを与えて 漁夫の利を狙ってい
るのよ 私たち嘘つきトキ&訊けは

この最後のところは 雅宣総裁が承知で、訊けとして出てきているか、知らないとすれば、
総裁追放を狙いその後の教団でおいしい目を見ようとする奸臣でしょう。訊けのすること
を100%肯定するトキの態度が解せない
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229るん吉:2014/12/20(土) 07:38:16 ID:p..UGkhA
復興G様

何と膨大な量の御文章!!こんな大変な作業をして下さって
ホントにほんとに有難うございます。
保存させて頂きました。外に出たときでも、いつでも見れるように印刷しておきます。

有難うございます。大事にします!!

230るん吉:2014/12/20(土) 08:27:40 ID:p..UGkhA
訊けさん

読ませて頂きました。
また、お邪魔しますね。ブログ。そいで、また保存させてもらおうっと。
有難うございまーす。

231「訊」:2014/12/20(土) 08:53:20 ID:???

>>るん吉

 作戦成功です。るん吉みたいな人が現れてくれるのが、私の目的でした。復興Gさまの御文章が過去送りではもったいなかったので、曳馬野サマにご協力頂いたのです。(曳馬野サマは私が書くとドンドン、そのスレを上げてくださる有難い方です)

 素晴らしい御文章ですんで、一緒に読みましょうね。また、ご協力頂いた曳馬野サマには、深甚なる謝意を表し挨拶とさせて頂きます。



244トンチンカン:2014/12/20(土) 20:23:13 ID:r6TJQSCM


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   嵐吹く  荒れる大地に  意地張るも

                 爺さん一人じゃ  踏ん張れぬ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



・また始まったのかい?  マサノブ爺さん・・・


・「アラシ」していて、楽しいのかい?  マサノブ爺さん・・・


・空(むな)しいね〜〜〜  マサノブ爺さん・・・

245神の子さん:2014/12/20(土) 20:29:52 ID:y7odNOw2
>>るん吉

 作戦成功です。るん吉みたいな人が現れてくれるのが、私の目的でした。復興Gさまの御文章が過去送りではもったいなかったので、曳馬野サマにご協力頂いたのです。
(曳馬野サマは私が書くとドンドン、そのスレを上げてくださる有難い方です)

>>199 までは誰も荒していない それを引っ張り出してわざと荒れる版に仕向けた この嘘つきトキ&訊けの狡猾さを見よ 
過去送りではもったいないからと うまくるん吉さんをひっかけて 掲示板運営の目的を隠したわけだ

嘘つきトキ&訊け は 一人二役で雅宣総裁なのかな〜  一人二役で雅宣総裁なのかな〜  一人二役で雅宣総裁なのかな〜

246神の子さん:2014/12/20(土) 20:34:36 ID:UYKi0.kA
ばかだねーとんちししょう

あんたの書くのは、彼らの目的にかなっているから消さないの

私のは都合が悪いからすぐ消すの

この違いも解らないおバカさん

と云いつつ嘘つきトキ&訊けに協力してるんだけどね

247「訊」:2014/12/25(木) 08:42:42 ID:???

『幸福の原理』127頁より謹写――

 歯痛というものが、現に存在すると自分に感じられる場合に、「歯痛は存在しない」と本当にパッと心を三百六十度回転して、「歯痛なき世界」にするりと這入り得る人はいいけれども、そうでない人には「自分は病気でないことを欲する。自分は病気のないことを欲する。自分は病気を断じて放逐する」とこう大声に叫ぶことも一つの方法であることは前に述べた通りであります。しかしこれは最高のやり方ではない。第二善のやり方であります。第一義諦の真理は「病気本来無し」でありますけれども、現象の相に執われている人には病気なしと考えられないものですから、「私は病気の〝ない〟ことを欲する。自分は神から完全なる自由を与えられているのである。だから、病気を放逐する権利がある。自分は断じてそれを放逐する!」こう心に、又は言葉に唱えることは合理的に感じられるものですから、不合理だと思いながら念じることよりも、合理的だと信じながら念ずる方が、その思念が実現し易いので「病気無し」と信じられない人はこう念じて、これによって病気は完全に放逐されつつあると信ずれば好いのであります。兎も角、吾々の心の世界にある業というものは、形に現われたら消えて行くのであります。それは丁度、時計のネジを廻して置くと、その時計がチンチンチンと時鐘を打つ音を出し、感覚に触れる姿となって現われる毎に、そのゼンマイに潜在する業の力は消えて行きつつあるのであります。それで何日間も度々チンチンチンと鳴ったら、その時計は新しくゼンマイを巻き返さない限り、音を立てなくなるのであります。それと同じく、吾々が心の世界で、例えば腹が立って、ブツブツ言いたくなる。口惜しい、残念だ、と思っていると、そのブツブツがおできになったり、蕁麻疹が出て来たり、口惜しい、残念な思いが、神経痛や、胃痙攣や、いろいろの慢性病になってあらわれてくる。そのあらわれるのは業の力が消えて行きつつあるのです。併し、その時、業のゼンマイを新たに巻き直したらどうなるでありましょう。ゼンマイを新たに巻くとは、新たにブツブツの心を起こす。「こんな病気になってつまらない」とブツブツの心を起こす。「こんなに病気をしているのに、誰も深切にしてくれない、口惜しい」と「口惜しい、残念だ」の業を起こす。こんなに毎度ゼンマイを巻き直したら、幾らチンチンと時鐘が鳴っても、ゼンマイの力は無くなりませぬ。そこで業を消す道は、悪いことが形に現われたら、「ああ有難うございます」とその儘素直に受けることであります。俗に「病気が出る」と申しますが、まことによく請ったものでありまして、病気は業が出て行くのですから、有難いわけであります。病気が入るのだったら可(い)かぬでしょうが、病気が出たのなら「ああ有難うございます」とこう思って、消えて行きつつある病気に感謝すれば好いのであります。感謝致しますと、感謝の心は一番素直な心、そのまますっと受ける心でありますから、反動を伴わないで、エネルギーがそのままそこに止まってしまうのであります。・・・(中略)・・・すっとそれを受けとって反抗しないのであります。「ハイ、有難うございます」の精神であります。そのまま素直の精神で受けないで、「苦しい、痛い」と反抗的に受ければ、業は消えないで、益々増えるばかりであります。ですからその儘に受けるのですね。そのままに受けたら、ボールは手を痛くならせない。病気もそのまま受けたら、病気が断じて苦痛でなしに、業が消えてしまうということになるのであります。

<了>

249曳馬野:2014/12/25(木) 17:52:48 ID:PbwQ2xXs

曳馬野様

 私は、あなたが総裁でないと思っています。それは繰り返して申し上げます。

 それより、総裁を援護する人が、アラシ投稿を繰り返すと、結果として、総裁にも多大なご迷惑がかかります。

 以後、アラシ投稿はご遠慮願います。
****************************************************************************************************************

『トンチンカン』に誰々は「マサノブ爺さん」と云うカキコは止めて下さいと云い、従わなければ書き込み禁止をせよ

あらぬ事に引っ掛けて非難中傷しているだけ、これをアラシト云わずして何という

250トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/04/16(木) 22:10:13 ID:fRQPK2Kc
 ここで私が読者諸賢に申し上げたいのは、真理はそれが真理だから貴いのであって、
お経にあるから貴いのでもなく、誰々が語ったから貴いのでもないということである。
宗教的真理の悟りは、学究的研究や、典拠の渉猟とは何の関係もないことである。

 天理教祖は「学者とさとき者には隠し給う」というような意味をいっておられ、
アダムとイヴとは「知識の樹の実」を食したためにエデンの楽園から追放されて
いるのである。色々の聖句を寄集めて楽しむことは、良い趣味ではあるけれど、
一種の高級な蒐集癖にすぎないのである。

「新版 女の生き甲斐」 谷口雅春先生著、248p より謹写

251トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/04/16(木) 22:12:38 ID:fRQPK2Kc
*以下はトキの感想です。

web誌友会で、真理を知ることの大切さを学んでおりますが、
大事なのは知識の量でなく、信仰の深さなのですね。

 本日、この部分を拝読し、感じたので、書きました。

合掌 ありがとうございます

252a hope:2015/07/03(金) 10:10:26 ID:brQxC10.

Web誌友会板 >5596 の補足です
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/5596


「生命の實相」第23巻 p114 3行目〜

谷口――ご質問は「実相人間」と「肉体人間」を混同して、「肉体人間の知恵はなぜ不完全で真理がわからぬのであるか?」と言っていられるので、いつまで経っても正当な回答ができぬのであります。

釈迦は『法句経』において「怨み心ではいつまでも怨みは解けぬ」と申されましたそのように「肉体人間の迷いの心ではいつまでも迷いは解けぬ」のであります。

「肉体人間」は本来存在しないのであります。(本来存在しないから、やがて崩壊するのであります)

存在しないものが不完全であるのは当然であって、ただ完全なるもののみが存在するのであります。

存在しないものが「存在するもの」を理解しえないのは当然であります。

あなたは「なにゆえに完全なるべき神の子『人間』がその実相を直観できないのであるか」と言っておられますが、完全なるべき神の子たる「実相人間」は、その実相を直観するもしないもない、すでに完全なのだから問題はないのであります。


この辺の消息は議論をもって押し進めても「肉体人間の知恵」にわかるはずはないのであります。

ただ「肉体人間の知恵」(迷い)を淡(うす)くすることによって、霧が破れて日光の輝き出(い)ずるがごとく、肉体人間にも実相智の光線が射しはじめるのです。

この「虚」の暗(やみ)を破って実相智の光線の射しはじめることを、「直観」によって、実相人間の完全さを知る」というのであります。


肉体人間の知恵は「暗(やみ)」のようなもので、実相人間は「光」のようなものであります。

「暗(やみ)」はそれを淡(うす)くすることによって光の存在を知るのであります。

「暗(やみ)の無知無明はなぜあるかと」とあなたは論議されますが、暗(やみ)とは「光の虚(きょ)」であります。

「光の虚」が光を知らないのは当然であります。

光を知ればもう「光の虚」(暗)ではないのであります。

だから「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。

あなたは「肉体人間が聖典を読んで、実相人間を知る」と言われますが、「肉体人間」が聖典を読むのは、本来無いところの我見(肉体人間の知恵――迷い)を捨てるためで、「肉体人間の知恵」がなくなれば、ひとりでに内在の光が発現してきて、「本来の実相」が輝く。

これは「肉体人間が聖典を読んだので実相人間を知った」のではなくて、肉体人間(光の虚)がそれだけ減ったので実相が輝き出したであります。

肉体人間の知恵、はからいをいっさい捨てるほど実相人間があらわれるので、「肉体人間が実相人間を自覚する」などということは「迷いが悟りを自覚する」などという言葉と同様で、ありえないことなのです。

253a hope:2015/07/03(金) 10:14:10 ID:cEpBaIdo

>>252 a hope所感)

雅宣先生は、「自分のコトバは神のコトバではない」という内容をブログで公言されています。
(出典がなくすみませんが、このことは有名ですよね)

ということは雅宣先生は、ご自分の書かれた文章、つまり讃歌、祈りの言葉等はすべて人間知で書いたと、
ご自分自身でお認めになっているのです。

上の参考文献の中に、
<<だから「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。>>

とありますが、この『人間知は真理を知らない』という聖典の言葉は真理ですから、
そうすると「人間知で書かれた雅宣先生のコトバは真理ではない」ということになりますよね?

つまり、聖典「生命の實相」の真理によれば、雅宣先生の祈りの言葉、お経等は本来無い「光の虚」つまり、「虚説」であり、
それをご本人が認めてしまっておられるのです。

聖経 聖典などの、「聖」という言葉がつく文章は、神のコトバであり、「光」であり、
一方、人間知で書かれた「経」「祈りの言葉」などは本来無い「暗(やみ)」であり、虚説なのですから、
わたしたち「生長の家」の信徒は「虚説」には和解してはいけないということになるのだと思います。

だって、「虚説」に和解したら、とうぜん「迷い」ますものね。

みなさま、神のコトバである聖典をもっともっと拝読して、虚説は排撃していきましょう!

254神の子さん:2015/07/03(金) 12:33:12 ID:kEnG6jMo
250 251 をそのまま差し上げます

真理はそれが真理だから貴いのであって、お経にあるから貴いのでもなく、誰々が語ったから貴いのでもないということである。

255Sue:2016/02/04(木) 05:51:45 ID:ijlEEPpo
復興G さん  よろしければ もっと 投稿お願いします。

256志恩:2016/02/04(木) 06:38:06 ID:6hRUvSRg
254 の ID:kEnG6jMoさんは、曵馬野様ですよ。過去に 曵馬野様は、このIDで 何度も ご投稿されてます。

257神の子さん:2016/02/04(木) 08:27:19 ID:P0aFguZs
>>256志恩さん 早とちりじゃないかね  >>255のSueさんは復興Gさんに書いて欲しいといっているだけかもよ

ついでに書いておこう

 だから「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。・・・生命の実相

 この『人間知は真理を知らない』という聖典の言葉は真理ですから、そうすると「人間知で書かれた雅宣先生のコトバは真理ではない」ということになりますよね?・・・a hopeさん

こう判断したのは肉体人間の a hope さんじゃないのかな

 
ここで私が読者諸賢に申し上げたいのは、真理はそれが真理だから貴いのであって、お経にあるから貴いのでもなく、誰々が語ったから貴いのでもないということである。・・・「新版 女の生き甲斐」 

 お経にあるから貴い(生命の実相、聖経と云われるもの)誰々が語ったから貴い(雅春先生、神)のでもないということである。とも読めますね。

258神の子さん:2016/02/04(木) 08:43:44 ID:P0aFguZs
「肉体人間の迷いの心ではいつまでも迷いは解けぬ」のであります。

「肉体人間」は本来存在しないのであります。存在しないものが不完全であるのは当然であって、ただ完全なるもののみが存在するのであります。
「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。


生長の家に触れ始めたころの肉体人間の迷い心と、此処で色々利口に語っている真理を知っているという心、は同じものではありませんか?

ただ完全なるもののみが存在するのであります。に成っている人はいないと思われますが。

259トンチンカン:2016/02/04(木) 08:55:25 ID:z9V4A.MQ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「曳馬野」爺さんが、「神の子さん」で出てくる理由は・・・

 ID:kEnG6jMo = 「曳馬野」
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(参考) 本流対策室/6
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410 :曳馬野 :2015/06/15(月) 19:46:45 ID:kEnG6jMo

あれっ、アレッ、、もう恥ずかしくなって?  また『神の子さん』で出てきたの・・


あなたのように誰が言ったからどうこうだ、と云うように先入観相携えてしかものを考えられない人間に対して、名無しで書くんだよ、文の意味だけを考えられるようにね。それを態々余分な想像ばかりして考える、救いようがないね
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

260神の子さん:2016/02/04(木) 08:56:26 ID:P0aFguZs
もっと簡単に言えば

「こうしたらよいとか真理の言葉に従えばいい」とか考えるのはそうすればもっとよくなると云っているのでしょう?

「存在しないものが不完全であるのは当然であって、ただ完全なるもののみが存在するのであります。」の生命の実相の言葉で言えば不完全を自認している心です。

 完全なるものがこうすればもっとよくなるなんて考えますか?

此処でもっともらしいことを言っている心はどんな心でしょうか?

261トキ ◆UMw6UoGELo:2016/02/04(木) 10:03:25 ID:3u7tF7hI
 すみませんが、板の趣旨と違う投稿はご遠慮してください。
よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

262神の子さん:2016/02/04(木) 10:34:25 ID:P0aFguZs
a hope さんが自分の感想を書いていても何も言わずに、私がそれへの感想を書くと関係ないものとなるのですね。

面白い言い分です。本当に関係ないのは>>259みたいなのではないのかな。

263神の子さん:2016/02/04(木) 10:34:55 ID:P0aFguZs
a hope さんが自分の感想を書いていても何も言わずに、私がそれへの感想を書くと関係ないものとなるのですね。

面白い言い分です。本当に関係ないのは>>259みたいなのではないのかな。

264a hope:2016/02/05(金) 01:11:23 ID:cEpBaIdo

web誌友会板でも紹介させていただきましたが、最近、雅宣先生がFBで、短いお言葉をたくさん紹介してくださっています。

>>6095 に紹介させていただいた3つは、とても率直な祈りだったので感動しました。


ですが、正直に感想を言わせていただければ、他の多くのお言葉はわたしの魂にはまったく響いてきません。

その理由ですが、そのお言葉の内容が現象や肉体を認めてしまっている二元論だからなんだと思います。



「有限の現象世界には、無限なる神は存在しない。しかし、神そのものは存在しなくとも、“神の痕跡”はあらゆるところに満ち溢れている。」(雅宣先生)

は、本来の唯神実相の生長の家の教えなら、

「有限の現象世界など本来無い、無限なる神(実相)しかない。神しか存在しないので、すべての物には神が満ち溢れている」

となるのではないでしょうか?

また、

「私は内に無限を蔵しているから、有限な肉体をもちながらも、その肉体で捉えた世界の奥に無限を感じることができるのである。」(雅宣先生)

は、本来の生長の家の教えなら、

「私は神の子であり、有限な肉体などではないのだから、 常に無限を感じることができるのである」

となりませんか?


ご意見、反論をお待ちしていますm(__)m

265a hope:2016/02/05(金) 07:39:52 ID:cEpBaIdo

「神は悪を創り給わず。悪は妄想の産物であり実在でないから、私はそれに執着せず、攻撃せず、戦いません。」(雅宣先生)

本来の生長の家の教えでは、

「神は悪を創り給わず。実相世界は善一元である。
だから実相世界の投影である現象世界において『悪』と見えることも、本来は『悪』ではないのである。
現象世界でのすべての出来事は自分にとって魂を磨くための大切な経験ですから、すべてに感謝して善処します。」


となりませんか?


わたしは、「神の子として生きる」ということは、現象世界の『悪』と見える出来事を見て見ぬふりをすることでは決してないと思います。

268a hope:2016/02/05(金) 08:03:26 ID:cEpBaIdo
>>266志恩さま

さっそくのご意見をありがとうございます!

>>267
<<元教団の幹部や講師でいらした本流の先生方のご意見も伺いたいですね。>>

同感です。

どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m

270a hope:2016/02/05(金) 08:09:59 ID:cEpBaIdo

本流の先生方だけではなくて、「生命の實相」を拝読している「生長の家」の信徒さんのご意見ならどなたのご意見でも大歓迎です。

ただし、ここは「生命の實相」の真理を学ぶweb誌友会の参考文献板ですから、
「生命の實相」を拝読していない方のご意見はご遠慮願います。

272志恩:2016/02/05(金) 08:35:07 ID:6hRUvSRg
a hope様

うっかりしていましたが、ここは、web誌友会参考文献板でした。

シャンソンさんから、そう御指摘がございましたので、気がつきました。
それで、
会話部分の・・266〜271は、本流対策室板の方へ移動しましたので、よろしくお願いします。

273a hope:2016/02/05(金) 08:35:43 ID:cEpBaIdo
>>271 志恩さま 

②は、雅春先生のお言葉ではありません(;'∀')

a hopeが、雅宣先生のお言葉を、「実相一元」風にアレンジしたものです。

わたしは、①の雅宣先生のお言葉は、「悪を実在でない」と表現しながらも、「悪」の存在を認めてしまっている二元論だと感じます。

今日は、これから仕事なのでこれ以上書き込みはできません。

夜、戻ります。


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