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【資料】神秘主義の系譜【探索】

1名無しさん:2013/07/20(土) 03:52:02
※政治的動機での書き込み、宗教団体などへの勧誘および他者への誹謗中傷などの迷惑行為を禁止します。

神秘主義の系譜.pdf
http://kie.nu/19TU

※アップロードファイル消滅予定日時:2014年07月19日 20時56分06秒

2名無しさん:2013/07/20(土) 03:52:33
「 宗教的秘密結社として最も長く生命を保っているのは,弥勒下生(みろくげしよう)信仰を中心に阿弥陀信仰,マニ教の菜食主義や五戒などの生活規範を取り入れて,元朝の中ごろに強大な勢力をもつにいたった白蓮教(びやくれんきよう)である。これは10世紀ころに始まり,時の政府から終始〈邪教〉として厳禁されていたが,元末(14世紀後半)に,紅巾の乱と呼ばれる大反乱を起こして元朝を崩壊に導き,さらに,明・清時代を通じて,厳しい弾圧を受けながらも,しぶとく存続し,清代中期,嘉慶年間(1796‐1820),長江(揚子江)中流域を中心とする山岳地帯で蜂起し,清朝支配体制を動揺させた(白蓮教の乱)。白蓮教の支派末流は,ごく近年まで根強く活動し,1900年の義和団運動のほか,在理教,黄天道など種々の名で華北一帯の民衆の間に信仰されていたが,その一つである一貫道は,現在も台湾で活発に布教している。」

3名無しさん:2013/07/20(土) 03:53:19
マニ教
マニきょう Manichaeism

イラン人マニ Mani(216‐276‖277。正確にはマーニー M´n ̄)によって3世紀に創始,唱導された二元論的宗教。当時のゾロアスター教を教義の母体として,これにキリスト教,メソポタミアのグノーシス主義と伝統的土着信仰,さらには仏教までを摂取,融合した世界宗教である。その徹底した二元論的教義では,光と闇,善と悪,精神と物質とが截然と分かたれていた始源のコスモスへの復帰を軸として,マニ教独自の救済教義が宇宙論的に展開される。教団組織は仏教のそれにならったと推測され,出家に相当する〈義者・選ばれた者ardav´n〉と俗人の〈聴聞者 niyヾshag´n〉の2種類の信者により構成されていた。前者には,肉食・動植物損傷の禁止,完全な禁欲,週に2日の断食,イスラムの断食月の先駆となったと考えられるベーマ B^ma 大祭(マニの殉教と昇天を祝う最大の祝祭)に先立つ1ヵ月の断食などが要求された。マニはササン朝のシャープール1世の厚遇を得て,インドに及ぶ精力的な伝道活動を行ったが,次々王ワラフラン1世の宗教政策転換により殉教した。死後も教義は後継者の手により,4世紀には西方では,エジプト,北アフリカ,さらにイベリア半島にまで伝えられ,イスラム時代以降も,ザンダカ主義のような形でイラン系知識人の間に影響を残した。
 マニ自身はアラム語の一方言で記述したが,シャープール1世に献呈した《シャーブーラガーン》という中世ペルシア語書の存在したことも伝えられている。他の聖典としては《大福音書》《生命の宝》《プラグマテエイア》《秘儀の書》《巨人の書》がある。これらすべて,断簡としてしか残されていない。                     上岡 弘二
[中国]  マニ教は7世紀末に中国に伝わり,〈摩尼教〉あるいは〈末尼教〉と音写され,教義に則して〈二宗教〉あるいは〈明教〉と呼ばれた。唐代にあっては,白衣白冠の徒と称された摩尼教は,景教(ネストリウス派キリスト教)および松(けん)教(ゾロアスター教)とともに,西方渡来の宗教の代表と目され,それらの寺院は〈三夷寺〉と称された。とくに漠北にいたトルコ族のウイグル(回世)に広まり,第3代牟羽可汗治下にその国教となりさえした。唐の玄宗は732年(開元20)に邪教として漢人の信仰を禁じたが,在留の西域人については不問に付した。768年(大暦3)にはウイグルの要請で長安に大雲光明寺と呼ばれる摩尼教寺院が建てられ,9世紀の初めにかけて長江(揚子江)方面の大都会や洛陽,太原にも建てられたが,843年(会昌3)に会昌の廃仏に先立って禁断された(三武一宗の法難)。2年後の廃仏の際に景教と松教も禁断され,宣教師たちは還俗させられるが,摩尼教の場合は,入唐僧の円仁が《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》に,勅が下って天下の摩尼師を殺さしめたと明記したごとく,多数の殉教者を出した点が注目される。五代・宋代以後には,仏教や道教などと習合した秘密宗教として,江南や四川で行われ,しばしば官憲による邪教取締りの対象とされた。日本の《御堂関白記》をはじめとする日記の具注暦に日曜日を〈蜜〉と記すのは,摩尼教の信徒が日曜日を休日として断食日とした暦法が東漸して日本にまで伝わったことの明証である。なお,20世紀初頭以来の中央アジア探検によって,トゥルファン(吐魯番)などから多数の摩尼教関係の文献や壁画が発見された。    礪波 護

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4名無しさん:2013/07/20(土) 03:55:24
景教
けいきょう J°ng jiロo

大秦景教ともいい,キリスト教ネストリウス派に対する中国でのよび名。ネストリウスが,キリストやマリアの神性を弱めると解されかねない説を主張したため,431年のエフェソス公会議で異端と決定され追放されると,東方に教圏をもとめ,まずイランの地でかなり栄え,ついでさらに遠く中国に至ったのである。中国には,唐の太宗治世の635年(貞観9),ペルシア僧のアラホン(阿羅本)を団長とする伝道団が堂々と長安に到着するや,太宗は宰相の房玄齢らをして宮中に迎えしめ,その経典の翻訳を勅許し,布教を勧めた。3年後には長安の義寧坊に一寺を建立させ,僧21人を出家させた。つぎの高宗も景教を保護し,諸州にその寺院をおかせ,アラホンを崇(たつと)んで鎮国大法主とした。仏教に傾斜した則天武后の治世には少し衰えたが,玄宗によって保護され,アブラハム(羅含)やガブリエル(及烈)といった有力な僧侶によって大いに教線を拡大した。
 当初はこの教えを波斯経教,その寺院を波斯寺,つまりペルシア人の宗教とよんできたが,発生の地がペルシアではなく大秦国であることを知り,745年(天宝4)には詔によって波斯寺を大秦寺と改めることになった。ひきつづき粛宗・代宗・徳宗の治世に優遇され,781年(建中2)には,篤信の居士イズドブジド(伊斯)の出資によって《大秦景教流行中国碑》が建てられたのである。この碑によって初伝以来の中国における盛衰の跡をたどることができる。この碑は,明の天啓年間(1621‐27)に偶然に発見されてから内外の注目をひき,今は西安の陝西省博物館内の碑林に陳列されているが,その複製は京都大学文学部陳列館と高野山にある。なお西方からの伝教士ガブリエルが玄宗の恩寵をえて布教に便せんと奇器異巧を造って献上し,非難されているが,これなど,明末のイエズス会宣教師マテオ・リッチらが天文儀器や時計などを朝廷に献上したことの先駆といえよう。唐の武宗が845年(会昌5)の会昌の廃仏(三武一宗の法難)の際,外来の宗教をも一律に禁断したので,景教も迫害されることになり,急速に衰え,宋初には景教徒の姿は中国本土では見かけられないまでになった。しかし西北辺境方面や中央アジアではその信仰が維持され,11世紀にはモンゴル族のケレイト部やトルコ族のオングート部に多数の信者を擁していたため,ケレイト部と通婚したチンギス・ハーン家にも多くの信者を出した。したがって,モンゴル族がユーラシアにまたがる世界帝国を建設し,あらゆる宗教に寛容な態度をとると,ふたたび中原にあらわれ,今度は〈也里可温(エルケウン)〉あるいは〈達婆〉〈迭漢〉とよばれたが,いずれもペルシア語のタルサ,神を怕(おそ)れる人,の意味といわれる。とにかく元朝にあっては長江(揚子江)下流域にも相当の信徒がいたのであって,1289年(至元26)以後,崇福司という官庁を設けて事務を管掌させた。しかし,明朝が興ると,いっさいのキリスト教が禁断され,ネストリウス教徒も後を絶ったのである。⇒ネストリウス派
                         礪波 護

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5名無しさん:2013/07/20(土) 03:56:16
>>4
ネストリウス派
ネストリウスは

エフェソス公会議(431)におけるネストリウス断罪に同意しなかったシリアのキリスト教徒が形成した教派。ペルシアを中心に,海路インド,陸路中央アジア,シベリア,中国まで拡大したが,13世紀末に衰退した。自称は東方教会だが,アッシリア教会とも呼ばれ,近世にカトリック教会と合同した一派はカルデア教会と呼ばれる。教義の面ではアンティオキア学派の神学者モプスエスティアのテオドロス,ネストリウスなどの教えを発展させ,キリストにおける神性と人性の独立性を強調し,両者の結びつきを実体的ではなく,道徳的にしか考えない傾向があった。そのためカルケドン派教会から異端とされた。初期の有能な指導者バル・サウマーは,ローマ帝国の弾圧を逃れて,5世紀中葉にシリアのエデッサからペルシア領ニシビスに達し,ここに神学校を設けて拠点とした。バル・サウマーはペーローズ王の厚遇を得て,ネストリウス派をペルシアにおける支配的キリスト教派となし,ベート・ラパト会議(484)で公式にネストリウス主義が受けいれられることになった。6世紀には修道制も確立した。
 イスラムの支配下にあってもネストリウス派は繁栄を続け,特にギリシア語文献の翻訳者,医師,技術者としてイスラム文化の形成に貢献した。なかでもアッバース朝下に活躍したフナイン・ブン・イスハークは有名である。ネストリウス派教会の首長はカトリコスと呼ばれるが,5世紀末から東方総主教と称した。その座所はセレウキア・クテシフォンにあったが,アッバース朝時代にバグダードに移った。典礼用語はシリア語で,それは布教地においてもだいたい保たれた。布教活動は同教派の黄金時代を現出した東方総主教ティモテオス1世の時代,すなわち8世紀後半から9世紀初頭にかけてもっとも盛んであった。アラビア半島から海路インド南部に達し,大きな勢力を築いたほか,北方の陸路を伝わっては中央アジアから中国までのほぼ全域に及んだ。中国に7世紀前半に伝わったネストリウス派は景教の名で知られるが,中国では教勢は伸びなかった。ただモンゴル族とトルコ・タタール系民族のあいだで改宗者を得たことは,のちのモンゴル軍の征服の際にネストリウス派にとって有利に働いたが,モンゴル系諸国家のイスラム化とともに急激に衰退した。近世においてローマ教会の働きかけで一部のネストリウス派が合同教会(カルデア教会)を形成した。クルディスタンに答塞(ひつそく)していたネストリウス派は19世紀にアッシリア人の発見として世界に知られたが,勢力はごく限られている。⇒景教                   森安 達也

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6名無しさん:2013/07/20(土) 03:59:06
>>2
弥勒信仰
みろくしんこう

インドに成立し,東南アジア・東アジアの諸民族に受容された弥勒信仰は,未来仏である弥勒菩醍(マイトレーヤ Maitreya)に対する信仰で,仏教に内包されたメシアニズムである。弥勒菩醍は釈尊入滅の56億7000万年後に,弥勒浄土である兜率天(とそつてん)よりこの世に出現し,竜華樹の下で三会にわたって説法し,衆生救済を果たすと信じられている。インドにおける弥勒信仰の前身の一つは,ヒンドゥー教における救済者カルキの存在である。カルキは未来において人間の寿命が23歳となった末世に,この世に出現して人々を救済すると説かれていた。また弥勒は別称アジタとよばれるバラモンの弟子だとする説もある。本来アジタと弥勒(マイトレーヤ)は別々の存在であったのが,同一視されるようになったという。仏典〈弥勒三部経〉すなわち《弥勒下生経》《弥勒大成仏経》《弥勒上生経》が,教理の中心である。弥勒下生の地は,ゲートマティとよばれる都市とされ,その地はすばらしいユートピアとして描かれている。したがって,弥勒信仰はユートピアをめざす千年王国運動(至福千年運動)とかかわる性格をもつのである。事実,中国の弥勒信仰は,民衆の反乱運動と結びついて展開した。朝鮮半島においても同様な事例が認められ,とくに19世紀末の社会変動期に弥勒下生信仰が顕在化し,新宗教運動のかなめとなった。また,新羅の花郎も弥勒信仰の影響を受けていた。
[日本]  中国・朝鮮半島を経て6世紀に伝来した日本の弥勒信仰は,最初百済の弥勒信仰の影響が強かったが,しだいに定着して民俗信仰となった。弥勒信仰の一般的展開からみると,まず下生信仰が成立し,次に上生信仰に変化したと考えられているが,日本仏教史の上では,弥勒信仰を受容した貴族社会が,まず上生信仰を展開させた。下生信仰の未来性が,貴族たちの個人的信仰と相容れなかったためである。しかし真言宗の空海による弥勒信仰は,高野山を将来の弥勒浄土とみたて,そこに入定して,弥勒出世を待機する内容であり,弥勒下生の一つのタイプを示している。真言宗の民間信仰との接触により,弥勒信仰は各地に広まっていた。とくに15〜16世紀に,東日本の鹿島地方を中心に弥勒下生の信仰が強まった。この背景には,太平洋のかなたから〈弥勒の舟〉が鹿島地方に到来するという伝統的な信仰に支えられている。江戸時代の代表的な山岳信仰である富士講の教祖身禄(みろく)は,入定行者の系譜をひき,〈弥勒の世〉の現実化をめざしたもので,近代の大本教(おおもときよう)などの新宗教運動の嚆矢(こうし)となった。       宮田 登

7名無しさん:2013/07/20(土) 03:59:41
>>6 の続き


[中国]  中国においても弥勒がこの世に下生することにより理想的政治が実現するという民衆の信仰は強く,この信仰を組織して弥勒の名の下に宗教反乱がくり返された。自然災害,あるいは悪政によって困窮の生活に追い込まれた民衆の心をこの信仰の下に団結し,その力を利用して反乱が企てられたのであるが,そのたびに為政者は邪教として禁圧を加えている。
 北魏時代(386‐534)の大乗教徒の乱はその先ぶれとされるが,弥勒の名を用いたのは,613年(大業9),隋の煬帝(ようだい)の時代の河北における宋子賢がはじめである。〈弥勒出世〉と自称した彼は幻術にたけ,夜になると光を使って楼上に仏の姿を現出させたり,あらかじめ紙上にかいた蛇や獣,人間の姿を鏡を使ったトリックで映し出し,罪業のあかしとして見せたりして民衆の帰依を得たが,挙兵の前に発覚し殺された。同じ年に陝西の扶風では,沙門の向海明が,帰心すれば吉夢(よいゆめ)を得られるとして人々を惑わし,乱を起こしてみずから皇帝と称し,年号も新たに立て数万が蜂起したが,鎮圧された。また,反乱ではないが,弥勒信仰あるいは讖緯説(しんいせつ)を利用して革命し政権をとったのが則天武后である。妖僧薛懐義(せつかいぎ)らに〈則天は弥勒仏の下生にして,閻浮提の主とならん〉の語句を含んだ《大雲経》を偽作させ,これにより周を建てた。時代が下り,玄宗の世には河北省の貝州で王懐古がやはり〈新仏〉の下生を妖言して乱を起こし,唐末には四川で,秘密教団としての弥勒会が生まれ,反乱を起こした。しかし,彼らの組織や布教活動を示す具体的な史料はほとんど残っていない。
 五代の時代には,狂僧布袋和尚が弥勒の化身とされ,民間ではしきりにその図像が描かれ,今日に至るまで,布袋の姿が弥勒仏の像となっている。北宋では,仁宗の時代(1023‐63)に貝州で起きた王則の反乱がある。彼は弥勒会の教徒を動かし,みずから東平郡主と称し,国号を安陽,年号を得聖とし,殺害劫奪を繰り返したが,60余日にして鎮圧された。連座したものの中には官僚層の人物もおり,当時の弥勒教の浸透の深さがうかがえる。その後南宋には白蓮宗が生まれ,弥勒教と合体して白蓮教となり,元末の紅巾の乱,あるいは明・清時代の民衆反乱の中に生き続けた。⇒白蓮教の乱               西脇 常記

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8名無しさん:2013/07/20(土) 04:01:09
白蓮教
びゃくれんきょう

中国,宋・元・明・清にわたる民間宗教の一派。その起源は南宋の茅子元の白蓮宗にさかのぼる。茅子元の白蓮宗は五戒を奉持し,阿弥陀仏を念じて浄土に生まれることを願う念仏結社であった。その教団は指導層が半僧半俗の妻帯者であったところに特色があり,また菜食主義を奉じたところから白蓮菜とも呼ばれた。茅子元は,また,仏教教理を〈普・覚・妙・道〉の4字に要約して信者を指導した。白蓮宗は高宗の時代(1127‐62)に厚遇を受け民間に浸透したが,茅子元の死後はしだいに反体制的な傾向を帯びていった。元の中期に普度が出て《廬山蓮宗宝鑑》を著し白蓮宗の浄化を叫んだが,その著の中には,民間の白蓮宗の信徒のなかに,〈弥勒仏下生〉をいい,また邪言を伝授して,夜に集会し明け方に散じていく者のあったことを指摘しており,白蓮宗が民衆の反体制的な運動の温床となっていたことが知られる。
 元末になると各地で白蓮教徒の反乱が起こるが,その代表的なものが韓山童集団と徐寿輝集団による反乱である。韓氏は韓山童の祖父の代から白蓮会を組織し,韓山童の時に至って,〈天下大いに乱れ,弥勒仏下生す〉という口号(スローガン)を掲げ,劉福通らと結んで反乱を起こした。韓山童は早期に官憲に捕らえられたが,彼の子韓林児は劉福通に擁され,小明王と称し,亳(はく)州において宋国を立て元号を竜鳳と定めた。この〈明王〉という称号は,あるいは仏教に由来するものとされ,またマニ教に由来するものともされる。次に,徐寿輝集団は参謀彭瑩玉(ほうえいぎよく)が徐寿輝を頭目に推して結成したもので,反乱に当たって〈弥勒仏下生〉を唱え,託水(ぎすい)を国都として天完国を樹立した。この徐寿輝集団には,鄒普勝,欧普祥,趙普勝などのように,〈普〉の字を名の上に冠した人が多いが,これは〈普・覚・妙・道〉を標榜した茅子元の白蓮宗においても見られるところで,相互の連関が考えられる。
 明代に入って,白蓮教はますます,民衆の間に浸透し,明一代には,《明実録》によれば,八十数回もの白蓮教関係の事件が起こっている。その最大のものは明末の山東に起こった王森・徐鴻儒の乱であろう。また明代に入ると,白蓮教系の諸教団では,布教のための経典が製作されるようになった。この通常,宝巻と呼ばれる経典のなかには,〈真空家郷〉〈無生父母〉の語が見られ,明末から清代にかけては白蓮教の〈八字真言〉といわれるようになった。この〈八字真言〉は,民衆が,現実の父母や家・故郷との関係,すなわち地縁的・血縁的関係を否定して反体制的行動に身を投じる際に有力に働いた思想である,という見方も行われている。清代に入っても,持斎,念誦,戒貪,戒黒などの修行により,仏に成り,仙人に成ることを求めた白蓮教徒の活動は活発で,嘉慶朝には,混元教の劉松の弟子劉之協が中心となり,明の遺裔という牛八を立て,劉四児を弥勒仏転世として,牛八を補佐させ,混元教を改めて三陽教とし,大規模な反乱を起こしている。⇒紅巾の乱‖弥勒信仰                  砂山 稔

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9名無しさん:2013/07/20(土) 04:05:41
浄土教
じょうどきょう J≒ng t¢ jiロo

仏典に説かれている諸仏とその建立した浄土をとく教説によって発達した教義信仰を総称していう。大乗仏教にあっては,菩醍は衆生を救済するため国土を浄める誓願をたて,無限の慈悲をそそぐ救済者たる仏になったのであって,それらの清浄な仏国土を浄土とよんだ。浄土には,兜率天(とそつてん)の弥勒浄土をはじめ,阿醗仏(あしゆくぶつ)の妙喜浄土,阿弥陀仏の極楽浄土,薬師仏の浄瑠璃浄土,さては霊山浄土や観音浄土などを数えうるが,一般に浄土教という際には,弥勒浄土と阿弥陀仏の浄土,とくに阿弥陀仏の西方極楽浄土に往生し成仏することを説く教えを指すことが多い。
 兜率天で修行中で,釈梼没後56億7000万年にこの地上におりてきて竜華三会の説法を行うとされる弥勒菩醍を信仰する弥勒浄土信仰には,弥勒下生信仰と弥勒上生信仰の二つがあり,それぞれ《弥勒成仏経》《弥勒下生経》と《弥勒上生経》に説かれていて,これらを〈弥勒三部経〉とよぶ。中国における弥勒浄土信仰は,道安とその門弟に始まるとされ,法顕も西域やインドの弥勒信仰を伝え,北魏時代には隆盛をきわめ,竜門石窟の北魏窟,つまり5世紀末から6世紀前半にかけての時期には弥勒像が目だつ。しかし,隋・唐時代になると阿弥陀仏の西方浄土信仰にとってかわられる。ちなみに,中国では弥勒下生に名をかりた民衆反乱が頻発するのであるが,それらは阿弥陀信仰が弥勒上生信仰を圧倒した隋・唐以後であることは注目されてよかろう。ところで,《漢訳大蔵経》のなかで阿弥陀仏について説いている仏典は270余部で,大乗仏典全体の3割を占めていて,中国や日本では阿弥陀浄土の信仰が他の浄土教を圧倒して普及し,浄土教の名称を独占するかのごとき様相を呈するにいたる。この阿弥陀浄土をとくに説く浄土経典としては《般舟三昧(はんじゆざんまい)経》と《無量寿経》《阿弥陀経》《観無量寿経》のいわゆる〈浄土三部経〉がある。道安の弟子である東晋の慧遠(えおん)は,廬山の東林寺で僧俗123名と念仏結社,いわゆる白蓮社(びやくれんしや)の誓約をしたことで知られ,中国では慧遠を浄土宗(蓮社)の始祖と仰いでいる。ただし,慧遠を中心とする結社は高僧隠士の求道の集まりで,主として《般舟三昧経》に依拠して見仏を期し,各人が三昧の境地を体得しようと志すものであって,ひろく大衆を対象とする信仰運動ではなかった。日本の法然,親鸞らを導いた純浄土教義と信仰は,北魏末の曇鸞(どんらん)に始まり,道綽(どうしやく)を経て善導によって大成される。はじめ竜樹系の空思想に親しんでいた曇鸞は,洛陽でインド僧の菩提流支に会い,新訳の世親斤《無量寿経論》を示されて浄土教に回心し,のち山西の玄中寺でこれを注解した《往生論蔦》を斤述し,仏道修行の道として仏の本願力に乗ずる易行道につくことを宣布するとともに,いわゆる〈浄土三部経〉を浄土往生の信仰の中心とする浄土教義をうちたてた。〈浄土三部経〉とは,三国魏の康僧鎧訳《無量寿経》と南朝宋の臭良耶舎訳とされる《観無量寿経》と後秦のクマーラジーバ(鳩摩羅什)訳の《阿弥陀経》で,そのうち《無量寿経》は漢訳5本のほかにサンスクリット本とチベット本の計7種があり,阿弥陀仏の本願を説いて浄土教義の基本となり,《阿弥陀経》はサンスクリット本やチベット本もあり,浄土のありさまを簡潔にまとめているので,最もよく読誦あるいは書写されて浄土教を普及したのに対し,《観無量寿経》はサンスクリット原典が残存せず,中央アジア斤述説,中国斤述説などが唱えられている経典である。

10名無しさん:2013/07/20(土) 04:07:42
>>9

 曇鸞の没後まもなく,玄中寺の付近に生まれた道綽は,北周武帝による廃仏により還俗させられたが,玄中寺で曇鸞の行跡を記した碑に感激して,48歳にして浄土教に帰し,末法仏教運動を起こした。曇鸞の浄土教が《無量寿経》を中心とする傾向が強かったのに対し,隋・唐初に活躍した道綽と,その門下の善導とは,《観無量寿経》を中心に説法教化した。道綽の主著たる《安楽集》は《観無量寿経》の講義説法を集録した綱要書とされている。善導は,国都の長安に出て民衆を教化し,《観無量寿経疏》を著して曇鸞,道綽の浄土教義を整然と組織化するとともに,〈浄土変相〉などの絵画を描いた。そして《法事讃》《往生礼讃》などの阿弥陀仏への賛美歌やきびしい懺悔の告白を総合した宗教儀礼を制定し実践し,また〈南無阿弥陀仏〉と口に出してとなえる口称念仏を勧めた。慧遠流,善導流とともに中国浄土教の三流の一つに数えられるのが,慈愍三蔵(じみんさんぞう)慧日によって始められた慈愍流であって,禅浄双修の念仏禅の基礎を開き,その教えは南岳承遠や法照によって受け継がれた。法照は五会念仏の法を宣布したことで知られる。宋代以後は禅浄双修の教説が盛んとなり,浄土信仰は民衆のあいだに広範に浸透した。
 日本の浄土教は,飛鳥期における大陸からの弥勒像の伝来にともなう弥勒浄土信仰に始まる。弥勒信仰は白鳳期を経て奈良時代前期にはかなり栄えたが,奈良時代後期には遅れて伝来した阿弥陀信仰の方が優勢を占めるようになる。つぎの平安時代初期に樹立された天台宗の教団内に阿弥陀信仰の浄土教がおこり,とくに円仁が入唐して五台山に巡礼し法照の五会念仏にもとづく念仏三昧法を移入し,ついで源信が《往生要集》を著して地獄と極楽の詳細を描き出してから,浄土教の全盛時代を迎えるにいたる。平安末期から鎌倉時代にかけて,ひとえに善導によると称した法然は,源信の教義をも受けて専修念仏を強調し,《選択本願念仏集》を著して浄土宗を開き,その弟子の親鸞は《教行信証》を著して絶対他力の信仰を鼓吹し,浄土真宗の祖となり,また一遍は全国を遊行して念仏をすすめ時宗の祖とされる。彼らは,いずれも〈浄土三部経〉を所依の経典としたが,なかでも法然が《観無量寿経》を重視したのに対し,親鸞は《無量寿経》を,一遍は《阿弥陀経》を重んじた。浄土真宗は,室町時代に蓮如が積極的な教化活動をしたことにより日本最大の本願寺教団を生み出し,近代に至った。     礪波 護

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11名無しさん:2013/07/20(土) 04:10:27
弥勒
みろく

サンスクリットのマイトレーヤ Maitreya の音訳とされているが,〈弥勒〉という名前そのものはクシャーナ朝(1世紀半ば〜3世紀前半)の貨幣にあらわれる太陽神ミイロ Miiro に由来すると思われる。クシャーナ朝下で用いられた言語でミイロはイランの太陽神ミスラ Mithra に由来し,したがってベーダの契約神ミトラ Mitra と関連する。インド仏教徒は Miiro を Mitra に還元し,mitra が友を意味し,派生語 maitreya が〈友情ある〉を意味することから,弥勒を〈慈氏〉(Maitreya の意訳語)ととらえたものと思われる。《弥勒下生経》をはじめとする弥勒六部経によると,弥勒は兜率天(とそつてん)におり,釈梼の没後その予言にしたがい,人寿八万四千年のときに下界に降り,竜華樹のもとで仏となって,釈梼の救いにもれた人々を救う。《菩醍処胎経》などによると,それは(釈梼没後)五十六億七千万年とされる。仏教世界観によると,兜率天の1日は人間界の400年であり,そこの生き物の寿命はその年で測って4000年である。したがって,兜率天の生き物の寿命は人間界の年数に換算すると(1年を360日として),360×400×4000=5億7600万年となる。最初はおそらく弥勒は五億七千六百万年後に人間界に降るとされていたのであろうが,早くから五十六億七千万年という別の伝承が生じた。弥勒には未来仏の性格があることから,イランやその西方の救済者の思想の影響があるのではないかと考えられている。法顕によると,パミール山中に巨大な弥勒像ができたのを契機に,インドから中国に向かって仏教が伝播した。⇒弥勒信仰             定方 里
[図像]  弥勒の図像は2種に大別される。すなわち兜率天において教化に当たっている菩醍としての像と,釈梼滅後五十六億七千万年後に竜華樹下に成仏し,三会説法を行っている如来としての弥勒である。中国,朝鮮,日本の初期の仏教美術中にあっては,菩醍としての弥勒の造像がきわめて多い。ことに悉多太子の樹下思惟像と類似した半跏思惟像ないし交脚像が,弥勒菩醍として造像された。中宮寺像や広隆寺像が著名で,後者は材質的に朝鮮赤松を用いており,韓国中央博物館の金銅半跏思惟像との関連が注目される。また弥勒と銘記のある半跏思惟像として665年(天智6)の大阪野中寺の金銅半跏像がある。
 一方,如来形をとる弥勒としては白鳳時代の当麻寺金堂塑像や,法隆寺五重塔塑造群像中の弥勒浄土や,平安時代初期の慈尊院像,運慶作の興福寺北円堂像などがある。弥勒の兜率天における説法の情景を描く〈兜率天曼荼羅〉に大阪巡命寺本,京都興聖寺本があり,弥勒の来迎を描いた図としては称名寺金堂壁画や東京芸大本があり,高麗仏画中には弥勒仏の竜華樹下の説法を描いた〈弥勒下生経変相図〉がある。密教図像としては胎蔵曼荼羅中台八葉院中の二臂像がある。右手に蓮華上に賢瓶を置き,左手を施無畏印とし,蓮華上に座し,宝冠中に卒覩波をおく。この図像をとる作例として醍醐寺本,宝山寺本などがあるが,持物に若干の相違もあり,宝塔を持物とするものが多い。そのほかに三十臂像があるが作例は知られない。            百橋 明穂

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12名無しさん:2013/07/20(土) 04:13:03
イラン神話
イランしんわ

[起源]  インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派に属する言語を話す人びとは,古代において一方は東へ向かってインド亜大陸に至り,もう一方は西方へ南下してイランに定着することになった。したがって,イラン語による最初の文献アベスター中の神名・神話内容は,インドのベーダ文献(特に最古の《リグ・ベーダ》)に見られるそれと共通な点が多い。前2千年紀にさかのぼるインド・イラン共通時代には,神々はダエーバ/デーバ神群(/の後はサンスクリット語形)とアフラ/アスラ神群の2群に大別されていた。前者の神々は慈悲深く,人間的弱点をもあわせ持ち,戦士的,ときにディオニュソス的な性格を示す。一方後者は,人間に峻厳な,人知を超えた不可思議な力を備えた神々を指す。不死なる神々の天上世界と,死すべき人間の地上世界の両方を秩序づけるアルタ(真実)/リタ(天則)――アベスター語でアシャ――は,このアフラ/アスラ神群によって守護されている。ミスラ/ミトラと,《リグ・ベーダ》でこの神と1対をなすバルナがこの神群を代表する神である。ゾロアスター教の主神アフラ・マズダは,このバルナ神と同一起源のものであると推定される。インドでは,アフラ/アスラ神群が,仏教の阿修羅(アスラ)が示すように,悪神となったのに反して,イラン側ではまったく逆に,ダエーバ/デーバがすでにゾロアスター自身の教説において悪神とされている。このイラン,インド両神界に見られる最大の相違点を,ゾロアスターの宗教改革の結果に帰す学説がある。イランの宗教は,ゾロアスター教であれ,マニ教であれ,終末論的色彩の濃厚な,宇宙論を軸とする救済宗教である。以下,錯綜(さくそう)するイランの神話世界――古代においては神話とはしばしば教義と同一である――を,便宜上宇宙論と終末論に分けて概観する。
[宇宙論]  ササン朝期の中世ペルシア語文献によれば,イランの歴史的時間は1万2000年よりなり,これはさらに善神オフルマズド(アフラ・マズダの中世語形)と悪神アフリマンとの戦いの様相によって,四つの時期に等分される。この世界の初めにおいては,オフルマズドの上方の光明界とアフリマンの下方の暗黒界とは,虚空によって完全に分離されて存在していた。万物はこの〈第1の3千年紀〉には,メーノーグ(霊的・天上的・不可見)の状態であった。さて,オフルマズドはアフリマンの攻撃が不可避なことを察知して,それに勝利すべくまず物質世界〈ゲーテーグ〉の創造に着手する。〈第2の3千年紀〉の始まりである。次の〈第3の3千年紀〉は混交期(グメーニシュン)である。アフリマンがその軍勢を率いて,光明界への攻撃を開始する。彼らは天空を破って侵入に成功し,その結果水は塩水となり,地上はアフリマンの被造物である爬虫類でいっぱいになる。ここに善と悪,光と闇が混合し,混在することとなった。アフリマンはまず〈原初の牛〉を殺害する。その死体より植物が生じ,その精液は月に集められ,月光で清められて種々の益獣を生じた。次に〈原人(ガヨーマルト)〉が犠牲になる。地上に倒れたその身体より金属が生じる。精液は太陽の光で清められ太陽に保管されるが,3分の1は地上に落ちて,まずそれよりダイオウ(大黄)が生じ,やがてこの植物はイランのアダムとイブ,マシュエとマシュヤーネに変質する。アフリマンの攻撃により始動したこの3千年紀を区切るのは,3人の王者の統治である。アベスターによると,最初の千年はイマ・フシャエータ(インド神話のヤマ,仏教の閻魔(えんま),現代ペルシア語ジャムシード)の支配する人類の黄金時代である。次の千年間は悪竜アジ・ダハーカの時代。最後の千年は,スラエータオナ(現代語形フェレイドゥーン)が悪竜を破って,王権の象徴たる光輪(フバルナ)を回復する。この〈原人〉以降スラエータオナに至る時代は,フィルドゥーシーの《シャー・ナーメ》にも受け継がれ,テーマとなっている。さて,〈最後の3千年紀〉の開始を告げるのは,ほかならないゾロアスターの誕生である。彼の出生後3000年にして人間の歴史は終焉(しゆうえん)する。この3千年紀の各千年ごとに,湖に秘匿されていた彼の精液より,その子が1人ずつ生まれ出る。その3人目,つまり最後の子息が〈真実の化身(アストバト・ウルタ)〉,通常サオシュヤントと呼ばれるこの世の救済者である。このサオシュヤントの概念は,ユダヤ教を通ってキリスト教にその救済者(メシア)像の原型を提供し,さらにイスラムにその〈隠れイマーム(マフディー)〉の理念を与えた。

13名無しさん:2013/07/20(土) 04:15:01
>>12

[終末論]  アベスターによれば,人の魂は死後〈選別者の橋(チンバトー・プルトゥ)〉で,自分自身のダエーナー(宗教,意識)に迎えられる。義者(アシャバント,真実者)の場合にはダエーナーはこのうえなく麗しい乙女の姿であり,不義者(ドルグバント,虚偽者)のときは醜い老婆の形である。この橋は義者には大道であるが,不義者には剣の刃のように狭まる。前者はダエーナーの先導で橋を渡って天上の楽園(ガロー・ドマーナ)に至り,後者は渡りきれず地獄に落ちる。以上が,すでにゾロアスター自身の教説に見られる個別審判の記述である。ここで再びササン朝期の文献に戻れば,前述の人類の始祖の2人はまず水,ついで草木,ついで乳,最後に肉を食するようになった。人間は最後の3千年紀には,千年ごとのゾロアスターの子孫の生誕に合わせて,この逆に肉以下を控え,最後は水だけで肉体を維持するようになる。このようにして,第4の3千年紀(ビザーリシュン,善悪分離期)には,逆の順序で原初の状態への復帰が行われる。この世の終末は善・悪両軍の決戦で始まる。オフルマズドの勝利の後に,火によって溶かされた山々の金属が,溶鉱の川となって大地を流れ下る。復活した人類は全員がこの流れを渡らなければならない。すなわち,最後の審判,死直後の個別審判に対する総審判である。溶鉱は義者には温かい乳のように快適である。一方,不義者はその中で焼かれ苦しむが,4日目には罪を清められてよみがえる。流れが退いた後,山は消え去り,谷は埋めつくされて大地は平たんとなる。地獄は閉ざされ,アフリマンは永遠に無力化される。人類は,もはや罪業を持たないように,影を持たず,至福の存在を享受する。この待望される原初の状態への回帰は,アベスターではフラショークルティ,中世語形ではフラシャギルドと称される。⇒インド神話           上岡 弘二

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14名無しさん:2013/07/20(土) 04:16:49
阿弥陀
あみだ

極楽浄土にいて衆生を救済するとされる仏。弥陀とも略称される。《無量寿経》によれば,過去世に法蔵比丘が世自在王如来のもとで四十八の誓願をたて,長期間の修行を果たし,現在では阿弥陀仏となり,極楽浄土の主となって,その浄土へ往生を願う衆生を摂取するという。四十八の誓願のうち第十八願は阿弥陀仏を念ずれば極楽往生できるというもので,後世の中国,日本では称名念仏の根拠とされた。この仏はサンスクリット文献では Amit´bha(無量光),Amit´yus(無量寿)として現れるが,阿弥陀はおそらくこの前半部 amita(無限)の方言であろう(他にも説がある)。阿弥陀仏は大乗仏教の仏としてクシャーナ時代の初期(1〜2世紀)に登場したらしいが,その起源に関してイラン思想の影響がいわれている。1977年7月にインドのマトゥラー博物館が入手した,足だけを残す仏の台座に,この像が阿弥陀 Amit´bha であることを示す文字があった。台座が奉献された時代はフビシュカ Huvioka 王の28年(2世紀後半)と記されている。《無量寿経》が中国で翻訳されたのは252年であるが,それより前に安世高や支婁梼讖(しるかせん)(いずれも2世紀)が同系の経を翻訳したという伝承がある。クシャーナ時代には北西インドにクシャーナの王たちが信奉するゾロアスター教系の信仰が広まったとみられ,クシャーナの貨幣には太陽神ミイロが表現され,また神や王の姿には光線や索がそえられており,〈無量の光〉を属性とする仏の信仰を生みだす背景は十分にあった。またオリエント(イランを含む)のメシア思想も無視しえない。阿弥陀仏は衆生を救済する仏として,従来の自力仏教の伝統のなかに他力仏教という新しい要素をもたらした。自力仏教においては阿弥陀仏は観想の対象としての意味をもち,修行者の成仏の意志を励ますものとなった。密教では絶対者の顕現の一つとしてそのパンテオンに組みいれられた。三身 trik´ya 説では報身とされる。観音,勢至を脇侍とする。  定方 里
[日本における阿弥陀信仰]  阿弥陀信仰は中央アジアを経て,中国に伝わった。中国でこの信仰が高まるのは4世紀後半から5世紀以後である。日本へは7世紀のはじめに伝わった。人びとをひきつけたのは《無量寿経》《観無量寿経》《阿弥陀経》であり,これらは阿弥陀仏とその浄土を語り,阿弥陀仏の救済が衆生の極楽浄土への往生で実現されることをのべている。奈良時代以前の阿弥陀信仰は弥勒信仰と混在した形であり,追善的性格が濃厚であった。奈良時代の後期に浄土変相図がつくられ,阿弥陀仏と浄土への観想に関心が寄せられたが,往生を願う中心に死者だけでなく,自己を据えるようになってきた。阿弥陀仏とともに,その西方の浄土が日本人の心にしみついたのは平安時代からである。
 阿弥陀信仰の本格的展開のきっかけをなしたのは比叡山の不断念仏であり,源信の《往生要集》であった。阿弥陀信仰が成熟したのは平安時代中・末期である。阿弥陀堂,迎接堂が建てられ,聖衆来迎図が描かれ,迎講,往生講,阿弥陀講などが営まれた。信仰者は当初僧侶・貴族層であったが,官人,武士,農民,沙弥など各層に及び,奴婢,環児など卑賤のものも阿弥陀信仰を精神的支柱としていた。〈往生伝〉はこれら信仰者の往生の証の書であるが,10世紀末から約2世紀の間に,慶滋保胤の《日本往生極楽記》以下7種類も著された。鎌倉時代になると,阿弥陀信仰は質的に飛躍した。本願,往生,名号などに関する教学が深まり,いわば念仏宗ともいうべき新宗派,すなわち法然の浄土宗,親鸞の浄土真宗,一遍の時宗が成立した。日本での阿弥陀信仰の特色は,阿弥陀仏の〈来迎引接〉と,行者の〈極楽往生〉に特別の関心が寄せられていたこと,阿弥陀仏の〈本願〉への絶対的な帰信がみられたこと,念仏が自身の〈滅罪〉と死者への〈追善〉に最適と考えられたことである。阿弥陀仏への帰依を本旨とした宗派(浄土宗,西山系の浄土宗,浄土真宗,融通念仏宗など)の信者は,今日,全仏教徒の約5分の2を占め,阿弥陀仏を本尊とする寺院は全寺院の半数近くに達している。     伊藤 唯真

15名無しさん:2013/07/20(土) 04:18:49
>>14

[図像]  阿弥陀如来は浄土教信仰の主尊であり,したがって浄土教美術の中心的尊像である。薬師如来像とは異なり手に持物はないが,さまざまな印相(いんそう)(手の形)で表現され,印相の違いにより与願・施無畏印,転法輪印(説法印),定印,来迎印の像の4種に大別できる。
 与願・施無畏印の像は,左手は下げて右手は掌を外に向けて上げる。転法輪印の像は,両手を胸前にあげ,左手は大指(親指)と中指をつけて掌を内に向け,右手は大指と頭指(人指し指)をつけて掌を外に向ける。これは阿弥陀如来が説法する姿を写すもので,阿弥陀浄土図,観経変相図などの画像に表される。与願・施無畏印と転法輪印は釈梼如来像にも表されており,阿弥陀特有の印相ではないが,阿弥陀には比較的古い時代から用いられたと推測される。定印の像は,腹の前で両手掌を上に向けて両手指を交差し,左右の頭指を立てて背中合せにし,その上に左右の大指を置く。《両界曼荼羅》のうち胎蔵界の無量寿如来と金剛界の阿弥陀如来に表されており,平安時代の阿弥陀堂本尊(彫像)はこの印相の像である。来迎印は,両手とも大指と頭指とを合わせたまま右手は上げ左手は下げ,掌はいずれも外に向ける。往生者を迎える姿として表現されている。

16名無しさん:2013/07/20(土) 04:22:09
>>15
[作例]  西北インドのガンダーラ地方において仏教の造像活動が活発になる1〜2世紀ころ,北西インドでは大乗仏教がかなり広まり,阿弥陀信仰が行われていても不思議でない状況であったとされているが,その時代に造られた阿弥陀像と断定できる完全な作例はまだ報告されていない。西域ではトゥルファン地方に大乗仏教が伝えられたが,西域の特色を示す阿弥陀像は発見されていない。注目すべきはトゥルファン東部のトユク(吐峪溝)から発見された中国唐代の大歴6年(771)の銘をもつ阿弥陀浄土図断片(絹絵)である。8世紀のトゥルファン地方では,仏教東漸の方向とは逆に唐代美術の影響が西方に及んだことをこの断片は示している。中国においてもこの頃から阿弥陀如来を表現することが盛んになった。竜門石窟では6世紀に阿弥陀像が造られているが,著名な作例としてはアメリカのボストン美術館蔵の隋の開皇13年(593)銘を持つ《青銅阿弥陀如来像》がある。また,敦煌石窟では初唐時代から阿弥陀浄土図や観経変相図が数多く描かれた。彫像は左右に観世音菩醍,勢至菩醍を脇侍にした三尊形式の像で,与願・施無畏印が多い。朝鮮においても6世紀には阿弥陀如来像が造られたと考えられている。辛卯銘《金銅三尊仏》は517年,癸酉銘《全氏阿弥陀仏三尊石像》(ソウル,国立中央博物館)は673年の造像と推定され,ともに右手は施無畏印である。左手は,前者が与願印に似るが無名指,小指を曲げ,後者は掌を上にして胸前に添える。また,7世紀末ころの作と推定されている慶尚北道の軍威三尊石窟本尊も脇侍の表現によって阿弥陀如来と考えられる。
 日本には7世紀中ごろに阿弥陀如来像が登場した。現存する作例は7世紀末ころのものばかりだが,東京国立博物館蔵法隆寺献納宝物中の小金銅仏のうち〈山田殿像〉と言われる金銅阿弥陀三尊像や法隆寺蔵《橘夫人厨子》の本尊は与願・施無畏印で,同寺金堂壁画(6号壁)の《阿弥陀浄土図》や同寺蔵の厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像の中の阿弥陀像は転法輪印の像であり,その当時の中国と朝鮮における阿弥陀像と同形式の古様を伝えている。さらに奈良の当麻(たいま)寺には観経変相図があり《当麻曼荼羅》と呼ばれている。平安時代前期に入ると阿弥陀は,密教の両界曼荼羅図の中に定印の座像として表現されることはあるが,単独で造像されることはなかった。平安中・後期に浄土教が盛んになって各地に阿弥陀堂が建立されると,その本尊に定印の阿弥陀如来座像が造られた。定印の阿弥陀像には常行三昧など観法修行の本尊としての性格が認められることが指摘されている。浄土教信仰は,やがて阿弥陀如来が往生者を極楽から迎えに来る姿,すなわち来迎印の阿弥陀像を表現する。《阿弥陀聖衆来迎図》がその代表例で,さまざまな形式に表現された。特殊な例としては,説法印の阿弥陀如来が山の背後から巨大な上半身を現す《山越阿弥陀図》,後方を振り返る姿の《見返り阿弥陀像》(京都禅林寺)などが造られた。鎌倉時代以降は,当麻寺の《当麻曼荼羅》や長野善光寺の本尊阿弥陀三尊像(秘仏)が盛んに模作された。後者は〈善光寺式阿弥陀三尊〉と呼ばれている。なお,九品阿弥陀の印相について,上品・中品・下品の各上生の印を定印とし,同じく中生印を説法印に,下生印を来迎印に当てて九種の印を組み合わせたものが,《仏像図彙》(江戸時代)などに見られ,現在も一般の概説書等に取り上げられているが,これらを説く儀軌はなく,しかも近世以前にはそれに基づいて造像されたものは存在しないことから,この九品印は近世に考案されたものと推定され,阿弥陀の印相としては説明すべきではないとの提言がなされている。         関口 正之

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17名無しさん:2013/07/20(土) 04:22:55
ゾロアスター教
ゾロアスターきょう Zoroastrianism

ゾロアスター Zoroaster がイラン北東部で創唱した宗教。その主神アフラ・マズダの名を採って〈マズダ教〉,またその聖火を護持する儀礼の特質によって〈拝火教〉ともよばれる。中国においては,松(けん)教の名で知られた。ゾロアスターの活躍時期については,前2千年紀中ごろから前7〜前6世紀にわたる諸説があり,なお定説が得られない。アラブによるイラン征服(7世紀前半)までイランの国教の地位を占めていた。その聖典はアベスターと呼ばれる。聖典の言語,アベスター語では,ゾロアスターはザラスシュトラ Zarathushtraに近い音であったと推定される。その聖職者階級をマグ Magu(中世語形でモウベド Mowbed)と称した(マギ)。
 ゾロアスター教は歴史的に以下の3段階に分かれる。(1)アベスター中のガーサーに見られる創唱者自身の教説,(2)アベスターの残余の部分に出るインド・イラン共通時代の神々の復活した段階,(3)中世ペルシア語(パフラビー語)文献に記述されている教義。第1段階の教説は,ゾロアスターによれば,世界は相反する根元的な2霊,スパンタ・マンユ Spトnta Mainyu(聖霊)とアンラ・マンユAngra Mainyu(破壊霊)の闘争の中にあり,各人は自由意志でその両霊のいずれかを選択し,善と悪,光明と暗黒の戦いに身を投じるとされる。その教義は強い終末論的色彩をもち,ユダヤ教への影響が論じられてきた。この戦いにおいて最高神アフラ・マズダと信徒を助けるものに,創唱者の死後アムシャ・スパンタ Amトsha Spトnta(聖なる不死者)と呼ばれることになる6神格がある。この6神格は物質世界にそれぞれ,火,水,大地などの特定の庇護物を有している。信徒は特にこの3要素を汚すことを避け,拝火教の通称が示すように独特の祭祀形式や,鳥葬・風葬のためのダフメdakhme(沈黙の塔)を発達させた。ゾロアスターの教説は,当時の多神教をアフラ・マズダを最高神とする倫理的一神教に統合しようとするものであった。これに反して,ゾロアスターの死後の第2段階では,アベスターのヤシュト書に見られるように,インド・イラン共通時代の神々(ミスラ,アナーヒターなど)がゾロアスター教のパンテオン中に復活した。第3段階のササン朝期の二元論的教義では,アフラ・マズダ(中世語形でオフルマズドOhrmazd)はスパンタ・マンユと同一視され,直接アフリマン Ahriman(アンラ・マンユの中世語形)と対立することになった。この結果,両者をともに超越する根本原理として,ズルバーン Zurv´n(時)を定立する,いわゆるズルバーン教が勢力を得た。
 シーア派の第4代イマーム,アリーはササン朝最後の王ヤズダギルドの娘から生まれたとする口承が流布し,多くのゾロアスター教徒がシーア派イスラムを受容する因となり,イランのイスラム化がすすんだ。他方,10世紀以降ゾロアスター教徒のインドへの移住が行われた結果,現在ボンベイを中心にインドにパールシー教徒とよばれる約8万人のゾロアスター教徒がいる。また,イランにはヤズド,ケルマーンを中心に約2万5000人,さらにパキスタンに約5000人の教徒が数えられる。インドにおいては,ターター財閥が示すように,教徒は活発な経済活動を展開している。
 なお,ニーチェの《ツァラトゥストラ》の主人公ツァラトゥストラはゾロアスターのドイツ語読みである。
                        上岡 弘二

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18名無しさん:2013/07/20(土) 04:23:57
アベスター
Avest´

ゾロアスター教の聖典。次の5部よりなる。(1)ヤスナ Yasna(《祭儀書》) 全72章のうち17章がガーサーと呼ばれる,ゾロアスター自身の手になる韻文詩篇で,言語学的に一番古層を示す。(2)ビスプラト Visprat 上のヤスナに手を加えた,その補遺的小祭儀書。(3)ビーデーブダート V ̄d^vd´t(《除魔書》) 旧約聖書の《レビ記》に相当する宗教法の書であるが,伝説上の王イマ Yima とその黄金時代に関する章などが含まれている。(4)ヤシュトYasht 21の神格に捧げられた《頌神書》。内容的にはガーサーより古い,前2千年紀にさかのぼるインド・イラン共通時代の神話が見られる。この中では,アナーヒター女神の第5章,ミトラ神の第10章,イラン最古の英雄伝説を扱う第19章などが重要である。(5)ホルダ・アベスター(《アベスター》) 日常的に使用する祈裳文を集めたもの。現存するアベスターは,ササン朝期のそれのわずか4分の1にすぎないと推定されている。   上岡 弘二

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19名無しさん:2013/07/20(土) 04:27:52
白蓮教
白蓮教(びゃくれんきょう)は、中国に南宋代から清代まで存在した宗教。本来は東晋の廬山慧遠の白蓮社に淵源を持ち、浄土教結社(白蓮宗)であったが、弥勒下生を願う反体制集団へと変貌を遂げた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E6%95%99

20名無しさん:2013/07/20(土) 04:29:16
慧遠 334‐416
えおん

中国,東晋の僧。雁門楼煩(山西省寧武)の人。俗姓は賈(か)氏。中国浄土教の祖師といわれ,念仏の結社〈白蓮社〉の開祖とされる。廬山に住したので〈廬山の慧遠〉といい,隋代の地論宗の浄影寺の慧遠と区別している。13歳のときに郷里を離れて,許昌,洛陽に遊学し,儒教の六経を修め,ことに老荘の学をよくした。354年(永和10),21歳のとき,胡族支配下の混乱のつづく華北から,江南に行き隠士范宣を訪ねようとしたが果たせず,帰って弟の慧持とともに,太行恒山の寺で大いに弘法に努めていた釈道安のもとに参じて弟子となり,仏門に入ることになった。かくて釈道安に従って各地を転々として,365年(興寧3)に襄陽に移った。しかし襄陽が379年(太元4)に前秦の軍隊に襲われ,釈道安らが長安に拉致(らち)されたため,慧遠は乱を避け弟子数十人を引きつれて草州上明寺にいたり,さらに羅浮山に赴こうとする途中,廬山の景勝の地で先輩の慧永にとどめられ,江州刺史の桓伊の寄進で東林寺を建て,そこに住した。
 それ以後,416年に83歳で没するまでの30年ばかり,〈影,山を出でず,迹,俗に入らず〉の生活をつづけたが,その宗教的感化は江南全域におよび,多くの僧侶のみならず,劉遺民,宗炳(そうへい),雷次宗といった知識人が雲集することになった。インド僧のサンガデーバ(僧伽提婆)が廬山に来るや《阿毘曇心論》《三法度論》の重訳を請うて,彼自身は序文を書き,曇摩流支には《十誦律》の漢訳を依頼し,仏陀跋陀羅が長安から廬山に入るや,《修行方便禅経》などの訳出を要請した。またクマーラジーバ(鳩摩羅什)が長安に迎えられると,書簡を送ってよしみを通じ,たびたび弟子を遣わして教義をただした。この成果が《大乗大義章》である。廬山といえば〈白蓮社の念仏〉,慧遠といえば蓮宗(浄土宗)の祖師といわれるほどに,後世への影響の大きなものは,123人の同志と般若台,阿弥陀像の前において念仏実践を誓約した事跡である。その立誓文は慧遠に代わって劉遺民が書いた。その誓いは,無常観と三世因果応報の教義の上に立てられている。この念仏三昧実践の主要な依拠となった仏典は《般舟三昧経》であって,釈道安の熱心な般若学を継承した慧遠は,称名念仏を説いたのではなく,見仏三昧の念仏をすすめたのである。
 慧遠を中心とする廬山教団が隆盛となるにつれ,当時の国家権力との摩擦は避けられなかった。東晋の実力者桓玄が,仏教教団の王権への従属を要求するにいたるや,慧遠は《沙門不敬王者論》を著して反対し,さすがの桓玄も強行を差し控えねばならなかった。しかし,当時の教団が肥大化に伴い俗化してきたことも認めざるをえなかったので,教団の自粛を求めて,教団生活の清規とも称すべき〈法社節度序〉などをつくった。これが後世〈遠規〉とよばれたものである。慧遠から始まる浄土教を〈慧遠流〉とよび,慈愍(じみん)三蔵の流れ,道綽(どうしやく)・善導の流れとともに,中国における浄土教の三流の一つとされている。                    礪波 護

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21名無しさん:2013/07/20(土) 04:33:26
慧遠 (東晋)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E9%81%A0_(%E6%9D%B1%E6%99%8B)

22名無しさん:2013/07/20(土) 04:38:35
クシャーナ朝
クシャーナちょう Kuo´la

インド,中央アジアの古代王朝。1世紀半ば〜3世紀前半。クシャン Kushan 朝とも呼ばれ,中国の史書では貴霜(きそう)と記される。前2世紀後半,東方から移動しバクトリア地方を征服し大月氏は,領内に5翕侯(きゆうこう)(諸侯)を置いた。5翕侯については,彼らを土着の民族とみる説と,大月氏の一族とみる説とがある。1世紀半ばごろ,5翕侯の一つを出していたクシャーナ族が,クジューラ・カドフィセース(カドフィセース1世)のもとに強大となった。彼は他の4翕侯を倒して自ら王と称し,南方のガンダーラ地方にまで征服軍を進めた。その子ビマ・カドフィセース(カドフィセース2世)は,領土をさらに北インド中部にまで広げている。両カドフィセースのあと,王家の交替があったらしい。新王家より出たカニシカ(カニシュカ)は,都をガンダーラ地方のプルシャプラ(現,ペシャーワル)に置き,中央アジアから中部インドに至る大帝国を統治した。彼はアショーカ王と並ぶ仏教の大保護者としても知られる。貨幣銘や碑文から,カニシカのあと,バーシシュカ,フビシュカ,バースデーバ V´sudeva など4〜5人の王が出たことが知られる。西暦230年に魏に使者を送った大月氏王の波調は,クシャーナ朝末期のバースデーバとみられている。このころから王朝は,イランに興ったササン朝の軍の攻撃を受けて領土の西半を失い,地方政権にその東半を奪われて急速に衰退し,3世紀半ばごろ滅びた。ただしクシャーナ族はその後も地方勢力として残存し,5世紀には一時的にバクトリアからガンダーラに至る地に国家を建設している(キダーラ Kid´ra 朝)。
 クシャーナ朝の領土には,インド系,イラン系,ギリシア系,中央アジア系の諸民族が住み,民族と文化の融合がみられた。例えば,貨幣の銘文にはギリシア語,イラン語,インド語と,ギリシア文字,カローシュティー文字が使われ,貨幣の裏面に打ち出された神像には,イラン,メソポタミア,ギリシア,ローマの神々とヒンドゥー教の神々,仏像などが混在している。また王たちはイラン,中央アジア,ギリシア,ローマ,インドなどの諸国の王の称号を併せ用いている。
 クシャーナ朝時代の西北インドは,仏教の歴史の上でも重要である。当時この地方では,伝統的な小乗仏教の諸部派(とくに説一切有部)が隆盛であったが,新たに興った大乗仏教も,この地の諸民族に受け入れられ栄えた。大乗仏典の多くもこの地で編まれている。またギリシア・ローマの造形思想と技術が流入したこの地で,1世紀末ごろ初めて仏像が刻まれ,ガンダーラ美術が起こった。一方,ほぼ同じころ,帝国南東部の都市マトゥラーでも,独自のインド的様式をもつ仏像彫刻が作られている。
 クシャーナ帝国は,中国,インド,イラン,ローマといった大文明圏を結ぶ交通路の中央に位置し,経済的に繁栄した。帝政期ローマの文献は,当時ローマからインドに大量の金が流出したことを伝えているが,ちょうどこの時期にクシャーナ朝によって大量の金貨が発行されている。このクシャーナ金貨の重量基準はローマ貨幣の基準に従っており,またその金貨は,ローマのデナリウス貨に由来するディーナーラ d ̄n´ra の名で呼ばれた。
                        山崎 元一

23名無しさん:2013/07/20(土) 04:39:53
>>22

[クシャーナ朝の美術]  王朝の繁栄を背景にガンダーラ地方とマトゥラーとを2大中心地として仏教徒主導の美術が展開した。ガンダーラ地方では5世紀中期のキダーラ朝の滅亡までを範囲とする。その仏教美術が以後のインド,中央アジア,中国のそれに及ぼした影響力の強さは他に類を見ない。
 ガンダーラではヘレニズム・ローマ文化の影響を受けて西方的な色彩の濃い仏教美術が行われ,3世紀までは灰青色の片岩または千枚岩による石彫が,4〜5世紀には塑造彫刻が主体であった。一方,この王朝の東方の拠点都市マトゥラーではインド古来の伝統に基づいた赤色砂岩による仏教およびジャイナ教彫刻が栄えた。
 元来クシャーナ族はイラン系文化を保持しイランの宗教を信奉していたと思われるが,カニシカ王の外護とともに当時繁栄をみた都市の商業資本が仏教やジャイナ教の造寺造塔を推進したのであろう。この王朝の仏教美術で特筆すべきは,1世紀末にまずガンダーラで,やや遅れてマトゥラーで初めて仏像を製作したことである。なおこの王朝の神殿趾がマトゥラー郊外のマートやヒンドゥークシュ山脈の北のスルフ・コタルで発見され,前者からはカニシカ王などの王族を神格化した肖像が出土した。また諸王の発行した貨幣には表に王の肖像,裏に諸宗教の神々が見え,すぐれた金工技術を示している。
 この王朝の美術は,インド,イラン,ローマの文化が融合し,多様な様相を内包している点に特色がある。アフガニスタンのベグラームのクシャーナ時代の都城趾からはヘレニズム・ローマ世界の青銅製品,ガラス器,セッコウ円板,インドの象牙細工,中国漢代の漆器などが出土し,各地との通商によるこの王朝の繁栄ぶりを伝えている。⇒ガンダーラ美術‖マトゥラー美術        肥塚 隆

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24名無しさん:2013/07/20(土) 04:43:18
クシャーナ朝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E6%9C%9D

クシャーナ朝(クシャーナちょう、英: Kushan、中: 貴霜)は、中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えたイラン系の王朝である。日本語表記は一定せず、クシャナ朝、クシャーン朝、クシャン朝、クシャン帝国とも呼ばれる。

25名無しさん:2013/07/20(土) 04:45:35
メシア
Messiah

ヘブライ語マーシャハ(油を注ぐ)という動詞の名詞形マーシーァハ(油注がれた者)に由来する語。救世主。ギリシア語ではクリストス(キリスト)と訳された。聖書的伝統によれば,神の介入によって変貌した歴史内世界に立てられる神の支配の代行者をいう。そして,このメシアによる終末的救済によってもたらされる新しい世界秩序の到来を待望する世界観をメシアニズムという。メシア思想は,古代オリエントの宇宙論的な世界変貌の思想を背景にもつが,とくに古代イスラエルの預言者の終末論的歴史観に基づいて成立したと説明される。注油は,本来,エジプトのファラオ(王)が官吏,封臣を職に任じる際の慣習であるが,古代イスラエルでは,神ヤハウェがある人物(サウル,ダビデなど)を聖別し,王に任じるとの考えでなされ,油注がれた者=メシアといわれた。旧約聖書では後代,拡大されて,祭司や族長にも用いられた。油を注いで王とする制度が単なる一人の王の即位儀礼ではなく,ダビデ王家の統治を否定して,神の介入による新しい天的王者と理想的秩序の出現(例えば《イザヤ書》11:1〜9)を告知するように,現実の王支配を否定媒介して成立したのが,すぐれて強烈な歴史変革の意識をもつヘブライ預言者の独特の思想であった。その後,民族の危機,苦難に際するたびに,メシアを自認する者,その到来を預言する預言者が出現した。ヘレニズム期後期とローマ帝国の圧政下で,ユダヤの民衆の中の強いメシア出現の願望を背景に,ユダヤ教団,とくにその過激派の中からメシアを自称する者が現れて権力に抗したが,弾圧・粛清された。キリスト教は,あらゆる人間の矛盾,苦しみ,罪をみずから背負い,代償死を遂げた苦難の僕(《イザヤ書》52:13〜53:12参照)の中に現実世界と人間の究極の救済を見,十字架に刑死したイエスに真のメシア(キリスト)と真のメシアニズムの完成を見た。                   左近 淑

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26名無しさん:2013/07/20(土) 04:52:38
一貫道
いっかんどう

現代中国の宗教的秘密結社。19世紀末ごろ,山東省済寧県で路中一(1921没)が創設し,その弟子の張天然(1947没)が後をついで発展させた。その教義は,儒・仏・道教のほかにキリスト教,イスラムをもあわせた五教帰一をとなえ,天地開闢いらいの青陽・紅陽・白陽三期それぞれの末期に大破壊がおこるが,一貫道教を信ずる者だけは最高神である無生老母によって救われるとする。中華人民共和国では反動的宗教として弾圧された。
                        坂出 祥伸

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27名無しさん:2013/07/20(土) 04:53:54
新宗教
しんしゅうきょう

(1)どの時代のものであれ,その時代に新しく発生し,広まった宗教をいう用法もあるが,現在,もっともよく用いられているのは,(2)近代化以降の時代に登場し,既存の宗教伝統とは異なる,新しい伝統を掲げて信仰集団を形成する宗教を指す用法である。ここでは(2)について述べる。欧米では国教の地位を占めるカトリック教会やプロテスタント教会に対して,少数派のキリスト教集団を〈セクト sect〉とよびならわしてきた。これらは新宗教ではなく,既存のキリスト教の枠内の分派集団と見なされる。これに対して,正統的なキリスト教の教義の枠から著しく逸脱していたり,外来宗教の系譜を引いていたり,既存の宗教の枠を超えた新興の宗教集団は〈カルト cult〉とよばれることがある。このカルトと新宗教はほぼ同じ対象を指して用いられる。ただし,カルトがやや軽蔑的,批判的な意味をこめて用いられがちなのに対して,新宗教の語は価値判断からより自由に用いられることが多い。日本以外の地域で,早い時期から発展の著しい新宗教としては,アメリカのモルモン教,ものみの塔(エホバの証人),クリスチャン・サイエンス(キリスト教科学),ブラック・ムスリム,ジャマイカのラスタファリ運動,西アジアのバハーイー教,韓国の円仏教や需山教,華人社会の一貫道などがある。アフリカやブラジルにも新宗教は多い。

[日本の新宗教] 日本の早い時期の新宗教には,19世紀初期に成立した,やや早咲きの如来教や黒住教,19世紀中期に成立した天理教や金光教や禊教などがあり,明治期に成立したものには丸山教,蓮門教,大本教などがある。この段階までのものは,しばしば〈民衆宗教〉の名でよばれている。もっとも大きな勢力を築いた教団は,大正末から戦後にかけて成立したもので,ひとのみち(後の PL 教団),霊友会,生長の家,世界救世教,立正佼成会,創価学会,真如苑などである。新宗教のおもな宗教史的な源泉としては,江戸時代に活発化していた,(1)神仏習合的な社寺を参詣のセンターとし,山伏,行者などの民間宗教家を媒介としつつ,講社に寄り集まった人々が支えた民俗宗教の諸集団(〈習合宗教〉の伝統とよぶこともできよう)と,(2)在家信徒が積極的に参加する日蓮系の講(題目講),(3)石田梅岩が創始した石門心学に代表されるような修養道徳的な大衆運動などが考えられる。

28名無しさん:2013/07/20(土) 04:54:50
>>27

 新宗教の宗教思想の特徴は〈現世救済思想〉の語で要約できる。それまで有力だった仏教の救済観が現世離脱的,来世志向的であったのに対し,新宗教は現世の身近な生活の改善がそのまま究極の幸福に通じるものととらえる。どちらかというと死や死後の世界に関心が薄く,死後の世界に関心を払う場合でも,この世の幸福に影響してくる限りで来世を問題にするという傾向が強い。中心的な礼拝対象は〈親神〉であったり〈仏〉であったりするが,しばしば〈宇宙大生命〉とよばれる。典型的な教えでは,宇宙万物も人間も同じ宇宙大生命から派生した存在としてとらえ,他者や環境と調和した関係を結ぶことによって宇宙の生命力と合体していけると説かれる。調和した関係を取り結ぶ鍵は個々人の〈心〉にある。清らかで曇りのない心,愛情豊かで落ち着いた平静な心を保つことによって宇宙的生命の流露する幸福な生活を実現できるとする〈心なおし〉の教えも広く共有されている。これらが〈生命主義的救済観〉とよべるような教えを構成している。
 本来的な充実した生活はまず家族において実現するとされ,家族の和が尊ばれる。家族を守る存在として先祖が尊ばれる教団も多い。日本の国が特別な価値や使命をもつとするナショナリズムは広く認められる。ただし,天皇をある程度尊ぶとしても,崇拝する教団はむしろ少数派である。教祖やそれをつぐ教主らは生き神的な存在として崇拝されることが多い。教主を中心にカリスマ的な指導者が地域に根を張り,仲間的な小集団を抱え込むというような多重的な組織を作るものが多かった。

[1970年代以降の状況] 欧米や,欧米の文化的影響の強い地域では,1970年代以降,新宗教の顕著な拡大期に入った。クリシュナ意識国際協会,超越瞑想(TM),和尚ラジニーシ,統一教会(世界基督教統一神霊協会。〈原理運動〉参照),サイエントロジーなどの欧米での発展が注目された。日本新宗教の海外での発展が顕著になるのも,ちょうどこの時期である。一方,日本国内では既存の新宗教の発展にかげりがさすようになる。そして,その既存の新宗教の衰退を補うように,真光(世界真光文明教団,崇教真光),阿含宗,オウム真理教,幸福の科学,ワールドメイトなど,〈新新宗教〉とよばれるさらに新しい新宗教教団が発展してきている。さらに,既存の〈宗教〉そのものの抑圧性を超えて,個々人がそれぞれに自己の内面を探求し,それぞれの霊性を育て,自己変容をとげ,さらには人類全体の意識の進化をもたらすのだと考えるニュー・エイジ new age(欧米での呼称)とか精神世界(日本での呼称)とかよばれる潮流も世界同時的に成長してきている。日本では新宗教と精神世界はいちおう区別すべき現象と見なされているが,欧米ではニュー・エイジを新宗教の一部と見なす見方も有力である。いずれにしろ,宗教的なアイデンティティの選択肢の幅は地球上のどこでも,とりわけ先進国の大都市においては顕著に増大している。
 70年代以降は西洋近代の文化価値が揺らぎだした時期である。また,資本主義経済の拡大,通信・運輸技術の飛躍的向上に伴って,文化や情報の交流・移動が容易になった時期でもある。地球上の多くの地域で外国人や異文化との接触が飛躍的に増大してきた時期に,新宗教も増大し,宗教の多元的な併存状況が目立つようになってきた。しかし,そうした宗教的多元性の芽はすでに近代社会の中に存在し,アメリカ合衆国や日本などでは新宗教やセクトの叢生,競合というかたちで徐々に育てられていたと見ることができる。
                         島薗 進

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29名無しさん:2013/07/20(土) 04:56:56
新宗教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%97%E6%95%99

新宗教(しんしゅうきょう)もしくは新興宗教(しんこうしゅうきょう)とは幕末・明治維新以後から近年創始された比較的新しい宗教のことをいう。実に多種多様な団体を包括した用語であり、すべての団体にあてはまる概念、背景等の共通点は、成立時期のほかには存在しない。また、伝統宗教と比べて、比較的新しいというだけで、江戸時代に起源をもつところもあり、それなりの歴史と伝統を確立している新宗教も多い。欧米やアジア諸国でも新宗教という概念が用いられるが、国ごとに言葉の意味や捉え方が異なる。

30名無しさん:2013/07/20(土) 05:04:30
●弥勒信仰 みろくしんこう     〔参考文献〕数江教一『日本の末法思想』1961,弘文堂
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/miroku.htm

【弥勒信仰の発生】

弥勒信仰は,弥勒三部経による弥勒仏菩薩を中心とした信仰である。この弥勒三部経とは,『仏説弥勒菩薩上生兜率天』と,『仏説弥勒下生経』『仏説弥勒下生成仏経』をさす。成仏経は260年ころに成立し,下生(げしょう)経は4世紀末,上生(じょうしょう)経はそれよりも少し遅れて成立した。上生経による弥勒信仰を上生信仰と言い,成仏教と下生経による信仰を下生信仰と言う。上生信仰は,死後兜率天(とうてつてん)に往生し,弥勒菩薩の傍で五十六億余年を過ごし,やがて弥勒菩薩が下生するときに弥勒に従って再び地上に戻り,弥勒仏の三会説法の初会説法に参加するという信仰である。下生信仰は,弥勒菩薩が釈迦滅死56億7,000万年後,兜率天の寿命を全うしたとき,天からわれわれが住む閻浄提である地上に降りてきて婆羅門の娘梵摩波提に托生し,やがて弥勒は仏となり竜華(りゅうげ)樹下で,三回にわたり因縁のある人々に説法をするという信仰である。この三回の説法を竜華三会と言う。われわれは不幸にも末法世に生を受けたため釈迦の説法を聞くことができたが,その化度に直接接することができなかった。このためわれわれは弥勒を信じ修行し善根をかさね,竜華三会の説法に参加することによって救援を受けなければならないという信仰である。これを三会値遇とも言う。

経典の内容から見れば,弥勒は先に兜率天に上昇しその次に地上に下生するとされているので,上生経が下生経よりも早く成立したように思い勝ちであるが,すでに述べたように未来に竜華三会を期待する下生が先に成立し,その後に上生信仰が成立したのである。つまり,下生信仰だけでは,われわれの生命は限りがありかつ短いため,弥勒が下生するまで待てず,そして竜華三会に参加できない可能性が生じる。このため,死後兜率天に昇りここで弥勒菩薩と一緒に過ごし,弥勒に従って下生し竜華三会に参加するという上生信仰が,下生信仰を補うように成立したのである。結局,上生信仰と下生信仰の関係は,下生経による弥勒信仰の不備な点を再び補充整理したのが上生信仰と言えるであろう。

31名無しさん:2013/07/20(土) 05:09:57
?教
けんきょう

ペルシアのゾロアスター教に対する中国での呼名。拝火教ともいう。ササン朝で国教となっていたこの教えは,中国へは,北魏(386‐534)の中ごろには伝来し,北周,北斉にはしだいに広まって,宮中にも信奉者を見いだしていた。隋・唐時代になると,ペルシア人やイラン系の西域人がしきりに往来したが,彼らの大多数は松教信者であったとみられ,彼らを取り締まるため,隋代には醍保ないし醍甫,唐代では醍宝(さつぽう)という官をおいた。ちなみに北周の宇文護の小字は醍保であった。唐代では,教徒たちの拝火の殿堂である松祠ないし松寺は,敦煌,涼州,伊州はいうまでもなく,国都の長安に数ヵ所,また洛陽などに存在し,いわゆる三夷寺の一つであった。顔真縁の子の小字を穆護と称し,これは牧護と同じで,?教の僧侶の意味である。唐の武宗は,845年(会昌5)の会昌の廃仏(三武一宗の法難)の際,外来宗教をも弾圧し,松教の僧侶2000余人を還俗させたため,勢力を失ってしまったが,その余流が宋・元まで存在したことが確認されている。⇒ゾロアスター教                        礪波 護

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32名無しさん:2013/07/20(土) 05:12:40
松教
けんきょう

ペルシアのゾロアスター教に対する中国での呼名。拝火教ともいう。ササン朝で国教となっていたこの教えは,中国へは,北魏(386‐534)の中ごろには伝来し,北周,北斉にはしだいに広まって,宮中にも信奉者を見いだしていた。隋・唐時代になると,ペルシア人やイラン系の西域人がしきりに往来したが,彼らの大多数は松教信者であったとみられ,彼らを取り締まるため,隋代には醍保ないし醍甫,唐代では醍宝(さつぽう)という官をおいた。ちなみに北周の宇文護の小字は醍保であった。唐代では,教徒たちの拝火の殿堂である松祠ないし松寺は,敦煌,涼州,伊州はいうまでもなく,国都の長安に数ヵ所,また洛陽などに存在し,いわゆる三夷寺の一つであった。顔真縁の子の小字を穆護と称し,これは牧護と同じで,松教の僧侶の意味である。唐の武宗は,845年(会昌5)の会昌の廃仏(三武一宗の法難)の際,外来宗教をも弾圧し,松教の僧侶2000余人を還俗させたため,勢力を失ってしまったが,その余流が宋・元まで存在したことが確認されている。⇒ゾロアスター教                        礪波 護

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機種依存文字で「けん教」が化けてます。

33名無しさん:2013/07/20(土) 05:18:33
大本教
おおもときょう

京都府綾部に本部を置く神道系の宗教。教祖出口なおは1836年(天保7)丹波国(京都府)の大工の長女として生まれ,のち出口家の養女となって,大工の夫を婿に迎えた。夫の放蕩で家財いっさいを失い,ついにはぼろ買いをするほどの生活苦を体験した。1890年三女が発狂し,その際金光(こんこう)教の布教師の祈裳によって正気にもどるというご利益があらわれたのを機に金光教に深く帰依するようになる。さらに長女が発狂してまもない92年1月5日,なおは突然神がかりし,〈三千世界一度に開く梅の花,艮(うしとら)の金神の世になりたぞよ〉と口走り,世の中の立直しを叫んだ。なおは病気治しを中心に宗教活動をすすめ,そのなかで,大本教の教義の原典ともいうべき〈筆先〉の執筆にあたった。94年,なおは金光教の布教師となり,いわば金光教の軒を借りて布教活動をつづけたが,のちに決別して,大本教を独立させた。98年,なおは稲荷講社で霊学や神がかりの行法を学んだ上田喜三郎(のちの王仁三郎(おにさぶろう))とめぐり会った。王仁三郎は翌年には稲荷講社所属の金明霊学会をつくり,非公認の大本教を権力や社会の弾圧から合法的に救うことになった。そのうえ神の言葉を理論化する能力をもつ王仁三郎はなおの信頼を得,1900年にはなおの後継者五女すみと結婚。これ以後大本教は出口王仁三郎によって教義の体系化,組織化が進められ,聖師とよばれた彼の指導力が発揮されることになる。王仁三郎は戦争によってさらに富を増大していく資本家・地主といった人々に激しい憤りを燃やし,日本人の大多数を占める庶民を不幸に追いやる戦争を強く否定しつづけた。
 金明霊学会はやがて大日本修斎会へと発展し,16年には皇道大本と教団名を改称しつつ,多くの信者を獲得した。18年教祖出口なおは世を去ったが,五女すみが2代教主となり,王仁三郎が教団の指導者となって教団の運営がすすめられた。翌年に京都府亀岡の亀岡城址を入手し,布教の拠点である本部とした。さらに大阪の新聞社を買収して,マスコミを使って大本教の宣伝,布教を展開した。だが21年,大本教は政治権力からの弾圧をうけた(第1次弾圧)。それによって多数の幹部が不敬罪,新聞紙法違反等で起訴され,なおの墓は天皇の陵に類し不敬であるとの理由から破壊された。35年大本教は再び政治権力からの弾圧を体験した。このときも多数の幹部が検挙され,大本教の綾部と亀岡にある本部施設のほとんどがダイナマイトで爆破された(第2次弾圧)。権力による2度にわたる苛烈な弾圧をうけながらも,大本教は反権力思想をかかげ,戦争反対を叫びつづけた。第2次大戦後の46年,大本教は王仁三郎を苑主とし愛善苑として出発し,その後も一貫して戦争反対を叫び,平和運動を展開しつづけた。現在は大本と称している。              小栗 純子

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34名無しさん:2013/07/20(土) 05:23:59
大本教の発展と出口なおの晩年 三浦小太郎
2月 20th, 2012 by 月刊日本編集部.
http://gekkan-nippon.com/?p=2996

みろく信仰の大本教への導入
 日露戦争以後、出口王仁三郎は教団活動を活発化させていく。もちろん組織者としての彼の能力に疑いはないが、より重要だったのは、日露戦争以後の日本ナショナリズムを肯定し、出口なおの前近代的な宗教思想を日本神道や近代主義と結びつけたことである。そして、神道思想上出口王仁三郎が最も影響を受けた国学者が、大石凝真素美という人物だった。1832年に生まれ、幕末には尊王攘夷思想を説いて各国を回り、さらに明治3年には現状の神道を全面批判して投獄されたこともある。ラデイカルな国学者として明治維新を一貫して批判し、また独自の言霊論を展開した興味深い人物である。個人的には彼の主たる仕事とされる言霊論よりも、仏教、特に法華経を研究し、古事記との思想的関連性を追求した点が興味深く、そこには正直受け入れがたい極論(法華経は古事記の讃歌である、など)はあっても、後の国柱会、北一輝、さらには文学面での宮沢賢治などにも通じる、日本精神と仏教の高次の合一を模索するものだった。しかし、若き王仁三郎に与えた影響のうち最も大きなものは、大石凝のみろく信仰である。
 
 大石凝はもともと仏教思想だった弥勒信仰を、これも古事記と融合させることによって、国学としての「みろく信仰」を打ち立てようとした。仏教思想における弥勒信仰とは、仏陀入滅後56億7千万年後の未来に姿を現わして、多くの人々を救済するとされる弥勒菩薩を信仰するものだが、中国でも、また日本でも、この思想はむしろ現体制を打倒し新しい世界を実現させようという秘密結社や民衆反乱、世直し一揆などと結びついている。明治政府に激しい批判意識を持っていた大石凝にとって、新たな「維新」思想として、国学と結合した日本独自の「みろく」信仰を求めたのは自然ななりゆきだったといえよう。

 そして、なおの思想には、このみろく信仰の影響が当初はほとんど見られない。これは、なおが民衆共同体からも疎外されていたことの反映であり、民衆宗教としてのみろく信仰は彼女の救いにはならなかったのだ。出口なおが徹底した孤独者として生きたことをうかがわせる。

35名無しさん:2013/07/20(土) 05:25:07
大石凝真素美
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E5%87%9D%E7%9C%9F%E7%B4%A0%E7%BE%8E

大石凝 真素美(おおいしごり ますみ、1832年 - 1913年4月11日)は、日本の国学者。
遠祖は大伴氏という。壬申の乱の後継者として、望月を姓として伊賀、近江にすまったという。父は登、医を業として、かたわら多賀神社の神札をくばっていた。真素美の幼名は春雄、元服して大輔広矛。
22歳のとき江戸にいたが、アメリカの艦船が浦賀に来て、これに憤慨、「我国は神国なり。今は神知に俟つ外なし、神風を促す底の大神人を求むるに如かず」と東奔西走し、大人物をもとめ、各地の志士とまじわった。美濃の山本秀道の教えを聞いて感激し、秀道に師事して古典を研究し、奥義に達したという。
明治3年(1870年)、「有名無実の神道を廃せよ」とさけび、激越な論調ゆえにとらえられ、投獄された。出所、帰郷し、明治6年(1873年)9月、大祖の姓に復し、大石凝真素美と改名した。
明治11年(1878年)、秀道宅で天津金木学、日本言霊学を大成した。神に通じて霊に感じて、明治24年(1891年)の国会議事堂焼失、明治31年(1898年)の神宮正殿焼失を予言、的中したという。明治40年(1907年)から名古屋の水野満年のもとで皇学を講じてまた執筆にしたがった。

36名無しさん:2013/07/20(土) 05:39:25

出口王仁三郎と大本教弾圧  三浦小太郎
3月 23rd, 2012 by 月刊日本編集部.
http://gekkan-nippon.com/?p=3495

浅野和三郎の終末思想
 出口王仁三郎が教主となって後、大正時代に大本教が爆発的な発展を遂げたことは前号にて記した。この時期、王仁三郎同様、いや、時にはそれ以上の影響力を有したのは浅野和三郎と彼の激しい終末思想である。
 浅野和三郎は東京帝国大学にてラフカデイオ・ハーンに学び、デイッケンズの「クリスマスキャロル」や、英文学の神秘主義文学や恐怖・怪奇小説に多大な影響を受けた。日本では古典的な推理小説家としてしかほとんど知られていないコナン・ドイルが、降霊術や神秘主義にはまり込んでいたことでも分かるように(ホームズ・シリーズの中でも名作として知られる「バスカビル家の犬」はある種のゴシック怪奇小説の推理版とも読める)、19世紀末期から20世紀当初のヨーロッパ、とくにイギリスは古代のケルト文明再評価や、悪魔術の流行など神秘主義思想の宝庫でもあった。当時流行した心霊学研究は、ヨーロッパでも近代の行き詰まりの中、前近代思想や古代文明への熱狂的な興味が沸き起こっていたことを表している。
 浅野和三郎はその出自からもわかるように、王仁三郎以上に近代的な知性の持ち主であった。東京帝国大学英文学科を卒業後は、海軍機関学校の英語教官になるなど、当時としては最高の英語力を身につけた国際派知識人と言ってもよい。しかし、一九一五年(大正4年)三男が原因不明の熱病になり、どんな医者に見せても治らなかったのに、ある女性の霊能者が治して見せたことをきっかけに、本格的に心霊学や神秘主義にのめりこんでゆき、大本教に入信した。
 これは単なる奇跡伝や知識人の気まぐれではない。浅野は日本の霊性に目覚めたというよりは、当時の西欧の超近代主義としての神秘主義に直接影響を受け、さらにハーンから英語だけではなく、日本古来の文化伝統の重要性をも学んでいた。彼の思想は西欧の最先端の知的流行と、前近代日本文化のダイレクトな接合なのだ(これは実は日本90年代のポストモダンと称する思想家に無意識のうちに引き継がれている。たとえば中沢新一が登場した時、筆者は「洗練された浅野和三郎」と思えた)そして、浅野の讃歌は海軍軍人や知識人が大本教の存在を知り、そこに引き付けられてゆく大きなきっかけとなる。

37名無しさん:2013/07/20(土) 05:40:22
神智学
しんちがく theosophy

ギリシア語の theos(神)と sophia(叡智)の合成語。すでに新約聖書の《コリント人への第1の手紙》(2:6〜7)にこの言葉がある。中世,近世を通して,神もしくは天使からの啓示を内的直観により認識する際の方法,およびその認識内容を表す言葉であったが,特に宗教改革時代にはじまるプロテスタントの精神運動の中で錬金術や哲学の用語として普及した。パラケルスス,ワイゲル,フラッド,ベーメ,エティンガーらの著述の中にその例が見られる。〈神智学〉はつねに特定の体系または世界観を表す言葉として用いられる点で〈神秘主義〉と用語上区別される。そして1875年,ブラバツキー夫人がオルコット Henry Steel Olcott(1832‐1907)とともにニューヨークで神智学協会Theosophical Society を設立してからは,特にこの派の立場を指す言葉になった。
 ブラバツキーによれば,太古以来,宇宙と人間の起源をめぐる秘密が特定の秘儀参入者たちの間で伝承され,後にそこから東西の諸宗教が,それぞれの時代にふさわしい形式をとって生じるようになったが,現代はその秘伝の重要な部分を公開し,諸宗教間の対立を超えて,再び根源的な神的叡智のもとに復帰すべき時期に来ている,という。その神的叡智を学ぼうとする人のために設けられた上述の神智学協会では,(1)人種,宗教,身分の区別をもたぬ友愛精神の普及,(2)古来の世界宗教の比較研究と普遍的倫理の提示,(3)各人の内に潜む神的な力の研究と開発,という三大目標を掲げている。この近代神智学運動は世界的規模に発展し,リードビーター,ベザント,ベイリー Alice Bailey(1880‐1949),R. シュタイナー,ティングリー Katherine Tingley(1847‐1929)等の有力な後継者を生んだが,1930年代以降は衰退した。しかし現在は秘教への関心の高まりを背景に活力を盛り返し,アディアル派(インド,ヨーロッパ),ポイント・ロマ派(アメリカ),ベイリー派に分立しつつあり,日本では三浦関造設立の竜王会が協会を代表している。その影響は A. シュワイツァー,ソロビヨフ,ベルジャーエフ,モンドリアン,カンディンスキー,スクリャービン,W. B. イェーツらの思想家,芸術家に,また日本では仏教諸派,教派神道,個人的には鈴木大拙,今東光,三浦関造,浅野和三郎,川端康成らに及んでいる。
                         高橋 巌

[インドでの活動]  神智学協会は,1882年には本部がインドのマドラスに移され,心霊現象の研究を軸としながら,その成果をもとに,さまざまな霊的進化の道を実践することを目的として活動を継続している。その教義は,輪廻,業,解脱を説く仏教やヒンドゥー教の教義に負うところが少なくない。この協会のベザント夫人は,ガンディーの率いるインド独立運動に参加し,国民会議の年次大会議長を務めた。またこの協会は,インドの古典的哲学,宗教文献の写本を集め,それをもとにした校訂本の刊行を熱心に推進している。
                        宮元 啓一

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38名無しさん:2013/07/20(土) 05:52:01
紅巾の乱研究の動向と課題 東郷孝仁
http://repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/2088/1/AA112829850010003.pdf

39名無しさん:2013/07/20(土) 05:52:44
紅巾の乱
こうきんのらん

中国,異民族王朝元の支配を倒し,漢民族王朝明の成立のきっかけとなった宗教的農民反乱。1351‐66年。白蓮(びやくれん)・弥勒(みろく)教徒が勢力の中心で,紅布で頭を包み標識としたので〈紅巾の賊〉ともいう。河北省に本拠をおく白蓮教会の会首韓山童は弥勒仏下生(げしよう)の説をもって布教し,河南,安虐地方で反元の反乱を企てたが失敗した。あとを遺児の韓林児が継ぎ,長江(揚子江)流域では徐寿輝らが呼応し全国的反乱となった。このなかから朱元璋が出て反乱軍の群雄を倒し,天下を統一した。⇒明    谷口 規矩雄
 中国の紅巾軍は高麗にも侵入した。1358年元の上都開平の攻撃に向かった彼らは,反撃されて遼陽に逃れ,そこから59年,61年の2回高麗に侵入した。1回目は4万の兵力で,西京(平壌)を翌年まで占領。2回目は10万の大軍で,開城を翌年初めまで占領,さらに江原道原州にも侵入し,恭愍王(きようびんおう)は福州(慶尚南道安東)まで避難した。2回とも,安祐,李芳実,崔瑩(さいえい)等を中心とする高麗側の反撃で撃退されたが,南方海上からの倭寇と並んで,高麗王朝に大打撃を与えた。また,有力地方豪族が参戦,活躍し,とくに,やがて李朝の始祖となる李成桂はその後の台頭の端緒を開いたといえる。        北村 秀人

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40名無しさん:2013/07/20(土) 05:53:54
白蓮教の乱
びゃくれんきょうのらん

中国の宗教的秘密結社,白蓮教徒の反乱。南宋以来,異端邪教の代表とされる白蓮教は,本来,阿弥陀浄土信仰の宗教結社であった。一方,隋・唐より〈弥勒仏下生〉を唱え,反旗をひるがえす弥勒教徒の存在がみられるが,下層階級に教民の多い白蓮教の中にいつしかこの弥勒教が混入し,元末には紅巾の乱を起こした。この大乱の中から興起した明太祖朱元璋は,天下統一の過程で白蓮教を邪教として切りすて禁圧したが,その組織は根強く残存し,永楽年間(1403‐24),山東で仏母を称し妖女といわれた唐賽児の乱には万余の人が従っている。弘治(1488‐1505)から嘉靖(1522‐66)にかけ,山西省の白蓮教徒はモンゴル族の小王子と結ぶ動きをみせ,租税をとらぬという宣伝に誘われ,北辺の板升(城,村落)に入植した漢人の5分の1は白蓮教徒であったという。明末,広範な人民の生活破綻と,満州軍の遼東進攻は人心の動揺をよび,1622年(天啓2)には徐鴻儒らが数万の衆を率い山東に反した。また,四川,湖北,陝西の3省交界の山岳地帯(三不干(管))は,歴代大量の流民が流入し,木材業,鉱業等の開拓に努めた新開地であったが,王朝の支配力が希薄なところから,明の成化年間(1465‐87)には白蓮教徒を含む大規模な流民の反乱がみられた。

 清代に入っても,18世紀末の乾隆40〜50年代よりこの辺区の山地には流民が集中し,それにともない白蓮教も流行し,陝西では一村の4分の1が教徒であった。当時,四川,湖北の森林には武芸を習い掠奪を事とする〈架匪(かくひ)〉が跳梁していたが,彼らの参入により白蓮教徒も軍事化し,有産の教徒は武器を整備し巨大な山寨を構築した。乾隆末,甘粛,湖北において弥勒仏の転世者と明裔を称する牛八(朱姓)なる人物を擁立し,献金を集め布教活動を展開していた劉之協が官憲の追捕の的となった。胥吏(しより)の誅求(ちゆうきゆう)をともなう教徒への急な弾圧に,1796年(嘉慶1),湖北各地で教軍が相ついで蜂起し,翌年には四川の教軍も挙兵し大乱となった(嘉慶白蓮教の乱)。教軍は貴州,湖南のミヤオ(苗)族の反乱軍と連動し,官軍の手薄をついたため,その勢いははなはだ盛んであった。99年以後,反攻に転じた清軍が団勇を編成し,堅壁清野の策をとってからは,全体的統率者のいない教軍は分散され,1805年にほぼ鎮圧されたが,10年にわたる反乱に莫大な軍事費を投じた清朝は,以後財政難に苦しむこととなった。白蓮教の乱については,その革命性がつねに問題とされるところであるが,総じて郷村での自己利益保全組織としての要素も強く,政治的展望は漠然としている。    森 紀子

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41名無しさん:2013/07/20(土) 05:57:20
秘密結社
ひみつけっしゃ secret society‖Geheimgesellschaft[ドイツ]

一般に,加入者以外の者に対して,その存在,組織,目的などを秘密にする結社,団体をいう。ただし,これは狭義の秘密結社であり,後述のように秘匿されるべき事項は必ずしも一定しない。秘密結社は大別すれば,政治的秘密結社と入社式団体の二つに分かれる。このうち政治的秘密結社は,外敵や中央権力との対抗関係から発生するので,当の外因が消滅すれば,それ自身も消失する。すなわち,概して政治的秘密結社の存続は,一定の期間に限られる。これに対して入社式団体は,前者ほどアクチュアルな政治目的をもつことはない。それは,世俗的な一般社会のなかに秘密による封鎖領域を形成して,聖なるものの顕現を体験するための入信者団体である。歴史的現実との直接の接触が希薄であるために,存続期間は必ずしも一定していない。フリーメーソンのように,成立後数世紀を経てなお現存している入社式団体もある。この種の秘密結社はしばしば入社式(加入儀礼)のみが非公開であり,集会所や成員の氏名,教義,信条などはなんら秘密とはされないばかりか,〈人類の普遍的救済〉というような,世界そのものと等しい包括的範囲に及ぶ結社目的を掲げているために,公開結社と厳密な区別がつけにくい。のみならずある時期以後のフリーメーソンのように,みずから秘密結社であることを否認することさえまれではない。

[〈秘密〉と秘密結社の成立]  秘密結社が秘密結社であることを維持する最大の手段は,いうまでもなく秘密の保持である。しかし,秘密は必ずしも秘密結社のみが保持しているわけではない。ごくありきたりの個人といえども,他者の存在に脅かされないためには,私的領域を多少とも秘密によって隠戴しなければならない。秘密と私性との関係は,精神分析的にいうと幼時にしつけられた排泄物の始末の記憶にさかのぼるだろう。子どもはそこで恥部を隠すという秘密をもつことを覚え,同時に全体性の分割を経験する。その延長で発育期の子どもは,ともすれば両親や兄弟に対して(それ自体はしばしばつまらない)秘密をもちたがる。身のまわりを秘密で囲うことによって〈私〉を形づくり,こうして初めて自我形成が可能になるからである。逆にいえば,秘密(保持)が形成されない限り,〈私〉は無際限に公開されて一般性のなかに解消され,自我のアイデンティティ(同一性)は確立されない。

42名無しさん:2013/07/20(土) 05:58:15
>>41

 秘密結社がおおむね危機の時代に立ち現れがちであることも,このことと無関係ではない。上位のより大きい社会になんらかの変動が生じるとき,社会成員はもとより,社会内集団(民族,人種,政治結社,職業組合)もまたアイデンティティ・クライシス(同一性の危機)に遭遇して,いわば寄る辺のない孤児のように,アイデンティティの崩壊を目前にした白紙状態に投げ出される。この集団的幼時退行現象が,根を失った人びとに再び秘密によって封鎖された固有の私的領域を求めさせるのである。N. マッケンジーに従うなら,〈大多数の秘密結社は,古い生活形態が破産したり,新しい生活形態が今しも浮上せんとしている社会的無秩序の時期,もしくはイデオロギー的損藤の時期に発生する〉(《秘密結社》)のである。

[秘密結社の諸類型]  ここで二つの選択が考えられる。古い生活形態に固着するか,まだ姿を現さない新しい生活形態を期待するか,である。この点で秘密結社を二分するなら,前者がマウマウ団(マウマウの反乱)やマフィアのように古い因習に固執する楽園回帰グループ,後者が多少とも革命的な世界改革を唱える啓明結社,カルボナリ党,アイルランド独立を目ざしたクラン・ナ・ゲール Clan‐na‐ga∫l,革命前夜のボリシェビキ(ロシア社会民主労働党)のようなユートピア志向グループ,となろう。むろんこの分類はとりあえずのものにすぎず,両者の間に一線を画するのは容易ではない。
 いずれにせよ大多数の秘密結社は,危機の時代に古い地盤から根こそぎにされた故郷喪失者の層から発生してくる。薔薇十字団は三十年戦争の混乱のなかから出現し,テンプル騎士団は十字軍の退廃に再度秩序をもたらそうとする欲求から生まれた。マウマウ団は白人宣教師や白人植民者によって伝統的生活形態を破壊されたキクユ族の苦悩から,クー・クラックス・クランは南北戦争の敗者たるアメリカ南部から,それぞれ発生する。現在ではほぼ犯罪結社化しているマフィアもまた,本来はシチリアが近代ヨーロッパの秩序に取り込まれようとした時代の孤島固有のアルカイックな習俗の崩壊過程で,楽園回帰的衝動から生み出された結社である。
 これらの秘密結社は外因である危機の性質に応じてさまざまの結社目的を立てるが,それによって宗教的秘密結社,民族主義的秘密結社,人種主義的秘密結社,犯罪秘密結社などに分類することができる。いずれにせよ,すでに述べたように,危機が一過性のものであれば,それに応じて秘密結社も一過的に盛衰する。しかし,G. ジンメルがその《社会学》第5章〈秘密と秘密結社〉において指摘したように,たとえある秘密結社が現実の目的を達成して社会に公開されても(たとえば革命後のボリシェビキ),これとすれ違いにかつての中央権力が没落して秘密結社化するので,秘密そのものの存在は恒久的に存続する。


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