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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

726鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 00:03:03 ID:VbeGsvBM0

 それは間違いなのじゃ。
 以前に解説した大乗起信論の真生不二の段にも、
 心は実に動ぜず、と書いてあるのじゃ。
 動じないから無常ではないのじゃ。
 仏教をよくしらないだけなのじゃ。

727鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 00:33:48 ID:VbeGsvBM0
 解脱は生み出されるべきものであるとする人の場合、当然のことながら解脱を、心的・言語的・身体的行為によって実現されるものだと考えているというのじゃ。
 解脱を変化してできるものだとする人の場合にも同様だというのじゃ。
 これら両者の見解によれば、解脱は確実に無常であることになってしまうというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 解脱=ブラフマンは到達すべきものだがら、行為によって実現されるのではないかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そうではなくブラフマンは自己のアートマンの本質なので、到達されるようなことはないというのじゃ。
 たとえ、アートマンの本質とは異なるものであったとしても、ブラフマンは到達すべきものなどではないというのじゃ。
 何故ならばブラフマンは遍在しており、そのためすべての人にいつでも到達されているからなのじゃ。
 それはちょうど、虚空の場合と同じなのじゃ。

 衆生は本来仏であるというのと同じじゃな。
 
 シャンカラはだが解脱は生み出されるものであるとする人の場合には云々と、反対主張者の見解によれば解脱が無常であることになると述べているのじゃ。
 ]行為によって実現されるものとは、供犠等の執行によって生ずる新得力のことであり、解脱はそれが生ずるのに新得力を必要とする、という意味であるなのじゃ。
 またこれら両者の見解によれば、とは、解脱が達成されるべきものや生み出されるべきものであるという見解と、変化してできるものであるという見解のことなのじゃ。

 仏教徒は、認識(識)は瞬時に滅するものであると主張しているというのじゃ。
 そして 同じく、清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張しているというのじゃ。。
 従って解脱は、 達成されるべきものであることになるというのじゃ。

 他の学派の場合には、輪廻の状態を捨ててアートマンが独存の状態を獲得することが解脱であるので、解脱は変化してできた ものであることになるのじゃ。
 これら両者の見解によれば、解脱は無常であることになるというのじゃ。
 何故ならば解脱が、ヨーグルトや壷等のように行為によって実現されるものであることになるからというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 「天を超えたところで輝いている光が云々」という天啓聖典によれば、ブラフマンには変化した場所と変化していない場所という区別が理解されるのじゃ。
 従って、念想を命ずる儀軌によって、ブラフマンの変化していない場所へ到達することが実現されるじゃろう。
 それ故ブラフマンは、到達すべき目的であることになるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 人は、自己自身以外の手段によって、変化した場所を去り、変化していない場所に到達するものなのじや。
 たとえば、海岸の近くでは、寄せては返す波が互いにぶつかりあって生ずる大量の泡のために、海が変形しているが、沖のほうは、まったく波がなくて静かなありのままの姿をしており、一定なので変形していないとするのじゃ。
 そして、その変形していない沖の方へ、船員は船で到達するのじゃ。
 
 だが個人存在はブラフマンにほかならないのだから、一体何によって何に到達するというのかというのじゃ。
 なぜならば到達は区別に基づいているからなのじゃ。
 以上が[『註解』のこの箇所の]意味なのじゃ。
 
 また、たとえ個人存在がブラフマンと異なっていたとしても、それ個人存在がブラフマンに到達することはないのじゃ。
 何故なら、ブラフマンは遍在しているので、常にすでに到達されているからなのじゃ。

728避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 07:23:59 ID:67Dnd.II0
>>726

↓この辺りでありますね。
ありがとうでありました。(´・(ェ)・`)つ
>>293
若風止滅動相則滅。濕性不壊。如是衆生自性清浄心因無明風動。心與無明倶無形相。不相捨離。而心非動性。若無明滅相續則滅。智性不壊故。
若し風、止滅すれば、動相は則ち滅するも、湿性(しっしょう)は、壊せざるが如くなるが故に。かくの如く、衆生の自性(じしょう)清浄心も、無明の風に因って動じ、心と無明と、ともに形相(ぎょうそう)無く、相捨離せず、而も心は動性に非ず。若し無明滅すれば、相續は則ち滅し、智性(ちしゃう)は壊せざるが故に。

>>339
謂一切境界唯心妄起故有。若心離於妄動。則一切境界滅唯一眞心無所不徧。此謂如來廣大性智究竟之義。非如虚空相故

所謂一切の境界は、唯心の妄に起こるが故に有り。若し心、妄動を離るれば、則ち一切の境界滅す。唯一の眞心にして、徧せざる所無し。此を如來廣大の性智究竟の義と謂ふ。虚空の相の如きに非ざるが故に。

729避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 07:26:09 ID:67Dnd.II0
4.7.2.解脱は浄化されて生ずるものではない p404-405 204左/229

  [反対主張]解脱は浄化されて生ずるものなので、[人問の]努力に基づくのではないか。
  [答論]そうではない。実に浄化とは、浄化されるべき対象にすぐれた特性を付け加えることによって[実現される]か、あるいは、浄化されるべき対象から欠点を取り除くことによって[実現される]かのいずれかであろう。[だが解脱は]、まず第一に、すぐれた特性を付け加えることによって生ずるということはない。何故なら、解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンだからである。さらに欠点を取り除くことによって [解脱が生ずる]ということもない。何故なら、解脱の本質は、常に清浄なブ ラフマンにほがならないさらである。
   [反対主張]解脱とは、自己のアートマンの隠れた特性なのであって、アートマンが行為によって浄化されたときに現れてくるのではないのか。それはちょうど、磨くという行為によって鏡が清められたときに、輝きという特性が現われてくるようなものなのであろう。
  [答論]そうではない。何故なら、アートマンが行為の基体であることはあ りえないからである。すなわち行為は、その基体に変化を及ぼすことなしには成立しない。そしてもし、アートマンが行為によって変化を被るとすると、アートマンは無常であるということになってしまう。[そしてその場合には]、「これ(アートマン)は変化しないと言われている」658等の聖典の文章が否定 されることになる。そしてそれは、望ましいことではない。従って、自らに基づく行為がアートマンに生ずることはないのである。一方、[アートマン]以 外のものに基づく行為の場合には、[アートマンはその行為の]対象ではない わけだがら、そ[の行為]によってアートマンが浄化されることはない。

脚注
658
(´・(ェ)・`)
(つづく)

730避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 07:50:10 ID:3K0VgoIU0
最質問であります。
>清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張している。
↑この点が間違いでありましょうか?

それとも、そもそも「刹那滅」を否定すること自体が、間違いなのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

731鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 22:41:51 ID:bumgdxTA0
>>730 そうじゃ、清浄な認識は生じるのではないのじゃ。
 もともとあるものじゃ。
 
 それはブラフマンと同じなのじゃ。
 心が変質するのではなく、無明がなくなればもとの清浄な認識があるだけになるのじゃ。

732鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 23:46:55 ID:bumgdxTA0
 反対なのじゃ。
 ]解脱は浄化されて生ずるものなので、人問の努力に基づくのではないかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 実に浄化とは、浄化されるべき対象にすぐれた特性を付け加えるか、あるいは、浄化されるべき対象から欠点を取り除くかのいずれかで実現されるのじゃ。
 まず第一に、解脱はすぐれた特性を付け加えることによって生ずるということはないのじゃ。
 何故ならば解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンだからなのじゃ。

 さらに欠点を取り除くことによって 解脱が生ずるということもないのじゃ。
 何故ならば解脱の本質は、常に清浄な欠点のないブラフマンにほがならないからなのじゃ。

 反対なのじゃ
 解脱とは、自己のアートマンの隠れた特性なのであって、アートマンが行為によって浄化されたときに現れてくるのではないのかと聞いたのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 そうではないというのじゃ。
 何故ならばアートマンが行為の基体であることはありえないからだというのじゃ。
 行為とはその基体に変化を及ぼすことなしには成立しないのじゃ。
 そしてもしアートマンが行為によって変化するとすると、アートマンは無常であるということになってしまうじゃろう。
 「これ(アートマン)は変化しないと言われている」等の聖典の文章が否定 されることになるからありえないのじゃ。

 自らに基づく行為がアートマンに生ずることはないのじゃ。
 一方、アートマン以外のものに基づく行為の場合には、対象ではないからそれでアートマンが浄化されることはないのじゃ。

733避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 23:58:55 ID:AjT8MWTM0
(つづき) p405-406
  [次に師シャンカラは、解脱が]浄化の対象であるという見解を[次のように]退けている。そうではない云々と。実に浄化が実現されるのには、次の二通りの場合があ る。すなわち、(1)すぐれた特性を付け加えることによって[浄化が実現される]場合、たとえば、シトロンの花にラックの汁を振り掛け、そうすることで、その(シトロンの)花が浄化されてラックと同じ色の実をつけるような場合と、(2)欠点を取り除くことによって[浄化が実現される]場合、たとえば、汚れた鏡の表面を磨き粉で磨けば、浄化されて輝きがでてくるような場合である。このうちまず、すぐれた特性を付け加えることは、ブラフマンには不可能である。すなやち、この特性とは、ブラフマンの本性であるか、あるいはブラフマンとは異なるものであるかのいずれかであろう。 もし(ブラフマンの)本性であれば、どうして付け加えることができようか。何故なら、それ(ブラフマンの本性)は、永遠不変だからである。一方、もし[ブラフマンとは]異なるとすれば、[そのブラフマンの特性が]後に生じたことになるから、[ブラフマンの特性である]解脱は、永遠不変ではないことになる、という誤謬に陥ることになる。また、[ブラフマンとその特性との]違いには、牛と馬の場合と同じく、基体とその属性というような関係が存在するわけではない。また、[両者が]異なっておりかつ異なっていないというのは矛盾であるから、すでに退けた通りある659。 [そして師シャンカラは]、以上のような考察をふまえたうえで、[次のように]述べている。何故なら、解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンにほかならないからであると。[そしてさらに]第二の見解を、[次のように]批判している。 さらに欠点と取り除くことによって[解脱が生ずる]ということもないと。鏡には汚 れが存在するので取り除かれるが、ブラフマンには[汚れが]存在しないので取り除くことはできない。何故なら、[ブラフマンの場合、汚れは]常に取り除かれているから一である。以上が[『註釈』のこの箇所の]意味なのである。
  [師シャンカラは次のような]反対主張を想定している。[解脱とは]、自己のアートマンの隠れた特性なのであって云々と。すなわち、解脱とは、ブラフマンの本性ではあるが、無始の無明という汚れ覆われているので、念想等の行為によってアートマンが浄化されたときに、現われてくるのである。生みだされるようなことはないのである。その趣旨は次の通りである。すなわち、アートマン(個人存在)の場合には、輪廻の状態にあって無明のために汚れているので、常に清浄であるという性質は確立していないのである。
  [このような反対主張を、師シャンカラが次のように]退けている。そうではないと。 何故か。何故なら、[アートマンが]行為の基体であることはありえないからである。 すなわち、無明の基体は、ブラフマン(=アートマン)ではなくて個人存在なのである。だがそれ(無明)は、[ブラフマンに附託されているので、ブラフマンがその基体であるとも]660表現できないと言われるのである。従って、ブラフマンは常に清浄なのである。しかしながら、[師シャンカラは、ブラフマンの]汚れを認めたうえで、[ それが]行為によって浄化されるという見解を、[次のように]批判してゆくのである。 実に行為は、ブラフマンに内属していてブラフマンを浄化するか(ちょうど、磨くとい う行為は、磨き粉とは何度も接触したり離れたりするが、常に鏡の表面からは離れないように)、それとも、[ブラフマン]以外のものに内属していて[ブラフマンを浄化する]かのいずれかであろう。まず行為は、ブラフマン[に内属する]属性ではない。 何故なら、それ(行為)は、その基体を変化させる原因なので、ブラフマンは永遠不変 であるということが損なわれてしまうからである。一方、[行為の]基体が[ブラフマン]以外のものであれば、その[行為]がどうして[行為の基体]以外のもの(すなわ ちブラフマン)に役だったりしようか。何故なら、[その行為の]適用範囲が広くなりすぎるという誤謬に陥るからである。というのは、鏡が磨かれたときに宝石がきれい になるなどということは経験されないからである。
  そしてそれは望ましいことではないというのは、それという語で[聖典の文章が]否 定されることを指しているのである。

脚注
659 本訳389頁以下参照。
660
(´・(ェ)・`)つ

734避難民のマジレスさん:2022/11/24(木) 07:57:54 ID:ktPHY.zc0
>>731
鬼和尚、いつもありがとうであります。

解脱、ブラフマンは、存在の背景にある永続するもの、ないしは、刹那滅の例外という事でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

735鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/25(金) 00:49:05 ID:zRHViatc0
>>734 そうじゃ、刹那滅とは、衆生の持つ謬見の一つである永続する自分という観念を否定するための観念なのじゃ。
 それもまた謬見を取り除くための方法であり、観念の一つに過ぎないのじゃ。
 悟りを得れば捨てられるものなのじゃ。

736鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/25(金) 00:49:35 ID:zRHViatc0
 シャンカラは解脱が]浄化の対象であるという見解を次のように退けているというのじゃ。。
 実に浄化が実現されるのには、次の二通りの場合がある筈じゃ。
 (1)すぐれた特性を付け加えることによる場合なのじゃ。、
 (2)欠点を取り除くことによる場合じゃ。

 先ず一つ目のすぐれた特性を付け加えることはブラフマンには不可能なのじゃ。
 この特性とはブラフマンの本性であるか、あるいはブラフマンとは異なるもののいずれかじゃろう。
 もしブラフマンの本性であれば、付け加えることはできないのじゃ。
 何故ならばブラフマンの本性は、永遠不変だからなのじゃ。

 一方、もし異なるとすれば、そのブラフマンの特性が後に生じたことになるから解脱は永遠不変ではないことになるという誤謬に陥るのじゃ。
 ブラフマンとその特性との違いには、牛と馬の場合と同じく、基体とその属性というような関係はないのじゃ。
 また両者が]異なっておりかつ異なっていないというのは矛盾であるから、すでに退けたのじゃ。
 シャンカラは以上のような考察をふまえたうえで解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンにほかならないと言うのじゃ。

 そしてさらに第二の見解を次のように批判しているのじゃ。
 欠点と取り除くことによって解脱が生ずるということもないと言うのじゃ。。
 鏡には汚 れが存在するので取り除かれるが、ブラフマンには汚れが存在しないので取り除くことはできないからなのじゃ。
 何故ならばブラフマンの汚れは常に取り除かれているのじゃ。
 以上が[『註釈』のこの箇所の]意味だというのじゃ。

 シャンカラは次のような反対主張を想定しているのじゃ。
 解脱とは自己のアートマンの隠れた特性なのであってブラフマンの本性ではあるが、無始の無明という汚れ覆われているので、念想等の行為によってアートマンが浄化されたときに現われてくるのじゃ。
 生みだされるようなことはないのじゃ。
 アートマンの場合には、輪廻の状態にあって無明のために汚れているので、常に清浄であるという性質は確立していないのじゃ。

 このような反対主張をシャンカラが次のように退けているのじゃ。
 アートマンが行為の基体であることはありえないのじゃ。
 無明の基体は、ブラフマン=アートマンではなく個人存在なのじゃ。
 だが無明は、[ブラフマンに附託されているので、ブラフマンがその基体であるとも]表現できないと言われるのじゃ。
 従ってブラフマンは常に清浄なのじゃ。

737避難民のマジレスさん:2022/11/25(金) 03:04:48 ID:u6sSneRk0
4.7.3.浄化されるのは身体等と結び付いたアートマンなのである一以上の理由で知識のみが解脱への道である p406-409 205左/229

  [反対主張]身体を基体とする行為一たとえば、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等一が、身体の主(アートマン)を浄化するのは、経験されているではないか。

  [答論]そうではない。何故なら[この場合には]、身体等と結び付いているアートマン、すなわち無明に担われているアートマが浄化されるにすぎないからである。というのは、沐浴やうがい等が身体に内属するものであることは、明らかだからである。従って、身体を基体とするという形でそれ(身体) と結び付いているもの、すなわち無明のせいでアートマンだと考えられているものが、浄化されるのだとするのが正しいのである。たとえば、身体に対する治療によって[身体を構成する]諸要素661の平衡状態が回復すると、それ (身体)と結び付いている者、すなわちそれ(身体)を[自己だと]思い込んでいる者に、健康という結果、つまり「私は健康である」という意識が生ずるが、それと同じように、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等によって、ある者に「私は清浄であり、浄化されたのだ」という意識が生じたとき、その者が浄化されているのである。そしてその者は、まさに身体と結び付いているのである。何故なら、私という行為主体=私という観念の対象=[私という] 観念の担持者662によって、あらゆる行為が行われているからである。そしてまさにその者が、[以下の]真言にあるように、その[行為の]果報を享受するのである。「両者のうち、ある者は美味しいピッバラ[の実]を食べ、他の者は食べずに見ている」663「賢者は、身体・感覚器官・思考器官と結びついているものを享受者と呼んでいる」664と。また[以下の]二つの真言は、ブラフマンがそれ以上にすぐれた特性の付け加えようのないものであって、常に清浄であるということを示している。「唯一の神であって、あらゆる存在の中に隠されており、すべてに遍在し、あらゆる存在に内在するアートマンである。行為の観察者であって、すべての存在の中に住み、観照者、純粋精神、 独存者であって、属性を持たない」665「彼はすべてに行きわたっており、白く輝き、身体がなく、傷がなく、筋がなく、清浄で、罪に汚されることがない」 666と。そして、[この]ブラフマンになることが、解脱なのである667。従って解脱は、浄化されて生ずるということもないのである。
   [(1)解脱は生み出されるべきものである、(2)解脱は変化してできるものである、(3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという以上の四つの見解]以外には、話も、行為によって解脱に入る方法を示すことはできない。従って、知識という唯一[の道]以外には(すなわち行為によっては)、ほんのわずがでもここ(解脱)に入ることはできないのである。

脚注
661インド医学による身体を構成する要素。すなわち風(vāta)•胆汁(pitta)・痰(kapha)の三要ことで、これらが平衡状態にあるときが健康であるとされる。cf.矢野道雄,1988,pp12-13.
662これら三者が同一であるということに関しては、前田専学,1980a,p178参照のこと。
663 664 665 666
667本訳409頁参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

>>735
鬼和尚、ありがとうでありました。

738鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/25(金) 23:46:39 ID:4FC5m1IE0
 反対なのじゃ。
 身体を基体とする行為、たとえば、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等が、身体の主のアートマンを浄化するのは、経験されているというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 それは身体等と結び付いているアートマン、すなわち無明に担われているアートマが浄化されるにすぎないから違うというのじゃ。

 ただ観念で浄化されたと思うだけで、アートマンは浄化されないのじゃ。

 沐浴やうがい等が身体に内属するものであることは、明らかなのじゃ。
 従って身体を基体とするという形で身体 と結び付いているもの、すなわち無明のせいでアートマンだと考えられているものが、浄化されるのだとするのが正しいのじや。
 
 たとえば、身体に対する治療によって諸要素の平衡状態が回復すると、身体を自己と思い込んでいる者に、健康になったという意識が生ずるのじゃ。
 それと同じように、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等によって、ある者に「私は清浄であり、浄化されたのだ」という意識が生じたとき、その者が浄化されているのじゃ。
 何故なら、私という行為主体=私という観念の対象=[私という] 観念の担持者によって、あらゆる行為が行われているからなのじゃ。
 そしてまさにその者が、以下の聖典の真言にあるように、その行為の果報を享受するのじゃ。

 「両者のうち、ある者は美味しいピッバラ[の実]を食べ、他の者は食べずに見ている」
 「賢者は、身体・感覚器官・思考器官と結びついているものを享受者と呼んでいる」と。

 また以下の二つの聖典の真言は、ブラフマンがそれ以上にすぐれた特性の付け加えようのないものであって、常に清浄であるということを示しているのじゃ。

 「唯一の神であって、あらゆる存在の中に隠されており、すべてに遍在し、あらゆる存在に内在するアートマンである。行為の観察者であって、すべての存在の中に住み、観照者、純粋精神、 独存者であって、属性を持たない」
 「彼はすべてに行きわたっており、白く輝き、身体がなく、傷がなく、筋がなく、清浄で、罪に汚されることがない」  と。
 そして、ブラフマンになることが、解脱なのじゃ。
 従って解脱は、浄化されて生ずるということもないのじゃ。

  [(1)解脱は生み出されるべきものである、(2)解脱は変化してできるものである、(3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという以上の四つの見解では話によっても、行為によって解脱に入る方法を示すことはできないのじゃ。
 従って、知識という唯一の道以外には、ほんのわずがでも解脱に入ることはできないのじゃ。

739避難民のマジレスさん:2022/11/25(金) 23:50:32 ID:5NILbnmo0
(つづき)   p408-409
  ここで[師シャンカラは、反対主張者の指摘する次のような]矛盾を提示する。身体を基体とする行為云々と。
  [そして、このような矛盾を次のように]退けている。そうではない。何故なら[この場合には]、身体と結び付いている云々と。ブラフマンは、無始であって[実在であるとも非実在であるとも]表現できない無明によって限定されているときに、「個入存在」とか「田地の知者」とか呼ばれるのである。そしてそれは、粗大身・微細身・感覚器官等と結び付き、それらの集合体の中に位置しており、それらと区別されないために、「私」という観念の対象となる。従って、[ブラフマン=アートマンが]それら(身体等)と異ならないと信じられているので、身体の浄化は、身体等の属性ではあるが、 アートマンの[属性]であるともされるのである。それはちょうど、化粧品の属性である芳香が、乙女のものだとされるようなものなのである。従ってこの(アートマンの浄化の)場合にも、世俗的な認識根拠の対象となる行為の基体となっているもの(個人 存在)が浄化されるのであり、それ以外のもの(アートマン)が浄化されるのではない。それ故、矛盾は存在しないのである。しかしながら、本当のところは、行為も存在しないし浄化も存在しないのである668。ところで、[『註解』の]残りの箇所については、例も含めて、附託に関する註解のところですでに説明済みなので669、ここでは説明しない。
  「両者のうち、ある者は美味しいピッバラ[の実]を云々」という[箇所]で、ある者というのは「個人存在」のことである。そして、ピッバラというのは「行為の果報」 のことである。また、他の者は食べずにと[ある他の者と]は「最高のアートマン」のことである。そして「[賢者は、]身体・感覚器官云々」という真言の言葉は、[身体等 と]結び付いている者が享受者であることを述べているのである。さらに[師シャンカラは]、ブラフマンの本性がなにものにも限定されない清浄なものであることを示すために、[次のような]二つの真言を引用している。「唯一の神であって云々」等と。[ここで]白く輝きというのは「光り輝く」ということである。傷がなくというのは「苦しみと無縁で」ということである。筋がなくというのは、「消滅することがなく」とか 「破壊されることがなく」などのことである670。[そして最後に師シャンカラは、次のように]結論づけている。従って[解脱は]云々と。
   [反対主張][解脱は]、達成されるべき(生み出されるべき)対象等の四種に限られるわけではないであろう。そうではなくて、なにか第五の方法が存在していて、その 方法によって、解脱が行為の対象であることが説明されるのであろう。
  [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。 [(1)解脱は生み出されるべきものである、 (2)解脱は変化してできるものである、 (3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという四つ の見解]以外には云々と。これらの[四種の]方法以外の別の方法は存在していない。 従って、行為によって解脱に入ることはありえないのである。その趣旨は次の通りである。すなわち、[解脱が]行為の果報であるということは、[解脱がこれらの]四種 のもののうちのどれか一つであるということの中に含まれている(vyapata)わけだが、それ(これら四種のもの)は解脱から排除されている。[従って、解脱が行為の果報であるということをそのなかに]含んでいる(vyāpaka)(これら四種の)ものが認めら れないのであるから、解脱が行為の果報であるということも排除されるのである671。
  [反対主張]では、解脱には672行為の余地が存在しないとすると、それ(行為)を目的として説かれた諸聖典やそれ(行為)を目的とする活動は、無意味であることになろう。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは]結論という形で、[次のように]答えているのである。従って、知識という唯一云々と。

脚注
668 身体等との同一性が附託されたアートマンに行為が附託されるのであり、その行為から浄化が生ずるのであり、行為も浄化も附託に基づいているので、本当のところは存在しないのである。
669 本訳260頁参照。
670 シャンカラ自身は、このウパニシャッドに対する註解のなかで、この箇所を粗大身を否定するものと解釈している。粗大身は人の死とともに消滅するが、微細身は消滅することなく来世において新たな粗大身を獲得するのである。
671ここでは、vyāptaを「含まれている」と、またvyāpakaを「含んでいる」と訳しておいたが、これらの正確な意味については、脚注14参照。
672
(´・(ェ)・`)つ

740鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/26(土) 22:54:04 ID:w87Rsang0
>>737 どういたしまして、またおいでなさい。

 シャンカラはブラフマンは、無始であって実在であるとも非実在であるとも表現できない無明によって限定されているときに、「個入存在」とか「田地の知者」とか呼ばれるというのじゃ。
 そしてそれは、粗大身・微細身・感覚器官等と結び付き、それらの集合体の中に位置しており、それらと区別されないために、「私」という観念の対象となるのじゃ。
 そうであるからブラフマン=アートマンが身体等と異ならないと信じられているので、身体の浄化は、身体等の属性ではあるが、 アートマンの属性であるという謬見も起こるのじゃ。
 それはちょうど、化粧品の属性である芳香が、乙女のものだとされるようなものじゃ。

 従ってこの場合にも、世俗的な認識根拠の対象となる行為の基体となっている自我が浄化されるという観念があるだけであり、それ以外のアートマンが浄化されるのではないのじゃ。
 しかし本当は行為も存在せず、浄化も存在しないのじゃ。
 ただ観念あるのみなのじゃ。 

 聖典の「両者のうち、ある者は美味しいピッバラの実を云々」という所で、ある者というのは「個人存在」のことだというのじゃ。。
 そして、ピッバラというのは「行為の果報」 のことじゃ。
 他の者は食べずにという、ある他の者とは「最高のアートマン」のことじや。

 そして「[賢者は、]身体・感覚器官云々」という真言の言葉は、[身体等 と]結び付いている者が享受者であることを述べているのじや。
 白く輝きというのは「光り輝く」ということであり 傷がなくというのは「苦しみと無縁で」ということじゃ。
 筋がなくというのは、「消滅することがなく」とか 「破壊されることがなく」などのことじゃ。

 反対なのじゃ。
 解脱は 達成されるべき、生み出されるべき対象等の四種に限られるわけではないというのじゃ。。
 なにか第五の方法が存在していて、その方法によって、解脱が行為の対象であることが説明されるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは [(1)解脱は生み出されるべきものである、 (2)解脱は変化してできるものである、 (3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという四つ の見解以外にはないというのじゃ。

 これらの四種の方法以外の別の方法は存在していないのじゃ。
 およそ人が考える解脱の方法は、この四種に限られるというのじゃ。
 従って、行為によって解脱に入ることはありえないのじゃ。

 なぜならば解脱が行為の果報であるということは、四種のもののうちのどれか一つによって得られるということになるじゃろう。
 しかしこれら四種のものは解脱から排除されているのじゃ。
 そうであるから排除されるものの中に含まれているこれら四種の見解が認められないのであるから、解脱が行為の果報であるということも排除されるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 では、解脱には行為の余地が存在しないとすると、解脱を目的として説かれた諸聖典や、解脱を目的とする活動は無意味であることになるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 このような反対主張に対して、シャンカラは結論という形で、理解という唯一の道で解脱は得られると示したのじゃ。

741避難民のマジレスさん:2022/11/27(日) 06:21:14 ID:bfHYesdw0
4.8.知識は心的な行為ではない p409- 410 206右/229

  [反対主張]知識とは心的な行為ではないのか。
  [答論]そうではない。何故なら、[知識と行為は]本質的に異なっているからである。実に行為とは、事物の本質とは無関係に命じられるものであって、人間の心の努力に基づいている。たとえば、「[アドヴァリュウ祭官が]神に供物を[捧げようと]手にしたとき、[ホートリ祭官は]ヴァシャットと称えながらその神を心で黙想すべきである」とか、「夜明けに心で黙想すべきで ある」673等の場合がそうである。[このような]黙想すなわち沈思は、心的なものではあっても、人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったり することができる。何故なら、人間に基づいているからである。だが知識は、 認識根拠から生じ、認識根拠はありのままの事物を対象としている。従って 知識は、行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりすることができ ないのである。それ(知識)は事物にのみ基づいており、教令にも基づかず、 また人間にも基づかない。従って知識は、心的なものではあっても、[行為とは]本質的に大きくなっているのである。たとえば、「ダウタマよ、男性は実 に[祭]火である」674「女性は実に[祭]人ある」675という場合、男性と女 姓とを火だと認識(瞑想)するのは心的なものである。そしてそ[の認識(瞑想)]は、教令のみから生ずるのだから、まさに行為であって人間に基づいている。だが、周知の火を火だと認識することは、教令にも基づがないし、また人問にも基づかない。では何に基づくのか。直接知覚の対象である事物にのみ基づくのである。従ってそれは、まさに知識なのであり行為ではないのである。認識根拠の対象となっているあらゆる事物に関して、このように理解 すぺきなのである。

脚注
673 674 675
(´・(ェ)・`)
(つづく)

742鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/28(月) 00:01:57 ID:1H7AIWgk0
 反対なのじゃ。
 知識とは心的な行為ではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 知識と行為は本質的に異なっているから違うと言うのじゃ。
 実に行為とは事物の本質とは無関係に命じられるものであり、人間の心の努力に基づいているものじゃ。

 たとえば、「アドヴァリュウ祭官が神に供物を捧げようと手にしたとき、ホートリ祭官はヴァシャットと称えながらその神を心で黙想すべきである」とか、「夜明けに心で黙想すべきである」等の場合が行為なのじゃ。
 黙想すなわち沈思は、心的なものではあっても、人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったり、することができるから行為なのじゃ。
 何故なら、人間に基づいているからなのじゃ。

 だが知識は、 認識根拠から生じ、認識根拠はありのままの事物を対象としているものじゃ。
 従って知識は、行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりすることができないのじゃ。

 知識は事物にのみ基づいており、教令にも基づかず、 また人間にも基づかないものじゃ。
 従って知識は、心的なものではあっても、行為とは本質的に大きくなっているのものじゃ。

 たとえば、「ダウタマよ、男性は実 に祭火である」「女性は実に祭人である」という聖典句の場合、男性と女姓とを火だと瞑想するのは心的なものじゃ。
 そしてそれは、教令のみから生ずるのだから、まさに行為であって人間に基づいているものじゃ。

 だが、周知の火を火だと認識することは、教令にも基づがないし、また人問にも基づかないじゃろう。
 直接知覚の対象である事物にのみ基づくものじゃ。
 従ってそれは、まさに知識なのであり行為ではないのじゃ。
 認識根拠の対象となっているあらゆる事物に関して、このように理解すぺきなのじゃ。

743避難民のマジレスさん:2022/11/28(月) 01:50:48 ID:u6sSneRk0
(つづき)  p410-411   
  [反対主張]心的な行為である知識が、どうして儀軌の対象ではないのか。またどうして、その(知識)の果報である解脱が、達成されるべきもの(生み出されるべきもの)等のうちのどれか一つではないのか。このような反対主張を想定して、[師シャンカラは次のように]述べている。知識とは云々と。
  [答論][このような反対主張を、師シャンカラは次のように]退けている。そうではないと。何故か。何故なら、[知識と行為とは]本質的に異なっているからである。そ の趣旨は次の通りである。知識が心的な行為であるというのはその通りなのだが、これ(知識という行為)はブラフマンに果報を生ずることができない。というのは、それ(ブラフマン)は、自ら輝いているので(つまり認識そのものなので)、認識行為の対象ではありえないからである。このことはすでに述べた通りである。
   [知識と行為との]このような本質的な違いを確定したのちに、さらに〔師シャン カラは、次のような]別の本質的な違いを述べている。実に行為とは、ある対象に関して、事物の本質とは無関係に命じられるものであって云々と。すなわち、たとえば、 神に捧げる供物を手にしたときに、神という事物の本質とは無関係に神を瞑想するという行為が存在し、また、「女性は[実に祭火である]」という場合、火という事物とは 無関係に火の認識(瞑想)が存在しているが、実にそれが行為なのである、というのが文の繋がりである。実に、神に対する瞑想は、「[アドヴァリュウ祭官が]神に供物を[捧げよう]手にしたとき、 [ホートリ祭官は]ヴァシャットと称えながらその神を心で瞑想すべきである」676というこの儀軌以前には生ずることはない。しかし、ブ ラフマンとアートマンとが同一であるという知識は、ウパニシャッドをすでに学習し、 語と語の意味と(語と意味との)関係を知り、言葉に関する規則についての真理を理解していれば、「愛児よ。これ(宇宙)は[太初において]有のみ[であった]」で始まり 「汝はそれなり」で終わる章句から677、聖典の言葉という認識根拠のもつ力に基づいて生じてくるのである。それはちょうど、注意深い心をもっていれば、明るい光の中に ある壺が、感覚器官と対象との接触のもつ力に基づいて認識されるようなものである。 実にこれ(壼の認識)は、もし[人間の欲求によって別のやり方で行ったりまた行わなかったりできれ]ば、この[壼の認識の]場合にも儀軌には意味があるであろうが、神に対する瞑想とは異なり、[感覚器官等が]おのずと集合することによって生ずるもの なので、人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりすることはできない のである。また、念想も[念想が]開眼をもって終わることも、儀軌の対象ではない。 何故なら、それら両者は、一致と矛盾によってその力が確立されていれば、儀軌が存在しなくても、直証や無明の止滅に到るので678、人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりできないからである。従って、ブラフマンの知識は、心的な行為ではあっても、儀軌の対象ではない。なお、人間の心の努力に基づく行為が、事物の本質と無関係であるということは、[その行為が事物の本質と]矛盾する場合もあれば事物の本質と矛盾しない場合もあるということである。[そのうち]前者の例が、神を瞑想するという行為の場合であって、この場合には[瞑想という行為は神という]事物の 本質と矛盾しない。また後者の例が、男性や女性を[祭]火だと認識(瞑想)する場合 である。このような違いがあるから、[『註解』には]例が二つ挙がっているので弧ある。また、[教令から生ずるのだから]まさに行為であって[人聞に基づいている]とある中のまさにという語は、事物に基づくことを排除しているのである。

脚注
676 677
678この点に関しては、本訳303頁および脚注325参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

744鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/29(火) 00:43:45 ID:38xWG5ck0
 反対なのじゃ。
 心的な行為である知識が、どうして儀軌の対象ではないのかと聞いたのじゃ。。
 またどうして、その知識の果報である解脱が、達成されるべきものや生み出されるべきもの等のうちのどれか一つではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 知識と行為とは本質的に異なっているからだというのじゃ。
 知識という行為ではブラフマンに果報を生ずることができないのじゃ。
 ブラフマンは、自ら輝いている、つまり認識主体であるから、認識行為の対象ではありえないからなのじゃ。

 アートマンは認識できない認識主体であると説かれているのじゃ。
 アートマンとブラフマンは一つであるから、ブラフマンも認識できない認識主体なのじゃ。
 それは主体であるから、知識の対象にはなり得ないのじゃ。
 対象ではないからそれを把握する行為もあり得ないのじゃ。

 行為とは、ある対象に関して、事物の本質とは無関係に命じられるものなのじゃ。
 たとえば、 神に捧げる供物を手にしたときに、神という事物の本質とは無関係に神を瞑想するという行為が存在するのじゃ。
 「女性は[実に祭火である]」という場合、火という事物とは 無関係に火の認識が存在しているが、実にそれが行為なのじゃ。

 神に対する瞑想は、「[アドヴァリュウ祭官が]神に供物を[捧げよう]手にしたとき、 [ホートリ祭官は]ヴァシャットと称えながらその神を心で瞑想すべきである」というこの儀軌以前には生ずることはないのじゃ。

 しかし、ブ ラフマンとアートマンとが同一であるという知識は、ウパニシャッドをすでに学習し、 語と語の意味と(関係を知り、言葉に関する規則についての真理を理解していれば生じるというのじゃ。
 それはちょうど、注意深い心をもっていれば、明るい光の中に ある壺が、感覚器官と対象との接触のもつ力に基づいて認識されるようなものじゃ。
 壼の認識)は神に対する瞑想とは異なり、[感覚器官等が]おのずと集合することによって生ずるものなので、人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりすることはできないのじゃ。

 念想も、それが開眼をもって終わることも、儀軌の対象ではないのじゃ。
 何故ならばそれら両者は、一致と矛盾によってその力が確立されていれば、儀軌が存在しなくても、直証や無明の止滅に到るので人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりできないからなのじゃ。

 従って、ブラフマンの知識は、心的な行為ではあっても、儀軌の対象ではないのじゃ。
 なお、人間の心の努力に基づく行為が、事物の本質と無関係であるということは、その行為が事物の本質と矛盾する場合もあれば、事物の本質と矛盾しない場合もあるのじゃ。
 前者の例が、神を瞑想するという行為の場合で、事物の本質と矛盾しないのじゃ。
 また後者の例が、男性や女性を火だと念想する場合なのじゃ。

 教令から生ずるのが行為であり、人聞に基づいているとある語は、事物に基づくことを排除しているのじゃ。

745避難民のマジレスさん:2022/11/29(火) 01:46:13 ID:FCj5jpwY0
4.9.以上の理由でブラフマンは知ることを命ずる儀軌の対象ではない p412-413 208左/229

  だとすれば、ありのままのブラフマンの本質を対象とする知識は、教令には 基づかない。たとえそれ(ブラフマン)に関して、「すべきである」等の意味の人称語尾(liń等)が聖典で用いられていても679、それは命じられるはずのないものを対象としているのだから無効である。それはちょうど、石などに 剃刀の刃等をあてたようなものなのである。何故なら、[この「すべきである」 等の意味の人称語尾は]取捨とは無縁な事物を対象としているからである。
  [反対主張]では何のために、「アートマンは実に見られるべきであり、聞かれるべきである云々」680等の、一見儀軌のように見える諸聖典句が存在し ているのか。
  [答論][人間の]自然な活動の対象さら[人を]引き離すために存在して いるのである。実に人間とは、「望ましいことが私に起こるように。望ましくないことは起こらないように」と[望んで]、外に向かって行動するものだが、 その場合には、究極的な人間の目的(解脱)を得ることはない。そこで、「アートマンは実に見られるべきである云々」等の[諸聖典句]が、このような究極的な人間の目的を望んでいる人問を、結果(身体)と手段(器官)の集合体681の自然な活動の対象から引き離して、[その心の]流れを682内的なアートマンに向けさせるのである。そののち、アートマンの探究に向かった人に対しては、アートマンという真理は受け入れたり捨て去ったりできるようなものではないということが、次のように教示されるのである。「このすべてがアー トマンなのである」683「しかし、この者にとってすべてがアートマンとなっ たとき、[その人がさらに]可によって何を見るべきだというのだろうか。... また何によって何を認識すべきだというのだろうか。...また何によって認識者を認識すべきだというのだろうか」684「このアートマンがブラフマンなのである」685等々と。
  さらに、「アートマンの認識は、行わなければならないこと(たとえば祭式や念想等)と基本的に関係しないので、取捨[という行為]とは無縁である」 という[反対主張者の批判]686は、その通りなのだと[われわれの]認めるところである。何故なら「ブラフマンとアートマン[が同一であること]を悟ったときには、行わなければならないことがすべてなくなって、為すべきことを為したことになる」というのは、われわれの誉れとするところだからである。このような趣旨で、「もし人が、 『これが私なのだ』という形でアートマンを認識すれば、[その人は]何を望んで、また何のために、身体のことで悩んだりしようか」687という天啓聖典句があり、また、「これを知れば人は賢者 となり、為すべきことを為した人となろう。バラタの子孫(アルジュナ)よ」688いう聖伝書の句もあるのである。
  従ってブラフマンは、[ブラフマンについて]知ることを命ずる儀軌の対象だとはされないのである。

脚注
679 その例として、「アートマンを見るべきである」、「汝がブラフマンであると知れ」、「アートマンは見られるべきである」という文章を挙げている。
680 681 682 683 684 685
686本訳355頁参照。
687 688
(´・(ェ)・`)
(つづく)

746鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/30(水) 00:34:31 ID:3r.9RLxg0
 そうであるからありのままのブラフマンの本質を対象とする知識は、教令には 基づかないというのじゃ。
 たとえブラフマンに関して、「すべきである」等の意味の人称語尾等が聖典で用いられていてもそれは命じられるはずのないものを対象としているのだから無効なのじゃ。
 この「すべきである」 等の意味の人称語尾は取捨とは無縁な事物を対象としているからなのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 では何のために、「アートマンは実に見られるべきであり、聞かれるべきである云々」等の、一見儀軌のように見える諸聖典句が存在し ているのかと聞くのじゃ。

 答えたのじゃ。
 自然な活動の対象さら人を引き離すために存在しているというのじゃ。
 人間とは、「望ましいことが私に起こるように。望ましくないことは起こらないように」と、外に向かって行動するものであるから、それでは究極的な人間の目的である解脱を得ることはないのじゃ。
 そこで、「アートマンは実に見られるべきである云々」等の諸聖典句が、究極的な人間の目的を望んでいる人問を、結果と手段の集合体の自然な活動の対象から引き離して、心の流れを内的なアートマンに向けさせるのじゃ。
 そのために聖典句はあるというのじゃ。

 そののち、アートマンの探究に向かった人に対しては、アートマンという真理は受け入れたり捨て去ったりできるようなものではないということが、次のように教示されるの
 「このすべてがアー トマンなのである」
 「しかし、この者にとってすべてがアートマンとなったとき、[その人がさらに]可によって何を見るべきだというのだろうか。... また何によって何を認識すべきだというのだろうか。...また何によって認識者を認識すべきだというのだろうか」
 「このアートマンがブラフマンなのである」等々と。

 さらに、「アートマンの認識は、行わなければならないこと(たとえば祭式や念想等)と基本的に関係しないので、取捨[という行為]とは無縁である」 というのはその通りなのじゃ。
 何故なら「ブラフマンとアートマンが一つと悟ったときには、行わなければならないことがすべてなくなって、為すべきことを為したことになる」というのは、われわれの誉れとするところだからだというのじゃ。

 このような趣旨で、
 「もし人が、 『これが私なのだ』という形でアートマンを認識すれば、[その人は]何を望んで、また何のために、身体のことで悩んだりしようか」
 「これを知れば人は賢者 となり、為すべきことを為した人となろう。バラタの子孫(アルジュナ)よ」という聖伝書の句もあるのじゃ。
 
 従ってブラフマンは、[ブラフマンについて]知ることを命ずる儀軌の対象だとはされないというのじゃ。

747避難民のマジレスさん:2022/11/30(水) 06:07:59 ID:pRzFUgso0
(つづき)   p413-414
  [反対主張]「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」689等の儀軌が天啓聖典に述べられているが、[それらは]たわごとではない。何故なら、[それらの儀軌も他の儀軌と]同じように伝統によって受け継がれてきたものだからである。従って、この[アートマンの念想等を命ずる諸儀軌の]場合にも、[それらは]遂行するように命じられているもののために存在しているはずである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。たとえそれ(ブラフマン)に関して、「すべきである」等の意味の人称語尾が云々と。確かに聖典こは、「すべきである」等の意味の人称語尾が用いられている。だがそれは、遂行するように命じられているものを対象としているわけではない690。何故なら、それ(遂行するように命じられているもの)が対象であれば、[「すべきである。等の意味の人称語尾はその対象に対して妥当するが、ブラフマン=アートマンは遂行するように命じられているようなものではないので、それが対象であるときには、「すべきである」等の意味の人称語尾が]691妥当することはなくなる、という理論的欠陥に陥るからである。すなわち儀軌とは、受け入れたり捨て去ったりできるものを対象としているものである。そして、受け入れたり捨て去ったりできるものは、 人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったりできるものである。そして、 そんなふうにできる人(すなわち行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりできる人)が、行為者、[行為の]資格のある人、[行わなければならないことへと]駆り 立てられている人なのである。だが、アートマンについて、聞いたり、思惟したり、念想したり、見証したりするのは、このような(すなわち、行ったり、行わなかったり、 別なやり方で行ったりできるような)性質のものではない。従って、対象(すなわち、 行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりすること)692とそのことを遂行する人という、儀軌が存在する領域を覆うもの(vyāpaka)が存在しないわけだから、儀軌も存在しないことになるのである。それ故、「すべきである」等の意味の人称語尾は、 [聖典中に]用いられていても、[このアートマン=ブラフマンの場合には、人を]行為 へと向かわせる力がなく、妥当しないのである。それはちょうど、石などに剃刀の刃をあてると駄目になるようなものなのである。

脚注
689 690 691 692
(´・(ェ)・`)
(つづく)

748鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/30(水) 23:49:53 ID:0HHX.B5g0
 反対なのじゃ。
 「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」等の儀軌が天啓聖典に述べられているのは戯言ではないというのじゃ。
 何故ならばそれは伝統によって受け継がれてきたものだからというのじゃ。
 そうであるからこの場合も遂行するように命じられているもののために存在しているはずなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 確かに聖典こは、「すべきである」等の意味の人称語尾が用いられているのじゃ。
 だがそれは、遂行するように命じられているものを対象としているわけではないというのじゃ。
 
 それが対象であれば、すべきである。等の意味の人称語尾はその対象に対して妥当するが、ブラフマン=アートマンは遂行するように命じられているようなものではないじゃ。
 そうであるから、それが対象であるときには、「すべきである」等の意味の人称語尾が妥当することはなくなる、という理論的欠陥に陥るからなのじゃ。

 儀軌とは、受け入れたり捨て去ったりできるものを対象としているものじゃ。
 そして、受け入れたり捨て去ったりできるものは、 人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったりできるものじゃ。
 そんなふうにできる人が、行為者、資格のある人、駆り立てられている人なのじゃ。
 
 だが、アートマンについて、聞いたり、思惟したり、念想したり、見証したりするのは、このような性質のものではないのじゃ。
 従って、対象とそのことを遂行する人という、儀軌が存在する領域を覆うもの(vy?・paka)が存在しないわけだから、儀軌も存在しないことになるのじゃ。
 それ故、「すべきである」等の意味の人称語尾は、用いられていても人を行為 へと向かわせる力がなく、妥当しないのじゃ。
 それはちょうど、石などに剃刀の刃をあてると駄目になるようなものじゃ。

 ブラフマンは遂行の対象ではないから、聖典にそのように書かれていても、無効だと言うのじゃ。
 それはただ言葉の慣習として述べられているだけなのじゃ。

749避難民のマジレスさん:2022/11/30(水) 23:59:01 ID:2/E10Xqw0
(つづき)   p414-415
  命じられるはずのないものを対象としているからだというのは、次のような意味である。すなわち、[行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったり]できる人が、 行為者、[行為の]資格のある人、[行わなければならないことへと]駆り立てられている人である。だが、[行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったりする]能力がない場合には、行為者という性質は存在しない。従って[その人は、行為の]資格のある人ではなく、それ故、[行わなわけれぱならないことへと]駆り立てられている人ではないのである693。
  [反対主張]もし、儀軌が存在しないから行為を命ずる言葉が存在しないとすると、 では、一見儀軌のように見えるこれらの[「すべきである」等の意味の]聖典の言葉は、 なんのために存在しているのか。このような意味で[反対主張者が]、ではなんのために云々と尋ねているのである。すなわち、「[それらの一見儀軌のように見える聖典の言葉が]無意味であるのは理に合わない。何故なら、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することが、成り立たなくなるからである694という意味である。
   [答論〕[このような反対主張に対する]答えが、[人間の]自然な以下なのである。確かに聞くこと(聴聞)等は、[「アートマンは聞かれるべきである云々」等の聖典の文章]以外のものに基づいてすでに知られており、それが儀軌に似た聖典の文章によって 再び言及されているのである695。だが[それは]、再言及(anuvāda)ではあっても無意味ではない。何故なら、優れた活動を生み出すからである。すなわち、詳しく論ず れば以下の通りである。あれこれの望ましいものを得ようと望み、望ましくないものを避けようと望む気持ちで心が乱れているために、外界を向いている人は、内的なアー トマンに、心を集中することができない。だが、アートマンについて聞くこと等[を命ずる]、儀軌に似た聖典の文章によって、[外界の]対象へと向かう心の流れは押し止められて、内的なアートマンヘと流れる道が開かれるのである。このように再言及は、優れた活動を生み出すから意味がある。従って、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することは成り立つのである。
  また、「アートマンの知識は[祭式等の]遂行に従属しないので、人問の目的ではない。696という反対主張があったが、それは正しくない。それ(アートマンの知識)が 人間の目的であることは、それ自体で確立しているのであり、その場合、それが[祭式等の]遂行に従属しないのは、誉れでこそあれ欠点などではない。だから[師シャンカラが]さらに云々と述べているのである[そして]悩んだりしようかというのは、苦しんでいる身体につられて苦しんだりしようか、という意味である。〔なお・『註解』の]その他の箇所については、容易に理解されるのである。[そして最後に師シャンカ ラは、次のように]主題を結論づけている。従って[ブラフマンは、ブラフマンについて]知ることを命ずる[儀軌の対象だとはされないのである]と。

脚注
693『註解』本文では、儀軌が「命じられるはずのないもの(ブラフマン)を対象としている」と解したが、ここで『バーマティー』は、「[行わなければならないことへと]駆り立てられている人」の意味に取り、その人の行為の対象ではないという意味に解しているのである。
694 脚注500参照。
695 再言及(anuvāda)については脚注499を参照のこと。
696 本訳355頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

750鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/01(木) 23:12:29 ID:gkEggVEs0
 行為をできる人が、 行為者、資格のある人、駆り立てられている人た゜というのじゃ。
 行為を実行する能力がない場合には、行為者という性質は存在しないのじゃ。
 従ってその人は、行為の資格のある人ではなく、駆り立てられている人ではないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 もし、儀軌が存在しないから行為を命ずる言葉が存在しないとすると、一見儀軌のように見えるこれらの聖典の言葉は、 なんのために存在しているのかと聞いたのじゃ。
 それらの聖典の言葉が無意味であるのは理に合わないのじゃ。
 何故なら、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することが、成り立たなくなるからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聴聞等は、「アートマンは聞かれるべきである云々」等の聖典の文章以外のものに基づいてすでに知られており、それが儀軌に似た聖典の文章によって 再び言及されているのじゃ。
 だが[それは]、再言及(anuv?・da)ではあっても無意味ではないのじゃ。
 何故なら、優れた活動を生み出すからなのじゃ。

 あれこれの望ましいものを得ようと望み、望ましくないものを避けようと望む気持ちで心が乱れているために、外界を向いている人は、内的なアー トマンに、心を集中することができないじゃろう。
 だが、アートマンについて聞くこと等を命ずる、儀軌に似た聖典の文章によって、外界の対象へと向かう心の流れは押し止められて、内的なアートマンヘと流れる道が開かれるのじゃ。
 このように再言及は、優れた活動を生み出すから意味があるのじゃ。
 従って、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することは成り立つのじや。

 アートマンの知識は遂行に従属しないので、人問の目的ではない、という反対主張があったが、それは正しくないのじゃ。
 アートマンの知識)が 人間の目的であることは、それ自体で確立しているのであり、その場合、それが遂行に従属しないのは、誉れでこそあれ欠点などではないのじゃ。
 シャンカラはブラフマンは、ブラフマンについて知ることを命ずる儀軌の対象だとはされないのであると結論づけているのじゃ。

751避難民のマジレスさん:2022/12/01(木) 23:54:03 ID:AEudjEh.0
5.ウパニシャッドはブラフマン:アートマンを教示する  p415- 209右/229

5.1.ウパニシャッドはすでに存在する事物(ブラフマン=アート マン)を教示する  p415-416

  またある人が言う。
  [反対主張]ヴェーダには、活動を促したり停止させたりする儀軌およびそれら[の儀軌]に従属するものとは別に、単独で事物について述べている箇所は存在しないのである697。
   [答論]そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからである。何故なら、ウパニシャッドで理解されるこのプルシャは、輪廻することのないブラフマンであって、「生みだされるべきもの」等の四種のもの698とは本質的に異なり、独立した箇所で取り扱われるものであって、自ら以外のものに従属することはないからである。 そしてまた、これ(プルシャ)は、存在しないとか理解されないとかいうことはできない。何故なら、(1)「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』[と説かれ云々]」699とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであり、また、(2)アートマンは、[その存在を] 否定するその者のアートマンなので、否定することはできないからである。

脚注
697この反対主張を、「真理の一部しか知らない論者」と解している。
698「生みだされるべきもの」等の四種のものとは、「生みだされるべきもの」、「変化してできるもの」、「到達すべきもの」、「浄化されて生ずるもの」のことである。なお詳しくは、本訳402頁以下参照。
699
(´・(ェ)・`)つ

752鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/02(金) 23:42:51 ID:Wh2ImBZQ0
 反対なのじゃ。
 ヴェーダには活動を促したり停止させたりする儀軌、およびそれらに従属するものとは別に、単独で事物について述べている箇所は存在しないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないから間違いなのじゃ。
 何故なら、ウパニシャッドで理解されるこのプルシャは、輪廻することのないブラフマンであるのじゃ。
 ブラフマンは「生みだされるべきもの」等の四種のものとは本質的に異なり、独立した箇所で取り扱われるものであって、自ら以外のものに従属することはないのじゃ。
 
 このプルシャは、存在しないとか理解されないとかいうことはできないのじゃ。
 何故なら、(1)「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』[と説かれ云々]」とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであるのじゃ。
 また、(2)アートマンは、[その存在を] 否定するその者のアートマンなので、否定することはできないからなのじゃ。

 アートマンは全ての観念を否定することで実現するのじゃ。
 アートマン自体は認識できない認識主体であるから、否定はできないのじゃ。

753避難民のマジレスさん:2022/12/03(土) 07:33:01 ID:8TA1s7920
5.1.1.言葉は行為と無関係にすでに存在する事物を表示しうる  p416-417

  [ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在する事物ブラフマンに対して妥当するのだという]700主題を確実なものとしようとして、[ 師シャンカラは]、真理の一部しか知らない論者の見解を、批判のために[次のように]紹介している。またある人が言う云々と。[そして]そうではない云々と批判しているのである。
  その趣旨は以下の通りである。「遂行しなけれはならないものを認識する際には、活 動が徴標(lińga)であるように、すでに存在するものを認識する際には、喜び等が[徴標]である。このように、[すでに存在するものについて述べることには]目的(意味) があるのである。[また、すでに存在するもの=ブラフマンを教示する諸ウパニシャッドは、有益なことを教示しているから聖典なのである]701と。すなわち、実にもし、遂行しなけれはならないものを表示する語の能力、あるいは遂行しなければならないもの自体のもつ意義を表示する語の能力が、常に年長者の用語法に基づいて確立されるのであれば、諸ウパニシャッドは、ブラフマンとアートマンとの同一性一[それは]受け入れたり捨て去ったりできるものではない一を教示するためのものではないであろう。何故なら、語にそれ(すでに存在するブラフマン)[を表示する]能力があるとは世間一般には知られておらず、そのため、それ(語にブラフマンを表示する能力があることに対する無理解)702を前提として、[ウパニシャッドを含む]ヴェーダの意味が理解されるからである。だがもし、語とすでに存在するものとの関係が世間一般で知られているとすると、その場合には、「諸ウパニシャッドがそれ(すでに存在するもの=ブラフマン)を教示するために存在するということは、[それらの文章の]前後関係を考察することによって理解されるのだ」ということを否定して、「[それら諸ウパニシャッドは]遂行しなけれはならないもののために存在するのだ」と想定することはできないだろう。何故なら、聖典が述べていることを放棄して述べていないことを想定するという理論的誤りに陥るからである。
  このうちまず、このような遂行する必要のないもの(すでに存在するもの)と[語と]の関係は、(1)もし、それ(遂行する必要のないもの)を表示するような語の用法が世間一般で認められず、また、(2)それ(遂行する必要のないもの)の認識が語意を習得している人に存在していると推論することができなけれぱ、[世間一般]で知ら れていないことになるであろう703。だが、(1)それ(遂行する必要のないもの)を表示する語の用法は、世間一般で認められないというわけではないのである。何故なら、遂行しなけれはならないもののためではなくて、喜び[を生み出し]恐れを取り除くために、文章(語の繋がり)が用いられることは、世間一般にしばしば認められるから である。たとえばその例としては、「山のなかの王スーメル(須弥山)はインドラを 始めとする護方神の群の棲家であって、シッダ、ヴィディヤーダラ、ガンダルヴァ704、天女が周りを囲んでおり、ブラフマ界から下って来たマンダーキニー(ガンジス)河の 水の流れによって洗い清められた貴重からなる岩ででき、ナンダナ705などの庭園で戯れる宝石でできた鳥たちの美しい声で魅惑的でなのである」(喜びを生み出すための用法)とか、「これは蛇ではない。これは縄である」(恐れを取り除くための用法)等がある。また、(2)すでに存在するもの(遂行する必要のないもの)に関する認識が、語意を習得している人に存在していると、推論することはできない」などということもない。何故なら、推論の理由である喜び等が[拍手に]生ずるからである。

脚注
700 701 702
703 以下の議論がプラバーカラ派の言語習得理論を前提としている。
704 ともに天界に住む神々に準ずる存在。
705ナンダナとは、天界にあるインドラ神の森で、そこにはpārijātaという木が生えているとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

754鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/04(日) 00:14:46 ID:tmlAUPt60

 シャンカラは真理の一部しか知らない論者の見解を、批判のために紹介しているというのじゃ。
 それはウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在する事物ブラフマンに対して妥当だという主題を確実なものとするためなのじゃ。

 遂行しなけれはならないものを認識する際には、活動が徴標であるように、すでに存在するものを認識する際には、喜び等が徴標であるというのじゃ。
 
 遂行しなけれはならないものを表示する語の能力、あるいは遂行しなければならないもの自体のもつ意義を表示する語の能力が、常に年長者の用語法に基づいて確立されるのであれば、諸ウパニシャッドは、ブラフマンとアートマンとの同一性を教示するためのものではないというのじゃ。
 何故なら、語にそれを表示する能力があるとは世間一般には知られておらず、そのため、それを前提として、ヴェーダの意味が理解されるからなのしゃ。
 
 もし、語とすでに存在するものとの関係が世間一般で知られているとすると、その場合にはブラフマンを教示するために存在するということは、文前後関係を考察することによって理解されるということを否定して、ウパニシャッドは遂行しなけれはならないもののために存在することにはできないじゃろう。
 何故なら、聖典が述べていることを放棄して述べていないことを想定するという理論的誤りに陥るからなのじゃ。

 つまりは以前の用語は誤りであり、ヴェーダの原典の意味を正しく解釈すればブラフマンを教示するために存在するとわかるというのじゃ。
 
 このうちまず、このような遂行する必要のないものと語との関係は、
 (1)もし、それ(遂行する必要のないもの)を表示するような語の用法が世間一般で認められず、
 (2)それの認識が語意を習得している人に存在していると推論することができなけれぱ、世間一般で知られていないことになるのじゃ。

 だが、(1)それを表示する語の用法は、世間一般で認められているのじゃ。
 何故なら、遂行しなけれはならないもののためではなく、喜びを生み出し恐れを取り除くために、文章が用いられることは、世間一般にしばしば認められるからなのじゃ。
 
 そして(2)すでに存在するもの(遂行する必要のないもの)に関する認識が、語意を習得している人に存在していると、推論することができるのじゃ。
 何故なら、推論の理由である喜び等が生ずるからなのじゃ。

755避難民のマジレスさん:2022/12/04(日) 02:59:47 ID:c7AEJwJA0
(つづき)   p417-418  
  詳しく論ずれば次の通りである。アーリヤ人の言葉の意味を知らないドラヴィダ人706が、都市へ行こうとして、幹線道路近くのデーヴダッタの家に泊まり、[そこで] 父親(デーヴァダッタ)にとって喜びの原因である息子の誕生を知り、使いの者と一緒 に、都市にいるデーヴァダヅタのもとへやって来る。そして、使いの者が赤ん坊の赤い足型のついた布(patavāsa)707をお祝にあげたのち、「あなたに息子さんがお生まれになって、これからますます繁栄されますように」と言うの聞くとすぐに、デーヴァダッタが、喜びのあまり皮膚の毛を逆立たせ、蓮の花のように目を輝かせ、満開の蓮の花のように満面微笑を浮かべているのを見て、彼に喜びが生じたのを推論する。そしてさらに、[使いの者の言葉]以前には存在していなかった喜びが、その(使いの者の)言葉を聞いた直後に存在するのは、それ(使いの者の言葉)が理由なのだということも〔推論するのである]。すなわちまず、この者(使いの者)が、喜びの理由となることを伝えなければ、喜びを生ずることはできないので、この者(使いの者)が喜びの理由となることを述べたのだと理解され(肯定法)、さらに、[それ]以外に喜ぶ理由が見当たらないので、息子が生まれたことがその理由であると理解される(否定法)から、まさにそれ(喜ぶ理由となること)を使いの者が述べたのだ、と確定するのである。そして、恐れや悲しみ等についても、同じように例を挙げることができるはずである。このように、すでに存在するものについて述べることには目的(意味)があるので、[世間の]用心深い人たちが[すでに存在するものに対して]言葉を使用することも成り立つのである。
  また同様に、ブラフマンの本質についての知識は、人間の最高の目的[を実現する]原因なので、諸ウパニシャッドは、人間の活動を促したり停止させたりすることを教示していなくても、人間に有益なことを教示しているわけであるから、聖典なのである、と確定するのである。従って、次のことが確定されたことになる。(主張)現に論争の的となっている聖典の文章は、すでに存在するものを対象としている。(理由)何故なら、すでに存在するものを対象とする正しい認識を生み出すからである。(実例)どんなものを対象としていても正しい認識を生み出すものは、そのものを対象としている。たとえば、色形を対象とする目等のように。(適用)それら(現に論争の的となっている聖典の文章)もそうである。(結論)従ってそうである(現に論争の的となっている聖典の文章はすでに存在するものを対象としている)。

脚注
706
707「赤く染めた息子の足(方→型)のついた布」としているのに従った
(´・(ェ)・`)つ

756鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/04(日) 23:59:06 ID:E187Oe2.0
すでに存在するものについて述べることには目的があるので、用心深い人たちがそれに言葉を使用することも成り立つというのじゃ。

 また同様に、ブラフマンの本質についての知識は、人間の最高の目的を実現する原因なので諸ウパニシャッドは、人間の活動を促したり停止させたりすることを教示していなくても、人間に有益なことを教示しているから聖典であると確定するというのじゃ。
 現に論争の的となっている聖典の文章は、すでに存在するものを対象としているのじゃ。
 何故なら、すでに存在するものを対象とする正しい認識を生み出すからなのじゃ。
 どんなものを対象としていても正しい認識を生み出すものは、そのものを対象としているのじゃ。
 たとえば、色形を対象とする目等のように。
 それら現に論争の的となっている聖典の文章もそうであるというのじゃ。

757避難民のマジレスさん:2022/12/05(月) 00:10:56 ID:PMD8GnZc0
5.1.2.ウパニシャッドは行為と無関係にすでに存在する事物(ブラフマン=アートマ ン)を教示する  p419 211右/229

  だから[師シャンカラは]、正しく[次のように]述べているのである。そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからであると。「ウパニシャッド」という語は、語源的には、「破壊する」という意味 の/sadという語根の前に、[「近くに」という意味の]upaという接頭辞と[「確定」という意味の]niという接頭辞がつき、後ろにkvip接尾辞がついてできたのだと説明されるが708、それは[本来は]ブラフマンの知識のことを言っているのである。何故なら、不二であることが身近に確実なものとなるべきブラフマンが、潜在印象とともに 無明を破壊するからである。[だが]ウパニシャッドの諸聖典句も、それ(ブラフマンの知識)の原因なので、ウパニシャッド[と呼ばれる]。そして、それ(ウパニシャッドの諸聖典句)から知られるのが、ウパニシャッドに説かれているプルシャなのである。まさにこれ(ウパニシャッドに説かれているプルシャ)を、[師シャンカラは次のように]詳しく説明している。ウパニシャッドで[理解される]この云々と。[そしてこのプルシャを]輪廻することのないと、「私」という観念の対象(個人存在)とは異 なるとしている。だからこそ[プルシャは]、行為とは無縁であり、そのため[「生み出されるべもの」等の]四種のものとは本質的異なるのである。さらに以下の理由で、四 種のものと本質的に異なるものは、自ら以外のものに従属することがない。すなわち、 自ら以外のもの[たとえば祭式]に従属する存在である物(dravya)を作り出そうとする場合には、「祭式用の杭を削る」等の場合のように、生み出すこと等によって実現することは可能だが、自ら以外のものに従属しないものは、「金を身につけるべきである。とか「小麦粉を捧げる[べきである]」等の場合のように、すでに存在するものという性質があり、[他の祭式には]役に立たないのである709。

脚注
708ウパニシャッド(upanisad )という語は、upa-ni/sadと分解され、upaは「近くに」の意味、niは「確定」の意味であり、最後にsadの後にkvip接尾辞(動詞を名詞化する接尾辞で語の形の上には現れない。)がついたものと説明されている。
709 自ら以外のものに従属する祭式すなわち従属祭。ミーマーンサー学派によれば、祭式ですでに用いられたものを浄化する祭式とこれから祭式で用いられるものを浄化する祭式の二種に分類されているが、「祭式用の杭を削る」という場合には、削ることによって杭が浄化されているのだから、この「祭式用の杭を削る」という祭式は、従属祭である。しかし、「小麦粉を捧げる[べきである]」という場合には、この段階ではまだ小麦粉は祭式に用いられていないので、すでに浄化されているということはないし、また火に捧げたあとで灰になって残(り→っ)ていないのだから、これから浄化されるということもな(い)。従って「小麦粉を捧げる[べきである]」と命じられているこの祭式は、「祭式用の杭を削る」という祭式とは異なり、従属祭ではなく主要祭なのである。従って、従属祭とは違って他の祭式に役立つということはないのである。なお「金を身につけるべきである」と命じられている祭式が主要祭であることに関しては、脚注648参照のこと。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

758鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/06(火) 00:10:18 ID:h8Py/qcM0
 答えたのじゃ。
 シャンカラはウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないから反対意見は間違いだというのじゃ。
 「ウパニシャッド」という語は語源的には、「破壊する」という意味と「近くに」という意味の接頭辞と「確定」という意味の接頭辞がついているというのじゃ。
 それは本来ブラフマンの知識を意味しているというのじゃ。
 何故ならば不二であることが身近に確実なものとなるべきブラフマンが、潜在印象とともに 無明を破壊するからだというのじゃ。

 だがウパニシャッドの諸聖典句も、ブラフマンの知識の原因なので、ウパニシャッドと呼ばれるのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句から知られるのが、ウパニシャッドに説かれているプルシャなのじゃ。
 
 シャンカラはプルシャを輪廻することのないものであり、「私」という観念の対象とは異なるとしているのじゃ。
 だからこそプルシャは、行為とは無縁であり、そのため四種のものとは本質的異なっているというのじゃ。

 四種のものと本質的に異なるものは、自ら以外のものに従属することがないのじゃ。
 自ら以外のものに従属しないものは、すでに存在するものという性質があり、他の祭式には役に立たないのじゃ。

759避難民のマジレスさん:2022/12/06(火) 00:37:21 ID:32hlEMW.0
(つづき)   p420-421
  [反対主張]では何故、これ(プルシャ)は自ら以外のものに従属することはないのか。
   [答論]だから[師シャンカラが、次のように]言っているのである。何故なら、独立した箇所で取り扱われるものであるからであると。特定の祭式と無関係に学習される710諸ウパニシャッドは、[文章の]前後の関係を考察してみれば、プルシャを説明するためのものだ[と分かる]ので、この[ウパニシャッドという]箇所は、主にプルシャにのみ関係しているのだ[と分かるのである]。また、「プルシャ(人)は、ジュフー祭杓とは異なり、祭式と一定の関係にはない」ということについては、す(べ→で)に説明した通 りである711。以上のような理由で、[プルシャは、祭式を扱う箇所とは]独立した箇所で取り扱われるのである。[そして]以上のような(輪廻することのない等の)性質を備え、諸ウパニシャッドに基づいて認識されるこれ(プルシャ)が、存在しないなどと言うことはできないのである。以上が[『註解』本文のこの箇所の]意味である。
  [反対主張]ブラフマンは、[聖典]以外の認識根拠の対象ではないので、[語と]関係する(語によって表示される)とは[世間一般には]知られていない。従ってブラフマンは、語の対象ではないので、文章の対象であることはありえない。とすれば、どうして、ウパニシャッド[という文章]の対象でありえようか。
  [答論]だから[このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えているのである。何故なら、「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』 [と説かれ云々]」とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであると。アートマンは、[直接知覚の対象である]牛などとは異なり、[聖典]以外の認識根拠の対象ではないが、まさに輝いている(認識そのものである)ので、[それを覆う]あれこれの添性を滅してゆけば、[ブラフマンを]文章の対象として表現す ることが可能なのである。それはちょうど、腕輪、耳飾り等[の添性]を破壊すれば、 金[という輝けるもの]が[現れてくる]ようなものである。実に、輝ける自己認識 (ブラフマン=アートマン)が、輝かない(認識されない)ということはなく、また、 それ(自己認識=ブラフマン=アートマン)を限定している身体・器官等の集合体が[輝かない(認識されない)]ということもないのである。従って、「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』云々」という形で、あれこれの限定(添性)を滅してゆけば、自ら輝けるものは、増大し広がってゆくので、「ブラフマンである」とか「アートマンである」という文章によって表現することができるのである。
  [反対主張]添性によって限定されているアートマンの存在は、何故、添性が否定されるようには否定されないのか。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。アートマンは、[その存在を否定するその者のアートマンなので]、否定することはできないからであると。実に輝きが、万物のアートマンなのである。何故なら、それ(アートマン)は現象世界という虚妄の基体だからである。基体が存在しなければ、虚妄は存在しえないのである。何故なら、縄(基体)が存在しないのに、縄を 蛇だとか水の流れだとか誤認(虚妄)するなどということは、これまで全く経験されたことがないからである。さらに、現象世界の認識はアートマンの輝き[が発する]光なのである。たとえば、天啓聖典に「その(アートマンの)光に基づいてすべてが輝き、 その(アートマンの)光がこのすぺてを輝かせる」712とあるように。だから、アートマンの輝きが否定されれば、現象世界の認識は成り立たないのである。従って、アー トマンを否定することはできないので、ブラフマンの本質一[それはウパニシャッ ド]以外の認識根拠の対象ではなく、あらゆる添牲と無縁である一についての理解(悟り)は、諸ウパニシャッドに基づいて成り立つのである。

脚注
710 脚注646参照。
711 本訳399頁参照。
712
(´・(ェ)・`)つ

760鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/06(火) 22:56:47 ID:OLmpJp6.0
 反対なのじゃ。
 では何故、プルシャは自ら以外のものに従属することはないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 特定の祭式と無関係に学習される諸ウパニシャッドは、文章の前後の関係を考察してみれば、プルシャを説明するためのものだと分かるので、この箇所は、主にプルシャにのみ関係しているというのじゃ。
 プルシャは、祭式を扱う箇所とは]独立した箇所で取り扱われるのじゃ。
 以上のような性質を備え、諸ウパニシャッドに基づいて認識されるプルシャが、存在しないなどと言うことはできないというのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 ブラフマンは、聖典以外の認識根拠の対象ではないので、語と関係する語によって表されると世間一般には知られていないのじゃ。
 従ってブラフマンは、語の対象ではないので、文章の対象であることはありえないのじゃ。
 とすれば、どうして、ウパニシャッドという文章の対象でありえるじゃろうかと、聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』と説かれ云々]」とあるように、天啓聖典中にアートマンという語が用いられているからそれもありえるのじゃ。
 アートマンは、牛などとは異なり、聖典以外の認識根拠の対象ではないが、まさに輝いている、認識そのものであるので、あれこれの添性を滅してゆけば、文章の対象として表現することが可能なのじゃ。
 腕輪、耳飾り等を破壊すれば、 金があるようなものじゃ。
 実に、輝ける自己認識 (ブラフマン=アートマン)が、輝かない、認識されないということはなく、また、 それを限定している身体・器官等の集合体が認識されないということもないのじゃ。

 まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』云々」という形で、あれこれの限定(添性)を滅してゆけば、自ら輝けるものは、増大し広がってゆくので、「ブラフマンである」とか「アートマンである」という文章によって表現することができるのじゃ。

 つまり実体として言葉で表すことはできないが、そこへ辿り着く法として言葉に表すこともできるというのじゃ。


 反対なのじゃ。
 添性によって限定されているアートマンの存在は、何故、添性が否定されるようには否定されないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンは、否定することはできないからなのじゃ。
 実に輝きが、万物のアートマンなのじゃ。
 何故なら、アートマンは現象世界という虚妄の基体だからなのじゃ。
 基体が存在しなければ、虚妄は存在しえないのじゃ。

 とえば縄が存在しないのに、縄を蛇だとか水の流れだとか誤認することはないようにのう。
 現象世界の認識はアートマンの輝き、光なのじゃ。
 たとえば、天啓聖典に「その光に基づいてすべてが輝き、 その光がこのすぺてを輝かせる」とあるようにのう。
 
 アートマンの輝きが否定されれば、現象世界の認識は成り立たないのじゃ。
 従って、アー トマンを否定することはできないので、ブラフマンの本質についての理解は、諸ウパニシャッドに基づいて成り立つのじゃ。

761避難民のマジレスさん:2022/12/07(水) 01:06:33 ID:3wstc7Bc0
5.2.ブラフマン=アートマンはウパニシャッドにおいてのみ認識される  p421- 423 212右/229

   [反対主張]アートマンは、「私」という観念の対象なので、ウパニシャッドにおいてのみ認識されるというのは正しくない。
   [答論]そうではない。何故なら、[このような反対主張は、アートマンが]それ(「私」という観念の対象である個人存在)の観照者なので、否定されるからである。すなわち、それ(個人存在)の観照者は、「私」という観念の対象である行為者(個人存在)とは異なり、あらゆる存在に内在し、平等で、唯 一であり、変異することのない永遠なプルシャ、万物のアートマンであって、 [ヴェーダの]儀軌部(祭事部)や論理に基づく教義からは誰も理解できない。従って誰も、それを否定することはできないし、また儀軌こ従属させることもできない。さらに[それは]、万物のアートマンであるので、受け入れることも捨て去ることもできないのである。実に、プルシャを除くすぺてのものは、変化してできたものであって、可滅であり、現に滅してゆく。[だが]プルシヤは、滅する原因が存在しないので、滅することはない。また、変化す る原因が存在しないので、変異することのない永遠な存在である。だからこそ[プルシャは]、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しているのである。従って、「プルシャを超えるものはなにも存在しない。それ(プルシャ) は最高の帰着点であり、最高の到達点なのである」713とか、「ウパニシャッド に説かれているそのプルシャについて、私はお前に尋ねたい」714というように、[プルシャに]「ウパニシャッドに説かれている」という限定詞がつい ているのは、ウパニシャッドにおいてプルシャが主要なものとして説明され ているときに[のみ]理解しうるのである。それ故、「ヴェーダにはすでに存在する事物について述べている箇所は存在しない」という[反対論者の]主張は、速断にすぎないのである。

  [アートマンが]ウパニシャッドにおいてのみ理解されるという限定に耐えられない人が、[次のように]反対主張を提示している。
  [反対主張]アートマンは云々と。実にアートマンは、すべての人の持っている「私」 という観念の対象であり、行為主体、経験主体であって、輪廻する者である。何故なら、世間一般の人々や論者たちは、それ(「私」という観念の対象)に対してのみアートマンという語を用いているからである。世間一般に用いられている語もヴェーダで用いられている語も、その意味は同じである。従って、ウパニシャッドで用いられているアートマンという語も、それ(「私」という観念の対象)に対してのみ用いることが できるのであって、それに反対する別の意味に[用いることはできない]。以上が[反 対主張の]趣旨である。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが]答えている。そうではないと。すなわち、ウパニシャッドに説かれているプルシャは、「私」という観念の対象ではないのである。何故か。何故なら、それの観照者なので、すなわち、最高のアートマンは、「それ」=「私という観念の対象=行為主体=身体と器官の集合体という添性 に限定された者=個人存在」の観照者なので、[それが]「私」という観念の対象であることは否定されるからである。その趣旨は以下の通りである。「この生命(個人存在) であるアートマンとともに云々」715とあるように、個人存在とアートマンは、究極的 には同一ではあるが、その添性によって限定された姿が個人存在であり、一方、その [なにものにも限定されない]清浄な姿が観照者なのである。そしてこのことは、[ウパニシャッド]以外の認識根拠によっては理解されず、ウパニシャッドの領域なのであ る。まさにこのことを、[師シャンカラが次のように]説明している。すなわち、[それ(個人存在)の観照者は]、「私」という観念の対象である云々と。

脚注
713 714 715
(´・(ェ)・`)
(つづく)

762鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/08(木) 00:04:35 ID:ctNYYH960
 反対なのじゃ。
 アートマンは、「私」という観念の対象なので、ウパニシャッドにおいてのみ認識されるというのは正しくないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンとは私という観念の観照者なので違うというのじゃ。
 その観照者とは、「私」という観念の対象である行為者とは異なり、あらゆる存在に内在し、平等で、唯一であり、変異することのない永遠なプルシャ、万物のアートマンであって、 ヴェーダの儀軌部や論理に基づく教義からは誰も理解できないのじゃ。
 
 誰もそれを否定することはできないし、また儀軌こ従属させることもできないのじゃ。
 さらに[それは]、万物のアートマンであるので、受け入れることも捨て去ることもできないのじゃ。
 プルシャを除くすぺてのものは、変化してできたものであって、可滅であり、現に滅してゆくのじゃ。

 プルシヤは、滅する原因が存在しないので、滅することはないものじゃ。
 また、変化す る原因が存在しないので、変異することのない永遠な存在なのじゃ。
 だからこそプルシャは、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しているのじゃ。

 従って、「プルシャを超えるものはなにも存在しない。それは最高の帰着点であり、最高の到達点なのである」とか、
 「ウパニシャッド に説かれているそのプルシャについて、私はお前に尋ねたい」というように、「ウパニシャッドに説かれている」
 という限定詞がつい ているのは、ウパニシャッドにおいてプルシャが主要なものとして説明されているからと理解できるじゃろう。

 それ故、「ヴェーダにはすでに存在する事物について述べている箇所は存在しない」という主張は間違いなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 実にアートマンは、すべての人の持っている「私」 という観念の対象であり、行為主体、経験主体であって、輪廻する者だというのじゃ。
 何故なら、世間一般の人々や論者たちは、「私」という観念の対象に対してのみアートマンという語を用いているからなのじゃ。
 世間一般に用いられている語もヴェーダで用いられている語も、その意味は同じである筈だから、ウパニシャッドで用いられているアートマンという語も、それ(「私」という観念の対象)に対してのみ用いることができるというのじゃ。

 インドでは一般的に輪廻するものがアートマンとされているのじゃ。
 

 答えたのじゃ。
 シャンカラはウパニシャッドに説かれているプルシャは、「私」という観念の対象ではないから違うというのじゃ。
 何故なら、それの観照者なので、すなわち、最高のアートマンは、「それ」=「私という観念の対象=行為主体=身体と器官の集合体という添性 に限定された者=個人存在」の観照者なので、[それが]「私」という観念の対象であることは否定されるからなのじゃ
 「この生命(個人存在) であるアートマンとともに云々」715とあるように、個人存在とアートマンは、究極的 には同一ではあるが、その添性によって限定された姿が個人存在であり、一方、その なにものにも限定されない清浄な姿が観照者なのじゃ。
 それはウパニシャッド以外の認識根拠によっては理解されず、ウパニシャッドの領域なのじゃ。

763避難民のマジレスさん:2022/12/08(木) 07:00:27 ID:bsNDPAaU0
(つづき)   p423-424
  また、儀軌に従属させることもできない。何故か。何故なら、[それは、万物の]アートマンであるので云々だからである。すなわち、アートマンは、それ以外のもののた
めに存在するのではない。それ以外のものすべてが、アートマンのために存在するのである。たとえばこのような趣旨で、[次のような]天啓聖典句がある。「実に一切に対して愛情があるために、一切が好ましいのではない。そうではなくて、自身(アートマン)を愛するが故に一切のものが好ましいのである」716と。さらに、万物のアートマンであるという同じ理由で、[プルシャ=アートマンは]受け入れることも捨て去ることもできないのである。すなわち、あらゆる現象すべてにとって、ブラフマンこそが真のアートマン(本性)なのである。そして本性は、捨て去ることができないので捨て去ることのできるようなものではなく、また、すでに獲得されているので受け入れることのできるようなものでもない。従って、捨て去ったり受け入れたりできるものを対象としている儀軌と禁令が、それとは反するアートマンという真理を対象とすることはないのである。それ故、あらゆる現象すぺてにとって、アートマンこそが真理なのである。このことを説明して、[師シャンカラが次のように]言っている。実に、プルシャを除くすべてのものは、変化してできたものでありって、可滅であり、現に滅してゆくと。その意味は以下の通りである。実にプルシャは、天啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な 実在である。だが現象世界は、無始の無明が生み出したものなので、究極的な実在ではない。そして、究極的な実在が[究極的な実在ではないもの、すなわち現象世界の] 資料因なのである。それはちょうど、縄という真理が[それから]変化してできた蛇という虚妄の[質料因]であるようなものである。従って、これ(現象世界)は、[実在 であるとも非実在であるとも]決定できないせいで、その本性が不安定な[ため]滅してゆくが、プルシャのほうは究極的な実在なのである(すなわち滅することはない)。これ(プルシャ)は、千の原因によっても、非実在とすることはできないのである。そ れはちょうど、職人が千人集まっても、壷を布にすることはできないのと同じである。このことについてはすでに述べた通りである717。従って、ちょうど銀や蛇が、真珠母貝や縄だけを残して滅してゆくように、変化してできたものは[すべて]、滅することのないプルシャだけを残して滅してゆくのである。実にプルシャだけが、現象世界という変化してできたもの総体の真理なのである。そして、プルシャは無終なので、減 することがないのである。
  [反対主張] [プルシャにも]減することはあるであろう。
  [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが次のように]答えている。 プルシャは、滅する原因が存在しないので云々と。すなわち、原因が千集まっても、あるもの(実在)を別なもの(非実在)にすることはできないのである。このことについてはすでに述べたところである718。
   [反対主張][確かに]プルシャは、本質的に、捨て去ったり受け入れたりできるようなものではないであろう。だが、それ(プルシャ)のある属性が捨て去られ、ある属性が受け入れられるということはあるであろう。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。また、変化する原因が存在しないので、変異することなく永遠な存在であると。三種 の変化、すなわち性質の変容・時相の変容・状態の変容が、ともに存在しないということについては、すでに述べた通りである719。さらに、究極的な実在であるアートマンの属性も究極的な実在なので、それは、アートマンの場合と同じように、諸原因によって別なもの(非実在)に変えることはできない。そして、属性を別なものに変えること以外に、変化というものは存在しないのである。まさにこのことを、[師シャンカラが]、変化する原因が存在しないのでと述べているのである。[なお『註解』本文の]その他の箇所については容易に理解される。

脚注
716
717 本訳204頁参照。
718本訳204;265;369頁参照。
719 本訳335頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

764鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/08(木) 23:17:18 ID:lBbJcM520
 また、アートマン儀軌に従属させることもできないものじゃ。
 アートマンは、それ以外のもののために存在するのではないからなのじゃ。
 それ以外のものすべてが、アートマンのために存在するのじゃ。

 聖典にも書いてあるのじゃ。
 「実に一切に対して愛情があるために、一切が好ましいのではない。そうではなくて、自身(アートマン)を愛するが故に一切のものが好ましいのである」と。
 
 さらに万物のアートマンであるという同じ理由で、[プルシャ=アートマンは]受け入れることも捨て去ることもできないのじゃ。
 あらゆる現象すべてにとって、ブラフマンこそが真のアートマンであるからなのじゃ。
 本性は捨て去ることができないので捨て去ることのできるようなものではなく、また、すでに獲得されているので受け入れることのできるようなものでもないのじゃ。
 捨て去ったり受け入れたりできるものを対象としている儀軌と禁令が、それとは反するアートマンという真理を対象とすることはないのじゃ。
 それ故、あらゆる現象すぺてにとって、アートマンこそが真理なのじゃ。

 シャンカラはプルシャを除くすべてのものは、変化してできたものでありって、可滅であり、現に滅してゆくと言っているのじゃ。
 実にプルシャは、天啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な実在なのじゃ。
 
 啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な 実在である。
 だが現象世界は、無始の無明が生み出したものなので、究極的な実在ではないのじゃ。
 そして、究極的な実在が現象世界の資料因なのじゃ。
 
 縄という真理が変化してできた蛇という虚妄の質料因であるようなものじゃ。
 現象世界は実在であるとも非実在であるとも決定できないせいで、その本性が不安定で滅してゆくが、プルシャのほうは究極的な実在なので滅しないのじゃ。
 
 プルシャは、千の原因によっても、非実在とすることはできないのである。
 そ れはちょうど、職人が千人集まっても、壷を布にすることはできないのと同じ

 ちょうど銀や蛇が、真珠母貝や縄だけを残して滅してゆくように、変化してできたものはすべて、滅することのないプルシャだけを残して滅してゆくのじゃ。
 プルシャだけが、現象世界という変化してできたもの総体の真理なのであるからなのじゃ。
 そして、プルシャは無終なので、減することがないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 プルシャにも減することはあるじゃろうというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラプルシャは、滅する原因が存在しないから滅しないと言ったのじゃ。
 原因が千集まっても、あるものを別なものにすることはできないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 プルシャは、本質的に捨て去ったり受け入れたりできるようなものではないのはその通りというのじゃ。
 だが、プルシャのある属性が捨て去られ、ある属性が受け入れられるということはあるじゃろうと言うのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは変化する原因が存在しないので、変異することなく永遠な存在であると言ったのじゃ。
 三種の変化、すなわち性質の変容・時相の変容・状態の変容が、ともに存在しないからなのじゃ。

 さらに、究極的な実在であるアートマンの属性も究極的な実在なので、それはアートマンの場合と同じように、諸原因によって別なものに変えることはできないのじゃ。
 属性を別なものに変えること以外に、変化というものは存在しないのじゃ。

 シャンカラが変化する原因が存在しないといったのは、このような意味だというのじゃ。

765避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 01:35:20 ID:SDbF0agI0
6.ヴェーダの目的は行為(祭式)を教示することだけではない  214左/229

6.1.理由(1)現にウパニシャッドではすでに存在する事物(ブラフマン=アートマン)が教示されている  p424-426

  また[先に]、聖典の趣旨を知る者(シァヴァラスヴアーミン)の[次のような言葉、すなわち]「実に祭式について教えることがそれ(ヴェーダ)の目的であると認められている」720が引用されていたが、それらは、祭式の考究に関係するものなので、儀軌と禁令を説く聖典(祭事部)の趣旨を述べているのだと解すべきである。またもし、「聖典は行為(祭式)のためのものであるから、それ(行為)を目的としない[諸聖典句]は無意味である」721というこの[文章]を、絶対的なものだと認めると、[聖典が実際に]すでに存在するものについて教示しているのは無意味であることになる、という理論的欠陥に陥ることになろう。[さらに]もし、活動を促したり停止させたりする儀軌およぴそれら[の儀軌]に従属するものとは別に、[聖典が]すでに存在する事物をこれから実現しなけれはならないものとして教示しているとすると、 変異することのない永遠な存在(すでに存在するもの)を教示しない理由は 存在しないであろう。何故なら、[聖典が]教示しているすでに存在するものは、行為(祭式)ではないからである。
   [反対主張]すでに存在するものは、行為(祭式)ではないが、行為を実現する手段であるから、すでに存在するものについての教示は、行為のためにこそ存在するのである。
   [答論]このような批判はあてはまらない用故なら、たとえ行為(祭式)のためであるにせよ、行為を実現する力のある事物が、現に教示されているからである。すなわち、確かに、それ(教示)の目的は行為のためではあるが、たからといって、事物について教示していないことにはならないのである。
  [反対主張][すでに存在する事物が聖典で]教示されているとして、それがお前にとって何の意味があるのか。
   [答論]アートマンという、まだ理解されていない事物について教示することにも(ca)[<行為を実現する手段としての事物>について教示することと]同じように、[意味(目的)がある]はずである。すなわち、それ(アートマン)を理解(悟る)ことによって、輪廻の原因である誤った知識が滅せられること、[それが]目的だとされるのである。このように、[すでに存在する事物についての教示は]、<行為を実現する手段としての事物>に関する教示に劣らず、意味(目的)があるのである。

  またある者[反対主張者]が、聖典を知る者の言葉を[自己の主張の]根拠として引 用していたが、それを[師シャンカラは次のように、反対主張者とは]別の形 で解釈している。また[先に]、聖典の趣旨を知る者(シャヴァラスヴァーミン)の[次のような言葉]が引用されていたが云々と。「それ(ヴェーダ)の目的は明白である。有意義な結果をもたらす好ましい事柄を教示するところにあるのである」722と述べるべきところを、[そこでは]ダルマの考究が主題となっており、かつ、ダルマとは祭式のことにほかならないので、「祭式を教示するところにあるのである」と述べられているので ある。しかしながら、[この引用文が]、すでに存在するブラフマンを教示するという ヴェーダの働きを妨げることはない。何故なら、ソーマシャルマンが主題となってい る箇所で、その(ソーマシャルマンの)美点を述べることは、ヴィシュヌシャルマンが 美点を備えていることを否定することにはならないからである。また、儀軌[を述べる]聖典句の対象は、儀軌によって命じられている祭式であり、禁令[を述べる]聖典句の対象は、禁令によって禁じられている祭式ではあるが、[儀軌と禁令の]両者はともに、祭式を教示するためのものなのである723。

脚注
720 本訳374頁参照。
721 本訳355頁参照。
722 ダルマが「教令によって規定されている好ましい事柄がダルマである」と定義されており、その注釈では、教令とはヴェーダにほかならないとされているが、ここの論議はこの箇所を前提としているのである。
723「禁令」以下の箇所は、「諸々の禁令は遂行すべきことを認識させるわけではないのにどうして祭式を教示するためのものであるのか」という反対主張に対する答えであるとされている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

766避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:44:00 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』ジャンカラの言及 1/4
>>471
内的アートマン とその認識とが]区別されるのは、比喩的用法(upacāra)なのである。[それは]ちょうど、[プルシャは精神性そのものなのに]プルシャの精神性[と言われる]ようなも のである。

>>489
[「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」とい う、祭式を執行する]資格について[述べている]聖典は、天界を望む者が天 界と関係していなければ成り立たないということを暗に意味しているだけであって、 これ(天界を望む者)が輪廻の主体ではないということを[も暗に意味しているわけ では]ない。というのは、それ(輪廻の主体ではないという性質)は、[祭式を執行す る]資格と合わないからである172。また、ウパニシャッドの説くプルシャ(=アートマン)は、行為の主体でも経験の主体で(古をい✖️)もない[ので、祭式を執行する]資格と矛盾するからである。

>>491
ウパニシャッドの説くプルシャについての理解が、[祭式を執行する]資格と矛盾するというのは確かにその通りである。しかし、 それ(ウパニシャッドの説くプルシャについての理解)以前には、祭式[の執行を命ずる]諸儀軌は、自らに適した日常的活動を行うのであって、[それらが]未だ生じて いないブラフマンに関する知識によって妨げられることはありえないのである。

>>692
  [反対主張]身体のない状態こそがダルマの結果ではないのか。
  [答論]そうではない。[身体のない状態は]、それ(アートマン)にとって本来の状態だからである。というのは、「賢者はアートマンを、身体の中にあって身体のないもの、変化するものの中にあって変化しないもの、偉大にして遍在するものと知って、悲しむことがない」580「アートマンは生気を備えず、思考器官をもたず、清らかである」581「実にこのプルシャは無執着である」582等の天啓聖典句があるからである。以上のような理由で、解脱と呼ば れる身体のない状態は、執行すべき祭式の果報とは異なり、永遠であると確定したのである。

>>751
  [反対主張]ヴェーダには、活動を促したり停止させたりする儀軌およびそれら[の儀軌]に従属するものとは別に、単独で事物について述べている箇所は存在しないのである697。
   [答論]そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからである。何故なら、ウパニシャッドで理解されるこのプルシャは、輪廻することのないブラフマンであって、「生みだされるべきもの」等の四種のもの698とは本質的に異なり、独立した箇所で取り扱われるものであって、自ら以外のものに従属することはないからである。 そしてまた、これ(プルシャ)は、存在しないとか理解されないとかいうことはできない。何故なら、(1)「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』[と説かれ云々]」699とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであり、また、(2)アートマンは、[その存在を] 否定するその者のアートマンなので、否定することはできないからである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

767避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:47:34 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』シャンカラの言及 2/4
>>757⭕️
  だから[師シャンカラは]、正しく[次のように]述べているのである。そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからであると。「ウパニシャッド」という語は、語源的には、「破壊する」という意味 の/sadという語根の前に、[「近くに」という意味の]upaという接頭辞と[「確定」という意味の]niという接頭辞がつき、後ろにkvip接尾辞がついてできたのだと説明されるが708、それは[本来は]ブラフマンの知識のことを言っているのである。何故なら、不二であることが身近に確実なものとなるべきブラフマンが、潜在印象とともに 無明を破壊するからである。[だが]ウパニシャッドの諸聖典句も、それ(ブラフマンの知識)の原因なので、ウパニシャッド[と呼ばれる]。そして、それ(ウパニシャッドの諸聖典句)から知られるのが、ウパニシャッドに説かれているプルシャなのである。まさにこれ(ウパニシャッドに説かれているプルシャ)を、[師シャンカラは次のように]詳しく説明している。ウパニシャッドで[理解される]この云々と。[そしてこのプルシャを]輪廻することのないと、「私」という観念の対象(個人存在)とは異 なるとしている。だからこそ[プルシャは]、行為とは無縁であり、そのため[「生み出されるべもの」等の]四種のものとは本質的異なるのである。さらに以下の理由で、四 種のものと本質的に異なるものは、自ら以外のものに従属することがない。すなわち、 自ら以外のもの[たとえば祭式]に従属する存在である物(dravya)を作り出そうとする場合には、「祭式用の杭を削る」等の場合のように、生み出すこと等によって実現することは可能だが、自ら以外のものに従属しないものは、「金を身につけるべきである。とか「小麦粉を捧げる[べきである]」等の場合のように、すでに存在するものという性質があり、[他の祭式には]役に立たないのである709。

>>759
  [反対主張]では何故、これ(プルシャ)は自ら以外のものに従属することはないのか。
   [答論]だから[師シャンカラが、次のように]言っているのである。何故なら、独立した箇所で取り扱われるものであるからであると。特定の祭式と無関係に学習される710諸ウパニシャッドは、[文章の]前後の関係を考察してみれば、プルシャを説明するためのものだ[と分かる]ので、この[ウパニシャッドという]箇所は、主にプルシャにのみ関係しているのだ[と分かるのである]。また、「プルシャ(人)は、ジュフー祭杓とは異なり、祭式と一定の関係にはない」ということについては、す(べ→で)に説明した通 りである711。以上のような理由で、[プルシャは、祭式を扱う箇所とは]独立した箇所で取り扱われるのである。[そして]以上のような(輪廻することのない等の)性質を備え、諸ウパニシャッドに基づいて認識されるこれ(プルシャ)が、存在しないなどと言うことはできないのである。以上が[『註解』本文のこの箇所の]意味である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

768避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:48:52 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』シャンカラの言及 3/4
>>761
   [反対主張]アートマンは、「私」という観念の対象なので、ウパニシャッドにおいてのみ認識されるというのは正しくない。
   [答論]そうではない。何故なら、[このような反対主張は、アートマンが]それ(「私」という観念の対象である個人存在)の観照者なので、否定されるからである。すなわち、それ(個人存在)の観照者は、「私」という観念の対象である行為者(個人存在)とは異なり、あらゆる存在に内在し、平等で、唯 一であり、変異することのない永遠なプルシャ、万物のアートマンであって、 [ヴェーダの]儀軌部(祭事部)や論理に基づく教義からは誰も理解できない。従って誰も、それを否定することはできないし、また儀軌こ従属させることもできない。さらに[それは]、万物のアートマンであるので、受け入れることも捨て去ることもできないのである。実に、プルシャを除くすぺてのものは、変化してできたものであって、可滅であり、現に滅してゆく。[だが]プルシヤは、滅する原因が存在しないので、滅することはない。また、変化す る原因が存在しないので、変異することのない永遠な存在である。だからこそ[プルシャは]、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しているのである。従って、「プルシャを超えるものはなにも存在しない。それ(プルシャ) は最高の帰着点であり、最高の到達点なのである」713とか、「ウパニシャッド に説かれているそのプルシャについて、私はお前に尋ねたい」714というように、[プルシャに]「ウパニシャッドに説かれている」という限定詞がつい ているのは、ウパニシャッドにおいてプルシャが主要なものとして説明され ているときに[のみ]理解しうるのである。それ故、「ヴェーダにはすでに存在する事物について述べている箇所は存在しない」という[反対論者の]主張は、速断にすぎないのである。

  [アートマンが]ウパニシャッドにおいてのみ理解されるという限定に耐えられない人が、[次のように]反対主張を提示している。
  [反対主張]アートマンは云々と。実にアートマンは、すべての人の持っている「私」 という観念の対象であり、行為主体、経験主体であって、輪廻する者である。何故なら、世間一般の人々や論者たちは、それ(「私」という観念の対象)に対してのみアートマンという語を用いているからである。世間一般に用いられている語もヴェーダで用いられている語も、その意味は同じである。従って、ウパニシャッドで用いられているアートマンという語も、それ(「私」という観念の対象)に対してのみ用いることが できるのであって、それに反対する別の意味に[用いることはできない]。以上が[反 対主張の]趣旨である。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが]答えている。そうではないと。すなわち、ウパニシャッドに説かれているプルシャは、「私」という観念の対象ではないのである。何故か。何故なら、それの観照者なので、すなわち、最高のアートマンは、「それ」=「私という観念の対象=行為主体=身体と器官の集合体という添性 に限定された者=個人存在」の観照者なので、[それが]「私」という観念の対象であることは否定されるからである。その趣旨は以下の通りである。「この生命(個人存在) であるアートマンとともに云々」715とあるように、個人存在とアートマンは、究極的 には同一ではあるが、その添性によって限定された姿が個人存在であり、一方、その [なにものにも限定されない]清浄な姿が観照者なのである。そしてこのことは、[ウパニシャッド]以外の認識根拠によっては理解されず、ウパニシャッドの領域なのであ る。まさにこのことを、[師シャンカラが次のように]説明している。すなわち、[それ(個人存在)の観照者は]、「私」という観念の対象である云々と。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

769避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:49:47 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』シャンカラの言及 4/4
>>763
  また、儀軌に従属させることもできない。何故か。何故なら、[それは、万物の]アートマンであるので云々だからである。すなわち、アートマンは、それ以外のもののた
めに存在するのではない。それ以外のものすべてが、アートマンのために存在するのである。たとえばこのような趣旨で、[次のような]天啓聖典句がある。「実に一切に対して愛情があるために、一切が好ましいのではない。そうではなくて、自身(アートマン)を愛するが故に一切のものが好ましいのである」716と。さらに、万物のアートマンであるという同じ理由で、[プルシャ=アートマンは]受け入れることも捨て去ることもできないのである。すなわち、あらゆる現象すべてにとって、ブラフマンこそが真のアートマン(本性)なのである。そして本性は、捨て去ることができないので捨て去ることのできるようなものではなく、また、すでに獲得されているので受け入れることのできるようなものでもない。従って、捨て去ったり受け入れたりできるものを対象としている儀軌と禁令が、それとは反するアートマンという真理を対象とすることはないのである。それ故、あらゆる現象すぺてにとって、アートマンこそが真理なのである。このことを説明して、[師シャンカラが次のように]言っている。実に、プルシャを除くすべてのものは、変化してできたものでありって、可滅であり、現に滅してゆくと。その意味は以下の通りである。実にプルシャは、天啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な 実在である。だが現象世界は、無始の無明が生み出したものなので、究極的な実在ではない。そして、究極的な実在が[究極的な実在ではないもの、すなわち現象世界の] 資料因なのである。それはちょうど、縄という真理が[それから]変化してできた蛇という虚妄の[質料因]であるようなものである。従って、これ(現象世界)は、[実在 であるとも非実在であるとも]決定できないせいで、その本性が不安定な[ため]滅してゆくが、プルシャのほうは究極的な実在なのである(すなわち滅することはない)。これ(プルシャ)は、千の原因によっても、非実在とすることはできないのである。そ れはちょうど、職人が千人集まっても、壷を布にすることはできないのと同じである。このことについてはすでに述べた通りである717。従って、ちょうど銀や蛇が、真珠母貝や縄だけを残して滅してゆくように、変化してできたものは[すべて]、滅することのないプルシャだけを残して滅してゆくのである。実にプルシャだけが、現象世界という変化してできたもの総体の真理なのである。そして、プルシャは無終なので、減 することがないのである。
  [反対主張] [プルシャにも]減することはあるであろう。
  [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが次のように]答えている。 プルシャは、滅する原因が存在しないので云々と。すなわち、原因が千集まっても、あるもの(実在)を別なもの(非実在)にすることはできないのである。このことについてはすでに述べたところである718。
   [反対主張][確かに]プルシャは、本質的に、捨て去ったり受け入れたりできるようなものではないであろう。だが、それ(プルシャ)のある属性が捨て去られ、ある属性が受け入れられるということはあるであろう。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。また、変化する原因が存在しないので、変異することなく永遠な存在であると。三種 の変化、すなわち性質の変容・時相の変容・状態の変容が、ともに存在しないということについては、すでに述べた通りである719。さらに、究極的な実在であるアートマンの属性も究極的な実在なので、それは、アートマンの場合と同じように、諸原因によって別なもの(非実在)に変えることはできない。そして、属性を別なものに変えること以外に、変化というものは存在しないのである。まさにこのことを、[師シャンカラが]、変化する原因が存在しないのでと述べているのである。[なお『註解』本文の]その他の箇所については容易に理解される。
(´・(ェ)・`)b

770鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/09(金) 23:33:44 ID:DGDxIUq.0
 聖典の趣旨を知る者、シァヴァラスヴアーミンの「実に祭式について教えることがヴェーダの目的であると認められている」という言葉が引用されていたが、それらは祭式の考究に関係するものなのじゃ。
 それは儀軌と禁令を説く聖典の趣旨を述べているのだと解すべきなのじゃ。
 またもし、「聖典は行為)のためのものであるから、それを目的としない[諸聖典句]は無意味である」というこの文を、絶対的なものだと認めるとすでに存在するものについて教示しているのは無意味であることになるのじゃ。
 
 もし、活動を促したり停止させたりする儀軌およぴそれらに従属するものとは別に、すでに存在する事物をこれから実現しなけれはならないものとして教示しているとすると、 変異することのない永遠な存在を教示しない理由はないのじゃ。
 何故なら、聖典が教示しているすでに存在するものは、行為ではないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すでに存在するものは、行為ではないが、行為を実現する手段であるから、すでに存在するものについての教示は、行為のためにこそ存在するといのじゃ。

 答えたのじゃ。
 たとえ行為のためであるにせよ、行為を実現する力のある事物が、現に教示されているのじゃ。
 確かに、教示の目的は行為のためではあるが、たからといって、事物について教示していないことにはならないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すでに存在する事物が聖典で教示されているとして、それが汝にとって何の意味があるのかと問うのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンという、まだ理解されていない事物について教示することにも同じように、意味があるはずなのじゃ。
 アートマンを理解することによって、輪廻の原因である誤った知識が滅せられることが目的なのじゃ。
 このようにすでに存在する事物についての教示は、行為を実現する手段としての事物に関する教示に劣らず、意味があるのじゃ。

 ある反対主張者が、聖典を知る者の言葉を反対の根拠として引用していたが、それをシャンカラは次のように、別の形で解釈しているというのじゃ。
 ヴェーダの目的は明白である。有意義な結果をもたらす好ましい事柄を教示するところにあるのである」と述べるべきところを、ダルマの考究が主題となっており、かつダルマとは祭式のことにほかならないので、「祭式を教示するところにあるのである」と述べられているのじゃ。
 この引用文が、すでに存在するブラフマンを教示するという ヴェーダの働きを妨げることはないのじゃ。
 あるものの美点が述べられることが、他のものの美点を否定することにはならないからなのじゃ。
 儀軌聖典句の対象は、儀軌によって命じられている祭式であり、禁令聖典句の対象は、禁令によって禁じられている祭式ではあるが、両者はともに祭式を教示するものというのじゃ。

771避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 23:44:50 ID:wgpj1qQI0
(つづき)   p426-427
  [反対主張]ところで、「聖典は行為(祭式)のためのものであるから云々」という、 聖典(『ミーマーンサー・スートラ』)の作者の言葉がある。ここでもし、「ためのもの (意味、対象artha)」という語を言葉の対象(abhidheya)を示すという意味に取れば、 その場合には、実体、性質、運動というすでに存在するものは、[聖典の]言葉の対象ではないという意味で無意味であることになろう。何故なら、それらは行為(祭式)を言い表してはいないからである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えて いるのである。またもし、「聖典は...」云々と。
   [反対主張]行為(祭式)のためのものというのは、行為(祭式)を言い表しているという意味ではなくて、行為(祭式)を目的とするという意味なのである。そして、実体や性質を表す[聖典中の]言葉が、すでに存在する実体や性質について述べているのは、[それらが行為(祭式)]に役立つ(目的とする)からなのであって、[実体や性質] 自身を表すためではないのである724。たとえば、聖典を知る者(シァヴァラスヴアーミン)は、 「実に教令は、すでに存在するもの、現に存在しているもの、[将来存在す るであろうもの、微細なものを教示するのである]」725と述べている。その意味は以下の通りである。すなわち教令は、行わなけれはならないことを理解させると同時に、それ(行わなければならないこと)に役立つすでに存在しているものをも理解させるので ある。
   [答論]これ(反対主張)に対して[師シャンカラは、次のように]答えている。[さらに]もし、活動を促したり停止させたりする儀軌[およびそれらの儀軌に従属するもの]とは別に726、[聖典が]すでに存在する[事物を]云々と。その趣旨は以下の通りである727。まず、「語は]、その固有の意味のなかでも、行わなけれはならないことに 役立つものだけに関係するのであって、それ以外の意味とは関係しない」と知られているわけではない。このことについては、「[語は)すでに存在するものをも表示する」 ということを示そうとした人々によって、すでに明らかにされた通りである728。さらに語は、[他の語の意味と無関係に]語固有の意味だけを表しているのではないのである729。もしそうなら(語が固有の意味しか表さないとすれば)、文章の意味は認識されないことになるであろう。何故なら、[文章の語の意味が]それぞれ独立した形で主要なものであれば、主要な意味とそれに従属する意味という関係が存在しないことになり、[それらが]一つの文章を構成することは経験されなくなるからである。従って、 諸語が固有の意味を表示しながらも一つの文章を構成するのは、[文章の意味という] 同一の目的をもった<語の意味>をも表示するからである。そしてこのようにして、一 つの文章の意味一 [それはその文章の意味を]構成する個々の[語の]意味によって限定されている一についての認識が成り立つのである。たとえば、聖典の意味を知る者(クマーリラバッタ)が[次のように]述べている。「文字は直接に語の意味を明らかにするが、そんな無意味なことだけで終わるわけではない。語の意味を明らか にすることは、それら(文字)が文章の意味を生み出すために機能する際に必要不可欠なのである。それはちょうど、料理の際に薪の炎が[必要不可欠である]ようなものである」730と。従って、[語が固有の意味]以外の意味との関係を表示するだけで、文章の意味についての認識が成立するとすれば、語が行わなけれはならないことの関係を表示するという決まりは存在しないことになる。とすれば、[語が]変異することなく 永遠なブラフマンの性質を表示するのも理論的欠陥とはならないのである。
  [ところで]これから実現しなけれはならないものとはこれから行わなけれはならないことのことである。

脚注
724 725 726
727 以下の論議は、語には、(1)行わなけれはならないことと結び付いた語自身の意味を表示する能力があるのか、(2)語自身の意味を表示する能力があるのか、(3)行わなければならないこと以外のものと結び付いた語自身の意味を表示する能力があるのか、という問題に対す る解答であるとされている。
728 本訳416頁以下参照。
729
(´・(ェ)・`)
(つづく)

772鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/10(土) 23:28:05 ID:9N5aHE1w0
 反対なのじゃ。
 「聖典は行為(祭式)のためのものであるから云々」という、 聖典(『ミーマーンサー・スートラ』)の作者の言葉があるというのじゃ。
 ここでもし、「ためのもの」という語を言葉の対象を示すという意味に取れば、 その場合には、実体、性質、運動というすでに存在するものは、言葉の対象ではないという意味で無意味であることになるというのじゃ。
 何故なら、それらは行為を言い表してはいないからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはすでに否定しているというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 行為(祭式)のためのものというのは、行為(祭式)を言い表しているという意味ではなくて、行為(祭式)を目的とするという意味なのじゃ。
 そして、実体や性質を表す言葉が、すでに存在する実体や性質について述べているのは、それらが行為(祭式)に役立つからなのであって、自身を表すためではないのじゃ。
 たとえば、聖典を知る者(シァヴァラスヴアーミン)は、 「実に教令は、すでに存在するもの、現に存在しているもの、」と述べているのじゃ。
 教令は、行わなけれはならないことを理解させると同時に、それに役立つすでに存在しているものをも理解させるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 まず、「語は]、その固有の意味のなかでも、行わなけれはならないことに 役立つものだけに関係するのであって、それ以外の意味とは関係しない」と知られていないのじゃ。
 さらに語は、[他の語の意味と無関係に]語固有の意味だけを表しているのではないのじゃ。
 もしそうなら文章の意味は認識されないことになるじゃろう。
 何故なら、語の意味がそれぞれ独立した形で主要なものであれば、主要な意味とそれに従属する意味という関係が存在しないことになり、一つの文章を構成することは経験されなくなるからなのじゃ。
 
 従って、 諸語が固有の意味を表示しながらも一つの文章を構成するのは、同一の目的をもった語の意味をも表示するからなのじゃ。
 このようにして、一 つの文章の意味についての認識が成り立つのじゃ。

 たとえば、聖典の意味を知る者(クマーリラバッタ)が、
 「文字は直接に語の意味を明らかにするが、そんな無意味なことだけで終わるわけではない
 語の意味を明らか にすることは、それら(文字)が文章の意味を生み出すために機能する際に必要不可欠なのである。
 それはちょうど、料理の際に薪の炎のようなものである」と述べているのじゃ。

 従って、語が固有の意味]外の意味との関係を表示するだけで、文章の意味についての認識が成立するとすれば、語が行わなけれはならないことの関係を表示するという決まりは存在しないことになるのじゃ。
 とすれば、語が変異することなく 永遠なブラフマンの性質を表示するのも理論的欠陥とはならないのじゃ。

 これから実現しなけれはならないものとは、これから行わなけれはならないことのことなのじゃ。

773避難民のマジレスさん:2022/12/10(土) 23:53:15 ID:KkFqgyN60
(つづき)  p428-429
  [反対主張]これから実現しなけれはならないもののために、すでに存在するものが 教示されているとすれば、それはすでに存在するものではない。何故なら、これから実現しなければならないものと結合した姿をしているので、それもこれから実現しなけれはならないものにはかならないからである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。[何故なら、聖典の]教示している[すでに存在するものは、行為(祭式)では]ないからであると。その意味は[次の通り]である。まず[この]結合とは同一性のことではない。そうではなくて、これから行わなけれはならないことと[すでに存在するものとが]、目的とその目的に役立つものという関係にあるということなのである。ところが、それ(目的とその目的に役立つものという関係)を対象とする< これから生ずるもの> (bhāvārtha,活動)とすでに存在するものとは、行為と〈行為 に関係する要素> (kāraka)という[関係]にあるのである。従って、すでに存在するものは行為のために存在するのではない731のである。
  [反対主張][すでに存在するものは]行為(祭式)ではないが云々。従って、変異することなく永遠なブラフマンについての教示は、行為に役立たない[ので]成り立たない、という意味である。
  [答論]このような批判はあてはまらない。何故なら、たとえ行為(祭式)のためであるにせよ云々。すなわち、すでに存在するものは、行為のために教示されるとすでに存在するものではなくなる、などということはない。そうではなくて、それは、行為を実現する力を備えてはいるが、まさにすでに存在するものなのである。また言葉は、 すでに存在するものを表示する力(śakti)があると確定しており、かつ、ある場合には固有の(行為とは無関係な)すでに存在するものを表示すると経験されていれば、やせてもかれても、行為を表示することを[人に]理解させるなどということは決してありえない。実に、[行為に]限定されたものを百回見ても、[行為に]限定されていないものをどこかで見たことがあれば、[それが]見たことのないものに変わるということはないのである。そしてまた、現に存在しているものについての教示(たとえば森 の描写)は、存在という行為によって[のみ]限定されており、行わなけれはならないことには役立たないが、世間一般にしばしば見られるのである。同様に、関係だけを以て終わる(表示する)[言葉]のなかには、行為(動詞)を表示していないものもあ る。たとえば、「この人はだれのものか」という質問に対する答え「王の」がそうである。同様に、名詞語幹の意味のみを表示するものもある。たとえば、「木々はどのよう なものか」という質問に対する答え「実をつけたもの」がそうである。[このような場合に]質問者は、人や木々の存在・非存在を知りたいと思っているわけではない。そうではなくて、その人の特定の主人や木々の特定の様子を[知りたいと思っているのである]。そして、質間者が期待していることを知っている人は、特定の主人や特定の様子だけを答えるのである。それが存在することを[答えるわけ]では決してない。何故なら、その人(質間者)が知りたいと思ってはいないからである。なお、「語は、意味 (目的)のあるものであればすでに存在するものをも表示する」ということについては、 すでに明らかにした通りである732。
  [反対主張]すでに存在するものが[聖典で]教示されているとして、[それが]お前にとって、すなわち教示者あるいは聞き手にとって何の意味(目的)があるのか[意味などないであろう]。だから、すでに存在するもののなかでも、意味のあるものだけが教示されるべきなのである。意味のないものがではない。だがブラフマンは、意味のないものである。何故なら、それは、無関心な存在であって、あらゆる行為と無縁なので、役に立たないからである。以上が[『註解』中の反対主張の]趣旨である。
   [答論]アートマンという、まだ理解されていない[事物]について教示することも(Ca)、同じようである、すなわち意味(目的)があるはずである。[ここで用いられている]Caという語は、「もまた」という意味である。[『註解』のこの箇所の]趣旨は次の通りである。すなわち、ブラフマンが無関心な存在ではあっても、それを対象とする言葉の認識一つまり悟りを以て終わる明知一は、自己と対立するもの一つまり輪廻の根本原因である無明一を断ち切るので、意味(目的)があるのである。

脚注
731 行為に関係する要素については、脚注151参照のこと。
732 本訳416頁以下参照。
(´・(ェ)・`)つ

774鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/11(日) 23:02:46 ID:4UdMzx4g0
 反対なのじゃ。
 これから実現しなけれはならないもののために、すでに存在するものが教示されているとすれば、それはすでに存在するものではないというのじゃ。
 何故ならばこれから実現しなければならないものと結合した姿をしているので、それもこれから実現しなけれはならないものであるからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 まず結合とは同一性のことではないのじゃ。
 そうではなくて、これから行わなけれはならないことと、目的とその目的に役立つものという関係にあるということなのじゃ。

 それを対象とする< これから生ずるもの>とすでに存在するものとは、行為と行為 に関係する要素という[関係]にあるのじゃ。。
 すでに存在するものは行為のために存在するのではないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 変異することなく永遠なブラフマンについての教示は、行為に役立たないから成り立たない、というのじゃ。

 答えたのじゃ。
 それは、行為を実現する力を備えてはいるが、まさにすでに存在するものなのじゃ。
 また言葉は、 すでに存在するものを表示する力があると確定しているのじゃ
 かつ、ある場合には固有のすでに存在するものを表示すると経験されていれば、行為を表示することを理解させるなどということは決してありえないのじゃ。

 限定されたものを百回見ても、[行為に]限定されていないものをどこかで見たことがあれば、[それが]見たことのないものに変わるということはないのじゃ
 現に存在しているものについての教示は、存在という行為によって限定されており、行わなけれはならないことには役立たないが、世間一般にしばしば見られるのじゃ
 
 同様に、関係だけを以て終わる言葉のなかには、行為を表示していないものもあるじゃろう。
 たとえば、「この人はだれのものか」という質問に対する答え「王の」がそうじゃ。

 同様に、名詞語幹の意味のみを表示するものもあるじゃろう。
 たとえば、「木々はどのよう なものか」という質問に対する答え「実をつけたもの」がそうなのじゃ
 質問者は、人や木々の存在・非存在を知りたいと思っているわけではないじゃろう。
 そうではなくて、その人の特定の主人や木々の特定の様子を知りたいと思っているのじゃ

 質間者が期待していることを知っている人は、特定の主人や特定の様子だけを答えるのじゃ。
 それが存在することを[答えるわけ]では決してないじゃろう。
 何故なら、その人(質間者)が知りたいと思ってはいないからなのじゃ。
 なお、「語は、意味 (目的)のあるものであればすでに存在するものをも表示する」ということについては、 すでに明らかにした通りなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すでに存在するものが教示されているとして、教示者あるいは聞き手にとって何の意味があるのかと聞くのじゃ。
 ブラフマンは意味のないものというのじゃ。
 何故ならば、それは無関心な存在であって、あらゆる行為と無縁なので役に立たないからだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンが無関心な存在ではあっても、それを対象とする言葉の認識は、自己と対立するものを断ち切るので、意味があるのじゃ。
 アートマンも同じなのじゃ。

775避難民のマジレスさん:2022/12/11(日) 23:56:43 ID:130rHkDU0
6.2.理由(2)ヴェーダの目的が行為(祭式)を教示することのみにあるとすると、活動の停止を教示するヴェーダの文章(禁令)が無意味であることになる   p429-431 216/229

  さらにまた、[ヴェーダには]「バラモンは殺すべきではない」(brahmano na hantavyah)等の活動の停止が教示されている。そしてそれ(活動の停 止)は、行為(祭式)ではない。また、行為(祭式)を実現する手段でもない。 もし、行為(祭式)を目的としない[ヴェーダ]の教えが無意味であれば、「バラモンは殺すべきではない」等の、活動の停止を教示する[ヴェーダの文章] は無意味であることになる。だがそれは望ましいことではない。
  [反対主張]否定詞nañは、[「殺す」という語根から]自然に知られる「殺す」という意味と結び付いているので、殺すという行為の停止という、[行為に対して]無関心な状態[を表すの]ではなくて、[語根から自然には]知ら れない行為(すなわち殺すこと以外の行為)[を命ずる]ためのものだと考えることができるのである733。
  [答論]そうではない。この否定詞 nañの本来の性質は、否定詞nañと結び付いたものが存在しないことを認識させるところにある。そして、存在しないという認識は、無関心な状態の原因なのである。さらにそれ(存在しないという認識)は、薪の燃えてしまった火のように、自ら消え去ってゆくのである734。従って、「バラモンは殺すべきではない」等の場合には、プラジャーパティに対する誓い等735の場合とは異なり、積極的な活動を停止することという、[積極的な行為に対して]無関心な状態こそが、その否定の意味 なのである、とわれわれは考えている。それ故、「[行為(祭式)を目的としな い諸聖典旬は]無意味である」という[『ミーマーンサー・スートラ』の]言明は、人問の目的に役に立たない物語等からなる釈義(arthavada)736等に関するものだと理解すべきなのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

776避難民のマジレスさん:2022/12/12(月) 05:48:47 ID:C52H0cTM0
(つづき)
脚注
733「殺すべきではない」の意味の解釈に関して、否定詞の機能が定立否定にあるのか、それとも非定立否定にあるのかという問題が前提となっている。すなわち、否定詞の機能が定立否定にあるのか、それとも非定立否定にあるのかという問題である。そのうち、否定詞の機能は定立否定にあるというのが、ここの反対主張の趣旨であるが、その場合には、「殺すべきではない」という文章は次のように解釈されることになる。すなわち、否定詞は「殺すべきである」という語の語根の意味(殺すこと) と結びついてその意味を否定し、そうすることによって逆に、語根の意味以外の意味(殺すこと以外のこと)を定立するのだとされるのである。説明の都合上、語根の意味を表す(殺すこと)と接尾辞の意味を表す(「すべきである」)に分けて考えてみると、語根の意味と結びつくわけであるから、置き換えられることになるが、この際は (殺すこと)以外のこと(たとえば、叩くことや、あるいは『バーマティー』の例に従えば殺さないという決意等)を意味すると解釈されるのである。従って、叩くことや殺さないという決意等を行うことを命じていることになり、その結果「バラモンを殺すべきではない」という文章 は、前後の文脈に応じて「バラモンを叩くこと」とか「バラモンを殺さないという決意」などをを行うこと(すなわち行為)を命じているとされるのである。それに対して、否定詞nañの機能は非定立否定にあるというのが、答論の立場であるが、それによれば、「殺すべきでない」という文章は次のように解釈され ることになる。すなわち、否定詞nañは「殺すべきである」という語の接尾辞の意味(すべきである)と結びついてその意味を否定するのだとされるのである。先と同じように、置き換えると、naは接尾辞の意味を表す語と結びついて、行わないこと(行為の停止)を命じていると解釈されるのである。従って、「バラモンを殺すべきではない」 という文章は、定立否定による解釈とは異なり、なんら行為を命ずるものではなく、「バラモンを殺すことを行わないこと」すなわち「バラモンを殺すという行為の停止」を命じているとされるのである。
734この箇所は、nañと結びついたものすなわち活動が存在しないという認識が消滅したあとに、再び無関心な状態に行為が生じて来る余地があるのではないか」という反論に対するる答えであるとされる。すなわち、行為が存在しないという認識は、活動を完全に根絶やしにしたのち、自らも消え去っていくから、再び活動の生ずる余地はないということを言ついるのだとされているのである。
735プラジャーパティに対する誓いとは、学生期を終えた若者が家住期に入る際に、創造神プラジヤーパティに対して行う誓いで、「昇りつつある太陽あるいは沈みつつある太陽を見るべきではない」等の内容の ものである。この場合には、誓いという積極的決意を示すものであるという性貢上、この「べきではない」 という否定を、積極的な活動を停止するという非定立否定の意味に解釈することは適当ではない。従って、 この文章中の否定は、定立否定の機能を持ち、「昇りつつある太陽あるいは沈みつつある太陽を見ないとい う決意」を間接的に表示しているのだと解釈すぺきであるとされるのである。
736釈義に関しては、脚注493;496参照。
(´・(ェ)・`)つ

777鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/12(月) 23:04:34 ID:ySja09TI0
 さらにまたヴェーダには「バラモンは殺すべきではない」等の活動の停止が教示されているというのじゃ。
 それは行為ではないじゃろう。
 また、行為を実現する手段でもないのじゃ。

 もし、行為を目的としない教えが無意味であれば、「バラモンは殺すべきではない」等の、活動の停止を教示するのは無意味であることになるのじゃ。
 だがそれは望ましいことではないのじゃ。
 戒律が無意味になってしまうからのう。

 反対なのじゃ。
 否定詞は殺すという語根から自然に知られる「殺す」という意味と結び付いているので、殺すという行為の停止という無関心な状態を表すのではないというのじゃ。
 語根から自然には知られない行為、すなわち殺すこと以外の行為のためのものだと考えることができるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 この否定詞本来の性質は、否定詞と結び付いたものが存在しないことを認識させるところにあるというのじゃ。
 そして、存在しないという認識は、無関心な状態の原因なのじゃ。
 さらにそれは、薪の燃えてしまった火のように、自ら消え去ってゆくのじゃ。

 従って、「バラモンは殺すべきではない」等の場合には、プラジャーパティに対する誓い等の場合とは異なり、積極的な活動を停止することという無関心な状態こそが、その否定の意味なのじゃ。
 それ故に、「[行為を目的としな い諸聖典旬は無意味である」という『ミーマーンサー・スートラ』の言明は、人問の目的に役に立たない物語等からなる釈義等に関するものだと理解すべきなのじゃ。。

778避難民のマジレスさん:2022/12/13(火) 00:32:17 ID:J2AF3r0.0
6.2.1.儀軌は行為を命ずる p431-432 217右/229

  あらゆる語は行わなければならないことを表示すると認めている人たちでさえ、「バ ラモンは殺すべきではない」とか「酒を飲むべきではない」等[の文章]が、行わなければならないことを表現していると認めることはできない。何故なら、行わなければならないことは、その領域が意欲(krti)によって限定されている[ので]、意欲の存在 する領域のなかに含まれている(vyāpta)からである737。[従って]、その(意欲)が なくなれば、[行わなければならないことも]なくなるのである。それはちょうど、木という性質がなくなれば、シンシャパー738という性質も[なくなる]ようなものである。ところで、意欲とは人の努力のことである。そしてそれ(意欲)は、対象に基づいて決定される。そしてその(意欲の)対象は、これから実現しなければならないものという本性を備えているので、生ずるもの(bhāvārtha,活動)一[それは]前後関係のある[多くの行為からなり]、他のものを生み出すのに適してしいる一でしかありえないはずであり739、実体や性質では[ありえ]ない。何故なら、意欲の対象は、意欲の存在する領域のなかに直接的に含まれているからである。そして、実体や性質というすでに実現されているものが、意欲の存在する領域のなかに含まれることはない。だからこそ、聖典(『ミーマーンサー・スートラ』)の作者の[次のような]言葉があるのである。「行為を表す言葉(動詞)は生ずるもの(活動)を表しており、[新得力が] 生ずることはそれ(生ずるものを表す動詞)から認識されるのである」740と。
  [反対主張]実体や性質を表す言葉も、なにか原因がある場合には(naimittikavāsthā)、 行わなければならないことと関係するではないか741。

脚注
737 要するに、行わなければならないのだという意欲が存在していてはじめて行わなければならないことが遂行されるのだということ。なおvyāptaに関しては、脚注14参照。
738アショーカ樹のこと。
739たとえば、御飯を炊くという料理を例に取れば、それは、まず鍋を火にかけて温めるという行為から始まって、最後に御飯が炊きあがるという行為までの前後関係のある多くの行為からなっており、またそれは、料理という行為以外のものすなわち炊きあがった御飯を生みだすのに適しているのである。この点で壼等の実体とは異なっているのである。
740
741「語によって思い起こさせられたものと結び付かないものが原因であるときに、生ずるもの(活動) と結び付いている状態が、なにか原因がある場合であり、その場合には、すでに実現されているものである実体や性質も、行為と結び付くことによってこれから実現しなけれぱならないものとなる。従って、実体・性質・生ずるもの(活動)を表す言葉はともに、これから実現しなけれぱならないものを表し、かつこれから実現しなけれぱならないものを対象としているので、[それらの語の]用法はともに[語を]用 いた対象を実現するところにあるのである」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

779鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/14(水) 00:03:53 ID:OkPEYBXc0
 あらゆる語は行わなければならないことを表示すると認めている人たちでも禁止を命じる文章を、行わなければならないことを表現していると認めることはできないというのじゃ。
 何故ならばそこには意欲が欠けているからなのじゃ。
 意欲とは人の努力のことであるというのじゃ。

 意欲は対象に基づいて決定されるものじゃ。
 そして意欲の対象は、これから実現しなければならないものという本性を備えているので、生ずるものでしかありえないのじゃ。
 実体や性質ではないのじゃ。

 何故ならば意欲の対象は、意欲の存在する領域のなかに直接的に含まれているからなのじゃ。
 そして、実体や性質というすでに実現されているものが、意欲の存在する領域のなかに含まれることはないからなのじゃ。

 聖典『ミーマーンサー・スートラ』の作者の次のような言葉があるのじゃ。
 「行為を表す言葉は生ずるものを表しており、新得力が 生ずることはそれから認識されるのである」と。

 
 反対なのじゃ。
 実体や性質を表す言葉も、なにか原因がある場合には行わなければならないことと関係するではないかと聞いたのじゃ。

780避難民のマジレスさん:2022/12/14(水) 00:15:15 ID:3G6klO0I0
(つづき)   p432-433
  [答論]ところが、生ずるもの(活動)[を表す言葉]は、それ自体で行わなけれぱならないことと関係しているのに、実体や性質を表す言葉は、活動と結び付くことによって行わなけれぱならないことと関係するのである。従って、生ずるもの(活動)を表す [言葉]からのみ新得力が理解されるのであり、実体や性質を表す言葉からではない。 また、「ヨーグルトによって護摩を行う[べきである]」742とか、「絶え間なくギーを振り掛ける[べきである]」743等の場合にも、[ヨーグルト等の]実体(供物)が行わなけれぱならないことの中味ではない。何故なら、この場合にも、護摩や振り掛けることという生ずるもの(活動)が、行わなければならないことの中味だからである。[だが]だからといって、「[『ヨーグルトによって護摩を行うべきである』とか『絶え間なくギーを振り掛けるべきである』という儀軌が]、『ソーマによって供犠を行う[べきで ある]』という[儀軌]の場合と同じように、ヨーグルトによって限定された護摩や絶え間ないことによって限定された振り掛けることを命じているので、『アグニホートラ [という護摩]を行う[べきである]』とか『ギーを振り掛けることを行う[べきである]』という[文章]は、それら(護摩やギーを振り掛けること)に再び言及している のである」744というわけではない。何故なら、[確かに]この場合にも、行わなければならないことの中味は、生ずるもの(護摩やギーを振り掛けること)ではあるが、実体 (供物すなわちヨーグルト)や性質(すなわち絶え間ないこと)は、[行わなければならないことの]中味ではなくても生ずるものと関係しているので、それが命じられているのである。というのは、生ずるもの(活動)は、<行為に関係する要素> (kāraka)の単なる働きにすぎないという形で特(教→)徴付けられることはないが、特定の〈行為に関係する要素> (たとえば実体等)によって特徴付けられているので、実体等がそれ(生ずるもの)と関係している(の)からである745。従って、生ずるもの(活動)が命じられているときには、それ(生ずるもの)自身が、それ(生ずるもの)と関係しているもの (たとえば実体や性質等)とともに命じられるので、実体や性質は、[行わなけれぱならないことの]中味ではないが、それ(行わなければならないこと)と関係するものとして命じられているのである。だがこのように、儀軌が生ずるものを媒介として実体等 と結び付くというのは、まわりくどくなる(gaurava)746という恐れがある。従って、 [このような儀軌は]、その対象(生ずるもの)がそれ以外の[儀軌]から知られるので、それ(生ずるもの)に再言及することによって、それ(生ずるもの)と関係のある 実体等を述べているのである747。それ故儀軌は、まさに生ずるもの(活動)を対象としている(命じている)のである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

781避難民のマジレスさん:2022/12/14(水) 00:16:10 ID:3G6klO0I0
(つづき)  p432-433
脚注
742 出典不明。 743出典不明。
744「ヨーグルトによって護摩を行うべきである」とか「絶え間なくギーを振り掛けるべきである」とい う儀軌の場合には、この儀軌以外にそれぞれ祭式そのものを命じている儀軌(根本儀軌)「アグニホート ラ[という護摩]を行う[べきである]」「[火に]ギーを振り掛けることを行う[べきである]」があるので、「ヨーグルト云々」「絶え間なく云々」という儀軌は、これらの祭式に付属する供物(ヨーグルト)や性質(絶え間ないこと)を命じている従属儀軌(で)あるとされる。だが、「ソーマによって供犠を行うべきである」という儀軌の場合には、この儀軌以外に祭式(供犠)そのものを命じている儀軌が存在しないので、 ソーマによって限定された供犠を行うべきことを命じている限定儀軌であるとされる。すなわち、この儀軌は、(1)供犠そのものを行うべきことと同時に、(2)その際ソーマを供物として捧げるべきことをも命じているのだとされるのである。さてここで、「ヨーグルトによって護摩を行うべきである」とか「絶え間なくギーを振り掛けるべきである」等の儀軌の場合に、護摩やギーを振り掛けることという生ずるもの(活動)が、行わなけれぱならないことの中味であるとすると、これらの儀軌はそれぞれ、「ソーマに よって供犠を行う[べきである]」という儀軌同様、(1)祭式(ギーを振り掛けること)そのものを命ずると同時に、(2)その際ヨーグルトを供物として用いるべきこと、絶え間なく捧げるべきことをも命じ ている限定儀軌であることになる。すなわち、言い換えれば、ヨーグルトによって限定された護摩や、絶え間ないことによって限定された振り掛けることを命じていることになる。そしてもしそうだとすれぱ、 これらの儀軌によってすでに、護摩を行うべきこと、振り掛けることを行うべきことはすでに命じられてしまっているわけであるから、今度は逆に、「アグニホートラ[という護摩]を行うべきである」「ギーを 振り掛けること行うべきである」という文章は、すでに命じられた護摩やギーを振り掛けることに再度言 及していることになり、未知のことを命ずるものである儀軌ではないことになってしまうのである。
745 行為に関係する要素(kāraka)については、脚注151参照。
746 論理学上の誤りの一つで、より簡潔な方法があるのに、まわりくどい方法を用いることを言う。
747「ヨーグルトによって護摩を行う[べきである]」という儀軌を例に取れば、この儀軌は、その対象 (生ずるもの、活動)すなわち護摩が、それ以外の儀軌(すなわち「アグニホートラ[という護摩]を行う [べきである]」)から知られるので、それ(護摩)に再言及することによって、それ(護摩)と関係のある 実体(供物)であるヨーグルトを述べているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

782鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/15(木) 00:25:38 ID:awZraiYk0
 答えたのじゃ。
 生ずるものはそれ自体で行わなけれぱならないことと関係しているが、実体や性質を表す言葉は、活動と結び付くことによって行わなけれぱならないことと関係するというのじゃ。
 生ずるものを表す言葉からのみ新得力が理解されるのであり、実体や性質を表す言葉からではないのじゃ。

 また、「ヨーグルトによって護摩を行う]とか、「絶え間なくギーを振り掛ける」等の場合にも、実体が行わなけれぱならないことの中味ではないのじゃ。
 何故なら、この場合にも、護摩や振り掛けることという生ずるものが、行わなければならないことの中味だからなのじゃ。

 しかしそれらの儀軌がヨーグルトによって限定された護摩や絶え間ないことで限定された振り掛けることを命じているので、『アグニホートラを行う』とか『ギーを振り掛けることを行う』という文章でそれらに再び言及しているわけではないというのじゃ。
 何故ならばこの場合にも、行わなければならないことの中味は、生ずるものではあるが、実体や性質は中味ではなくても生ずるものと関係しているので、それが命じられているのじゃ。

 生ずるものは特定の行為に関係する要素によって特徴付けられているので、実体等がそれと関係しているからなのじゃ。
 従って、生ずるものが命じられているときには、それ自身が、それと関係しているものとともに命じられるのじゃ。
 そうであるから実体や性質は行わなけれぱならないことの中味ではないが、それと関係するものとして命じられているのじゃ。

 だがこのように、儀軌が生ずるものを媒介として実体等 と結び付くというのは、まわりくどくなるという恐れがあるのじゃ。
 従ってこのような儀軌は、その対象がそれ以外の儀軌から知られるので、それに再言及することによって、それと関係のある 実体等を述べているのじゃ。
 それ故儀軌は、まさに生ずるものを対象としているのじゃ。

783避難民のマジレスさん:2022/12/15(木) 02:46:59 ID:CejTC7aE0
(つづき)   p433-435
  以上の理由によって、「『八つのかわらけ(くま注)に盛られた[祭餅]を[火の神アグニに]捧げるアーグネーヤ祭は、[新月の日と満月の日に決まっているの]である』748という場合には、この儀軌は、[供物と祭神との]関係を対象としている(述べている)」という[主張も]退けられたことになる。
   [反対主張]儀軌の対象は生ずるものではない。何故なら、生ずるもの(bhavitr,生み出されるもの=活動)がすでに存在しているとすると、そのすでに存在の確立している<生ずるもの>には、それを生み出すものが存在しないからである。実に、[すでに存在している]虚空が生ずることはないのである。また、[生ずるものが]存在しない場合にも、[儀軌の対象は生ずるものではない]。何故なら、虚空に浮かんだ花のような非存在に対して、儀軌が適用されることはないからである。従って、儀軌の対象は、[動作や心の動きを]引き起こすもの(prayojaka)、すなわち、生じさせる者(bhavayitr) の心の働き(vyāpāra)であり、その心の働きは、生むもの(bhavanā)、すなわち引き 起こされる心の動きや動作から暗に知られるのである。そしてこの心の働きが、志向 (bhāvanā)、意欲(krti)、努力(prayatna)なのである749。そして、これ(心の働き) は、その対象が存在しなければ認識できないので、その対象が必要である。そのとき、「アーグネーヤ祭」(āgneya,文字通りには火の神アグニに関係するもの、すなわち捧げ られるものという意味)という言葉から思い起こされる、実体(供物)と祭神との関係 こそが、これ(心の働き)の対象となるのである。[従って、儀軌の対象は供物と祭神 との関係なのである]。
  [答論]人間の努力の対象は働き(vyāpāra)であるのに、働きではない関係がどうして人間の努力の対象となろうか。何故なら、「壷を作れ」という場合も、人間の努力は、名詞が表現している壷を直接に対象としているのではなくて、[壷を作るのに用いる]棒などを手などで動かすのである。従って、壷を作ろうという意欲は、[手などで棒などを動かすという]働きこそを対象としているのだと理解されるのであって、直接に壷を対象としているのではないのである。すなわち壼は、[「壷を作れ」という文章が命じているもの(すなわち手などの働き)と関係するもの(uddeśya)として、 それ(壷を作ろうという意欲)のなかに存在しているのであって、[この文章が命じている]対象としてではないのである750。[「壷を作れ」という文章が命じている]対象としては、手などの働きだけが存在しているのである。従って、「アーグネーヤ祭は」 というこの場合にも、儀軌が命じている内容は、行わなければならないこと、すなわ ち、実体(供物)と祭神との関係から暗に知られる供犠という行為なのである。では、「アーグネーヤ祭が...である(行われるべきである)」というのは、どういう意味なの だろうか。「アーグネーヤという供犠によって[好ましい事柄すなわち天界を]生ずるべきである」という意味なのである。従って、「このように知る者は、プールナマーサ 祭を行うべきである」とか、「このように知る者は、ダルシャ祭を行うべきである」と いうのは、「アーグネーヤ祭は云々」等の儀軌がすでに命じた六種の供犠に再び言及しているのである。そしてまさに同じ理由で、すでに儀軌によって命じられた(アーグネーヤ祭)に再び言及しているそれ(「このように知る者はプールナマーサ祭を行うべ きである」 「このように知る者はダルシャ祭を行うべきである」)が、「天界を望む者はダルシャプールナマーサ祭によって供犠を行うべきである」という[儀軌に述べられている]執行資格と結び付くのである751。従って儀軌は、どんな場合でも必ず、意欲を媒介として、生ずるもの(活動)を対象としている(命じている)のである752。
(´・(ェ)・`)つ

784避難民のマジレスさん:2022/12/15(木) 02:47:35 ID:CejTC7aE0
脚注
(くま注);かわらけ;日本の中世から近世にかけて製作・使用された素焼きの土器。その中でも特に碗・皿形の器種を指す語である。古墳時代以来の土師器の系統に連なるため、土師質土器や中世土師器などとも呼ばれる。
748この儀軌は、祭神と供物との関係を述べているのだとする反対主張者の見解によれば、「アグニ神に捧げられた」という語によって祭神アグニが示され、「八つのかわらけに盛られた〔祭餅]」という語が供物を示しているのだとされる。それに対して、答論者によれば、この儀軌が命じている内容は、祭神と供物との関係から暗に知られる供犠という行為が命じられているのだとされるのである。
749「生み出すもの」と「生むもの」 (志向)と「生み出されるもの」の関係に関しては、脚注507参照。
750「関係するもの」とは、「命じられるべきもの」がそれを命ずる儀軌以外の認識根拠によって知られていないものであるのに対して、すでに他の認識根拠によって知られているもので あり、それが「命じられるべきもの」と関係するものとして述べられているような場合にこう呼ばれるのである。すなわちここでは、「壷を作れ」という文章によって「命じられるべきもの」(文章の命じている対象)は、手の動きであり、壼についてはすでに直接知覚等の他の認識根拠によってに知られているので、この壺は「命じられるべきもの」(手などの動き)と関係するものとして述べられているのである。
751Darśapūrnamāsa祭は、新月の日に行われるDarśa祭(新月祭)と満月の日に行われるPūrnamāsa祭(満月祭)からなる。そしてさらにDarśa祭は、Āgeneya祭、Agnīsomīya祭、Upāmśu祭の三種から なり、Pūrnamāsa祭は、Āgeneya祭、Aindram dadhi祭、Āindram payas祭の三種からなる。そして これらの六種の祭式の総体がDarśapūrnamāsa祭だとされるのである。これらの六種の祭のうち、Darśa祭とPūrnamāsa祭のĀgeneya祭に関しては、「八つのかわらけに盛った[祭餅]を[火の神アグニに]捧げるアーグネーヤ祭は、新月と満月の日に決まっているのである」という儀軌によって、執行すべきことが 命じられており、その他の四種の祭式に関しても、それぞれ執行すべきことを命ずる儀軌(根本儀軌)が存在している。従って、「このように知る者は、プールナマーサ祭を行うべきである」という文章は、満月の日に行われるアーグネーヤ等の三種の祭式に再度言及しており、「このように知る者は、ダルシャ祭を行うべきである」という文章は、新月の日に行われるĀgneya祭等の三種の祭式に再度言及しているのである。 このように、これらの二つの文章は、結局はDarśapūrnamāsa祭に再言及していることになるので、「天界を望む者はダルシャプールナマーサ祭によって供犠を行うべきである」というDarśapūrnamāsa祭の執行資格(天界を望む者であること)とも結びついてゆくのである。
752このように儀軌は常に、生ずるもの(活動、行為、祭式)を命ずるところに集約されていくので、「ど んな場合でも必ず、意欲を媒介として、生ずるもの(活動)を対象としているのである」。
(´・(ェ)・`)つ

785鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/15(木) 23:51:04 ID:awZraiYk0
 以上の理由で『八つのかわらけに盛られた餅を捧げるアーグネーヤ祭は、新月の日と満月の日に決まっているのである』という場合にこの儀軌は、関係を対象としているという主張も退けられたことになるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 儀軌の対象は生ずるものではないというのじゃ。
 何故なら、生ずるもの,生み出されるものがすでに存在しているとすると、そのすでに存在の確立している生ずるものには、それを生み出すものが存在しないからなのじゃ。
 虚空が生ずることはないように。

 また生ずるものが存在しない場合にもそうなのじゃ。
 何故なら、虚空に浮かんだ花のような非存在に対して、儀軌が適用されることはないからなのじゃ。

 従って、儀軌の対象は引き起こすもの、すなわち、生じさせる者の心の働きであり、その心の働きは、生むもの、すなわち引き起こされる心の動きや動作から暗に知られるのじゃ。
 そしてこの心の働きが、志向、意欲、努力なのじゃ。
 そして、これらは、その対象が存在しなければ認識できないので、その対象が必要なのじゃ。
 そのとき、「アーグネーヤ祭」という言葉から思い起こされる、実体と祭神との関係こそが、これの対象となるのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 人間の努力の対象は働きであるから、働きではない関係が人間の努力の対象となることはないのじゃ。
 何故なら、「壷を作れ」という場合も、人間の努力は壷を直接に対象としているのではなく、棒などを手などで動かすことなのじゃ。
 従って、壷を作ろうという意欲は働きこそを対象としているのだと理解されるのであり、直接に壷を対象としているのではないのじゃ。
 すなわち壼は「壷を作れ」という文章が命じているものと関係するものとして、 それのなかに存在しているのであって対象としてではないのじゃ。
 「壷を作れ」という文章が命じている対象としては、手などの働きだけが存在しているのじゃ。

 従って、「アーグネーヤ祭は」 というこの場合にも、儀軌が命じている内容は、行わなければならないこと、すなわち、実体と祭神との関係から暗に知られる供犠という行為なのじゃ。
 アーグネーヤという供犠によって好ましい事柄、すなわち天界を生ずるべきである」という意味なのじゃ。
 従って、「このように知る者は、プールナマーサ祭を行うべきである」とか、「このように知る者は、ダルシャ祭を行うべきである」というのは、「アーグネーヤ祭は云々」等の儀軌がすでに命じた六種の供犠に再び言及しているのじゃ。

 そしてまさに同じ理由で、すでに儀軌によって命じられた(アーグネーヤ祭)に再び言及しているそれが、「天界を望む者はダルシャプールナマーサ祭によって供犠を行うべきである」という執行資格と結び付くのじゃ。
 従って儀軌は、どんな場合でも必ず、意欲を媒介として、生ずるもの、活動を対象としているのじゃ。

786避難民のマジレスさん:2022/12/16(金) 07:25:00 ID:qwUhXL3Y0
6.2.2.禁令は行為を命じない  p435-437 219右/229

  とすれば、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」という[儀軌の]場合にも、 もし行わなければならないことが存在すると認められれば、それ(行わなければならな いこと)の存在する領域を包み込んでいる(vyāpaka)意欲も存在すると認められることになろう。そして、それ(意欲)の存在する領域を包み込んでいる生ずるもの(活動)が、[これらの儀軌の]対象であることになろう。また同じように、プラジャーパティの誓いという原則に従えば、これらの儀軌は、定立否定(Paryudāsa)753の働きにより、殺さないあるいは飲まないという決意を間接的に表示する(laksanā)するので、それ (決意)を対象としていることになろう。とすれば、非定立否定(prasajyapratiseda) 754が放棄されるという理論的欠陥に陥ることになる。すなわち、[非定立否定による直接表示の]可能性がある場合には、[定立否定による]間接表示は正しくないのである。 ただし、「昇りつつある太陽を見るべきではない」等の場合には、[その儀軌が]「彼の誓いは」で始まっているので、非定立否定は不可能であり、そのため、定立否定の働きにより、見ないと決意することを間接的に表示する、というのは正しいのである。従って、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の非定立否定の場合には、生ず るもの(活動)が存在しないから、それ(生ずるもの)の存在する領域のなかに包み込まれている(vyāpta)意欲も存在しない。そして、それ(意欲)が存在しないときに は、それ(意欲)の存在する領域のなかに包み込まれている行わなければならないことも存在しない。それ故、あらゆる文章が行わなければならないことを表現しているというような決まりはないのである。だから[師シャンカラは、次のように]言っている。「バラモンは殺すべきではない」等の云々と。
  [反対主張]活動の停止それ自体あるいはそれ(活動の停止)の手段は、何故、行わなければならないことではないのか。
  [答論]だから[師シャンカラが、次のように]答えているのである。そしてそれ (活動の停止)は行為ではない云々と。[ここで]「行為」という言葉は、「行わなければならないこと」を表しているのである。[そして]同じこのこと(活動の停止は行為で はないということ)を、[師シャンカラが次のように]詳しく説明している。[もし]、 行為(祭式)を目的としない云々と。
  [反対主張]命令の意味を表す人称語尾を耳にすると、そこですぐに、行わなければならないことが認識される。そしてそれ(行わなければならないこと)は、生ずるもの (活動)が存在しなければ存在しないのである。また、食欲のせいで殺害や飲酒に手を染めた人の場合には、やめようという努力もしないで偶然に、[殺害や飲酒に対して]無関心な状態が生まれてくるなとということはない。従って、活動しようとしている心や言語器官や身体が[その活動を]やめようと努力すること、それこそが禁止を命ずる儀軌の対象となっている行為なのである。それ故、行為を表さない文章はなんら存 在しないのである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えて いるのである。否定詞nañは、「殺す」という行為の停止という、[行為に対して]無関心な状態は言うに及ばず、[貪欲から自然には]生じない行為(すなわちやめようという努力)[を命ずる]ためのものだとも考えることはできないのである755と。

脚注
753 脚注733参照。
754 脚注733参照。
755この箇所は、『註解』本文の訳文とは異なるが、以下の『バーマティー』の説明へと繋げていく都合上、『バーマティー』にあわせて訳しておいた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

787鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/17(土) 00:16:04 ID:3.U9QtD60
 とすれば「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」という儀軌の場合も、 もし行わなければならないことが存在すると認められれば、その存在する領域を包み込んでいる意欲も存在すると認められることになるというのじゃ。
 意欲の存在する領域を包み込んでいる生ずるもの(活動)が、これらの儀軌の対象であることになるじゃろう。
 また同じように、プラジャーパティの誓いという原則に従えば、これらの儀軌は、定立否定の働きにより、殺さないあるいは飲まないという決意を間接的に表示するするので、決意を対象としていることになるのじゃ。
 とすれば、非定立否定が放棄されるという理論的欠陥に陥ることになるのじゃ。

 非定立否定による直接表示の可能性がある場合には、定立否定による間接表示は正しくないのじゃ。

 ただし、「昇りつつある太陽を見るべきではない」等の場合には「彼の誓いは」で始まっているので、非定立否定は不可能であり、そのため定立否定の働きにより見ないと決意することを間接的に表示する、というのは正しいのじゃ。
 
 従って、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の非定立否定の場合には、生ずるものが存在しないから、それの存在する領域のなかに包み込まれている意欲も存在しないのじゃ。
 そして、意欲が存在しないときに は、その存在する領域のなかに包み込まれている行わなければならないことも存在しないのじゃ。
 それ故、あらゆる文章が行わなければならないことを表現しているというような決まりはないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 活動の停止それ自体あるいはその手段は、何故、行わなければならないことではないのかと聞くのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラが活動の停止は行為ではない云々と答えているのじゃ。
 「行為」という言葉は、「行わなければならないこと」を表しているのであるからなのじゃ。 

 反対なのじゃ。
 命令の意味を表す人称語尾を耳にすると、そこですぐに、行わなければならないことが認識されるじゃろう。
 そしてそれは、生ずるものが存在しなければ存在しないのじゃ。
 また、食欲のせいで殺害や飲酒に手を染めた人の場合、やめようという努力もしないで偶然に、無関心な状態が生まれてくるなとということはないのじゃ。
 従って、活動しようとしている心や言語器官や身体がやめようと努力すること、それこそが禁止を命ずる儀軌の対象となっている行為なのじゃ。
 それ故、行為を表さない文章はなんら存在しないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは否定詞は「殺す」という行為の停止という、無関心な状態は言うに及ばず、生じない行為のためのものだとも考えることはできないのであると言ったのじゃ。。

788避難民のマジレスさん:2022/12/17(土) 03:51:34 ID:SfjsdjQI0
(つづき)   p437-438
  [反対主張]どういう理由でできないのか。
  [答論]だから[師シャンカラが]、否定詞nañは、[貪欲から]自然に生ずる殺すことと結び付いているのでと答えているのである。その趣旨は以下の通りである。命令の意味を表す接尾辞は、殺害や飲酒を表す語とともに認識されたときには、それら (殺害や飲酒)を命じている。これが一般規則である。だが、それら(殺害や飲酒)を命ずることは不可能である。何故なら、[それらは]貪欲から生じたものだからである。 また、否定詞nañが非定立否定を命じているということもない。何故なら、無関心な 状態を本質とするそれ(非定立否定)は、[存在が生ずる以前の非存在(prāgabhāva) という形で]756すでに存在しているので、すでに成立しているからである。また、[否定詞nañが命じているのは]やめようという努力でもない。何故なら、それ(やめようという努力)は、直接表示されていないので、間接に表示されていることになるが、 [直接表示の]可能性がある場合には、間接表示は正しくないからである。さらに、命 令の意味を表す人称語尾が、貪欲から生じた活動に再言及しているので、[やめようという努力が]儀軌(命令)の対象となるのは不適当だからである。従って、[命令の意味を表す人称語尾が]、「飲むべきである」とか「殺すべきである」という[儀軌]に再び言及したのち、[否定詞nañが]「それは[するべきでは]ない」と禁止しているのである。すなわち、[否定詞nañは]、それ(殺害や飲酒)が存在しないことを認識させはするが、否定詞nañの表す対象を命じているわけではないのである。そして非存在は、自己と対立する存在によって限定されているので、存在の影を宿している。そ のため、[存在が]すでに存在する場合には、[非存在も]すでに存在するかのように見え、また、[存在が]これから実現しなければならないものであれば、[非存在も]これから実現しなければならないものであるかのように見えるのである。従って、否定詞 nañの表す対象(非存在)は、これから実現しなければならない存在との関係で、これから実現しなければならないもののように見えるのである。それ故、否定詞nañの 表す対象が行わなければならないことであるというのは、錯誤なのである。まさにこのことを、[師シャンカラは次のように]述べているのである。この否定詞nañの本来の性質は云々と。
  [反対主張]否定詞nañは、それと関係づけられているもの(たとえば殺害や飲酒) が存在しないことを認識させるのだ、としておこう。だが、活動しようとしている心や言語器官や身体が、どうして、原因もないのにその活動を停止したりしようか。

脚注
756
(´・(ェ)・`)
(つづく)

789鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/18(日) 00:14:04 ID:ew2h/pV60
 反対なのじゃ。
 なぜ出来ないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 命令の意味を表す接尾辞は、殺害や飲酒を表す語とともに認識されたときには、それらを命じているのじゃ。
 これが一般規則であるなのじゃ。
 
 だが、それらを命ずることは不可能なのじゃ。
 何故なら貪欲から生じたものだからなのじゃ。
 命令によって行ったものではないからだというのじゃ。

 否定詞が非定立否定を命じているということもないのじゃ。
 何故なら、無関心な 状態を本質とするそれ非定立否定は、存在が生ずる以前の非存在という形ですでに存在しているので、すでに成立しているからだというのじゃ。

 また否定詞が命じているのはやめようという努力でもないというのじゃ。
 何故なら、それは直接表示されていないので、間接に表示されていることになるが、直接表示の可能性がある場合には、間接表示は正しくないからなのじゃ。

 さらに、命令の意味を表す人称語尾が、貪欲から生じた活動に再言及しているので儀軌の対象となるのは不適当なのじゃ。
 従って「飲むべきである」とか「殺すべきである」という儀軌に再び言及したのち、否定詞がそれはするべきではないと禁止していることになるのじゃ。
 すなわち否定詞は、それが存在しないことを認識させはするが、否定詞の表す対象を命じているわけではないのじゃ。
 
 そして非存在は自己と対立する存在によって限定されているので、存在の影を宿しているのじゃ。
 非存在は潜在的に存在するものを示しているというのじゃ。
 そ のためあるものごとがすでに存在する場合には、非存在もすでに存在するかのように見え、また、存在がこれから実現しなければならないものであれば、非存在もこれから実現しなければならないものであるかのように見えるだけなのじゃ。

 従って否定詞の表す対象は、これから実現しなければならない存在との関係で、これから実現しなければならないもののように見えるだけなのじゃ。
 そうであるから否定詞の表す対象が行わなければならないことであるというのは、錯誤なのであるとシャンカラは言っているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 否定詞はそれと関係づけられているものが存在しないことを認識させるのだ、としても活動しようとしている心や言語器官や身体が原因もないのにその活動を停止したりしないというのじゃ。

790避難民のマジレスさん:2022/12/18(日) 01:04:22 ID:uToyqa4E0
(つづき)   p438-439
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。そして、存在しないという認識は無関心な状態を保持する原因なのであると。その趣旨は以下の通りである。「熱のあるときには体に良いものを食べるべきである」とか「蛇に手を出すべきではない」等の言葉を聞くとすぐに、そう命じられた年長者が、体に良いものを食べ始め、また蛇に手を出そうとしていればそれをやめるのを見て、学習意欲のある子供は、命じられた年長者が活動を始めたり停止したりする原 因、すなわち欲求と嫌悪の情を推論するのである。さらに詳しく説明すれば次の通りである。年長者が活動を始めたり停止したりする原因は、それぞれ欲求と嫌悪の情で ある。何故なら、われわれが自らに基づいて活動を始めたり停止したりするのと同じように、[年長者も]自らに基づいて活動を始めたり停止したりするからである。そして、彼(年長者)の欲求と嫌悪の情は、望ましいことを実現する手投が存在することと望ましくないことをもたらす手段が存在すること一[それらは]行わなけれぱならないことという性質とともに同一の[動詞語根の]意味に内属している757一についての理解を、それぞれ前提としている。何故なら、[それらは]、われわれが活動を始めたり停止したりする原因となる欲求と嫌悪の情と同じもので、[年長者が]活動を始めたり停止したりする原因となる欲求と嫌悪の情だからである。すなわち、われわれ の場合には、欲求や嫌悪の情は、言葉や言葉の働きや[話し手である]人の意図や[過去・現在・未来の]三時によって限定されていない志向や新得力の認識を前提として生ずるわけでは決してない758。そうではなくて、[われわれの欲求や嫌悪の情は〕、繰り返し繰り返し自己自身を見つめることにより、先に述べた原因759を前提としてのみ現 れてくるのである。従って、年長者が自らに基づいて活動を始めたり停止したりすること、および年長者の様々な欲求と嫌悪の信も、望ましいことを実現する手段が存在することと望ましくないことをもたらす手段が存在すること一ー[それらは]行わなけれぱならないことという性質とともに同一の[動詞語根]の意味に内属しているーーについての理解を前提としているのである。そしてこのような順序で、原因と結果の関係が確立されるのである。従って、[先のように]命じられた年長者は、望ましいことを実現する手段が存在するという理解と望ましくないことをもたらす手段が存在するという理解とに基づいて、活動を始めたり停止したりするのだ、と確定したのである。そしてこの理解は、[言葉を聞く]以前には存在していないが、言葉を聞くとすぐに生じるので、言葉を聞くことがその原因なのである。

脚注
757
758「子供の欲求や嫌悪の情は、新得力を以て終わる言葉についての認識を前提としているわけではない。直接知覚という日常的経験の場合には、それらすべてが存在しないからである。『料理する』等の場合に、志向が認識されても、それが人に活動を開始させるわけではない」。
759「望ましいことを実現する手段が存在することと、望ましくないことをもたらす手段が存在すること 一「それらは」行わなければならないことという性質とともに同一の[動詞語根の]意味に内属している一についての理解」のこと。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

791鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/19(月) 00:25:00 ID:bw2qRRBI0
 答えたのじゃ。
 存在しないという認識は無関心な状態を保持する原因だとシャンカラが言ったというのじゃ。
 年長者が行ったことで、子供は活動を始めたり停止したりする原 因、すなわち欲求と嫌悪の情を推論するというのじゃ。
  
 年長者の欲求と嫌悪の情は、望ましいことを実現する手投が存在することと望ましくないことをもたらす手段が存在することについての理解を、それぞれ前提としているのじゃ。
 われわれの欲求や嫌悪の情は、繰り返し繰り返し自己自身を見つめることにより、先に述べた原因を前提としてのみ現れてくるからなのじゃ。
 このような順序で、原因と結果の関係が確立されるのじゃ。
 そしてこの理解は、言葉を聞く以前には存在していないが、言葉を聞くとすぐに生じるので、言葉を聞くことがその原因と言えるのじゃ。

792避難民のマジレスさん:2022/12/19(月) 01:47:17 ID:PR.wvHKw0
(つづき)    p439-440
  従って、「供犠を行うべきである」等の活動を促す文章の場合には、言葉だけが、行 わなければならないこととしての働き(言葉によって表される志向)と望ましいことを実現する手段としての働き(結果をもたらす志向)とを理解させ、また、それ(働き=志向)が望ましいことを実現する手段(結果をもたらす志向)と行わなければならないこと(言葉によって表される志向)とであることを理解させるのである760。何故なら、それら両者(行わなければならないことと望ましいことを実現する手段)は、 言葉以外からは知られず、言葉以外からは知られないものが言葉の対象(意味)だからである。しかし、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の場合に、殺すことや飲むことという活動は貪欲から生ずるように、行わなけれぱならないこととい う性質がもし[言葉]以外のものから知られるとすると、否定詞nañと結び付いた願望法等の人称語尾は、それ(行わなければならないことという性質)に再言及することによって、この両者が悪の原因であること一[そのことは、否定詞nañと結び付いた願望法の人称語尾]以外からは知られない一だけを理解させるのである。実に、 この両者(殺すことと飲むこと)が望ましいことを実現する手段であるということは、直接に理解されるのである。何故なら、さもなければ貪欲の対象ではありえないからである。従って、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の文章は、貪欲等から知られた行わなければならないことという性質に再言及することによって、[殺す ことや飲むことが]悪をもたらす手段であることを知らせることを目的としているのである。行わなければならないことを目的としている(表示している)のではないのである。それ故、禁令は行わなければならないことを表示するのではないと、すでに はっきりと述べておいたのである761。そして、禁止されていることは悪をもたらす手段であるという認識こそが、禁止されていることが存在しないという認識なのである。 実にその[認識]に基づいて、われわれ精神的存在(殺そうあるいは飲もうとしている人)は、一見魅力的なものの性質を見ても、将来[生ずるであろう結果]762を考えて、活動の非存在すなわち活動の停止に目覚め、活動を停止するのである。すなわち、自らの無関心な状態を確立するのである。
   [反対主張]もし、存在しないという認識が無関心な状態を確立するの原因であれば、[それは]無関心な状態が存在する限り継続するはずであるが、[実際には]継続することはない。何故なら、[ある対象には]無関心な人でも、他の対象にはとても執心している[ので]、それが存在しないという認識をもっていないからである。そして、確立させる原因(存在しないという認識)が存在しないときに、結果(無関心な状態)が確立されるなどということは経験されない。すなわち、柱が倒れても、宮殿が建っているということはないのである。

脚注
760 言葉によって表される志向(依言志向)と結果をもたらす志向(依果志向)については、脚注507参照。
761 本訳436頁参照。
762
(´・(ェ)・`)
(つづく)

793鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/19(月) 23:02:56 ID:DsXGvZOI0
 活動を促す文章の場合には、言葉だけが行わなければならないこととしての働きと望ましいことを実現する手段としての働きをを理解させるというのじゃ。
 さらにそれが望ましいことを実現する手段と行わなければならないこととであることを理解させるのじゃ。
 何故ならばそれら両者は、 言葉以外からは知られず、言葉以外からは知られない言葉の対象だからなのじゃ。

 「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の文章は、貪欲等から知られた行わなければならないことという性質に再言及することによって、それらが悪をもたらす手段であることを知らせることを目的としているのじゃ。
 行わなければならないことを目的としているのではないのじゃ。
 禁令は行うことではないというのじゃ。

 禁止されていることは悪をもたらす手段であるという認識こそが、禁止されていることが存在しないという認識だというのじゃ。
 、禁止されていることは悪をもたらす手段であるという認識こそが、禁止されていることが存在しないという認識なのじゃ。
 実にその認識に基づいて、われわれ精神的存在は、一見魅力的なものの性質を見ても、将来を考えて、活動の非存在すなわち活動の停止に目覚め、活動を停止するのじゃ。
 すなわち、自らの無関心な状態を確立するのじゃ。

 反対なのじゃ。
 もし、存在しないという認識が無関心な状態を確立するの原因であれば、無関心な状態が存在する限り継続するはずであるが、継続することはないというのじゃ。
 何故ならばある対象には無関心な人でも、他の対象にはとても執心しているからそれが存在しないという認識をもっていないのじゃ。
 そして、確立させる原因が存在しないとき、結果が確立されるなどということはないというのじゃ。

794避難民のマジレスさん:2022/12/20(火) 00:03:02 ID:bIYX4EK60
(つづき)   p440-441 
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。さらにそれ(存在しないという認識)は、燃えてしまった薪の火のように、自ら消え去ってゆくのであると。実にまずこの人(殺そうあるいは飲もうとし ている人)は、これ(殺害や飲酒)が悪の原因であることを理解しない間は、[それら の]活動をしようとする。[だが]、これ(殺害や飲酒)が悪の原因であるという理解は、[その]活動を根こそぎ根絶やしにし、[そののち]燃えた薪の火のように消え去ってゆくのである。すなわち、その趣旨は以下の通りである。存在しないという認識が無関心な状態を確立する原因であるというのは、柱が宮殿を確立する(建てる)原因であるというのと同じではない。そうではなくて、非本来的な滅びる原因から護るという形で、確立する原因となるのである763。それはちょうど、亀の甲羅のように囲い鎧が、武器による攻撃を防ぐことによって、戦士の命を護る(確立する)原因となるようなものである。しかし、鎧がなくても、武器による攻撃がなければ、戦士の命が失われることはないのである。[そして師シャンカラは、次のように]結論づけている。従っ て、[「バラモンは殺すべきではない」等の場合には、プラジャーパティに対する誓い 等の場合とは異り]、積極的な活動を停止することという、[積極的な行為に対して] 無関心な状態こそが、[その否定の意味なのである、とわれわれは考えている]と。 すなわち、[悪の原因であるとは]知らなくても、無関心な状態は存在するので、それは、積極的な行為を停止することという偶然的な特性(upalakasana)によって特徴づけられているのである764。
   [反対主張]では、[ウパニシャッドの諸聖典旬は]行為を目的としないから無意味なのではないかと疑い、[それらが]行為を目的とすることを明らかにしていたジャイミニの見解は、全くの誤りなのであろうか。
  [答論][このような疑問を師シャンカラは]、結論という形で[次のように]退けているのである。それ故、「行為(祭式)を目的としない諸聖典句は無意味である」という[『ミーマーンサー・スートラ』の言明は]]、人間の目的に云々と。

脚注
763「実に、存在しないという認識が無始の無関心な状態(すなわち本来のアートマンの状態)を確立する原因なのではない(もしそうなら、存在しないという認識が存在しないときには、原因が存在しないわけだから、無関心な状態も存在しないであろうが)。そうではなくて、隙関心な状態を]否定するものを取り除くものなのである」。従って、存在しないという認識は、アートマ ンの本来的な状態である無関心な状態を覆い隠すようなアートマンの無関心な状態にとっては非本来的な ものから、無関心な状態という本来的な状態を護るという形で、無関心な状態を確立する原因となっているのである。
764 ものの特性には、本来的な特性、添性、偶然的な特性の三種が あるとされる。そのうち、ものの本来的な特性とは、ものに内属する本来的な特性で、たとえば、青い蓮 の青さという特性などがそうである。他の二つは、ものの非本来的な特性であるが、そのうち添性は、そのものに内属してはいないが、そのものが存在する限り認められるような特性で、たとえば、赤い水晶の赤さ(水晶は本来透明であるから、この赤さは水晶に内属してはいないが、水晶から分離することはできない)のようなものである。一方、ものの偶然的な特性とは、そのものから分離可能な特性のことで、たとえば、家に止まっている鳥(この鳥は、その家を他の家から区別しているという意味で、家の特性だと考えられるが、家に内属しているわけでも家が存在する限り存在しているわけでもない)のようなもので ある。
(´・(ェ)・`)つ

795鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/20(火) 23:22:56 ID:xvjJNvjE0
 答えたのじゃ。
 シャンカラは存在しないという認識)は、燃えてしまった薪の火のように、自ら消え去ってゆくと言ったのじゃ。
 殺害や飲酒が悪の原因であることを理解しない間は、それらをしようとするが、理解すれば消えるのじゃ。
 
 存在しないという認識が無関心な状態を確立する原因であるというのは非本来的な滅びる原因から護るという形で、確立する原因となるというのじゃ。
 
 積極的な活動を停止することという無関心な状態こそが、その否定の意味なのである、とわれわれは考えていると言うのじゃ。
 悪の原因であるとは知らなくても、無関心な状態は存在するので、それは積極的な行為を停止することという偶然的な特性によって特徴づけられているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ではウパニシャッドの諸聖典句は行為を目的とする、とを明らかにしていたジャイミニの見解は、全くの誤りなのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは行為、祭式を目的としない諸聖典句は無意味である」という『ミーマーンサー・スートラ』の言明は祭事部にのみ適用されると言ったのじゃ。




 この章では昔から言われていた、行為、祭式を目的としない諸聖典句は無意味である」という言葉が祭事部にのみ適用されるものであり、ブラフマンを説いた聖典句には適用されないと明かしたのじゃ。
 ブラフマンは唯一存在するものであり、全てであるから何かをすること、として説かれてはいないのじゃ。
 それでは前述の反対の見解と矛盾するから、それを論破したのじゃ。

796避難民のマジレスさん:2022/12/21(水) 02:24:17 ID:6LMfD5tA0
7.ウパニシャッドがすでに存在する事物(ブラフマン=アートマン)について教示していることの意義  222右/229

7.1.身体等をアートマンだとすると思い込みが取り除かれる p441-442

  [反対主張]行わなければならないことと無関係に、単独で事物についてだけ述べるのは無意味であろう。たとえば、「大地は七州からなる」等[と述べる]場合のように765。
  [答論][先にこのような反対主張が]述べられていたが、それはすでに論破されている。何故なら、「これは縄である。これは蛇ではない」という場合には、単独で事物について述べていても、[誤った認識やそれから生ずる恐怖を取り除くという]目的(意味)が認められるからである。
   [反対主張]ブラフマンについて聞いても、それ以前と同じように輪廻していることが経験されるので、[単独でブラフマンという事物についてだけ述べている箇所は]無意味である。このことはすでに述べた通りである766
   [答論]これ(反対主張)に対して[次のように]答える。ブラフマンがアートマンであると悟った者が、それ以前と同じように輪廻しているなどということを示すことはできない。何故なら、ヴェーダという正しい認識根拠から生じた事実、すなわち、ブラフマンがアートマンであるという事実に反するからである。確がに、身体等をアートマンだと思い込んでいる人には、苦しみや恐れと等が存在すると認められる。しかしだからといって、その同じ人 に、ヴェ一ダという正しい認識根拠からブラフマンがアートマンであるという悟りが生じて、その(身体等をアートマンだとする)思い込みがなくなって [も]、誤った知識に基づく苦しみや恐れ等存在すると考えることはできない。 確かに、財産のある家長であって、財産を誇っている人には、財産が失われることから生ずる苦しみが認められる。しかしだからといって、その同じ人が、 出家して、財産を誇る気持ちを捨てて[も]、財産を失うことから生ずる苦しみが存在するなどと考えることはできないのである。また、イヤリングをつけている人には、イヤリングをつけているのだという誇らしい気持ちから生 ずる楽しみが存在すると認められる。しかしだからといって、その同じ人が、イヤリングを捨て、イヤリングをしているという誇らしい気持ちをもたなくなって[も]、イヤリングをつけていることを誇る気持ちから生ずる楽しみが存在するなどということはないのである。このことが[天啓聖典句に]「実に 身体がなければ好悪に影響されることはない」767と述べられているのである。
   [反対主張]身体が滅すれば(すなわち死ねば)、身体のない状態となるであろうが、生きている者が[そのような状態になることは]ないであろう。
  [答論]そうではない。何故なら、身体があるという状態は、誤った知識に基づいているからである。というのは、身体をアートマンだと思い込むことをその特徴とする誤った知識とは別に、それ以外のものに基づいて、アートマンが身体をもつと考えることはできないからである。すでにわれわれが述べたように768、[アートマンは]行為に基づがないので、常に身体をもたないのである。

脚注
765 本訳380-381頁参照。
766 本訳380-381頁参照
767
768 本訳382-384頁参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

797避難民のマジレスさん:2022/12/21(水) 12:46:54 ID:dO0Uw3z20
6/22に始めました『バーマティー』は、あと10回で年内に完結する予定であります。
次の講読会では、『荘子』を取り上げようと思うのでありますが、鬼和尚、いかがでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

798鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/21(水) 23:39:44 ID:CymlWYU60
>>797 よいことじゃ。
 どんどんやるとよいのじゃ。

799鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/21(水) 23:48:15 ID:CymlWYU60
反対なのじゃ。
 行わなければならないことと無関係に、単独で事物についてだけ述べるのは無意味ではないかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 誤った認識やそれから生ずる恐怖を取り除くという目的があり、意味が認められるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンについて聞いても、それ以前と同じように輪廻していることが経験されるので無意味であるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンがアートマンであると悟った者が、それ以前と同じように輪廻しているなどということはないというのじゃ。
 何故なら、ヴェーダという正しい認識根拠から生じた事実、すなわち、ブラフマンがアートマンであるという事実に反するからなのじゃ。
 
 身体等をアートマンだと思い込んでいる人には、苦しみや恐れと等が存在するが、ヴェ一ダという正しい認識根拠からブラフマンがアートマンであるという悟りが生じればそれはないのじゃ。
 天啓聖典句にも「実に 身体がなければ好悪に影響されることはない」と述べられているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 身体が滅すれば身体のない状態となるであろうが、生きている者がそのような状態になることはないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体があるという状態は、誤った知識に基づいているから、それは間違いだというのじゃ。
 身体をアートマンだと思い込むことは誤った知識なのじゃ。
 アートマンは行為に基づがないので、常に身体をもたないのじゃ。

800避難民のマジレスさん:2022/12/22(木) 00:12:27 ID:5lp/F30k0
(つづき)   p442-444
   [反対主張][アートマンは]、それ(自ら)が行ったダルマと非ダルマに基づいて身体をもつのである。
  [答論]そうではない。何故なら、(1)身体と[アートマンと]の関係が確立していないので、ダルマと非ダルマがアートマンによって行われるということも確立していないからである。(2)さらに、[このような困難を克服しようとして、アートマンと身体との関係は、ダルマと非ダルマがアートマンによって行われることに基づくのだ考えると]、[アートマンと]身体との関係と ダルマ・非ダルマがそれ(アートマン)によって行われることとが、相互に依存し合うという理論的誤謬に陥ることになる769。従って、[両者の関係は無始 であるとする]このような想定は、盲人の行列のようなもので770、[あてにならないのである]。(3)そしてさらに、アートマンは、行為と内属関係にないので、行為者たりえないからなのである。
   [反対主張]王などは、単に近くにいるだけで、[他の人を動かして]行為者となることが経験されるではないか。
   [答論]そうではない。何故なら、彼ら(王など)は、財産を与えること等 によって雇った召使と関係しているから、行為者たりうるからである。しかしアートマンの場合には、財産を与えること等のような、召使(身体等)と主人(アートマン)との関係[を生ずる]原因をなんら考えることができない。 [身体とアートマンとを]関係づける明らかな原因は、[身体等をアートマンだとする]誤った思い込みなのである。
  以上で、アートマンが祭式の執行者とされる事情を説明し終わったのである771。

  ウパニシャッドに説かれているアートマンを知ることは人間の目的ではないと考える人が、[次のように]述べていた。
   [反対主張]行わなければならないことと無関係に云々と。
   [答論]それに対して[師シャンカラは]、その意図を隠して、先にすでに述べた論駁を、[われわれに次のように]思いださせるのである。[先にこのような反対主張が]述べられていたが、それはすでに論破されていると。
  それに対して反対主張者は、自らすでに述べたことを、[われわれに次のように]思い起こさせるのである。
  [反対主張]ブラフマンについて聞いても云々と。
  [そこで]答論者(シャンカラ)は、隠していた意図を[次のように]明らかにするのである。

脚注
769 論理学上の誤りの一つで、論証すべき事柄とその論拠が、前者が成り立ってはじめて後者で成り立ち、 後者が成り立ってはじめて前者が成り立つというような形で、相互に依存しあっていることを言う。
770
771 アートマンは、自己が身体と結び付いていると誤って思い込んでいる限りにおいて、祭式の執行者であるのであり、このような思い込みはブラフマンの知識によって取り除かれるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

801鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/22(木) 23:21:19 ID:ctleNbDI0
反対なのじゃ。
 アートマンはそれが行ったダルマと非ダルマに基づいて身体をもつというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体とアートマンとの関係が確立していないので、ダルマと非ダルマがアートマンによって行われるということも確立していないから違うというのじゃ。
 さらにアートマンと身体との関係と ダルマ・非ダルマがそれによって行われることとが、相互に依存し合うという理論的誤謬に陥るのじゃ。
 またアートマンは、行為と内属関係にないので、行為者たりえないから違うのじゃ。

 反対なのじゃ。
 王などは、単に近くにいるだけで、他の人を動かして行為者となることもあるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 王など)は、財産を与えること等によって雇った召使と関係しているから、行為者たりうるから違うのじゃ。
 アートマンには主従関係はないのじゃ。
 アートマンが身体の主人と考えるのは間違いなのじゃ。

 
 アートマンが身体の主人であり、身体を動かしているとか考えるのは間違いだというのじゃ。
 アートマンは観照者であるから、身体等の活動には関与しないのじゃ。

802避難民のマジレスさん:2022/12/22(木) 23:41:50 ID:mZKLGTVs0
(つづき)   p444
   [答論]これ(反対主張)に対して[次のように]答える。ブラフマンがアートマンであると悟った者が、[それ以前と同じように輪廻しているなどということを示すことはでき]ないと。確かに、単なるブラフマンの知識は、輪廻者であるという性質を滅する原因ではない。そうではなくて、[ブラフマンの知識が]直証(sāksātkāra)をもって終わることが、[輪廻者であるという性質を滅する原因なのである]。そして、ブラフマンの直証とは、内官の変容の一種であり、聴聞・思惟等から生ずる潜在印象に助けられて心(manas)に生ずるのである。それはちょうど、音楽理論の書を繰り返し聴聞する(学習する)ことで生じた潜在印象を備えた心に、シャドジャ等の音階を区別できる直観(sāksātkāra)生ずるようなものなのである772。そしてそれ(ブラフマンの直証)は、[われわれが]あらゆる現象という大魔術を直接に知覚しているの(sāksātkāra)を根絶し、そして自らも、現象であることには変わりがないので、根絶やしになってゆくのである。こめことは先に説明した通りである773。従って、この場合(ブラフマンについて述べる場合)にも、縄の本質について述べるのと同じで[意味が]あるのだ、 と確定した。ただしこの場合(ブラフマンについて述べる場合)には、ヴェーダという正しい認識根拠に基づいているので、[師シャンカラが]ヴェーダという正しい認識根拠から生じたと言っているのである。[さらに師シャンカラは]、このことに関して、 楽しみや苦しみが生じないという区別に応じて、[次のような]二つの例を挙げている。 確かに、財産のある云々と。[そしてさらに、師シャンカラは]このことに関して、[次 のような]天啓聖典句を引用しているのである。 「実に身体がなければ云々」と。
   [反対主張]身体が滅すれば云々。
  [答論]そうではない。何故なら、身体があるという状態は云々。もし、身体があるという状態が実在であれば、生きている者がそれ(身体のある状態)を滅することは ないであろう。だがそれ(身体のある状態)は、誤った知識に基づいているのである。 それ(身体のある状態)は、真理の知識が生ずれば、生きている者でも滅することがで きるのである。また、身体のない状態は、この者(身体のある者)の本質なので、滅することはできない。何故なら、本質を破壊すると存在が滅するという理論的誤りに陥るからである。だから、[師シャンカラが、すでにわれわれが述べたように、アートマンは行為に基づかないので]常に身体をもたないのであると述べているのである。

脚注
772 本訳288頁および脚注258参照。
773 本訳289頁以下参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

803鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/24(土) 00:27:29 ID:xTS7dFUc0
 答えたのじゃ。
 単なるブラフマンの知識は、輪廻者であるという性質を滅する原因にはならないが、ブラフマンを直証すれば輪廻者であるという性質を滅する原因になるのじゃ。
 そして、ブラフマンの直証とは、内官の変容の一種であり、聴聞・思惟等から生ずる潜在印象に助けられて心に生ずるというのじゃ。


 つまりは悟りを得ることじゃな。

 それはちょうど、音楽理論の書を繰り返し聴聞することで生じた潜在印象を備えた心に、シャドジャ等の音階を区別できる直観生ずるようなものじゃ。
 ブラフマンの直証は、あらゆる現象という大魔術を直接に知覚している幻想を根絶し、そして自らも現象であることには変わりがないので、自我を根絶やしになってゆくのじゃ。
 従って、このブラフマンについて述べる場合にも、意味があると確定したのじゃ。

 ただしそれはヴェーダという正しい認識根拠から生じた直証でなければならないとシャンカラは言ったのじゃ。
 さらにシャンカラはこのことに関して、 楽しみや苦しみが生じないという区別に応じて、財産のある云々とか「実に身体がなければ云々」とかの聖典句を引用しているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 それは身体が滅すれば楽しみや苦しみが生じないという意味ではないか、とか聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 もともと体などはないから違うというのじゃ。
 誤った知識で自分の体があるとか思っているだけだというのじゃ。
 
 自分の身体のあるという謬見は、真理の知識が生ずれば、生きている者でも滅することができるのじゃ。
 体のない状態は、人間の本質なので、滅することはできないのじゃ。
 何故なら、本質を破壊すると存在が滅するという理論的誤りに陥るからなのじゃ。
 そうであるからシャンカラはアートマンは行為に基づかないので、常に身体をもたないのであると述べているのじゃ。

804避難民のマジレスさん:2022/12/24(土) 00:34:40 ID:5uVmpFNs0
(つづき)   p444-445
  [反対主張]身体がある状態は誤った知識に基づくのではない。そうではなくて、ダ ルマと非ダルマに基づくのである。そしてそれ(身体のある状態)は、その原因であるダルマと非ダルマが滅しなければ滅することはない。そして、それ(ダルマと非ダルマ)が滅したときこそが死なのである。従って、生きている者が身体のない状態になることはない。このような疑問を[次のように]提示しているのである。[アートマンは]それ(自ら)が行った云々と。[ここで]それというのは、アートマンのことを言っているのである。
  [答論][このような反対主張を、師シャンカラが次のように]退けている。そうではない。何故なら、身体[アートマンと]の関係が云々と。すなわち、まず、アートマンは、直接にダルマと非ダルマを行うことができないのである。何故なら、それら (ダルマと非ダルマ)は、言語器官や統覚機能や身体の努力から生ずる[ので]、身体 と[アートマンと]の関係が存在しなければ存在しないからである。一方、それら(ダルマと非ダルマ)に基づいて身体と[アートマンとの]関係を[確立]しようとする人 は、明らかに相互依存という欠陥に陥るのである。そのことを[師シャンカラは、次の ように]述べている。[アートマンと]身体との関係と云々と。
  [反対主張]確かに相互依存は存在する。だがそれは欠陥ではない。何故なら[アートマンと身体との関係は]、種子と芽の場合のように、無始だからである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。[両者の関係は無始であるとする]このような想定は、盲人の行列のよ うなもので、[あてにならないのである]と。
  ある人が[次のように]考えている。
  [反対主張]これ(アートマンと身体との関係)が無始であるのは、盲人の行列と同 じではない。実に、ダルマと非ダルマ<A>からアートマンと身体との関係<A>が 生じたとき、同じそれ(アートマンと身体との関係<A>)からダルマと非ダルマ<A>が生ずるのではない。そうではなくて、これ(現在のアートマンと身体との関係< A>の原因であるダルマと非ダルマ<A>)は、それ以前のアートマンと身体との関係 <B>から生じ、[そのアートマンと身体との関係<B>は]それ以前のダルマと非ダ ルマ<B>から生じているのである。一方、この(現在の)アートマンと身体との関係<A>は、ダルマと非ダルマ<A>から生じたのである。
  [答論]それ(このような反対主張)に対して、[師シャンカラは次のように]答え ている。 [そしてさらに、アートマンは]、行為と内属関係にないので云々と。
  [反対主張][王などは]、単に近くにいるだけで云々。
  [答論]そうではない云々。[この箇所で]雇ったというのは、「自分のものにした」 という意味である。しかしアートマンの場合にはそうではないというので、[師シャン カラが次のように]述べているのである。しかしアートマンの場合には... [考えることができないと。
(´・(ェ)・`)つ

805鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/25(日) 00:23:59 ID:rKwd4jgk0
 反対なのじゃ。
 身体がある状態は誤った知識に基づくのではなくて、ダ ルマと非ダルマに基づくというのじゃ。
 身体のある状態は、その原因であるダルマと非ダルマが滅しなければ滅することはないというのじゃ。
 ダルマと非ダルマが滅したときこそが死なのであり、生きている者が身体のない状態になることはないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンは、直接にダルマと非ダルマを行うことができないのじゃ。
 ダルマと非ダルマは、言語器官や統覚機能や身体の努力から生ずるので、身体 との関係が存在しなければ存在しないからなのじゃ。
 ダルマと非ダルマ)に基づいて身体との関係を確立しようとする人 は、明らかに相互依存という欠陥に陥るとシャンカラは言っているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 相互依存は存在がそれは欠陥ではないというのじゃ。
 何故ならばアートマンと身体との関係は、種子と芽の場合のように、無始だからというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 両者の関係は無始であるとするこのような想定は、盲人の行列のよ うなもので、あてにならないのであるとシャンカラは言っているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ダルマと非ダルマからアートマンと身体との関係が 生じたとき、同じそれからダルマと非ダルマが生ずるのではないというのじゃ。
 現在のアートマンと身体との関係の原因であるダルマと非ダルマは、それ以前のアートマンと身体との関係 から生じ、そのアートマンと身体との関係はそれ以前のダルマと非ダ ルマから生じているというのじゃ。
 現在のアートマンと身体との関係は、ダルマと非ダルマから生じたというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはアートマンは、行為と内属関係にないから違うというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 王は行為をしなくともできるからアートマンも行為と内属関係でなくともできるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 王は人を雇ったりするからできるが、アートマンの場合にはそうではないとシャンカラはいうのじゃ。

806避難民のマジレスさん:2022/12/25(日) 00:28:40 ID:AIZjCESs0
7.2.身体等をアートマンだとする思い込みは比喩的なものではな くて言呉りである  p446-447 225左/229

  これに対して[反対張者が次のように]主張する。
   [反対主張]身体とは異なるアートマンが、身体等を自己のものだと思い込んでいるのは、比喩的な意味であり、誤りではないのである。
  [答論]そうではない。何故なら、事物間の違いを良く知っている人が、一 義的な意味と比喩的な意味を[用いるの]だ、というのは周知の事実だからである。すなわち、事物間の違いを良く知っている人、たとえば、一方では、肯定法と否定法によって、たてがみ等のある特定の姿をした[動物]が、「ライオン」という名称と観念の用いられる一義的なものだと良く知っており、[他方では]、それ(ライオン)とは異なる人間が、[ライオンと]共通の性質一 すなわち、残酷さや勇猛さ等一を備えていると良く知っている人の場合には、その人が人間に対して「ライオン」という名称と観念[を用いるの]は比喩的な意味である。だが、事物間の違いを良く知らない人の場合はそうではな い。すなわちその場合には、事物Aに対して名称・観念B[を用いるの]は、 まさに錯誤に基づくのであり、比喩的な意味ではないのである。たとえば、薄暗がりのなかで、「これは柱である」という形ではその特徴が把握されていな いときに、柱に対して「人間」という名称や観念が[用いられ]、またたとえ ば、真珠母貝に対して、「これは銀である」という形で、何の根拠もなく名称 と観念が確定されるが、それと同じように、アートマンと非アートマンとを 識別することなしに、身体等の集合体に対して、「私」という名称と観念が二義的な意味で(nirupacārena)774用いられるとき、[それが]どうして比喩的な意味だと言えようか。アートマンと非アートマンとを識別している学者たちでさえ、山羊飼や羊飼たちと同じように、 [アートマンと非アートマン に関しては]、名称や観念を識別して[用いて]いないのである。従って、身体とは異なるアートマンが存在すると主張する人たちの場合には、身体等に 対して「私」という観念[を用いるの]は誤りであり、比喩的な意味ではないのである。それ故、身体があるという状態は誤った観念に基づいているので、知者は生きていても身体がないのであると確定した775。
  そして同じ趣旨で、ブラフマンに関して[次のような]天啓聖典句がある。「あたかも、蛇の脱穀が脱ぎ捨てられて生命を失い、蟻塚のうえに横たわって いるように、まさしくこの身体は横たわっている。しかし、この身体のない不死の生気は、まさしくブラフマンであり、まさしく光輝なのである」776「眼があるのに眼がないかのようである。耳があるのに耳がないかのようである。言語器官があるのに言語器官がないかのようである。思考器官があるのに思考器官がないかのようである。生気があるのに生気がないかのようである」777と。 さらに聖伝書も、「知恵定まった者はどう描写したらよいのか云々」778と、知恵定まった者の特徴を述べて、知者があらゆる活動と無縁であることを示している。従って、ブラフマンがアートマンであると悟った人が、それ以前と同じように輪廻しているなどということはないのである。だが[逆に]、以前と同じように輪廻している人は、プラフマンがアートマンであると悟っていな いというのは誤りではない。

脚注
774 修辞学およびニヤーヤ・ヴァイシェーシ力学派の用語で、「完全に異なるもの二つの類似性が極めて大きいために〔互いに]異なるのだという認識をただ覆い隠してしまうこと」 「本来的な意味を捨て去ることによって、間接表示機能に基づいて、それ以外の意味を認識する」だとされ、その例として、「座席が泣く」(座席に座っている人が泣くという意味)や「男の人は火である」(男の人が非常に怒っているという意味)が挙げられている。
775これはいわゆる「生前解脱」という考え方を示すものである。
776
777 出典不明。
778
(´・(ェ)・`)
(つづく)

807鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/25(日) 23:36:55 ID:h2xQJFKA0
 反対なのじゃ。
 身体とは異なるアートマンが、身体等を自己のものだと思い込んでいるのは、比喩的な意味であり、誤りではないというのじゃ。


 答えたのじゃ。
 事物間の違いを良く知っている人が、一義的な意味と比喩的な意味を用いるというのは周知の事実だから違うというのじゃ。
 アートマンと非アートマンとを識別することなしに、身体等の集合体に対して、「私」という名称と観念が二義的な意味で用いられることは比喩的な意味ではないのじゃ。
 
 アートマンと非アートマンとを識別している学者たちでさえ、アートマンと非アートマン に関しては、名称や観念を識別して用いていないのじゃ。
 身体とは異なるアートマンが存在すると主張する人たちは、身体等に 対して「私」という観念を用いるのは誤りであり、比喩的な意味ではないのじゃ。
 それ故に、身体があるという状態は誤った観念に基づいているので、知者は生きていても身体がないのであると確定したのじゃ。
 
 それに関して次のような聖典句があるのじゃ。
 「あたかも、蛇の脱穀が脱ぎ捨てられて生命を失い、蟻塚のうえに横たわって いるように、まさしくこの身体は横たわっている。
 しかし、この身体のない不死の生気は、まさしくブラフマンであり、まさしく光輝なのである」

 「眼があるのに眼がないかのようである。耳があるのに耳がないかのようである。言語器官があるのに言語器官がないかのようである。思考器官があるのに思考器官がないかのようである。生気があるのに生気がないかのようである」
 

 さらに聖伝もあるのじゃ。
 「知恵定まった者はどう描写したらよいのか云々」
 知恵定まった者の特徴を述べて、知者があらゆる活動と無縁であることを示しているというのじゃ。
 ブラフマンがアートマンであると悟った人が、それ以前と同じように輪廻しているなどということはないのじゃ。
 以前と同じように輪廻している人は、プラフマンがアートマンであると悟っていな いというのは誤りではないのじゃ。

808避難民のマジレスさん:2022/12/26(月) 00:29:29 ID:QvGBnO/o0
(つづき)   p447-449
  ところである者たちは[次のように]考えている。
  [反対主張]身体等をアートマンだと思い込むのは、誤りではなくて比喩的なもので ある。それはちょうど、若者などをライオンだと思い込む(考える)ようなものなので ある。
  [答論][師シャンカラは]、このような人の考えを、これに対して[反対主張者が次 のように]主張する云々と紹介して、[そののち]批判しているのである。ある人に事 物間の違いが良く知られているとき、その人がこのように(事物問の違いを良く知っ ている人と)言われているのである。そしてこのこと(事物間の違いを良く知ってい る人が、一義的な意味と比喩的な意味を用いるということ)は、附託の章(序論)です でに説明したので779、ここでは説明しないこととする。
  薄暗がりのなかで、ある事物が「これは柱である」という形で人間と区別して把握さ れていないときには、疑問の余地は残しながらも、柱に対して「人間」という名称や観念が[用いられる]。この場合には実に、人間という性質は、不確定なものではあるが、附託されたものなのである。このように疑間の場合には、不確実なものが附託されるという例を挙げたのち、[師シャンカラは次のように]、誤認の場合には確実なものが [附託される]という例を挙げている。またたとえば、真珠母貝に対して云々と。[こ(こ)でもし、真珠母員を銀だと誤認する原因が両者に共通な属性の基体だとすると]、白く輝く実体は真珠母貝と銀[の両者とも]に共通の基体であるのだから、それ(目の前にある白く輝く実体)が銀だと確定されるのなら、どうして真珠母貝だと確定されることはないのだううか。疑問であるというのが二通りの意味で正しいのである。何故なら、 (1)[両者に]共通な属性をもった基体が知覚されているので、[どちらかの属性が]知覚されることもないし、[どちらかの属性が]知覚されないということもないからであり、また、(2)両者の特性が想起されているので、潜在印象を生み出す原因である類似 は両者に存在するわけであるから、それ(類似性)は両者に共通だからである780。
  だから[師シャンカラが]、何の根拠もなくと言っているのである。すなわち、こう述べることによって、「目に見える[誤認の]原因は[真珠母貝と銀の両者に]共通であっても、目に見えない[誤認の]原因[が存在する]」と述べているのである。そしてそれ(目に見えない原因)は、結果を見ることによって推論されるので、[両者に] 共通ではない。これが〔何の根拠もなくという箇所の]意味なのである。また、アートマンと非アートマンとを識別している[学者たちでさえ]とは、単に聴聞と思惟に長けているだけの学者たち、すなわち、真理をいまだ直証していない人たち等々の意味である。このことはすでに[以前に]、動物等と区別がないからであると述べた通りである781。なお[『註解』の]その他の箇所に関しては、その意味は明らかである。
  そして、知者は生きながら身体をもたないということに関して、[師シャンカラは次 のように]天啓聖典と聖伝書を引用している。そして同じ趣旨で云々と。理解は容易である。[そして最後に、師シャンカラは次のように]主題を結論づけている。従って、 ブラフマンがアートマンであると悟った人が云々と。
(´・(ェ)・`)つ

809避難民のマジレスさん:2022/12/26(月) 00:30:12 ID:QvGBnO/o0
つづき

脚注
779 本訳210-211頁参照。
780この箇所では次のような問題が論じられているとされ ている。すなわち、真珠母貝と銀との両者に共通な基体(白く輝く実体)が知覚されているときに、(1) その共通の基体のみが錯誤の原因なのか、それとも、(2)両者の類似性等の欠陥と混ざりあった共通の基 体が錯誤の原因なのか、ということがまず問題とされる。このうち、前者を否定しているのが、「白く輝く 実体が...確定されることはないのだろうか」という箇所である。一方、後者を否定しているのかが、「そう でなければ、疑問であるというのが二通りの意味で正しいのである」以下の箇所である。ここで、真珠母 貝を銀だと誤認するのは、錯誤ではなくて、疑問であるとされたのであるが、 それが、「二通りの意味で正しい」とされるのは、次の理由によるのである。すなわち、まず第一の理由 は、「錯誤の場合には、『これは銀である』という形で、銀に確定する根拠(たとえ誤ったものにせよ)が あるはずである。そしてその根拠は、『銀の属性は認められるが、真珠母員の属性は認められない」とする知覚と無知覚なのである。だが、銀と真珠母員の両者は、共通の属性 をもった基体として知覚されているのであるから、錯誤であるとは言えない。従って疑問なのである」と いうところにあるのである。さらに、もう一つの理由は、「二つの特性が想起される場合が疑問であるが、 この(真珠母員と銀の)場合には、銀であるということだけが想起されているのだから、錯誤ではないか」 という反村主張に対する答えだとされるのであるが、以下の通りである。すなわち、「生じてきた潜在印象が想起の原因である。それ(想起)を生み出す原因が類似性である。それ(類似性)は真珠母貝と銀と の両者に存在しているのだから、その類似性は[両者に]共通である」という理由によるのである。
781 本訳256頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

810鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/26(月) 23:34:02 ID:IhRfASI.0

 昨日と同じなのじゃ。

 アートマンの知識と直証は違うというのじゃ。
 アートマンの知識だけでは身体は厭離できないのじゃ。
 しかしアートマンを直証した者は、身体を厭離して生きながら身体がない者になるのじゃ。
 身体という観念から離れるから。なのじゃ

811避難民のマジレスさん:2022/12/27(火) 03:13:27 ID:TAUgXWLM0
8.『ブラフマ・スートラ』が開始された意義  p449-450 226右/229 最終章

  [反対主張][聖典句によれば、ブラフマンについて]聞いた(聴聞した)のち、[それを]思惟、瞑想すべきことが示されているので、ブラフマンは儀軌に従属するのであって、それ自体で完結している(の)ではない。
  [答論]さきにこのように述べられていたが782、そうではない。何故なら、 思惟と瞑想は[ブラフマンを]悟るためのものだがらである。すなわち、もし、悟られたブラフマンが、それ以外のもののために用いられるのであれば、 [ブラフマンは]儀軌に従属することになろう。だがそのようなことはない。何故なら、思惟も瞑想も、聴聞とおなじように悟りのために存在しているからである。従って、「ブラフマンは、知ることを命ずる儀軌の対象なので、聖典がその典拠なのである」などということはありえないのである。それ故、「諸ウパニシャッドは、[ブラフマンを教示するという点でその趣意が]ー致しているので、ブラフマンはまさに独自に聖典を典拠としているのである」と確定した。
  そしてもしそうだとすれば、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである]」783という形で、それ(ブラフマンの考究)を対象とする別個の聖典が開始されるのは妥当なのである。実にもし、[ブラフマンが] 知ることを命ずる儀軌に従属するとすれば、「そこで、この故に、ダルマの考究が[開始されるべきである]」784という形で、[すでに『ミーマーンサー・ スートラ』が]開始されているのであるから、[ブラフマンを対象とする]別個の聖典(『ブラフマ・スートラ』)が開始されることはないであろう。さらにもし、[儀軌に従属する形でブラフマンの考究が]開始されるとすれば、[それは]「そこで、この故に、[考察し]残されたダルマの考究が[開始されるべきである]」という形で開始されるはずである。それはちょうど、[『ミーマーンサー・スートラ』に]「そこで、この故に、供犠に役立つものと人間に役立つ ものとの考究が[開始されるべきである]」785とあるようなものである。しか しながら、ブラフマンとアートマンとの同一性は、[『ミーマーンサー・スートラ』では]論議の対象とされていない。たがら、それ(ブラフマンとアートマンとの同一性)を主題として、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである]」という形で、聖典(『ブラフマ・スートラ』)を開始するのは妥当なのである。
  従って、儀軌すべてとその他すべての認識根拠は、「私はブラフマンである」786というこれ(悟り)をもって終わるのである。何故なら、取捨とは無縁な不二のアートマンが悟られれば、対象もなくなり、認識主体もなくなり、認識根拠は存在しえないからである。[そしてこのことが]さらに、[次のように] 説かれている。「比喩的な意味でのアートマンと誤ったアートマンが存在しなければ、息子や身体等[と自己との同一視が]否定される。従って、『私は実在ブラフマンであり、アートマンである』という覚り、すなわち、実現しなければならないことがどうして存在しえようか。探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは認識主体なのである。[だが]探究し終われば、[それは]まさに罪や欠点等と無縁な認識主体(最高のアートマン)となろう。[日常的には]身体をアートマンだとする観念が認識根拠だと見なされているように、実にこの日常的な認識根拠は、アートマンが確知されるま では妥当するのである」787と。

脚注
782本訳381頁参照
783 784 785 786 787
(´・(ェ)・`)
(つづく)

812鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/27(火) 23:17:30 ID:S1FOI8Gw0
 反対なのじゃ。
 聖典句によればブラフマンについて]聞いたのち、思惟、瞑想すべきことが示されているからブラフマンは儀軌に従属するのであり、それ自体で完結していないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 その思惟と瞑想はブラフマンを悟るためのものだから違うというのじゃ。
 もし、悟られたブラフマンが、それ以外のもののために用いられるのであれば、 ブラフマンは儀軌に従属することになるがそのようなことはないのじゃ。
 思惟も瞑想も、聴聞とおなじように悟りのために存在しているからなのじゃ。

 「ブラフマンは、知ることを命ずる儀軌の対象なので、聖典がその典拠なのである」などということはありえないのじゃ。
 「諸ウパニシャッドは、[ブラフマンを教示するという点でその趣意が]ー致しているので、ブラフマンはまさに独自に聖典を典拠としているのである」と確定したのじゃ。

 ブラフマンとアートマンとの同一性は、『ミーマーンサー・スートラ』では論議の対象とされていないのじゃ。
 ブラフマンとアートマンとの同一性を主題として、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が開始されるべきである」と、聖典『ブラフマ・スートラ』を開始するのは妥当なのじゃ。

 従って、儀軌すべてとその他すべての認識根拠は、「私はブラフマンである」という悟りをもって終わるのじゃ。
 取捨とは無縁な不二のアートマンが悟られれば、対象もなくなり、認識主体もなくなり、認識根拠は存在しえないからだというのじゃ。

 次のように] 説かれているのじゃ。
 
 「比喩的な意味でのアートマンと誤ったアートマンが存在しなければ、息子や身体等[と自己との同一視が]否定される。
 従って、『私は実在ブラフマンであり、アートマンである』という覚り、すなわち、実現しなければならないことがどうして存在しえようか。
 探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは認識主体なのである。
 
 探究し終われば、まさに罪や欠点等と無縁な認識主体なろう。
 身体をアートマンだとする観念が認識根拠だと見なされているように、実にこの日常的な認識根拠は、アートマンが確知されるま では妥当するのである」

813避難民のマジレスさん:2022/12/28(水) 01:46:14 ID:.1auzAos0
(つづき) p450-451

  [反対主張]もし、個人存在がブラフマンをアートマンだと悟ることこそが、輪廻者であるという性質を滅する原因であれば、思惟等を命ずる儀軌はなんと、無意味であることになってしまうではないか。従って、諸ウパニシャッドは知ることを命ずる儀軌に従属するのである。
   [答論]このように先に述べられていたが788、[師シャンカラは次のように]そのことに再び言及し、批判してゆくのである。「[聖典句によれば、ブラフマンについて]聞いた(聴聞した)のち云々」と、先に述べられていたが云々と。思惟も瞑想も儀軌ではない。何故なら、それらの果報は一致と矛盾(anvayavyatireka)によって確立され た直証なので、それら(思惟と瞑想)は儀軌に似た聖典の言葉によって再言及されているからである。そのことを[師シャンカラが、次のように]述べている。[何故なら、 思惟と瞑想はブラフマンを]悟るためのものだからであると。悟りとはブラフマンの 直証のことであり、思惟と瞑想がそれ(悟り)のためのものであることは、肯定法と否定法(anvayavyatireka).によって確立されるからである789。これが[『註解』のこの 箇所の]趣旨である。
   [反対主張]何故、思惟等を命ずる儀軌ではないのか。
   [答論]だから[師シャンカラは、次のように]答えているのである。すなわち、もし、悟られた云々と。まず、思惟と瞑想は、新得力を対象としかつ不死性を果報とする ような主要祭ではない、ということについては先に述べた通りである790。従ってそれ らは、[穀粒を]ついたり[穀粒に]水をかけたりするのと同じで、従属祭である791という可能性が残ることになる。だがそれも正しくない。何故なら、アートマンの場合 には、それ以外のものに[これまで]用いられたこともないし、また[これから]用いられることもないからである792。というのは、ウパニシャッドに説かれている[アートマン]は、特に、祭式の執行とは対立するからである。これが[『註解』のこの箇所 の]趣旨である。[そして最後に、師シャンカラは、次のように]主題を結論づけている。従って云々と。
  このように、諸ウパニシャッドは、すでに存在するブラフマンを専ら教示しているのである。そして、[『ブラフマ・スートラ』という)聖典の教えるブラフマンはダルマとは異なり、また、主題が異なれば[それについて教える]聖典も異なるので、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである]」というこれ(『ブラフマ・ スートラ』I.1.1)が、『ブラフマ・スートラ』という]聖典の始まりとなるのは、理にかなっているのである。だから[師シャンカラが]、そしてもしそうだとすれば云々と 述べているのである。
   [反対主張]だがもしそうでなけれぱ、[このスートラも]、ダルマの考究にすぎない ことになり、その結果別個の聖典ではないことになり、従って聖典の始まりではないことになろう。

脚注
788 本訳373頁以下参照。
789 anvayavyatirekaをここで「一致と矛盾」と「肯定法と否定法」と訳し分けたが、前者の意味、および直証が一致と矛盾の方法によって確立されるということに関しては、脚注325および本訳411頁参照。 また後者の意味および思惟と瞑想が悟りに必要不可欠である点に関しては、脚注473および島 岩,参照のこと。
790 本訳382頁以下参照。
791
792 従属祭が、祭式ですでに用いたものを浄化する祭式とこれから祭式で用いるものを浄化する祭式の二種に分かれることに関しては、脚注541参照のこと。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

814鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/28(水) 23:47:52 ID:ICV94VMw0
 反対なのじゃ。
 もし個人存在がブラフマンをアートマンだと悟ることこそが、輪廻者であるという性質を滅する原因であれば、思惟等を命ずる儀軌は無意味になるというのじゃ。
 そうであるから諸ウパニシャッドは知ることを命ずる儀軌に従属するというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 思惟も瞑想も儀軌ではないというのじゃ。
 なぜならばそれらの果報は一致と矛盾によって確立され た直証なので、それらは儀軌に似た聖典の言葉によって再言及されているからなのじゃ。
 それらは悟るためのものだからとシャンカラも言っているのじゃ。
 悟りとはブラフマンの直証のことであり、思惟と瞑想がそのためのものであることは、肯定法と否定法によって確立されているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 なぜ思惟等を命ずる儀軌ではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 まず、思惟と瞑想は、新得力を対象としかつ不死性を果報とする ような主要祭ではないというのじゃ。
 従属祭でもないというのじゃ。
 何故ならばアートマンの場合には、それ以外のものに用いられたこともないし、また用いられることもないからだというのじゃ。
 ウパニシャッドに説かれているアートマンは、特に、祭式の執行とは対立するからなのじゃ。

 諸ウパニシャッドは、すでに存在するブラフマンを専ら教示しているのじゃ。
 『ブラフマ・スートラ』という聖典の教えるブラフマンはダルマとは異なり、また、主題が異なれば聖典も異なるのじゃ。
 それ故にブラフマンの考究が[開始されるべきである]という文が、『ブラフマ・スートラ』の始まりとなるのは、理にかなっているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 もしそうでなけれぱ、これもダルマの考究にすぎない ことになり、その結果別個の聖典ではないことになり、従って聖典の始まりではないことになるのではないかというのじゃ。

815避難民のマジレスさん:2022/12/29(木) 07:37:10 ID:orjQ3/iE0
(つづき)   p451-452
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、次のように]答えているのである。[実にもし、ブラフマンが]知ることを命ずる儀軌に従属するとすれ ば云々と。ただ単にすでに存在するものであるからという理由で、ブラフマンとアートマンとの同一性がダルマとは異なるのではない。そうではなくて[ダルマと]矛盾するからなのである。このことを[師シャンカラが、次のように]結論という形で述べている。従って、[儀軌すべてとその他のすべての認識典拠は]、「私はブラフマンである」という云々と。[ここで]という(iti)という語は、知識に言及しているのである。実に諸儀軌は、ダルマを認識する根拠である。そしてそれら(諸儀軌)は、目的 (sādhya)と手段(sādhana)と方法(itikartavyatā)の区別に基づいて、ダルマを生ずる793。だが、ブラフマンとアートマンとの同一性が存在するときには、それら[の 区別]に基づくことはできない。何故なら、[ブラフマンとアートマンとの同一性は、それらの区別と]矛盾しているからである。これが[『註解』のこの箇所の]趣旨である。[ところで]このことは、ダルマの認識根拠となる聖典だけの運命ではない。そうではなくて、すべての認識根拠の[運命なの]である。だから[師シャンカラが]、その他のすべての認識根拠は云々と述べているのである。何故か。何故なら、[取捨とは 無縁な不二のアートマンが悟られれば...]ないからである。すなわち、不二なるものは、主観と客観という関係が存在しないのである。また行為者であるという性質も存在しない。何故なら、行わなければならないことが存在しないからである。また、手段という性質も同じ理由で存在しないのである。このことが、認識主体もなくなりとあるなかのもという言葉で述べられているのである。

脚注
793ここで言うダルマとは、「三つの要件をもつ志向」だとされているので、それに従えば次のように考えられる。志向には、「言葉によって表される志向」 と「結果をもたらす志向」の二種があることについてはすでに述べた 通りであるが(脚注760の箇所参照)、それぞれ三つの要件を必要とするとされる。それらは目的と手段と方法であるが、その三つの要件はそれぞれ、「何を生じさせるべきか」「何によって生じさせるべきか」「どのようにして生じさせるべきか」という問に答えるものでなければならない。まず、「言葉によって表される志向」の場合には、それらはそれぞれ、目的が三つの要件を備えた「結果をもたらす志向」で、手段が願望法等に関する知識で、方法が釈義等に述べられている祭式の効果に対する賛美であるとされる。一方、「結累をもたらす志向」の場合には、目的が天界等の果報で、手段が供犠等で、方法がその供犠に従属する従属祭であるとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

816鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/30(金) 00:11:24 ID:Dp94ztNg0
 答えたのじゃ。
 ただ単にすでに存在するものであるからという理由で、ブラフマンとアートマンとの同一性がダルマとは異なるのではなく、ダルマと矛盾するからなのじゃ。
 
 諸儀軌はダルマを認識する根拠であり、目的と手段と方法の区別に基づいて、ダルマを生ずるというのじゃ。
 だが、ブラフマンとアートマンとの同一性が存在するときには、それらに基づくことはできないのじゃ。
 何故なら、ブラフマンとアートマンとの同一性は、それらの区別と矛盾しているからなのじゃ。
 このことは、ダルマの認識根拠となる聖典だけの運命ではなくて、すべての認識根拠の運命なのじゃ。

 不二なるものは、主観と客観という関係が存在しないからなのじゃ。
 また行為者であるという性質も存在しないのじゃ。
 何故なら、行わなければならないことが存在しないからなのじゃ。
 
 また行為者であるという性質も存在しないのじゃ。
 何故なら、行わなければならないことが存在しないからなのじゃ。
 また、手段という性質も同じ理由で存在しないのじゃ。
 このことが、認識主体もなくなりという言葉で述べられているのじゃ。


 つまりアートマンとブラフマンを直証する手段は聖典に法として書いてあるのじゃ。
 しかしアートマンとブラフマンが直証されてしまえば、それらは全て捨て去られる運命なのじゃ。
 もはや観念がないからなのじゃ。
 主客もなくなり、行為も行為者もなくなり、無為にあるのみなのじゃ。

817避難民のマジレスさん:2022/12/30(金) 02:50:58 ID:UB9I6rQs0
(つづき)   p452-453
  まさにこの同じことに関して、[師シャンカラは次のように]、ブラフマンを知る者794の 詩句(偈)を引用している。[そしてこのことが]さらに[次のように]説かれている 云々と。息子や妻をアートマン(自己)だと思い込むのは、比喩的なものである。たとえば、自己の苦しみによって苦しみ、自己の楽しみによって楽しむように、息子等の [苦しみや楽しみによって]も[自らが苦しんだり楽しんだりするの]である。従って、これは比喩的なものなのである。だが[この場合には、息子と自己とが]同一だと思い 込んでいるわけではない。何故なら、[息子等と自己との]違いが経験によって確立しているからである。従って[これは]、「ヴァーヒカーという国の人は雄牛である」795という場合と同じで、比喩的な意味なのである。しかし、身体等をアートマンだと思い込むのは、[両者の]違いが経験されていないので、比喩的なものではない。そうではなくて、真珠母貝を銀だと認識するのと同じで、誤りなのである。このように、アートマンに関するこの二種の思い込みが、日常的な世界を支えているのである。だが、それ(この二種の思い込み)存在しなければ、日常的な世界も存在しないし、しいては、 ブラフマンとアートマンとが同一であるという開眼も存在しないのである。何故なら、 それ(開眼)の手投である聴聞・思惟等が存在しないからである。まさにこのことが、 [次のように]述べられているのである。息子や身体等[と自己との同一視]が否定されるとと。比喩的な意味でのアートマンが存在しなければ、息子や妻など[との同一 視]が否定される。すなわち、「私のもの」という意識が存在しなければ等々という意味である。誤った思い込みが存在しなければ、身体・器官等[との同一視]が否定され、聴聞等も否定される。従って、ただ単に日常的な世界が破壊されるだけではなく、 「私は実在ブラフマンであり、アートマンである」という覚りという性質をもつ、実現しなければならないこと、すなわち不二なるものを直証すること等々も、どうして存在しえようか。
  [反対主張]それは何故存在しえないのか。
  [答論]だから、探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは 認識主体なのであると述べられているのである。[ここで]これ(認識主体であるというの)は、偶然的な特性(upaalkasana)であり、認識・認識対象・認識根拠という区別も[そのなかに含まれていると]理解すべきである。その趣旨は以下の通りである。 すなわち、これらの区別が不二なるものを直証する原因なのである。何故なら、[それは]常にそれ(不二なるものの直証)以前に存在しているからである。従って、それ (認識・認識対象等の区別)が存在しなければ、結果は生じないのである。さらに、認識主体であるアートマン以外にアートマンを探究すべきではないというので、[だが] 探究し終われば、[それは]まさに罪や欠点とは無縁な認識主体(最高のアートマン) となろうと述べられているのである。[なお]首に掛かっているネックレスの例につい ては、すでに述べたところである796。

脚注
794このブラフマンを知るものとは、スンダラ・バンディヤであるされれる。
795 雄牛のように力強いという意味。
796 本訳369頁参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

818鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/31(土) 00:28:30 ID:T.EvGghI0
 身体等をアートマンだと思い込むのは、両者の違いが経験されていないので、比喩的なものではないというのじゃ。
 アートマンに関するこの二種の思い込みが、日常的な世界を支えているの

 この二種の思い込み)存在しなければ、日常的な世界も存在しないし、しいては、 ブラフマンとアートマンとが同一であるという開眼も存在しないのじゃ。
 何故なら、 それ(開眼)の手投である聴聞・思惟等が存在しないからなのじゃ。

 誤った思い込みが存在しなければ、身体・器官等[との同一視]が否定され、聴聞等も否定されるのじゃ。
 ただ単に日常的な世界が破壊されるだけではなく、 「私は実在ブラフマンであり、アートマンである」という覚り、不二なるものを直証すること等々も存在しないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 なぜそれらは存在しないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは 認識主体なのであると述べられているのじゃ。
 認識主体であるというの)は、偶然的な特性であり、認識・認識対象・認識根拠という区別もそのなかに含まれていると理解すべきなのじゃ。

 これらの区別が不二なるものを直証する原因になるのじゃ。
 常にそれ以前に存在しているからなのじゃ。
 従って認識・認識対象等の区別が存在しなければ、結果は生じないのじゃ。

 さらに、認識主体であるアートマン以外にアートマンを探究すべきではないというのじゃ。
 しかし 探究し終われば、まさに罪や欠点とは無縁な認識主体となろうと述べられているのじゃ。





 アートマンの実現、直証には、認識、認識主体、認識根拠という心の働きの区別が必要だというのじゃ。
 それらを心を観察して詳しく区別したならば、アートマンの直証の原因になるのじゃ。
 そしてアートマンを直証してしまえば、もはや法もアートマンもブラフマンも世界も存在しないのじゃ。
 全てはただ一つであるからなのじゃ。
 それが不二一元なのじゃ。

819避難民のマジレスさん:2022/12/31(土) 01:37:47 ID:rk9kXnYA0
(最終回) p453-454 229/229
  [反対主張]正しい認識根拠でないものから、どうして究極的な不二なるものへの開眼が生ずるのか。
   [答論]だから、[日常的には]身体をアートマンだとする観念が認識根拠だと見なされているように、実にこの日常的な認識根拠は妥当するのであると言われているのである。そしてこの限界を、アートマンが確知されるまではと述べているのである。 すなわち、ブラフマンの本質を直証するまでは等々という意味である。その趣旨は以下の通りである。現象世界が究極な実在であると主張する人たちでも、身体等をアートマンだとする思い込みは誤りであると言うべきである。何故なら、[それは]正しい認識根拠によって否定されるからである。[だが]それ(身体等をアートマンだと思い込むこと)が、あらゆる認識根拠の原因であり、現実の日常的な世界を支えているのだと認めるべきである。そして、まさにそれ(身体等をアートマンだとする思い込み)が、われわれの場合にも、不二なるものを直証する際に、手だてとなるであろう。さらに、この不二なるものの直証も、内官の変容の一種であって、完全には究極的なものではないのである797。そうではなくて、責実の直証は、実現されるようなものではないのである。何故ならそれは、ブラフマンを本質としているからである。一方、無明は、[他の]無明を滅ぼそうと生み出そうと、その場合にはなんら理解しがたいことはない。同じ趣旨で[次のような]天啓聖典句がある。「無明と明知の両者をともに知る者は、無明によって死を超え。明知によって不死を享受する」798と。以上ですべてが 明らかとなった。

脚注
797,798
(´・(ェ)・`)
(おわり)

次回、新春より、荘子の講読会を開始します。

820鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/01(日) 00:09:05 ID:X58HOuLs0
 反対なのじゃ。
 正しい認識根拠でないものから、どうして究極的な不二なるものへの開眼が生ずるのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 現象世界が究極な実在であると主張する人たちでも、身体等をアートマンだとする思い込みは誤りであると言うべきだというのじゃ。
 何故なら正しい認識根拠によって否定されるからなのじゃ。
 しかしそれが、あらゆる認識根拠の原因であり、現実の日常的な世界を支えているのだと認めるべきなのじゃ。

 そして、まさにそれが、われわれの場合にも、不二なるものを直証する際に、手だてとなるというのじゃ。
 さらに、この不二なるものの直証も、内官の変容の一種であって、完全には究極的なものではないのじゃ。

 責実の直証は、実現されるようなものではないからなのじゃ。
 何故ならそれは、ブラフマンを本質としているからなのじゃ。

 無明は、無明を滅ぼそうと生み出そうと、その場合にはなんら理解しがたいことはないというのじゃ。
 次のような天啓聖典句があるのじゃ。
 「無明と明知の両者をともに知る者は、無明によって死を超え。明知によって不死を享受する」

 アートマンを身体と混同する無明そのものが、アートマンを直証する手段となるというのじゃ。
 仏教で言えば煩悩即菩提じゃな。
 
 無明や煩悩を知り尽くし、極めつくせば明知であるからなのじゃ。
 悟りはそこに訪れるのじゃ。
 もはや悟りきってしまえば、悟りもないのじゃ。

 悟りすらもやはりブラフマンに回帰するための手段と言えるのじゃ。
 悟りを得ることによって、無明と明知を知り尽くし、ブラフマンに回帰するのじゃ。

821避難民のマジレスさん:2023/01/01(日) 00:27:59 ID:akDRw6KA0
明けまして おめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。

荘子1.
原文、書き下し文及び註解は主に ↓ に従い、
荘子 (哲学館第10学年度漢学専修科講義録) - 国立国会図書館デジタルコレクション

段落分け、活字は ↓ に従った。
荘子内篇の素読(漢字家族)
(´・(ェ)・`)b

822避難民のマジレスさん:2023/01/01(日) 01:19:34 ID:akDRw6KA0
荘子1.
内篇
逍遙游 斉物論の序章

逍遙游第一(1) 
北 冥 有 魚 。 其 名 為 鯤 鯤 之 大 、 不 知 其 幾 千 里 也 。 化 而 為 鳥 。 其 名 為 鵬 。 鵬 之 背 、不 知 其 幾 千 里 也 。 怒 而 飛 、其 翼 若 垂 天 之 雲 。 是 鳥 也 、 海 運 則 將 徙 於 南 冥 。 南 冥 者, 天 池 也 。  

北 冥 に 魚あり、其の名を鯤(コン)と為す。鯤は大。其の幾千里なるを知られざる。化して鳥と為る。其の名を鵬(ホウ)と為す。鵬の背(そびら)は、其の幾千里なるを知られざる。怒(ド)して飛べば其の翼(つばさ)は垂天(スイテン) の雲の若(ごと)し。是(こ)の鳥や、海運すれば則将(まさ)に南冥(ナンメイ)に徙(うつ)らんとす。南冥とは天池(テンチ)なり。

注:
冥:めい、海
怒して:力を入れて、
魚は海中広く前後左右に泳ぎ回れども、上下すること能はず故に鳥に化せしめて、四方上下の六合に通達するようにしたる也。

逍遥遊第一(2)
 齊 諧 者 、志 怪 者 也 。 諧 之 言 曰 鵬 之 徙 於 南 冥 也 、 水 擊 三 千 里 、摶 扶 搖 而 上 者 九 萬 里 、 去 以 六 月 息 者 也 。 野 馬 也 塵 埃 也 、生 物 之 以 息 相 吹 也 。 天 之 蒼 蒼 、其 正 色 邪 。其 遠 而 無 所 至 極 邪 。上 視 下 也 、亦 如 是 則 已 矣 。  

齊諧(セイカイ)とは怪(カイ)を志(し)るす者なり。諧の言に曰(い)わく、「鵬の南冥に徙(うつ)るや、水擊する(水を撃(う)つ)こと三千里、扶搖(フヨウ・つむじかぜ)に摶(う)ちて上(のぼ)ること九万里、去りて六月を以て息(いこ)ふ者なりと。  野馬(ヤバ・かげろう)や塵埃(ジンアイ)や、生物の息を以て相(あ)い吹くなり。天の蒼蒼(ソウソウ)たるは其れ正色(セイショク・まことのいろ)なるか、其れ遠くして至極(シキョク)する所なければか。上の下を視(み)るや、亦(ま)た是(か)くの如(ごと)きのみ。

注:
斉諧記(せいかいき):六朝時代の文語志怪小説集。宋
 の東陽无疑 (むぎ) の著。
扶 搖:風の下より上に向きて吹くものなり
以六月息:(南海に行くまでには幾年を要するや知る
 能はざれども)六ヶ月にて一休息する
野馬也 、塵埃也 、生物之以息相吹也 :かげろうの如
 き、塵埃の如きもの、生物の息を以て相吹けるも
 の即ち風気。(この僅かなる風気に乗りて彼の大鵬
 は南海にうつりしなり)
天の蒼蒼たるは其の定りたる色なるか、将(は)た其
 の高く遠きが為に、かかる色を為せるか、必ずや
 多く重なりたるが為の色なるべし、然れば大鵬が
 上より下を見るもまた、下より上を見ると同じこ
 となるべし、誠に斯くの如く多くを積むにあらざ
 れば、大鵬を乗することは成しえざるなり、大鵬
 を乗するを見ても、天地間の高大なるを知るべし
 となり
(´・(ェ)・`)つ

823避難民のマジレスさん:2023/01/01(日) 22:38:34 ID:Dp/qMVVc0
>>270
>>>268
書籍化の進行は如何なものでしょうか?

大変お待たせしました。さしあたりオショーの講演の翻訳分を電子書籍化しました。読みやすくするために、意味を変えないようにして元記事から修正した部分があります。
また、鬼和尚のコメント入りのものは現在作成中です。

https://bccks.jp/bcck/172187

824鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/02(月) 00:01:49 ID:HVCklxms0
あけおめことよろなのじゃ。


 荘子は2300年ぐらい昔の人じゃな。
 道家の元祖の一人というのじゃ。
 実は老子の道徳経も大部分は荘子の書いたものではないかというのじゃ。
 道家の教えは荘子でほぼわかるのじゃ。

825鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/02(月) 00:04:26 ID:HVCklxms0

 北の極地にでかい魚がいるというのじゃ。
 変化してでかい鳥になるというのじゃ。
 海を飛んで天の池に行くというのじゃ。

 昔の怪奇本にも書いてあるのじゃ。


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