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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
505
:
避難民のマジレスさん
:2020/01/22(水) 00:59:52 ID:kwG.5zBA0
*なぜヴィヴェーカーナンダは静かに…
シュリー・ラーマクリシュナは初めての出会いで即座にヴィヴェーカーナンダの霊的資質を認めた。
師の臨在のもとで懐疑的だった彼の心は完全に変容され、強烈な明け渡しと真我実現への熱望に燃えるようになる。
かくして彼はラーマクリシュナの恩寵によって深遠なサマーディの境地を体験した。
しかしラーマクリシュナが肉体を離れ、残された弟子たちの指導をした後の彼は、個人的な解放だけに満足できず、貧困に苦しむ人々を救うことが彼の使命であり、神への奉仕であると感じてインド中の聖地を旅して回った。
506
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/01/22(水) 23:20:23 ID:1d4drIFg0
愛別離苦も性欲もすべてがアートマンの探求に向けられるべきものというのじゃ。
それが一番の近道であるのに、なぜ他のヨーガが必要になるのかとマハリシは問うのじゃ。
誰もがアートマンを直接探求できる訳ではないがのう。
自我の死を恐れるもののために、さまざまな方法も存在するのじゃ。
自ら納得できる道を、選択して実践すべきなのじゃ。
507
:
避難民のマジレスさん
:2020/01/23(木) 00:37:10 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話253
1936年10月1日
グワリオールのシンディア校の校長であるF・G・ピアース氏が尋ねた。
「『実在についての四十頌補遺』(ウラドゥ・ナールパドゥ・アヌバンダン)第三六頌の中で、バガヴァーンは『学問のない人は、真我探究によって自我を破壊していない学識ある人よりも幸せである』と述べています。
(これが真実であると感じている)校長の私にバガヴァーンの助言をいただけますか?
学問や知的欲求が、それより重要な真我探究を妨げないよう子供たちを教育するにはどうすればよいでしょうか?
これら二つは両立できるものなのでしょうか?
もし両立できないなら、何歳から、どのような方法で、青少年を内なる真理の探究に向かわせるのが一番よいのでしょう?」
マハルシ
非難されるべきは、学問のプライドと賞賛を求める欲望であって、学問そのものではありません。
謙遜や真理の探究へと導く学問は良いものです。
記録者ノート
ピアース氏は十七年前に丘の上でバガヴァーンに出会い、たいへん貴重な二日間を師の臨在のもとで過ごした。
それ以降、彼はバガヴァーンを訪れていなかった。
現在仕事の関係で、彼は再び遠い北インドに赴任するよう強いられている。
もう一度この地に戻ってくるには数年の歳月を要するだろう。
彼はバガヴァーンと彼の間に強い絆を結び、恩寵のもとに真我探究を助けてくださるようにと謙虚に懇願した。
バガヴァーンはこれに対してやさしく微笑んだ。
*『実在についての四十頌補遺』(ウラドゥ・ナールパドゥ・アヌバンダン)第36頌…
救われるのは、学問がありながら自我を屈服させなかった人々ではなく、学問のない人々である。
学問のない人々は、とりとめのない想いや言葉という病気、富や名声の追求という狂気、自尊心という悪魔の手から逃れる。
彼らは実に多くの不幸から救われるのだ。
508
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/01/23(木) 21:32:17 ID:1d4drIFg0
余計な知識や条件付けは時に人を堕落させてしまうこともあるじゃろう。
競争の勝利や何の意味もない塵を集めるのに、人生の時間を費やしてしまう者も居るのじゃ。
それも余計な知識や条件付けのせいなのじゃ。
ただ純粋にアートマンを追求できる者こそそれを実現できるのじゃ。
正にマハリシのようにのう。
509
:
避難民のマジレスさん
:2020/01/24(金) 00:36:25 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話254
ダンカン・グリーンリース氏は『シュリーマッド・バーガヴァタム』から以下の節を引用した。
「内にも外にも、生きとし生けるものすべての中に純粋なエーテルが存在するように、あなた自身の内に真我を見なさい」
「羞恥心を棄て去って、不可触民や、牛や、ロバに対してさえひれ伏しなさい」
「『私』がすべての生きとし生けるものの中に存在することを見て取れないうちは、心と身体によってすべてを礼拝しなさい」
「正しい知識とともに、すべてをブラフマンとして見なさい。
ひとたびこれが明らかになれば、すべての疑いは終わる。
そしてあなたは真我の内に引き込まれ、そこにとどまるのである」
質問者
これは一なる真我を実現するための正しい道なのでしょうか?
ある人にとっては、「私は誰か?」という精神的探究を通して精神を超越したものを探し出すよりも、何であれ出会ったものの中にバガヴァーン(神性)を見るという修練のほうがやさしいのではありませんか?
マハルシ
そうです。
すべての中に神を見るとき、あなたは神について考えませんか?
自分の周りのすべてに神を見るには、心に神を抱き続けなければなりません。
神を心に抱き続けることが瞑想(ディヤーナ)となるのです。
瞑想は実現の一段階前の状態です。
実現は真我の中でのみ起こり、瞑想がそれに先行しなければなりません。
神に瞑想しようと真我に瞑想しようと問題ではありません。
行き着く先は同じだからです。
しかし真我を避けることはできません。
あなたはすべてに神を見たいと言います。
しかしあなたの中には見ないのですか?
もしすべてが神であるなら、あなたもそのすべてに含まれるのではないでしょうか?
あなた自身が神であるならば、すべてが神であることが不思議なことでしょうか?
この修練をするとしても、そこには見る者や考える者がいるはずです。
それはいったい誰でしょうか?
質問者
詩や音楽、ジャパ(称名)やバジャン(神への賛歌)、美しい景色を見ることや偉大な聖人の伝記などを読むことを通して、人はときおり真の全的統合の感覚を体験します。
個我の入る余地のまったくない深い至福に満ちた静寂の感覚は、バガヴァーンが「ハートの内に入る」と言われていることと同じものなのでしょうか?
その実践はより深いサマーディへ導き、最終的には実在の完全なるヴィジョンをもたらすのでしょうか?
マハルシ
快いものを見るとき、そこには幸福があります。
それは自己本来の幸福です。
その幸福はあなたと異なったものでもなければ、後になって得られるものでもありません。
喜びで満たされているとき、あなたは純粋な真我の中に沈み込んでいます。
そしてその状態が自己に本来備わった至福を顕わにするのです。
しかしこの至福が起こった原因を他の物事や出来事に結びつけて考えるために、問題は生じてしまいます。
実際には、至福はあなたの内にあります。
心が満たされているとき、無意識ながらもあなたは真我の内に潜り込んでいるのです。
もしあなたが意識的にそうするなら、それが実現です。
私はあなたが意識的に真我であるハートの内に潜り込むことを願っているのです。
510
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/01/24(金) 22:52:54 ID:1d4drIFg0
すべてがブラフマンであると観る時、それはブラフマンに集中し、帰依しているのと同じ状態になるのじゃ。
集中が強くなれば対象と一体になるからのう。
ブラフマンという対象と一体になれば全てがブラフマンになるのじゃ。
そして自分もブラフマンであり、すべてと同じ本質を持つものと気づくのじゃ。
511
:
避難民のマジレスさん
:2020/01/25(土) 00:29:56 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話255
質問者
真我は常に実現されていると言うなら、私たちはただ静かにしているべきだということです。
そうなのでしょうか?
マハルシ
もしあなたが他の物事を追求せずに静かにしていられるなら、それはとてもよいことです。
もしそれができないなら、実現に関するかぎり、ただ静かにしていることが何の役に立つと言うのでしょう?
活動する義務があるかぎりは、その義務を果たしながらも、真我実現への試みをあきらめてはならないのです。
512
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/01/25(土) 22:46:15 ID:1d4drIFg0
何もせずに座っていられるならばアートマンも実現するじゃろう。
しかし、悟っていない者にはそれができないのじゃ。
雑念や体の要求で心身が動いてしまうのじゃ。
そうであるから法を実践して雑念を減らし、欲を滅して進むのじゃ。
513
:
避難民のマジレスさん
:2020/01/26(日) 00:24:02 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話256
真我の知識が弱い人(マンダ・ジニャーニ)の段階的位置づけに関する質問があった。
それはケーヴァラ・ニルヴィカルパ(区別が消え去ったサマーディの状態)に達する前で止まってしまったのではないか、ということだった。
マハルシ
ケーヴァラ・ニルヴィカルパはタヌマナシ(希薄な心)の段階でさえ起こります。
質問者
中位と最高位のジニャーニはジーヴァン・ムクタだと言われています。
ケーヴァラ・ニルヴィカルパがタヌマナシの段階だとすれば、真我の知識が弱い人はどの段階に当てはまるのでしょうか?
マハルシ
彼はサットヴァパッティ(実現)の段階に入ります。
一方、中位と最高位のジニャーニはアサンサクティ(無執着)とパダルタバーヴィニ(対象物がまったく知覚されない状態)に相当します。
この低位、中位、最高位という区別は、プラーラブダ(現世で実を結んだ過去のカルマ)の慣性にしたがったものです。
もしプラーラブダの慣性が強ければ、彼の真我の知識は弱いということです。
もし中ぐらいなら、彼は中位にあり、もしプラーラブダの慣性が弱ければ、彼は最高位にあります。
もしそれが非常に弱ければ、彼はトゥリヤーガ(言葉を超えた状態)の地位にいます。
サマーディの状態に区別はありません。
ジニャーニ(真我実現した人)のジニャーナ(真我の知識)にも区別はないのです。
格付けは観察者の視点から見たときにのみあるものだからです。
質問者
タヌマナシはムムクシュトヴァ(真我実現への憧れ)と同じなのでしょうか?
マハルシ
いいえ。
シュベッチャー(真我実現への願望)の前に、六つの資質、識別、離欲があり、そしてムムクシュトヴァなどの段階があります。
第一段階はムムクシュトヴァにしたがいます。
それからヴィチャーラナ(探究)、そしてタヌマナシ(希薄な心)が続きます。
直接体験はサットヴァパッティ(真我実現)の段階にあります。
似たような点について討論する必要はありません。
生存中の解脱(ジーヴァン・ムクティ)と身体を離れた際の解脱(ヴィデーハ・ムクティ)は異なった典籍によって異なった描写がされています。
ヴィデーハ・ムクティは、ときには身体をともなったときでさえ起こると言われています。
事実は、ムクティ(解脱)とはアハム(「私」)の別の名前なのです。
七つのジニャーナ・ブーミカー(知識の段階)は、
(1)シュベッチャー(真我実現への願望)
(2)ヴィチャーラナ(聞くことと熟考すること)
(3)タヌマナシ(希薄な心)
(4)サットヴァパッティ(真我実現)
(5)アサンサクティ(無執着)
(6)パダールタバーヴィニ(対象物がまったく知覚されない状態)
(7)トゥリヤーガ(言葉を超えた状態)です。
最後の四段階(ブーミカー)以上に達した人たちは、各々ブラフマヴィッド、ブラフマヴィッドヴァラ、ブラフマヴィッドヴァーリャ、ブラフマヴィッドヴァリシュタと呼ばれています。
514
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/01/26(日) 22:51:25 ID:1d4drIFg0
仏教でもシダゴンとかシナゴンとかいろいろ段階を設けてアラハンに至ると説くのじゃ。
それは修行者の督励のためなのじゃ。
本来区別は無いものじゃ。
己が見えれば一時でも大悟はやってくるのじゃ。
515
:
避難民のマジレスさん
:2020/01/27(月) 00:20:57 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話257
ディンディガルから来たある若い男性がシュリー・バガヴァーンに語った。
「数日ここに滞在している間に為すべきことは、『私は誰か?』を探究するだけだということを私は学びました。
他に何らかの戒律を守るべきでしょうか?
それから、どこで探究をするべきでしょうか?
つまりグルの臨在(サンニディ)のもとでするべきでしょうか?」
マハルシ
探究は「私」が在るところから始めるべきです。
質問者
人々は人生における最高善を得るために努力しています。
しかし私には彼らが正しい道を歩んでいるとは思えません。
シュリー・バガヴァーンは相当な苦行(タパス)をして目標を達成されました。
シュリー・バガヴァーンはまたすべての人が目的地(ゴール)に達することを望み、喜んでそのための助けを差し出そうとしておられます。
その身代わりの苦行は、他の人々が目標に達することを相当容易にしたに違いありません。
彼らにはシュリー・バガヴァーンがすでに体験したあらゆる努力奮闘を体験する必要がないのです。
彼らの道はシュリー・バガヴァーンによって容易なものとなったのです。
そうではありませんか?
マハルシは微笑んで言った。
「もしそうなら、誰もが楽に目標を達成するでしょう。
しかし真実は、一人ひとりが自分自身で努力をしなければならないのです」
516
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/01/27(月) 23:21:47 ID:1d4drIFg0
悟った者も修行者の道標になるだけなのじゃ。
誰もが自分で精進しなければ悟りは訪れないのじゃ。
誰もが自分から始めるのじゃ。
自分がほかれば悟りも訪れるのじゃ。
517
:
避難民のマジレスさん
:2020/01/28(火) 00:18:25 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話258
マイソールから来た若者が一枚の紙に質問を書き、シュリー・バガヴァーンに手渡すと返答を待った。
彼は、「どこへ行けば指導を与えてくれるような他のマハートマー(聖者、偉大な魂)が見つかるのか」とシュリー・バガヴァーンに尋ねたのだった。
彼はマハートマーを通して神を探すため、家族に何も伝えないまま家を出たことを告白した。
実際、彼は神のことや神の探究について何も知らなかった。
それゆえ、マハートマーに出会うことを望んでいたのだ。
シュリー・バガヴァーンはただ紙を彼に返すと言った。
「私はどのような質問にもすべて答えなければなりません。
そうしないかぎり、私は偉大ではないということなのです」
若者は紙を破ると別の紙に次のように書いた。
「あなたはリスやウサギにはやさしく、それらがあなたから逃げ出そうとするときでさえ可愛がります。
それなのに、人間には無関心なのです。
例えば、私は家を去ってここで二週間待ちました。
何日かは食事をすることもなかったのです。
私は苦闘しています。
それでも、あなたは私にかまいもしません」
マハルシ
ここを見てごらんなさい。
私はテレビを与えられていません。
神は私にそれを授けなかったのです。
どうすればよいと言うのでしょう?
それでは、(他のマハートマーがどこにいるのかという)あなたの質問にどうして答えられると言うのでしょう?
人々は私のことをマハルシと呼び、私をこのように扱います。
しかし私は自分自身をマハルシなどとは見ていません。
その反対に、すべての人が私にとってマハルシなのです。
あなたのように若い年で神を見いだそうとするのは良いことです。
神に集中しなさい。
結果を求めずにあなたの仕事をしなさい。
それがあなたが為すべきすべてです。
518
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/01/28(火) 21:31:00 ID:1d4drIFg0
インドにも構って欲しいだけの者が居るのじゃ。
悟りを求める気も無いのじゃ。
ファーザーコンプレックスなのじゃ。
自らアートマンを求める実践をするならば師匠さえもいらないのじゃ。
519
:
避難民のマジレスさん
:2020/01/29(水) 00:13:29 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話259
ナーダ(音)、ビンドゥ(点、しるし)、カラー(部分)はプラーナ、心、知性に関連しています。
イーシュヴァラはナーダを超えています。
ナーダ、ジョーティ(光)などはヨーガの聖典に述べられています。
しかし神はそれらを超えているのです。
血液の循環、呼吸作用、その他の身体的機能は必然的に音を生み出します。
その音は不随意で継続的です。
それがナーダなのです。
520
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/01/29(水) 23:36:19 ID:1d4drIFg0
身体が出す音をナーダといい、それに集中することをヨーガの聖典では説いているのじゃ。
それが神聖なものであり、神のしるしとかいうのじゃ。
そのように説くのも集中させるための方便なのじゃ。
それもまた集中のための方法に過ぎないのじゃ。
囚われてはいかんのじや。
521
:
避難民のマジレスさん
:2020/01/30(木) 00:17:41 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話260
『サンデー・タイムス』紙の中に『ヒマラヤの隠者』からの抜粋記事があった。
そこには過去世の記憶を辿ることに関する記事が見られた。
その中でポール・ブラントン氏は、その能力を得るための仏教徒の修練方法について語っていた。
シュリー・バガヴァーンは言った。
「過去や未来についてあらゆることを知りたがる人たちは、現在を無視しています。
現在の不幸をつくり出したのは過去の重荷なのです。
過去を呼び起こそうとする試みは、単に時間の無駄でしかありません」
522
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/01/30(木) 22:35:16 ID:1d4drIFg0
前世については多くの者が興味津々なのじゃ。
それは過去からの不変の自己があるという確信が欲しいからじゃろう。
本来幻想に過ぎないものであるのにのう。
今ここに在る意識に気付くことこそ真の永遠への道なのじゃ。
523
:
避難民のマジレスさん
:2020/01/31(金) 00:32:32 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話261
輪廻転生についての言及があった。
シャーンティ・デーヴィの転生は、人間の時間的感覚の基準に相当している。
一方、七歳の男の子についての最新の報告では状況が異なっていた。
現在七歳の少年が過去世を思い出した。
しかし調査の結果、少年の前世の身体が死を遂げたのは十ヶ月前ということが判明した。
難問は、前世の身体の死から現在までに生じた六年二ヶ月という誤差である。
果たしてその魂は二つの身体を同時に占有したのだろうか?
シュリー・バガヴァーンは、「七年という歳月は少年によるもので、十ヶ月は観察者によるものです。差異はそれら二つの異なった見地によるものであり、七年間に延長された少年の体験は、たった十ヶ月しかない彼自身の時間を埋めるため、観察者によって計算されたものなのです」と指摘した。
これに関連して、シュリー・バガヴァーンは再び『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からリーラーの物語を引き合いに出した。
*『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からリーラーの物語…
この物語は、宇宙の本質、死と死後の本性、時間と空間の相対性、世界の中に存在する世界、欲望と想念が顕現を生み出す力を説明している。
パドマ王の献身的な妻リーラーは夫を不死にしようと宗教的儀式を行うが、それが不可能であることを悟り、女神サラスワティーに祈る。
彼女の帰依心に満足したサラスワティーは、夫が死んでも彼の魂は彼女の部屋にとどまるようにという彼女の願いをかなえた。
やがてパドマ王は戦争で死に、悲しみにくれる彼女の前に女神サラスワティーが現れる。
女神は王の身体を保存するよう彼女に命じた。
リーラーは夫の死後の状態を知りたいと女神に懇願する。
女神はリーラーにさまざまな次元の世界が不可視のまま相互に関連しながら存在していることを説明し、さらに内的なヴィジョンの中でそれらの世界を訪れる方法を彼女に授けた。
こうして夫の死後の世界を訪れたリーラーは、彼が16歳の若い王として別の王国を統治している姿を見る。
リーラーは驚愕するが、サラスワティーは、リーラーは前世においてヴァシシュタというバラモンの妻アルンダティとして別の世界で小さな小屋に暮らしていたと告げた。
ある日、夫ヴァシシュタはある王が壮麗な行列を従えて行進していくのを見て、自分もあのような王になりたいと願い、その願いを胸に抱きながら死を迎えた。
死別の苦しみに耐え切れない妻アルンダティは、自分自身を夫とともに荼毘に付した。
サラスワティーはこれが一週間前に起こったことで、このバラモンの夫婦がパドマ王とリーラーになったのだと説明する。
この話を疑ったリーラーを納得させるため、サラスワティーは彼女をその世界に連れ戻した。
リーラーは死去したバラモンの夫婦の息子から事実を明らかにされる。
その後、リーラーは瞑想を通して創世記以来の自分の過去世をすべて思い出す。
リーラーとサラスワティーはパドマ王の来世の世界を訪れ、ヴィドゥーラタ王と呼ばれ70歳になっていた彼を見いだす。
彼の現在の妻もやはりリーラーと名乗っていた(ここではリーラーⅡと呼ぶ)。
王の部屋に現れたリーラーとサラスワティーは、王に彼の過去世だったパドマ王について語った。
すると王は再びパドマとして生きたいという願望を抱いた。
リーラーⅡは女神に夫の来世でも彼と共に暮らしたいと懇願する。
やがてヴィドゥーラタ王は戦争で死に、彼の魂は次元を超えて、再びパドマ王の遺体の中に入った。
目を覚まして起き上がったパドマ王は、そこに2人の妻と女神を見いだす。
驚く王にリーラーが状況を説明すると、王は敬意とともにサラスワティーを礼拝した。
サラスワティーは満足すると、祝福として長寿と富、繁栄と真我実現を彼に与えたのだった。
524
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/01/31(金) 23:35:53 ID:1d4drIFg0
時間も空間も人の観念によって作り出されたものに過ぎないのじゃ。
そうであるから相対的なものであり、幾らでも変化するのじゃ。
ひとつである意識が多重に生きたり死んだりすることもありえるのじゃ。
夢がいくつも重なったり、途切れたりするようなものじゃ。
全ては観念の作り出した夢幻なのじゃ。
525
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/01(土) 00:24:51 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話262
イスラム教徒のセイェド博士が、現在アーシュラマムを訪れている。
彼の話では、ここに来る以前、ある疑い深い友人が彼に対抗して、「あなたのマハルシはいったいどんな奇跡を起こすのか?」と質問
した。
セイェド博士は「動物とさして変わらない普通の人々が人間になるのです。そして彼の子供でしかない私たちは、マハルシから力を授かるのです」と答え、さらに「さわやかな内なる静寂が、マハルシの持つ最高の奇跡です」と友人に答えたそうだが、その答えが正しかったのかどうか知りたいと望んでいた。
疑い深い友人は、そのときさらに「それがわれわれにとって何だと言うのか?」と尋ね、セイェド博士は「同じ静寂がすべての訪問者に分かち合われるのです。ポール・ブラントンはそのことを彼の本の中で述べています。マハルシの臨在のもとで、誰もが毎日それを感じているのです」と答えた。
このときの会話の全体がシュリー・バガヴァーンに伝えられ、後に以下の話が続いた。
セイェド博士
パラシュラーマは路上でサンヴリッタに出会ったとき、さわやかな内なる静寂を感じました。
それゆえ、彼はサンヴリッタが偉大な賢者であることを知ったのです。
そのような静寂こそがマハートマーの存在を判断する唯一の基準です。
それ以外にも判断の基準はあるでしょうか?
マハルシ
マーダヴァの聖者タットヴァラヤールは、彼の師スワルーパーナンダに関するバーラニを詩作しました。
パンディット(学者)たちは、「バーラニは戦いで千頭の象も殺すほどの力を持った偉大な勇者を讃えるためにのみ創作されるべき詩であり、人々に知られることなく、ただ座っているだけの怠け者のスワルーパーナンダにその称賛は値しない」と口々に異議を唱えます。
タットヴァラヤールは、彼の師が一度に千頭の象を殺せるかどうかを彼ら自身の目で確かめてもらうため、みなに師のもとに集まるよう願い出ました。
師のもとを訪れるやいなや、彼らは口もきけないほど驚きました。
そしてそれから数日間、彼らは身動き一つせず至福に満ちた静寂の内にとどまったのです。
感覚を取り戻したとたん、彼らは師と弟子の両方に敬意を表して言いました。
「これで得心いたしました。千頭の象よりはるかに手ごわいわれわれの自我を静めたスワルーパーナンダは、戦士よりもはるかに勝るお方です」
マハルシは言った。
「この物語の教訓は明らかです。
マハートマーの臨在の判断基準は静寂にあるのです。」
526
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/01(土) 23:56:54 ID:1d4drIFg0
悟った者には常に静寂が在るじゃろう。
守るべき自我が無いために、余計な思考や情報を求めることがないからなのじゃ。
それは十分に開かれた心を持つ者に伝わるものじゃ。
その静寂はただ言葉が無いだけではなく観念も無いのじゃ。
観念のもたらす苦もない故に、至福に満たされているのじゃ。
527
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/02(日) 00:12:44 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話263
1936年10月20日
セイェド博士
シュリー・バガヴァーンはハートが真我だと言われます。
心理学者は悪意、憎悪、嫉妬などの熱情は、すべてハートに位置していると言います。
どうすればこの二つの説を一致させることができるのでしょうか?
マハルシ
ハートにある針の先ほどの穴の中に、全宇宙が含まれています。 それらの熱情はその宇宙の一部なのです。
それがアヴィディヤー(無知)です。
質問者
アヴィディヤーはどのようにして現れたのでしょうか?
マハルシ
アヴィディヤーとはマーヤー(存在しないもの。幻影)のようなものです。
それと同様に、「存在しないもの」が無知です。
「存在しないもの」であるため、その質問は起こらないのです。
それでもこの質問は尋ねられました。
ならば、「それは誰のアヴィディヤーなのか?」と尋ねなさい。
アヴィディヤーとは無知のことです。
それは主体と対象の存在を必ずともないます。
主体となりなさい。
そうすれば対象は存在しなくなるでしょう。
質問者
アヴィディヤーとは何でしょうか?
マハルシ
真我に無知であることです。
真我に無知なのは誰なのでしょうか?
真我に無知なのは自我に違いありません。
そこに二人の自己が存在するでしょうか?
528
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/02(日) 22:48:30 ID:1d4drIFg0
認識できない認識主体のあるハートにすべては在るのじゃ。
観念としてすべては認識されているのであるからのう。
それが無知なのじゃ。
無知を持つ者は誰なのか、それを追求するべきだとマハリシは言うのじゃ。
無知を持っている者が見られれば、もはや無知もなくなるのじゃ。
それが明知なのじゃ。
529
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/03(月) 00:47:59 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話264
質問者
バガヴァーンは世界を自分自身の一部として見ているのですか? バガヴァーンはどのように世界を見ているのでしょうか?
マハルシ
真我だけが存在し、それ以外は何も存在しません。
しかしながら、無知ゆえにそれは区別されています。
区別には三種類あります。
(1)同じ種類のもの
(2)異なった種類のもの
(3)それ自体の部分として
しかし世界は真我に似た別の真我ではありません。
世界は真我と異なるものではなく、真我の一部分でもありません。
質問者
世界は真我の上に反映されているものではないのでしょうか?
マハルシ
反映には、そこに反映するものと反映されるイメージがなければなりません。
しかし真我はそのような区別を認めないのです。
質問者
それではバガヴァーンは世界を見ていないのでしょうか?
マハルシ
バガヴァーンとは誰のことでしょうか?
質問者
私よりも高等に進歩したジーヴァです。
マハルシ
もしあなたが自分のジーヴァを理解すれば、他の人のジーヴァも理解するでしょう。
質問者
議論をしたいのではありません。
私は学びたいのです。
どうぞ教えてください。
マハルシ
あなたが学ぶことを望むなら、議論は避けられません。
そのようなことは放っておきなさい。
あなたの眠りを見てごらんなさい。
眠りの中で、あなたは束縛に気づいていますか?
眠りの中で、あなたは解放のための手段を探しますか?
眠りの中で、あなたは身体そのものに気づいていますか?
束縛の感覚は身体と結びついています。
さもなければ、束縛というものはなく、縛り付ける縄もなく、縛られる人もいないのです。
しかしながら、それらはあなたの目覚めの状態に現れます。
誰にとってそれが現れるのか考えなさい。
質問者
心にとってです。
マハルシ
心を見なさい。
あなたはそれから超然と離れて在るべきです。
あなたは心ではないのです。
そうすれば、真我は常に存在していることがわかるでしょう。
530
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/03(月) 00:48:40 ID:kwG.5zBA0
質問者
シュリー・バガヴァーンは進化というものを信じていますか?
マハルシ
進化とは一つの段階から別の段階へと移行することです。
そこに何の相違も認められないとき、どうして進化が可能でしょう?
質問者
シュリー・クリシュナはどうして「幾度かの転生を経た後、帰依者は知識を得、そうして私を知るのだ」と言ったのでしょうか?
そこには段階を昇ってゆく進化の過程があるに違いありません。
マハルシ
『バガヴァッド・ギーター』はどのように始まっているでしょうか?
「私も、あなたも、これらの王たちも存在しなかったことはなかった…」
「それは生まれることもなければ死ぬこともない」
それゆえ、誕生も死も、あなたが見ているような現在というものも存在しないのです。
実在は、今までも、今も、これからも存在します。
それは不変です。
後にアルジュナは、「いったいどうしてあなたがアーディティヤ以前に生きていたと言えるのでしょうか?」とシュリー・クリシュナに尋ねます。
誤ってクリシュナを粗大な身体と見なしているアルジュナを見たクリシュナは、彼の視点に合わせて教えを説きます。
その教えは多様性を目にしている(無知な)人のためのものです。
実際には、ジニャーニの視点から見れば、彼自身にとっても他の人にとっても、束縛もなければ解脱もないのです。
質問者
すべての人が解放されていると言うのでしょうか?
マハルシ
どこにすべての人がいると言うのですか?
解放というものさえないのです。
もしそこに束縛があるなら、解放もあるでしょう。
しかし実際には、束縛など存在しません。
それゆえ解放もないのです。
質問者
しかし転生を通して進化していくとすれば、そこには修練が、長年に渡る修練(アビャーサ)があるはずです。
マハルシ
修練は本来の平和を乱すものを防ぐためだけにあるのです。
長年に渡るといったようなことなど何もありません。
たった今、その考えを棄て去りなさい。
修練をしようとしまいと、あなたはただあなたの自然な状態の中に在るのです。
別の質問者
もしそうなら、なぜすべての人が真我を実現しないのでしょうか?
マハルシ
それは同じ質問が形を変えただけです。
なぜこの質問をするのでしょう?
修練に関する質問をしているということが、あなたに修練が必要であることを示しているのです。
ですから、修練をしないさい。
しかし質問や疑問なしに在ることが、本来の自然な状態です。
神は人を創造し、人は神を創造しました。
どちらも単に名前と形の創作者でしかありません。
事実は、神も人間も創造されたことなどなかったのです。
531
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/03(月) 22:59:50 ID:1d4drIFg0
自他の区別があれば世界もあると認識するのじゃ。
自他を共に含容する場がなければならんからのう。
そのようにして万物があるという観念も起こるのじゃ。
自他の観念が無ければすべては一つなのじゃ。
532
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/04(火) 00:16:32 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話265
1936年10月21日
高貴な風貌の女性が数日後に再び訪れた。
彼女は真っ直ぐバガヴァーンのもとに向かい、礼拝して言った。
「前回、私は夫や子供と一緒にまいりました。
私は彼らの食事のことを考えていて、時間に追われておりました。
そのため、心から望むだけここにとどまることができなかったのです。
しかし後になって、性急な訪問になったことを後悔しておりました。
今、私はただ静かに座ってバガヴァーンの恩寵を授かるために戻って来ました。
どうか心の強さを私にお与えください!」
人々はすでに去り、ホールの中は静かだった。
彼女はシュリー・バガヴァーンの前に敷かれた目の荒いカーペットの上に座った。
シュリー・バガヴァーンは微笑みながら言った。
「そうです。
沈黙とは絶え間のない語りかけです。
普通の会話はハートからハートへの会話を妨げてしまうのです」
彼女はそれに同意すると静かに座った。
シェリー・バガヴァーンはソファーの上にもたれたまま座っていた。
彼の眼差しは彼女の姿をとらえて動かず、ロ元は慈悲深い微笑みをたたえていた。
二人とも身動きもせず沈黙の内にとどまったまま一時間が過ぎ去った。
女性は言った。
「私はこれで帰ります。
この地とバンガロールの間の河が洪水になったのです。
私が来る途中、転覆しているバスを目にしました。
私の車はその後に来たので、悲惨な事故を目の当たりにしたのです。
それでも私は河を渡ることを恐れませんでした。
私の車は無事に渡りきりました。
日が暮れる前に帰りたいと思います。
今回は前回のように、『もうここに来るのはこれが最後です』とは申しません。
わかりません。
そうなるかもしれません。
それでも、マハルシ、どうか私に心の強さをお与えくださいますように。
私はバクティ(帰依)を熱望しています。
もっとこの熱望が欲しいのです。
真我の実現などどうでもよいのです。
どうか私をこの熱望の中に昇華させてください」
マハルシ
もしその熱望があるなら、実現はたとえ求めずともあなたに強いられることでしょう。
シュベッチャー(真我実現への願望)は実現への入り口なのです。
質問者
そうなのかもしれません。
しかし私は熱望に満足しています。
たとえこの地を離れても、私は私の帰依心に腰をすえてはならないのです。
どうか必要な力をシュリー・バガヴァーンが授けてくださいますように。
そのような熱望は彼の恩寵を通してしか得られません。
私個人では弱すぎるのです。
前回ここに来たとき、私はいくつかの質問をしました。
しかし私にはシュリー・バガヴァーンの答えを理解できませんでした。
ですから、もう質問をせず、彼の臨在のもとで静かに座り、彼の恩寵を授かろうと思ったのです。
今回はマハルシに質問し続けるのはやめました。
ただ恩寵だけをお授けください。
マハルシ
あなたがこの地を再び訪問したこと自体が恩寵の表れなのです。
彼女は驚いて言った。
「私はマハルシに、私を呼んでくださったのかどうかを尋ねようと思っていたのです。
なぜなら今朝、まったく突然に私の夫が『二日の自由時間があるから、望むならマハルシを訪ねて来るといい』と言ってくれたからです」
「私は驚き、喜びに胸を躍らせました。
これはマハルシからの呼びかけだと感じたからです」
彼女はマハルシのそばで暮らしたいという願望を言い表すと、彼の祝福を求めた。
マハルシ
高次の力があなたを導いているのです。
ただそれに導かれなさい。
質問者
しかし私はそれに気づいておりません。
どうかそれに気づかせてください。
マハルシ
高次の力は何をすべきか、どうすべきかを知っています。
それを信頼しなさい。
533
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/04(火) 22:56:22 ID:1d4drIFg0
沈黙の教えにこそ多くの得るところが在るのじゃ。
言葉による教えは、ただ自らの力で自分を明らかにしなければならんと解るだけであるからのう。
師匠の沈黙を受け取ることができたならば、そのまま深い瞑想に入れるのじゃ。
自分を明け渡した者の安らぎが浸透してくるからなのじゃ。
何も守ろうとしなくて善いと気付くのじゃ。
534
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/05(水) 00:21:31 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話266
イスラム教徒の教授が尋ねた。
「人は欲望を放棄すべきだと言われています。
しかしそこには抑圧しがたい身体の要求もあります。
どうしたらよいのでしょうか?」
マハルシ
真理の探究者は三つの必要条件を備えていなければなりません。
それは(1)イッチャー、(2)バクティ、(3)シュラッダーです。
イッチャーとは身体に執着することなく身体の要求(空腹、渇き、排泄など)を満たすことです。
それが為されないかぎり瞑想は進歩しません。
バクティ(帰依)とシュラッダー(信仰)はすでに知られていることです。
質問者
欲望には基本的なものと高尚なものがあります。
基本的な欲望を高尚な欲望に変化させることが私たちの義務なのでしょうか?
マハルシ
そうです。
質問者
バガヴァーン、あなたは三つの必要条件のうちのイッチャーとは身体への執着なしにその要求を満たすことだと言われました。
私は一日に三度か四度食事を取り、身体の要求の面倒を見ることを強いられてきたのです。
私が身体を離れて、身体的要求という天罰から自由になる状態は来るのでしょうか?
マハルシ
有害なのは執着心(ラーガ・ドヴェーシャ=好き嫌い)です。
行為自体は悪いものではありません。
一日に三度や四度食事を取ることに害はありません。
ただ「私はこの類の食べ物が好きだ、あの食べ物は嫌いだ」などと言ってはいけません。
さらに、あなたは目覚めている十二時間の間に食事を取りますが、眠りの間は食べません。
眠りがあなたをムクティ(解脱)に導くでしょうか?
単なる無為がムクティに導くと考えるのは間違いです。
質問者
サデーハ・ムクタ(生きながら解脱した人)とヴィデーハ・ムクタ(死の際に解脱した人)が存在すると言われています。
マハルシ
解脱(ムクティ)というものはないのです。
どこに解脱した人(ムクタ)がいると言うのでしょう?
質問者
ヒンドゥー教の聖典は解脱について述べていませんか?
マハルシ
ムクティは真我と同義語です。
ジーヴァン・ムクティ(生存中の解脱)とヴィデーハ・ムクティ(身体を離れる際の解脱)といった定義は、すべて無知な人のためのものです。
ジニャーニは解脱や束縛を意識していません。
束縛、解脱、ムクティの段階などは、みなアジニャーニの無知を払い落とすための概念です。
ただムクティだけが存在し、それ以外は何も存在しないのです。
質問者
バガヴァーンの観点から見ればそれでよいでしょう。
しかし私たちはどうなのでしょうか?
マハルシ
「彼」と「私」を区別することが、ジニャーナへの障害なのです。
質問者
それでもバガヴァーンは高次の段階におられ、私たちが限定されていることは否定できません。
私をバガヴァーンと一つにしてくださいますか?
マハルシ
眠りの中であなたは限定に気づいていましたか?
質問者
現在の状態の中に眠りの状態をもたらして、それについて語ることなど私にはできません。
マハルシ
その必要はありません。
それら三つの状態は不変の真我の前を移り変わってゆくのです。 あなたは眠りの状態を覚えているはずです。
それがあなたの真の状態です。
そのとき、そこには何の限定もありませんでした。
「私」という想念が現れた後で限定も現れたのです。
535
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/05(水) 00:22:13 ID:kwG.5zBA0
質問者
どうすれば真我を達成できるのでしょうか?
マハルシ
真我は達成されるものではありません。
なぜなら、あなたが真我だからです。
質問者
そうです。
不変の自己と変化する自己が私の中に存在しているのです。
そこには二人の自己があるということです。
マハルシ
変化するのは単なる想念にすぎません。
すべての想念は「私」という想念が現れた後にのみ現れます。
想念が誰にとって現れたのかを見いだしなさい。
そうすればそれは超越され、そして静まるでしょう。
すなわち、「私」という想念の源をたどることで、あなたは完全な「私─私」を実現するのです。
「私」とは真我の名前なのです。
質問者
「私はブラフマンである」(アハン・ブラフマースミ)に瞑想すべきでしょうか?
マハルシ
その確言は「私はブラフマンである」と考えるためのものではありません。
アハム(「私」)は誰もが知っています。
ブラフマンはアハムとしてすべての人の中に宿っています。
「私」を見いだしなさい。
「私」はすでにブラフマンなのです。
そう考える必要などありません。
ただ「私」を見いだしなさい。
質問者
鞘(コーシャ)を棄て去っていく方法が聖典に述べられているのではありませんか?
マハルシ
「私」という想念が現れた後、「私」と身体、感覚、心などとの偽りの自己同一化が起こります。
「私」が誤ってそれらと結びついたため、真の「私」は見失われてしまったのです。
汚れた「私」から純粋な「私」へと変容させるために、鞘を捨て去るということが聖典に述べられています。
しかしそれは、正確には真我ではないものを棄て去ることではなく、真我を見いだすことにあるのです。
真我は無限の「私─私」です。
その「私」は完全です。
それは永遠なるもの、始まりも終わりもないものであり、もう一つの「私」は生まれ、そして死んでいく、はかない一時的なものです。
変化する想念が誰にとって現れるのかを見いだしなさい。
それらは「私」という想念が現れた後に現れることがわかるでしょう。
その「私」という想念をとらえなさい。
そうすれば、それは静まります。
「私」という想念の源をたどりなさい。
そうすれば、真我のみが残るのです。
質問者
やはり私には難しく感じられます。
理論的には理解できるのですが、実際の修練はどうすればよいのでしょうか?
マハルシ
他の方法は真我探究を選べなかった人たちのためのものです。
「アハン・ブラフマースミ」と唱えるにせよ考えるにせよ、それをする者が必要です。
それは誰でしょうか?
それが「私」です。
その「私」として在りなさい。
それが直接的な方法です。
それ以外の方法も、最終的にはこの真我探究へと導くのです。
質問者
「私」には気づいています。
それでも私の問題は終わらないのです。
マハルシ
この「私」という想念は純粋ではありません。
それは身体や感覚と結びついて汚れています。
誰にとっての問題なのかを見なさい。
「私」という想念にとってです。
それをとらえなさい。
そうすれば他の想念は消え去るでしょう。
質問者
はい。
どうすればよいのでしょうか?
それが問題なのです。
マハルシ
「私、私、私」と考えなさい。
他のすべての想念を排除して、その一つの想念だけをとらえるのです。
536
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/05(水) 22:38:29 ID:1d4drIFg0
食欲などの生きるための欲は滅しなくて善いものじや。
それがなければ死んでしまうからのう。
身体への執着をなくして食べたり呑んだりするとよいのじゃ。
修行のためだけに肉体を維持するという心構えができれば進歩も早いのじゃ。
537
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/06(木) 00:40:21 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話267
1936年10月23日
ホールの中で動物の仲間について話していたとき、シュリー・バガヴァーンはアッヴァイのタミル語の詩を引用した。
ある老婦人が一人歩いていると、誰かが聖者カンバールを讃える声が聞こえてきた。
彼女は一つの詩でその声に応えた。
「それぞれがそれぞれの表現において偉大なのです。
鳥が素晴らしい巣をつくるとき、カイガラ虫が樹脂で巣をつくるとき、ミツバチが巣をつくるとき、アリが地中に街をつくるとき、クモが巣をつくるときと比べれば、カンバールの偉大さが何だと言うのでしょう?」
それから、バガヴァーンはそれらの活動を描写し始めた。
丘の上に暮らしていたとき、シュリー・バガヴァーンは壁が石と泥でできた藁葺き屋根の小屋を見つけた。
そこにはシロアリが住み着き、絶えず問題を起こしていた。
そこで屋根は引き下ろされ、シロアリがはびこっていた土壁は解体された。
彼は石で守られた空洞が街のようになっている巣を見た。
それは黒い漆喰の壁で囲まれ、そこからは同じように黒い漆喰で縁どられた隣りの巣へと道が続いていた。
道は壁によって示されていた。
巣の内部はシロアリが暮らしていた穴でいっぱいだった。
このようにシロアリは壁全体に住みつき、屋根の素材を台無しにしたのである。
シュリー・バガヴァーンはクモが巣をはっているところも見ていて、そのときのことを語った。
クモは一つの場所にいたと思うや、別の場所に移り、それから三番目の場所に飛び移動った。
糸はそれら三つのスポットに固定された。
クモはそれに沿って動き、昇ったり降りたりしながらぐるぐると回り続け、やがて巣は完成した。
それは幾何学的な模様だった。
巣は朝に繰り広げられ、夕方には巻き込まれた。
同様に、スズメバチが樹脂で巣をつくるところなどの話が出た。
こうして見ると、それぞれの動物がそれぞれに注目すべき本能を授かっている。
他の生き物と同じようにすべては神の意志によるものなのだから、カンバールの学識も驚くに値しないのだ。
538
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/06(木) 23:08:17 ID:1d4drIFg0
自然こそ偉大な芸術家なのじゃ。
人間が作ることも出来ない芸術品を次々に作り出すのじゃ。
それも創造神の仕業ならば人の及ぶところではないのじゃ。
自然を見れば小さな自分もなくてよいと気付くのじゃ。
539
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/07(金) 00:43:46 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話268
セイェド博士
救済とは何でしょうか?
キリストはその言葉で何を意味したのでしょうか?
マハルシ
誰のための救済でしょうか?
何からの救済だと言うのでしょうか?
質問者
世界の苦しみや悲しみからの救済、個人のための救済です。
マハルシ
誰の悲しみでしょうか?
質問者
心のです。
マハルシ
あなたは心ですか?
質問者
どうしてこの質問が起こったのかを今から説明します。
私は瞑想していました。
キリストの恩寵によってある帰依者が救済を得るという話について考えていたのです。
私はシュリー・バガヴァーンをキリストと同じだと考えています。
救済は同じような恩寵の結果なのではないでしょうか?
これが私の質問の本意だったのです。
マハルシ
そうです。
そのとおりです。
質問者
『私は誰か?』という小冊子は、本質を見ること(スワルーパ・ドリシュティ)について述べています。
そこには見る者と見られるものという二元性があるはずです。
どうしてそれが究極の実在と一致すると言うのでしょうか?
マハルシ
あなたはなぜ救済や悲しみからの解放を求めるのでしょうか?
それを求める人がそれを見ているのです。
「見ること」(ドリシュティ)とは意識です。
意識が主体と対象を構成します。
真我から離れてドリシュティがありえるでしょうか?
それゆえ、真我は(ドリシュティなどを含めた)すべてなのです。
これが真実です。
質問者
どうすれば自我と完全な「私─私」を識別できるでしょうか?
マハルシ
立ち現れては沈みゆくもの、それは一過性の「私」であり、始まりも終わりもないもの、それが永遠の「私─私」意識です。
質問者
絶えず真我について考え続けることが心をより清らかにし、ついには至高なるもの以外の何も考えないようになるのでしょうか?
マハルシ
平和に満ちた心というものがあります。
それが至高なるものです。
その同じ心も落ち着きを見失えば想念に苦しめられます。
心とは真我の動的(ダイナミック)な力(シャクティ)なのです。
質問者
心の鞘とは物質なのでしょうか?
それは真我とは異なるのでしょうか?
マハルシ
物質と精神の間に違いはありません。
現代科学はすべての物質がエネルギーであることを認めています。
エネルギーとは力あるいはシャクティです。
それゆえ、すべてはシヴァとシャクティ、すなわち真我と心に帰するのです。
コーシャ(心の鞘)は単なる現れにすぎません。
それには何の実在性もありません。
540
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/07(金) 00:44:32 ID:kwG.5zBA0
質問者
一日に何時間を瞑想に捧げるべきでしょうか?
マハルシ
瞑想はあなたの本性なのです。
質問者
熟達すればそうなるのでしょうが、今はそうではありません。
マハルシ
後になって、あなたはそれを意識するのです。
だからといって、今のあなたの本性が瞑想と異なるわけではありません。
質問者
修練に関してはどうなのですか?
マハルシ
瞑想は常に修練されるべきです。
質問者
ペルシャの神秘家は「ただ神のみが存在する」と言います。
コーランは「神はすべてに内在する」と述べています。
マハルシ
神を離れて「すべて」というものが存在し、その「すべて」に神が浸透しているというわけではありません。
ただ神だけが存在するのです。
質問者
人としての最高の務めが真我への絶えざる黙想(アートマ・チンタナ)であることをひとたび悟れば、家庭生活の義務を放棄しても道徳的に正しいのでしょうか?
マハルシ
放棄しようという欲望が障害なのです。
真我はシンプルな放棄です。
真我はすべてを放棄したのです。
質問者
バガヴァーンの見地からすればそれは真実でしょう。
しかし私たちにとっては……私の仕事は私の時間とエネルギーの一番重要な部分を要求します。
しばしば私は真我への黙想に絶え間なく専念するには疲れすぎているのです。
マハルシ
「私が働いている」という感覚が妨げなのです。
「誰が働いているのか?」と尋ねなさい。
「私は誰か?」という問いを憶えていなさい。
そうすれば仕事があなたを束縛することはないでしょう。
仕事は自動的に為されていくでしょう。
仕事をするためや仕事を放棄するために努力をしてはなりません。
あなたの努力が束縛となるのです。
起こるべく定められていることは、起こるでしょう。
もしあなたが仕事をしないように定められているのであれば、仕事はいくら探しても見つからないでしょう。
働くように定められているのであれば、それを避けることはできません。
あなたはその仕事をするように強いられるでしょう。
それゆえ、高次の力にゆだねなさい。
あなたの思いのままに放棄したり続けたりすることはできないのです。
*シヴァとシャクティ…
シヴァはヒンドゥー教三大神の1人で、創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌに続く破壊を司る神。
またヨーギーの神でもある。
彼の最初の妻サティは逝去した。
後の妻パールヴァティー(サティの生まれ変わり。シャクティ、ウマー、ドゥルガー、カーリーなどの名でも知られる)と、彼の息子ガネーシャとカールティケーヤとともに一家はヒマラヤのカイラース山に暮らしている。
至高の実在は2つの基本原理シヴァと彼の妻シャクティによって成り立つ。
シヴァは不変不滅の純粋意識であり、非顕現が彼の本来の姿である。
シャクティは自己を世界として顕現させる至高の力(宇宙の母)であり、精神と物質の両方として現れる。
シヴァは休息状態にある純粋意識、シャクティは活動状態にある純粋意識とも言える。
それゆえ、シャクティはシヴァ自身であって、彼の創造的側面なのである。
究極的に、2人は1つであり、そこに区別はない。
541
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/07(金) 23:21:49 ID:1d4drIFg0
悟っていない者は常に実在しない自分について心配しているのじゃ。
日常生活をどうしようとか、金を稼ぐことは出来るのかとか思い悩むのじゃ。
老死というどうにもできないことを忘れているのじゃ。
死が明日来るとわかっていたとしたら、日常とか金を稼ぐのも無意味と知るじゃろう。
ただひたすらにアートマンを求めることが唯一できることなのじゃ。
542
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/08(土) 00:27:36 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話269
質問者
すべてに内在する神がどうして「ハートの空間」(ダハラーカーシャ)に宿ると言われるのでしょうか?
マハルシ
私たちもどこか一つの場所に住むのではありませんか?
あなたはあなたの身体の中にいると言いませんか?
同じように、神はハートの蓮華(フリト・プンダリーカ)の中に宿ると言われています。
ハートの蓮華とは場所のことではありません。
私たちは身体の中にいると信じているので、神の宿る場所としてある名前が定められたのです。
このような教えは相対的知識しか受け入れられない人たちのためにあります。
すべてに内在する神に特定の場所はありません。
私たちは身体の中にいると考えるため、自分は生まれてきたのだと信じてしまいます。
しかし深い眠りの中で、身体や神や実現の方法などについて考えることはありません。
それにもかかわらず、目覚めの状態では身体にしがみつき、私たちはその中にいると考えるのです。
「至高の存在」とは、身体がその中から生まれ、その中に生き、その中へと融け去る場所です。
それにもかかわらず、私たちは身体の中に生きていると考えています。
それゆえ、そのような教えが与えられたのです。
その教えの意味は、「内側を見なさい」ということです。
543
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/08(土) 22:33:30 ID:1d4drIFg0
胸に集中するのも方法として説かれただけなのじゃ。
そこに神がいるのではないのじゃ。
そのように説くことで集中も高まるからなのじゃ。
全て心の中を見させるための方便なのじゃ。
544
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/09(日) 00:19:25 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話270
ネロールの英語講師であるG・V・スッバラーマイアー氏が尋ねた。
「ブラフマンはこれらすべてに浸透しているものです(イェーナ・サルヴァミダン・タタム)。
しかしそれにもかかわらず、なぜ『バガヴァッド・ギーター』の第十章の中で、シュリー・クリシュナは「神聖な顕現」(ヴィブーティ)を特定して語ったのでしょうか?」
マハルシ
それを特定付けたのは、礼拝の便宜(ウパーサナ・サウカリャム)から主のヴィブーティについて知りたいと願ったアルジュナの特定の質問への答えだったのです。
事実は、神はすべてであり、神から離れて存在するものなど何もないのです。
質問者
個人は衰えた身体(ジールナニ・シャリーラニ)を棄て去り、新しい身体(ナヴァニ・シャリーラニ)を得ると言われています。
これは幼児の死においても言えることなのでしょうか?
マハルシ
そもそもあなたは何がジールナニで何がナヴァニかを知りません。
第二に、ジールナ(衰えた)とナヴァ(新しい)は相対的な用語です。
王にとって古いものは、乞食にとって新しいものかもしれません。
真実は、個人とは解脱が起こるまで身体として顕現している状態を意味するのです。
*シュリー・クリシュナは「神聖な顕現」(ヴィブーティ)…
『バガヴァッド・ギーター』の第10章「ヴィブーティ・ヨーガ」においてアルジュナは、「これらすべてを満たしているあなたの『神聖な顕現』(ヴィブーティ)について語ってください。どのようにあなたを知り、あなたに念じればよいのか教えてください」とクリシュナに求める。
クリシュナは「私の顕現は神性であり、その多様性には限りがない。それゆえ、その主要なものをあなたに語ろう。いかなるものでも権威があり、栄光に満ち、生気と活力にあふれたもの、それは私の光輝から生じたものと理解しなさい」と説き、彼のパラマートマンとしての「神聖な顕現」がさまざまな存在を通して現されていることを、その例を挙げて描写した。
545
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/09(日) 21:45:08 ID:1d4drIFg0
今ここにある肉体もまた意識の現われなのじゃ。
それがなくなって新しい体になるということもないのじゃ。
個人という観念が無ければ全ては一つなのじゃ。
あるがままの肉体で解脱は得られるのじゃ。
546
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/10(月) 00:19:55 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話271
セイェド博士
どうすれば恩寵が得られるのでしょうか?
マハルシ
真我を得るのと同じようにです。
セイェド博士
実際的にはどうすべきなのでしょうか?
マハルシ
自己を明け渡すことです。
セイェド博士
恩寵は真我だと言われます。
それでは、私は自分自身の真我に明け渡すべきなのでしょうか?
マハルシ
そうです。
恩寵を授けるその人に明け渡すのです。
神、グル、真我は姿が異なるだけで同じものです。
セイェド博士
どうぞ私に理解できるように説明してください。
マハルシ
あなたが自分を個人だと考えているかぎり、あなたは神を信じるでしょう。
神を礼拝することによって、神はあなたの前にグルとして現れます。
グルに奉仕することによって、神は真我として姿を現すのです。
これが論理的な説明です。
547
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/10(月) 23:30:27 ID:1d4drIFg0
自分があるという認識から孤独や恐れがあり、その逃避として神という観念にも縋るのじゃ。
自分が無ければ孤独や恐れも無く、神と言う観念に縋る必要も無いからそれも消えるのじゃ。
そしてすべてであるものは常にあったと気付くのじゃ。
それは神という観念以上の神とも言えるのじゃ。
548
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/11(火) 00:22:38 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話272
質問者
世界中に災害が蔓延し、飢饉や伝染病などによる荒廃が広まっています。
このような状態の原因は何なのでしょうか?
マハルシ
これらすべては誰にとって現れるのでしょうか?
質問者
それは通用しません。
私は苦しみを至るところで見ているのです。
マハルシ
眠りの中では、あなたは世界とその苦しみに気づいていませんが、今、目覚めの状態の中ではそれを意識しています。
あなたがそれらに悩まされていない状態の中にとどまりなさい。
つまりあなたが世界に気づいていないとき、その苦しみはあなたに影響を与えないのです。
眠りのときのように、あなたが真我としてとどまるとき、世界とその苦しみはあなたに影響を与えないでしょう。
それゆえ、内面を見なさい。
真我を見なさい!
そのとき、世界とその不幸は終焉するでしょう。
質問者
しかしそれは利己主義です。
マハルシ
世界は外側にあるのではありません。
あなたが誤って自己を身体と同一視するために、世界を外側に見て、その苦しみが現れるのです。
しかしそれは実在ではありません。
実在を探し出し、この偽りの感覚を払い去りなさい。
質問者
世界の悲惨な状態を解決することのできない政府高官や偉大な人々がいます。
マハルシ
彼らは自分本位であり、それゆえ問題を解決できないのです。
もし彼らが真我の内にとどまるなら、彼らも違っていることでしょう。
質問者
マハートマーたちはどうして助けないのでしょうか?
マハルシ
彼らが助けていないと、どうして知っているのですか?
マハートマーの沈黙は、演説、身体的活動、物質的援助のすべてに勝ります。
彼らは他の誰よりも成果を達成するのです。
質問者
世界の状況を改善するために、私たちにできることとは何でしょうか?
マハルシ
もしあなたが苦しみから解放されれば、苦しみはどこにもなくなるでしょう。
現在の問題はあなたが世界を外側に見て、そこに苦しみがあると考えるからです。
しかし世界もその苦しみもあなたの中にあるのです。
もしあなたが内側を見れば、苦しみはなくなるでしょう。
549
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/11(火) 00:23:40 ID:kwG.5zBA0
質問者
神は完全です。
それなのに、なぜ神は世界を不完全に創造したのでしょうか?
作品は作者の性質を帯びるものです。
しかし世界に関してはそうではありません。
マハルシ
その質問をしているのは誰でしょうか?
質問者
私、つまり個人です
マハルシ
この質問をするあなたは神から分離しているでしょうか。
自分自身を身体だと考えているかぎり、あなたは世界を外側に見ます。
そして、それはあなたにとって不完全なものとして現れるでしょう。
神は完全です。
彼の仕事も完全です。
しかし誤った自己同一化ゆえに、あなたは世界を不完全なものと見るのです。
質問者
なぜ真我はこの悲惨な世界として現れるのでしょうか?
マハルシ
あなたに真我を探究させるためです。
あなたの目はそれ自身を見ることができません。
鏡を置いてみなさい。
そうすれば、目はそれ自身を見ることができます。
創造についても同じことなのです。
「まずあなた自身を見なさい。
そして全世界を真我として見なさい」
質問者
つまり、常に内側を見るベきだということですね。
マハルシ
そうです。
質問者
世界をまったく見るべきではないということでしょうか?
マハルシ
あなたは世界に対して目を閉じるようにと言われたわけではありません。
まずあなた自身を見て、それから全世界を真我として見なさい。
もしあなたが自分自身を身体だと考えるなら、世界は外側に現れるでしょう。
もしあなたが真我であるなら、世界はブラフマンとして現れるのです。
550
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/11(火) 22:49:36 ID:1d4drIFg0
世界は常に自らの心の反映である故に、悲惨な世界を見る者は悲惨な自分の心を見ているのじゃ。
それもまた雑念でしかないのじゃ。
自分自身を見ることで、幻想もなくなるのじゃ。
すべてと一つである本質の意識が感じられるからのう。
551
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/12(水) 00:22:26 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話273
セイェド博士
私は『アルナーチャラへの五つの賛歌』を読んでいました。
それらの賛歌はあなたによってアルナーチャラに捧げられたものです。
あなたはアドヴァイタ学派の師です。
どうして神を分離した存在として崇めることができるのですか?
マハルシ
帰依者、神、賛歌はすべて真我なのです。
質問者
それでもあなたは神に呼びかけています。
あなたはアルナーチャラの丘を神として特定しているのです。
マハルシ
あなたは真我を身体と同一視しています。
帰依者が真我とアルナーチャラを同一視してはいけませんか?
質問者
もしアルナーチャラが真我なら、どうして他の多くの丘の中から特別に選び出されたのでしょうか?
神はいたるところに存在しています。
なぜあなたはアルナーチャラを神と特定するのでしょうか?
マハルシ
アラハバードからこの地にあなたを引き寄せたのは何でしょうか?
これら大勢の人々は何に魅了されたのでしょうか?
質問者
シュリー・バガヴァーンです。
マハルシ
なぜ私はこの地に惹きつけられたのでしょうか?
アルナーチャラによってです。
その力を否定することはできません。
アルナーチャラは外側ではなく、内側にあります。
真我がアルナーチャラなのです。
質問者
聖典の中にはアートマン、パラマートマン、パラーなどの用語が用いられています。
それらにはどのような段階があるのでしょうか?
マハルシ
それらの言葉を用いる人にとって意味は同じですが、その人の霊的発展によって理解は異なります。
質問者
しかしなぜ彼らは同じことを表すのにこれほど多くの言葉を用いるのでしょうか?
マハルシ
それは状況や環境によるのです。
それらはみな同じことを意味しています。
パラーとは「非相対的」あるいは「超相対的」を意味します。
つまり「絶対なるもの」ということです。
質問者
ハートに瞑想するために、私は胸の右側に瞑想するべきでしょうか?
マハルシ
ハートとは身体的なものではありません。
瞑想は右側や左側にではなく、真我にされるべきものです。
誰もが「私は在る」ことを知っています。
「私」とは誰でしょうか?
それは外側にも内側にもなく、右側にも左側にもありません。
「私は在る」。
ただそれだけです。
ハートはそこからあらゆるものが現れ出る中心です。
あなたが世界や身体などを見るため、そこにはハートと呼ばれる中心があると言われるのです。
あなたがハートの中に在るとき、そのハートは中心でも周辺でもないことがわかります。
ハート以外には何も存在しないのです。
いったい誰の中心だと言うのでしょうか?
質問者
真我と非真我は、実体とその影のようなものと見てよいのでしょうか?
マハルシ
実体と影は、影だけを見てそれを実体と見誤る人にとってのみ存在します。
しかし実在だけに気づいている人にとっては、実体も影も存在しないのです。
質問者
仏陀は自我が存在するかと聞かれたとき、沈黙を保ちました。
自我は存在しないかと聞かれたときも、沈黙を保ちました。
神が存在するかと聞かれたとき、沈黙を保ち、神は存在しないかと聞かれたときも、沈黙を保ちました。
沈黙がこれらすべてに対する彼の答えだったのです。
マハーヤーナ(大乗仏教)とヒーナヤーナ(上座部仏教)はどちらも彼の沈黙を誤解したのです。
なぜなら、彼らは仏陀が無神論者だと主張するからです。
もし彼が無神論者なら、どうしてニルヴァーナや、誕生と死、カルマや、輪廻転生や、ダルマについて語る必要があったでしょうか?
彼の解釈者たちに誤りがあったのです。
そうではありませんか?
マハルシ
あなたの言うとおりです。
552
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/12(水) 21:20:11 ID:1d4drIFg0
お釈迦様は神はいるかと信者に聞かれた時に神は居ると答えたのじゃ。
なぜそのように言うのかと聞かれたら、みんなが神は居ると言うからなのじゃと、答えたのじゃ。
神もまた人の作り出した観念であり、それがいるということで修行する者のために居るというのじゃ。
一切の観念が無ければ神もまた消えるのじゃ。
553
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/13(木) 00:25:04 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話274
1936年10月27日
セイェド博士が尋ねた。
「どうすればヴィシュヌ派主義とアドヴァイタ(不二一元論)の教義の相違を一致させることができるでしょうか?」
マハルシ
ヴィシュヌ派主義者は自らをヴィシシュタアドヴァイタ派(限定不二一元論)と自称しています。
これもまたアドヴァイタです。
個人が、魂、自我、粗大な身体で構成されているように、神もまたパラマートマン、世界、個人で構成されているのです。
質問者
バクティ(帰依、明け渡し)は二元性を暗示しているのではないでしょうか?
マハルシ
スワ・スワルーパーヌサンダーナン・バクティルティヤービディーヤテー。
「自分の真我に黙想することがバクティである」。
バクティと真我探究は一つであり、同じものです。
アドヴァイタ信奉者にとっての真我は、バクタ(帰依者)にとっての神なのです。
質問者
人類の精神的幸福を見守るすべての宗教の開祖たちの間には霊的階級があるのでしょうか?
マハルシ
階級があるかどうかは、せいぜい憶測の域を出ることはないでしょう。
アートマンはプラティヤクシャ(自明。直接体験)です。
それを知りなさい。
そして憶測のことは放っておきなさい。
そのような階級を認める人もいれば、認めない人もいるでしょう。
しかしアートマンを否定できる人はいないのです。
質問者
シュリー・バガヴァーンはプラヴリッティ・マールガ(行為の道)と二ヴリッティ・マールガ(放棄の道)についてどう思われますか?
マハルシ
どちらも聖典に見られます。
その何について知りたいのですか?
質問者
二つのうちのどちらが優れているのでしょうか?
マハルシ
あなたが純粋無垢な真我を見るなら、それがニヴリッティです。
世界とともに真我を見るなら、それがプラヴリッティです。
別の言葉で言えば、内面に向かった心がニヴリッティで、外面に向かった心がプラヴリッティなのです。
いずれにせよ、真我を離れて存在するものなど何もありません。
どちらも同じことです。
霊的階級についても同様で、それらもまた真我なしには存在できません。
それらは真我の中だけに存在し、真我として在り続けます。
それゆえ、真我実現がすべての人にとっての唯一の目標なのです。
*スワ・スワルーパーヌサンダーナン…:『ヴィヴェーカ・チューダーマニ』31
解脱に達する道の中でバクティは最高の道である。
自分の真我について黙想することがバクティである。
554
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/13(木) 22:11:34 ID:1d4drIFg0
バクティとは帰依の道なのじゃ。
自分の全てを神仏に明け渡すのじゃ。
それはアートマンを探求することと同じなのじゃ。
全てを明け渡さなければアートマンも実現できないからのう。
行為と放棄もまた同じなのじゃ。
555
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/14(金) 00:16:23 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話275
1936年11月5日
会話の中で、ある晩ポール・ブラントンが一人の女性と家に向かって歩いていたとき、丘の半分が光り輝き出し、それが北から南へゆっくりと静かに動いていったのを見た、という話が持ち上がった。
マハルシ
この丘は叡知が目に見える姿を取ったものだと言われています。
質問者
どうしてそれが物理的な目に見えるのでしょうか?
マハルシ
聖サンバンダール(ティルニャーナ)はこのアルナーチャラの丘について、「私のハートを魅了して、虜にした人、心の中で私は彼を歌い讃える」と歌っています。
ハートが丘の虜となり、その結果、心がハートの中に沈み込んだに違いありません。
しかしその後でも、そこにはまだ記憶が残っていて、聖者が神を歌い讃えることを可能にしたのです。
それから、ある若い帰依者の体験についての話があった。
良い環境に育って教養もあり、健康で明晰な心を持った青年が、あるとき家でシュリー・バガヴァーンの写真を見ながら瞑想していた。
すると写真の中の姿が突然動き出したのである。
若者は発作的に恐怖に突き落とされた。
彼が母親を呼ぶと、母親は何が起こったのかと尋ねた。
若者は自分の姿を戸惑いながら見守っている親戚一同に取り囲まれていた。
彼らがそこにいることに気づいてはいたが、まだ抑えがたい神秘的な力に圧倒されていた。
彼は短い間意識を失ったが、意識が戻ると再び恐怖が襲いかかった。
人々は心配し、薬で彼の正気を取り戻そうと試みた。
後にその若者がティルヴァンナーマライに来たときもその体験に似たような前兆が現れたが、シュリー・バガヴァーンの臨在が新たな発作の起こるのを食い止めた。
しかしホールから外に出ていく度に、抑えがたい力が彼を恐怖に落とし入れたのだった。
シュリー・バガヴァーンは言った。
「そうなのですか?
そのことは誰からも聞いていません」
一人の帰依者が尋ねた。
「もしかしたら、それはシャクティパート(聖なる力の降臨)だったのではないでしょうか?」
マハルシ
そうです。
狂人はサンスカーラ(生来の精神的傾向)にしがみつきますが、賢者はそうしません。
二人の間の違いはそれだけです。
真我の知識(ジニャーナ)は一種の狂気なのです。
質問者
しかしシャクティパートは、功徳と罪過が等しいカルマサミャのときに起こると言われています。
マハルシ
そうです。
マラパリパーカ(不純性の完全な排除)、カルマサミャ(功徳と罪過が均衡したカルマ)、シャクティパートはどれも同じことです。
人はサンスカーラの流れに沿って生きています。
自分が真我だということを教えられたとき、その教えは彼の心に影響を与えて想像力を奔出させます。
そしてほとばしりだすその力の前に彼は無力となるのです。
彼が真我を何と想像しようとも、彼の体験は彼の「私は真我だ」という想像の状態に左右されます。
シャクティパートだけが真実の正しい体験を授けることができるのです。
教えを受けるにふさわしい時が来ると、彼の心はハートに沈み込もうとします。
そのとき、教えは一瞬にして作用し、彼は真我を実現するのです。
まだ機が熟していない場合は、必ずそこに葛藤があるでしょう。
マノーナーシャ、ジニャーナ、チッタ・エーカーグラター(心の消滅、知識、一意専心)はどれも同じことを意味しているのです。
556
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/14(金) 23:24:29 ID:1d4drIFg0
修行していくとさまざまな不思議なことも起こるものじゃ。
それを恐れて逃避してはいかんのじゃ。
恐れにも逃避せずに乗り越えれば悟りもやってくるのじゃ。
自我を失う恐れも乗り越えて進むのじゃ。
557
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/15(土) 00:54:42 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話276
ウッタル・プラデーシュ州からある女性が兄弟と友人と体格のよい護衛を連れて訪れた。
彼女はホールに入ると深い敬意と感情を込めてマハルシに礼拝し、それから彼の前の毛織の敷物の上に座った。
そのとき、シュリー・バガヴァーンはある少年の転生に関する物語『トリリンガ』(テルグ語版)を読んでいた。
少年は現在十三歳で、ラクナウ近郊の村の公立高校で学んでいた。少年は三歳の頃、よくあちこちを掘っていた。
人から尋ねられると、彼は地中に隠したものを探しているのだと答えた。
四歳になったとき、彼の家で結婚式が催された。
ある客人が家を去る間際に、「この子の結婚式のときにまた戻ってこよう」と笑いながら言った。
だが少年は振り返ると、「私はすでに結婚して、二人の妻がいる」と答えたのである。
それは誰なのかと尋ねられると、少年はある村に連れて行って欲しいと頼んだ。
そこで少年は二人の女性が自分の妻であることを指摘したのだった。
現在、彼女たちの夫の死と少年の誕生までの間に十ヶ月が経過していたことが知られている。
このことがその女性に告げられたとき、彼女は「個人の死後の状態を知ることは可能なのでしょうか?」と尋ねた。
マハルシ
ある人は死の直後に生まれ、ある人は時間が経過した後に生まれます。
ごく少数の人はこの地上に再誕生せず、ある高次の境界で救済を得ます。
そして非常に少数の人は、今ここで解脱するのです。
質問者
そういう意味ではありません。
個人の死後の状態を知ることはできるのでしょうか?
マハルシ
それは可能です。
しかしなぜ知ろうとするのですか?
あらゆる事象は探究者の次元と同じだけの真実性を持つのです。
質問者
ある人の誕生、その存在と死は、私たちにとって現実のものなのです。
マハルシ
それはあなたが誤って自分を身体と同一視するために、他の人も身体だと見なしてしまうのです。
実際は、あなたも他の人も身体ではないのです。
質問者
しかし私の理解によれば、私も息子も現実です。
マハルシ
「私」という想念の誕生が自己の誕生であり、「私」という想念の死が個人の死なのです。
「私」という想念が立ち現れた後、身体との誤った自己同一化が起こります。
自分自身を身体と見なすことで、あなたは他の人に偽りの価値を与え、彼らを身体と同一視してしまいます。
そして自分の身体が生まれ、成長し、死にゆくように、他の人も生まれ、成長し、死にゆくと考えるのです。
あなたは自分の息子が誕生する前に、彼のことを考えましたか?
その想いは彼の誕生の後に起こり、彼の死後にさえ継続します。
あなたがその子供のことを考えているかぎり、彼はあなたの息子なのです。
その子供はどこに行ったのでしょうか?
彼は彼が現れ出た源に戻ったのです。
彼はあなたと一つです。
あなたがいるかぎり、あなたの息子もまたそこにいるでしょう。
もしあなたが自分自身を身体と同一視することをやめて真我を見るなら、この混乱は終焉するでしょう。
そうすれば、あなたは永遠であり、他の者たちもまた永遠であるということを見いだすのです。
この真理を悟るまでは、誤った知識と同一化から生まれた偽りの価値観による苦悩はあり続けるでしょう。
質問者
シュリー・バガヴァーンの恩寵によって、真の知識が得られることを願っています。
マハルシ
「私」という想念を取り去りなさい。
「私」が生きているかぎり苦悩はそこにあります。
「私」が消え去るとともに苦悩もなくなるのです。
眠りの状態を考えてみなさい。
質問者
そのとおりです。
しかし私が「私」という想念に集中しようとすると、他の想念が現れて邪魔するのです。
マハルシ
その想念が誰のものなのかを見なさい。
そうすれば、それらは消え去るでしょう。
それらは「私」という一つの想念を根としています。
それをとらえなさい。
そうすれば、他の想念は消え去るでしょう。
558
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/15(土) 00:57:03 ID:kwG.5zBA0
師は再び『ヨーガ・ヴァーシシュタ』第二十章からプンニャとパーヴァナの物語を示した。
その物語の中で、両親の死に直面した兄のプンニャは弟のパーヴァナを慰め、彼を真我実現へと向かわせたのだった。
マハルシ
創造は神による創造(イーシュヴァラ・スリシュティ)と個人による創造(ジーヴァ・スリシュティ)という二つの側面を持っています。
二つのうち、宇宙は前者であり、個人と関連するのは後者です。
前者に関係なく喜びや苦しみを起こすのは後者なのです。
『パンチャダシー』からある物語が語られた。
南インドのある村に二人の若者がいた。
彼らは北インドへ巡礼の旅に出た。
彼らのうちの一人は死んでしまったが、生き残った方は働いていたため、もう数ヶ月収入を得てから村に帰ろうと決心した。
そうしているうち、彼は一人の巡礼者に出会った。
そこで彼は南インドの彼の村に行き、自分自身のことと死んだ友人のことを伝えてもらうよう巡礼者に頼んだのだった。
巡礼者は言われたようにしたが、名前を取り違えてしまった。
その結果、死んだ方の両親は彼の安全を喜び、生きている方の両親は嘆き悲しんだのである。
マハルシ
ごらんなさい。
このように喜びと苦しみは事実によるものではなく、精神的観念によるものだということがわかるでしょう。
その責任(原因)は個人による創造(ジーヴァ・スリシュティ)にあるのです。
ジーヴァを殺しなさい。
そうすれば喜びと苦しみは消え去り、精神的な至福が永遠に続くでしょう。
「ジーヴァを殺す」とは、真我の中にとどまることを意味しているのです。
質問者
このすべてを聞いても、それは私の理解を超えています。
どうぞ私に理解できるようお助けださい。
私はマイソールの滝に行ったことがあります。
その眺めは心を魅了するものでした。
水の流れは指の形をして、あたかも岩をつかみ取ろうとしながらもつかみきれぬまま、遥か下まで流れ落ちていきました。
これは、私には現状にしがみつこうとする個人の状態を表しているように想えました。
それでも、私はどうしても(移り行くはかない物事に)しがみついてしまうのです。
私には、私たち人間が季節の花々や果物や木の葉に劣るとは想えません。
私は花々を愛していますが、それでも(すべてが一過性のものだという)この概念は私の心に訴えないのです。
数分後、彼女は死とそれに関連する問題について尋ねようと思っていたが、やめることにしたと伝えた。
しかしマハルシはちょうど新聞の中の死に関する記事を読んでいるところだった。
そしてその同じ話題は真我実現にまで及んだのである。
その後しばらくして、彼女は牛のラクシュミーを見てからこの地を立ち去った。
*『ヨーガ・ヴァーシシュタ』第二十章からプンニャとパーヴァナの物語…
聖者ディールガ・タパシにはプンニャとパーヴァナという2人の息子がいた。
プンニャはすでに真我を実現していたが、弟パーヴァナはまだその途上にいた。
ある日、父ディールガ・タパシは突然の死を迎え、母もその後を追った。
プンニャは淡々と葬儀を進めたが、パーヴァナは嘆き悲しむばかりだった。
プンニャは弟に、自分たちが過去世で無数の両親を持っていたという真理を説き、しかも無数の過去世でパーヴァナは鹿、ライオン、サル、王子、カラス、象、鳥などとして生きてきたことを伝えて、死を嘆く必要などないことを悟らせたのだった。
559
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/15(土) 23:00:54 ID:1d4drIFg0
肉体が自分であり、自分の全てと認識すれば死もまた存在するのじゃ。
肉体は自分ではなく、自分のものでもないと知れば死は無く、恐れも無いのじゃ。
肉体は全てである意識の爪の先のようなものじゃ。
爪が伸びすぎれば折れるように、長く在り過ぎた肉体もまた消えていくのじゃ。
それは自然な循環の一つであるのじゃ。
560
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/16(日) 00:17:11 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話277
1936年11月9日
コーエン氏
意思とは何でしょうか?
それは何に属するのでしょうか、五つの鞘(パンチャ・コーシャ)にでしょうか?
マハルシ
「私」という想念が初めに立ち現れ、それからその他のあらゆる想念が生まれます。
それらが心というものを構成します。
心は対象であり、「私」は主体です。
「私」なしに意志がありえるでしょうか?
意思は「私」の中に含まれています。
「私」という想念はヴィジニャーナマヤ・コーシャ(知性の鞘)であり、意思はその一部なのです。
アンナーマヤ・コーシャは粗大な身体の鞘です。
感覚と生気(プラーナ)と行為器官(カルメーンドリヤ)がプラーナマヤ・コーシャを形作り、感覚と心がマノーマヤ・コーシャをつくります。
それらは知覚器官(ジニャーネーンドリヤ)です。
心は想念だけで形作られており、「これ」(イダム)が対象で、「私」(アハム)が主体です。
この二つがヴィジニャーナマヤ・コーシャを構成するのです。
561
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/16(日) 22:49:44 ID:1d4drIFg0
全ての想念は私から始まるというのじゃ。
私の意志もそこから起こるのじゃ。
私が無ければ私の意志も無いのじゃ。
全て無為なのじゃ。
562
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/17(月) 00:13:52 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話278
1936年11月10日
ヒンドゥー教に改宗したポーランドのW・ウマーデーヴィー夫人がカシミールを旅し、その写真をわれわれに見せた。
シュリー・バガヴァーンは愉快そうに語った。
「私たちは旅の苦労もなくその地を見たのです」
質問者
私はカイラースに行きたいと思っています。
マハルシ
そのような場所を見ることができるかどうかは運命によるのです。
それ以外にありえません。
すべての場所を見て回った後でさえ、さらに多くの場所に行きたくなるでしょう。
もし地上でなければ、他の領域かもしれません。
知識とは既知の彼方にあるものについての無知を意味しています。
つまり知識とは常に限定されたものなのです。
しばらくの沈黙の後、シュリー・バガヴァーンは再び語り始めた。
マハルシ
アッパールは高齢で老衰していましたが、それでもカイラースへと旅立ちました。
途上で別の老人が現れると、いかにそれが自分にとって困難な旅であったかを伝えて彼をあきらめさせようとしました。
しかしながら、アッパールは頑固で、命に代えても行くと言って聞きませんでした。
その老人は彼に近くの沐浴場で沐浴するようにと頼みます。
するとアッパールは沐浴場で沐浴している最中にカイラースを見たのです。
それはいったいどこで起こったのでしょうか?
タンジョールから十五キロ離れたティルヴァヤールです。
カイラースはそのときどこにあったのでしょう?
それは心の中でしょうか、外でしょうか?
もしティルヴァヤールが本当のカイラースなら、他の人も見たはずです。
しかしそれはアッパールだけに現れたのです。
他の南インドの巡礼の地についても同様です。
それらの場所はシヴァの住処だと言われ、帰依者たちはそれを確信しています。
それは彼らの視点から見たときの真実であって、すべては内側にあり、外側には何もないのです。
563
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/17(月) 19:41:56 ID:1d4drIFg0
聖地とかパワースポット等に巡礼する者はどこにでもいるものじゃ。
それらが悟りに役立つことは無いのじゃ。
自らの心を見なければ悟りはやってこないのじゃ。
人を悟りに導く真の聖地は心の中にあるのじゃ。
564
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/18(火) 07:25:02 ID:6P56zEJ20
ラマナ・マハルシとの対話279
質問者
人は死後どのぐらいの時間を経て生まれ変わるのでしょうか?
死の直後でしょうか、しばらく経ってからでしょうか?
マハルシ
あなたは自分が生まれる前のことさえ知らないのに、死後にどうなるかを知りたがります。
あなたは現在の自分を知っていますか?
誕生と再誕生は身体に属するものです。
あなたは自分を身体と同一視していますが、それは偽りの自己同一化です。
身体は生まれては死にゆくものだと信じるため、身体に関わる現象と自分自身を混同するのです。
あなたの真の存在を知りなさい。
そうすればこのような質問は起こらないでしょう。
誕生と再誕生について語ったのは、あなたにその問題を探究させ、誕生も死も存在しないということを見いださせるためです。
それらは真我にではなく、身体に関することです。
真我を知りなさい。
疑いに惑わされてはいけません。
565
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/18(火) 22:42:36 ID:1d4drIFg0
自分という観念さえ謬見であるのにそれが死んで生まれ変わるという現象が夢幻でない筈は無いのじゃ。
自分があるという観念があれば生まれかわるという観念も起こるのじゃ。
本来全ての者は生まれることも死ぬことも無いのじゃ。
全ての者が如来なのじゃ。
566
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/19(水) 00:43:41 ID:6P56zEJ20
ラマナ・マハルシとの対話280
質問者
マーヤーを払い去れるよう助けていただけますか?
マハルシ
マーヤーとは何でしょうか?
質問者
世界への執着です。
マハルシ
世界は深い眠りの中に存在していたでしょうか?
そこにはそれに対する執着があったでしょうか?
質問者
ありませんでした。
マハルシ
あなたはそこに存在していたでしょうか?
質問者
おそらく。
マハルシ
あなたは眠りの中で自分が存在していたことを否定しますか?
質問者
否定しません。
マハルシ
だとすれば、眠りの中に存在していた人は、今のあなたと同じ人ではないでしょうか?
質問者
そうです。
マハルシ
それでは、何が今マーヤーについての質問を起こしたのでしょうか?
質問者
眠りの中では、心は存在しませんでした。
世界と世界への執着は心のものです。
マハルシ
そのとおりです。
世界と世界への執着は心のものであり、真我のものではありません。
質問者
私は眠りの中で無知でした。
マハルシ
無知だったと言うのは誰でしょうか?
あなたは今、無知なのではないでしょうか?
あなたはジニャーニなのですか?
無知について語るのは、汚された真我なのです。
質問者
眠りの中では、真我は純粋だったのでしょうか?
マハルシ
それは何の疑いも起こしませんでした。
それは不完全とも不純とも感じなかったのです。
567
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/19(水) 00:44:26 ID:6P56zEJ20
質問者
真我はすべての人に共通しています。
死体の中でさえも。
マハルシ
しかし眠っている身体や死んだ身体が疑問を起こすことはありません。
誰が疑問を起こすのか考えてみなさい。
それはあなたなのです。
あなたは眠りの中で存在していなかったでしょうか?
どうして眠りの中には不完全性がなかったのでしょう?
純粋な真我はシンプルな「存在」です。
それはそれ自身を対象物と結びつけず、目覚めの状態のように対象物を意識してもいませんでした。
現在の状態においてあなたが意識と呼ぶものは、脳や心や身体を必要とし、それらとの依存関係を持つ意識です。
しかし眠りの中での意識は、脳や心や身体なしにあり続けたのです。
質問者
しかし私は眠りの状態の意識のことを知りませんでした。
マハルシ
それに気づいていなかったのは誰でしょうか?
あなたは「私は在る」ことを認めます。
あなたは眠りの中で「私は在った」ことを認めます。
その「在る」という状態が本来の自己なのです。
質問者
眠りが真我実現だと言われるのですか?
マハルシ
それは真我なのです。
なぜ実現について語るのでしょう?
真我が実現されていないときがあるでしょうか?
もしそのような瞬間があるとすれば、そうではない瞬間が実現の瞬間だということになります。
真我が存在しない瞬間、あるいは真我が実現されていない瞬間などありえません。
なぜ特に眠りを選ぶのですか?
今でさえ、あなたは真我実現しているのです。
質問者
しかし私は理解していないのです。
マハルシ
なぜなら、あなたが自己を身体と同一視しているからです。
誤ったアイデンティティを捨て去りなさい。
そうすれば、真我は明らかになるでしょう。
質問者
しかしそれではマーヤー、つまり執着を払い去るという私の質問の答えになっていません。
マハルシ
この執着は眠りの中では見られませんでした。
それは今知覚され、感じられるのです。
それはあなたの本性ではありません。
誰にとっての執着でしょうか?
もしその本性が知られれば、それは存在を消すでしょう。
それがマーヤーを払い去るということです。
マーヤーはそれ以外の方法で払い去れるようなものではないのです。
眠り 目覚め
世界は存在しない 世界が存在する
無執着 執着
真我 真我
568
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/19(水) 23:06:17 ID:1d4drIFg0
マーヤーも自分があるという幻想から起こるものじゃ。
自分が居れば自分が居る世界や、全ての観念を産むのじゃ。
自分を追及して幻想が無くなればマーヤーもなくなるのじゃ。
自分が無ければ自分のいる世界も観念もなくなるからなのじゃ。
569
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/20(木) 02:47:21 ID:6P56zEJ20
ラマナ・マハルシとの対話281
1936年11月15日
鉄床からの火花(治安判事による尋問)─1
シュリー・マハルシのかつての弟子だと自称するある男性が、自分はアーシュラマムの合法的な全権者(サルヴァーディカーリー)であると宣言し、裁判所に告訴した。
シュリー・マハルシは委託の治安判事に尋問された。
群集にもかかわらず、手続きはアーシュラマムの北東の部屋で順調に進んだ。
以下はそのときの要点をかいつまんだものである。
シュリー・バガヴァーンの答えは流れるようにまったく自然なものだった。
尋問者
シュリー・バガヴァーンはどのアーシュラマムに属しますか?
マハルシ
アティアーシュラミーです。
尋問者
それは何ですか?
マハルシ
それは一般に知られる四つのアーシュラマム(人生の四住期)を超えたものです。
尋問者
それは聖典に述べられていますか?
マハルシ
はい。
聖典に述べられています。
尋問者
あなた以外にも同じタイプの人がいますか?
マハルシ
おそらく。
尋問者
過去にそのような人はいましたか?
マハルシ
シュカ、リシャバ、ジャダ・バラタなどです。
尋問者
あなたは少年時代に家を去りました。
あなたには家や所有物への執着心がなかったからです。
しかしここではアーシュラマムの中に所有物があります。
どうしてでしょうか?
マハルシ
それは私が求めたものではありません。
資産が私に押し付けられたのです。
私はそれを愛することもなければ嫌うこともありません。
尋問者
それらはあなたに与えられたのですか?
マハルシ
それらはスワミに与えられたのです。
そのスワミが誰であれ。
しかしこの世界の中では身体がスワミと見なされています。
その身体がこれなのです。
つまるところ、私ということになります。
尋問者
その場合、所有物への執着心が新たに生まれたと解釈できますか?
マハルシ
私はそれを厭わないのです。
それが私の述べたことです。
尋問者
実際の生活においては、私が言ったことが正しいということになりますが。
マハルシ
私たちが生活し、実際的な物事を為していく上ではそうなります。
尋問者
あなたは教え(ウパデーシャ)を授けますか?
今までにそうしたことがありますか?
マハルシ
訪問者は私に質問をします。
私は知っていることを答えるばかりで、私の言葉をどのようにとらえるかは彼ら次第です。
尋問者
それはウパデーシャですか?
マハルシ
彼らがそれをどのようにとらえるかについて、私に何が言えるでしょう?
570
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/20(木) 02:50:36 ID:6P56zEJ20
尋問者
あなたには弟子がいますか?
マハルシ
儀式的な形でウパデーシャを授けたことはありません。
例えば、クンバ(壷)を置き、それにプージャー(儀式)をし、その人に囁くなどといったことは。
人によっては自分のことを私の弟子あるいは帰依者だと言う人もいるかもしれません。
私自身は誰のことも私の弟子とは見なしません。
私は誰からもウパデーシャを求めたことはありませんし、人に儀式的なウパデーシャを与えることもありません。
誰かが自分のことを私の弟子だと言ったとしても、私はそれを否定も承認もしません。
私から見れば、誰もが同じなのです。
彼らが彼ら自身で自分は弟子と呼ばれるに値すると考えるのです。
私に何が言えると言うのでしょう?
私は私自身のことを弟子ともグルとも呼びません。
尋問者
大寺院に属する丘の上の土地に、行政機関からの許可を取得せずにスカンダアシュラマムの建物を建築しましたが、どうしてあなたはそれを承認したのですか?
マハルシ
私をこの地に呼び寄せ、丘の上に暮らすようにさせた「あの力」に導かれたのです。
尋問者
この地に到着して一時間もたたないうちに、あなたは現金などすべての所有物を棄て去りました。
それはあなたに所有物への欲望がなかったからです。
そしてそれからは二度と現金に触れていません。
この地に到着してから数年の間、あなたには何の所有物もありませんでした。
現在、アーシュラマムでは寄付金が受け取られていますが、それはなぜでしょうか?
マハルシ
このようなことが行われ始めたのは、もっと後の段階になってからです。
なぜなら数人のアーシュラマム関係者が、私の名前を利用して基金を集め始めたからです。
私は彼らの行為を承認したこともなければ止めたこともありません。
そのため、それはまだ続いています。
ある人はアーシュラマムを去り、別の人がアーシュラマムに関わり始めます。
しかしその過程は続いていきます。
私は寄付金が受け取られることを望んでいません。
しかし人々は私の助言に耳を傾けません。
私は効果のない助言を与えたくはありません。
それゆえ、彼らを止めもしないのです。
寄付金が入ってくるため、資産も自然と増えていったのです。
尋問者
なぜあなたは自分の名前をサインしないのですか?
マハルシ
『真我実現』(マハルシ最初期の伝記)の著者が、この質問についての彼の答えを述べています。
そのうえ、いったいどんな名前で私が知られているのか、私自身知らないのです。
この地に到着して以来、人々は私にいくつもの名前を与えてきました。
もし私が一つの名前でサインをすれば、それはすべての人にとって理解できるものにはならないでしょう。
ですから、私はサインを求める人によく言ったものです。
「たとえ私のサインを人に見せても、誰も本物とは信じないでしょう」と。
尋問者
あなたは現金やその他の寄進に触れることはありません。
それは私も信頼します。
マハルシ
ときおり人々は私に果物を手渡したりします。
それらには触れます。
尋問者
ある物は受け入れると言うなら、どうして現金は受け取らないのですか?
マハルシ
お金は食べられません。
それで何をすると言うのですか?
どうすればよいかもわからないものを、なぜ受け取らなければならないのでしょう?
尋問者
なぜ人々はアーシュラマムを訪れるのですか?
マハルシ
その理由は彼らが知っているはずです。
尋問者
私が思うに、あなたは誰がここに来ようと、誰が滞在しようと反対しないのです。
マハルシ
そうです。
尋問者
同様に、彼らがどれだけ滞在しようとあなたは異議を唱えないのです。
マハルシ
そうです。
もし私にとって受け入れ難ければ、私から立ち去るでしょう。
ただそれだけのことです。
弁護士の帰依者がシュリー・バガヴァーンに、「昨日の尋問で緊張しませんでしたか?」と尋ねた。
マハルシ
私は心を使わなかったので緊張もありませんでした。
たとえ彼らが千日尋問したとしても、私はかまいません。
571
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/20(木) 02:51:14 ID:6P56zEJ20
*アーシュラマム
「アーシュラマム」という言葉には「修行道場、聖者の隠棲所」という意味と「人生の四住期」という2つの意味がある。
ヒンドゥー教の伝統は四住期と呼ばれる人生の4つの修行段階を定めている。
1 学生期 ブラフマチャーリヤ:結婚前の禁欲的生活と聖典の研究。
2 家住期 グリハスタ:結婚をし、世俗での仕事と家事を執着心なく遂行する。
3 林住期 ヴァーナプラスタ:引退し、人里離れた場所で瞑想に従事する。
4 遊行期 サンニャーサ:世間を完全に放棄し、放浪の托鉢僧となる。
「アティアーシュラミー」はこれら4つの段階を超えた賢者の境地を指す。
*儀式的な形でウパデーシャを授けた…
寺院内で行われる通常の儀式では、御神体のそばにクンバ(壷)が置かれる。
神官が唱えるマントラによって儀式の場に招かれた神々は、神聖な精髄(エッセンス)としてクンバの水の中に入る。
こうして聖水となったこの水は御神体(シヴァ神ならばリンガ)の上にかけられ、御神体である石像は儀式のたびに神聖化されていく。
御神体にかけられた水は神殿の脇の水路から流れ出る。
そしてそれは神のプラサードとして帰依者に飲まれる。
マハルシがここで語る儀式では、グル自身がクンバ(壷)にマントラを囁きかけて聖水に変える。
その水を飲むことによって探究者は彼の弟子となり、ウパデーシャ(教え)を授かるのである。
572
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/20(木) 22:52:03 ID:1d4drIFg0
マハリシもいろいろ俗事の障りがあったようじゃ。
オショーも逮捕されたりしたのじゃ。
お釈迦様にも女子が孕まされたとか嘘をついて非難したことがあったのじゃ。
真実を語れば嘘をついて儲けていた者は恐れるから訴えたりするのじゃ。
573
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/21(金) 07:36:52 ID:6P56zEJ20
ラマナ・マハルシとの対話282
1936年11月16日
質問者
タントラのサーダナは真我実現をもたらせますか?
マハルシ
もたらせます。
質問者
タントラの中のどの礼拝が一番良いものでしょうか?
マハルシ
それは修練者の気質によります。
質問者
クンダリニーは真我実現をもたらす過程でどのような役割を果たすのでしょうか?
マハルシ
クンダリニーはあなたが定めたどのラクシャ(精神集中の対象)からでも湧き起こります。
クンダリニーとはプラーナ・シャクティ(生命の気の流れ)なのです。
質問者
異なった神々がそれぞれのチャクラに宿っていると言われています。
修練者は修練の過程でそれらを見るのでしょうか?
マハルシ
もし望むならば。
質問者
真我実現の道はサマーディを通るのでしょうか?
マハルシ
真我実現とサマーディは同義語なのです。
質問者
グルは弟子に自身のカを伝達し、真我実現を可能にすると言われていますが、それは真実でしょうか?
マハルシ
真実です。
グルは真我実現をもたらすのではなく、ただその障害を取り除くだけです。
真我は常に実現されているからです。
質問者
真我実現のためにグルは絶対に必要なのでしょうか?
マハルシ
あなたが真我実現を求めているかぎりグルは必要です。
グルが真我なのです。
グルを本来の自己(真我)と見なし、あなた自身を個的自己(個我)と見なしなさい。
この二元性の感覚が消え去ることが、無知を取り除くことです。
二元性が継続するかぎりグルは必要です。
あなたが自分自身を身体と同一視するために、グルもまた身体だと見なすのです。
あなたは身体ではなく、グルもまた身体ではありません。
あなたは真我であり、グルもまた真我です。
この知識は真我実現によって得られるのです。
質問者
どうすればある特定の人物が有能なグルであると知ることができるのでしょうか?
マハルシ
彼の臨在のもとで感じられる平和と静寂、彼に対して感じるあなたの尊敬の念によってです。
質問者
もし師が適切な人ではなかった場合、その師に絶対の信頼を寄せていた弟子の運命はどうなるのでしょうか?
マハルシ
各々の功徳によった結果を得るでしょう。
574
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/21(金) 07:38:23 ID:6P56zEJ20
質問者
社会改革についてのあなたの見解はどのようなものでしょうか?
マハルシ
自己改革が社会改革を自動的にもたらすのです。
あなた自身の改革に集中しなさい。
社会改革は社会改革でそれ自体の面倒を見るでしょう。
質問者
ガーンディー・ジー(マハトマ・ガンジー)のハリジャン運動についてどう思われますか?
マハルシ
彼に尋ねなさい。
質問者
もし私たちが死体に触れたなら、沐浴をすべきでしょうか?
マハルシ
この身体が屍なのです。
それに接触しているかぎり、私たちは真我の水で沐浴しなければなりません。
質問者
もしアドヴァイタ(不二一元論)が究極の教えであるなら、なぜマダヴァーチャーリャはドヴァイタ(二元論)を説いたのでしょうか?
マハルシ
あなたの真我はドヴァイタでしょうか、アドヴァイダでしょうか?
すべての哲学体系が自己放棄(明け渡し)に同意しています。
まずそれを達成しなさい。
その後で、誰の見解が正しいものかを判断する時間もあるでしょう。
質問者
なぜあなたは教えを説き、人々を正しい道に導かないのでしょうか?
マハルシ
あなたはすでに自分自身で私が教えを説かないものと決め付けています。
あなたは私が誰か、教えがどのようなものかを知っているのですか?
質問者
ブラーフマナの未亡人が頭を剃ることは残酷ではありませんか?
マハルシ
それについてはダルマ・シャーストリ(ヒンドゥー法典の専門家)か改革者に尋ねればよいでしょう。
まずあなた自身を改革しなさい。
その後で、他のことに目を向ければよいのです。
575
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/21(金) 22:54:23 ID:1d4drIFg0
一元論でも二元論でも信じて真摯に実践すれば悟りは得られるのじゃ。
それらの教義は修行者の信仰と性質によって、違うように説かれただけなのじゃ。
お釈迦様も修行者の性質によって違う教えを説いたのじゃ。
大事なのは最後まで信じて実践することなのじゃ。
576
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/22(土) 00:45:18 ID:6P56zEJ20
ラマナ・マハルシとの対話283
1936年11月17日
質問者
どうすればジタサンガドーシャ(関係性による汚れからの自由)を得られるでしょうか?
マハルシ
サットサンガによってです。
サットサンガットヴェー・ニッサンガットヴァム、
ニッサンガットヴェー・ニルモーハットヴァム、
ニルモーハットヴェー・ニシュチャラタットヴァム、
ニシュチャラタットヴェー・ジーヴァン・ムクティヒ。
聖者との交際(サットサンガ)によって無執着心は生まれる。
無執着心によって妄想から解放される。
妄想が消え去ったとき、心は不動となり、
不動なる心は生きながらにして解脱へと導く。
それゆえ、ゴーヴィンダ(クリシュナ神)を礼拝しなさい。
彼の名を称えなさい。
『バジャ・ゴーヴィンダ・ストートラム』第9節
サットサンガとはサットとのサンガ(交わり)を意味します。
サットとは真我のことです。
今、真我がサットであることが理解されていないため、真我を悟った賢者との交際が望まれるのです。
それがサットサンガです。
それによって内面に向かい、サットが顕わにされるのです。
誰にとっての交際でしょうか?
誰にとっての汚れ(ドーシャ)でしょうか?
質問者
真我にとってです。
マハルシ
いいえ。
真我は純粋で影響を受けません。
不純性は自我にのみ影響を与えるのです。
質問者
魂は身体なしにとどまれるのでしょうか?
マハルシ
深い眠りの中のように、短い間はそうなります。
真我にはもともと身体がありません。
今でさえそうなのです。
質問者
サンニャーシーはサンサーラの只中にとどまることができるでしょうか?
マハルシ
自分をサンニャーシーだと考えている間は、その人はサンニャーシーではありません。
サンサーラ(輪廻転生。世俗生活)について何も考えていない人は、サンサーリーではありません。
その反対に、彼こそがサンニャーシーなのです。
577
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/23(日) 00:00:41 ID:1d4drIFg0
サンニャーシーとは全てを捨て去った者なのじゃ。
もはや輪廻は無いのじゃ。
全てを捨てているのであるからのう。
観念があればサンニャーシーではないのじゃ。
578
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/23(日) 00:41:18 ID:6P56zEJ20
ラマナ・マハルシとの対話284
1936年11月18日
質問者
『シュリーマッド・バガヴァッド・ギーター』の中に「純粋な知性によって、グルへの奉仕によって、探究によって、真我を実現しなさい」と述べられています。
どのようにしてこれらの折り合いをつけるのでしょうか?
マハルシ
イーシュヴァロー・グルラートメーティ─イーシュヴァラ、グル、真我は同一なのです。
自分の中に二元性の感覚が続くかぎり、あなたはグルが離れて存在すると考えて、彼を探し求めます。
しかしながら、彼が真理を教え示すことで、あなたは洞察を得るのです。
質問者
どうか以下について説明してください。
アハメーコー・ナ・メー・カシュチット・ナハマニャスャ・カシャチット、
ナーハン・パシャーミ・ヤスヤハン・タン・ナ・パシャーミ・ヨー・ママ。
私だけが存在する。何も私のものはない。他の何ものも私ではない。
私ではない人を私は見ない。私のものでない人はいない。
『マハーバーラタ』第12章788節
マハルシ
このシュローカ(二行詩)は、『シュリーマッド・バーガヴァタム』や『マハーバーラタ』などいくつかの異なった聖典の中に見られます。
それは『真我実現』第十章の題辞にもなっています。
アハム─「私」はただ一つです。
自我は異なります。
多数の自我は一なる真我の内に存在しています。
真我は自我に左右されません。
「私」は唯一の存在であり、「私」が真理なのです。
その後に続く言葉は、すべて二元的感覚を否定するためのものです。
579
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/23(日) 20:43:31 ID:1d4drIFg0
意識だけがあるといえるものじゃ。
それが何かを持つと言う事は無いのじゃ。
他の全ての観念は意識ではないのじゃ。
全てが意識の表れなのじゃ。
すべての者も意識で在るのじゃ。
580
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/24(月) 03:39:05 ID:phf4brz.0
ラマナ・マハルシとの対話285
質問者
真我がそれ自身に気づいているなら、なぜ私は今でさえそれに気づかないのでしょうか?
マハルシ
そこに二元性はありません。
あなたの現在の知識は自我に属する単なる相対的なものです。
相対的知識は主体と対象を必要とします。
一方、真我の気づきは絶対的なもので、対象を必要としません。
記憶もまた相対的なもので、覚えられる対象と覚える主体を必要とします。
そこに二元性がないとき、誰が誰を覚えると言うのでしょう?
質問者
身体が死ぬとき、自我には何が起こるのでしょうか?
マハルシ
自我とは「私」という想念のことです。
精妙な姿としては、それは一つの想念として残りますが、粗大な面においては、それは心と感覚と身体を含みます。
深い眠りでは、それらは自我とともに消え去りますが、真我は存在し続けます。
それと同様のことが死においても起こるのです。
自我はそれ自身によって創造されたり破壊されたりするような、真我から独立した実体ではありません。
それは真我の道具として機能し、周期的にその機能を止めます。
つまり、それは現れては消え去るのです。
これが誕生と死と見なされるものです
相対的知識は心に属し、真我には属しません。
それゆえ、それは永久的なものではなく錯覚でしかないのです。
科学者を例にとってみなさい。
彼は地球は丸いという理論を考案し、それを証明していき、議論の余地のない明確な基本原理の上にその理論を確立します。
しかし彼が眠りに落ち入るやいなやそのアイデア全体は消滅し、彼の心は空っぽになるのです。
ひとたび眠ってしまえば、世界が丸かろうと平らだろうと、それが何だと言うのでしょう?
ですから、そのような相対的知識がいかに無益かということがわかるでしょう。
そのような相対的知識を超え、真我の中にとどまるべきです。
真の知識とはそのような体験であって、心で理解することではないのです。
質問者
なぜバガヴァーンは広く人々に真理を説いて回らないのでしょうか?
マハルシ
なぜ私がそうしてはいないと思うのですか?
真理を説くことは、演壇に上がって人々に向かい、熱弁をふるうことでしょうか?
真理を説くこととは、ただ知識を伝授することです。
それは沈黙によっても為されるのです。
一時間もの説教を聞いた後で、人生を変えるほどの感銘も受けずに立ち去っていく人のことをどう思いますか?
その人と、賢者の神聖な臨在のもとに坐り、人生に対する見地が完全に変わってしまった人とを比べてみなさい。
何の効果もなく大声で説教するのと、沈黙の内に坐り霊的な力を送ることで人々に働きかけるのとどちらが優れているでしょうか?
話す言葉はどのようにして起こるのでしょうか?
まず、そこには(言葉で表す前に)抽象的知識があります。
そこから自我が現れ、その自我から想念が起こります。
そしてその想念が話す言葉として現れます。
つまり、言葉は本来の源泉のひ孫にあたるのです。
言葉が何らかの効果を生み出せるとすれば、沈黙を通して真理を説くことがどれだけ強力であるか、自分で判断してみなさい。
抽象的知識
↓
自我
↓
想念
↓
言葉
581
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/24(月) 22:22:50 ID:1d4drIFg0
言葉で伝えられない真理は、自ら悟りを得て知るしかないのじゃ。
それ故に聖者や賢者達は皆、己を知るようにと教えを説くのじゃ。
自らを知る以外に悟りを得る方法は無いのじゃ。
どこまでも自分の心の中に自分を追及するのじゃ。
582
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/25(火) 12:50:14 ID:phf4brz.0
ラマナ・マハルシとの対話286
質問者
なぜ私たちは好きなだけ眠りの状態(スシュプティ)の中にとどまっていられないのでしょうか?
どうして目覚めの状態のように自分の意思でその中にいられないのでしょうか?
マハルシ
眠りの状態はこの目覚め状態の中でも続いています。
私たちは常に眠りの状態の中にいるのです。
今この目覚めの状態にいるときに意識的にその中に入り、それを悟ることが私たちのすべきことです。
実際には、その中に入って行くことも、それから出ることもありません。
それに気づくようになること、それがサマーディです。
無知な人は長い間眠りの状態の中にとどまることができません。
彼は生来の性癖によって強制的にそこから追い出されてしまうのです。
彼の自我はまだ死んではいないため、再び立ち現れます。
しかし賢明な人は、自我が源にある間にそれを破壊しようと試みるのです。
自我は生来の性癖、つまりプラーラブダ(運命)に駆り立てられて、何度も何度も立ち現れてきます。
すなわち、ジニャーニにもアジニャーニにも自我は生じるということです。
二人の違いは、自我が立ち現れるとき、アジニャーニはまったくその源に無知であり、夢見と目覚めの状態における眠り(スシュプティ)に気づいていません。
一方、ジニャーニは自我が立ち現れても、常に自我をラクシャ(標的)である源にとどめながら、超越体験を楽しんでいるのです。
この自我は危険ではありません。
それはロープの燃え殻のようなもので、それでは何もできないからです。
絶えず源に的をとどめることで、自我は海の中の塩人形のようにその源に溶け去るのです。
質問者
シュリー・ラーマクリシュナはニルヴィカルパ・サマーディは二十一日以上続かないと言いました。
もし続けばその人は死ぬだろうと言うのです。
そうなのでしょうか?
マハルシ
プラーラブダが尽き果てたとき、自我は跡形もなく完全に消え去ります。
これが究極の解脱です。
プラーラブダが完全に尽き果てないかぎり、ジーヴァン・ムクタ(生存中に解脱した人)にさえ自我はその純粋な形で立ち現れるでしょう。
最長期間が二十一日だという声明については疑いが残ります。
三十日や四十日断食すれば、人は生き残れないと言われています。
しかしそれより長く、百日間断食した人もいるのです。
つまりそれは、彼らのプラーラブダがまだ残っていたということです。
583
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/25(火) 12:51:35 ID:phf4brz.0
質問者
どうすれば真我を実現することができるのでしょうか?
マハルシ
絶対的な真我が存在します。
そして炎から火花が飛び散るように、真我から閃光が発せられます。
この閃光が自我と呼ばれるものです。
無知な人の場合、自我は立ち現れると同時に、それ自体を一つの対象物と同一化します。
それは対象物との関わりに依存せずには存続することができません。
この関わりが無知(アジニャーナ)であり、その破壊が私たちの努力の目標なのです。
もし対象物との同一化の傾向がなくなれば、自我は純粋なままとどまり、源へと融け去るでしょう。
身体との誤った自己同一化がデーハートマ・ブッディ(「私は身体だ」という観念)です。
良い結果が現れる前に、まずこの観念が去らなければなりません。
質問者
どうすればそれを消し去ることができるでしょうか?
マハルシ
私たちは眠りの状態(スシュプティ)において身体や心と関係をもたずに存在しています。
しかし目覚めと夢見の状態の中では身体や心と関係しています。
もし私たちが身体とともにあるなら、どうして眠りの状態の中では身体なしに存在していたのでしょうか?
私たちは自分の外側にあるものから自分自身を分離することはできますが、自分と一つであるものから分離することはできません。
それゆえ、自我と身体は一つではないのです。
これが目覚めの状態において理解されなければなりません。
アヴァスター・トラヤ(目覚め、夢見、深い眠りの三つの状態)はただこの見解を得るためにのみ学ばれるべきものなのです。
純枠な自我は、二つの状態あるいは二つの想念の合間に体験されます。
自我はまず次の一点をつかんでおいてから前の一点を離れる尺取り虫のようなものです。
その真の本性は、対象物あるいは想念との接触が断ち切られたときに明らかになります。
アヴァスター・トラヤ(意識の三つの状態)を学ぶことによって得た確信をもとに、この二つの合間を認識しなさい。
質問者
私たちはどのように眠りにつき、どのように目覚めるのでしょうか?
マハルシ
日幕れ時になると雌鳥は鳴き声をあげ、ひよこ達は母鳥の羽の下に隠れます。
すると雌鳥はひよこ達を守りながら巣に帰り着きます。
夜が明けるとともに、ひよこ達は雌鳥と一緒になって外へ出て行きます。
ここで言う母鳥は、すべての想念を集めてから眠りにつく自我に相当します。
日光は日の出とともに現れ、日没とともに消え去ります。
同様に、自我が姿を現すとき、それはあらゆるものをともなって現れ、自我が沈みゆくとき、すべてがそれとともに消え去るのです。
質問者
眠りの状態はどのようなものなのでしょうか?
マハルシ
曇り空の夜に目に見えるのは暗闇だけで、目を見開いても対象物を個別に見極めることは不可能です。
同様に眠りの状態では、見る者はただ無知だけに気づいているのです。
シュリー・バガヴァーンは、ある質問好きな人にこう語った。
「それ自体が偽りである世界の中で、真実や偽りについて語ることに何の意味があると言うのでしょう?」
584
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/25(火) 22:21:00 ID:1d4drIFg0
無明の中に居ながら知識だけで真実を知っても無意味なのじゃ。
それは役に立たない知識が増えたというだけなのじゃ。
自ら悟りを得て全てを証さなければ、苦は続くの゛ゃ。
知識は実践のために役に立つだけのものなのじゃ。
585
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/26(水) 06:37:21 ID:phf4brz.0
ラマナ・マハルシとの対話287
1936年11月27日
医師を本業とするパンジャブ州の紳士が妻とともにシュリー・バガヴァーンを訪れた。
シュリー・バガヴァーンが昼食から戻ってきたとき、ホールの中にいた彼が尋ねた。
「どのように瞑想すべきでしょうか?
私には心の平和がないのです」
マハルシ
平和は私たちの真の本性であるため、それに到達する必要はないのです。
私たちがすべきことは、ただ想念を消し去ることだけです。
質問者
消し去ろうと試みてきたのですが、成功しませんでした。
マハルシ
『ギーター』の方法が唯一の道です。
「いつであれ心がさ迷い出したとき、瞑想に連れ戻しなさい」
質問者
心を瞑想に連れ戻すことができないのです。
別の質問者
象は自由なとき、鼻をあちこちに動かして落ち着きがありません。
もし鎖が与えられれば、象は鼻で鎖をつかみ、動き回ることもありません。
同じように、心も目的がなければ落ち着きを失いますが、目的を持てば安らぐのです。
質問者
いやいや、それはただの空論です。
私は多くの本を読んできましたが、役に立ちませんでした。
心を集中させることは、実際不可能なのです。
マハルシ
集中は心の潜在的傾向(ヴァーサナー)が存在するかぎり不可能です。
それはバクティをも妨げます
通訳者は質問者に『私は誰か?』という小冊子を読むことを勧めた。
医師は異議を唱えた。
「それも読みました。
それでも心を集中させることができないのです」
マハルシ
修練と離欲によって。
アビャーサ・ヴァイラーギャビャム。
質問者
ヴァイラーギャが必要なのですね……。
マハルシ
修練(アビャーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)が必要です。
ヴァイラーギャとは散漫な想念の不在を意味し、アビャーサとは一つの想念への集中を意味します。
一つは瞑想の肯定的な側面、もう一つは否定的な側面を表しています。
質問者
私一人の力ではとても無理です。
助けとなる力を求めているのです。
マハルシ
それが恩寵と呼ばれるものです。
個人の心は弱く能力に欠けるため、恩寵が必要となります。
賢者への奉仕(サードゥ・セーヴァー)は、ただそれだけを目的としています。
しかし実際は、新しく得るものなど何もないのです。
弱者が強者に支配されるように、弱い心は強い心を持ったサードゥの臨在のもとで容易に制御されます。
存在する「それ」、それは恩寵だけです。
他には何もないのです。
質問者
どうか私の幸福のために祝福をお与えください。
マハルシは慈悲深くうなずいた。
医師は妻とともに立ち去った。
*いつであれ心がさ迷い出したとき、瞑想に連れ戻しなさい:『バガヴァッド・ギーター』6-26
いつであれ落ち着きのない心がさ迷い出したなら、そのときその場でそれを制御し、自己の支配下に導くべきである。
586
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/26(水) 21:01:31 ID:1d4drIFg0
欲に囚われた心は集中も出来ないのじゃ。
欲の対象に執り付かれているから、心は動き回るのじゃ。
離欲を実践して集中も出来るようになるのじゃ。
自ら実践する道を示すことが聖者の恩寵なのじゃ。
587
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/27(木) 00:18:13 ID:phf4brz.0
ラマナ・マハルシとの対話288
1936年11月29日
シュリー・バガヴァーンはヴェーダーンタのマーヤー(幻影)とプラティヤビジニャー(再認識派)のスワタントラ(独立)を説明して次のように語った。
マハルシ
ヴェーダーンタ派は、マーヤーとはシヴァ神を根底とする幻影の力(シャクティ)であって、シヴァ神から独立した存在ではないと言います。
彼女(マーヤー)は世界という幻影を実在であるかのように見せ、無知の犠牲になった者たちを弄び続けます。
それでも、「彼女は存在しない」という真実が見いだされた瞬間、彼女は消滅するのです。
再認識派は、マーヤーのシャクティとシヴァ神は同時に生まれたと言います。
一方は他方なしには存在しません。
シヴァ神は非顕現であり、シャクティは彼女自身の独立した意思(スワタントラ)を持って顕現します。
彼女の顕現は鏡の中の像(イメージ)のように、純粋意識の上に映し出された宇宙の現れであり、鏡が存在しなくなれば像もなくなります。
同様に、世界も独立した存在を持てないのです。
スワタントラは、最終的には「至高なるもの」の属性の一つとなります。
シュリー・シャンカラは、「絶対なるもの」には属性がない、マーヤーは存在せず、真の存在を持たないと言いました。
この二つの違いとは何でしょうか?
どちらの学派も顕現は実在ではないということに同意しています。
鏡の中の像は実在ではありえないからです。
実在の中に世界は存在しないのです。
どちらの学派も同じことを意味しています。
彼らの究極の目的は絶対意識を実現することにあります。
再認識派は宇宙の非実在性を暗示しているだけですが、ヴェーダーンタ派は明示しています。
もし意識(チット)としてとらえれば、世界は常に実在です。
ヴェーダーンタ派は多様性は存在しないと言います。
つまり、すべては同じ実在であるということです。
言葉や表現方法を除けば、両者はあらゆる点で一致しているのです。
588
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/27(木) 22:41:30 ID:1d4drIFg0
実在するものは意識だけなのじゃ。
唯一つであるから多様性は無いのじゃ。
全ての教義は同じことを示しているのじゃ。
シヴァとかシャクティ等は、それらの神を信じる者のために付け加えられたものにすぎないのじゃ。
589
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/28(金) 01:45:03 ID:phf4brz.0
ラマナ・マハルシとの対話289
1936年11月30日
カルマについて議論しているとき、シュリー・バガヴァーンが言った。
「カルマ(業)はその業果(パラ)をともないます。
それらは原因と結果のようなものです。
原因と結果の相関関係は、私たちが神と呼ぶシャクティによるものです。
神は業果を分け与える者(パラ・ダーター)なのです」
ある訪問者が、「真我はその真の本性を忘れてしまったのだ」という内容の話をした。
しばらくして、シュリー・バガヴァーンは言った。
マハルシ
人々は、すべてに満ちわたる真我を覚えていることや忘れることについて語ります。
記憶も忘却もともに単なる想念の形態でしかありません。
そこに想念があるかぎり、記憶と忘却は交互に起こるでしょう。
しかし実在はそれらを超えた彼方にあります。
記憶も忘却も何かに依存しなければなりません。
その何かは真我にとって異質なものであるに違いありません。
そうでなければ忘れるということはありえないからです。
誰もがその何かを「私」と呼びます。
この「私」という想念は、見つけ出そうとしても見つかりません。
なぜなら、それは実際には存在しないからです。
それゆえ、この「私」は幻影あるいは無知(マーヤー、アヴィディヤー、アジニャーナ)と同義語なのです。
この無知が今までけっして存在していなかったと知ること、それがすべての霊的教えの目的です。
無知とはその無知に気づいている人のものであるに違いありません。
その気づきが叡知(ジニャーナ)です。
叡知は永遠で自然なもの、無知は不自然で偽りのものなのです。
質問者
真理を聞いたにもかかわらず、なぜ人は満足しないのでしょうか?
マハルシ
なぜなら生来の精神的傾向(サンスカーラ)がいまだに破壊されていないからです。
サンスカーラが消え去らないかぎり、常に疑いと混乱は続くでしょう。
すべての努力はこの疑いと混乱を破壊することに向けられています。
そうするためには、その根を断ち切らねばなりません。
その根がサンスカーラなのです。
グルから指導された修練によって、サンスカーラは効力を失います。
探究者が自分自身の努力で無知が存在していないことを見いだせるように、グルはそれを探究者の手にまかせます。
真理を聞くこと(シュラヴァナ)が最初の段階です。
もし理解が確立されていないときは、それについての熟考(マナナ)と絶え間ない黙想(ニディディアーサナ)が為されなければなりません。
この二つの過程がサンスカーラ(生来の精神的傾向)の種子を焼き尽くし、効力を失わせるのです。
幾人かの非凡な人たちは真理を一度聞いただけで、揺るぎない知識を得ます。
彼らは熟達した探究者(クリトーパーサカ)たちです。
熟達していない探究者(アクリトーパーサカ)には長い期間が必要となるでしょう。
人々は「いったいどのように無知(アヴィディヤー)が現れたのか?」と尋ねますが、「無知が現れたことはけっしてなかった。それは存在せず、存在するのは、ただ叡知(ヴィディヤー)だけなのだ」と答えざるをえません。
質問者
では、なぜ私はそれを悟らないのでしょうか?
マハルシ
サンスカーラのためです。
しかしながら、誰が悟らないのか、何を悟らないのか探究してみなさい。
そうすれば無知は存在しないということが明らかになるでしょう。
590
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/02/28(金) 22:42:07 ID:1d4drIFg0
アートマンが全てであるとか、真理を知識として覚えただけでは悟りは得られないのじゃ。
実際に自分を完全に観察して厭離できなければ、変容は起きないのじゃ。
精神の傾向であるサンスカーラとは習慣による性質なのじゃ。
完全な観察だけが習慣を根元から断ち切ることが出来るのじゃ。
591
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/29(土) 00:56:46 ID:phf4brz.0
ラマナ・マハルシとの対話290
マールワール出身でボンベイから来た綿商人のサーガルムル氏は、『バガヴァッド・ギーター』を学んだようだった。
彼はマハルシに尋ねた。
質問者
『バガヴァッド・ギーター』はマッタハ・パラタラン・ナーニャット、キンチト、「私と異なるものは何もない」と述べ、その後で、スートレー・マニガナー・イヴァ、「糸に連なる宝玉のように」と述べています。
もしシュリー・クリシュナ以外に何も存在しないなら、どうして世界が「糸に連なる宝玉のようだ」と言われたのでしょうか?
マハルシ
それは「スートラ(糸)とマニ(宝玉)は『私』から離れていない」という意味です。
糸なしに数珠玉はありえず、「私」から離れては糸もありえません。
その詩句(シュローカ)は表面的でしかない多様性ではなく、「一なるもの」を強調して示しているのです。
質問者
「一なるもの」は神性(バガヴァーン)の中に融け入った後にのみ可能です。
それは真実ですが、それまでは多様性があるはずです。
それがサンサーラです。
マハルシ
私たちは今どこにいるのでしょう?
私たちは神性から離れているでしょうか?
サンサーラも私たちもすべては神性の中にあるのです。
質問者
しかしその体験はジニャーニ(真我を実現した人)のものです。
ジニャーナ(真我の知識)が現れるまで区別は続きます。
ですから、私にとってサンサーラは存在しているのです。
マハルシ
サンスカーラ(性癖)がサンサーラなのです。
質問者
そうです。
「これらすべてはヴァースデーヴァ(至高の神)である」─この真理が忘れられたため、私たちは自分自身を神と自己同一化できないのです。
マハルシ
忘れるということがどこにあると言うのですか?
質問者
それは夢(スワプナ)のようなものです。
マハルシ
誰の夢だと言うのですか?
質問者
ジーヴァのです。
マハルシ
ジーヴァとは誰でしょうか?
質問者
パラマートマン(至高の真我)です。
マハルシ
それならパラマートマンにそれを尋ねさせればよいのです。
質問者
では、説明図を描いて私の疑問を明確にいたします。
マハルシ
疑いを図解して明確にしたいと望んでいるのはいったい誰でしょうか?
直接体験(プラティヤクシャ)は例や解説を必要としないのです。
質問者
そこには直接体験があり、忘却もまたあるのです。
マハルシ
何が忘れられ、誰によって忘れられたと言うのですか?
質問者
聞いてください。
人は夢を見、夢の世界は目覚めとともに消え去ります。
マハルシ
同様に、現在の夢から目覚めなさい。
質問者
プラクリティ(物質的原理。根本原質。マーヤー)があまりにも強力なのです。
マハルシ
プルシャ(主。純粋精神)も見なさい。
そうすれば、プラクリティに何ができると言うのでしょう?
質問者
そこにはグランティ(結び目)があるのです。
マハルシ
誰の結び目でしょう?
プルシャのでしょうか、プラクリティのでしょうか?
あるいは両方のでしょうか?
質問者
ブラフマンが原因なのです。
マハルシ
それならブラフマンが尋ねるべきです。
あるいはブラフマンが尋ねられるべきです。
誰にとっての夢、あるいは結び目だと言うのでしょう?
あなたはいつも「私は尋ねます」と言いますが、その「私」とは誰なのですか?
592
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/29(土) 01:01:04 ID:phf4brz.0
質問者
私には理解できません。
マハルシ
「私」は永遠です。
もしそれが何か特定のものなら消え去るはずです。
しかしそれは完全なのです。
それゆえ、それは対象としては見つからないのです。
質問者
しかし私は不完全なのです。
マハルシ
なぜ不完全性を持ち込むのですか?
なぜあなたは完全ではないのですか?
眠りの中で不完全性を感じましたか?
なぜ今でさえそのようにとどまらないのですか?
目覚めの状態に眠りをもたらしなさい(ジャーグラト・スシュプティ)。
そうすればあなたの問題はなくなるでしょう。
ヤー・ニシャー・サルヴァ・ブーターナーン・タスャーン・ジャーガルティ・サンヤミー、
ヤスャーン・ジャーグラティ・ブーターニ・サー・ニシャー・パシャトー・ムネーヘ。
無知な者にとっての夜は賢者にとっての昼である。
質問者
それは賢者にとっての話です。
マハルシ
賢者とは誰でしょうか?
彼は人間ではないでしょうか?
質問者
誰かが平手打ちしたなら、あなたはそれを感じませんか?
そこには何の自他の区別もないのでしょうか?
それがジニャーナなのですか?
マハルシ
麻酔をかけられた人や泥酔している人は叩かれても感じないでしょう。
彼は賢者(ジニャーニ)でしょうか?
叡知(ジニャーナ)はその感覚と相反するのでしょうか?
質問者
見る者、見られるもの、見ること。
それらは叡知に固有のものではありません。
マハルシ
眠り、トランス状態、放心状態の中に自他の区別はありません。
それをジニャーナと呼ぶでしょうか?
それらの状態の中で何が起こったのでしょうか?
そのときに存在していたものが、今は存在していないということでしょうか?
存在する「それ」は永遠に存在します。
違いは心ゆえに起こるのです。
心はあるときには存在し、別のときには存在しません。
実在の中に変化はありません。
実在は常に至福(アーナンダ)なのです。
質問者
至福は修練の結果です。
その修練とは何でしょうか?
マハルシ
修練(サーダナ)とは、これらすべての疑いが誰にとって起こるのかを見いだす探究なのです。
質問者
それは自我(アハンカーラ)にとってです。
マハルシ
アハンカーラはどこから現れるのでしょう?
質問者
道を示してください。
私には指導が必要なのです。
マハルシ
内側に向かいなさい。
そして道を見いだしなさい。
外側から見つけることはできませんし、外側で探すこともできないのです。
質問者
私には自我を探し出すことができません。
そこで立ち往生してしまうのです。
マハルシ
どうして自我を探し出せると言うのでしょう?
それはあなたから離れてはいないのです。
見つけられないことなど放っておきなさい。
あなたは今、どこにいるのですか?
あなたは「私はいない」と言うでしょうか?
593
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/29(土) 01:04:44 ID:phf4brz.0
質問者
私とは何でしょうか?
どういうものなのでしょうか?
マハルシ
それについて悩む必要はありません。
あるがままにあらしめなさい。
なぜ気にするのですか?
眠りの中で、あなたは全体や部分について心配しましたか?
同じ人が今ここに存在しているのです。
あなたは眠りにおいても目覚めにおいても同じなのです。
質問者
眠りと目覚めは異なった印象を与える異なった状態です。
マハルシ
それが何だと言うのでしょう?
真我はけっして変わらないのです。
質問者
瞑想をしても心は落ち着きません。
マハルシ
いつであれ、それがさ迷い出すたびに、何度も何度も内面に向かわせなさい。
質問者
不幸が私を圧倒するとき、探究は不可能になります。
マハルシ
なぜなら心が弱すぎるからです。
それを強くしなさい。
質問者
どのような方法ででしょうか?
マハルシ
サットサンガ、イーシュヴァラ・アーラーダナ、プラーナーヤーマ(賢者との交際、神の礼拝、呼吸制御)です。
質問者
何が起こるのでしょうか?
マハルシ
不幸が取り除かれるのです。
それが私たちの目標です。
幸福を獲得するのではありません。
あなたの本性そのものが幸福だからです。
至福が新たに得られるわけではありません。
為すべきことは不幸を取り除くことだけです。
これらの方法がそれを可能にするのです。
質問者
賢者との交際(サットサンガ)は心を強くするでしょう。
修練(アビャーサ)も必要です。
何の修練をすべきでしょうか?
マハルシ
そうです。
修練もまた必要です。
修練とは生来の精神的傾向(サンスカーラ)を取り除くことです。
修練は何か新しいものを得るためではなく、精神的傾向を殺すためのものなのです。
質問者
修練が私にその力を与えるに違いありません。
マハルシ
修練は力です。
想念が一つの想いだけに集中されたとき、心は強くなると言われます。
修練が揺るぎないものになったとき、それは自然(サハジャ)となるのです。
質問者
その修練とは何でしょうか?
マハルシ
真我探究です。
それがすべてです。
アートマンイェーヴァ・ヴァシャン・ナイェー……「心を真我にとどめなさい」
質問者
その目標は何でしょうか?
修練には目標が必要です。
マハルシ
アートマンが目標です。
それ以外に何があるでしょう?
それ以外のすべての目標は、真我を目標とすること(アートマ・ラクシャ)が不可能な人のためにあるのです。
それらは最終的には真我探究(アートマ・ヴィチャーラ)に導きます。
一点に集中することがすべての修練の成果です。
ある人は早く達成し、ある人は時間がかかるかもしれません。
すべては修練しだいです。
594
:
避難民のマジレスさん
:2020/02/29(土) 01:08:00 ID:phf4brz.0
質問者
平和は何よりも賞賛されるものです。
どうすれば平和を得ることができるでしょうか?
マハルシ
それはあなたの本性なのです。
真我が忘却に打ち負かされることはありません。
現在、真我は真我ではないものと混同されているため、それがあなたに真我や平和を忘れることついて語らせるのです。
この混乱をなくせば、忘却が頭をもたげることもなくなるでしょう。
質問者
それはどのようにするのですか?
マハルシ
真我を探究するのです。
一点に精神を集中することは、精神活動の停止を意味します。
忘却とは、自己についての忘却であるに違いありません。
さて、何の自己でしょうか?
真我のでしょうか?
そこに二人の自己があるでしょうか?
修練がサンスカーラを取り除くのです。
質問者
しかしサンスカーラは、始まりも終わりもない無限で永遠のものです。
マハルシ
そう考えること自体がサンスカーラなのです。
その考えを棄て去りなさい。
そうすればすべてのサンスカーラは一度に消え去るでしょう。
それが静寂(ヴィシュラーンティ)、平和(シャーンティ)です。
平和は常に存在しています。
しかしあなたはそれを押さえつけ、その上にのし上がってかき乱しておいてから、「私は平和が欲しい」と言うのです。
質問者
平和は漸進的に得られるものなのでしょうか?
マハルシ
そうです。
シャナイヒ・シャナイヒ・ウパラメート「心を徐々に静かにさせなさい」と『バガヴァッド・ギーター』は述べています。
しばらくして、訪問者はG氏が二十日ごろにここを訪れたかどうかと尋ねた。
彼自身マハルシについてG氏から話を聞いたのだった。
G氏はここを訪れた後、喜びに満ちていたとのことだった。
マハルシ
どうして私にすべての訪問者の名前を知ることができると言うのでしょう?
彼はここにいたかもしれません。
誰もが喜びに満たされています。
そこには名前もなく、形もありません。
それでも、名前は日常生活(ヴィヤヴァハーラ)に必要とされるのです。
*マッタハ・パラタラン・ナーニャット・キンチト…:『バガヴァッド・ギーター』7-7
おお、ダナンジャヤ!
私を超越するものは何もない。
糸に連なる真珠のように、すべては私と繋がっているのだ。
*ヤー・ニシャー・サルヴァ・ブーターナーン…:『バガヴァッド・ギーター』2-69
すべての生けるものが眠る夜、自己を制する賢者は目覚めている。
すべての生けるものが目覚める昼、内面を観る賢者の夜となる。
*アートマンイェーヴァ・ヴァシャン・ナイェー…:『バガヴァッド・ギーター』6-26
いつであれ落ち着きのない心がさ迷い出したなら、そのときその場でそれを制御し、自己の支配下に導くべきである。
*シャナイヒ・シャナイヒ・ウパラメート…:『バガヴァッド・ギーター』6-25
固い決意で知性を集中させ、心を徐々に内に向け、真我の中に確立させるべきである。
他の何も考えてはならない。
595
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/03/01(日) 00:44:49 ID:1d4drIFg0
あらゆる経典の知識は人に実践させることを目的としているのじゃ。
実践とは自らの心を観ることなのじゃ。
自らの心を観ないならば経典は無意味なのじゃ。
それ故にマハリシは常に質問する者にそのように尋ねている者は何かと聞くのじゃ。
自らの心を観る実践によってのみ、人は喜びに没入することができるのじゃ。
596
:
避難民のマジレスさん
:2020/03/01(日) 01:56:54 ID:phf4brz.0
ラマナ・マハルシとの対話291
鉄床からの火花(治安判事による尋問)──2
1936年12月5日
尋問者
あなたは先日、アティアーシュラマ(アーシュラマを超えた・四住期を超えた状態)について語りました。
それに関する典拠はあるのですか?
それは何かに記述されていますか?
マハルシ
典拠はあります。
『ウパニシャド』、『スカンダ・プラーナ』(スータ・サンヒター)、『バーガヴァタム』、『マハーバーラタ』などです。
尋問者
その状態に戒律や修行は存在しますか?
マハルシ
それに特有なものが聖典に述べられています。
尋問者
それぞれのアーシュラマにはグルがいますが、アティアーシュラマにもグルはいますか?
マハルシ
います。
尋問者
しかしあなたはグルを認めていません。
マハルシ
誰もが一人のグルを持っています。
私にもグルがいることを認めます。
尋問者
誰があなたのグルなのですか?
マハルシ
真我です。
尋問者
誰にとってですか?
マハルシ
私にとってです。
グルは内的なものかも外的なものかもしれません。
グルは彼の本性を内面で明らかにするかもしれませんし、外的に伝達するかもしれません。
597
:
避難民のマジレスさん
:2020/03/01(日) 01:58:06 ID:phf4brz.0
尋問者
アティアーシュラミー(アーシュラマを超えた人)が資産を所有することはできるのですか?
マハルシ
彼らに制限というものはありません。
何であれ彼らは望むままにするのです。
シュカは結婚し、子供をもうけたと言われています。
尋問者
その場合、アティアーシュラミーは家住者(グリハスタ)のようですね。
マハルシ
すでに言ったように、アティアーシュラミーは四住期を超えているのです。
尋問者
もし彼らが結婚し資産を所有できるなら、彼らはただの家住者です。
マハルシ
それはあなたの観点です。
尋問者
彼らは資産を所有し、それを他者に譲渡することもできるのですか?
マハルシ
そうするかもしれませんし、しないかもしれません。
すべては彼のプラーラブダ(運命)によります。
尋問者
彼らにはカルマがあるのでしょうか?
マハルシ
彼らの行動はいかなる規則や慣例にも規制されません。
尋問者
訪問者がここに、例えば二、三日間滞在することを求めるとき、彼らはあなたの許可を取りますか?
マハルシ
アーシュラマム管理者からの許可が私からの許可なのです。
訪問者は私に会いに来ます。
アーシュラマムの管理は私のために運営されているのです。
相互の同意があるときは、私は干渉しません。
訪問者が来るとき、私は滞在を認めます。
私の意志に反する人がいるでしょうか?
私の同意は相互の善意のもとに行為において示されるのです。
シュリー・バガヴァーンは彼の自筆の詩を見せられた。
それは彼自身をスブラマニヤ神として讃えている二行詩だった。
シュリー・バガヴァーンは、それを書いたのはバガヴァーン自身だが、アイデアはペルマル・スワミのものだと語った。
尋問者
それでも、あなたはこの詩の中に書かれていることに同意しているのではありませんか?
マハルシ
石の偶像がスブラマニヤ神として讃えられているのと同じように。
598
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/03/01(日) 22:13:13 ID:1d4drIFg0
住期とかカルマ等は悟りを得るために仮設された概念に過ぎないのじゃ。
悟ればそのような観念には囚われないのじゃ。
全て自由なのじゃ。
ブラフマンそのものなのじゃ。
599
:
避難民のマジレスさん
:2020/03/02(月) 00:28:48 ID:phf4brz.0
ラマナ・マハルシとの対話292
1936年12月13日
質問者
タンマートラ(微細な要素)は夢の中で作用する要素なのでしょうか?
マハルシ
いいえ。
タンマートラは夢よりも精妙なものです。
目覚めの状態の粗大な世界と比べれば、夢見の世界は精妙なものですが、タンマートラと比べれば、夢見の世界のほうがより粗大です。
五大元素と組み合わさった後、タンマートラは内的器官すなわち心(アンタカラナ)を生じさせます。
それもまた異なった作用要因の組み合わせによって異なります。
空間(エーテル)が支配する純質(サットヴァ)の影響を受けると、それは叡知(ジニャーナ)を生じさせます。
それは脳を中枢(座)としています。
空気(ヴァーユ)は心(マナス)を生み出し、
光(テージャス)は知性(ブッディ)を生み出し、
水(ジャラ)は記憶等(チッタ)を生み出し、
大地(プリトヴィ)は自我(アハンカーラ)を生み出します。
それらはどの感覚や器官に対しても個別に作用でき、または全体に対しても集合体(サマシュティ)として作用できるようになっています。
激質(ラジョーグナ)と組み合わせたとき、それは個人(ヴィヤシュティ)の中で知識器官(ジニャーネーンドリヤ)に変化し、暗質(タモーグナ)と組み合わせたとき、それは個人の中で行動器官(カルメーンドリヤ)に変化します。
外界と個人の関係が調和するのは、タンマートラ(微細な要素)がそれらに共通した要素だからです。
タンマートラは物質的原理(プラクリティ)から生じます。
創造の理論にはそれぞれに大きな違いがあります。
同時創造(ユガパト・スリシュティ)と段階的創造(クラマ・スリシュティ)が知られていますが、その意義は創造にではなく、創造の起こる起源に重きがあるのです。
600
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/03/02(月) 22:43:57 ID:1d4drIFg0
自分がどのようにできたのかとか、世界はどのようにできたのかと聞く者が居るのじゃ。
そのためにさまざまな教義も創られるのじゃ。
それらは安心して修行できるようにするためなのじゃ。
夢幻の観念に過ぎないのじゃ。
601
:
避難民のマジレスさん
:2020/03/03(火) 01:03:27 ID:phf4brz.0
ラマナ・マハルシとの対話293
K・K・V・アイヤール氏
瞑想では内面へ入っていく方法が見つかりません。
マハルシ
いったい他のどこに私たちがいると言うのですか?
私たちの存在そのものが内面にあるのです。
質問者
そうでありながら、私たちは無知なのです。
マハルシ
何についての無知なのですか?
誰の無知だと言うのでしょうか?
もし自己についてだと言うなら、そこに二人の自己がいると言うのですか?
質問者
二人の自己がいるわけではありません。
しかし限定されているという感覚は否定し難いものです。
限定されているために……。
マハルシ
限定は心の中にしか存在しません。
深い眠りの中でも限定を感じますか?
眠りの中であなたは存在していました。
そのとき、あなたは自分の存在を否定しませんでした。
同じ自己が、今ここで目覚めの状態に存在しているのです。
あなたは今、限定があると言います。
つまり目覚めと眠りの状態の違いは、今現れたのです。
その違いは心によって起こりました。
眠りの中に心は存在していませんでした。
その反対に、それは今活動しています。
しかし心が存在しなくとも真我は存在するのです。
質問者
理解はしていますが、実現できないのです。
マハルシ
瞑想とともに徐々に明らかにされていくでしょう。
質問者
瞑想は心をともなうものです。
どうして真我を明らかにするために、瞑想で心を殺すことができると言うのでしょうか?
マハルシ
瞑想とは一つの想念だけを想い続けることです。
その一つの想念が他のすべての想念を遠ざけます。
心の散漫は精神力の弱さの兆候です。
たゆみなく瞑想を続けることによって心は力を得ていきます。
つまり移り変わりやすい心の弱さが、その背後にある恒久的な無心状態に場を明け渡すのです。
この無心の広がりが真我です。
純粋な心が真我なのです。
シュリー・バガヴァーンは前の質問者に答えた。
マハルシ
誰もが「私は身体だ」と言います。
その体験は無知な人にとっても賢者にとっても同じです。
しかし無知な人は真我が身体の中に封じ込められていると信じ、一方、賢者は真我を離れて身体が存在することはできないと信じています。
彼にとって真我は無限であり、それは身体をも含んでいるのです。
ボース氏が尋ねた。
「シュリー・バガヴァーンの臨在のもとで感じられる平和は、しばらくの間続くのですが、どうして永続しないのでしょうか?」
マハルシ
その平和はあなたの真の本性です。
それに反する考えは、真理の上に押し付けられた偽りでしかありません。
これが真のバクティ、真のヨーガ、真のジニャーナです。
あなたはこの平和を修練によって得たと言うかもしれませんが、実際は、修練によって偽りの観念が棄て去られただけです。
あなたの真の本性は常に存在しています。
あなたが得た平和の一瞥は、やがて起こる真我実現の前兆なのです。
初めの質問者に答えて、シュリー・バガヴァーンはこう語った。
マハルシ
ハートが真我なのです。
それは外側にも内側にもありません。
心はそのシャクティです。
心が立ち現れた後で宇宙が現れ、身体はその宇宙の中に含まれているように見えます。
しかし実際はこれらすべてが真我の中に包含されています。
心も身体も宇宙も、真我から離れては存在できないのです。
602
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/03/03(火) 22:53:23 ID:1d4drIFg0
心を見るようにと説けば心が見られないという。
アートマンを探求せよと説けばアートマンは明らかに出来ないというのじゃ。
そこにあるのは恐れなのじゃ。
今の自分を失うことが怖いからいろいろ理由をつけて出来ないというのじゃ。
死が目の前にあれば何の手がかりも無い壁でさえ人は登ることができるのじゃ。
常に死を想うのじゃ。
そうすれば出来ないことなどなくなるのじゃ。
603
:
避難民のマジレスさん
:2020/03/04(水) 00:25:20 ID:phf4brz.0
ラマナ・マハルシとの対話294
1936年12月14日
パルキ氏
瞑想はどのように修練するべきものでしょうか?
マハルシ
本来の意味における瞑想とはアートマ・ニシュター(真我として在り続けること)です。
しかし想念が心をよぎったとき、その想念を打ち消そうとする努力がふつう瞑想と呼ばれています。
アートマ・ニシュターはあなたの真の本性です。
あるがままのあなたとして在りなさい。
それがその目的なのです。
質問者
それでも想念は起こります。
私たちの努力は想念を消去することだけにあるのでしょうか?
マハルシ
そうです。
一つの想念だけに瞑想することで、他の想念は遠ざけられます。
瞑想は想念を遠ざけることができるという消極的な効果しか持っていないのです。
質問者
アートマ・サンスタン・マナハ・クリトヴァー(心を真我の内にとどめる)と言われています。
しかし真我とは思考の及ばないものなのではありませんか?
マハルシ
そもそも、なぜ瞑想したいと願うのでしょうか?
あなたが瞑想したいから、「アートマ・サンスタン・マナハ・クリトヴァー」と言われたのではないでしょうか?
なぜ瞑想なしに、あるがままのあなたとしてとどまらないのですか?
「マナハ」(心)とは何でしょうか?
すべての想念が消え去ったとき、それは「アートマ・サンスター」(真我の内にとどまる)ようになるのです。
質問者
もし何かの形が与えられたなら、私はそれに瞑想することができます。
そして他の想念は消え去ることでしょう。
しかし真我は無形なのです。
マハルシ
形や具体的対象物に瞑想することがディヤーナと呼ばれ、真我を探究することはヴィチャーラ、あるいはニディディアーサナ(真理の一点に心を集中させること)と呼ばれています。
シュリー・バガヴァーンは「アディヤーローパー・パヴァーダーヴャーン」(真我の上に押し重ねられた幻影とその消去)についてこう語った。
「アディヤーローパは、内なる真我へとあなたを向かわせ、アパヴァーダは、世界が真我から離れていないことをあなたに理解させるのです」
*アートマ・サンスタン・マナハ・クリトヴァー…:『バガヴァッド・ギーター』6-25
固い決意で知性を集中させ、心を徐々に内に向け、真我の中に確立さぜるべきである。
他に何も考えてはならない。
604
:
避難民のマジレスさん
:2020/03/04(水) 21:11:18 ID:phf4brz.0
いったんここで休止になります。鬼和尚ありがとうございました!
また再開することがありましたらよろしくお願いしますm(__)m
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