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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

605鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/04(水) 21:19:10 ID:1d4drIFg0
ご苦労さんだったのじゃ。
休むとよいのじゃ。
正に菩薩の行ないじゃ。

606鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/04(水) 21:22:35 ID:1d4drIFg0
呼吸や胸や眉間に集中することがディヤーナなのじゃ。
集中の対象と一体になったらサマーディなのじゃ。
他の全てを否定してアートマンを追求するのがヴィチャーラなのじゃ。
無形であり、認識できない認識主体であるアートマンを追求するのはなかなか難しいことではあるがのう。

607避難民のマジレスさん:2020/03/04(水) 21:39:06 ID:3Bw07Ll60
>>604
毎晩、読むのを楽しみにしてたので、中止はたいへん残念でありますが、執着心はすてねばなりますまい。
10ヶ月にわたり、ありがとうございました。
気が向いたら、再開していただけると嬉しいです。
マハリシの言葉は皆の宝でありますね。
(´・(ェ)・`)つ

608避難民のマジレスさん:2020/03/04(水) 22:27:37 ID:3Bw07Ll60
テスト
変化の緊要

  気づき 1


質問者 私は、あなたの言われる気づきはどういう意味なのかを知りたいように思うのです。なぜなら、気づきがあなたの本当に教えていることであると、あなたはしばしば言われてきたからです。私は、あなたの講話を聞き、あなたの書物を読むことによりそれを理解しようとしてきましたが、しかし、私はあまり遠くに至らないように思われます。私は、それが実践ではないことを知っていますし、なぜあなたがあれほど強調して、どのような実践、訓練、体系、修練、課業をも否認されるのかを理解します。私はそれの重要性が分かります。というのは、そうでなければ、それは機械的になるし、そのはてに心は鈍く愚かになっているからです。できるなら、私はあなたとともに、気づくとはどういう意味なのかというこの疑問をその最後まで探検したいように思うのです。あなたは、この言葉に何か特別な深い意味を与えておられるように思われますが、それでも、私たちはすべてのときに起きていることに気づいているように、私には思われます。私は怒っているとき、それを知っています。私は悲しいとき、それを知っています。私は幸せなとき、それを知っています。

K 私たちは本当に怒り、悲しみ、幸せに気づいているのかどうかと思うのです。それとも、私たちはこれらのものごとが全く過ぎたときにだけ、それらに気づくのでしょうか。まるで私たちはそれについて何も知らないように出発し、取っかかりから始めましょう。教義的なのも微細なのもどんな主張をもしないようにしましょう。この疑問を深く探検しましょう - もしも本当に深々と入ったなら、心がたぶんけっして触れたことのないとてつもない状態、表面的な気づきには触れられない次元を、開示するであろうこの疑問を。表面から始めて、働き、通じましょう。
  私たちは目で見ます。私たちは、身のまわりのものごとを感覚で知覚します - 花の色。花の上のハチドリ。カリフォルニアの日の光。さまざまな性質と微細さの千もの音、響き。その樹の深さと高さ、陰と樹自体。私たちは同じように、自らの体を感じます - それは、これらさまざまな表面的、感覚的知覚の器です。もしもこれら知覚が表面的水準にとどまったなら、全く混乱はないでしょう。あの花、あのパンジー、あのバラはあるし、それはあれにとってあるすべてです。好みはなく、比較はなく、好き嫌いはなく、どんな心理的関与もなく私たちの前のものだけです。このすべての表面的な感覚的な知覚または気づきは、全く明らかでしょうか。それは、現代技術の道具すべてを用いて、星へ、海の深みへ、科学的観察の最前線へ拡大されるかもしれません。

(´・(ェ)・`)つ

609避難民のマジレスさん:2020/03/05(木) 07:04:43 ID:rPwgLfGQ0
パパジ講読会が中断したままでありますが、マハリシ再開までの間はクリシュナムルティ講読会を開催します。
(´・(ェ)・`)つ

610避難民のマジレスさん:2020/03/05(木) 17:25:12 ID:G5BV6qjk0
いきなりたいへん興味深いテーマからであります。
「気づき」
『まるで私たちはそれについて何も知らないように出発し、取っかかりから始めましょう。教義的なのも微細なのもどんな主張をもしないようにしましょう。この疑問を深く探検しましょう - もしも本当に深々と入ったなら、心がたぶんけっして触れたことのないとてつもない状態、表面的な気づきには触れられない次元を、開示するであろうこの疑問を。表面から始めて、働き、通じましょう。』
(´・(ェ)・`)つ

611避難民のマジレスさん:2020/03/05(木) 17:42:38 ID:G5BV6qjk0
>>608
変化の緊要

気づき

質問者 はい、それは理解できると思います。

K では、あなたは、バラと宇宙全体とそこの人々、あなたが結婚しているならあなたの妻、星、海、山々、微生物、原子、中性子、この部屋、扉があることを、見ます。ここで、次の一歩です。あなたがこれらのものごとについて考えること、それらについて感じることは、それらへのあなたの心理的応答です。そして、これを私たちは思考や情動と呼ぶのです。それで、表面的気づきは単純素朴な事態です。扉はそこにあるのです。しかし、扉の叙述は扉ではありませんし、あなたが情動的に叙述に関与するとき、あなたは扉が見えません。この叙述は、言葉や科学的論文や強い情動的応答であるかもしれません。これらのどれ一つとして、扉自体ではないのです。最初からこれを理解するのはとても重要です。もし私たちがこれを理解しないなら、私たちはますます混乱するでしょう。叙述はけっして叙述されるものではありません。私たちはいまでさえ、何かを叙述しているし、しなくてはならないけれども、私たちが叙述しているものは、それについての私たちの叙述ではないのです。だから、私たちの話をとおして、これを心に留めてください。けっして言葉を、それが叙述するものと混同しないでください。言葉はけっして本物ではありません。そして、私たちは、気づきの次の段階に来るとき、そこでは私的になるし、私たちは言葉をとおして情動的になるので、やすやすと乗せられてしまうのです。
  それで、樹、鳥、扉の表面的気づきがあるし、それへの応答があるのです - それが思考、感受、情動です。ここで、私たちはこの応答に気づくとき、それを気づきの第二の深さと呼んでいいかもしれません。バラの気づき、バラへの応答の気づきがあるのです。しばしば私たちは、バラへのこの応答に気づきません。真実にはそれは、バラを見、応答を見る同じ気づきです。それは一つの動きですし、外と内の気づきについて語ることは間違っています。どんな心理的関与もなく樹の視覚的気づきがあるとき、関係に分別はないのです。しかし、樹への心理的応答があるとき、この応答は、条件づけられる応答です。それは、過去の記憶、過去の経験の応答です。そしてこの応答は、関係における分別です。この応答が、関係における「私 me 」と「非私 non-me 」と呼ばれるべきものの誕生です。このようにして、あなたはあなた自身を世界との関係におくわけです。このようにして、あなたは個人と共同体を造り出すわけです。世界は在るままに(見られるの)ではなく、記憶の「私」とのさまざまな関係において、見られるのです。この分別が生ですし、私たちが自らの心理的存在と呼ぶあらゆるものごとの繁茂です。そして、これから、矛盾と分別のすべてが生じます。あなたがこれを知覚することは明確でしょうか。樹の気づきがあるとき、評価はありません。しかし、樹への応答があるとき、樹が好き嫌いでもって判断されるときに、この気づきに、「私」と「非私」として、分別が起きるのです - 観察されるものとは異なっている「私」です。この「私」は、関係における、過去の記憶、過去の諸経験の応答です。ここで、どんな判断もなく樹の気づき、観察はありうるでしょうか。そして、どんな判断もなく応答、反応の観察がありうるでしょうか。このように私たちは、樹を見つけるなかと私たち自身を見つめるなかの両方で、分別の原理、「私」と「非私」の原理を根絶するのです。
(´・(ェ)・`)つ

612鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/05(木) 22:56:42 ID:1d4drIFg0
ご苦労さんなのじゃ。

気付きこそ悟りの要諦なのじゃ。
自我に気付くことで無我になり、認識に気付くことで大悟徹底するのじゃ。
気付くことで厭離が起こるからなのじゃ。
厭離とは自己同一化の破壊なのじゃ。
観察も気付くために行うのじゃ。

613避難民のマジレスさん:2020/03/06(金) 05:16:35 ID:TOYCij1M0
変化の緊要

  気づき 3

質問者 私はお話に付いていこうとしています。正しく取っているのかどうかを見ましょう。樹の気づきがあります。それは理解します。樹への心理的応答があります。それもまた理解します。心理的応答は、過去の諸記憶と過去の諸経験からできあがっています。それは好き嫌いです。それは、樹と「私」への分別です。はい、それらは理解できると思います。

K これは、樹自体ほどに明らかでしょうか。それとも、ただ単に叙述の明晰さのみでしょうか。覚えておいてください。すでに言いましたように、叙述されるものは叙述ではないのです。あなたは何を得たのでしょうか。そのものでしょうか。それの叙述でしょうか。

質問者 そのものであると思います。

K ゆえに、この所作が見えるなかに、叙述である「私」はないのです。どんな所作を見るなかにも、「私」はないのです。見えることの「私」もまたないのです。両方はありえません。「私」は見ないことです。「私」には見えません。(「私」は)気づけないのです。

質問者 ここで止めてもよろしいでしょうか。私はその感じはつかめたと思うのですが、それに潜らなければなりません。明日もう一度来てもよろしいでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

614鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/06(金) 21:54:22 ID:1d4drIFg0
自分の記憶や知識から観たものは気付きではないのじゃ。
自分が無い時に観ることが気付きなのじゃ。
その時に真の厭離が起こるのじゃ。
記憶や知識ではない、実在そのものが見えたからなのじゃ。

615避難民のマジレスさん:2020/03/06(金) 21:59:45 ID:AT3b5vXQ0
言葉(観念)で表現された観察対象は、観察対象そのものではない。
観察した結果えられたものが、対象そのものであるとすれば、
そこには、言葉はない。
言葉は、それを発する主体=私を前提とするものであるから、言葉が対象そのものでない以上、それを発する主体である「私」も無い。
そんな理解でよいのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

616避難民のマジレスさん:2020/03/06(金) 22:24:47 ID:AT3b5vXQ0
変化の緊要

  気づき 4

質問者 私はあなたが昨日言われたことを、非言語的に本当に理解したと思います。樹の気づきがあります。樹への条件づけられる応答があります。そして、この条件づけられる応答は葛藤です。それは記憶と過去の諸経験の作用です。それは好き嫌いです。それは先入観です。私は、この先入観の応答が、「私」と呼ばれるもの(の誕生)、または監視者の誕生であることを、もまた理解します。 [受ける]「私 the 'me' 」と [なす]「私 the 'I' 」が、関係すべてに存在することが、明らかに分かります。ここで、諸関係の外側に「私」はあるのでしょうか。

K 私たちは、私たちの諸応答がどんなに重く条件づけられるかを、見たのです。あなたが関係の外側に「私」があるのかどうかを訊ねるとき、これら条件づけられる応答から自由がないかぎり、それは思弁的な疑問になるのです。それは分かるでしょうか。それで、私たちの第一の疑問は、条件づけられる諸応答の外側に「私」があるのかないのかではないのです。むしろ、心には私たちの感受すべてが含まれるし、この条件づけは過去なのですが、それはこの条件づけから自由でありうるのでしょうか。過去は「私」です。現在には「私」はありません。心が過去に作動しているかぎり、「私」はあるのです。そして、心はこの過去であるのです。心はこの「私」であるのです。
  あなたは、心があるし、過去があるとは言えません - それが二三日前の(過去)であっても一万年前の過去であっても、です。それで、私たちは訊ねています - 心は昨日から自由でありうるでしょうか。ここで、いくつものものごとが関与しているでしょう。まず最初に、表面的な気づきがあるのです。そのとき、条件づけられる応答の気づきがあるのです。そのとき、心は過去であるし、心がこの条件づけられる応答なのであるとの悟りがあるのです。そのとき、この心が過去から自由でありうるのかどうかという疑問があるのです。そして、このすべてが気づきの統一的な作用です。なぜなら、ここには結論がないからです。私たちが心は過去であると言うとき、この悟りは言語的な結論ではなく、所作の現行の知覚です。フランス人はそういう所作の知覚を表す言葉を持っています。彼らはそれを「 constatation 確証」と呼ぶのです。私たちが心は過去から自由でありうるのかを訊ねるとき、この疑問は、監視者、「私」 - すなわちまさにあの過去 - により、問われているのでしょうか。

質問者 心は過去から自由になれるのでしょうか。

K 誰がその疑問を立てているのでしょうか。それは、たいへん多くの葛藤、抗争、記憶と経験の結果である事物でしょうか - 訊ねているのは彼でしょうか。それとも、この疑問は、それ自体から、所作の知覚のなかから、生ずるのでしょうか。疑問を立てているのが観察者であるのなら、そのとき彼は、自分自身の所作から逃避しようとしているのです。なぜなら彼は、私はこんなに長く苦しみのなか、困難のなか、悲しみのなか生きてきた。私はこの常なる格闘かを乗り越えたいように思う、と言うからです。もし彼がその動機から疑問を訊ねるなら、彼の答えは、何か逃避に庇護を得ることであるでしょう。所作にそっぽを向くのか、または向き合うのかのどちらかです。そして、言葉と象徴は、それからそっぽを向くことです。実は、だいたいこの疑問を訊ねることだけでも、すでに逃避の作用であるでしょう。この疑問は逃避の作用であるのかないのかに、気づきましょう。逃避の作用であるなら、それは音なのです。観察者がないのなら、そのとき静寂が、過去全体の完全な否定があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

617鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/07(土) 23:41:28 ID:1d4drIFg0
>>615 そのような理解で善いのじゃ。
 それに気づくことが大事なのじゃ。
 何度も観察して完全に観察できれば厭離も起こるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

618鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/07(土) 23:47:23 ID:1d4drIFg0
誰がその疑問を立てているのかと、クリシュナムルティは尋ねるのじゃ。
それはマハリシが常に尋ねているのと同じなのじゃ。
悟った者は常にただの言葉による対話だけでなく、今ここで自らを観ることを要求するのじゃ。
それが実践なのじゃ。
実践が全てなのじゃ。

619避難民のマジレスさん:2020/03/08(日) 08:21:08 ID:3u9Q62c.0
変化の緊要

気づき 5

質問者 ここで私は迷っています。私はどうすれば数秒で過去をぬぐい去れるのでしょうか。

K 私たちは気づきを議論していることを、心に留めましょう。私たちはともに、気づきのこの疑問について話し合っているのです。
  樹があります。樹への条件づけられる応答があります - それが、関係での「私」、葛藤、抗争のまさに中心である「私」です。ここで、疑問を訊ねているのは、この「私」(でしょうか) - 私たちが言いましたように、過去のまさに構造であるこの「私」でしょうか。疑問が過去の構造から問われていないなら、疑問が「私」により問われていないなら、そのとき、過去の構造はないのです。構造が疑問を訊ねているとき、それは、それ自体の所作との関係において作動しているし、それはそれ自体に怯えているし、それ自体から逃避するため作用するのです。この構造が疑問を問わないとき、それはそれ自体との関係で作用していません。要約すると - 樹があるし、言葉が、樹への応答があるし、これは監視者または「私」ですし、これは過去から来るのです。そのとき疑問があるのです - 私はこのすべての動乱と苦悶から逃避できるでしょうか。「私」がこの疑問を訊ねているなら、それはそれ自体を永続化しているのです。
  ここで、それに気づいて、その疑問を問わないのです!その含意すべてに気づき、分かるので、疑問は問えないのです。それは罠が分かるから、全くその疑問を問わないのです。ここで、あなたは、このすべての気づきが表面的であることが、分かるでしょうか。それは、樹を見る気づきと同じことです。

質問者 他の種類の気づきはあるのでしょうか。気づきには他の次元はあるのでしょうか。

K 再び、気をつけましょう。私たちは、どんな動機をもってこの疑問を訊ねているのでもないことを、明確にしましょう。動機があるなら、私たちは、条件づけられた応答の罠に戻っているのです。観察者が静寂になるのではなく、全的に静寂であるとき、存在するに至る気づきの違った性質が、確かにあるのです。

質問者 どんな境遇でも観察者なしにいったいどんな作用がありうるのでしょうか - どんな疑問やどんな作用が。

K 再び、あなたが川のこちら岸からこの疑問を訊ねているのでしょうか。それとも、それが向こう岸からあるのでしょうか。あなたが向こう岸にあるのなら、あなたはこの疑問を訊ねないでしょう。もしあなたがかの岸にあるのなら、あなたの作用はかの岸からあるでしょう。それで、その構造、本性のすべて、罠のすべてをともなう岸の気づきがあるし、罠から逃避しようとすることは、もう一つの罠に陥ることなのです。そして、そのすべてには、なんと命取りの単調さがあるのでしょうか!気づきは、私たちに罠の本性を示してくれました。ゆえに、罠すべての否定があるのです。それで、心はいま空なのです。それは、「私」と罠について空なのです [「私」と罠を欠いているのです] 。この心は、気づきの違った性質、違った次元を持つのです。この気づきは、自らが気づいているということに、気づきません。

質問者 神さま!これはあまりにむずかしすぎます!あなたは、真実に思われること、真実に聞こえることを言っておられますが、私はまだそこにいないのです。違ったように表してもらえるでしょうか。私を私の罠から押し出してもらえるでしょうか。

K 誰もあなたをあなたの罠から押し出せません - どんな導師も、どんな薬物も、どんな真言も、私を含めて誰も。誰も、特に私自身は。あなたがなすべきすべては、途中で不注意になるのではなく、始めから終わりまで気づくことばかりです。この気づきの新しい性質は、注意です。そして、この注意には、「私」の造った辺境がありません。この注意は、最高の形の美徳です。ゆえに、それは愛なのです。それは最上の智恵です。そして、あなたがこれら人工の罠の構造と本性に敏感でないなら、注意はありえないのです。

(´・(ェ)・`)
(おわり)

620避難民のマジレスさん:2020/03/08(日) 08:55:26 ID:3u9Q62c.0
観察対象についての叙述は対象そのものではない。
叙述される想いは全て記憶に基づく(=過去)ものであり、それとは離れた「気づき」があるという構造を理解する。
その構造を理解した上で「私」を否定する。
その為に常に注意深くあるようにする。

Kは実践を否定すると言われてますが、常に注意して内面を観察せよと言うのがKのおすすめの方法であり、実践でありますね。
(´・(ェ)・`)つ

621避難民のマジレスさん:2020/03/08(日) 09:11:35 ID:3u9Q62c.0
「所作」
仏語。身・口・意の三業(さんごう)が発動すること。能作に対していう
(´・(ェ)・`)つ

622鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/09(月) 00:39:19 ID:1d4drIFg0
>>620 そうじゃ、それこそが真の実践なのじゃ。
 過去の記憶に基づいた行は気付きの機会を少なくするばかりなのじゃ。
 それは観念遊戯に陥ってしまうのじゃ。
 今ここにあるものごとに集中して観るしかないのじゃ。

623避難民のマジレスさん:2020/03/09(月) 05:16:58 ID:Tqhkhw9s0
変化の緊要

  神はあるのでしょうか 1


質問者 私は、神があるのかどうかを本当に知りたいように思うのです。もしないのなら、生は意味を持ちません。神を知らないので、人間は神を千もの信仰と像とに考案してきました。これらすべての信仰の生み育てた分割と恐れは、人間を仲間の人間から分割してきました。この分割の苦しみと危害から逃避するため、人間はさらに多くの信仰を創造するのです。そして、積もる悲惨と混乱が人間を呑み込んできたのです。私たちは知らないので、信じます。私は神を知ることができるでしょうか。私はインドでもここでもこの疑問を多くの聖者に訊ねてきましたが、彼らはみんな信仰を強調してきたのです。「信じなさい。そうすればあなたは知るでしょう。信なしでは、けっして知りえません」と。あなたはどのように思うのでしょうか。

K 見出すには、信は必要でしょうか。学ぶことは、知ることよりもはるかに重要です。信について学ぶことは、信の終わりです。心は、信から自由であるときに、見ることができます。束縛するのは、信または不信です。というのは、不信と信は同じであるからです。それらは同じ硬貨の反対側なのです。それで、私たちは、肯定的、否定的な信を完全に片づけられるのです。信者と不信者は同じです。これが現行として起きるとき、「神はあるのでしょうか」という疑問は、全く違った意味を持つのです。伝統、記憶、知的、感傷的な含蓄のすべてをもつ「神」という言葉 - そのすべては、神ではないのです。言葉は実物ではありません。だから、心はその言葉から自由でありうるでしょうか。

質問者 私はそれがどういう意味なのかを知りません。

K その言葉は伝統、希望、絶対的なものを見出したいという願望、究極的なものを求める奮闘、存在に活力を与える動きです。それで、その言葉自体が究極的なものになるのです。それでもなお、私たちは言葉はそのものではないことが分かるのです。心は言葉です。そして、言葉は思考です。

質問者 そして、あなたは私に、私自身から言葉を剥ぎ取るよう訊ねているのですか。どうして私にそれができるでしょうか。言葉は過去です。それは記憶です。妻は言葉です。家は言葉です。始まりには言葉がありました。また言葉は伝達、同定の手段です。あなたの名はあなたではないですが、あなたの名なしには私はあなたについて訊ねられません。そして、あなたは私に、心が言葉から自由でありうるのかどうかを、訊ねています - すなわち、心はそれ自体の活動から自由でありうるのでしょうか。

K 樹の場合には対象は私たちの眼の前にあるし、言葉は普遍的合意によって樹に言及するのです。ここで、神という言葉については、それが言及するものはないので、そのため各人が、それへの言及のないものについて自分の像を創造できるのです。神学者は一通りにそうするし、知識人はまた一通りに、信者と不信者はその人なりの別とおりにするのです。希望はこの信を(発生させ)、それから探し求める(という)ことを、発生させるのです。この希望は、絶望から出てくるものなのです - 私たちが世界で身の回りに見るすべての絶望。絶望から希望が生まれます。それらは同じ硬貨の両面です。希望がないとき地獄があるし、この地獄の恐怖は私たちに希望の活力を与えるのです。そのとき幻想が始まります。それで、言葉は私たちを、全く神に(導くの)ではなく、幻想に導いてきたのです。神は、私たちが崇拝する幻想です。そして非信者は、自らが崇拝するもう一つの神の幻想を創造するのです - 国家、何かユートピア、真理すべてを収めていると自らの考える何か書物を。それであなたに、あなたは幻想をもつ言葉から自由でありうるのかと訊ねているのです。
(´・(ェ)・`)つ

624鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/09(月) 21:31:42 ID:1d4drIFg0
神という言葉は神ではない。
神を知らない人間が作り出した言葉が神なのじゃ。
それを崇拝することからあらゆる対立と苦を生み出すのじゃ。
その言葉から自由になる道を自らの心の中に尋ねるのじゃ。

625避難民のマジレスさん:2020/03/10(火) 07:33:21 ID:WYFRbYTA0

変化の緊要

  神はあるのでしょうか 2

質問者 私はこれを熟慮しなければなりません。

K 幻想がないのなら、何が残っているのでしょうか。

質問者 ただ有るものだけです。

K 「有るもの」は最も神聖なものなのです。

質問者 もし「有るもの」が最も神聖なものであるなら、そのとき戦争はたいへんに神聖であるし、憎しみ、無秩序、苦しみ、貪欲、略奪は(またそうでしょう)。そのとき、私たちはどんな変化についても全く語ってはならないのです。もし「有るもの」が神聖であるなら、そのときあらゆる殺人者、略奪者、搾取者は、「私に触れるな。私のやっていることは神聖なのだ」と言えるのです。

K 「『有るもの』は最も神聖である」というその言明の単純素朴さこそが、大きな誤解につながります。なぜなら、私たちはそれの真理が分からないからです。もし有るものが神聖であることが分かるなら、あなたは殺害しないし、戦争をしないし、希望しないし、搾取しないのです。これらものごとすべてをしておいて、あなたは、あなた自身が侵犯してきた真理からの免除を主張できません。黒人の反逆者に対して、「有るものは神聖なのだ。干渉するな。燃やすな」と言う白人は、分かっていないのです。というのは、もしも分かったなら、黒人は彼にとって神聖であるでしょうし、燃やす必要はないでしょうから。それで、私たちの一人一人がこの真理が分かるなら、変化があるにちがいないのです。この真理が分かることが、変化です。

質問者 私は、神が存在するのかどうかを見出すために、ここに来ました。そしてあなたは、私を完全に混乱させてしまいました。

K あなたは、神があるのかを訊ねに来ました。私たちは言いました - 言葉は、私たちの崇拝する幻想につながるし、この幻想のために私たちは進んで互いを破壊しあうのです。幻想がないとき、「有るもの」はたいへんに神聖です。ここで、現行として有るものを見つめましょう。与えられた瞬間に、「有るもの」は恐怖であるか、全くの絶望であるか、うつろう喜びであるかもしれません。これらものごとは、常に変化しています。そしてまた、「これらものごとは私のまわりですべて変化する。しかし、私は恒常的にとどまる」と言う観察者が、あるのです。それは事実でしょうか。それは真に有るものでしょうか。彼もまた変化し、自分自身に付け加え(自分自身から)取り去り、自分自身を修正し、適応させ、なっていったり、なっていかなかったりしていないでしょうか。それで、観察者と観察されるものはどちらも、変化しているのです。有るものは変化です。これは事実です。これが、有るものであるのです。

質問者 それでは、愛は変化可能なのでしょうか。あらゆるものごとが変化の動きであるなら、愛もまたその動きの部分ではないでしょうか。そして、愛は変化可能であるのなら、そのとき私は、今日一人の女を愛し、明日は他のもう一人と眠られるのです。

K それは愛でしょうか。それともあなたは、愛はその表現とは違っていると言っているのでしょうか。それともあなたは、愛よりも表現のほうにもっと大きな重要性を与えていて、ゆえに、矛盾と葛藤を造っているのでしょうか。愛は、いったい変化の輪に捕らわれうるのでしょうか。もしそうなら、そのとき、それは憎しみでもありえます。そのとき愛は憎しみです。「有るもの」がたいへんに神聖であるのは、幻想がないときだけです。幻想がないとき、「有るもの」は神、または用いられるどんな名でもあるのです。だから、神または、あなたがいかなる名を付けようとも、それは、あなたがないとき、有るのです。あなたがあるとき、それはないのです。あなたがないとき、愛はあるのです。あなたがあるとき、愛はないのです。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

626避難民のマジレスさん:2020/03/10(火) 08:45:08 ID:pjQpA1mI0
「神」という言葉は多様な幻想を生み出す。
言葉を取り除けばただ「あるもの」がのこる。
「あるもの」は神聖である。
「あるもの」が神であると言うことが真理であるか、私たちにはわからない。
わかれば変化が起こるだろう。
観察者も観察対象も一切が無常である中で、観察者である「私」が無い時、「あるもの」=「神」はある。
(´・(ェ)・`)つ

627避難民のマジレスさん:2020/03/10(火) 09:03:42 ID:bzz.QML60
言葉は矛盾と葛藤を生み出す。
言葉を離れて「あるもの」を探求する。
「あるもの」の中で疑いようもなく「あるもの」は「私」なので、マハリシやマハラジや鬼和尚は「私」を探求することが唯一の道であると説くのでありますね。
どうやら、Kも同じことを語っている様であります。
(´・(ェ)・`)つ

628鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/10(火) 22:04:14 ID:1d4drIFg0
↑ そうじゃ、神がいてもいなくても関係ないのじゃ。
 人が心に持つ神はいずれも幻想なのじゃ。
 それにしがみついても何の意味もないのじゃ。
 それは両親のイメージにしがみついているだけであるからのう。
 自らの心の中に聖なるものを見出すのじゃ。

629避難民のマジレスさん:2020/03/10(火) 22:53:17 ID:N.8kTs/E0
変化の緊要

  恐怖 1

質問者 私はかつて薬物を摂っていましたが、いまはそれらから自由です。なぜ私はこんなにあらゆるものごとに怯えているのでしょうか。私は朝、恐怖で麻痺して目覚めます。私はほとんどベッドから動いて出られません。私は外に出ることに怯えています。そして、内にいることに怯えています。私が運転していると、ふいにこの恐怖が私に訪れます。私は汗をかき、神経質で、憂慮して一日中を過ごします。そして一日の終わりに私は、完全に疲労しているのです。ごくまれですが、ときには、わずかな親友と一緒のときや私の親の家で、私はこの恐怖を失います。私は静かで幸せで、完全にくつろぎます。私は今日自分の車でやってくるとき、あなたに会いに来ることに怯えていましたが、車道を上がって扉へ歩むと、ふいにこの恐怖を失いました。いま私はここに、このすてきな静かな部屋に坐っていると、とても幸せなので、自分がいったい何に怯えていたのかと思うほどです。いま私は何の恐怖を持ちません。私は微笑んで真に言えるのです、お会いできてとてもうれしいです!しかし、私は永久にここに留まれないし、私はここを去るとき、恐怖の雲が再び私を呑み込むだろうと知っています。それが、私の向き合っていることなのです。私はここでも海外でもかつてあんなに多くの精神科医と分析家を訪ねたのですが、彼らは単に、私の子どもの頃の記憶を掘り下げるだけなのです - そして、私はそれに飽き飽きしています。なぜなら、恐怖は全く去っていないからです。

K 子どもの頃の記憶とそのすべてのたわごとは忘れて、現在へ来ましょう。ここにあなたはいます。あなたはいま自分は怯えていないと言うのです。あなたは当分の間、幸せですし、自分の置かれていた恐怖をほとんど想像できないほどです。なぜあなたはいま恐怖を持たないのでしょうか。それは、よい趣味の調度を整えた静かで清潔な均整のよい部屋と、あなたの感じるこの歓迎の暖かさの感覚でしょうか。そういうわけで、あなたはいま怯えていないわけなのでしょうか。

質問者 それもその一部です。それはまたおそらくあなたなのです。私はスイスであなたが話すのを聞きましたし、ここでもお話を聞いてきました。私はあなたに一種の深い友情を感じます。しかし、私は、恐れないためにすてきな家、歓迎の雰囲気、良い友人に依存はしたくないのです。私は両親を訪ねるとき、この同じ暖かさの感情があるのです。しかし、家では死ぬほどくつろげません。家族すべては、その小さな閉ざされた活動、口論、何でもないことについて声高な話すべての卑俗さと偽善とで、死ぬほどです。私はそのすべてに飽き飽きしています。それでもなお、私は彼らを訪ねるとき、この一定の暖かさがあるのです。私はしばらくの間、この恐怖を免れ自由であると感じるのです。精神科医は私に、私の恐怖が何についてであるかを語れません。彼らはそれを「うつろう恐怖」と呼ぶのです。それは、真っ暗で底なしのすさまじい穴なのです。私は、分析を受けるのにたいへんに多くのお金と時間を費やしてきましたが、それは本当に全く助けになっていないのです。では、私は何をすべきでしょうか。

K それは、あなたは敏感なので一定の庇護、一定の安全が要るのだが、あなたはそれを見つけることができないので、この醜い世界に怯えているということなのでしょうか。あなたは敏感なのでしょうか。

質問者 はい、そう思います。おそらくあなたの言われる意味のとおりではないでしょうが、私は敏感です。私は、この現代の生存の騒音、騒ぎ、卑俗さと、今日至るところでセックスを投げつけるやり方と、何かおぞましく小さな地位へ戦って進む生業が、好きではありません。私は本当にこのすべてに怯えています - 私は戦って、自分自身のために地位を得ることができないということではないのですが、私は恐怖でげんなりするのです。

K 敏感である人のほとんどは、静かな庇護と暖かい友情ある雰囲気が、要るのです。彼らはそれを自分自身で造り出すのか、またはそれを与えてくれる他の人たち - 家族、妻、夫、友だち - に依存するのかのどちらかです。あなたはそういう友だちを持っているでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

630避難民のマジレスさん:2020/03/10(火) 23:00:36 ID:N.8kTs/E0
変化の緊要

恐怖 2

質問者 いいえ。私はそういう友だちを持つことに怯えています。私はその人に依存することに怯えているのです。

K それで、この主題があるのです - 敏感であること、一定の庇護を要すること、あなたにその庇護を与える他の人たちに依存することです。敏感さ [があり、] そして依存があります。二つはしばしば伴います。そして、他の人に依存することは、その人を失うのを恐れることなのです。それで、あなたはますます依存するし、そのときあなたの依存に比例して恐怖は増大するのです。それは悪循環です。あなたはなぜ自分が依存するのかを探究したことがありますか。私たちは郵便局員、物理的快適さなどに依存します。それは全く単純です。私たちは自らの物理的な幸福と生存のために、人々とものごとに依存します。それは全く自然で正常です。私たちは、社会の組織的な面と呼べそうなものに、依存しなくてはなりません。しかし、私たちは心理的にもまた依存するし、この依存は快適ですが、恐怖を生み育てるのです。なぜ私たちは心理的に依存するのでしょうか。

質問者 あなたはいま私に依存について話をしておられますが、私は恐怖を議論するためここに来たのです。

K それら両方を検討しましょう。なぜなら、分かるでしょうが、それらは相互に関係しあっているからです。それら両方を議論しても、かまわないでしょうか。私たちは依存について話していました。依存は何なのでしょうか。なぜ心理的に他の人に依存するのでしょうか。依存は自由の拒否ではないでしょうか。住まい、夫、子ども、所有物を取り去ると、これらすべてが取り除かれるなら、人間は何なのでしょうか。彼自身は不充分で空っぽで迷っています。それで、彼はこの空しさを恐れていて、このなかから、財産に、人々と信念に依存するのです。あなたは、自らの依存するものごとすべてを確実だと思っているので、そのために、それら - あなたの家族の愛、快適さ - を失うことさえ想像できないほどかもしれません。それでも恐怖は継続するのです。それで、私たちは、あなたの依存するものごとはほとんど壊滅不可能に思われようとも、どんな形態の心理的依存も必然的に恐怖を生み育てるのが避けられないことが、明らかでなければなりません。恐怖は、この内の不充分さ、貧しさ、空しさから生じます。それでいまあなたは、私たちには三つの主題 - 敏感さ、依存、恐怖 - があるのが、分かるでしょうか。三つは相互に関係しあっているのです。敏感さを取ってください - あなたは敏感であるほど(依存なく敏感でありつづけるすべ、苦悶なく脆弱であるすべを理解するのでないのなら)、それだけ依存するのです。依存を取ってください - あなたは依存するほど、それだけ嫌悪があるし、自由になりたいという要求があるのです。この自由への要求は、恐怖を助長します。この要求は、依存からの自由ではなくて、反動であるからです。

質問者 あなたは何かに依存しているのでしょうか。

K もちろんです。私は物理的に衣食住の庇護に依存します。しかし、心理的、内的に私は何にも依存しません。神にも、社会的道徳にも、信念にも、人々にも。しかし、私が依存するのかしないのかは、不適切です。それで継続しましょう。恐怖は、私たちの内的空しさ、さびしさ、貧しさの(気づき)、それを何ともできないことの気づきです。私たちは、依存を生み育てるし、再び依存により増大するこの恐怖にのみ、関心を持っているのです。私たちは恐怖を理解するなら、依存をもまた理解します。それで、恐怖を理解するには、それがどのように存在するに至るのかを発見し、理解するための敏感さがなければなりません。そもそも敏感であるのなら、自分のとてつもない空しさを - 薬物の卑俗な娯楽でも教会の娯楽や社会の享楽でも満たせない底なしの穴 - を、意識するのです。全く何もそれを満たせないのです。これを知るので、恐怖が増大します。これがあなたをして依存するよう駆り立てます。そしてこの依存が、あなたをますます鈍感にするのです。そして、このとおりであると知って、あなたはそれに怯えているのです。それで、私たちの疑問はいまこうなのです - どのようにこの空しさ、このさびしさを乗り越えるのでしょうか - どのように自足するのかではないし、どのようにこの空しさを恒常的に偽装するのかではないのです。
(´・(ェ)・`)つ

631避難民のマジレスさん:2020/03/11(水) 19:20:42 ID:sgTbZDzg0
(我々)が漠然として感じる恐怖は何に対してなのか、それどう対処すればよいのか。

敏感さ→依存→恐怖
心理的依存は自由の拒否
依存=不自由さへの嫌悪。その反動としての自由への要求が恐怖を助長する

恐怖は、私たちの内的空しさ、さびしさ、貧しさの(気づき)、それを何ともできないことの気づき。

敏感であるのなら、自分のとてつもない空しさを、意識する
全く何もそれを満たせない。
これを知るので、恐怖が増大する。
これが依存するよう駆り立てる。
この依存が、あなたをますます鈍感にする。
そして、このとおりであると知って、あなたはそれに怯えている。
「それで、私たちの疑問はいまこうなのです - どのようにこの空しさ、このさびしさを乗り越えるのでしょうか - どのように自足するのかではないし、どのようにこの空しさを恒常的に偽装するのかではないのです。」
K自身には心理的依存はないと言っている。
(´・(ェ)・`)

632鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/11(水) 21:34:25 ID:1d4drIFg0
依存が恐れを生み、それがまた依存と恐れを産むのじゃ。
そのような心の連鎖反応をお釈迦様は縁起と説いたのじゃ。
その心の働きに気付くことが出来ればそれは滅するのじゃ。
心の働きを滅する気付をクリシュナムルティは理解と呼ぶのじゃ。

633避難民のマジレスさん:2020/03/11(水) 22:03:03 ID:sgTbZDzg0
変化の緊要

   恐怖 3

質問者 なぜあなたは、それは自足するという問題ではないと言われるのでしょうか。

K なぜなら、あなたは自足するなら、もはや敏感ではないからです。あなたは独りよがりで冷淡になり、無頓着で閉ざされるのです。依存なくあること、依存を越えることは、自足するという意味ではありません。心は、どの方向にも逃避しないで、この空しさと向き合い(それと)ともに生きられるでしょうか。

質問者 私はそれとともに永久に生きなくてはならないかと思うと、私は狂気へ駆られるでしょう。

K この空しさを離れるどんな動きも、逃避です。そして、何かを離れ、「有るもの」を離れるこの逃走は、恐怖です。恐怖は、何かを離れる逃走です。有るものは、恐怖ではありません。恐怖とは逃走であるのです。空しさ自体ではなく、これがあなたを狂気へ駆るでしょう。それで、この空しさ、このさびしさは何なのでしょうか。それはどのように訪れるのでしょうか。確かにそれは、比較と計量をとおして訪れるでしょう。私は私自身を、聖者、大師、偉大な音楽家、(ものごとを)知っている人、たどり着いた人と比較します。この比較のなか私は、私自身が不足し不充分だと見ます。私は才能を持たないし、私は劣っています。私は「悟りを開いて」いないのです。私はそうではないが、あの人はそうなのです。それで、計量と比較のなかから、空しさと無の莫大な空洞が出てくるのです。そして、この空洞からの逃走は恐怖です。そして、恐怖は、私たちがこの底なし穴を理解するのを、止めさせるのです。それは、それ自体を糧にして養われる神経症なのです。再び、この計量、この比較は、依存のまさに本質です。それで、再び私たちは依存、悪循環に戻っています。

質問者 私たちはこの議論で長い道のりを来ましたし、ものごとはもっと明らかです。依存があります。依存しないことは可能でしょうか。はい、それは可能であると思います。そのとき、私たちには恐怖があります。そもそも空しさから逃げ去らないこと、すなわち恐怖をとおして逃避しないことは、可能でしょうか。はい、それは可能であると思います。それは、私たちが空しさとともに残っているという意味です。そのとき、私たちは恐怖をとおしてそれから逃げ去るのを止めたうえは、この空しさに向き合うことは可能でしょうか。はい、それは可能であると思います。最後に、計量しないこと、比較しないことは可能でしょうか。というのは、私たちはここまで来たのなら - 私たちは来たと思うのですが - この空しさのみが残っているし、この空しさは比較から出てくるものであることが分かるからです。そして、依存と恐怖はこの空しさから出てくるものであることが、分かります。それで、比較、空しさ、恐怖、依存があるのです。私は比較なく、計量なく本当に生を生きられるでしょうか。

K もちろんあなたは、床にカーペットを敷くには、計量しなくてはなりません!

質問者 はい、私が言うのは、私は心理的比較なく生きられるのか、という意味です。

K あなたは、あなたの生すべて - 学校で、ゲームで、試合で、大学で、オフィスで比較するよう条件づけられてきたとき、心理的比較なく生きるとはどういう意味なのかを、知っているでしょうか。あらゆるものごとが比較です。比較なく生きるのです!あなたはそれがどういう意味なのか、知っているでしょうか。それは、依存なし、自足なし、探し求めることなし、訊ねることなしという意味なのです。ゆえに、それは愛するという意味なのです。愛に比較はありません。だから、愛に恐怖はありません。愛は、それ自体を愛と気づきません。というのは、言葉はそのものではないからです。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

634避難民のマジレスさん:2020/03/11(水) 23:22:51 ID:lZ/O32tI0
1.依存なくあること、依存を越えることは、自足するという意味ではない。
なぜなら、自足するなら、もはや敏感ではなく、独りよがりで冷淡になり、無頓着で閉ざされるから。

2.心は、どの方向にも逃避しないで、この空しさと向き合い(それと)ともに生きられか。
この空しさを離れるどんな動きも、逃避。
何かを離れ、「有るもの」を離れるこの逃走は、恐怖。
恐怖は、何かを離れる逃走。
有るものは、恐怖ではない。
空しさ自体ではなく、逃走が狂気へ駆る。

3.この空しさ、このさびしさは何なのか。それはどのように訪れるのか。
それは、比較と計量をとおして訪れる。
 私は私自身を、理想的な他者と比較し、私自身が不足し不充分だと見る。
計量と比較のなかから、空しさと無の莫大な空洞が出てくる

4.そして、この空洞からの逃走は恐怖。
そして、恐怖は、私たちがこの底なし穴を理解するのを、止めさせる
恐怖はそれ自体を糧にして養われる神経症

5.この計量、この比較は、依存のまさに本質
それで、再び私たちは依存、悪循環に戻っている。

6.問い 比較なく、計量なく本当に生を生きられるでしょうか

K 生すべてで比較するよう条件づけられてきたとき、心理的比較なく生きるとはどういう意味なのか。
あらゆるものごとが比較です。
比較なく生きるのです!
 それは、依存なし、自足なし、探し求めることなし、訊ねることなしという意味
ゆえに、それは愛するという意味なのです。愛に比較はありません。だから、愛に恐怖はありません。愛は、それ自体を愛と気づきません。というのは、言葉はそのものではないからです。
(´・(ェ)・`)
(くまめも)

635鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/12(木) 22:16:47 ID:1d4drIFg0
比較とか計量は禅では分別といわれるものじゃ。
それが自他を生み、恐れと不安を生み、囚われと苦を起こすものじゃ。
故に比較や計量無しに生きることが大事なのじゃ。
慈悲があれば分別も無く、自他も無く、恐れも苦も起こらないのじゃ。

636避難民のマジレスさん:2020/03/12(木) 23:01:27 ID:I/MyWiQc0
変化の緊要

  この世界でどのように生きるのか 1

質問者 あたしはこの世界でどのように生きるべきなのかを、語っていただけるでしょうか。私はそれの部分でありたくないのですが、それでもそこに生きなくてはなりません。住まいを持ち、私自身の生計を立てなくてはなりません。そして、私の隣人たちは、この世界のです。私の子どもは彼らと遊びます。それで、そうなりたくてもなりたくなくても、この醜い乱れの一部分になるのです。私は、この世界から逃避せず、修道院に入ったり、ボートで世界を航海して回ったりせず、ここにどう生きるのかを見出したいのです。私は子どもを違ったように教育したいのです。しかし、私はまず初めに、こんなに多くの暴力、貪欲、偽善、競争、残忍に取り囲まれてどう生きるのかを、知りたいのです。

K それを問題にしてしまわないようにしましょう。何でも問題になるとき、私たちはそれの解決に捕らわれます。そのとき、問題は檻に(なり)、いっそうの探検と理解への障壁になるのです。それで、生すべてを広大で複雑な問題に還元しないようにしましょう。私たちが生きる社会を乗り越えるため、その社会の代替物を見つけるため、そこに生きながらもそれから逃避しようとするために、疑問が立てられるのなら、それは必然的に、矛盾し偽善的な生につながるにちがいないのです。この疑問はまた、思想の完全な拒否という意味をも含むでしょう。もしあなたが本当に探求しているなら、あなたは結論から出発できないし、思想すべては結論です。それで、私たちは、あなたのいう生きるとはどういう意味なのかを見出すことから、始めなければなりません。

質問者 どうか一歩一歩行きましょう。

K 私たちが探究的な頭と心をもって忍耐づよく一歩一歩、入っていけることは、とてもうれしいです。ここで、あなたのいう生きるとはどういう意味なのでしょうか。

質問者 私は一度もそれを言葉にしようとしたことはありません。私はうろたえています。私は何をすべきなのか、どう生きるべきなのかを知りません。私はあらゆるものごとへ - 宗教、哲学、政治的ユートピア - への信仰を失ってしまいました。諸個人の間、諸民族、諸国家の間には戦争があります。この放任の社会では、あらゆるものごとが許さうれています - 殺すこと、暴動、一つの国によるもう一つの国の冷徹な抑圧。そして、干渉は戦争という意味なるかもしれないから、誰もそれについて何もしないのです。私はこのすべてに向き合っているし、私は何をすべきなのかを知らないのです。私はいったいどう生きるのかを知らないのです。私はこういう混乱のさなかで生きたくないのです。

K あなたが訊ね、求めているのは何なのでしょうか - 違った生でしょうか。それとも、古い生の理解にともなって訪れる新しい生なのでしょうか。何がこの混乱をもたらしたのかを理解せずに違った生を生きたいのなら、あなたはいつも、矛盾し、葛藤、抗争にあり、混乱にあるでしょう。そしてもちろんそれは、全く新しい生ではないのです。それで、あなたは新しい生を求めているのでしょうか。それとも、古いのものの修正された継続(を、)でしょうか。それとも、古いのものを理解すること(を、)でしょうか。

質問者 私が何がほしいのかは全く定かではないのですが、私は何がほしくないのかは分かりはじめています。

K あなたのほしくないものは、あなたの自由な理解に基づくのでしょうか。それとも、あなたの楽しみと苦しみに(基づくの)でしょうか。あなたは、あなたの反逆のなかから判断しているのでしょうか。それとも、この葛藤、抗争と悲惨の因果が分かるのでしょうか。それが分かるから、それを拒絶するのでしょうか。

質問者 あなたは私にあまりに多くのことを求めています。私の知っているすべては、私が違った種類の生を生きたいことばかりです。私は、それがどういう意味なのかを知りません。私はなぜ私がそれを求めているのかを知りません。そして、私は言いましたように、そのすべてに全くうろたえているのです。

K あなたの基本的疑問は、あなたがこの世界にどのように生きるべきなのか、でしょう。あなたが見出す前に、まず初めにこの世界が何であるかを見ましょう。世界は、私たちを取り囲んでいるすべてだけではありません。それはまた、これらすべてのものごとと人々へ、私たち自身へ、観念への私たちの関係でもあるのです。すなわち、財産、人々、概念への私たちの関係 - 実に、生と呼ばれる出来事の流れへの私たちの関係です。これが世界です。私たちは、諸国家へ、宗教的、経済的、政治的、社会的諸集団への分割は分かるのです。世界全体が砕かれていて、その人間たちが内的にそうであるのと同じく外的に断片化しているのです。実に、この外の断片化は、人間の内の分割の顕現です。
(´・(ェ)・`)つ

637避難民のマジレスさん:2020/03/13(金) 08:10:17 ID:XCrNjSJk0
くまめも

問い)この世界は、多くの暴力、貪欲、偽善、競争、残忍に取り囲まれている。
この世界から逃避せず、ここにどう生きるのかを見出したい。

K 生すべてを広大で複雑な問題に還元しないようにする。
本当に探求したいなら、疑問の立て方を変える。
生きるとはどういう意味なのかを見出す

まず、この世界が何であるかを見る。
世界は、私たちを取り囲んでいるすべてだけではない。
それはまた、これらすべてのものごとと人々へ、私たち自身へ、観念への私たちの関係でもある。
すなわち、財産、人々、概念への私たちの関係 - 実に、生と呼ばれる出来事の流れへの私たちの関係。これが世界。
私たちは、諸国家へ、宗教的、経済的、政治的、社会的諸集団への分割されている。
世界全体が砕かれていて、その人間たちが内的にそうであるのと同じく外的に断片化している。
実に、この外の断片化は、人間の内の分割の顕現。
(´・(ェ)・`)

638鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/13(金) 22:18:12 ID:1d4drIFg0
心が世界を創っているのであるから、心が断片的で分割していれば世界もそうなるのじゃ。
世界が全体的で統一されていても、心が分割していればそうは見えないのじゃ。
自らの心から全て現われるのじゃ。
暴力的な世界を見る者の心の中に暴力が在るのじゃ。

639避難民のマジレスさん:2020/03/14(土) 03:03:28 ID:n1sczj2w0
変化の緊要

  この世界でどのように生きるのか 2

質問者 はい、私はこの断片化はごく明確に分かりますし、私はまた、人間が責任あることもまた分かりはじめています。

K あなたが人間です!

質問者 そのとき私は、私自身、私なるものから違って生きられるでしょうか。私は全的に違った生き方をするのであるなら、私に新しい誕生、新しい頭と心がなければならないことを、ふいに悟りかけています。そして私はまた、これが起きていないことも、悟るのです。私は私のあるままに生きるし、私のあるままが生をこのとおりにしてしまったのです。しかし、そこからどこに行くのでしょうか。

K あなたはそこからどこにも行かないのです!どこにも行くことはないのです。理想やもっと善いと思われるものへ行くこと、探求することは、私たちは前進している、もっと善い世界に向かって動いているという感じを、与えてくれます。しかし、この動きは全く動きではありません。なぜなら、終わりの目的は、私たちの悲惨、混乱、貪欲、妬み、羨みのなかから投影されてきたからです。それで、この終わりの目的は、有るものの対極であると思われるのですが、本当は有るものと同じですし、それは有るものにより生成するのです。ゆえにそれは、有るものと有るべきものとの間に葛藤、抗争を造り出すのです。ここが、私たちの基本的な混乱と葛藤、抗争が生ずるところです。終わりは向こうにはありません。壁の向こう側にはありません。始まりと終わりはここにあるのです。

質問者 少し待ってください。私はこれが全く理解できません。あなたは私に、有るべきものの理想は有るものを理解しないことの結果である、と語っているのでしょうか。あなたは私に、有るべきものは有るものであるし、有るものから有るべきものへのこの動きは本当は全く動きではない、と語っているのでしょうか。

K それは観念です。虚構です。もしあなたが有るものを理解するなら、有るべきものがどうして要るのでしょうか。

質問者 そのとおりでしょうか。私は有るものを理解します。私は戦争の獣性、殺すことの恐怖を理解します。私はそれを理解するなら、殺さないというこの理想を持つのです。理想は、有るものへの私の理解から生まれます。ゆえに、それは逃避ではないのです。

K もしあなたは、殺すことは恐るべきであると理解するのなら、殺さないために理想を持たなくてはならないでしょうか。おそらく私たちは、理解するという言葉が明確ではないのです。私たちは何かを理解すると言うとき、そこには、私たちがそれの言うべきすべてを学んでしまったということが、含意されているでしょう。私たちはそれを探検したし、それの真実または虚偽を発見したのです。これはまた、この理解が知的な事柄ではないし、それを自らの心に深く感じた、という意味をも含むでしょう。心と頭が完璧に調和しているときにだけ、理解はあるのです。そのとき、「私はこれを理解した。それを終了させた」と言うし、それはもはやそれ以上の葛藤、抗争を生み育てる活力を持たないのです。私たち両方が、その理解するという言葉に同じ意味を与えるのでしょうか。

質問者 私は前はそうではなかったのですが、いまは、あなたの言っておられることが真実であると分かります。でも私は正直には、そのとおりに世界の全的無秩序を理解しないのです。その無秩序は、あなたがあれほど正しくも指し示されたように、私自身の無秩序です。私はどうすればそれを理解できるのでしょうか。私はどうすれば、世界と私自身の無秩序、全的な無秩序と混乱について、完全に学べるのでしょうか。

K どうか「どうすれば」という言葉を使わないでください。

質問者 なぜ(いけないの)でしょう。

K どうすればは、誰かがあなたに方式、処方箋を与えてくれるし、あなたがそれを実践するなら、それが理解をもたらすだろう、という含意です。理解はいったい、方式をとおして訪れうるのでしょうか。理解は愛と、心の健全さという意味です。そして愛は、実践できないし、教えられないのです。心の健全さは、明晰な知覚が(あるとき)、非情動的に感傷的にではなくものごとをあるままに見ることがあるときにだけ、訪れうるのです。これら二つのものはどちらも、他の人によっても、またあなた自身や他の人が考案した体系によっても、教えられないのです。

質問者 あなたはあまりに説得力があります。それともおそらく、あなたはあまりに論理的であるということなのでしょうか。あなたは、あなたがものごとを見るとおりに見るように、私を感化しようとしているのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

640避難民のマジレスさん:2020/03/14(土) 09:49:42 ID:z94pmmz60
変化の緊要

  この世界でどのように生きるのか 2

質問者 はい、私はこの断片化はごく明確に分かりますし、私はまた、人間が責任あることもまた分かりはじめています。

K あなたが人間です!

質問者 そのとき私は、私自身、私なるものから違って生きられるでしょうか。私は全的に違った生き方をするのであるなら、私に新しい誕生、新しい頭と心がなければならないことを、ふいに悟りかけています。そして私はまた、これが起きていないことも、悟るのです。私は私のあるままに生きるし、私のあるままが生をこのとおりにしてしまったのです。しかし、そこからどこに行くのでしょうか。

K あなたはそこからどこにも行かないのです!どこにも行くことはないのです。理想やもっと善いと思われるものへ行くこと、探求することは、私たちは前進している、もっと善い世界に向かって動いているという感じを、与えてくれます。しかし、この動きは全く動きではありません。なぜなら、終わりの目的は、私たちの悲惨、混乱、貪欲、妬み、羨みのなかから投影されてきたからです。それで、この終わりの目的は、有るものの対極であると思われるのですが、本当は有るものと同じですし、それは有るものにより生成するのです。ゆえにそれは、有るものと有るべきものとの間に葛藤、抗争を造り出すのです。ここが、私たちの基本的な混乱と葛藤、抗争が生ずるところです。終わりは向こうにはありません。壁の向こう側にはありません。始まりと終わりはここにあるのです。

質問者 少し待ってください。私はこれが全く理解できません。あなたは私に、有るべきものの理想は有るものを理解しないことの結果である、と語っているのでしょうか。あなたは私に、有るべきものは有るものであるし、有るものから有るべきものへのこの動きは本当は全く動きではない、と語っているのでしょうか。

K それは観念です。虚構です。もしあなたが有るものを理解するなら、有るべきものがどうして要るのでしょうか。

質問者 そのとおりでしょうか。私は有るものを理解します。私は戦争の獣性、殺すことの恐怖を理解します。私はそれを理解するなら、殺さないというこの理想を持つのです。理想は、有るものへの私の理解から生まれます。ゆえに、それは逃避ではないのです。

K もしあなたは、殺すことは恐るべきであると理解するのなら、殺さないために理想を持たなくてはならないでしょうか。おそらく私たちは、理解するという言葉が明確ではないのです。私たちは何かを理解すると言うとき、そこには、私たちがそれの言うべきすべてを学んでしまったということが、含意されているでしょう。私たちはそれを探検したし、それの真実または虚偽を発見したのです。これはまた、この理解が知的な事柄ではないし、それを自らの心に深く感じた、という意味をも含むでしょう。心と頭が完璧に調和しているときにだけ、理解はあるのです。そのとき、「私はこれを理解した。それを終了させた」と言うし、それはもはやそれ以上の葛藤、抗争を生み育てる活力を持たないのです。私たち両方が、その理解するという言葉に同じ意味を与えるのでしょうか。

質問者 私は前はそうではなかったのですが、いまは、あなたの言っておられることが真実であると分かります。でも私は正直には、そのとおりに世界の全的無秩序を理解しないのです。その無秩序は、あなたがあれほど正しくも指し示されたように、私自身の無秩序です。私はどうすればそれを理解できるのでしょうか。私はどうすれば、世界と私自身の無秩序、全的な無秩序と混乱について、完全に学べるのでしょうか。

K どうか「どうすれば」という言葉を使わないでください。

質問者 なぜ(いけないの)でしょう。

K どうすればは、誰かがあなたに方式、処方箋を与えてくれるし、あなたがそれを実践するなら、それが理解をもたらすだろう、という含意です。理解はいったい、方式をとおして訪れうるのでしょうか。理解は愛と、心の健全さという意味です。そして愛は、実践できないし、教えられないのです。心の健全さは、明晰な知覚が(あるとき)、非情動的に感傷的にではなくものごとをあるままに見ることがあるときにだけ、訪れうるのです。これら二つのものはどちらも、他の人によっても、またあなた自身や他の人が考案した体系によっても、教えられないのです。

質問者 あなたはあまりに説得力があります。それともおそらく、あなたはあまりに論理的であるということなのでしょうか。あなたは、あなたがものごとを見るとおりに見るように、私を感化しようとしているのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

641避難民のマジレスさん:2020/03/14(土) 13:09:09 ID:Tqhkhw9s0
うむ。
間違えて二回でありました。
Kの講演はメモ取りながらであれば、何とかついて行けそうであります。
(´・(ェ)・`)つ

642避難民のマジレスさん:2020/03/14(土) 13:53:25 ID:nPGqOSSA0
くまめも2

問い)どうすれば、世界と私自身の無秩序、全的な無秩序と混乱について、完全に学べるのか。理解できるのか。

K どうすればは、誰かがあなたに方式、処方箋を与えてくれるし、あなたがそれを実践するなら、それが理解をもたらすだろう、という含意
理解はいったい、方式をとおして訪れうるのか。
理解は愛と、心の健全さという意味。
愛は、実践できないし、教えられない
心の健全さは、明晰な知覚が(あるとき)、非情動的に感傷的にではなくものごとをあるままに見ることがあるときにだけ、訪れうる。
これら二つのものはどちらも、他の人によっても、またあなた自身や他の人が考案した体系によっても、教えられない。
(´・(ェ)・`)

643鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/14(土) 22:55:54 ID:1d4drIFg0
自分が変化して自分では無い者になる事が変容ではないのじゃ。
むしろ自分自身を理解することが変容をもたらすのじゃ。
自分を通してのみ人は悟りにいたることが出来るのじゃ。
悟りは自分と違うものになることではなく、本来の意識に還ることであるからなのじゃ。

644避難民のマジレスさん:2020/03/14(土) 23:18:33 ID:OVdarsHw0
変化の緊要

この世界でどのように生きるのか 3

K とんでもない!どんな形態でも感化は、愛を破壊するのです。心を敏感、鋭敏にするための宣伝は、ただ鈍く鈍感にするだけでしょう。それで、私たちはどのようにも、あなたを感化しよう、あなたを説得しよう、あなたを依存させようとしていないのです。私たちはただ指し示し、ともに探検しているだけです。そして、ともに探検するにはあなたは、私からもあなた自身の先入観と恐怖からも、自由でなければなりません。そうでなければあなたは、輪を巡りに巡っていくのです。それで私たちは、元来の疑問に戻らなければなりません - 私はこの世界にどのように生きるのでしょうか。この世界に生きるには、私たちは世界を拒否しなければなりません。私たちが言うのは、理想、戦争、断片化、競争、妬み、羨みなどを拒否する、という意味です。私たちが言うのは、学校の生徒が親に対して反逆するように、世界を拒否するという意味ではありません。私たちが言うのは、私たちはそれを理解するから、それを拒否する、という意味です。この理解は否定です。

質問者 私には届きません。

K あなたはこの世界の混乱、不正直と醜さのなか生きたくないと言いました。それで、あなたはそれを拒否するのです。しかし、あなたはどのような背景からそれを拒否するのでしょうか。なぜ拒否するのでしょうか。あなたは平和な生(を)、完全な安全と閉鎖の生を生きたいから、それを拒否するのでしょうか。それとも、それが現行として何であるかを見るから、拒否するのでしょうか。

質問者 私は起きていることを身のまわりに見るから拒否すると思うのです。もちろん私の先入観と恐怖もまた、関与しています。それで、現行として起きていることと私自身の心配の混合なのです。

K どちらが優勢なのでしょう。あなた自身の心配でしょうか。それとも、あなたのまわりで起きていることを現行としてみることでしょうか。もし恐怖が優勢であるなら、そのときあなたは、身のまわりで現行として起きていることが見えません。なぜなら、恐怖は暗闇であるし、暗闇のなかあなたは絶対に何も見えないからなのです。もしあなたがそれを悟るなら、そのときあなたは、世界を現行としてあるとおりに見られるし、そのときあなたはあなた自身を現行としてあるとおりに見られるのです。なぜなら、あなたは世界であるし、世界はあなたであるからです。それらは二つの分離した事物ではないのです。

質問者 世界は私であるし、私は世界であるとはどういう意味なのかを、もっと十分に説明していただけるでしょうか。

K これは本当に説明が要るのでしょうか。あなたは私に、あなたが何であるかを詳細に叙述し、それが世界なるものと同じであることを示してほしいのでしょうか。この叙述はあなたに、あなたが世界であることを確信させるでしょうか。あなたは、因と果を示してくれる論理的で順序だった説明により、確信するのでしょうか。もしあなたが、気をつけた叙述により確信するのなら、それはあなたに理解を与えるでしょうか。それはあなたに、あなたが世界であると感じさせ、あなたを世界への責任能力を感じさせるでしょうか。私たち人間の貪欲、妬み、羨み、攻撃、暴力が、私たちの生きる社会(をもたらし)、私たちのあるままの合法化された受け入れをもたらしたことは、こんなに明らかなように思われます。私はこれは本当に充分に明らかであると思いますし、この主題にもはや時間を使わないようにしましょう。おわかりでしょうが、私たちはこれを感じないし、私たちは愛さないのです。ゆえに、私と世界との間にこの分割があるのです。

質問者 明日もう一度戻ってきてもいいですか。
(´・(ェ)・`)つ

645避難民のマジレスさん:2020/03/15(日) 10:20:54 ID:X/mJjzWc0
くまめも3

探検するには他者からもあなた自身の先入観と恐怖からも、自由でなければならない。
元来の疑問➖私はこの世界にどのように生きるか。
この世界に生きるには、私たちは世界を拒否しなければならない。
それは、理想、戦争、断片化、競争、妬み、羨みなどを拒否する、という意味。
それは、世界を拒否するという意味ではない。
それを理解するから、それを拒否する、という意味。
この理解は否定です。

K この世界の混乱、不正直と醜さのなか生きたくない。
それを拒否するとして、どのような背景からそれを拒否するのか。
なぜ拒否するのか。
平和な生(を)、完全な安全と閉鎖の生を生きたいから、それを拒否するのか。
それとも、それが現行として何であるかを見るから、拒否するのか。
どちらが優勢なのか。
あなた自身の心配か。
それとも、あなたのまわりで起きていることを現行としてみるこか。
もし恐怖が優勢であるなら、そのときあなたは、身のまわりで現行として起きていることが見えない。
なぜなら、恐怖は暗闇であるし、暗闇のなかでは絶対に何も見えないから。
もしそれを悟るなら、世界を現行としてあるとおりに見られるし、そのとき自分自身を現行としてあるとおりに見られる。
なぜなら、あなたは世界であるし、世界はあなたであるから。
それらは二つの分離した事物ではない。

問い)世界は私であるし、私は世界であるとはどういう意味なのか。

K 私たち人間の貪欲、妬み、羨み、攻撃、暴力が、私たちの生きる社会(をもたらし)、私たちのあるままの合法化された受け入れをもたらしたことは、明らかなように思われる。
私たちはこれを感じないし、私たちは愛さないのです。ゆえに、私と世界との間にこの分割があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

646避難民のマジレスさん:2020/03/15(日) 10:53:58 ID:mVQE7AHM0
うむ。↑これで長すぎてはメモではないでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

647鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/15(日) 22:27:55 ID:1d4drIFg0
↑言葉はいくら集めても無意味なのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
実践在るのみなのじゃ。

648鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/15(日) 22:29:23 ID:1d4drIFg0
心に恐怖がある者は世界にも恐怖を見るじゃろう。
世界が平穏であっても恐怖しか見えないのじゃ。
心の反映が世界なのじゃ。
自ら作り出した世界以外には、悟っていない者の世界は無いのじゃ。
故に自分がそのまま世界なのじゃ。

649避難民のマジレスさん:2020/03/16(月) 00:16:25 ID:p0HHSJwQ0
うむ。
集中力をつける訓練、実践になるかなと思ったのでありますが、だめでありましょうか。 
(´・(ェ)・`)つ

650避難民のマジレスさん:2020/03/16(月) 01:50:27 ID:p0HHSJwQ0
変化の緊要
  
  この世界でどのように生きるのか 4
 

彼は次の日熱心に戻ってきた。彼の目には探究の明るい光があった。

質問者 もしあなたがよろしければ、私はさらに、私はこの世界にどのように生きるのかというこの疑問に入りたいとと思うのです。私はいま、昨日あなたが説明されたとおりに、理想の全くの非重要さを心と頭で理解します。私はそれと全く長い格闘をしたし、理想の卑小さが分かるに至ったのです。あなたは、理想や逃避がないとき、ただ過去(のみ)、千の昨日のみがあるし、それが「私 me 」を作り上げると言っておられるでしょう。それで、私が「私はこの世界にどのように生きるのだろうか」と訊ねるとき、私は間違った疑問を立てただけではなく、矛盾して言明をもしたのです。というのは、私は世界と「私 me 」を互いに対立しあうように置いたからです。そしてこの矛盾が、私が生きることと呼ぶところです。それで、私はその疑問、「私はこの世界でどのように生きるのだろうか」を訊ねるとき、本当はこの矛盾を改善しよう、それを正当化しよう、それを修正しようとしているのです。なぜなら、それが私の知るすべてであるからです。私は他に何も知らないのです。

K そのときこれが、私たちがいま持つ疑問です - 生きることはいつも過去にあるにちがいないのでしょうか。活動すべては過去から発しなければならないのでしょうか。関係すべては、過去から出てくるものでしょうか。生きることは過去の複雑な記憶なのでしょうか。それが、私たちの知るすべてです - 過去が現在を修正するのです。そして未来は、この過去が現在をとおして作用することから出てくるものなのです。それで、過去と現在と未来はすべて過去なのです。そしてこの過去が、私たちが生きることと呼ぶところです。心は過去ですし、頭脳は過去ですし、感受は過去ですし、これらから来る行為は、知られたもの・ことの肯定的活動です。この過程全体があなたの生ですし、あなたの知る関係と活動のすべてです。それで、あなたはこの世界にどのように生きるのかを訊ねるとき、あなたは監獄の変化を求めているのです。

質問者 私が言うのはそういう意味ではありません。私が言うのはこうです - 私は、私の考えてなす過程は、過去が現在をとおして未来へ働くことであるのが、ごく明らかに分かります。これが私の知るすべてです。それは事実です。そして私は、この構造に変化があるのでないのなら、私はそれに捕らわれるし、私にそれに依ってあることを、悟ります。ここから必然的に疑問が生じます - 私はどのように変化するのでしょうか。

K この世界に健全に生きるには、心と頭の根本的な変化があるのでなければなりません。

質問者 はい。しかし、あなたのいう変化とはどういう意味でしょうか。いかなる私のすることも過去の動きであるのなら、私はどのように変化すべきでしょうか。私はただ私自身を変化させられます。他の誰も私を変化させられません。そして私は、それは、変化するとはどういう意味なのかが、分からないのです。

K それで、「どのように」は方式(という意味)ではなく、理解するための探究という意味であることを心得ると - 疑問「私はこの世界にどのように生きるのか」は、いまや「私はどのように変化するのか」になったのです。変化は何でしょうか。いったい変化はあるのでしょうか。それとも、全的な変化と革命があった後でのみ、いったい変化はあるのかと訊ねられるのでしょうか。この言葉が何を意味するのかを見出すため、再び始めましょう。変化は、有るものから何か違ったものへの動きという含意です。この何か違ったものは単に、対極でしょうか。それともそれは、まるで違った秩序に属しているのでしょうか。それが単に対極であるなら、そのときそれは全く違っていないのです。なぜなら、対極すべては、熱いと寒い、高いと低いのように、相互に相依って存在するからです。対極は、その対極に含まれ、決定されるのです。それはただ比較においてのみ存在します。そして、比較上あるものごとは、同じ性質の違った度量を持つのです。ゆえに、それらは同様です。それで、対極への変化は、全く変化ではないのです。違ったように思われるものへ向かって行くこのことが、たとえ、あなたは本当に何かをしているのだという感じを与えてくれようとも、それは幻想です。

質問者 しばらくこれを消化させてください。

K それでいま、私たちは何に関心を持っているのでしょうか。過去に関係していないまるで新しい秩序の誕生を、私たち自身にもたらすことは、可能でしょうか。過去はこの探究には不適当ですし、卑小です。なぜなら、それは新しい秩序には不適当であるからです。
(´・(ェ)・`)つ

651避難民のマジレスさん:2020/03/16(月) 20:59:02 ID:phf4brz.0
>>649
くまさんのメモ、本文の読解の助けになってますよ(ー人ー)

652鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/16(月) 21:48:33 ID:1d4drIFg0
>>649 だめではないが、自らの実践こそが大事なのじゃ。
 一つでも自らの心の性質が観られたならば、それだけでも全ての世界の変容は起こるものじゃ。
 心が世界を創っているのであるからのう。
 少しずつでも実践するとよいのじゃ。

653鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/16(月) 21:51:35 ID:1d4drIFg0
過去の記憶からの意志や行動は新しい秩序をもたらしはしないのじゃ。
それもまた過去に属しているものであるからのう。
記憶を繰り返す観念遊戯に陥るばかりなのじゃ。
過去ではなく、まして未来でもない今ここで心の働きが観られたならば、変容は起こるのじゃ。

654避難民のマジレスさん:2020/03/17(火) 08:53:15 ID:8OFVeD6E0
>>651
感想ありがとうであります。
もう少し短くするようにしてみるであります。
(´・(ェ)・`)つ

655避難民のマジレスさん:2020/03/17(火) 09:40:56 ID:8OFVeD6E0

既にマハリシやマハラジやoshoやブッタや鬼和尚から学んできているので、Kと質問者との対話の内容は難解とは思わないのであります。
論理的に精緻に展開するお話しにしがみついて学び、Kの口真似をして話せるようになる訓練をしたいのではないのであります。
よく読めば理解できる文章なのに、展開の早さでついて行けないのは、集中力が足りないからだと思うのであります。
メモをとることにより、集中力を身に付ける実践訓練をしたいのであります。
(´・(ェ)・`)つ

656避難民のマジレスさん:2020/03/17(火) 10:11:05 ID:8OFVeD6E0
くまめも4

過去と現在と未来はすべて過去。
過去が、私たちが生きることと呼ぶところ。
心は過去。
頭脳は過去。
感受は過去。
これらから来る行為は、知られたもの・ことの肯定的活動。
この過程全体があなたの生、あなたの知る関係と活動のすべて。
この世界にどのように生きるのかを訊ねるとき、あなたは監獄の変化を求めている。

この世界に健全に生きるには、心と頭の根本的な変化があるのでなければならない。

変化とはどういう意味か。
どのように変化すべきか。

「どのように」は方式(という意味)ではなく、理解するための探究という意味であることを心得ると - 疑問「私はこの世界にどのように生きるのか」は「私はどのように変化するのか」になる。

変化とは何か。

変化は、有るものから何か違ったものへの動きという含意。
この何か違ったものは単に、対極か。
それとも、まるで違った秩序に属しているのか。
それが単に対極であるなら、そのときそれは全く違っていない。
なぜなら、対極すべては、相互に相依って存在するから。
対極は、その対極に含まれ、決定される。
それはただ比較においてのみ存在する。
そして、比較上あるものごとは、同じ性質の違った度量を持つ。
ゆえに、それらは同様.
それで、対極への変化は、全く変化ではない。
それは幻想。

いま、私たちは何に関心を持っているのか。
過去に関係していないまるで新しい秩序の誕生を、私たち自身にもたらすことは、可能か。
過去はこの探究には不適当で、卑小。
なぜなら、それは新しい秩序には不適当であるから。
(´・(ェ)・`)

657避難民のマジレスさん:2020/03/17(火) 10:31:14 ID:/aj9kGRk0
変化の緊要
  
  この世界でどのように生きるのか 5


質問者 どうしてあなたは、それは卑小で不適当であると言えるのでしょうか。私たちはずっと、過去が主題であると言ってきたのですし、いまあなたは、それは不適切であると言っているのです。

K 過去は、私たちの心と頭を保つただ一つのものであるから、ただ一つの主題であるように思われるのです。ただそればかりが私たちには重要なのです。しかし、なぜ私たちは、それに重要性を与えるのでしょうか。なぜこの小さな空間ばかりが重要なのでしょうか。もしあなたが全的にそれに沈潜し、全くそれに参与しているなら、そのときあなたは、けっして変化を聞かないでしょう。全的には参与していない人が、聞き探究し訊ね求める能力のあるただ一人の人なのです。そのときにだけその人は、この小さな空間の卑小さを見ることができるでしょう。それで、あなたは完全に沈潜しているのでしょうか。それともあなたの首は、水の上にあるのでしょうか。もしあなたの首が水の上にあるのなら、そのときあなたは、この小さなものが卑小であることが見えるのです。そのときあなたは、見まわす間を持つのです。あなたはどれほど深く沈潜しているのでしょうか。あなた以外に誰もあなたのためにこれに答えられません。まさにこの疑問を問うことにこそ、すでに自由があるのです。ゆえに、恐れていないのです。そのときあなたの視覚は広汎です。過去のこの様式があなたの喉元を完全に捉えるとき、あなたは黙諾し、受け入れ、服従し、従い、信じます。あなたがそれから昇って抜けはじめているのは、あなたがこれは自由ではないと気づくときだけです。それで、私たちは再び訊ねています - 変化は何でしょうか。革命は何でしょうか。変化は、知られるものから知られるものへの動きですし、政治的革命すべてはそれなのです。この種の変化は、私たちが話をしているものではありません。罪人たることから聖人たることへ前進するとは、一つの幻想からもう一つへ前進することなのです。それでいま私たちは、これからあれへの動きとしての変化を免れて自由です。

質問者 私は本当にこれを理解したのでしょうか。私は、怒り、暴力、恐怖が私に生ずるとき、それらをどうすべきでしょうか。私はそれらに自由な統治を与えるべきでしょうか。わたしはそれらをどのように扱うべきでしょうか。そこに変化がなければなりません。そうでなければ、私は前あった私であるのです。

K これらものごとはその対極により乗り越えられないことは、あなたには明らかでしょうか。もし明らかなら、あなたは暴力、妬み、羨み、怒り、貪欲のみを持つのです。感情は挑戦の結果として生ずるし、そのとき名づけられるのです。この感情の名づけが、それを古い様式に再確立するのです。もしあなたがそれに名づけないなら、これは、あなたがあなた自身をそれと同定しないという意味であり、そのとき感情はいまあるし、それ自体で去ってしまうでしょう。それに名づけることがそれを強めるし、それに、思考の全過程である継続性を与えるのです。

質問者 私は隅に追い込まれていきます。そこで、私自身を現実にあるままに見るし、私がどれほど卑小であるかが分かるのです。そこから、次に何が来るのでしょうか。

K 私のあるままからのどんな動きも、私のあるままを強めます。それで、変化は全く動きでないのです。変化は変化の拒否なのです。そしていまだけ、私はこの疑問を訊ねられるのです - いったい変化はあるのでしょうか。この疑問は、思考の動きすべてが終わりになったときにのみ、訊ねられるのです。というのは、思考は無変化の美しさのために拒否されなければならないからです。有るものを離れる思考の動きすべての全的否定に、有るものの終わることがあるのです。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

658鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/17(火) 20:56:25 ID:1d4drIFg0
思考の働きが続いているうちには人は自らの心が観られず、気付くことも無いのじゃ。
そうであるからクリシュナムルティは思考を拒否し、思考の働きの全的否定によって変化はあると言うのじゃ。
瞑想も思考を止めるためにあるものじゃ。
心を止めて心を観ることができるのじゃ。
それが止観なのじゃ。

659避難民のマジレスさん:2020/03/17(火) 21:48:42 ID:tPoJA9WE0
うむ。くま、何ちゃって不動心、何ちゃって無思考はできるのであります。
で、色々と楽になってるのであります。
けど、その先に行けないのであります。
思い出してみれば、くま、不安や怒りと言った具体的な苦しみから何とか逃れたくて、瞑想実践から始めてほぼ順調に何ちゃって無思考にたどり着いたのでありますが、それでチョピッと楽になると、常に注意深くあることを忘れて、新たな試練に見舞われるのであります。
試練は修行の機会の恵みでありますので、ありがたいのでありますが、そろそろ前へ進みたいであります。
(´・(ェ)・`)つ

660避難民のマジレスさん:2020/03/17(火) 22:15:08 ID:tPoJA9WE0
くまめも5

過去は、私たちの心と頭を保つただ一つのものであるから、ただ一つの主題であるように思われる。
(過去に)全的には参与していない人が、聞き探究し訊ね求める能力のあるただ一人の人。
そのときにだけその人は、この小さな空間(過去)の卑小さを見ることができる。

どれほど深く(過去に)沈潜しているのか。
まさにこの疑問を問うことにこそ、すでに自由がある。
ゆえに、恐れていない。
そのときあなたの視覚は広汎。

過去のこの様式があなたの喉元を完全に捉えるとき、あなたは黙諾し、受け入れ、服従し、従い、信じる。
あなたがそれから昇って抜けはじめているのは、あなたがこれは自由ではないと気づくときだけ。
変化は何か。
革命は何か。
変化は、知られるものから知られるものへの動き。
罪人たることから聖人たることへ前進するとは、一つの幻想からもう一つへ前進すること。
それでいま私たちは、これからあれへの動きとしての変化を免れて自由。

問い)怒り、暴力、恐怖が私に生ずるとき、それらをどうすべきか。

これらものごとはその対極により乗り越えられない。
あなたは暴力、妬み、羨み、怒り、貪欲のみを持つ。
感情は挑戦の結果として生ずるし、そのとき名づけられる。
この感情の名づけが、それを古い様式に再確立する。
もしあなたがそれに名づけないなら、これは、あなたがあなた自身をそれと同定しないという意味であり、そのとき感情はいまあるし、それ自体で去ってしまう。
それに名づけることがそれを強めるし、それに、思考の全過程である継続性を与える。

私のあるままからのどんな動きも、私のあるままを強める。
それで、変化は全く動きでない。
変化は変化の拒否。

➖いったい変化はあるのか。この疑問は、思考の動きすべてが終わりになったときにのみ、訊ねられる。
というのは、思考は無変化の美しさのために拒否されなければならないから。
有るものを離れる思考の動きすべての全的否定に、有るものの終わることがあるのです。
(´・(ェ)・`)

661避難民のマジレスさん:2020/03/17(火) 22:43:11 ID:tPoJA9WE0
最後の「有るものを離れる思考の動きすべての全的否定に、有るものの終わることがあるのです。」
とは、思考の全否定が有るでも無いでもない、ありのまま。そんな理解で良いのでありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ

662避難民のマジレスさん:2020/03/18(水) 09:59:04 ID:rvwCqCVE0
変化の緊要

   関係 1

質問者 私はあなたに会うため長い道のりを来ました。私は結婚していて子どももあるけれども、彼らを離れて、さすらい、托鉢僧として冥想してきたのです。私は、関係というこのとても複雑な問題に、大いに悩んできました。私が村に行き、彼らが私に食べ物を施してくれるとき、私は施す人と関係してあります、私が私の妻と子どもに関係してあるように。もう一つの村で、誰かが私に衣服を施してくれるとき、私は、それらを生産した工場全体に関係してあるのです。私は、私の歩む大地に、そのもとで宿を取る樹に、あらゆるものごとに関係してあるのです。それでも私は一人で、孤立しています。私は妻といるとき、セックスの間でさえも私は分離しています - それは分離の行為です。渡井sが寺院に入るとき、それもやはり、彼が崇拝するものに関係してある崇拝者です - 
再び分離です。それで、私が見るとおり、関係すべてにこの分離、二元性があるし、それの裏や、それをとおして、それのまわりに固有の統一の感覚があるのです。私が乞食を見るとき、私は傷つきます。というのは、私は彼に似ているし、彼の感じるように感じるからです - さびしく、絶望的で、病み、飢えの気持ちです。私は彼を思いやり、彼とともに、彼の無意味な存在を感じます。誰か金持ちが大きな乗用車でやってきて、私を乗せてくれますが、しかし、私は彼と一緒では快適に感じません。それでも、私は彼を思いやるし、彼と関係してあるのです。それで、私はこのふしぎな関係という事象を熟慮してきたのです。このうるわしい朝にこの深い谷を眺めて、私たちはともに、この疑問を話しあえるでしょうか。

K 関係すべては、この孤立のなかからあるのでしょうか。何か分離、分割があるかぎり、関係がありうるでしょうか。物理的なだけではなく私たちの存在のあらゆる水準で(他の)人との接触がないのなら、関係はありうるのでしょうか。(他の)人の手を取りながらも、自分の思考と問題に覆われて、何マイルも離れているかもしれません。集団のなかにいながらも、痛いほど一人であるかもしれません。それで、訊ねるのです - 心がその諸活動においてそれ自体を孤立させているとき、樹、花、人間、空、うるわしい日の入りと何か関係がありうるのでしょうか。そして、心がそれ自体を孤立させていないときでさえ、いったい何とでも、はたして接触がありうるのでしょうか。

質問者 どのものごと、どの人すべてもそれ自体の存在を持っています。どのものごと、どの人すべてもそれ自体の存在に包まれています。私は、他の者の存在のこの覆いにけっして透徹できません。私がどれほど誰かを愛していても、彼の存在は私のから分離しています。私はおそらく外側から、知的に、物理的に彼に触れられるのですが、彼の存在は彼自身のですし、私のは永遠にその外側にあるのです。同様に、彼も私に届きません。私たちはいつも、それぞれが自分の世界のなか、自分の制限をもち、自分の意識の監獄のうちの、二つの分離した事物にとどまらなければならないのでしょうか。

K それぞれが自分の薄紙のうちに、あなたはあなたのうち、彼は彼のうちに、生きるのです。そして、この薄紙を突き破る可能性はいったいあるのでしょうか。この薄紙 - この包み、この外皮 - は、言葉でしょうか。それは、あなたのあなた自身へ、彼の彼自身への関心(で)、彼のに対立するあなたの願望で、できあがっているのでしょうか。このカプセルは過去でしょうか。それはこのすべてなのでしょう。それは一つの特定のものではなく、心が持ちはこぶ集まり全体です。あなたはあなたの重荷を、他の人はその人のを持つのです。これら重荷は落とされ、そのため心が心に出会い、頭が頭に出会うようにできるのでしょうか。これが本当は問題なのでしょう。

質問者 もしもそれが可能であったとして、たとえこれら重荷すべてが落とされても、そのときでさえ、彼は彼の思考をもち彼の肌のなかに、私は私の思考をもち私のもののなかに、とどまるのです。ときには隔たりが狭いし、ときには広いのですが、私たちはいつも二つの分離した島なのです。私たちが一番気に掛け、それに橋を駆けようとするとき、隔たりは一番広いように思われます。
(´・(ェ)・`)つ

663鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/18(水) 22:57:57 ID:1d4drIFg0
>>661 そうじゃ、ありのままを観るのじゃ。
 それが全否定なのじゃ。
 自己同一化がなくなるからのう。
 実践あるのみなのじゃ。

664鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/18(水) 22:59:28 ID:1d4drIFg0
誰もが自分で自分の世界を創り、その中から出られないのじゃ。
その世界は記憶から出来ているのじゃ。
記憶による繰り返しが人の世界の全てなのじゃ。
真の変化はその世界を創っている自分に気付くことから始まるのじゃ。

665避難民のマジレスさん:2020/03/18(水) 23:18:26 ID:FwzAWlkw0
>>663
くまめも 1

渡井sは、イエスの打ち間違いでありましょうか?。

物理的、精神的分離→孤立⇄接触⇄関係

心がそれ自体を孤立させているとき、外界と関係がありうるのか。
心がそれ自体を孤立させていないときでさえ、いったい何とでも、接触がありうるのか。

それぞれが自分の薄紙のうちに、生きる。
この薄紙を突き破る可能性はあるのか。
この薄紙 - この包み、この外皮 - は、言葉か。
それは、あなたのあなた自身への関係で彼のに対立するあなたの願望で、できあがっている。
このカプセルは過去。
それは一つの特定のものではなく、心が持ちはこぶ集まり全体。
あなたはあなたの重荷を、他の人はその人のを持つ。
これら重荷は落とされ、そのため心が心に出会い、頭が頭に出会うようにできるのか。
(´・(ェ)・`)

666避難民のマジレスさん:2020/03/18(水) 23:32:13 ID:FwzAWlkw0
変化の緊要

   関係 2

K あなたは、あなた自身をあの村人と、またはあの燃えるブーゲンヴィリアと同定できます - それは、統一を装う知的なたくらみです。何かとの同定は、最も偽善的な状態の一つです - 自分自身を民族、国家と、信念と同定しながらも一人にとどまることは、さびしさをごまかすおはこのたくらみです。またはあなたは、あなた自身を自らの信念と完全に同定し、そのためあなたはその信念であるほどですが、これは神経症的状態です。ここで、人物や観念やもの、ことと同定されたいというこの欲求を、片づけましょう。その道には調和、統一、愛はないのです。それで、私たちの次の疑問はこうなのです - あなたは、もはや外皮がないように、外皮を切り裂けるでしょうか。そのときにだけ、全的接触の可能性があるでしょう。どのように外皮を切り裂くのでしょうか。「どのように」は方式(という意味)ではなくて、むしろ、扉を開くような探究という意味なのです。

質問者 はい。他のどの接触も、私たちは関係と呼ぶけれども、全く関係とは呼ばれません。

K 私たちは外皮を少しずつ切るのでしょうか。それとも即時に無媒介に切り裂くのでしょうか。私たちが少しずつ切るのなら、それはときに分析者がやると主張することなのですが、仕事はけっしてなされません。あなたがこの分離を打ち倒せるのは、時間をとおしてではないのです。

質問者 私は他の一人の外皮に入れるのでしょうか。そして、彼の外皮は、彼のまさに存在、彼の心拍と彼の血、彼の感受と彼の記憶ではないのでしょうか。

K あなたは、まさにその外皮それ自体ではないのでしょうか。

質問者 はい。

K 他の外皮を切り裂くまたはあなた自身の外側に伸長する動きこそが、あなた自身の外皮のまさに定立で、作用です。あなたは外皮です。それで、あなたは外皮の観察者であるし、あなたはまた外皮自体でもあるのです。この場合に、あなたは観察するものと観察されるものなのです。彼もまたそうなのです。そのようにして私たちはとどまるわけなのです。そして、あなたは彼に届こうとするし、彼はあなたに届こうとするのです。これは可能でしょうか。あなたは、海に取り囲まれた島ですし、彼もまた海に取り囲まれた島なのです。あなたは、あなたが島と海の両方であることが分かります。それらの間に区別はないのです。あなたは海をもつ大地全体です。ゆえに、島と海という区別はないのです。他の人物はこれが分かりません。彼は、海に取り囲まれた島なのです。彼はあなたに届こうとします。または、あなたはそれぐらい愚かであるなら、彼に届こうとするかもしれません。それは可能でしょうか。自由である人と束縛されている他の一人との間に、どうして接触がありうるのでしょうか。あなたは観察するものと観察されるものであるうえは、大地と海の動き全体です。しかし、他の一人は、これを理解しないので、やはり水に取り囲まれた島なのです。彼はあなたに届こうとするし、永久に失敗しているのです。なぜなら、彼は自らの島国根性を維持するからです。接触がありうるのは、彼がそれを離れ、あなたのように空、大地、海の動きに開くときだけです。障壁は自分自身であると分かる人は、もはや障壁を持ちません。ゆえに、彼は彼自身では全く分離していないのです。他の一人は、障壁が自分自身であることが分かっていないので、自らの分離性への信念を維持します。この人がどうして他の一人に届きうるでしょうか。それは可能ではないのです。

667避難民のマジレスさん:2020/03/19(木) 09:52:05 ID:a.Q/Dzfc0
くまめも2

外皮=海(=身体)
私(あなた)=島=観察者
外皮=私(あなた)

あなたは外皮の観察者であるし、あなたはまた外皮自体(観察されるもの)でもある。

あなたも彼も、海に取り囲まれた島。
あなたは、あなたが島と海の両方であることが分かる。
それらの間に区別はない。
あなたは海をもつ大地全体。
ゆえに、島と海という区別はない。
(´・(ェ)・`)

668鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/19(木) 23:05:33 ID:1d4drIFg0
>>665それは 私じゃろう。
 英字の打ち間違いじゃな。

669鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/19(木) 23:07:20 ID:1d4drIFg0
観察によって気付きが起こったならば変容は一瞬にして起こるものじゃ。
それは時間が必要なものではないのじゃ。
時間が必要と想うのは恐れからの逃避が未だ在るからなのじゃ。
真の悟りを得ようと心から熱望している者は、今すぐにでも自らを観て悟りに達することもできるのじゃ。

670避難民のマジレスさん:2020/03/20(金) 08:42:42 ID:dcxeBd5E0
>>668
あっ!そうでありますね。
言われてみれば、なるへそと思えるのは、やっぱり注意力不足であります。
ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

671避難民のマジレスさん:2020/03/20(金) 08:48:44 ID:dcxeBd5E0
>>669
うむ。
今すぐ、変容でありますね。
(´・(ェ)・`)b

672避難民のマジレスさん:2020/03/20(金) 10:07:22 ID:dcxeBd5E0
変化の緊要

   関係 3

質問者 できるなら、私たちが昨日離れたところから継続したいように思います。あなたは、心はそれ自体のまわりの外皮の作り手であるし、この外皮は心であると言われていました。私は本当はこれが理解できません。知的には合意できるのですが、知覚の本質は私を回避するのです。私は大いにそれを理解したいように思うのです - 言語的にではなく、現行としてそれを感じ、そのため私の生に葛藤、抗争がないように。

K 心自らが造った外皮と呼ぶものと心自体との間には、空間があるのです。理想と行為との間には空間があるのです。観察するものと観察されるものと間、それが観察するさまざまなものごとの間のこれらさまざまな空間の断片化のなか、葛藤、抗争、格闘のすべて、生の問題すべてがあるのです。私のまわりのこの外皮と他の一人のまわりの外皮との間には、分離があるのです。その空間のなか、私たちの存在すべて、私たちの関係と戦いのすべてがあるのです。

質問者 あなたが観察するものと観察されるものと間の分割の話をされるとき、私たちの考えることと私たちの日々の行為との空間のこれら断片化という意味なのでしょうか。

K この空間は何なのでしょうか。あなたとあなたの外皮との間には空間が、彼と彼の外皮との間には空間があるし、二つの外皮の間に空間があるのです。これら諸空間はすべて、観察者に現れます。これら空間は何からできているのでしょうか。それだはどのように存在するに至るのでしょうか。これら分割された空間の性質と本性は何なのでしょうか。もしも私たちがこれら断片的空間を取り除けたなら、何が起きるでしょうか。

質問者 そのとき、自らの存在の水準すべてで真の接触があるでしょう。

K それがすべてでしょうか。

質問者 もはや葛藤、抗争はないでしょう。というのは、葛藤、抗争すべてはこれら諸空間を渡る関係であるからです。

K それがすべてでしょうか。この空間は現実に消える - 言語的、知的にではなく、現行として消えるとき、あなたと彼の間、あなたと他の一人との間に、完全な調和、統一があるのです。この調和にあなたと彼は止滅します。けっして砕かれないこの広大な空間があるのです。心の小さな構造は終わりになるのです。心は断片化であるからです。

質問者 私のなかではそのとおりであるという深い感じがあるけれども、私は本当にこれが全く理解できません。愛があるとき、これが現実に起きることは分かるのですが、私はその愛を知りません。それはすべてのときに私にあるのではないのです。それは私の心にないのです。私はまるでくもりガラスをとおすかのようにそれを見るのです。私は正直に自分のすべてをこれをつかめません。あなたが提案されたとおり、私たちは、これら空間が何でできているのか、どのようにそれらは存在するに至るのかを、考慮できますでしょうか。

K 私たちが空間という言葉を使うとき、どちらも同じことを理解することを、すっかり明確にしましょう。人々とものごととの間に物理的空間があるし、人々とものごととの間に心理的空間があるのです。そのとき、観念と現行との間にもまた空間があるのです。それで、このすべて、物理的、心理的なものは、空間であるし、多かれ少なかれ制限され、定義されるのです。私たちはいま物理的空間について話しているのではないのです。私たちは、人々の間の心理的空間と、人間自身のなか、彼の諸思考と諸活動のなかの心理的空間について、話しているのです。この空間はどのように訪れるのでしょうか。それは虚構で幻想的なのです。それともそれは現実でしょうか。それを感じ、それに気づいてください。あなたがただそれの知的映像を持っていないことを確かめ、叙述がけっしてそのものではないことを心得てください。私たちが何について話しているのか知ることを、すっかり明確にしてください。この制限された空間が、この分割があなたに存在することに、すっかり気づいてください。あなたは理解しないなら、そこから動かないでください。ここで、この空間はどのように訪れるのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

673避難民のマジレスさん:2020/03/20(金) 10:17:46 ID:dcxeBd5E0
くまめも3

心自らが造った外皮と心自体との間、
理想と行為との間、
観察するものと観察されるものと間、
そこに(断片化された)空間がある。
そこに葛藤、抗争、格闘のすべて、生の問題すべてがある。

この空間がー現実に消えるとき、あなたと彼の間、あなたと他の一人との間に、完全な調和、統一がある。
この調和にあなたと彼は止滅する。
けっして砕かれない広大な空間がある。
心の小さな構造は終わりになる。
心は断片化であるから。

人々とものごととの間にある心理的空間を感じ、それに気づけ。
それの知的映像を持っていないことを確かめ、叙述がけっしてそのものではないことを心得ろ。
この制限された空間が、この分割があなたに存在することに、すっかり気づけ。
あなたは理解しないなら、そこから動くな。
(´・(ェ)・`)

674鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/20(金) 23:42:16 ID:1d4drIFg0
>>670 そうじゃ気付くのじゃ。

>>671 そうじゃ、刹那に変容あるのみなのじゃ。

675鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/20(金) 23:51:48 ID:1d4drIFg0
自他の分離した虚構に気付くことをクリシュナムルティは説くのじゃ。
気付くことで厭離も起こるからなのじゃ。
例えば人が芋と間違えて石をたくさん背負っていたと気付いたならば、即座に振り落とすじゃろう。
そのように虚構に気付けばそれは即座に振り落とされるのじゃ。
変容しようとか、変化を期待する必要は無いのじゃ。
ただ虚構と幻想を観察して気付くだけで消えるのじゃ。

676避難民のマジレスさん:2020/03/21(土) 00:54:27 ID:vIJqrM1o0
変化の緊要

   関係 4

質問者 私たちは、ものごとの間の物理的空間は分かります・・・

K 何も説明しないでください。ただ手探りでそれへ進んでください。私たちは、この空間がどのように存在するに至ったのかを訊ねています。説明や原因を示さずに、この空間ととどまり、それを感じてください。そのとき、原因と叙述はほとんど意味がなく、何の価値もないでしょう。この空間は、思考ゆえに存在するに至っています - それは「私 me 」、言葉です。それが分割全体です。思考自体がこの距離、この分割です。思考はいつもそれ自体を砕いて諸断片にし、分割を造り出しているのです。思考はいつも、自らの観察するものを切りとり、空間のなかの諸断片にするのです - あなたと私、あなたのものと私のもの、私と私の思考などと。この空間は、思考が自らの観察するものの間に造り出したのですが、現実になってしまったのです。そして、分割するのはこの空間です。そのとき、思考はこの分割を渡る橋を架けようとするし、かくしてすべてのときに自分自身にたくらみをかけ、自分自身を欺瞞し、統一を希望するのです。

質問者 それは私に、思考についての古い言明を、思い起こさせます - それは、泥棒を捕まえるために自分自身を警察官に変装する泥棒である、と。

K どれほどいにしえのでも、わざわざ引用しないでください。私たちは、現行として起きていることを、考慮しているのです。思考とその諸活動の本性の真理を見るなか、思考は静かになるのです。思考は静かにさせられたのではなく静かであるので、空間はあるのでしょうか。

質問者 いまこの問いに答えようと駆け込んでくるのは、思考自体です。

K まったくです!ゆえに、疑問を問いさえしないのです。心はいま断片化なく完全に調和的です。小さな空間は止滅してしまったし、ただ空間のみがあるのです。心は完全に静かであるとき、空間と静寂さの広大さがあるのです。

質問者 それで、私の他の一人との関係は、思考と思考との間にあることが、分かりはじめます。私のいかなる答えも思考の音なのです。それを悟って、私は静寂です。

K この静寂が祝福です。
(´・(ェ)・`)つ

677避難民のマジレスさん:2020/03/21(土) 11:33:32 ID:XzZZD6mM0
くまめも4

この空間は、思考ゆえに存在するに至っている。
「私 me 」、言葉。それが分割全体。
思考自体がこの距離、この分割。
思考はいつもそれ自体を砕いて諸断片にし、分割を造り出している。
空間は、思考が自らの観察するものの間に造り出す
そして、分割するのはこの空間。
思考はこの分割を渡る橋を架けようとするし、すべてのときに自分自身にたくらみをかけ、自分自身を欺瞞し、統一を希望する。

思考とその諸活動の本性の真理を見るなか、思考は静かになる。

空間はあるのかという問いに答えようと駆け込んでくるのは、思考自体。

ゆえに、疑問を問いさえしない。
心はいま断片化なく完全に調和的。
小さな空間は止滅して、空間のみがある。
心は完全に静かであるとき、空間と静寂さの広大さがある。

質問者 それで、私の他の一人との関係は、思考と思考との間にあることが、分かりはじめます。私のいかなる答えも思考の音なのです。それを悟って、私は静寂です。

K この静寂が祝福です。
(´・(ェ)・`)

678鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/21(土) 23:43:45 ID:1d4drIFg0
過去の記憶や知識は悟りには役に立たないのじゃ。
むしろそれを離れることが大事なのじゃ。
それを観察して気付くことで離れることができるのじゃ。
その厭離は気付けば一瞬で起こるものじゃ。
そして静寂が刹那に訪れるのじゃ。

679鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/21(土) 23:44:17 ID:1d4drIFg0
過去の記憶や知識は悟りには役に立たないのじゃ。
むしろそれを離れることが大事なのじゃ。
それを観察して気付くことで離れることができるのじゃ。
その厭離は気付けば一瞬で起こるものじゃ。
そして静寂が刹那に訪れるのじゃ。

680鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/21(土) 23:44:51 ID:1d4drIFg0
過去の記憶や知識は悟りには役に立たないのじゃ。
むしろそれを離れることが大事なのじゃ。
それを観察して気付くことで離れることができるのじゃ。
その厭離は気付けば一瞬で起こるものじゃ。
そして静寂が刹那に訪れるのじゃ。

681鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/21(土) 23:47:19 ID:1d4drIFg0
過去の記憶や知識は悟りには役に立たないのじゃ。
むしろそれを離れることが大事なのじゃ。
それを観察して気付くことで離れることができるのじゃ。
その厭離は気付けば一瞬で起こるものじゃ。
そして静寂が刹那に訪れるのじゃ。

682避難民のマジレスさん:2020/03/22(日) 09:46:27 ID:3RfGJzf60
変化の緊要

   葛藤 1

質問者 私は私自身が身のまわりのあらゆるものごとと、たいへん多くの葛藤にあるのを見ます。そしてまた、私のなかのあゆるものごとも、葛藤にあるのです。人々は聖なる秩序について語ってきました。自然は調和的です。人間はこの秩序を侵犯し、他の者たちと自分自身のためにこんなに多くの悲惨を造るただ一つの動物であるように、思われます。私が朝目覚めるとき、窓から小さな鳥たちが互いに争っているのが見えます。しかし、彼らはすぐに別れて飛び去ります。ところが、私は私自身と他の者たちとのこの戦争を、すべてのときに私の内側に持ちはこぶのです。それからの逃避はないのです。私はいったい私自身と平和でありうるのかどうかと思うのです。私は身のまわりのあらゆるものごとと私自身と完全な調和にありたいように思うと言わなければなりません。この窓から静かな海と水面の光を見ると、自分自身と世界とのこれら終わりなきけんかのない生き方があるにちがいない、と自分自身のなかに深い感じがするのです。いったいどこかに調和があるのでしょうか。それとも、はてしなく続く無秩序があるだけなのでしょうか。秩序があるのなら、それはどのような水準に存在しうるのでしょうか。それともそれは、燃える谷がけっして知りえないどこか山の頂にのみ存在するのでしょうか。

K 一つからもう一つへ行けるでしょうか。有るものからないものへ変化できるでしょうか。不調和は調和へ変容できるでしょうか。

質問者 それでは葛藤は必然なのでしょうか。おそらくそれは、つまるところ、ものごとの自然の秩序であるかもしれません。

K もしもそれを受け入れたなら、社会が表し支えるものごとすべてを受け入れなくてはならないでしょう - 戦争、野心的競争、攻撃的な生の道 - いわゆる聖地の内側と外側での、人々の残忍な暴力のすべてを。これは自然でしょうか。これは統一をもたらすでしょうか。私たちは、これら二つの所作 - 錯綜した格闘すべてをともなう葛藤という所作と、心が秩序、調和、平和、美しさ、愛を要求するという所作 - を、考慮するほうがよいのではないでしょうか。

質問者 私は秩序について何も知りません。私はそれを天に、季節に、宇宙の数学的秩序に見るのです。しかし、それは私自身の心と頭に秩序を与えてくれません。数学の絶対的秩序は、私の秩序ではないのです。私は秩序を持ちません。私は深い無秩序にあるのです。私は、政治的ユートピアと宗教的天国のいわゆる完全性に向かう段階的進化というさまざまな理論があるのを、知っています。しかし、これは私を現にいるところに残すのです。世界はおそらく、いまから一万年で完全になっているかもしれませんが、その間、私は地獄にあるのです。

K 私たちは私たち自身と社会の無秩序を見ます。どちらもとても複雑です。本当は答えはないのです。このすべてをよく気をつけて検討し、親しく分析し、自分自身と社会の無秩序の諸原因を探し、それらを光に晒し、おそらく、心はそれらから解き放たれて自由になるだろうと信じることもできます。この分析的過程は、ほとんどの人々が賢明にまやは暗愚にやっているところですが、それでは誰もあまりに遠く行きません。人間は何千何万年の間、自分自身を分析してきて、文学の他、何の成果をも生み出していないのです。多くの聖者は、諸概念と思想的監獄のなか自分自身を麻痺させてきたのです。彼らもまた葛藤にあるのです。私たちの葛藤の原因は、願望のこの果てしなくつづく二元性です - 妬み、羨み、貪欲、野心、攻撃、恐怖、その他すべてを造り出す諸対極の終わりなき回廊です。ここで私は、この問題にはまるで違った接近がないのだろうかと思うのです。この格闘の受け入れと、それを抜け出すための私たちの努力すべては、伝統的になったのです。接近全体が伝統的なのです。この伝統的接近のなか心は作動しますが、心の伝統的接近はもっと多くの無秩序を造り出すのです。それで、問題はいかに無秩序を終わらせるのかではなく、むしろ、心は伝統を免れて自由にそれを見つめられるのかです。そのときおそらく、全く問題はないのかもしれません。

質問者 全く付いていけません。

(´・(ェ)・`)つ

683避難民のマジレスさん:2020/03/22(日) 11:43:36 ID:D8qZy99Q0
くまめも1

もしも葛藤は必然、ものごとの自然の秩序であると受け入れたなら、社会が表し支えるものごとすべてを受け入れなくてはならない。 - 戦争、野心的競争、攻撃的な生の道 - いわゆる聖地の内側と外側での、人々の残忍な暴力のすべてを。
錯綜した格闘すべてをともなう葛藤という所作と、心が秩序、調和、平和、美しさ、愛を要求するという所作 - この二つの所作を、考慮するほうがよいのではないか。
私たち自身と社会の無秩序を検討し、分析し、自分自身と社会の無秩序の諸原因を探し、心はそれらから解き放たれて自由にろうとしても、文学の他、何の成果をも生み出していない。
多くの聖者は、諸概念と思想的監獄のなか自分自身を麻痺させてきた。
私たちの葛藤の原因は、願望のこの果てしなくつづく二元性。 − 妬み、羨み、貪欲、野心、攻撃、恐怖、その他すべらてを造り出す諸対極の終わりなき回廊。
この問題にはまるで違った接近がないのか。
伝統的接近のなか心は作動するが、心の伝統的接近はもっと多くの無秩序を造り出す。
問題はいかに無秩序を終わらせるのかではなく、むしろ、心は伝統を免れて自由にそれを見つめられるのか。
そのときおそらく、全く問題はないのかもしれない。
(´・(ェ)・`)

684鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/23(月) 00:42:58 ID:1d4drIFg0
自らの心に葛藤や無秩序があってもそれを終わらそうとしなくて善いのじゃ。
終わらそうとすればそれがまた新たな葛藤と無秩序を生み出すのじゃ。
ただ自由に見つめるだけで消えるとクリシュナムルティはいうのじゃ。
その時にはもはや全く問題は無いというのじゃ。
ただ観ることさえできればそれらは刹那に滅するのであるからのう。
そして沈黙が在るのじゃ。

685避難民のマジレスさん:2020/03/23(月) 01:03:57 ID:zBe8.0SE0
2変化の緊要

  葛藤 2

K 無秩序というこの所作があるのです。それについて疑いはありません。それは現行の所作なのです。この所作への伝統的接近は、それを分析すること、その原因を発見して原因を乗り越えようとすること、あるいはその対極を考案し、それに向かって戦うことなのです。これが、修養、訓練、制御、抑制、昇華をもつ伝統的接近です。人間は何千年に何万年もこれをやってきたのです。それはどこにもつながりませんでした。私たちはこの接近を完全に放棄し、問題を全然違うように見つめられるでしょうか - すなわち、それを乗り越えようとしたり、それを解消したり、それから逃避したりではないのです。心はこれができるでしょうか。

質問者 おそらく・・・

K そんなにすばやく答えないでください!私があなたに訊ねているこれは、ものすごいことなのです。時の始まりから人間は、自らの問題すべてを乗り越えたり、解消したり、逃避することにより、扱おうとしてきたのです。そのすべてをただ単に言語的合意でもってそんなに軽く押しのけられると思わないでください。それは誰でもみんなの心のまさに構造こそを作り上げるのです。心はいま、このすべてを非言語的に理解し、現行として伝統を免れ自由になれるでしょうか。この葛藤の伝統的扱い方は、けっしてそれを解決しないで、もっと多くの葛藤を付け加えるだけなのです。暴力的であるとは葛藤ですが、私は暴力的なので、非暴力的になろうとする付け足しの葛藤を、付け加えるのです。社会的道徳すべてと宗教的規定すべては、それなのです。私たちはともにいるのでしょうか。

質問者 はい。

K それではあなたは、私たちがどれほど遠く来たのか、分かるでしょうか。理解をとおしてこれら伝統的接近すべてを否認したので、いま心の現行の状態はどうなのでしょうか。なぜなら、心の状態は葛藤自体よりもはるかに重要であるからです。

質問者 私は本当に知りません。

K なぜあなたは知らないのでしょうか。なぜあなたは、本当に伝統的接近を放棄したのなら、あなたの心の状態に気づかないのでしょうか。なぜ知らないのでしょうか。あなたはそれを放棄したのか、していないのかのどちらかです。放棄したなら、あなたはそれを知るでしょう。放棄したなら、そのときあなたの心は無垢になり、問題を見つめられrのです。あなたは問題をまるで初めてかのように見つめられるのです。そして、こうするなら、葛藤の問題はいったいあるのでしょうか。あなたは問題を古い眼で見つめるから、それは強まっただけではなく、その使い古された小道を動くのです。それで、重要なことは、あなたがどのように問題を見つめるかなのです - あなたがそれを新しい眼で見つめるのか、古い眼でなのかです。新しい眼は、問題への条件づけられた応答を免れて自由です。認識をとおして問題を名づけることさえも、それに伝統的な仕方で接近することなのです。楽しみと苦しみということでの問題の正当化、非難、翻訳はすべて、それについて何かをするというこの習慣的な伝統的接近に関与しているのです。これが一般的に問題に関する肯定的接近と呼ばれるのです。しかし、心がそのすべてを、非効果的で智恵がないと払いのけるとき、それは大いに敏感になり、大いに秩序だち自由になっているのです。

質問者 あなたは私にあまりに多くを求めています。私にはそれはできません。私にはその能力がないのです。あなたは私に超人になるよう求めています!

K あなたは自分が超人にならなければならないと言うとき、あなた自身で困難を造り、あなた自身を塞いでいるのです。これは何らそのようなことではありません。あなたは、干渉したい(眼)、見えるものことについて何かをしたい眼でもって、ものごとを見つめつづけているのです。それについて何をするのも止めてください。あなたのやることなすことは、伝統的接近に属しているからです。それだけです。単純でありなさい。これが知覚の奇跡です - 完全に過去を清めさられている心と頭で知覚するのです。否定は最も肯定的な行為です。
(´・(ェ)・`)つ

686避難民のマジレスさん:2020/03/23(月) 01:11:07 ID:zBe8.0SE0
くまめも2

無秩序という所作への伝統的接近は、それを分析し、原因を発見して原因を乗り越えようとすること、その対極を考案し、それに向かって戦うこと。
この接近を完全に放棄し、問題を全然違うように見つめられるか。
この葛藤の伝統的扱い方は、けっしてそれを解決しないで、もっと多くの葛藤を付け加えるだけ。
社会的道徳すべてと宗教的規定すべては、それ。

理解をとおしてこれら伝統的接近すべてを否認したのなら、心の現行の状態は無垢になり、問題を見つめられる。
問題をまるで初めてかのように見つめられる。
こうするなら、葛藤の問題はない。
問題を古い眼で見つめるから、それは強まっただけではなく、その使い古された小道を動く。
重要なことは、どのように問題を見つめるか。
新しい眼は、問題への条件づけられた応答を免れて自由。
認識をとおして問題を名づけることさえも、それに伝統的な仕方で接近すること。
楽しみと苦しみということでの問題の正当化、非難、翻訳はすべて、それについて何かをするというこの習慣的な伝統的接近に関与している。
心がそのすべてを、非効果的で智恵がないと払いのけるとき、それは大いに敏感になり、大いに秩序だち自由になっている。

単純でありなさい。これが知覚の奇跡。
完全に過去を清めさられている心と頭で知覚する。
否定は最も肯定的な行為。
(´・(ェ)・`)

687鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/23(月) 23:56:38 ID:1d4drIFg0
伝統的接近とは記憶や知識や分別を以って心の問題を解決しようとする観念なのじゃ。
それでは従来通りの繰り返しになるばかりなのじゃ。
観念を乗り越えるために観念を作り、更に又その観念を乗り越えるための観念が作り出されるのじゃ。
それが記憶による認識を持つ人間の習俗なのじゃ。
そのような伝統的接近を離れ、分別の無い目で観れば真の厭離が始まるのじゃ。

688避難民のマジレスさん:2020/03/24(火) 08:50:24 ID:rR/mf2b.0
変化の緊要

  宗教的な生 1

質問者 私は宗教的な生とは何なのかを知りたいように思うのです。私は幾月もの間、修道院に泊まり、冥想し、修養生活を送り、たいへんに多くを読んできました。私はさまざまな寺院、教会、モスクに行きました。私は単純素朴な害を与えぬ生を送ろうとし、人々や動物を傷つけないようにしてきました。私はヨーガを実践し、禅を研究し、多くの宗教的修養に従ってきました。私はいつも菜食主義者であったし、いまもそうです。おわかりのように、私はいま老いようとしているし、世界のさまざまな地域の聖人のいくらかともともに生きてきました。しかし、なぜだか私は、このすべてはただ本当のものの輪郭のみであると感じます。それで、私たちは今日、あなたにとって宗教的な生とは何なのかを議論できるのかどうかと思うのです。

K ある日一人のサンニャーシが私に会いに来ましたが、彼は悲しんでいました。彼は純潔の誓いを立てて、托鉢僧になるため世間を離れ、村から村へさすらってきたのだと言いましたが、彼の性欲があまりに切迫したので、そのためある朝彼は、性器を外科的に取り除いてもらおうと決意したのでした。何ヶ月もの間、彼は常に痛みがあったのですが、どうにかそれも癒えました。そして、何年もの後で彼は、自分が何をやったのかを十分に悟りました。それで彼は私に会いに来ましたが、その小さな部屋で彼は私に、自分自身を不具にしてしまったが、再び正常に - もちろん物理的にではなく内的に - なるには、いま自分に何ができるのかを訊ねました。性的活動は宗教的な生に逆行すると考えられたから、彼はこういうことをしたのでした。楽しみの世界は本当のサンニャーシはどんな付けを払っても回避しなければならないが、それは世俗的であり、楽しみの世界に属していると考えられました。彼は言いました、「いまここ私はいて、私の男性を剥奪されて、完全に迷った気持ちです。私は自分の性欲に対してあんなに激しく格闘し、それを制御しようとしました。そして究極的にこの恐ろしいことが起きたのです。いま私は何をなすべきなのでしょうか。私がやったことは間違っているのは知っています。私のエネルギーはほとんど去ったし、私は自分の生を暗闇のなか終えるように思われるのです」と。彼は私の手を取りました。私たちはしばしの間、静寂に坐りました。
  これは宗教的生なのでしょうか。楽しみや美しさの拒否は、宗教的生につながる道なのでしょうか。空と丘と人体の美しさを拒否することは、宗教的生につながるでしょうか。しかし、それは、ほとんどの聖者と僧侶が信じているところです。彼らはその信において自分自身を拷問にかけるのです。拷問され歪み歪曲された心はいったい、宗教的生とは何なのかを見出せるのでしょうか。それでも、諸宗教すべてが、真実や神や何と呼ぶともそれへのただ一つの道は、この拷問、この歪曲をとおしてであると主張するのです。彼らはすべて、霊的または宗教的な生と呼ばれるものと世間的生と呼ばれるものとの間に、区別を付けるのです。
  時折の悲しみや謹みの閃きをもってただ楽しみだけのために生きる(人)、生全体が娯楽と享楽とに捧げられている人は、またとても利口で、学識が広く、自らの生を他の人々や自分の思考で満たそうとも、もちろん世間的な人なのです。そして、才能を授かり、それを社会の利益のためや自分の楽しみのために行使する(人)、その才能の充足において名声を博する人 - そういう人もまた確かに世間的なのです。しかし、先入観、偏見に浸かり、それの含意する残忍に全く気づかず、教会や寺院、モスクに行くこと、祈ることもまた、世間的なのです。愛国的で、国家主義的、民族主義的、理想主義的であることは、世間的なのです。自分自身を修道院に閉じこめる(人) - 書物を手にして規則正しい時刻に起きて、読み、祈る - 人もまた確かに世間的なのです。そして、良い仕事をするために外へ出かける人は、社会改革者でも伝道師でも、世間への関心において、政治家と同じです。宗教的生と世間との分割は、世間性のまさに本質です。僧侶、修道者、聖者、改革者 - これらすべての人々の心は、ただ楽しみを与えるものごとに関心を持つだけの人たちの心と、あまり違っていないのです。
(´・(ェ)・`)
(つっく)

689避難民のマジレスさん:2020/03/24(火) 09:01:29 ID:rR/mf2b.0
くまめも4-1

宗教的な生とは何なのか
楽しみや美しさの拒否は、宗教的生につながる道なのか。
それは、ほとんどの聖者と僧侶が信じているところ。
彼らはその信において自分自身を拷問にかける。
拷問され歪み歪曲された心はいったい、宗教的生とは何なのかを見出せるのか。
それでも、諸宗教すべてが、真実や神や何と呼ぶともそれへのただ一つの道は、この拷問、この歪曲をとおしてであると主張する。
彼らはすべて、霊的または宗教的な生と呼ばれるものと世間的生と呼ばれるものとの間に、区別を付ける。

先入観、偏見に浸かり、それの含意する残忍に全く気づかず、教会や寺院、モスクに行くこと、祈ることもまた、世間的。
社会改革者でも伝道師でも、世間への関心において、政治家と同じ。
僧侶、修道者、聖者、改革者 - これらすべての人々の心は、ただ楽しみを与えるものごとに関心を持つだけの人たちの心と、あまり違っていない。
(´・(ェ)・`)

690鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/24(火) 22:30:24 ID:1d4drIFg0
伝統的な宗教団体に所属したとしても、葬式で金儲けをしていたりするのならば俗人と変わりないのじゃ。
外見だけの偽者なのじゃ。
死ぬ時になって自分で自分を騙していたことに気付いて泣くことになるのじゃ。
真の悟りを求める者は少ないものじゃ。
真摯に悟りを求める者が実践することが真の宗教なのじゃ。
悟りを得て不死の境地に至れば永遠に安楽に居られるのじゃ。

691避難民のマジレスさん:2020/03/24(火) 23:15:30 ID:5fsey69o0
変化の緊要

宗教的な生 2

(K)それで、生を世間と非世間とに分割しないことが重要です。世間的なもの・ことといわゆる宗教的なもの・こととの間に区別を付けないことが重要です。質料の世界、物質的世間なしでは、私たちはここにいないでしょう。空と丘の唯一の樹の美しさなしで、通り過ぎるあの女と馬に乗るあの男なしでは、生はありえないでしょう。私たちは、他と対立して宗教的と考えられるその特定の一部分に(関心を持つの)ではなく、生の全体に関心を持っているのです。それで、宗教的生は、特定ではなく、全体に関係することが見えはじめるのです。

質問者 あなたの言われることは理解できます。私たちは生きることの全体を扱わなくてはなりません。私たちはいわゆる「霊」から世間を分離できません。それで疑問はこうです - どの道において私たちは、生のものごとすべてに関して、宗教的に行為できるのでしょうか。

K 私たちのいう宗教的に行為するとはどういう意味なのでしょうか。あなたのいうのは、分割 - 世間的なもの・こととと宗教的なもの・ことの間、有るべきものと有るべきでないものの間、私とあなたの間、好き嫌いの間の分割がない生の道、という意味ではないでしょうか。この分割は葛藤、抗争です。葛藤、抗争の生は、宗教的な生ではないのです。宗教的な生は、私たちが深く葛藤、抗争を理解するときにのみ、可能です。この理解は智恵なのです。正しく行為するのはこの智恵です。ほとんどの人々が智恵と呼ぶものは単に、何か技術的活動の器用さや実業や政治の口先のうまさだけなのです。

質問者 それで、私の疑問は本当は、どのように葛藤、抗争なく生き(るのか)、その檻がどれほど古く崇敬されていようとも、ただ単に何か宗教的檻に条件づけられた情動的慎ましさだけではない真の神聖さの感情をもたらすのか、という意味なのです。

K 村であまり多くの葛藤、抗争なく生きる人や、「聖なる」丘の洞窟で夢見る人は確かに、私たちが話しあっている宗教的な生を生きていないのです。葛藤、抗争を終わらせることは、最も複雑なことの一つです。それには、自己観察と、外ともに内の気づきの敏感さが、要るのです。葛藤、抗争は、自分自身の矛盾の理解があるところでのみ、終わりうるのです。知られたもの・こと、すなわち過去を免れた自由がないのなら、この矛盾はいつも存在するでしょう。過去を免れた自由は、時間のではない(いまに生きる)、過去や知られたもの・ことに触れられずこの自由の動きのみがあるいまに生きる、という意味です。
(´・(ェ)・`)つ

692避難民のマジレスさん:2020/03/24(火) 23:41:12 ID:5fsey69o0
くまめも4-2

生を世間と非世間とに分割しない。
世間的なもの・ことと宗教的なもの・こととの間に区別を付けないことが重要.
質料の世界、物質的世間なしでは、私たちはここにいない。
私たちは、他と対立して宗教的と考えられるその特定の一部分にではなく、生の全体に関心を持っている。
それで、宗教的生は、特定ではなく、全体に関係することが見えはじめる。
世間的と宗教的との間、有るべきものと有るべきでないものの間、私とあなたの間、好き嫌いの間の分割。分割は葛藤、抗争。
宗教的な生は、深く葛藤、抗争を理解する智恵があるときにのみ、可能。
葛藤、抗争は、自己観察と、気づきの敏感さで自分自身の矛盾の理解があるところでのみ、終わりうる。
過去を免れた自由は、時間のではない、いまに生きる、過去や知られたもの・ことに触れられずこの自由の動きのみがあるいまに生きる、という意味。
(´・(ェ)・`)

693鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/25(水) 22:49:12 ID:1d4drIFg0
自己観察が必要とクリシュナムルネティはいうのじゃ。
それは全ての賢者達が説いたことと同じなのじゃ。
真の解放への道は自己を観ることにのみあるのじゃ。
全ての法もそのためにのみあるものじゃ。

694避難民のマジレスさん:2020/03/26(木) 00:12:56 ID:oyERMyaM0
変化の緊要

宗教的な生 3

質問者 過去を免れた自由とはどういう意味でしょうか。

K 過去は私たちの蓄積した記憶すべてです。これら記憶は現在において行為し、私たちの未来の希望と恐怖を造り出すのです。これら希望と恐怖が、心理的な未来であるのです。それらなしに未来はありません。それで、現在は過去の行為であるし、心は過去のこの動きなのです。現在に行為する過去が、未来と呼ばれるものを造り出すのです。過去のこの応答は、不随意です。それは召喚も招待もされません。それは私たちが知る前に身に付いているのです。

質問者 その場合には、私たちはどのようにそれを免れ、自由になるのでしょうか。

K 選択なく - なぜなら、選択はまた過去のこの同じ動きの繰り返しであるからです - この動きに気づくことは、行為する過去を観察することです。こういう観察は、過去の動きではありません。思考の像なく観察することは、過去が終わってしまった行為です。思考なく樹を観察することは、過去なき行為です。過去の行為を観察することおまた、過去なき行為です。見えるという状態は、見られるもの・ことよりも重要です。その選択なき観察のなか過去に気づくことは、違った行為をするだけではなく、違って有ることです。この気づきのなか記憶は、障碍なく、効果的に行為するのです。宗教的であるとは、知られたもの・ことが行為しなくてはならないときにはいつも行為する間でさえも、知られたもの・ことを免れた自由があるほど、選択なく気づくことなのです。

質問者 しかし、知られたもの・こと、過去はやはりときには、行為すべきではないときでさえ、行為するのです。やはり作用して葛藤、抗争の因となるのです。

K これに気づくことはまた、行為している過去に関して無行為の状態にあることでもあるのです。それで、知られたもの・ことを免れた自由は真実に、宗教的な生なのです。これは、知られたもの・ことを拭い去るという意味ではなく、知られたもの・ことへの観察がなされるところのまるで違った次元に入る、という意味なのです。この選択なく見えるという行為は、愛の行為です。宗教的な生はこの行為です。そして生きることすべては、この行為です。そして、宗教的な心は、その行為です。それで、宗教、心、生、いのち、愛は一つです。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

695避難民のマジレスさん:2020/03/26(木) 00:23:13 ID:oyERMyaM0
くまめも3

過去=記憶は現在において行為(作用?)し、私たちの未来の希望と恐怖を造り出す。
これら希望と恐怖が、心理的な未来。
現在は過去の行為。心は過去の動き。
過去の応答は、不随意。
それは私たちが知る前に身に付いている。
どのようにそれを免れ、自由になるのか。
選択なくこの動きに気づくことにより、それを免れ、自由になる。
選択なく気づく=思考の像なく観察することは、過去が終わってしまった行為。
見えるという状態は、見られるもの・ことよりも重要。
その選択なき観察のなか過去に気づくことは、違った行為をするだけではなく、違って有ること。
この気づきのなか記憶は、障碍なく、効果的に行為する。
知られたもの・ことを免れた自由は真実に、宗教的な生。
これは、知られたもの・ことを拭い去るという意味ではなく、知られたもの・ことへの観察がなされるところのまるで違った次元に入る、という意味。
この選択なく見えるという行為は、愛の行為。
宗教的な生、生きることすべて、宗教的な心は、その行為。
宗教、心、生、いのち、愛は一つ。
(´・(ェ)・`)

696避難民のマジレスさん:2020/03/26(木) 22:02:16 ID:DIeGP1RM0
昨年5/6に中断した。マラハジの『私は在る』最終章が用意できたであります。
(鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1530935225/2019/5/6(月))
101章の最初から、載せるであります。
多分、8回くらいになると思うのである。
終わったら、Kの講読会再開であります。
(´・(ェ)・`)つ

697避難民のマジレスさん:2020/03/26(木) 22:09:41 ID:DIeGP1RM0
『I AM THAT 私は在る』101 ジニャーニは理解も把握もしない 1

質問者 ジニャーニ(賢者)は何かを為(な)す必要があるとき、どのよう
     に行うのでしょうか? 彼は計画を立て、詳細にわたって決定し、
     それを実行するのでしょうか?
 
 マハラジ
 ジニャーニは状況を完全に理解し、即座に何が為されるべきかを知る。
 それだけだ。
 残りはひとりでに起こる。
 しかも、たいていは無意識のうちに起こるのだ。
 ジニャーニとすべての存在との同一性は本当に完全なものであり、彼が宇宙
 に応えるように、宇宙も彼に応える。
 ひとたび状況が認識されれば、出来事は適切な対応のなかで動いていくとい
 うことに彼は絶大な確信を持っているのだ。
 普通の人は個人的利害に関心を持ち、危険とチャンスを計算している。
 一方、ジニャーニは超然として、すべては起こるべくして起こると確信して
 いる。
 そして何が起こるかは、さして重要なことではないのだ。
 なぜなら、最終的に均衡と調和が戻ってくることは不可避だからだ。
 ものごとの核心には平和があるのだ。
 
 質問者 私は人格が幻想であり、アイデンティティを失うことなく油断なく
     冷静にあることが、私たちにとっての実在との接触点であることを
     理解しました。どうか教えていただけますか、今、この時点であな
     たは個人なのでしょうか、それとも自己覚醒したアイデンティティ
     なのでしょうか?
 
 マハラジ
 私はその両方だ。
 だが真の自己は、個人によって与えられた、何が私ではないかという表現に
 よる以外描写することはできないのだ。
 個人に関してあなたが言えることはみな自己ではない。
 そしてあなたはあるがままの、そうありえたであろう、そうあるべき自己に
 関して何も言うことはできないのだ。
 すべての属性は個人的なものであり、実在はすべての属性を越えているから
 だ。
 
 質問者 あなたはときどき自己で、ときどき個人なのでしょうか?
 
 マハラジ
 どうしてそう在ることができよう?
 個人とは、ほかの人たちにとってそう現れる私なのだ。
 私自身にとって、私は意識の無限な広がりであり、そのなかで無数の個人が
 果てしない連鎖のなかで現れては消えていくのだ。
 
 質問者 あなたにとってはまったくの実体のない個人が、私たちにとっては
     現実に見えるのはどうしてでしょうか?
 
 マハラジ
 自己、すべての存在の根源、意識と歓喜であるあなたは、何であれあなたが
 知覚するものに実在性を与えるのだ。
 この実在性を与えることはつねに今のなかにおいて起こり、ほかのどのとき
 にも起こることはない。
 なぜなら過去と未来はマインドのなかにしか存在しないからだ。
 「在ること」は今だけに適用するのだ。
 
 質問者 永遠性も無限なのではないでしょうか?
 
 マハラジ
 時間が無限なのだ。
 そこに限界はあるが、永遠は今という一瞬のなかにある。
 私たちがそれを見失うのは、私たちのマインドがつねに過去と未来の間を行
 き来しているからだ。
 マインドが今に焦点を当てるために止まることはないだろう。
 もし興味が起これば、それは比較的簡単にできるのだ。
                        『私は在る』(p547-548)
(´・(ェ)・`)つ

698鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/26(木) 22:46:21 ID:1d4drIFg0
思考も選択も同じ記憶から起こるものじゃ。
それは観念によるものであるからその囚われから逃れられないのじゃ。
思考も選択も無く観察できるならば、そこに気付きが起こるのじゃ。
ただひたすらに観察する事でそれも可能になるのじゃ。

699避難民のマジレスさん:2020/03/27(金) 13:43:06 ID:/WNm9RHM0
くまめも101-1c

ジニャーニ(賢者)は何かを為す必要があるとき、状況を完全に理解し、即座に何が為されるべきかを知る。残りはひとりで、たいていは無意識のうちに起こる。
 ジニャーニとすべての存在との同一性は完全。すべては起こるべくして起こる。
 何が起こるかは、重要ではない。
 なぜなら、最終的に均衡と調和が戻ってくることは不可避だから。
 
真の自己は、何が私ではないかという表現による以外描写することはできない。
すべての属性は個人的なもの。
実在はすべての属性を越えている。
個人とは、ほかの人たちにとってそう現れる私。
私は意識の無限な広がりであり、そのなかで無数の個人が果てしない連鎖のなかで現れては消えていく。
 
すべての存在の根源、意識と歓喜であるあなたは、知覚するものに実在性を与える。
これは、つねに今のなかにおいて起こる。
なぜなら過去と未来はマインドのなかにしか存在しないから。
「在ること」は今だけに適用する。

時間は無限。永遠は今という一瞬のなかにある。
それを見失うのは、マインドがつねに過去と未来の間を行き来しているから。
マインドが今に焦点を当てるために止まることはない。
興味が起これば、それは比較的簡単にできる。
(´・(ェ)・`)

700鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/27(金) 22:57:40 ID:1d4drIFg0
永遠とは時間という観念が無いから永遠なのじゃ。
時間がどこまでも続くのではないのじゃ。
時間の観念が無ければ今のこの刹那が永遠と理解できるのじゃ。
それもまた観念ではあるがのう。

701避難民のマジレスさん:2020/03/27(金) 23:18:27 ID:8W/pu.9.0
『I AM THAT 私は在る』101 ジニャーニは理解も把握もしない 2

 質問者 何が興味を起こさせるのでしょうか?
 
 マハラジ
 誠実さ、成熟の象徴だ。
 
 質問者 では、成熟はどのようにしてもたらされるのでしょうか?
 
 マハラジ
 マインドを清く明るく保つことによって、人生を起こるがまま、一瞬一瞬を
 完全な気づきを持って生きることによって、欲望と恐れが現れるなり調べ、
 解消していくことによってだ。
 
 質問者 そのような集中がいったい可能なのでしょうか?
 
 マハラジ
 試してみなさい。
 一度に一歩ずつならばやさしいはずだ。
 誠実さからエネルギーは湧いてくるのだ。
 
 質問者 私には誠実さが足りません。
 
 マハラジ
 自己背信は悲惨な問題だ。
 それはマインドを癌のように腐らせてしまう。
 明晰(めいせき)性と考え方の高潔さのなかに治療法があるのだ。
 あなたが幻想の世界に生きていることを理解しようとしてみなさい。
 それを調べ、その根底にあるものを暴きなさい。
 そうしようと試みること自体が、あなたを誠実にするだろう。
 なぜなら、正しい、真剣な試みのなかに至福があるからだ。
 
 質問者 それは私をどこへ導くのでしょう?
 
 マハラジ
 もしそれ自体の完成へ導くのでなければ、どこへ導くというのだろうか?
 ひとたびあなたが今のなかに本当に確立すれば、ほかにどこへも行くところ
 はない。
 かぎりなくあなたであるものを、あなたは永遠に表現していくのだ。
 
 質問者 あなたはひとつなのでしょうか、それとも多数なのでしょうか?
 
 マハラジ
 わたしはひとつだ、だが多数として現れるのだ。
 
 質問者 いったいなぜ人は現れるのでしょうか?
 
 マハラジ
 在ること、そして意識して在ることは良いことだ。
 
 質問者 人生は悲しいものです。
 
 マハラジ
 無知が悲しみをもたらす。
 幸福は理解にともなって起こるのだ。
 
 質問者 どうして無知は苦痛なのでしょうか?
 
 マハラジ
 それはすべての欲望と恐れの根底にあり、苦痛に満ちた状態であって、果て
 しない過ちの源なのだ。
                        『私は在る』(p548-550)

702避難民のマジレスさん:2020/03/27(金) 23:50:32 ID:8W/pu.9.0
くまめも2

興味を起こさせるのは、誠実さ、成熟の象徴
 
成熟は、マインドを清く明るく保つこと、
人生を起こるがまま、一瞬一瞬を完全な気づきを持って生きること、
欲望と恐れが現れるなり調べ、解消していくことによってもたらされる。
 
そのような集中は、試してみれば、
一度に一歩ずつならばやさしいはず。
誠実さからエネルギーは湧いてくる。
 
私には誠実さが足りないという自己背信は悲惨な問題。
それはマインドを癌のように腐らせる。
明晰(めいせき)性と考え方の高潔さのなかに治療法がある。
幻想の世界に生きていることを理解しようとしてみる。
それを調べ、その根底にあるものを暴く。
そうしようと試みること自体が、あなたを誠実にする。
なぜなら、正しい、真剣な試みのなかに至福があるから。
 
それは私をどこへ導くのか。
 
もしそれ自体の完成へ導くのでなければ、どこへ導くというか?
 ひとたびあなたが今のなかに本当に確立すれば、ほかにどこへも行くところはない。
 かぎりなくあなたであるものを、あなたは永遠に表現していくのだ。

無知が悲しみをもたらす。
幸福は理解にともなって起こるのだ。
無知はすべての欲望と恐れの根底にあり、苦痛に満ちた状態であって、果てしない過ちの源なのだ。

703鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/03/28(土) 23:29:08 ID:1d4drIFg0
無知とは観念が自己と認識していることなのじゃ。
仏教では無明と呼ばれるのじゃ。
それが観念でしかないと理解できれば消えるのじゃ。
気付くことで理解も起こるのじゃ。

704避難民のマジレスさん:2020/03/29(日) 00:16:41 ID:rR/mf2b.0
『I AM THAT 私は在る』101 ジニャーニは理解も把握もしない 3


 質問者 私は真我を実現したと言われる人たちが笑ったり泣いたりしている
     のを見てきました。それはつまり、彼らが欲望や恐れから自由にな
     っていないことを示しているのでしょうか?
 
 マハラジ
 彼らは状況にしたがって、笑ったり泣いたりするかもしれない。
 しかし、内面で覚めていて明晰であり、自分自身の反応を冷静に見守ってい
 るのだ。
 現象は惑わせやすい。
 ジニャーニの場合はなおさらのことだ。
 
 質問者 私には理解できません。
 
 マハラジ
 マインドでは理解できない。
 なぜならマインドは理解し、把握するために訓練されてきたからだ。
 一方、ジニャーニは理解も把握もしていないのだ。
 
 質問者 あなたが把握しない何を私がつかんでいるというのでしょう?
 
 マハラジ
 あなたは記憶の創造物だ。
 少なくともあなたはそう想像している。
 私はまったく想像されないものだ。
 私は私だ。
 いかなる身体的、あるいは精神的状態とも同一化不可能なのだ。
 
 質問者 不慮の出来事があなたの静謐を打ち砕いてしまうでしょう。
 
 マハラジ
 奇妙なことにそうならないのが事実なのだ。
 私自身驚くことに、私は起こることすべてに気づいている純粋な気づきのま
 まとどまるのだ。
 
 質問者 たとえ死の瞬間でさえもそうなのでしょうか?
 
 マハラジ
 身体が死ぬことが私にとって何だというのだろう?
 
 質問者 世界と接するために身体が必要なのではありませんか?
 
 マハラジ
 私に世界は必要ない。
 私はそのなかにいない。
 あなたが考えている世界はあなたのマインドのなかにあるのだ。
 私にはそれをあなたの目とマインドを通して見ることができる。
 だが、私はそれが記憶の投影であることに完全に気づいている。
 それはただ、今という気づきの点においてのみ実在によって触れられるのだ。
 
 質問者 私たちの間にある唯一の違いとは、私が真の自己を知らないと言い
 つづけているにもかかわらず、あなたはそれを良く知っていると主張してい
 ることにあるようです。それ以外に何か私たちの間に違いがあるでしょうか?
 
 マハラジ
 私たちには何の違いもない。
 私は私自身を知っているとさえ言えない。
 私が知っているのは、私は描写不可能、定義不可能なものだということだ。
 マインドが達することのできるもっとも遠い果てを越えると、そこには広大
 な広がりがある。
 その広大な広がりが私の家なのだ。
 広大さが私自身だ。
 そしてその広大さはまた愛でもある。

   『私は在る』(p548-550)
(´・(ェ)・`)つ


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