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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
509
:
避難民のマジレスさん
:2020/01/24(金) 00:36:25 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話254
ダンカン・グリーンリース氏は『シュリーマッド・バーガヴァタム』から以下の節を引用した。
「内にも外にも、生きとし生けるものすべての中に純粋なエーテルが存在するように、あなた自身の内に真我を見なさい」
「羞恥心を棄て去って、不可触民や、牛や、ロバに対してさえひれ伏しなさい」
「『私』がすべての生きとし生けるものの中に存在することを見て取れないうちは、心と身体によってすべてを礼拝しなさい」
「正しい知識とともに、すべてをブラフマンとして見なさい。
ひとたびこれが明らかになれば、すべての疑いは終わる。
そしてあなたは真我の内に引き込まれ、そこにとどまるのである」
質問者
これは一なる真我を実現するための正しい道なのでしょうか?
ある人にとっては、「私は誰か?」という精神的探究を通して精神を超越したものを探し出すよりも、何であれ出会ったものの中にバガヴァーン(神性)を見るという修練のほうがやさしいのではありませんか?
マハルシ
そうです。
すべての中に神を見るとき、あなたは神について考えませんか?
自分の周りのすべてに神を見るには、心に神を抱き続けなければなりません。
神を心に抱き続けることが瞑想(ディヤーナ)となるのです。
瞑想は実現の一段階前の状態です。
実現は真我の中でのみ起こり、瞑想がそれに先行しなければなりません。
神に瞑想しようと真我に瞑想しようと問題ではありません。
行き着く先は同じだからです。
しかし真我を避けることはできません。
あなたはすべてに神を見たいと言います。
しかしあなたの中には見ないのですか?
もしすべてが神であるなら、あなたもそのすべてに含まれるのではないでしょうか?
あなた自身が神であるならば、すべてが神であることが不思議なことでしょうか?
この修練をするとしても、そこには見る者や考える者がいるはずです。
それはいったい誰でしょうか?
質問者
詩や音楽、ジャパ(称名)やバジャン(神への賛歌)、美しい景色を見ることや偉大な聖人の伝記などを読むことを通して、人はときおり真の全的統合の感覚を体験します。
個我の入る余地のまったくない深い至福に満ちた静寂の感覚は、バガヴァーンが「ハートの内に入る」と言われていることと同じものなのでしょうか?
その実践はより深いサマーディへ導き、最終的には実在の完全なるヴィジョンをもたらすのでしょうか?
マハルシ
快いものを見るとき、そこには幸福があります。
それは自己本来の幸福です。
その幸福はあなたと異なったものでもなければ、後になって得られるものでもありません。
喜びで満たされているとき、あなたは純粋な真我の中に沈み込んでいます。
そしてその状態が自己に本来備わった至福を顕わにするのです。
しかしこの至福が起こった原因を他の物事や出来事に結びつけて考えるために、問題は生じてしまいます。
実際には、至福はあなたの内にあります。
心が満たされているとき、無意識ながらもあなたは真我の内に潜り込んでいるのです。
もしあなたが意識的にそうするなら、それが実現です。
私はあなたが意識的に真我であるハートの内に潜り込むことを願っているのです。
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