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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

558避難民のマジレスさん:2020/02/15(土) 00:57:03 ID:kwG.5zBA0
師は再び『ヨーガ・ヴァーシシュタ』第二十章からプンニャとパーヴァナの物語を示した。
その物語の中で、両親の死に直面した兄のプンニャは弟のパーヴァナを慰め、彼を真我実現へと向かわせたのだった。


マハルシ
 創造は神による創造(イーシュヴァラ・スリシュティ)と個人による創造(ジーヴァ・スリシュティ)という二つの側面を持っています。
 二つのうち、宇宙は前者であり、個人と関連するのは後者です。
 前者に関係なく喜びや苦しみを起こすのは後者なのです。


『パンチャダシー』からある物語が語られた。
南インドのある村に二人の若者がいた。
彼らは北インドへ巡礼の旅に出た。
彼らのうちの一人は死んでしまったが、生き残った方は働いていたため、もう数ヶ月収入を得てから村に帰ろうと決心した。
そうしているうち、彼は一人の巡礼者に出会った。
そこで彼は南インドの彼の村に行き、自分自身のことと死んだ友人のことを伝えてもらうよう巡礼者に頼んだのだった。
巡礼者は言われたようにしたが、名前を取り違えてしまった。
その結果、死んだ方の両親は彼の安全を喜び、生きている方の両親は嘆き悲しんだのである。


マハルシ
 ごらんなさい。
 このように喜びと苦しみは事実によるものではなく、精神的観念によるものだということがわかるでしょう。
 その責任(原因)は個人による創造(ジーヴァ・スリシュティ)にあるのです。
 ジーヴァを殺しなさい。
 そうすれば喜びと苦しみは消え去り、精神的な至福が永遠に続くでしょう。
 「ジーヴァを殺す」とは、真我の中にとどまることを意味しているのです。

質問者
 このすべてを聞いても、それは私の理解を超えています。
 どうぞ私に理解できるようお助けださい。

 私はマイソールの滝に行ったことがあります。
 その眺めは心を魅了するものでした。
 水の流れは指の形をして、あたかも岩をつかみ取ろうとしながらもつかみきれぬまま、遥か下まで流れ落ちていきました。
 これは、私には現状にしがみつこうとする個人の状態を表しているように想えました。
 それでも、私はどうしても(移り行くはかない物事に)しがみついてしまうのです。
 私には、私たち人間が季節の花々や果物や木の葉に劣るとは想えません。
 私は花々を愛していますが、それでも(すべてが一過性のものだという)この概念は私の心に訴えないのです。


数分後、彼女は死とそれに関連する問題について尋ねようと思っていたが、やめることにしたと伝えた。
しかしマハルシはちょうど新聞の中の死に関する記事を読んでいるところだった。
そしてその同じ話題は真我実現にまで及んだのである。
その後しばらくして、彼女は牛のラクシュミーを見てからこの地を立ち去った。


*『ヨーガ・ヴァーシシュタ』第二十章からプンニャとパーヴァナの物語…

聖者ディールガ・タパシにはプンニャとパーヴァナという2人の息子がいた。
プンニャはすでに真我を実現していたが、弟パーヴァナはまだその途上にいた。
ある日、父ディールガ・タパシは突然の死を迎え、母もその後を追った。
プンニャは淡々と葬儀を進めたが、パーヴァナは嘆き悲しむばかりだった。
プンニャは弟に、自分たちが過去世で無数の両親を持っていたという真理を説き、しかも無数の過去世でパーヴァナは鹿、ライオン、サル、王子、カラス、象、鳥などとして生きてきたことを伝えて、死を嘆く必要などないことを悟らせたのだった。


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