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現代人が納得できる日蓮教学

729独学徒:2006/05/06(土) 10:00:30

犀角独歩さん、御返事大変遅くなりすみませんでした。
「五人所破抄見聞」が収録されている、富士宗学要集の第4巻に日我「申状見聞(私)」が収録されています。
その「申状見聞(私)」P83に、

『自我偈ト者過去ノ自我偈也過去ノ自我偈ト者文ノ底ノ主師親・人法一個ノ本尊ノ事也、釈尊ト者自受用報身名字本仏ノ事也是レ即高祖ノ御事也』

と御座います。
このような思想は、現在の石山教学で使われるところの、日蓮本仏論とよく似ていると思われますが、いかがでしょうか。
ただし日蓮本仏思想の起源的なものは、やはり日有・日教までは、少なくともさかのぼれるのではないでしょうか。


文殊さん、はじめまして独学徒と申します。
今後ともよろしくお願いいたします。

>確か客殿は万年救護大本尊の板本尊が御安置されていますね。

これは誤解を招く恐れがあると思われますので、僭越ながら補足させていただきますと、まず西山の「客殿」とは、現在の本堂のことだと思いますがよろしいでしょうか?
もしそうであれば、該当の板曼荼羅は「大本尊」ではなく、西山でいうところの万年救護本尊、つまり建治2年2月5日の、御本尊集32-2曼荼羅の彫刻です。
西山では保田妙本寺蔵「万年救護大本尊」のことは、「本地顕発本尊」と称し歴代の貫首が相伝の証として付嘱される「手継ぎ本尊」と解釈しているようです。
また正統な「戒壇の本尊」とも解釈しているようです。
したがって、西山ではこの保田妙本寺蔵「万年救護大本尊」は、正統な日興上人の後継者である、日代上人が相伝すべきもので、西山に所有権があると主張しています。
現在の西山には、保田妙本寺蔵「万年救護大本尊」の彫刻したものがあり、一般公開はされず貫首のみが給仕しているとのことです。(以上は西山本門寺相模原布教所・故小島靖正著『正統血脈え(ママ)の手引き』参照)

730犀角独歩:2006/05/06(土) 11:57:20

独学徒さん

なるほど。その点を根拠とされたわけですね。
日我の『申状見聞』は、天文14(1545)年とされますね。
顕応日教が、日蓮本仏論の著とされるのは、『類聚翰集私』の「末法の本尊は日蓮聖人にて御座す」によるところであろうと思います。同書は、長享2(1488)年の作とされますから、半世紀ばかり先行すると判断されるのではないでしょうか。
もっとも日有も『化儀抄』に「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」というわけでした。こちらは文明15(1483)年となるわけですね。

西山の万年救護本尊のご説明、たいへんに明快であろうかと存じます。
この「万年救護」という点については、以前にもやや愚考したことがありました。元来「万年救護」とは、弟子に対する用語用法でしたが、それがいつからからか、本尊を指すようになりました。そして、保田の第16大本尊も万年救護と言われ、北山の日禅授与漫荼羅も、ここでは万年救護本尊と呼ばれていますね。

つまり、それぞれの寺院で、恰も「我こそは」という感じで、いつから本尊の優勢の誇る呼称である「万年救護」をもって尊称するようになった経緯があるわけですね。そのうちに、西山の本尊も入ると言うことですね。

また、万年救護と並び言われる尊称が「戒壇本尊」ということで、北山では、かつて日禅授与漫荼羅を万年救護・戒壇本尊(大石寺誑惑顕本書)と称していたことが知られます。

石山では、いまは講堂に第16本尊の模刻(万年救護)があり、日精の時代には御影道に戒壇本尊があったわけです。要は、時代のなかで、万年救護本尊と戒壇本尊が、富士門下のステータスになった、それ故、それを捏造していったという歴史劇があったのであろうと、わたしは考えています。

731犀角独歩:2006/05/06(土) 12:10:34

いつもながら、打ち間違えました。

【730の訂正】

誤)それがいつかららか
正)それがいつからか

誤)いつから本尊の優勢の誇る
正)いつからか本尊の優勢の誇る

732犀角独歩:2006/05/06(土) 12:12:08

もう一箇所

誤)御影道
正)御影堂

733独学徒:2006/05/06(土) 15:23:46

犀角独歩さん、こんにちは。

まさに仰せの通りですね。日有・日教あっての日我の日蓮本仏論だと思います。
特に日我は日有の「人法一箇(個)」という成句を、諸抄の中で多用していますので、保田教学は日有・日教の教学に大いに影響を受けたものと思われます。
もう一つ日我の諸抄に散見されるのは、こちらも既にご指摘にあるとおりの慶林坊日隆の教学で、「蟇蛇異見抄」などは「日隆仰云」(二番目以降の問いは「仰云」と略している)という問いかけによる問答形式ですので、日隆の本迹勝劣義をベースに展開されています。
また日教・日要からの影響としては「本因妙抄」や「百六箇抄」等の引用があげられると思います。
本仏を以って本尊とすることが宗祖日蓮の御意ならば、仏像を廃し曼荼羅を本尊にすえるためには、「日蓮本仏」「人法一箇」は曼荼羅本尊義を理論付ける上で、まことに都合の良いものであったと考えられます。
また歳月を経るごとに、仏師という職人が作成する「仏像」よりも、宗祖直筆曼荼羅の方を重宝するのは、通俗的には自然なことだと思います。
しかし当の宗祖の遺文では、曼荼羅を持って本尊とすることは理論構築は難しい、そんなときに「口決相伝書」という、宗祖の直筆を必要としない秘伝の言い伝えがあれば、まさに渡りに船であったろうと思います。

734文殊:2006/05/06(土) 18:56:43
犀角独歩さん、存外伝統と呼ばれるものは近代成立ということ
ですね。幕末の久遠院日騰、明治の大石日応は富士四山との確
執と独立騒動の過程で、大石寺の「伝統」を強調する必要に迫
られていったのでしょう。大正期の福重照平『日蓮本仏論』、
昭和前期の堀日亨『富士宗学要集』に見る「伝統の再発見」は
大石寺正統を証明しようとしたのでしょう。21世紀になった
今では色褪せてしまいました。犀角独歩さん、『忘持経事』の
ご説示ありがとうございました。まさに内心の迷蒙が啓かれた
思いです。新しい大きな発見です。

独学徒さん、西山本門寺の御本尊の件ご説示ありがとうござい
ます。私はかなり以前に本に書いてあった記述を誤認識してい
ました。仰せの通りです。それにしても、貫首が未公開で給仕
しているとは徹底した秘伝主義の山風ですね。本来の所有権を
郷門保田と争っているということは、保田の万年救護本尊を戒
壇の本尊と究極の帰依の対象にしているということになります。
昭和57年の日蓮正宗離脱から今日に至るまで日蓮本仏論は堅
持している、薄墨袈裟はそのままなのでしょうか。ご観念文は
変更されているのでしょうか。戦後本門宗解体後の西山本門寺
の歴史についてご教示お願いします。

顕正居士さん、岩本実相寺は関東天台の系譜でしょうか。富士
山信仰の習合と独自色が当時からあったのでしょうか。三位日
順に日蓮本仏論の思想があると証明されれば日有から一気に遡
りますね。どうなのでしょう。

735顕正居士:2006/05/06(土) 22:05:50
岩本実相寺は安房清澄寺と同じ横川流です。富士修験の祖、末代上人は初代智印法印の資であると
『実相寺衆徒愁状』にあります。
宗祖本仏論は >>727 に述べたように、『諫暁八幡抄』の思想に日源(智海法印)、日興などが実相寺
の信仰を習合したのが、起源だろうとおもいます。しかし大日如来の住所が富士山である、本仏の本土
が日本国であるというのは飛躍がある。大日如来の住所は色究竟天金剛法界宮のはずである。だから
これは大日天照一体の上でいうのである。次に富士山の祭神は浅間大神でないかという疑問が生じる。
この間の事情はいくらか複雑である。

千時千一夜・275番・富士山の地主神 http://otd3.jbbs.livedoor.jp/246945/bbs_plain?base=276&range=30
本地垂迹資料便覧・富士山本宮浅間大社 http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/honji/files/FUJI.html

浅間大神、すなわち木花之開耶姫は天照大神の幸魂(さきみたま)で、赫夜姫、弁財天女と同一視される。
弘安3年の上野殿母尼御前御返事(真蹟存在)に
「此の経を持つ人をば、いかでか天照太神八幡大菩薩富士千眼大菩薩すてさせ給ふべきとたのもしき事也」
とある。八幡抄の述作も同年であり、日源、日興の思想的影響は日蓮自身にも及んだのではなかろうか。
また『表白』の「原始宗祖本仏論」は、日郷門徒に継承され、発達したようにおもわれます。参考 >>527 。

736文殊:2006/05/07(日) 08:47:56
顕正居士さん、重要なご教示ありがとうございました。
日源は叡山時代の日蓮の同学。日興は弘安期には近く
の熱原地方の弘通に。浅間神社の神主も日蓮教団に入
っていた。曼荼羅本尊も授与されています。日源日興
の思想的影響が日蓮自身に及んでいるとの洞察は、大
発見ですね。『表白』に見る原始宗祖本仏論が三位
日順筆が証明されれば、1318年に宗祖本仏論の
濫觴を遡ることができます。台密と富士修験道と日蓮
遺文との関わりは今後究明がいっそう必要であると思
いました。『産湯相承事』は日興筆ですか。

737犀角独歩:2006/05/07(日) 12:28:29

『表白』が果たして、日順の作であるかどうかという点は、まだ一考を要しようかと存じます。

理由は1318年、すなわち文保2年の前年に日順は重須学頭になったばかりであり、表白を記したという年は日興が問答講を始めた年に当たります。

つまり、1318年に日順が宗祖本仏論を濫觴としていたとすれば、健在の日興とは隔壁のある論をここに立て始めていたことになります。任じた日興に宗祖本仏観がなかったのにも拘わらず、日順はそれを表することがあり得るかという疑問があります。

また、表白は大師講のものであると思えますが、しかし、健在な日興を差し置いて、また、学頭というのは学問所の長に過ぎないわけですから、坊主(ぼうぬし)を差し置いて、北山所住の日順を表白を為すことにも疑問の余地があります。

また、仮にこの書を、日順真筆としても、これをただちに日蓮本仏論とつなげるのには、即断とも思えます。それは日興との兼ね合いからもそのように考えるということです。ただし、その他の顕正居士さんのご賢察は、その限りではありません。

日順の富士の伝記と係る著述といわれるところは、実に不審なところが多く、直ちに信頼できません。延元元(1336)年、「両眼を失明したが、その後も精力的に著述に励み」(日蓮宗事典)などとされますが、実質上、そのようなことは不可能でしょう。

また、日順は、正平9(1354)年の寂とされますが、『富士年表』では、それを認めず、その翌年に観開両抄を講じ、さらに同見聞を述し、同10年に『念真摧破抄』を遺したことになっています。これら、日順史跡の判断は到底、信頼できるものとは言えません。日順の若年が間違っているのか、著述の特定が間違っているのか、まだ、落着にはほど遠いところがあると存じます。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/nitijun_nenpyo.htm

738犀角独歩:2006/05/07(日) 12:34:37

【737の訂正】

誤)日順の若年
正)日順の寂年

739独学徒:2006/05/07(日) 16:27:47

文殊さん、こんにちは。
西山の袈裟は薄墨です。御観念文はほとんど大石寺と変わらないと思います。
但し、西山の僧侶の中には、現在の勤行様式に疑問をなげかけている方もおられますので、この先どうなるかは分かりません。
西山本門寺の戦後史は、私はほとんど知りません。この辺は犀角独歩さんが良くご存知だと記憶しています。掲示板ではあまり触れられていませんが、オフ会などでお会いする機会があれば、お聞きしてみたらいかがでしょうか。


犀角独歩さん、私も日順には疑問だらけです。
これほど後の富士門下に重宝される講釈を残したのなら、新六などに加わってもいいはずで、日興在世と日興滅直後における日順の処遇は、現在伝わる日順伝とはどうも一致しないように思われます。
あくまでも推測の域をでませんが、西山と北山の正嫡争いの中で、担ぎ上げられただけではないかなどと思いたくなります。

740れん:2006/05/07(日) 16:55:48
横レス失礼いたします。                        
表白の「本仏」の語ですが、それを日蓮本仏に繋げて考えるのには、私も
懐疑的です。執行海秀師の「興門教学の研究」には「霊山の釈尊をシャク
仏と見ているが、本朝の本仏が直ちに日蓮本仏を表明するものか否かは明
らかではない。久遠の本仏を本尊として戒壇を建立せんとする意が窺われ
る」と記しており、執行師の戒壇云々はともかく、表白の「本仏」の語については
石山蔵の真蹟遺文「宝軽法重事」に「法花経の寿量品の釈迦仏の形像」と
記されているように、また、執行師の言われる如く、寿量品の釈迦仏すなわち久遠実成の本仏釈尊を指し
示している可能性が高い様に思います。個人的な見解としては、日蓮本仏観は、石
山日有が御影本尊を明確に主張してから発達した教義だと愚考しております。

741犀角独歩:2006/05/07(日) 19:16:23

独学徒さん、れんさん

顕正居士さんの表白に関するご投稿は、あくまで、日順作であれば、ということで、わたしはやや過敏に記しすぎているかもしれません。

むしろ、富士・浅間、神道、女神といった側面の、富士方の影響に関するご賢察を拝したいと考えております。

742顕正居士:2006/05/07(日) 22:16:09
>>736
『産湯相承事』が日興の述作なら、真書が伝承されているでしょう。日興等の口伝として後世、日郷門徒が
記したものでありましょう。『本因妙口決』に「産湯の口决」とあるが、『本因妙抄』が日順の時代に成立した
ことは考えにくい、『三大章疏七面七重口決』自体が成立していたかどうかも疑問です。『産湯相承事』は
十分に完成した「日蓮神話」であり、こうした完成した神話がまとまるのにはかなり時間がかかるものです。
しかし『産湯相承事』には富士派宗学の主要な要素が揃っています。それら諸要素は興師の時代に遡るの
があるでしょう。日蓮迄、遡るのもあり得るでしょう。日蓮以後、日蓮宗諸派の僧侶はほぼ例外なく日号を
名乗ります。したがって日文字に関する口伝などは当然、何かあったと考えられます。

743独学徒:2006/05/07(日) 22:54:44

>742

顕正居士さん、「産湯相承事」について、興風談所は御書システムの解題によりますと、出雲の日尊門流による創作と考えているようです。
日教本では欠落している出雲の日御碕の記述が、興風談所の判断の材料となっているようですが、顕正居士さんが「産湯相承事」を日郷門徒による創作とされるのは、どのようなところからでしょうか。
御教示を戴けますと幸です。

744文殊:2006/05/07(日) 22:57:58
独学徒さん、富士五山は離反と反目の歴史でありましたが、現在に
至るまで薄墨を守っているということは何か不思議な感じがします。
御観念文が大石寺とほとんど変わっていないことにも驚きました。
宗祖本仏論といい、未だに石山教学の影響が強いのでしょうか。
しかし、勤行様式を見直す動きは今後は独自色を強めていく方向性
なのでしょうか。戦後の富士門史は圧倒的に石山圏が主導でした。
北山の片山日幹貫首が1960年代に日蓮宗宗務総長に就任した
ことでしょうか石山圏以外の富士門事跡が。石山圏だけでは寂しい
ものがあります。是非とも富士四山の戦後史と現在を知りたいと
考えています。

顕正居士さん、『産湯相承事』のご教示感謝に堪えません。後世
日郷門徒が日興の口伝に化託して作られたということ、完成した
神話がまとまるまで時間がかかるということ、しかし、富士宗学
の主要な要素が揃っていることなど、勉強になりました。あとも
うひとつ質問ですが、『五人所破抄』(1328)は現在論議されてい
る三位日順の著述とみなしていいのでしょうか。ぜひともご教示
をお願いします。

「十羅刹と天照太神と釈尊と日蓮とは一体の異名本地垂迹の利益
広大なり」郷門教学が石山日時、日有に思想的影響を及ぼして
宗祖本仏論の理論的完成に至ったと解していいのでしょうか。

745犀角独歩:2006/05/08(月) 00:38:56

文殊さんの疑問は時系列がまるで二次元的ですね。
五人所破抄は日代草案というのが、取り敢えず、大崎の定説になっているわけで、それと本尊相伝、近代の西山の在り方など、時系列として、何ら同列に論じるところがありません。まるで、質問の発し方が支離滅裂と映じます。

なお、西山に関しては、七百遠忌の頃は石山に帰伏せざるを理由があり、かつ、いまでは、西山の血脈を受けたなどと僭称するおかしな人物がいたり、それがまた、大崎学派の重鎮との交友があったり、まったくどうでもいいような下世話な攪乱で、日蓮門下の判断をくたしていることは溜息が出る思いがあります。

この手の、事情を阿棚は知ってか・知らないかで、この掲示板を攪乱することが目的なのでしょうか。自粛願いたいものです。

だいたい、産湯相承が日興の直筆であるわけなどあろうはずもありません。
真面目に投稿しているとも思えません。

746犀角独歩:2006/05/08(月) 00:40:20

【745の訂正】

誤)阿棚は
正)あなたは

747犀角独歩:2006/05/08(月) 00:51:04

なお、日隆の影響を取り沙汰される日有が日蓮本仏の理論的完成者であるはずもありません。

748顕正居士:2006/05/08(月) 01:51:46
>>743
口伝書は通常は創作ではなく、切紙を収集し編纂したものです。日教の引用に日御崎説がないことからも、
もとが幾つかの切紙であることが想像されます。尊門の口伝は台宗の最新教義を日蓮的にアレンジするの
が特徴です。対して宗祖日蓮に対する神学的思索が郷門の特色に思えます。日御崎説の部分についても、
だから出雲の日尊門流の口伝というのは、今すこし説明が要められるでしょう。
>>744
日順の学問は一つレベルが高く、文章は語彙が豊富です。『五人所破抄』や『表白』は日順の文章にみえる。
ただし五一相対の史実を確認することがほとんどできないのは、たいへん不思議です。

「聲聞中佛能王生、諸佛復從菩薩生、大悲心與無二慧、菩提心是佛子因」
(聲聞ノ中ニ佛ハ能王トシテ生ジ、諸佛ハ復タ菩薩從リ生ズ、大悲心ト無二慧ト、菩提心ト是レ佛子ノ因ナリ)
と月称(Candrakīrti)造『入中論』(現代漢訳)にいうように、大乗教は菩薩教ですから、
「一切衆生ニ最初下種ヲナサルル時ハ本因妙ナリ、菩薩形ナリ。コノ菩薩ハ脱仏ノ弟子ニアラズ、受報トハ
本因妙ノ本仏ノ異名ナリ」(大夫日我・蟇蛇異見抄) *受報-自受用報身
という思想は規格に反しません。しかし信仰対象の尊格は等覚の菩薩であった。信仰対象を名字初心菩薩
とするのは日本仏教の中でも日蓮宗富士派一部の特色です。『諫暁八幡抄』には八幡勝釈迦の思想がある。
富士派独特の本因妙思想は裏側に神本仏迹思想があって成立したものと考えます。
郷門の思想と尊門の思想を折衷統合したのは堅樹日寛です。日時、日有は時代が違います。

749犀角独歩:2006/05/08(月) 07:39:44


一応、議論の参考として、以下、資料として挙げます。

【五人所破抄】日代筆の正本が北山本門寺に所蔵されている。本書は白蓮阿闍梨日興の作に仮托されているが、西山本門寺の事実上の開山である蔵人阿闍梨日代の作である。『日蓮宗宗学全書』第二巻八六頁の本抄末尾には「嘉暦三戊辰年七月草案 日順」とあるが、八七頁に〔編者云〕として註されているように、この一行は墨色筆記ともに日代の直筆ではなく、後人が加筆したこと明らかである。あるいは日順が草案を製作したものかとも推察され、なお富士門流内においても『家中抄』では『五人所破抄』を草案とし、『門徒存知事』を完本といい、最近の所説では逆に『門徒存知事』を『五人所破抄』の草案とする説(『大白蓮華』)などがあって、その成立については幾多の疑念が見られる。(日蓮宗事典)

「日有のかかる思想は、両巻血脈書の思想とは異なるものであって、寧ろ尼崎本
興寺の八品日隆の思想に負うものである。思うに日有は、八品日隆と親交があったので、恐らく日隆教学の影響を受けて石山数学を樹立せんとしたものであろう。
 かように考察し来れば、大石寺に於ては、江戸中葉、堅樹日寛上人に依って、両巻血脈書を根幹とする教学が大成せられるまでは、石山特有の教学は樹立せられていなかったといわざるを得ない。そして寧ろ室町時代に於ける両巻血脈書を根幹とする教学は、尊門の住本寺系日教によって確立せられているのである。
 日教は日有と同時代の人で初め京都住本寺に負笈し、百五十箇条を著わして不造不読、宗祖本仏論を主張した。住本寺に容れられずして退出し、文明十三・四年の頃、大石寺の日有に帰したが、これまた容れられずして、遂に重須に転じたと伝えられている。ところでこの日教の教学こそ、後の日寛教学の基本を為しているものであるとも見られるのである。
 日教の著、百五十箇条、穆作抄、五段荒量、六人立義確立抄私記等は、明らかに両巻血脈書、産湯相承二箇相承を根幹として作成したものであることは、その内容によっても知られるのである。(『創価学会批判』創価学会の学説の基礎的批判 P111)

750犀角独歩:2006/05/08(月) 08:10:05

当スレは「現代人が納得できる日蓮教学」というテーマで、議論をしてきました。ここで、真蹟主義、また、厳正な文献重視が行われるのは、そのような資料に基づかない議論は、文字通り、現代人が納得できる日蓮教学ではないからです。

わたしは嘆息を禁じ得ないのは、当テーマは、けっして、現代人が納得できる日蓮本仏論ではないということです。

日蓮本仏論は、現時点における学説的な結論としては、日教の影響を以て、祖滅200年頃に濫觴を見るとというの一般的です。
祖滅とは弘安5(1282)年です。もし、仮に『表白』が日順によるものであるとし、その作が文保2(1318)年であるとすれば、36年後のことです。これは半世紀前の『五人所破抄見聞』を妙蓮寺日眼とする従来の説から求められた祖滅99年説より、さらに60年以上も遡ることになります。この主張をなす説は、わたしは不勉強にして、顕正居士さんのご投稿以外では知りません。

万が一、これが正鵠を射たものであったとしても、それでも、日蓮本仏論は、日蓮が寂したのちの説であることに何ら変わりはありません。つまり、日蓮その人の主張ではないということです。また、これは『開目抄』の一伝播である「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」を根拠とする日蓮本仏論とは、文殊さんの好む語彙を用いて言えば、まさに径庭があります。

なお、日寛の説を執行師は日教の影響としますが、顕正居士さんが「郷門の思想と尊門の思想を折衷統合した」とされることに、わたしは賛意を覚えます。やや、付言すれば、では、言うところの郷門を日我を膾炙とすれば、それは先に独学徒さんが仰ったように、今度は、日教、日有の影響と思われる如くもあります。

日寛(1665-726)に至る、富士門各山には、当然、通用があり、どこがどこに影響を与えたというより、「この点については、ここから興り、しかし、こちらの点は就いては、多のここから興った」という複数発生であると共に、さらに相互に影響を及ぼしあっているうえ、禅門、隆門、また仙波檀林等、他門からの影響も相俟っているので、この点を一筋縄で述べてしまう単純化は、事実から乖離するものであると思えます。

751文殊:2006/05/09(火) 12:02:29
犀角独歩さん、西山のことは独学徒さんに宛てたものです。私は、一切
護教論は挟んでいませんのでご海容を賜りたく存じます。
顕正居士さん、郷門教学の特色が神学的思索とは哲学的に刺激に満ちて
いますね。房山日我が「秘伝には産湯相承等是也」(富要四ー八六)と
郷門が重視しています。

752独学徒:2006/05/09(火) 20:00:32

文殊さん、犀角独歩さん、私の投稿に不適切な箇所があったようです。
申し訳御座いませんでした。

文殊さん、私は虫干で西山に訪れたことがあるくらいで、あとは一部の著作からの情報しか持ち合わせておらず、西山が一時日蓮正宗に所属していたことも、ここの掲示板の投稿を拝見し知ったことです。
そのような事情から、文殊さんのご質問におこたえできる知識を持ち合わせておらず、特に西山の戦後史的なことは犀角独歩さんのうほうがご存知であったと記憶しており、しかし、掲示板上ではあまり多くは語られませんので、オフ会等でお会いする機会があれば、たずねてみてはどうかと思った次第です。
ご期待に沿えず、また混乱をまねくような投稿となり、大変申し訳ありませんでした。

753文殊:2006/05/09(火) 23:01:35
独学徒さん、お気になされないでください。私の不勉強によるもの
です。富士五山は離合集散の歴史といってよいでしょう。感情的な
対立も根深いものがあるでしょう。この掲示板では純正日蓮遺文を
思想的基盤にしていますから、富士本因妙の法門の探究は馴染まな
いかもしれません。富士五山の歴史や本覚思想の影響を受けている
尊門教学、郷門教学、石山教学の研究は独学徒さんの掲示板の方が
適切かと存じます。その節は宜しくお願い致します。

754独学徒:2006/05/09(火) 23:44:49

文殊さん、今晩は。
私の掲示板は、自分で言うのもなんですが、ほとんど連絡用となりつつあります。
ほとんど人の出入りが御座いませんので、お越しいただく際には、この点をご了承下さいませ。


顕正居士さん、御教示ありがとう御座います。
郷門の神学思想は、薩摩阿闍梨日叡の影響が大きいと思っていましたが、郷師にもそのような思想があったのでしょうか?
郷師は学法の師は目師で、目師は宗祖から直に学法伝授を受けたというのが、大石寺に蔵するという日郷直筆の系譜であったと存じます。
日郷直筆系譜によれば、目師にとって興尊は受法の師であって、学法の師ではないことになります。
尊門の出雲弘通では、やはり本覚法印日大ですが、日伊門ならぬ日大門より本因・百六箇が出たとするのが、興風談所の見解であると思います。
御書システムの本因妙抄の解題では、静岡県光長寺に蔵する「秘蔵抄」(本因・百六箇・産湯・本尊相伝の合本)に、日叶の識語とともに日叶が出雲安養寺にて、先師日耀から相伝を受けた事が記されているとなっています。
産湯記に関しては、同解題にて日教→日向郷門という伝承を推考しています。
私には、この興風談所の考え以外に、参考となる情報が無いので、産湯=尊門という発想に走りました。
上代郷門の神学思想の影響を知るには、どのような文献が御座いますでしょうか。
この点も、ご教示を戴けますと幸です。

755顕正居士:2006/05/10(水) 03:59:57
>>754
日郷には著述がなく、文献は日叡からとおもいます。日目にも著述がありませんが、三箇の秘法は蓮・目・興と
次第した伝説がある(穆作抄)。尊門、道門、郷門とも日目から分流し、それぞれ独自の興門教学を形成した。
また日目は千眼大菩薩を信仰する伊豆走湯山の修験出身である。日朗耳引法門の伝説は無視はできません。

御書システムの説は『桐』のお試し版で見たことがありますが、詳しく覚えておりません。ちょっと判らないのは、
なぜ出雲の尊門流で編纂されたのに、天照大神最初垂迹日御崎説がそれにないのでしょうか?

三河日要は左京日教とほぼ同時代の人で、宗祖本仏、久遠元初自受用身、御影本尊などを唱えていますから、
日要の著述とおもいます。

>>753
文殊さん。ここは『富士門流信徒の掲示板』ですから、日興門流の教義や歴史について語る場所であります。
しかし、でありますからこそ、以下を区別することが必要とおもいます。
1 日蓮の教義と後継者の教義 2 門流諸山の異義 3 大石寺単立以前と以後 4 伝統教義と新興教団
福重照平『日蓮本仏論』、松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』にも述べられているように、大石寺単立以後は
釈尊宗祖一体論が日蓮勝釈迦論に変質しています。創価学会以後は釈尊無益論に単純化し、今は創価学会
の教義が日蓮正宗に輸入されています。富士派の教義に疎い僧侶は新興教団の人と同じに理解してしまう。
また宗祖本仏論は富士派特有ではなく、玉沢流にもある。富士派の特色は第一に富士霊山思想であります。

756犀角独歩:2006/05/10(水) 05:19:51

独学徒さん

特にご投稿が、混乱を来したということはありません。
仰るとおりで、西山に就き、何処に就き、投稿で書けることとと書けないことがあります。


文殊さん

> 石山教学の研究は独学徒さんの掲示板の方が適切

別にそのようなことはありません。
石山教学の研究については、当掲示板でも十分に為されていますし、また、当掲示板の適切なテーマでもあります。このような決めつけは、議論自体を狭めますので、やめるべきでしょう。


顕正居士さん

755の整理は簡潔にして適宜であると拝しました。ただ一点、

> 富士派の特色は第一に富士霊山思想

に付加し、深刻なのは咒物、所謂「本門戒壇の大御本尊」信仰であり、この点を特色に数えるべきであると思います。

757文殊:2006/05/10(水) 06:22:50
犀角独歩さん、別段決め付けているわけではありません。
また、当掲示板では石山圏の出自ではなく、護教論をまじえず、
一個人として論議講会に参加しているので誤解無きようお願い
致します。行学日朝、慶林日隆、堅樹日寛の三大宗学者は当時
の関東天台の諸文献を批判的な視点からも日蓮宗学に摂属して
いる古典宗学と、犀角独歩さん、一字三礼さんがご研究されて
いる法華経梵文と純正日蓮遺文原典研究と理論的視角が別異で
あると思いましたので、前者の論議を独学徒さんの掲示板に移
そうと考えた次第でございます。

758顕正居士:2006/05/10(水) 06:42:43
>>756
「戒壇本尊」の信仰は大石寺だけです。本因妙は八品派と共通です。しかし重須、要山は本因下種の法体を
本果の妙法とするのが違う。結局、興門共通の特色は富士霊山思想になります。

大石寺の特色は日寛以後、「戒壇本尊」。それと仏立宗と同じ「現証利益」。妙法五字は現世利益の呪文で
あるとする。しかし呪文であるならば、門派など問わない。だからそれぞれ、「要法本尊」、「戒壇本尊」のみに
利益がある、宗祖の曼荼羅は雑乱勧請あるいは未究竟であるという。創価学会で100%、そうなりますが、
大石寺単立以後は、どんどんそういう方向に進んでいったように思います。

759犀角独歩:2006/05/10(水) 08:15:01

文殊さん

別段、何も誤解などしておりませんし、あなたを石山並びに信徒の代表であるとも思っていません。単に彫刻の真偽を言えない個人であると判断しているばかりです。

松山師に係る梵本学習は『法華経について』スレで行っていることであり、ここは『現代人が納得できる日蓮教学』がテーマです。テーマごとに分かっていることを当スレッドでとやかく言うことは筋違いでしょう。


顕正居士さん

755のご投稿で「富士派」と記されています。
富士派とは『富士年表』によれば

1900 明治33 9.18 大石寺分離独立認可、日蓮宗富士派と公称(院77)

とあるとおり、大石寺を指す名称ですから、彫刻信仰を付加されると記したのです。しかしながら、先のご記述が、八本山等、富士門下を指す意味でお使いになったのであれば、仰るとおりでしょう。

760文殊:2006/05/10(水) 21:59:03
犀角独歩さん、言葉遣いに気をつけた方がいいです。
節度を持って議論していきましょう。他スレッドに介入するつもりは
ございません。ただ、研究のアプローチが文献主義だからです。
自らの名誉を声高にふりかざす貴殿の態度はいかがなものでしょうか。

顕正居士さん、ご助言感謝に堪えません。彫刻師日法伝説の玉沢妙法華
寺が宗祖本仏論とは迂闊にもはじめて知りました。勉強し直します。

761犀角独歩:2006/05/10(水) 22:35:28

文殊さん

何を言っているのさっぱりわかりません。

> 言葉遣いに気をつけた方がいい…他スレッドに介入するつもりはございません…自らの名誉を声高にふりかざす貴殿の態度はいかがなものでしょうか。

他のスレッドに介入する気はないといいながら、「名誉」云々は、他のスレッドに係ることになっていませんか。

そもそも、あなたは、過去のこちらの質問に答えず、管理者さんの警告を無視して、また、議論をつづけています。そのあなたこそ、態度を改めるべきでしょう。

名誉云々というのは、つぶやきスレッドにおけるわたしの発言についでしょうか。
ならば、あなたにお尋ねしますが、「大謗法者」「魑魅魍魎」「学会くずれ」という暴言が名誉毀損に当たることを警告し、そのうえで、自らの名誉を護ることの何がいけないのでしょうか。あなたは、斯かる顕正会、浅井さんの暴挙を擁護するというわけですか。

762犀角独歩:2006/05/10(水) 22:54:57

管理者さん

761における文授さんの「言葉遣いに気を付けろ」という高飛車な態度をわたしは是としません。このような態度こそ、また、名誉を傷つけるものです。名誉とは人権の異名といってもよいでしょう。斯かる文殊さんの態度は、人を見下した実に無礼な態度といえるでしょう。

わたしは、自らの人権、また、名誉を自分の権利として、これを自ら護ります。
人権を擁護すること、これは信教の自由と共に現代人が納得する日蓮教学の要件であるともわたしは信じます。

これを妨げる行為をここに人権侵害であると判断し、文殊さんを批判いたします。

また、文殊さんは、過去に2度、質問に答えるよう、答えないような議論の仕方であれば、入場禁止をするという警告を受けていながら、4月30日の「『新田殿御書』に重大な日蓮の示唆があるというのであれば、具体的にその理由をここに記し、問うことが議論の在り方です」という、わたしの警告を無視して本日に至ります。すなわち、質問に対して答えるという管理者さんの警告を3度までも無視しています。

以上の2点に就き、管理者さんのご意見を拝聴いたしたいとお願い申し上げます。

763独学徒:2006/05/10(水) 22:57:49

>756
犀角独歩さん、恐れ入ります。

>755
顕正居士さん、興風談所は日教が大石寺に帰属後に表した著作では、日御崎に関する記述が省かれていることから尊門から大石寺門徒となったことで、日御崎に関する記述が大石寺門徒の思想にそぐわないとして削ったのではないかとしています。
該当文献名が出てきませんが、確か興風談所は、日要の日蓮本仏思想には隆門と(伝)日順、そして日有の思想的影響があると分析しているようです。日要の著作には、本因・百六箇の引用があることから、この郷門への本因・百六箇の移入は日教→郷門と考えているようです。

764管理者:2006/05/11(木) 06:00:54

犀角独歩さん

文殊さん

既に、当スレッド700レスにおいて、文殊さんはには、当掲示板から退去されるように申し上げています。704レスにおいて、猶予措置として、暫く、その後の進展を見守ると、管理者は述べました。犀角独歩さんのご指摘の通り、今回、人権侵害発言、並びに、新田殿御書に関して応答しない、という二つの瑕疵によって、文殊さんの書き込みを容認することを、看過できない水準に達したと考えます。

文殊さんの書き込みを今後禁止したします。

765犀角独歩:2006/05/11(木) 10:48:15

管理者さん

ご措置、有り難うございます。

書き込み禁止という点に就き、何故、このような措置に至ることになったのか、その過程を再考され、已後の糧とされることを願います。

繰り返しになりますが、『現代人が納得できる日蓮教学』、21世紀の日蓮、また、未来に伝えなければならない日蓮は、「事実の日蓮像」であるという信念をわたしは有します。過去の経緯、自己信念体系とその集団の執着から虚偽を未来に継承することは絶対にあってはならない、そのための、当スレッドの議論であるという点を、再度、踏まえて、管理者さんの許、さらに建設的な議論ができることを念願します。

766臨時:2006/05/11(木) 14:41:19
>未来に伝えなければならない日蓮は、「事実の日蓮像」であるという信念
をわたしは有します。

との事ですが、「事実の日蓮像」とは如何なる者でしょうか?このサイトでは
真筆主義をつらぬかれているようですが、多くの真筆が焼失したとされている
中で、その焼失した御書の中に重要な文々区々があったであろうことが想像さ
れます。

中でも禄内御書と言われるものの中には限りなく真筆と認められている御書も
少なくありません。それらの御書を真筆無きゆえに外してしまっては、真実の
日蓮像には迫りえないのではないでしょうか?

767管理者:2006/05/11(木) 14:52:24

臨時さん

お尋ねいたしますが、あなたは、当掲示板において、書き込み禁止となった方ではないでしょうか。内容から見て、そのように感じましたので、お聞きいたします。そうであるのか、そうでないのか、お答え戴けますでしょうか。よろしくお願いいたします。

768臨時:2006/05/11(木) 15:43:57
管理人さん

>当掲示板において、書き込み禁止となった方ではないでしょうか

との事ですが、書き込み禁止にはなっていません。

ついでに766の間違いを訂正しておきます。

訂正。。。文々区々_____文々句々

769管理者:2006/05/11(木) 16:19:13

臨時さん

了解いたしました。

ご参加を歓迎いたします。今後とも宜しくお願い申し上げます。

770顕正居士:2006/05/11(木) 17:03:21
>>763
御教示、有難うございます。日要が日順、日隆、日有の影響下にあるのは当然として、ここでも日教が出て来る
のですか。日要、日我の全集を興風談所で刊行してくれるとよいですね。
>>766
真蹟の有無ではなく、問題は真書か否かですね。直弟などの写本が幾つかあって、内容が一致している場合は
加筆もないと考えられるから、全体を真書と扱えるでしょう。むろん、そういう由緒がなくても、写本遺文の多くは
真書でしょうし、逆に真蹟(とされる)遺文の一二は偽書かも知れません。

771犀角独歩:2006/05/11(木) 21:36:09

臨時さん

> 「事実の日蓮像」とは如何なる者でしょうか?

それを探っているということです。

> 焼失した御書の中に重要な文々区々があったであろうことが想像されます。

そうですね。想像することはできます。
一方、真蹟遺文は想像ではなく、事実です。

> 禄内御書と言われるものの中には限りなく真筆と認められている御書

認められているというのは、現時点では、暫定的措置であって、事実であるということではないでしょう。
また、禄内は日蓮滅後100年ごろ、まとめられたものです。

お尋ねしますが、あなたは今から100年前の文書、それも、それが複製でも、その内容を信頼しますか。わたしは、疑ってかかります。しかし、それが信頼するに足りるかどうかは、真書に比して、はるかに実証困難ではないでしょうか。日蓮の遺文に置いても同様であるというだけです。

> 真筆無きゆえに外してしまっては、真実の日蓮像には迫りえない

逆も真でしょう。真筆ではない御書を混ぜてしまっては、真実の日蓮像に迫れません。この選択の際、確実な資料を優先して、それを基礎とすることはなんら批判されることではありません。しかし、その逆は、証拠性を有しないわけですから、採用にはそれなりの補助的な資料が必要となるということです。

772犀角独歩:2006/05/11(木) 22:59:57

771を、もう少し補足しておきます。

真跡として認められている遺文を日蓮のものとして、採用することは、取り敢えず、可であるとというのが、真跡主義ということであろうと思います。しかし、これら真跡も、数葉に切り分けられているものを集成して、真跡とする場合もあるわけですから、今後、現段階のスケールが変更されることはあり得るでしょう。

曽存に関しては、真跡遺文に準じながら、しかし、多くの問題を孕んでいます。

なお、真跡が存在しない遺文を採用しないということではありません。
これを採用するのであれば、確実に日蓮の真筆である証拠を添付する義務が生じるという条件付きであるということです。

わたしは、この能力がありませんから、現段階で真跡遺文として確認されているものを採用して、議論をしているということです。

先の写本に関しては、その判断はまちまちです。ですから、未決着の書を真筆であると主張する場合、その主張者に、その根拠を求めて、納得がいけば、その写本に基づく投稿の議論に乗りますが、納得できない場合は、議論以前の問題ですから、徹底して、真偽考証という、議論に入る前段階で、その確認作業を行います。

この確認作業を無視し、写本を直ちに真筆の如く扱う投稿に関しては、断固、遺憾の意を表し、その真筆なる証拠を求めると共に、その証拠を提示せず、投稿を強行しようとする者とは、断固、戦い、その主張を斥けます。

以上の態度に基づいて、わたしは投稿してきましたし、今後もそのようにいたす所存です。なお、このわたしの態度は、当掲示板における在り方にも基づくという認識に拠ります。

もし、この認識が間違っているのであれば、管理者さんにはよろしく訓戒を垂れていただきたく、お願い申し上げておきます。

773独学徒:2006/05/12(金) 23:25:13

>770
顕正居士さん、日要・日我の著作は一部分なら興風叢書として発刊されていますが、全集といったものがあってもいいですね。
しかし本来ならば、そのようなものは保田妙本寺から出るのが普通だと感じます。大石寺も日寛の六巻抄や文段を出しているので、全集とまでいかなくとも主要なものを何らかの形で世に出すのは、保田妙本寺のことをもっと知ってもらうためにもあってしかるべきと思います。
今後ともご教示の程、お願い申し上げます。

774顕正居士:2006/06/14(水) 22:34:59
インド以来、大乗経は報身仏の説法とする。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/538
報身仏とは何か。

自の富裕は世間より超脱して不思議なり
善修百の果を 諸の智慧を有するものゝ
歓喜の発起の為め 会衆の中に於て
種々広大に教へて 常に妙法の広大なる音声を
全世界に流布し給ふ
仏は円満報身にして 法の王国に住したまふ
総て彼に稽首す。
「伝竜樹仏三身讃」(寺本婉雅訳・『梵漢独対校西蔵文和訳・龍樹造中論無畏疏』)

報身仏とは三阿僧祇劫の菩薩修行の因願による報酬の身(善修百の果を…)であって、
三界の頂、阿迦尼咤天に住する(法の王国に住したまふ)。
三世諸仏、成道して得る身は皆等しくこの毘盧遮那報身である。
三世乃殊 毘盧遮那一本不異 如百千枝葉同趣一根(玄義7下)
(三世乃ち殊なれども 毘慮遮那一本異ならず 百千枝葉同じく一根に趣くが如し)

775犀角独歩:2006/06/15(木) 22:18:37

移動に際して、整理します。

わたしは、日蓮が法華経を釈尊50年の説法のうち、最後8年の説であると信じていた点で間違えたと言ったのです。(1537)

これは歴史上の事実に基づく指摘です。

これを、西暦前後に創作された法華経という物語、また、その他の大乗経典の解釈で展開される三身説で云々するのは、そもそも土台が違います。
この事実認識から言えば、経典は釈迦が説いたものではない、もちろんのこと、応身が説いたとか報身の説でもありません。経典を創作した人が紡いだ物語です。その点を日蓮が気付けなかったことを、わたしは言っているのです。わたしは応身の説法だなんだということを言ったわけではありません。それを恰もわたしが応身説に立ったような決めつけで、突然、投稿されたわけでした。しかし、これは、上述するとおり、まったく、土台が違った論点であるということです。

翻って、これを日蓮その人の教学と考えるとき、では、日蓮は、それを応身の説法と見たか、報身の説法と見たか、もしくは本地本仏の説法と見たかということはまるで別の問題です。台学の筋目から見るとき、これはもちろん、顕正居士さんが仰るとおりで、報身説としたのだろうというところが至当であろうと、わたしは思います。一切経は久遠本地釈迦仏の説法と見たのではないのでしょう。この点で、顕正居士さんと西大寺さんの言うところは違っています。

なお、わたしが「哲学」という点についていったのは、西大寺さんが日蓮を基準にしない日蓮の教学は日蓮の教学とは言えないといいながら、「久遠の教主釈尊と応身の釈尊の関係が分らないのならば、法華経の説く哲学等を理解するずもない」という点について、そもそも、日蓮も、台学も、法華経も、哲学とはまったく関係のないところで説かれたものであるから、それを「哲学」という言葉で捌いて、何が日蓮を基準にしていると言えるのかという問いかけから、始まったことです。

なにか、一字三礼さん、問答さん、わたしが哲学に拘ったような投稿を見ますが、事実はまったくの逆で、哲学に拘ったのは西大寺さんのほうでしょう。

顕正居士さんが仰るように現代の仏教学では「仏教哲学」なる造語が闊歩しているのは事実です。しかし、日蓮が何を基準にしたのかという点から言えば、日蓮は、哲学…この言葉は主にギリシャ哲学を指す…を基準にしたのではなく、仏法を基準にし、取り分け、智邈、湛然の釈、そして、何より、法華経を基準にしたのでしょう。

では、法華経はギリシャ哲学を基準にしたのかといえば、西方の影響を全面的に否定すべきではないが、やはり。多くは仏教徒の系譜から、この物語は紡がれた以上、これを哲学の影響とすることは、事実に反すると言っているわけです。

では、仏教哲学としての法華経の哲学を基準にしたのかといえば、わたしはこれは違うと思います。日蓮は法華経の魂を基準にしたのであった、その学を基本にしたわけではなく、強いて、この筋で言えば、信行学にわたって基準にしたのではないかということです。
また、哲学の、適宜な訳である愛知(知に対する愛)という側面からすれば、知への変更は、寧ろ、般若経のほうが闡明なのであって、以信得入という態度の法華経は哲●という言い方で敢えていえば、哲学であるというより、哲信の経というべきであり、この点は、バクティの影響をわたしは寧ろ見ます。

以上の意味において、とおりすがりさん、団栗さんのいうところは、まるでこの流れを無視していると言わざるを得ません。

まして、管理者さんが不公平なジャッジをしているごとき、団栗さんの発言はまったく事実と相違しています。

776一字三礼:2006/06/15(木) 23:10:31
「哲学」関しましては、犀角独歩さん、彰往考来さんがご指摘のように、時系列が合いませんし、仏教にギリシャ哲学の影響があると主張するのであれば、伝承を含めて、それを明確に示されればよいと思います。

知的な真理追及の作業全般を「哲学」と称した場合であっても、仏陀とは一切智者であり、‘法’及びその他全ての事柄に熟知した存在であり、仏典とは、その仏陀が対告衆に応じて、その悟ったところの教法・行法を説いたものです。
一切智者である仏陀には、教法・行法についてこの上、哲学的な思考や論法で求めなければならないものはありません。

つまり基本的には、仏典というものは、‘一切を知る者’からの開示です。だから、美や智を求める哲学的な構成をもっていない、それ以前にその説かれるところは理論的でさえないものが多いのです。

犀角独歩さんがご指摘のように、般若経系は、幾分思弁的な傾向はみえます。しかし、「二乗作仏」と「久遠実成」は法華経の中心教説ですが、哲学的思考によって理論的に証明など出来ません。
十地経の菩薩地についても同様に、耳障りの良い菩薩の徳目を‘十’という数にこだわって羅列しただけであり、哲学的な思考など微塵もみられませんし、また哲学的に理解出来るものではありません。

仏教が哲学を背景として成立している、などという考えは、仏教全体を把握することを困難にするだけではないでしょうか。

犀角独歩さん

実は、バクティ語が法華経で使用されているか否かにつきましては、松山先生が次回の講義までにお調べくださるそうです。

777顕正居士:2006/06/15(木) 23:37:47
大乗経の由来

NG-WORDがあると出て投稿できないので、下記をご覧ください。

http://www.geocities.jp/xianzhengjp/mahayanasutra.txt

778パンナコッタ:2006/06/15(木) 23:40:09
あらし行為は基本的に放置でしょう。管理人さんの警告も出ている事ですし。

現代人が過去の思考を”哲学”と呼んでも差し支えないでしょうが、鎌倉時代の蓮祖が
明治の造語を用い”これが哲学である”と言う事はあり得ないし、仏典に書かれているわけでもない。
現代人が蓮祖の思考を”日蓮哲学”と呼んでも差し障りはないでしょう。しかし、蓮祖自身は
哲学という語彙を持ち合わせていないのですから、鎌倉期に尺度を合わせ日蓮の思考を考察する
此処の掲示板のスタンスには、あまり適さない抽象的な語彙である故、常連各氏が明確な定義を
求めているだけの事でしょう。

また思考を論じるという人為的な意味合いも含まれる為に、”久遠の釈尊・無始の古仏”
といった語彙に単純に哲学的と冠すれば、初めから人による創作物という前提も成り立ってしまいます。

これは、明確な定義を示すべきでしょうね。

779顕正居士:2006/06/16(金) 01:02:32
Philosophyにあたる言葉はインドではdarśanaといいます。「見 けん」と漢訳します。
日蓮宗も一個の「見」であることは間違いがありません。しかしPhilosophyの基準
からは、天台宗まではPhilosophyであっても、日蓮宗の本面迹裏の教義は宗教で
あって、哲学ではないという意見があり得るでしょう。Philosophyとdarśanaは別の
文明圏の言葉ですから、ぴったりとは重なりません。
しかし、井上円了は日蓮宗の教義も哲学であるとして、『日宗哲学序論』を著し、
日輝は哲学造語以前の人ですが、日蓮宗に天台宗と異なる実相の説があるとした。
たしかにこの辺はおおいに検討すべき事柄であるとおもいます。

780顕正居士:2006/06/16(金) 01:24:21
わたしは「印度哲学科」の出身ですが、「印度哲学」の「哲学」はdarśanaなのか、philosophyなのか。
インド思想や仏教思想のdarśanaとphilosophyが重なる部分を重視して研究しているのかといえば、
そうではありません。「印度哲学・宗教学科」あるいは「印度思想学科」のほうがわかりやすいでしょう。
ですから印度学、仏教学の世界でいう「哲学」はdarśanaです。故中村元氏は「思想」という表現を
好まれました。つまりdarśanaはphilosophyの全体とreligionの一部に重なります。しかし「思想」とも
違うのです。「社会思想」などはdarśanaでなくてdharmaです。結局、「印度哲学」は適切な表現です。
インド思想の中でdarśanaに重点をおいて研究しているからです。

781顕正居士:2006/06/16(金) 02:27:37
>>776
一字三礼さんのご意見について。

大乗仏教がいう仏陀とはビルシャナ仏のことで、一切智者であり、経験と推論なくして一切を知ります。
大乗経とはその一切智者の啓示であります。しかし大乗仏教では「聖教量」を知識根拠としません。
大乗経の内容を真実とするのは各人の経験と推論によるとします。なぜなら「聖教量」を知識根拠と
すれば、一切智者の啓示と称する経典は多数ありますから、いずれを択んでよいかわかりません。
大乗経は架空の釈尊を説主とした創作経典ですから、インド、チベットでは龍樹、世親などの確実な
著述を正典とし、大乗経の言句は正典に合致するゆえに用いるに過ぎません。
中国では仏教の地位を確保し、かつ中国人の需要に合った仏教を展開するために、「経」に権威を
与えました。中国では何事も旧いことを重視し、経−釈-書の順序でなければいけません。共産革命
で全部、一新してしまうしかなかったが、その後はまたカール・マルクスの「経」、レーニンの「釈」、
毛沢東の「書」にこじつけた言論しか通用しません。そういう約束の社会ならば、あいまいな「経」を
重視するとかえって自由言論ができるのです。吉蔵や玄奘はインド流に論・釈を正典にしましたが、
中国ではこの流儀はダメでした。天台宗は正典を表は法華、涅槃の経。裏は竜樹などの四論とし、
上手にバランスを取ったのです。また大乗経を作った人達はおそらく部派仏教の学僧ですから、
物語の裏側にしっかりと哲学があります。そこが面白いのです。

782犀角独歩:2006/06/16(金) 04:46:24

生命のドラマ法華経とは、祥伝社から発刊された創価学会元教学部長・原島嵩氏の本の題名です。

創価学会で育ったわたしは法華経も、日蓮も生命を説いた人であると信じて疑いませんでした。この事情は、たぶん、現在でも創価学会員であれば、同様ではないでしょうか。戸田城聖氏の『生命論』がその基本にありました。
しかし、この“生命”というマジックワードで解釈された日蓮も、法華経も、その原意からどんどん離れていってしまうわけです。元来、主体であった法華経も、日蓮も、生命というこのマジックワードの説明語となってしまう魔力を有しているからです。

同様のことは哲学という言葉にも言えます。法華経の哲学、日蓮の哲学などといった場合、哲学という言葉が主役を奪ってしまう魔力を有しています。

781に顕正居士さんは「物語の裏側にしっかりと哲学があります」と記された。このような説明は現代的には別段間違いではないでしょう。しかし、ここで止揚された哲学は、それが主義、信条、考え方、定見…といったその他の言葉を置いても、実は違和感が生じません。

たとえば、天台智邈大師は摩訶止観で仏教哲学を説いた、いや、生命哲学を説いたという文章は、学会を含む石山圏では通用します。しかし、わたしは、これは嘘だと考えます。天台智邈は生命を説いたのではなく、心を説いた、もっと言えば己心の行じる法門を説いたというのであって、生命はイコール心ではないし、止観は、その心身の、禅観なのであって、哲学を説いたものでもないからです。生命、哲学という成句を使わない萌芽より正確に智邈釈を説明できます。この事情は日蓮も同様です。

法華経にしても、智邈、湛然の釈にしても、日蓮の御書にしても、生命で記せば、それは生命論になってしまうし、哲学といえば、その瞬間から哲学の説明になってしまいます。この二語は実に曖昧で、一切合切を説明したかのように見せる魔力があります。

わたしは宗教集団と会員に係る問題を主な仕事としていますが、この現場で過去10年間頻繁に使用されてきた言葉は マインド・コントロール もしくは、カルト という言葉でした。我々が通常、この言葉を使う場合、その定義について、前者はスティーヴン・ハッサン師、もしくは西田公昭師などの定義に基づき、カルトという言葉の用法は主に浅見定雄師の定義に基づきます。より正確な言い方をすれば、破壊的カルト・マインド・コントロールという成句を略して、カルト、マインド・コントロールというのが、この世界での決めごとになっています。しかし、このカルト、もしくはマインド・コントロールという言葉が一たび、世間一般、マスコミ・メディアで使用されてしまってからは、本来の意味からどんどんと乖離した別の意味を孕み、ついには俗語化の憂き目に遭った経緯をわたし達は目の当たりにしました。

783犀角独歩:2006/06/16(金) 04:46:51

―782からつづく―

哲学という言葉も同様の経緯を孕んでいないでしょうか。
インド哲学と言われるような成句の元で使用される哲学は779で説明されるような意味背景を有していると、顕正居士さんのようなその科の出身の方は考えるのでしょうが、一般人はそう考えません。インド哲学の哲学も、人生哲学の哲学も、さらには法華経の哲学?も、特に厳格な定義を有さず、元来の意味や定義から乖離した俗語化した哲学という曖昧模糊とした用法で使用されているからです。

日蓮は法華経の哲学を基準にした、なんだかわかったような気になりますが、わたしはこれは嘘だと考えます。だいたい、何を言っているのかまるでわかりません。これでは基準は哲学となってしまいます。当の日蓮が聞いたら吃驚することでしょう。

また、同じことを繰り返さざるを得ませんが、日蓮は、法華経を、釈尊が自分を去ること2200〜2300年前に説いたとして、その教学と本尊を確定していったわけです。ここに日蓮の信念があったのでしょう。(これは日蓮の哲学ではありません)しかし、この日蓮の信念は、残念ながら近代の科学実証性の前に潰えた、さて、どうするのかという点を、わたしは考えようといっていることです。

当スレッドは「現代人が納得できる日蓮教学」ですが、では、その主語である現代人に、法華経は報身仏の説であるとか、一切の経典は久遠本仏が説いたものだといって、納得するものでしょうか。むしろ、かつて、そのように信じられていたけれど、実のところは西暦前後に創作された物語であったという議論のほうがはるかに説得力を有しています。もちろん、それは、教学的な側面から考えれば、それを日蓮がどのように考えていたかということから三身説を採ることは何ら間違いではありません。このような見直しも、その日蓮の素描においては十分に義を有します。しかし、三身説という永らく使用されてきた説明に、哲学であるとか、生命であるとかという語をもってすれば、たちまちに事情は覆ってしまわないでしょうか。

以上のような実況がありますから、わたしは…、いや、わたしばかりではなく、彰往考来さん、一字三礼さん、パンナコッタさん、たぶん、問答名人さんは、生命とか、俗語化した哲学といった語彙を以て、法華経、日蓮、広くは仏法を語るうえで、使用しないほうがよいという考えで共通しているのだと思います。
イン哲の出であるという顕正居士さんには、不本意なことであるかも知れませんが、ここでの共通認識は以上のようであると思います。

784犀角独歩:2006/06/16(金) 10:08:41

一字三礼さん

般若経と哲学の関係へのご賢察、参考になりました。
法華経講義でも話題になりましたが、般若経周辺では、何ゆえ、あそこまで智慧に拘ったのか、この背景に東西文化交流はなかったのだろうかという類推が先の記述となりました。

『ミリンダ王の問』、また、ガンダーラ仏像の造形から見ても、大乗経典へのギリシャの影響は看過できないものがあろうかと思います。たとえばソクラテスは、釈迦と同時代の人ですね。しかし、西のソクラテス、東の釈迦の相互の影響は感じられません。前者はアポロンから語り、釈迦はブラフーマから語っています。しかし、滅後100年を経た頃から、仏像がギリシャの影響を以て造られるようになり、文字で経典を書き残すようにもなっていきました。前者には石工技術、後者は聖典信仰の隆起という点で、東西を代表する思想・文化と共通点が見出していけます。

このような時代背景で、もっとも最初に創られた経典が『八千頌般若』だった。では、Pnnya パンニャ(Prajynya(プラジュニャー))は智慧に力点が置かれたものであるわけです。知識への信仰という側面を感じるわけです。

このような態度は、ギリシャの Philosophy という態度と何らかの交流の結果ではないのかという視点をわたしは有しています。しかし、顕正居士さんのご説明を読めば、むしろ darśana(見)の延長と見るほうが至当なのだろうか、となれば、Philosophy>Pnnya は違っているのかとも思えました。

『法華経』は『八千頌般若』の次の創作経典であるという時系列で、さらにその定型化には2〜300年の時間を要しているようですが、そこに見られる態度は“信”の強調にあり、前者の般若の強調とは趣を異にしています。また、その底意には、輸入され習合し仏教の尊格となっていった数多の仏菩薩を整理し、釈迦一仏に統一しようとしたコンセプトを有しているわけです。そして、そこでは文字化された聖典信仰と仏塔信仰の融合があり、造像尊崇とも関連していくという東西交流の結果を垣間見ることもできます。

松山先生の調査、結果が楽しみです。bhakti は誠信、献信、信道などの漢訳と共“信愛”とも約されますね。信愛と愛知(Philosophy)、この比較こそ、わたしの興味の対象の一部です。

法華経における信は、adhimukti が正面ですが、その裏面に bhakti があるかどうか、次回の講義が待ち遠しい気持ちになりました。

785顕正居士:2006/06/17(土) 07:40:52
創価学会の爪跡は大きいですね。「日蓮大聖人の哲学」。
わたしも10年来、大石寺・創価学会関連のサイトや掲示板を見て来たので、そういう感覚はわかります。
「哲学」という語が「創価学会」を想起させるのですね。
創価学会は一見はカルトの中では穏便な部類ですが、2世、3世のトラウマは深い。そうおもいます。

786顕正居士:2006/06/17(土) 08:14:18
Bhakti 信愛 という語は法華経にはありませんが
自在者 イーシヴァラ への信愛が自我偈には高揚しています。
当時のBhakti思想の流行と無関係ではないでしょう。

法華経は般若空観を裏に置き、方便としての菩薩道の煥発を表にした経典です。
結構は阿含の経典をまねており、基本的には「法」への信仰を説いています、

松山俊太郎氏がおっしゃるように、日蓮は法華経に秘められたダルシャナを
13世紀日本に展開した思想家という方面があります。
日蓮はやはり「法」への信仰を説き、仏名でなく、実相の名である妙法蓮華経を
唱えよといった。しかし同時に寿量品・自我偈への信仰が極めて厚く、
ビルシャナ仏が釈尊として応現することを重視した。こうして日蓮宗学の顕本論は
法身、報身、応身の三説が並存するに至ったのです。

787犀角独歩:2006/06/17(土) 08:16:37

顕正居士さん

ご理解いただけまして、痛み入ります。

そのグループの特殊用語は、日常一般の言葉を借りていることも多く、そのような新年体系とはまったく関係のない場所にそのことを忘れて暮らしているとき、突然、この言葉に出会うと、フラッシュバックを起こさせます。

顕正居士さんのお考え、また、哲学という言葉には何の罪もないのですが、『仏教哲学大辞典』、通称、仏哲が仏教用語を知る最高の教科書であった者にとって、ここからの脱却に、どこか「哲学」という言葉に敏感になっているところがあるのかもしれません。

引き続き、ご教示、ご批正を賜れれば、有り難く存じます。

788一字三礼:2006/06/17(土) 15:43:19

顕正居士さん

> つまりdarśanaはphilosophyの全体とreligionの一部に重なります。しかし「思想」とも違うのです。

darśanaについてご教示くださり、ありがとうございます。このあたりの概念がよくわかりませんでした。 

> インド、チベットでは龍樹、世親などの確実な著述を正典とし、大乗経の言句は正典に合致するゆえに用いるに過ぎません。

確か、以前にもお書きになっておられたと記憶しておりますが、私にとってはかなり刺激的なご見解です。
大乗の「経」と「論」の関係は、部派の三蔵の基準とはまったく異なるということでしょうか。
現代の我々にとっては、龍樹も世親もすでに釈尊に負けず劣らず伝説の人物達ですが、インド人やチベット人にとっては、毘盧遮那仏よりはリアルだったのですね。

「中論」、「分別論」、「摂論」などを、聖典と位置づけて、それらの論釈に載る経文は採用する、という感覚はわかりません。「十住毘婆沙論」、「中論」、「法華論」などを読みますと、かなり自由な論釈立てはしていますが、それでも龍樹や世親は、「論」より「経」を重視する立場と感じます。

また先に挙げていただいた竜宮の大乗鉄塔の寓話からも、大乗の初期は「経」が最重要視されていたのではないでしょうか。時代とともに価値観が変化したのでしょうか。

789一字三礼:2006/06/17(土) 15:44:07

犀角独歩さん

> 西のソクラテス、東の釈迦の相互の影響は感じられません。

ソクラテスの環境は、アテナイの市民で、奴隷も使うことが可能な階層にあり、政治に参加することは義務・徳目とも考えられていた。そして最後は「悪法も法なり」という有名な言葉が示すように、ポリス・共同体の価値観に順ずることを美徳と考えたのでしたね。
一方、釈尊は、出家というアウトサイダー宣言により、インド限定の形態である「比丘」という立場をとり、そのスタンスを崩さずに、王・市民・国家と関わりながら生涯を送られた。
2人の偉人の教説の相違は、このような環境・立場の違いからあらわれるのかもしれませんね。

> 『法華経』は『八千頌般若』の次の創作経典であるという時系列で

部分的なものかもしれませんが、『法華経』の方が『八千頌般若経』よりも古い箇所があるようです。私ももっと真剣に調べてなければいけないことなのですが、なにぶんグウタラでして。

> 仏像がギリシャの影響を以て造られるようになり

これにつきましては、仏塔から仏像への形態が変わったのではないか、との説があるようです。確かに、紀元後一世紀ころの仏塔が彫られている彫刻群の中に、仏塔から仏の頭部と手が生えている写真を見ました。

790犀角独歩:2006/06/17(土) 21:05:33

一字三礼さん

なるほど。ギリシャ、インドの相違、実によく整理されていると思いました。
また、法華経には般若より古い部分がありますか。
わたしは単純化して考えすぎていました。
参考になりました。有り難うございました。

791犀角独歩:2006/06/17(土) 22:49:15

そうそう、一字三礼さん

> 仏塔から仏像への形態が変わった

これは仏塔というより、それまでは、釈尊は、足跡とか、あるいは転法輪で表されていたのではないでしょうか。

塔は、これとはまた、違うコンセプトであると思います。

792一字三礼:2006/06/18(日) 00:36:58

犀角独歩さん

> これは仏塔というより、それまでは、釈尊は、足跡とか、あるいは転法輪で表されていたのではないでしょうか。

原始部派仏教美術(BC3世紀からAD1世紀の終わり頃)と言われるものですね。アショーカ王の石柱とか、マラーヴァティの塔、ビタルコーラ石窟、サンチーの大塔などの限られた範囲ものですよね。
仰るように仏陀の表現が、菩提樹や仏足跡の千幅輪相から仏像を直接作るようになったのでしょう。
ただ、私が見たのは、幾つもの仏塔が彫られた彫刻群の中に、仏塔から手や仏頭が出ているものでした。

たしか、NHKで特集を組んで放送したと記憶しておりますから、ロムしている方で放送をご覧になった方がおられるかもしれません。

ガンダーラの仏像は明らかにギリシアの神像からの影響が認められますが、ガンダーラと同時期に仏像が作られ始めたマトゥラーでは、ギリシア・ガンダーラの影響を受けないインド的な表現の仏像が作られております。
特徴としては、螺髪があるものははっきりと巻貝のように渦を巻いたものであり(ガンダーラの表現は流れるような髪)、螺髪の無いものはまったくありません。また、肉づきが豊かで、筋肉隆々な弥勒菩薩像や観音菩薩像などは、このマトゥラーで作られたようです。

793顕正居士:2006/06/18(日) 07:02:43
>>788
インド大乗仏教は竜樹を開祖とする中観派と無着、世親を開祖とする瑜伽行派の二つです。
両派は後に合併し瑜伽行中観派になります。但しこれは学派であって教団ではありません。
教団(戒律)としての大乗仏教はインドには存在しませんでした。瑜伽行派では唯識の説は
竜樹の密意であるとするから、大乗学派は中国、日本でいう「八宗の祖」、竜樹を開祖とする
といえます。またこの大乗学派の興起以前に初期大乗経典の原型がすでに存在しました。
竜樹が大乗経についてどう評価していたかは難解です。主著である「中之頌」および同頌の
自註とチベットで伝える「無畏疏」では仏説とはアーガマを指し、仏陀とは彼をさかのぼること
500年の哲学者をいいます。大品般若経の膨大な注釈「大智度論」は梵本、チベット訳ともに
存在しません。チベット伝では「三身梵讃」は仏滅800年の後竜樹(竜叫)の作品だろうとする。
ただし「大智度論」が中国成立かというと、羅什訳は史実で、中央アジアにローカルな中観派
が存在し、この派の教学では法華経と大智度論を重視していたのではないかと想像します。

794犀角独歩:2006/06/18(日) 08:16:02

一字三礼さん、失礼しました。

手足の生えた仏塔のほうでしたね。

マトゥラ、また、サルナート、そして、ガンダーラの3箇所が主な仏像発生の知でしたね。それぞれ、違う特徴を有しています。わたしはサルナート仏が個人的には好きです。その中でギリシャ的特徴を有するのは、仰るとおり、ガンダーラ仏ですね。ただしかし、これら3箇所でほぼ同時期に仏像が始まっている点は、なんらかの理由があると思います。

この点では、わたしもNHK特集を紹介しようと思います。『ブッダ大いなる旅路』で、この点が語られていました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50194744.html

マトゥラの仏像は、インドの土着信仰の尊像と仏像が当初、よく似通っていますね。(この点は追って、また、投稿しようかと思います)

795一字三礼:2006/06/18(日) 10:34:26

顕正居士さん

> 主著である「中之頌」および同頌の自註とチベットで伝える「無畏疏」では仏説とはアーガマを指し、仏陀とは彼をさかのぼること500年の哲学者をいいます。

仰るとおり「中論」には、大乗仏典は引用されていません。しかし、内容的には大乗に沿って理論展開されているように読めます。

「『中論』は論争の書である。インドにおいてナーガールジュナの当時にすでに成立していた諸思想体系を現前においてこれを攻撃し批判している。『中論』を読むと、韻文の大部分は攻撃的な口調で書かれていることに気がつく。」(講談社『ナーガールジュナ』中村元)

主とした対論相手は上座部の、説一切有部、犢子部、正量部などであり、仏教外の所謂外道については付け足し程度で、確定は出来ませんがヴァイシェーシカ学派、ニヤーヤ学派(正理論派)、サーンキヤ学派、ジャイナ教、時論師などが挙げられるようです。

「中論」に大乗仏典が引用されていない理由としては、「中論」が対論書であると言う理由のよるのではないでしょうか。

上座部や仏教外学派との対論であれば、主張の土台、または理論の典拠として大乗仏典を引用することは意味を為しません。
そのため、『中論』では、内容的には大乗を主張していても、大乗仏典、大乗の仏陀への言及がないとは考えられませんでしょうか。

『大智度論』、『十住毘婆沙論』等は、同じ龍樹の著作とは考えられませんが、『Suhrid lekha』は、『中論』の著者とさほどの違和感を感じませんが、こちらでは、大乗仏典や大乗の仏の名前が出てきます。

796顕正居士:2006/06/19(月) 06:47:48
>>795
一字三礼さん。

竜樹哲学の先行思想として般若経典があったことは否定できません。しかし中之頌の帰敬偈で
彼が認めているのは、あくまで彼を遡る500年の哲学者です。むしろ竜樹の権威によって般若経
が大乗学派に受容された可能性があります。
竜樹の学説に「顕正」の方面があったかといえば、嘉祥大師の説のようになかったのではないか
とおもいます。つまり竜樹に報身仏への信仰はなく、般若経典が彼の発想の元であったにしても、
彼は自身の論理を述べたので、先駆者として釈尊を認めたに過ぎないのではないかと思います。

797犀角独歩:2006/06/20(火) 07:28:56

『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』1606から移動しました。

乾闥婆さん

実はわたしは疑問とされる点について、合理的と言っては手前味噌ですが、ともかく、冷静に判断することを勤めています。

日蓮といわず、日本然仏教界は、未曾有の難問に遭遇しました。経典の後世創作という事実です。それから100年ほど経つことになるのでしょうが、各集団の在り方は学問と信仰の分離、それをしなければ、この科学を言うものの人格攻撃(謗法者扱い)、もしくは、己の信念体系から放擲することで是としてきました。はて、四弘誓願は、何処に行ったのだろうかという疑念が生じます。

わたしはつくづく感じたのです。石山圏で彫刻本尊の真偽を言うと魑魅魍魎扱いをされる、それでも、わたしへの賛同者は日蓮宗にもあった。ところが、日蓮摂受の人というと、今度は日蓮宗のなかからも反感を抱く人々が出たわけです。この時点で、わたしは「なんだ一緒じゃないか」と思いました。要するに、自分が信じていることの真偽を論じられることに反感を抱くという点で一緒のわけです。

自分の信念 …信仰といってもよいのですが… 新たな認識に基づいて、変更していくこと、これは当然のことであるのに、信仰者はこれができない。その原因は、信仰が何らかの実体験と関連しているからでしょう。そしてまた、その実体験は、その実体験をする背景となった教義、もしくは本尊と関連しています。つまり、教義・本尊の誤認を論じられることは、自身の信仰、実体験を揺るがされることであり、その実体験=信仰に支えられた自分自身を否定するという自我存立の危機感を彷彿する構造がここにあるのだろうというのが、わたしなりの分析です。しかし、ここでいう実体験は過去の出来事です。つまりは、それは過去を振り返った信仰ではないのかとわたしは考えます。前を見て進んで見ることです。過去の実体験にしがみつかず、常に前に進むことこそ、精進であるという思いがあります。

また、日蓮は鎌倉時代の人であり、そこにはその時代という制約がありました。つまり、科学としての限界です。ここで言う科学とは自然科学ばかりではなく、人文科学の限界という意味のほうが、寧ろ、強いと思います。

日蓮は結局のところ、鎌倉時代に60年ばかりしか生きていなかった、そこでできた探求には肉体の限界がありました。肉体の限界は思惟の限界をも意味します。日蓮が弘安5年で終えざるを得なかった思惟と精進は、しかし、遺された教義と人生の軌跡を追うことで継承できます。日蓮が60歳当時の考えをもったまま、20歳の青年となったら、次に何を考え出すのか、いまの時代を観たら、何を考え出すのか、わたしはその点を考えることに意義を見出します。では、その答があるか、と言えば、それは現時点ではないでしょう。それはいまここで生み出されようとしていることであるとわたしは思います。その現場で、鎌倉時代限定の日蓮を墨守することは、今風の批判の言葉を用いれば、原理主義への転落ということになるでしょう。そして、それは過去にしがみついた在り方でもないでしょうか。

わたしは、いま自分が至れている結論、もちろん、まだ過程経過の段階ですが、これを以て、20歳の自分に戻れたら、思惟の時間は存分にもてたと、いつも残念に思います。現年齢からすれば、残された時間は少なすぎるという思いです。しかし、わたしにできなくても、ここで記されてきたことから出発できる若者はいます。彼等は、わたしが死んだ後にさらに思惟を深めていけるでしょう。そして、その若者を老年となる頃、さらにその思惟を我がものとして、出発できる若者が、未来にいます。こうして、人類は発展してきたのでしょう。

日蓮の信じることは、日蓮の限界までを自分の限界にしてしまうのでは進歩はありません。わたし達は日蓮から出発しなければ進歩がないのです。
わたしが「日蓮の間違い」という毒々しい言葉を吐いた意味は、ここにあります。

798犀角独歩:2006/06/20(火) 19:50:07

『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』1617から移動

一字三礼さん

乾闥婆さんへの質問は取り敢えず、そちらにするということで。


> 偽経の存在は鎌倉時代でも知られていたそうですから。

そうですね。ということは、逆を返せば、偽経とされるもの以外は、真経とされたのではないでしょうか。

> 仰りたいことは大乗は仏説ではない、ということなのですか。

いえ、違います。経典は、後世の創作であるということですが。

なお、日蓮聖人は経典に説かれていることをすべて真実として認識されていたのではないでしょうか。でなければ、繰り返し「仏は大妄語の人」となると呻吟される必要はないからでしょう。

> 一切経を衆生の己心のことを考えておられた

この証拠はありますか。
まさか、日蓮が「真実」ということは皆己心の問題であるというわけでしょうか。また、お題目の修行も、単に己心のことであり、実証を問うことはナンセンスですか。

仮に、この掲示板ではなく、一般の人から、法華経は真実ですか。お釈迦様が説かれたものですか。鎌倉時代は末法ですか、と聞かれたら、一字三礼さんは、なんと答えるのですか。参考にお聞かせ願えませんでしょうか。

799一字三礼:2006/06/20(火) 22:03:45
犀角独歩さん
引用しながら投稿したので、スレッドを間違えてしまいました、失礼しました。

> 経典は、後世の創作であるということですが。

私は、経典とは仏弟子によって詩偈の形で幾世代も口誦されてきた仏説が、ある時代に経典として編纂されたと考えています。

独歩さんもご存知のように、松山師は、法華経の偈文と長行の梵文について、「長行は解りやすい梵文であるが、詩偈は古いプラークリットでとても読みづらい。詩偈部分が出来てから長行部分が出来るまではかなり時間が経過していると思う。」とのご見解を示されています。松山師の法華経講義に参加するようになってから、ますます思いを強くしました。

> なお、日蓮聖人は経典に説かれていることをすべて真実として認識されていたのではないでしょうか。でなければ、繰り返し「仏は大妄語の人」となると呻吟される必要はないからでしょう。

実は一番難しいのは、日蓮聖人の言う「真実」とはどういった意味なのか、ではないでしょうか。

確かに、独歩さんが仰るように日蓮聖人は、法華経は‘一言一句全て如来のご金言’と言います。
しかし、また同時に、観心本尊抄にしめされるように、法華経に登場し、歴史的存在であるはずの舎利弗などの四大声聞を「我等が己心の声聞界なり」と言い、寿量釈尊も「寿量品に云く『然るに我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり』等云云。我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり。」 と‘我等が己心’で把握されている。
この法華経観は、‘法華経典は古代インドで釈尊が説いた’書物との認識ではないでしょう。やはり己心(内面)で把握していたのではないでしょうか。

「一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く。其の機を論ずれば徳薄垢重・幼稚・貧窮・孤露にして禽獣に同ずるなり。」(観心本尊抄)

法華経と言えど一品二半以外の部分は、‘小乗教・邪教・未得道教・覆相教’と切り捨てられたりもします。
日蓮聖人が‘法華経は全て真実’と仰っても、実は部分によってかなりの温度差があるようです。

> 一般の人から、法華経は真実ですか。お釈迦様が説かれたものですか。鎌倉時代は末法ですか、と聞かれたら、一字三礼さんは、なんと答えるのですか。参考にお聞かせ願えませんでしょうか。

Q 法華経は真実ですか。
A 古代の書物ですから、古代インドの神話や伝承、世界観の中に、仏教の非常に重要な法門が説かれています。

Q お釈迦様が説かれたものですか。
A 仏教の大事な法門が、仏弟子達によって詩の形で口伝され、それが紀元前後に経典に編纂されてものです。

Q 鎌倉時代は末法ですか。
A 末法と言ってしまえば、法華経が編纂された当時もすでに末法と考えられていたのでしょう。末法とは、いつの時代でも仏教徒は使命感と危機感とを持って仏法を広めていかなければならない、という警鐘でしょう。

はたしてご参考になりますでしょうか。まるで当たり障りのない坊さんの説法みたいな少し肩透かししたような答えにしました。
私の信仰観は多少複雑ですので、ちょっと書き込むのは難しいのですよ。

800乾闥婆:2006/06/21(水) 00:30:23
犀角独歩さん。一字三礼さん。

レスポンスありがとうございます。
仕事が忙しく明日も朝が早いので、後日改めてレスをさせていただきます。

ただ一点だけ。
>‘明らかな間違い’とまで仰るのでしたら正確な仏滅年を教えてください。100年も幅のある仮説はいりませんから、正確な年代をお願いします。

正確な仏滅年などいまだ判明していないと思うのですが。私が使っているのは『岩波仏教辞典』の初版です。そこには「釈迦」の項目で「前463-383頃、一説に前566-486頃」とその生没年は記されています。いずれの年代にしても明らかに仏滅後二千二百三十余年ではないので、‘明らかな間違い’と書きました。もしも一字三礼さんの知られる範囲で仏滅後二千二百三十余年と測定できる伝承ではない生没年の説があるようでしたらご紹介ください。‘明らかな間違い’は撤回させていただきます。

以前、このスレッド上で私もまた「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」等を引きつつ、蓮祖の信仰を己心の問題へ回収することは可能ではないかと主張したことがありましたが、蓮祖は法華経に書かれてあることを事実であると考えられていたとの犀角独歩さんの主張に、驚愕したことがありました。その辺りの遣り取りをもう一度読み返しつつレスさせていただきたいと思います。

801顕正居士:2006/06/21(水) 01:33:22
「仏滅年代」を検索すれば詳しい記事がいろいろありますが、要点は簡単です。

1 北伝(漢訳伝)  前4世紀
2 南伝(パーリ伝) 前5世紀

100年違うのはアショカ王出世を北伝は仏滅100年、南伝は200年とするからです。
漢訳伝はパーリ伝より古い、南伝は同名の王を混同したと説明できる。日本の学者はこの説を取る。
漢訳に疎かった欧米の学者は今までは南伝を取る人が多かった。

あと、中国、日本にはトンデモ説がありました。唐代の偽書・周書異記の瑞祥譚から600年、仏滅を
繰上げました。釈迦出世を老子より以前にする必要からです。しかし仏滅何年に何が起ったという
のは仏典のままです。インドの歴史と中国の歴史を600年ずらしたのです。つまり日本書紀や旧約書
と同じ作為です。単なる間違いではありません。アショカ王の年代はギリシャの記録によって正確に
今はわかります。

802犀角独歩:2006/06/21(水) 06:17:16

一字三礼さん、有り難うございます。

> 経典とは仏弟子によって詩偈の形で幾世代も口誦されてきた仏説が、ある時代に経典として編纂された

まあ、初期経典などは、このような説明は成り立つと思いますが、しかし、法華経に説かれるSFのような壮大な物語は、もはや、その説明では不足ですよね。眉間白毫、三十二相八十種好、多宝塔、地涌菩薩等々、こんなことまで、釈迦が語ったとは到底考えられません。教えにしても、釈迦の言説としては、せいぜい八正道・四聖諦どまりで、十二因縁ですら怪しいのではないでしょうか。

また、かつて雖念さんも指摘されていましたが、仏教集団(に限らず、古代の祭政とは抑もそんなものであると思いますが)ドラッグは不離の関係で、幻視・幻聴・幻覚状態で指導者が語ったことや、創作者が“見聞”したことが多分に入り込んでいるのではないでしょうか。

以上のような次第が想定されますから、口誦伝承が原型とはとても言えないと思いますが、どうでしょうか。

> 松山師…

師がいう、詩偈先行はもちろん、納得するところですが、しかし、それらが原文が、釈迦の直説であるとは言っていないと思いますよ。

> 実は一番難しいのは、日蓮聖人の言う「真実」…意味

ええ、もちろん、これは一つの難問です。
ただ、わたしがここのところ、言ってきたのは、日蓮が基礎にした当時の通年は、現代では通用しない、基礎資料の間違いに基づく教義が、正しいとは言えないということですから、これはまた別の問題です。

> 己心

では、日蓮はどこまで、己心とするのでしょうか。
本尊抄の記載は、智邈止観の三千不可思議境、湛然の一念三千を追体験ですね。「説己心中所行法門」です。ここでいう法門とは、もちろん、十法界のことでしょう。ここで想定されているのは止観禅の観法ですから、当然、己心に違いありません。しかし、たとえば、その題名『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』という如来、末法、本尊のうち、己心に係るのはしかし、本尊だけではないでしょうか。如来も己心、その説・滅も己心ということではありません。

日蓮は釈迦を実在の人物としてとらえ、自分を去ること二千年前に入滅していることを事実として掌握していたでしょう。この部分が己心法門であるということではありません。その前提で、わたしが申し上げているのは、日蓮の如来観、自分を去ること二千年、法華経は釈迦の直説と言った基礎的な考えが違っていたということです。

>> Q 法華経は真実ですか。
> A 古代の書物ですから、古代インドの神話や伝承、世界観の中に、仏教の非常に重要な法門が説かれています。

これは、質問と答が一致していません。その重要な法門は釈迦が説いたものですか、それは真実ですかという質問です。

>>Q お釈迦様が説かれたものですか。
> A 仏教の大事な法門が、仏弟子達によって詩の形で口伝され、それが紀元前後に経典に編纂されてものです。

この点については、上述しましたが、では、宝塔涌現、地涌付嘱も釈迦が説いたものですか。

>>Q 鎌倉時代は末法ですか。
> A 末法と言ってしまえば、法華経が編纂された当時もすでに末法と考えられていたのでしょう。末法とは、いつの時代でも仏教徒は使命感と危機感とを持って仏法を広めていかなければならない、という警鐘でしょう。

末法思想というのは、たしかにそんなものでしょう。
しかし、日蓮の教学は、これでは説明できないでしょう。2000〜2500年の限定用法にこそ、その意味があるからです。それはつまり、先に挙げた『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』という題名が示すとおりです。仏滅年代が違えば、日蓮の教学は瓦解します。日蓮の自覚も根本から覆ることになりませんか。

わたしが以上の点に拘るのは、自分の信仰の見直しということです。人に質問されて矛盾したことは答えられないというわたしなりの善意と責任感からです。

803今川元真:2006/06/21(水) 12:28:11
【点・線・面の点】 ●ゴウタマシッダルタor存在したかもしれない久遠実成仏、500年後の5(五時判の5倍)or久遠実成の覚り(観心)から500年の5倍●経典所説諸々→信学行→真実の妙法蓮華経、真の一念三千、真の仏(如来)≒経題主題の真実証明●滅後法華経誹謗の者を指すなり(リアル)、経典諸説(フィクション系)→法華一乗宣揚(経典核心の真実)→皆成仏道●シャクソンから譲り受ける因行果徳の範囲(始成正覚or久遠実成or一念三千が造り出す経典世界)●鎌倉時代の修行方法と21世紀時代の修行方法は違う?

804一字三礼:2006/06/21(水) 12:30:01

犀角独歩さん

> 口誦伝承が原型とはとても言えないと思いますが、どうでしょうか。

いいえ違います。
経典、特に法華経などは、古くから伝承されてきた法門が詩偈(重偈)であり、それを補足・説明するのが長行です。ですから構成自体にも口誦伝承の形がはっきりと残っております。

> 仏教集団(に限らず、古代の祭政とは抑もそんなものであると思いますが)ドラッグは不離の関係で、幻視・幻聴・幻覚状態で指導者が語ったことや、創作者が“見聞”したことが多分に入り込んでいるのではないでしょうか。

「幻視・幻聴・幻覚状態で指導者が語ったこと」の‘指導者’とは誰を指すのでしょうか。
仏教徒にとっては、‘仏教とドラッグが関係ある’とする発言は、これだけ聞くと非常にショッキングなものです。
このようなご主張をされる時は、まず仏教とドラッグの関係を示す明確な証拠なり資料を提示なさるべきでしょう。

>> 法華経は真実ですか。

独歩さん、これはあなたが設定した設問ではありませんか。私が言ったものではないですよね。
私は法華経を真実であるか、真実でないかの二者択一ではみておりません。
だいたい、仏教というものは2500年前から続く大きな文化潮流であり、日本においても宗教・文学・芸術・生活とあらゆるところに大きく影響を及ぼしております。その中でも特に法華経の影響が最も大きいでしょう。
文化や思想潮流としてすでに12世紀以上もの永きにわたって定着し、多大な影響を及ぼしている法華経です、それを‘真実か真実でないか’この視点で判断することには、失礼ながら私は意味がない、というより‘もったいない’と思うのです。

法華経は、約2000年前、インドないしは中央アジアで三期または四期にわたって編纂されたのでしょう。その古代インドの書物は素晴らしい構成力で、他の大乗経典を寄付けない壮大な世界観を持ちます。また、初期大乗経の特徴でもある、節度を持った禁欲的で素朴な教説も魅力的です。

須弥山を中心とする九山八海の世界に、天龍八部衆が侍り、霊鷲山の虚空で数え切れないほどの仏や菩薩達が奥深い法門を語り、信じられない神通力を使うのです。
この法華経から、文学を志す者は文学的表現を学び、芸術を志すものは作品に取り入れ、僧達は不軽菩薩に忍耐の範を見たのでしょう。

このようにして、たぶん昔から日本人がしてきたように、有用なところは取り入れ、そうでないと思われるところは採用しなければよいでしょう。

松山先生の法華経講義で、更なる法華経の奥深さに気付かされるようになったのは、私だけではないはずです。
その法華経を‘真実か、真実でないか’で斬ってしまうことは意味があるのですか。

805一字三礼:2006/06/21(水) 12:54:46
乾闥婆さん

> 正確な仏滅年などいまだ判明していないと思うのですが。

あなたはご自分の発言の矛盾しているのがお分かりになりませんか。
北伝の仏滅説を‘明らかな間違い’としながら‘正確な仏滅年代などいまだ判明していないと思う’という。
これでは、あなたが‘明らかな間違い’と指摘する根拠がないということになるでしょう。

ただ、この件につきましては、意味がありませんのでこれでお終いにしましょう。小さいことこだわって、私が意地の悪い書き方をしました。

顕正居士さん

仏滅年代についてのレスありがとうございます。
トンデモ説はとても面白かったです。

806犀角独歩:2006/06/21(水) 13:29:05

一字三礼さん

> …構成自体にも口誦伝承の形

わたしは具体的な質問をしています。
では、経典に登場する仏菩薩など、法華経で云えば、多宝塔、地涌菩薩は釈尊の伝承であるという考えだと云うことでしょうか。

> 「幻視・幻聴・幻覚状態で指導者が語ったこと」の‘指導者’

経典として語った人ほどの意味です。

> ‘仏教とドラッグが関係ある’…明確な証拠なり資料を提示なさるべきでしょう。

この点は既に雖念さんが詳しく記しています。
『悟りを科学する』は、その点を論じ合ったスレッドでした。
http://jbbs.livedoor.jp/study/364/#15

ドラッグ [drug]
薬品。薬種。薬剤。(三省堂提供「大辞林 第二版」)

別段、わたしが初めて論じるようなことではなく、たとえば日蓮も行った修法・虚空蔵求聞持法では、水銀を使用していることは既に指摘されていることで、ここで得る太陽体験は水銀中毒との因果関係は論じられてきています。このような事情は、何も日本ばかりのことではなく、洋の東西を問わず、いずこでも行われてきたことではないですか。また、現代でもアジアでは、仏教僧がドラッグを使用することは珍しいことではないとのことでした。

>> 法華経は真実ですか。

切り文されては意味が違ってしまいます。
わたしは「重要な法門は釈迦が説いたものですか、それは真実ですか」と訊いたわけです。歴史のなかにおける解釈添加を云ったのではなく、多宝塔の物語や、地涌菩薩の物語は釈迦の直説かという質問です。

> 多大な影響を及ぼしている法華経です、それを‘真実か真実でないか’この視点で判断することには、失礼ながら私は意味がない、というより‘もったいない’と思うのです。

それとこれとは問題が別でしょう。
影響を及ぼしそれがよい結果であったかどうかと、日蓮が基礎にした資料が偽であったかと、どうして一緒に論じるのでしょうか。
ここで問題にしているのは、影響・作用についてではなく、あくまで、資料(経典)の真偽ですよ。それを、明確にすることは、もちろん、意味があります。

> 法華経を‘真実か、真実でないか’で斬ってしまうことは意味があるのですか。

ああなるほど。わたしが斬ってしまっているように映じるというわけですか。

そうではなくて、わたしは「法華経は釈尊が説いた直説真実ですか」と問われた場合、「違います」としか答えようがないと言っているわけです。
しかし、そうではあるけれど、その精神、仏教の歴史の中で培われてきたものは捨てがたい、と答えるという道筋を言っているわけです。

影響があるから偽者であるとはいえないなどという論法は、しかし、成り立ちません。わたしはそんな論法は一種の詭弁であると思いますよ。

よい影響力があるからその真偽を問うのは意味がないというのであれば、「本門戒壇の大御本尊様から功徳をいただいたという人がいるのだから、その真偽を問うことは意味がない」という論法と同列ですが、如何でしょうか。

なお、仏滅年代に関する乾闥婆さんの質問は、一字三礼さんのほうが矛盾していませんか。わたしは、日蓮が採用した仏滅年代は間違っていませんかと記しました。しかし、あなたはそれに対して、答えていません。日蓮教学を採用するというのであれば、鎌倉時代が末法であったこと、その説が釈迦の直説であることを、証明しなければならないのは、その主張者のほうです。日蓮の時代が仏滅2200年であると説明する義務は日蓮信徒が負っている責務です。

807今川元真:2006/06/21(水) 16:30:10
誤字脱字失礼しました。 500年後の5(五時判の5)倍、 (リアル系)

808一字三礼:2006/06/21(水) 17:51:40
犀角独歩さん

> わたしは具体的な質問をしています。

私はすで具体的にお答えしました。
この上の設問は、特定の答えに誘導されているかのようです。
私は独歩さんと同じ視点で意見を述べているのではありません。

法華経で聞きたいことがあれば、松山先生の法華経講義の時に、直接、先生に質問されてみてはいかがですか。

> 日蓮も行った修法・虚空蔵求聞持法では、水銀を使用していることは既に指摘されていることで、ここで得る太陽体験は水銀中毒との因果関係は論じられてきています。

虚空蔵菩薩求聞持法の修法は一つではありません。
日蓮聖人が行った修法が特定されているのですか。その修法の中で、日蓮聖人が水銀を使用されたということでしょうか。

>> 法華経は真実ですか。

法華経を観る視点が違うのです。私の意見は最初に述べております。ご確認ください。

> 影響を及ぼしそれがよい結果であったかどうかと、日蓮が基礎にした資料が偽であったかと、どうして一緒に論じるのでしょうか。

日蓮聖人が基礎とした資料とは法華経を指すのでしょうが、現代において法華経のような仏典を「真か偽か」で問うことに意味がないと申し上げているのです。
法華経が「真か偽か」にどうしてもこだわるのであれば、この件も松山先生にご質問されてはいかがですか。

> わたしはそんな論法は一種の詭弁であると思いますよ。

私は自分の意見を言っているのですよ。
「法華経は釈尊が説いた直説真実か否か」に意味はないと主張しているのです。
詭弁を弄する者と言われるのは心外です。

> よい影響力があるからその真偽を問うのは意味がないというのであれば

勝手に作らないでください。私は「よい影響があるからその真偽を問うのは意味がない」などとは一言も言ってはおりませんよ。

法華経というものは、約1200年も前から宗教書としてだけではなく、文化・芸術・文学その他に於いて深く根付いているものであるから、現代でも有用と思われるところは使い、それ以外は使わなければよいのではないでしょうか、と言っているのです。

> わたしは、日蓮が採用した仏滅年代は間違っていませんかと記しました。しかし、あなたはそれに対して、答えていません。

答えられなくて当然でしょう。仏滅年代はいまだ特定されておりません。
だから「日蓮が採用した仏滅年代は間違っていませんか」と問われれば、現行資料からは、「正しいとも間違っているとも言えない」となります。
ところが「明らかな間違い」と乾闥婆さんが仰るので、それは根拠のないことではないでしょうか、と言ってのです。

809一字三礼:2006/06/21(水) 18:11:49
> 802

> 日蓮は釈迦を実在の人物としてとらえ、自分を去ること二千年前に入滅していることを事実として掌握していたでしょう。この部分が己心法門であるということではありません。その前提で、わたしが申し上げているのは、日蓮の如来観、自分を去ること二千年、法華経は釈迦の直説と言った基礎的な考えが違っていたということです。

日蓮聖人の法華経は本門立ちです。その本門の中心の寿量釈尊は「常在霊鷲山」を宣言されます。
もしも聖人が法華経を単純に、全て文字通りに信じていたのであれば、釈尊は二千年前に入滅された、とは考えないで、今もインドにいらっしゃると考えたでしょう。
もしそうなら「一心欲見仏 不自惜身命」の文の通り、日蓮聖人はインドに向かわれたことでしょう。
ところがご遺文では、実在のインドの霊鷲山という土地には、まったく興味をしめされない。

そして日蓮聖人は霊鷲山を、田村先生のお言葉を借りれば「成る浄土・ある浄土・逝く浄土」として把握されていた。
これは、法華経を二千年前に実際に説かれたものとして観ていたのではなく、宗教書として内面から捉えていたからでしょう。

810顕正居士:2006/06/22(木) 01:22:29
中世日本人に歴史という概念はあったか?

を考えると、古代日本人にすでにあったでしょう。記紀では神代と人代を区別しています。
つまり神話と歴史の区別です。文字がなかった時代と文字を輸入した時代ともいえます。
ただし二つの時代の移行期には神話とも歴史ともつかない期間が存在します。
室町時代が日本で仏学が最もパワーがあった時期で、江戸時代に入ると儒学、洋学に
その地位を譲ります。知識人は仏教を「愚夫愚婦」の迷信とみなすようになりました。
その理由として仏者の歴史概念の欠如があったでしょう。日蓮の遺文を見ましても、
彼はまったく神話の中に生きている、対して近世的意識にすでに到達していた北条氏は
このフィクションの中に生きるデマゴーグの処置に困惑したでしょう。
しかし遺文を見れば、扇動家の性質に溢れているとはいえ、知的な人物でないわけではない。
それは江戸時代の仏者といえども同じです。要するに、問題は仏教にあります。
仏教は「唯心論」ですから、結局、Aと非Aの区別がありません。無論理なのです。
つまり、「愚夫愚婦」の迷信需要に応じて、仏者の利益になることを説くに過ぎない。
室町時代になぜ、日本で仏学が最もパワーがあったかといえば、この時期は本覚思想の
クライマックスで、唯心論の克服が行なわれたからです。

811乾闥婆:2006/06/22(木) 01:45:46
一字三礼さん。

>これでは、あなたが‘明らかな間違い’と指摘する根拠がないということになるでしょう。

私は‘明らかな間違い’と指摘する根拠を示しました。『岩波仏教辞典』「釈迦」の項目における生没年「前463-383頃、一説に前566-486頃」。

>いえ、そんな感じだったのではないでしょうか、もしくは一番理屈が通っていると考えたのかもしれませんね。

驚きました。蓮祖の遺文中に「いくつかの教相判釈があり、それらはどれも相応に正しい」と受け取れる記述があるのですか。

>「四十余年未顕真実」とは「無量義経」に出てくる経文のです。経典に説かれる事柄を日蓮聖人が現実と捉えていたと考えるのはナンセンスであり、意味がありません。

なぜ経に出てくる「四十余年未顕真実」という言葉を蓮祖が現実ととらえていたと考えることがナンセンスなのでしょうか。現に蓮祖聖人はこの言葉を使われて法華経の優位性を主張されています。

>これは、法華経の釈尊の仏土を顕す経文で、現実的にはありえようもない娑婆浄土ですね。これを現実にインドに存在すると考えられたでしょうか。

それら法華経の記述を、現実的にはありえないと考えるのは、現代人の視点ではそうなのだと思います。中世日本において、経典表現の位置づけが、広く虚構と受け止められていたのでしょうか。なによりも蓮祖が虚構と認められていたとはっきり分かる遺文はあるのでしょうか。

>本当に日蓮聖人が法華経が全て事実であり、現実に起こったことと把握したのであれば、日蓮聖人はインドの霊鷲山に向かわれたのではないですか。「常在霊鷲山」は法華経の中心、寿量品のご金言ですから。

そうでしょうか。「一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山」であれば「南無妙法蓮華経」と唱える蓮祖はすでに「常在霊鷲山」の教主釈尊を体感しているのではないでしょうか。この点は以前の犀角独歩さんの発言に強い感銘を受けました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/125

>日蓮聖人は法華経のみならず、一切経を衆生の己心のことを考えておられたのではないでしょうか。これは顕正居士さんが仰るように、仏典は報身如来の説と考えられたからでしょう。

己心をめぐっての議論は一字三礼さん犀角独歩さんとの議論を待ちたいと思います。私はむしろ「日蓮聖人は法華経のみならず、一切経を衆生の己心のことを考えておられた」と受け止めたい人間です。しかし現在はこのスレッドでの遣り取りを通してそのように受け止めなくなってしまっています。そのことにも私は苦しんでいるのです。

812乾闥婆:2006/06/22(木) 01:46:27
犀角独歩さん。

>教義・本尊の誤認を論じられることは、自身の信仰、実体験を揺るがされることであり、その実体験=信仰に支えられた自分自身を否定するという自我存立の危機感を彷彿する構造がここにあるのだろうというのが、わたしなりの分析です。

そのとおりだと思います。ですから私は現実と信仰を切り離し、虚構を虚構として自立させて信仰を全うしようと考えていたのでした。しかし私は虚構の住人にはなりきれませんでしたし、それでよかったのだと思います。それによる苦しみは受け止め続けなければならなくなりましたが。

不思議であるのは犀角独歩さんが、「それが漫荼羅を本尊と思い、日蓮が確定した唱題という行をやるという方法論は、採ってもいいと思います。大いにやってみるべきです。わたしは唱題も読経も好きですし、やれば、やってよかったといつも思います。」といわれたことにありました。また犀角独歩さんはこのようにも言われます。「日蓮は基礎データは間違えた。しかし、真実の究明しよう、善意で行動しよう、民衆と国土を救いたいという気持ちは間違っていない、わたしは、その日蓮を信仰していると言っているのです。つまり、教えが間違っていても、その精神性と事実究明という姿勢は信仰に価すると言っているのです。」言われていることはわかるのですが、いつも腑に落ちないのは、精神性や姿勢というものは、見習うべき一つの範例ではあっても、信仰の対象にはならないのではないかということです。信仰には形態や方法論が必要なのではないかと考えるのです。しかし精神や姿勢にはそのようなものはありません。ですので、形態として、方法論として、曼荼羅に向かっての唱題を私は選んでいるのですが、それは間違われた「基礎データ」の上に成り立っているわけです。このような状況をどうしたらよいのでしょう。犀角独歩さんにおける信仰の形態の意味合いといったものはどのようになるのでしょうか。

813乾闥婆:2006/06/22(木) 01:55:28
顕正居士さん。

いつも意義ある情報提供をいただき、ありがとうございます。少し投稿が錯綜してしまいましたが、非常に興味深い視点に気づかされました。そうしますと中世日本の僧侶に経典の虚構性をはっきりと認識し現実の歴史と判別する視点はありえたのでしょうか。

814顕正居士:2006/06/22(木) 05:27:42
>>813
虚構性なんか、いつの時代の人でも大乗経を一見すればわかります。
虚構だけれども、どれにも説主として仏教の開祖である釈尊が出て来る。
だから、何か釈尊と関係があるフィクションとして整理したのが教判です。
その上で寓意を拾って来るのが「観心」です。
インドの現実の歴史のことは、今だって、たいしてわかりません。
ただし日本天台の本覚思想家は虚構性をよりはっきりと認識した。
対して日蓮は神話の中に生きていた。だから大衆が付いたのですが、
天文法乱に至った。しかし比叡山も破却され、山僧は日蓮宗に亡命した。
ここに観心主義の教学が興って、神話を比喩と解釈するようになった。
そうして生まれたのが「御義口伝」などです。

815今川元真:2006/06/22(木) 06:24:58
横レス失礼します。 宗教は理想像・理想論に近づく為のイメージトレーニングと現実社会との折り合いがある訳で、僧でも夢幻の虚構で何十年も信徒を騙し通す事はできないから、 末法の始めと断言し経典の泥沼から蓮の花を咲かせるように本門様式を創出させて、より理想が現実に形造り易いように表現した漫陀羅が日蓮聖人の確信の一つだったのでは無いでしょうか。日蓮聖人は主師親の徳をある程度備えているので漫陀羅を拝まなくても良いのですけれど、文字の読み書きも儘ならない人々は説法を聞き漫陀羅を拝んで礼拝を修行するしかなかった。嘘から出た真が実を伴うかは個人の信学行次第。蓮華の育て方次第。

816ななしさん:2006/06/22(木) 07:18:02
今川さん
なるほど。感じ入りました。それは蓮師の誓願だったのかも知れませんね。開目抄の一節が身に迫ってくるようです。
蓮師は、精神作用の不思議さを分かっていたように思います。心が大事であるといわれ、心の影響力を重視されていたと思います。勇気、慈悲、忍耐といった善の徳性をどう現実の上にあらわし、良き人生を歩ませ、よき社会を現出させるかを考えておられたのではないでしょうか。

817犀角独歩:2006/06/22(木) 07:55:31

一字三礼さん

松山師からは、梵本の講義を受けていますが、師は、まったくの無信仰で、既に、法華経は西暦前後に創られた最高傑作の“物語”であるといっていますよ。
また、師の見解も、見解のなかの一つです。なぜ、ここで松山師を引き合いに出すのか意味がわかりません。

また、何度も繰り返しますが、わたしがここで問題にしたのは、西暦前後に創作された法華経が釈迦の直説ではないこと、日蓮は自分が釈迦滅後2000〜2500年に生きたとしたこと、しかし、その基礎の分析を間違えたと、近代の科学成果から記したわけです。これは一字三礼さんの信仰とはまったく関係がありません。また、あなたの日蓮・法華経理解とも関係がありません。科学的な話です。

誘導などといっていますが、そもそも「日蓮は間違えた」というわたしの投稿に端を発したことです。わたしは当初から一貫して近代科学における成果に基づいて記しています。これは信仰とは関係のないことです。また、その信仰に基づく各人の感情、理解も関係ありません。

>「法華経は釈尊が説いた直説真実か否か」に意味はないと主張

とすることは、わたしの上記のカテゴライズが科学であるのに対して、信仰から異見を述べられていることを明らかに物語っています。ナンセンスです。

当スレは『現代人が納得できる日蓮教学』です。科学的成果を、自身の信仰から改変して理解するような姿勢には、わたしは現代人は納得しないと考えます。

818犀角独歩:2006/06/22(木) 08:16:05

乾闥婆さん

> いつも腑に落ちないのは、精神性や姿勢というものは、見習うべき一つの範例ではあっても、信仰の対象にはならないのではないかということです。信仰には形態や方法論が必要なのではないか

たぶんこの点は、信仰という言葉の概念規定の差異があるのではないでしょうか。

わたしが日蓮の善意と姿勢、行動を信仰するという場合、それは「信じ仰ぐ」ほどの意味にしか過ぎません。

ここ数年の議論で既に論じられたことですが、そもそも原初教団では「信」はそれほど、重大な意味を持っていなかったでしょう。仏教集団が「信」を強調せざるを得なくなったのは、バカバットギータの影響で、バクティ型の帰依が定着した以降のことでしょう。わたしは、これは外来思想であると考えますし、そもその、こんな絶対者信仰は仏教に悖ると考えます。ですから、善いことは信じ仰ぐという意味以上で、自分の信仰は扱いません。これは取捨一の観念ではありませんから、釈迦の善いところを信仰する、日蓮の善いところを信仰する、場合によっては法然の善いところを信仰する、聖書の善いところを信仰するという複数摂取の意味で使っています。bhakti からの卒業、adhimukti の志向ほどの意味でもあります。

よく引用するのですが、わたしは、下記の高橋師の一節に強く感銘を懐き、師との親交をかつて深めた一人です。ですから、シンボルの病からの脱却という‘功徳’は仏教の秀でた一面であると考えています。しかし、そこで経典、御書、本尊を絶対視するとき、それでは仏教とは成らないだろうという思いもあります。

「教祖の釈迦は、現代のカルト的宗教が説くような、「私を信じなければ不幸になる。地獄におちる」式の脅しの言説は一切していない。
とはいえ仏教が輪廻思想から自由でないのは、当時のバラモン(婆羅門)や沙門(シュラマナ)たちが共有していた文化的な枠組みのなかで釈迦が生きていたからだが、釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決であり、苦悩の原因が執着によっておきることを解き明かし、それらは正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたるという極めて常識的な教えを提示することだった。とすれば人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できることで、したがって釈迦は秘技伝授の超能力者でも霊能者でも、ましてや「最終解脱者」でもなく、もちろん「神」のような絶対者でもなかった。しかしカリスマを求める周囲の心情はいつの時代も変りがない。死後の釈迦は次第に神格化され、俗化される。たとえば釈迦の骨がフェティッシュな崇拝の対象となったり、、釈迦の言説とされる教典それ自体が信仰の対象となったりという、釈迦が最も忌避した「執着」へ人々は再び回帰したのである。そこにあるのは象徴(シンボル)の病である」(『超能力と霊能者』現代の宗教8 岩波書店 1997年2月5日 第1刷 P215)

一方、乾闥婆さんが仰る「信仰」とはどのようなものでしょうか。

以下のいちりんさんの指摘もまた、信仰、本尊を考えるうえで、参考になると思います。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/12-13

819一字三礼:2006/06/22(木) 08:29:51
乾闥婆さん

> 私は‘明らかな間違い’と指摘する根拠を示しました。『岩波仏教辞典』「釈迦」の項目における生没年「前463-383頃、一説に前566-486頃」。

釈尊の生没年代に関する‘仮説’は私も存じておりますよ。ですが、実際の釈尊はたぶん一度生まれて、一度亡くなったのでしょう。
あなたは、約100年の誤差のある説を2つも並べているのですよ。
あなたの挙げた根拠と称するものはあくまで‘仮説’ではないのですか。なぜ、生没年代を2つも記した‘仮説’を根拠に、他の‘仮説’を「明らかな間違い」と言えるのですか。
「明らかな間違い」と言い切るのであれば、正確な釈尊の生没年代をあなたが示すのが議論のルールでしょう。
ところがあなたは
> 800
> 正確な仏滅年などいまだ判明していないと思うのですが。
と発言されたのです。
ご自身で、「いまだ仏滅年など判明していない」と言いながら、他の仮説を「明らかな間違い」と言っているのですよ。
わかりますか。あなたは、自己矛盾に陥ってますよ。

> 中世日本において、経典表現の位置づけが、広く虚構と受け止められていたのでしょうか。

814の顕正居士さんのご意見がもっともだと思います。法華経及びその他の経典の虚構性は一読すれば誰にでもわかることではないですか。
いかに中世人とはいえ、実際に天龍八部衆がインドに存在したり、霊鷲山上に数兆億の仏菩薩が集まったとは考えないでしょう。

820犀角独歩:2006/06/22(木) 09:08:20

検索すると、真蹟遺文では「真実」は167の使用例が見られます。
わたしは、この日蓮の用法は虚構に基づいているとは考えません。

> いかに中世人とはいえ、実際に天龍八部衆がインドに存在したり、霊鷲山上に数兆億の仏菩薩が集まったとは考えないでしょう

そんなことはないでしょう。考えていたはずです。
そんなことを言い出したら、そもそも仏菩薩、諸天善神、輪廻転生、十界、もっと言えば、一切の経典、教義、本尊も虚構だと考えていたというのでしょうか。

また、仮に日蓮が虚構に基づいているとすれば、そもそもその信仰とは何でしょうか。虚構に基づく教義を、虚構と知りながら、絶対であるというとすれば、これほど、人を食った話はありません。もはや、信仰というより、悪しき観念の遊技というほかありません。

近代以前の人類は、そもそも神話と科学の区別が着かなかったのであって、それを現代の常識で考えられるはずはありません。現代から見て、不都合なところは虚構だとわかったうえでのことだというような論法は不徹底です。書かれているこの物語は神話で虚構であるというのであれば、では、日蓮が言う真実とは何でしょうか。第一、では、日蓮が法華経に書かれたこと、四教義、五綱教判が虚構に基づいていると、どこに書いているのでしょうか。その証拠を求めます。

また、仮に虚構だとわかって組み立てた教義であれば、間違いであるより、もっとお話にならないことでしょう。

だいたい、そんな虚構に基づく漫荼羅本尊への絶対帰依を、ここでは論じてるわけですか。漫荼羅を本尊と仰ぎ、必至の唱題をして実体験を得た皆さんは、虚構だとわかったうえでのことですか。とすれば、その実体験こそ、虚構ではないでしょうか。

経典は虚構であるとは、論理の自殺でしょう。
何のために中古天台本覚思想の点検から、日蓮本仏論の非を責め、彫刻本尊の真偽を論じるこの掲示板で議論に参加しているのでしょうか。

一字三礼さん、あなたに乾闥婆さんを矛盾と詰問する資格はないですよ。

821犀角独歩:2006/06/22(木) 09:18:02

【820の訂正】

誤)四教義、五綱教判が虚構に基づいている
正)四教義、自身の教義が虚構に基づいている

822一字三礼:2006/06/22(木) 09:27:20

犀角独歩さん

一字三礼です。

日蓮が基礎にした資料が偽であったか、法華経が「釈尊の直説」であるか否か、に意味がないというのは、その論法では不可知論に陥るとかねがね思っていたからです。

釈尊の直説を探せば、独歩さんもご存知のように、「経集(スッタニパータ)」の後半の二章に含まれる、ほんの数偈しかないと言われます。

「聖典(スッタニパータ)のうち右の古い部分(終わり二章の偈)にはわりあい神話的要素や釈尊の超人化・神格化は少ないけれども、しかし絶無ではない。なおかなり存する。文献にもとづくかぎり、神話的ならざる釈尊というものはえられない。」(「釈尊の生涯」中村元)

「文献にもとづくかぎり、神話的ならざる釈尊というものはえられない。」ということは、「釈尊の直説」というもの、もしくは直説の経典は存在しないに等しいということでしょう。
あるいは、「経集」の後半二章の偈の‘激流を渡れ’は「釈尊の直説」かもせれませんが、それだけでは仏説の態をなしません。

五部ニカーヤや四阿含の釈尊でさえ、三十二相・八十種好を備えております。釈尊の直説ではありません。だから‘偽’ですか。
四諦・八正道・十二因縁すべて「釈尊の直説」ではありません。
部派仏典を根拠とした論書は、基礎文献が‘偽’であるのですべて誤りとなりますか。部派の経・律・論・全て‘偽’を根拠としておりますから同じですか。

法華経を含む大乗仏典も、龍樹・世親等の大乗の論書であっても、「釈尊の直説」を根拠としていないので‘偽’となりますか。
中国・日本の仏者や論師の説もすべて‘偽’にもとづくものです。

およそすべての顕・密・部派仏教の経・律・論はすべて「釈尊の直説」によらないので‘偽’。

しかしここまできて、「釈尊の直説」が正しいという命題の根拠となる経も‘偽’であることに気付くわけです。


ただ、独歩さんが仰りたいのはそんなことではないでしょう。

独歩さんが‘日蓮の間違い’という言葉を敢えて使われたのは、「五時説は説法の次第であり正しい」とする盲説に対する警鐘だったのだと想像します。

日蓮教学の誤りを指摘するのであれば、他からのアプローチがよいと思うからです。
それから私は十界互具・一念三千等は誤りである、とする立場ですので、日蓮教学を擁護するものではありません。

823犀角独歩:2006/06/22(木) 09:52:50

一字三礼さん

822に記されていること、一切の経典は、結局のところ、それが釈迦の説教であるといえば、偽でしょう。もちろん、そう思います。

大乗経典は報身の説法ということでしたが、日蓮は少なくてもそうは考えていなかったでしょう。『法華題目鈔』は断片の現存ですが、これが日蓮の真蹟であれば、日蓮の見解であり、仮に疑偽であったとしても、門下一般の認識であったわけです。

「釈迦如来は法華経のために世にいでさせ給たりしかども、四十二年が間は名を秘してかたりいださゞりしかども。仏の御年七十二と申せし時はじめて妙法蓮華経ととなえいださせ給たりき。」

「仏世に出させ給て五十余年の間八万聖教を説をかせ給き。仏は人寿百歳の時壬申の歳二月十五日の夜半に御入滅あり。其後四月八日より七月十五日に至まで一夏九旬の間、一千人の阿羅漢結集堂にあつまりて、一切経をかきをかせ給き」

これが近代前の認識です。

わたしが言いたいのは、事実の究明に、自分の信仰を持ち込みな、その一点です。さらにいえば、真実から目を逸らすなということです。

> 日蓮教学の誤りを指摘するのであれば、他からのアプローチがよい

一字三礼さんのような知識を持っている人にはそうかもしれません。
しかしながら、釈迦五十年の説法中、八年の法華説法は釈迦の真実、五時八教を、いまだに石山、学会、顕正会共に、教学として勉強しており、挙げ句に日蓮本仏をいい、彫刻の絶対性を主張しています。
そして、ここで起こったことを、わたしは日本戦五歳代の宗教詐欺、宗教被害であると認識しています。

それにも関わらず、この世界では、いまだに、この間違いを放置して、平然としているわけです。

わたしが、乾闥婆さんの苦悶を尤もだと記したのは、それまで、絶対の信仰であると信じていた屋台が、その土台から間違っているという現実にぶち当たったとき、当然、起こる葛藤だからです。それを教学解釈で正面から見ようとしないというのは不誠実であると思うからです。

わたしはかつてキリスト者と話したとき、「この世が一週間でできたはずはない」と『聖書』を一節を持っていうと「愚かな。あれは一般で使われる一週間ではなく七期に分けたという寓話ですよ」と言ってのけたものでした。解釈とは便利なものだと思ったものでした。説得力はゼロでした。しかし、この信者は平然としていました。それと同じことを、ここで繰り返す徒労は犯したくありません。

法華経は創作であった、天台の解釈も違っていた、日蓮も間違った、しかし、いま、漫荼羅に向かって唱題をしている、ほかにそれ以上の修行も方法もわからない、さて、どうしようかと考えるときに100年前までしか通用しない‘解釈’に執着しては前に進めないということです。

824犀角独歩:2006/06/22(木) 10:03:14

【823の訂正】

誤)日本戦五歳代
正)日本戦後最大

825今川元真:2006/06/22(木) 10:12:07
ななしさん、ありがとうございます。 ●直説と書いても鵜呑丸呑な訳では無いので誤差温度差が出るでしょう。そっくり其儘を信仰するなら「何故天竺国を目指さないのか。何故台密のように成らないのか。」に成らないか。●随方毘尼の物語みたいな書き方と考えたから、末法の様相を呈した鎌倉時代の日本で修行方法を考える事が出来たのでは無いでしょうか。●漫陀羅はシャカムニブツが多宝如来の宝塔に納めた久遠実成の覚りor多宝如来がシャカムニブツの教えを聞いて光り輝く。

826犀角独歩:2006/06/22(木) 10:29:47

今川さん

真に迫る『開目抄』に「仏陀は三十成道より八十御入滅にいたるまで、五十年が間一代の聖教を説給へり。一字一句皆真言なり。一文一偈妄語にあらず」と記しています。ここに温度差はありません。

なぜ天竺を目指さないのか、日蓮はその点を『』に

「此身延の沢と申処は甲斐国飯井野御牧三箇郷の内、波木井の郷の戌亥の隅にあたりて候。北には身延嶽天をいただき、南には鷹取が嶽雲につづき、東には天子の嶽日とたけをな(同)じ。西には又峨々として大山つづきて、しらね(白根)の嶽にわたれり。暇のなく音天に響き、蝉のさゑづり地にみてり。天竺の霊山此処に来れり、唐土の天台山親りこゝに見る。
我が身は釈迦仏にあらず、天台大師にてはなけれども、まかるまかる昼夜に法華経をよみ、朝暮に摩訶止観を談ずれば、霊山浄土にも相似たり、天台山にも異ならず。」

と記しています。これが疑偽書ともなれば、

「我等が弟子檀那とならん人は、一歩を行かずして、天竺の霊山を見、本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事、うれしとも申す計り無し」(最蓮房御返事)

ともなるわけですから、天竺は目指さないわけです。

827今川元真:2006/06/22(木) 11:49:16
犀角独歩さん、ありがとうございます。私は周りから有りもしない説法を言うのは可笑しいと一笑に付されてます。私は経典という例話物語であるが故に温度差は、現実に印度天竺等に行かなければ生じるものだと思います。修行者であるからです。温度差から誤差・誤解等唯受一人で一言一句学んでも時間的にと言っては何ですが、ズレが生じると見ます。差が生じるからかは判りませんが信学行を自らの意を持ってやらないと成仏得道できないと言う事をいうのでは無いでしょうか。鎌倉時代の僧・日蓮は、直説と随方毘尼物語の間で悩み格闘した事があるから修行方法の漫陀羅や唱題を勧めた経緯があると考えたいです。成仏・真実は道を開き顕して進まないと現れない物事でしょう。

828犀角独歩:2006/06/22(木) 11:54:38

今川さん、日本の天竺の霊山・身延へは行ってみました。
わたしはそのうち、天竺に行ってみようと思っています。


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