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現代人が納得できる日蓮教学
783
:
犀角独歩
:2006/06/16(金) 04:46:51
―782からつづく―
哲学という言葉も同様の経緯を孕んでいないでしょうか。
インド哲学と言われるような成句の元で使用される哲学は779で説明されるような意味背景を有していると、顕正居士さんのようなその科の出身の方は考えるのでしょうが、一般人はそう考えません。インド哲学の哲学も、人生哲学の哲学も、さらには法華経の哲学?も、特に厳格な定義を有さず、元来の意味や定義から乖離した俗語化した哲学という曖昧模糊とした用法で使用されているからです。
日蓮は法華経の哲学を基準にした、なんだかわかったような気になりますが、わたしはこれは嘘だと考えます。だいたい、何を言っているのかまるでわかりません。これでは基準は哲学となってしまいます。当の日蓮が聞いたら吃驚することでしょう。
また、同じことを繰り返さざるを得ませんが、日蓮は、法華経を、釈尊が自分を去ること2200〜2300年前に説いたとして、その教学と本尊を確定していったわけです。ここに日蓮の信念があったのでしょう。(これは日蓮の哲学ではありません)しかし、この日蓮の信念は、残念ながら近代の科学実証性の前に潰えた、さて、どうするのかという点を、わたしは考えようといっていることです。
当スレッドは「現代人が納得できる日蓮教学」ですが、では、その主語である現代人に、法華経は報身仏の説であるとか、一切の経典は久遠本仏が説いたものだといって、納得するものでしょうか。むしろ、かつて、そのように信じられていたけれど、実のところは西暦前後に創作された物語であったという議論のほうがはるかに説得力を有しています。もちろん、それは、教学的な側面から考えれば、それを日蓮がどのように考えていたかということから三身説を採ることは何ら間違いではありません。このような見直しも、その日蓮の素描においては十分に義を有します。しかし、三身説という永らく使用されてきた説明に、哲学であるとか、生命であるとかという語をもってすれば、たちまちに事情は覆ってしまわないでしょうか。
以上のような実況がありますから、わたしは…、いや、わたしばかりではなく、彰往考来さん、一字三礼さん、パンナコッタさん、たぶん、問答名人さんは、生命とか、俗語化した哲学といった語彙を以て、法華経、日蓮、広くは仏法を語るうえで、使用しないほうがよいという考えで共通しているのだと思います。
イン哲の出であるという顕正居士さんには、不本意なことであるかも知れませんが、ここでの共通認識は以上のようであると思います。
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