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現代人が納得できる日蓮教学
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:
犀角独歩
:2006/06/21(水) 06:17:16
一字三礼さん、有り難うございます。
> 経典とは仏弟子によって詩偈の形で幾世代も口誦されてきた仏説が、ある時代に経典として編纂された
まあ、初期経典などは、このような説明は成り立つと思いますが、しかし、法華経に説かれるSFのような壮大な物語は、もはや、その説明では不足ですよね。眉間白毫、三十二相八十種好、多宝塔、地涌菩薩等々、こんなことまで、釈迦が語ったとは到底考えられません。教えにしても、釈迦の言説としては、せいぜい八正道・四聖諦どまりで、十二因縁ですら怪しいのではないでしょうか。
また、かつて雖念さんも指摘されていましたが、仏教集団(に限らず、古代の祭政とは抑もそんなものであると思いますが)ドラッグは不離の関係で、幻視・幻聴・幻覚状態で指導者が語ったことや、創作者が“見聞”したことが多分に入り込んでいるのではないでしょうか。
以上のような次第が想定されますから、口誦伝承が原型とはとても言えないと思いますが、どうでしょうか。
> 松山師…
師がいう、詩偈先行はもちろん、納得するところですが、しかし、それらが原文が、釈迦の直説であるとは言っていないと思いますよ。
> 実は一番難しいのは、日蓮聖人の言う「真実」…意味
ええ、もちろん、これは一つの難問です。
ただ、わたしがここのところ、言ってきたのは、日蓮が基礎にした当時の通年は、現代では通用しない、基礎資料の間違いに基づく教義が、正しいとは言えないということですから、これはまた別の問題です。
> 己心
では、日蓮はどこまで、己心とするのでしょうか。
本尊抄の記載は、智邈止観の三千不可思議境、湛然の一念三千を追体験ですね。「説己心中所行法門」です。ここでいう法門とは、もちろん、十法界のことでしょう。ここで想定されているのは止観禅の観法ですから、当然、己心に違いありません。しかし、たとえば、その題名『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』という如来、末法、本尊のうち、己心に係るのはしかし、本尊だけではないでしょうか。如来も己心、その説・滅も己心ということではありません。
日蓮は釈迦を実在の人物としてとらえ、自分を去ること二千年前に入滅していることを事実として掌握していたでしょう。この部分が己心法門であるということではありません。その前提で、わたしが申し上げているのは、日蓮の如来観、自分を去ること二千年、法華経は釈迦の直説と言った基礎的な考えが違っていたということです。
>> Q 法華経は真実ですか。
> A 古代の書物ですから、古代インドの神話や伝承、世界観の中に、仏教の非常に重要な法門が説かれています。
これは、質問と答が一致していません。その重要な法門は釈迦が説いたものですか、それは真実ですかという質問です。
>>Q お釈迦様が説かれたものですか。
> A 仏教の大事な法門が、仏弟子達によって詩の形で口伝され、それが紀元前後に経典に編纂されてものです。
この点については、上述しましたが、では、宝塔涌現、地涌付嘱も釈迦が説いたものですか。
>>Q 鎌倉時代は末法ですか。
> A 末法と言ってしまえば、法華経が編纂された当時もすでに末法と考えられていたのでしょう。末法とは、いつの時代でも仏教徒は使命感と危機感とを持って仏法を広めていかなければならない、という警鐘でしょう。
末法思想というのは、たしかにそんなものでしょう。
しかし、日蓮の教学は、これでは説明できないでしょう。2000〜2500年の限定用法にこそ、その意味があるからです。それはつまり、先に挙げた『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』という題名が示すとおりです。仏滅年代が違えば、日蓮の教学は瓦解します。日蓮の自覚も根本から覆ることになりませんか。
わたしが以上の点に拘るのは、自分の信仰の見直しということです。人に質問されて矛盾したことは答えられないというわたしなりの善意と責任感からです。
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