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現代人が納得できる日蓮教学
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犀角独歩
:2006/06/16(金) 04:46:24
生命のドラマ法華経とは、祥伝社から発刊された創価学会元教学部長・原島嵩氏の本の題名です。
創価学会で育ったわたしは法華経も、日蓮も生命を説いた人であると信じて疑いませんでした。この事情は、たぶん、現在でも創価学会員であれば、同様ではないでしょうか。戸田城聖氏の『生命論』がその基本にありました。
しかし、この“生命”というマジックワードで解釈された日蓮も、法華経も、その原意からどんどん離れていってしまうわけです。元来、主体であった法華経も、日蓮も、生命というこのマジックワードの説明語となってしまう魔力を有しているからです。
同様のことは哲学という言葉にも言えます。法華経の哲学、日蓮の哲学などといった場合、哲学という言葉が主役を奪ってしまう魔力を有しています。
781に顕正居士さんは「物語の裏側にしっかりと哲学があります」と記された。このような説明は現代的には別段間違いではないでしょう。しかし、ここで止揚された哲学は、それが主義、信条、考え方、定見…といったその他の言葉を置いても、実は違和感が生じません。
たとえば、天台智邈大師は摩訶止観で仏教哲学を説いた、いや、生命哲学を説いたという文章は、学会を含む石山圏では通用します。しかし、わたしは、これは嘘だと考えます。天台智邈は生命を説いたのではなく、心を説いた、もっと言えば己心の行じる法門を説いたというのであって、生命はイコール心ではないし、止観は、その心身の、禅観なのであって、哲学を説いたものでもないからです。生命、哲学という成句を使わない萌芽より正確に智邈釈を説明できます。この事情は日蓮も同様です。
法華経にしても、智邈、湛然の釈にしても、日蓮の御書にしても、生命で記せば、それは生命論になってしまうし、哲学といえば、その瞬間から哲学の説明になってしまいます。この二語は実に曖昧で、一切合切を説明したかのように見せる魔力があります。
わたしは宗教集団と会員に係る問題を主な仕事としていますが、この現場で過去10年間頻繁に使用されてきた言葉は マインド・コントロール もしくは、カルト という言葉でした。我々が通常、この言葉を使う場合、その定義について、前者はスティーヴン・ハッサン師、もしくは西田公昭師などの定義に基づき、カルトという言葉の用法は主に浅見定雄師の定義に基づきます。より正確な言い方をすれば、破壊的カルト・マインド・コントロールという成句を略して、カルト、マインド・コントロールというのが、この世界での決めごとになっています。しかし、このカルト、もしくはマインド・コントロールという言葉が一たび、世間一般、マスコミ・メディアで使用されてしまってからは、本来の意味からどんどんと乖離した別の意味を孕み、ついには俗語化の憂き目に遭った経緯をわたし達は目の当たりにしました。
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