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現代人が納得できる日蓮教学

829今川元真:2006/06/22(木) 16:01:30
旅行、良いですね。 テレビで見た印象では「古代」と「近代」が交わる所。映画が盛んな国と特集番組放送されてました。

830犀角独歩:2006/06/22(木) 18:53:56

いや、旅行というより、帰還といった気分です。

831乾闥婆:2006/06/22(木) 19:44:35
>>814
顕正居士さん。

>虚構性なんか、いつの時代の人でも大乗経を一見すればわかります。
>ただし日本天台の本覚思想家は虚構性をよりはっきりと認識した。
対して日蓮は神話の中に生きていた。だから大衆が付いた

ということはいつの時代の人が見ても分かる虚構性を、蓮祖は分かっていなかったし、蓮祖と同意した多くの同時代の弟子檀那もその虚構性は認識していなかったということになりますでしょうか。神話の中に生きるとは、その神話を神話として認識していない、すなわちその神話を事実として受け止めて生きた、ということになると思います。蓮祖の仏典認識はそのような形であったということでよろしいでしょうか。

832乾闥婆:2006/06/22(木) 19:45:04
>>819
一字三礼さん。

>ご自身で、「いまだ仏滅年など判明していない」と言いながら、他の仮説を「明らかな間違い」と言っているのですよ。
わかりますか。あなたは、自己矛盾に陥ってますよ。

私は辞典に載る二つの仮説しか知りませんので「もしも一字三礼さんの知られる範囲で仏滅後二千二百三十余年と測定できる伝承ではない生没年の説があるようでしたらご紹介ください。‘明らかな間違い’は撤回させていただきます」と書きました。しかしいまだ「他の仮説」をご紹介いただけない。また「あなたは、約100年の誤差のある説を2つも並べているのですよ」といわれますが、その100年の誤差を差し引いても蓮祖の生きられた時代は仏滅後二千二百三十余年ではないわけです。ですから現在学術的に見て流通しえている二つの釈尊生没年にかんがみ、仏滅後二千二百三十余年は‘明らかな間違い’と記したのです。こんなところまで解説しなければ一字三礼さんは私の発言趣旨を理解できないのでしょうか。ほとんど揚げ足取りの言いがかりに見えます。「前463-383頃、一説に前566-486頃」は仮説に過ぎないので仏滅後二千二百三十余年の可能性が否定されたわけではない、といわれる前に、まず仏滅後二千二百三十余年を想定しうる近代仏教学に基づいた仮説を提示していただければ済むことです。仮説はあくまで仮説なのだから仏滅後二千二百三十余年の可能性がまったくのゼロであるわけではない、‘明らかな間違い’などという表現は仮説を前提として発言するに際して自己矛盾だと言いわれるのでしたら、まあ、それはそうなのでしょう。現在学術的に見て流通しえている二つの釈尊生没年にかんがみ蓮祖の生きられた時代を仏滅後二千二百三十余年とすることは間違いである、と言い換えさせていただきます。もちろん仏滅後二千二百三十余年と測定できる伝承ではない生没年の学説を提示していただければ、私は自身の発言を撤回させていただきます。

ロム中心の浅学な私が、こちらの掲示板に書き込みをしようとする以上、真摯に語り合いたいという思いと覚悟を持って書き込みをします。「‘明らかな間違い’とまで仰るのでしたら正確な仏滅年を教えてください。100年も幅のある仮説はいりませんから、正確な年代をお願いします」「答えられなくて当然でしょう。仏滅年代はいまだ特定されておりません」「小さいことこだわって、私が意地の悪い書き方をしました」。一連の一字三礼さんの私に対する姿勢には、御自覚されているように、なにか、底意地の悪い、悪意のようなものを感じます。率直に、仮説である以上‘明らかな間違い’とまで言ってしまうのは言い過ぎではないか、とおっしゃってくれればいいのです。また私の知らない仮説を率直に提示してくれればいいのです。こういう遣り取りは疲れますし、不毛ですが、不愉快にさせられた挙句に一方的に終了させようとされるその態度もさらに不愉快で、ここまで引っ張らせていただきました。

>814の顕正居士さんのご意見がもっともだと思います。法華経及びその他の経典の虚構性は一読すれば誰にでもわかることではないですか。

顕正居士さんによれば蓮祖は神話の中に生きていたことになります。神話の<中>に生きるとは、神話の外部に立たないと言うことです。「法華経及びその他の経典の虚構性」を認識せずにその内部で生きる、とは「法華経及びその他の経典の虚構性」自体を生きる場の現実として受け止めていると言うことではないでしょうか。

>>811で私が発したいくつかの問いに対するお答えもお待ちしております。他の方々の対話を通じてそれらの私の疑問点も解消されてゆくかもしれませんね。己心をめぐっての犀角独歩さんとの議論も期待しております。私はあなたと言い合いがしたいのではなくて、対話を通して私の抱えている疑問や苦悩を解決したいだけなのです。

833乾闥婆:2006/06/22(木) 19:45:40
>>818
犀角独歩さん。

>釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決であり、苦悩の原因が執着によっておきることを解き明かし、それらは正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたるという極めて常識的な教えを提示することだった。とすれば人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できる

私が信仰の形態と方法論と言うことにこだわってしまうのは、信仰とは取り組みであると思うからです。取り組み方がはっきりとしていなければ、誰にもできるものではなくなってしまいます。「人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できる」「正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたる」と言った部分になると思います。取り組み方が明確で、誰にでもできる。曼荼羅に向かい題目を唱える。非常にシンプルです。しかし現状はその形態そのものが私を縛り悩ませる結果となっています。同時に形態なくして信仰はないとも思っているのです。たとえば八正道と言うものをはじめて知ったときに私は驚きました。具体的にどのように行として取り組むのかがよく分からなかったからです。八正道の実践、とは極めてシンプルな形態を提示しているのだと思いますが、シンプルすぎて難しいのです。もっと明確な形態を求めてしまいます。信、ということを私もそれほど強く自身に言い聞かせることはありません。戒・定・慧こそが信仰の中心であると思っております。ただやはり自分が行うであろう行法は「正しい」ものでなければなりません。それは前提となると思うのです。蓮祖にいくつかの事実誤認があったとして、それでは唱題行という方法は、間違っているのか、私は分からなくなります。そんなことはないように思うのです。しかし強く「信」じて取り組むのとは比較にならないくらい気持ちが乗っていきません。声も出なくなります。では他の行法をすればいいのではないかとも思うのですが、これも心の縛りが解けないのか、そういう気持ちにはなかなかなれません。結局何事かを行ずるには、その行に対する「信」は必要なのではないかと考えています。

いちりんさんの話はとても刺激的でした。形態に対する緩やかさ、と言うのでしょうか。逆に形態が心を縛る恐ろしさと言うのでしょうか。「有相の本尊」と「無相の本尊」と言う考え方にははっとさせられました。もちろん「有相の本尊」の向こうに「無相の本尊」を見るべきなのでしょうが、有相への執着はなかなか消えません。形態や方法がしっかりとなければ、信仰と言ったところで、何をすればいいのかが分からなく、心が彷徨ってしまうからです。

834犀角独歩:2006/06/22(木) 20:43:54

乾闥婆さん

今夕もふけてまいりました。
追ってレスをさせていただく所存です。
ただしかし、ひと言。
おしるしのところ、尤もだと存じます。

835今川元真:2006/06/22(木) 21:02:38
犀角独歩さん、乾闥婆さん、其う言う事は良き師良き友が居ないと言えませんね。 【21世紀】日蓮真蹟が全て現存する訳では無いので断言できる確かな言い方はできませんが、いろいろな議論を通して鎌倉時代の僧・日蓮は、摂受の人では無いかと洗い出されたのでは無いでしょうか。【視野】経典世界・実際は精霊信仰や神教に関わる人々が仏説を聞く。学問世界・法華経(随方毘尼)物語の理想と末法の様相を呈した鎌倉時代の現実。修行世界・供物を手紙に記して御礼を述べる、代筆助言して激励する、法華一乗を宣揚して自分の場所を浄土に変える行者を育てる。 ●天台密教(生きとし生けるものを成仏へ導く天台の真言化)→法華経行者(信学行しなければ成仏得道できない)→法華本門本尊漫陀羅(久遠元初を引き合いに出される)●私が「日蓮聖人が神話伝説の世界に入り浸ってない」と言う見方考え方です。

836とおりすがり:2006/06/22(木) 21:40:35
結局、哲学も否定し宗教も否定するのが、犀角さんの現代仏教なのでしょうか?
現代仏教を語られる前に、現代仏教の定義をお願いします。

837顕正居士:2006/06/22(木) 23:52:53
>>831
乾闥婆さん。中国の教判は数百年間に作られた経典を釈尊一代の教説という約束で分類しました。
したがって仏教思想の発展というものを完全に捨象した。だから歴史という概念がありません。
対して日蓮には思想発展に近い考えがあります。宗教五綱の「序」です。
「前の五百年が間は小乗経ひろまらせ給ふ。ひろめし人々は迦葉・阿難等なり。後の五百年は
馬鳴・龍樹・無著・天親等、権大乗経を弘通せさせ給ふ」(随自意御書)
日本天台には「四重興廃」という思想がありました。爾前→迹門→本門→観心で、これは玄義にある
のですが、本覚思想家は釈尊一代のことでなくて、仏教史に当てはめたようです。つまり、
爾前=中国天台以前→迹門=中国天台→本門=日本天台前期→観心=日本天台後期(本覚思想)。
思想発展に近い考えが生じた理由として日本の末法意識は王朝文化の衰退が投影され深刻でした。
だから末法今日の我々は正法、像法の時代とは異なる集約的な教と行が必要だという発想が生じた。
ここに人師の論釈については思想の発展に近い概念が生じましたが、経は釈尊一代の説という約束
はまだ放棄されなかった。経も数百年の間に「加上」されたのだと見破った富永謙斎が天才、偉人と
されるのは、中国人、日本人の誰もそれを思いつかなかったからです。
日蓮教学はかつては日本天台から輸入した本覚思想によって解釈されていました。つまり五百塵点
を実事とはしなかった。日蓮の他宗批判は立教の方便であり、身延入山後には顕正面を発揮したの
であると。しかし浅井要麒師の批判的文献学の提唱以後、観心思想に傾いた遺文への疑義が強まり、
御義口伝などが室町期の思想であることも確定した。ですから今日ではオリジナルな日蓮思想は
いわゆる原理主義の色合いが濃いものと認識される傾向にあるといってよいでしょう。

838顕正居士:2006/06/23(金) 00:23:06
いうなら日蓮には神話的歴史観があった。これは本覚思想家にはないものでした。
本覚思想家は仏教神話を解体した。仏教を突破し、本覚思想は全日本文化に浸透した。
対して日蓮は神話を生き、集約的な教と行という宗教需要に応えた。大衆にはまだ
仏教が必要な時代でした。しかし原理主義の狂信は京都史上最大の戦争を起こした。
ここに日蓮宗の積極的な役割も終焉し、原理主義の狂信を防止するために、観心主義の
教学が興った。実は天文法乱以前には教学として見るべきものはないに近い。

しかし日蓮が五百塵点を実事と解釈していたかといえば、主著「観心本尊抄」を見る限り、
そうはおもえない。浅井文献学は日蓮宗僧侶に今も浸透中だが、大崎宗学の外側では
むしろ反対に原理主義者・日蓮像の見直しの方向が強くなっているようにおもう。

839顕正居士:2006/06/23(金) 00:46:39
>>832
仏滅年代については>>801に述べたように北伝、南伝の両説しかありません。
アショカ王を仏滅100年とするか200年とするかだけです。北伝が正しいでしょう。
両方知っている人と片方しか知らない人のどちらが正しいか、ほぼ明らかです。

中国、日本で信じられたのは600年、中国史とインド史をずらした作為に騙された
だけで、一貫してアショカ王を仏滅100年として来た。第三の仏滅説はありません。

840乾闥婆:2006/06/23(金) 01:08:46
>>837-838
顕正居士さん。

思想発展と言う視点からの日蓮宗学史の簡潔なご紹介ありがとうございます。いま執行海秀氏の『日蓮宗教学史』をつっかえつっかえ読んでおりますが、正直、よく分からないと言うのが現状です。

>しかし日蓮が五百塵点を実事と解釈していたかといえば、主著「観心本尊抄」を見る限り、
そうはおもえない。

これはやはり「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所願の三身にして、無始の古仏也。」辺りの記述のことを言われているのでしょうか。「本門を以て之を疑わば、教主釈尊は五百塵点已前の仏なり。因位も又是の如し。其れより已来、十方世界に分身し、一代聖教を演説して塵数の衆生を教化したもう。」といった使用法は事実ととらえていられたようにも読めるのですが、同じ「観心本尊抄」の中における記述であるので、困惑します。

>>839
ありがとうございます。すっきりしました。

841犀角独歩:2006/06/23(金) 03:35:03

833 乾闥婆さん

> 信仰とは取り組みであると思うから

たぶん、乾闥婆さんとわたしで、考え方に相違があるとしたら、先に記したとおり、信仰ということでしょう。
わたしは釈迦が提示したものを信仰だとは受け止めていません。では、どう受け止めるかと言えば、乾闥婆さんの言葉を使えば、まさに‘取り組み’方です。では、目標はといえば、苦の滅却でしょう。

> …誰にもできるものではなくなってしまいます

この点はわたしにわかりません。修行は、だれにでもできるものなのですか。

> 誰にでもできる。曼荼羅に向かい題目を唱える。

本当に誰にでもできるのでしょうか。では、目が不自由な方はどうでしょうか。漫荼羅を見られますか。口の不自由な方に唱題ができるでしょうか。わたしの姉は十度心身障害者です。そもそも、何かを信じるとか、思惟したりすることができません。この点は八正道でも、参禅でも、みな同様ではないですか。「誰にでもできる」というキャッチフレーズに欺されていませんか。

また、繰り返しになりますが、そもそも真蹟遺文で見る限り、日蓮が漫荼羅に向かって読経・唱題をした形跡は見当たりません。

> 形態なくして信仰はない

この考えが悩みを生じさせているのではないでしょうか。
取り組み、もしくは形態というのは、たぶん、修行様式を指すのでしょうが、それがイコール信仰であるという思いこみがあるようにお見受けします。

> 戒・定・慧こそが信仰の中心

いわゆる、三学倶伝ですか。
わたしが不思議に思うのは、なぜ、信仰となってしまうのかという点です。
たしかに日蓮の場合、信の強調がありますし、法華経でも以信得入を言いますが、これと八正道はつながりません。そもそもここで信は八つの道に入っていません。乾闥婆さんの文章を読んでいますと、信仰という強迫観念が無限連鎖となってループ化している、そこに苦があるようにお見受けします。つまり、信仰からの脱却したところで、仏教を見つめ直すところに、その解決があるとも思えます。わたし自身が採った‘取り組み’方です。

> その行に対する「信」は必要なのではないかと考えています。

このような考えを、人生のどの時点で、誰彼によって植え付けられ、それを受容した自分が、どのように醸造したかを、手繰り辿ってみては如何でしょうか。
乾闥婆さんがどこのご出身であるか存じ上げませんし、これは決して批判的に記すことでもないのですが、わたしからみると信の罠にはまってしまっているように思えます。

> 形態が心を縛る恐ろしさ

ええ、ここです、わたしが言いたいところは。

> 本尊

本尊の強調は、日蓮の際だった特徴ですから、本尊に拘るお気持ちはわかりますが、わたしが自分なりに調べて一番、愕然としたのは、この本尊でした。既に何度も記しましたが智邈、湛然の、いわゆる法華六大部には、この語は一度も使用されていません。いったい、いつから本尊が法華圏で使用されるに至ったか、は気分として落着していませんが、ともかく、わたしが常に使用する80余の天台聖典で、この語の使用は一度たりともありません。しかし、『依憑集』になると「三相謂 字印本尊」と「盧遮那経疏第七下云」として、見られます。日蓮は、この系譜を引くのだろうとは思いますが、ともかく、初期天台の段階ですら、見られない本尊という概念が、仏教義の本来の在り方であると、到底思えないわけです。

信仰と本尊は、日蓮のテーマでしょうが、しかし、わたしはこの執着を棄てました。

842犀角独歩:2006/06/23(金) 03:47:24

836 とおりすがりさん

当掲示板では、自己紹介もなし、挨拶もないような無礼な問いかけ、捨て投稿にいちいちレスをする謂われはありません。しかし、答えておきましょう。

> 哲学も否定し宗教も否定するのが、犀角さんの現代仏教なのでしょうか?

違いますが。わたしは哲学を否定したことも、宗教を否定したこともありません。また、自分の考えを現代仏教と称したことはありません。

> 現代仏教を語られる前に、現代仏教の定義をお願いします。

そもそも現代仏教とはなんでしょうか。それはわたしの言でもなく、語ったことでもなく、語ろうとしていることでもありません。それを定義することはできません。

843犀角独歩:2006/06/23(金) 04:55:45

> 「観心本尊抄」を見る限り、そうはおもえない

この顕正居士さんのお考えはわからないでもないのですが、しかし、そうなると、以下の日蓮の言はどうなるのでしょうか。

此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法

日蓮は実際に四菩薩の出現を想定しています。また、前文ではこの四菩薩が久遠五百塵点成道初発心であるとも言います。
これは単に日蓮の己心の出来事であるとすれば、‘虚構’の、己心の、それも事実としてとらえていない経典記載の四菩薩が実際に出現して、賢王となっては折伏を現じ、僧となっては摂受を行じると言っていることになります。いわば、虚構想念上の菩薩が、現実に出現すると言っていることになります。

虚構・架空・己心の経典の物語:実際に現れる四菩薩、もし、このように日蓮が考えていたとすれば、空想と現実が区別がつかない精神錯乱状態にあったというほかありません。しかし、開観両抄の記述は、実に思弁的で、理路整然としています。精神に異常を来しているとは思えません。となれば、日蓮が経典を真実としてとらえていたと考えるほかないと、わたしには思うわけです。

844今川元真:2006/06/23(金) 05:37:39
おはようございます。 ●諸天善神や四大菩薩はケースバイケースの守護者に例えられているのでは無いでしょうか。末法無戒の世ですから。現実世界と理想世界を繋いで荘厳して説いた方が摂受らしく無いですか。不軽菩薩が説く漫陀羅、上行菩薩が説く戒壇堂と考えられるなら簡潔で良いのにと思います。

845犀角独歩:2006/06/23(金) 11:06:55

乾闥婆さんに、紹介しようと思っていたいちりんさんのご投稿が、ようやくと見つかりました。

『法華経について』32〜34
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610752/32-34



無疑に信じて、どんと力を発揮するという技法だったのでしょう、わたしたちがやってきたことは。けれど、「パンドラの箱」を開けてしまったわけです。しかし、その底に希望は残っているのだろうと思います。


840に「所願の三身」というのは所顕の打ち間違えですか。それとも、このような記述御書があるのでしょうか。

寿量品云 然我実成仏已来無量無辺百千万億那由他劫等[云云]。我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏也。

わたしは、この文を通じて、日蓮は寿量釈尊を無始無終・三身円満即一古仏ととらえていたのだと考えます。他のロムの方のために、資料を提示しておきます。

日蓮の三身観は『一代五時鶏図』に

   ┌華厳のルサナ、真言の大日等は皆此の仏の眷属たり
 ┌久遠実成実修実証の仏
天台宗の御本尊
 └釈迦如来

     ┌応身───有始有終
始成の三身┼報身───有始無終
     │ ├真言大日等
     └法身───無始無終

     ┌応身┐
久成の三身┤報身├──無始無終
     └法身┘

 華厳宗真言宗の無始無終の三身を立つるは、天台の名目を盗み取
りて自らの依経に入れしなり。

(上記、図が乱れるときは
 http://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html
分類:A 真蹟現存(完存orほぼ完存、しかし、平成新脩に未蔵)

経典原文「我実成仏已来」は明らかに五百塵点成道という始まりがあり、有始無終(始成報身)と映じます。一方、実際の釈尊は印度応誕八十入滅ですから誕生の始・入滅に終わる(始成応身)、ところが日蓮は「無始古仏」と解釈します。これを三身相具(四条金吾釈迦仏供養事)、もしくは三身円満古仏(開目抄)ととらえていたことがわかります。その釈証は「文句九云天台 仏於三世等有三身。於諸教中秘之不伝。」でしょう。では、この三身を即一身ととらえていたか。この点は、たしか問答さんと議論したところでしたか。『注法華経』に「輔云。疏一身即三身者。即一身即三身。法華之前未曾説。故名秘<故名為秘>。三身即一身。」と抜き書きしているわけですから、そう考えていたのでしょう。

この三身の関係について『四條金吾釈迦仏供養事』に「月の体は法身、月の光は報身、月の影は応身にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします」

門下一般では『開経偈』に「能詮は報身、所詮は法身、色相の文字は則ち是れ応身なり」とします。

(参:文句「祕密者。一身即三身名爲祕。三身即一身名爲密。又昔所不説名爲祕。唯佛自知名爲密。神通之力者。三身之用也。神是天然不動之理。即法性身也。通是無壅不思議慧。即報身也。力是幹用自在。即應身也。佛於三世等有三身。於諸教中祕之不傳」、涅槃経疏「諸佛三身亦不出三界者。以法身即應化也。大經云。今我此身即是法身。法華云。常在靈鷲山及餘諸住處。普賢觀云。釋迦牟尼名毘盧遮那遍一切處。華嚴云。亦名釋迦亦名舍那等。既知三身即一身。亦須知界外即界内也」)

846乾闥婆:2006/06/24(土) 02:19:54
>>841
犀角独歩さん。

>本当に誰にでもできるのでしょうか。

易行、といった意味合いではあったのですが、確かに易行であったところですべての人ができるわけではありませんでした。

私の母は脳腫瘍の手術の結果、右半身不随と重度の意識障害を負い、三年間寝たきりのまま、七年前にこの世を去りました。私はその頃、自身の信じている宗教に、強い無力感を覚えていました。家族全員、まじめに信仰しているのになぜは母このような病に苦しまなければならないのか、という無力感ではありませんでした。そうではなくて、方法論としてのむなしさでした。私を含めた家族は母のために祈ることができます。母も重度の意識障害を負っているとはいえ、私たちが耳元で勤行・唱題を行えば、自身の心に曼荼羅を見、声に出していなくとも、題目を唱えているだろうと、信じてはいました。しかしそんなことは分からないことです。勤行も、唱題も、脳を傷めてしまっては、取り組めない。取り組めない信仰とはなんなのだろう、と心のどこかで絶望しておりました。自分自身が病に対して、信仰を通して闘うことができない。母は闘っているに違いない、と思っても、心を脅かす虚無感からは逃れることは出来ませんでした。

>たしかに日蓮の場合、信の強調がありますし、法華経でも以信得入を言いますが、これと八正道はつながりません。そもそもここで信は八つの道に入っていません。

そうですね。「四信五品抄」に「問ふ 末法に入て初心の行者は必ず円の三学を具するや不や。答て曰く 此の義大事たり。故に経文を勘へ出だして貴辺に送付す。所謂、五品之初め二三品には、仏正しく戒定の二法を制止して、一向に慧の一分に限る。慧又堪えざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位也」とありました。以信代慧は蓮祖の強調するところです。仏教とは三学の実践といっても、時代が下るにしたがって、八正道から遠く離れて、三学そのものを止揚してしまうということになるでしょうか。

>乾闥婆さんの文章を読んでいますと、信仰という強迫観念が無限連鎖となってループ化している、そこに苦があるようにお見受けします。つまり、信仰からの脱却したところで、仏教を見つめ直すところに、その解決があるとも思えます。わたし自身が採った‘取り組み’方です。

確かにループしていると思います。唱題を行おうとする、信じる心が弱くて苦しい、強く信じようとする、しかしそれを阻害する諸事実がある、唱題がうまく行えない、それでも行おうとする、苦しい、強く信じようとする・・・そのようなことをくり返してばかりいるのです。私がそこから脱却するには、今の信仰形態を捨てる以外ないように思うのですが、それもできないのです。「信」なくして、唱題行がきちんとできるものなのでしょうか。

>乾闥婆さんがどこのご出身であるか存じ上げません

これは私の信仰上の出自のことでしょうか。それでしたら以前も申し上げたとおり創価学会です。もちろん「信」が強く協調された幼少期を経て現在に至っています。

>信仰と本尊は、日蓮のテーマでしょうが、しかし、わたしはこの執着を棄てました。

そこが私にはよく分からないのです。私もそのような執着は捨てたいのですが、捨てられません。ですからこの掲示板もずっとロムしておりますし、創価学会とも関わり続けています。しかし犀角独歩さんは本当に捨て去られているように見えます。しかも、蓮祖に取り組み続けていられます。それは非常に苦しいことではないでしょうか。私は蓮祖の事実誤認を目の当たりにして以降、しばらくは「開目抄」冒頭の五重の相対を説く文章を読むだけでも、心が苦しくなりました。そのように詰めていかれる蓮祖の叙述が、むなしくて、息苦しくて、どうにもならない時期が続きました。

>>845
>840に「所願の三身」というのは所顕の打ち間違えですか。それとも、このような記述御書があるのでしょうか。

日蓮宗現代宗教研究所のデータベースからコピー&ペーストさせてもらったのですが間違っていますね。それともこのデータベースを作成した人の資料にこうあるのでしょうか?

>けれど、「パンドラの箱」を開けてしまったわけです。しかし、その底に希望は残っているのだろうと思います。

その希望を私はまだつかめないでいます。

847犀角独歩:2006/06/24(土) 04:09:48

乾闥婆さん

ご母堂様のこと、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
わたしは、本年、4月に母を亡くしました。
最期、意識もなくなったとき、「めー」「なー」「けー」と意味不明の言葉を発していたのです。しかし、よく聞き並べると、それは確かに「南無妙法蓮華経」でした。障害、唱題の人であった母の、最期の言葉は題目でした。わたしはその母を尊いと思いました。唱題も尊いと思いました。

葬儀は日蓮宗で、恩人・楠山泰道師、貫名英舜師に執行していただきました。
このお経はすばらしかったのです。わたしは学会の家に生まれ、石山に移ってからは寺院に役員もいたしました。葬儀にも多く参列してきました。そんな半世紀の経験のなかでこれほどの読経は初めて聞きました。参列してくれた親戚のなかには、浄土真宗、また、真言宗の総代を経験した他宗の篤信者もいました。しかし、やがて唱題になると、一同、声を合わせて和していたのです。「すばらしい葬儀だった」とお念仏の人である叔母は言いました。

人間はやがて死にます。生きるに苦しみ、負いに苦しみ、病に苦しみ、死に苦しみます。そのなかで、たしかに信は燈明のような存在なのかも知れません。

しかし、わたしの恩人の一人である西田公昭師は「何か集団のメンバーになっていても、もし何か矛盾する事実に突き当たったら、徹底的に疑ってみることが大切である。もし、個人が疑うことに対して、何か罪的な否定的意識を教えこまれているとしたら、それは科学的思考を一切否定していることと知るべきだ」と言いました。そして、また、先に紹介した高橋師の言説も肉声としてわたしは訊いているのです。

わたしが、ここに書き連ねてきたことは、日蓮の教義と本尊を信じる人々にとっては、不信、謗法、一闡提のように映じるでしょうか。しかし、信じると言うことでいえば、日蓮も、法華経も、そして、科学も、わたしは信じています。ただ、その信じる様態が、集団の都合で刷り込まれた形から脱却しているに過ぎません。科学的な根拠から言えば、日蓮は間違っている部分はたくさんあります。しかし、日蓮の生涯、難を忍び、人と国土を慈愛した一念に嘘はないでしょう。唱題という行は、たしかに効力を有します。法華経は西暦前後に創作された当時の物語でしょう。しかし、そこに紡がれた物語、そして、羅什の名訳、智邈、妙楽の釈もまた、間違いは多くあるとはいえ、秀でたものであるに違いありません。

この界隈にいると、よく使われる言葉に「絶対」があります。「絶対に正しい」などという会話はよくなされています。「日蓮大聖人様は御本仏様であるから絶対に正しい」「御本尊様は絶対だ「先生は絶対だ」」、そんな信者会員の確信の言葉を、わたしは数限りなく聞いてきました。

けれど、わたしが気付いたことは、この絶対は勝劣選別から生じたものですが、結局のところ、絶対とは意図せず、限界を設定することだということです。そして、この限界を、この界隈の言葉で言うと「信」ということです。間違っているものも信じることはできます。また、違っているものでも効力を発揮します。いちりんさんが記したお話のようなものです。

848犀角独歩:2006/06/24(土) 04:10:21

―847からつづく―

「強盛な信心」は、集団内の美徳ですが、この信は思考の限界、蓋の厚さを増すばかりの重しでしょう。この重みに信者は酔いますが、実のところ、考えることを放棄しているのに過ぎません。しかし、実のところは、その限界で立ち止まってしいるだけなのです。そこで足踏みをすれば、そこの地のみは、踏みしめるごとに堅固になっていきます。安心(あんじん)はこうして生じます。しかし、そこから、一歩、踏み出すと、泥濘(ぬかるみ)に容易く足を取られて、やがておぼれてしまいます。つまり、地固めしたほんの狭い範囲から出ることに恐れを懐くことになります。この狭隘の敷地が信です。結局のところ、信心と言われるものは、一所に留まって、足踏みをし、そこで固くなった足場に安住しているという、限界を正当化する肯定論でしかなくなっています。ですから、信が執着となっているのです。

不信を謗法悪徳とする集団のご都合に操作されている自分を観察してみることです。そして、そのうえで、日蓮を見直せば、間違ったところも多くあるけれど、汲めど尽きない示唆を多く与えてくれるでしょう。それはまた、法華経とて、同様です。しかし、それは絶対視すれば、そこで限界が生じます。かつての信は、その信として、自由闊達に思考すれば、よいわけです。

日蓮、法華経というブランドを身に付けることは、自分が立派に、大きくなったという錯覚をさせる効果があります。わたしは、この信の構造を解体したわけでした。いわば、自分を飾る「強情な信心」という権威構造を放棄したと言うことです。「あの人は、心の底から日蓮大聖人を信仰している立派な人だ」という信者一般に見られる善悪の判断肢、すなわち、「信」という権威構造から、外に出たと言うことです。

乾闥婆さんは、方法論として、唱題に拘り、思考として信に拘っておられる。ならば、唱題以外の方法も考えればよく、信じられないものは信じられないとして、そのうえに進めばよいだけのことでしょう。本尊・唱題と信に‘絶対’の価値を置く限界が、実は問題なのではないでしょうか。

乾闥婆さんのいまの葛藤は、狭隘な方法論と、信で封じられた限界を、超える産みの苦しみなのだと思います。しかし、そこで、本尊と教義、唱題、そして、信に囚われれば、無限の思考の輪廻に嵌り、その堂々巡りから抜けられないことになるでしょう。飼われる小禽は、駕籠の中で戯れる周り車のように、走るほどに疾く巡りますが、しかし、前には一歩たりとも進めません。信によって補償される安全は、もはや、効力を失ったという事実を受け入れて、前に進むことです。
外界を見えています。怯み、狭い駕籠の中に引き返し、周り車の満足に戻ることはできません。もはや、心の扉は開いているからです。

> 所願の三身…日蓮宗現代宗教研究所のデータベース

これは同研究所の問い合わせてみます。

849ななしさん:2006/06/24(土) 10:10:53
犀角独歩さんのお母様のように、信によって人生を尊き姿で全うすることが可能です。それは、犀角独歩さんのように、従来の信仰から離れてしまった人をも感銘させるものです。私も、病などで若くしてなくなられた人のご家族が入信される姿などを見てきました。若くしてなくなるというのは不本意に見えるように思いますが、そのご家族がその信仰に入られるとは不思議なことです。解はなくとも信があれば、信念のもとに人生を全うし、人をも感じさせることができるのかもしれませんね。
私は、信に代わり得るもう一つのものは使命感だと思います。教義的にいえば、「大願」に立つということでしょうか。これは、「人生を全う可能な信」に人々を導く人生を選択するということです。
もちろん、犀角独歩さんはこの生き方を否定なさるでしょうし、犀角独歩さんのような人生を選択することも否定はしません。ただ、人から信を奪い、代わりに人生を価値ならしめる何物を与えうるかを考えなければならないのではないでしょうか。大切なのは、現実の人生を全うすることであり、知識をつけることではないのです。犀角独歩さんも、お母様には自らが知った知識を語ることはなさらなかったのではないでしょうか。肉親の愛情が、信を破すことを思いとどまらせたわけです。

850今川元真:2006/06/24(土) 10:31:25
ある掲示板の受け売りで申し訳無いです。  ●宗祖の時代は「過去仏思想が生きていた」時代なので「諸仏をシャクソン一仏に統一する」ためには、法華経の教相に従ってシャクソンの成道を五百塵点劫まで遡って説く必要があったそうで「シャクソン=法華経(仏は生き続ける存在・仏の寿命は無量)」が鎌倉時代の僧・日蓮の立場だそうです。 ●漫陀羅は修行の道具で成仏得道への方便でしょうか。私は「理念+例話=理想」と考えたいです。道は一つでもルートはいろいろ一人ひとり違いますが、漫陀羅が私の信学行の柱です。

851犀角独歩:2006/06/24(土) 14:07:17

849 ななしさん さん

あなたは、どうもわたしの書いていることを根本的に誤解していますね。
わたしは人から信を奪おうなどと言っていませんよ。
間違いを信じることに警告を鳴らしているのに過ぎません。

わたしを批判したいのであれば、ちゃんとわたしが記したことをちゃんと理解したうえでしてください。

そもそも、あなたが言う信とは、何に対する信を言っているのでしょうか。

852ななしさん:2006/06/24(土) 15:50:50
犀角独歩さん
結果として奪うことになることをあなたは認識されているはずです。なぜなら、お母さまには「警告」を鳴らされてはいないのですから。

私がいう信とは、「一生成仏」に対する信です。もっと現実的にいうならば、この一生を満足をもって終えられる可能性への信です。この信に代わり得るのは、利他だと思うのです。

では、こちらからも伺いますが、あなたのいうところの「間違い」とは、主に「歴史的」「科学的」な矛盾のことであって、「思想的」「精神的」には価値を認めておられると拝察しました。実際、現代人が必要としているのは、人生を生き抜くための「思想的」「精神的」価値であり、そこに現代における宗教の意義があるものと考えます。本質的にその価値は、釈尊直説かどうかで変わるものとは思われません。現代における経典の価値、ここでは特に法華経のエッセンスは、「歴史的」「科学的」な矛盾を越えて、現代に示唆を与えることが可能だと思います。その際、あなたは「歴史的」「科学的」な矛盾は全て取り払うべきだとお考えですか。

853犀角独歩:2006/06/24(土) 18:50:55

ななしさん さん

> 結果として奪うことになることをあなたは認識されているはずです。なぜなら、お母さまには「警告」を鳴らされてはいないのですから。

あなたは、ずいぶんと人間を一辺倒にご覧になっているのですね。
こちらの掲示板にいらっしゃる方と、85歳の老齢で、障害者でもあった母とは、その接し方は違います。

> 「一生成仏」に対する信です。もっと現実的にいうならば、この一生を満足をもって終えられる可能性への信です。この信に代わり得るのは、利他だと思うのです。

一生成仏への信とは何でしょうか。
一生を満足をもって終えられる信が一生成仏であるという一方的な決めつけは、その外にいるものにとって、他の一切の可能性を‘奪う’信としか映じません。
一生を満足をもって終えられる信は一生成仏以外にないというレトリックは他の一切の可能性を否定しているものでしょう。
また、あなたが言う利他は何でしょうか。では、あなたはわたしに対して、どのような利他ができるのですか。

> 「歴史的」「科学的」な矛盾を越えて、現代に示唆を与えることが可能

では、それがどのように可能であるか、ここで説明すれば、よろしいのではないでしょうか。自分が信じる一方的な信念体系を押しつけるばかりが、現代人に示唆を与えるわけもないでしょう。
どんなことが示唆ですか。具体的に記してください。

> 「歴史的」「科学的」な矛盾は全て取り払うべきだとお考えですか。

わたしは、そのようには記していません。「間違っていた」と書いているのです。あなたの質問はこうして、誤認に基づく、的外れな質問になっています。

あなたは、誤解のうえから誤解に基づく質問を重ねているいるわけですが、そもそも、ここで当初からわたしが問題にしたのは、日蓮が鎌倉時代に知り得たところは、限界があった。現代の科学では否定される部分があるということです。
まず、この点は、あなたは認めるのですか・認めないのですか。

854今川元真:2006/06/24(土) 19:18:43
横割失礼します。 【納得できるかは結果次第?】●四宗兼学←→四箇格言、空海、法然が日蓮以前に教主、他経典を捨て去る故言上。●法華経行者は随方毘尼で時代にあった方法論を見つけなければ成らないのか。三障四魔(降三世大威徳)三国四師(法華経継承)三証四悉檀(時代毎応用)●空海、最澄は、弥勒を目指したそうです。高野山(十二天)盧遮那仏・大日如来・弥勒菩薩、比叡山(十二神将)華厳・真言・法華、金剛頂経・大日経・蘇悉地経[三大密法]如来神通力・陀羅尼真言・蓮華蔵世界[三大秘法]題目(基本)本尊(基礎)戒壇(応用)●仏(経典)が成道できるように随方毘尼として顕現→56億7千万年・尽未来際

855真実探求者102:2006/06/24(土) 23:24:27
、、、852のななしさん(名前がエエカゲンカ、? ましな名を期待したいが某S会絡み臭いナ、、)、、「信」、、と言う甘い言葉で、私は「疑う気持ち」を奪われました、。 「、、今、、信に耐えうる、、???」、が存在でしょうか、、??
なら)

856乾闥婆:2006/06/25(日) 00:27:50
>>847-848
犀角独歩さん。

お母様、本年、四月にご逝去とのこと、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
お母様の最期の題目、葬儀での読経、そういった中に信仰の素直な感動を見ます。
常に私の傍らで題目を上げ続けた我が母は、家族に囲まれながら昏睡状態から静かに息を引いていきました。手術後、意識障害を起こして以降、その口から唱題を聞くことができなかったことは、やはり残念であり、母も悔しかっただろうと、当時を思い返しました。

>結局のところ、絶対とは意図せず、限界を設定することだということです。そして、この限界を、この界隈の言葉で言うと「信」ということです。
>信心と言われるものは、一所に留まって、足踏みをし、そこで固くなった足場に安住しているという、限界を正当化する肯定論でしかなくなっています。ですから、信が執着となっているのです。
>自分を飾る「強情な信心」という権威構造を放棄したと言うことです。「あの人は、心の底から日蓮大聖人を信仰している立派な人だ」という信者一般に見られる善悪の判断肢、すなわち、「信」という権威構造から、外に出たと言うことです。

形態とは枠組みでありますから、それは確かに限定を加えることであると思います。また限定を加えなければ形態は成り立たないのでしょう。そしてそれを強く支えるものは「信」であるのだと思います。「信」が崩れれば形態は脆弱になります。形態に固執すればするほど、「信」は必要とされます。そのジレンマがいまの私を苦しめているのだということが浮き彫りになってきました。

いちりんさんのお話にもあったことを、私は一時期考えていました。大事なことは心的作用であるのだから、心的作用として有効ならば、それはそれでいいのではないか。例えば人は文学作品に感動し、啓発されます。しかしそれはフィクションであるし、人々はそれがフィクションであることを知っています。つまり虚構です。しかしその虚構に人は感動し啓発されるのです。法華経は物語であるし、蓮祖の教学も命がけの物語であると、そう思って取り組んでいこう、そんなふうに考えていた時期もありました。

しかしそういうスタンスで望む「信仰」はやはり私の知る信仰には似ないのでした。「事実」であると信じ込んでいたことが、そうでなくなってしまうと、心がさめてしまうのでしょう。しかしそのように心落ち着けたところから、また読経と唱題があるのであれば、それはそれでよしとするべきなのだと思います。熱狂、は過ぎ去りました。そのような過去に私の知る信仰は、もはや私を訪れることはないでしょう。そのような信仰こそ真の信仰であると、私は植え付けられてきたのかもしれません。しかしそのような信仰観からの脱出こそ、成長というべきなのかもしれません。

いろいろと発言させていただき、多くの方からご意見もいただきました。まだまだ成長途上の私ではありますが、今後ともよろしくお願いいたします。

857犀角独歩:2006/06/25(日) 02:05:22

856に乾闥婆さんが、現段階で記された結論にわたしは敬意を表します。

ハッサン師は記しました。

「自分がしていることは宇宙的意義をもっているのだという、あの興奮した感情が懐かしかった。ひたむきさが生みだす、あの力強い感覚が懐かしかった」

「自分が学んだことや、知りあって好きになった人々をすべて受け入れ、それを統合して、新しい自意識を作る必要があった。古い自意識を統合して新しい目標をつくることで、元メンバーたちはとても強くなる。彼らは勝ち残り組なのだ。彼らは苦難と虐待に耐え、情報と自己反省で敵を克服することができたのである」

ご健闘をお祈り申し上げます。

858犀角独歩:2006/06/25(日) 08:54:22

マインド・コントロールの環境の中では、グループが信じることを単なる理論だと見なす余地はない。教義こそ現実そのものなのだ。グループによっては、物質世界全体が幻想であり、したがって思考も願望も行動もすべて(カルトが定めたものを除き)実際は存在しないのだと教えさえする。


カルトのいちばん効果的な教義とは、エリック・ホファーの言葉を使うなら『証明も評価もできな い』教義である。それは非常に複雑なため、解くのに何年もの努力が必要だということになってい る(もちろんそのころには、人々は教義を学ぶことよりも資金集めとか勧誘のようなもっと実際的な仕事へ向かってしまっている)。

教義は受け入れるべきものであって理解すべきものではない(という)。それゆえ、教義は、漠然 としていて包括的で、しかもじゅうぶんに調和がとれて一貫しているように見えなければいけない。その威力は、これこそ万物を包摂する唯一の真理なのだと断言するところからくる。
マインド・コントロールの正否は、その人の中に新しい人格を作りあげることにかかっているので、カルトの教義は、きまって、あなたは自分自身を信じてはならないと要求する。教義が、思想と感情と行動のすべてを決める『マスター・プログラム』となる。それは完全で絶対的な真理そのものなので、教義のどんな欠陥も、信者自身が不完全だからそう見えるのだとされる。信者は、たとい本当には理解できなくても、決められたとおりの信条に従わなければならないと教えられる。同時に、真理をもっとはっきり『理解』できるようになるには、もっと働き、もっと信仰を深めなければならないといわれる。

以上、『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版)から。

「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし…智者に我義やぶられずば用じとなり。其外の大難、風の前の塵なるべし。我日本の柱とならむ」(開目抄)

さて、如何にして法華経を捨てざらんか。日蓮の義は近代の前に破られたのか。もし、破られていないというのであれば、批判者、不信者を排除して、自分の信仰を守ろうとするのではなく、何が破られていない日蓮の義であるかを、ここに明確に提示する必要があります。しかしながら、わたしの疑義の提示は、他者へのものではなく、わたしが己心に見ていた法華経・日蓮義一切の総点検のための自問自答であり、その果てに一体何が残るのかという試論でもあります。ここに一切の妥協はありません。

859今川元真:2006/06/25(日) 09:47:20
犀角独歩さんの総点検は「大雑把な類型では無い」と言う事ですね? 科学的分析理解がヒトの心や社会の歴史全てを漏らさず断言できる事は無いと考えられます。 宗教を学問するのに大事な点は理想と現実の相対的関係が立証できるかにあると考えます。 歴史の結果論で判別するのは危険だと言う事です。

860犀角独歩:2006/06/25(日) 13:23:43

今川さん

> 科学的分析理解がヒトの心や社会の歴史全てを漏らさず断言できる事は無い

もちろん、そうでしょう。同じように宗教がすべて漏らさず断言もできないということです。両方を付き合わせた再点検が必要です。

>宗教を学問するのに大事な点は理想と現実の相対的関係が立証できるかにあると考えます

このご意見には当然賛同します。

> 歴史の結果論で判別するのは危険

誤解があるようですが、いつわたしが歴史の結果論で判別しましたか。

861犀角独歩:2006/06/25(日) 13:35:28

当掲示板は、挙証義務を厳しく求めるところに美風があります。
ですから、法華経にはこんな善いところがある、日蓮の教義はここが正しいと言った点を具体的に挙げればよいわけです。

わたしは科学的な当たり前すぎる事実を提示しているのに過ぎません。
その事実を言うと、価値がないとか、無意味であるとかと何ら根拠もなく、否定するばかりで、その事実を認めようとしないばかりか、いいところもあると言いながら、「では、具体的には」と問うと、沈黙し、また、何ら根拠も示さない的外れな批判を繰り返します。

このような態度こそ、一般人がカルト・マインド・コントロールとしてもっと忌避し、不快感を覚える態度であることは、今さら論じるまでもありません。

議論をする気があるのであれば、具体的なよい点を立証してみせればよいだけのことです。どうぞ、存分に開陳して見せてください。

862今川元真:2006/06/25(日) 18:10:04
いえ、犀角独歩さんも含めた書き込みですが、得手して好事魔多しと言うか感情が籠もると暴走するかもしれないと言う判断力以前の事を書いてしまいました。お気を悪くされたならすみませんでした。それから、私は真蹟の審議を論ずる手間暇をかけられないので、ごく簡単な質問しかできません。別スレッドを立て、21世紀時代に日蓮大聖人御書全集を使ってどれだけ素人眼から解読できるか歴史時代の差がどれだけでるのかやってみたいと思ったのですが、ここの掲示板では無理でしょうか。簡単な質問や確認なら「21世紀の仏教を考える」で出来ます。挙証主義での質疑応答とは分ける事が取り敢えずの面目になると思います。

863犀角独歩:2006/06/25(日) 18:36:02

今川元真さん

> お気を悪くされたなら

いえいえ、気など悪くなどしませんが、こうしてみると、実際に日蓮、法華の善いところを力説できる人というのはいないのか?という疑問を懐いた次第です。

> 21世紀時代に日蓮大聖人御書全集…素人眼から解読できる

まず、全集ではなく、その遺文の信頼度を基準に、ということになるでしょうね。また、何を伝えるのか点が重大なんだろうと思います。
死んだら、お肉が柔らかくて、軽くて白いのが成仏なんていうのを現代語にするだけだったら、「???(大笑)」でしょうから。

> 挙証主義での質疑応答とは分ける

ええ、それは素朴な疑問などが適当でしょうね。つぶやきもあります。

864今川元真:2006/06/25(日) 23:27:50
●書き込むにしてもまとめて何が論旨なのか書かないとだらだらになってしまいますか。 ●力説と言っても真蹟の範囲の把握さえ儘ならないのでは無理があるでしょう。創価学会等の場合、頑丈な組織システムと言う檻に閉じ込められたような感じで自由な論議にはならないからで、広い檻か狭い檻かの違いと一人ひとりのフットワークの違いがより保守的にするのでは無いでしょうか。聖教新聞や人間革命が永遠の指導者になるのでは無くてケーススタディの指導者とゼロベースの指導者を育てないと創価学会でも名誉会長死後割れるかもしれません。割れた後、大白蓮華が永遠の指導者であり創価学会の柱と纏めようとしても遅いかもしれません。

865犀角独歩:2006/06/26(月) 19:51:00

今川さんのご投稿は短文で、趣旨を斟酌しかねるところもあるのですが、わかるところもあります。

当掲示板は、挙証義務が美風であるとわたしは記しました。
では、日蓮は、この証について、何を挙げたかというと、道理、証文、そして、現象です。

「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事)

ここでいう関係は、実は現象の優位を論じているわけです。
合理的(道理)に、文証(経・釈・真蹟)でその祖型を探ってきたわけですが、実のところ、その実用性(現証)がなければ、単なる理論構造だけということになります。

わたしは体験に基づくところを、批判しているわけではありません。
ただ、その体験に、各人が係るという教義・本尊が確実な日蓮、もしくは経典の理解とはなっていない齟齬を論じているのに過ぎません。ですから、‘現証’について、語ってみてはどうかと促したわけです。

その前提で、しかし、自己の信じるものを否定する者へ、非論理的排除、また、論証除外という態度もまた、信仰をした結果の、いわば悪現証ととらえられてしかりという視点もあります。しかし、反面の体験的な功利性はあるはずではないでしょうか。もし、この点が持ち得ないというのであれば、日蓮は21世紀に、各人の思いこみが、教団護持を支えるという閉じた共同体の中でのお話で終わるでしょう。

わたしは創価学会の教義など、まるでおはなしにならないと思います。しかし、ここで半世紀、体験されてきたところ、それはまた、700年来の日蓮門下の出来事といっていもよいのですが、この体験の全体を、否定しようという気は毛頭ありません。ただし、科学的視点から論証できるところはし、それでも何かが残るか否かを徹底論証してみてはどうかという考えに基づく厳正な視点は捨てません。何故、捨てないか、世間一般が捨てていないからです。「なんだかおかしい」「うさんくさい」「ばかばかしい」などと思われる当然想定される批判を敢えて一切合切、課してみて、それでも残るものがあれば、そのような体験=現証は、確実に人々の情意を打つものであるとも考えます。

866犀角独歩:2006/06/26(月) 22:20:46

【865の訂正】

誤)現象
正)現証

867今川元真:2006/06/27(火) 00:12:47
●極端ですが、創価学会もいずれは興門流日顕派の様に成りかねないと言う事でしょうか。天使教に押されて。 ●暴走の迷妄を解き説得力を持たせる為にも一か八か遣らざるを得ない時代に来てしまったと言う事を考えますが、切り刻んでもアナログとデジタルほど違う時代では現証を持つ者と持たざる者もしくは許容範囲の違いで分離分派するかもしれないでしょう。       ●成仏するまで戦い続ける事ができるか? 「脳には進化の歴史が詰まっているはずだから」まだ進化する力は眠っているのでしょうか。 ●広宣流布の機軸としたいのは『妙法蓮華・価値創造・宿命転換』【理の一念三千・事の一念三千・真の一念三千】 ●私が歴史時代を鑑みて汲み上げようとして過不足を考える物差しは此れくらいでしょうか。 ●犀角独歩さんが急進派で今川元真が穏健派だと言いたいのでは無いのですが、守旧派のような方々から見れば御書遺文を切り刻むようにしか見れないかもしれません。 ●話題が変わりますが、「西から東」は月氏、 「東から西」は日本の事をほのめかすと見て良いのでしょうか。

869犀角独歩:2006/06/27(火) 07:30:10
今川さんのご意見は参考になります。自分の記していることがどのように誤解されていくか、その虚像が見られるからです。ただし、お書きになっていることで、ご投稿の趣旨がが理解できないところも多々あります。

> 広宣流布

この語については、以下のように記しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015334405/56-60
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1041207951/223

> 妙法蓮華・価値創造・宿命転換

妙法蓮華経は羅什の意訳、価値創造という点については『創価学会批判』でかなり手厳しく哲学的反証がなされており、そこではさらにそれを受け継いだ戸田氏の哲学の勉強不足が指摘されていました。また、この学説と日蓮教説、さらには法華経とは本来まったく関係のないものでしたが、実践生活という点で牧口氏は石山の教学・本尊信仰を充てたわけでした。宿命転換は近代の造語で、そもそもこの語は「宿命」語解釈の誤謬があります。この点は、どなたかとかなり議論をした記憶がありますが、いまは見つかりません。ただ、簡単に以下に記していました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/1398

> 【理の一念三千・事の一念三千・真の一念三千】

真の一念三千という用法は知りません。いずれにしても、三千不可思議境は一心のことであるとして、止観参禅の観三千法界が湛然によって成句され、日蓮に至っては付嘱の正体である妙法蓮華経に裏まれた珠であるとなり、さらに創価教学では生命の説明になっていった経緯を概観して、原意に迫るべき用語の一つであると思います。

> 犀角独歩…急進派

そのように映じますか。すでにわたしが述べるような時代は100年前に到来しています。それに気づけず、信仰という二文字で、世間一般の批判を逃れていては致し方がないというのは急進的な態度でしょうか。寧ろ、遅すぎることであると思うのですが。


> 守旧派のような方々から見れば御書遺文を切り刻むように…

これは、むしろ、わたしのほうの印象ですね。
真偽を論ぜず、糞味噌の扱い、さらに切り文した遺文をつなぎ合わせて、日蓮の考えとはまったく違う解釈をしていると、殊に学会を含む石山教学に感じています。

近日の一連の遣り取りを見てもわかるとおり、わたしが単に、法華経は西暦前後の創作物語である、釈迦の入滅年代は鎌倉時代に信じられていたことと違っていた、という2点に就き、日蓮は事実誤認をした、つまり、「間違った」と記したのに対して、その点を認めようとせず、経典、教義、本尊は正しいということを違う論点から述べて、これを遮そうとしたわけです。わたしはこの一連の対応を自由な議論に対する侵害という印象すら懐きました。要は、現代、科学的に証明された点について、いろいろな解釈を構えて、それを肯定しようとしても、世間一般はそれでは納得しない点を、信仰で押し切ろうという暴挙と映じるわけです。その信仰への執着の原因は何であるのか、徹底的に内観してみてはどうかと勧めているわけです。

> 「西から東」は月氏、 「東から西」は日本の事をほのめかすと見て良いのでしょうか。

この意味は新釈いたしかねます。どのようなご質問なのでしょうか。

870犀角独歩:2006/06/27(火) 11:07:59

【869の訂正】

誤)新釈いたしかねます
正)斟酌いたしかねます

871今川元真:2006/06/27(火) 12:51:44
●誰もが簡単に昔の環境の原意に戻れるなら苦労と言うかストレスの無い社会になっているでしょう。●犀角独歩さんの様に知識・情報を持って学問に時間を費やす事ができる訳では無いので御容赦願います。 ●シャカと日蓮に通暁する心があるとすれば「泥から花を咲かせる蓮華」と考えなければ、信学行をして仏国土みたいな平和な社会をつくっても長続きしないような気がします。シャカの執着から離れる思惟思索に形を持って捉えるのは逆戻りと言われるかもしれませんが、より良い環境に変えるには点・線・面の点に於いてある意味(理想像の法を信じる、理想論で変わる自分を信じる)必要な事に思います。 ●十字御書を読み返していい線いってたなと思うのですが、嘘から出た真になりませんね。

872犀角独歩:2006/06/27(火) 14:52:36

今川さん、ここは議論の場であり、挙証義務が課せられていますから、それに遵守しているわけです。
時間がなければ、時間がないなりに個人でやる分にはけっこうなことではありませんか。
しかし、ここでは投稿規則があるということです。

信仰というのは、あ面、妄想と紙一重のところがあります。
嘘から出た真から、真に基づく信であるか、それを論証しようと言うことです。

873今川元真:2006/06/27(火) 23:56:56
●徹底的に解明する事は其れぞれの論理を考える為には良いのですが、時代毎の必要な要素を考えないと何も残らなくなるのでは無いかと思います。●犀角独歩さんの指摘通り(?)自分の信学行の質量を計り直す事が出来れば良いと考えます。

874犀角独歩:2006/06/28(水) 04:53:16

今川さん

873に記されるところは同意です。それがつまり、当スレ『現代人が納得できる日蓮教学』ということの趣旨だと思います。

875今川元真:2006/06/28(水) 12:20:45
犀角独歩さん、ありがとうございます。

877今川元真:2006/06/29(木) 17:51:40
宰格瑚葡さん、はじめまして。私は、池田チルドレン?が創価学会の指導者になっても組織システムの隅々までチェックするのは難儀なので、信心学問修行をより解り易く快適に内外に提示する為にも、末法無戒の世に法華経行者日蓮がどれだけの事を考え、富士門流貫首日寛がどれだけの事を纏め、創価教育学会会長牧口常三郎がどれだけの事を提示したのか、知る必要があると思います。

878犀角独歩:2006/06/29(木) 20:02:48

今川さん、前から気になっていましたが、末法無戒と本門戒壇というのは整合性がありますか。日蓮は末法無戒を哀しみ、本門戒壇を言ったのではないでしょうか。

「正法千年の後は像法千年なり、破戒者は多く得道すくなし。像法千年の後は末法万年、持戒もなし破戒もなし、無戒者のみ国に充満せん。而も濁世と申してみだ(乱)れたる」南条兵衛七郎殿御書

「二乗・凡夫・悪人・女人乃至末代の老骨の懈怠・無戒の人々は往生成仏不定なり。法華経は爾らず。二乗・悪人・女人等猶仏に成る」薬王品得意抄

「第二の悪世中比丘と指さるゝは、法然等の無戒邪見の者なり。涅槃経に云はく「我等悉く邪見の人と名づく」等云云」開目抄下

「日蓮は無戒の比丘なり」御衣並単衣御書

「剰へ我慢を発して大乗戒の人を破戒無戒とあなづる。例せば狗犬が師子を吠へ、猿猴が帝釈をあなづるが如し」「法華経の大戒を我が小律に盗み入れて還って円頓の行者を破戒・無戒と咲へば、国主は当時の形貌の貴げなる気色にたぼらかされ給ひ」「能因法師と申せし無戒の者」下山御消息

「貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり。此の僧は無戒なり無智なり」盂蘭盆御書

「正像末の持戒・破戒・無戒等の弟子等を第六天の魔王・悪鬼神等が、人王・人民等の身に入りて脳乱せん」諌暁八幡抄

「日蓮は無戒の比丘、邪見の者なり」法衣書

880今川元真:2006/06/30(金) 20:26:02
教学的因果関係は日蓮聖人が手紙に認められているだけしか見受けられないので解りませんが、縦軸・時間と横軸・空間、歴史と現象を考え合わせる学問が仏法ならば、心の襞や琴線に触れる感情的示唆が現れ言葉文字に表れても不思議では無いと思います。法華一乗の派生事項だと考えますが、真言化した比叡山に対して真実の一念三千・妙法蓮華の浄土を現出させたいと本門の題目・本尊・戒壇を形にしたのが漫荼羅(紙や板では無くて)なのでは無いかと断じたいです。

881犀角独歩:2006/06/30(金) 21:06:42

今川さん

880に記されることは、賛同する面もあります。

わたしがここで投げかけている疑問は、一般の人であれば、誰しも懐くだろうことを忌憚無く、率直に述べているのに過ぎません。そのような投げかけにどのように反応されるのかという点が、「心の襞や琴線に触れる感情的示唆」なのか、もしくは排他、罪悪視なのか、矛盾に満ちた反論なのか等、そのレスポンスによって、その健全度を測るのもまた、一般の観察であろうと思います。

その意味において、単発的、かつ、捨て投稿で、あらしが目的なのかと見えていた今川さんの、レスは、実に誠実で、健全であり、たしかに心の琴線に触れるものがありました。

882励合人:2006/07/01(土) 06:48:41
日蓮さんの生き方自体が素晴らしいと思います。人を愛する深さというか人間の可能性というか信念による一人の人間の持っている強さを教えてもらいました。立派な方々を見習うひとが出てくるから立派な行いができることは素晴らしいことです。見習う側も善の部分のみを見習っていければより素晴らしいです。それには善悪のはっきりした区別がつくことが一番大切です。世界平和や人間社会が進化するには宗教が無くなり道徳以上の新しい何かを手本にする世の中になるしかないと考えています。宗教以外の新しい何かが出現するには今より飛躍的に心の解明と科学の発展が必要ですが。現段階では信念につながるものとして現代社会を生きる責任、未来社会への義務、過去社会への感謝が明確に子供に教育されれば何か少しは変わっていく気がします。以上、大ざっぱで伝わらないと思いながらも根拠の無い個人的感覚による私見を記入してしまいました。

883犀角独歩:2006/07/02(日) 07:46:08

> 882

概ね、賛同します。

情報量は、ネットと豊富な資料が直ちに入る現代と、鎌倉時代では比ぶべくもありません。しかし、その情報を扱うのは常に人間なのであって、日蓮の熱意と精神力、そして、実際の行動といったものに、では、現代の我らが優位にあるかと言えば、決してそんなことはないでしょう。

「生き方がすばらしい」というご感想は、そんなところにあるのだろうと拝察します。データ的処理能力ではなく、“心”としての処理能力と言うことであろうと思います。

やや、論点が変わりますが、ハッサン師は、以下のような指標を示しています。

「破壊的カルトの疑いがあるグループを調べ鑑定するとき、私はまず、神学やイデオロギーの分野ではなく、心理学の分野で作業する。破壊的カルトについて考える私の基準は、マインド・コントロールと暗示と集団心理−−この三つの影響作用と言うことである。私はそのグループが“何を信じるかではなく”、“何をするかを見る”。(略)破壊的カルトはメンバーは“彼ら自身の”信念体系へと回心させようとする。だが私のやりかたは、その人が多様な視点を調べ、物事を自分自身で処理するように励ますものである」(『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版 P178)

884今川元真:2006/07/04(火) 05:48:28
30年かかって辿り着いた道程。法華一乗の中味を経典の内容を考え合わせるのは此れから。犀角独歩さん諸氏には一言一句訓育教授賜りますようお願いします。

885犀角独歩:2006/07/04(火) 20:31:34

今川さん

ご丁寧に有り難うございます。わたしもまた、今川さんから多くを学ばせていただきます。

886今川元真:2006/07/05(水) 06:22:50
いいえ、こちらこそ。法華一乗の原点に戻る初心者ですから宜しくお願いします。

887犀角独歩:2006/07/05(水) 11:06:20

つぶやきから移動しました。


こちらの掲示板で、日蓮本‘仏’、次に‘法’本尊=彫刻、そして、今回は僧について。

仏陀にあらざるを仏陀と信じさせ、法にあらざるを法と信じさせる、その僧は、僧にあらざるというのが、わたしの脈絡です。

カラフルなどと言った覚えはなく、薄墨素絹の質素な衣に剃髪であれ、そのような詐り仏法を勧めるものを、姿ばかりは僧に似せても、日蓮の言う僧にあらずということです。


独学徒さん

わたしは、多くの尊敬できる僧侶を知っています。また、その人たちの、心暖まる慈悲に包まれて今があります。

わたしが石山からもって出た一つの教え。
「僧の僧たる自覚を与えるは檀那なり」、四弘誓願に生きる僧侶には、精一杯の礼をもって、接するのは誠心誠意からですが、それはまた、その方々の自覚を生じさせる功徳もあると考えます。一方、誤り謀り衆生を迷惑する者には厳しく弾劾もいたし、ここでもまた、僧の自覚を促します。

これはしかし、「お気に入り」だなんだということとは、まったく、次元を異にします。仏と法と僧伽を護持しようという信念に基づくところです。この点を、独学徒さんはご理解いただけると存じます。

888独学徒:2006/07/05(水) 23:25:21

犀角独歩さん、

>これはしかし、「お気に入り」だなんだということとは、まったく、次元を異にします。仏と法と僧伽を護持しようという信念に基づくところです。

まだ数回ではありますが、犀角独歩さんと直接会ったことのある私には、重々承知のことです。

私が尊敬できる僧侶と出会えないのは、富士門系の僧侶に限定して接しているからかもしれません。

富士門でも何人かは、親切な方だと思う方もいますし、大変勉強になる御主張をされると思う方もいます。

しかし、本当に信頼し心をゆるせる方とはめぐり合えていません。
その意味では、犀角独歩さんが羨ましくさえ思えます。

しかしそれでも、人との出会いは、まだまだこれからだと思います。
全ては私の経験不足だと思います。

890犀角独歩:2006/07/06(木) 00:32:41

独学徒さん

有り難うございます。
独学徒さんが、富士系の坊さんに限ってお会いになってきたというお話は、むしろ、新鮮に感じました。

わたしは、ここ10年、その手の人には会わないできましたから、善い方々との会いがあったのであろうと思います。そのような方々に、お引き合わせの労をわたしは厭いません。お気軽にお声をおかけください。

891独学徒:2006/07/06(木) 21:30:51

犀角独歩さん、有難うございます。

実は定年退職したら入道しようかと思っていたこともあります。
娘達には頭を丸めることを大反対されましたが、今でも心中にその希望が残っております。

この先、良き僧侶との出会いを求めた時には、犀角独歩さんに相談させていただきます。
その節には、どうぞ宜しくお願いいたします。

892 B:2006/07/07(金) 10:32:16

> カラフルなどと言った覚えはなく、薄墨素絹の質素な衣に剃髪であれ、そのような詐り仏法を
勧めるものを、姿ばかりは僧に似せても、日蓮の言う僧にあらずということです。
> これはしかし、「お気に入り」だなんだということとは、まったく、次元を異にします。仏と法と僧伽を護持しようという信念に基づくところです。


ご自分の主張は丁寧になさるが、非礼、批判の含みのあるものは飛ばし読みをされるのか、これで「カラフル」についての2度目の説明になります。

独歩さんの表現、「坊さんコスプレ」を借りて、「カラフル坊さんコスプレ」は私「B」が言ったのです。

宗祖も着されなかった色衣を着て、似ても似つかぬ姿で宗祖の法を説くお上人様を「カラフル坊さんコスプレ」と真似たのです。独歩さんが尊敬なされているらしいので独歩さんの「お気に入り」と書いたのです。

湾曲?

独歩さんの投稿から引用
草創の古さ、寺格の高さ、皇室はじめ過去の権力者にどれほどの庇護や帰依をうけたかを、とくとくと語り、あたかもそれを寺の誇りとするごとき傾向をまま見かける。しかしそんなことが、寺の名誉でも威信でもないことはあきらかである。もし寺院が、それなりに矜持(きんじ)を持つとすれば、仏の智、仏の愛を、どれだけ積極的に民衆のなかに弘通し、彼らの悩みを救ったかという一点にしぼられるはずである。過去はもちろん、現在も未来も、立派にそのつとめを果たし得る自信、そしてその実績――。寺院の誇りはこの一事に尽きる。伝統や寺歴を、問題外にするのではないが、そういうものはあくまで第二義のはずと思うのだ。

これは身延の寺にぴったりあてはまるのでは、

新尼御前御返事に
日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために、此の御本尊をわたし奉るならば、十羅刹定めて偏頗の法師とをぼしめされなん。又経文のごとく不信の人にわたしまいらせずば、日蓮偏頗はなけれども、尼御前我が身のとがをばしらせ給はずしてうらみさせ給はんずらん。此の由をば委細に助阿闍梨の文にかきて候ぞ。召して尼御前の見参に入れさせ給ふべく候。


身延を見学に行った知人の言うには、門前でヒラヒラと風に吹かれてご本尊が売られていたとのこと。
佐渡ではちょっと記憶があいまいだが佐渡始顕のご本尊がステンレスの板に彫られて庭に展示してあった。
「大日蓮展」では平念珠が売店で売られていた、展示物の中には聖人ご所持の数珠(真偽は?)が展示してあったが平念珠ではなかった。
親戚の法事で日蓮宗の寺へ行ったがあちこちに色んな物が祀ってあった。

お上人方は、これらを承知しておられるのだろう。独歩さんの「仏と法と僧伽を護持しようという信念に」に悖りませんか。

答曰守涅槃経云若善比丘見壊法者置不呵責駈遣挙処当知是人仏法中怨。若能駈遣呵責挙処是我弟子真声聞也

人を見て呵責、不呵責の差別があっては是人仏法中怨にして真の声聞には程遠いのでは。


> 「僧の僧たる自覚を与えるは檀那なり」、四弘誓願に生きる僧侶には、精一杯の礼をもって、接するのは誠心誠意からですが、それはまた、その方々の自覚を生じさせる功徳もあると考えます

これは全くもってそのとおりだと思います。

放談中の笑い話であるが、あの僧侶はいいが、この僧侶は嫌いだという信徒について、信徒は僧を選べるが僧は信徒を選べないんですよと、僧侶はあんな信徒はいやだなと思ってもそうはいかないのですよと冗談半分で吐露され、大笑いしたことがあった。

信徒でもなく何が目的かわからぬ得体の知れぬ者にも誠意を尽くさねばならぬ僧侶も大変だなと思う。
不快を示せばあれが僧侶か、修行が足らんと指弾される。そのとおりではあろう。
悪口も善智識ととらえられ精進の糧とされるのだろうけれど。

完璧無欠の僧などどこにもおられないのでは。 精進に努められる姿が尊い事だと思う。

893犀角独歩:2006/07/07(金) 12:11:48

Bさん

わたしは、お気に入りだなんだという言葉は不快です。
別段、気に入るとか、気に入らないで言っていないと何度も、繰り返しています。これは重複投稿、無意味な繰り返しになります。
管理者さん、投稿規約に違反すると思いますが、如何でしょうか。

さて、Bさん、わたしの先の投稿は、富士門流信徒の掲示板で、下種三宝を問うたものです。その脈絡は一切、無視するのでは、議論とは言えません。

また、わたしは、身延を気に入っているわけでもなく、身延派の僧侶を気に入っているわけでもありません。また、その化儀を100%納得しているわけでもありません。ただし、‘民衆救済’という視点から、そのような尽力している方々に最大の礼をなすと言っているのです。斯様にあなたの論点はずれています。

また、身延の本尊について、云々していますが、Bさんはどうやら、石山の僧俗らしいですが、では、そこでは頒布されている‘本尊’とは、他宗を非難できるような代物なのでしょうか。その本尊の印刷を請け負う印刷会社、あなたが嫌う日蓮宗の仕事を請け負っているのであり、身延の印刷物が印刷されている同じ会社で印刷されたものを本尊として、信徒に3000円以上で販売しているのではないでしょうか。まして、「奉書写之」といい、それが彫刻を写したものと言いながら、内容が違っているという呆れた代物です。そのような本尊を尊重する者が、身延の本尊を云々するなど、話になりません。

また、わたしが引用した涅槃経の文は「僧」について、論じたものであって、その文をもって、わたしが自護相違した如き論調もまた、まったくの的はずれです。

「精進に努められる姿が尊い」、わたしもそのように記していますが。

いくら、あなたが、身延の悪口を羅列したところで、石山の実態は、何も変わりません。身内の贔屓倒れに他者の悪口を言う姿を、あまり褒められたものではないでしょう。

いずれにしても、ここは、議論の場です。揚げ足を取って、嫌みを書き連ねるような態度は、わたしは、そもそも投稿の姿勢に問題あり、改めないのであれば、退去を希望するほかありません。

894管理者:2006/07/07(金) 13:00:10

Bさん

当掲示板の参加者を揶揄するのが目的であるかに見えるような投稿は、当掲示板のルールに抵触します。今後同様の書き込みを続けれた場合は、ルールに基づいて、削除、並びにご参加をお断わりする事になります。よろしくお願いいたします。

895 B:2006/07/07(金) 20:18:57

公平なりやと、いささか反駁したいと思うところもありますが、ルール違反とのこと、
すみませんでした。 ROMに戻ります。

896波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2006/07/24(月) 09:58:44
日秀師の起こした三鳥派とはどのようなものであるか、なかなか
わからなかった。

江戸時代突然発生した異流義であり、弾圧され痕跡が完全に消されて
いるため、なかなか実態が掴めないでいた。

以前日蓮大聖人の神道観は、現在日蓮宗が入れている吉田神道ではなく、
渡会神道を基礎にしている、という主張をしたことがある。

石山の場合は、他の法華集団の神道観とは別に、突然変異した、という
私の予感はなんとなくあたっていた。

三鳥派は吐菩加美神道・烏行神道の影響を強く受けていたのだ。

897通りすがり:2006/07/24(月) 15:34:25
ハキリうるさい。
誰も興味は無い(-_-)

898通りすがり:2006/07/28(金) 19:57:04
あ、ハキリ坊見っけ!!
お萬の方の本遠寺の葵講の講頭さん

899通り越し:2006/07/28(金) 23:40:44
本遠寺に葵講など存在しませーん。

しかもハキリは檀家でもなんでもありませーん。

900通りかかり:2006/07/29(土) 01:08:06
葵講は禿の脳内妄想によるバーチャル講ですよっと。

901通りすがり:2006/07/29(土) 08:04:11
896の件は菅田さんが精通しているでしょう。

902とんび:2006/09/09(土) 05:22:50
おはようございます。

教・機・時・国・教法流布の前後(正宗の解釈で)とありますが、教主釈尊の出世
の本懐は、人の振る舞にて候ぞ..とかあったと思いますが、いわゆるサッカー
の試合をしているようなもので、常に瞬間・瞬間にするべきこと、信ずべきことは
変化するものだと思います。
 ボールの位置を確認し、自らのチームの選手の位置を確認し、相手チームの位置
をいつも確認して行動を起こす。

 90分で、終わりと思っていては、たとえ5点リードしていてても、残りのロスタイム
で、何もしなければ、10点・20点とられて、逆転負けしてしまいます。

 だから、臨終の最後の一念まで信心が大切になってくると思います。

 もちろん、相手チーム、自分のチームというのは、他人と自分・敵・味方
ではなく、あくまで、己心のなかでのことだと思います。

 忙しいので、誤字や言葉の表現の仕方が適切でなかった部分もあるかと思い
ますが、ご了承下さい。

903とんび:2006/09/09(土) 05:28:49
追伸です。

日蓮聖人の遺文にあるように「月々日々に強りたまえ、少しもたゆむ心あれば魔たよりを
うべし」ですから、ウィルスバスターやノートンアンチウィルス、マカフィーのパソコンソフト
ように、常に信心の精進をしていかないと、魔にやられてしまうと思います。

904無学無明:2006/09/10(日) 18:31:41
 とんび様。
 たとえをサッカーにしていますが。
 生きとし生きたいものが、それなりに人生を必死です。
 貴殿の提言されたサッカーはあくまで遊戯の一例であって、心肺・走力の優劣で勝負が決まるようです。
 しかし、生身の我々は生老病死の一点〜一点の最中にも、強い娑婆世界の影響下にいます。
 もし、言えるなら、「、、薬害エイズ被害者、薬害肝炎被害者たちへの配慮こそが懸念」でしょうか。
 現実に「成仏はお引き受けします、100%を保障します」、というて信者を勧誘したならば、?
 薬害訴訟では莫大な被害者への損害保障が次々と判決されています。
 宗教は別物だと、庶民を甘く見て、なめ切っていますと、そのツケは、、?

905天蓋真鏡:2007/01/04(木) 20:13:41
鎌倉時代の僧・日蓮の纏め、21世紀に生きる人々の活用できる質量。【きっかけ≒ヒント≒鍵≒一念三千因果倶時唱題】

906とんび:2007/10/20(土) 20:45:22
私の、現在における日蓮聖人の響く言葉。(時によりかわりますが)

上野殿御返事(弘安3年12月27日)日興筆、古写本あり。

「仏にやすやすとなる事の候ぞ、をしえへまいらせ候はん。人のものををしふると申すは、車のおもけれども
油をてぬりてまわり、船に水をうかべてゆきやすきやうにをしえ候なり。仏になる事は別のやう候はず。旱魃にかわけるものに、
水をあたへ、寒水ににごごへたるものに火をあたふるがごとし。又、二つなき者を人にあたへ
、命のたゆるに人のせにあふがごとし。
 
 金色王と申せし王は(中略)。月氏国にす達長者と申せし者は、七度貧になり、七度長者となりて候ひしが。
(中略)これをもてよろずを心へさせ給え。

 この言葉は、いまの社会にも、通用すると考えています。

907天蓋真鏡:2008/05/22(木) 19:29:56
南無妙法蓮華経=本尊=戒壇=題目?、本尊=漫荼羅?、戒壇=戒壇堂?、題目=一切衆生の題目?

908偶ロム偶ログ:2008/05/23(金) 03:30:02
>天蓋真鏡 さん

日蓮遺文による挙証なしで、感覚での感想です。
本尊=木画の仏像(漫荼羅も含む)として表現されるところの己身の教主釈尊
戒壇=南無する吾体がいる処
題目=浄化のためと祈祷・祈念・祈願のための呪(しゅ)
まあ、日蓮教学とも石山宗学とも直截の脈絡はないですが、このように考えて30年は経っています。
これはあくまでも個人に則してのことです。

ただ戒壇については厳密には国主灌頂のための堂ということになるのでは?

まあほとんど醉言です、悪しからず。

909犀角独歩:2008/05/24(土) 09:35:45

ここ富士門流信徒の掲示板で、10年近く書いてきましたが、大石寺、創価学会、顕正会の批正から、この集団と教義と決別する人々を多く出すことができました。また、日蓮本仏、戒壇本尊からの脱却の用にもたちました。

ところが、そうした人々が保田、北山、西山といった寺院に移動することによって、信仰を保つ様を見ると暗澹たる気分となります。

また、正信会も含めて言えることですが、日興門下の「お宝鑑定団」をやったところで、何ら信仰が実になることは有り得ません。

また、こうした移動組のなかには、創価学会や大石寺を口汚く罵る様も見えますが、他者からみれば、所詮「目くそ鼻くそを笑う」の類に過ぎません。

事実究明とは自己にもっとも厳しく、そして、他に対しても公平な批正でなければ何の意味もありません。

古文書や本尊のお宝行脚と、坊さんと遊戯雑談をするより、もっと、するべきことがあったと、自己反省も含めて思う昨今です。

910マターリ:2008/05/25(日) 07:25:29
>犀角独歩さん、古文書や本尊のお宝行脚と、坊さんと遊戯雑談をする
より、もっと、するべきことがあったということですが、具体的には、
「するべきこと」とは、どういうことでしょうか?

911犀角独歩:2008/05/25(日) 10:55:52

マターリさん

「するべきこと」は、たくさんあります。それは人それぞれ違っています。公私に亘り、種々あるでしょう。わたしのやるべきことは、プライバシーに属しますから、ここでは述べませんし、また、各位についても、ここでそれを公開する必要はないことは当然です。しかし、それでも、いえることは、「するべきこと」とは、富士門流であるとか、日興門下であるとか、そうした狭隘な閉鎖空間に留まることではないということです。

「お宝鑑定団」とは、我が恩人、中村行明師がわたしのブログを御覧になって、率直に述べてくださった感想でした。世間一般にはそう映るのだろうと思った次第です。


所謂「本門戒壇の大御本尊」と称する彫刻が後世の捏造物であることなど、もはや論じることもなく当たり前のことです。石山や、顕正会は、これに必死に足掻くかも知れませんが、この歴史は、もう終わりました。大石寺は、今後、信徒会員が増えることはなく、顕正会は浅井照衛さんの死をもって、石山と同じ運命を辿るでしょう。数十年を待たず、この二つの集団は、世間一般から忘れ去られるでしょう。

わたしの彫刻鑑別は単純で、真偽を問うて、贋作であることを証することでした。わたしの目的はここまでです。ところが、どうしたことか、このあとに違う想念を有した人々が残存しました。それは、日蓮漫荼羅の本物探しでした。日本史のなかで何度かブームのように起きた所謂「万年救護本尊」を正統本尊と見なしてみたり、取り立て、日興の書写本尊を有り難がるといった傾向です。こうしたブームは、戦前にもあったものでした。

日興の再認識は、戦前から事起こり、戦後は創価学会の勃興により、学界では高木豊師の研究から、異なった両陣営によって支えられてきました。しかし、この日興ブームはやがて終焉を迎えます。

なおさらのこと、北山・西山・保田といった日興門下など、もはや、既に社会からは忘れ去られた存在であり、そこで有する寺宝などに価値を感じるのは、わずかな人達ばかりです。日興の正統性に執着すること自体、ナンセンスだからです。

わたしの自分史を述べれば、「日蓮正宗創価学会」の家に生まれ、絶対と信じた集団と指導者は、本尊から離れました。わたしは本尊を希求し、石山に移りましたが、そもそも、それが後世の捏造物でした。では、日興が正統かといえば、それは日興門流の幻想に過ぎませんでした。では、日蓮は、といえば、鎌倉時代という科学開闢以前の神話に生きた人であったわけです。では、法華経は、といえば、これまた、西暦前後に創作された物語でした。
つまり、これらのものにいくら執心したところで、「嘘から出た誠」とはなりません。かつて、池田・学会批判で、石山圏が好んでいった「嘘は100遍繰り返しても本当にならない」のです。この言葉は、石山のみならず、日本の全仏教にかかる天に吐いた唾です。

こちらのスレッドは「現代人が納得できる日蓮教学」ですが、率直に申し上げて、もはや、そんなものは残っていません。もし、何かあるとすれば、それは「日蓮の魂」かもしれません。人を思い、国を思った熱意といったところでしょうか。もちろん、日蓮が考案した漫荼羅に熱心に唱題を重ねることに、何らかの効験はあるでしょうし、そうした体験を有する人々も多くいるでしょう。

伝統仏教→日蓮宗→富士門流→(日蓮正宗)創価学会・顕正会 といった信徒移行が戦後、日本の宗教動向でした。そして、その「創価学会・顕正会が間違っていた」から、「日蓮正宗」に、さらに富士門流に遡源すれば、事は解決するかどうかという公開の論理的実験場が、ここ富士門流信徒の掲示板でしたでしょうか。率直に言って、そんなところで、歩みを留めていても、個人的な慰撫と趣味の範囲に過ぎません。では日蓮宗は、では伝統仏教はと遡源しても、事態は同様です。

「するべきこと」の第一歩は、こうした幻想され・設定された「地図」と思考の足かせを、まず外し、個人の自由と責任に基づいて、前に進むことです。

912犀角独歩:2008/05/25(日) 11:01:26

「そんなところで、歩みを留めていても」という「そんなところ」とは、ここ富士門流信徒の掲示板をさすのではなく、「伝統仏教→日蓮宗→富士門流」といった信念体系と集団を指して書きました。
文章が曖昧で誤読される可能性があると危惧しましたので、補足します。

913天蓋真鏡:2008/05/25(日) 13:29:25
犀角独歩さん、マターリさん、ゴウタマシッダルタ生誕〜21世紀の富士門流掲示板の出来た頃までの年表を作って置かないと解り辛いかもしれません。

914天蓋真鏡:2008/05/25(日) 13:56:38
偶ロム偶ログさん、30年と言うのは凄いです。 自分は日蓮聖人が信仰生活をして布教活動していく内に漫荼羅唱題に洗練特化していったと思います。日蓮自身は釈尊像を所持して内証の妙法漫荼羅を心に描き唱題する。其れで一乗要決の南無妙法蓮華経が本尊戒壇題目なのではと掲示板を読み直して想いました。 戒壇本尊は日目諫暁に出て来る三秘法を具現化する為作り出されたオブジェなのではないかな当初はと想像します。

915マターリ:2008/05/25(日) 15:31:21
>犀角独歩さん、詳しく教えていただき、ありがとうございます。

>「するべきこと」の第一歩は、こうした幻想され・設定された「地図」
と思考の足かせを、まず外し、個人の自由と責任に基づいて、前に進むこ
とです。

私も同様に考えています。今まで教団で教わった既成概念を外して、自由
に考えていきたいと思います。

>天蓋真鏡さん、年表を作るのは大変そうですね。

916天蓋真鏡:2008/05/25(日) 16:38:26
マターリさん、返レスありがとうございます。 意見集約は大変でしょうが一度見で粗筋でも把握しないと同じテーブルに付けないでしょう。 2008年現在に纏めた年表ならば、2008年度版で良いのでは無いでしょうか。

917犀角独歩:2008/05/25(日) 20:58:46

年表ですか、うーん、なかなか、そこまで手が回りませんね。

918顕正居士:2008/05/26(月) 05:23:12
2ちゃんねるの創価板を見ていたら「紙に呪文を唱えて欲を満たす教え」というような
表現があった。言い得て妙である。1 紙(板) 2 呪文 3 欲を満たす どの要素も
最初から話にならない、それが3つ掛け合わさる、以外の要素はない というわけです。
単純に常識だけ働けば、このように本質を的確に見破れるものだなあと思った次第です。

919犀角独歩:2008/05/26(月) 19:27:44

918に顕正居士さんがご紹介くださったのと同じような筋で、S・ハッサンは『マインド・コントロールの恐怖』のなかで「アメリカ日蓮正宗」(=SGI)をカルトとして上げていました。本が手許にないので抜き書きはできませんが、記憶に随って書けば、「漢字の書いてある掛け軸に題目を唱えると、願いが何でも叶うといって勧誘する」といった記述であったと思います。

創価学会は、この紙=掛け軸を、仏であるとか、生命であるとか、さらに石山にいたっては、これを「生身の日蓮大聖人」とか、法本尊だとまでいいます。

人間の信じる力は射る矢が石に立つといった逸話になるほどですから、鰯の頭であろうと、信じて拝めば、本人が納得がいく結果が出たと納得する「個人的リアリティ」を得ることはあるでしょうが、しかし、これは、その本人の潜在能力と自己認識と満足の為せる業で、紙が仏や、生命であるといったわけでもなく、まさに「紙に呪文を唱えて欲を満たす教え」、もっといえば、「紙に呪文を唱えて欲を満たすと思わせる教え」というのが、常識的な判断なのだろうと思います。そして、こうしたことをいってのける教義集団を、…わたしではなく…ハッサンは「カルト」といったのでしょう。

自分が信じやっていることが、他からはカルトと映じているかどうかを、客観的な視点で見直すことが大切だということでしょう。

920しゅんかん:2008/05/26(月) 23:37:18
私は宗教(通一般的に捉える処の)を信仰いたしておりません。

一組織、一団体、一グループに身を置いた者を、其れに組していない者が
眺めた時、異なものと映るのは当然ではないでしょうか、人間ですから。

カルトと定義するには一地域、一国、地球規模であれ少数派なのでしょう。

何を崇拝しようが第三者には所詮理解に苦しむ事だろうと思いますが。

時間、空間的に人の捉え方は変化しますから、人間に是が真実だ、是が現実だ
等と述べる能力を有しているとはとても思えない、全ては幻想でしょう。

921しゅんかん:2008/05/26(月) 23:40:36
少々、酔いかげんです。

一組織、一団体、一グループは重複語ですね、申し訳ありません。

922犀角独歩:2008/05/30(金) 05:28:22

> 919

自己レスです。原著を確認したところ、記憶と少し違っていました。

「NSA、「アメリカ日蓮正宗 Nichiren Shoshu of America 」に入っていた(この組織は日本ではじまり、仏教の系列だと言うのだが、もう20年このかた、合州国で会員を獲得してきている――訳注=「アメリカ日蓮正宗」という名称は、いまでは変更されているかもしれないが、ここでは原著の記述どおりにしておく)。このカルトの会員は、和紙の巻物 ― 御本尊 ― の前で不思議な言葉をくりかえし唱えれば、自分たちの欲しいものを何でも獲得する力が身につくのだと信じている。」(P169)

つづく記述のなかで「人生の問題を解く鍵を約束する集団にとっては、私はいい“カモ”だった」という悩める善意の人、また、「結局グループから追放されたのだが、ナンシーは次の1年、自分は末期ガンで死にかけているのだという考えに悩まされて、精神科にかかった。自分はただ教え込みどおりに反応しているのだということが、そのときはまだ彼女にはわからなかった。ほかの多くのカルトメンバーと同様、彼女も、NSAを離脱して読経をやめれば恐ろしい結果が生じると怖がるようになっていたのだった。」という経験談は、恐怖操作、もしくは植え込まれる自罰性を示すもので、「日蓮正宗創価学会」、もちろん、顕正会、正信会、妙観講・法華講も、この例に漏れないことがわかります。

923犀角独歩:2008/05/30(金) 05:41:50

参考のために、該当部分の全文を抜粋します。


ゲアリー・ポーターと「アメリカ日蓮正宗」

 いまはフィラデルフィアで指圧療法士をしているゲアリー・ポーターは、ナンシーと出会い、恋をした。彼女はNSA、「アメリカ日蓮正宗 Nichiren Shoshu of America 」に入っていた(この組織は日本ではじまり、仏教の系列だと言うのだが、もう20年このかた、合州国で会員を獲得してきている――訳注=「アメリカ日蓮正宗」という名称は、いまでは変更されているかもしれないが、ここでは原著の記述どおりにしておく)。このカルトの会員は、和紙の巻物 ― 御本尊 ― の前で不思議な言葉をくりかえし唱えれば、自分たちの欲しいものを何でも獲得する力が身につくのだと信じている。2年以上も信心を続けたあと、彼女はだれか医師と出会って結婚できるように、1日何時間も「南無妙法蓮華経」唱えはじめた。
「駐車の場所だろうと新しい仕事だろうと学校の成績だろうと、何のためにでも彼らはこれを唱えるのでした」。ゲアリーはFOCUS支援集会で元カルトメンバーたちにそう語った。
 ゲアリーはメソジスト派のキリスト教で育ったが、ナンシーと出会ったころ、彼は落ち込んでいた。
 「私は指圧療法専門学校の4年間で燃え尽きていました。いちばんの親友が自動車事故で死にました。兄弟たちが私に、家へ帰って病気の母の面倒をみるようプレッシャーをかけていました。人生の問題を解く鍵を約束する集団にとっては、私はいい“カモ”だったのです」
 「このグループは不気味だなと思いましたが……」とゲアリーは言った。「私はお経を唱えることに同意しました。信じられないような昂揚感が得られました。私は御本尊を買い、プンシーと結婚して、そのグループに5年間いました」。
 NSAは、勧誘のため、また会員の信仰を強めるために、ティナ・タープーやパトリック・ダフィーといった有名人をよく使っていた。もうひとつのセールス・ポイントは、「世界平和のために活動しています」だった。NSAは、彼らの読経だけが世界を破滅から救うのだと会員に信じ込ませていた。しかし会員は、NSAが後援するデモ行進(大部分の主流派平和団体からは敬遠された)のほかは、平和促進のためほとんど何もしていない。NSAの行進は、たしかにメンバーの時間とエネルギーを支配する役にはたった。「私たちは、週に3、4回、グループの集会に行かなければなりませんでした。読経に毎日何時間も費やすのは言うまでもありません」。メンバー同士の関係は、疑う人間は黙らされ、迎合が報いられるのだということを確かめるように操作されていた。
 ついにゲアリーはNSAのリーダーと何回か衝突を起こし、追放すると脅かされた。心の底深くでは、それが自分の願っていることだった。プレッシャーと操作に、ゲアリーは疲れきっていた。また、時間と勢力を全部NSAに注ぎ込んでしまうため、指圧の仕事も損害を受けていた。
 ふたりは結局グループから追放されたのだが、ナンシーは次の1年、自分は末期ガンで死にかけているのだという考えに悩まされて、精神科にかかった。自分はただ教え込みどおりに反応しているのだということが、そのときはまだ彼女にはわからなかった。ほかの多くのカルトメンバーと同様、彼女も、NSAを離脱して読経をやめれば恐ろしい結果が生じると怖がるようになっていたのだった。
 ゲアリー・ポーターとナンシー・ポーターの物語は、ある種のカルトの物語ほど劇的ではない。彼らのカルト生活は外目には比較的正常だったし、死んでいくメンバーのために徹夜を命じられたりもしなかった。幸運にも、ふたりはいっしょにカルトをやめることができた。マインド・コントロールと破壊的カルトに関する資料を調べはじめるとすぐ、本質的にはNSAも、終日一緒に暮らすことを要求するグループと同じマインド・コントロールの手法を使っているのだということが、ふたりにはわかった。だが、ふたりの人生を修復するのには数年かかった。」

924マターリ:2008/06/01(日) 20:09:03
男子部の先輩で、不治の病に苦しむ人がいました。幹部から「100万ベン
の題目をあげれば必ず治る。」、と言われて必死で題目をあげていまし
た。また、病気の身体に、むち打って活動していました。

何ヶ月か経って、100万べんを達成したのですが、一向に治る気配がない
ので、もう一度、先輩は幹部に相談しました。すると幹部は、「もう100
万ベンあげなさい。治るまで、題目をあげなさい。」と先輩に言ったそう
です。

幹部の話をしながら、先輩は私と並んで歩いていました。そして「いった
いあと何万べんあげれば治ると言うんだ。」と下を向いて、涙を浮かべて
言いました。愚痴を言わない先輩が、たった一回だけ言った、はらわたか
ら絞り出すような悲しみの言葉でした。

その後、先輩は、学会の会合にも出なくなり、一年も経たずに亡くなりま
した。

世の無常を感じた思い出です。

925しゅんかん:2008/06/01(日) 22:46:30
マターリさん

全くその様に思います。

世は無常でしょうが、無常でなければ又、困るんでしょうね。

926彰往考来:2008/06/04(水) 06:31:55

>911 お宝鑑定団

私は日蓮聖人の御本尊や御影などを研究しているわけですが、なんで個人でこんなことやっているのでしょうね。そのために日蓮関係だけで600冊を越える蔵書をもち、100冊を越えるファイルに整理、分類して収められた莫大な量のコピー資料を所有しています。その収集と整理、調査にかけた時間とお金は相当なものです。ま、しかし資料が手元にあるおかげで自分の守備範囲のテーマであれば夜中でも調べることができます。息子には図書館みたいだねといわれてしまいました。しかし増えすぎました。特にここ数年は入手する資料の量がうなぎのぼりで置く場所にも事欠く始末です。確か『捨てる技術』という本で学者以外は本など持っていてもしかたがないという主旨のことが書かれていましたが学徒としては捨てるわけにはいきませんので学者と同じということでしょう。多分大学教授並みの蔵書量であると思いますが家人からみればゴミの山にすぎません。

あくまで私の場合ですが野村進氏の『調べる技術・書く技術』(2008年、講談社)でいう「突き動かしている原動力」(73頁)は、「騙されるものか!」という反骨心です。学会二世として育ち気が付いた頃には大石寺の板漫荼羅を真筆として教えられて拝んでいました。しかし大石寺だけではなく他宗も含めどうもヘンだ、と思い始めたのが高校生のころで、御本尊ってなんだ?なぜ日蓮の真筆本尊は一種類ではなく色々な相貌があるんだ?と変人扱いされながら調べてきたわけです。そこにあったのは秘密主義の壁と無理解でした。当時の男子部幹部は「こんなの調べて何になるんだ!」と怒鳴ったものでした。もっとも学生部時代のある幹部は「学会出版物を1冊読んだら外の本を5冊読め。でないとバランスをくずす」と指導していましたのであながち可笑しな幹部ばかりではありません。この考えはよいのでそう心がけて本に接しています。
鳴海風氏の『円周率を計算した男』(新人物往来社、1998年)に「無理に隠そうとするのは、底が浅いことを露呈しているようなもの」(160頁)、「学問の進歩は秘密主義の下ではありえない」(170頁)とあるのが当時の私の気持ちに近いでしょう。もちろん今でも同じです。騙されないためには勉強し研究するしかありません。

私もテレビ東京の「開運なんでも鑑定団」は好きでよくみますが、日蓮聖人の御本尊や古文書などを研究するのはお宝鑑定団ではないでしょう。鑑定してどうなるのでしょうか?他人の財布の中身を勘定してもしかたがありません。古文書などの研究そのものは真実が知りたいという一念のことではないでしょうか。決して興味本位でできることではなく、自分の人生を、命をかけてやっているものなのです。生半可なものではありません。お宝鑑定団だと仰る方は興味本位の趣味と命をかけた研究を同じだといっているようなものだと思います。反論する必要すら感じません。そのような他人の気持ちを理解できない人には言わせておけばよいと思っています。

927彰往考来:2008/06/04(水) 06:32:33

926の続きです。

興風談所の諸君はどうなのでしょうか。他人のことをとやかく言える立場ではありませんが、『興風 第19号』では菅野憲道氏が「戦国末期の富士門徒」で北山本門寺蔵の鉄砲曼荼羅の伝説を検証してその内容が史実ではないという結論を導いていますし、坂井法曄氏も「日像上人伝承考」で日像師の伝記を再考すべきと主張しています。内容は確かによく研究されていて反論しようとは思いませんが、所詮他山の伝承・伝説の類でありそんなものにケチをつけてどうするんだ、そんなことより自山(元・自山?)の板漫荼羅の真偽論を論及すべきだろうに、という気持ちはあります。自分達に甘く他人に厳しい態度は世間では相手にされません。生活のためならいざしらず現状は興風談所と日蓮正宗は関係ないのですから大石寺蔵板漫荼羅の真偽論を考証できる立場だと思うのですが、ひょっとして興風談所は将来日蓮正宗に戻るつもりなのでしょうか?

ただ何となく興風談所の諸君の行動が解かるような気がします。彼らを「突き動かしている原動力」は、やはり「騙されるものか!」ということなのかもしれません。あっているかどうか興風談所の諸君に聞いてみないとわかりませんが彼らも自分の人生をかけてやっているわけで生半可なものではないはずです。

月山照基氏の『速水御舟の真贋考』(1998年、河出書房新社)に「《真(まこと)の研究》とは、他を究(きわ)めつつ、自己を研(けん)するの謂(いい)である」(1頁)とありました。私も日蓮研究をする上で歌川国芳などの浮世絵や狩野派や横山大観など近世・近代の絵画に触れる機会があり大変勉強になりました。精神的にも豊になれたわけでそれが何よりよかったと思っています。今は横山大観を調べているのですが、大観の「日蓮上人」という絵はもの凄いです。残念ながら関東大震災で焼失しましたがモノクロ写真が残っています。東京国立博物館蔵本とは別の絵です。これを初めてみた時、日蓮聖人を信仰するものとして心底から身体が震えました。これが魂の入った本物の絵なのでしょう。いずれご紹介したいと思います。

彰往考来

928犀角独歩:2008/06/05(木) 19:05:27

> お宝鑑定団だと仰る方は興味本位の趣味と命をかけた研究を同じだといっているようなもの

わたしは違う見解を懐いています。
わたしの先の投稿が言葉足らずでしたから補います。

試みに、該当番組を三つに分解して考えます。一つは番組制作者、二つは「興味本位の趣味」の骨董好き、三つはプロの鑑定者。行妙師は、わたしを趣味の骨董好きといったわけではありません。

「これこそ、本物であると信じて価値を見いだしている」素人が、彫刻本尊信仰圏の人々である。しかし、こんなものが偽物であることは、ちょっと、日蓮本尊に目利きであれば、誰しもわかること、そんなプロの目から見れば一目瞭然のことに、素人相手にいつまでも時間を割いているのはもったいないという意味でしょう。興味本位であるという批判では決してありません。

彰往考来さんは、「自分の人生を、命をかけてやっているものなのです。生半可なものではありません」と記しています。それはたしかにそうでしょう。しかし、命をかけているのは彰往考来さんだけではないでしょう。天台五時教判がでたらめであり、かつ、『法華経』を含む経典が後世の創作物であると証明した近代科学の成果を出してきた人々もまた命がけでした。

彰往考来さんは、命がけでなにを証明しようとしているのでしょうか。また、そこで講じる鑑別の技法は「お宝探偵団」に出る鑑定者となにか違いますか。また、こうした鑑定士を批判しますか。行明師がいうのは、それが本物であるかどうか・事実であるかどうかもちゃんと調べもせずに人に勧めてきた僧侶と信者を「お宝探偵団」に出る素人骨董趣味の人々に充ててのことです。その意味で行明師と彰往考来さんの言い分は、同じようなことであるとわたしには映じます。

ただ、そこからさらに一般的な見識に立つとき、先に引用した「和紙の巻物 ― 御本尊 ― の前で不思議な言葉をくりかえし唱えれば、自分たちの欲しいものを何でも獲得する力が身につくのだと信じている」ような信仰は、しかし、お宝探偵団に出る偽物を高価であると信じ込み、もしくは信じ込まされて、骨董好きとなんら大差なく映じるということでしょう。

いまの日本は創価学会のひどい影響下にあります。わたしの親は創価学会のために億に届く散財をしました。いまや、ガソリンはついに170円を超えたましたが、まだ、高騰するでしょう。暫定税率を新たに設定されたことは生活の逼迫に拍車をかけました。こうした決定権を行使したのは、自民党と公明党であり、ひいてはそこに投票した創価学会員も、その責務を負っています。こうした国政を動かす程の会員を創価学会が集めたその基には「日蓮正宗」と「本門戒壇の大御本尊」がありました。ですから、わたしは、こうした悲劇が繰り返されないために、彫刻の真偽をしっかりと論じておく必要があると考え、いままで発表してきました。彰往考来さんが資料収集に充てたお金と時間に勝るとも劣らないものを失ってまでなしたことです。

しかし、海外の被災地を、危険も顧みず、巡礼して歩く行明師からすれば、富士門下の“被害者”は、世界の懊悩する人々からすれば、それでもごく少数であると映じるのでしょう。だから、こんな狭隘な場所でいつまでも素人相手にやっているより、「もっと、ほかにやることがある」という視点から、上述の発言が出たということでした。

この際ですから、一つ、彰往考来さんに質問させていただきます。
彰往考来さんは、その生半可ではない命がけの研究で、では、いったい、何を証しようとしているのですか。それを証して、どうされようと考えてのことですか。

この質問を、富士門下のお宝行脚と、研究に当たっているすべての人に問いたい気持ちがあります。『開目抄』に「智者に我義やぶられずば用じとなり 其外の大難 風の前の塵なるべし」というも、近代科学は、日蓮と日蓮が基礎にした天台学、さらに信を立てた『法華経』を、その真偽を明らかにしてしまいました。日蓮の教学はすでに破綻しました。まさに智者に日蓮義は破られました。それが現代です。その前提で、日蓮の漫荼羅や、さらに日興正嫡から彼の本尊を、こうした信念体系下から一歩も出ず、研究することに何の意味があるのでしょうか。

わたしは本尊研究は、信仰視点ではあり得ず、批判的合理精神、科学に基づく解体と、信者の心理分析を主眼とするほかないと思えます。

まずは、行明師への誤解を解きいただき、気が向いたら、上述のご質問にお応えいただければ、参考にさせていただく所存です。


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