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現代人が納得できる日蓮教学
775
:
犀角独歩
:2006/06/15(木) 22:18:37
移動に際して、整理します。
わたしは、日蓮が法華経を釈尊50年の説法のうち、最後8年の説であると信じていた点で間違えたと言ったのです。(1537)
これは歴史上の事実に基づく指摘です。
これを、西暦前後に創作された法華経という物語、また、その他の大乗経典の解釈で展開される三身説で云々するのは、そもそも土台が違います。
この事実認識から言えば、経典は釈迦が説いたものではない、もちろんのこと、応身が説いたとか報身の説でもありません。経典を創作した人が紡いだ物語です。その点を日蓮が気付けなかったことを、わたしは言っているのです。わたしは応身の説法だなんだということを言ったわけではありません。それを恰もわたしが応身説に立ったような決めつけで、突然、投稿されたわけでした。しかし、これは、上述するとおり、まったく、土台が違った論点であるということです。
翻って、これを日蓮その人の教学と考えるとき、では、日蓮は、それを応身の説法と見たか、報身の説法と見たか、もしくは本地本仏の説法と見たかということはまるで別の問題です。台学の筋目から見るとき、これはもちろん、顕正居士さんが仰るとおりで、報身説としたのだろうというところが至当であろうと、わたしは思います。一切経は久遠本地釈迦仏の説法と見たのではないのでしょう。この点で、顕正居士さんと西大寺さんの言うところは違っています。
なお、わたしが「哲学」という点についていったのは、西大寺さんが日蓮を基準にしない日蓮の教学は日蓮の教学とは言えないといいながら、「久遠の教主釈尊と応身の釈尊の関係が分らないのならば、法華経の説く哲学等を理解するずもない」という点について、そもそも、日蓮も、台学も、法華経も、哲学とはまったく関係のないところで説かれたものであるから、それを「哲学」という言葉で捌いて、何が日蓮を基準にしていると言えるのかという問いかけから、始まったことです。
なにか、一字三礼さん、問答さん、わたしが哲学に拘ったような投稿を見ますが、事実はまったくの逆で、哲学に拘ったのは西大寺さんのほうでしょう。
顕正居士さんが仰るように現代の仏教学では「仏教哲学」なる造語が闊歩しているのは事実です。しかし、日蓮が何を基準にしたのかという点から言えば、日蓮は、哲学…この言葉は主にギリシャ哲学を指す…を基準にしたのではなく、仏法を基準にし、取り分け、智邈、湛然の釈、そして、何より、法華経を基準にしたのでしょう。
では、法華経はギリシャ哲学を基準にしたのかといえば、西方の影響を全面的に否定すべきではないが、やはり。多くは仏教徒の系譜から、この物語は紡がれた以上、これを哲学の影響とすることは、事実に反すると言っているわけです。
では、仏教哲学としての法華経の哲学を基準にしたのかといえば、わたしはこれは違うと思います。日蓮は法華経の魂を基準にしたのであった、その学を基本にしたわけではなく、強いて、この筋で言えば、信行学にわたって基準にしたのではないかということです。
また、哲学の、適宜な訳である愛知(知に対する愛)という側面からすれば、知への変更は、寧ろ、般若経のほうが闡明なのであって、以信得入という態度の法華経は哲●という言い方で敢えていえば、哲学であるというより、哲信の経というべきであり、この点は、バクティの影響をわたしは寧ろ見ます。
以上の意味において、とおりすがりさん、団栗さんのいうところは、まるでこの流れを無視していると言わざるを得ません。
まして、管理者さんが不公平なジャッジをしているごとき、団栗さんの発言はまったく事実と相違しています。
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