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現代人が納得できる日蓮教学

818犀角独歩:2006/06/22(木) 08:16:05

乾闥婆さん

> いつも腑に落ちないのは、精神性や姿勢というものは、見習うべき一つの範例ではあっても、信仰の対象にはならないのではないかということです。信仰には形態や方法論が必要なのではないか

たぶんこの点は、信仰という言葉の概念規定の差異があるのではないでしょうか。

わたしが日蓮の善意と姿勢、行動を信仰するという場合、それは「信じ仰ぐ」ほどの意味にしか過ぎません。

ここ数年の議論で既に論じられたことですが、そもそも原初教団では「信」はそれほど、重大な意味を持っていなかったでしょう。仏教集団が「信」を強調せざるを得なくなったのは、バカバットギータの影響で、バクティ型の帰依が定着した以降のことでしょう。わたしは、これは外来思想であると考えますし、そもその、こんな絶対者信仰は仏教に悖ると考えます。ですから、善いことは信じ仰ぐという意味以上で、自分の信仰は扱いません。これは取捨一の観念ではありませんから、釈迦の善いところを信仰する、日蓮の善いところを信仰する、場合によっては法然の善いところを信仰する、聖書の善いところを信仰するという複数摂取の意味で使っています。bhakti からの卒業、adhimukti の志向ほどの意味でもあります。

よく引用するのですが、わたしは、下記の高橋師の一節に強く感銘を懐き、師との親交をかつて深めた一人です。ですから、シンボルの病からの脱却という‘功徳’は仏教の秀でた一面であると考えています。しかし、そこで経典、御書、本尊を絶対視するとき、それでは仏教とは成らないだろうという思いもあります。

「教祖の釈迦は、現代のカルト的宗教が説くような、「私を信じなければ不幸になる。地獄におちる」式の脅しの言説は一切していない。
とはいえ仏教が輪廻思想から自由でないのは、当時のバラモン(婆羅門)や沙門(シュラマナ)たちが共有していた文化的な枠組みのなかで釈迦が生きていたからだが、釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決であり、苦悩の原因が執着によっておきることを解き明かし、それらは正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたるという極めて常識的な教えを提示することだった。とすれば人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できることで、したがって釈迦は秘技伝授の超能力者でも霊能者でも、ましてや「最終解脱者」でもなく、もちろん「神」のような絶対者でもなかった。しかしカリスマを求める周囲の心情はいつの時代も変りがない。死後の釈迦は次第に神格化され、俗化される。たとえば釈迦の骨がフェティッシュな崇拝の対象となったり、、釈迦の言説とされる教典それ自体が信仰の対象となったりという、釈迦が最も忌避した「執着」へ人々は再び回帰したのである。そこにあるのは象徴(シンボル)の病である」(『超能力と霊能者』現代の宗教8 岩波書店 1997年2月5日 第1刷 P215)

一方、乾闥婆さんが仰る「信仰」とはどのようなものでしょうか。

以下のいちりんさんの指摘もまた、信仰、本尊を考えるうえで、参考になると思います。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/12-13


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