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現代人が納得できる日蓮教学

749犀角独歩:2006/05/08(月) 07:39:44


一応、議論の参考として、以下、資料として挙げます。

【五人所破抄】日代筆の正本が北山本門寺に所蔵されている。本書は白蓮阿闍梨日興の作に仮托されているが、西山本門寺の事実上の開山である蔵人阿闍梨日代の作である。『日蓮宗宗学全書』第二巻八六頁の本抄末尾には「嘉暦三戊辰年七月草案 日順」とあるが、八七頁に〔編者云〕として註されているように、この一行は墨色筆記ともに日代の直筆ではなく、後人が加筆したこと明らかである。あるいは日順が草案を製作したものかとも推察され、なお富士門流内においても『家中抄』では『五人所破抄』を草案とし、『門徒存知事』を完本といい、最近の所説では逆に『門徒存知事』を『五人所破抄』の草案とする説(『大白蓮華』)などがあって、その成立については幾多の疑念が見られる。(日蓮宗事典)

「日有のかかる思想は、両巻血脈書の思想とは異なるものであって、寧ろ尼崎本
興寺の八品日隆の思想に負うものである。思うに日有は、八品日隆と親交があったので、恐らく日隆教学の影響を受けて石山数学を樹立せんとしたものであろう。
 かように考察し来れば、大石寺に於ては、江戸中葉、堅樹日寛上人に依って、両巻血脈書を根幹とする教学が大成せられるまでは、石山特有の教学は樹立せられていなかったといわざるを得ない。そして寧ろ室町時代に於ける両巻血脈書を根幹とする教学は、尊門の住本寺系日教によって確立せられているのである。
 日教は日有と同時代の人で初め京都住本寺に負笈し、百五十箇条を著わして不造不読、宗祖本仏論を主張した。住本寺に容れられずして退出し、文明十三・四年の頃、大石寺の日有に帰したが、これまた容れられずして、遂に重須に転じたと伝えられている。ところでこの日教の教学こそ、後の日寛教学の基本を為しているものであるとも見られるのである。
 日教の著、百五十箇条、穆作抄、五段荒量、六人立義確立抄私記等は、明らかに両巻血脈書、産湯相承二箇相承を根幹として作成したものであることは、その内容によっても知られるのである。(『創価学会批判』創価学会の学説の基礎的批判 P111)


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