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現代人が納得できる日蓮教学
797
:
犀角独歩
:2006/06/20(火) 07:28:56
『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』1606から移動しました。
乾闥婆さん
実はわたしは疑問とされる点について、合理的と言っては手前味噌ですが、ともかく、冷静に判断することを勤めています。
日蓮といわず、日本然仏教界は、未曾有の難問に遭遇しました。経典の後世創作という事実です。それから100年ほど経つことになるのでしょうが、各集団の在り方は学問と信仰の分離、それをしなければ、この科学を言うものの人格攻撃(謗法者扱い)、もしくは、己の信念体系から放擲することで是としてきました。はて、四弘誓願は、何処に行ったのだろうかという疑念が生じます。
わたしはつくづく感じたのです。石山圏で彫刻本尊の真偽を言うと魑魅魍魎扱いをされる、それでも、わたしへの賛同者は日蓮宗にもあった。ところが、日蓮摂受の人というと、今度は日蓮宗のなかからも反感を抱く人々が出たわけです。この時点で、わたしは「なんだ一緒じゃないか」と思いました。要するに、自分が信じていることの真偽を論じられることに反感を抱くという点で一緒のわけです。
自分の信念 …信仰といってもよいのですが… 新たな認識に基づいて、変更していくこと、これは当然のことであるのに、信仰者はこれができない。その原因は、信仰が何らかの実体験と関連しているからでしょう。そしてまた、その実体験は、その実体験をする背景となった教義、もしくは本尊と関連しています。つまり、教義・本尊の誤認を論じられることは、自身の信仰、実体験を揺るがされることであり、その実体験=信仰に支えられた自分自身を否定するという自我存立の危機感を彷彿する構造がここにあるのだろうというのが、わたしなりの分析です。しかし、ここでいう実体験は過去の出来事です。つまりは、それは過去を振り返った信仰ではないのかとわたしは考えます。前を見て進んで見ることです。過去の実体験にしがみつかず、常に前に進むことこそ、精進であるという思いがあります。
また、日蓮は鎌倉時代の人であり、そこにはその時代という制約がありました。つまり、科学としての限界です。ここで言う科学とは自然科学ばかりではなく、人文科学の限界という意味のほうが、寧ろ、強いと思います。
日蓮は結局のところ、鎌倉時代に60年ばかりしか生きていなかった、そこでできた探求には肉体の限界がありました。肉体の限界は思惟の限界をも意味します。日蓮が弘安5年で終えざるを得なかった思惟と精進は、しかし、遺された教義と人生の軌跡を追うことで継承できます。日蓮が60歳当時の考えをもったまま、20歳の青年となったら、次に何を考え出すのか、いまの時代を観たら、何を考え出すのか、わたしはその点を考えることに意義を見出します。では、その答があるか、と言えば、それは現時点ではないでしょう。それはいまここで生み出されようとしていることであるとわたしは思います。その現場で、鎌倉時代限定の日蓮を墨守することは、今風の批判の言葉を用いれば、原理主義への転落ということになるでしょう。そして、それは過去にしがみついた在り方でもないでしょうか。
わたしは、いま自分が至れている結論、もちろん、まだ過程経過の段階ですが、これを以て、20歳の自分に戻れたら、思惟の時間は存分にもてたと、いつも残念に思います。現年齢からすれば、残された時間は少なすぎるという思いです。しかし、わたしにできなくても、ここで記されてきたことから出発できる若者はいます。彼等は、わたしが死んだ後にさらに思惟を深めていけるでしょう。そして、その若者を老年となる頃、さらにその思惟を我がものとして、出発できる若者が、未来にいます。こうして、人類は発展してきたのでしょう。
日蓮の信じることは、日蓮の限界までを自分の限界にしてしまうのでは進歩はありません。わたし達は日蓮から出発しなければ進歩がないのです。
わたしが「日蓮の間違い」という毒々しい言葉を吐いた意味は、ここにあります。
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