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現代人が納得できる日蓮教学
828
:
犀角独歩
:2006/06/22(木) 11:54:38
今川さん、日本の天竺の霊山・身延へは行ってみました。
わたしはそのうち、天竺に行ってみようと思っています。
829
:
今川元真
:2006/06/22(木) 16:01:30
旅行、良いですね。 テレビで見た印象では「古代」と「近代」が交わる所。映画が盛んな国と特集番組放送されてました。
830
:
犀角独歩
:2006/06/22(木) 18:53:56
いや、旅行というより、帰還といった気分です。
831
:
乾闥婆
:2006/06/22(木) 19:44:35
>>814
顕正居士さん。
>虚構性なんか、いつの時代の人でも大乗経を一見すればわかります。
>ただし日本天台の本覚思想家は虚構性をよりはっきりと認識した。
対して日蓮は神話の中に生きていた。だから大衆が付いた
ということはいつの時代の人が見ても分かる虚構性を、蓮祖は分かっていなかったし、蓮祖と同意した多くの同時代の弟子檀那もその虚構性は認識していなかったということになりますでしょうか。神話の中に生きるとは、その神話を神話として認識していない、すなわちその神話を事実として受け止めて生きた、ということになると思います。蓮祖の仏典認識はそのような形であったということでよろしいでしょうか。
832
:
乾闥婆
:2006/06/22(木) 19:45:04
>>819
一字三礼さん。
>ご自身で、「いまだ仏滅年など判明していない」と言いながら、他の仮説を「明らかな間違い」と言っているのですよ。
わかりますか。あなたは、自己矛盾に陥ってますよ。
私は辞典に載る二つの仮説しか知りませんので「もしも一字三礼さんの知られる範囲で仏滅後二千二百三十余年と測定できる伝承ではない生没年の説があるようでしたらご紹介ください。‘明らかな間違い’は撤回させていただきます」と書きました。しかしいまだ「他の仮説」をご紹介いただけない。また「あなたは、約100年の誤差のある説を2つも並べているのですよ」といわれますが、その100年の誤差を差し引いても蓮祖の生きられた時代は仏滅後二千二百三十余年ではないわけです。ですから現在学術的に見て流通しえている二つの釈尊生没年にかんがみ、仏滅後二千二百三十余年は‘明らかな間違い’と記したのです。こんなところまで解説しなければ一字三礼さんは私の発言趣旨を理解できないのでしょうか。ほとんど揚げ足取りの言いがかりに見えます。「前463-383頃、一説に前566-486頃」は仮説に過ぎないので仏滅後二千二百三十余年の可能性が否定されたわけではない、といわれる前に、まず仏滅後二千二百三十余年を想定しうる近代仏教学に基づいた仮説を提示していただければ済むことです。仮説はあくまで仮説なのだから仏滅後二千二百三十余年の可能性がまったくのゼロであるわけではない、‘明らかな間違い’などという表現は仮説を前提として発言するに際して自己矛盾だと言いわれるのでしたら、まあ、それはそうなのでしょう。現在学術的に見て流通しえている二つの釈尊生没年にかんがみ蓮祖の生きられた時代を仏滅後二千二百三十余年とすることは間違いである、と言い換えさせていただきます。もちろん仏滅後二千二百三十余年と測定できる伝承ではない生没年の学説を提示していただければ、私は自身の発言を撤回させていただきます。
ロム中心の浅学な私が、こちらの掲示板に書き込みをしようとする以上、真摯に語り合いたいという思いと覚悟を持って書き込みをします。「‘明らかな間違い’とまで仰るのでしたら正確な仏滅年を教えてください。100年も幅のある仮説はいりませんから、正確な年代をお願いします」「答えられなくて当然でしょう。仏滅年代はいまだ特定されておりません」「小さいことこだわって、私が意地の悪い書き方をしました」。一連の一字三礼さんの私に対する姿勢には、御自覚されているように、なにか、底意地の悪い、悪意のようなものを感じます。率直に、仮説である以上‘明らかな間違い’とまで言ってしまうのは言い過ぎではないか、とおっしゃってくれればいいのです。また私の知らない仮説を率直に提示してくれればいいのです。こういう遣り取りは疲れますし、不毛ですが、不愉快にさせられた挙句に一方的に終了させようとされるその態度もさらに不愉快で、ここまで引っ張らせていただきました。
>814の顕正居士さんのご意見がもっともだと思います。法華経及びその他の経典の虚構性は一読すれば誰にでもわかることではないですか。
顕正居士さんによれば蓮祖は神話の中に生きていたことになります。神話の<中>に生きるとは、神話の外部に立たないと言うことです。「法華経及びその他の経典の虚構性」を認識せずにその内部で生きる、とは「法華経及びその他の経典の虚構性」自体を生きる場の現実として受け止めていると言うことではないでしょうか。
>>811
で私が発したいくつかの問いに対するお答えもお待ちしております。他の方々の対話を通じてそれらの私の疑問点も解消されてゆくかもしれませんね。己心をめぐっての犀角独歩さんとの議論も期待しております。私はあなたと言い合いがしたいのではなくて、対話を通して私の抱えている疑問や苦悩を解決したいだけなのです。
833
:
乾闥婆
:2006/06/22(木) 19:45:40
>>818
犀角独歩さん。
>釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決であり、苦悩の原因が執着によっておきることを解き明かし、それらは正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたるという極めて常識的な教えを提示することだった。とすれば人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できる
私が信仰の形態と方法論と言うことにこだわってしまうのは、信仰とは取り組みであると思うからです。取り組み方がはっきりとしていなければ、誰にもできるものではなくなってしまいます。「人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できる」「正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたる」と言った部分になると思います。取り組み方が明確で、誰にでもできる。曼荼羅に向かい題目を唱える。非常にシンプルです。しかし現状はその形態そのものが私を縛り悩ませる結果となっています。同時に形態なくして信仰はないとも思っているのです。たとえば八正道と言うものをはじめて知ったときに私は驚きました。具体的にどのように行として取り組むのかがよく分からなかったからです。八正道の実践、とは極めてシンプルな形態を提示しているのだと思いますが、シンプルすぎて難しいのです。もっと明確な形態を求めてしまいます。信、ということを私もそれほど強く自身に言い聞かせることはありません。戒・定・慧こそが信仰の中心であると思っております。ただやはり自分が行うであろう行法は「正しい」ものでなければなりません。それは前提となると思うのです。蓮祖にいくつかの事実誤認があったとして、それでは唱題行という方法は、間違っているのか、私は分からなくなります。そんなことはないように思うのです。しかし強く「信」じて取り組むのとは比較にならないくらい気持ちが乗っていきません。声も出なくなります。では他の行法をすればいいのではないかとも思うのですが、これも心の縛りが解けないのか、そういう気持ちにはなかなかなれません。結局何事かを行ずるには、その行に対する「信」は必要なのではないかと考えています。
いちりんさんの話はとても刺激的でした。形態に対する緩やかさ、と言うのでしょうか。逆に形態が心を縛る恐ろしさと言うのでしょうか。「有相の本尊」と「無相の本尊」と言う考え方にははっとさせられました。もちろん「有相の本尊」の向こうに「無相の本尊」を見るべきなのでしょうが、有相への執着はなかなか消えません。形態や方法がしっかりとなければ、信仰と言ったところで、何をすればいいのかが分からなく、心が彷徨ってしまうからです。
834
:
犀角独歩
:2006/06/22(木) 20:43:54
乾闥婆さん
今夕もふけてまいりました。
追ってレスをさせていただく所存です。
ただしかし、ひと言。
おしるしのところ、尤もだと存じます。
835
:
今川元真
:2006/06/22(木) 21:02:38
犀角独歩さん、乾闥婆さん、其う言う事は良き師良き友が居ないと言えませんね。 【21世紀】日蓮真蹟が全て現存する訳では無いので断言できる確かな言い方はできませんが、いろいろな議論を通して鎌倉時代の僧・日蓮は、摂受の人では無いかと洗い出されたのでは無いでしょうか。【視野】経典世界・実際は精霊信仰や神教に関わる人々が仏説を聞く。学問世界・法華経(随方毘尼)物語の理想と末法の様相を呈した鎌倉時代の現実。修行世界・供物を手紙に記して御礼を述べる、代筆助言して激励する、法華一乗を宣揚して自分の場所を浄土に変える行者を育てる。 ●天台密教(生きとし生けるものを成仏へ導く天台の真言化)→法華経行者(信学行しなければ成仏得道できない)→法華本門本尊漫陀羅(久遠元初を引き合いに出される)●私が「日蓮聖人が神話伝説の世界に入り浸ってない」と言う見方考え方です。
836
:
とおりすがり
:2006/06/22(木) 21:40:35
結局、哲学も否定し宗教も否定するのが、犀角さんの現代仏教なのでしょうか?
現代仏教を語られる前に、現代仏教の定義をお願いします。
837
:
顕正居士
:2006/06/22(木) 23:52:53
>>831
乾闥婆さん。中国の教判は数百年間に作られた経典を釈尊一代の教説という約束で分類しました。
したがって仏教思想の発展というものを完全に捨象した。だから歴史という概念がありません。
対して日蓮には思想発展に近い考えがあります。宗教五綱の「序」です。
「前の五百年が間は小乗経ひろまらせ給ふ。ひろめし人々は迦葉・阿難等なり。後の五百年は
馬鳴・龍樹・無著・天親等、権大乗経を弘通せさせ給ふ」(随自意御書)
日本天台には「四重興廃」という思想がありました。爾前→迹門→本門→観心で、これは玄義にある
のですが、本覚思想家は釈尊一代のことでなくて、仏教史に当てはめたようです。つまり、
爾前=中国天台以前→迹門=中国天台→本門=日本天台前期→観心=日本天台後期(本覚思想)。
思想発展に近い考えが生じた理由として日本の末法意識は王朝文化の衰退が投影され深刻でした。
だから末法今日の我々は正法、像法の時代とは異なる集約的な教と行が必要だという発想が生じた。
ここに人師の論釈については思想の発展に近い概念が生じましたが、経は釈尊一代の説という約束
はまだ放棄されなかった。経も数百年の間に「加上」されたのだと見破った富永謙斎が天才、偉人と
されるのは、中国人、日本人の誰もそれを思いつかなかったからです。
日蓮教学はかつては日本天台から輸入した本覚思想によって解釈されていました。つまり五百塵点
を実事とはしなかった。日蓮の他宗批判は立教の方便であり、身延入山後には顕正面を発揮したの
であると。しかし浅井要麒師の批判的文献学の提唱以後、観心思想に傾いた遺文への疑義が強まり、
御義口伝などが室町期の思想であることも確定した。ですから今日ではオリジナルな日蓮思想は
いわゆる原理主義の色合いが濃いものと認識される傾向にあるといってよいでしょう。
838
:
顕正居士
:2006/06/23(金) 00:23:06
いうなら日蓮には神話的歴史観があった。これは本覚思想家にはないものでした。
本覚思想家は仏教神話を解体した。仏教を突破し、本覚思想は全日本文化に浸透した。
対して日蓮は神話を生き、集約的な教と行という宗教需要に応えた。大衆にはまだ
仏教が必要な時代でした。しかし原理主義の狂信は京都史上最大の戦争を起こした。
ここに日蓮宗の積極的な役割も終焉し、原理主義の狂信を防止するために、観心主義の
教学が興った。実は天文法乱以前には教学として見るべきものはないに近い。
しかし日蓮が五百塵点を実事と解釈していたかといえば、主著「観心本尊抄」を見る限り、
そうはおもえない。浅井文献学は日蓮宗僧侶に今も浸透中だが、大崎宗学の外側では
むしろ反対に原理主義者・日蓮像の見直しの方向が強くなっているようにおもう。
839
:
顕正居士
:2006/06/23(金) 00:46:39
>>832
仏滅年代については
>>801
に述べたように北伝、南伝の両説しかありません。
アショカ王を仏滅100年とするか200年とするかだけです。北伝が正しいでしょう。
両方知っている人と片方しか知らない人のどちらが正しいか、ほぼ明らかです。
中国、日本で信じられたのは600年、中国史とインド史をずらした作為に騙された
だけで、一貫してアショカ王を仏滅100年として来た。第三の仏滅説はありません。
840
:
乾闥婆
:2006/06/23(金) 01:08:46
>>837-838
顕正居士さん。
思想発展と言う視点からの日蓮宗学史の簡潔なご紹介ありがとうございます。いま執行海秀氏の『日蓮宗教学史』をつっかえつっかえ読んでおりますが、正直、よく分からないと言うのが現状です。
>しかし日蓮が五百塵点を実事と解釈していたかといえば、主著「観心本尊抄」を見る限り、
そうはおもえない。
これはやはり「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所願の三身にして、無始の古仏也。」辺りの記述のことを言われているのでしょうか。「本門を以て之を疑わば、教主釈尊は五百塵点已前の仏なり。因位も又是の如し。其れより已来、十方世界に分身し、一代聖教を演説して塵数の衆生を教化したもう。」といった使用法は事実ととらえていられたようにも読めるのですが、同じ「観心本尊抄」の中における記述であるので、困惑します。
>>839
ありがとうございます。すっきりしました。
841
:
犀角独歩
:2006/06/23(金) 03:35:03
833 乾闥婆さん
> 信仰とは取り組みであると思うから
たぶん、乾闥婆さんとわたしで、考え方に相違があるとしたら、先に記したとおり、信仰ということでしょう。
わたしは釈迦が提示したものを信仰だとは受け止めていません。では、どう受け止めるかと言えば、乾闥婆さんの言葉を使えば、まさに‘取り組み’方です。では、目標はといえば、苦の滅却でしょう。
> …誰にもできるものではなくなってしまいます
この点はわたしにわかりません。修行は、だれにでもできるものなのですか。
> 誰にでもできる。曼荼羅に向かい題目を唱える。
本当に誰にでもできるのでしょうか。では、目が不自由な方はどうでしょうか。漫荼羅を見られますか。口の不自由な方に唱題ができるでしょうか。わたしの姉は十度心身障害者です。そもそも、何かを信じるとか、思惟したりすることができません。この点は八正道でも、参禅でも、みな同様ではないですか。「誰にでもできる」というキャッチフレーズに欺されていませんか。
また、繰り返しになりますが、そもそも真蹟遺文で見る限り、日蓮が漫荼羅に向かって読経・唱題をした形跡は見当たりません。
> 形態なくして信仰はない
この考えが悩みを生じさせているのではないでしょうか。
取り組み、もしくは形態というのは、たぶん、修行様式を指すのでしょうが、それがイコール信仰であるという思いこみがあるようにお見受けします。
> 戒・定・慧こそが信仰の中心
いわゆる、三学倶伝ですか。
わたしが不思議に思うのは、なぜ、信仰となってしまうのかという点です。
たしかに日蓮の場合、信の強調がありますし、法華経でも以信得入を言いますが、これと八正道はつながりません。そもそもここで信は八つの道に入っていません。乾闥婆さんの文章を読んでいますと、信仰という強迫観念が無限連鎖となってループ化している、そこに苦があるようにお見受けします。つまり、信仰からの脱却したところで、仏教を見つめ直すところに、その解決があるとも思えます。わたし自身が採った‘取り組み’方です。
> その行に対する「信」は必要なのではないかと考えています。
このような考えを、人生のどの時点で、誰彼によって植え付けられ、それを受容した自分が、どのように醸造したかを、手繰り辿ってみては如何でしょうか。
乾闥婆さんがどこのご出身であるか存じ上げませんし、これは決して批判的に記すことでもないのですが、わたしからみると信の罠にはまってしまっているように思えます。
> 形態が心を縛る恐ろしさ
ええ、ここです、わたしが言いたいところは。
> 本尊
本尊の強調は、日蓮の際だった特徴ですから、本尊に拘るお気持ちはわかりますが、わたしが自分なりに調べて一番、愕然としたのは、この本尊でした。既に何度も記しましたが智邈、湛然の、いわゆる法華六大部には、この語は一度も使用されていません。いったい、いつから本尊が法華圏で使用されるに至ったか、は気分として落着していませんが、ともかく、わたしが常に使用する80余の天台聖典で、この語の使用は一度たりともありません。しかし、『依憑集』になると「三相謂 字印本尊」と「盧遮那経疏第七下云」として、見られます。日蓮は、この系譜を引くのだろうとは思いますが、ともかく、初期天台の段階ですら、見られない本尊という概念が、仏教義の本来の在り方であると、到底思えないわけです。
信仰と本尊は、日蓮のテーマでしょうが、しかし、わたしはこの執着を棄てました。
842
:
犀角独歩
:2006/06/23(金) 03:47:24
836 とおりすがりさん
当掲示板では、自己紹介もなし、挨拶もないような無礼な問いかけ、捨て投稿にいちいちレスをする謂われはありません。しかし、答えておきましょう。
> 哲学も否定し宗教も否定するのが、犀角さんの現代仏教なのでしょうか?
違いますが。わたしは哲学を否定したことも、宗教を否定したこともありません。また、自分の考えを現代仏教と称したことはありません。
> 現代仏教を語られる前に、現代仏教の定義をお願いします。
そもそも現代仏教とはなんでしょうか。それはわたしの言でもなく、語ったことでもなく、語ろうとしていることでもありません。それを定義することはできません。
843
:
犀角独歩
:2006/06/23(金) 04:55:45
> 「観心本尊抄」を見る限り、そうはおもえない
この顕正居士さんのお考えはわからないでもないのですが、しかし、そうなると、以下の日蓮の言はどうなるのでしょうか。
此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法
日蓮は実際に四菩薩の出現を想定しています。また、前文ではこの四菩薩が久遠五百塵点成道初発心であるとも言います。
これは単に日蓮の己心の出来事であるとすれば、‘虚構’の、己心の、それも事実としてとらえていない経典記載の四菩薩が実際に出現して、賢王となっては折伏を現じ、僧となっては摂受を行じると言っていることになります。いわば、虚構想念上の菩薩が、現実に出現すると言っていることになります。
虚構・架空・己心の経典の物語:実際に現れる四菩薩、もし、このように日蓮が考えていたとすれば、空想と現実が区別がつかない精神錯乱状態にあったというほかありません。しかし、開観両抄の記述は、実に思弁的で、理路整然としています。精神に異常を来しているとは思えません。となれば、日蓮が経典を真実としてとらえていたと考えるほかないと、わたしには思うわけです。
844
:
今川元真
:2006/06/23(金) 05:37:39
おはようございます。 ●諸天善神や四大菩薩はケースバイケースの守護者に例えられているのでは無いでしょうか。末法無戒の世ですから。現実世界と理想世界を繋いで荘厳して説いた方が摂受らしく無いですか。不軽菩薩が説く漫陀羅、上行菩薩が説く戒壇堂と考えられるなら簡潔で良いのにと思います。
845
:
犀角独歩
:2006/06/23(金) 11:06:55
乾闥婆さんに、紹介しようと思っていたいちりんさんのご投稿が、ようやくと見つかりました。
『法華経について』32〜34
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610752/32-34
無疑に信じて、どんと力を発揮するという技法だったのでしょう、わたしたちがやってきたことは。けれど、「パンドラの箱」を開けてしまったわけです。しかし、その底に希望は残っているのだろうと思います。
840に「所願の三身」というのは所顕の打ち間違えですか。それとも、このような記述御書があるのでしょうか。
寿量品云 然我実成仏已来無量無辺百千万億那由他劫等[云云]。我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏也。
わたしは、この文を通じて、日蓮は寿量釈尊を無始無終・三身円満即一古仏ととらえていたのだと考えます。他のロムの方のために、資料を提示しておきます。
日蓮の三身観は『一代五時鶏図』に
┌華厳のルサナ、真言の大日等は皆此の仏の眷属たり
┌久遠実成実修実証の仏
天台宗の御本尊
└釈迦如来
┌応身───有始有終
始成の三身┼報身───有始無終
│ ├真言大日等
└法身───無始無終
┌応身┐
久成の三身┤報身├──無始無終
└法身┘
華厳宗真言宗の無始無終の三身を立つるは、天台の名目を盗み取
りて自らの依経に入れしなり。
(上記、図が乱れるときは
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html
、
分類:A 真蹟現存(完存orほぼ完存、しかし、平成新脩に未蔵)
経典原文「我実成仏已来」は明らかに五百塵点成道という始まりがあり、有始無終(始成報身)と映じます。一方、実際の釈尊は印度応誕八十入滅ですから誕生の始・入滅に終わる(始成応身)、ところが日蓮は「無始古仏」と解釈します。これを三身相具(四条金吾釈迦仏供養事)、もしくは三身円満古仏(開目抄)ととらえていたことがわかります。その釈証は「文句九云天台 仏於三世等有三身。於諸教中秘之不伝。」でしょう。では、この三身を即一身ととらえていたか。この点は、たしか問答さんと議論したところでしたか。『注法華経』に「輔云。疏一身即三身者。即一身即三身。法華之前未曾説。故名秘<故名為秘>。三身即一身。」と抜き書きしているわけですから、そう考えていたのでしょう。
この三身の関係について『四條金吾釈迦仏供養事』に「月の体は法身、月の光は報身、月の影は応身にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします」
門下一般では『開経偈』に「能詮は報身、所詮は法身、色相の文字は則ち是れ応身なり」とします。
(参:文句「祕密者。一身即三身名爲祕。三身即一身名爲密。又昔所不説名爲祕。唯佛自知名爲密。神通之力者。三身之用也。神是天然不動之理。即法性身也。通是無壅不思議慧。即報身也。力是幹用自在。即應身也。佛於三世等有三身。於諸教中祕之不傳」、涅槃経疏「諸佛三身亦不出三界者。以法身即應化也。大經云。今我此身即是法身。法華云。常在靈鷲山及餘諸住處。普賢觀云。釋迦牟尼名毘盧遮那遍一切處。華嚴云。亦名釋迦亦名舍那等。既知三身即一身。亦須知界外即界内也」)
846
:
乾闥婆
:2006/06/24(土) 02:19:54
>>841
犀角独歩さん。
>本当に誰にでもできるのでしょうか。
易行、といった意味合いではあったのですが、確かに易行であったところですべての人ができるわけではありませんでした。
私の母は脳腫瘍の手術の結果、右半身不随と重度の意識障害を負い、三年間寝たきりのまま、七年前にこの世を去りました。私はその頃、自身の信じている宗教に、強い無力感を覚えていました。家族全員、まじめに信仰しているのになぜは母このような病に苦しまなければならないのか、という無力感ではありませんでした。そうではなくて、方法論としてのむなしさでした。私を含めた家族は母のために祈ることができます。母も重度の意識障害を負っているとはいえ、私たちが耳元で勤行・唱題を行えば、自身の心に曼荼羅を見、声に出していなくとも、題目を唱えているだろうと、信じてはいました。しかしそんなことは分からないことです。勤行も、唱題も、脳を傷めてしまっては、取り組めない。取り組めない信仰とはなんなのだろう、と心のどこかで絶望しておりました。自分自身が病に対して、信仰を通して闘うことができない。母は闘っているに違いない、と思っても、心を脅かす虚無感からは逃れることは出来ませんでした。
>たしかに日蓮の場合、信の強調がありますし、法華経でも以信得入を言いますが、これと八正道はつながりません。そもそもここで信は八つの道に入っていません。
そうですね。「四信五品抄」に「問ふ 末法に入て初心の行者は必ず円の三学を具するや不や。答て曰く 此の義大事たり。故に経文を勘へ出だして貴辺に送付す。所謂、五品之初め二三品には、仏正しく戒定の二法を制止して、一向に慧の一分に限る。慧又堪えざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位也」とありました。以信代慧は蓮祖の強調するところです。仏教とは三学の実践といっても、時代が下るにしたがって、八正道から遠く離れて、三学そのものを止揚してしまうということになるでしょうか。
>乾闥婆さんの文章を読んでいますと、信仰という強迫観念が無限連鎖となってループ化している、そこに苦があるようにお見受けします。つまり、信仰からの脱却したところで、仏教を見つめ直すところに、その解決があるとも思えます。わたし自身が採った‘取り組み’方です。
確かにループしていると思います。唱題を行おうとする、信じる心が弱くて苦しい、強く信じようとする、しかしそれを阻害する諸事実がある、唱題がうまく行えない、それでも行おうとする、苦しい、強く信じようとする・・・そのようなことをくり返してばかりいるのです。私がそこから脱却するには、今の信仰形態を捨てる以外ないように思うのですが、それもできないのです。「信」なくして、唱題行がきちんとできるものなのでしょうか。
>乾闥婆さんがどこのご出身であるか存じ上げません
これは私の信仰上の出自のことでしょうか。それでしたら以前も申し上げたとおり創価学会です。もちろん「信」が強く協調された幼少期を経て現在に至っています。
>信仰と本尊は、日蓮のテーマでしょうが、しかし、わたしはこの執着を棄てました。
そこが私にはよく分からないのです。私もそのような執着は捨てたいのですが、捨てられません。ですからこの掲示板もずっとロムしておりますし、創価学会とも関わり続けています。しかし犀角独歩さんは本当に捨て去られているように見えます。しかも、蓮祖に取り組み続けていられます。それは非常に苦しいことではないでしょうか。私は蓮祖の事実誤認を目の当たりにして以降、しばらくは「開目抄」冒頭の五重の相対を説く文章を読むだけでも、心が苦しくなりました。そのように詰めていかれる蓮祖の叙述が、むなしくて、息苦しくて、どうにもならない時期が続きました。
>>845
>840に「所願の三身」というのは所顕の打ち間違えですか。それとも、このような記述御書があるのでしょうか。
日蓮宗現代宗教研究所のデータベースからコピー&ペーストさせてもらったのですが間違っていますね。それともこのデータベースを作成した人の資料にこうあるのでしょうか?
>けれど、「パンドラの箱」を開けてしまったわけです。しかし、その底に希望は残っているのだろうと思います。
その希望を私はまだつかめないでいます。
847
:
犀角独歩
:2006/06/24(土) 04:09:48
乾闥婆さん
ご母堂様のこと、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
わたしは、本年、4月に母を亡くしました。
最期、意識もなくなったとき、「めー」「なー」「けー」と意味不明の言葉を発していたのです。しかし、よく聞き並べると、それは確かに「南無妙法蓮華経」でした。障害、唱題の人であった母の、最期の言葉は題目でした。わたしはその母を尊いと思いました。唱題も尊いと思いました。
葬儀は日蓮宗で、恩人・楠山泰道師、貫名英舜師に執行していただきました。
このお経はすばらしかったのです。わたしは学会の家に生まれ、石山に移ってからは寺院に役員もいたしました。葬儀にも多く参列してきました。そんな半世紀の経験のなかでこれほどの読経は初めて聞きました。参列してくれた親戚のなかには、浄土真宗、また、真言宗の総代を経験した他宗の篤信者もいました。しかし、やがて唱題になると、一同、声を合わせて和していたのです。「すばらしい葬儀だった」とお念仏の人である叔母は言いました。
人間はやがて死にます。生きるに苦しみ、負いに苦しみ、病に苦しみ、死に苦しみます。そのなかで、たしかに信は燈明のような存在なのかも知れません。
しかし、わたしの恩人の一人である西田公昭師は「何か集団のメンバーになっていても、もし何か矛盾する事実に突き当たったら、徹底的に疑ってみることが大切である。もし、個人が疑うことに対して、何か罪的な否定的意識を教えこまれているとしたら、それは科学的思考を一切否定していることと知るべきだ」と言いました。そして、また、先に紹介した高橋師の言説も肉声としてわたしは訊いているのです。
わたしが、ここに書き連ねてきたことは、日蓮の教義と本尊を信じる人々にとっては、不信、謗法、一闡提のように映じるでしょうか。しかし、信じると言うことでいえば、日蓮も、法華経も、そして、科学も、わたしは信じています。ただ、その信じる様態が、集団の都合で刷り込まれた形から脱却しているに過ぎません。科学的な根拠から言えば、日蓮は間違っている部分はたくさんあります。しかし、日蓮の生涯、難を忍び、人と国土を慈愛した一念に嘘はないでしょう。唱題という行は、たしかに効力を有します。法華経は西暦前後に創作された当時の物語でしょう。しかし、そこに紡がれた物語、そして、羅什の名訳、智邈、妙楽の釈もまた、間違いは多くあるとはいえ、秀でたものであるに違いありません。
この界隈にいると、よく使われる言葉に「絶対」があります。「絶対に正しい」などという会話はよくなされています。「日蓮大聖人様は御本仏様であるから絶対に正しい」「御本尊様は絶対だ「先生は絶対だ」」、そんな信者会員の確信の言葉を、わたしは数限りなく聞いてきました。
けれど、わたしが気付いたことは、この絶対は勝劣選別から生じたものですが、結局のところ、絶対とは意図せず、限界を設定することだということです。そして、この限界を、この界隈の言葉で言うと「信」ということです。間違っているものも信じることはできます。また、違っているものでも効力を発揮します。いちりんさんが記したお話のようなものです。
848
:
犀角独歩
:2006/06/24(土) 04:10:21
―847からつづく―
「強盛な信心」は、集団内の美徳ですが、この信は思考の限界、蓋の厚さを増すばかりの重しでしょう。この重みに信者は酔いますが、実のところ、考えることを放棄しているのに過ぎません。しかし、実のところは、その限界で立ち止まってしいるだけなのです。そこで足踏みをすれば、そこの地のみは、踏みしめるごとに堅固になっていきます。安心(あんじん)はこうして生じます。しかし、そこから、一歩、踏み出すと、泥濘(ぬかるみ)に容易く足を取られて、やがておぼれてしまいます。つまり、地固めしたほんの狭い範囲から出ることに恐れを懐くことになります。この狭隘の敷地が信です。結局のところ、信心と言われるものは、一所に留まって、足踏みをし、そこで固くなった足場に安住しているという、限界を正当化する肯定論でしかなくなっています。ですから、信が執着となっているのです。
不信を謗法悪徳とする集団のご都合に操作されている自分を観察してみることです。そして、そのうえで、日蓮を見直せば、間違ったところも多くあるけれど、汲めど尽きない示唆を多く与えてくれるでしょう。それはまた、法華経とて、同様です。しかし、それは絶対視すれば、そこで限界が生じます。かつての信は、その信として、自由闊達に思考すれば、よいわけです。
日蓮、法華経というブランドを身に付けることは、自分が立派に、大きくなったという錯覚をさせる効果があります。わたしは、この信の構造を解体したわけでした。いわば、自分を飾る「強情な信心」という権威構造を放棄したと言うことです。「あの人は、心の底から日蓮大聖人を信仰している立派な人だ」という信者一般に見られる善悪の判断肢、すなわち、「信」という権威構造から、外に出たと言うことです。
乾闥婆さんは、方法論として、唱題に拘り、思考として信に拘っておられる。ならば、唱題以外の方法も考えればよく、信じられないものは信じられないとして、そのうえに進めばよいだけのことでしょう。本尊・唱題と信に‘絶対’の価値を置く限界が、実は問題なのではないでしょうか。
乾闥婆さんのいまの葛藤は、狭隘な方法論と、信で封じられた限界を、超える産みの苦しみなのだと思います。しかし、そこで、本尊と教義、唱題、そして、信に囚われれば、無限の思考の輪廻に嵌り、その堂々巡りから抜けられないことになるでしょう。飼われる小禽は、駕籠の中で戯れる周り車のように、走るほどに疾く巡りますが、しかし、前には一歩たりとも進めません。信によって補償される安全は、もはや、効力を失ったという事実を受け入れて、前に進むことです。
外界を見えています。怯み、狭い駕籠の中に引き返し、周り車の満足に戻ることはできません。もはや、心の扉は開いているからです。
> 所願の三身…日蓮宗現代宗教研究所のデータベース
これは同研究所の問い合わせてみます。
849
:
ななしさん
:2006/06/24(土) 10:10:53
犀角独歩さんのお母様のように、信によって人生を尊き姿で全うすることが可能です。それは、犀角独歩さんのように、従来の信仰から離れてしまった人をも感銘させるものです。私も、病などで若くしてなくなられた人のご家族が入信される姿などを見てきました。若くしてなくなるというのは不本意に見えるように思いますが、そのご家族がその信仰に入られるとは不思議なことです。解はなくとも信があれば、信念のもとに人生を全うし、人をも感じさせることができるのかもしれませんね。
私は、信に代わり得るもう一つのものは使命感だと思います。教義的にいえば、「大願」に立つということでしょうか。これは、「人生を全う可能な信」に人々を導く人生を選択するということです。
もちろん、犀角独歩さんはこの生き方を否定なさるでしょうし、犀角独歩さんのような人生を選択することも否定はしません。ただ、人から信を奪い、代わりに人生を価値ならしめる何物を与えうるかを考えなければならないのではないでしょうか。大切なのは、現実の人生を全うすることであり、知識をつけることではないのです。犀角独歩さんも、お母様には自らが知った知識を語ることはなさらなかったのではないでしょうか。肉親の愛情が、信を破すことを思いとどまらせたわけです。
850
:
今川元真
:2006/06/24(土) 10:31:25
ある掲示板の受け売りで申し訳無いです。 ●宗祖の時代は「過去仏思想が生きていた」時代なので「諸仏をシャクソン一仏に統一する」ためには、法華経の教相に従ってシャクソンの成道を五百塵点劫まで遡って説く必要があったそうで「シャクソン=法華経(仏は生き続ける存在・仏の寿命は無量)」が鎌倉時代の僧・日蓮の立場だそうです。 ●漫陀羅は修行の道具で成仏得道への方便でしょうか。私は「理念+例話=理想」と考えたいです。道は一つでもルートはいろいろ一人ひとり違いますが、漫陀羅が私の信学行の柱です。
851
:
犀角独歩
:2006/06/24(土) 14:07:17
849 ななしさん さん
あなたは、どうもわたしの書いていることを根本的に誤解していますね。
わたしは人から信を奪おうなどと言っていませんよ。
間違いを信じることに警告を鳴らしているのに過ぎません。
わたしを批判したいのであれば、ちゃんとわたしが記したことをちゃんと理解したうえでしてください。
そもそも、あなたが言う信とは、何に対する信を言っているのでしょうか。
852
:
ななしさん
:2006/06/24(土) 15:50:50
犀角独歩さん
結果として奪うことになることをあなたは認識されているはずです。なぜなら、お母さまには「警告」を鳴らされてはいないのですから。
私がいう信とは、「一生成仏」に対する信です。もっと現実的にいうならば、この一生を満足をもって終えられる可能性への信です。この信に代わり得るのは、利他だと思うのです。
では、こちらからも伺いますが、あなたのいうところの「間違い」とは、主に「歴史的」「科学的」な矛盾のことであって、「思想的」「精神的」には価値を認めておられると拝察しました。実際、現代人が必要としているのは、人生を生き抜くための「思想的」「精神的」価値であり、そこに現代における宗教の意義があるものと考えます。本質的にその価値は、釈尊直説かどうかで変わるものとは思われません。現代における経典の価値、ここでは特に法華経のエッセンスは、「歴史的」「科学的」な矛盾を越えて、現代に示唆を与えることが可能だと思います。その際、あなたは「歴史的」「科学的」な矛盾は全て取り払うべきだとお考えですか。
853
:
犀角独歩
:2006/06/24(土) 18:50:55
ななしさん さん
> 結果として奪うことになることをあなたは認識されているはずです。なぜなら、お母さまには「警告」を鳴らされてはいないのですから。
あなたは、ずいぶんと人間を一辺倒にご覧になっているのですね。
こちらの掲示板にいらっしゃる方と、85歳の老齢で、障害者でもあった母とは、その接し方は違います。
> 「一生成仏」に対する信です。もっと現実的にいうならば、この一生を満足をもって終えられる可能性への信です。この信に代わり得るのは、利他だと思うのです。
一生成仏への信とは何でしょうか。
一生を満足をもって終えられる信が一生成仏であるという一方的な決めつけは、その外にいるものにとって、他の一切の可能性を‘奪う’信としか映じません。
一生を満足をもって終えられる信は一生成仏以外にないというレトリックは他の一切の可能性を否定しているものでしょう。
また、あなたが言う利他は何でしょうか。では、あなたはわたしに対して、どのような利他ができるのですか。
> 「歴史的」「科学的」な矛盾を越えて、現代に示唆を与えることが可能
では、それがどのように可能であるか、ここで説明すれば、よろしいのではないでしょうか。自分が信じる一方的な信念体系を押しつけるばかりが、現代人に示唆を与えるわけもないでしょう。
どんなことが示唆ですか。具体的に記してください。
> 「歴史的」「科学的」な矛盾は全て取り払うべきだとお考えですか。
わたしは、そのようには記していません。「間違っていた」と書いているのです。あなたの質問はこうして、誤認に基づく、的外れな質問になっています。
あなたは、誤解のうえから誤解に基づく質問を重ねているいるわけですが、そもそも、ここで当初からわたしが問題にしたのは、日蓮が鎌倉時代に知り得たところは、限界があった。現代の科学では否定される部分があるということです。
まず、この点は、あなたは認めるのですか・認めないのですか。
854
:
今川元真
:2006/06/24(土) 19:18:43
横割失礼します。 【納得できるかは結果次第?】●四宗兼学←→四箇格言、空海、法然が日蓮以前に教主、他経典を捨て去る故言上。●法華経行者は随方毘尼で時代にあった方法論を見つけなければ成らないのか。三障四魔(降三世大威徳)三国四師(法華経継承)三証四悉檀(時代毎応用)●空海、最澄は、弥勒を目指したそうです。高野山(十二天)盧遮那仏・大日如来・弥勒菩薩、比叡山(十二神将)華厳・真言・法華、金剛頂経・大日経・蘇悉地経[三大密法]如来神通力・陀羅尼真言・蓮華蔵世界[三大秘法]題目(基本)本尊(基礎)戒壇(応用)●仏(経典)が成道できるように随方毘尼として顕現→56億7千万年・尽未来際
855
:
真実探求者102
:2006/06/24(土) 23:24:27
、、、852のななしさん(名前がエエカゲンカ、? ましな名を期待したいが某S会絡み臭いナ、、)、、「信」、、と言う甘い言葉で、私は「疑う気持ち」を奪われました、。 「、、今、、信に耐えうる、、???」、が存在でしょうか、、??
なら)
856
:
乾闥婆
:2006/06/25(日) 00:27:50
>>847-848
犀角独歩さん。
お母様、本年、四月にご逝去とのこと、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
お母様の最期の題目、葬儀での読経、そういった中に信仰の素直な感動を見ます。
常に私の傍らで題目を上げ続けた我が母は、家族に囲まれながら昏睡状態から静かに息を引いていきました。手術後、意識障害を起こして以降、その口から唱題を聞くことができなかったことは、やはり残念であり、母も悔しかっただろうと、当時を思い返しました。
>結局のところ、絶対とは意図せず、限界を設定することだということです。そして、この限界を、この界隈の言葉で言うと「信」ということです。
>信心と言われるものは、一所に留まって、足踏みをし、そこで固くなった足場に安住しているという、限界を正当化する肯定論でしかなくなっています。ですから、信が執着となっているのです。
>自分を飾る「強情な信心」という権威構造を放棄したと言うことです。「あの人は、心の底から日蓮大聖人を信仰している立派な人だ」という信者一般に見られる善悪の判断肢、すなわち、「信」という権威構造から、外に出たと言うことです。
形態とは枠組みでありますから、それは確かに限定を加えることであると思います。また限定を加えなければ形態は成り立たないのでしょう。そしてそれを強く支えるものは「信」であるのだと思います。「信」が崩れれば形態は脆弱になります。形態に固執すればするほど、「信」は必要とされます。そのジレンマがいまの私を苦しめているのだということが浮き彫りになってきました。
いちりんさんのお話にもあったことを、私は一時期考えていました。大事なことは心的作用であるのだから、心的作用として有効ならば、それはそれでいいのではないか。例えば人は文学作品に感動し、啓発されます。しかしそれはフィクションであるし、人々はそれがフィクションであることを知っています。つまり虚構です。しかしその虚構に人は感動し啓発されるのです。法華経は物語であるし、蓮祖の教学も命がけの物語であると、そう思って取り組んでいこう、そんなふうに考えていた時期もありました。
しかしそういうスタンスで望む「信仰」はやはり私の知る信仰には似ないのでした。「事実」であると信じ込んでいたことが、そうでなくなってしまうと、心がさめてしまうのでしょう。しかしそのように心落ち着けたところから、また読経と唱題があるのであれば、それはそれでよしとするべきなのだと思います。熱狂、は過ぎ去りました。そのような過去に私の知る信仰は、もはや私を訪れることはないでしょう。そのような信仰こそ真の信仰であると、私は植え付けられてきたのかもしれません。しかしそのような信仰観からの脱出こそ、成長というべきなのかもしれません。
いろいろと発言させていただき、多くの方からご意見もいただきました。まだまだ成長途上の私ではありますが、今後ともよろしくお願いいたします。
857
:
犀角独歩
:2006/06/25(日) 02:05:22
856に乾闥婆さんが、現段階で記された結論にわたしは敬意を表します。
ハッサン師は記しました。
「自分がしていることは宇宙的意義をもっているのだという、あの興奮した感情が懐かしかった。ひたむきさが生みだす、あの力強い感覚が懐かしかった」
「自分が学んだことや、知りあって好きになった人々をすべて受け入れ、それを統合して、新しい自意識を作る必要があった。古い自意識を統合して新しい目標をつくることで、元メンバーたちはとても強くなる。彼らは勝ち残り組なのだ。彼らは苦難と虐待に耐え、情報と自己反省で敵を克服することができたのである」
ご健闘をお祈り申し上げます。
858
:
犀角独歩
:2006/06/25(日) 08:54:22
マインド・コントロールの環境の中では、グループが信じることを単なる理論だと見なす余地はない。教義こそ現実そのものなのだ。グループによっては、物質世界全体が幻想であり、したがって思考も願望も行動もすべて(カルトが定めたものを除き)実際は存在しないのだと教えさえする。
カルトのいちばん効果的な教義とは、エリック・ホファーの言葉を使うなら『証明も評価もできな い』教義である。それは非常に複雑なため、解くのに何年もの努力が必要だということになってい る(もちろんそのころには、人々は教義を学ぶことよりも資金集めとか勧誘のようなもっと実際的な仕事へ向かってしまっている)。
教義は受け入れるべきものであって理解すべきものではない(という)。それゆえ、教義は、漠然 としていて包括的で、しかもじゅうぶんに調和がとれて一貫しているように見えなければいけない。その威力は、これこそ万物を包摂する唯一の真理なのだと断言するところからくる。
マインド・コントロールの正否は、その人の中に新しい人格を作りあげることにかかっているので、カルトの教義は、きまって、あなたは自分自身を信じてはならないと要求する。教義が、思想と感情と行動のすべてを決める『マスター・プログラム』となる。それは完全で絶対的な真理そのものなので、教義のどんな欠陥も、信者自身が不完全だからそう見えるのだとされる。信者は、たとい本当には理解できなくても、決められたとおりの信条に従わなければならないと教えられる。同時に、真理をもっとはっきり『理解』できるようになるには、もっと働き、もっと信仰を深めなければならないといわれる。
以上、『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版)から。
「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし…智者に我義やぶられずば用じとなり。其外の大難、風の前の塵なるべし。我日本の柱とならむ」(開目抄)
さて、如何にして法華経を捨てざらんか。日蓮の義は近代の前に破られたのか。もし、破られていないというのであれば、批判者、不信者を排除して、自分の信仰を守ろうとするのではなく、何が破られていない日蓮の義であるかを、ここに明確に提示する必要があります。しかしながら、わたしの疑義の提示は、他者へのものではなく、わたしが己心に見ていた法華経・日蓮義一切の総点検のための自問自答であり、その果てに一体何が残るのかという試論でもあります。ここに一切の妥協はありません。
859
:
今川元真
:2006/06/25(日) 09:47:20
犀角独歩さんの総点検は「大雑把な類型では無い」と言う事ですね? 科学的分析理解がヒトの心や社会の歴史全てを漏らさず断言できる事は無いと考えられます。 宗教を学問するのに大事な点は理想と現実の相対的関係が立証できるかにあると考えます。 歴史の結果論で判別するのは危険だと言う事です。
860
:
犀角独歩
:2006/06/25(日) 13:23:43
今川さん
> 科学的分析理解がヒトの心や社会の歴史全てを漏らさず断言できる事は無い
もちろん、そうでしょう。同じように宗教がすべて漏らさず断言もできないということです。両方を付き合わせた再点検が必要です。
>宗教を学問するのに大事な点は理想と現実の相対的関係が立証できるかにあると考えます
このご意見には当然賛同します。
> 歴史の結果論で判別するのは危険
誤解があるようですが、いつわたしが歴史の結果論で判別しましたか。
861
:
犀角独歩
:2006/06/25(日) 13:35:28
当掲示板は、挙証義務を厳しく求めるところに美風があります。
ですから、法華経にはこんな善いところがある、日蓮の教義はここが正しいと言った点を具体的に挙げればよいわけです。
わたしは科学的な当たり前すぎる事実を提示しているのに過ぎません。
その事実を言うと、価値がないとか、無意味であるとかと何ら根拠もなく、否定するばかりで、その事実を認めようとしないばかりか、いいところもあると言いながら、「では、具体的には」と問うと、沈黙し、また、何ら根拠も示さない的外れな批判を繰り返します。
このような態度こそ、一般人がカルト・マインド・コントロールとしてもっと忌避し、不快感を覚える態度であることは、今さら論じるまでもありません。
議論をする気があるのであれば、具体的なよい点を立証してみせればよいだけのことです。どうぞ、存分に開陳して見せてください。
862
:
今川元真
:2006/06/25(日) 18:10:04
いえ、犀角独歩さんも含めた書き込みですが、得手して好事魔多しと言うか感情が籠もると暴走するかもしれないと言う判断力以前の事を書いてしまいました。お気を悪くされたならすみませんでした。それから、私は真蹟の審議を論ずる手間暇をかけられないので、ごく簡単な質問しかできません。別スレッドを立て、21世紀時代に日蓮大聖人御書全集を使ってどれだけ素人眼から解読できるか歴史時代の差がどれだけでるのかやってみたいと思ったのですが、ここの掲示板では無理でしょうか。簡単な質問や確認なら「21世紀の仏教を考える」で出来ます。挙証主義での質疑応答とは分ける事が取り敢えずの面目になると思います。
863
:
犀角独歩
:2006/06/25(日) 18:36:02
今川元真さん
> お気を悪くされたなら
いえいえ、気など悪くなどしませんが、こうしてみると、実際に日蓮、法華の善いところを力説できる人というのはいないのか?という疑問を懐いた次第です。
> 21世紀時代に日蓮大聖人御書全集…素人眼から解読できる
まず、全集ではなく、その遺文の信頼度を基準に、ということになるでしょうね。また、何を伝えるのか点が重大なんだろうと思います。
死んだら、お肉が柔らかくて、軽くて白いのが成仏なんていうのを現代語にするだけだったら、「???(大笑)」でしょうから。
> 挙証主義での質疑応答とは分ける
ええ、それは素朴な疑問などが適当でしょうね。つぶやきもあります。
864
:
今川元真
:2006/06/25(日) 23:27:50
●書き込むにしてもまとめて何が論旨なのか書かないとだらだらになってしまいますか。 ●力説と言っても真蹟の範囲の把握さえ儘ならないのでは無理があるでしょう。創価学会等の場合、頑丈な組織システムと言う檻に閉じ込められたような感じで自由な論議にはならないからで、広い檻か狭い檻かの違いと一人ひとりのフットワークの違いがより保守的にするのでは無いでしょうか。聖教新聞や人間革命が永遠の指導者になるのでは無くてケーススタディの指導者とゼロベースの指導者を育てないと創価学会でも名誉会長死後割れるかもしれません。割れた後、大白蓮華が永遠の指導者であり創価学会の柱と纏めようとしても遅いかもしれません。
865
:
犀角独歩
:2006/06/26(月) 19:51:00
今川さんのご投稿は短文で、趣旨を斟酌しかねるところもあるのですが、わかるところもあります。
当掲示板は、挙証義務が美風であるとわたしは記しました。
では、日蓮は、この証について、何を挙げたかというと、道理、証文、そして、現象です。
「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事)
ここでいう関係は、実は現象の優位を論じているわけです。
合理的(道理)に、文証(経・釈・真蹟)でその祖型を探ってきたわけですが、実のところ、その実用性(現証)がなければ、単なる理論構造だけということになります。
わたしは体験に基づくところを、批判しているわけではありません。
ただ、その体験に、各人が係るという教義・本尊が確実な日蓮、もしくは経典の理解とはなっていない齟齬を論じているのに過ぎません。ですから、‘現証’について、語ってみてはどうかと促したわけです。
その前提で、しかし、自己の信じるものを否定する者へ、非論理的排除、また、論証除外という態度もまた、信仰をした結果の、いわば悪現証ととらえられてしかりという視点もあります。しかし、反面の体験的な功利性はあるはずではないでしょうか。もし、この点が持ち得ないというのであれば、日蓮は21世紀に、各人の思いこみが、教団護持を支えるという閉じた共同体の中でのお話で終わるでしょう。
わたしは創価学会の教義など、まるでおはなしにならないと思います。しかし、ここで半世紀、体験されてきたところ、それはまた、700年来の日蓮門下の出来事といっていもよいのですが、この体験の全体を、否定しようという気は毛頭ありません。ただし、科学的視点から論証できるところはし、それでも何かが残るか否かを徹底論証してみてはどうかという考えに基づく厳正な視点は捨てません。何故、捨てないか、世間一般が捨てていないからです。「なんだかおかしい」「うさんくさい」「ばかばかしい」などと思われる当然想定される批判を敢えて一切合切、課してみて、それでも残るものがあれば、そのような体験=現証は、確実に人々の情意を打つものであるとも考えます。
866
:
犀角独歩
:2006/06/26(月) 22:20:46
【865の訂正】
誤)現象
正)現証
867
:
今川元真
:2006/06/27(火) 00:12:47
●極端ですが、創価学会もいずれは興門流日顕派の様に成りかねないと言う事でしょうか。天使教に押されて。 ●暴走の迷妄を解き説得力を持たせる為にも一か八か遣らざるを得ない時代に来てしまったと言う事を考えますが、切り刻んでもアナログとデジタルほど違う時代では現証を持つ者と持たざる者もしくは許容範囲の違いで分離分派するかもしれないでしょう。 ●成仏するまで戦い続ける事ができるか? 「脳には進化の歴史が詰まっているはずだから」まだ進化する力は眠っているのでしょうか。 ●広宣流布の機軸としたいのは『妙法蓮華・価値創造・宿命転換』【理の一念三千・事の一念三千・真の一念三千】 ●私が歴史時代を鑑みて汲み上げようとして過不足を考える物差しは此れくらいでしょうか。 ●犀角独歩さんが急進派で今川元真が穏健派だと言いたいのでは無いのですが、守旧派のような方々から見れば御書遺文を切り刻むようにしか見れないかもしれません。 ●話題が変わりますが、「西から東」は月氏、 「東から西」は日本の事をほのめかすと見て良いのでしょうか。
869
:
犀角独歩
:2006/06/27(火) 07:30:10
今川さんのご意見は参考になります。自分の記していることがどのように誤解されていくか、その虚像が見られるからです。ただし、お書きになっていることで、ご投稿の趣旨がが理解できないところも多々あります。
> 広宣流布
この語については、以下のように記しました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015334405/56-60
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1041207951/223
> 妙法蓮華・価値創造・宿命転換
妙法蓮華経は羅什の意訳、価値創造という点については『創価学会批判』でかなり手厳しく哲学的反証がなされており、そこではさらにそれを受け継いだ戸田氏の哲学の勉強不足が指摘されていました。また、この学説と日蓮教説、さらには法華経とは本来まったく関係のないものでしたが、実践生活という点で牧口氏は石山の教学・本尊信仰を充てたわけでした。宿命転換は近代の造語で、そもそもこの語は「宿命」語解釈の誤謬があります。この点は、どなたかとかなり議論をした記憶がありますが、いまは見つかりません。ただ、簡単に以下に記していました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/1398
> 【理の一念三千・事の一念三千・真の一念三千】
真の一念三千という用法は知りません。いずれにしても、三千不可思議境は一心のことであるとして、止観参禅の観三千法界が湛然によって成句され、日蓮に至っては付嘱の正体である妙法蓮華経に裏まれた珠であるとなり、さらに創価教学では生命の説明になっていった経緯を概観して、原意に迫るべき用語の一つであると思います。
> 犀角独歩…急進派
そのように映じますか。すでにわたしが述べるような時代は100年前に到来しています。それに気づけず、信仰という二文字で、世間一般の批判を逃れていては致し方がないというのは急進的な態度でしょうか。寧ろ、遅すぎることであると思うのですが。
> 守旧派のような方々から見れば御書遺文を切り刻むように…
これは、むしろ、わたしのほうの印象ですね。
真偽を論ぜず、糞味噌の扱い、さらに切り文した遺文をつなぎ合わせて、日蓮の考えとはまったく違う解釈をしていると、殊に学会を含む石山教学に感じています。
近日の一連の遣り取りを見てもわかるとおり、わたしが単に、法華経は西暦前後の創作物語である、釈迦の入滅年代は鎌倉時代に信じられていたことと違っていた、という2点に就き、日蓮は事実誤認をした、つまり、「間違った」と記したのに対して、その点を認めようとせず、経典、教義、本尊は正しいということを違う論点から述べて、これを遮そうとしたわけです。わたしはこの一連の対応を自由な議論に対する侵害という印象すら懐きました。要は、現代、科学的に証明された点について、いろいろな解釈を構えて、それを肯定しようとしても、世間一般はそれでは納得しない点を、信仰で押し切ろうという暴挙と映じるわけです。その信仰への執着の原因は何であるのか、徹底的に内観してみてはどうかと勧めているわけです。
> 「西から東」は月氏、 「東から西」は日本の事をほのめかすと見て良いのでしょうか。
この意味は新釈いたしかねます。どのようなご質問なのでしょうか。
870
:
犀角独歩
:2006/06/27(火) 11:07:59
【869の訂正】
誤)新釈いたしかねます
正)斟酌いたしかねます
871
:
今川元真
:2006/06/27(火) 12:51:44
●誰もが簡単に昔の環境の原意に戻れるなら苦労と言うかストレスの無い社会になっているでしょう。●犀角独歩さんの様に知識・情報を持って学問に時間を費やす事ができる訳では無いので御容赦願います。 ●シャカと日蓮に通暁する心があるとすれば「泥から花を咲かせる蓮華」と考えなければ、信学行をして仏国土みたいな平和な社会をつくっても長続きしないような気がします。シャカの執着から離れる思惟思索に形を持って捉えるのは逆戻りと言われるかもしれませんが、より良い環境に変えるには点・線・面の点に於いてある意味(理想像の法を信じる、理想論で変わる自分を信じる)必要な事に思います。 ●十字御書を読み返していい線いってたなと思うのですが、嘘から出た真になりませんね。
872
:
犀角独歩
:2006/06/27(火) 14:52:36
今川さん、ここは議論の場であり、挙証義務が課せられていますから、それに遵守しているわけです。
時間がなければ、時間がないなりに個人でやる分にはけっこうなことではありませんか。
しかし、ここでは投稿規則があるということです。
信仰というのは、あ面、妄想と紙一重のところがあります。
嘘から出た真から、真に基づく信であるか、それを論証しようと言うことです。
873
:
今川元真
:2006/06/27(火) 23:56:56
●徹底的に解明する事は其れぞれの論理を考える為には良いのですが、時代毎の必要な要素を考えないと何も残らなくなるのでは無いかと思います。●犀角独歩さんの指摘通り(?)自分の信学行の質量を計り直す事が出来れば良いと考えます。
874
:
犀角独歩
:2006/06/28(水) 04:53:16
今川さん
873に記されるところは同意です。それがつまり、当スレ『現代人が納得できる日蓮教学』ということの趣旨だと思います。
875
:
今川元真
:2006/06/28(水) 12:20:45
犀角独歩さん、ありがとうございます。
877
:
今川元真
:2006/06/29(木) 17:51:40
宰格瑚葡さん、はじめまして。私は、池田チルドレン?が創価学会の指導者になっても組織システムの隅々までチェックするのは難儀なので、信心学問修行をより解り易く快適に内外に提示する為にも、末法無戒の世に法華経行者日蓮がどれだけの事を考え、富士門流貫首日寛がどれだけの事を纏め、創価教育学会会長牧口常三郎がどれだけの事を提示したのか、知る必要があると思います。
878
:
犀角独歩
:2006/06/29(木) 20:02:48
今川さん、前から気になっていましたが、末法無戒と本門戒壇というのは整合性がありますか。日蓮は末法無戒を哀しみ、本門戒壇を言ったのではないでしょうか。
「正法千年の後は像法千年なり、破戒者は多く得道すくなし。像法千年の後は末法万年、持戒もなし破戒もなし、無戒者のみ国に充満せん。而も濁世と申してみだ(乱)れたる」南条兵衛七郎殿御書
「二乗・凡夫・悪人・女人乃至末代の老骨の懈怠・無戒の人々は往生成仏不定なり。法華経は爾らず。二乗・悪人・女人等猶仏に成る」薬王品得意抄
「第二の悪世中比丘と指さるゝは、法然等の無戒邪見の者なり。涅槃経に云はく「我等悉く邪見の人と名づく」等云云」開目抄下
「日蓮は無戒の比丘なり」御衣並単衣御書
「剰へ我慢を発して大乗戒の人を破戒無戒とあなづる。例せば狗犬が師子を吠へ、猿猴が帝釈をあなづるが如し」「法華経の大戒を我が小律に盗み入れて還って円頓の行者を破戒・無戒と咲へば、国主は当時の形貌の貴げなる気色にたぼらかされ給ひ」「能因法師と申せし無戒の者」下山御消息
「貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり。此の僧は無戒なり無智なり」盂蘭盆御書
「正像末の持戒・破戒・無戒等の弟子等を第六天の魔王・悪鬼神等が、人王・人民等の身に入りて脳乱せん」諌暁八幡抄
「日蓮は無戒の比丘、邪見の者なり」法衣書
880
:
今川元真
:2006/06/30(金) 20:26:02
教学的因果関係は日蓮聖人が手紙に認められているだけしか見受けられないので解りませんが、縦軸・時間と横軸・空間、歴史と現象を考え合わせる学問が仏法ならば、心の襞や琴線に触れる感情的示唆が現れ言葉文字に表れても不思議では無いと思います。法華一乗の派生事項だと考えますが、真言化した比叡山に対して真実の一念三千・妙法蓮華の浄土を現出させたいと本門の題目・本尊・戒壇を形にしたのが漫荼羅(紙や板では無くて)なのでは無いかと断じたいです。
881
:
犀角独歩
:2006/06/30(金) 21:06:42
今川さん
880に記されることは、賛同する面もあります。
わたしがここで投げかけている疑問は、一般の人であれば、誰しも懐くだろうことを忌憚無く、率直に述べているのに過ぎません。そのような投げかけにどのように反応されるのかという点が、「心の襞や琴線に触れる感情的示唆」なのか、もしくは排他、罪悪視なのか、矛盾に満ちた反論なのか等、そのレスポンスによって、その健全度を測るのもまた、一般の観察であろうと思います。
その意味において、単発的、かつ、捨て投稿で、あらしが目的なのかと見えていた今川さんの、レスは、実に誠実で、健全であり、たしかに心の琴線に触れるものがありました。
882
:
励合人
:2006/07/01(土) 06:48:41
日蓮さんの生き方自体が素晴らしいと思います。人を愛する深さというか人間の可能性というか信念による一人の人間の持っている強さを教えてもらいました。立派な方々を見習うひとが出てくるから立派な行いができることは素晴らしいことです。見習う側も善の部分のみを見習っていければより素晴らしいです。それには善悪のはっきりした区別がつくことが一番大切です。世界平和や人間社会が進化するには宗教が無くなり道徳以上の新しい何かを手本にする世の中になるしかないと考えています。宗教以外の新しい何かが出現するには今より飛躍的に心の解明と科学の発展が必要ですが。現段階では信念につながるものとして現代社会を生きる責任、未来社会への義務、過去社会への感謝が明確に子供に教育されれば何か少しは変わっていく気がします。以上、大ざっぱで伝わらないと思いながらも根拠の無い個人的感覚による私見を記入してしまいました。
883
:
犀角独歩
:2006/07/02(日) 07:46:08
> 882
概ね、賛同します。
情報量は、ネットと豊富な資料が直ちに入る現代と、鎌倉時代では比ぶべくもありません。しかし、その情報を扱うのは常に人間なのであって、日蓮の熱意と精神力、そして、実際の行動といったものに、では、現代の我らが優位にあるかと言えば、決してそんなことはないでしょう。
「生き方がすばらしい」というご感想は、そんなところにあるのだろうと拝察します。データ的処理能力ではなく、“心”としての処理能力と言うことであろうと思います。
やや、論点が変わりますが、ハッサン師は、以下のような指標を示しています。
「破壊的カルトの疑いがあるグループを調べ鑑定するとき、私はまず、神学やイデオロギーの分野ではなく、心理学の分野で作業する。破壊的カルトについて考える私の基準は、マインド・コントロールと暗示と集団心理−−この三つの影響作用と言うことである。私はそのグループが“何を信じるかではなく”、“何をするかを見る”。(略)破壊的カルトはメンバーは“彼ら自身の”信念体系へと回心させようとする。だが私のやりかたは、その人が多様な視点を調べ、物事を自分自身で処理するように励ますものである」(『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版 P178)
884
:
今川元真
:2006/07/04(火) 05:48:28
30年かかって辿り着いた道程。法華一乗の中味を経典の内容を考え合わせるのは此れから。犀角独歩さん諸氏には一言一句訓育教授賜りますようお願いします。
885
:
犀角独歩
:2006/07/04(火) 20:31:34
今川さん
ご丁寧に有り難うございます。わたしもまた、今川さんから多くを学ばせていただきます。
886
:
今川元真
:2006/07/05(水) 06:22:50
いいえ、こちらこそ。法華一乗の原点に戻る初心者ですから宜しくお願いします。
887
:
犀角独歩
:2006/07/05(水) 11:06:20
つぶやきから移動しました。
こちらの掲示板で、日蓮本‘仏’、次に‘法’本尊=彫刻、そして、今回は僧について。
仏陀にあらざるを仏陀と信じさせ、法にあらざるを法と信じさせる、その僧は、僧にあらざるというのが、わたしの脈絡です。
カラフルなどと言った覚えはなく、薄墨素絹の質素な衣に剃髪であれ、そのような詐り仏法を勧めるものを、姿ばかりは僧に似せても、日蓮の言う僧にあらずということです。
独学徒さん
わたしは、多くの尊敬できる僧侶を知っています。また、その人たちの、心暖まる慈悲に包まれて今があります。
わたしが石山からもって出た一つの教え。
「僧の僧たる自覚を与えるは檀那なり」、四弘誓願に生きる僧侶には、精一杯の礼をもって、接するのは誠心誠意からですが、それはまた、その方々の自覚を生じさせる功徳もあると考えます。一方、誤り謀り衆生を迷惑する者には厳しく弾劾もいたし、ここでもまた、僧の自覚を促します。
これはしかし、「お気に入り」だなんだということとは、まったく、次元を異にします。仏と法と僧伽を護持しようという信念に基づくところです。この点を、独学徒さんはご理解いただけると存じます。
888
:
独学徒
:2006/07/05(水) 23:25:21
犀角独歩さん、
>これはしかし、「お気に入り」だなんだということとは、まったく、次元を異にします。仏と法と僧伽を護持しようという信念に基づくところです。
まだ数回ではありますが、犀角独歩さんと直接会ったことのある私には、重々承知のことです。
私が尊敬できる僧侶と出会えないのは、富士門系の僧侶に限定して接しているからかもしれません。
富士門でも何人かは、親切な方だと思う方もいますし、大変勉強になる御主張をされると思う方もいます。
しかし、本当に信頼し心をゆるせる方とはめぐり合えていません。
その意味では、犀角独歩さんが羨ましくさえ思えます。
しかしそれでも、人との出会いは、まだまだこれからだと思います。
全ては私の経験不足だと思います。
890
:
犀角独歩
:2006/07/06(木) 00:32:41
独学徒さん
有り難うございます。
独学徒さんが、富士系の坊さんに限ってお会いになってきたというお話は、むしろ、新鮮に感じました。
わたしは、ここ10年、その手の人には会わないできましたから、善い方々との会いがあったのであろうと思います。そのような方々に、お引き合わせの労をわたしは厭いません。お気軽にお声をおかけください。
891
:
独学徒
:2006/07/06(木) 21:30:51
犀角独歩さん、有難うございます。
実は定年退職したら入道しようかと思っていたこともあります。
娘達には頭を丸めることを大反対されましたが、今でも心中にその希望が残っております。
この先、良き僧侶との出会いを求めた時には、犀角独歩さんに相談させていただきます。
その節には、どうぞ宜しくお願いいたします。
892
:
B
:2006/07/07(金) 10:32:16
> カラフルなどと言った覚えはなく、薄墨素絹の質素な衣に剃髪であれ、そのような詐り仏法を
勧めるものを、姿ばかりは僧に似せても、日蓮の言う僧にあらずということです。
> これはしかし、「お気に入り」だなんだということとは、まったく、次元を異にします。仏と法と僧伽を護持しようという信念に基づくところです。
ご自分の主張は丁寧になさるが、非礼、批判の含みのあるものは飛ばし読みをされるのか、これで「カラフル」についての2度目の説明になります。
独歩さんの表現、「坊さんコスプレ」を借りて、「カラフル坊さんコスプレ」は私「B」が言ったのです。
宗祖も着されなかった色衣を着て、似ても似つかぬ姿で宗祖の法を説くお上人様を「カラフル坊さんコスプレ」と真似たのです。独歩さんが尊敬なされているらしいので独歩さんの「お気に入り」と書いたのです。
湾曲?
独歩さんの投稿から引用
草創の古さ、寺格の高さ、皇室はじめ過去の権力者にどれほどの庇護や帰依をうけたかを、とくとくと語り、あたかもそれを寺の誇りとするごとき傾向をまま見かける。しかしそんなことが、寺の名誉でも威信でもないことはあきらかである。もし寺院が、それなりに矜持(きんじ)を持つとすれば、仏の智、仏の愛を、どれだけ積極的に民衆のなかに弘通し、彼らの悩みを救ったかという一点にしぼられるはずである。過去はもちろん、現在も未来も、立派にそのつとめを果たし得る自信、そしてその実績――。寺院の誇りはこの一事に尽きる。伝統や寺歴を、問題外にするのではないが、そういうものはあくまで第二義のはずと思うのだ。
これは身延の寺にぴったりあてはまるのでは、
。
新尼御前御返事に
日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために、此の御本尊をわたし奉るならば、十羅刹定めて偏頗の法師とをぼしめされなん。又経文のごとく不信の人にわたしまいらせずば、日蓮偏頗はなけれども、尼御前我が身のとがをばしらせ給はずしてうらみさせ給はんずらん。此の由をば委細に助阿闍梨の文にかきて候ぞ。召して尼御前の見参に入れさせ給ふべく候。
身延を見学に行った知人の言うには、門前でヒラヒラと風に吹かれてご本尊が売られていたとのこと。
佐渡ではちょっと記憶があいまいだが佐渡始顕のご本尊がステンレスの板に彫られて庭に展示してあった。
「大日蓮展」では平念珠が売店で売られていた、展示物の中には聖人ご所持の数珠(真偽は?)が展示してあったが平念珠ではなかった。
親戚の法事で日蓮宗の寺へ行ったがあちこちに色んな物が祀ってあった。
お上人方は、これらを承知しておられるのだろう。独歩さんの「仏と法と僧伽を護持しようという信念に」に悖りませんか。
答曰守涅槃経云若善比丘見壊法者置不呵責駈遣挙処当知是人仏法中怨。若能駈遣呵責挙処是我弟子真声聞也
人を見て呵責、不呵責の差別があっては是人仏法中怨にして真の声聞には程遠いのでは。
> 「僧の僧たる自覚を与えるは檀那なり」、四弘誓願に生きる僧侶には、精一杯の礼をもって、接するのは誠心誠意からですが、それはまた、その方々の自覚を生じさせる功徳もあると考えます
これは全くもってそのとおりだと思います。
放談中の笑い話であるが、あの僧侶はいいが、この僧侶は嫌いだという信徒について、信徒は僧を選べるが僧は信徒を選べないんですよと、僧侶はあんな信徒はいやだなと思ってもそうはいかないのですよと冗談半分で吐露され、大笑いしたことがあった。
信徒でもなく何が目的かわからぬ得体の知れぬ者にも誠意を尽くさねばならぬ僧侶も大変だなと思う。
不快を示せばあれが僧侶か、修行が足らんと指弾される。そのとおりではあろう。
悪口も善智識ととらえられ精進の糧とされるのだろうけれど。
完璧無欠の僧などどこにもおられないのでは。 精進に努められる姿が尊い事だと思う。
893
:
犀角独歩
:2006/07/07(金) 12:11:48
Bさん
わたしは、お気に入りだなんだという言葉は不快です。
別段、気に入るとか、気に入らないで言っていないと何度も、繰り返しています。これは重複投稿、無意味な繰り返しになります。
管理者さん、投稿規約に違反すると思いますが、如何でしょうか。
さて、Bさん、わたしの先の投稿は、富士門流信徒の掲示板で、下種三宝を問うたものです。その脈絡は一切、無視するのでは、議論とは言えません。
また、わたしは、身延を気に入っているわけでもなく、身延派の僧侶を気に入っているわけでもありません。また、その化儀を100%納得しているわけでもありません。ただし、‘民衆救済’という視点から、そのような尽力している方々に最大の礼をなすと言っているのです。斯様にあなたの論点はずれています。
また、身延の本尊について、云々していますが、Bさんはどうやら、石山の僧俗らしいですが、では、そこでは頒布されている‘本尊’とは、他宗を非難できるような代物なのでしょうか。その本尊の印刷を請け負う印刷会社、あなたが嫌う日蓮宗の仕事を請け負っているのであり、身延の印刷物が印刷されている同じ会社で印刷されたものを本尊として、信徒に3000円以上で販売しているのではないでしょうか。まして、「奉書写之」といい、それが彫刻を写したものと言いながら、内容が違っているという呆れた代物です。そのような本尊を尊重する者が、身延の本尊を云々するなど、話になりません。
また、わたしが引用した涅槃経の文は「僧」について、論じたものであって、その文をもって、わたしが自護相違した如き論調もまた、まったくの的はずれです。
「精進に努められる姿が尊い」、わたしもそのように記していますが。
いくら、あなたが、身延の悪口を羅列したところで、石山の実態は、何も変わりません。身内の贔屓倒れに他者の悪口を言う姿を、あまり褒められたものではないでしょう。
いずれにしても、ここは、議論の場です。揚げ足を取って、嫌みを書き連ねるような態度は、わたしは、そもそも投稿の姿勢に問題あり、改めないのであれば、退去を希望するほかありません。
894
:
管理者
:2006/07/07(金) 13:00:10
Bさん
当掲示板の参加者を揶揄するのが目的であるかに見えるような投稿は、当掲示板のルールに抵触します。今後同様の書き込みを続けれた場合は、ルールに基づいて、削除、並びにご参加をお断わりする事になります。よろしくお願いいたします。
895
:
B
:2006/07/07(金) 20:18:57
公平なりやと、いささか反駁したいと思うところもありますが、ルール違反とのこと、
すみませんでした。 ROMに戻ります。
896
:
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講
:2006/07/24(月) 09:58:44
日秀師の起こした三鳥派とはどのようなものであるか、なかなか
わからなかった。
江戸時代突然発生した異流義であり、弾圧され痕跡が完全に消されて
いるため、なかなか実態が掴めないでいた。
以前日蓮大聖人の神道観は、現在日蓮宗が入れている吉田神道ではなく、
渡会神道を基礎にしている、という主張をしたことがある。
石山の場合は、他の法華集団の神道観とは別に、突然変異した、という
私の予感はなんとなくあたっていた。
三鳥派は吐菩加美神道・烏行神道の影響を強く受けていたのだ。
897
:
通りすがり
:2006/07/24(月) 15:34:25
ハキリうるさい。
誰も興味は無い(-_-)
898
:
通りすがり
:2006/07/28(金) 19:57:04
あ、ハキリ坊見っけ!!
お萬の方の本遠寺の葵講の講頭さん
899
:
通り越し
:2006/07/28(金) 23:40:44
本遠寺に葵講など存在しませーん。
しかもハキリは檀家でもなんでもありませーん。
900
:
通りかかり
:2006/07/29(土) 01:08:06
葵講は禿の脳内妄想によるバーチャル講ですよっと。
901
:
通りすがり
:2006/07/29(土) 08:04:11
896の件は菅田さんが精通しているでしょう。
902
:
とんび
:2006/09/09(土) 05:22:50
おはようございます。
教・機・時・国・教法流布の前後(正宗の解釈で)とありますが、教主釈尊の出世
の本懐は、人の振る舞にて候ぞ..とかあったと思いますが、いわゆるサッカー
の試合をしているようなもので、常に瞬間・瞬間にするべきこと、信ずべきことは
変化するものだと思います。
ボールの位置を確認し、自らのチームの選手の位置を確認し、相手チームの位置
をいつも確認して行動を起こす。
90分で、終わりと思っていては、たとえ5点リードしていてても、残りのロスタイム
で、何もしなければ、10点・20点とられて、逆転負けしてしまいます。
だから、臨終の最後の一念まで信心が大切になってくると思います。
もちろん、相手チーム、自分のチームというのは、他人と自分・敵・味方
ではなく、あくまで、己心のなかでのことだと思います。
忙しいので、誤字や言葉の表現の仕方が適切でなかった部分もあるかと思い
ますが、ご了承下さい。
903
:
とんび
:2006/09/09(土) 05:28:49
追伸です。
日蓮聖人の遺文にあるように「月々日々に強りたまえ、少しもたゆむ心あれば魔たよりを
うべし」ですから、ウィルスバスターやノートンアンチウィルス、マカフィーのパソコンソフト
ように、常に信心の精進をしていかないと、魔にやられてしまうと思います。
904
:
無学無明
:2006/09/10(日) 18:31:41
とんび様。
たとえをサッカーにしていますが。
生きとし生きたいものが、それなりに人生を必死です。
貴殿の提言されたサッカーはあくまで遊戯の一例であって、心肺・走力の優劣で勝負が決まるようです。
しかし、生身の我々は生老病死の一点〜一点の最中にも、強い娑婆世界の影響下にいます。
もし、言えるなら、「、、薬害エイズ被害者、薬害肝炎被害者たちへの配慮こそが懸念」でしょうか。
現実に「成仏はお引き受けします、100%を保障します」、というて信者を勧誘したならば、?
薬害訴訟では莫大な被害者への損害保障が次々と判決されています。
宗教は別物だと、庶民を甘く見て、なめ切っていますと、そのツケは、、?
905
:
天蓋真鏡
:2007/01/04(木) 20:13:41
鎌倉時代の僧・日蓮の纏め、21世紀に生きる人々の活用できる質量。【きっかけ≒ヒント≒鍵≒一念三千因果倶時唱題】
906
:
とんび
:2007/10/20(土) 20:45:22
私の、現在における日蓮聖人の響く言葉。(時によりかわりますが)
上野殿御返事(弘安3年12月27日)日興筆、古写本あり。
「仏にやすやすとなる事の候ぞ、をしえへまいらせ候はん。人のものををしふると申すは、車のおもけれども
油をてぬりてまわり、船に水をうかべてゆきやすきやうにをしえ候なり。仏になる事は別のやう候はず。旱魃にかわけるものに、
水をあたへ、寒水ににごごへたるものに火をあたふるがごとし。又、二つなき者を人にあたへ
、命のたゆるに人のせにあふがごとし。
金色王と申せし王は(中略)。月氏国にす達長者と申せし者は、七度貧になり、七度長者となりて候ひしが。
(中略)これをもてよろずを心へさせ給え。
この言葉は、いまの社会にも、通用すると考えています。
907
:
天蓋真鏡
:2008/05/22(木) 19:29:56
南無妙法蓮華経=本尊=戒壇=題目?、本尊=漫荼羅?、戒壇=戒壇堂?、題目=一切衆生の題目?
908
:
偶ロム偶ログ
:2008/05/23(金) 03:30:02
>天蓋真鏡 さん
日蓮遺文による挙証なしで、感覚での感想です。
本尊=木画の仏像(漫荼羅も含む)として表現されるところの己身の教主釈尊
戒壇=南無する吾体がいる処
題目=浄化のためと祈祷・祈念・祈願のための呪(しゅ)
まあ、日蓮教学とも石山宗学とも直截の脈絡はないですが、このように考えて30年は経っています。
これはあくまでも個人に則してのことです。
ただ戒壇については厳密には国主灌頂のための堂ということになるのでは?
まあほとんど醉言です、悪しからず。
909
:
犀角独歩
:2008/05/24(土) 09:35:45
ここ富士門流信徒の掲示板で、10年近く書いてきましたが、大石寺、創価学会、顕正会の批正から、この集団と教義と決別する人々を多く出すことができました。また、日蓮本仏、戒壇本尊からの脱却の用にもたちました。
ところが、そうした人々が保田、北山、西山といった寺院に移動することによって、信仰を保つ様を見ると暗澹たる気分となります。
また、正信会も含めて言えることですが、日興門下の「お宝鑑定団」をやったところで、何ら信仰が実になることは有り得ません。
また、こうした移動組のなかには、創価学会や大石寺を口汚く罵る様も見えますが、他者からみれば、所詮「目くそ鼻くそを笑う」の類に過ぎません。
事実究明とは自己にもっとも厳しく、そして、他に対しても公平な批正でなければ何の意味もありません。
古文書や本尊のお宝行脚と、坊さんと遊戯雑談をするより、もっと、するべきことがあったと、自己反省も含めて思う昨今です。
910
:
マターリ
:2008/05/25(日) 07:25:29
>犀角独歩さん、古文書や本尊のお宝行脚と、坊さんと遊戯雑談をする
より、もっと、するべきことがあったということですが、具体的には、
「するべきこと」とは、どういうことでしょうか?
911
:
犀角独歩
:2008/05/25(日) 10:55:52
マターリさん
「するべきこと」は、たくさんあります。それは人それぞれ違っています。公私に亘り、種々あるでしょう。わたしのやるべきことは、プライバシーに属しますから、ここでは述べませんし、また、各位についても、ここでそれを公開する必要はないことは当然です。しかし、それでも、いえることは、「するべきこと」とは、富士門流であるとか、日興門下であるとか、そうした狭隘な閉鎖空間に留まることではないということです。
「お宝鑑定団」とは、我が恩人、中村行明師がわたしのブログを御覧になって、率直に述べてくださった感想でした。世間一般にはそう映るのだろうと思った次第です。
所謂「本門戒壇の大御本尊」と称する彫刻が後世の捏造物であることなど、もはや論じることもなく当たり前のことです。石山や、顕正会は、これに必死に足掻くかも知れませんが、この歴史は、もう終わりました。大石寺は、今後、信徒会員が増えることはなく、顕正会は浅井照衛さんの死をもって、石山と同じ運命を辿るでしょう。数十年を待たず、この二つの集団は、世間一般から忘れ去られるでしょう。
わたしの彫刻鑑別は単純で、真偽を問うて、贋作であることを証することでした。わたしの目的はここまでです。ところが、どうしたことか、このあとに違う想念を有した人々が残存しました。それは、日蓮漫荼羅の本物探しでした。日本史のなかで何度かブームのように起きた所謂「万年救護本尊」を正統本尊と見なしてみたり、取り立て、日興の書写本尊を有り難がるといった傾向です。こうしたブームは、戦前にもあったものでした。
日興の再認識は、戦前から事起こり、戦後は創価学会の勃興により、学界では高木豊師の研究から、異なった両陣営によって支えられてきました。しかし、この日興ブームはやがて終焉を迎えます。
なおさらのこと、北山・西山・保田といった日興門下など、もはや、既に社会からは忘れ去られた存在であり、そこで有する寺宝などに価値を感じるのは、わずかな人達ばかりです。日興の正統性に執着すること自体、ナンセンスだからです。
わたしの自分史を述べれば、「日蓮正宗創価学会」の家に生まれ、絶対と信じた集団と指導者は、本尊から離れました。わたしは本尊を希求し、石山に移りましたが、そもそも、それが後世の捏造物でした。では、日興が正統かといえば、それは日興門流の幻想に過ぎませんでした。では、日蓮は、といえば、鎌倉時代という科学開闢以前の神話に生きた人であったわけです。では、法華経は、といえば、これまた、西暦前後に創作された物語でした。
つまり、これらのものにいくら執心したところで、「嘘から出た誠」とはなりません。かつて、池田・学会批判で、石山圏が好んでいった「嘘は100遍繰り返しても本当にならない」のです。この言葉は、石山のみならず、日本の全仏教にかかる天に吐いた唾です。
こちらのスレッドは「現代人が納得できる日蓮教学」ですが、率直に申し上げて、もはや、そんなものは残っていません。もし、何かあるとすれば、それは「日蓮の魂」かもしれません。人を思い、国を思った熱意といったところでしょうか。もちろん、日蓮が考案した漫荼羅に熱心に唱題を重ねることに、何らかの効験はあるでしょうし、そうした体験を有する人々も多くいるでしょう。
伝統仏教→日蓮宗→富士門流→(日蓮正宗)創価学会・顕正会 といった信徒移行が戦後、日本の宗教動向でした。そして、その「創価学会・顕正会が間違っていた」から、「日蓮正宗」に、さらに富士門流に遡源すれば、事は解決するかどうかという公開の論理的実験場が、ここ富士門流信徒の掲示板でしたでしょうか。率直に言って、そんなところで、歩みを留めていても、個人的な慰撫と趣味の範囲に過ぎません。では日蓮宗は、では伝統仏教はと遡源しても、事態は同様です。
「するべきこと」の第一歩は、こうした幻想され・設定された「地図」と思考の足かせを、まず外し、個人の自由と責任に基づいて、前に進むことです。
912
:
犀角独歩
:2008/05/25(日) 11:01:26
「そんなところで、歩みを留めていても」という「そんなところ」とは、ここ富士門流信徒の掲示板をさすのではなく、「伝統仏教→日蓮宗→富士門流」といった信念体系と集団を指して書きました。
文章が曖昧で誤読される可能性があると危惧しましたので、補足します。
913
:
天蓋真鏡
:2008/05/25(日) 13:29:25
犀角独歩さん、マターリさん、ゴウタマシッダルタ生誕〜21世紀の富士門流掲示板の出来た頃までの年表を作って置かないと解り辛いかもしれません。
914
:
天蓋真鏡
:2008/05/25(日) 13:56:38
偶ロム偶ログさん、30年と言うのは凄いです。 自分は日蓮聖人が信仰生活をして布教活動していく内に漫荼羅唱題に洗練特化していったと思います。日蓮自身は釈尊像を所持して内証の妙法漫荼羅を心に描き唱題する。其れで一乗要決の南無妙法蓮華経が本尊戒壇題目なのではと掲示板を読み直して想いました。 戒壇本尊は日目諫暁に出て来る三秘法を具現化する為作り出されたオブジェなのではないかな当初はと想像します。
915
:
マターリ
:2008/05/25(日) 15:31:21
>犀角独歩さん、詳しく教えていただき、ありがとうございます。
>「するべきこと」の第一歩は、こうした幻想され・設定された「地図」
と思考の足かせを、まず外し、個人の自由と責任に基づいて、前に進むこ
とです。
私も同様に考えています。今まで教団で教わった既成概念を外して、自由
に考えていきたいと思います。
>天蓋真鏡さん、年表を作るのは大変そうですね。
916
:
天蓋真鏡
:2008/05/25(日) 16:38:26
マターリさん、返レスありがとうございます。 意見集約は大変でしょうが一度見で粗筋でも把握しないと同じテーブルに付けないでしょう。 2008年現在に纏めた年表ならば、2008年度版で良いのでは無いでしょうか。
917
:
犀角独歩
:2008/05/25(日) 20:58:46
年表ですか、うーん、なかなか、そこまで手が回りませんね。
918
:
顕正居士
:2008/05/26(月) 05:23:12
2ちゃんねるの創価板を見ていたら「紙に呪文を唱えて欲を満たす教え」というような
表現があった。言い得て妙である。1 紙(板) 2 呪文 3 欲を満たす どの要素も
最初から話にならない、それが3つ掛け合わさる、以外の要素はない というわけです。
単純に常識だけ働けば、このように本質を的確に見破れるものだなあと思った次第です。
919
:
犀角独歩
:2008/05/26(月) 19:27:44
918に顕正居士さんがご紹介くださったのと同じような筋で、S・ハッサンは『マインド・コントロールの恐怖』のなかで「アメリカ日蓮正宗」(=SGI)をカルトとして上げていました。本が手許にないので抜き書きはできませんが、記憶に随って書けば、「漢字の書いてある掛け軸に題目を唱えると、願いが何でも叶うといって勧誘する」といった記述であったと思います。
創価学会は、この紙=掛け軸を、仏であるとか、生命であるとか、さらに石山にいたっては、これを「生身の日蓮大聖人」とか、法本尊だとまでいいます。
人間の信じる力は射る矢が石に立つといった逸話になるほどですから、鰯の頭であろうと、信じて拝めば、本人が納得がいく結果が出たと納得する「個人的リアリティ」を得ることはあるでしょうが、しかし、これは、その本人の潜在能力と自己認識と満足の為せる業で、紙が仏や、生命であるといったわけでもなく、まさに「紙に呪文を唱えて欲を満たす教え」、もっといえば、「紙に呪文を唱えて欲を満たすと思わせる教え」というのが、常識的な判断なのだろうと思います。そして、こうしたことをいってのける教義集団を、…わたしではなく…ハッサンは「カルト」といったのでしょう。
自分が信じやっていることが、他からはカルトと映じているかどうかを、客観的な視点で見直すことが大切だということでしょう。
920
:
しゅんかん
:2008/05/26(月) 23:37:18
私は宗教(通一般的に捉える処の)を信仰いたしておりません。
一組織、一団体、一グループに身を置いた者を、其れに組していない者が
眺めた時、異なものと映るのは当然ではないでしょうか、人間ですから。
カルトと定義するには一地域、一国、地球規模であれ少数派なのでしょう。
何を崇拝しようが第三者には所詮理解に苦しむ事だろうと思いますが。
時間、空間的に人の捉え方は変化しますから、人間に是が真実だ、是が現実だ
等と述べる能力を有しているとはとても思えない、全ては幻想でしょう。
921
:
しゅんかん
:2008/05/26(月) 23:40:36
少々、酔いかげんです。
一組織、一団体、一グループは重複語ですね、申し訳ありません。
922
:
犀角独歩
:2008/05/30(金) 05:28:22
> 919
自己レスです。原著を確認したところ、記憶と少し違っていました。
「NSA、「アメリカ日蓮正宗 Nichiren Shoshu of America 」に入っていた(この組織は日本ではじまり、仏教の系列だと言うのだが、もう20年このかた、合州国で会員を獲得してきている――訳注=「アメリカ日蓮正宗」という名称は、いまでは変更されているかもしれないが、ここでは原著の記述どおりにしておく)。このカルトの会員は、和紙の巻物 ― 御本尊 ― の前で不思議な言葉をくりかえし唱えれば、自分たちの欲しいものを何でも獲得する力が身につくのだと信じている。」(P169)
つづく記述のなかで「人生の問題を解く鍵を約束する集団にとっては、私はいい“カモ”だった」という悩める善意の人、また、「結局グループから追放されたのだが、ナンシーは次の1年、自分は末期ガンで死にかけているのだという考えに悩まされて、精神科にかかった。自分はただ教え込みどおりに反応しているのだということが、そのときはまだ彼女にはわからなかった。ほかの多くのカルトメンバーと同様、彼女も、NSAを離脱して読経をやめれば恐ろしい結果が生じると怖がるようになっていたのだった。」という経験談は、恐怖操作、もしくは植え込まれる自罰性を示すもので、「日蓮正宗創価学会」、もちろん、顕正会、正信会、妙観講・法華講も、この例に漏れないことがわかります。
923
:
犀角独歩
:2008/05/30(金) 05:41:50
参考のために、該当部分の全文を抜粋します。
ゲアリー・ポーターと「アメリカ日蓮正宗」
いまはフィラデルフィアで指圧療法士をしているゲアリー・ポーターは、ナンシーと出会い、恋をした。彼女はNSA、「アメリカ日蓮正宗 Nichiren Shoshu of America 」に入っていた(この組織は日本ではじまり、仏教の系列だと言うのだが、もう20年このかた、合州国で会員を獲得してきている――訳注=「アメリカ日蓮正宗」という名称は、いまでは変更されているかもしれないが、ここでは原著の記述どおりにしておく)。このカルトの会員は、和紙の巻物 ― 御本尊 ― の前で不思議な言葉をくりかえし唱えれば、自分たちの欲しいものを何でも獲得する力が身につくのだと信じている。2年以上も信心を続けたあと、彼女はだれか医師と出会って結婚できるように、1日何時間も「南無妙法蓮華経」唱えはじめた。
「駐車の場所だろうと新しい仕事だろうと学校の成績だろうと、何のためにでも彼らはこれを唱えるのでした」。ゲアリーはFOCUS支援集会で元カルトメンバーたちにそう語った。
ゲアリーはメソジスト派のキリスト教で育ったが、ナンシーと出会ったころ、彼は落ち込んでいた。
「私は指圧療法専門学校の4年間で燃え尽きていました。いちばんの親友が自動車事故で死にました。兄弟たちが私に、家へ帰って病気の母の面倒をみるようプレッシャーをかけていました。人生の問題を解く鍵を約束する集団にとっては、私はいい“カモ”だったのです」
「このグループは不気味だなと思いましたが……」とゲアリーは言った。「私はお経を唱えることに同意しました。信じられないような昂揚感が得られました。私は御本尊を買い、プンシーと結婚して、そのグループに5年間いました」。
NSAは、勧誘のため、また会員の信仰を強めるために、ティナ・タープーやパトリック・ダフィーといった有名人をよく使っていた。もうひとつのセールス・ポイントは、「世界平和のために活動しています」だった。NSAは、彼らの読経だけが世界を破滅から救うのだと会員に信じ込ませていた。しかし会員は、NSAが後援するデモ行進(大部分の主流派平和団体からは敬遠された)のほかは、平和促進のためほとんど何もしていない。NSAの行進は、たしかにメンバーの時間とエネルギーを支配する役にはたった。「私たちは、週に3、4回、グループの集会に行かなければなりませんでした。読経に毎日何時間も費やすのは言うまでもありません」。メンバー同士の関係は、疑う人間は黙らされ、迎合が報いられるのだということを確かめるように操作されていた。
ついにゲアリーはNSAのリーダーと何回か衝突を起こし、追放すると脅かされた。心の底深くでは、それが自分の願っていることだった。プレッシャーと操作に、ゲアリーは疲れきっていた。また、時間と勢力を全部NSAに注ぎ込んでしまうため、指圧の仕事も損害を受けていた。
ふたりは結局グループから追放されたのだが、ナンシーは次の1年、自分は末期ガンで死にかけているのだという考えに悩まされて、精神科にかかった。自分はただ教え込みどおりに反応しているのだということが、そのときはまだ彼女にはわからなかった。ほかの多くのカルトメンバーと同様、彼女も、NSAを離脱して読経をやめれば恐ろしい結果が生じると怖がるようになっていたのだった。
ゲアリー・ポーターとナンシー・ポーターの物語は、ある種のカルトの物語ほど劇的ではない。彼らのカルト生活は外目には比較的正常だったし、死んでいくメンバーのために徹夜を命じられたりもしなかった。幸運にも、ふたりはいっしょにカルトをやめることができた。マインド・コントロールと破壊的カルトに関する資料を調べはじめるとすぐ、本質的にはNSAも、終日一緒に暮らすことを要求するグループと同じマインド・コントロールの手法を使っているのだということが、ふたりにはわかった。だが、ふたりの人生を修復するのには数年かかった。」
924
:
マターリ
:2008/06/01(日) 20:09:03
男子部の先輩で、不治の病に苦しむ人がいました。幹部から「100万ベン
の題目をあげれば必ず治る。」、と言われて必死で題目をあげていまし
た。また、病気の身体に、むち打って活動していました。
何ヶ月か経って、100万べんを達成したのですが、一向に治る気配がない
ので、もう一度、先輩は幹部に相談しました。すると幹部は、「もう100
万ベンあげなさい。治るまで、題目をあげなさい。」と先輩に言ったそう
です。
幹部の話をしながら、先輩は私と並んで歩いていました。そして「いった
いあと何万べんあげれば治ると言うんだ。」と下を向いて、涙を浮かべて
言いました。愚痴を言わない先輩が、たった一回だけ言った、はらわたか
ら絞り出すような悲しみの言葉でした。
その後、先輩は、学会の会合にも出なくなり、一年も経たずに亡くなりま
した。
世の無常を感じた思い出です。
925
:
しゅんかん
:2008/06/01(日) 22:46:30
マターリさん
全くその様に思います。
世は無常でしょうが、無常でなければ又、困るんでしょうね。
926
:
彰往考来
:2008/06/04(水) 06:31:55
>911 お宝鑑定団
私は日蓮聖人の御本尊や御影などを研究しているわけですが、なんで個人でこんなことやっているのでしょうね。そのために日蓮関係だけで600冊を越える蔵書をもち、100冊を越えるファイルに整理、分類して収められた莫大な量のコピー資料を所有しています。その収集と整理、調査にかけた時間とお金は相当なものです。ま、しかし資料が手元にあるおかげで自分の守備範囲のテーマであれば夜中でも調べることができます。息子には図書館みたいだねといわれてしまいました。しかし増えすぎました。特にここ数年は入手する資料の量がうなぎのぼりで置く場所にも事欠く始末です。確か『捨てる技術』という本で学者以外は本など持っていてもしかたがないという主旨のことが書かれていましたが学徒としては捨てるわけにはいきませんので学者と同じということでしょう。多分大学教授並みの蔵書量であると思いますが家人からみればゴミの山にすぎません。
あくまで私の場合ですが野村進氏の『調べる技術・書く技術』(2008年、講談社)でいう「突き動かしている原動力」(73頁)は、「騙されるものか!」という反骨心です。学会二世として育ち気が付いた頃には大石寺の板漫荼羅を真筆として教えられて拝んでいました。しかし大石寺だけではなく他宗も含めどうもヘンだ、と思い始めたのが高校生のころで、御本尊ってなんだ?なぜ日蓮の真筆本尊は一種類ではなく色々な相貌があるんだ?と変人扱いされながら調べてきたわけです。そこにあったのは秘密主義の壁と無理解でした。当時の男子部幹部は「こんなの調べて何になるんだ!」と怒鳴ったものでした。もっとも学生部時代のある幹部は「学会出版物を1冊読んだら外の本を5冊読め。でないとバランスをくずす」と指導していましたのであながち可笑しな幹部ばかりではありません。この考えはよいのでそう心がけて本に接しています。
鳴海風氏の『円周率を計算した男』(新人物往来社、1998年)に「無理に隠そうとするのは、底が浅いことを露呈しているようなもの」(160頁)、「学問の進歩は秘密主義の下ではありえない」(170頁)とあるのが当時の私の気持ちに近いでしょう。もちろん今でも同じです。騙されないためには勉強し研究するしかありません。
私もテレビ東京の「開運なんでも鑑定団」は好きでよくみますが、日蓮聖人の御本尊や古文書などを研究するのはお宝鑑定団ではないでしょう。鑑定してどうなるのでしょうか?他人の財布の中身を勘定してもしかたがありません。古文書などの研究そのものは真実が知りたいという一念のことではないでしょうか。決して興味本位でできることではなく、自分の人生を、命をかけてやっているものなのです。生半可なものではありません。お宝鑑定団だと仰る方は興味本位の趣味と命をかけた研究を同じだといっているようなものだと思います。反論する必要すら感じません。そのような他人の気持ちを理解できない人には言わせておけばよいと思っています。
927
:
彰往考来
:2008/06/04(水) 06:32:33
926の続きです。
興風談所の諸君はどうなのでしょうか。他人のことをとやかく言える立場ではありませんが、『興風 第19号』では菅野憲道氏が「戦国末期の富士門徒」で北山本門寺蔵の鉄砲曼荼羅の伝説を検証してその内容が史実ではないという結論を導いていますし、坂井法曄氏も「日像上人伝承考」で日像師の伝記を再考すべきと主張しています。内容は確かによく研究されていて反論しようとは思いませんが、所詮他山の伝承・伝説の類でありそんなものにケチをつけてどうするんだ、そんなことより自山(元・自山?)の板漫荼羅の真偽論を論及すべきだろうに、という気持ちはあります。自分達に甘く他人に厳しい態度は世間では相手にされません。生活のためならいざしらず現状は興風談所と日蓮正宗は関係ないのですから大石寺蔵板漫荼羅の真偽論を考証できる立場だと思うのですが、ひょっとして興風談所は将来日蓮正宗に戻るつもりなのでしょうか?
ただ何となく興風談所の諸君の行動が解かるような気がします。彼らを「突き動かしている原動力」は、やはり「騙されるものか!」ということなのかもしれません。あっているかどうか興風談所の諸君に聞いてみないとわかりませんが彼らも自分の人生をかけてやっているわけで生半可なものではないはずです。
月山照基氏の『速水御舟の真贋考』(1998年、河出書房新社)に「《真(まこと)の研究》とは、他を究(きわ)めつつ、自己を研(けん)するの謂(いい)である」(1頁)とありました。私も日蓮研究をする上で歌川国芳などの浮世絵や狩野派や横山大観など近世・近代の絵画に触れる機会があり大変勉強になりました。精神的にも豊になれたわけでそれが何よりよかったと思っています。今は横山大観を調べているのですが、大観の「日蓮上人」という絵はもの凄いです。残念ながら関東大震災で焼失しましたがモノクロ写真が残っています。東京国立博物館蔵本とは別の絵です。これを初めてみた時、日蓮聖人を信仰するものとして心底から身体が震えました。これが魂の入った本物の絵なのでしょう。いずれご紹介したいと思います。
彰往考来
928
:
犀角独歩
:2008/06/05(木) 19:05:27
> お宝鑑定団だと仰る方は興味本位の趣味と命をかけた研究を同じだといっているようなもの
わたしは違う見解を懐いています。
わたしの先の投稿が言葉足らずでしたから補います。
試みに、該当番組を三つに分解して考えます。一つは番組制作者、二つは「興味本位の趣味」の骨董好き、三つはプロの鑑定者。行妙師は、わたしを趣味の骨董好きといったわけではありません。
「これこそ、本物であると信じて価値を見いだしている」素人が、彫刻本尊信仰圏の人々である。しかし、こんなものが偽物であることは、ちょっと、日蓮本尊に目利きであれば、誰しもわかること、そんなプロの目から見れば一目瞭然のことに、素人相手にいつまでも時間を割いているのはもったいないという意味でしょう。興味本位であるという批判では決してありません。
彰往考来さんは、「自分の人生を、命をかけてやっているものなのです。生半可なものではありません」と記しています。それはたしかにそうでしょう。しかし、命をかけているのは彰往考来さんだけではないでしょう。天台五時教判がでたらめであり、かつ、『法華経』を含む経典が後世の創作物であると証明した近代科学の成果を出してきた人々もまた命がけでした。
彰往考来さんは、命がけでなにを証明しようとしているのでしょうか。また、そこで講じる鑑別の技法は「お宝探偵団」に出る鑑定者となにか違いますか。また、こうした鑑定士を批判しますか。行明師がいうのは、それが本物であるかどうか・事実であるかどうかもちゃんと調べもせずに人に勧めてきた僧侶と信者を「お宝探偵団」に出る素人骨董趣味の人々に充ててのことです。その意味で行明師と彰往考来さんの言い分は、同じようなことであるとわたしには映じます。
ただ、そこからさらに一般的な見識に立つとき、先に引用した「和紙の巻物 ― 御本尊 ― の前で不思議な言葉をくりかえし唱えれば、自分たちの欲しいものを何でも獲得する力が身につくのだと信じている」ような信仰は、しかし、お宝探偵団に出る偽物を高価であると信じ込み、もしくは信じ込まされて、骨董好きとなんら大差なく映じるということでしょう。
いまの日本は創価学会のひどい影響下にあります。わたしの親は創価学会のために億に届く散財をしました。いまや、ガソリンはついに170円を超えたましたが、まだ、高騰するでしょう。暫定税率を新たに設定されたことは生活の逼迫に拍車をかけました。こうした決定権を行使したのは、自民党と公明党であり、ひいてはそこに投票した創価学会員も、その責務を負っています。こうした国政を動かす程の会員を創価学会が集めたその基には「日蓮正宗」と「本門戒壇の大御本尊」がありました。ですから、わたしは、こうした悲劇が繰り返されないために、彫刻の真偽をしっかりと論じておく必要があると考え、いままで発表してきました。彰往考来さんが資料収集に充てたお金と時間に勝るとも劣らないものを失ってまでなしたことです。
しかし、海外の被災地を、危険も顧みず、巡礼して歩く行明師からすれば、富士門下の“被害者”は、世界の懊悩する人々からすれば、それでもごく少数であると映じるのでしょう。だから、こんな狭隘な場所でいつまでも素人相手にやっているより、「もっと、ほかにやることがある」という視点から、上述の発言が出たということでした。
この際ですから、一つ、彰往考来さんに質問させていただきます。
彰往考来さんは、その生半可ではない命がけの研究で、では、いったい、何を証しようとしているのですか。それを証して、どうされようと考えてのことですか。
この質問を、富士門下のお宝行脚と、研究に当たっているすべての人に問いたい気持ちがあります。『開目抄』に「智者に我義やぶられずば用じとなり 其外の大難 風の前の塵なるべし」というも、近代科学は、日蓮と日蓮が基礎にした天台学、さらに信を立てた『法華経』を、その真偽を明らかにしてしまいました。日蓮の教学はすでに破綻しました。まさに智者に日蓮義は破られました。それが現代です。その前提で、日蓮の漫荼羅や、さらに日興正嫡から彼の本尊を、こうした信念体系下から一歩も出ず、研究することに何の意味があるのでしょうか。
わたしは本尊研究は、信仰視点ではあり得ず、批判的合理精神、科学に基づく解体と、信者の心理分析を主眼とするほかないと思えます。
まずは、行明師への誤解を解きいただき、気が向いたら、上述のご質問にお応えいただければ、参考にさせていただく所存です。
930
:
犀角独歩
:2008/06/05(木) 23:15:25
一字三礼さん
ここのテーマは「現代人が納得できる日蓮教学」です。その線に沿った議論です。
ちょっと、テーマから外れているように思いますが。
931
:
偶ロム偶ログ
:2008/06/06(金) 15:27:17
私は、一字三礼さんの意見は、それほどテーマからそれているとは感じません。
>極めて偏狭な知識に独断と偏見、プロパガンダを織り込んだ主張
では、たしかに誰もが納得できるような日蓮教学などできるはづもありません。
しかし、日蓮正宗系信仰圈にある各団体では、
疑問→不審・不信→謗法・退転→邪義→堕地獄
というプロセスを徹底して刷り込むわけです。
それに対して、こちらで真剣に議論をされている方たちは、
「確かな資料を基に、学的な姿勢を崩さずに、論証を試み」
ておられます、
その検証の過程においても、また様々な問題点が新たに見えてもくるわけです。
たしかに、現代の学問的諸成果を勘案しその立場に拠るとしたら、宗学・教学にとどまらず、日蓮信仰・法華信仰・仏教、ひいては宗教そのものも「虚構幻想」であるという捉え方があっても不思議ではありません。
たとえば、歴史上実在した釈尊(またはイエスでも誰でもいいですが)が残した言葉・教えだけが仏教(キリスト教でもなんでもいいです)である、という意見もあります。
これに対して、確実と断定できる言説はない、という意見もあります。
他に、伝承を含めて正統派の主張は認める、正統派の主張の一部は認める、正統派を一切認めない、など様々な意見や立場もあるわけです。
私は「現代人が納得できる日蓮教学」という場合には、とりあえずは、日蓮の言説及び日蓮が依拠したところの法華信仰のカテゴリー内で考察を加えていくということで良いのではないかと考えます。
もちろんそうした議論の中から、「現代人が納得できる日蓮教学など皆無である」という意見が出てくる場合もあるでしょうが、逆の見解がでてくることもありえるわけです。
蛇足になりますが、「お宝鑑定団」は、依頼する側も鑑定する側も、ある種の経済がらみでの行為です。
こちらでの議論は、直截に自身の経済行為に結びつくようなことを目的としているわけではありませんから、「お宝鑑定団」とは全く異なりますね。
932
:
犀角独歩
:2008/06/07(土) 09:11:11
> 「現代人が納得できる日蓮教学」という場合には、とりあえずは、日蓮の言説及び日蓮が依拠したところの法華信仰のカテゴリー内で考察を加えていく
うーん、どうでしょうか。
こちらのテーマの議論は、経典は仏陀が説いたもの、法華経はその最勝で無謬、天台教説は無謬、日蓮の御立法門は無謬といった前提で、「仏意仏勅を受けた唯一絶対に正しい」とされてきた‘日蓮教学’はしかし、経典は仏陀の説いたものではない、法華経は後世の創作、よって、天台教学も、日蓮教学も、その最勝の前提の崩壊したうえに立つものだから、無謬とはいえない、それでも、なにか日蓮教学で現代に通用するものがあるかどうかという議論です。
ですから、「日蓮の言説及び日蓮が依拠したところの法華信仰のカテゴリー内で考察」しようとするものではないと思います。
> 「お宝鑑定団」は、依頼する側も鑑定する側も、ある種の経済がらみでの行為…こちらでの議論は、直截に自身の経済行為に結びつく…わけではありません…全く異なります
たしかに、こちらの議論は経済に結びついていません。しかし、「本門戒壇の大御本尊」という彫刻は、戦後、50年で、創価学会を日本最大の宗教団体に一説に拠れば、5兆円資産を形成させました。そして、公明党を与党にして、日本の政財界を凌駕しています。また、石山ではこの彫刻の開帳料をとっているわけで、この集団の中心的な収入源になっています。この彫刻、「経済がらみ」でないですか。
ただ、わたしを含めて、その彫刻の真偽を問うものは、経済がらみではありませんが、元より、こんなものが本物であるわけがないと考えている人からすれば、学会を含む石山圏の真偽論は、あたかも「お宝鑑定団」のように映じるというわけです。わたしは、そうした外部の視点や、意見に真摯に耳を傾けるといった話です。単に言下に否定するより、何故、外からはそう見えるのかといった議論に発展するほうが意義があると考えます。もはや「お宝鑑定団」と映じてしまった人に「いや、違う」といってもあまり効果がありません。主張の方法を変えるほうが発展的な議論と理解を深めると考えるからです。
ただし、そもそも本尊の真偽を問うことは不敬、謗法だという信仰者から「お宝鑑定団」だと非難される謂われはありません。
もう一点、わたしが一字三礼さんに意見をしたのには二つ理由があります。
一つ。「人が何に価値を見出し、何を探究するかは、他人がとやかくいうことではありません。」といった投稿は議論を打ち切ってしまうからです。
一つ。「極めて偏狭な知識に独断と偏見、プロパガンダを織り込んだ主張を続ける者と、確かな資料を基に、論証を試みる学的な姿勢を崩さない人達とでは、まったく違います」という発言は、そもそも主語がありません。いったい、誰のことを言っているのかを記さなければ、議論にも反論にならないでしょう。他で投稿した宗麟と名乗る人もそうですが、具体的に相手を特定せず、非難だけを記すような投稿の仕方は、わたしのルール違反だと考えます。
殊に一字三礼さんの投稿の直前は‘彰往考来さんとわたし’、彰往考来さんはまた、‘行明師とわたし’の関連で述べたことを記したわけですね。読む人によっては、「極めて偏狭な知識に独断と偏見、プロパガンダを織り込んだ主張を続ける」犀角独歩、「確かな資料を基に、論証を試みる学的な姿勢を崩さない」彰往考来さん、もしくは「極めて偏狭な知識に独断と偏見、プロパガンダを織り込んだ主張を続ける」中村行明師、「確かな資料を基に、論証を試みる学的な姿勢を崩さない」犀角独歩 …後者の比較と思う人は希でしょう… という意味で記した投稿と思う方もいるでしょうね。
名指しで「極めて偏狭な知識に独断と偏見、プロパガンダを織り込んだ主張」と非難すれば、こちらの投稿規定に違反しますが、主語がなければ抵触しません。この手の投稿の仕方にはわたしは異議があります。
934
:
犀角独歩
:2008/06/07(土) 14:48:29
○一字三礼さん
> 自分とは違う視点・考え方を否定するようなことはするべきではありません
ならば、あなたと違うわたしの視点・考え方も否定しないでください。
また、わたしは自分の考え方と違う方を否定しているのではなく、違いがあるから、その点について、ご意見を彰往考来さんに問いかけたのに過ぎません。これは否定ではありませんよ。議論の願い出です。
○管理人さん
一つ。933にわたしの投稿が投稿規約に違反するとのことですが、ジャッジをお願いいたします。
一つ。「極めて偏狭な知識に独断と偏見、プロパガンダを織り込んだ主張を続ける者」はわたしを指すのだそうですが、こうした投稿は、こちらの規約に違反しないのでしょうか。
以上、2点、よろしくお願いいたします。
936
:
犀角独歩
:2008/06/07(土) 16:20:41
管理人さん
該当の記述が特定団体の攻撃に当たりますか?
そうすると、こちらで議論されてきたほとんどは、これに該当することになりませんか。「創価学会の功罪を考える」「顕正会の実態を検証する」といったスレッドほか随所で、わたしが今回なしたような投稿はいくらでも散見できます。攻撃と事実記述はどこで分かれますか。わたしはプロパガンダの意思はなく、単に事実を記述したという認識です。
殊に一字三礼さんが、わたしをして反復投稿であるといった「法華経が創作」という表現について、ご本人自らが『法華経について』で、以下のように記しています。
「独歩さんが思想信条から‘創作’という表現をお使いになるのであれば、それは私の関知するところではありません。」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610752/172
以上のような記述をしながら、反復投稿であると詰ることは前言と矛盾を来しています。。
また、「法華経が創作」という表現は、該当スレッドが立った2002年から、わたしのみならず、複数の投稿者が繰り返し記してきたことです。また、当時から、一字三礼さん本人、この議論に参加していますよ。スレッドの過去の投稿をご確認ください。
以上の前提から、再度確認します。
> 「極めて偏狭な知識に独断と偏見、プロパガンダを織り込んだ主張を続ける者」
「③掲示板参加者に対する、一方的な個人攻撃は慎んでください。」
とあります。
「偏狭な知識」「独断と偏見」「…者」といった表現は、投稿規約に抵触すると思われる投稿をすれば、こうした個人攻撃は許されるのですか。
では、わたしが一字三礼さんに「あなたこそ、法華経を創作でないと極めて偏狭な知識に独断と偏見、プロパガンダを織り込んだ主張を続ける者」と言い返しても、よいことになりますか。もちろん、わたしはそのようなことを言うつもりはありませんが。
「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止」
には当たらないわけでしょうか。
一字三礼さんとわたしの間には一連の議論などありません。一方的な侮蔑を受けたという認識です。一連の議論とは彰往考来さん・偶ロム偶ログさんとわたしの間のことです。この議論を打ち切らなければいけませんか。ならば、その理由も併記願いたく希望します。
再度、回答をお願いいたします。
937
:
管理者
:2008/06/07(土) 17:36:52
犀角独歩さん
諍いを生まない為のルールが、却って争いを助長している様相は、当掲示板の主旨に最も馴染まない事では有りませんか。
これ以上の議論は不毛の対立を生むだけだと管理者は考えます。当然、ご納得戴けないかも知れませんが、しばらく休止するしかないと思いますが・・・
938
:
渡邊
:2008/06/07(土) 18:03:10
はじめまして
私はこちらを2年前くらいから見させていただいている真言宗の古ぼけたお寺の檀家総代です。
犀角独歩さん。はじめまして。
水を差すようなご質問で大変恐縮なのですが、一字三礼さんのご質問にもありましたが
>「『法華経』を含む経典が後世の創作物であると証明した近代科学の成果を出してきた人々もまた命がけでした。」ということですが、そのような視点で大乗経典を研究している人を私は知りませんし、しかも‘命がけ’で研究した人がいるというのは初耳です。
質問します。
まず、この‘命がけ’で研究した学者の名前とその研究成果をお示しください。
と、言う問いに大変驚いているのですが、すべて過去の創作だったとどのような資料を読めばわかるのでしょうか。
何かカルチャーショックを受けてしまいました。
もし面倒であれば「この辺を読め」と教えていただければ幸いです
どうかよろしくお願いいたします
そして、管理人様が困っているように見受けられます
いちロム者からも収束されますよう余計なお世話でしょうがお気遣いは必要に思います。
939
:
マターリ
:2008/06/07(土) 18:35:57
>一字三礼さん、「法華経は後世の創作」ということに関してですが、
一字三礼さんも、「二次創作」とお認めになっていますよね。
私は、法華経全篇を読んでみましたが、やはり最古の仏経典スッタニ
パータと比較して、差が激し過ぎると思いました。また、法華経寿量
品の「久遠実成の仏」という観点は、法華経だけのものということです。
キリスト教の「永遠の神」という概念が、法華経に取り入れられ「久遠
実成の仏」となったという意見もあります。
また、観世音菩薩は、「マリア信仰」に影響されているということもあり
ます。
法華経は、インド北西部のガンダーラで誕生したとされていますが、
このガンダーラは、今現在の地理でいうと、アフガニスタン・パキスタ
ンのあたりです。東西文明の十字路のようなガンダーラにおいて、西方
の宗教、つまりユダヤ教・キリスト教・ゾロアスター教などの強い影響
を受けたと思われます。
大乗仏経典の中でも、特異な経典である法華経は、やはり「創作」という
面が非常に強いと思われます。
法華経の「創作」に関しての議論は、法華経スレッドで、継続していただ
きたいと思います。
>犀角独歩さんの今回の主張は、一方的な特定組織攻撃・・・
私は、大石系教団の組織で悩む多くの人々に対して、犀角独歩さんが、
悩みの根源であるタブーを打ち破り、悩みから救うという強い意思で
発言されているのだと思います。
ただ攻撃しているだけではなく、そのバックに「宗教で苦しむ人々を何
とか救済しよう、」という、慈悲の力を感じます。
940
:
天蓋真鏡
:2008/06/07(土) 19:52:33
誰が遣るかでは無くて 何を遣るか
941
:
顕正居士
:2008/06/07(土) 20:09:45
お宝鑑定について:寺宝信仰は各宗寺院に見られますが、大石寺の場合は教義の中心にまでなっており
きわめて異様です。大石寺信仰圏には礼拝物自体にマナ(呪力)があるかのような理解が見受けられる。
それであれはニセモノだがこれはホンモノである。実は本因妙大本尊であるとか。一見は宗史の議論に
見えても、ホンモノがあるから妙本寺が素晴らしい類いの傾向を独歩さんは指摘しておられるのではと
おもいます。
ところで日蓮諸派の寺宝などいたってローカルなものであり、その鑑定などいかほどの意義があるのか
ですが、個人の趣味に属する事柄は特にそのような社会的意義を求めている訳ではない。かつ思想史を
論ずる上では史料の発見と批判がまず必要であり、これらは古物、古文書のマニアの方でないと持続が
困難です。日蓮学には比較的重要な遺文の真偽問題、口伝書の成立過程など新史料の発見が期待される
分野があります。
独歩さんの批判について:この掲示板では大石寺の戒壇本尊については十分議論されていますし、寺宝
を教義の中心に置くような宗派は皆無であるから、根拠がなく特定教団を批判したものとは思いません。
ただし、だからけしからないという批判は少なくとも効果があまり期待できない。なぜこのこのような
異様な信仰形態が生じたのかという観点からの議論が有益だろうと考えます。
942
:
顕正居士
:2008/06/07(土) 20:48:57
「創作」について:議論しましたようにこの語は個人の作品に使用するのになじむのではないか。
富永謙斎は「加上」という語を使った。つまり仏陀の直説から阿含の経が加上されて出来、また
それらに加上して大乗の経が出来たと。「思想の発展」というような意味でもあります。
独歩さんのおっしゃりたいニュアンスは「フィクション」であろうかとおもいます。ただしその
意味では阿含の経もほとんどフィクションですが。宇宙大のスケールではないだけで。
五時八教について:肝心の四教、八教を知らず五時の中のそれも通の五時のみを知って天台教判
が無意義であるかのように誤解する傾向があります。通の五時の重視は智旭が批判したように
高麗諦観の説と考えられています。今日各種漢訳大蔵経は依然天台教判によって分類しています。
また一切経金口は当時のやむを得ない約束であり、現代人の一部が信じているようなあり方で
漢訳仏教の先哲が信じていたわけではない。経がいつ結集され、いつ文字に記され、どの部派が
伝持し、大乗経がいつ世にあらわれたかを知っておりますから。
943
:
顕正居士
:2008/06/07(土) 20:58:22
上は × 通の五時 ○ 別の五時 です。
通の五時とは特に五部の教に説時はないという意味。
別の五時とは鈍根の声聞の一類に対してのみ順序がある意味。
944
:
犀角独歩
:2008/06/07(土) 23:14:55
○937 管理者さん
まるで応えておられませんね。
争いということですが、わたしがいつ争いましたか。
「彰往考来さんは、その生半可ではない命がけの研究で、では、いったい、何を証しようとしているのですか。それを証して、どうされようと考えてのことですか」という問いのどこが争いでしょうか。「気が向いたら、上述のご質問にお応えいただければ、参考にさせていただく所存」と記しました。これが争いですか。また、これに彰往考来さん自身は応じなかったわけですから議論の休止も何も、もとよりありません。
そこに議論をしていたわけでもない一字三礼さんが割りいって「極めて偏狭な知識に独断と偏見、プロパガンダを織り込んだ主張を続ける者」と断定的な侮辱をすることは一方的なことです。
休止というのであれば、929、933の削除を求めます。
また、一字三礼さんには、撤回と謝罪を求めます。
○938 渡邊さん
はじめまして。ご質問は、管理人さんから「休止」を求められている該当部分ですので、お応えしないこととします。
ただし、この部分のわたしの発言はややフライングがあり、休止を説かれて暁には弁明、乃至、修正を行う所存です。
> 過去の創作だったとどのような資料
まずは『法華経について』をお読みになってみては如何でしょうか。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610752/
○939 マターリさん
有り難うございます。法華経に関するご所感、賛同します。
○941、2 顕正居士さん
補完有り難うございます。
五時に関するご教示、殊に御礼申し上げます。
「創作」ということについては、上にも挙げた『法華経について』で2002年以来、複数の投稿者によって記述されてきたことでした。いわば、その先行議論をわたしは踏襲しました。2002年以来150程の投稿で30回近くも使用されてきました。顕正居士さんも154に「大乗経典が創作」と記されておられますね。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610752/154
ただし、「「創作」について:議論しましたようにこの語は個人の作品に使用するのになじむのではないか」というご見解は参考になりました。
「異様な信仰形態が生じたのかという観点からの議論が有益」というご指摘は、まことにもって仰るとおりであると考えます。
945
:
顕正居士
:2008/06/08(日) 00:02:30
>顕正居士さんも154に「大乗経典が創作」と記されておられますね。
わたしもこの議論があるまで特に意識しておりませんでした。大乗経は釈尊を隔たること数百年、
内容は多くドラマ形式の文芸作品なので「創作」といってもよいかと思っておりました。
ただしこの語は個人でなくてもあるグループがなんらか明確な意図をもって一気に作ったという
印象を与える可能性があることに気がつきました。たとえば「法華教団」の原型のようなものが
先に存在し菩薩派と声聞派の融和を図ろうとして作ったとか。多くの大乗経は長い時間をかけて
増広された、製作者は部派教団に所属する比丘であった、インド仏教の末期にならないと大乗の
学習を中心とする寺院はなかった、分別説三は部派の中の三乗であろうなどから別の表現がよい
と考えるに至りました。
946
:
管理者
:2008/06/08(日) 06:05:08
犀角独歩さん
>まるで応えておられませんね。
>争いということですが、わたしがいつ争いましたか。
>休止というのであれば、929、933の削除を求めます。
受け賜わりました。再開の暁に対処いたします。
休止の、今の段階では、管理者は応答、処置は実施しない事とします。
ご参加の皆様
誠に勝手ながら、当スレッドは本日6月8日午前6時より当分の間、管理者の都合により、閉鎖いたします。
管理者に対するご意見や抗議等は、「管理者からのお願い」スレッドにて引き続き請け賜わります。
947
:
管理者
:2008/07/18(金) 20:16:16
ご参加の皆様
当スレッドの閉鎖を解除いたしました。これ以後の手順に付きましては、「管理者からのお願い」スレッドをご一読下さいますようお願い申し上げます。
948
:
犀角独歩
:2008/07/18(金) 20:51:27
管理者さん
ご采配、有り難うございます。
再開にあたり、いくつか方向性を述べておきたいと思います。
富士門流信徒、就中、大石寺圏において「現代人が納得できる日蓮教学」というのは、わたしは二重の意味を有していると考えます。
まず一重には、「現代人が納得できる大石寺が言う日蓮教学」ということであり、これは殊に日寛が彫刻本尊を一大秘法とすることによって成り立っている教学です。つまり、ここでは、この彫刻の真偽は避けて通れない問題です。つまり、教学を論じる前提の本尊が偽物であれば、その後の教学批正など、まったく不必要です。偽物を肯定するための虚構など、不用だからです。
この場合、では、その彫刻を写したという本尊、また、印刷物を拝むことを、現代人の常識は受け入れるのかという問題が生じます。この問いはしかし、大石寺本尊を拝むすべての人々への問いかけです。「信仰は各人の自由」ですから、鰯の頭でも拝むのは自由です。しかし、本当にそれで、彫刻本尊が偽物であることを知り、さらにこの書写物を拝んできてしまった“私自身”は納得できるのか。これに対する確たる答えを議論をしようというのが、わたしの問いかけの一つです。
二重の意味としては、文字どおり、「現代人が納得できる日蓮教学」ということです。たとえば、「『法華経』が釈尊が説いたものではないと言えるのか」と一般人に問うたところで、返ってくる答えは決まっています。「では、釈尊が説いた証拠を示してください」でしょう。こうした問いに対して、「『法華経』を釈尊が説いてない証拠を示せ」と噛み付き返したところで、「そんな信仰、御免被る」と言われるのが関の山です。
日蓮の教学は広宣流布を標榜したものですから、布教に特命があります。その布教は、「信じないことは悪いことだ」といった独善に基づくのではなく、精緻な思惟と教学の組み立てによってなされたものでした。しかしながら、その土台は「法華経は釈尊最期八箇年の最勝の説」ということでした。この点が瓦解すれば、その上に建つ建物=教学・本尊も瓦解せざるを得ません。
現行の学問的成果は、日蓮教学を土台から揺さぶるものであることは否めません。
この点について、わたしは心ある日蓮門下の人々と積極的な議論を積み重ねてきました。『法華経』が釈尊の真説であるか否かという点には慎重な姿勢は崩さないものの、真実であるから御利益(功徳)があるということではなく、正しい法を捧持していれば、何を為すべきかという世間と衆生に面を向けた前向きな議論と実践が為されています。
かつて顕正居士さんもお書きになっていたことがありましたが、「もし、いま、日蓮が生きていたら」といった仮説に基づく教義の再構築も真剣に語られています。
「現代人が納得できる日蓮教学」というもので、残るとすれば、それは現代人が納得できる捧持者の“人間性”と“社会性”を土台にしたものではないのか、そして、その人間性と社会性を生み出す力が日蓮の精神、ひいては『法華経』の精神から汲み取れるのかどうかといった議論を、ここでなせないものかという底意をもって臨んでいました。
残念ながら、上述二重の意義において、現段階ではまったく成果を得ていません。
以上の点を踏まえて、再開いただいたこちらで、明日以降、議論をさせていただきたいと希望します。
949
:
犀角独歩
:2008/07/19(土) 09:32:07
渡邊さん
再開しましたので、まず、938のご質問の件から。
928に「『法華経』を含む経典が後世の創作物であると証明した近代科学の成果を出してきた人々もまた命がけでした」と、わたしが記した文章は言葉足らずであり、たしかに誤解を招きかねないものでした。
わたしが記したかったことは、後世の創作であるという説を立てたことが命がけであったということではありません。それまで、釈尊50年の説法と信じられてきたものが、実は、数百年、時には千年単位の時間を経て形成されたものであったことを証明するための物的証拠を集めた人々は、命がけであったろうということでした。
たとえば、南条文雄は19世紀に渡英したわけですが、当時の海外旅行は、数々の困難と危険を伴ったことでしょうし、また、その前提となる発掘その他に従事した人々が超えた困難もまた命がけといってよいことであったろうほどの意味でした。
ただし、誤解を招きやすいうえ、特に挙証義務を果たしたものではないので、ここにこの文章を取り下げることといたします。
ご指摘、有り難うございました。
950
:
犀角独歩
:2008/07/19(土) 10:01:26
以前の議論については、941・942に顕正居士さんが整理してくださりましたので、御礼を申し上げると共に、茲に繰り返さないことといたします。
ただし、再開しましたので、以下の点に就き、もう少し具体的にご教示いただければ有り難く存じます。
942に「一切経金口は当時のやむを得ない約束であり、現代人の一部が信じているようなあり方で漢訳仏教の先哲が信じていたわけではない。経がいつ結集され、いつ文字に記され、どの部派が伝持し、大乗経がいつ世にあらわれたかを知っておりますから」
ここでいう「先哲」とは、具体的に誰を指してのことでしょうか。
例えば灌頂述玄七では
T33n1716_p0765c20(01)║如恒河沙阿[門@(人/(人*人))]婆偈。今佛靈山八年説法。
といい、法華経を釈尊が最期8年に説いたものであるといっています。
この点は日蓮はさらに顕著で『一代五時鶏図』に
「華厳三七日・阿含十二年・方等般若三十年・已上四十二年…涅槃経[一日一夜]」(定2337)
などといいます。これは、富士門下の言や考えではなく、日蓮その人の真筆に遺るところです。
こうした説は、天台の学僧であった日蓮は、当然のこととして叡山等での修学を踏襲したものでしょう。ここに記されることは釈尊の説法を50年とし、その説時を分類したものです。元より、「富士門系教学の徒の五時判の誤認」などではありません。日蓮その人の言です。
こうした日蓮の有様もまた、「一切経金口は当時のやむを得ない約束…信じていたわけではない」のでしょうか。また、こうした50年説法の分類は、ただ富士門下のみで信じられていたことでしょうか。そんなはずはありません。日蓮門下全体で信じられてきたことでしょうし、叡山を頂点とする教学で信じられてきたことではないでしょうか。
こうした分類は「歴史の」ではなく、釈尊説法50年という「一代の」ことであり、実際に釈尊がこのように説いていないことは明白なので、わたしは「でたらめ」と記しました。
しかし、実際は「先哲」は知っていたが、やむなく、そう書いたのであれば、それは「誰が」であるかをご教示いただきたいのです。
また、「どの部派が伝持し、大乗経がいつ世にあらわれたかを知って」いたということですが、では、『法華経』はどの部派が伝持し、いつ世に現れたかも明確になっているということでしょうか。ならば、この点も具体的な部派名と、その時期をご教示いただけませんでしょうか。
951
:
犀角独歩
:2008/07/19(土) 16:25:07
問答名人さん
以下、mixi に書いたわたしの日記です。こちらのテーマと関係があるので、転載しました。厚かましいのですが、ご感想を頂戴できませんでしょうか。
*** 以下、mixiのわたしの日記から ***
臍から声と煙が…?
わたしが学生であった頃…ある時、大学の「第三文明研究会」、要は創価学会の部室にいると、青白い顔をした学生が、一人でやって来た。その対応を何故わたしがしたのかは覚えていないが、彼は部屋をノックして、入ってくると、「僕の親方様は…」と話し出した。
「…親方様は、寝たきり老人なのです。植物人間状態で意識もありません」
現行、「植物人間」という言葉は不適切な気はするが30年前の記憶。いまはそのまま記す。
「寝たきりで意識もないのですが、『この世はもうすぐ終わりになる』と仰ります」
「はあ? だって、意識がないんでしょう?」
「ええ、ありません」
「じゃあ、話せないじゃないですか」
わたしは[テレパシーだ]なんだと言い出すのか思った。ところが、せっぱ詰まった顔で、彼は、こう言い出した。
「親方様は、臍で話すんです」
「ヘソ?」
「ええ、臍から声を出して、お告げをされます」
「へえ、そう」と詰まらぬだじゃれの一つも言おうと思ったが、あまりに真剣なので、冗談も言えない。まして、学内でもっとも派手に「折伏」という名の勧誘を行っている創価学会の部室である。「飛んで火に入る夏の虫」という言葉があるが、少し知っている人間であれば、避けて通る場所だ。そこに宗教の話をしに乗り込んできたのだ。呆気にとられた。彼は勝手に話し続けた。
「みんなが信じないと『この世が終わってしまう』と親方様が仰るんですよ」
「だって、ヘソでしょうが」
「臍です。そうですよ、すごいでしょう。臍で話せるんですよ。ね!」
顔は鬼気迫ってきた。
「こうして、親方様のことをみんなに伝えないと世が滅びてしまうんです。信じてくださいよ」
[おいおい、ここはこっちが折伏する場所なんだぞ]という言葉が喉まで出かかったが、もはや、バカバカしくなってきた。どうでもよくなっていたが、訊いてみた。
「世の中が滅びるわけ?」
「そうですよ! 滅んじゃうんです」
泣きそうな顔だった。
「あのぉ、具体的にどんなふうに滅びるわけかな」
第三次世界大戦、核兵器最終戦争が起こるという危機感は、誰しも懐いていた。そんなことを言い出すと思った。ところが…
「親方様の臍から真っ黒な煙が出るんです」
「け、けむり?」
「煙です。煙。臍から煙が出て、その煙が世界を覆ってしまうんです」
「はい?」
「それでですね、その煙が晴れたとき、信じていた人だけが救われるんです。たいへんなことでしょう。ねえ、だから、一緒に信じましょうよ。ね」
望まぬ訪問者は蹴り出すとか、塩をまくとかいうが、もはや、脱力感で、怒りも、笑いも出なかった。慇懃に挨拶をし、お引き取り願ったものだった。「臍から煙が出て、世の中が滅んじゃうんですよ」と、部屋を出るとき、また、彼は繰り返した。
この宗教が何であったのか、いまだにわからない。当時、「創価学会は最高の宗教で、科学と矛盾しない唯一の宗教」と信じ込んでいた自分にとって、「何とも可哀想な非科学的な奴」と同情の念を抱いたものだった。
しかし、創価学会も、「日蓮正宗」も、やめて15年以上も過ぎた今の自分からすると、このいわば「おヘソ教」と自分の信仰が、どれほど、違ったものかと問われれば、「さした差はない」と応えざるを得ない。
『富士門流信徒の掲示板』でも引用したが、『マインド・コントロールの恐怖」のなかでハッサン師は
「このカルトの会員は、和紙の巻物 ― 御本尊 ― の前で不思議な言葉をくりかえし唱えれば、自分たちの欲しいものを何でも獲得する力が身につくのだと信じている」とNSA、つまり、いまのSGIのことを書いていた。
これがさらに大石寺になると、所謂「本門戒壇の大御本尊」は「生身の日蓮大聖人」であるといい、トーンダウンした創価学会を含めて、昔から、他の宗教を「邪宗」と詰り、「邪宗撲滅」を叫んできた。
木に題目や諸尊の名を刻んだ彫刻を「偽物である」というと「罰が当たる」とか、「地獄に堕ちる」にはじまり、ついには「先生に逆らうと、罰が当たる」という。この信仰圏で信じられることが、先の「おへそ教」と、では、どれほど、違うのだろうか。こう記すと「揶揄・嘲笑」と受け取られるのだろうか。わたしは、自分の過去を振り返って、揶揄でも、嘲笑でもなく、自分が信じていたものが、世間一般からすれば、どう見えるのかを本気で考えてみたいだけなのだ。
952
:
問答迷人
:2008/07/19(土) 17:46:24
犀角独歩さん
感想と言う事なので、ぼやっとしたお話になりますが書いて見ます。
>『マインド・コントロールの恐怖」のなかでハッサン師は「このカルトの会員は、和紙の巻物 ― 御本尊 ― の前で不思議な言葉をくりかえし唱えれば、自分たちの欲しいものを何でも獲得する力が身につくのだと信じている」とNSA、つまり、いまのSGIのことを書いていた。
このハッサン氏の表現は、実に正確に日蓮曼陀羅信仰の本質を捉えていると思います。
板本尊や池田本仏はまだ底が浅く判りやすいですが、この日蓮曼陀羅信仰は実に奥が深いと思います。ちなみに、僕はこの日蓮曼陀羅信仰を今日も続けています。
信仰というものはみんな、鰯の頭にしろ、臍の煙にしろ、荒唐無稽な要素が色濃く覆っていますね。人間が何か神秘的な物を信じなくては居られないから、このような荒唐無稽な信仰が生まれてくるのだろうと思っています。信仰はいつの時代もなくならないのではないかと。
問題は、この日蓮曼陀羅信仰を現代人が納得できるか、という事ですが、現代人の端くれである僕という人間が、この信仰を受容しているのは事実ですから、何らかの形で現代人を納得させる可能性を持っているのは動かせないのではないかと思っています。
ちなみに、僕が日蓮曼陀羅信仰を受容しているのは、日蓮という歴史上の人物の体験に対する憧れの要素が有ることは否定できません。
953
:
天蓋真鏡
:2008/07/19(土) 18:07:14
犀角独歩さん、問答迷人さん、其れは信じて仰ぐ信仰ですか? 自分の人生に活かす学びて問う学問では無いでしょうか? 人其れぞれ漫荼羅に対する接し方の質量は違うのでは無いかと断じます
954
:
問答迷人
:2008/07/19(土) 18:22:40
天蓋真鏡さん
僕が日蓮曼陀羅信仰と呼ぶのは、ハッサン氏の表現の如くです。僕はそのように今日も曼陀羅を拝し「嗚呼有り難い」と深く信じて南無妙法蓮華経とお題目を唱えています。「自分の人生に活かす学びて問う学問」という物ではなく、文字通りの信仰です。
955
:
犀角独歩
:2008/07/19(土) 18:54:13
問答名人さん
ご返信有り難うございます。
ハッサン氏が、否定的にとらえた日蓮曼陀羅信仰を、むしろ、肯定的にとらえ、継続しているというお考えであると拝して宜しいでしょうか。
わたし自身、中学1年から、石山の勤行をはじめ、いまも、気が向けば、日蓮宗寺院の朝勤に参詣したりします。最近の気分としては、発声と禅定による健康法のような気分ですが、しかし、唱えのなかでは、今は亡き父母を思います。
数年前、京都本願寺の朝のお勤めに出る機会があったのですが、日蓮門下とはまた違った魅力がありました。いまは、他宗の話は、取り敢えず、置くとして、もう少しお聞かせ願えますか。
> 日蓮曼陀羅信仰は実に奥が深い
わたしはかなり否定的な意見も多く書いてきました。しかし、実際のところ、いくら否定しても否定しきれない人間の情念といったものは比定できません。
“現代人である”問答さんをして納得させる、奥深さを、信仰的経験の側面から、少しばかりご教示いただけませんでしょうか。
天蓋真鏡さん
> 自分の人生に活かす学びて問う学問
問答さんとまた違ったお考えですね。わたしは、信仰とも学問とも思わず、仏道は実践道といった考えです。
956
:
問答迷人
:2008/07/19(土) 19:52:03
犀角独歩さん
>ハッサン氏が、否定的にとらえた日蓮曼陀羅信仰を、むしろ、肯定的にとらえ、継続している
その通りです。
>“現代人である”問答さんをして納得させる、奥深さを、信仰的経験の側面から、
何よりも僕が曼陀羅信仰に拘るのは、日蓮聖人が信仰の対象として残した物が、釈尊の木像と紙幅曼陀羅だからです。そして、それらの内、門下の在家には曼陀羅しか残されていません。
曼陀羅とは、日蓮聖人に取って何だったのか、「有供養者福過十号」という賛文が複数の曼陀羅に認められている事から、信仰の対象として信徒に授与されたという意味合いは有ると思います。
日蓮聖人に取って、自ら筆を執って認め、信徒に授与した曼陀羅とは、一体、何だったのか。
僕には、日蓮聖人が自身の信仰体験を伝えるための道具立てでは無かったかと思えてなりません。
この事から、僕は、曼陀羅信仰によって日蓮聖人の信仰体験を追体験したい、という思いに駆られます。
日蓮曼陀羅は日蓮聖人の信仰体験世界が現されたものに違いない、思うからです。
お答えになっていますかどうか、不安ですが、取りあえず書いて見ました。
957
:
天蓋真鏡
:2008/07/19(土) 19:57:41
問答迷人さん、返レスありがとうございます。 では更にお聞きしたいのですが、信仰が具現化した唱題とはどれだけの人生の質量を伴う事なのでしょうか? 自分は唱題と云うか本尊と云うか、 法の字を見て唱えなさい→雑念が消えるまで唱えなさい→一念三千因果倶時などを経て、最終的には「泥中でもキレイに花を咲かす」に思想哲学と言うか道徳信条と言うか此の考えに仏教は尽きるのでは無いかと想いを巡らしています。
958
:
天蓋真鏡
:2008/07/19(土) 20:10:10
犀角独歩さん、返レスありがとうございます。 自分の云う学びて問う学問は実践と不可分で、 問うには実際に行ってしか考えを纏め学びを進める事ができないでしょう。修行の質量にもよります。
959
:
顕正居士
:2008/07/19(土) 21:00:17
>>950
曾谷入道殿許御書(文永12年、真蹟中山法華経寺)には以下のように述べます。
「正法一千年の前の五百年には迦葉・阿難・商那和修・末田地・脇比丘等、一向に小乗之薬を以て
衆生の軽病を対治す。四阿含経・十誦・八十誦等の諸律と、相続解脱経等の三蔵とを弘通し、
後には律宗・倶舎宗・成実宗と号する、是れ也。後の五百年には馬鳴菩薩・龍樹菩薩・提婆菩薩・
無著菩薩・天親菩薩等の諸の大論師、初めには諸の小聖の弘めし所の小乗経之を通達し、後には
一々に彼の義を破失し、了りて諸の大乗経を弘通す。是れ又中薬を以て衆生の中病を対治す。
所謂、華厳経・般若経・大日経・深密経等。三論宗・法相宗・真言陀羅尼・禅法等也」
大乗は仏滅500年以後に現れたのであり、馬鳴・龍樹などが開祖であるというわけです。
上は漢訳仏教の共通の理解といえます。先哲とは漢訳経典を研究し、仏教史の大略を把握するに
至った中国仏教の多数の先駆者です。経・律・論の三蔵は各部派がそれぞれ別のものを伝持し、
漢訳には数部派のものが混在します。経・律・論を完備するから三蔵といい、その経を阿含(アーガマ、
伝承聖典)といいます。大乗には経・論しかありませんから、つまり教団としてはインドに存在せず、
またその経なるものは仏教教団が結集したものではなく、伝承聖典ではありません。
では大乗の徒は大乗経の由来をどう弁明したかというと、これは報身仏の説であり、仏弟子(声聞)
には感見できなかったが、法身の大士(架空の菩薩)はアカニダ天などで説法を聴き、竜宮などに
隠しておいた。それを龍樹などが発見したというのがインド以来のおおよその説です。仏滅1000年
以後の密教経典はさらにこれは法身仏の説法とし、やはり隠しておいたのを錬金術で不死となった
龍樹が南天鉄塔から見出したとする。要するに大乗や密教の経典は史実の仏教教団とは無関係
とわかっていたのです。
960
:
顕正居士
:2008/07/19(土) 22:03:14
インドには紙もパピルスもなく貝葉などに記録したのですが、気候のせいで数百年経つと
読めなくなってしまいます。数世紀昔はすべて神代、いわゆる歴史のないインドなのです。
したがって数世紀以前の事柄はすべて荒唐無稽な神話の中に覆われれてしまうのです。
対して早くに紙が発明された中国は歴史の世界です。それで仏家はあいまいな仏教の
歴史や釈尊の一生についても中国風の記述をしなければならなっかた。かつ釈迦は老子
がインドに行って仏教を説いたのだという道家の説に対抗する必要があった。周書異記と
いう偽書によって釈尊の年代を数百年繰り上げたのはそのせいです。大乗の経は応身仏、
つまり歴史上の釈尊の説ではありませんが、釈尊なる語に報身仏の意義を含有するとし、
単に釈尊と記して仏伝を記す。そして報身仏の説法に応身仏の50年を配当し、儒家が仏家
・道家の荒唐無稽の説を批判するのに対抗し、あたかも大乗経を歴史上の釈尊が説いたか
のように誤解させようとしたのが諦観四教儀でありましょうか(参照 法華経について 180)。
日蓮はしかもその諦観四教儀の別の五時正意だけを取り出して主張し、四教八教の考察
は皆無に近い。諦観原理主義者とでもいいましょうか。ここで儒家の原理主義(正名思想、
名分主義)+仏教の荒唐無稽な神話という合成が日本で出来上がってしまったのですね。
961
:
問答迷人
:2008/07/20(日) 06:36:52
天蓋真鏡さん
>信仰が具現化した唱題とはどれだけの人生の質量を伴う事なのでしょうか?
日蓮聖人が観心本尊抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、四大声聞の領解に云く「無上宝聚不求自得」云云、」と述べられていますが、その文字通りに考えています。
要は、人生で味わい、得る事の出来るあらゆる幸が、曼陀羅を信じて南無妙法蓮華経と唱える事で得られる、と。これが「無上宝聚不求自得」「功徳聚」たる所以であると。
962
:
犀角独歩
:2008/07/20(日) 07:18:44
問答名人さん
私事恐縮ですが、故母は、長いときは1日4時間も唱題をしていた人でした。
わたし自身、中学1年から朝晩の勤行1日1時間の唱題は欠かしませんでした。正本堂建立は高校時代で、学生時代は、創価学会は「広布第2章」の時期、換言すれば昭和52年度路線のまっただ中でした。当時の創価学会教学は、所謂会長本仏論で「池田先生は日蓮大聖人の生まれ変わり」といったことがまことしやかに囁かれた空気の中で青春時代を過ごしました。
生まれながらの「日蓮正宗創価学会」で、入信から数えれば50年を超え、勤行をはじめてからでも40年を超えています。新参の人々とは格段の時間経過です。人生の大半は、この信仰圏で生きてきましたから、ここで語られることがすべてであり、すべての中心、真実であると思っていたわけです。親戚一の貧乏家、姉は障害者で、ひどい差別と迫害の中を生きていました。その中で、頼りになったのは「日蓮正宗創価学会」だけで、自分を支え、勇気と希望、「生命力」を与えてくれたのは勤行唱題と、組織・活動でした。所謂「信仰体験」の体験発表を言われれば、一晩掛けても語り尽くせないほどあります。
しかし、それでも、わたしは、このスレッドで問うてきたのです。
所謂「本門戒壇の大御本尊」が日禅授与本尊が原本としたものであることにいち早く気が付かれたのは問答さんでした。生まれながらの「日蓮正宗創価学会」であったわたしにとって、この本尊が本物であるとか・偽物であるとかを論じることが事態が謗法であると骨の髄まで思わされてきていました。本尊の写真撮影の厳禁、まして、図形として扱うなどもってほかという操作にまんまとはまっていたわけです。たぶん、こうしたタブーを超える勇気を与えてくれたのは、2000年来の問答さんとの議論であったと思います。そして、わたしはおそるおそる「戒壇本尊」と日禅授与を図形処理し重ねてみました。この中央首題がほぼ重なったときの衝撃は親の死に匹敵するものでした。いや、それ以上であったかも知れません。
ご承知のとおり、わたしの社会活動は既に15年を経過しようとしています。脱会後、わたしが知り合ってきた多くの知識人、そして、脱会とその後を支援してきた人々は、それまで「日蓮正宗創価学会」で占めていた知人の質と根本的に異なっています。40才は、わたしの人生の転機でした。この第二の人生で知り合ってきた多くの人々に接するときに、殊日蓮、殊仏法というときに、いったい、何が語れるのか、いや、何を勧められるのかということが、大きなテーマとなりました。メディアの取材を受けたとき、わたしが脱会後の感想として語ったのは「人間は宗教無しでも生きていける」ということが生まれながらメンバーであったわたしにとって驚きの発見であったということでした。しかし、医学を含む、科学は人間をプラスマイナスゼロの状態にするものの、湯川秀樹博士の名言を待つまでもなく、科学は善でも悪でもありません。これを使う人間によって善にも悪にもなるわけです。つまり、人間の善への進歩は科学に拠ってではなく、宗教、または哲学といった人間の善意を考え発展させる叡智によって培われるものである。つまり、人間はたしかに宗教無しで生きていけるけれど、より自己を高め、そして、進歩させるために宗教はたしかに大きな役割を担っていることに、また、わたしは戻っていったわけです。もちろん、ここでいう宗教は、小田晋師が指摘された宗教団体信仰ではありません。渡部照宏師が日本人の善意を育ててきたのは仏教であったと書きましたが、それはまったくの事実でしょう。アジアで非暴力と慈悲の実践をする人生を与えてきたのも仏教であったでしょう。となれば、仏教は人々の善意を育て、そして、精進させる力を有しているわけです。さすれば、仏教者は自信を持って仏教を人に勧め、人をして精進せしめ、善をもって社会を変えていくことも勧めればよいことになります。たぶん、わたしがまずアンチテーゼとして、掲げてきた天台・日蓮の過誤、経典の創作を論じる殊への反発は、そうした仏教の善い面を無視、冒涜する発言と映じてきたからであったろうと、観察しています。
963
:
犀角独歩
:2008/07/20(日) 07:19:17
―962からつづく―
しかし、わたしがこうしたアンチテーゼを論ってきたのには理由があります。
たとえば日本の戦前では、日本を聖天主誕生の聖地と見なし、アジアのみならず、世界の中心聖地として、国立戒壇を建立するために世界最終戦争を辞さないといった錯綜が「日蓮」「仏教」をその当人は善意と思いながら、しかし、他者(アジア・世界)からすれば、悪意と映じる道具となったからでした。また、戦後の創価学会は軍隊の役職名を模して組織を構成し、「邪宗撲滅」「折伏大闘争」「東洋広布」「国立戒壇」建立をいい戦後数十年で日本最大の宗教団体となり、いまや政権与党の支援団体となっています。ここで日々、活動、勤行唱題に明け暮れる人々は「日蓮」「仏教」を当人は善意と思いながら半ば強引勧める人々でした。しかし、他者にとって、これほど、悪意に映じるものはなかったわけです。
わたしは脱会後、自己点検・自己観察をする方途として、他者の視線に立ってみる、それも徹底的に立ってみることに努めました。それは主客両視点に立って、次を考えるために不可欠な作業でした。また、新たに知り合っていった人々会話を交わすために、抗したことは不可欠でもありました。
そして、徹底して「他者」に立って、かつての「自己」、すなわち、仏教、取り分け、法華経の、それも日蓮の、特に、富士門下の人々と対峙してみたわけです。
わたしがやはりと思ったのは、本来、善を目指し、慈悲を標榜する信仰であるのに、ひとたび、自分の信仰に反対することを突きつけられると、悪口雑言、人格攻撃に転ずる人々の存在でした。上述した個人が善意が、なぜ、他者にとって悪意と映じるのか、他者になってみたとき、はっきりと身を以て体験できたわけです。この典型はご承知のとおり、顕正会と浅井さんであり、そして「日蓮正宗」でした。また、こちらの掲示板に投稿され、議論から悪口雑言・人格攻撃を露わにした人々でした。そうでなければ、信仰の意図と違えば、その場を去るかどちらかでした。こうした有様は、他者にとって、その人とその教えが悪であるという印象以外は与えません。たぶん、そんなことは少し考えれば、信仰者とてわかることなのです。しかし、感情の爆発を、なぜ、抑えられないのか。他者は、悪い要素を教え事態が有しているからだと思い、教えとそれを信じる人々から遠ざかります。
こうした過敏反応が、日蓮、法華、殊にここ富士門下の“実態”です。しかし、問答さんは、今に至る8年間、いつも変わらず、徹底して、この他者に接してこられた。わたしが深い尊敬の念を抱くのは、そのためです。また、そう接してくださるが故に、このスレッドでの議論は成り立っています。
以上の次第ですから、わたしは、いましばらく「他者」の視点でいくつか問いかけさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか。
964
:
犀角独歩
:2008/07/20(日) 07:20:45
顕正居士さん
詳細なご教示、有り難うございます。
ご引用の筋は、日蓮の教説で言えば、教機時国序の‘序’、教法流布の先後、いわば歴史観ですね。わたしが先に挙げたのは書名が示すとおり一代記でした。日蓮は、この点を分けて立てていますが、こうして上げていただき、気づくことは、一代記は序(教法流布先後:歴史観)に置換されていること、そうなると近代仏教学と、ある程度の親和性を有していることがわかりました。
ここのところの議論では、『法華経』は部派の、それも比丘が記したものであるというのが近代の法華経学の説明であるということでした。しかしながら、
> 仏教教団が結集したものではなく、伝承聖典ではありません。
と記されてお出でです。となると、いったい、どこで、誰が、という点は、やはり、未だ解明されていないと判断してよろしいのでしょうか。
965
:
問答迷人
:2008/07/20(日) 08:21:37
犀角独歩さん
>たぶん、わたしがまずアンチテーゼとして、掲げてきた天台・日蓮の過誤、経典の創作を論じる殊への反発は、そうした仏教の善い面を無視、冒涜する発言と映じてきたからであったろうと、観察しています。
なるほど。そのような心理が働いて、激しく独歩さんに噛み付いた人々を多数出入り禁止にしてきたのは、他ならぬ管理者でした。これは、独歩さんを擁護しようとしたから、と思われがちですが、本当は、富士門信仰を俎上に乗せ、議論する場所を確保しなくてはならない、という使命感がそうさせたのだろうと思います。
顕正居士さんのお説によれば、富士門信仰を議論できる場所は、どうやらもう、ここしかないようなので、なおさら議論の場所を確保し続ける事の重要性を感じます。
そして、当掲示板の立ち上げを勧め、「書き込みルールを決めなくてはならない」と教えて下さった、チョンガーさんにこの場を借りて、再度感謝の意を表したいと存じます。
966
:
問答迷人
:2008/07/20(日) 08:22:55
>以上の次第ですから、わたしは、いましばらく「他者」の視点でいくつか問いかけさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。
967
:
顕正居士
:2008/07/20(日) 21:16:16
>>964
犀角独歩さん。
大乗の律というものがないのですから、大乗の教団はインドに存在しなかったと
考えられます。しかし大乗経は仏教の学僧によってしか作り得ない内容ですから、
教団の比丘たちが報身仏にことよせて作成したのでしょう。
だいたいインドには作者不詳の膨大な文献がいろいろあります。第五のヴェーダと
称されるプラーナ文献とか。日蓮は龍樹以前にアシュヴァゴーシャ (馬鳴)が大乗の
事実上の開祖であると考えたようですが、この大サンスクリット詩人は仏教教団
(一説によると説一切有部)の比丘でした。龍樹も世親も有部の比丘でありました。
経量中観派と呼ばれるバーヴァヴィヴェー カ(清弁)や大論理学者ディグナーガ(陳那)
などはおそらく経量部(サウトラーンティカ)に所属する比丘であったのでしょう。
968
:
犀角独歩
:2008/07/21(月) 10:41:49
☆問答名人さん
有り難うございます。では、続けさせていただきます。
> 曼陀羅信仰によって日蓮聖人の信仰体験を追体験したい
先というのはなかなか見えないことはわかっていますが、それでも、敢えてお尋ねします。この信仰の追体験には、どのようなことが期待できますか。
☆顕正居士さん
重ねてのご教示有り難うございます。
厚かましいのですが、もう一つ、お願いいたします。
保坂俊司著『仏教とヨーガ』のなかに以下のような件があります。
「『リグ・ベーダ』の成立は古く、現在のかたちに編纂されたのは、紀元前1000〜800年ごろとされ、以来、暗誦によって今日までほとんどかわらず伝えられている」(P64)
まったく変化しないべーだの伝承に対して、目まぐるしく仏教経典は、変化していったのは何故なのでしょうか。
969
:
顕正居士
:2008/07/21(月) 18:00:03
神話・伝承・正史の類は原型から正典として完成するまで相当な時間がかかるものです。
この間に中間テキストが幾つも介在することがあります。完成してしまえばその後は改変
されません。歴史時代でも新約聖書の成立は紀元後150-225年です(四福音書の著者は
いずれも標題の使徒ではありません)。現代でも『明治天皇紀』は明治100年に刊行開始
されています。歴史の体験は記憶が安定するまで時間がかかります。仏教の聖典も釈尊
の記憶の部分は特に長い時間がかかってはいないと思いますが。仏教の場合、正典には
後世の学僧の論を含みます。パーリ三蔵の確定は後代ですし、大正大蔵経に至っては
大正時代ではありますが。リグ・ベーダはもうその頃に正典として確定してしまったのです。
970
:
犀角独歩
:2008/07/21(月) 20:24:59
顕正居士さん
重ね重ねのご教示有り難うございました。
大変に参考になりました。
971
:
問答迷人
:2008/07/22(火) 07:50:11
犀角独歩さん
>この信仰の追体験には、どのようなことが期待できますか
日蓮聖人の卓越している点はいくつも有ると思いますが、僕はやはり、その気宇の広大さに圧倒されます。北条氏を「わずかの小島の主」などと平然として言ってのける様は、常人とも思えません。追体験することによって、そのような雄大な世界観を自分の物に出来るのではないか、そんな事を期待していますね。
972
:
犀角独歩
:2008/07/22(火) 09:56:38
問答名人さん
「現代人が納得できる」という前提から考えるとき、仰るようなメンタル部分は、やはり、表に立つことになるだろうと思います。日蓮の視線が日本を閻浮のなかの小島に過ぎないとする視点は壮大です。(余談ながら、こうした点からすれば「日本国の諸人にしふし父母」という限定、国立戒壇は齟齬を来します)
創価学会が受容すれば、東洋広布、世界広布(顕正会もこれを模倣して、創価学会の『東洋広布の歌』を歌ったりしています)、戦前の日蓮主義者であれば、聖天主を立てた世界支配と国立戒壇による立正安国の実現といった形で大戦の肯定原理ともなりました。元となる日蓮は、法華誹謗の悪王の国となった日本は、隣国の賢王に治罰されて然るべきであるとしました。
創価学会は昭和末期には1650万人会員を豪語していました。実数はわかりませんが、現勢力は集票力で800万、要活動誌購買会員から類推して250万ほどといわれるます。顕正会や、法華講の人数は少なく問題となりませんが、それら総数が日本の民意のどれほどを占めるか、さらに日蓮門下全般と見なしたとき、どれほどのものであるのか、わたしはそうした確たる統計は知りません。しかしながら、現代の日本人にとって、「日蓮」は、とりわけ、その教えは、どこまで通用するのかを概算することは、あながち意味のないことではありません。つまり、現代の日本人がどれほど納得しているかの指標となるからです。この統計調査は学者に期待します。いまは置きます。
問答さんは「和紙の巻物 ― 御本尊 ― の前で不思議な言葉をくりかえし唱えれば、自分たちの欲しいものを何でも獲得する力が身につく」信仰の実践者であるとのことですが、わたしは、こうした信仰圏は卒業しました。(もちろん問答さんを否定しているわけではありません)
卒業した立場からすると、こうした信仰形態は、実に奇妙に映じます。渡辺照宏師が、具体名を挙げないまでも、こうした信仰様式を「薬そのものには目もくれず、効能書きを書いた紙を一所懸命に拝んでいるようなもの」といったようなことを書いていました。
不信者の感想とは別に信仰はあるとするのは簡単なのですが、こちらのテーマである「納得」という点は、やってみてはじめて納得があるというほか、説得があってはじめて納得があるという点に布教の意義が見いだせます。
取り分け、日蓮の教えは、大乗を標榜し、広宣流布を目指したものですから「弘教」というテーマと納得は切り離せません。
前置きは長くなりますが、まったく仏教を知らない人で、先に挙げたハッサン師の説明のような感覚でとらえている人に、では、どういった説明であれば、納得させることができると思われますか。
取り敢えず、ハードルを設けて、よくいわれる「やってみなければわからない」はNGとし、ロールプレイングのごとく、回答モデルを示してみていただけませんか。
973
:
問答迷人
:2008/07/22(火) 13:03:06
犀角独歩さん
「和紙の巻物の前で不思議な言葉をくりかえし唱えれば、自分たちの欲しいものを何でも獲得する力が身につく」という日蓮曼陀羅信仰を、他者に勧める勇気は、今の所、持ち合わせていません。先ずは自分がやって見ている段階です。そしてもし,日蓮聖人が指し示した世界を追体験できた時には、何かしら他者に向かって語ることはあるのではないかとは思います。
そして、その時には、日蓮聖人がもし現代に生きていたら、この日蓮曼陀羅信仰をどのように評価するだろうか、という事を、きっと常に念頭に浮かべて語るのだろうと思います。
回答になっていませんが、この点については、この程度でご容赦賜りたく存じます。
974
:
マターリ
:2008/07/22(火) 19:12:02
「祈って叶わざるなし」と教えられて、何十年と題目をあげてきました
が、祈りの叶わない事の方が多いですね。冥益という目に見えない功
徳もあるようなので、一概には言えません。しかし、人生の分かれ道
のようなところで、そのたび祈りが叶わず、平均的な人より、劣った
環境にいるのが残念です。
最近は題目をあげる気力が、だんだん無くなってきました。
「あのとき、祈りが叶っていたら」と思うことが多いです。
975
:
犀角独歩
:2008/07/23(水) 19:07:52
問答名人さん
有り難うございます。
曼陀羅信仰については、では、いったんこれまでとします。
少し話題を変えてまいりたいと思います。
富士門下、とりわけ、大石寺圏の‘人口’は、近代の創価学会員の増加と相俟って、在家信徒会員の数が凌駕しています。この点は、別段、否定されることではありませんが、しかし、こうした構成比率は、数の多いほうが少数派(僧侶)を軽視することを意味しないのが仏教でした。
しかしながら、大石寺僧侶の腐敗(この表現は投稿規約に違反するのであれば、ご指摘ください)は、在家信徒会員をして、この職業従事者をして幻滅し、僧侶抜きで仏教を考える所謂在家主義が、むしろ主流となっていきました。
しかし、日蓮の真蹟、もしくは写本を追うとき、日蓮の教えは徹底して僧侶中心なのであって、その点をスポイルして考えれば、僧侶である日蓮も、また、この界隈で崇敬の高い日興も、日目も要らなくなります。
「聖僧の恩をば凡僧に報ずべし。とくとく利生をさづけ給へと強盛に申ならば、いかでか祈のかなはざるべき」(祈祷鈔)
「僧の恩をいはゞ仏宝法宝は必僧によて住す。譬ば薪なければ火無く、大地無れば草木生ずべからず。仏法有といへども僧有て習伝へずんば、正法像法二千年過て末法へも伝はるべからず」(四恩鈔)
実際のところ、曼陀羅信仰における法具、曼陀羅は、それが印刷であれ、手書きであれ、寺院僧侶から受け取ったものであり、勤行の様式もまた僧侶の伝えを踏襲したものです。寺院僧侶から離れて勤行唱題修行をすることは、いわば、猿を離れて肝を求めるようなものと映じる側面もあります。
しかし、この界隈で僧侶を離れることでしか、信仰を守れないというジレンマがあることも事実です。
こうした点に就き、問答さんのお考えをお訊きしたいのです。
976
:
問答迷人
:2008/07/23(水) 20:11:23
犀角独歩さん
>仏宝法宝は必僧によて住す。
これは仏教伝来の歴史上の事実ですね。日蓮門下に有っても、六老の選定が歴史上の事実であり、しかも僕の、日蓮聖人との出会いが、日興門下の大石寺の信徒となることによって始まった事実は否定できるものではありません。
僧侶不要論を唱えた段階で仏教に似て非なる物と化していると僕は考えています。日蓮大聖人に直結、等と言う教えは、日蓮聖人の真跡遺文には少なくとも見出す事は出来ないと思います。
ただ、僕は、日蓮正宗の末寺に名簿は残っているものの、行方不明者と同じ扱いを受けており、連絡を自ら断った事は一度も有りませんが、一切連絡は来なくなっています。勿論、参詣する意思もありませんので、その方が気楽なのは事実です。まぁ幽霊信徒、と言ったところです。
暫くは、色々な雑音が聞こえてこないこの状態が自分に取って一番好ましいのではないかと思っています。今後については今は白紙です。岐阜市には身延派の末寺も有りますので、そちらに所属換えしてそちらに参詣するかもしれませんし、今まで通りの、幽霊信徒を続けるかもしれません。
まぁ、日蓮正宗が余程変わらない限り、日蓮正宗信徒として信仰する事は二度とないのではなかろうかと思っています。創価学会員さんからも、戻ってこないか、との誘いが有りますが、「残念ながら戻る勇気は持ち合わせていません」と言って丁重にお断りしています。
こんな所でお答えに少しはなっているでしょうか。拙い回答で申し訳有りません。
977
:
犀角独歩
:2008/07/24(木) 08:24:44
974 マターリさん
日蓮が在家に教えた唱題は、祈りだったんでしょうかね。
祈りとはもっぱら僧侶がなすことだったように思えます。
それがいつの間にか、在家も祈りはじめる。やがて、僧侶の職分を在家がはじめる。こうして醸造されていったのが、日蓮門下の在家主義につながっていったのだと思います。
石山の全部の坊さんが、ということではないと思いますが、わたしがまだ法華講だった頃、とある坊さん(と書けば誰のことかはすぐわかるかもしれませんが、、取り敢えず、名は伏せます)に「唱題の時には、どう祈ったらいいのでしょうか」と尋ねたことがあります。すると「祈る? 唱題をしながら、どうやって、祈るんだ?」と、とても、不思議そうな顔をされました。ですから、「題目を唱えているときに色々考えるのですが、ちゃんと祈らなければいけないと思うんですが」と再度訊いたわけです。すると「唱題しながら、何かを考える? どうやってだ」と反対に訊かれました。要は、唱題とは無心で行うものであって、唱題しながら、ものを考えたり、祈ったりできないだろうというのが、その趣旨でした。創価学会でいう唱題とはずいぶんと違うものだと驚いたものでした。
978
:
犀角独歩
:2008/07/24(木) 08:46:25
問答名人さん
> 僧侶不要論を唱えた段階で仏教に似て非なる物
そうなんですね。わたしもそう思います。だから、僧侶が必要かと問われるとき、少なくとも日蓮はそう考えていたというのが答えであることもわかります。
しかし、もはやちゃんとした僧侶なんかいいないじゃないか、だから自分たち(在家)でやっていく、というのが、創価学会であり、顕正会であるということになりますか。
先のマターリさんへのレスも関連しますが、「御祈祷」は本来、坊さんに委ねてきたことですし、日蓮もそう考えていたでしょう。坊さんは祈り・武士は戦い・国家安寧・万民快楽といった順番です。
こちらのスレッドテーマの「現代人」を、わたしは勝手に日蓮信仰者以外と想定していました。しかし、問答さんから、ご自身もまた「現代人」であると言われ、「なるほど」と思ったのです。そうなると、さらに創価学会も、顕正会も、現代人に違いないわけですね。
マターリさんのご投稿は、なかなか核心を突いていると思います。
極端な言い方ですが、本尊がどうか、教義がどうかといった、しち面倒くさい話、また、御祈祷は坊さんにといったしきたりよりなにより、ともかく、「祈って叶うこと」が何より大事というのが、民間信仰の至極であると思えます。
現代人が納得するという点を、どちらかというと、教理・本尊面で論じてきたように思えますが、在家集団が大好きな「実証」、一般的に言う「効験あらたか」が、では、現代のニーズに合っているかどうかは、どうもよくわかりません。
できれば、「現代人」を、信仰を持っていない一般大衆として、それら人々を納得させる日蓮の教えを考えたいと思っています。
ここ2日間、やや忙しくしていますので、また、改めて、ご賢察を賜りたいと存じます。有り難うございました。
979
:
富士川一郎
:2008/07/24(木) 11:54:36
>>「唱題しながら、何かを考える? どうやってだ」と反対に訊かれました。要は、唱題とは無心で行うものであって、唱題しながら、ものを考えたり、祈ったりできないだろうというのが、その趣旨でした。
どなたの言なのかは分かりました(笑)。
そこで素朴な質問ですが、創価学会が「唱題しながら祈る」と言うのを具体的にどのように指導していたのでしょうか。
創価学会の指導に興味があります。現役、元創価学会員の方でお教えいただけたら幸いです。
ちなみに顕正会ではそもそも唱題に重きを置いていないのが現状です。
「唱題に時間をかけるなら位なら折伏(勧誘)せよ。唱題は朝晩の勤行の5分ずつだけで良い」と言う教えでしたし・・・。
さすが拡張主義ですが・・・。
980
:
問答迷人
:2008/07/24(木) 12:48:40
仏壇の前の経机に祈る項目を書き出した紙を置いたり張ったりして、一項目について祈りながら100遍ずつお題目を唱えて行く。
こう言う事を教えられた記憶が有ります。選挙になれば、公明党候補の名前を書いた紙を置いたり張ったりして、必勝祈願のお題目を唱えたものでした。
要は、祈りは具体的でなければならない、と言われ、誰かの病気平癒を祈ったり、担当している組織の誰々が会合に出てくるように、と祈ったり、友達の誰々を折伏(入信)出来ますように、と祈ったり・・・
数限りない祈りを書き出して、具体的に祈るように教えられました。その通りにやっていると、一日一時間の唱題なんかは、ちょろい物で、あっという間に過ぎてしまったのを覚えています。
981
:
マターリ
:2008/07/24(木) 20:29:59
>犀角独歩さん、
>日蓮が在家に教えた唱題は、祈りだったんでしょうかね。
祈りとはもっぱら僧侶がなすことだったように思えます。
そうですね。「法華初心成仏抄」を見ますと、日蓮自身がいかに祈祷しても
在家の本人が不信なら、濡れた火口に火打石で火をつけるようなものだ、
と書いてあります。ですから、祈祷するのは日蓮自身であり、在家は祈祷
というより、法華経に対する信仰心そのものを強くして欲しい、と日蓮は
考えていたと思います。
「祈祷抄」に「・・・日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りの叶わ
ぬ事はあるべからず」とあります。在家の私たちも、法華経の行者に含
まれると教えられてきました。しかし厳密に言えば、行者=僧なので、
祈祷抄では、法華経の行者=日蓮だとわかってきました。
つまり、この一節は、日蓮の祈祷にかける、並々ならぬ自信に満ちた
言葉なのだと思います。在家の祈りも叶う、ということではないと考
えます。
これら全て、このごろ勉強したことばかりです。
>富士川一郎さん、
創価学会が「唱題しながら祈る」と言うのを具体的にどのように指導して
いたのでしょうか。
祈りのない題目は意味が無い、と教えられました。一遍一遍に祈りを込め
て、唱題していきます。口では題目を唱えながら、頭脳では願い事を考え
ています。
問答迷人さんと大体同じですが、他に教えられた事を書きます。
1.夢や願望を全て、表に書き出す。
2.書き出した願望に優先順位をつける。
3.いつまでに願望を達成したいのか、期限を明確にする。
4.夢や願望を、座談会など会合で話す。(発表して恥ずかしくない事を)
5.毎日、題目表をつける。
6.重大な願い事を叶えるには、一日1万ベンを唱えていき、何ヶ月かで
総数100万ベンをあげきる。
その一方で、願い事ばかりするのは「乞食信心」で、「感謝の題目をあげな
さい」とも言われています。
982
:
犀角独歩
:2008/07/25(金) 22:39:06
富士川さん
たぶん、推量当たりです(笑)
いまさら、石山方のことをわたしが、このスレッドに書くのも変ですが、要は「余念なく」というのが、在り方だというわけですね。それで
「余念は謂く唱題成仏の外念慮あるべからず、故に当家の行者は若は誦経、若は唱題一向余事余念無して南無妙法蓮華経と唱る処に妙法の即身成仏を立たる者」
などというわけですから、文字どおり、妙法蓮華経への南無の一念は即身成仏以外の念慮があってはならないというのが教えなのでしょう。こうした点を某氏は言ったわけでしょうね。
ところが日寛『六巻鈔』を見ると、実は、そうなっていないわけです。
「南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は、南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初、自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲南無日蓮大聖人師。
南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有、南無本門戒壇の大本尊。
南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。
此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云々」
下種三宝を念じて、唱題して一生涯を過ごせといいます。創価学会、顕正会はお気の毒ですが、南無が直接かからないまでも「嫡々付法歴代の諸師」も念じる対象に入っています。「除歴対象の歴代は別」という口上は成り立つかどうか、成り立ったとしても、「先生」を念じろ、祈り殺せ、種々の祈念を具体的に念じろなどとなどいうのは、まさに創価学会の考案したところであって、日蓮とも、日寛とも関係のないわけですね。
「現代人が納得する」というテーマに沿えば、即身成仏より、「願いは何でも叶う」といった欲望充足型のほうが受けるということでしょうか。こうした戦後復興の民衆のニーズに巧みに合わせて改変されたのが、創価学会の「題目を上げる」というやつだったということになりますか。
さらに昨今では憎き相手は憎悪し呪うようで、もはや、黒魔術、呪術の域に達し、ここまでくると、現代人のニーズから離れた感があります。
983
:
犀角独歩
:2008/07/25(金) 22:49:21
> 979
顕正会の5分唱題というのは面白いですね。
これが事実ならば、要するに浅井さんは唱題が苦手なんでしょうね(笑)
「像法の智者大師すら尚毎日一万遍なり。何に況や末法の我等をや」
とは、日寛の言です。こうした点を匿して、5分でいいとすれば、浅井さんは、日寛に背いていることになりますね。
984
:
いちりん
:2008/07/26(土) 08:55:13
ちょっと脇に外れて申し訳ないですけど、
天台智ギが、毎日一万遍、南無妙法蓮華経と唱えていた、と日蓮さんは言うわけでしょうが、
、日蓮さんなり、なにかその根拠となるものはあったのでしょうか。
985
:
犀角独歩
:2008/07/26(土) 09:11:20
いちりんさん
日蓮ではなく、日寛です。富要ばかりの話で恐縮ですが、日寛以前では、日教がこれを記しています。
穆作抄「天台は唱へ奉る一切経の惣要毎日一万遍、玄師の伝に云はく一切経の惣要とは謂ゆる妙法蓮華経と文」
類聚翰集私「陳隋の天台智者は読誦し奉る一切経の惣要毎日一万遍と、玄師の伝に云く一切経の惣要とは妙法蓮華経是れなり云云」
六巻抄依義判文抄第三「天台大師行法の日記に云わく、読誦し奉る一切経の総要毎日一万遍と、玄師の伝に云わく、一切経の総要とは所謂妙法蓮華経の五字なりと云云」
観心本尊抄文段上「像法の智者大師すら尚毎日一万遍なり。何に況や末法の我等をや」
法華題目抄文段「天台大師、毎日行法の日記に云く『読誦し奉る一切経の総要、毎日一万遍』と云云。玄師伝に云く『一切経の総要とは所謂妙法蓮華経の五字なり』云云」
986
:
いちりん
:2008/07/26(土) 09:57:17
独歩さん
なるほど。日寛さんが言っていたのですね。
しかし、天台智ギは、妙法蓮華経は一切経の惣要ということは、玄義あたりで述べているのでしょうが、
それを「唱えていた」のかどうかという根拠は、どうも「天台大師行法の日記」あたりと。
そんなものがあったんですね。
でも、ほんとうに、それって智ギが著したものかどうか、はっきりしているのでしょうか。
たとえば、「摩迦止観」や「玄義」「文句」あたりで、智ギが、「わたしゃ、毎日、お題目を唱えているよ」とか、「みなも唱えるといいよ」などということは述べてないですよね、たぶん。
987
:
犀角独歩
:2008/07/26(土) 10:13:40
いちりんさん
そうですね、おっしゃるとおりだと思います。
ただしかし、日寛教学の無謬を信じる人々は、日寛の一文一句も背けないのに、背いているのはどうしてなんだという議論の流れでした。
988
:
マターリ
:2008/07/26(土) 10:44:54
初歩的な質問で申し訳ないのですが、中国でも、南無妙法蓮華経の題目
を唱えていたのでしょうか?
題目は、法華経が日本に伝わって、しばらくしてから唱えられるように
なった、と聞いていました。ですから、題目は日本独自の物だとばかり
思っていたのですが。
989
:
犀角独歩
:2008/07/26(土) 11:14:04
マターリさん
中国で唱えられていたという根拠は『当体義鈔』の以下の文などに拠るのではないでしょうか。
「南岳大師法華懺法云南無妙法蓮華経文 天台大師云南無平等大慧一乗妙法蓮華経文 又云稽首妙法蓮華経云云 又帰命妙法蓮華経云云。伝教大師最後臨終十生願記云南無妙法蓮華経云云」(
天台初期文献で検索すると以下のとおりです。
法華三昧「一心奉請南無妙法蓮華經中一切諸佛」「南無釋迦牟尼佛 南無多寶佛 南無釋迦牟尼分身佛 南無妙法蓮華經…」
禮法華儀「南無佛 南無法 南無僧 南無釋迦牟尼佛 南無妙法蓮華經 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 旋竟三歸依如常」
しかし、これは日蓮が言う唱題とは違うでしょうね。七文字「南無妙法蓮華経」の成句は遡れるといったところでしょうか。
さて、日本ですが、その真偽は置き、『修禪寺決』に以下の文があります。
「臨終之時 唱南無妙法蓮華經 由妙法三力之功成菩提」
「和尚深祕行法傳云 圖繪十界形像 十處安之 毎向一像 各一百反可行禮拜 口可唱南無妙法蓮華經心可念」
まさに先に挙げた日教、日寛の引用の如く、余念なき即身成仏の唱題の文証がここにあります。
わたしは不勉強で『修禪寺決』が日蓮が見聞していたかどうか失念しました。パンナコッタさんをはじめ、皆さんの批正をお願いします。
990
:
マターリ
:2008/07/26(土) 12:01:52
>犀角独歩さん、詳しく教えていただき、ありがとうございます。
天台の文中に「南無妙法蓮華經」が、明確に入っていて驚きました。
日蓮のいう唱題とは違うようですが、題目の起源のようなものは、
中国が発祥だと、初めて理解できました。
991
:
パンナコッタ
:2008/07/26(土) 12:25:35
お呼ばれしたので、おじゃまします。
偽撰といわれる本理大綱集は確実に読んでいたでしょうけど、
修善寺決は偽書の臨終一身三観に引用があるくらいで薄い線ではないでしょうか。
後代のネタ本としては、動かないでしょうけど。
「故智者大師。毎日行法日記云。奉讀誦一切經惣要毎日一萬反。玄
師傳云。一切經惣要者。謂妙法蓮華經五字也」
http://www.chohoji.or.jp/TENDAI2/dengyodaisi/
05/069.txt
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/tyu_syu.htm
992
:
犀角独歩
:2008/07/26(土) 14:38:47
パンナコッタさん
ご批正、有り難うございます。
いちばん、肝心なことを書き忘れました。ご引用のとおりですね。
伝全で、この文を見ると「僞撰書」としっかりと書いてあるのですね。
993
:
パンナコッタ
:2008/07/26(土) 15:39:09
あ、リンクが変になっていましたね。大変失礼しました。
修禪寺決
http://www.chohoji.or.jp/TENDAI2/dengyodaisi/05/069.txt
十八円満抄にも引用されていますが、これも仮託された偽書ですね。
百六箇抄の牛頭決引用も含め、恰も根拠になるような書き方をしていますが
はじめからボロが出ている と、いった所でしょうか。
994
:
犀角独歩
:2008/07/28(月) 14:18:12
問答名人さん
もう少し愚問を続けさせていただきます。
わたしはひとり暮らしをはじめたのは中学3年で一間のアパートに仏壇を置き、所謂「分世帯」で御本尊を貸し下げてもらい安置しました。15歳の時ですから、この本尊を20年間拝み続けました。実家は最初、日寛の小幅のもので、正本堂の時に日達さんの特別御形木に取り替えました。例の創価学会が水増し制作したという騒ぎになったものです。
2年前に母が亡くなるとき、特にほかの本尊があったわけではないので、付き添い時間が過ぎて家に戻るとこの本尊に、母のことを祈念していました。
しかし、過去5年、問答さんをはじめ、皆さんと、彫刻の真偽について論じてきたわけです。母の最期の切羽詰まっていたときでしたが、「奉書写之」の四文字は気になりました。
彫刻は日禅授与本尊を臨模作為した捏造品、それを写した本尊は、捏造の写し。さらに言えば、石山は御筆真筆とされる3舗は『御本尊集』に載りますが、この日禅授与本尊はついに未発表にしたままです。発表すれば、原本が特定される恐れからこれを秘匿するといえば、それまでですが、こうして影本すら公開しないものは、たいがい、偽物です。他にもいくつか所存はありますが、わたしは日禅授与本尊は偽筆であると考えます。この立証は議論とは別なので置くこととします。日禅授与本尊が偽筆であれば、あの彫刻は偽筆を原本にした偽物。つまり、二重に偽物であることになります。偽物を原本にした偽物を、さらにその内容とは違って書いて、写したといって憚らない石山の本尊、それも写真にとって大量生産した印刷物です。(印刷がいけないというのは伝日興の説を支持してのことです)
つまり、我が家に安置されていた本尊を冷静に記述すると以上のようになります。はたして、このようなものを「本尊」と恃めるのかというのが、今回のわたしの質問です。
過去数十年、拝んできたものにケチをつけるようで、恐縮ですが、問答さんは、この点を、どのようにお考えになり、また、もし、現代人に納得させるとしたら、どのようにご説明になるのか、これは、まさに信仰の根幹に関わる問題として、お尋ねしたいのです。お応えいただけますでしょうか。
995
:
問答迷人
:2008/07/28(月) 19:15:26
犀角独歩さん
>日禅授与本尊は偽筆・・・あの彫刻は偽筆を原本にした偽物・・・二重に偽物・・・さらにその内容とは違って書いて、写したといって憚らない石山の本尊・・・大量生産した印刷物・・・このようなものを「本尊」
僕は現在も日顕師制作による印刷曼陀羅を拝しています。元法華講講頭であった僕の親友は、「良くもお前、そんな物を拝んでいるな」と言います。彼の言いたい事は、概ね、犀角独歩さんの説に準じています。
僕も、過去、思い悩みましたが、もう思い悩む事は卒業しました。
果たして、日蓮聖人が、僕が顕師曼陀羅を拝んでいるのを見て、どういうだろうか、と考えました。結論は是認されるだろうという事です。
なぜなら、体裁は日蓮曼陀羅を踏襲して書かれており、しかも、日興師の末流の僧侶の手によるものだからです。
非常に乱暴な議論のようですが、元々、日蓮聖人は曼陀羅書写の法規を示していない事は、六老それぞれに曼陀羅書写を行っていることから逆算すれば明らかだと思います。
印刷がダメだというのも、日蓮聖人の文献が残っていない以上、絶対的な規範とは思えません。
曼陀羅の重要性は、「南無妙法蓮華経」の七文字をしたためて、それを拝む事に尽きていると思います。であれば、顕師曼陀羅も、身延山久遠寺の仏具店で買う事の出来る曼陀羅も、基本的には大差ないと思うわけです。
このような理由から、現在のところ、敢えて曼陀羅を変えるべき理由も見つからないので、そのままにしているわけです。
皆様のご叱正賜りたいと存じます。よろしくお願い申し上げます。
996
:
犀角独歩
:2008/07/28(月) 19:32:44
問答名人さん
わたしが投げかける疑問は、単に批判をしようとか、攻撃しようとかを目的としたものではありません。この点は、8年間一貫しています。ただ、信仰の根幹に冠する質問になると、途端に反撃に出て人身攻撃になってしまうのが、残念ながら、創価学会を含む大石寺圏の有様です。そのために、常連同士でさえ、率直な質疑応答が成り立たないできました。こうした愚は、発展的な議論の妨げにしかなりません。もちろん、問答さんがそのようなことをなさる型ではないことは十分に承知のうえです。しかし、横やりも多々ありましたので、念のため、おことわりしました。
わたし自身は、漫荼羅は允可証の用途であり、あとは護本尊で、正式な本尊は仏像であるというのが日蓮の教説本尊観という立場です。この点では、問答さんとは違うと思いますが、そのどちらが正しいという議論をしたいわけではありません。
以上のような考えですから、仮本尊としての漫荼羅が印刷であろうが何であろうが、あと信仰者の心根次第でさした問題ではないとは思います。
ただし、創価学会を含む大石寺圏では、「自分たちの本尊以外は駄目だ」と言い切ってきた歴史があります。こう言ってしまえば、では、「そんな偽物を写した、書いた内容も違うもの、何がすごいのだ」という反論となりましょう。これは、まず、創価学会、顕正会、なにより大石寺に向けた批判として置いておくことといたします。
広く日蓮信仰者を含む現代人からすれば、漫荼羅は身延の売店のみならず、町中の仏壇屋でも、仏壇のおまけのような感じで売っているもので、それを一般に「御本尊」として認可されています。その経緯からすれば、それが日県産の者で荒れ何で、同じようなものですから、拝む人が本尊であると思えば本尊でしょう。
今回のお応えからすると、要は書かれた内容が日蓮の漫荼羅を同じであれば、それはそれで是とするという意味と承りました。
では、この前提で、再度、お伺いしますが、そうなると、漫荼羅は、それが身延の売店のものであれ、いつであったか、顕正居士さんがご紹介いただいたダウンロード本尊、つまり、ネットで流通している日蓮漫荼羅画像を自家のプリンターで印刷して本尊とするといったものも、本尊であるとして、何ら痛痒はお感じにならないということでしょうか。これが一つ。
あと、たとえば、日蓮が書いた内容を同じであればよいのならば、わたしども少し習字の心得があれば、下手な横好きで漫荼羅など、いくらでも書くことはできます。こうして自分で書いたものも、本尊とすることも是とお考えになりますか。
繰り返しますが、批判攻撃を目的にしているわけではなく、当スレッドテーマに沿って「現代人が納得する」線を探る手だてとしての質問であることをご留意のうえ、お気軽にお応えください。
997
:
犀角独歩
:2008/07/28(月) 19:36:21
【396の訂正】
誤)問答さんがそのようなことをなさる型
正)問答さんがそのようなことをなさる方
誤)それが日県産の者で荒れ何で
正)それが日顕さんのものであれ何であっても
998
:
問答迷人
:2008/07/28(月) 20:31:17
犀角独歩さん
>漫荼羅は、それが身延の売店のものであれ、ネットで流通している日蓮漫荼羅画像を自家のプリンターで印刷して本尊とするといったものも、本尊であるとして、何ら痛痒は感じない
曼陀羅が本尊なのかどうか、日蓮聖人は余り明確にはされていませんので、この議論は、取りあえず、差し控えさせていただきます。その前提で、それらを曼陀羅として拝する事には、現在の幽霊法華講員の身としては、痛痒は何等感じません。将来において、日蓮宗信徒となった場合には、その所属寺院に従うのが筋だとは思っています。
>あと、たとえば、日蓮が書いた内容を同じであればよいのならば、わたしども少し習字の心得があれば、下手な横好きで漫荼羅など、いくらでも書くことはできます。こうして自分で書いたものも、本尊とすることも是とお考えになりますか。
これは、既に宮沢賢治がその様な試みをしていたようですね。末寺に所属したくない事情があれば、それも又、可であると思います。要は、日蓮聖人の教えに連なる意思があれば、これも又、日蓮聖人は是認なさるであろうと思います。
勿論、何でも有りではないと思います。「日蓮聖人に直結」などと言って、僧侶を排除し、却ってその組織の中心者を日蓮聖人の生まれ変わりの如く敬わせる様は、日蓮聖人に連なっているとは言いがたいので、日蓮聖人が果たして是認されるだろうか、という疑問は残ります。
999
:
犀角独歩
:2008/07/29(火) 08:00:58
問答名人さん
> …日蓮宗信徒となった場合…所属寺院に従う
議論とは直接、関係ありませんが、「日蓮宗信徒になる」という点について富士門流はかなり特殊であると感じます。
一種の囲い込みみたいなことをして、僧俗でも、恰も師弟子のような関係で、石山では特に「指導教師」などといって、その人以外からは指導を受けても駄目みたいな極端なことを言いますね。こうした関係は、所謂「日蓮宗」一般ではほとんど有り得ませんよね。もっとも加持祈祷をしてくれる坊さんを生き神様のように崇拝してその人自体の信者、つまり個人崇拝になるというケースは見受けます。
これらの点は、また、別に議論をしたいと思いますが、信者、信徒というのは、そもそも、何の信者なのかという点は、意外に曖昧だと感じます。
いずれにしても宗派の信徒ではなく、宗派が信奉する神仏の信者であり、その宗派に集う徒ということなのでしょうね。
日蓮宗の坊さんの話を聞くと、御経周りに行くと、仏壇に鶴丸があるところもあり、場合によっては石山の本尊があったなどという話も聞きました。仏壇を買ってきたときについてきた曼陀羅を掛けてあったりで、住職が裏書きをして開眼をするのが正式と言った程度です。
つまり、「所属寺院に従う」などという堅苦しいところは何もないのが、日蓮宗一般という印象を持っています。たぶん、現在の問答さんの寺院観、信徒観は、かなり富士門下的なのだろうと思いました。(批判ではありませんよ。日蓮宗一般信者と比較した感想です)もっとも、今後、所属される寺院が富士門下であれば、仰るようなことにはなるだろうとは思えます。石山研究で名高いある人の寺院は、富士門下で言う「身延派」ですが、万年救護の複製を奉懸しています。宗定とされる所謂「臨滅度時」の複製は、わたしの近辺では池上本門寺近くの日蓮宗新聞社書店で販売しており、これはなかなか立派なものです。坊さん経由ならば買えるということでした。
先だって久方にお会いした静岡・海長寺の菅野師は、檀家さん全員に手書きの曼陀羅を与えたと話されていました。身延の売店で曼陀羅を売ったり、印刷物には原則反対の立場を採っておられる方です。保田あたりは、万年救護の複製を「ちゃんとした信者には出す」なんていっていると聞きました。ちゃんとした信心をしているのであれば、手書きの本尊を与えるのが在り方だと思うわけで、わたしは首を傾げざるを得ません。だいたい、複製ならば、自分でも作れます。それを坊さん寺院が作ったものでなければ駄目だというのは、どんな根拠なのか、不思議に思います。もちろんこれは保田に限らず、石山でも、学会でも同様です。
こちらの常連のある方は、ネットからダウンロード、プリントアウトして、それを石山からも請け負っている表具屋さんに出して、軸にしてもらって本尊にしていました。
以上、揚げ足取りと誤解しないでください。門下全般をみると、曼陀羅そのものは古美術的な扱い、しかし、信者であれば、仏壇に懸ければ本尊、坊さんにすれば開眼をすれば本尊たりえるといった程度の感覚で、厳格さを感じないというだけの話です。
やや整理になりますが、石山や、時には富士門下では、寺院から信者として出されたものを本尊とする、顕正会もそうですね。創価学会では、旧来、石山の信徒団体であったときに受け取った本尊も本尊と認めたうえで、自分たちで複製頒布する日寛の印刷を本尊とし、日蓮宗などのものは、たとえば、それが日蓮真筆の複製でも本尊とはしない、この点は、石山、顕正会も同様ということになります。学会を含む石山圏、富士門下の有様はかなり特殊ということになりますか。
この本尊については、各人の信仰という側面から具ですから、「現代人が納得する」という議論には馴染まないのでしょう。
たぶん、議論の余地があれば、その本尊についての説明部分で学問が指示する現代の常識と食い違う点について、では、どうすれば納得が得られるのかという点に焦点があるように思えます。
たとえば「仏滅後二千二百三十余年」といった記載は、現在、考えられる仏滅年代と500年のズレがありますが、こうした点で、少し仏教学の知識を持ち合わせた人であれば、「遅れている」「間違っている」などと感じるかも知れません。そう感じた人に「各人の信仰は勝手なんだから、そんな議論はただちに打ち切るべきだ」などといえば、排他的と思われるだけで、納得を得ることはないことになりますね。
追って、教学と学問の齟齬については、議論の俎上に乗せたいと考えていますが、いま、これまでとします。
1000
:
犀角独歩
:2008/07/29(火) 08:01:36
―999からつづく―
>> 自分で書いたもの…本尊…是
>宮沢賢治…日蓮聖人の教えに連なる意思…日蓮聖人は是認
なるほど。
このあとにも、「日蓮聖人の是認」ということをお書きになっていますね。
つまり、問答さんは、この点が本尊裁定の基準になっているとお見受けします。
これも、議論と言うより、以下2問につき、お考えをお聞かせ願うかぎりでお訊きします。
(1)日蓮は、自らが書した本尊を複製することを是認したか
(2)日蓮は、弟子が書写した本尊を複製し大量生産することを是認したか
> 「日蓮聖人に直結」などと言って、僧侶を排除
わたしの感覚からすれば、坊さんの話は宗派の都合が多く、どうも信用できない面が多々あります。ですから、直接、資料に当たると、坊さんから聞いてイメージした日蓮とその教説とは天地雲泥の相違があります。そうなると、もはや、坊さんを通じて信仰するより、日蓮に直接向かい合うほうが、より純粋な信仰と感じます。世間一般でも、日蓮の遺文などを読んで日蓮の贔屓になる人々が、いきおい、寺院や遺跡を探訪しようとなっても、誰か坊さんについて学ぶことが正しいとはなりません。「それでは、信仰にならない」といえば、それまでですが、嘘と都合ばかりで固まった日蓮解釈より、直接、日蓮の真蹟遺文や本尊、なにより日蓮その人と向かい合うことは否定されることでしょうか。
富士門下において、この手の根拠は『佐渡国法華講衆等御返事』に求められるのでしょうが、ここでいわれるのは、「勝手に日蓮の直弟子を名乗ることの規制」と思えます。
「大聖人直結」は石山の学会批判の一つでした。学会がいう直結はしかし、学会、池田氏を通じての直結ですから、実は直結ではないのですね。
日蓮宗寺院などに行くと、日蓮御影像があり、まあ、顔が似ているかどうかはわかりませんが直接、日蓮に向き合っているような気分になります。こうした舞台装置は、ある面、寺院そのものが日蓮と直接向かい合う場を用意してくれているようなものと感じます。
日蓮宗に「日蓮聖人直結」を言下に否定する面はないように思えます。
長い前置きになりましたが、これまた、揚げ足取りではなく、率直な疑問として、ご意見をお聞かせ願いたいのですが、「日蓮聖人に直結」は、なぜ、いけないのでしょうか。また、日蓮が日蓮を直接信奉有することを禁じた文証にはどのようなものがあるでしょうか。
> 組織の中心者を日蓮聖人の生まれ変わりの如く敬わせる様…日蓮聖人に連なっているとは言いがたい…日蓮聖人が果たして是認されるだろうか…疑問は残ります。
こうした「今日蓮」といった有様は、日教などの文献に見られる当住中心主義で鮮明になったものですね。いつの時代の文献かわかりませんが、本尊相伝「代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」を在家の「会長先生」に当てはめた、換骨奪胎といえば、そうなのでしょうが、坊さんなら善いが、在家なら駄目というのは坊さんの都合に過ぎない気もします。日蓮の是認ということになると、さて、どうでしょうか。
思いつくままに書いたところ、自分の管見の披瀝のようになってしまいました。お詫びします。文が冗長でわかりづらいかもしれませんが、以上、お応えいただければ有り難く存じます。
1001
:
問答迷人
:2008/07/29(火) 09:53:05
犀角独歩さん
(1)日蓮は、自らが書した本尊を複製することを是認したか
(2)日蓮は、弟子が書写した本尊を複製し大量生産することを是認したか
当時、印刷技術は未発達であり、経典書写に倣って、曼陀羅書写を考えておられたと思います。
曼陀羅と言っても、日蓮聖人本人がしたためた本物でなければ、価値がない、と考えられた節は伺えませんから、現代の複製技術、印刷技術を知られたら、是認されるであろうと考えます。
又、弟子が書写した曼陀羅を印刷授与することについても、是認されるであろうと考えます。なぜなら、曼陀羅の記載内容に価値があるのであって、それ以外では無いと思うからです。
勿論、曼陀羅を授与を以って允可の意義を含める、というのは判らないでは有りませんが、曼陀羅を受持することにこそ、本当の允可の意義は存するものと思います。
>直接、日蓮の真蹟遺文や本尊、なにより日蓮その人と向かい合うことは否定されることでしょうか。
むしろ、そうあるべきだと思います。僧侶は信徒が日蓮聖人と直接向かい合う手助けをするのが本来の任務であると思うからです。
ただ、六老の選定は、僧侶を中心にして、日蓮の教えを信仰し、ひろめて行くべきだ、とのお考えが伺えると思いますので、強ちに僧侶を否定するのは日蓮聖人の本意ではないと思います。
>日蓮が日蓮を直接信奉有することを禁じた文証にはどのようなものがあるでしょうか。
六老の選定が間接的に該当すると思います。御遷化記録がその文証という事になるかと思います。
1002
:
問答迷人
:2008/07/29(火) 09:57:00
舌足らずなので付け加えます。
御遷化記録は所謂、「大聖人直結」という僧侶を排除する論理を否定した文証という意味です。
1003
:
犀角独歩
:2008/07/29(火) 10:29:12
問答名人さん
重ね重ねのご回答有り難うございます。
同じ宗派に属し、そして、その嘘を暴いてきたという点で、問答さんとは共通するところが多いと思いますが、そのなかでも取り分け、相違していると思われる点を選びながら質問をさせていただいております。
漫荼羅の複製に関しては、日蓮は是認しないだろうと、わたしは考えています。
日蓮が所持していた法華経は版本であり、また、日興から程近い時代に「御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由」という記述から、鎌倉時代には版木技術は既にあったと思われます。そうしたなかで、あえて日蓮がこの複製を採用しなかった歴史認識が、わたしにあるからです。
また、允可という点で申し上げれば、授与書がもっとも重要な点になるわけで、この点を複製は省かれますので、允可とは言い難いように思えます。
もっとも、日蓮には允可の意味をもって書き渡していたように思えますが、六老以下、そうした意識が継承されたようにも思えません。
以上は、わ僧侶を否定するのはたしの考えです。たぶん、こうした考えの相違から、問答さんは印刷可、わたしは不可という見解の相違が生じていることがわかりました。この点は、現時点で日蓮の真意を斟酌できかねますので、見解の相違の確認に留めたいと存じます。
> 僧侶を否定する
やや、わたしの投稿が悪文であるため、誤解を生じたかも知れませんが、わたしは僧侶を否定するというのではなく、僧侶が日蓮の本意を伝えないのであれば、日蓮に直接遡源するほか手だてがないという苦肉の選択を述べました。
この件は以上とします。
> 曼陀羅を受持…本当の允可の意義は存する
允可であるというわたしの見解に同意してくださったと理解してよろしいでしょうか。違っていれば訂正いただければと存じます。
曼陀羅受持が允可であったとして、ご質問いたします。
(1) 売店、仏壇屋、また、ダウンロードといった方法で得た本尊は自主購入ですから、これを允可とは呼べません。こうした印刷物は本尊としては不可ということになりますか。
(2) 允可された僧、もしくは組織が嘘偽りをもって信者を誑かすものである場合、この允可は、どのような意義を有するとお考えですか。
前後しますが、以下の点についてもお伺いいたします。
> 曼陀羅の記載内容に価値がある
ここで仰る記載内容とは具体的に何を指すのでしょうか。中央首題ですか、十界諸尊を含めてですか、日蓮在御判、授与書、讃文、釈文(若悩乱者など)はどうでしょうか。
一遍首題に二仏の本尊、また、四天王を配さない本尊、また、諸尊勧請は区々ですが、こうした記載内容の相違は価値の相違を意味するとお考えでしょうか。
以上、お願い申し上げます。
1004
:
犀角独歩
:2008/07/29(火) 10:31:30
ひどい打ち間違えがありました。訂正し、お詫びいたします。
誤)以上は、わ僧侶を否定するのはたしの考えです。たぶん、こうした考えの相違から、問答さんは印刷可、わたしは不可という見解の相違が生じていることがわかりました。この点は、現時点で日蓮の真意を斟酌できかねますので、見解の相違の確認に留めたいと存じます。
正)以上は、わたしの考えです。たぶん、こうした考えの相違から、問答さんは印刷可、わたしは不可という見解の相違が生じていることがわかりました。この点は、現時点で日蓮の真意を斟酌できかねますので、見解の相違の確認に留めたいと存じます。
1005
:
問答迷人
:2008/07/29(火) 11:43:18
犀角独歩さん
(1) 売店、仏壇屋、また、ダウンロードといった方法で得た本尊は自主購入ですから、これを允可とは呼べません。こうした印刷物は本尊としては不可ということになりますか。
日蓮聖人は妙法蓮華経の五字を法華経の会座において、確かに釈尊から譲り受けたと述べています。言ってみれば、これも自主購入だと思います。であるならば、日蓮聖人から譲り受ける、という信仰心を以って、その人がその曼陀羅を拝む事には、何ら問題が無く、広義で、允可に相当すると思います。
(2) 允可された僧、もしくは組織が嘘偽りをもって信者を誑かすものである場合、この允可は、どのような意義を有するとお考えですか。
残念ながら、これ場合は、允可が無効になる可能性が高いのではないかと思います。日蓮聖人と信徒との間に僧、或いは教団が入って教えを捻じ曲げた場合は、形としては允可とは言えても、内実は失われている可能性が有りますから。
> 曼陀羅の記載内容・・・具体的に何を指すのでしょうか。
中央首題を指します。
>一遍首題に二仏の本尊、また、四天王を配さない本尊、また、諸尊勧請は区々ですが、こうした記載内容の相違は価値の相違を意味するとお考えでしょうか。
価値の相違は無いと考えています。中央主題に全てが含まれていると考えています。それらは、無くて良し、有って良し、だろうと思います。
1006
:
犀角独歩
:2008/07/29(火) 16:18:26
問答名人さん
> 日蓮聖人は妙法蓮華経の五字を法華経の会座において、確かに釈尊から譲り受けたと述べています。言ってみれば、これも自主購入
そうですか。師が弟子に託したのではないでしょうか。わたしの管見はともかくとして、、いまはそのようなお考えと承ります。
> 日蓮聖人から譲り受ける、という信仰心を以って、その人がその曼陀羅を拝む事には、何ら問題が無く、広義で、允可に相当する
允可とは上位が下位に「許すこと」だと思いますが、こちらも、こうしたお考えと承っておきます。
では、その前提でお尋ねします。
「自主」性はよいというお考えですね。ならば、どうして、直弟子を「自主」的に語ることは駄目なのでしょうか。日蓮が「自主購入」であれば、自主的に「弟子」を自認するのもこれまた可としないと論理に一貫性がないように思えますが、この点は如何でしょうか。
>> 允可された僧…組織が嘘偽りをもって信者を誑かす…允可
> 残念ながら、これ場合は、允可が無効になる可能性が高い
> 内実は失われている可能性が有りますから。
わたしもこのお考えに賛同します。
となると、具体的に当て嵌めた場合、日顕さんは、どうでしょうか。こうした僧に当て嵌まりませんか。当て嵌まったとする場合、その本尊はどうなるでしょうか。
> 価値の相違は無い
この点は、わたしの管見とは異なりますが、お考えを承って、いまはこれまでといたします。
上記、やや突っ込んだ質問になり、恐縮ですが、お考えをお聞かせください。
1007
:
問答迷人
:2008/07/29(火) 18:56:36
犀角独歩さん
>自主的に「弟子」を自認するのもこれまた可としないと論理に一貫性がないように思えますが、
ところが、実際のところ、日蓮聖人は妙法蓮華経を釈尊から受けるのは、直弟子として、直接受けていますね。しかし、その一方で、六老を選定したのも事実です。確かに論理の一貫を欠くようです。この点については、深く考えていませんでした。
>日顕さんは、どうでしょうか
当然、捻じ曲げているとしか言えませんね。ですから、日顕さんの允可は有名無実でしようね。
日顕さんを師として信仰すれば、それは、日蓮聖人に従うことにはならないと思います。
日顕さん制作の曼陀羅は、そういう意味において、不備だと思いますが、その点を無視して、日蓮聖人から譲り受けるねという信仰心を以って拝すれば、その問題は一応クリアーできると考えています。
1008
:
問答迷人
:2008/07/29(火) 18:58:44
訂正です
× 日蓮聖人から譲り受けるねという信仰心を以って拝すれば、
○ 日蓮聖人から譲り受ける、という信仰心を以って拝すれば、
1009
:
犀角独歩
:2008/07/29(火) 19:20:14
問答名人さん
いま議論になっている点は、一般の「現代人」の皆さんにとっては、さして重要な話ではないですが、所謂「本門戒壇の大御本尊」は後世の捏造とわかった、日顕さんはそれを知っていたと理解した、しかし、その人が書写した印刷本尊を拝んできたという歴史を背負っている信仰者である「現代人」にとっては、けっこう看過できない問題です。ですから、もう少しお付き合いください。
998に問答さんは、「『日蓮聖人に直結』などと言って、僧侶を排除」するのは、駄目であると書かれました。この趣旨は、その後に続く「却ってその組織の中心者を日蓮聖人の生まれ変わりの如く敬わせる様」に係るわけですが、ともかく、創価学会がいうような「大聖人直結」といった信仰は駄目であるというお考えと承りました。
これに対して、わたしは1003に「僧侶が日蓮の本意を伝えないのであれば、日蓮に直接遡源するほか手だてがないという苦肉の選択」と記しました。
この点ですが、問答さんが1008に「日顕さん制作の曼陀羅…不備、…日蓮聖人から譲り受ける、信仰心を以って拝すれば、その問題は一応クリアーできる」と仰る意と、あまり差がないように感じるのですが、この点は如何でしょうか。
ただ、問答さんの場合、この日顕さんの本尊に替わる、本尊の供給元が現段階では確保されていないとお察しできるのです。これは例えばの話ですが、そうした替え納得がいく本尊を入手できることになったとしたら、日顕さんの本尊は、お役御免となりますか。どうなのでしょうか。
1010
:
問答迷人
:2008/07/29(火) 19:46:48
犀角独歩さん
>そうした替え納得がいく本尊を入手できることになったとしたら、日顕さんの本尊は、お役御免となりますか。どうなのでしょうか。
勿論です。身延派の寺院が地元にも有りますので、そこに所属するのが一番よいのではなかろうか、と考えています。実行はそんなに遠くないと思っています。その場合、当然のことながら、日顕師制作曼陀羅はお役御免となります。
>あまり差がないように感じるのですが、この点は如何でしょうか。
はい。差はほとんど無いと思います。
1011
:
犀角独歩
:2008/07/29(火) 21:16:50
問答名人さん
取り敢えず、今件は、これまでとします。
お付き合い有り難うございました。
引き続き、一般現代人?に係る点もお付き合いいただければと存じます。
もし、日蓮宗で御曼陀羅をいただくことがあれば、ぜひとも手書きのものをご所望ください。なかなか味わいのあるものですよ。
わたしは宮沢賢治を見習うでもいなく、自分で思うところを書いてみたいと思ってみたり。坊さん方は、一生涯の間に護本尊を造るのだそうです。これは木彫りの仏像であるそうですが、わたしの場合、これが手書きの漫荼羅でも良いと考えてみたりしています。まあ、実行するかどうかわかりませんが、こうなすと、魑魅魍魎から、何に昇進させてくれるのでしょうか(笑)
1012
:
犀角独歩
:2008/07/31(木) 09:50:14
問答名人さん
引き続き、よろしくお願いいたします。
さて、議論をはじめようとすると妨害に遭って、なかなか、始められなかった内容に進みたいと思います。
まず、はじめに『法華経』について。
最近の仏教学等の解説書に拠れば、『法華経』は、およそ紀元前100年ごろから後150年頃まで制作されたということでした。つまり、こうした考えが現在の常識となっていることを意味します。
富士門下に限らず、『法華経』が釈尊最期8年の最高の教えであり、仏陀の金言であることは近年まで不動の仏教常識であったわけです。ところが、経典の文字化は釈尊滅から、およそ100年以後のことであり、さらにそこから数百年を経て制作編纂されたとなると、それまでの教学は覆ることになります。日蓮自身、『法華経』を釈尊の金言であるとし、已今当に最為第一の教えであるとします。
「しかし、『法華経』には釈尊の金言も含まれているはずだ」といった希望的な観測は、いまはさておくことにします。
問答さんは、こうした学的成果を常識とする「現代人」に、どのように「日蓮教学」を納得させることができるとお考えですか。
1013
:
問答迷人
:2008/07/31(木) 10:53:59
犀角独歩さん
>それまでの教学は覆ることになります。
そうですね。説明不能に陥りますね。だからこそ、明治以降も、『法華経』を釈尊の金言であるとし、已今当に最為第一の教えとする教義を踏襲してきたのだと思います。
日蓮聖人が、今日の学問の成果を知ったなら、どのようにされたか、非常に興味の湧くところです。
一体、どこに釈尊の真意が説かれているのか、と追求して行った結果、法華経に辿り着いたのだ、と日蓮聖人は繰り返し説いています。その同じ姿勢で、今日の学問成果を踏まえて、釈尊の真意を追求した時に、果たして、同じように法華経に辿り着くのか、或いは、別の結論に至るのか。
もし、同じく、法華経に釈尊の真意が説かれている、という結論に達したとしても、説き方は、学問成果を踏まえて、しかも、日蓮聖人の独自の見解を披瀝する形で、現在の日蓮宗の教義とは組み立てが全く異なった物となっていると思います。
僕の感触としては、日蓮聖人の悟りがまず有って、それを説くための手段として、当時の仏教の常識を利用されたのではなかろうか、と考えています。
例の、虚空蔵菩薩から明星の如き大宝珠を授かった、という日蓮聖人の体験談が全ての始まりであり、日蓮聖人の教えの骨髄ではなかろうかと考えています。
後ほど、続きを書きます。
1014
:
問答迷人
:2008/07/31(木) 12:16:37
続きです。
このように僕が考えるのは、開目抄下に、妙楽の弘決を次のように引用しているからです。
『弘の七に云はく「文字法師とは、内に観解無くして唯法相を構ふ。事相の禅師とは、境智を閑はず鼻膈に心を止む。乃至根本有漏定等なり。』
これは、要は、文字の法師も暗禅の法師も共に不可。そして、教義も大事、悟りも大事、という意味であり、この主旨から考えると、日蓮聖人が法華経を選び取ったのも、教相と自身の悟りの両方からの総合判断で有ったろうと僕は考えるからです。
1015
:
問答迷人
:2008/07/31(木) 12:31:24
ご質問の回答からは、かなりずれているかも知れませんが、『日蓮聖人には独自の悟りが有り、それを法華経等の諸経典を利用して具体化したのが、日蓮聖人の教えである。』と言う意味合いで捉えれば、日本における独自の仏教展開として受け入れることが出来るのではないかと思います。
それが、「釈尊の真意を伝えるもの」として、納得に繋がるのか、或いは、「釈尊の教えとは似て非なるもの」との判断され、結果的に排除されるのか、これが、これからの課題なのだと思っています。
1016
:
犀角独歩
:2008/07/31(木) 13:06:15
問答名人さん
先にわたしは「おヘソ教」のmixi日記を転載させていただいたのですが、しかし、考えてみれば、たとえば、『聖書』の天地創造なんかも似たようなものだと思えます。天地から人間までが1週間ででき、さらにイブはアダムの肋骨から創られたとか、また、中世ヨーロッパの教会が天動説を指示、魔女狩りを行ったといった歴史…一部、反キリスト教からの批判があるかどうか精査していません…は、おヘソ教と大差はないと思えます。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/951
そんな非科学的な『聖書』の一面が、批判の俎上に載ることもないわけです。
俎上に載らない第一の理由は、仮に『聖書』のこうした非科学的な側面を批判したところで、悪口雑言をしたり、人格批判に転じるような攻撃をしないという「大人の対応」を心得ているからかもしれません。
そういった意味で創価学会を含む大石寺圏は、現役・脱会を問わず、いまだに中世ヨーロッパの魔女狩りレベルといったところなのでしょうか。しかし、近代社会が、およそ非科学的としかいいようのない天地創造説を前提にするキリスト教を依然と指示し続ける前例は仏教が生き残る可能性を示しているのかも知れません。ただ、愚かな反論をすれば、さらに反論に遭い、自滅を余儀なくされるでしょうが。
> 日蓮聖人が法華経を選び取ったのも、教相と自身の悟り
また、前置きが長くなってしまいましたが、この問答さんのご見解は、仏陀中心ではなく、日蓮中心の考えと判断してよろしいでしょうか。また、であれば、仏教というより、日蓮教であるという印象を受けるのです。
仏教といっても、どこまで仏教というかは議論の分かれるところですから、こうしたお考えは言下に比定されるものではないと思えます。
重ねてお尋ねしますが、ここで仰る日蓮の悟りとは、具体的にはどのようなものでしょうか。
1017
:
問答迷人
:2008/07/31(木) 13:58:53
犀角独歩さん
>仏教というより、日蓮教であるという印象を受けるのです。
日蓮聖人も、何しろ、歴史上の釈尊ではなく、久遠釈尊から、付属を受けたというのですから、これは日蓮教としか言い様が有りませんね。
その教えの根幹は妙法蓮華経という五文字に釈尊の因行・果徳が悉く具わると言うのですから、これは法華経にも他の経典にも何処にも書かれていない、日蓮聖人独自の見解であると思います。
如何なる悟りを根拠に、その様に断言されるのか、大変興味の湧く所です。何しろ、文字至上主義は余りにも極端ですから。
>ここで仰る日蓮の悟りとは、具体的にはどのようなものでしょうか。
恐らくは、その悟りの世界を具体的に図示したのが、日蓮聖人の妙法曼陀羅なのだと思います。
1018
:
犀角独歩
:2008/07/31(木) 15:26:26
問答名人さん
こうした日蓮の解釈は、法華経が釈尊の金言、最期8箇年の真説であるという前提で、700年間指示されてきました。
しかし、この前提が崩れたとすると、当スレッドのテーマである「現代人が納得する」ことがあるでしょうか。
1019
:
問答迷人
:2008/07/31(木) 15:54:53
犀角独歩さん
妙法蓮華経の五字の出どころは、言うまでも無く、羅什訳の法華経の経題ですね。日蓮聖人は、この経題を構成している五文字が全てだというわけです。別の言い方をすれば、この五文字が仏の教えの全てを尽くしていると。
戸田さんが「日蓮大聖人がその教えの究極を弟子・檀那に語るとすると『南無妙法蓮華経。お仕舞い。』」という意味のことを語っていたのを思い出しますが、そういう結論になると思います。
これを果たして、現代人が納得するのかと言えば、納得はほとんど絶望的だと思いますね。
恐らく、仏教考古学の研究が進めば進むほど、日蓮聖人のこの教えは、釈尊の教えからは懸け離れたもの、と看做されるのではないでしょうか。
それにもかかわらず、又、前に書いたことの蒸し返しになりますが、日蓮聖人が見た世界を追体験したい、という僕の強い心の欲求は、一体これは何なのでしょう。やはり、僕にとって、日蓮聖人という人は、それ程魅力的な存在なのだとしか言い様が有りませんね。
1020
:
犀角独歩
:2008/07/31(木) 17:04:02
問答名人さん
たびたびのご回答、有り難うございます。
わたしは先に、法華経は後世の創作、天台のでたらめ、日蓮の間違いといったいわば、現代、形成されつつある仏教へ向けられる「常識」からの批判を、殊に極端に沸騰させ、表現してみました。
こうした批判を排他すれば、逆に排他されておしまいになるでしょう。
ところが、法華経が後世の創作であったとしても、天台がでたらめであったとしても、日蓮も間違っていたとしても、それでも、依然として残る、人々を惹き付けて止まない何かがある。問答さんの元をお借りすれば「魅力的な存在」としての日蓮を、より言語化することができれば、わたしは日蓮は、それまで着飾ってきた五色の錦(法華経、天台、就中、仏法の無謬性)が襤褸(ぼろ)に替わってしまっても、日蓮は必ず21世紀に残っていくのだろうと思います。
そうした意味で、わたしの不躾な質問に対して、けして怒らず、逃げず、批判と正面から向かい合ったうえで、それでも、日蓮に魅力があると言い切った問答さんの言葉に「待っていました」という気分になりました。
御礼申し上げます。
1021
:
問答迷人
:2008/07/31(木) 17:42:22
犀角独歩さん
>「魅力的な存在」としての日蓮を、より言語化することができれば、
そうなんですね、是非とも、日蓮聖人の実像に迫りたいものだと思います。
>「待っていました」という気分になりました。
独歩さんの、巧みな誘導の結果ですね(笑)。
1022
:
犀角独歩
:2008/07/31(木) 17:47:31
問答名人さん
> 巧みな誘導の結果
いや、このお言葉はそのままお返しします。
わたしが、敢えてHNを替える無礼まで犯して、問答名人さんとお呼びする所以です。有り難うございます。
1024
:
蓮華
:2008/08/02(土) 12:57:24
はじめまして
私はさほど知識があるわけではありませんが、ブッダが悟りの境地に達したのは、インドの菩提樹が初めてでなく久遠(遥かかなた気の遠くなる遠いの昔)に悟った。その様な事が、記載されているのが寿量品との事。
寿量品に速成就佛身、つまり即身成仏できると解いてます。
ブッダの教えが何人かに漢訳され、どの訳が一番優れているか、それを感じる個々により違います。
日蓮聖人と釈尊の説いた、妙法蓮華経は同一です。
不自惜身命と寿量品に記載されている如く、日蓮聖人のご生涯は不惜身命を貫き通し、布教されたと思います。
「法華経方便品・寿量品講義」に触れてみてはいかがでしょうか。
1025
:
マターリ
:2008/08/02(土) 13:11:04
>蓮華さん、初めまして。日蓮聖人と書かれていますので、日蓮宗の方
かな、とも思いますが、決まりですので、いちおう自己紹介スレッドへ
の書き込みをしていただければ、と思います。
1026
:
パンナコッタ
:2008/09/12(金) 20:53:46
竜口法難の日ですね。(暦の違いはありますけど)
以前、12日or13日かとか、光物の議論があったのですが、久しぶりに遺文を通して整理してみたいと思います。
種種御振舞御書の内容が一般通説のようになっていますけど、腑に落ちない点が多々あることですし
多少スレタイと趣を異にしますが、改めて確認出来ることがあるかもしれませんので、そこはご了承をねがいます。
まずは文永八年九月十二日付近の記述を、真蹟遺文でみてみます。 ()内はおおよその時間。
土木殿御返事 文永8年 9/15 依智
・此の十二日酉の時(18:00)御勘気。武蔵守殿御あづかりにて、十三日丑の時(2:00)にかまくらをいでて、佐土の国へながされ候が
法華経の御ゆへに過去に頸をうしなひたらば、かかる少身のみ(身)にて候べきか
五人土籠御書 文永8年 10/3
・今月七日さどの国へまかるなり【実際は十日】
寺泊御書 文永8年 10/22
・今月〈十月なり〉十日相州愛京郡依智の郷を起ちて、武蔵の国久目河の宿に付き、
十二日を経て、越後の国寺泊の津に付きぬ
富木殿御返事 文永9年 4/10
・日蓮臨終一分も疑ひ無し。刎頭の時は殊に喜悦有るべく候
諸宗違目事 文永9年 5/5
・去年九月十二日の夜中には虎口を脱れたるか
撰時抄 建治元年
・二には、去にし文永八年九月十二日申の時(16:00)に平左衛門尉に向かひて云く、日蓮は日本国の棟梁なり。
・第二の文永八年九月十二日の御勘気の時は、
聖人御難事 弘安二年
・同じき文永八年〈辛未〉九月十二日佐渡の国へ配流、又頭の座に望む
1027
:
パンナコッタ
:2008/09/12(金) 20:54:40
続いて真蹟未断簡・曾存。
法蓮抄 建治元年
・去ぬる文永八年九月十二日の御勘気の時、重ねて申して云く、予は日本国の棟梁なり
一谷入道百姓女房御返事 建治2年 5/8
・又文永八年〈太歳辛未〉九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが、忽ちに頸を刎ねらるべきにてありけるが、
子細ありけるかの故にしばらくのびて、
報恩抄 建治2年 7/21
・去ぬる文永八年九月の十二日には頚を切らんとす
・去ぬる文永八年九月十二日に平左衛門並びに数百人に向かいて云く、日蓮は日本国のはしらなり
・去ぬる文永八年〈辛未〉九月十二日の夜は相模国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん、其の夜はのびて依智というところへつきぬ。
・又十三日の夜はゆりたりととどめきしが、又いかにやありけん、さどの国までゆく。今日切る、あす切る、といゐしほどに四箇年というに
下山御消息 建治3年 6月
・去ぬる文永八年九月十二日に都て一分の科もなくして佐土国へ流罪せらる。
開目抄 文永九年 2月
・日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此れは魂魄佐土の国にいたりて、
続いて写本分。
四条金吾殿御返事 文永9年 5/5
・去ぬる九月十二日御勘気をかふりて、其の夜のうちに頸をはねらるべきにて候ひしが、いかなる事にやよりけん、彼の夜は延びて此の国に来たりていま(今)まで候に
頼基陳状 建治3年 7月
・三位も文永八年九月十二日の勘気の時は供奉の一人にて有りしかば
三沢抄 建治4年 2/23
・而るに去ぬる文永八年九月十二日の夜、たつの口にて頚をはねられんとせし時よりのち、ふびんなり
次に未決文・及び確定偽書。
佐渡御勘気抄 文永9年 3/20
・九月十二日に御勘気を蒙りて今年十月十日佐渡の国へまかり候なり
佐渡御書 文永9年 3/20
・去年九月十二日御勘気を蒙りし時
顕立正意抄 文永11年 12/15
・去ぬる文永八年九月十二日御勘気を蒙りし時吐く所の強言
妙法比丘尼御返事 弘安元年 9/6
・又去ぬる文永八年九月十二日に佐渡の国へ流さる
・第二度は外には遠流と聞こへしかども内には頚を切るべしとて鎌倉竜口と申す処に、九月十二日の丑の時に頸の座に引きすへられて候ひき。
・いかがして候ひけん、月の如くにをはせし物江の島より飛び出でて使ひの頭へかかり候ひしかば、使ひおそれてきらず。とかうせし程に子細どもあまたありて其の夜の頸はのがれぬ
四条金吾殿御返事 弘安元年
・去ぬる文永八年九月十二日の子丑の時、日蓮が御勘気をかほりし時、馬の口にとりつきて鎌倉を出でて、さがみのえちに御ともありしが
中興入道御消息 弘安2 11/30
・去ぬる文永八年九月十二日には御かんきをかほりて、北国佐渡の島にうつされて候ひしなり
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
波木井殿御書 弘安5年 10/7
・同じき十月に訴状を書きて重ねて法光寺殿の見参に入れ奉りしに、
・文永八年〈辛未〉九月十二日には頚の座に登り、相模の竜口へ遣はさる
・既に頚切られんとせしが、その夜は延び候ひて相模の依智へわたされ、本間の六郎左衛門が預かりおきぬ。明十三日の夜ふけ方に不思議現ず。大星下りて庭の梅の枝に懸かりき
法華本門宗要抄 弘安5年
・日本国人王八十九代恒仁の御宇、法光寺殿の御代、文永八年〈辛未〉九月十二日、相州竜口に於て既に頭を刎ねられんとす
・法光寺殿の御所中に大星下り給ひて、石坪光を放ち之れを睨み、巍(いかめ)しき地震を以て四方を鳴動して之れを告ぐ
・合掌して之れを観念せしむる時、江の島より大いなる光物日蓮が頸の座の上に出現し、鷹隼の飛ぶが如くして後山の大木に移るかと之れを見れば、忽ちに雲霧を出だして即ち昏闇となり
・天明くる十三日の夜、方々に不思議の大彗星出現し、或は庭上の梅の枝に下りて夙夜に光を放ち、見る人目を驚かし聞く人之れを恐る
1028
:
パンナコッタ
:2008/09/12(金) 20:55:13
そして種種御振舞の記述部分。
・去ぬる文永八年〈太歳辛未〉九月十二日御勘気をかほる
・さては十二日の夜、武蔵守殿のあづかり(預)にて、夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでしに
江のしま(島)のかたより月のごとくひかりたる物、まり(鞠)のやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。
・十二日の夜のあけぐれ(昧爽)、人の面もみえざりしが、物のひかり月よ(夜)のやうにて、人々の面もみなみゆ
・午の時計りにえち(依智)と申すところへゆきつきたりしかば、本間の六郎左衛門がいへに入りぬ
・其の日の戌の時計りにかまくら(鎌倉)より上の御使ひとて、たてぶみ(立文)をもって来ぬ。頸切れというかさねたる御使ひかともののふどもはをもひてありし程に
其の夜は十三日、兵士ども数十人坊の辺り並びに大庭になみゐて候ひき。九月十三日の夜なれば月大いにはれてありしに、夜中に大庭に立ち出でて月に向かひ奉りて、
自我偈少々よみ奉り 〜 いかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや、天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝にかかりてありしかば
・夜明くれば十四日、卯の時に十郎入道と申すもの来たりて云く、昨日の夜の戌の時計りにかうどの(守殿)に大なるさわぎあり
長くなって大変恐縮ですが、蓮祖の記述で時系列的にみてみれば
12日夕方捕縛→大仏宣時邸で預かり→明けた13日深夜佐渡へ出発→途中、竜口で頚を切ると脅迫される→そして依智へ連行される
この辺が、記述から読みとれるほぼ実像に近い姿でしょう。
すると種種の「十二日の夜のあけぐれ」は、やはり変ですね。13日のあけぐれでなければならない。
また過去に、種種と佐渡御勘気抄の分離していた所でもあり、混入も十分あり得るかと思います。
此処が原因かどうかは解りませんが、この場合の12日が(通しの)譬喩表現だったとしても一日ずれて後世の人々が
解釈・認識、偽書の作成が行われたようですね。
仮に光物があったとしたら、それは日付が変わった13日の深夜から夜明け前でしょう。日が完全に登ってからでは依智まで30〜40kmありますので
午の時(12:00)ぐらいに到着するのは護送されていることを考えれば、ちと無理でしょうね。
又、この日の日没後に星降りがあったことになります。つまり同日の出来事となります。
しかしながら学会等では、光物が発迹顕本とムリに位置づけして本仏論を唱えている割には星降りをスルーするのはどうなんでしょうかねぇ。
頚を切る という脅迫の事実は、佐渡に行く間も行った後も続けられていましたし、
伝説は伝説、後代の変な意味合いを無理強いする姿勢は改めた方がよいでしょうね。
1029
:
犀角独歩
:2008/09/13(土) 09:44:31
パンナコッタさん
興味深く拝読しました。
> この場合の12日が(通しの)譬喩表現だったとしても一日ずれて後世の人々が解釈・認識、偽書の作成が行われた
なるほどと思いました。
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