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現代人が納得できる日蓮教学

823犀角独歩:2006/06/22(木) 09:52:50

一字三礼さん

822に記されていること、一切の経典は、結局のところ、それが釈迦の説教であるといえば、偽でしょう。もちろん、そう思います。

大乗経典は報身の説法ということでしたが、日蓮は少なくてもそうは考えていなかったでしょう。『法華題目鈔』は断片の現存ですが、これが日蓮の真蹟であれば、日蓮の見解であり、仮に疑偽であったとしても、門下一般の認識であったわけです。

「釈迦如来は法華経のために世にいでさせ給たりしかども、四十二年が間は名を秘してかたりいださゞりしかども。仏の御年七十二と申せし時はじめて妙法蓮華経ととなえいださせ給たりき。」

「仏世に出させ給て五十余年の間八万聖教を説をかせ給き。仏は人寿百歳の時壬申の歳二月十五日の夜半に御入滅あり。其後四月八日より七月十五日に至まで一夏九旬の間、一千人の阿羅漢結集堂にあつまりて、一切経をかきをかせ給き」

これが近代前の認識です。

わたしが言いたいのは、事実の究明に、自分の信仰を持ち込みな、その一点です。さらにいえば、真実から目を逸らすなということです。

> 日蓮教学の誤りを指摘するのであれば、他からのアプローチがよい

一字三礼さんのような知識を持っている人にはそうかもしれません。
しかしながら、釈迦五十年の説法中、八年の法華説法は釈迦の真実、五時八教を、いまだに石山、学会、顕正会共に、教学として勉強しており、挙げ句に日蓮本仏をいい、彫刻の絶対性を主張しています。
そして、ここで起こったことを、わたしは日本戦五歳代の宗教詐欺、宗教被害であると認識しています。

それにも関わらず、この世界では、いまだに、この間違いを放置して、平然としているわけです。

わたしが、乾闥婆さんの苦悶を尤もだと記したのは、それまで、絶対の信仰であると信じていた屋台が、その土台から間違っているという現実にぶち当たったとき、当然、起こる葛藤だからです。それを教学解釈で正面から見ようとしないというのは不誠実であると思うからです。

わたしはかつてキリスト者と話したとき、「この世が一週間でできたはずはない」と『聖書』を一節を持っていうと「愚かな。あれは一般で使われる一週間ではなく七期に分けたという寓話ですよ」と言ってのけたものでした。解釈とは便利なものだと思ったものでした。説得力はゼロでした。しかし、この信者は平然としていました。それと同じことを、ここで繰り返す徒労は犯したくありません。

法華経は創作であった、天台の解釈も違っていた、日蓮も間違った、しかし、いま、漫荼羅に向かって唱題をしている、ほかにそれ以上の修行も方法もわからない、さて、どうしようかと考えるときに100年前までしか通用しない‘解釈’に執着しては前に進めないということです。


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