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現代人が納得できる日蓮教学
812
:
乾闥婆
:2006/06/22(木) 01:46:27
犀角独歩さん。
>教義・本尊の誤認を論じられることは、自身の信仰、実体験を揺るがされることであり、その実体験=信仰に支えられた自分自身を否定するという自我存立の危機感を彷彿する構造がここにあるのだろうというのが、わたしなりの分析です。
そのとおりだと思います。ですから私は現実と信仰を切り離し、虚構を虚構として自立させて信仰を全うしようと考えていたのでした。しかし私は虚構の住人にはなりきれませんでしたし、それでよかったのだと思います。それによる苦しみは受け止め続けなければならなくなりましたが。
不思議であるのは犀角独歩さんが、「それが漫荼羅を本尊と思い、日蓮が確定した唱題という行をやるという方法論は、採ってもいいと思います。大いにやってみるべきです。わたしは唱題も読経も好きですし、やれば、やってよかったといつも思います。」といわれたことにありました。また犀角独歩さんはこのようにも言われます。「日蓮は基礎データは間違えた。しかし、真実の究明しよう、善意で行動しよう、民衆と国土を救いたいという気持ちは間違っていない、わたしは、その日蓮を信仰していると言っているのです。つまり、教えが間違っていても、その精神性と事実究明という姿勢は信仰に価すると言っているのです。」言われていることはわかるのですが、いつも腑に落ちないのは、精神性や姿勢というものは、見習うべき一つの範例ではあっても、信仰の対象にはならないのではないかということです。信仰には形態や方法論が必要なのではないかと考えるのです。しかし精神や姿勢にはそのようなものはありません。ですので、形態として、方法論として、曼荼羅に向かっての唱題を私は選んでいるのですが、それは間違われた「基礎データ」の上に成り立っているわけです。このような状況をどうしたらよいのでしょう。犀角独歩さんにおける信仰の形態の意味合いといったものはどのようになるのでしょうか。
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