[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
現代人が納得できる日蓮教学
636
:
文殊
:2006/04/25(火) 00:16:39
充道さんが絶賛していることもあります。末木さんは充道さんを持ち
上げて論文に引用充道さんを「全国区」に押し上げたこともあります。
禅研究が末木さんのベースでしょうか。最近は。天台本覚思想から禅
にシフトしているかもしれません。末木さんは「第三文明」たびたび
登場でもわかるように東哲とも通用があり、かつ充道さんとも盟友と
いうまあ何といいますか忙しい方です。近年、文章がひどく荒れてき
た感じがします。『解体する言葉の世界』(岩波書店)なんか駄作
です。友人の佐藤弘夫氏は「思想」の書評で「魔物が取りついた」と
酷評しています。末木さんは近代日本の哲学者の仏教理解についても
強引といいますか勝手きままな文章を書き散らしていますね。天台
本覚思想に専念してほしいと思うのですが。ジャクリーヌ・ストーン
女史の翻訳とか。このままでは仏教界の柄谷行人さんになりかねない
ですよ。
637
:
文殊
:2006/04/25(火) 01:05:26
でも末木さんもいいこという時があります。波が激しいといいますか、
そのときどきで振幅が激しいというべきか。石山でいえば達師に資質
が似ているかもしれません。私が末木さんの夥しい文章を読んでみて
心を捉えた一節がありました。「私は、自ら体験しえない「死」を
哲学の中に組み込むのではなく、実際にわれわれがもたざるを得ない
「死者」との関わりを原点とすることにより、現世の世俗社会に閉ざ
された哲学を突破する道が開かれるのではないかと考える。「死」を
哲学に組み込もうとするかぎり、ハイデガーの「死への先駆的決意」
というところが限界であり、「死」そのものに直接関わることができ
ない。しかし、われわれは実際に死者と関わりながら生きている。と
いうよりも、われわれは死者との関わりなしに生きることはできない」
「身近なものの死を経験した人ならば、恐らく誰でも、死者がただ無
に帰してしまったとは考えられないであろう。不在の死者に語りかけ、
また死者の声を聞く。それは身近な死者だけではない。戦争の死者、
虐殺の死者たちもまた、常にわれわれに語りかけ、われわれを責める。
それは、「無限」対「有限」という抽象的な関係ではなく、きわめて
具体的な関係である。そして、その関わりの中から仏陀を見出し、
また倫理の可能性を見出していくことができるのではないかと考える」
(「仏教の非神話化とそのゆくえ─今村仁司『清沢満之と哲学』を
めぐって─」「思想」2004年11月号127頁)かくして私は末木さんに
傾倒しています。片っ端から読んでいます。
638
:
犀角独歩
:2006/04/25(火) 10:51:31
文殊さん
末木さんは、『天皇信仰と仏教』をテーマで、本年1月に話を聞きました。
まあ、コメントは避けます。
それにしても、“「死者」との関わり”といったテーマは、末木さんを典型とするものではないと思います。本来の日本という意識分析においてラフカディオ・ハーン、チェスタトンを挙げて、渡部昇一師が『日本史から見た日本人・古代編』(祥伝社)というベストセラーで、以下のように記しています。
「日本人の「死」に関する特殊な観念……日本の死者は死んでもなくならない。……死ぬというのは「退去」なのであり消散ではない…日本人が死んだ祖先のことをいつも気にしているのは、明治に日本に来た外人の目にはひどく異様に見えたものらしい。それでラフカディオ・ハーンなども、日本の特徴を、「死者の支配(レグヌム・モルトオルム)」と言っているくらいである…G・K・チェスタトンは、これ(死者のことを考えるのが正統主義のセンスである)を時間的民主主義の拡大と名付けている。普通の場合、民主主義の拡大というのは、選挙権の水平的確題に対して用いられてきたわけだが、彼は死者の意見を考慮すること、つまり伝統として残されたものに、しかるべき敬意を払うことが民主主義を拡大することになると考えたわけである」(P81〜86)
等と記していました。日本人の「ご先祖様」といった観念は、何も末木さんの文章に依るまでもないことであると思います。
こう言っては何ですが、末木さん、花野さんといった日蓮の実像から考えるとずいぶんと距離のあるところから、日蓮を拝んでいらっしゃるのだという印象を受けます。
639
:
犀角独歩
:2006/04/25(火) 11:21:39
文殊さん
引き続き、もう一つ、質問させてください。
本覚の魅力というのは、何ですか。そこまで執着される理由は、いったい、どこにあるのでしょうか。
640
:
文殊
:2006/04/25(火) 20:35:57
私の場合は、末木・花野両氏の諸著述・諸論文を通じていわゆる本覚
思想に関心を懐いたというのが実情なのです。天台学に精通している
顕正居士さん、現代における富士上代文書の第一人者れんさんのように
白文・第一次史料に直接アプローチするのではなく、おふたりの論文
を手がかりに「立正観抄」「三世諸仏総勘文教相廃立」を読んでみた、
ということなのです。私にとって本覚思想は日蓮の信行論という文脈
でなく末木・花野両氏による「現代思想」なのです。たとえば、柄谷
行人氏がウィトゲンシュタインを「現代的」に語ったとはいえ、それ
はウィトゲンシュタインの実像を精確に把握したものではないでしょう。
むしろ、岩波文庫から「論考」の新訳を上梓した野矢茂樹氏の方が遥か
に実像に近いといえます。末木・花野氏の「現代思想としての本覚思想」
はあくまでも近代日蓮解釈のひとつであって、日蓮遺文そのものの真実を
素描するものでなく、ひとつの「美しい物語」の語り手として大衆的な
人気・大衆受容に成功しているのではないかと思われます。犀角独歩さん
ご指摘の通り日蓮には「本覚思想」の概念はありません。1970年代
後半論壇デヴューした末木・花野両氏が全共闘・新左翼運動の蹉跌の余燼
覚めやらない時代思潮にあって、フランス・ポストモダニズムの思想的
影響を受けつつ、あくまでも「現代思想」として論陣を展開していった。
私は同時代人として思想的な影響を受けているということなのです。
第二次世界大戦の「戦争の死者」は未だに全員の遺骨が収集されてはい
ない。クメール・ルージュによる「虐殺の死者」もです。末木氏の死生
観には陰影が深いと感じます。
641
:
犀角独歩
:2006/04/25(火) 21:57:50
文殊さん、640に記されるところ、なるほど、そのような意味かと拝読しました。
わたしなりの意見を述べれば、本覚解釈など、もはや「現代思想」ではなく、20世紀の遺物に等しいという感覚があります。そんな時代解釈は、精査された日蓮実像に迫る在り方に比べれば、既に近代の話という認識です。
ところで文殊さんは末木さんご本人にお会いになったことがありますか。
文章はともかくとして、「死生観には陰影が深い」という表現は、実際に本人の話を聞いた印象からすると隔たりがありますね。
日蓮を読むのであれば、日蓮その人の確実な資料を手がかりにして疑偽書を読む以外に、何故、花野さん・末木さんを選ばれるのか、わたしには理解できません。また、そこで選ばれるのが、立正観抄、三世諸仏総勘文教相廃立という選択も理解しがたい部分です。
当掲示板で、本覚論などを、真剣に信じているような方が参加されているのでしょうか。まあ、どのような方が記されることにも、特に制約はありませんでしょうが、むしろ、本覚を卒業したところからの議論のほうが話題の中心ですから、文殊さんのお求めの意図は、やや斟酌いたしかねるところがあります。
642
:
文殊
:2006/04/25(火) 22:42:42
当掲示板は、本覚を卒業したところからの議論を前提とされている
こと領解しました。他スレッドでの法華仏教思想・富士初期教団考
のレベルの高さに、拙稿の至らなさを痛感する次第でございます。
本覚についてはこれ以上当掲示板では投稿はしません。改めて勉強
し直します。私にとって末木さん・花野さんの本覚思想はいわば、
言葉は悪いですが「脳内麻薬」なのです。一度読むとまた読みたく
なる・・・ご叱正覚悟の上ですが、正直に記します。末木さんに
お会いしたことも講演をきいたこともございません。末木さん
の死生観は私なりの主観的な思い込み読み込みがありました。
広島・長崎の被爆の記憶も風化に、イラク戦争の劣化ウラン弾
も忘却の彼方になりつつある時代認識を末木さんの文章に投影
させました。
643
:
犀角独歩
:2006/04/25(火) 23:18:42
文殊さん
> 広島・長崎の被爆の記憶も風…イラク戦争の劣化ウラン弾も忘却
この二つは、ハンディーキャップ問題と併せ、日蓮以上に、わたしの主要テーマです。
しかし、ここに花野さん・末木さんの脈絡は、全くといってよいほど感じられませんが、これはわたしの誤認識でしょうか。
644
:
犀角独歩
:2006/04/26(水) 10:02:08
文殊さん、昨晩は疲れていたので、簡単に済ませましたが、改めて記します。
> 本覚…これ以上当掲示板では投稿はしません
いえ、わたしは、ご投稿を妨げる意図はありません。ただここは、挙証義務を厳しく言うことによって意義ある議論を積み重ねることができた場でしす。ですから、その筋をしっかりとお守りになれば、有意義な議論となると思います。
ただ、わたしが思うのは、学会を含む石山圏の人々が本覚を語る前提として、偽物4点セットに対する社会的・道義的な責任を果たしたうえで語らない限り、傾聴に値しないという側面があります。そもそもこの点は50年も前から指摘されていることです。
本覚という視点については、わたしはある面、ここ富士門流においては、‘言い訳の轍(わだち)’になっていないかという臭味を感じるわけです。また、日蓮を理解するうえで、この轍は、一つの結論に、つまり、特定の結論に転がり落ちていく危険をはらんだものであり、また、転がり落ちたその場所は日蓮の実像からほど遠いものになるという悲惨な結末も有しています。
本覚云々という視点は、わたしの思惟のなかでは、もはや、古層に属し、この轍を辿っても、日蓮の実像に至れないことは経験則で知っています。故に人には勧められないと言うことです。しかし、それはわたしの浅薄な知識に支えられたものですから、確実な資料から再考を迫られるのであれば、それは快く考えてみたいと思います。しかし、これらの提示する人々は轍から一歩も出ることなく、結局のところ、殊石山においては、つまらぬ偽物4点セットをよそに議論の遊技に陥っています。
> 「脳内麻薬」
これは適宜な表現であると思います。実際のところ、日蓮本仏論にせよ、「本門戒壇の大御本尊」にせよ、そういった快楽原則に基づいて、人々を誣いているわけです。
しかし、文殊さんはすでに、これらお道具が偽物であることを内心として結論に至った。その時、次の、自分の、信仰と理性に与える脳内麻薬が必要となったのではないでしょうか。少なくともわたしにも、そんな経験はありました。
文殊さんは近代思潮に強い関心を懐かれているようで、この点は死生観、つまり、本来、仏教でその答を見出そうとされてきた四苦八苦の答を仏教と関連して見出されようとされる一環ではないのかと、勝手ながら観察しています。では、このような試みは確かに近代日本では繰り返し行われてきましたが、取り分け、その中でも、この技法で自分の信念体系を肯定化しようとした先駆けは、牧口常三郎氏にその典型を見、富士門下のその後の流れを創ってしまった観があります。この最初の試みは、彼の価値論と石山教学の無理な合体でした。「木に竹を接いだような」と的確に分析されてから、既に50年が経過しています。しかし、その後もこの技法は留まることを知りませんでした。結局、第三文明社や、聖教新聞社、果ては東洋哲学研究所に至るまで、この技法で、自己正当化の論理を構築した半世紀であったとも見えます。この点は石山の日蓮本仏論、彫刻の肯定論でも活用された中世の歴史もありました。この点は、当掲示板で語り尽くしてきました。
故に、やや牧口氏にのみ触れれば、金子弁浄師は、この価値論を、Theodor Lipps、Wilhelm Windelband、Heinrich Rickert、Emile Durkheim から受けたものであると分析したわけでした。そして、彼の価値論は幸福への希求であり、それが戸田氏に受け継がれるや、先の捏造であった彫刻をして「幸福製造機」と俗化を果たし、ついにその教線を不動のものにしたという経緯があったわけです。
647
:
犀角独歩
:2006/04/26(水) 13:07:56
【644の訂正】
誤)できた場でしす。
正)できた場です。
―644からつづく―
そもそも、日蓮の教えと現代思潮をつなぐものなど、何一つありません。しかし、これら“アクセサリー”の飾りは、それを華美に見せかける効果は絶大であったのでしょう。それが先に挙げた創価学会にかかる出版の過多と経営を支えるものとなっていったのでしょう。これに警告を発したのが聖教新聞初代編集長であった石田次男氏でした。この警告は一定の意義を持ちはしましたが、しかし、彼の教学理解は、戸田氏を師匠と仰いだためにそこが蓋となってそれ以上、高みに上がることができなかった憾みがあります。石田氏の著述は今から見れば、お粗末なものですが、それでも、当時はそれなりの意義はあったと思えます。
結局のところ、石田氏の警告は、生かされることなく、今日に至っています。
文殊さんは、先に幾名かを挙げていましたが、現代思潮から日蓮を解読することほど、日蓮の実像から離れることはないと、ここ掲示板で警告を鳴らしてきたつもりです。しかし、時折、先の牧口氏以来の轍に知らず嵌った人々が、現代思潮を引っさげて、ここに漂着します。
執行海秀師は、当時の創価学会・戸田氏を見事に分析し、この現場における哲学の扱い方を「創価学会という名称の如きも、これに由来する…この価値論によって、学会に於ける教学上の学説なり、信仰なりを哲学的に根拠づけようと試みている…石山派数学の思想と、創価学会特有の価値論の思想との間に、何等の関係も見出すことは出来ないのであって、全く木に竹を繕いだような感がある」と慨嘆をもらしたうえで、また、金子弁浄師は、「哲学と宗教との区別を取除き、宗学(神学)という重要な分野が存在していることを無視しようとするなど、独断的な哲学観、宗教観を平気で記すことを許している…戸田氏が先生である牧口氏のように哲学についての勉強をしていない」と、哲学から仏教を見る過ちを正すと共に、さらに哲学の両輪の一輪である神学、敢えて仏教に当て嵌めれば宗学を無視した点を弾呵しているわけです。わたしは、この分析は実に秀でていると考えます。また、この創価学会の悪貨に実は逆に影響を受けたのが石山でした。
つまるところ、現富士門下の実情は、信行学という鼎立すべきものを解体し、それぞれ別の論を構えることによって生き残りを図るという醜い形相を呈しています。つまり、信とは彼の偽者4点セットであり、行は宗教法人の主要行事への参加で、学は現代思潮にそれを求めるという分離です。しかし、このような姿勢が正直な態度であるはずはなく、日蓮の精神に沿うものであるはずもありません。
脳内麻薬から脱却には苦痛は伴いますが、真実への道程とは、斯くあってしかるべきであると、わたしは敢えて苦悶を選択してきたものでした。四苦八苦を超えることは、快楽でこれから遁れることではなく、正面から向き合う以外に平安の方途はないというのが、元来の仏法の教えであるとも思うからです。
率直に申し上げて、文殊さんは、以上の轍に嵌っているように、お見受けするわけです。
また、影響を受けている人々も、その轍の前に敷かれた古い轍に嵌ったまま、次の轍をさらに深めた人々ばかりのように映じるわけです。
せっかくのご縁ですから、上記のわたしの愚案を少しでも斟酌していただければと存ずるしだいです。
> 広島・長崎の被爆の記憶も風化に、イラク戦争の劣化ウラン弾
この点については、他スレッドに、やや記していますので、ご高覧をいただければとも存じます。
648
:
文殊
:2006/04/27(木) 01:12:12
西洋近代の教育を受けている現代人にとって、純粋宗学の確立のために、
西洋からの影響を完全に排除することは難しいと私は考えています。13
世紀の日蓮と現代思潮とは何の相関性もなく、強いて西洋哲学という余事
をまじえると、それだけ日蓮の実像との乖離が目に見えて分かるというデ
ィレンマに陥るということになります。ご指摘の通り哲学と宗教から独立
した宗学(神学)の分野の存在には蒙昧が啓かれる思いでございます。現に
ローマ・カトリックでは西洋哲学とは完全に一線を画する組織神学が確立
しているのであって、日蓮教団に宗学があって然るべきであり、安易に哲
学との融会は禁欲を課すべきものでしょう。今後、純粋宗学の確立に向けて
努力を傾注すべきことについては異存はありませんが、然し、純粋宗学確立
のためにはやはり西洋近代の方法論をも参照する方途は避けられないのでは
ないでしょうか。近代の衝撃は仏教の近代化・合理化との帰結に至ったとの
歴史認識・共通認識とすれば、近代以前の仏教解釈に戻れるかどうかについて
懐疑があります。
649
:
文殊
:2006/04/27(木) 01:40:38
更に一重立ち入りますと、日蓮遺文から確実なる真蹟遺文を厳密に択び、
涅槃経の殺人菩薩思想を排除し、純正な法華経思想を21世紀初葉の現代
人にフィットさせるかについても西洋近代の思惟とりわけ倫理思想の参照
が求められるのであり、西洋近代の教育を受けている私たちにとっては、
こうした思考の手順を踏むことは不可避ではないでしょうか。石田次男氏
による六師義批判は当初は強い思潮となるかのように見えましたが、いつの
間にかに減じていった。石田塾はどうなっているのでしょうか。花野充道氏
にも法論をしかけたはずですが、「道心」で石田塾の論議は龍樹の空思想に
基づくものであり、龍樹─天台─最澄の仏教思想の系譜を無視しているとの
反論が行われていました。日朗門流における純粋宗学に対し、非公認の霊断
師の存在は半数を超える勢いと仄聞していますが、このままでは密教化の危惧
もあります。霊断教学は1960年代に学会に対抗すべく成立したというの
ですが。
650
:
文殊
:2006/04/27(木) 02:14:22
別に論点をそらす意図はございません。牧口常三郎氏の価値論は近代学匠・
堀米日淳氏に思想的な影響を与えています。堀込氏は堀上人の古文書研究
には最晩年の三年間を除いて、批判的であり、堅樹日寛「六巻抄」を繰り
返し熟読すれば奥義にいたるという考えでした。福重照平氏「日蓮本仏論」
の先行研究もあるでしょう。しかし、近代の大石寺は宗学の組織化について
は充分ではなかったことは事実です。左へ右へと揺れ動き戦争協力まで積極
的にしてしまった。未だ今日にいたるまで公式に謝罪することなく沈黙を守
っているのが現状です。牧口思想については松岡幹夫氏による近代日蓮主義
の文脈からの研究がありますが、松岡氏とは別に私からは、地理学の思想基
盤、教育改革思想、完器講の系譜に連なる三谷素啓氏との決別の背景、長野
赤化教員の入会、大石寺との確執と全容の解明には多岐にわたります。石山
教学と近代思潮を融会した、全然異質なものを融会した・・・逆にそれをし
なければ大衆受容がなされたのであろうかと。
651
:
乾闥婆
:2006/04/27(木) 02:29:34
犀角独歩さん。文殊さん。
横から失礼します。
>> 広島・長崎の被爆の記憶も風…イラク戦争の劣化ウラン弾も忘却
>この二つは、ハンディーキャップ問題と併せ、日蓮以上に、わたしの主要テーマです。
しかし、ここに花野さん・末木さんの脈絡は、全くといってよいほど感じられませんが、これはわたしの誤認識でしょうか。
末木文美士氏の近著『仏教vs.倫理』にて、アウシュヴィッツ以降の倫理はいかに可能かを追求しているアヴィシャイ・マルガリットの著書『記憶の倫理』を紹介しつつ、その主張であるところの、宗教に替わるべきものとしての「記憶」の重要性の強調に対し、疑義を表明しています。それが以下に引用するような記憶の風化ということのようです。
「それを安易に批判することは慎むべきであるが、はたして生者の記憶の継承だけで、本当に死者たちを受け継いでいけるのだろうか、という疑問は率直に提示されうる。生者の力をそれほど信頼してよいのだろうか。あるいはまた、死者はまったくの過去の中に葬り去られてよいのであろうか。生者の記憶にしても、それを生者だけで継承していけるのであろうか。苦しみ死んだ死者が力を与えてくれなければ、生者だけでなしうることは本当にわずかしかないのではないか。
広島の平和公園の中心には原爆死没者慰霊碑があり、そこには「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」という有名な文句が刻まれている。死者に向かって、過ちをくり返すまいという生者の宣言は、きわめて重いものがあり、その前に立つものを粛然とさせる。しかし今日、はたして死者は安らかに眠っていてもらってよいのであろうか。過ちが次々とくり返され、しかも次第にひどくなってきていることは、あまりにも明らかである。死者に眠っていてもらい、生者だけで過ちをくり返さないようにすることが可能と考えたのは、いささか楽観的すぎたのではないか。
弱い生者は、放っておけば、どんなに愚かなことでも、残酷なことでも、またまた性懲りもなくくり返し、そればかりかエスカレートしてゆく。それを押し止めてくれるのは、苦しみ死んだ死者たち以外にはない。ヒロシマの風化が伝えられて久しい。生者の記憶だけに依存する限り、どんどん風化していくのはどうしようもない。死者たちの声に耳を傾け、死者たちとともに歩むことができなければ、生者の荒廃はとどまるところを知らない。」(P201-202)
その文脈の中で劣化ウラン弾への言及もあり、文殊さんの言われるところの末木氏の死生観への読み込みとは、このような部分についての思いであるのではないでしょうか。
652
:
文殊
:2006/04/27(木) 06:39:05
乾闥婆さん、ありがとうございます。私はまだ末木氏の『仏教vs.倫理』
は読んでいないのです。深く感謝します。東京新聞2006年4月11日
夕刊六面には「これまでの日本の仏教は戦争に深く関与してききた一方
で、ヒロシマの被爆者をはじめ戦争で亡くなった人たちと向かい合う
努力が足りなかったのではないか」「これからの仏教を考えるには、
もう一度過去の戦争について深く考える必要がある」との駒沢大学にて
のシンポジウム「仏教は世界平和にどう貢献できるか」のパネル発言が
紹介されています。中国・韓国との歴史認識問題を考察するにあたって
も仏教者のアクテュアルな発言が求められています。
653
:
犀角独歩
:2006/04/27(木) 06:43:52
文殊さん
わたしは分離は不可能ではないと思いますよ。
ただ、そうして、抽出した日蓮の実像と信仰が、どれだけ、現代に役に立つかどうかという問題は別にあります。つまり、日蓮とは別に、補填するために現代思潮は有効でしょう。しかし、混合はNGです。わたしは、現代思潮を不要とし、日蓮のみを採ろうと言っているのではありません。日蓮の実像と現代思潮は関係ないと言っているだけです。それを無理に融合すれば、実像から乖離すると言っているのみです。
> 日蓮遺文から確実なる真蹟遺文を厳密に択び、涅槃経の殺人菩薩思想を排除し、純正な法華経思想を21世紀初葉の現代人にフィットさせる
これはまさにわたしの管見をよく整理いただいたところですが、しかし、この条件として必要なのは、必ずしも現代思潮であるとはわたしは考えていません。ここで必要なのは世界に共通する人権感覚です。そして、むしろ、他の思考の影響を受けない澄んだ純粋性の保持が必要であると考えます。
宗学の必要性については異論はありませんが、ただし、これは石山独自で作り上げる例えば富士宗学要集を基礎にするようなものでは全くナンセンスです。この確立の基礎こそ、まさに、真蹟遺文でしょう。つまり、全日蓮門下共通の基盤の確立です。
牧口氏の価値論は、今では創価学会の中でも風化してしまい忘れ去られたもので、単に「この信心をすれば功徳がある。幸福になる」という活動と唱題に置換され霧散してしまった感があります。創価学会とか、石山という範疇では昔話に出されることはあっても、今となっては、それこそ、価値のないものとなった以上、議論を重ねる対象ともならないでしょう。ただし、獄死という悲劇に関しては、冷然院感得日常居士の冥福を祈るものです。
霊断教学が創価学会に対抗したというのは、ピンときません。
高佐氏の発想は、神本仏迹から、要は方向を変えて、戦後、日本社会でどうやって生き残りを図ろうとしたのかという視点でしか、わたしは見ません。そこで言われる教学など、およそ議論の対象にするのは時間がもったいないと思います。
乾闥婆さん
アウシュヴィッツ以降について、わたしはもっとも貢献したのは、社会心理学の研究であったと考えます。その点は既に何度か述べてきました。故に今はその点は置きます。
末木さんが劣化ウラン弾や、ヒロシマについて言及するのは、それはそれでけっこうなことでしょう。ただ、わたしは、ピンと来ないのは、たとえば、それは創価学会や、石山が「平和」を語るのと同様な点です。簡単に言えば、では、末木さんはヒロシマ、イラクに共通する核兵器問題で何をしているのか、ということです。
イラクに自衛隊を派遣している与党・公明党とイコールと見られる創価学会の、出版物に登場する末木さんに、言辞と行動に矛盾がないのかということです。
誰が言ったか忘れましたが、「平和を言うだけなら、ヒットラーでも言った」
実際に苦しんでいる人たちにとって、現代思潮で、それを説明してもらっても、何の足しにもならないし、また、その悲惨の状況をメディアを通じてしか掌握しない人々にとって、それを現代思潮でこねくり回して説明したところで、役に立たない、わたしはこの手の言葉の遊戯につきあう時間は惜しいと考えています。
> 文殊さんの言われるところの末木氏の死生観への読み込
その点は十分に承知しているつもりですが、冒頭に記したとおりです。
わたしは末木さんをここで俎上に上げたところで、日蓮の実像を探ること、もっと具体的に言えば、当スレのテーマである「現代人が納得できる日蓮教学」とは結びつかないので、やめにしようと言っているのです。
654
:
乾闥婆
:2006/04/27(木) 14:17:58
犀角独歩さんの言われているところは理解しております。まったくそのとおりであると考えます。
末木氏は『仏教vs.倫理』の中で、では記憶の風化に対して何が有効なのか、それは日本仏教の受け持ってきた葬儀を通しての死者との向かいあいだといい、葬式仏教を鍛えなおすべきだといいます。著者の熱い思いは伝わってきますが、ピンと来ません。記憶に対して制度としての葬式仏教を掲げたのでしょうが、そのような発言を通して何がどう変わってゆくのか、日本人の死者に対するあり方が意識のレベルでどうなるというのか、まったく分かりません。発言が空回りしているようにも思います。そのような制度も結局は風化の道をたどってきているのではないのか。葬儀という制度が記憶の倫理よりも強靭であるという根拠は見えません。
>しかし、ここに花野さん・末木さんの脈絡は、全くといってよいほど感じられませんが、これはわたしの誤認識でしょうか。
確かに末木氏は脈絡から外れているところで発言してしまっているのだと思います。葬式仏教を鍛えなおすることと「末木さんはヒロシマ、イラクに共通する核兵器問題で何をしているのか」ということとは直接結びつくことではありません。まさに制度の内部から核兵器問題にも言及してみた、というに過ぎないのでしょうし、それは末木氏の死生観を表明する際の一項目に過ぎないのではないでしょうか。そういったスタンスに対する苛立ちは理解できます。
>わたしは末木さんをここで俎上に上げたところで、日蓮の実像を探ること、もっと具体的に言えば、当スレのテーマである「現代人が納得できる日蓮教学」とは結びつかないので、やめにしようと言っているのです。
現代人であるところの末木氏は『日蓮入門』などの一般向けの入門書も出されているのですから、その著者の主張が現代人にいかに納得されえるのか納得されえないのかが議論されることは、私のような素人にはとても参考になります。高いレベルで議論されている方々には申し訳なく思いますが、犀角独歩さんと文殊さんの議論をROMさせていただいて、とても勉強になります。もちろん文殊さんは高い学識を持っておられるのですから、なおさらです。
655
:
文殊
:2006/04/27(木) 14:29:51
犀角独歩さん
世界に共通する人権感覚が前提であることに私は心から同意します。
基本的人権・自由の全面的な尊重・多元的民主主義・法の支配は共通
認識であり、人権諸条約に抵触する殺人思想・宗教はカルトであり、
いかなる理由があろうとも21世紀の世界にあっては不許容性を有し、
抵抗権等の違法性阻却事由は成立しません。
現代思潮から日蓮を解読することは、日蓮の実像と信仰から明らかに
乖離することになる虞があるので今後自戒していきます。
「富士宗学要集」は石山中心史観そのものであり、編纂の堀師自身、北山
文書でも石山に都合の悪い文書は載せなかったので、全日蓮門下共通の普
遍性は21世紀において普遍性は有しません。各山貫首が一同に集まり、
会議を開き今後日蓮門下として真蹟遺文を宗学の基礎とし、教義体系の
再構築を図ることを前向きに話し会うべきでしょう。各山のアーカイヴ
史料を全面的に公開し、資金を拠出して図書館の建設がまずは第一歩です。
656
:
文殊
:2006/04/27(木) 18:59:23
全日蓮門下共通の普遍性は有しませんに訂正します。
乾闥婆さん、知識人の役割と実践者の役割は重なり合うこともある
反面、違う部分も表出されるのではないでしょうか。末木氏は文献
読解中心の知識人であって、サルトルのようなアンガージュマンは
しないわけです。別にイラクに行って劣化ウラン弾被害の実態を告発
したわけでもない。それならば高遠菜穂子氏のイラク体験の重みに勝る
ものはないでしょう。それでも、宗教史の語り手がいなくていいのかと
いうとそうでもない。宗教そのものが知らない人々に啓蒙的な書籍を廉価
な新書で綴るとの役割も大事なのです。末木氏の思想が間違っているか正
しいかは別として、宗教史の、日本仏教史の素描を提示があって、それを
いわば議論のたたき台としての役割があります。
657
:
乾闥婆
:2006/04/27(木) 23:25:06
文殊さん。
言われるところは分かるのですが、知識人がある程度その非実践性を批判されることは致し方ない部分であると思います。サルトルが社会への自己投企を言うとき、是非はともかく、それは知識人としての良心が言わしめ、行動に駆り立てているのではないでしょうか。そのような行動を伴わなければ、何の意味もないとはもちろん言いません。しかしそのような批判にさらされることは一面しかたがないように思います。末木氏の『日本仏教史』が新潮文庫版で出ておりますが、そのような営為は大事なことと思います。『仏教vs.倫理』を一読して、思いのたけ述べているな、という感想とともに、これはある程度批判にさらされるのではないか、との危惧も抱きました。その意味で文殊さんの言われる議論のたたき台としての機能は十分に果たしていると思います。また新書にまとまる前の掲載紙が『寺門興隆』であってみれば、その呼びかけはある種の切実さを伴ったものではあるのかもしれません。
658
:
犀角独歩
:2006/04/28(金) 07:23:40
文殊さん、乾闥婆さん
所謂「叩き台として」の末木本という議論の運び、面白い展開であると拝読しました。わたしはこの点については、乾闥婆さんのご意見に賛同します。
廉価な新書・文庫の仏教書の流通が一般大衆の認知に有効か否かという問題があります。わたしは、この手の本が仏教書であるという考えにそもそも反対です。また、仏教を解説する場合、これを現代思潮の観点から分析するという手法に、そもそも反対なわけです。極端な話、キリスト者によって解説された仏教は、もはや、仏教を正確に偏見なく、客観的な立場で素描できたものであるかどうか、わたしは、そうは言えないであろうと考えるからです。
体内・体外という観点は体外のみがまず章安述で見られ、妙楽で闡明になりますが、およそ仏教を述するのであれば、体内からものでなければ、仏教書とは言えないのではないかという思いがわたしにはあります。結局のところ、外側から見て、さらにそれを現代思潮から論じたところで、日蓮の素描になどなるはずもありません。そもそも、日蓮は現代思潮以前の人です。ですから、日蓮の素描は、その時代の、そして、日蓮の確実な資料を基盤としてなされてしかるべきです。
勿論、そこでしっかりと素描された日蓮を、では、現代という時代に置く際に、現代思潮から、どう映じるのかという視点は一面、あるでしょう。しかし、体外から日蓮理解が、では当を得たものになるかどうか。わたしが、文殊さんが提示される如く、論評その他によってもたらされる違和感はここにあります。つまり、論評すべき、日蓮が正確に認識されていないという根源的な欠陥です。
この点は、本覚解きで日蓮を素描した上で成り立つ所論にも同様の違和感があるという意味でもあります。
「文献読解中心の知識人」という点ですが、では、その範囲に留まった所論であってしかるべきではないのか、飢えて死に、放射能被害で塗炭の苦しみを味わう人には意味を有しません。実際に苦しみにあえぐ人を文献読解の知識から解読する人・それを読むだけの人、いったい、どのような意味を持つというのか、わたしはむしろ憤りすら感じます。
659
:
犀角独歩
:2006/04/28(金) 07:25:14
【658の補足】
「極端な話」とは「極端な話で例を引けば」ほどの意味です。
660
:
文殊
:2006/04/29(土) 16:23:24
犀角独歩さん、お言葉ですが、「文献読解中心の知識人」の存在は
不可欠です。たとえ少数であっても、漢文・サンスクリット・パーリ・
チベット・西夏語の読解できる語学力のある知識人による啓蒙的な
仏教書(岩波に代表される)はそれ自体貴重です。オウム真理教に
入った理系エリートは仏教も宗教について何も概説的な知識すら知
らず地下鉄にサリンを撒いたのです。末木さんにご不満はおおいに
あるでしょうがまづは啓蒙的な宗教知識(21世紀版「八宗網要」)
がとりわけ若い世代に必要です。顕正会問題も啓蒙的な宗教知識の
不在から起因しています。「体内」といっても既に西洋近代を完全
に排除して妙楽の昔にかえることも不可能です。然し小川隆氏が中国
禅宗史の厳密な中国語読解研究アプローチを通じての「同時代の現代
性」の探究は可能です。
661
:
犀角独歩
:2006/04/29(土) 17:15:27
文殊さん
論点がずれています。わたしは、「日蓮の実像の素描」にはという条件で記しているのですよ。
662
:
犀角独歩
:2006/04/29(土) 17:27:03
文殊さん、それともう一点。
また、あなたの論法では、オウム真理教の地下鉄サリン事件が、「啓蒙的な宗教知識」によって起きたような論調ですが、これは全くの見当はずれな分析です。
これは全くの見当違いです。
涅槃教のなかに折伏という名の殺人が肯定されていますし、日蓮はそこから、念仏信仰の首を刎ねろと殺人を促しています。あなたの論法からいけば、日蓮は啓蒙的知識がなかったために、この馬鹿げた発言をしたことになります。問題はそのような点にあるわけではありません。人権、人命を宗教よりも軽いものと見なした受容姿勢にこそ、問題があったのです。
また、顕正会についてオウム真理教と同列に扱っていますが、しかし、あなたが信じ行じている石山信仰と、世はこの一派を括っています。あなたの信仰と顕正会と一体、何が違うというのでしょうか。
むしろ、そのような過ち、具体的に云えば、偽物4点セットの信仰はやめないかと常識と分析からあなたに勧めています。
663
:
犀角独歩
:2006/04/29(土) 17:43:16
さらにもう一点足せば、わたしは、文殊さんは656に
啓蒙的な書籍を廉価な新書
末木氏…宗教史…日本仏教史の素描…議論のたたき台
ということに応じて、左記の通り記しました。
ところが660になるとその廉価な新書が「漢文・サンスクリット・パーリ・チベット・西夏語の読解できる語学力のある知識人による啓蒙的な仏教書」とまるで違うことになってしまっています。
わたしは言語・翻訳について、漢訳仏典を基礎にする日本仏教を根元的に見直されるべきであるという考えを通じて指示してきました。それ故、松山師の法華経講義へ自らも参加し、また他の方の参加も促してきました。その観点からも、「廉価な新書」の仏教書の必要性をいった点に異議を述べたのです。
このような論理のすり替えはやめていただくように勧告いたしておきます。
664
:
犀角独歩
:2006/04/29(土) 17:45:23
【663の最初の4行を訂正】
正)さらにもう一点足せば、わたしは、文殊さんの656の
啓蒙的な書籍を廉価な新書
末木氏…宗教史…日本仏教史の素描…議論のたたき台
ということに応じて、先の通り記しました。
665
:
犀角独歩
:2006/04/29(土) 22:02:24
わたし、書き違えておりますね。
修正します。
誤)オウム真理教の地下鉄サリン事件が、「啓蒙的な宗教知識」によって起きたような論調
正)オウム真理教の地下鉄サリン事件が、「啓蒙的な宗教知識」があれば、起きなかったような論調
666
:
文殊
:2006/04/29(土) 22:52:34
オウム真理教に入って幹部に上り詰めた理系エリートは、これは第二次大戦
後の宗教色を完全に排除した教育(日教組主導)を受けて、啓蒙的な宗教知
識すら知らないまま、チベット仏教の流れを汲むオウム真理教に遭遇して、
地下鉄サリン事件で殺人教義を実行・着手した経緯を申しました。さらに、
一般在家信者は中沢新一『チベットのモーツァルト』を読んで、日本にも
チベット仏教の体験ゾーンがあるとの認識で、オウム真理教に親近感を覚え
飛びついていったのでした。もしチベット仏教が後期印度密教の流れであり、
教判論からいえば方等部に摂属されるとの基礎的な教学知識があれば、違う
選択もありえたと思うものであります。日本の仏教・宗教研究者、現代思潮
の哲学者をはじめ、親鸞、道元に比し日蓮を真正面から論じたものが少ない
中、末木氏が比較的論じているので、内容はともかく、書いていること自体
評価しているということです。もちろん、彼の思想基盤は禅の現代思潮的解
釈(論敵・小川隆氏から厳しく難詰されています)であり、正確な日蓮解釈
ではありません。あくまでも参考程度です。ただ新書での仏教解説・宗教史
素描は高校生向き・大学一年の教養にはいいのではないかというのが私の趣
旨です。私の信仰観ですが、大石寺蔵真蹟遺文『新田殿御書』に日蓮の重要
な示唆があると思います。
667
:
文殊
:2006/04/29(土) 23:23:47
13世紀と国民国家成立以後の近現代とでは明らかな断絶があります。
13世紀日本では刀丈携行が許されていた。武器所持が合法的の時代
と銃刀法で携行が非合法である現代日本とでは位相が異なります。
アメリカ合衆国の拳銃所持は人間精神の堕落です。中世と近現代との
異目は生命倫理にあると考えます。ゆえに『立正安国論』の「涅槃経」
引用「殺人菩薩肯定思想」は21世紀日本・世界にあっては依用する
ことはできません。『観心本尊抄』の「賢王」思想はイラク戦争のネオ・
コンサヴァ思想をややもすると想起されあらぬ誤解を受けかねません。
遺文解釈に際しては、自身の倫理観が高いか低いかによって読み方が
全く様相を異にします。顕正会には倫理が不在のゆえに危険性が孕んで
います。
668
:
文殊
:2006/04/29(土) 23:44:11
『立正安国論』に見る念仏批判は「念仏者追放宣旨事」を京都のみならず
鎌倉でも幕府は実行せよとの趣旨ですが、現代では依用することはできま
せん。解釈には当然、何を捨てて何を遺して後世に伝える義務があります
ので、この時に幾多の宗教戦争の惨禍をくぐりぬけてきた西洋近代の哲学
思想に学ぶべきものは少なくありません。現代思潮との混同には禁欲を課
しつつも、取捨選択の基準に西洋近代の哲学は参照しうるでしょう。逆に
その努力を怠っている顕正会には殺人思想の内在化が懸念される。
669
:
文殊
:2006/04/30(日) 00:00:25
革命家・犀角独歩さんによって、石山聖地信仰も日興神話も破壊され
ました。「富士清流神話の瓦解」です。さてこれからこの歴史的建造
物の瓦礫が一面に広がっている荒地に、六本木ヒルズのような超高層
建造物を建てるのが犀角独歩さん、表参道ヒルズのような前時代の記
憶を一部遺すのが私との方法論が異なります。羅什訳漢文仏典の根本
的な見直しを図り釈尊の真意と日蓮の実像を探究される犀角独歩さん
とサンスクリット・パーリ・チベット・西夏諸仏典の最新の研究の成果
をふまえつつも漢訳仏典にも一定の評価を与えるのが私の立場です。
末木氏から話が広がりすぎました。
670
:
パンナコッタ
:2006/04/30(日) 01:15:26
横レスですが、
「新田殿御書」は御遺文対照記で確認されましたが、今は石山曾存ですよ。(平成新編参照)
671
:
文殊
:2006/04/30(日) 06:10:47
パンナコッタさん、ご教示ありがとうございました。以前拙稿で『一代
聖教大意』の「秘蔵の大事」で蓮祖が叡山遊学時代に学んだ所謂講学上
本覚思想を窺わせるものとしましたが、宝智房証真の義でした。訂正さ
せていただきます。
672
:
犀角独歩
:2006/04/30(日) 07:46:00
文殊さん
あなたは、わたしの書いている意味がわからないのでしょうか。
繰り返しますが、オウム真理教の一部、地下鉄サリン事件に関与した教祖・麻原と幹部たちは、啓蒙的宗教認識の不足から大量殺人を犯したのではありません。
むしろ、修行者たちは菜食を好み、蚊・ゴキブリすら殺さない集団生活を好むというまったく逆の様相もみせています。そのような不殺生を貫くはずであった彼らが、なぜ大量殺人を犯していったのか。実はこのテーマは先般、東大先端科学技術研究センター特認研究員である島田裕巳師が企画した『オウム真理教事件から考える日本社会とテロリズム』の根幹をなすテーマでもあったわけです。いうまでもなく、島田師は、オウム問題では中澤師と並び評される一人でした。そのかつての研究者が、啓蒙的宗教認識が犯罪抑制につながらないことを、当然のことながら、認識し、テロリズムを引き起こす各種要因を考えるために開催したシンポジウムでした。むしろ、正しい認識とアプローチであるとわたしは評価しました。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50461900.html
あなたはどうやら、啓蒙的な宗教認識があれば、彼らが大量殺人をしないですんだと思っているようですが、問題はそんなところにありません。
また、13世紀、すなわち、日蓮の時代と現代が断絶があることは、むしろ、わたしが記してきたことでした。しかしだからといって、現代思潮で日蓮を考えれば、実像に迫れるというものではありません。むしろ逆であるといっているわけです。
あと、あなたは、「殺人」という側面から顕正会の非を説きますが、この団体は高校生を中心に強引な勧誘をするという点が社会問題化しています。つまり「子供だまし」です。
一方、あなたが信徒である団体は、『宗教年鑑』の記述に従えば、最高数1800万信徒を数え、一つ正本堂供養を採っても800万人、375億円の集金を受けた団体です。この信徒献金の根拠は、彼の模造品である彫刻でした。これを日蓮の本懐の究竟の本尊であると1000万人もの人を誑かし、莫大な金品のみならず、善良な人心を破壊したのです。戦後最大の宗教経済被害という犯罪実行の団体であるとわたしが言う所以です。
あなたは、では、なぜ、このような宗教犯罪に荷担しつづけているのでしょうか。あなたが末木さんも含めて通じ、摂取しているであろう現代思潮は、この宗教犯罪の停止になんら効力がないのは何故でしょうか。
オウム真理教の実行犯に、仮に現代思潮の正確な認識があったところで、彼らがテロリズムの必要性を感じれば、必ず実行したことでしょう。それは、あなたが啓蒙的宗教認識を夢想しつつも、結局のところ、戦後最大の宗教犯罪集団から出られない理由と、実は同様の心理メカニズムによっているのでしょう。
はっきりと言いますが、あなたが所属している団体は子供だましの顕正会より、社会的悪影響を実際の被害度においては比べものにならないものです。目くそ鼻くそを笑うという言葉もあります。顕正会の社会問題をいっているより、あなたの所属している集団のほうが規模といい、やり口といい、はるかに問題ではないでしょうか。なぜ、あなたはその点に気付けないのでしょうか。
そして、あなた自身がいうように、あの見せ物小屋に鎮座させている模造品を、あなた自身その真偽を言うことも出来ない。そんなことで、何として、啓蒙的宗教認識など、人にと問えるものでしょうか。
もう一点、あなたが漢訳仏典に一定の評価を‘与えざるを得ない’のは、上述する集団の固執から生じた個人的なご都合であるとしか、わたしには思えません。なぜならば、あなたがいうような啓蒙的宗教認識が確実な形で具体化すれば、漢訳仏典、梵本とはかけ離れた発展を遂げた‘別のものである’ことは、むしろ、明瞭になっていくからです。
自己弁明のために啓蒙的宗教認識を振りかざすのか、或いは、そこに本当に救いを求めているのか、そのどちらか、もしくは両方であるかは明瞭ではありませんが、あなたのいうところに説得性がなく、不誠実と感じるのは以上の理由からです。
以上のような集団に属するあなたが啓蒙的宗教認識を云々するなど、まことに片腹痛い思いがあるということです。
なお、『新田殿御書』に重大な日蓮の示唆があるというのであれば、具体的にその理由をここに記し、問うことが議論の在り方です。
673
:
文殊
:2006/04/30(日) 08:23:49
どうしていつも板本尊論議なのでしょか。極論に走りすぎです。
犀角独歩さんは過去に複雑な思いがあるでしょうが、あまり
感情的な議論はいかかがなものでしょうか。私は誠実に対応
していますよ。板本尊が偽者だからといって日蓮宗の本尊観
がいいかというとそうでもないわけです。だから今試行錯誤
の時期、過渡期なのです。結論は急ぐべきではない。島田氏
はオウム事件の時は責任の一端はあります。宗教学者として
です。中沢氏は自身の著作物に製造物責任があります。何も
知らない読者がいきなり『チベットのモーツァルト』を読ん
でカルト団体に走った要因はさまざまあるけれども、一つは
戦後教育の弊害の一つである宗教知識の不在によるものと記
しただけで、何もそこから板本尊批判にいくのは論理の飛躍
がありすぎです。
674
:
犀角独歩
:2006/04/30(日) 09:08:42
文殊さん
なぜ、石山の彫刻を論じることが極論なのでしょうか。
当然のことでしょう。
科学を論じる際、天動説を指示する学者の話を大衆が聞かないように、日蓮を語る際に、彫刻が本物であるという人間の話を聞く人間はいないでしょう。むしろ、そんなことを騙って憚らないその心理構造の問題を指摘しなければならないということです。
感情論でもなく、わたしの過去の「複雑な思い」などと収斂されることではありません。
彫刻の模造事実を秘匿して、啓蒙的宗教認識があれば、事実が解明されるなどということは夢想に過ぎないという指摘に過ぎません。
これは、わたしにおける誠実な対応です。
極論というのは、たとえば、あなたが仰るように啓蒙的宗教認識があれば、地下鉄サリン事件が起きなかったなどという類にこそ言えます。
むしろ、この問題を避けるあなたの在り方のほうが感情的であると映じます。
島田師、中澤師に、仮にオウム真理教地下鉄サリン事件の責任があるというのであれば、彫刻を本物であるということには道義的責任はないのでしょうか。
わたし自身、中沢師の著述は、もちろん、読みましたし、当時、特にチベット研究者との親好もありませんでした、それでも、その著述からオウム真理教に入ることはありませんでした。また、オウム真理教の信者数と、石山・創価学会・顕正会の信徒会員数など、比ぶべくもないものです。
また、殺人という問題をいえば、大東亜共栄圏、八紘一宇、天皇本仏論といった日蓮主義が、では、荷担した戦争殺人の責任は、オウム真理教より軽いのでしょうか。小笠原慈聞師にせよ、当時の石山僧俗にせよ、この問題に荷担していませんでしたか。
他のことは客観的に論じながら、あなたはご自身の信仰については主観的自己弁明に終始しているようお見受けします。
日蓮門下、殊に富士門流、取り分け、創価学会を含む石山圏内で、第一に論じるのは彫刻問題、次に日蓮本仏論その他の日寛教学、このハードルを越えずして、日蓮門下一般とのまともな会話も成り立たないのは、理の当然です。この点を避けて通るあなたの在り方にわたしは不思議を覚えます。
そもそも、わたしが何ゆえ、日蓮宗との通用があるのか、それは、この問題を決して避けて通らないからです。
また、あなたが学僧という人々、花野氏、興風檀所各位への評価は、学術的方向で一定の評価を得ながら、彫刻比定を出来ない点について、冷笑を買っている場面には常に出くわしています。本人に告げられることがなくても、その点が壁になり、それ以上に進まないならば、その障害を取り除くことを提案するのは、むしろ、あなたがいう啓蒙的宗教認識の、石山問題の最大の課題である所以からです。さらにいえば、それら人々を惜しむ故の提言以外の何ものでもありません。
675
:
犀角独歩
:2006/04/30(日) 09:19:21
もう一点書き足せば、あなたがいう啓蒙的宗教認識には、何故、石山彫刻本尊の真偽問題は入らないのでしょうか。
わたしにおける啓蒙的宗教認識の第一歩は、この彫刻が模造品であることを、世に告知することです。それを避けて通り、現代思潮から云々するあなたの在り方を、わたしは不誠実であるといったのです。
問います。石山彫刻の真偽を論じることが、なぜ、啓蒙的宗教認識に入らないのでしょうか。
676
:
今川元真
:2006/04/30(日) 10:22:33
横レス失礼します。◆◆ 【聖徳太子、天台圓宗、天台密教、日蓮仏法、法華六弟子、江戸国風文化脱亜入欧、天照奉戴、高度経済成長、借金大国】◆◆正道の志は睡蓮or不可思議な因果倶時の蓮華◆◆ビシュヌor日蓮仏法◆◆シヴァor最後真理教◆◆豪族時代、皇族時代、武士時代、軍事時代、経済時代◆◆諸行無常or一念三千
677
:
今川元真
:2006/04/30(日) 10:29:36
すいません。点が一つぬけてました。《江戸国風文化、脱亜入欧》
678
:
文殊
:2006/04/30(日) 16:35:43
啓蒙的宗教知識はあくまでも概説的な仏教知識です。本尊論は基礎教学を
習熟した段階ではじめて奥義として感得するものでしょう。帰命の義から
見れば、自分の有限の生を本尊に「一心欲見仏不自惜命」の行業を捧げる
ものでしょう。日蓮宗関係者が花野氏等日興門流学僧を冷笑しているとい
いいますが、雑乱勧請の日蓮宗寺院の本尊奉安様式をまづは石山批判の
前に省みるべきではないでしょうか。犀角独歩さんが石山圏本尊観を痛烈
に批判されていますが、石山圏から所属団体の変更手続を通じての離脱は
少数にとどまるでしょう。過去にも有名な安永弁哲氏、松本勝弥氏、横浜
に大本尊、保田妙本寺離脱、河辺メモと偽作論がありましたが、離脱まで
はいたらなかった。問題は「出エジプト」を果たしても、荒地を彷徨なけれ
ばいけないからです。犀角独歩さんの伝統的富士門流批判は慈雲に通じる
ものがあり敬意を表します。
679
:
kabata
:2006/04/30(日) 18:20:46
一見で恐縮ですが、文殊さん。
なんで諸尊の別勧請がいけないんでしょうか。
雑乱勧請というのは一方的な悪口でしょう。
曼荼羅本尊に記されているものを、それぞれ尊像として祀っているだけです。
それがいけないというのであれば、仏像を祀った日蓮聖人もいけないというのでしょうか。
また、清澄のご修行の時代は虚空蔵菩薩様のお像も拝んでいますよ。
独歩さんが板マンダラを批判するのは、偽物であり、伝説も嘘だからでしょう。
それに対して、別勧請は、一つの奉安の在り方です。
偽者を祀っている宗派にとやかく言われる筋合いはありません。
680
:
顕正居士
:2006/04/30(日) 19:09:47
そうですね。別勧請は問題ないですね。そういう考え方は遂に宗祖の曼荼羅を否定し、
一遍首題とか一尊四士でないといけないまで進みます。さらに宗教の芸術性を破壊し、
救済感が存在しない、カルト信仰の土壌になるでしょう。
681
:
一字三礼
:2006/04/30(日) 19:14:23
横レス失礼します。
kabataさん
> 曼荼羅本尊に記されているものを、それぞれ尊像として祀っているだけです。
本当ですか。
私は、身延山久遠寺でたくさんの別勧請とやらを見てまいりましたが、曼荼羅本尊に記されているとは思いませんでした。
たんに、日蓮宗の信仰が民間信仰と混ざって俗信化しただけのことではないでしょうか。
1 北斗妙見菩薩
2 大黒天
3 最上稲荷
4 常護菩薩
これらの諸尊は日蓮御筆曼荼羅のどこに勧請されているのでしょうか。
「御本尊集」(立正安国会編)の番号で示してください。
682
:
問答迷人
:2006/04/30(日) 19:18:42
文殊さん
僕は、かつて、本門戒壇板本尊の信仰者でした。河辺メモを読んでから、これは変だな、と思うようになりました。河辺メモが捏造されたものではなく、河辺師の直筆であることが判ってからは、さらに変だと思うようになりました。決定的だったのは、宗門の言い訳、ことに河辺師に言わせた言い訳、これが決定的でした。日顕師が話したことがそのままメモされている、という確信に到りました。そして、日顕師が宗門において、真蹟曼荼羅の鑑定を得意にしている方であられることを知るに及んで、本門戒壇板本尊が真っ赤な偽物であることを確信するに到りました。
河辺メモにある日禅授与曼荼羅を是非見てみたいものだと思っておりましたら、友人が見せてくれた北山本門寺のパンフレットに小さいながら写真が掲載されていました。これをコピーして、スキャナで取り込んで、ネットにアップしましたところ、犀角独歩さんが、詳細な分析を加えて、本門戒壇板曼荼羅の写真と比較検討して、河辺メモの記載内容が正しいことを証明してくださいました。時の日蓮正宗管長の偽物発言が正しいことが、図形の上から裏付けられたわけですから、これ程の雄弁な偽作論は未だかってなく、その破壊力の凄まじさは、日蓮正宗の活力を根底から奪ったと思っています。
後世に、その時の宗門の都合で偽作された板曼荼羅を、あたかも日蓮聖人が建立したものと偽り、信徒を集めたこと、これはまれに見る悪質極まりない宗教に名を借りた詐欺行為だと僕は考えています。国法は、これを裁くことは無いかもしれないが、裁かれなければ何をしても許されるわけでは有りません。日蓮正宗関係者は、片鱗の道心が有るなら、直ちに真実を信徒に告げ、謝罪し、長きに亘って宗教界、並びに日本国民を欺いてきた罪を懺悔すべきだと思います。又、日蓮正宗に所属する僧俗は、この事実を厳粛に受け止め、法衣を脱ぎ、信徒を辞めるべきだと思います。それが、偽りの流布に知らずとはいえ、少しでも協力してしまった償いの第一歩で有ると思います。それが道念と言うものでしょう。
先ずは、誤れるものを捨てること、そして、誤れるものを流布した罪を懺悔すること、ごめんなさい、ということから再出発が有ると思います。日蓮聖人の教えを探求するのも良いですが、懺悔の無い探求は、何の価値も生まないことは、どなたもお分かりのことだと思います。かのホリエモンの釈放の第一声が、「ご迷惑をお掛けしてごめんなさい」だったように、そこから始めなければ、何らの価値も意味もないと僕は思います。
僕は今は、一切の日蓮正宗の活動から手を引きました。参詣も全て止めました。心配して連絡をくれた人には、板曼荼羅が偽者であることを必ず伝えるようにしています。今では、僕は、お寺では行方不明扱いになったそうです。だから、もう籍も有りません。連絡も来ません。
信徒であることを先ず止めること、ここからしか何も始まらない事を、蛇足ながら、お伝えしておきたいと思います。
683
:
問答迷人
:2006/04/30(日) 20:48:27
文殊さん
追伸です
>問題は「出エジプト」を果たしても、荒地を彷徨なければいけないからです。
戒壇板本尊を否定した当初、僕も荒野を彷徨する思いがありました。しかし、今は、そんな思いは微塵もありません。
日蓮聖人の教えは、三つ秘法に尽くされています。戒壇義は明らかでないものの、本尊義、題目義については、日蓮聖人が既に明らかにしておられると拝しています。
本尊抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」とある通りに、曼荼羅を拝して中尊の南無妙法蓮華経の五字を信じて南無妙法蓮華経と唱える所に、仏の教えの全てが譲り与えられる、という信仰に徹することだと存じます。その曼荼羅が大石寺の板曼荼羅でなければならないとか、その写しでなければならないとか、五老僧門流に伝えられた曼荼羅には功徳が無いとか、そのような日蓮聖人の与り知らぬ教義をかなぐり捨てて、純粋に日蓮聖人の教えに立ち戻ることが先ずは必要なことであろうと思っています。ちなみに、僕は、今も、顕師書写に依る、所謂特別御形木本尊を安置して、日々勤行唱題に励んでおります。この事が日蓮聖人の教えに外れるとは考えられないからです。
684
:
文殊
:2006/05/01(月) 00:16:10
問答迷人さん、私は日興門流の流れを汲む者として、十界互具曼荼羅
本尊は広宣流布の時までは必要であると考えます。宗祖が仏像を日日
礼拝してきたことは存知しています。但し、池上での臨終直前には、
一体仏をお下げして大曼荼羅を掲げました。これが日蓮宗宗定本尊の
臨滅度時本尊ですね。日蓮宗の信徒に御形木を授与のみに局限すれば、
問題はないわけです。現実対機の観点から一般信徒には毘沙門天、鬼
子母神、馬頭観音を拝ませている。入り口は間口が広くても何時にな
れば曼荼羅本尊に専念できるのか、日蓮宗寺院の奉安様式を見ても疑
問があります。富士門流は基本的には一体三宝・別体三宝を護持して
います。あえて別勧請する理由は民間信仰を法華一乗の体内に開会し
たことでしょうか。河辺メモの時の日蓮正宗管長は昭和38、9年頃
から松本佐一郎氏の影響で本尊研究・鑑定を始めたので長年の研究で
偽造と鑑定しましたことは熟知しています。
685
:
文殊
:2006/05/01(月) 00:22:53
顕正居士さん、別勧請は問題はないとの仰せですが、もう少し
根拠と理由を詳説してください。優秀な方と拝察されますが、
論理的過程が省略されているので、なぜカルトの土壌になる
のか、丁寧に説明していただけないでしょうか。
686
:
文殊
:2006/05/01(月) 00:42:03
宗祖が一体仏を拝んでいた事跡があったからといって、この末法
五濁の荒凡夫に宗祖の行は真似はできません。既に正像の禅定三昧
に専心することは機根が衰えています。宗祖は法華経の文字は仏と
の感得する激しい修行の結果、自在無碍に自然万物を本尊と可視で
きる仏知見を有しておられるわけです。宗祖の行とわれわれの行は
異なると思います。かくして散心・雑念が強い本未有善の荒凡夫に
は曼荼羅本尊に対して、方便・壽量二品読壽唱題が至当ではない
でしょうか。
687
:
乾闥婆
:2006/05/01(月) 00:48:41
犀角独歩さん。
>廉価な新書・文庫の仏教書の流通が一般大衆の認知に有効か否かという問題があります。わたしは、この手の本が仏教書であるという考えにそもそも反対です。
よく分からないのですが、末木氏の『日本仏教史』は仏教書とはいえないということでしょうか。近世までの日本仏教通史としてはコンパクトにまとまったよい本だと思っていたのですが・・・私が創価学会の思考から大きく解き放たれたのは角川文庫版の『仏教の思想1』で増谷文雄氏の文章に触れたことがきっかけでした。廉価な新書・文庫によって仏教の入門書が流通することは、よいことだと思うのですが・・・末木氏の『日本仏教史』などを創価学会員も読んでみればいいのにと思いますし(そうやって自宗派の正当性に固執する視点を少しでも相対化できればいいと思いますし)、そのような廉価版の仏教書(であると私は思っているのですが・・・)が仏教を専門的に学んでいるわけではない人の手に取りやすく流通していることの意味は小さくないと思うのですが、いかがでしょうか。
688
:
顕正居士
:2006/05/01(月) 00:55:43
>>685
>>680
の理由に尽きます。あとは別勧請にどういう理由で問題があると思うのか、
その方の意見を聞かないと批評ができないです。文殊さんのご意見でなく、
智学居士のでも、日生師のでもよいですが。どういう考えからかを聞かないと。
689
:
孤独な迷子
:2006/05/01(月) 00:59:40
問答迷人 さん
ご無沙汰しております。
>今では、僕は、お寺では行方不明扱いになったそうです。だから、もう籍も有りません。連絡も来ません。
籍が無くなったというのは、某かの連絡があったのですか。
690
:
顕正居士
:2006/05/01(月) 04:08:16
>>681
一字三礼さんの御質問にはkabataさんが先ず答えるべきでありますが。
「曼荼羅本尊に記されているものを、それぞれ尊像として祀っている」わけではないという趣意ですね。
自筆の曼荼羅に勧請された諸尊は、日蓮聖人の信仰が篤かった仏、菩薩、神々といえますが、
それらを善仏、善菩薩、善神祇とし、勧請しなかった諸尊を悪仏、悪菩薩、悪神祇とする思想があった
わけではありません。一切の仏、菩薩、神々が法華の会座におられたという思想なのは明白です。
別勧請の対象を日蓮聖人が勧請された諸尊に限定する理由はありません。
さらに一字三礼さんが挙げられた諸尊は「俗信」ではありません。日蓮宗の興起以前から、法華信仰
と習合していました。しかし天台神道ではそれほど重視せられなかったので、日蓮神道では本門を表
とする教義から、これら諸尊への信仰がさらに興隆したのであろうと考えます。
691
:
犀角独歩
:2006/05/01(月) 05:13:32
文殊さん
わたしはあなたに「石山彫刻の真偽を論じることが、なぜ、啓蒙的宗教認識に入らないのか」と675で問うています。これを無視して議論を進めるやり方は、当掲示板の投稿の姿勢としては、甚だ不可であるいうほかありません。
また、あなたの考えは、日蓮滅後に興った漫荼羅を本尊とする、「漫荼羅正意」論を恰も日蓮の本義であると決めつけた形で進んでいますが、それは富士門下の改変であって、日蓮とは関係がないことは、ここでは論じられてきました。日蓮が、漫荼羅を本尊とした証拠はありません。
さらに日蓮が臨終に当たり、枕辺に漫荼羅を懸けたというのは、単に伝説なのであって、事実である証拠は何一つありません。
kabataさん
はじめまして。わたしの考えを端的にまとめていただきまして有り難うございます。
仰るとおりで、模造偽物の彫刻を拝むものが、別勘定云々で他山を批判するなど、「盗人猛々しい」ことであると嗤うほかありません。また、それがここ50年間の日蓮宗の言い分でしょう。
別勧請と雑乱勧請について。一字三礼さんが仰るように、漫荼羅に勧請されない諸尊もまた、祀られるのわけです。けれど、たしかに仰るような形も当然あります。それはともかくとして、漫荼羅に勧請されたものを別に祀って何故悪いのかというのは、尤もなご意見であるとわたしは思います。
日尊、日順などは、漫荼羅図は戒壇に奉安される仏像配置の設計図の如きを言うことは、既に顕正居士さんも挙げられた点で、いわば、別勧請造像奉安は、その類型と見なせることで、これを比定する根拠は「広宣流布以前」というほか、ないとも考えられます。
また、勧請されていないものを祀るのはどうかという点では、定まった考えをわたしは有していませんが、しかしながら、一方で他の問題もあることを指摘できます。つまり、日蓮の現存漫荼羅に勧請されていない諸尊を、漫荼羅に書くことは、では、日蓮に違反しないのかという点です。石山も他派を真似てはじめたという導師漫荼羅を称されるものには閻魔法皇等が勧請され、これは日寛も書いています。また、日寛が地域の土俗信仰の諸尊を漫荼羅に記した事実を石山は秘匿しようとしているといいます。さらに、「奉書写之」と記して漫荼羅を書きながら、実際には彫刻の座配と違っていることは、細井日達氏が精道の名乗りの時代記述から明らかになっています。その後、石山では書写と言いながら記述内容の相違を「内証を写す」などと苦しい弁明をし、その追及はここでも何度か行ったところでした。
日蓮は弘安期でも釈迦仏像の造立を賞賛する消息を残すわけですから、漫荼羅が釈迦像に代わる本尊であるはずはなく、昨日の議論の流れは全く日蓮の意図に反したものであるといわざるを得ません。その意味において、686に文殊さんが記したことは全く不可です。そもそも日蓮真跡遺文といわず、御書全般でも「荒凡夫」などという考えは見られません。
乾闥婆さん
仏教の解説書は仏教書ではないという意味での記述です。
法華経入門という本がある場合、この本は解説書であって法華経ではありません。
この手の解説書のなかで、殊に富士門下などで必携の書を挙げるとすれば、わたしならば執行海秀師の『日蓮宗教学史』を薦めます。
692
:
問答迷人
:2006/05/01(月) 05:41:41
文殊さん
>河辺メモの時の日蓮正宗管長は・・・長年の研究で偽造と鑑定しましたことは熟知しています。
なるほど。この点では、認識は一致しているわけですね。後は、偽造本尊を未だに日蓮聖人の御建立であるとして信徒を集めている日蓮正宗を是とするか非とするかですね。
>孤独な迷子さん
今年の春先、新しく任命された法華講の役員さんがみえて、色々とお話していて判った事です。勿論、それ以来、連絡は一切有りません。
693
:
乾闥婆
:2006/05/01(月) 09:45:00
犀角独歩さん。
仏教書と仏教解説書とを別けているだけで、廉価な仏教解説書を貶めているわけではないということですね。了解いたしました。執行海秀氏の『日蓮宗教学史』、ネット古書店にて見つけましたので購入してみます。ご紹介ありがとうございました。
694
:
一字三礼
:2006/05/01(月) 10:31:31
>>690
顕正居士さん
ご教示ありがとうございます。
別勧請は法華の「開会」の考え方から導きだされるとのお考え、了解しました。
私は、先に申し上げましたように、身延山久遠寺の各坊を観てまわりましたが、そこに祀られている諸尊の統一感のなさ、悪く言えば雑濫ぶりに、少なからず驚かされました。
例えば北斗妙見は元来、千葉氏の守り神であったものが日蓮宗に逆輸入されたものであり、常護菩薩は、日蓮聖人が思親閣に登られるたびに警護についた土地神。
犀角独歩さんも仰るように、「曼荼羅に勧請されていないものを祀る」と言うことに関しては、私もまだ考えをまとめられずにいます。
「開会」の視点からは、当然、別勧請が「可」とされるのはわかりますが、では日蓮の勧める信仰の姿がそれであったか、ということでは、少し首を傾げたくなります。
695
:
犀角独歩
:2006/05/01(月) 10:33:14
問答名人さんにおかせられては、川辺メモ、また、日禅授与漫荼羅の掲示から、その疑義を論じられた一連の経緯をご説明いただきまして、まことに有り難うございます。当掲示板、また、問答さんのご賢察を探る意図を以て致した図形鑑別でした。故にこのご洞察は、わたしの発表出版以前のことでした。実際のところ、問答さんが日禅授与漫荼羅を撮った小さな写真を載せられた段階では、まだ、わたしは半信半疑だったのです。しかし、今から2年前、彫刻とこの漫荼羅を重ね合わせたとき、すべての謎は氷解したわけです。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html
既にこのことは日蓮宗教学研究大会でも発表し、さらに同現代宗教研究所で講演も致し、所報第39号にも掲載されましたので、日蓮宗では周知の事実となりました。
石山がそれを無視しようと、また、ここでの議論のようにスポイルしようとしても、もはや時代は変わったわけです。時恰も小樽問答より半世紀目に当たっていたわけです。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/
乾闥婆さん
仰るとおりです。
たとえば新書・文庫ではありませんが、故高木豊先生の『日蓮』(太田出版)をわたしは薦めていました。
また、あとから修正を余儀なくされましたが、岩波文庫版『法華経』も推薦した一書でした。
696
:
犀角独歩
:2006/05/01(月) 10:54:29
一字三礼さん
この見はお会いしたときにもお話したいと思いますが、漫荼羅勧請以外の諸尊を祀ることが雑乱に当たるや・否やは実に悩ましい問題であると思います。先にも記しましたが、わたしからすれば、それがもし「謗法」であるというのであれば、日蓮御筆大漫荼羅に勧請されていない諸尊を漫荼羅に図示することでも「謗法」ではないかという視点は成り立つことになるからです。この批判には当然、石山歴代住職の書写?本尊も含まれることになります。
また、石山の漫荼羅は彫刻を書写したと言いながら、その勧請は違っています。第一、あの彫刻では「二千二百二十余年」となっているところを歴代本尊では古来より「二千二百三十余年」となっているところから、違っているわけです。さらに帝釈の相違を細井氏は記述していたわけです。
以上のように彫刻にないことを書き、書写と謀ること、また、他の諸尊を勧請をすることが日蓮の意志に背くか否かは仏像造立とは別の問題を孕んでいます。
また、視点をまったく変えれば、日蓮の漫荼羅は法華十界勧請だと言いながら、そこには不動・愛染あり、天照八幡あり、大日如来の勧請まで見られるわけですから、法華一経から見れば、既に雑乱勧請ではないのかと言えなくもありません。しかし、この点を肯定的に見れば、顕正居士さんが仰る如く、寧ろ、開会し、摂取していくことのほうが隋方毘尼に適うと見ることもできます。いわば、その典型が導師漫荼羅ということになりましょうか。
わたしの知人である僧侶は「別段、キリストもマホメットもみんな載せてかまわないんじゃないのか」と言って、わたしは驚かしました。まあ、そのような考えもありということになります。
漫荼羅図示が造立を前提とするものであれば、勧請諸尊を別立てで祀ることを批判する方途は富士門下において、後世定着した漫荼羅正意論ということになりましょうが、これは、日蓮に遡源できない以上、的はずれな批判としか言いようがありません。
さらに言えば、日蓮の御影像を漫荼羅と共に奉安し、一体三宝であると、日興像を併せて別体三宝などというのは、では、漫荼羅に書かれる日蓮の切り出し、さらに漫荼羅にない日興の追加であって、見方を変えれば雑乱勧請の一種と言う批判は可能ではないかとも言えようかと存じます。
いずれにしても、石山の改変本尊論を以て捌くことなどできる問題ではなく、先に記したとおり、模造品を本物と謀る不正直の頭には神は住ませられないという石山謗法の見地からの神去り法門すら立義可能ではないかと思う昨今です。
697
:
文殊
:2006/05/01(月) 22:17:27
問答迷人さん、熊田葦城著『日蓮上人』の白黒写真と私が正本堂時代に
間近で内拝しました本門戒壇本尊とでは明らかに彫刻の金箔が新しく
鮮やかになっています。他スレッドで戦中戦後の混乱期の戒壇本尊の
顛末が証言されていましたが、まさに赤沢朝陽さんの職人芸です。
河邊メモの教学部長は、大雑把な達師と違い(花野氏が何かと助けた
そうです)行状はとかく非難の対象となっていますが、天台三大部の
研究は精緻なことに特色があります。松本佐一郎氏の思想的影響から
本尊研究・鑑定に着手し、本尊鑑定においては一番弟子の八木さんと
ともに目利きです。師弟コンビが河邊メモ記述当時にいたる10数年の
星霜をかけて研究してきたのですから事実です。あのふたりは素人で
はありませんから、蓋然性は極めて高いと思われます。ただ自白すると
宗教法人日蓮正宗の存在意義が難詰されるので、意地でも認めないで
しょう。
698
:
犀角独歩
:2006/05/01(月) 23:38:18
管理人さん
文殊さんの、わたしの質問を無視し、単に問答名人さんをシェルターにして、投稿を進める態度は、不誠実であり、当掲示板の規約にも違反すると考えます。
斯かる投稿を看過される理由は何でしょうか。
勧告、改善を希望します。
700
:
管理者
:2006/05/02(火) 05:29:36
犀角独歩さん
>斯かる投稿を看過される理由は何でしょうか。
既に592レスにおいて、文殊さんには、当掲示板のルールに反することを御注意申し上げています。当然、順序として、次は、投稿をお断りすることになります。
文殊さん
既に592レスにおいて御注意申し上げました通り、話し合いを重んじる当掲示板のルールに、貴殿の投稿は馴染みません。御注意申し上げても改善されないようですので、今後の投稿をお断わりする事としたいと存じます。
701
:
犀角独歩
:2006/05/02(火) 10:07:15
管理者さん、ご返信、有り難うございました。
文殊さん、わたしが投げかけた程度の質問を、無視することでしか成り立たない、あなたの言う「啓蒙」とは一体、何でしょうか。また、「誠実」とは何でしょうか。あなたが応えず、避けて通る、わたしの質問こそ、あなた自身に内心において啓蒙されるべき問題ではないでしょうか。
702
:
文殊
:2006/05/02(火) 20:43:34
管理者さん、昨日の拙稿は時間がなかったので問答迷人さんにのみ宛てた
ものです。決して独歩さんと話し合いを峻拒するものではありません。
投稿するにあたって頭を捻って書いています。すぐにはご返信できない
ことがあります。特に独歩さんの厳しい投稿には当方といたしましても
周到な準備を要しますので、何卒ご理解をお願いします。
犀角独歩さん、板本尊存在解体の論理を学術雑誌・ご講演で開陳され
ることは啓蒙にあたります。意見の相違があるといって、独歩さんの
運動を妨げる意図はございません。正本堂はユートピアの「熱狂と絶望」
を表象しています。共同幻想であったともいえる。このユートピア思想
は今日においては危険性を孕むものであると認識しています。
704
:
管理者
:2006/05/02(火) 21:07:23
それでは、犀角独歩さんの問いかけにお答えになってください。或いは、現段階では答えが用意出来ないと言われるのなら、そのように表明されれば良いと思います。問いかけを放置して、他の方との議論を進めることは、礼儀に反することでありましょう。結果として話し合いを重んじない、或いは蔑ろにしている、という非難を招くことになりますので、宜しくお願いいたします。
今後、同様の、問いかけを蔑ろにしていると思われるレスが有りますと、その時は、強制的に退去していただ来ますので宜しくお願いいたします。
705
:
犀角独歩
:2006/05/03(水) 10:13:37
686に関して、691に反論しましたが、やや不徹底であったので、重ねて記します。
石山の教学では、本已有善・本未有善をいい、末法の衆生は本已有善の荒凡夫であると言いますが、日蓮の真蹟遺文からは、このような教学的態度は見られません。
日蓮の本門の強調は二乗作仏、久遠実成にその根拠を見ます。
二乗作仏についてはいまは措きます。
この久遠実成とは言うまでもなく、釈尊の五百塵点成道「我(釈尊)実成仏」を言うわけですが、わたしは、日蓮の思惟はここに留まっていない点を指摘したい。つまり、第一番成道の釈尊は、ここに法説し直ちに初発心の弟子との血縁を為すわけです。これが六万恒河沙数の菩薩です。つまり、久遠実成には久遠下種というセットがあるわけで、本未有善どころか、この久種の覚知こそ、日蓮教学の精髄をなすものです。日蓮はその久種の自覚に基づいて久遠本仏の法を弘めるというのです。この久遠に立ち還るとき、元来、未有善と見えた衆生は、過去遠々劫に既に本仏釈尊との結縁がある、そのことを久遠実成の本仏の施化から再び喚起せよというところに日蓮の下種の観念は有しています。日蓮が言う下種とは久種そのものです。
さて、本尊抄の
一往見之時以久種為下種 大通・前四味・迹門為熟 至本門令登等妙。再往見之不似迹門。本門序正流通倶以末法之始為詮。在世本門末法之初一同純円也。但彼脱此種也。
(一往之を見る時は久種を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為して、本門に至って等妙に登らしむ。再往之を見れば迹門には似ず。本門は序正流通倶に末法之始めを以て詮と為す。在世の本門と末法之初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此れは種也。彼は一品二半、此れは但題目の五字也)
という文に就き、久種は脱益、末法は別の下種であるかの如く、誤読によって、石山教学は成り立っています。
しかしながら、ここでいう久種は正像のみをいうのではなく、この久種が正像においては等妙に登った衆生には熟脱の益となった。しかし、この久種が久種のままである衆生にとっては、熟脱となっていないので末法においても下種である。正像は2000年内の限定数の衆生脱益を果たしたが、漏れる衆生は久遠実成を寿量品から知り、その仏との久種を、いま末法に覚知し、下種をもって詮とするという日蓮の教学的態度がここに知られます。
忘持経事に
久遠下種之人忘良薬送五百塵点顛倒三途嶮地。今真言宗・念仏宗・禅宗・律宗等学者等忘失仏陀本意 経歴未来無数劫沈淪阿鼻火抗。自此第一好忘者。所謂今世天台宗学者等与持経者等誹謗日蓮 扶助念仏者等是也。
(久遠下種之人は良薬を忘れ、五百塵点を送りて三途の嶮地に顛倒せり。今真言宗・念仏宗・禅宗・律宗等の学者等は仏陀の本意を忘失し、未来無数劫を経歴して阿鼻の火坑に沈淪せん。此れより第一の好く忘るる者あり。所謂今の世の天台宗の学者等と持経者等との日蓮を誹謗し念仏者等を扶助する、是れ也)
ここに明確に「久遠下種之人…今世」と論談されるわけです。しかしながら、このことは日蓮を去ることを2000余年、霊鷲山の虚空宝塔における五字付嘱とは、舞台を異にしています。こちらは在世の物語です。石山圏には、どうも虚空会久遠永遠常住と見る錯誤を儘見受けますが、久遠下種、五字付嘱は、前者は五百塵点、後者は今般印度二千年前のことという別を日蓮はしっかりと御立てています。
なお、日蓮が漫荼羅を本尊としたということは真蹟遺文から諮れないことは既に述べました。もう一点。方便寿量の読経については、これは読経についてなのであって、法華経巻全篇の学習を禁じたものでないことは当然のことです。もし、禁じたのであれば、そもそも『注法華経』は現存するわけもないわけです。
石山が金科玉条に扱う『就註法華経御義口伝』は、法華全篇の文々句々の日蓮説法を日興が記したという伝説ですが、法華一経を読まずして何として、この講義を肯定することができるのでしょうか。
706
:
文殊
:2006/05/03(水) 22:59:36
身延教学と石山教学とでは、釈迦本仏論と宗祖本仏論の
教義的な対立が存していて径庭があります。犀角独歩さん
の反論は前者の教義学に依ります。「忘持経事」引用には
独歩さんの執念が感じられました。私も気付かなかったこ
とであり大変勉強になりました。いかに石山教学が寛師の
圧倒的な影響力にあったことか逆に気付きました。
707
:
文殊
:2006/05/03(水) 23:19:13
但し、真蹟遺文で曼荼羅正意が証明されていないから
といって、曼荼羅本尊を軽くみることにはあたらない
でしょう。宗定本尊を伝説と一蹴することは自殺行為
です。日蓮宗はもっと御真筆の大曼荼羅(鑑定済の)
が多数格護されているのですから、称揚すべきでしょ
う。別勧請では南無妙法蓮華経日蓮在御判がなく、円
満ではないでしょう。方便・寿量二品読誦は現代人に
とって簡素な修行法だと思われます。日蓮宗は日興上
人の良いところは取り入れるべきです。色衣から薄墨
五条に。北山系では日興上人回帰の動きあります。
法華経一巻の学習は当然大事です。禁じることは誰にも
できません。私も学習しています。
708
:
犀角独歩
:2006/05/04(木) 09:54:39
文殊さん
ふざけた決めつけ、レッテル張りはやめてください。
まことに、あなたの所属する集団らしいやり方です。
わたしは、まるで身延教義学などによっていません。
そもそも、日蓮宗のなかでも真跡主義への反感は、当然あります。
真跡主義は日蓮宗の教義ではありません。
日蓮宗でもないわたしは、宗定本尊の伝説を一蹴することに何ら、痛痒はありません。
なにより、伝説が事実かどうか評定しているだけであり、それ以上でもなければそれ以下でもありません。
また、日蓮真筆御筆大漫荼羅を軽視する意志などあるはずはなく、これまた、真跡遺文から日蓮がこれを本尊として授与していた形跡が見られないと記しているのみです。
ただし、それが本尊であるというのであれば、言う側は、その証拠を示す義務があるといっているのです。つまり、あなたの反論は、人に身延というレッテルを貼ったうえで、伝説を守らないと自殺行為になると的外れな脅しをかけ、またしても、解答を回避しています。
さらに、上記の主語を代えて言えば「本門戒壇の大御本尊ほかの伝説を否定することは、自分の信仰にとって自殺行為である」という底意が感じられるものでした。
方便寿量が現代人にとって簡素な修行法であるかどうかなどと嘯いておりますが、わたしが記してきたことは、現代、石山で勤行といわれるものが日蓮の意図したものかということです。ここでも論点を代えて、質問をかわしています。
あなたが、法華一経の学習を行っているであろうことは、予想はもちろんつきます。
しかしながら、その学習が単に自分の信仰伝説にしがみつくだけの役にしか立っていない点を気の毒に思います。それにしても、そのような学習を重ねた目から、わたしをみると身延教義学であるという、それが事実でないことを了解してうえでの悪意のレッテル貼りと考えざるを得ません。
わたしがまったく身延の教義学によっていないことは、当掲示板の投稿を一瞥すれば一目瞭然でしょう。このような決めつけ、レッテル張りは、わたしの事実と著しく違背するもので、名誉を傷つけます。ここに強く警告をし、発言の撤回を求めます。
709
:
文殊
:2006/05/04(木) 10:52:45
犀角独歩さん、レッテル張りの意図は毛頭ございません。拙稿で
述べた趣旨は「本尊抄」から導出される本仏論には身延と石山の
二大潮流があり、犀角独歩さんの久遠本仏施化論は前者の思想的
系譜に近いものがあると思われたからでした。身延教義学にも
法類は異なるでしょうが、主流は釈迦本仏論です。レッテル張り
でなく大きく思想的系譜、その人の思想的基盤を分類すると、
釈迦本仏論か宗祖本仏論かで分水嶺があると考えます。名誉を
傷つけたわけではございませんので誤解しないでください。
私が犀角独歩さんの「本尊抄」解釈「忘持経事」援用に見る
現在の犀角独歩さんの思想的基盤は宗祖本仏論から釈迦本仏論
に移行していると思われました。名誉を傷つけたのであれば、
前言は撤回致します。石山根本批判もよいのですが、良い所
は次代に遺すことも重要ではないかと私は考えています。
二品読誦・唱題行は多忙な現代人にとって簡素で他門も参考
になるのではとの提案です。宗祖は門下に曼荼羅本尊を授与
し師弟の絆を契約し、二品読誦を勧めています。現に曼荼羅
本尊は現存している。もっと大事にしてはどうかとのこれも
提案です。強要とか名誉を傷つけたとの悪意は一切ございま
せん。質問をかわしているのではなく、私も宗祖の意図が
何であるのかを学んでいる途上です。
710
:
犀角独歩
:2006/05/04(木) 11:25:58
文殊さん
あなたの弁明は取りあえずお受けいたします。
そのうえで申し上げますが、あなたは大きな虚偽を構えています。
釈迦本仏論は、なにも身延の教学などではなく、日興その人の教学であり、日道の教学でもあります。日興は明確に「本師釈迦如来」とし、日道もまた、御伝草案に「日蓮聖人の云く…本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり」と言っています。
釈迦本仏が身延教学、嘘を言ってはいけません。
日興門流上代の教学は日蓮聖人の云く釈迦本仏論を受けたものです。
711
:
犀角独歩
:2006/05/04(木) 11:34:52
日興は釈迦本仏論であることは、あまりにも著名なことでしょう。
原殿書が日興真筆かという立場にあなたはおられない。この書の中に
「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来」
とあることは、動かない証拠です。
この日興の名を騙り、日蓮本仏を言うなど、言語道断、師敵対の極みであると言っているのです。中世以降の変造・捏造教学を以て、日興の名を汚すことはやめるべきです。
712
:
文殊
:2006/05/04(木) 14:33:33
犀角独歩さん、仰せのとおりです。富士門における日蓮本仏論の濫觴
は下条妙蓮寺日眼「五人所破抄見聞」にみる「不軽と日蓮とは本仏也」
です。南条家直系の妙蓮寺が大石寺から独立した本山格寺院としての
台頭の時期に出されました。
713
:
犀角独歩
:2006/05/04(木) 15:05:05
重ねて文殊さん
> 石山…良い所
とは、具体的にどのようなことでしょうか。
> 宗祖は門下に曼荼羅本尊を授与し師弟の絆を契約し
> 二品読誦を勧めています
『創価学会批判』のなかに「この流の面白い点は何等相互関係のない遺文をさもありそうに関係づけることの多い事である」(P11)と、その悪き特性を指摘しています。悪意であるのか・ないのか、あなたもまた、その悪弊を引きずっています。
日蓮が漫荼羅を授与し師弟の絆を認めたのは事実ですし、二品読誦を修行としたのも事実です。しかし、この二つが一つにつながるのかというのが、当掲示板の一連の議論です。
つまり、日蓮は漫荼羅に二品読経をした挙証を求めてきたわけです。それにも拘わらず、真蹟遺文から何ら相互関係が確認できない二つの事実をさもありそうに関連づけてしまう点は看過できません。
日蓮が漫荼羅を本尊として、方便寿量の二品読経を勧めたというのであれば、その証拠を挙げる義務があるということです。
また、日蓮が勧めた二品読経とは、真蹟にはそれは見られませんが、写本遺文まで目を広げれば、
「常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習読せ給候へ」(月水御書)
「方便品の長行書進候。先に進じ候し自我偈に相副て読たまふべし」(曽谷入道殿御返事)
あなたは「宗祖は…二品読誦を勧めています」と言いますが、上記二写本が真筆であったとして、ここで勧められている有様は前者は方便品長行・寿量品長行、後者は方便品長行・寿量品自我偈であり、現石山が行うような方便品十如・寿量品長行、もしくは自我偈という唱え方とは異なっています。それにも拘わらず、恰も日蓮の勧めた読誦が、現行の石山二品読誦の如く記すことは、難じざるを得ません。
なお、釈迦本仏(身延)、日蓮本仏(石山)という点については、先に記したとおりですが、敷衍して述べれば、日蓮の教説である釈迦本仏と、中世の改竄である日蓮本仏の二つの教学的態度があるのであって、これは身延対石山の対比ではありません。日蓮教学と改竄教学の対比です。
当掲示板は、日蓮の素意の描写を文献証拠から探るのであって、改竄教学をして日蓮・日興の教学であるといった虚偽は断じて看過しません。また、日蓮の建立でもない彫刻を日蓮に関連づけたり、各種捏造の偽霊宝類を看過することもできません。そのような悪事を放逐して、善い所を云々するなど、話にならない所論であるといっているのです。
714
:
犀角独歩
:2006/05/04(木) 15:40:28
投稿が前後しました。
712に上がる『五人所破抄見聞』の著者は妙蓮寺日眼では無いとする指摘は、既に50年前からなされています。
わたしも文殊さんと同様妙蓮寺・日眼とする説を墨守していたのですが、その後、先に挙げた『創価学会批判』(昭和30年)には、その点を再考していたことを、数カ年前まで気付かずおりました。
この点につき、『六巻抄について』69で、顕正居士さんは2002年3月、すなわち、今から4年前にご指摘下さっているのです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014117694/69
また、現時点さんが『日有上人の石山教学の展開』26でも、その4カ月後に指摘されていました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1027502003/26
さらに同じ頃、問答名人さんは『素朴な疑問』149に、この点をご私的さなさっています。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/149
また、わたしは『身延相承書と池上相承書について』17でも以上の経緯から指摘もしました。2003年8月のことです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1060641548/17
一番近い所では、れんさんが重厚なご指摘を下さった記憶があるのですが、どこであったのか探し出せないでいます。
いずれにしても、『五人所破抄見聞』に妙蓮寺日眼説は半世紀も前間から疑義が取り沙汰されているのにも拘わらず、いまも言われ、当掲示板でも既に4年前から指摘されながら、また、再燃しています。これはある面致し方がないことですが、せっかく5年も議論が積み重ねられてきたのに、双六ではあるまいし、ことあるごとに振り出しに戻るのは、やや疲労感を伴います。
投稿をされる以上は、過去のロムの多少、労力を払っていただければ思うわけです。ちなみに上記、検索は、5分と掛からない作業でした。
以下、皆さんの参考に『日蓮宗事典』に載る宮崎英修師の同書への見解をコピペしておきます。
『五人所破抄見聞』(ごにんしょはしょうけんもん)
「本書は『五人所破抄』の註釈書で妙蓮寺三世日眼(−一三八四)の著作と伝えられている。これは本書題号下に「釈 日眼述」とあり、写本奥書に「伝写本云、康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟日眼判」とあるのでこの日眼を妙蓮寺日眼と推定したものであろう。しかしこれには不審がある。まずこの年号の康暦二庚申年という記年法は鎌倉時代より室町時代にかけては見られないもので、直ちに時代的通格の批判対象となる。このように年号・年数・干支・年月日という書き方は戦国時代に入ってまれに見られ、徳川時代に入って定着する記年形式で、室町以前ならば「康暦二年庚申六月四日」と書いてなければならない。従って奥書の年号は戦国時代から徳川初期にかけ書写された「伝写本」に付加された年記であろう。また本書の中ごろの「日興奏公家訴武家」の条に「総じて公家伝奏と云て当御代は勧修寺殿・広橋殿など伝奏衆を云ふ也」とあるが勧修寺家が武家伝奏に初めて任ぜられたのは文明二年(一四七〇)、広橋家は応仁元年(一四六七)で両家が共に並んで伝奏を務めたのは文明二年から同一一年までの九年間、日眼の寂後八七年も後世のことである。本書には勧修寺・広橋両伝奏があたかも世間周知の役柄のようにしるされているが、このような状態になるのは永正六年(一五〇九)以降に両伝奏が引続いて務めるようになってからのことで、日眼滅後一二〇余年後のことである。いまかりに最も早い文明年間の成立と見れば西山本門寺八世日眼(−一四八六)がふさわしいと考えられる。本書に二箇相承の存在を示す記事、両巻血脈によって成立する種本脱迹、宗祖本仏論が見えるが、このころ富士門流に論ぜられているものであるから時代的にも首肯できる。《宮崎英修「妙蓮寺日眼著・五人所破抄見聞の価値」(『棲神』四一号)》」
715
:
犀角独歩
:2006/05/04(木) 15:42:36
【714の訂正】
誤)ご私的さなさっています
正)ご指摘なさっています
716
:
れん
:2006/05/04(木) 17:35:40
横レス大変失礼します。
五人所破抄見聞は、犀角独歩さんが、ご指摘なさっておられるように、すでに約50年前から、下条妙蓮寺日眼師作には疑義が提出されています。私の投稿は、私自身書き散らしておきながら、はてどこだったっけ?と惚けてしまっておりますが、現時点での最新の研究では、富士系では、興風談所の池田令道師が興風第12号に“『五人所破抄見聞』の考察”を発表されており、師は左京日教師の諸著作を五人所破抄見聞が略述引用している部分があることから、五人所破抄見聞は左京日教師の諸著作の影響をうけた人間による作と結論されています。
この五人所破抄見聞の本当の作者は分かりませんが、見聞の内容から左京日教師の著作の影響を受けた人物であることは分かりますから、左京日教師と同時代人として、宮崎師の推定“西山日眼作”説は当たらずとも決して遠からずでしょう。
ですから、日蓮宗に限らず、富士系でも、最新の研究でも五人所破抄見聞を妙蓮寺日眼作とする説は今日では否定されており、富士における日蓮本仏観を示す初期文献として五人所破抄見聞を挙げるのは、極めて不適当だと考えられますね。
717
:
犀角独歩
:2006/05/04(木) 19:06:33
れんさん
いま、もう一度、過去ログを検索してみましたが、れんさんの過去ログは発見できませんでした。けれど、ご投稿いただけましたので、参考になりました。
また、改めて、れんさん、また独学徒さんなど、池田令道師のご引用が多岐に亘っていることも確認できました。秀でた研究者の一人と云うことなのでしょう。示書の影本を是非とも発表していただきたいものです。
『五人所破抄見聞』は、日蓮本仏論の濫觴のように扱われ、それが祖滅99年という早い時期であると思われていたところ、結局、日教以後の時代であることから、やはり、この影響を以て、のちの日寛にまで影響を与えたと見るのが至当と云うことになるわけですね。つまり、日教は15世紀の人ですから、1380年とされた同書の成立からさらに100年ばかりあとのことになるわけで、日蓮本仏論の濫觴は祖滅200年以降ということになるわけですね。
日教という人の考え方から見れば、日蓮本仏論は、日蓮を本物と仰ぐことにその主眼があったというより、執行師が指摘されるとおり、本住本仏論にこそ、その主眼があったと見なすほうが、わたしは適切な認識であると考えます。
また、現代の石山の法主絶対主義、○○先生絶対主義もまた、その延長にあるのだとも考えます。
日蓮本仏の口上は、それ主張する集団の、絶対指導者の肯定論として墨守される故に、その団体が不健康であればあるほど、その執着から離れられないという相関性を有している点に今日的な問題がはらんでいると考えます。また、唯一絶対本尊とこれが関連されるや、その事態はさらに深刻化していった点も指摘できるわけです。
やや余計なところまで記しました。再度のご投稿、まことに有り難うございました。
718
:
犀角独歩
:2006/05/04(木) 19:10:49
【717の訂正】
誤)日蓮を本物と仰ぐこと
正)日蓮を本仏と仰ぐこと
719
:
独学徒
:2006/05/04(木) 20:07:10
大変失礼致しますが、私も横レスさせていただきます。
創価学会版「富士宗学要集」第4巻所収の『五人所破抄見聞』によりますと、同著の終わりに「嘉暦三戊辰年七月草案 日順。」とあります。
この伝日順の識語は、現在伝わる形の「五人所破抄―日代本」にあるものですので、『五人所破抄見聞』が現在伝わる形の「五人所破抄―日代本」をもとに書かれたことが分かります。
興風談所の池田令道師は、「鳥鷺鳥鷺雑記」(うろうろぞうき)において、この伝日順による識語について、次のように考察されています。
****************************************
今回はいろいろ問題のある北山本門寺所蔵の日代筆「五人所破抄」(以下、日代本と略す)の奥書について考察してみたい。
まず図版①は日代本の終わり部分である。右上の「廿五」は丁数を示し、末行の「嘉暦三戊辰年七月草案日順」は日代筆ではなく異筆である。次に図版②は日代の弟子日任の識語、それには「日代聖人御筆大事書也」等の記述がみえる。
現在まで問題とされてきたのは「嘉暦三戊辰年」云云の筆蹟についてである。論者の一方では、この奥書を三位日順の自筆とする。つまり日代本に日順自身が加筆したとの見解である。他方では、はるか後世に添加されたもので筆者は不明とする。その理由として、「嘉暦三」と「年」との間に干支を書き入れる表記法が戦国期より始まることを指摘している。
結論を先にいえば、私も後者の見解を支持する。日順筆を否定する根拠は、従前からの年号の表記法に関する矛盾も重要な論点だが、もう一つ決定的な理由として、日代本を書写した日辰本の存在がある。日辰本は、
「日代御自筆の本を以って、非字・長囲に至るまで御本のごとく之を写す」
との念記があるように、実に日代本を厳密かつ正確に書写している。本文のみならず、図版②の日任の識語を行取りも正しく、さらには日任の花押まで臨写するほど念が入っている。それなのに日辰本には、本文と日任識語の間に位置する「嘉暦三戊辰年」の奥書が記されていないのである。これは要するに、日辰が書写した当時、日代本にこの奥書は存在しなかったのである。それを証するのは「読誦論議」における日辰自身の言葉である。
「日代直筆の本の表紙に草案と題し、篇内には草案の二字も無し。また富士立義抄の五字も無し、五人所破抄の五字も無し。年号月日も無し、日興御判も無し」
かくのごとく日代本には『富士立義抄』や『五人所破抄』のタイトルも無ければ「嘉暦三戊辰年」の奥書も記されていなかった。日辰が日代本を実見して、書末に「年号月日」がないことを確認したのは動かしがたい事実といえよう。
これにより日代本の「嘉暦三戊辰年七月草案日順」の一行は、日辰が書写した永禄年間以降、誰人かによって日代本に書き入れられたものと考えざるを得ない。一行の墨質や滲み方が本文と違っているのはそのためである。年号の表記法が戦国期以降の特徴を有するのは、むしろ当然と言わなければならない。
ところで同『読誦論議』に、日辰は日任の識語について、
「日辰、此の奥書の聖仁の二字を拝見するに、知んぬ、日任は深智に非ずと云ふ事を」
と述べている。
これは日任が「日代聖人」とすべきを「日代聖仁」と書いたことへの非難であるが、図版②の当該部分を見ると日辰の指摘とは違って「日代聖人」となっている。
しかしこれがまた問題なのである。よくよくその部分を注視すれば「人」の字は不自然に滲んでいて、その下には何らかの文字が確認できる。つまり「人」の字は「仁」の字を消した上に書かれたのである。こうしてみると「嘉暦三戊辰年」の加筆も、「仁」→「人」の改竄も日辰の非難に対応している。どうも日辰の言説に対し、後の人がやらずもがなの愚挙を犯したようである。
****************************************
この池田令道師の考察が正しければ、「五人所破抄見聞」もまた、「嘉暦三戊辰年」云云とあることから、日辰の活躍した永禄年間以降に作成されたものと考えられます。
ということは、少なくとも「五人所破抄見聞」以前に、保田妙本寺中興の日我によって日蓮本仏論は登場していたことになります。
御伝土代が日時本の可能性が大となりますと、もう少しさかのぼっても、大石寺日有・日教、もしくは保田妙本寺日要といったところでしょうか。やはり従来ここで議論されてきたとおり、また犀角独歩さんご指摘のとおり、このあたりが所謂「日蓮本仏論」の出所ではないでしょうか。
720
:
文殊
:2006/05/05(金) 00:33:54
犀角独歩さん、れんさん、独学徒さん、ご教示ありがとうございます。
書誌学的考察の学恩誠に感謝に堪えません。当方と致しましては過去
ログも調べずに投稿してしまい申し訳ございません。西山本門寺では
日蓮本仏論を信奉していたことが分かりました。現在の単立法人西山
本門寺では教義変更はないのでしょうか。確か客殿は万年救護大本尊
の板本尊が御安置されていますね。つまり万年救護本尊に日蓮本仏論
の教義体系が西山八世日眼在世から現当にいたるまで一貫して継続さ
れていたとの認識でいいのでしょうか。ちなみに北山本門寺では、生
御影に釈迦本仏論、私が知っている北山末では大石寺式の本尊のみの
奉安様式です。薄墨袈裟着用です。唱題用の太鼓がありました。打ち方
は諸山によって微妙に違うのでしょうが・・・私がここで皆様方にお尋
ねしたいのですが、下条妙蓮寺は南条家の持仏堂から山伏系の日華によ
って開山(大石寺の植民地となった現在でも日華堂は現存していますが)
され富士五山の本山格の歴史が長いのですが、いつから石山とも重須と
も異なる完全に独立した本山として歩みはじめたのかを是非とも知りた
いのです。犀角独歩さん、石山の良い所とは何かについてのご質問次に
投稿します。
721
:
文殊
:2006/05/05(金) 01:01:45
犀角独歩さん、21世紀の次世代に石山教学・化儀の良い所を遺す
べきかについてですが、本尊奉安様式の簡素性が第一に挙げられる
と思います。十界互具曼荼羅におしきみ(枯れるという無常性を内
在している色花より良いと思います。真言密教の香りもして複雑な
心境ですが)は他門もこれは参照しうると思います。但し画一化の
虞はありますが。一体三宝式を在家信徒では不精になりがちなので
曼荼羅本尊のみで良いと考えますがいかがでしょう。教学は問題あ
りすぎです。考えが纏まらずすみません。二品読誦ですが、方便品
長行は確か石山では昭和25、6年頃でやめて久しいですね。略式
化が進むばかりです。「世雄不可量 諸天及世人・・・」世雄掲は
時間がかかるとの理由でしょうか。石山が略式に変更した理由が判
然としません。
722
:
犀角独歩
:2006/05/05(金) 08:12:26
独学徒さん
有り難うございます。
大崎における判断は、概ね日蓮本仏論は京から富士にやってきた日教によるということですが、これを妙本寺・日我とする点は、目を惹きました。
具体的に、日我のどのような文献から、これが言えるのか、ご教示いただければ有り難く存じます。
文殊さん
遺したいという石山化儀は周囲には評判の悪いところばかりですが、しかし、石山で永年信仰してきた人にとっては、拘りたい部分でしょうね。
石山の場合、本尊は石山住職が書写したものに限るというわけですが、この点は何ら意味をなしませんね。奉安様式に仏像が欠けているのに、御影像は可というのはどうしたものでしょうか。「日興云く」を信じれば、不似はいかんというわけですから、顔立ちをどうするかは大きな問題と残ります。
樒については、この信念体系を脱けてみると、実は案外、奇異に映じるものです。とはいうものの、石山に限らず、これを華とするところはありますね。
天台宗開宗1200年記念『最澄と天台の国宝』展で展示されていた密壇の四隅には樒が置かれていました。樒という字は、そもそも木偏に密。木偏に佛と書いてもしきみですね。仏教の、取り分け、密教色の強いところとなります。最近の樒は、地面に、枝を切り差しして育てたものを販売しているので、あまり見られませんが、以前は、よく実が付いたものがあったものでした。樒の実の形は緑色ながら、蓮華に似ています。こんなところも珍重された理由だろうかと思ったことがあります。
わたしは個人的には仏花は、色花でも何でも善いほうなので、樒一色の有様を見ると、何か寒々しい印象を受けます。
石山式は、あまり賛成できかねますが、特に他に押しつけるものでなければ、自由であろうと思います。
方便読誦というと、日蓮宗一般でも世雄偈までで、石山も以前はそうであったのでしょう。しかし、先に引用した写本遺文からすると「方便品長行」とあるので、全品を日蓮は読んでいたのかという疑問が湧きます。この点は、当時の比叡山化儀から探れば、ある程度、わかることかも知れませんが、いまのところ、行っていません。
石山の読経は十如自我偈で単調で、荘厳さに欠けます。これを簡略化で現代的と思うのは、お経が短くなって、ほっとしている信者会員ばかりではないでしょうか。
わたしは開経偈は名調子なので好きですし、四弘誓願を音声誓願することも善いことであると思います。それにしても石山の、諸尊勧請を鈴を打つだけで済ますという日有以来の化儀は不可思議です。天拝については身延・日朝の文献に見えるとのことですから、その後、廃れたものなのかと訝しく思っています。
羅什の意訳には、神経を過敏にしますが、読経には音律がよく、やはり、善くできた漢訳であるとも思います。
当スレッドのテーマは『現代人が納得できる日蓮教学』ということですが、一般の方々が読経唱題に触れるのは葬儀の時でしょう。簡略化されたお経は、故人を軽んじている印象しかありません。在家の導師はお粗末で、モーニングを着れば、ただ滑稽なだけでしょう。僧侶が執行するほうが、やはり、印象はよいと思います。それも十如・自我偈ばかりではなく、それなりの法式に則ったほうが参列者は、故人を重んじているという印象を強くします。
いずれにしても、読経の簡略化というのは、修行の怠慢化、後退以上の印象を与えることはないでしょうね。
723
:
犀角独歩
:2006/05/05(金) 08:26:45
先に『月水御書』を挙げて、二品読暗誦の起源を探ったわけですが、これはしかし、読経は二品以外はしてはならないという文証ではないわけです。
「常には此方便品・寿量品の二品をあそばし候て、余の品をば時々御いとまのひまにあそばすべく候。」
常には二品、他二十六品は、時間のあるときにいたしなさいというわけです。
切文解釈は、文意を枉げたものとなります。
724
:
独学徒
:2006/05/05(金) 15:59:38
犀角独歩さん、大変申し訳ございませんが、日我の本仏論、少しお時間をいただきますよう、お願いいたします。
ちょっと家族で遠出しており、もどりましてから、調べなおさせていただきます。
725
:
文殊
:2006/05/05(金) 21:12:02
犀角独歩さん、石山伝統の何を21世紀に遺すべきか、何を捨てて何を
伝えるべきなのかとの問いを立てることは、思惟してみれば困難極まる
問いです。正本堂というユートピアが瓦礫に、宗旨の根幹が蜃気楼とな
った今、石山に何があるのか何が失われたのか何が変貌を遂げているの
かを見極めつつ、険道を進まなければならないという通塞に立たされて
います。「宝処在近」とは何かを自らに問いかけつつです。ご指摘の天
拝ですが、上代には修法として執り行われていて日有以後はなぜか廃れ
てしまった・・・大石寺真蹟遺文「諌暁八幡抄」に見る正直の人に神が
宿る法門と恐らくは重要な関連性を有しているのでしょう。開経偈は石
山化儀にはありませんね。四弘誓願を音声誓願は賛同します。単調にな
りつつあるのはご指摘の通りです。ゆえに、西山・保田妙本寺は離脱し
たのでしょう。諸尊勧請を鈴を打つだけで果たして祖意に適うのかとい
う問いは重要な示唆に富ます。富士門流清流神話の終焉後、「如説修行」
とは何かを考えていきます。
726
:
文殊
:2006/05/05(金) 21:42:14
『月水御書』の会通、二品限定の文意ではないです。日有は「未断惑」
「愚迷」とかの理由で仏像禁止・二品限定に狭く解しましたが、日蓮
はおおらかに大きく法華経全体を思量されていたと思われます。富士
門諸山ではほとんど「普賢菩薩勧発品」は教学論議がなされていませ
んが、「普賢。若有受持。読誦。・・・是法華経者。当知是人。則見
釈迦牟尼仏」の法華経読誦の意が則見釈迦牟尼仏であり、「如従仏口。
聞此経典」というのであれば、再考の余地があるように思われます。
727
:
顕正居士
:2006/05/06(土) 03:42:22
『本因妙口決』、『五人所破抄見聞』はそれぞれ三位日順、妙蓮寺日眼の著述とすることに疑問があります。
そうしますと、宗祖本仏論があらわれた最初の文献は三位日順の『(大師講)表白』です。
「我が朝は本仏の所住なるべき故に本朝と申し・月氏震旦に勝れたり・仍つて日本と名く、富士山をば或は
大日山とも号し・又蓮華山とも呼ぶ、此れ偏へに大日本国の中央の大日山に日蓮聖人大本門寺建立すべき
故に先き立つて大日山と号するか、将た又妙法蓮華経を此処に初めて一閻浮提に流布す可き故に・蓮華山
と名づくるか」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu2_2.htm
『表白』を確実に三位日順の作とは断定できませんが、上記の思想は『諫暁八幡抄』に基づき、岩本実相寺
の伝統信仰を習合させたものと見られる。後世に発達した可能性がある教義は特に含有していません。
ここの「本仏」とは冒頭の「浄妙法身・摩訶びるさな」、すなわち大日如来である、宗祖ではないという異論が
あるかも知れません。むろん大日如来でありますが、「大日山」に並べ「蓮華山」というから、大日・金剛薩埵
の一体の上から、大日・日蓮一体をいうものと考えます。
728
:
犀角独歩
:2006/05/06(土) 08:06:02
独学徒さん
お休み、お楽しみのところ、失礼いたしました。
いつでもけっこうです。
文殊さん
> 石山伝統…何を捨てて何を伝えるべき…思惟してみれば困難極まる
伝統と言われているものでも、案外、近代のことに属するというのが、通じた認識ですね。
わたしが、当スレで一貫して記してきたことは、結局、現代に通用し、未来に継承すべき殊は、‘事実’‘真実’なのだと考えます。
> 富士門流清流神話の終焉後、「如説修行」とは何か
これも上述の答えと同様であると考えます。
> 日蓮はおおらかに大きく法華経全体を思量
それは、そうであると思います。
> 法華経読誦の意が則見釈迦牟尼仏
このような考え方は、石山以外の門下一般の考え方ではないでしょうか。
先に挙げた開経偈の一節「能詮は報身、所詮は法身、色相の文字は即ち是れ応身なり。無量の功徳皆この経に集まれり」
顕正居士さん
『表白』は「浄妙法身・摩訶毘盧遮那・因極果満盧遮那界会」とはじまり、実に真言密教色が強いと感じます。山岳信仰経由の影響ということでしょうか。
顕密一体の色合いが濃いものの、日蓮の大本門寺構想を富士に具現することを大師講に宣べるところはわかるのですが、ここから、日蓮本仏の濫觴を見抜く炯眼は、どうも、わたしは追いつけないところがあります。
729
:
独学徒
:2006/05/06(土) 10:00:30
犀角独歩さん、御返事大変遅くなりすみませんでした。
「五人所破抄見聞」が収録されている、富士宗学要集の第4巻に日我「申状見聞(私)」が収録されています。
その「申状見聞(私)」P83に、
『自我偈ト者過去ノ自我偈也過去ノ自我偈ト者文ノ底ノ主師親・人法一個ノ本尊ノ事也、釈尊ト者自受用報身名字本仏ノ事也是レ即高祖ノ御事也』
と御座います。
このような思想は、現在の石山教学で使われるところの、日蓮本仏論とよく似ていると思われますが、いかがでしょうか。
ただし日蓮本仏思想の起源的なものは、やはり日有・日教までは、少なくともさかのぼれるのではないでしょうか。
文殊さん、はじめまして独学徒と申します。
今後ともよろしくお願いいたします。
>確か客殿は万年救護大本尊の板本尊が御安置されていますね。
これは誤解を招く恐れがあると思われますので、僭越ながら補足させていただきますと、まず西山の「客殿」とは、現在の本堂のことだと思いますがよろしいでしょうか?
もしそうであれば、該当の板曼荼羅は「大本尊」ではなく、西山でいうところの万年救護本尊、つまり建治2年2月5日の、御本尊集32-2曼荼羅の彫刻です。
西山では保田妙本寺蔵「万年救護大本尊」のことは、「本地顕発本尊」と称し歴代の貫首が相伝の証として付嘱される「手継ぎ本尊」と解釈しているようです。
また正統な「戒壇の本尊」とも解釈しているようです。
したがって、西山ではこの保田妙本寺蔵「万年救護大本尊」は、正統な日興上人の後継者である、日代上人が相伝すべきもので、西山に所有権があると主張しています。
現在の西山には、保田妙本寺蔵「万年救護大本尊」の彫刻したものがあり、一般公開はされず貫首のみが給仕しているとのことです。(以上は西山本門寺相模原布教所・故小島靖正著『正統血脈え(ママ)の手引き』参照)
730
:
犀角独歩
:2006/05/06(土) 11:57:20
独学徒さん
なるほど。その点を根拠とされたわけですね。
日我の『申状見聞』は、天文14(1545)年とされますね。
顕応日教が、日蓮本仏論の著とされるのは、『類聚翰集私』の「末法の本尊は日蓮聖人にて御座す」によるところであろうと思います。同書は、長享2(1488)年の作とされますから、半世紀ばかり先行すると判断されるのではないでしょうか。
もっとも日有も『化儀抄』に「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」というわけでした。こちらは文明15(1483)年となるわけですね。
西山の万年救護本尊のご説明、たいへんに明快であろうかと存じます。
この「万年救護」という点については、以前にもやや愚考したことがありました。元来「万年救護」とは、弟子に対する用語用法でしたが、それがいつからからか、本尊を指すようになりました。そして、保田の第16大本尊も万年救護と言われ、北山の日禅授与漫荼羅も、ここでは万年救護本尊と呼ばれていますね。
つまり、それぞれの寺院で、恰も「我こそは」という感じで、いつから本尊の優勢の誇る呼称である「万年救護」をもって尊称するようになった経緯があるわけですね。そのうちに、西山の本尊も入ると言うことですね。
また、万年救護と並び言われる尊称が「戒壇本尊」ということで、北山では、かつて日禅授与漫荼羅を万年救護・戒壇本尊(大石寺誑惑顕本書)と称していたことが知られます。
石山では、いまは講堂に第16本尊の模刻(万年救護)があり、日精の時代には御影道に戒壇本尊があったわけです。要は、時代のなかで、万年救護本尊と戒壇本尊が、富士門下のステータスになった、それ故、それを捏造していったという歴史劇があったのであろうと、わたしは考えています。
731
:
犀角独歩
:2006/05/06(土) 12:10:34
いつもながら、打ち間違えました。
【730の訂正】
誤)それがいつかららか
正)それがいつからか
誤)いつから本尊の優勢の誇る
正)いつからか本尊の優勢の誇る
732
:
犀角独歩
:2006/05/06(土) 12:12:08
もう一箇所
誤)御影道
正)御影堂
733
:
独学徒
:2006/05/06(土) 15:23:46
犀角独歩さん、こんにちは。
まさに仰せの通りですね。日有・日教あっての日我の日蓮本仏論だと思います。
特に日我は日有の「人法一箇(個)」という成句を、諸抄の中で多用していますので、保田教学は日有・日教の教学に大いに影響を受けたものと思われます。
もう一つ日我の諸抄に散見されるのは、こちらも既にご指摘にあるとおりの慶林坊日隆の教学で、「蟇蛇異見抄」などは「日隆仰云」(二番目以降の問いは「仰云」と略している)という問いかけによる問答形式ですので、日隆の本迹勝劣義をベースに展開されています。
また日教・日要からの影響としては「本因妙抄」や「百六箇抄」等の引用があげられると思います。
本仏を以って本尊とすることが宗祖日蓮の御意ならば、仏像を廃し曼荼羅を本尊にすえるためには、「日蓮本仏」「人法一箇」は曼荼羅本尊義を理論付ける上で、まことに都合の良いものであったと考えられます。
また歳月を経るごとに、仏師という職人が作成する「仏像」よりも、宗祖直筆曼荼羅の方を重宝するのは、通俗的には自然なことだと思います。
しかし当の宗祖の遺文では、曼荼羅を持って本尊とすることは理論構築は難しい、そんなときに「口決相伝書」という、宗祖の直筆を必要としない秘伝の言い伝えがあれば、まさに渡りに船であったろうと思います。
734
:
文殊
:2006/05/06(土) 18:56:43
犀角独歩さん、存外伝統と呼ばれるものは近代成立ということ
ですね。幕末の久遠院日騰、明治の大石日応は富士四山との確
執と独立騒動の過程で、大石寺の「伝統」を強調する必要に迫
られていったのでしょう。大正期の福重照平『日蓮本仏論』、
昭和前期の堀日亨『富士宗学要集』に見る「伝統の再発見」は
大石寺正統を証明しようとしたのでしょう。21世紀になった
今では色褪せてしまいました。犀角独歩さん、『忘持経事』の
ご説示ありがとうございました。まさに内心の迷蒙が啓かれた
思いです。新しい大きな発見です。
独学徒さん、西山本門寺の御本尊の件ご説示ありがとうござい
ます。私はかなり以前に本に書いてあった記述を誤認識してい
ました。仰せの通りです。それにしても、貫首が未公開で給仕
しているとは徹底した秘伝主義の山風ですね。本来の所有権を
郷門保田と争っているということは、保田の万年救護本尊を戒
壇の本尊と究極の帰依の対象にしているということになります。
昭和57年の日蓮正宗離脱から今日に至るまで日蓮本仏論は堅
持している、薄墨袈裟はそのままなのでしょうか。ご観念文は
変更されているのでしょうか。戦後本門宗解体後の西山本門寺
の歴史についてご教示お願いします。
顕正居士さん、岩本実相寺は関東天台の系譜でしょうか。富士
山信仰の習合と独自色が当時からあったのでしょうか。三位日
順に日蓮本仏論の思想があると証明されれば日有から一気に遡
りますね。どうなのでしょう。
735
:
顕正居士
:2006/05/06(土) 22:05:50
岩本実相寺は安房清澄寺と同じ横川流です。富士修験の祖、末代上人は初代智印法印の資であると
『実相寺衆徒愁状』にあります。
宗祖本仏論は
>>727
に述べたように、『諫暁八幡抄』の思想に日源(智海法印)、日興などが実相寺
の信仰を習合したのが、起源だろうとおもいます。しかし大日如来の住所が富士山である、本仏の本土
が日本国であるというのは飛躍がある。大日如来の住所は色究竟天金剛法界宮のはずである。だから
これは大日天照一体の上でいうのである。次に富士山の祭神は浅間大神でないかという疑問が生じる。
この間の事情はいくらか複雑である。
千時千一夜・275番・富士山の地主神
http://otd3.jbbs.livedoor.jp/246945/bbs_plain?base=276&range=30
本地垂迹資料便覧・富士山本宮浅間大社
http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/honji/files/FUJI.html
浅間大神、すなわち木花之開耶姫は天照大神の幸魂(さきみたま)で、赫夜姫、弁財天女と同一視される。
弘安3年の上野殿母尼御前御返事(真蹟存在)に
「此の経を持つ人をば、いかでか天照太神八幡大菩薩富士千眼大菩薩すてさせ給ふべきとたのもしき事也」
とある。八幡抄の述作も同年であり、日源、日興の思想的影響は日蓮自身にも及んだのではなかろうか。
また『表白』の「原始宗祖本仏論」は、日郷門徒に継承され、発達したようにおもわれます。参考
>>527
。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板