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現代人が納得できる日蓮教学

722犀角独歩:2006/05/05(金) 08:12:26

独学徒さん

有り難うございます。
大崎における判断は、概ね日蓮本仏論は京から富士にやってきた日教によるということですが、これを妙本寺・日我とする点は、目を惹きました。
具体的に、日我のどのような文献から、これが言えるのか、ご教示いただければ有り難く存じます。


文殊さん

遺したいという石山化儀は周囲には評判の悪いところばかりですが、しかし、石山で永年信仰してきた人にとっては、拘りたい部分でしょうね。

石山の場合、本尊は石山住職が書写したものに限るというわけですが、この点は何ら意味をなしませんね。奉安様式に仏像が欠けているのに、御影像は可というのはどうしたものでしょうか。「日興云く」を信じれば、不似はいかんというわけですから、顔立ちをどうするかは大きな問題と残ります。

樒については、この信念体系を脱けてみると、実は案外、奇異に映じるものです。とはいうものの、石山に限らず、これを華とするところはありますね。

天台宗開宗1200年記念『最澄と天台の国宝』展で展示されていた密壇の四隅には樒が置かれていました。樒という字は、そもそも木偏に密。木偏に佛と書いてもしきみですね。仏教の、取り分け、密教色の強いところとなります。最近の樒は、地面に、枝を切り差しして育てたものを販売しているので、あまり見られませんが、以前は、よく実が付いたものがあったものでした。樒の実の形は緑色ながら、蓮華に似ています。こんなところも珍重された理由だろうかと思ったことがあります。

わたしは個人的には仏花は、色花でも何でも善いほうなので、樒一色の有様を見ると、何か寒々しい印象を受けます。

石山式は、あまり賛成できかねますが、特に他に押しつけるものでなければ、自由であろうと思います。

方便読誦というと、日蓮宗一般でも世雄偈までで、石山も以前はそうであったのでしょう。しかし、先に引用した写本遺文からすると「方便品長行」とあるので、全品を日蓮は読んでいたのかという疑問が湧きます。この点は、当時の比叡山化儀から探れば、ある程度、わかることかも知れませんが、いまのところ、行っていません。

石山の読経は十如自我偈で単調で、荘厳さに欠けます。これを簡略化で現代的と思うのは、お経が短くなって、ほっとしている信者会員ばかりではないでしょうか。

わたしは開経偈は名調子なので好きですし、四弘誓願を音声誓願することも善いことであると思います。それにしても石山の、諸尊勧請を鈴を打つだけで済ますという日有以来の化儀は不可思議です。天拝については身延・日朝の文献に見えるとのことですから、その後、廃れたものなのかと訝しく思っています。

羅什の意訳には、神経を過敏にしますが、読経には音律がよく、やはり、善くできた漢訳であるとも思います。

当スレッドのテーマは『現代人が納得できる日蓮教学』ということですが、一般の方々が読経唱題に触れるのは葬儀の時でしょう。簡略化されたお経は、故人を軽んじている印象しかありません。在家の導師はお粗末で、モーニングを着れば、ただ滑稽なだけでしょう。僧侶が執行するほうが、やはり、印象はよいと思います。それも十如・自我偈ばかりではなく、それなりの法式に則ったほうが参列者は、故人を重んじているという印象を強くします。

いずれにしても、読経の簡略化というのは、修行の怠慢化、後退以上の印象を与えることはないでしょうね。


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