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現代人が納得できる日蓮教学

696犀角独歩:2006/05/01(月) 10:54:29

一字三礼さん

この見はお会いしたときにもお話したいと思いますが、漫荼羅勧請以外の諸尊を祀ることが雑乱に当たるや・否やは実に悩ましい問題であると思います。先にも記しましたが、わたしからすれば、それがもし「謗法」であるというのであれば、日蓮御筆大漫荼羅に勧請されていない諸尊を漫荼羅に図示することでも「謗法」ではないかという視点は成り立つことになるからです。この批判には当然、石山歴代住職の書写?本尊も含まれることになります。

また、石山の漫荼羅は彫刻を書写したと言いながら、その勧請は違っています。第一、あの彫刻では「二千二百二十余年」となっているところを歴代本尊では古来より「二千二百三十余年」となっているところから、違っているわけです。さらに帝釈の相違を細井氏は記述していたわけです。

以上のように彫刻にないことを書き、書写と謀ること、また、他の諸尊を勧請をすることが日蓮の意志に背くか否かは仏像造立とは別の問題を孕んでいます。

また、視点をまったく変えれば、日蓮の漫荼羅は法華十界勧請だと言いながら、そこには不動・愛染あり、天照八幡あり、大日如来の勧請まで見られるわけですから、法華一経から見れば、既に雑乱勧請ではないのかと言えなくもありません。しかし、この点を肯定的に見れば、顕正居士さんが仰る如く、寧ろ、開会し、摂取していくことのほうが隋方毘尼に適うと見ることもできます。いわば、その典型が導師漫荼羅ということになりましょうか。

わたしの知人である僧侶は「別段、キリストもマホメットもみんな載せてかまわないんじゃないのか」と言って、わたしは驚かしました。まあ、そのような考えもありということになります。

漫荼羅図示が造立を前提とするものであれば、勧請諸尊を別立てで祀ることを批判する方途は富士門下において、後世定着した漫荼羅正意論ということになりましょうが、これは、日蓮に遡源できない以上、的はずれな批判としか言いようがありません。

さらに言えば、日蓮の御影像を漫荼羅と共に奉安し、一体三宝であると、日興像を併せて別体三宝などというのは、では、漫荼羅に書かれる日蓮の切り出し、さらに漫荼羅にない日興の追加であって、見方を変えれば雑乱勧請の一種と言う批判は可能ではないかとも言えようかと存じます。

いずれにしても、石山の改変本尊論を以て捌くことなどできる問題ではなく、先に記したとおり、模造品を本物と謀る不正直の頭には神は住ませられないという石山謗法の見地からの神去り法門すら立義可能ではないかと思う昨今です。


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