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現代人が納得できる日蓮教学

644犀角独歩:2006/04/26(水) 10:02:08

文殊さん、昨晩は疲れていたので、簡単に済ませましたが、改めて記します。

> 本覚…これ以上当掲示板では投稿はしません

いえ、わたしは、ご投稿を妨げる意図はありません。ただここは、挙証義務を厳しく言うことによって意義ある議論を積み重ねることができた場でしす。ですから、その筋をしっかりとお守りになれば、有意義な議論となると思います。

ただ、わたしが思うのは、学会を含む石山圏の人々が本覚を語る前提として、偽物4点セットに対する社会的・道義的な責任を果たしたうえで語らない限り、傾聴に値しないという側面があります。そもそもこの点は50年も前から指摘されていることです。

本覚という視点については、わたしはある面、ここ富士門流においては、‘言い訳の轍(わだち)’になっていないかという臭味を感じるわけです。また、日蓮を理解するうえで、この轍は、一つの結論に、つまり、特定の結論に転がり落ちていく危険をはらんだものであり、また、転がり落ちたその場所は日蓮の実像からほど遠いものになるという悲惨な結末も有しています。

本覚云々という視点は、わたしの思惟のなかでは、もはや、古層に属し、この轍を辿っても、日蓮の実像に至れないことは経験則で知っています。故に人には勧められないと言うことです。しかし、それはわたしの浅薄な知識に支えられたものですから、確実な資料から再考を迫られるのであれば、それは快く考えてみたいと思います。しかし、これらの提示する人々は轍から一歩も出ることなく、結局のところ、殊石山においては、つまらぬ偽物4点セットをよそに議論の遊技に陥っています。

> 「脳内麻薬」

これは適宜な表現であると思います。実際のところ、日蓮本仏論にせよ、「本門戒壇の大御本尊」にせよ、そういった快楽原則に基づいて、人々を誣いているわけです。
しかし、文殊さんはすでに、これらお道具が偽物であることを内心として結論に至った。その時、次の、自分の、信仰と理性に与える脳内麻薬が必要となったのではないでしょうか。少なくともわたしにも、そんな経験はありました。

文殊さんは近代思潮に強い関心を懐かれているようで、この点は死生観、つまり、本来、仏教でその答を見出そうとされてきた四苦八苦の答を仏教と関連して見出されようとされる一環ではないのかと、勝手ながら観察しています。では、このような試みは確かに近代日本では繰り返し行われてきましたが、取り分け、その中でも、この技法で自分の信念体系を肯定化しようとした先駆けは、牧口常三郎氏にその典型を見、富士門下のその後の流れを創ってしまった観があります。この最初の試みは、彼の価値論と石山教学の無理な合体でした。「木に竹を接いだような」と的確に分析されてから、既に50年が経過しています。しかし、その後もこの技法は留まることを知りませんでした。結局、第三文明社や、聖教新聞社、果ては東洋哲学研究所に至るまで、この技法で、自己正当化の論理を構築した半世紀であったとも見えます。この点は石山の日蓮本仏論、彫刻の肯定論でも活用された中世の歴史もありました。この点は、当掲示板で語り尽くしてきました。

故に、やや牧口氏にのみ触れれば、金子弁浄師は、この価値論を、Theodor Lipps、Wilhelm Windelband、Heinrich Rickert、Emile Durkheim から受けたものであると分析したわけでした。そして、彼の価値論は幸福への希求であり、それが戸田氏に受け継がれるや、先の捏造であった彫刻をして「幸福製造機」と俗化を果たし、ついにその教線を不動のものにしたという経緯があったわけです。


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