[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
現代人が納得できる日蓮教学
714
:
犀角独歩
:2006/05/04(木) 15:40:28
投稿が前後しました。
712に上がる『五人所破抄見聞』の著者は妙蓮寺日眼では無いとする指摘は、既に50年前からなされています。
わたしも文殊さんと同様妙蓮寺・日眼とする説を墨守していたのですが、その後、先に挙げた『創価学会批判』(昭和30年)には、その点を再考していたことを、数カ年前まで気付かずおりました。
この点につき、『六巻抄について』69で、顕正居士さんは2002年3月、すなわち、今から4年前にご指摘下さっているのです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014117694/69
また、現時点さんが『日有上人の石山教学の展開』26でも、その4カ月後に指摘されていました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1027502003/26
さらに同じ頃、問答名人さんは『素朴な疑問』149に、この点をご私的さなさっています。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/149
また、わたしは『身延相承書と池上相承書について』17でも以上の経緯から指摘もしました。2003年8月のことです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1060641548/17
一番近い所では、れんさんが重厚なご指摘を下さった記憶があるのですが、どこであったのか探し出せないでいます。
いずれにしても、『五人所破抄見聞』に妙蓮寺日眼説は半世紀も前間から疑義が取り沙汰されているのにも拘わらず、いまも言われ、当掲示板でも既に4年前から指摘されながら、また、再燃しています。これはある面致し方がないことですが、せっかく5年も議論が積み重ねられてきたのに、双六ではあるまいし、ことあるごとに振り出しに戻るのは、やや疲労感を伴います。
投稿をされる以上は、過去のロムの多少、労力を払っていただければ思うわけです。ちなみに上記、検索は、5分と掛からない作業でした。
以下、皆さんの参考に『日蓮宗事典』に載る宮崎英修師の同書への見解をコピペしておきます。
『五人所破抄見聞』(ごにんしょはしょうけんもん)
「本書は『五人所破抄』の註釈書で妙蓮寺三世日眼(−一三八四)の著作と伝えられている。これは本書題号下に「釈 日眼述」とあり、写本奥書に「伝写本云、康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟日眼判」とあるのでこの日眼を妙蓮寺日眼と推定したものであろう。しかしこれには不審がある。まずこの年号の康暦二庚申年という記年法は鎌倉時代より室町時代にかけては見られないもので、直ちに時代的通格の批判対象となる。このように年号・年数・干支・年月日という書き方は戦国時代に入ってまれに見られ、徳川時代に入って定着する記年形式で、室町以前ならば「康暦二年庚申六月四日」と書いてなければならない。従って奥書の年号は戦国時代から徳川初期にかけ書写された「伝写本」に付加された年記であろう。また本書の中ごろの「日興奏公家訴武家」の条に「総じて公家伝奏と云て当御代は勧修寺殿・広橋殿など伝奏衆を云ふ也」とあるが勧修寺家が武家伝奏に初めて任ぜられたのは文明二年(一四七〇)、広橋家は応仁元年(一四六七)で両家が共に並んで伝奏を務めたのは文明二年から同一一年までの九年間、日眼の寂後八七年も後世のことである。本書には勧修寺・広橋両伝奏があたかも世間周知の役柄のようにしるされているが、このような状態になるのは永正六年(一五〇九)以降に両伝奏が引続いて務めるようになってからのことで、日眼滅後一二〇余年後のことである。いまかりに最も早い文明年間の成立と見れば西山本門寺八世日眼(−一四八六)がふさわしいと考えられる。本書に二箇相承の存在を示す記事、両巻血脈によって成立する種本脱迹、宗祖本仏論が見えるが、このころ富士門流に論ぜられているものであるから時代的にも首肯できる。《宮崎英修「妙蓮寺日眼著・五人所破抄見聞の価値」(『棲神』四一号)》」
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板