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現代人が納得できる日蓮教学

658犀角独歩:2006/04/28(金) 07:23:40

文殊さん、乾闥婆さん

所謂「叩き台として」の末木本という議論の運び、面白い展開であると拝読しました。わたしはこの点については、乾闥婆さんのご意見に賛同します。

廉価な新書・文庫の仏教書の流通が一般大衆の認知に有効か否かという問題があります。わたしは、この手の本が仏教書であるという考えにそもそも反対です。また、仏教を解説する場合、これを現代思潮の観点から分析するという手法に、そもそも反対なわけです。極端な話、キリスト者によって解説された仏教は、もはや、仏教を正確に偏見なく、客観的な立場で素描できたものであるかどうか、わたしは、そうは言えないであろうと考えるからです。

体内・体外という観点は体外のみがまず章安述で見られ、妙楽で闡明になりますが、およそ仏教を述するのであれば、体内からものでなければ、仏教書とは言えないのではないかという思いがわたしにはあります。結局のところ、外側から見て、さらにそれを現代思潮から論じたところで、日蓮の素描になどなるはずもありません。そもそも、日蓮は現代思潮以前の人です。ですから、日蓮の素描は、その時代の、そして、日蓮の確実な資料を基盤としてなされてしかるべきです。
勿論、そこでしっかりと素描された日蓮を、では、現代という時代に置く際に、現代思潮から、どう映じるのかという視点は一面、あるでしょう。しかし、体外から日蓮理解が、では当を得たものになるかどうか。わたしが、文殊さんが提示される如く、論評その他によってもたらされる違和感はここにあります。つまり、論評すべき、日蓮が正確に認識されていないという根源的な欠陥です。

この点は、本覚解きで日蓮を素描した上で成り立つ所論にも同様の違和感があるという意味でもあります。

「文献読解中心の知識人」という点ですが、では、その範囲に留まった所論であってしかるべきではないのか、飢えて死に、放射能被害で塗炭の苦しみを味わう人には意味を有しません。実際に苦しみにあえぐ人を文献読解の知識から解読する人・それを読むだけの人、いったい、どのような意味を持つというのか、わたしはむしろ憤りすら感じます。


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